尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

見田宗介「現代社会はどこに向かうか」を読む

2018年12月30日 23時39分21秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと」(岩波新書)をやっと読んだ。2018年6月に出版されたまま放っておいたら年末になってしまった。割と薄い本(「あとがき」まで入れて162頁)だから、すぐ読めると思ってたのである。著者である見田先生との関わりは最後に書くけど、このブログが「紫陽花通信」という名前なのも真木悠介気流の鳴る音」(1977、真木悠介は見田氏がコミューン論を書くときのペンネーム)を読んだことに関連がある。

 帯を見ると「巨大な視野、最新のデータ、透徹した理論」と書いてある。まさにその通りで、今もシャープな切れ味なのには驚かされた。この本は今までに書かれた多くの本と真っすぐにつながっている。しかしながら、理論書という前にデータ分析による社会学なので、この本だけ読んでも全く構わない。1章と2章では、日本と欧米の青年の意識変化が分析される。日本については、今までも使われてきたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査のデータを使っている。

 1973年以来5年ごとに同じ質問を調査してきた中から、20歳~29歳を取り上げて「一番変化が大きいものは何か」を抽出する。最大の変化を示すのは、「近代家父長制家族」のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だという。日本においては性別役割意識が強く、女性の社会的進出が進まないと言われている。それなのに、本当に意識の変化が大きいのか。そう思うかもしれないが、確かにデータではっきりと示されている。注意するべきなのは、ここでは青年層における変化幅の大きさを問題にしている。青年層は権力を持ってないから、社会がすぐ変化はしない。

 続いて、結婚前の性交渉の是非。これはある世代までは結婚まで許されないのが常識だったが、その「常識」が世代とともに解体してしまったことが判る。また「生活満足度の増大」「結社・闘争性の減少」も挙げられる。よく言われる「青年層の保守化」が実証される。さらに「魔術的なものの再生」と著者が呼ぶ系列がある。「あの世を信じる」「おみくじや占いを信じる」「奇跡を信じる」などの項目で、明らかに有意の変化が見られる。

 ところで、これらは一見すればバラバラに起こっている現象のように思える。しかし著者によれば、家父長制意識や性のモラルの変化、生活満足感の増大や保守化、魔術的なものの再生は、互いに無関係であるように見えるけど、実は「一貫した理論スキームの中で、明晰に全体統一的に把握することができる」というのである。その証明部分はとても面白いので、是非読んでみて欲しい。結論だけ書けば、「経済成長課題の完了」による「合理化圧力の解除」なのである。

 ここで著者は「ロジスティック曲線」というものを示す。生物の増殖などで使われるもので、ある環境内に適応した生物は爆発的に増えるけれど、ある一定ラインに到達すると個体数は増えないという。人類文明も少なくとも「先進国」ではそのラインに到達したことで、青年層にはそれ以上の「経済成長」を求める意味が失われた。そのような人類史上の変化がいま起こっていて、青年層の意識変化はそれを示すというのである。

 そうするとこれ以上の「経済成長」は「先進国」ではありえないことになる。昔に囚われた政治家たちが、五輪だ万博だと打ち上げ花火を仕掛けても、人口減の社会では一時的なカンフル剤みたいなものしかならないだろう。多くの人は薄々そう感じているのではないか。ではこれからの日本には底なしの停滞しかないのか。「高原の見晴らし」と呼ばれるのは、今獲得された物質的、技術的な到達点、あるいは人権意識の進展などは後退させることなく、次の社会を構想してゆくという意味だと思う。そのためには20世紀までの「革命」の負の遺産を徹底的に検証する必要がある。卵を外から割るのではなく、「卵は内側から破られなければならない」(ダグラス・ラミス)。

 非常に刺激的な論だけど、「経済競争の脅迫から解放された人類は、アートと文学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交流の限りなく豊饒な感動とを、追及し、展開し、享受しつづけるだろう」(17頁、ゴチック=引用者)とまで言われると、本当かなと眉に唾を付けたくなる感じもする。世界はテロと不寛容が広がるばかりで、むしろオーウェルが書いたような「世界がアメリカとロシアと中国に分割された世界」の悪夢が現実化している。

 見田宗介(1937~)という人は単なる社会学者に留まるのではなく、壮大な理論家であり、詩人であり、かつ「革命家」でもあるのだと思う。この本は今もなお「コミューン主義者」(コミュニストではなく)である著者の、「革命的オプティミズム(楽観主義)」が現れていると僕は感じた。「人類史」的段階なのだから、一つ一つの出来事に一喜一憂しなくてもいいのかもしれない。それに「コミューン主義」と言っても、「各コミューン間の経済関係」は「市場経済」で調節するしかないことはすでに著者が論じている。実際、家族や友人、学校や福祉施設は内部では助け合っても、外部には一定の市場ルールに対応していくしかないことは今と同じである。

 かつて「80年代」という雑誌があり、そこに真木悠介氏の講座「柳田国男『明治大正史世相編』を読む」参加者募集という案内が出ていた。僕は1980年にその講座に参加した。講座以上に刺激的だったのが、八王子にある「大学共同セミナー」での合宿。竹内敏晴氏のレッスンを初めてやったのもその時だった。講座終了後も(割と最近まで)一年に一度ぐらい近況報告の集いを持ってきた。多忙な見田先生はあまり参加してないけど、僕にとって無関心ではいられない著者の一人だ。

 ちなみに「気流の鳴る音」で、日本のコミューンとして山岸会と奈良にある大倭紫陽花邑が比較されていた。山岸会が「モチ型」に対し、大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)は「おにぎり型」という。元の米粒をつぶしてしまうか、米粒を残して「連帯」するか。それが「紫陽花」の花のたとえにつながる。僕が担任したクラスで時たま作ったクラス通信をいつも「紫陽花通信」と名付けていたのは、それが理由である。そのゆかりで、このブログも「紫陽花通信」としているわけだ。
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ロブ=グリエの映画、迷宮のメタ・ミステリー

2018年12月29日 20時43分22秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの小説家、アラン・ロブ=グリエ(Alain Robbe-Grillet、1922~2008)は映画監督でもあった。製作当時は日本でほとんど紹介されなかったのに、今さら10年も前に亡くなった前衛作家の映画がまとめて上映されている。そんなものを見る人がいるのかと思うと、けっこう人が入っている。5週間の上映の後、正月明けまで11時からの追加上映まで組まれた。僕も全部見なくてもいいかと思ってたんだけど、見始めたら面白くなって全部見てしまったので、簡単にまとめ。

 ロブ=グリエと言えば、「ヌーヴォ・ロマン」とか「アンチ・ロマン」とか呼ばれた作家である。ミシェル・ビュトールやナタリー・サロートなどと並び、今までのプロット中心の「物語」を解体するような小説を書いた。映画との関わりで言えば、アラン・レネ監督の「去年マリエンバードで」の脚本を書いたことで有名。これは黒澤明の「羅生門」(というか芥川の「藪の中」だけど)の影響を受けている。真実のとらえがたい世界が美しいモノクロ映像で表現され、世界的に評価された。

 今回見たロブ=グリエの映画は、一言で言えば「自分で監督した『去年マリエンバードで』」だろう。全部筋書きの書けないような映画で、だけど謎めいた世界にはいわく言い難い魅力もある。映像は美しく、特にカラー映画になると「前衛ポルノグラフィ」みたいな感じもある。映像だけでは商業映画にはならないから、一応「筋らしきもの」はある。それは「謎をめぐる探求」ということで、ある種「ジャンル映画としてのミステリー」を解体させるようなメタフィクションになっている。

 デビュー作の「不滅の女」(1963)は、トルコのイスタンブールで撮影されている。男が白い車に乗る謎の美女と出会い、町を案内してもらう。そうして「物語」が始まったかと思うと、その女の行方が判らない。探し回っても皆が知らないという。そうして異国の迷宮を彷徨う男の姿が非常に美しいモノクロ映像でつづられる。見るものがプロットを求めず、謎を楽しむ気持ちで見ればなかなかの力作だと思う。公開当時は憤慨した人も多かったらしいが。でも「トルコ」では不可思議なことがよく起こるといった「オリエンタリズム」も見られる。ルイ・デリュック賞受賞。
 (不滅の女)
 次の「ヨーロッパ横断特急」(1966)と「嘘をつく男」(1968)は、今も活躍する世界的スター、ジャン=ルイ・トランティニャンが主演している。「ヨーロッパ横断特急」はパリからアントワープへと麻薬を運ぶ男の話だけど、そういう物語ではない。特急に乗り合わせた映画関係者が、この列車を舞台に映画を作るならと想像するのを映像化していく。その現実と想像が入り交ざって進行する映画で、そうと判れば案外判りやすい。

 「嘘をつく男」はボルヘスの「裏切りと英雄のテーマ」が下敷きになっているので、つまりベルトルッチの「暗殺のオペラ」の姉妹編なのである。ロブ=グリエは舞台を第二次大戦中のスロバキアに移し、レジスタンスの英雄ジャンの友人と名乗る男の動静を見つめる。この男は何者なのか、をめぐって映画が進行するかと思うと、やはりここでも「メタ映画」として複雑な構成で語られるので、僕にはよく判らなかった。

 以上の白黒映画はとても映像が美しいが、カラーになると原色の氾濫が印象的。「エデン、その後」(1970)は、大学近くのカフェ「エデン」に集う若者たちが、突然現れた男に誘われるようにチュニジアの村にスリップする。一番ゴダール的な感じだと思った。「予知」の映画で、現実の通りの時間構成ではないから判りにくい。「不思議の国のアリス」と「O嬢の物語」の恐るべき邂逅、と評されたとチラシに出ている。チュニジアの風景が非常に魅力的。
 (エデン、その後)
 「快楽の漸進的横滑り」(1974)になると、題名さえ意味不明。ルームメイト殺しで逮捕された女、心臓にはさみが刺さる被害者。と一応これもミステリー形式で始まるけれど、ほとんど意味不明の展開で進行する。まったく判らない度では一番だけど、映像そのものは面白いのである。最後の「囚われの美女」(1983)は唯一日本公開されたらしいが知らなかった。謎の組織で働く男が、謎めいた美女と出会う。道路でケガしていた女をとある館へと運びこむが…。「謎の館」ものだが、映像はルネ・マグリットの絵をモチーフにしている。不思議な魅力がある。

 けっこう人が入ってると言っても、小さな映画館だから東京近辺で数百人程度の観客がいれば成り立つだろう。これで全部かと思うと、まだ外に3作あるらしい。判らないと言えば判らないから、つい寝てしまったりもするが、それはタルコフスキーだって同じだ。でも映像として面白いとは言える。こういう「映画そのものを解体する」タイプの映画を見に行く人は少数だろう。でもそういう映画体験も必要だと思う。まあ無理してまで見なくていいわけだが。全体として、60年代、70年代的な香りを楽しむことができる。渋谷宮前坂上のシアター・イメージフォーラムで。
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「百姓一揆」とは何だったのか

2018年12月27日 22時41分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の若尾政希「百姓一揆」を読んだのをきっかけに、「応仁の乱」を書いた呉座勇一のデビュー作「一揆の原理」(ちくま学芸文庫)も読んでみた。一般にはまだ「一揆」を「反乱」とか「抵抗運動」と思い込んでる人がいるかもしれない。岩波新書で勝俣鎮夫「一揆」が出たのが1982年。もう35年以上も前になる。歴史に関心を持つ人なら「一揆」とは「一つにまとまること」だと知ってるだろう。
 
 一揆の「」を検索すると、「やりかた」とか「方法」という意味だと出てくる。やり方を一つにするから「一揆」である。今は法治国家だから、法に基づく契約で会社などが成り立っている(はずである)。弱い立場にあるものも「協同組合」などを結成して「一つにまとまる」が、それも契約行為として行われる。前近代ではそういう法的保証に代わるものは、神仏に対する誓約になる。だから、一揆を結ぶときには神社などに集結して「一味神水」などの儀式を行う。

 1485年に有名な「山城の国一揆」が起きる。応仁の乱後も内紛を続ける守護の畠山氏両派に対して、山城(京都府南部)の国人(有力な地侍)が一致団結して畠山氏軍勢を追放した事態が起きた。必ず教科書に出てくる大事件だが、「有力守護大名に対する国人層の抵抗」が一揆なんじゃなくて、同じ立場にある国人層が「一致団結」することが一揆と呼ばれるものだったのである。

 江戸時代になると「百姓一揆」が頻発する。これも昔は誤解があり、「竹槍と蓆(むしろ)旗」を掲げて農民が城下に押し寄せると思われていた。そもそも「竹槍と蓆旗」が間違いなんだそうである。先の戦争中に「竹槍訓練」なんかやらされた記憶から、米軍が重火器を持つのに竹槍では戦えないというイメージがある。しかし相手が銃で武装していない場合、竹槍には強い殺傷能力があるという。そういうものは江戸時代の農民はあえて使わなかった。じゃあなんで「竹槍と蓆旗」なのかというと、これが自由民権運動期の「創られた伝統」なのである。

 マルクス主義歴史観(唯物史観)によれば、歴史は階級闘争を通して発展する。古代から中世への変動は、新興武士階級が貴族階級の堕落を打ち破って起きたとする。(武士の実態がそんなものではなかったことは今まで何回か書いてきた。)近世においても被支配階級の農民による「階級闘争」が百姓一揆なんだという理論が昔はあった。変革の主体を探して日本中の百姓一揆が研究されたけど、どこでもそんなものは見つからなかった。百姓一揆は階級闘争なんかじゃなかったのである。

 それはムラ共同体を守るためのものであり、領主階級を打破するのではなく、「名君」による「仁慈」を発動するための政治的装置だということになる。もちろん被支配階級が支配者の政治(仕置)に口をはさむのは「御法度」である。よって百姓一揆が起きれば、責任者の厳しい処罰が待っている。それはムラの犠牲者ということになる。次の時代を切り開く先覚者ではなく、犠牲者として村人に祀られる存在となる。今までは百姓一揆物語ではない当時の文書をもとに研究されていたが、実はそれも「書式」に基づいて書かれているという。

 そこで著者は「物語」の構造分析を主に行っていく。この本に「有名百姓一揆事件史」を期待するとあてが外れる。ほとんど実際の事件経過が出て来ない。近世史理解も大きく変わっていく感じで、儒学に対する見方など多くの新しい知識を得ることができた。呉座著に触れる余裕がないが、この本も面白い。SNSと一揆の相似性など今になるとどうかと思う見解も多いが、ある種の「若書きの魅力」がある。当時も「一揆」とは呼ばれなかった「強訴」(比叡山の僧兵が京都に下りてきて院に強硬に要求するようなこと)も「一揆」的な性格を持つと分析されてる。それも興味深い。現在では「一揆」にあたるものは何だろうかなど、いろいろと考えさせられた。
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エドワード・ドミトリク監督「十字砲火」を見る

2018年12月25日 22時46分06秒 |  〃  (旧作外国映画)
 主に古い内外の映画を上映しているシネマヴェーラ渋谷で、「蓮實重彦セレクション ハリウッド映画史講義」という特集を上映している。最近行ってなかったんだけど、今回は興味深い映画がいっぱいある。24日にエドワード・ドミトリク監督の1947年作品「十字砲火」を見た。興味深い点がいくつもあったので、書いておきたい。今後も年末年始に上映が予定されている。

 この映画は日本では長いこと見られなかった。1947年のアカデミー賞で作品賞、監督賞など5部門でノミネートされたにもかかわらず。実はこの年の作品賞を取ったエリア・カザン監督「紳士協定」も公開されなかった。また1949年のアカデミー作品賞「オール・ザ・キングスメン」も公開されなかった。どれも70年代以後に日本にも紹介されたが、「十字砲火」は1986年11月に公開されたと出ている。80年代後半は超多忙期だったから全く記憶はないけれど。

 何で公開当時に公開されなかったかというと、占領時代で「アメリカの暗部」を描く映画はGHQが公開しなかったんだとよく言われる。当時は戦争で輸入されなかった「カサブランカ」「断崖」など戦中のアメリカ映画が一斉に公開されていた。「失われた週末」「サンセット大通り」などは暗い内容の映画だけど公開されている。でも「十字砲火」「紳士協定」はともにアメリカ社会に残るユダヤ人差別を正面から描いた映画だ。個人の悲劇を描く映画はまだしも、アメリカ社会に残る恥部を日本人には見せたくない意識は働いたのかもしれない。

 映画自体は冒頭に出てくる殺人事件の捜査を描くミステリーである。「光と影」を生かしたモノクロの映像が印象的で、語り口もなめらか。でも案外簡単に犯人は割れるし、展開もむしろB級テイストで、アカデミー賞ノミネートが意外な感じ。やはり作品賞を取った「紳士協定」の方が優れていると思う。この両作が同じ年に作られたことで、「ユダヤ人差別」に焦点が当たり「勇気ある挑戦」ムードが生まれたのではないか。実際、この映画は初めて「ヘイトクライム」を真正面から取り上げた映画だと思う。警察署長は協力者に向かって、自分の祖父もヘイトの犠牲者だったと演説する。

 監督のエドワード・ドミトリク(1908~1999)は、ウクライナからカナダに移住した両親のもとで生まれた。編集技師として映画界に入り、RKO映画に移って監督になった。しかしマッカーシズム(赤狩り)の中、下院非米活動委員会に召喚され憲法をタテに証言を拒否した。ドルトン・トランボなどと並ぶ、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人である。RKOを解雇されイギリスに渡るが、後に帰国して「禁固6カ月」の服役を経て「転向」を表明した。「ケイン号の反乱」「愛情の花咲く樹」「若き獅子たち」など多くの安定した娯楽映画を残している。
 (エドワード・ドミトリク)
 人生に波乱をもたらした「十字砲火」だが、それはドミトリクの生涯ただ一回のアカデミー監督賞ノミネートをもたらした。だけど、今回ウィキペディアを見ていて、「十字砲火」には原作があると知った。後に「熱いトタン屋根の猫」「冷血」などの映画監督になるリチャード・ブルックスの小説が原作なんだという。そして実は原作では、被害者はユダヤ人ではなく同性愛者だったのである。つまり「十字砲火」は間違いなく「差別」を告発する映画だけど、当時のハリウッドでは性的マイノリティを描くことができず、ユダヤ人に設定を変えたのである。ユダヤ人差別は描けたのである。

 警察署長はロバート・ヤング、「容疑者」の友人がロバート・ミッチャム、「犯人」がロバート・ライアン(アカデミー賞助演男優賞ノミネート)とロバート尽くしのキャスティング。ライアンは日本の悪役安部徹みたいに憎々しい面構え。本人は大のリベラル派だったというが。ミッチャムは僕には「さらば愛しき女よ」の印象が強い。ボギー以前に見たので、僕のフィリップ・マーロウはこの人だ。だけど後に「狩人の夜」が公開され、その面白さに強烈な印象を受けた。ところでラスト、署長は逃げる犯人を背中から撃つ。銃器を持たず逃げる「容疑者」を撃つのも驚きだった。
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ザンジバル、フレディ・マーキュリーの生地

2018年12月24日 22時33分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 「ボヘミアン・ラプソディ」について書いたけれど、フレディ・マーキュリーの出自の問題を書いてないのでもう一回。「クイーン」のヴォーカリストであり多くの曲を作詞作曲したフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)だが、本名(というか前名というか)はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)というインド人だということは全く知らなかった。生まれたのはザンジバルストーンシティ(世界遺産になっている)である。宗教はゾロアスター教(拝火教)だった。

 その間の事情は複雑で、世界理解は難しいと実感する。ザンジバルと言われても判らない人が多いと思うので、ちょっと調べて書いてみたい。ザンジバルはアフリカ東部のタンザニア沖にある島部である。タンザニアの「ザ」がザンジバル由来で、昔はタンザニアの大陸部を指す「タンガニーカ」と「ザンジバル」は別の国だった。タンガニーカは1961年に独立し、ザンジバル王国も別の国として1963年に独立した。王国だったザンジバルで1964年1月に革命が起き「人民共和国」が成立、その後合併してタンザニア連合共和国となったのである。

 ザンジバル諸島はウングジャ島ペンバ島という二つの大きな島からなる。普通ザンジバルと呼ばれているのは、中心地だったウングジャ島。合わせた面積は沖縄県ほどで、人口約130万人。16世紀にポルトガルに占領され、その後オマーン王国が占領する。オマーンが西インド洋の制海権を握って栄えていた時代があったのである。そのためムスリム系の王家が支配した。ザンジバルのムスリム商人はタンガニーカ湖周辺まで奴隷を求めて支配勢力としていた。

 19世紀末にイギリスが進出し、1896年のイギリス・ザンジバル戦争に敗北してイギリスの保護領となった。この戦争は何でも「37分23秒」でイギリス艦隊の砲撃で宮殿が壊滅し、世界最短の戦争だそうである。(ギネス記録に載ってるとウィキペディアに出ている。)一方、タンガニーカの方は「ドイツ領東アフリカ」となり、第一次世界大戦のドイツ敗北後にイギリスの信託統治となった。(ドイツ領東アフリカだったルワンダ、ブルンジはベルギーの信託統治。)このようにタンガニーカとザンジバルは別々の歴史を持つ地方だが、イギリス領となったためインド人の進出も多かった。

 インド人は世界中に進出している。マレー半島では下層のゴム園労働者として移住した。一方、ゾロアスター教徒などは豊かな商人として移住することが多い。もともとペルシャで栄えていたゾロアスター教徒だが、次第にイスラム教に押され、1000年前からインド西部に移住する人々が出た。そのためインドでは「パールシー」(ペルシャ人)と呼ばれるようになった。今では10万人もいないというが、マイノリティとして生き抜くために教育を重視し、高い経済力を身に付けた人々が多い。インド最大の財閥と言われるタタもパールシー。

 1964年のザンジバル革命でムスリム王朝が倒され、アフリカ系住民が中心となる政権ができた。この事態の中でアラブ系とインド系の住民は国外追放となった。映画の中で父親が「追放された」と言ってるのは、その時のことを指していると思われる。英連邦ではイギリス本国の国籍を植民地にも認めていたから、多分もともとバルサラ一家も英国籍を持っていただろう。そこでイギリスに移住したわけだろう。映画を見ても難民として食うや食わずで暮らしている感じではない。高い経済力を持って、本国に移住したという意識なんだと思う。
 (ストーンシティ)
 ウングジャ島の旧市街は「ストーンシティ」と呼ばれて、その美しい街並みは2000年に世界遺産となった。ヨーロッパとアラブの影響を受けた石造りの町が広がっている。しかし、ザンジバルは今でも独自の革命政府を持ち自治権を有している。タンガニーカ地域から訪れるには、国内移動ではなくパスポートがいるらしい。なかなか行けるところではないけれど、そういうところから「追放」されたということは、フレディ・マーキュリーの人生にとって大きな意味を持っただろう。
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「ボヘミアン・ラプソディ」、ウェルメイドな感動作

2018年12月23日 23時08分00秒 |  〃  (新作外国映画)
 社会現象になるほど大ヒットしている「ボヘミアン・ラプソディ」をようやく見て来た。とてもよく出来た(ウェルメイドな=well-made)作りになっていて、何度も見る人がいるのも判る。しかしここで言う「ウェルメイド」は必ずしも褒め言葉だけではない。見た人は大体「クイーン」はすごいと言ってるけど、「ボヘミアン・ラプソディ」は伝記映画である。劇映画として作ったものだから、本来は監督や主演俳優の功績のはずだが、案外皆言えないんじゃやないだろうか。なんと公式ホームページを見ても、さすがに名前は載ってるけど経歴紹介がないのである。

 フレディ・マーキュリーを演じたのは、ラミ・マレック(Rami Malek、1981~)というアメリカで活躍するエジプト系(コプト教徒)の俳優である。映画にも出ているが、テレビで活躍していたらしい。その「なりきり演技」はさすがにゴールデングローブ賞のドラマ部門主演男優賞にノミネートされている。監督はブライアン・シンガーがクレジットされている。1996年に「ユージュアル・サスペクツ」がベストテンに入っている。その後「X-MEN」シリーズや「ワルキューレ」などを撮っている。しかし撮影は揉めたようで、最終盤に解雇されたとかウィキペディアの記事に出ている。

 この映画はおよそ30~40年前の出来事を再現している。この距離感が絶妙で、性的、文化的な多様性を評価できる時間的なゆとりが作る側、見る側に生まれた。フレディ・マーキュリーは民族性においてもセクシャリティにおいてもマイノリティだった。そのことを正面から描くことで、この映画が成立している。一方、この時代だと実際に知っている人がたくさんいる。映画館を出るときに、後ろにいた二人組が「ライヴエイド生で見てたんだけど、この映画はそっくりや」と感激していた。映画のこと、「クイーン」のことと同じぐらい、「あの頃の自分」を投影してみる人も多いだろう。

 映画のことだけ先に書いてしまうけど、まず「カット数」が非常に多い。DVDが出たら誰か数えて欲しい。最近は手持ちカメラでじっくり見つめるような映画がけっこう多くて、これほどたくさんのカットを積み重ねるように編集した映画も珍しいんじゃないか。しかも大型のクレーン撮影、クローズアップやパン、移動など昔ながらの大娯楽映画の撮影方法が心地よい。映画は脚本、キャスティングがあって撮影されるけど、最後は編集のキレで決まる。この映画は時にカット割りがうるさいぐらいだと思うが、全体に「オールド・ファッション」な作りが受ける理由の一つではないか。

 一方物語としては、この種の音楽映画の定番である。無名の若者たちがのし上がり、世界中で大成功する。その瞬間から、成功の持つ魔力に囚われてアイデンティティの危機を迎える。バンド活動よりソロを優先したり、私生活が変わってしまったり、マネージャーと揉めたり、ドラッグやセックスに溺れたり、それらの複合で人気バンドも落ち目になってゆく。そこに何かが起こって、再び絆が再確認される。そうはならず落ちるだけ落ちて薬物中毒で死んでしまうケースもあるが、それでは暗い映画になってしまう。この映画は最後は皆がすごいすごいと落涙する作りになっている。
 (ライヴエイドのシーン)
 「作家性」で見せる映画じゃなくて、脚本もうまく作り変えてある。最初の方で「スマイル」というバンドのヴォーカルが辞めてしまい、フレディが押しかけ的にメンバーに入る設定になっている。でも辞めたティム・スタッフェルとフレディは実は同級生で、バンドのメンバーとも知り合いだったという。それは許される改変かと思うが、ちょっとやり過ぎかなと思うのは「ライヴエイドとエイズ」の関わり。映画ではエイズに罹患して体力も失われつつあるフレディが、そのことをメンバーに告白して渾身の力を振り絞って歌いあげるとしか読み取れない。

 しかしエイズウィルス(ヒト免疫不全ウィルス)が初めて分離されたのは1985年。フランスの研究者によるもので、後にノーベル賞を受けている。実際にフレディが感染を確認したのは1987年後半らしい。ライヴエイドは1985年7月13日だから、その時点では感染を認識していなかったはずだ。フレディは1991年11月24日の死去直前までエイズ感染を公表しなかった。カンヌ映画祭グランプリを取ったフランス映画「BPM」はエイズと闘う若者たちを描いていたが、時代設定は90年代初期である。エイズが大社会問題になるのは90年代初期だったように思う。
 (実際のライヴエイド)
 ところで僕は「クイーン」をほとんど聞かなかった。当時はテレビやステレオは一家に一台で、受験勉強が終わるとラジオの深夜放送も聞かなくなった。でも映画で聞くと、かなり記憶に残ってる。そのぐらいヒットしていたんだと思う。ライヴエイドも見てない。当時「アフリカの飢餓」が大問題になっていた。そのためのチャリティだが、僕は結婚したばかりでテレビを持ってなかった。(もちろん「主義として持たなかった」という意味である。)しかし、そういうことと別に中学校に就職したばかりで、80年代半ばの「荒れた学校」問題に直面していた。とにかく多忙だったのである。80年代は結婚・就職以外のことをほとんど覚えてない時代だ。
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山下敦弘監督「ハード・コア」

2018年12月22日 22時31分08秒 | 映画 (新作日本映画)
 僕の大好きな山下敦弘(のぶひろ)監督の「ハード・コア」という映画は、実は20日に東京でのロードショーが終わってしまった。最後の日にやっと見て、すごく変で、そこが面白かったので一応紹介。東京以外では今後上映されるそうだし。作品の出来自体が大傑作というわけじゃないと思うが、山下監督っぽい「オフビート」な面白さに満ちている。

 もともとは狩撫麻礼(かりぶ・まれい、2018年1月に死去、「オールド・ボーイ」もこの人)原作、いましろたかし画の「伝説のコミック」だという。僕は詳しくないけど、すごくおかしな設定に驚く。原作を生かしながら、現在の話も入れて向井康介の脚本で映画化した。向井は大阪芸大で山下監督と知り合い、初期作品から組んできた。「リンダ リンダ リンダ」や「もらとりあむタマ子」なども向井脚本。この映画でも向井脚本の存在感が大きいと思う。

 権藤右近山田孝之)と左近佐藤健)という兄弟がいる。弟の左近はサラリーマンで日常に適応しているが、兄の右近は純粋というかほとんど現実から脱落していて、何かと弟が後始末している。右近の「仕事」はすごく小さな右翼的政治団体に属し、その団体のリーダーのため「埋蔵金探し」と称して穴掘りを続けること。そこに仲間として牛山荒川良々)がいるが、牛山はもう完全に現実を脱落していて、廃工場に住んでいる。

 ここまでなら、まあ下層生活を描くリアリズムで理解できるのだが、ある日牛山が変なものを見つける。死体かと思うと、これがなんとロボット。それもすごい性能を持つロボットだと、ある日弟の左近に見せたら気づく。何であるのかは不明ながら、右近、牛山、「ロボオ」(と名付ける)の三人(?)組が誕生する。そして「ロボオ」が「超能力」(ロボットだから単に「能力」だけど)を発揮するとき、そこには日常を軽く飛び越える奇怪な展開が待っている。

 同じようにコミックを原作とする「愛しのアイリーン」も今年を代表する暴走快作だったが、こっちの「ハード・コア」も負けず劣らずぶっ飛んでいる。とことんダメな男たちが結局ダラダラやっていく日常をロボットは変えられるのか。リーダーのもとで現場を仕切っている水沼(康すおん)とその娘多恵子(石橋けい)が存在感を増すとき、事態は破滅的になっていく。しかしラストまで脱力的な作りになっている。もうどうなっているんだか判断も難しい怪作だけど、とても面白かった。
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キン・フー(胡金銓)監督の「山中傳奇」

2018年12月21日 23時24分35秒 |  〃  (旧作外国映画)
 武侠ファンタジー映画で名高いキン・フー(胡金銓、1931~1997)の1979年作品「山中傳奇」が「4K デジタル修復・完全全長版」で公開されている。どうも192分は長すぎる気もしたが、素晴らしい映像美とファンタジーの世界に浸れる3時間だった。キン・フーはこれが初の正式公開らしい。東京国際映画祭が渋谷でやっていた時に特集が組まれて、有名な「侠女」(1970,1971)を見て、壮大なワイヤ・アクションに感じ入った。それ以後にも何作か見ている。

 宣伝をコピーすると、「京劇の影響のもと、アクション映画を芸術の域にまで高め、中華圏としては初めてカンヌ国際映画祭での受賞を果たし、世界に知られることとなった伝説の監督・キン・フー。その彼が宋時代の古典「西山一窟鬼」に想を得て作り上げた、妖しと幻想の世界が交錯する美しい武侠ファンタジー劇」とある。もうこれに付け加える言葉を思いつかない。はっきり言えば、設定と展開は「お約束」である。訴えるべきテーマがあるわけではなく、その点で異界との交流を描く溝口健二「雨月物語」とは比較にならない。だからこそ今でも楽しめる。

 もう一つ宣伝を引用すれば、「ウォン・カーウァイの『楽園の瑕』も、アン・リーの『グリーン・デスティニー』も、ホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』も、もしもこの人がいなければ作られることはなかっただろう。」特に「グリーン・デスティニー」は現代によみがえった典型的な武侠映画だった。その後世界的に大ヒットするカンフー映画と違い、あくまでもファンタジーである。「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」に近い。だけど、僕が似てると思うのは、同時代に作られていたイタリアの「マカロニウエスタン」だ。詩情と見世物性が同居している。

 「楽園の瑕」はウォン・カーウァイの最高傑作ではない。でも何となく忘れがたい、魅力的な映画だった。例えばサム・ペキンパーで言えば「ケーブル・ホーグのバラード」みたいな感じで、マニアックな心を揺さぶる魅力というか。ホウ・シャオシェンの「黒衣の刺客」は完全にアート的に作られた武侠映画だったけれど、ワイヤ・アクションの壮絶さは比類ないものがあった。アクションのすごさとともに、武侠映画には日本の「股旅もの」に似たような味わいがある。

 物語としてはどうってことない。経典を書写する役目の男をめぐって、美女が入り乱れる。しかし「お約束」により、その女性たちはどういう素性のものか、大体想像できるわけである。アクションもあるが、この映画は経典をめぐるファンタジー色が強い。インドから伝わった経典そのものに呪術的な力があるというのは、日本でも「牡丹灯籠」に見られる。「日本霊異記」にも出てきた(と思う)。そういう民間信仰をベースにしている。女優として最近は映画監督として活躍しているシルヴィア・チャンが出ている。主役の書写する役は、いつもキン・フー映画に出ていたシー・チュン

 それより驚いたのは映画に「伽耶山海印寺」が出てくること。すごく美しい山や川、海がロケされていて、どこだろうと思った。やはりこれは韓国の有名な海印寺(ヘインサ)で撮影されていた。画像検索して出てくるのが、映画と同じである。慶尚南道にある新羅時代創建の寺で、世界遺産に指定されている大蔵経板殿で有名なところ。高麗八萬大蔵経の版木を保存する場所である。韓国の山の寺と言えば、イム・グォンテク「曼陀羅」、キム・ギドク「春夏秋冬そして春」などが思い浮かぶが、自然描写の美しさで圧倒されたものだ。新宿のケイズ・シネマで10時からモーニングショー。
 (海印寺)
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新選組とは何だったのか

2018年12月19日 23時23分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治150年を考える」シリーズを書いたが、その時に書けなかったテーマに「新選組をどう考えるか」がある。正直言って、僕は今まで新選組にはほとんど関心がなかった。マニアックな関心を抱く人が多く、ほとんど無名の隊士でも調べてる人がいる。歴史研究ではほとんど触れられず、むしろ歴史小説や時代劇の世界に属する「トリビアルなエピソード」のように感じていた。それに敵である長州藩ならまだしも、脱退隊士に対する陰惨な「復讐」などが凄まじく、どうにも好きになれなかった。忘れないうちに書いておきたいので、突然だけど新選組の話。

 新選組に関して少し調べてみたいと思ったのは、「関東の歴史」という関心からだ。春ごろに「関東地方の戦国時代」について何回かまとめて書いた。戦国時代史は畿内が中心で、関東の人も地元の歴史を知らない。しかし江戸時代になれば全日本の「首都」になる地方なんだから、直前の時代に何もないはずがない。実際、関東から戦国が始まったという説もあるぐらいである。一方、幕末でも事実上京都や大阪が「首都」になってしまい、幕府直轄地が多くて大藩がなかった関東地方のことは(内戦で壊滅する水戸藩を除き)あまり知らないことが多い。

 今年は「五日市憲法」発見から50年ということで、僕も記事を書いた。新選組の中心メンバーである近藤勇土方歳三の出身地も多摩地方。それほど近いとは言えないが、全国のスケールで考えれば同じ地域と言っていい。20年ほどの差で、新選組を生み出した多摩地方で自由民権運動が燃え盛る。これは単なる偶然なのだろうか。どこかで深いつながりがあるのではないだろうか。そう考えたのが新選組について考え始めた理由だ。

 日本の多くの人は「新選組」の名前を知ってると思うが、その大方は司馬遼太郎「燃えよ剣」かNHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)からじゃないか。「燃えよ剣」は映画にもなり、何度かテレビドラマ化された。「副長」である土方歳三(大部分の人は読めると思うけど、「ひじかた・としぞう」)を、「局長」である近藤勇(大部分の人は読めると思うけど「こんどう・いさみ」、念のため)に並ぶ有名スターにしたのは「燃えよ剣」だろう。僕は父親のところにあった司馬全集の「燃えよ剣」を借りたまま読んでなかった。今回読んで面白かったけど、やはりちょっと古かったな。

 21世紀になって、歴史学的に検討した新選組に関する一般書が出ている。大石学「新選組」(2004、中公新書)と宮地正人「歴史のなかの新選組」(2004、最近岩波現代文庫に収録)である。どっちも2004年刊行なのは、地域における研究の積み重ねもあるが、大河ドラマの影響だろう。宮地著は史料が多くて貴重だが、そこが一般には取っつきにくい。大石著もかなり大変だけど、新しい指摘も多く役に立つ。例えば小説では近藤らが開いていた道場を「試衛館」とするのが普通だが、確認出来る限りでは「試衛場」だとしている。普通は大石著を読めば十分だろう。
 
 これらの本を読んで判ったのは、新選組は単なる「幕府の暴力装置」ではなく、全国に澎湃(ほうはい)として湧き起こった「尊王攘夷」の志士集団だったことである。新選組が「尊王攘夷」と言うと意外な感じを与えるかもしれないが、幕末のある局面において「尊王」と「佐幕」は矛盾しない。むしろ1860年代半ばの、長州藩が「朝敵」だった時代、保守的な孝明天皇の時代には、天皇の委任を受けた征夷大将軍を中心にして外国勢力を打ち払おうというのは、国家公認の正統思想だった。新選組は単なる剣客集団ではなく、幕府を中心にした攘夷を各所に訴える思想集団でもあった。それは近藤勇らの文書を大量に紹介している宮地著を読めば納得できるだろう。

 新選組の数多いエピソードはここでは紹介しない。特に池田屋事件(1864年7月8日)では多くの尊攘志士が殺害された。長州藩には近藤らへの恨みが残ることにもなる。そのため新選組にはなんとなく公然たる「白色テロ」(国家テロ)集団のイメージが付きまとう。しかし、この時点では新選組の方が警察機関であり、尊攘志士たちの方が天皇のいる京都でテロを企てていたことは間違いない。それにしても、新選組は武道の鍛錬を怠らず、200年以上戦った経験のない諸藩の「武士」に比べて、農民身分でありながらずっと強かった。

 1863年の「8月18日の政変」以後、1866年頃まで続く「一会桑(いちかいそう)政権」のもとで、新選組が事実上の首都である京都を武力制圧する「暴力装置」だったことは間違いない。一会桑とは、一橋慶喜、京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)、京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき=容保の実弟)の三名を中心にした公武合体路線のことである。新選組の盛名は高まり、第一次長州征伐に際しては、近藤らが長州藩の内情探索に派遣されている。単なる用心棒みたいな地点から出発して、中央情報局的な存在として政権内で存在感を増していた。

 新選組に後から加盟した有力集団に、伊東甲子太郎グループがある。後に尊王を旗印に新選組を脱退する。円満に別れたはずが、泥沼の内ゲバとなる様子はどうしても「中核」「革マル」を思い出して陰鬱な気持ちになってしまう。もともとどうして参加したのが不思議な感じだが、つまりは歴史のある段階までは「尊王」と「佐幕」は「攘夷」を媒介にして連立できたのである。それが崩れたのは1867年3月である。その頃から幕府につくか、倒すべきかが分かれてくる。

 近藤、土方らがあくまでも幕府側だったのは、やはり生まれ育ち、支えてくれる人々がいた多摩地域が伝統的に幕府のお膝元で親徳川傾向が強かったためだと思う。それに近藤らを武士に取り立てる話が進んでいた。現実には取り立ててくれた幕府はもうすぐ崩壊するわけで、歴史の転換点で彼らは見る目がなかったとは言える。しかし、実際に近藤勇は「若年寄格」でお取立てになったのだから、それ自体は大したものだ。江戸時代を通じて他にない。危機の時代とは言え、それだけの実力を備えていた。ただし、新選組にとってそれは「諸刃の剣」だった。近藤が幕府直属の大名になれば、近藤が主君で隊士は家来である。局長と隊士は役割は大きく違うけれど、同志である。そこで新選組を抜けた人も出る。そこで実質的に新選組は終わったと思う。

 新選組の文武に賭けたすさまじいエネルギーは、結局近藤、土方らの身分上昇に帰結した。歴史の流れから言えば、もうすぐ身分制度そのものが崩壊する。その崩壊に寄与するのではなく、歴史の流れに反する方向のエネルギーだった。それは長いこと被支配者身分に沁みついていた武士身分への憧れだったかもしれない。その中心メンバーを多摩の農村出身者から出したということは、地域の中に蓄えられた経済的、文化的エネルギーがいかにすさまじいものだったかを物語る。それこそが20年ほど経って自由民権の旗のもとに再興するのである。
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陳舜臣「方壷園」-芳醇な歴史ミステリー

2018年12月18日 22時23分53秒 | 〃 (ミステリー)
 ミステリーをよく買うけど、読むヒマがなくてたまっていく。年末のミステリーベスト10も発表される季節になって、読みたい気持ちが募る…。そんな中で本格的な長編を後回しにして、陳舜臣「方壷園」(ちくま文庫)を読んだ。陳舜臣は僕が最もよく読んだ作家のひとりで、そのことは陳さんが亡くなった時(2015年1月21日)、ブログの追悼記事に書いた。(「追悼・陳舜臣」)

 陳舜臣は最後は大歴史作家として評価され、日本、中国だけでなくインドや中東などにも及ぶ歴史エッセイでも大活躍した。それらはとても大きな遺産で多くの人に読んで欲しい。面白くて役に立つ、簡便な近代中国史入門として「小説阿片戦争」ほど適当なものはないだろう。だけど、もともと陳舜臣はミステリー作家だ。というか「探偵小説」と呼んでいた時代。「中国人を登場させるな」という有名なノックスの「探偵小説十戒」にそむくように神戸に住む中国料理店主・陶展文が活躍する。そんな「枯草の根」で1961年に江戸川乱歩賞を獲得した。

 以後続々とミステリーを書き、直木賞、日本推理作家協会賞を得た。その頃の作品は昔はたくさん文庫に入っていたが、今ではほとんど絶版になっている。そんな時に久しぶりにちくま文庫からミステリー短編集が出た。読んでると思ったけど、思わず買ってしまった。(後で調べたら「紅蓮亭の狂女」は持ってたが、「方壷園」は持ってなかった。)この本は「方壷園」(1962)から6編(全部)と「紅蓮亭の狂女」(1968)から3編を選んだ短編集である。初期には歴史ロマンも感じさせながら、密室殺人でもある作品が多い。まさに探偵小説風の作品集。

 その中で当時の日本で日本人が出てくるのは「梨の花」だけ。これも歴史が絡んではいるが、現代の話になっている。(このトリックは非常に興味深い。)他は近くても日中戦争や第二次大戦中で、古いものだと唐時代にさかのぼる。表題作の「方壷園」は長安で詩人が殺されたという不可能殺人モノで、方壷園とはカバーにあるような不思議な建物。「獣心図」になるとインドのムガル帝国の皇位争いに絡む殺人というスケールの大きさ。一体どういう発想で謎をこしらえるのか。

 一方、「スマトラに沈む」は近代中国の有名な作家郁達夫の死をめぐる謎である。僕も知らなかったが、日中戦争中はシンガポールで新聞に携わり、シンガポール陥落前にスマトラに脱出した。日本に留学し日本語も堪能で、郭沫若などとともに左翼作家として有名だった。郁達夫を検索してみると、戦争中の事情は全部事実だった。今も死の真相には謎もあるという。小説では日本軍人を創作して大胆に想像している。「九雷渓」は共産党系作家が国民党に逮捕され連行される。実話をもとにしているが、そこに「殺人」の挿話を創作して心に残る作品になっている。

 「鉛色の顔」「紅蓮亭の狂女」は清朝末期を舞台にして、日本人の目から当時の事件を扱う。その手さばきは見事だが、「紅蓮亭」はちょっと気持ち悪いかも。「鉛色の顔」は広州から台湾にかけて日清戦争前後の世相を描く。そこれらにも「密室」の謎事件が発生するが、もう歴史の中の人間を追求する方が表に出ている。ともかくすべて面白い芳醇な世界。ちくまが復刊する「昭和の大衆小説」はとても面白いものが多い。獅子文六など大発見だったし、ミステリーでも結城昌司再刊はすごくうれしい。大好きな陳舜臣のミステリーもまだ逸品が多いので次も期待したい。
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フェミニズム映画の傑作、「ガールズ」

2018年12月17日 22時40分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 最近新作映画を見る時間がなかなか取れない。旧作は時々見てるけど、国立映画アーカイブのスウェーデン映画特集をかなり見ている。スウェーデン映画と言えば、映画ファンはまずイングマル・ベルイマン監督を思いうかべるだろう。あるいは同名だけど英語表記で定着しているイングリッド・バーグマンもスウェーデン生まれ。あるいはリンドグレーンの児童文学の映画化、21世紀で一番面白かったミステリー「ミレニアム」の映画化などもある。

 今回はスウェーデン映画の知られざる名作が多数上映される。ヨーロッパの「小国」の映画は、フランスやイタリアなどと違った面白さがあって、昔からよく見ている。去年のチェコ映画も面白かったけど、スウェーデン映画にも発見が多い。特に16日に上映された3本の映画は、どれも「女性映画」として歴史的な重みがあった。それぞれもう一回上映があるが、都合で見れないので頑張って11時の会から3本連続で見た。特に3本目の「ガールズ」について書くが、先に他の2本も簡単に。

 まず「娘とヒヤシンス」(1950)。監督のハッセ・エークマンは日本では全然紹介されていないが、ベルイマンの「牢獄」に映画監督役で出演していた。監督夫人エーヴァ・ヘンニングが演じる女性ダグマルが冒頭で自殺してしまう。その理由は何だろうかと隣人の作家夫妻が探っていく。その構造が「市民ケーン」的と解説にある。とにかく中身も画面もこれほど暗い映画も珍しい。最後に観客に明かされる真相は、1950年の映画とは思えない先駆性でアッと驚く。完成度はとても高く、スウェーデン映画の最重要作品の一つとあるのもうなづける。

 1949年の「母というだけ」はアルフ・シューベリ監督作品。アルフ・シェーベルイという表記で「令嬢ジュリー」「もだえ」が日本公開されている。ベルイマンの師としても知られている。この映画は農村地帯で日雇いで働く下層の娘リーアが結婚、出産の中で生きてゆく姿を描いている。ある日裸で水浴びしているところを皆に見られ、恋人に振られて思わず別の男と付き合って妊娠する。その後の望まざる苦しい人生を丹念に追ってゆく。日本でも農村女性を描く映画(例えば「荷車の歌」)があるが、フォトジェニックな画面と自己を貫こうとする女性像が印象的。

 3本目はマイ・セッテリング監督(1925~1994)の「ガールズ」。これは監督がスウェーデンで18年も映画を作れなくなった「呪われた映画」らしいが、今見ると素晴らしい先見性に圧倒される大傑作フェミニズム映画だった。マイ・セッテリング(Mai Zetterling)は、ウィキペディアでは「マイ・セッタリング」で出ている。非常に人気のある女優だったようで、その点については「スウェーデン映画のスター10」というHPに「マイ・セッテリング」の記事があり、非常に役だった。
 (ガールズ)
 ベルイマン映画で世界に知られている女優3人が出ている。ビビ・アンデション(野いちご)、ハリエット・アンデション(鏡の中にあるごとく)、グンネル・リンドブロム(処女の泉)で、3人を中心にしてギリシャ喜劇のアリストパネス「女の平和」を上演しようとしてる。これは男たちの戦争を止めさせるため女たちが「セックス・ストライキ」をするという話だが、それを現代風に演出してスウェーデン中を巡業する。その成り行きを通して、女優たちの実生活上の問題や政治的話題等を風刺やシュルレアリズム的な自由な発想で描いている。
 (マイ・セッテリング)
 白黒の素晴らしい画面で、それは60年代末に日本で作られたATG映画を思わせる。実験精神、政治性、劇中劇的なメタ映画など今見ても新鮮な演出で、そういう「判りにくい映画」が嫌いでウェルメイドな映画を求める人には不満が大きいだろう。女と男、その権力関係、「女の不満」と反乱などがシネエッセイ的に語られ、スウェーデン社会の保守性が暴かれる。「過激な風刺性は、当時の批評家と観客の反感を買い」と解説に書かれている。まさにその点が今も新鮮なところで、この傑作が当時は理解できなかったのである。

 ほぼ同じ頃、ゴダールの「ウィークエンド」、大島渚の「絞死刑」、ピーター・ブルックの「マラー/サド」などが作られた。その前衛精神や風刺性において、「ガールズ」は決して負けていない。世界的に女性監督の映画は当時は非常に少なかった。フランスのアニエス・ヴァルダだけが突出していた。チェコのヒティロヴァ「ひなぎく」(1966)もガーリーな映画としてやがてカルト化するが、フェミニズム的なマニフェスト映画ではない。

 スウェーデンでは「私は好奇心の強い女」(ヴィルゴット・シェーマン)が1966年に作られ世界的に話題となった。数年前に完全版を見たが、今になるとその風刺性も性描写も衝撃性を失っている。しかし、「ガールズ」は今見ても新しい感じだ。それは「女の平和」の意義が今だ失われてない状況にあるということでもある。恐るべき映画が知られずにいたものだと思う。60年代末を代表する傑作の一本ではないか。「ガールズ」は12月19日(水)19時、「母というだけ」は12月18日(火)15時、「娘とヒヤシンス」は21日(金)15時に上映がある。
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「学校の夏休みは何のため」-チコちゃんに一言②

2018年12月16日 22時10分02秒 |  〃 (教育問題一般)
 「チコちゃんに叱られる!」の第2回は、8月31日放送の「学校の夏休みは何のためにある?」である。この答えが「先生が勉強するため」って言うんだから驚いてしまった。これは明白な誤りで、原因と結果、目的と手段の取り違えだ。夏休みは単純に暑いからあるのであって、それが証拠に寒冷地は夏休みが短く、冬休みが長くなっている。寒冷地の先生は勉強をしなくていいのか。
 (夏休みを画像検索すると、ヒマワリの写真ばっかり)
 義務教育始まって以来、夏休みがある。漱石の「坊っちゃん」を読んでも、先生が夏に集まって勉強したりしてない。たまたま最近になって、教員の研修だの教員免許更新講習だのが夏休みに詰め込まれるようになった。いい迷惑である。夏休みが一番時間が取れるからと、夏にやらされるだけのことだ。40度近い猛暑の中を学校や研修センターなどに行って、どれほどの効果があるのか。暑すぎて帰宅途中にほとんど忘れてしまうだろう。先生の勉強のために夏休みがあるんだったら、効果がもっと上がるように、気候がいい「秋休み」でも作るべきだ。

 番組では小学校の教員が英語の授業について研修をしている場面が出てきた。皆口々に「授業でうまくできるように」など殊勝なことを言って、番組は「このように夏休みでも先生たちは勉強しているのです」などと締めていた。しかし、そこでは一番肝心の、「そもそも小学校で英語授業を導入するべきか」が問われない。導入するとしても、大学等で全然英語の授業法を勉強してないのに、普通の小学校教員が急に研修して英語の授業をするってことでいいのか。まあ決まったことだから、一生懸命研修している人が多いのかもしれないが、ホンネを言えば反対だろう。嫌々やってる人のコメントはカットされてるんだと思う。

 2018年の夏は本当に暑かった。本当なら高原の別荘にでも行きたいところだ。まあ教師の給料じゃいくら働いても別荘なんか持てない。(持ってる人を一人も知らない。)全員がバカンスを取ってしまうと、バカンスに行くための列車も止まってしまうし、デパートも映画館も休館になる。それじゃ他の人が休む意味がないから、大人の中には夏も働く人が必要だ。大人は交代で夏休みを取るわけである。しかし子どもはそうじゃない。

 もともと小学校しか義務教育じゃなかった。10歳前後の児童を暑い時に学校に来させても意味がない。そこで基本的に「授業なし」期間を作った。指導要領上、もともと一年間で「35週」の授業をする計画になっている。祝日、行事、長期休業で17週ぐらいは授業をしないのである。それでいいのであって、夏冬もなく授業を続けても学力差が大きくなりすぎて弊害が大きい。児童生徒にとって、長期休業はとても大事なのは、誰もが経験したことだろう。

 昔は銀行振込なんて仕組みがなかったから、教師の給料を払う日だけ「全校登校日」になっていた。(教師の給料日は15日だから、8月15日となる。)ついでに「平和の大切さ」なんかもやってたかもしれないが、あくまでも給料支払いのためだった。(その日に現金を全学校に配って回っていたのである。今となれば考えられないが。)教師は前からある程度は校内研修などがあったと思うけど、昔は自主研修にもずいぶん行けた。民間教育団体の大会などである。その方がずっと直接的に授業に役立つ勉強ができた。教員は「研修」が義務であり権利である。その意味では常に勉強している。だけど、児童生徒には暑すぎるから夏休みがある。そういう理解でいいんじゃないか。(なお、かつて「夏休みの教員には『休息』こそ」という記事を書いている。)
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校長先生の話は長いのかーチコちゃんに一言①  

2018年12月15日 23時12分44秒 |  〃 (教育問題一般)
 2018年の流行語大賞が発表されたが、今年は比較的知ってる言葉が多かった。その中に「ボーっと生きてんじゃねえよ!」がトップ10に選ばれている。NHKのクイズバラエティ番組「チコちゃんに叱られる!」の決めゼリフである。設定年齢5歳のチコちゃんがトンチンカンな答えをする回答者に「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱るという番組だ。毎回見てるわけじゃないけど、知らなかったなあという答えの中に、ちょっとこれはと思う答えも混ざっている。
 (叱るチコちゃん)
 そんな中でも、教育関係の質問だけ2回ほど書いてみたい。まずは10月26日に放送された「校長先生の話はなぜ長いのか」である。これ何となく多くの人が納得しそうな問題だけど、そもそも「本当に校長先生の話は長いのか」が検証されていない。「ガッテン!」ならまず最初に各学校で計測してみるんじゃないだろうか。皆の感想を聞いても「そういえば長かったような」といった感じだ。「校長先生の話はなぜ長く感じられたのか」の方が正しい問いじゃないだろうか。

 番組の答えは「ネタ本があるから」だった。しかしこれは答えになっていない。校長先生の話が長かったらまずいのか。それなら「ネタ本」に「1分で生徒の心をつかむ校長訓話」がいっぱい載っているはずだ。「ネタ本」的な本があるのは確かだが、本当に使っているのかも疑問。実はその手の「ネタ本」は担任向けにもいっぱい出ている。僕も買ったことはあるけど、全然読まなかった。教師向け以外でも、管理職向け、営業職向け、販売員向け…様々な「ネタ本」は世の中にいっぱいある。「校長向けネタ本」というと驚く人がいるかもしれないけど、別に不思議でも何でもない。

 僕も生徒の時には長いと思ってた気がするが、学校に勤務してからはあまり感じなかった。終業式などでは、式後に大掃除、ホームルーム(学活)になるけど、校長先生の話が長いから大掃除開始の時間が延びたといった経験はほとんどない。(部活の表彰が多すぎて延びたことはある。)要するに「予定時間通り」なのだ。「あの程度の長さ」が学校では必要とされているのである。

 もっとも昔は「忍耐力を付ける」などと言って、夏休み前の暑い時期にも「立ったまま聞かせる」という学校はあった。そうなると何人かが倒れて保健室に運ばれる。これはまずいだろう。今じゃ校庭じゃ座れないから、体育館で式をやって座らせて聞くというのが通例じゃないかと思う。立ってた時は確かに「長いな」と思ったこともあるが、なかなか言えなかった。

 僕が思うに、「校長先生の話」は「長いと感じる要素満載」だと思う。まず校長の話が出てくるのは、始業式終業式となるだろう。小中学校では「朝礼」をやっていたものだが、今はどれほどやってるんだろう。後は「卒業式」「入学式」などの式典である。入学式は大体1年しか聞かない。朝礼は別にして、後は大体暑いか寒いかである。もともと集中力が失せる時期だ。

 それに終業式なんかは「通知表」を受け取るのが生徒の目的である。貰ったら(部活などもあるが)、とりあえず長期休業に入る。終業式や大掃除には身が入らないのが人間心理だ。早く終われと思って、ちゃんと聞いてないのだから、当然長いなあと思うわけである。聞く気がない生徒に対して「長く感じるな」といっても仕方ない。しかしながら一番の問題は「内容のつまらなさ」だろう。

 そう、長く感じるのは「つまらないから」ということに尽きると思う。もちろん中にはジョークで笑わせる校長もいる。それにしても「一般論」や「世間の話題」である。校長は担任もないし、教科も教えない。(元は教えてたわけだが、生徒はなんの教科か知らないことが多い。)部活も委員会も担当してない。だから話は一般論になるけど、それでいいのである。特定の部活やクラスのことばかり取り上げたら、それが誉める言葉だったとしても問題を残すだろう。誉めるならまだしも、生活面の問題点をいちいち校長が指摘するもんじゃない。

 具体的な問題点はその後で「生活指導主任の話」に任せるものだし、クラス内の問題はクラス担任が話す。校長の話はその時に使えるような「一般論」を話すものなのである。つまり「校長先生は努力の大切さを話したけど、ちゃんと聞いてた?」と問いかけ、じゃあ「夏休みには何を努力するか決まってるかな」と続ける。あるいは「校長先生は読書の大切さを話したけど、皆も休み中にいろいろと読んで欲しい」と続ける。そういう風に使う一般論だから、校長の話は生徒には長く感じられる。そういうことじゃないかと思った次第。(ちなみに元の同僚が出てきて驚いた。)
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教員の長時間労働是正方針をどう考えるか

2018年12月13日 22時46分06秒 |  〃 (教育行政)
 中央教育審議会の特別部会が12月6日に答申の素案を示したとマスコミが一斉に報道した。中教審は文部科学大臣の諮問機関で教育行政上重い存在である。「特別部会」の「素案」であり、今後パブリックコメントなどで広く一般の意見を公募するとされるが、基本的には実施の方向にあると考えていい。内容は「法定勤務時間を超えて働く時間」の上限を「月に45時間」(繁忙期でも100時間、年で360時間)とする。「授業準備」や「部活動指導」を正式の勤務時間に位置付ける。今後「変形労働時間制の導入を可能にするべき」などである。
 (新聞報道)
 「是正方針」ですべて解決するとは考えられないが、「ないよりまし」という考え方もある。一方細かく見て行くと「より悪くなる」という事態も想定できる。罰則がある民間企業でも「違法残業」が絶えない。教員の勤務時間管理には罰則がないということなので、教員の長時間労働がこれで完全解決するとは考えられない。しかし、それ以上に重大なのは、「残業ではない」ものに「残業規制」をすることの意味である。いや、今後は「授業準備」も「部活動指導」も「勤務」にするという。

 そのことの是非を問わずに、とにかく今後は勤務として扱い「勤務時間」に入れるという。それならば、今後は朝の出勤から夕方(または夜)の部活終了、翌日の授業準備完了までが「教員の勤務」となる。「残業を命じる」までもなく、初めから一日の勤務時間が10時間ぐらいになってしまう。もともと決められた勤務時間なんだから、それを「残業」というのはおかしい。それに「部活動」を「勤務」にしてしまうと、教員は全員が「校長に命じられて部活動を指導する」ということになってしまう。これは部活動のあり方を大きく変えることになる。議論なしで進めていい問題ではない。

 「授業準備」には限りがない。納得できるような授業準備するために、どこまで「残業」するべきなのだろうか。それを管理職が「規制」するのだろうか。それなら、校長が授業観察を行って勤務を評定するという制度はどうなるのか。それをそのままにして、とりあえず「残業上限」があるから帰れということか。「残業規制」があったって、月の最後の日に生徒が問題を起こしたら遅くまで残って対応するしかないだろう。月に何時間という規制を掛けることで、出退勤の時間管理が厳しくなることだけは間違いない。そのことは職場の雰囲気を悪くするのではないか。

 変形労働時間って言ったって、部活動は運動部・文化部を問わず週に2回程度の休みをもうけるべきだと文科省自体が指針を示している。部活のある日は勤務時間が長くて、休みの日は短いのか。週の中で一日ごとに正規の勤務時間が変わる制度にするのか。それとも部活動時間帯すべてが「勤務時間」となるのか。そうなると育児・介護を抱える教員は部活動を持てないだけでなく、育児軽減、介護軽減の制度を大幅に充実させない限りとても勤められないのではないか。考えれば現場的には「より悪くなる」可能性を秘めているのではないかと思う。

 じゃあ、どうすればいいのか。とりあえず「情報セキュリティ」などと厳しいことばかり言わない方がいい。例えば、定期テストの日は自宅採点を認めて早帰りとする。20世紀には当たり前だったのだから何も問題ない。どんな企業だって自宅で資料を作ってメール送信できるんだから、自宅でできることは自宅でできるようにしないとおかしい。生徒の自宅住所も校外に持ち出せなかったら、遅くまで働いている家庭には連絡も取れない。おかしいことが多くなった。

 明日の試験が出来てなかったら出来るまで残って作るしかない。生徒の問題が起きれば、家庭から親が来られるまで遅くまで残って指導するしかない。部活動も大会直前には毎日のようにやるしかない。その代わり、夏休みは家で全日研修を認める。教員免許更新制をなくすとか、いろんな研修をどんどんなくすとか、そういうことの方がずっと納得できるんじゃないか。もう無理なのかもしれないけど。教員(に限らないが)は自分の身は自分で守るしかない、そういう時代になっている。制度をあれこれいじっても即効性はないと思ってる。
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冬の四万温泉で一泊

2018年12月12日 23時08分02秒 |  〃 (温泉)
 群馬県の四万(しま)温泉は昔から大好きで、最近もよく行っている。年末を前にシーズンオフに一泊旅行。個人的事情で旅行もなかなか行けないけれど、温泉でノンビリする時間は大事だ。最近の関東は急に寒くなったが、毎日ずっと晴れていた。それなのに旅行に行く日だけが、雨の予定。なんとも間が悪いけれど仕方ない。だから一日目はどこも行く予定はなかったが、実際は昼間はずっと晴れていた。そこで今まで行ってなかった「富沢家住宅」に行こうかと思った。
   
 国指定の重要文化財で、江戸時代後期に建てられた萱葺き入母屋作りの養蚕農家である。地図を見ると、四万温泉や中之条町中心部からけっこう遠いので、そう言うところがあるのは知ってたけど行ったことはなかった。実際に行ってみたら、とにかく山の中。行けども行けども、ホントにこの道でいいの?という疑問が駆けめぐる。やっと案内が出てきても、そこからさらに山の中に入って行くので心配になるけど、どんどん行くとそこに写真にある大きな農家が現れた。
  
 見学は無料で、誰もいないから外見のみかと思ったら戸を開けて中を見られた。養蚕農家によくある2階建てだが2階は見られない。正面に屋根を高く切り上げた「平カブト造」というらしい。この地域は今では山の中という感じだが、中世以来越後・信濃への交通の要衝だった。富沢家は江戸時代初期に新田を開き、養蚕の他運送業なども手掛けて栄えたという。行くのは大変だったが、行ってみるだけの価値はある素晴らしい古民家だった。
   
 泊ったのは四万グランドホテルで、同系列の「四万たむら」の風呂にも入れる。普段は有料だけど、オフシーズンだからか無料で入れるという。グランドホテルは有名な積善館の近くで、上記最初の写真の橋向こうが積善館の「元禄風呂」。そこから坂を登って行って突き当りが「たむら」。昔泊ってるけど、もうすっかり忘れてる。「森のこだま」という半露天の素晴らしい風呂に入った。宿の風呂もそうだけど、四万温泉の肌に優しい泉質になごむ。4万の病気に効くというぐらい。
   
 群馬県では夜にが降った。露天風呂で雪見できた。予報を見ると朝には上がって、明日は晴れそうだから雪で交通混乱はなさそうだ。朝になって部屋から外を見ると、最初の写真のような感じ。少しノンビリして、路面凍結が溶けそうな時間の出発。それでも車の屋根に10センチぐらい積もってた。今回は予定外で、「中之条町歴史と民俗の博物館」に寄る。宿で見たチラシに「コンウォール・リー」の企画展をしているとあったので。小学校の校舎を利用した博物館で、瀟洒な作りの建物が魅力的。前にも行ってるけど、展示が充実している。

 コンウォール・リー(1857~1941)と言われても知る人は少ないだろう。草津温泉に聖バルナバ教会を設立してハンセン病救済に力を尽くした女性である。若いころから伝道の志があったが、イギリスで母の世話をしていた。50歳になって母の没後に来日したのである。草津温泉は当時ハンセン病に効くとされ、多くの患者が集住していた。その「湯之沢」に教会を建てて奉仕活動を行った。国の隔離政策により草津にも栗生楽泉園が開かれ、湯之沢集落は取り壊された。またリーは絵画の才に恵まれ、イギリスやイタリア、日本各地の絵もたくさん展示されていた。
  
 帰る途中の国道沿い、今は渋川市になったあたりに「岩井洞」がある。昔は大きなドライブインが道の反対側にあった。ここは何だろうと思いつつ、一度も見たことがなかった。もう何十年も前から何度も通っているのだが。今回停まってみれば、そんなに大きくない観音堂。まあ文化財としては「市指定」程度の史跡で、検索してもドライブイン、今は酒饅頭の店が出ているが、そればっかり出てくる。裏の洞窟に地蔵がたくさん安置されていて、これは見ないと判らなかった。今回も一日目は前橋の「そばひろ」、二日目は水沢うどんの麺づくしの昼食。
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