見田宗介「現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと」(岩波新書)をやっと読んだ。2018年6月に出版されたまま放っておいたら年末になってしまった。割と薄い本(「あとがき」まで入れて162頁)だから、すぐ読めると思ってたのである。著者である見田先生との関わりは最後に書くけど、このブログが「紫陽花通信」という名前なのも真木悠介「気流の鳴る音」(1977、真木悠介は見田氏がコミューン論を書くときのペンネーム)を読んだことに関連がある。
帯を見ると「巨大な視野、最新のデータ、透徹した理論」と書いてある。まさにその通りで、今もシャープな切れ味なのには驚かされた。この本は今までに書かれた多くの本と真っすぐにつながっている。しかしながら、理論書という前にデータ分析による社会学なので、この本だけ読んでも全く構わない。1章と2章では、日本と欧米の青年の意識変化が分析される。日本については、今までも使われてきたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査のデータを使っている。
1973年以来5年ごとに同じ質問を調査してきた中から、20歳~29歳を取り上げて「一番変化が大きいものは何か」を抽出する。最大の変化を示すのは、「近代家父長制家族」のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だという。日本においては性別役割意識が強く、女性の社会的進出が進まないと言われている。それなのに、本当に意識の変化が大きいのか。そう思うかもしれないが、確かにデータではっきりと示されている。注意するべきなのは、ここでは青年層における変化幅の大きさを問題にしている。青年層は権力を持ってないから、社会がすぐ変化はしない。
続いて、結婚前の性交渉の是非。これはある世代までは結婚まで許されないのが常識だったが、その「常識」が世代とともに解体してしまったことが判る。また「生活満足度の増大」「結社・闘争性の減少」も挙げられる。よく言われる「青年層の保守化」が実証される。さらに「魔術的なものの再生」と著者が呼ぶ系列がある。「あの世を信じる」「おみくじや占いを信じる」「奇跡を信じる」などの項目で、明らかに有意の変化が見られる。
ところで、これらは一見すればバラバラに起こっている現象のように思える。しかし著者によれば、家父長制意識や性のモラルの変化、生活満足感の増大や保守化、魔術的なものの再生は、互いに無関係であるように見えるけど、実は「一貫した理論スキームの中で、明晰に全体統一的に把握することができる」というのである。その証明部分はとても面白いので、是非読んでみて欲しい。結論だけ書けば、「経済成長課題の完了」による「合理化圧力の解除」なのである。
ここで著者は「ロジスティック曲線」というものを示す。生物の増殖などで使われるもので、ある環境内に適応した生物は爆発的に増えるけれど、ある一定ラインに到達すると個体数は増えないという。人類文明も少なくとも「先進国」ではそのラインに到達したことで、青年層にはそれ以上の「経済成長」を求める意味が失われた。そのような人類史上の変化がいま起こっていて、青年層の意識変化はそれを示すというのである。
そうするとこれ以上の「経済成長」は「先進国」ではありえないことになる。昔に囚われた政治家たちが、五輪だ万博だと打ち上げ花火を仕掛けても、人口減の社会では一時的なカンフル剤みたいなものしかならないだろう。多くの人は薄々そう感じているのではないか。ではこれからの日本には底なしの停滞しかないのか。「高原の見晴らし」と呼ばれるのは、今獲得された物質的、技術的な到達点、あるいは人権意識の進展などは後退させることなく、次の社会を構想してゆくという意味だと思う。そのためには20世紀までの「革命」の負の遺産を徹底的に検証する必要がある。卵を外から割るのではなく、「卵は内側から破られなければならない」(ダグラス・ラミス)。
非常に刺激的な論だけど、「経済競争の脅迫から解放された人類は、アートと文学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交流の限りなく豊饒な感動とを、追及し、展開し、享受しつづけるだろう」(17頁、ゴチック=引用者)とまで言われると、本当かなと眉に唾を付けたくなる感じもする。世界はテロと不寛容が広がるばかりで、むしろオーウェルが書いたような「世界がアメリカとロシアと中国に分割された世界」の悪夢が現実化している。
見田宗介(1937~)という人は単なる社会学者に留まるのではなく、壮大な理論家であり、詩人であり、かつ「革命家」でもあるのだと思う。この本は今もなお「コミューン主義者」(コミュニストではなく)である著者の、「革命的オプティミズム(楽観主義)」が現れていると僕は感じた。「人類史」的段階なのだから、一つ一つの出来事に一喜一憂しなくてもいいのかもしれない。それに「コミューン主義」と言っても、「各コミューン間の経済関係」は「市場経済」で調節するしかないことはすでに著者が論じている。実際、家族や友人、学校や福祉施設は内部では助け合っても、外部には一定の市場ルールに対応していくしかないことは今と同じである。
かつて「80年代」という雑誌があり、そこに真木悠介氏の講座「柳田国男『明治大正史世相編』を読む」参加者募集という案内が出ていた。僕は1980年にその講座に参加した。講座以上に刺激的だったのが、八王子にある「大学共同セミナー」での合宿。竹内敏晴氏のレッスンを初めてやったのもその時だった。講座終了後も(割と最近まで)一年に一度ぐらい近況報告の集いを持ってきた。多忙な見田先生はあまり参加してないけど、僕にとって無関心ではいられない著者の一人だ。
ちなみに「気流の鳴る音」で、日本のコミューンとして山岸会と奈良にある大倭紫陽花邑が比較されていた。山岸会が「モチ型」に対し、大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)は「おにぎり型」という。元の米粒をつぶしてしまうか、米粒を残して「連帯」するか。それが「紫陽花」の花のたとえにつながる。僕が担任したクラスで時たま作ったクラス通信をいつも「紫陽花通信」と名付けていたのは、それが理由である。そのゆかりで、このブログも「紫陽花通信」としているわけだ。
帯を見ると「巨大な視野、最新のデータ、透徹した理論」と書いてある。まさにその通りで、今もシャープな切れ味なのには驚かされた。この本は今までに書かれた多くの本と真っすぐにつながっている。しかしながら、理論書という前にデータ分析による社会学なので、この本だけ読んでも全く構わない。1章と2章では、日本と欧米の青年の意識変化が分析される。日本については、今までも使われてきたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査のデータを使っている。
1973年以来5年ごとに同じ質問を調査してきた中から、20歳~29歳を取り上げて「一番変化が大きいものは何か」を抽出する。最大の変化を示すのは、「近代家父長制家族」のシステムとこれを支えるジェンダー関係の意識の解体だという。日本においては性別役割意識が強く、女性の社会的進出が進まないと言われている。それなのに、本当に意識の変化が大きいのか。そう思うかもしれないが、確かにデータではっきりと示されている。注意するべきなのは、ここでは青年層における変化幅の大きさを問題にしている。青年層は権力を持ってないから、社会がすぐ変化はしない。
続いて、結婚前の性交渉の是非。これはある世代までは結婚まで許されないのが常識だったが、その「常識」が世代とともに解体してしまったことが判る。また「生活満足度の増大」「結社・闘争性の減少」も挙げられる。よく言われる「青年層の保守化」が実証される。さらに「魔術的なものの再生」と著者が呼ぶ系列がある。「あの世を信じる」「おみくじや占いを信じる」「奇跡を信じる」などの項目で、明らかに有意の変化が見られる。
ところで、これらは一見すればバラバラに起こっている現象のように思える。しかし著者によれば、家父長制意識や性のモラルの変化、生活満足感の増大や保守化、魔術的なものの再生は、互いに無関係であるように見えるけど、実は「一貫した理論スキームの中で、明晰に全体統一的に把握することができる」というのである。その証明部分はとても面白いので、是非読んでみて欲しい。結論だけ書けば、「経済成長課題の完了」による「合理化圧力の解除」なのである。
ここで著者は「ロジスティック曲線」というものを示す。生物の増殖などで使われるもので、ある環境内に適応した生物は爆発的に増えるけれど、ある一定ラインに到達すると個体数は増えないという。人類文明も少なくとも「先進国」ではそのラインに到達したことで、青年層にはそれ以上の「経済成長」を求める意味が失われた。そのような人類史上の変化がいま起こっていて、青年層の意識変化はそれを示すというのである。
そうするとこれ以上の「経済成長」は「先進国」ではありえないことになる。昔に囚われた政治家たちが、五輪だ万博だと打ち上げ花火を仕掛けても、人口減の社会では一時的なカンフル剤みたいなものしかならないだろう。多くの人は薄々そう感じているのではないか。ではこれからの日本には底なしの停滞しかないのか。「高原の見晴らし」と呼ばれるのは、今獲得された物質的、技術的な到達点、あるいは人権意識の進展などは後退させることなく、次の社会を構想してゆくという意味だと思う。そのためには20世紀までの「革命」の負の遺産を徹底的に検証する必要がある。卵を外から割るのではなく、「卵は内側から破られなければならない」(ダグラス・ラミス)。
非常に刺激的な論だけど、「経済競争の脅迫から解放された人類は、アートと文学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交流の限りなく豊饒な感動とを、追及し、展開し、享受しつづけるだろう」(17頁、ゴチック=引用者)とまで言われると、本当かなと眉に唾を付けたくなる感じもする。世界はテロと不寛容が広がるばかりで、むしろオーウェルが書いたような「世界がアメリカとロシアと中国に分割された世界」の悪夢が現実化している。
見田宗介(1937~)という人は単なる社会学者に留まるのではなく、壮大な理論家であり、詩人であり、かつ「革命家」でもあるのだと思う。この本は今もなお「コミューン主義者」(コミュニストではなく)である著者の、「革命的オプティミズム(楽観主義)」が現れていると僕は感じた。「人類史」的段階なのだから、一つ一つの出来事に一喜一憂しなくてもいいのかもしれない。それに「コミューン主義」と言っても、「各コミューン間の経済関係」は「市場経済」で調節するしかないことはすでに著者が論じている。実際、家族や友人、学校や福祉施設は内部では助け合っても、外部には一定の市場ルールに対応していくしかないことは今と同じである。
かつて「80年代」という雑誌があり、そこに真木悠介氏の講座「柳田国男『明治大正史世相編』を読む」参加者募集という案内が出ていた。僕は1980年にその講座に参加した。講座以上に刺激的だったのが、八王子にある「大学共同セミナー」での合宿。竹内敏晴氏のレッスンを初めてやったのもその時だった。講座終了後も(割と最近まで)一年に一度ぐらい近況報告の集いを持ってきた。多忙な見田先生はあまり参加してないけど、僕にとって無関心ではいられない著者の一人だ。
ちなみに「気流の鳴る音」で、日本のコミューンとして山岸会と奈良にある大倭紫陽花邑が比較されていた。山岸会が「モチ型」に対し、大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)は「おにぎり型」という。元の米粒をつぶしてしまうか、米粒を残して「連帯」するか。それが「紫陽花」の花のたとえにつながる。僕が担任したクラスで時たま作ったクラス通信をいつも「紫陽花通信」と名付けていたのは、それが理由である。そのゆかりで、このブログも「紫陽花通信」としているわけだ。