河瀨直美監督の『東京2020オリンピックSIDE:A』、『東京2020オリンピックSIDE:B』がそれぞれ6月3日、24日に公開されたが、やっぱり歴史的な不入りになっている。「東京五輪、映画も無観客」なんて言われてるらしい。多分2週目からは限られた上映になっちゃうだろうと予想して、どっちも公開第1週に見に行った。つまらないに決まってる映画をわざわざ見に行くのもなあと思うけど、一種の社会問題だから見たのである。大スクリーンで見られるのも今回限りと思えば貴重ではある。
見たらやっぱりつまらなかった。『SIDE:A』を見たら、これは「NHKスペシャル」だと思った。つまりテレビのドキュメンタリーでやれば十分という感じだが、この前見た『教育と愛国』みたいな例もあるから、この感想はテレビに失礼かもしれない。『SIDE:B』になると、一体これは何なのだろうと考えさせられた。僕も含めて多くの人は森喜朗元首相の顔面大クローズアップなんか見たくないと思う。そんなことを書いたら、これも「ルッキズム」(見た目差別)や「エイジズム」(年齢差別)なんだろうか。いや、僕の違和感は大権力者に密着することにあって、例えば瀬戸内寂聴の映像だったら気にならないんだと思う。
この映画はオリンピック映画だからというよりも、やはり河瀨監督作品だからつまらないのだと思う。日本では政治家や官僚が文化に触れる機会が少ない。小泉元首相はオペラに行くかもしれないが、安倍元首相は年末などに家族で映画を見ていたが大した映画を見ていない。(『永遠の0』は見ても『万引き家族』は見ないとか。)だから、多分「河瀬っていうカンヌでグランプリを取った女性監督がいる」と言われたときに、組織委関係者でちゃんと河瀨作品を見ていた人はいないだろう。もしちゃんと見ていたら、河瀨監督を選任しないと思う。事前にミスマッチが判りそうなもんだ。
(河瀬直美監督)
2019年に国立映画アーカイブで「オリンピック記録映画特集」と「映画監督 河瀨直美」という特集上映が行われた。この時、河瀨直美のトークを何回か聞いて、この人はなかなか良い人だし面白い人だという印象を持った。だからあまり悪く書きたくないんだけど、その時に見た映画はやはりつまらなかった。全部見てるわけではないから断言はできないが、ある程度面白いのは『萌の朱雀』(1997)と『2つ目の窓』(2014)ぐらいだと思う。『沙羅双樹』『殯の森』『朱花の月』『2つ目の窓』『光』と5回もカンヌ映画祭のコンペに選ばれ、『殯(もがり)の森』(2007)はカンヌでグランプリ(第2席)を取ってしまった。
当然のこと、当時は期待して『殯(もがり)の森』を見に行ったんだけど、全くつまらないことに唖然とした。カンヌで評価されたんだから、何か美点はある。(ちなみに審査委員長は映画監督のスティーヴン・フリアーズ。委員にはミシェル・ピコリ、マギー・チャン、オルハン・パムクなどがいた。パムクはトルコの作家で、後にノーベル賞を取る。)それは判らないではない。いつものように奈良を舞台にして、認知症患者と介護士の触れあいを通して、民俗的な生と死の感覚を描き出す。というか、そういうことなんだろうと思うけど、映像は観客を置き去りにして暴走していくので付いていけないのである。
その「主観的な世界」こそが河瀨作品の特徴であると思う。実の祖母を撮影する「私的映像」から始まった河瀨直美だが、一貫して主観的な私的世界を描いている。映画アーカイブの特集以後に公開された『朝が来る』(2020)は、今までの中で一番面白いと思ったけれど、原作があるのに自分が出張って劇映画でインタビューしている。ハンセン病差別をテーマにした『あん』(2015)を撮ったため、何か人権問題を扱う女性監督のように思っていた人がいたらしいが、その『あん』も原作があるのにドキュメンタリー的で、ハンセン病理解に関しては公的な啓発キャンペーンと同レベルだった。
他の作品ばかり書いてきたが、今までの作品と今回の『東京2020オリンピック』は構造が同じである。何か意味ありげな映像が主観的に連続する。一つ一つは面白いところもあるが、全体を通してまとまりがない。『SIDE:A』では子どもを持つ女性選手に焦点が当てられる。カナダのバスケ選手は夫とともに来日した。日本の女子バスケ選手は出場を断念した。また難民の選手もいれば、イランからモンゴルに国籍を変更した柔道選手もいる。それぞれ重要な問題だと言われればその通りだが、ただ点描されてゆくだけで印象に残らない。例えば「女性アスリート」に絞って、テレビ放映する映像を作れば、それで十分なのではないか。
結局「五輪映画」というものを我々はもう必要としていないということである。全部の競技を描いていたら何時間あっても終わらないし、見たい競技の映像は映画館に行かなくてもすぐ見られる。結局レニ・リーフェンシュタール(1936年ベルリン大会の『民族の祭典』『美の祭典』)、そして1964年東京五輪の市川崑監督『東京オリンピック』を越えるものはもう作られないのだろう。映像美もなければ、スポーツと人間への洞察もない。まあ、今回は無観客だったから、選手や競技場を大スクリーンで見られる意味だけはあるわけだろう。
『SIDE:B』は森喜朗、菅義偉、小池百合子などの支持者以外は、敬遠した方が良いと思う。関係者には違いないから出て来るのは仕方ない。しかし、何度も顔だけがクローズアップされ、批判的な眼差しが全くない。森組織委会長辞任問題という大問題も、当然出て来ることは出て来るけど、事実関係は外国ニュースで伝えられる。ナレーションや字幕の解説なしに、この問題を扱うのは無理だ。直後に山下泰裕JOC会長の「そんな人ではない」などという発言まで出てくる。森喜朗という人は、首相時代から失言の連続で知られた人だ。そのことを指摘しなければ、批評的精神の欠如というしかない。結局、「権力者」の発言をつないでいるだけで、どうなってるんだという思いが募る。
もう一つ、最後にあえて書きたい。この映画には両方通じて多くの競技が出てくるが、バレーボール、ハンドボール、卓球、馬術、サッカー、ラグビー、ホッケー、テコンドー、ゴルフ、ボクシング、カヌー、セーリング、ボート、射撃、ウェイトリフティング、トライアスロンなどは全く出てこない。(もしかしてちょっと出てたかもしれないが。)日本選手が活躍した競技を全部出せなどと言うわけではない。それはもともと不可能だが、それにしてはバスケットボール(3×3を含め)の出てくる時間が長い。確かに日本女子の銀メダルは歴史的快挙である。だけど、河瀨直美が2021年にバスケットボール女子日本リーグ会長に就任していることを思い出せば、これじゃ「えこひいき」じゃないかと言いたくなる。
見たらやっぱりつまらなかった。『SIDE:A』を見たら、これは「NHKスペシャル」だと思った。つまりテレビのドキュメンタリーでやれば十分という感じだが、この前見た『教育と愛国』みたいな例もあるから、この感想はテレビに失礼かもしれない。『SIDE:B』になると、一体これは何なのだろうと考えさせられた。僕も含めて多くの人は森喜朗元首相の顔面大クローズアップなんか見たくないと思う。そんなことを書いたら、これも「ルッキズム」(見た目差別)や「エイジズム」(年齢差別)なんだろうか。いや、僕の違和感は大権力者に密着することにあって、例えば瀬戸内寂聴の映像だったら気にならないんだと思う。
この映画はオリンピック映画だからというよりも、やはり河瀨監督作品だからつまらないのだと思う。日本では政治家や官僚が文化に触れる機会が少ない。小泉元首相はオペラに行くかもしれないが、安倍元首相は年末などに家族で映画を見ていたが大した映画を見ていない。(『永遠の0』は見ても『万引き家族』は見ないとか。)だから、多分「河瀬っていうカンヌでグランプリを取った女性監督がいる」と言われたときに、組織委関係者でちゃんと河瀨作品を見ていた人はいないだろう。もしちゃんと見ていたら、河瀨監督を選任しないと思う。事前にミスマッチが判りそうなもんだ。
(河瀬直美監督)
2019年に国立映画アーカイブで「オリンピック記録映画特集」と「映画監督 河瀨直美」という特集上映が行われた。この時、河瀨直美のトークを何回か聞いて、この人はなかなか良い人だし面白い人だという印象を持った。だからあまり悪く書きたくないんだけど、その時に見た映画はやはりつまらなかった。全部見てるわけではないから断言はできないが、ある程度面白いのは『萌の朱雀』(1997)と『2つ目の窓』(2014)ぐらいだと思う。『沙羅双樹』『殯の森』『朱花の月』『2つ目の窓』『光』と5回もカンヌ映画祭のコンペに選ばれ、『殯(もがり)の森』(2007)はカンヌでグランプリ(第2席)を取ってしまった。
当然のこと、当時は期待して『殯(もがり)の森』を見に行ったんだけど、全くつまらないことに唖然とした。カンヌで評価されたんだから、何か美点はある。(ちなみに審査委員長は映画監督のスティーヴン・フリアーズ。委員にはミシェル・ピコリ、マギー・チャン、オルハン・パムクなどがいた。パムクはトルコの作家で、後にノーベル賞を取る。)それは判らないではない。いつものように奈良を舞台にして、認知症患者と介護士の触れあいを通して、民俗的な生と死の感覚を描き出す。というか、そういうことなんだろうと思うけど、映像は観客を置き去りにして暴走していくので付いていけないのである。
その「主観的な世界」こそが河瀨作品の特徴であると思う。実の祖母を撮影する「私的映像」から始まった河瀨直美だが、一貫して主観的な私的世界を描いている。映画アーカイブの特集以後に公開された『朝が来る』(2020)は、今までの中で一番面白いと思ったけれど、原作があるのに自分が出張って劇映画でインタビューしている。ハンセン病差別をテーマにした『あん』(2015)を撮ったため、何か人権問題を扱う女性監督のように思っていた人がいたらしいが、その『あん』も原作があるのにドキュメンタリー的で、ハンセン病理解に関しては公的な啓発キャンペーンと同レベルだった。
他の作品ばかり書いてきたが、今までの作品と今回の『東京2020オリンピック』は構造が同じである。何か意味ありげな映像が主観的に連続する。一つ一つは面白いところもあるが、全体を通してまとまりがない。『SIDE:A』では子どもを持つ女性選手に焦点が当てられる。カナダのバスケ選手は夫とともに来日した。日本の女子バスケ選手は出場を断念した。また難民の選手もいれば、イランからモンゴルに国籍を変更した柔道選手もいる。それぞれ重要な問題だと言われればその通りだが、ただ点描されてゆくだけで印象に残らない。例えば「女性アスリート」に絞って、テレビ放映する映像を作れば、それで十分なのではないか。
結局「五輪映画」というものを我々はもう必要としていないということである。全部の競技を描いていたら何時間あっても終わらないし、見たい競技の映像は映画館に行かなくてもすぐ見られる。結局レニ・リーフェンシュタール(1936年ベルリン大会の『民族の祭典』『美の祭典』)、そして1964年東京五輪の市川崑監督『東京オリンピック』を越えるものはもう作られないのだろう。映像美もなければ、スポーツと人間への洞察もない。まあ、今回は無観客だったから、選手や競技場を大スクリーンで見られる意味だけはあるわけだろう。
『SIDE:B』は森喜朗、菅義偉、小池百合子などの支持者以外は、敬遠した方が良いと思う。関係者には違いないから出て来るのは仕方ない。しかし、何度も顔だけがクローズアップされ、批判的な眼差しが全くない。森組織委会長辞任問題という大問題も、当然出て来ることは出て来るけど、事実関係は外国ニュースで伝えられる。ナレーションや字幕の解説なしに、この問題を扱うのは無理だ。直後に山下泰裕JOC会長の「そんな人ではない」などという発言まで出てくる。森喜朗という人は、首相時代から失言の連続で知られた人だ。そのことを指摘しなければ、批評的精神の欠如というしかない。結局、「権力者」の発言をつないでいるだけで、どうなってるんだという思いが募る。
もう一つ、最後にあえて書きたい。この映画には両方通じて多くの競技が出てくるが、バレーボール、ハンドボール、卓球、馬術、サッカー、ラグビー、ホッケー、テコンドー、ゴルフ、ボクシング、カヌー、セーリング、ボート、射撃、ウェイトリフティング、トライアスロンなどは全く出てこない。(もしかしてちょっと出てたかもしれないが。)日本選手が活躍した競技を全部出せなどと言うわけではない。それはもともと不可能だが、それにしてはバスケットボール(3×3を含め)の出てくる時間が長い。確かに日本女子の銀メダルは歴史的快挙である。だけど、河瀨直美が2021年にバスケットボール女子日本リーグ会長に就任していることを思い出せば、これじゃ「えこひいき」じゃないかと言いたくなる。