24日に今年の教科書検定の結果が公表された。今年は初めて小学校道徳教科書の検定があった。そして、東京書籍の教科書で、小学一年用教科書で最初は「パン屋」だった記述が、検定意見が付いて「和菓子屋」に変わるという出来事があった。文科省が命令で変えさせたというわけではない。「教科書全体で指導要領にある『我が国や強度の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りない」という意見が付いた。そこで教科書会社が文科省の意向を「忖度」したわけである。
他にもアスレチックの道具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に変えたという話もある。(学研教育みらい) これなんか、まったく意味不明である。公園のアスレチックで遊ぶ子供はいるだろうけど、「和楽器屋」なんてものに入ったことのある子どもなんかいないだろう。もちろん、僕もない。そもそも和楽器だけを売る店というものがあるのかどうかも知らない。今は和楽器も音楽の授業で扱うらしいから、和楽器もあちこちで売ってるんだろうか。
もちろん、「道徳」を教科として評価の対象にするということ自体が、根本的におかしいことは以前に書いた。教科書検定は毎回おかしなことが起こるけど、それが当然のように「道徳教科書」でも起こったわけである。こんな検定をしているんだから、「道徳教科化」なんて「始まる前から終わっている」ことを証明している。文科省は「アクティブ・ラーニング」なる「主体的な学び」を進めるんだと言っている。こういう検定のあり方そのものが、何でそういう風になるのか「主体的に学ぶ」いい教材だろう。
さて、そうやって子どもたちに「道徳」を説く文科省が、組織ぐるみで違法な天下りをあっせんしていた。歴代の事務次官3人の関与を含めて、計62件もの国家公務員法違反が判明したという。処分は合わせて43人にも上る。事務次官退職後、ブルガリア大使を務めていた山中伸一元事務次官は辞職するという。そういう人たちが「道徳」を教科化するわけである。
それはあまりにもおかしいだろうと思うけど、多分本人たちのホンネは違うと思う。日本の高級官僚の実態としては、同期で一人いるかどうかの事務次官になれない人は「早期退職」するのが慣例である。キャリア官僚として採用後、ある時期までは大体同じように出世していくが、その後だんだん差がついていく。何か政治的な逆転が起きない限り、事務次官候補として残される人以外は、退職後の人生を考えないといけない。事務次官に上り詰めた人としては、「一将功なりて万骨枯る」にならないように、気を配る必要がある。早期退職せざるを得なかった同僚の再就職先の面倒を見るのは、まさに「道徳」的なことなんだろうと思う。だから、同様の事例は他省庁にもあり得るだろう。
ところで、その再就職先には大学事務関係が多い。日本の教育にもっと競争的要素を多くするというのが、文科省の進めてきた政策である。自由に競争するというのが本当だったら、文科省官僚なんて受け入れる必要は大学にはないはずである。むしろ負担が大きくなるだけである。でも、実際には違うわけだ。文科省のいう「競争」というのは、「文科省の意向を忖度した書類を作成する能力」の意味なのである。だから、文科省関係者が必要になってくるわけである。
「競争」というと、用意ドン、一斉スタートで、一番にゴールした人から順番に、いい評価が得られるという感じがする。でも、世の中は短距離走ではない。むしろマラソンである。だから、コースの途中で補給ができるし、伴走車も付けられる。その伴走車の役割を、文科省元官僚が果たすわけである。その仕組みを知らないで、ホントに自由競争だと思っていると、そもそもマラソンの実施を知らなかったりする。加計学園というところが、特区制度を使って四国に獣医師大学を作るという。他にどこも申請がなかったのだという。安倍首相のお友だちはちゃんと申請したわけだけど。
文科省のダブル・スタンダード(二重基準)は、社会科系の検定ではもっとあからさまである。「通説がない」ことを強調するけれど、それが「国内向け」なのである。領土問題などでは、政府見解のみを教えよと強制している。北方領土、竹島、尖閣ともに、ロシア、韓国、中国では違う見解を持っているわけだから、国際的には「通説がない」というのじゃないか、そういう場合。
だけど、文科省は「南京大虐殺の被害者数」などで「通説がない」ことを強調する。それはその通りだけど、「南京で大虐殺事件が起きた」ことは日本政府も認める「通説」である。犠牲者数などの問題に矮小化するのはおかしいだろう。要するに、文科省、というか安倍政権と言うべきだろうけど、すべてが二重基準なのである。だから、教科書会社や大学は、文科省の言う「通説」の意味合いを「忖度」して行動しないといけない。そういう能力を養うことが、「主体的な学び」の本質なのである。
まかり間違って、本当に主体的に考える生徒を育ててしまったりすると、その本人が苦労することになる。だから、僕は前に「アクティブ・ラーニングは失敗する」と書いたのである。
他にもアスレチックの道具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に変えたという話もある。(学研教育みらい) これなんか、まったく意味不明である。公園のアスレチックで遊ぶ子供はいるだろうけど、「和楽器屋」なんてものに入ったことのある子どもなんかいないだろう。もちろん、僕もない。そもそも和楽器だけを売る店というものがあるのかどうかも知らない。今は和楽器も音楽の授業で扱うらしいから、和楽器もあちこちで売ってるんだろうか。
もちろん、「道徳」を教科として評価の対象にするということ自体が、根本的におかしいことは以前に書いた。教科書検定は毎回おかしなことが起こるけど、それが当然のように「道徳教科書」でも起こったわけである。こんな検定をしているんだから、「道徳教科化」なんて「始まる前から終わっている」ことを証明している。文科省は「アクティブ・ラーニング」なる「主体的な学び」を進めるんだと言っている。こういう検定のあり方そのものが、何でそういう風になるのか「主体的に学ぶ」いい教材だろう。
さて、そうやって子どもたちに「道徳」を説く文科省が、組織ぐるみで違法な天下りをあっせんしていた。歴代の事務次官3人の関与を含めて、計62件もの国家公務員法違反が判明したという。処分は合わせて43人にも上る。事務次官退職後、ブルガリア大使を務めていた山中伸一元事務次官は辞職するという。そういう人たちが「道徳」を教科化するわけである。
それはあまりにもおかしいだろうと思うけど、多分本人たちのホンネは違うと思う。日本の高級官僚の実態としては、同期で一人いるかどうかの事務次官になれない人は「早期退職」するのが慣例である。キャリア官僚として採用後、ある時期までは大体同じように出世していくが、その後だんだん差がついていく。何か政治的な逆転が起きない限り、事務次官候補として残される人以外は、退職後の人生を考えないといけない。事務次官に上り詰めた人としては、「一将功なりて万骨枯る」にならないように、気を配る必要がある。早期退職せざるを得なかった同僚の再就職先の面倒を見るのは、まさに「道徳」的なことなんだろうと思う。だから、同様の事例は他省庁にもあり得るだろう。
ところで、その再就職先には大学事務関係が多い。日本の教育にもっと競争的要素を多くするというのが、文科省の進めてきた政策である。自由に競争するというのが本当だったら、文科省官僚なんて受け入れる必要は大学にはないはずである。むしろ負担が大きくなるだけである。でも、実際には違うわけだ。文科省のいう「競争」というのは、「文科省の意向を忖度した書類を作成する能力」の意味なのである。だから、文科省関係者が必要になってくるわけである。
「競争」というと、用意ドン、一斉スタートで、一番にゴールした人から順番に、いい評価が得られるという感じがする。でも、世の中は短距離走ではない。むしろマラソンである。だから、コースの途中で補給ができるし、伴走車も付けられる。その伴走車の役割を、文科省元官僚が果たすわけである。その仕組みを知らないで、ホントに自由競争だと思っていると、そもそもマラソンの実施を知らなかったりする。加計学園というところが、特区制度を使って四国に獣医師大学を作るという。他にどこも申請がなかったのだという。安倍首相のお友だちはちゃんと申請したわけだけど。
文科省のダブル・スタンダード(二重基準)は、社会科系の検定ではもっとあからさまである。「通説がない」ことを強調するけれど、それが「国内向け」なのである。領土問題などでは、政府見解のみを教えよと強制している。北方領土、竹島、尖閣ともに、ロシア、韓国、中国では違う見解を持っているわけだから、国際的には「通説がない」というのじゃないか、そういう場合。
だけど、文科省は「南京大虐殺の被害者数」などで「通説がない」ことを強調する。それはその通りだけど、「南京で大虐殺事件が起きた」ことは日本政府も認める「通説」である。犠牲者数などの問題に矮小化するのはおかしいだろう。要するに、文科省、というか安倍政権と言うべきだろうけど、すべてが二重基準なのである。だから、教科書会社や大学は、文科省の言う「通説」の意味合いを「忖度」して行動しないといけない。そういう能力を養うことが、「主体的な学び」の本質なのである。
まかり間違って、本当に主体的に考える生徒を育ててしまったりすると、その本人が苦労することになる。だから、僕は前に「アクティブ・ラーニングは失敗する」と書いたのである。