尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

文科省、「忖度」の構造-検定と天下り

2017年03月31日 22時35分17秒 |  〃 (教育行政)
 24日に今年の教科書検定の結果が公表された。今年は初めて小学校道徳教科書の検定があった。そして、東京書籍の教科書で、小学一年用教科書で最初は「パン屋」だった記述が、検定意見が付いて「和菓子屋」に変わるという出来事があった。文科省が命令で変えさせたというわけではない。「教科書全体で指導要領にある『我が国や強度の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りない」という意見が付いた。そこで教科書会社が文科省の意向を「忖度」したわけである。

 他にもアスレチックの道具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に変えたという話もある。(学研教育みらい) これなんか、まったく意味不明である。公園のアスレチックで遊ぶ子供はいるだろうけど、「和楽器屋」なんてものに入ったことのある子どもなんかいないだろう。もちろん、僕もない。そもそも和楽器だけを売る店というものがあるのかどうかも知らない。今は和楽器も音楽の授業で扱うらしいから、和楽器もあちこちで売ってるんだろうか。

 もちろん、「道徳」を教科として評価の対象にするということ自体が、根本的におかしいことは以前に書いた。教科書検定は毎回おかしなことが起こるけど、それが当然のように「道徳教科書」でも起こったわけである。こんな検定をしているんだから、「道徳教科化」なんて「始まる前から終わっている」ことを証明している。文科省は「アクティブ・ラーニング」なる「主体的な学び」を進めるんだと言っている。こういう検定のあり方そのものが、何でそういう風になるのか「主体的に学ぶ」いい教材だろう。

 さて、そうやって子どもたちに「道徳」を説く文科省が、組織ぐるみで違法な天下りをあっせんしていた。歴代の事務次官3人の関与を含めて、計62件もの国家公務員法違反が判明したという。処分は合わせて43人にも上る。事務次官退職後、ブルガリア大使を務めていた山中伸一元事務次官は辞職するという。そういう人たちが「道徳」を教科化するわけである。

 それはあまりにもおかしいだろうと思うけど、多分本人たちのホンネは違うと思う。日本の高級官僚の実態としては、同期で一人いるかどうかの事務次官になれない人は「早期退職」するのが慣例である。キャリア官僚として採用後、ある時期までは大体同じように出世していくが、その後だんだん差がついていく。何か政治的な逆転が起きない限り、事務次官候補として残される人以外は、退職後の人生を考えないといけない。事務次官に上り詰めた人としては、「一将功なりて万骨枯る」にならないように、気を配る必要がある。早期退職せざるを得なかった同僚の再就職先の面倒を見るのは、まさに「道徳」的なことなんだろうと思う。だから、同様の事例は他省庁にもあり得るだろう。

 ところで、その再就職先には大学事務関係が多い。日本の教育にもっと競争的要素を多くするというのが、文科省の進めてきた政策である。自由に競争するというのが本当だったら、文科省官僚なんて受け入れる必要は大学にはないはずである。むしろ負担が大きくなるだけである。でも、実際には違うわけだ。文科省のいう「競争」というのは、「文科省の意向を忖度した書類を作成する能力」の意味なのである。だから、文科省関係者が必要になってくるわけである。

 「競争」というと、用意ドン、一斉スタートで、一番にゴールした人から順番に、いい評価が得られるという感じがする。でも、世の中は短距離走ではない。むしろマラソンである。だから、コースの途中で補給ができるし、伴走車も付けられる。その伴走車の役割を、文科省元官僚が果たすわけである。その仕組みを知らないで、ホントに自由競争だと思っていると、そもそもマラソンの実施を知らなかったりする。加計学園というところが、特区制度を使って四国に獣医師大学を作るという。他にどこも申請がなかったのだという。安倍首相のお友だちはちゃんと申請したわけだけど。

 文科省のダブル・スタンダード(二重基準)は、社会科系の検定ではもっとあからさまである。「通説がない」ことを強調するけれど、それが「国内向け」なのである。領土問題などでは、政府見解のみを教えよと強制している。北方領土、竹島、尖閣ともに、ロシア、韓国、中国では違う見解を持っているわけだから、国際的には「通説がない」というのじゃないか、そういう場合。

 だけど、文科省は「南京大虐殺の被害者数」などで「通説がない」ことを強調する。それはその通りだけど、「南京で大虐殺事件が起きた」ことは日本政府も認める「通説」である。犠牲者数などの問題に矮小化するのはおかしいだろう。要するに、文科省、というか安倍政権と言うべきだろうけど、すべてが二重基準なのである。だから、教科書会社や大学は、文科省の言う「通説」の意味合いを「忖度」して行動しないといけない。そういう能力を養うことが、「主体的な学び」の本質なのである。

 まかり間違って、本当に主体的に考える生徒を育ててしまったりすると、その本人が苦労することになる。だから、僕は前に「アクティブ・ラーニングは失敗する」と書いたのである。
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映画「汚れたミルク」「サラエヴォの銃声」

2017年03月30日 21時47分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 ダニス・タノヴィッチ監督の2作品「汚れたミルク」と「サラエヴォの銃声」が新宿のシネマ・カリテで上映されている。どっちも社会派的作品だけど、それぞれ別種の重みがある。それに応じて、「映画の作り」にそれぞれ特別の工夫があるのも見どころ。非常に面白い、よく出来た映画だと思う。あまり長くないのもいい。「汚れたミルク」は4月7日まで。上映時間は2本続けて見られる設定になっている。

 かつて行われた「粉ミルク・キャンペーン」を覚えているだろうか。粉ミルクの世界的メーカー、ネスレのボイコットで知られた。ずいぶん前のことで、確かアフリカの話だったような気がする。調べてみたら、1977年から始まったという。「汚れたミルク」という映画は、パキスタンを舞台にしている。時代は1994年である。設定を変えたのかと思ったら、アフリカで70年代に起こっていたことが、アジアでは80年代、90年代に問題になったのだという。それは知らなかった。

 粉ミルクの問題というのは、多国籍企業が粉ミルクを売りまくって、それを飲んだ乳児が下痢などで多数が死んでしまう問題である。母親が汚れた水を使ったり、薄めて飲ませることで、下痢、栄養不足が起こる。水道が整備されていない状況を知りながら、メーカーは医師たちに接待して売りまくる。急激に近代化する貧困国では、母親の栄養状態も悪く母乳で育てられない場合もあるだろう。また、先進国への憧れから、巨額の宣伝費をかけるメーカーを子どもに与えたいと思う母親もいる。

 会社側は汚れた水を使った使用者側の自己責任だというだろう。この映画も、ネスレの反対にあい、2014年製作なのに、日本が世界初公開なんだというからビックリである。だから、この映画も一瞬だけ「ネスレ」と言った後、問題があるから「ラスタ」に変えようという。どういうことかというと、粉ミルク問題を告発したパキスタンのセールスマンがいる。彼のドキュメント映画を作るという企画を記録しているという体裁の劇映画、という複雑な構造になっているのである。だから、本当の再現映像で「ネスレ」と出した後、法的なアドバイザーが名前を変えた方がいいという。そこで「ラスタ」にするという、そういうシーンを撮るわけである。このねじれた作り方も面白い。

 セールスマンのアヤンは大学中退ながら有能で、医師に食い込んでいく。その営業シーンも興味深いけど、皆がネスレのお菓子などを配ると喜んで受け取っていくのが印象的である。妻や父親が告発者になったアヤンをずっと支えるのも感動的。ネットでつないで、今はカナダにいるアヤンに確認を取る、その再現映像という構造の映画だけど、判りにくいということはない。きびきびしたカット割りで、映画のリズムがいい。終わったかと思った問題が、世界的にはまだ続いているという告発も重大だ。

 ダニス・タノヴィッチ(1969~、Danis Tanović)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの人である。アカデミー賞外国語映画賞の「ノー・マンズ・ランド」(2001)というボスニア戦争を描いた映画で有名になった。ベルギーやフランスで映画を作ってきたが、最近はボスニアに戻っているという。「汚れたミルク」は問題を知って映画を作ったけれど、「サラエヴォの銃声」はボスニアの首都サラエヴォを舞台にしている。

 1914年、サラエヴォで起こった事件が世界を変えた。第一次世界大戦の引き金となったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件である。2014年、その100年目の年が来た。それを記念して、ベルリン・フィルの公演やフランスの思想家ベルナール=アンリ・レヴィの書いた一人芝居「ホテル・ヨーロッパ」が上演されたという。その日、6月28日、16時40分からの85分間を描いている。

 その劇で実際に主演したフランスの俳優ジャック・ウェベールが、この映画にも出ている。そして「ホテル・ヨーロッパ」にチェックインする。このホテルは架空のもので、実際は旧ホリデー・インで撮影されたという。そこは1984年のサラエヴォ冬季五輪の時に作られたホテルなんだそうだ。そのホテルの屋上では、特別な日を記念する歴史番組を録画している。女性ジャーナリストが様々な人にインタビューする趣向で、歴史的な説明を映画内で判りやすくやっている。

 同時にホテルは経営危機に陥っていて、従業員はこの日に合わせてストを計画中である。ストをさせないよう奔走する支配人と、従業員側の攻防。屋上では暗殺者ガヴリロ・プリンツェプと同名の、子孫と称する人をインタビューしている。彼は銃を持って現れ、今もなおセルビア人側の主張を繰り広げ、インタビュアーの女性と大論争になる。ここではボスニア戦争だけでなく、第一次、第二次大戦時をどう見るかも、血が出るテーマなのである。現代史のすべてはつながっている。

 いわば「グランド・ホテル形式」でサラエヴォの歴史と現在を描くという、とても面白い映画である。しかも、セルビア人の主張を繰り広げるプリンツェプ役を演じるのは、ムハマド・ハジョヴィッチという人でボシュニャク人(オスマン帝国時代にムスリムのなった人の系譜)である。一方、その逆の配役もあって、現実は複雑に絡み合っている。そんなことまで知らなくても、いろんなことがテキパキと語られていく様子が面白い。なかなか他国では測りがたい複雑な現代史だが、とても面白い映画だった。ホテル内をカメラが動き回るが、その動きもあまり気にならない。見ごたえがある2本だった。
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(ほぼ)半世紀ぶりの「猫」-夏目漱石を読む①

2017年03月29日 23時04分57秒 | 本 (日本文学)
 ちょっと突然だけど、夏目漱石の話。漱石(1867~1916)は今年が生誕150年昨年が没後100年である。今年は新宿区に漱石記念館ができることだし、何かと漱石が話題になるだろう。でも僕は漱石をあまり読んでないのである。「」「坊っちゃん」「草枕」に「三四郎」「こゝろ」だけなんだから、これでは「漱石定食(梅)」という感じ。(もっとも小品をもう少し読んでると思う。)

 それではいかんと自分でも思い、ちくま文庫版の全集を買ってある。それも10年近く前なんだけど、なかなか読み始めるきっかけがない。やはり近代文学史上の巨人に違いないから、もうそろそろ読みたい。今年はチャンスだということである。思えば、宮沢賢治(1896~1933)や太宰治(1909~1948)の生誕百年の年にも読み残しを読んだものだ。生誕の節目はきっかけになる。

 ということで、まずは全集第1巻の「吾輩は猫である」である。1905年1月に「ホトトギス」に掲載され、好評を得て1906年8月まで書き継がれた。1905年から1907年にかけて、3巻に分けて刊行された。当時から非常に有名で、今も非常に有名な小説だろう。僕はこれを中学生のころに読んだと思う。半世紀前というと小学生になっちゃうけど、まあ「ほぼ半世紀前」になる。ものすごく面白かった。その面白かったところは、皆が集まってワイワイとバカ話をするという構成そのものにあったと思う。
  (右側が実際に読んだ本)
 今回読んでみたら、案外面白くなかったんだけど、それはどうしてかを中心に書きたい。特に漱石や「猫」論というほどの気持ちはないんだけど、月に一冊程度のペースで読んでいきたいと思っていて、自分の心覚えという意味でも書いておきたい。ところで、今回読んでみて、「字ばっかり」のページが多いので閉口した。視力が落ちてくると、けっこうつらい。だから、登場人物たちが御高説を披露しているのについていくのも面倒だなあ。そういうこともあるとは情けないけど…。

 「吾輩は猫である」(以下、「猫」と省略)の冒頭は、古典じゃないから暗記させられたわけじゃないけど、川端「雪国」と並んで近代文学では一番有名な出だしだろう。どんな話かも大体の人は、読んでなくても知っていると思うので、中身の紹介はしない。今も原文で読めるというのはすごいことである。「たけくらべ」や「舞姫」は、翻訳しないと若い人は読めないのではないか。

 「猫」もけっこう難しいんだけど、それは古今東西の逸話が無数に出てくるからである。気にしないで進んでいけば、文体的には今も通じる。ただ漢文調に慣れてないと、付いていきにくいかもしれない。こういう文体が、最初から確立されていたのは何故だろう。漱石の好きだった「落語」の影響など、いろいろと考えられる。でも、猫が語っているという体裁、主人苦沙弥(くしゃみ)先生とその友人の気の置けない語りという「猫」の特質から、文体的な苦労はそれほどでもなかったのかもしれない。

 「猫」の発表は、見れば一目瞭然、日露戦争最中である。案外意識してないと思うけど、戦争中に書かれている。旅順陥落などの記載も中に出ている。日露戦争は明治日本にとって、大変重い戦争だったけど、小説内ではそれほど出てこない。でも、猫は猫なりに、名前も付けてもらってないのに、日本に生まれ日本の主人を持つから日本びいきだとは言っている。猫がそんなに愛国熱に浮かれていてはおかしいとは言える。そういう条件を作って、その程度で済ませているのである。

 漱石文学そのものが、「日露戦争から第一次大戦まで」に書かれている。「日露戦後デモクラシー」とその反動の「冬の時代」の時期である。あるいは本格的に日本で「産業革命」が進み、「都市化」も進行した。そんな時期の、「都市知識人」の文学が漱石文学だと言える。都市インテリの立場から、新興ブルジョワジーの成金趣味をからかっている。その素朴な正義感が昔は痛快だった。

 だけど、今回読んでみて、案外内容がないのに驚いた。猫は猫だし、先生も引きこもり気味の胃弱だから、実際に成金金田家とほとんど交際がない。それで反発しているから、具体性があまりない。それはともかくとしても、金田夫人の鼻だけを特筆大書して、「鼻子」「鼻子」と罵倒している。猫なんだから人間を外面的特徴で把握しても不思議はないわけだけど、今の基準で言えばまずいのではないか。いかに成金攻撃としても、本人にどうしようもない身体的特徴をからかうのは、趣味が良くない。

 そういう悪趣味性は、例の寒月君の「首くくりの力学」にも言える。鼻子もそうだけど、この寒月のエピソードは昔は笑ったものである。子どもには面白かったのである。こんなおかしな研究もありうるのか。そういう面白さを感じて、よく覚えていたんだけど、今の日本で「自殺」を論じるにはデリカシーが欠けていないか。そういう目で見れば、ジェンダーや階級に関するバイアスもかなり目に付くのである。どうも登場人物の議論が時代に取り残されたのかも…。

 ということで、案外面白くなかったのだが、それはこの小説の構造にも原因があると思う。登場人物たちの様々な葛藤が衝突しあう、いわゆる「本格小説」ではない。小説はいろいろあってもいいけど、ストーリイで読ませるタイプなら、内容に没頭できれば今も面白い。「猫」も半分ぐらいはいろんな「事件」が起こっている。人間もそうだけど、猫も活躍している。でも後半になるにつれ、猫が人間の話を聞いて祖述しているとしても、作者が前面に出て語っているような感じが強くなる。

 「サロン小説」という感じである。そこに登場する人物は、美学者や理学者、詩人や哲学者などと様々だから、そこに「論争」が起こる。とはいえ、大きくは作者と似たような階層の「都市知識人」に限られている。そういう狭さが小説をつまらなくしてしまっている。敵役の「金田家」だけが大きくなって、隣の中学生の悪さも金田家が後ろで糸を引いていることになっている。そこらへんの「社会性のなさ」が困るのである。ギリシャ文化に詳しい知識人よりも、日本社会にとっては「実業家」の役割の方が大きい。その実業家の実態が暴かれず、単にからかいの対象になっているのも弱点。まあ、やはり出発点であり、好評につき書き足していったのが、構成の難につながっているのだろう。
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「籠池証言」をどう考えるか②中身編-森友学園問題⑦

2017年03月27日 21時35分39秒 | 政治
 籠池証言をめぐっては、一方では「まったく何も出なかった」という人もあれば、「驚くべき証言が相次いだ」という人もいる。どっちも、ある意味では正しいのだと思うけど、「国有地払下げの経緯は明確にならなかった」などという人がいるのは理解できない。一方(買った側)しか呼ばないで、問題を解明できるわけがない。近畿財務局関係の人も喚問して、さらに追及するべきだろう。

 ただ、とにかくはっきりしたことはいくつかある。今まで「疑惑」と呼ばれるスキャンダルはいろいろあったが、受益者側が政官界に「広義のわいろ」を贈るのが普通である。「わいろ」でなくても、政治献金とかパーティー券を買うとか、なんらかの「金のつながり」がある。その見返りとして、政治家や官僚が影響力を発揮するというのが、疑惑の構図である。

 今回もそうなのかと当初は思っていた人が多いだろう。籠池理事長が政治家の誰かに、多額の政治献金を行っていたとか。ところが、今回はどうもそうではない。証言がどれほど正しいか、自分からわいろや闇献金を暴露する人はいないかも知れないけど、合法的な政治献金という話も聞かれない。森友学園にはそれほど資金的余裕がなく、むしろ「安倍昭恵名誉校長」とか「安倍晋三記念小学校」の旗印で金集めをしたかったという方が近いようだ。いつもと逆である。

 そうすると、国有地問題も「忖度」(そんたく)の有無ということになる。「忖度」という言葉は今回有名になってしまったけど、意味は「他人の気持ちをおしはかること」である。おしはかって相手に有利なように取り計らうことまでは、本来の意味には入ってない。だけど、まあそういうことがあったかどうか。

 今回、証言冒頭で「安倍首相夫人付きのファックス」が出てきた。この「夫人付き」という職員は経産省からの出向で、夫人側の表現では「秘書」となる。公務員の秘書がいるんだから、首相夫人が純粋な私人というのは無理がある。ファックスによれば、「夫人付き」が関係省庁に問い合わせをして、その結果を学園側に報告している。ただし、「ゼロ解答」だと首相は主張している。そういう風にも読めるけど、「今後も見守っていく」と明記している。また「夫人にも報告している」と明記している。

 これを「完全なゼロ解答」と取るのは、ちょっと無理がある。というか、ナイーブすぎる理解だろう。「政界中枢とつながりができた」と考えたとしても不思議ではない。ただし、そのファックスの段階(2015年11月)には、国有地売却の話はない。実際の売却は2016年6月のことである。

 安倍首相は「私や妻、事務所を含めて、国有地の売却に関わっていたとするなら、総理大臣も国会議員もやめる」と明言してきた。常識的に考えるならば、ここまで明確に言い切るのは、「実際に関与がなかったから」なんだろうと思う。(「首相の力で隠ぺいできる」という意味だと考えるのは、ちょっと無理だろう。)つまり、首相は元々、「国有地売却以前には関わっている」とする余地を残していたわけである。首相夫人付きの「問い合わせ」以後、何があったのか。それは財務省内部の問題である。

 首相側からすれば、「国有地売却に首相側が関わっていなかったことが証明された」というのが籠池証言なんだろうと思う。ど真ん中の直球ストライクかとも見えたものだけど、多分「ストライクゾーンぎりぎりのボール」だとされるだろう。国民側がそれでは納得できないと、内閣支持率が激減すれば状況は変わるだろう。だけど、各調査の傾向を見れば、確かに微減はしているけれど、まだ圧倒的に支持が多い。首相の説明に納得しているかという問いになると、納得していないという人が多いんだけど、支持率には激変が見られない。それが現実である。

 もう一つ、大きな問題として、「首相側の寄付金」問題がある。100万円を出したという例の話である。安倍首相側は「密室の中の話で、信ぴょう性がない」とするけれど、そういう風に言うのなら、安倍昭恵氏が国会で証言するべきだろう。自分から国会で証言したいというべきだ。そうじゃないんだから、現時点では「籠池証言の方が信ぴょう性がある」と認めざるを得ない。刑事罰のリスクを負っての証言なんだから。事実でないというならば、偽証罪で告発しなければならない。

 この問題はなんだかよく判らない。事実だとしても、それ自体は「以前は応援していた」という周知のことを改めて証明するだけである。だから、わざわざウソを言うとも思えないのだが、籠池証言はかなり詳細にわたっている。(しかし、そういうのが冤罪事件では怪しいんだけれど。)籠池証言が正しいのなら、「首相が国会で虚偽答弁を行った」ことになる。そうなると、これは国有地問題以上の大問題である。国会で国民の代表に対してウソ答弁を繰り返したとするならば、今後他の法案審議を行うことはできない。内閣提出法案の提出責任者が、堂々とウソをつくならば、国会で審議できない。
 
 今回聞いていて、籠池氏の「逆恨み」の対象は大阪府知事に向かっている。それはどうしてだろう。よほど、松井知事、あるいは「大阪維新」に引き立ててもらってきたのだろう。そうなると、安倍内閣の方針も、もしかすると「維新対応」だったのかもしれない。憲法改正を目指す安倍内閣は、IR(カジノ解禁)法案、あるいは2025年大阪万博への支持など、「維新対応」を積み上げてきている。もしかすると、その一環として、大坂で知事が支持している「森友」には配慮してやれということもあったのかと思う。
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「籠池証言」をどう考えるか①-森友学園問題⑥

2017年03月26日 21時11分13秒 | 政治
 3月23日に、森友学園理事長籠池泰典氏(64)の国会証人喚問が行われた。その時の証言をどう考えるべきか。長くなりそうだから、2回に分けて考えてみたい。僕はこの日は、最初の1時間程度は聞いていたんだけど、その後用事で外出した。だから直接聞いていた証言は少ないんだけど、後からニュースを見て追いかけた。証言内容は次回に回し、まずは「籠池氏をどう考えるか」から。

 僕は今まで、「なぜ申請を取り下げるのか」などで、一種の「出来レース」ではないかと書いてきた。しかし、この間の経過を見ると、僕の観測は間違っていたと思う。今回の国会証言に関しても、果たして実際におこなれるのか疑問に思ってきた。「刑事訴追を理由に証言拒否」「入院して病欠」「記憶がないと申し立てる」など、今までも国会証言を事実上逃げてしまうことも多かった。

 籠池氏はまぎれもなく「右翼」なんだから、最後は「国士」的にふるまい、すべての事実を自分で背負って、一人で懲役に行くべきなんじゃないか。僕がそういう可能性を考えても、不思議はないだろう。特に彼は「教育勅語」をよりによって幼稚園児に唱えさせていた。国家の一大事にあっては、自分を犠牲にして皇室につくせと子どもたちに教えていた。当然今回の事態にあっても、「逆恨み」なんかしていないで、自己一身を犠牲にすべきものだろう。

 今回の事態に対しても、「右翼陣営」が森友学園を救う動きはないのだろうか。つまり、「教育勅語」を幼稚園児に教え込むことを「素晴らしい」として称賛した人々は何をしているのか。「籠池は問題があるが、塚本幼稚園は救わないといけない」と考える人はいないのか。そういう人が出てきそうだったら、籠池氏もいろいろしゃべらずに、「裏取引」が行われただろう。僕は今までの経験から、そういう経過をたどる可能性もかなりあると考えていた。だけど、もうそれは不可能だろう。

 どうして、そうなったのだろうか。答えの一つは、森友学園の予想以上の「財務状況の悪さ」だろう。それを自民党が重点的に取り上げていたが、どこまで債務があるのか測りがたい感じである。規模は全然違うけど東芝と同じで、いかに右翼といえど、うかつには手助けに乗り出せないんだろう。だけど、そういう金の問題だけでもないように思う。

 一時は右派陣営でもてはやされても、それに見合うだけの有力な支持者や基盤がなかった。その「軽さ」こそが、規制緩和時代の「起業」には必要だった。今までにも何人も見てきた、もてはやされたあげくに捨てられた「軽いノリ」の「起業家」である。「右翼」だと思うから、右は右なりに「思想」に基づく「教育者」かと思ってしまうけど、多分ちょっと違うんだろう。

 籠池氏は「今も安倍首相は大好き」だけど「ウソはいけない」などと言っている。これはごく普通の政治的知識がある人には、理解不能だろう。ウソはいけないんだったら、もっとずっと前に安倍首相を信じられなくなるはずである。「平気でウソを付ける」のが、ある種安倍首相の能力ではないか。いま「悲願の憲法改正」にもう一歩というところまできた安倍首相に対して、事実がどうであれ、足を引っ張るなんて「保守」を名乗る人がすべきことなのか。右から見ればそうなるだろう。

 今まで様々の「疑惑」が取りざたされて、国会に呼ばれた人がいる。洗いざらいなんでもしゃべってしまえばいいのにと思うけど、そういう人はまずいなかった。籠池氏はまだ何か隠しているのかどうかは知らないけど、とりあえずの感じでは、「なんでもしゃべる」(3通の金額の異なる契約書があったことを除き)という気がした。こういう人は今までの感覚では「珍しい」と思う。だけど、今後は増えてくるんじゃないか。では言ってることが「真実」なのか。それは厳密に証拠によって証明できる「科学的真実」というよりも、「私の真実」に近いのかもしれない。

 今までは「言った言わない」になるようなことも、今では「メール」で残っていたりする。そういう時代である。そうなると、「記録がない」ということも、誰かが保身のために「ICレコーダーで録音していた」となるかもしれない。そう考えると、今後どんなことが出てくるか判らないだろう。もはや財政破たんが避けられない森友学園、今後「詐欺」や「偽証」で刑事事件化も予想できる籠池理事長。週刊新潮いうところの「死なばモリトモ」で、どんどん知ってることを何でも言えばいいだろうと思う。もうそれしか、籠池氏が歴史に名を残す道はない。それがどういう結果をもたらすか、誰にも判らないとしても。
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いま見るべき映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」

2017年03月24日 21時34分04秒 |  〃  (新作外国映画)
 ダニエル・ブレイク、59歳。イングランド東北部のニューカッスルで、40年間大工をしてきた。長いこと妻を介護し、看取った後で自分も心臓を悪くする。病気だから働けないし、医者からも働くなと言われているのに、なぜか継続審査の結果、雇用支援手当てを受けられくなる。「就労可能」とされてしまったのだ。だから、「職業安定所」に行って求職者手当の申請をせざるを得なくなった。

 ダニエル・ブレイク、あなたは素晴らしい。僕はあなたを尊敬する。自分の状況も大変だというのに、職業安定所で見かけた名も知らぬ子連れの若い女性に手を差し伸べた。彼女はロンドンから来たばかりで、バスの路線も判らなかった。下の子どもも大変で、面接の時間に30分遅刻したのである。どうしても給付金が必要なのに、「時間厳守は大切だ」として給付金は受け取れず、減額処分になる違反審査にかけると言われた。彼女は納得できず、つい言葉も大きくなる。

 そんな彼女を周りの人々は「見て見ぬふり」をしていたのに、ダニエル・ブレイクは思わず立ち上がる。おかしいじゃないか、ひどいじゃないか。彼女の話を聞いてやれと。なんでみんな黙って見ているんだ。誰にもできそうだけど、じゃあ、その場にいたら自分はできたか。今まで何度もそうだったように、その時も「なんか面倒そうな人たちだな」と見て見ぬふりをしたのではないか。

 もっとも、やはり声を上げた結果、二人とも追い出されてしまった。これ以上騒ぐと警察を呼ぶと言われて。だけど、その後、二人は知り合いになり、手助けしあえるようになる。本当に? 人間は一番肝心な時に、助けを求められない。一番助けが必要な時につい助けを求めて断られ、数少ない友人を失ってしまうのが怖いから。あるいは、そんなに困っていると知られて、自分の最後の誇りまでズタズタになってしまうのが怖いから。彼女の名前はケイティ。一度交わった二人の人生はどうなるか?

 イギリスを代表する映画監督、ケン・ローチ。80歳にして、満身の怒りを込めて現代社会を撃つ映画を作った。2006年の「麦の穂をゆらす風」に続いて、ケン・ローチに二度目のカンヌ映画祭パルムドールをもたらしのが、「わたしは、ダニエル・ブレイク」(I,Daniel Blake)である。これほど心から感動する映画には何本も出会えない。一貫して左派として活動し、イギリスの階級社会を描いてきたケン・ローチが、今もなお元気で素晴らしい映画を作った。これを見ずして、何を見るのか。

 映画、というかアート一般には様々な意味合いがある。社会派じゃなければダメというつもりはないけれど、特に多くの人に見てもらえる劇映画というジャンルには、非常に大事な役割がある。人々が「いま」の世の中について考えるきっかけとなり、自分たちの社会を考えることにつながる。そんな力を持つ映画も何本も作られてきたと思う。「わたしは、ダニエル・ブレイク」はそんな映画である。

 ダニエルは大工として生きてきて、パソコンは使えない。だけど、様々な申請書はウェブ申請のみとなっている。苦情もメールのみ。連絡用の電話番号にかけても、全然つながらない。1時間以上も待って、やっとつながって、苦情を言うと「コールセンターに言われても」となる。仕方なくパソコンの使い方を教えてもらうと、「マウスを画面の上で動かして」と言われ、実際にマウスそのものをディスプレイの真上で動かしてみる。やっと申請書を出して書き込んで送信すると、何かが間違っていてエラーとなる。何度もエラーになって、タイムアウトになってしまって申請はなかなかできない。

 いや、もう僕自身はもっとパソコンができる。若い人たちは、生まれた時からパソコンがあり、学校の授業でも教わる。だけど、もっと年長の世代はそうではない。見様見真似でパソコンを始めた時は、やっぱりそんなものだったから、フリーズしたり、エラーになった時の理不尽さは想像できる。ダニエルの場合、そもそも求職手当を申請すること自体がおかしい。だから、怒りに駆られるのもよく判る。そんなダニエルが自分の問題を抱えながら、ケイティ一家を手助けしようとする。困ってる隣人を手助けすることは当たり前じゃないかと言うように。でも、もちろんダニエル一人では世界を変えられない。

 経過そのものはいちいち書かないけど、非常にいろいろなことを考えさせられる。「フードバンク」のシーンは衝撃的。ケイティは通信制大学で学んでいたが、18歳の時に「運命の人」と思った人の子どもができる。(この子の父はアフリカ系である。)だけど別れた後で、また違う人の子どもを産んで、貧しいシングマザーとなった。下の子どもは発達障害で、なかなか集中できない。大家に雨漏りの苦情を言ったら追い出され、ホームレス施設に。そこも狭くて2年で限界に達し、ロンドンから遠いけど新しい土地を紹介された。でももう、電気代を払う余裕もない。貧困が人の尊厳を奪っていくことがよく判る。

 小さなシーンにも印象に残ることが多い。上の女の子の靴を安い接着剤でなおし、学校で壊れていじめられたという話。ダニエルは妻の介護で生活が夜型になり、夜にラジオを聞いている。それが「ラジオ深夜便」みたいな感じで、そこで流れていた曲が気に入って録音してよく聞いている。そんな細部が心に残る。でも、神ならぬ人がいかに努めても、結局はこうなるしかないのかという展開になっていく。そして最後のシーン、人がいかに生きるか、あらためて深い感動が心に残る。ダニエル・ブレイク、あなたの小さな勇気を忘れないでいよう

 ダニエル役はデイヴ・ジョーンズという人で、イギリスではそれなりに知られたコメディアンだという。実に存在感ある演技だけど、父親は大工だったという。ケイティはヘイリー・スクワイアーズという新人。ケン・ローチとしては、イギリスを舞台にした映画としては「ケス」と並ぶ傑作だと思う。社会派で通してきたケン・ローチだけど、近年は「エリックを探して」や「天使の分け前」など、ユーモラスな作品も多い。だけど、今回は「全身社会派」という感じだ。山田洋次やクリント・イーストウッドより、骨がある。

 なお、この映画の上映権のある30年間、「ダニエル・ブレイク基金」が活動していくという。映画の収益の一部を、貧困に苦しむ人々を援助する団体に助成する。でも、監督はチャリティ活動は一時的なもので、社会システムを変えるための政治的運動も欠かせないと述べている。東京ではヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、立川シネマシティで上映中。他の地域はホームページで確認を。
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「核」をめぐる大冒険、「アトミック・ボックス」-池澤夏樹を読む⑥

2017年03月20日 20時21分59秒 | 本 (日本文学)
 池澤夏樹「アトミック・ボックス」(角川文庫)は、ものすごく面白いドキドキ冒険小説だった。それと同時に、いまの日本で「核兵器」や「原発」をどう考えるべきか、非常に重要な議論を行う小説でもある。池澤夏樹に関しては、2月初めにまとまって記事を書いた。著者に関しては「池澤夏樹を読む①」を参照。その時に書いた「カデナ」「光の指で触れよ」「氷山の南」などは、一度読み始めたら止められない面白さの「冒険小説」である。今回の「アトミック・ボックス」もそれらに負けぬ大冒険小説。

 また、「アトミック・ボックス」は、「ポスト3・11小説」という、もう一つの意味を持っている。東日本大震災に関しては、大津波による死者に関しては「双頭の船」という小説を書いた。一方、原発事故に触発されたテーマを扱うのが「アトミック・ボックス」。2012年9月から翌年7月まで毎日新聞に連載され、2014年に単行本として出版された。2月に文庫化されたので早速買って、やっと読み始めた。

 舞台の大部分は瀬戸内海の島々。内容は「国家的陰謀」に関して、警察の目をかいくぐって東京を目指す、若い女性研究者の大冒険である。ある漁師が亡くなり、娘にCDに入った遺書と秘密のデータを残す。父の過去など何も知らなかったのだけど、漁師になる前の前半生に何か大きな秘密があるようだ。死後に「誰か」がその秘密を回収に来ることになっているが、「秘密」をそのままに葬っていいのかと悩んだ父親は、事前にコピーを取って娘に託した。そして、実際に回収に来た公安警察(意外な人物)に秘密を全部渡さずに、娘は逃げることにしたのである。

 この娘、宮本美汐は、高松の大学で講師をしている新進の社会学者という設定。「同性のゆかり」で若い時に民俗学者宮本常一に手紙を出したというのが効いている。そして離島に住む独居老人の話を聞き集め、論文にまとめて評価された。その時に知り合った老人たちに助けられながら、国家権力に抗い続ける。「村上虎一」という老人は、海賊村上水軍の末裔を自称し、権力を恐れない。

 他にも、父のところによく来ていた新聞記者、昔からの友人など、さまざまな人が出てきて助けてくれる。現在はケータイ電話(スマホ)なくしてはいろいろと不便である、あるいは現金はそれほど持たず、ATM(現金自動支払機)を利用することがほとんど。だけど、ケータイやATMを使えば一発で場所を特定される。自動車があったとしても、高速道路や主要国道にはNシステムなる監視カメラが整備されているのは周知のことである。これらを使わずに逃げることは可能なんだろうか。

 さて、その「秘密」をまったく書かないと先に進めないので、簡単に触れておく。それは80年代半ばに、秘密裡に「原爆開発のシミュレーション研究」が行われたというのである。コンピュータ研究者だった父は、その研究に携わった。父は完全にノンポリだったのである。完全に秘密を要求される、その研究はなぜか途中で止められる。その理由、今も秘密とされる理由は最後に明かされる。父は広島で体内被爆していたことを研究終了後に知る。そして「3・11」を迎え、人間は原子力とは暮らせないと考え、自分が当時何も考えずに研究に参加したことを罪だったと深く後悔した。67歳と若くしてガンになったことも罰と考え、データの扱いを娘にゆだねたのである。

 この小説は、最後に種が割れると、「冒険小説」というより「政治小説」になる。そして、原発をなぜ日本が放棄しないのか、保守政界の大物を通して語られる。非常にリアルで、なんだか本当にあったことのように思えてしまう。そういう意味で、単に面白いというだけでは読めない小説だ。むしろ、理系というか工学系に読んでほしい小説。池澤夏樹は物理学専攻だっただけあり、設定はリアルである。軍事研究をめぐって、研究者の倫理が問われる現在こそ、非常に重要な意味を持つ。

 この小説を読むと、瀬戸内海の美しさ、豊かさ、歴史的な重要性も印象的だ。実際にある島もいっぱい出てくる。主人公が住んでいた凪島(なぎしま)はフィクションらしいけど、本島犬島などは実際にあるし、印象的な「瀬戸内国際芸術祭」というアートの祭典ももちろん実際にある。行ってみたいなあと思わせる魅力である。主人公が連絡に使う時に「映画のロケで使った分校」というから、小豆島の「二十四の瞳」かと思うと、伊集院静原作「機関車先生」のロケというから、細部のこだわりがうれしい。

 小説としての面白さだけなら、「氷山の南」の方が上かもしれない。でも、完全に現実の日本を舞台にした「逃亡劇」という意味で、この小説のリアルさはすごい。こういう風にできるのか。と同時に、ここで提出されているテーマ設定が、まるで現実のように思えるのが不気味である。「原子力とどう向き合うか」という意味で必読。趣味と友人は大事だというのも教訓かな。
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背徳の官能-パク・チャヌク「お嬢さん」

2017年03月18日 21時28分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国のパク・チャヌク監督の新作「お嬢さん」は、すららしく面白いエンターテインメントの傑作だ。まあ、内容がかなり背徳的なエロスを描いているから、誰にもお勧めじゃないかもしれない。イギリスのミステリー作家サラ・ウォーターズの「荊(いばら)の城」の映画化で、舞台を日本統治下の朝鮮に移している。本来は、パク・チャヌクとかサラ・ウォーターズといった名前に反応する人向けだと思うけど、それで見逃してはもったいない映画。

 サラ・ウォーターズ(1966~)は、2003年、2004年と連続で「このミステリーがすごい」の外国部門1位となった。最初が「半身」(1999)、次が「荊の城」(2002)で、どっちもヴィクトリア朝時代を舞台に、壮大なミステリー世界を描いている。長くて読むのも大変な作品ばかりで、僕は次の「夜愁」まで読んで、次の「エアーズ家の没落」は積まれたままである。その中で、物語的に一番面白くて、読みやすいのが「荊の城」だろう。これを自国に移して映画化しようというアイディアそのものがすごい。

 1939年の朝鮮。広大な屋敷に、支配的な叔父と華族の令嬢・秀子が暮らしている。この叔父は、朝鮮人でありながら、日本に憧れ支配階級にもぐりこんだ人物で、書物に囲まれて暮らしている。その財産を狙って、詐欺師の「伯爵」が、孤児だったスッキを侍女として送り込んでくる。スッキの協力を得て、「お嬢様」 の心が伯爵に向くように仕向けて行き…。結婚したら、財産を換金して奪い取り、秀子は精神病院に送り込んでしまうという計画である。

 そうして、計画が成功したかに見えるところで、第一部が終わる。続いて、二部、三部と続くが、世界が反転するミステリーなので、ここでは筋は書けない。基本的には原作と同じだけど、ラストの方が違っている。(と書いてあるけど、僕は原作の細部を忘れてしまったので、よく判らない。)「だまし」とエロス背徳と官能の香りが全編を覆い、濃密な空間が広がっている。

 かなりのセリフが日本語で、韓国人俳優がかなり頑張って話している。違和感がまったくないわけでもないが、セリフがかなり「普通じゃない」ので、むしろ日本人観客の方が反応できるかもと監督は述べている。屋敷の地下で行われる秘密の会合、叔母に何があったのか、秀子とスッキの関係は、伯爵と秀子の間には何があるのか、謎が謎を生み、一瞬も目が離せない。

 場所を日本支配下の朝鮮に移したことで、だましあいの背後にある「偽者」性が、よりくっきりと浮かび上がっていると思う。「支配」と「被支配」というテーマが、登場人物どうしの複雑な関係に反映されている。何が真実なのか、「ホンモノ」は何なのか。しかし、そういうテーマ性を深読みするよりも、ひたすら美しい映像で展開される背徳的エロスに耽溺すればいいんだろう。

 主演の秀子はキム・ムニ(1983~)という女優で、ホン・サンス監督の映画などで知られるというけど、僕は初めて。ちょっと松たか子みたいなムード。スッキはキム・テリ(1990~)という新人で、素晴らしくいい。伯爵はハ・ジョンウ(1978~)で、「チェイサー」「暗殺」などに出ていた。(写真は紹介順)
  
 監督のパク・チャヌク(1963~)は、「JSA」(2000)が大ヒットし、「オールド・ボーイ」(2003)でカンヌ映画祭グランプリ。というのは映画ファンには周知のことだろう。「オールド・ボーイ」をはさんだ「復讐者に憐れみを」(2002)、「親切なクムジャさん」(2005)の「復讐三部作」が面白かった。その後も、「渇き」(2009)がカンヌ映画祭で審査員賞を取ったけど、ソン・ガンホが吸血鬼の神父って、そりゃあムチャでしょうと思ってしまった。ハリウッドでにコール・キッドマン、ミア・ワシコウスカ主演の「イノセント・ガーデン」も確か見たけど、全然面白くなかったと思う。韓国に戻って作った「お嬢さん」で久々の復活という感じである。クレジットを見ると、三重県でかなりロケされていた。
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大阪府、首相夫人、理財局その他-森友学園問題⑤

2017年03月17日 23時07分30秒 | 政治
 16日になって、突然23日に森友学園の籠池理事長を国会に証人喚問することになった。さて、それは果たして行われるのだろうか。どのような経緯で、こうしたことになったのか。様々な観測もあるようだけど、僕には確実なことは判らない。籠池氏は「安倍首相から夫人を通して寄付金100万円を受け取った」と発言している。それに対して、安倍首相は全否定している。

 まあ、そこらへんの問題は、今後の推移を見ていくことにしたいと思う。安倍首相は確かに「ウソをつくべき時はつける」人物だろうと思う。(確実にウソと証明されていることを堂々と述べ立てるドナルド・トランプのような人と「お友だち」になれる人である。)だけど、寄付金を出したからと言って違法じゃない。籠池氏の方が「安倍カード」で生き残りを図っていることも十分にあり得るだろう。

 ところで、「塚本幼稚園」を経営している「森友学園」の「籠池理事長」なんて言われると、どういう関係なんだろうと思う。このうち、東京だと土地勘がないけれど、「塚本」は大阪市淀川区の地名である。幼稚園は1950年に設立され、「学校法人森友学園」は1971年に設立された。その時の理事長は森友寛氏で、だから森友学園である。森友氏は1995年に68歳で亡くなったが、関西の幼児教育や珠算教育では知られた人だったらしい。森友寛氏の娘が籠池夫人である。そういう関係。

 その森友学園が小学校設立に乗り出そうと考えた。そのあたりことはまだよく判ってないことも多い。設置場所はどこでもいいけど、それ以前に大阪府から認可を受ける必要は必ずある。中央政府は2012年末から安倍政権だけど、大阪府はずっと「維新」が権力を握っている。具体的に言えば、2008年1月の知事選で橋下徹氏が当選した。その時は自民推薦、公明支持だったけど、やがて自民を離れて、2010年4月に「大阪維新の会」ができた。2011年11月に橋下知事が辞任して「大阪ダブル選」が行われ、知事に松井一郎氏、大阪市長に橋下氏が当選した。

 2015年1月に大阪府私立学校審議会が、小学校の設置認可を適当と認めた。その結果、校舎建設ができることになったわけだけど、この間の「政治責任」は大阪府にある。幼稚園の教育内容を含めて、あまりにもずさんである。そもそも「幼稚園しか経営していない学校法人」が、小学校に乗り出すことが基本的に問題だ。「義務教育」である小学校の教育が森友学園にまともにできるとは思えない。それなのになぜ、認可に向けて進んでいったのか。大阪に巣くう「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)を、この際徹底的にあぶりだすことが絶対に必要だと思う。

 ところで、この学園が作ろうとしていた「瑞穂の國記念小学院」。名前からして怪しげだけど、ここの「名誉校長」に、安倍昭恵氏が就任していた。2回も幼稚園の講演に行ってるんだから、言い訳は効かない。「教育勅語に基づく教育」に賛同していたのである。当然、夫の安倍首相も同じだろう。この「首相夫人」は、「公人」なのか「私人」なのか。政府の公式見解は「私人」ということになったようだ。そりゃまあ、公職に任命した経緯はないんだから、法的には「公人」じゃないんだろう。

 だけど、首相夫人には公務員のスタッフが付いていることが、今回明らかになった。何だ、そうだったのか。幼稚園での講演時にも同行していたというが、それは「公務」ではないという。でも、交通費は安倍夫人側が負担していた。それは問題だろう。「副業規定」かなんかに触れるんじゃないか。あるいは「接待」とか。公務員が相手持ちで、どこか(ゴルフとか)に行ったりしたら問題だろう。講演会は違うかもしれないけど、外形的には私的な時間の活動という点で同じだ

 だけど、首相夫人そのものが「私人」なんだったら、私人の私的行為に勤務時間も何もないから、公務員が私人の私的行為に協力するのは問題ではないのか。まあ、そういう細かい問題は別にして、首相夫人が今でも籠池夫人と「メールのやりとり」があった! 首相はそれを本質ではないというけど、そう言えるとしたら「名誉校長」をしていた時までだろう。夫が「しつこい」とまで言った相手、今もお騒がせ中の人に激励メールを送るか、普通。安倍昭恵氏も証人喚問が必要

 もう一つ、財務省の理財局関係者も証人喚問が必要だ。「理財局」なんて言われても、なんだかよく判らないけど、ここは国債、財政投融資、国有財産管理などを行っている。旧大蔵省から金融庁が分離された後、財務省では大臣官房以外には、主計局、主税局、関税局、理財局、国際局と5つしか局がない。歴代の理財局長がウィキペディアに出ているが、60年代後半から70年代にかけては、鳩山威一郎、相澤英之、橋口収、竹内道雄などの有名人がやっている。彼らは後職が主計局長で、理財局長はエリート街道だったのである。

 その後、理財局長で退官も多くなるけど、ここ3代は国税庁長官になっている。だから、今回の払い下げ時の迫田英典前理財局長、現国税庁長官は、特に栄転でも左遷でもないということだろう。この人は、山口県豊北町(現下関市)出身、つまり安倍首相の選挙区出身である。だから何だと言えば、まあその通りなんだけど…。だけど、きわめて狭い人的スケールの中で「ことが進行した」のである。

 安倍内閣では、官僚の人事を首相官邸で覆している。それぞれの省庁には、それまでの慣例的な官僚の出世の道筋がある。もちろん、そのような前例を守らないといけないということはない。民主党政権では、むしろ「政治主導」を前面に打ち出し、「官僚任せにしない」ことを求めていた。それが形だけ安倍内閣に受け継がれ、法制局長官人事のような強引なやり方がまかり通った。担当大臣が承認した人事を、官房長官が変更したことさえある。もちろん、法的には何の問題もない。

 だけど、安倍首相が「口利きも圧力もない」と言い切るのを見ると、むしろ「圧力をかける必要もないほど、官僚が政権にすり寄る」姿を見て取ることができるのではないか。今は詳しく書かないけど、加計学園問題を含めて、首相(周辺)と近い人が明らかに優遇されるのを、首相本人が悪いと思ってない。「なんか法に触れてるんですか」という態度である。

 韓国では同じように、「首相に近い人が優遇される」ことが弾劾された。まあ、刑事上の責任も認定されそうだけど。でも、法的な問題があるかないか以前に、首相の知人が優遇されていること自体に「道義的責任」がある。じゃあ、友人とゴルフもできないのか。「私人である妻」が「名誉校長」にも付けないのか。そうだと思うよ。そのぐらい「孤独」な地位が首相ではないんだろうか。(もちろん、半官半民的な国際友好団体や、知名度の高いボランティア団体なら、首相夫人が「名誉職」についても問題はないと思うが。)
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日本民芸館と駒場散歩

2017年03月16日 21時42分08秒 | 東京関東散歩
 昨日(15日)は相当に寒い日だったけど、シネマヴェーラ渋谷で昔の映画を見た後に、駒場まで散歩して日本民芸館を見に行った。東京のこっちの方はあまり知らないんだけど、地図を見ると歩けそうだ。東急文化村の前の道をひたすら行けば、東大駒場キャンパス。もう少し頑張れば、日本民芸館である。第2、第3の水曜、土曜には、西館(旧柳邸)が公開されている。そっちは見てないので、一度行ってみたかった。電車で行けば、井の頭線で渋谷から2駅が「駒場東大前」。歩ける範囲だった。
   
 昨年12月に柳宗悦を描く芝居を見て、柳宗悦に関しても記事を書いた。「柳宗悦をどう考えるか」である。それ以来、日本民芸館を再訪したいと思っていた。周辺は駒場公園や東大キャンパスで、これも前に見た「旧前田家本邸」(重要文化財、2018年9月まで工事のため休館中)もある。また近代日本文学館もある。なかなかいい道で見どころが多い。民芸館は気持ちのいい場所なんだけど、西館ともども写真不可なので、外観しか載せられないのが残念である。

 日本民芸館は、柳宗悦が収集した民芸品などを展示するために、1936年に開館した。その時に作られた部分(旧館)と石塀は、国の登録文化財に指定されている。柳自身が中心になって設計したものと言う。普通の美術館と違って、大きな部屋に展示物が広々と置かれている感じである。展示物の解説も少なくなっているが、それは見た人が自分の目でみてもらうためだという。だけど、外国人客も多いのに、日本語で簡単にあるだけなのは今ではちょっと問題ではないか。

 昔から何度か来ているけど、来るたびに「安らぎ」と「違和感」を覚える場所である。柳の思想・趣味を生かした「気持ちよさ」があるけど、同時に民芸につきまとう「これはどう評価すればいいんだろう」的な違和感もある。展示されているものの価値が測りにくいのである。僕には「いいとされているから、きっといいんだろう」ぐらいのものが多い気がしてしまうのである。
    
 中は撮れないけど、庭には小さな置物(道祖神みたいな)がいくつか置いてある。それも面白い。向かい側の西館(上の最初の写真、旧柳邸)も外観だけ。中へ入ると、公開部分は狭いけど2階にも上がれる。柳の書斎にも入れて、そこの本棚も興味深い。武者小路や有島武郎の全集、仏教関係の本、古事類苑がズラッと並んでいる。まあ、それほど珍しい作りではないから、柳宗悦に関心がない人が無理に見に来る必要もないだろうと思う。

 その前に、駒場キャンパスを通ると、ここはもとの「一高」である。その頃からの建物がかなり残っている。特に有名なのが、時計台のある「教養学部1号館」。1933年完成の旧一高本館である。他にも駒場博物館など、いろいろ見どころがある。時間の関係もあるけど、昨日は寒かったので、また別の機会にしようということにした。「一高ありき」という碑もあった。
 
 民芸館から歩いて駒場通りに出て、駅と逆に少し行くと「駒場Ⅱキャンパス」。ここにも昔の建物があり、入口真ん前の時計台がある「先端科学技術研究センター13号館」がよく見える。他にもあるようだけど、まあまたの機会ということで。
  
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教育勅語は「戦死ノスヽメ」-森友学園問題④

2017年03月16日 00時14分55秒 | 政治
 前に「『教育勅語』をどう考えるべきか」(2.25日)を書いた。その時点では、「教育勅語」に関する報道が不十分だったと思っていた。衆参両院で1948年に失効決議をしたこともほとんど取り上げられていなかった。その後、相当報じられるようになったけど、まだ不十分だと思うから追加して書きたい。

 「森友学園問題の本質」は何だろうか。「国民の財産である国有地が、不可解な経緯で払い下げられたことだ」という人がいるけど、それは違う。それは「結果」の方であって、それにつながる原因を作ったのは「教育勅語」なのである。「教育勅語を園児に朗読させている幼稚園がある。」普通の常識があれば、「それはおかしいだろ。そこには近づかないようにしよう」と思うはずである。

 だけど、「それは素晴らしい。そんな幼稚園があるのか」と「絶賛」した人々がいる。だから、首相夫人が2回も講演に行ったんだし、新たに開こうとする小学校の名誉校長になったのである。経営する幼稚園が「教育勅語」を表看板にしていたから、極右分子が寄ってきたわけである。というか、「愛国業界」で名を上げるためには、「教育勅語」は有効だろうという理事長のもくろみが当たったわけである。

 そこで「教育勅語」をきちんと理解しておくことが、この問題(だけに限らず、日本の教育問題全般)を理解するには重要になる。前回は書いているうちに長くなってしまい、最後の方が中途半端だった。そこでもう一回書くことにするが、まず、全文をコピーする。読まなくていい、というか、普通読めない。

 朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン。

 斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
 之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ
 明治二十三年十月三十日   御名御璽

 最初の方は全部つながっているんだけど、(誰も気づかないと思うけど)、「。」を入れておいた。「ちんおもうに、わがこうそこうそう、くにをはじむることこうえんに、とくをたつること、しんこうなり」と続く。これも「、」を入れないと、どこで切るかも判らないだろう。実際にはこれを一息で読む。意味は判らなくてもいいのである。「覚える」ことが目的なので。

 だから、昔の人はこれが判ったのか、すごいなあなどと思ってはいけない。確かに昔の人は、現代人より漢文の素養があったけど、小学生が判るはずがない。小林信彦「東京少年」(新潮文庫)を読むと、「夫婦相和シ」は「夫婦は鰯(いわし)」、「恭倹己レヲ持シ」は「狂犬おのれを嚙み」と思って聞いている。だから、「開戦の詔勅」に比べて、「教育勅語」は「おかしくて仕方がなかった」。何でおかしいかと言えば、一言で言えば、落語の「じゅげむ」だったからである。

 「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ…」と覚えるように、「ちんおもうにわがこうそこうそう…」とお経のように覚えるのである。そうだけど、「教育勅語」はすべての小学校に「おさげ渡された」。それをいい加減に扱ってはならないから、天皇・皇后の写真(御真影=ごしんえい)と一緒に、大切に保管する場所=奉安殿が作られた。そして、儀式のたびに、勅語を奉読した。学校が火事になって、奉安殿を守るために死んだ校長、あるいは奉安殿を焼いてしまった責任を取って自殺した校長もいた。

 教育勅語が言ってることは、簡単に言えば「天皇のために一身を捧げよ」ということである。「義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」は、戦争に行って皇室のため勇敢に戦えということである。戦争に行って勇敢に行動すれば、もちろん戦死するかもしれない。戦死を恐れて逃げ出しては、「義勇」とは言えない。つまりは「戦死を恐れるな」、もっと言えば「戦死ノスヽメ」である。まあ死なない方がいいんだろうけど、戦死を恐れてはいけない。そこまで勇敢に戦う兵士になれということである。

 ところで、この「教育勅語」は女子に対しては何を求めているのだろうか。大日本帝国憲法は、男子に兵役の義務を課していたけれど、女子にはその義務がない。しかし、「銃後を守る」ことは大切なんだから、女子は「よく婦徳を発揮し、兵士の夫や子を支えよ」などとあってもいいはずだ。多分、明治中頃の段階では、(小学校は女子も義務教育だったわけだけど)勅語を作った人の頭に中に「女性教育」という発想がなかったんだろう。

 さらに言えば、「皇祖皇宗」によって決まっているという問題がある。明治天皇が言っているのではないのである。(というか、もちろん明治天皇本人が書いたのではなく、何段階にもわたって政府部内で検討されて決まったものであるが。)「天皇制」においては、「天皇個人がエライ」のではなく、「天皇の中に神代の時代から流れている血」が尊いのである。だから、何か大事件があれば、今でも宮内庁の使者が今までの天皇の霊に報告に行く。そういう「天皇の先祖の霊」が、今を生きる子どもたちに道徳を教えているのである。それを「気持ち悪い」と思わず、「ありがたい」と思うわけである。

 稲田防衛相が「教育勅語」を誉め讃えているのはなぜだろうか。あるいは、そういう考えを持っていることが周知されている稲田氏を、安倍首相はなぜ政調会長や防衛大臣に起用するのか。自民党の憲法改正案はどういうものか。それは「天皇」を「元首」とし、「自衛隊」を「国防軍」とするものである。つまり、「天皇」のために「戦死」できる軍隊を構想しているわけである。

 親孝行とかの問題ではない。はっきり言えば大問題になるから言わないだけで、稲田防衛相は「教育勅語」が「戦死ノスヽメ」だから好きなんだろうと思う。戦後72年を迎えるけど、日本は(他の戦争に協力して死んだ人もいるけれど)戦死者は一人もいなかった。日本製の武器で死んだ人もいなかった。それは「誇るべきこと」なのか、それとも「恥ずかしいこと」なのか。多分安倍首相や稲田防衛相は、恥ずかしいことだと思っているのである。だから、「教育勅語」が好きなのだ。
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映画「バンコクナイツ」

2017年03月15日 20時50分19秒 | 映画 (新作日本映画)
 映像制作集団「空族」の冨田克也監督(1972~)の新作「バンコクナイツ」。182分もある大作で、どうもよく判らない点が多い。前作「サウダーヂ」(2011)は、地元山梨を舞台に「地方都市のリアル」を描き、高い評価を受けた。ナント三大陸映画祭グランプリ、毎日映画コンクール監督賞、キネ旬ベストテン6位だから立派なものである。でも、僕は理解できないところが多く、記事には書かなかった。

 今度の映画もよく判らないんだけど、とても面白かったし、3時間超の映画を見たという経験を残したい気もするから簡単に書いておきたい。(なお、僕が「判らない」という時は、映像のつなぎが理解できないということより、「耳」の聞き取りが付いていけない場合が多い。聴覚に弱さがあって、「静かな演劇」系が聞き取れないことがある。映画でも同時録音でリアルさを追求するセリフが(日本映画の場合)聞き取れないことがある。セリフが早すぎる場合も同様。)

 「バンコクナイツ」の場合の「判らなさ」は、筋道のあるような、ないような構成が大きい。だけど、それは魅力でもある。バンコクから、ノンカイへ、そしてラオスへと移りゆく映像。話主人公の女性ラックを狂言回しにするように、画面には様々の日本人やタイ人などが映りゆくように描かれる。かっちりした論理で構成された演劇的な映画ではなく、自由自在、融通無碍な映画な作りが面白い。

 基本的には、この映画はバンコクの日本人専門の歓楽街「タニヤ」を舞台にしている。そこにある店のナンバーワン「ラック」には、なじみの客がたくさんいるけど、それと別にビンというヒモがいる。でも、ある晩昔の恋人オザワ(冨田克也)と5年ぶりに再会する。ここら辺の人間関係が初めはよく判らないんだけど、バンコクにこういうところがあるのか。タイに限らず風俗街はあるし、それを目的に外国へ行く人はいるだろう。対応するセックスワーカーも当然いるだろうけど、この映画のように外国で女衒(ぜげん)のように暮らしたり、金もなくなり「沈没」するような情けない日本人が多数いるのか。

 オザワは元自衛官で、PKOでカンボジアに行った。その経験をいまだに引きずっているような人間だけど、当時の上官富岡にラオスの不動産調査を頼まれる。ラックの故郷はラオスの首都ビエンチャンの対岸(メコン川の向かい)ノンカイなので、ラックもオザワと一緒に故郷に戻って家族にあう。故郷では仲の悪い母と腹違いの弟妹がいる。ここで友だちとあったり、家族と食事をしたり…。オザワは道を歩いていると、昔のゲリラのような人と出会うが、どうも現実の人間ではないような…。

 「イサーン」(東北タイ)出身のアピチャッポン・ウィーラセータクンじゃないけど、どうもイサーンに行くと日本人監督でも現実を超越してしまうらしい。ラオスに行くと、オザワは連絡もなくなってしまう。タイ人の抱える現実は厳しいんだけど、日本人はタイ(や東南アジア諸国)に「桃源郷」を見て居ついてしまうものもいる。貨幣価値の圧倒的な差を背景に、「性の搾取」も可能だから、本国で浮かばれない日本人でも幻想に浸れる。そういう中で生きるラックたち貧しい女性、そして周辺の日本人の生態がリアル。

 いわゆる社会派ではなく、セックスシーンもほぼないと言っていい。音楽が魅力的で、特にノンカイの酒場で演奏される曲は魅力的だった。何かの結論を差し出してくる映画というよりは、これも「観察」するような映画だと思う。なかなか面白いけど、何しろ長いから、そうそう見るわけにもいかない。僕はやはりタイの文化や社会が好きで関心がある人向きかなと思う。それにしても、こうやって異国で「沈没」すると、今後どうなっちゃうんだろうと心配にもなるが、ある意味それも一つの人生か。
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なぜ申請を取り下げたのか-森友学園問題③

2017年03月13日 23時06分15秒 | 政治
 さあ、森友学園問題をもう少し書いておこう。3月10日に、この問題の様相は変わった。森友学園の籠池理事長が夕方に記者会見を行い、小学校の認可申請を取り下げたと突然発表したわけである。それは何故か、どういう意味を持つのか。すべては「小学校を作りたい」ということから始まっていたわけだから、これで「一件落着」なのか。とんでもない。そうではないし、そうさせてはならない。

 「3月10日」は「3・11」の前日である。これは初めから判っているから、各ニュース番組は準備を進めている。キャスターが前日ぐらいから現地入りしていたところも多い。そのうえ、数日前に「韓国憲法裁判所の大統領罷免の可否判断」が10日に出ることが発表された。罷免の可能性が高いと思われていたけど、どっちにせよ普通はこれがトップニュースである。

 さらにWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の一次リーグが始まっていた。日本は2連勝で前日までに1位通過を確定させていたが、必ずキューバ戦で勝つとは決まっていない。実際1点差だった。負けていたら、10日の中国戦にリーグ戦突破がかかっていた。さらに新横綱誕生で人気沸騰の大相撲が12日から開始だから、スポーツニュースもいろいろある時期である。

 ところで、驚くべし、7時のニュースのトップはパク・クネでも森友でもなかった。「南スーダンのPKO、自衛隊撤退へ」という突然の決定だった。「任務終了」というけど、南スーダンの治安状況は「安定」していると強弁し続けていた。稲田防衛相の答弁は、どう見てもよく判らないものだった。2015年の「安保法制」で可能になった「駆けつけ警護」が可能になったばかりだというのに、「任務終了」なのか。

 いまはPKOの問題を突き詰めて書かないけれど、案の定翌日の新聞はPKOや震災や韓国政局でいっぱいだった。それまで毎日のように一面トップだった森友学園問題は、相対的に小さく扱われていた。「それが目的か」とやはり思わないわけにはいかない。野党側が「森友隠し」というのもうなづける。このように「3月10日に、森友に撤退させる」という仕掛けがあったのだろうかと思われる。

 というのは、前日に大阪府の調査が入り、その調査のさなかに籠池理事長夫人が「大阪府職員をケータイカメラで撮る」という行為があり、結果的に「調査はできない」となっていた。調査の結果、認可につながるのなら、学園側がこんなことをするはずがない。仮に夫人が勝手に撮ったとしても、理事長なり他の家族が止めるはずだ。調査不能を受けて、翌日の新聞は「大阪府、小学校不認可へ」と大きく報じていた。僕が思うに、これは「撤退に向けた出来レース」だろうと思う。

 今報じられているニュースでは、建設費に関しては「3つの費用」があるらしい。その他、認可申請の書類に「虚偽」が含まれている可能性が高い。そういう風に私学審議会で認定されると、単に不認可というだけでなく、今後数年間の申請不可処分になる可能性が高い。そういう例としては、「幸福の科学」が申請した「幸福の科学学園大学」のケースがある。大川隆法の「霊言集」を大学で扱うなどが不適当とされ不認可になったが、脅迫めいた言辞があったとして2019年10月31日までは認可しないという処分がなされている。森友学園も同じようなことになったはずである。

 だから、申請取り下げは「現段階における一定の合理的判断」ではある。だけど、この間の経緯はマスコミや外国(つまり中国、韓国だけど)の「陰謀」だと、かなり本気で信じ込んでいるような籠池一家に、そういう合理的判断ができるのか。実際、取り下げによって、国は契約にある「買い戻し」条項に基づき、「森友の負担で更地にして、買い戻す」と言われている。学園側は、そういうことがあっていいのかと訴えている。応援メールが殺到していると称して、「全保守」に向け「愛国教育」を進めるわれわれがこんなことになっていいのかなどといった檄を飛ばしている。

 じゃあ、なんで取り下げたのか。僕が想像するには、「誰かが引導を渡した」のだろうと思う。「首相夫妻に取り返しのつかない迷惑をかけている。ことの是非はともかく、昔なら切腹ものだ」などと誰かがいう。「もう取り下げて、いったんあんたも退任しなさい」などと。そういう風に言ったかどうかは判らないけど、仮にそういうことがあるとすると、次はこうなる。「いずれ、その償いはするから、それまで謹慎していてくれ。国会等には呼ばれても行くなよ。」

 こういう風に動く人が、実際に保守政治の裏側に今もいるのかは知らない。具体的に話を進めた人はいなかったかもしれないけど、「互酬」で結びつく保守政治では、そういう論理で進むのではないかと思う。一度不認可処分を受けてからでは、もう取り返しがつかない。「潔く取り下げる」パフォーマンスは必須である。そうじゃないと、「もう取り下げられたんだから、いいじゃないか」と言えなくなる。政府からすれば、「他にもいろいろ問題はあるでしょ」と言いたいわけだろう。

 そういう風に考えると、この後にも「もう一波乱」が予想できる。それはどういう形を取るか、まだまだ思いがけぬ登場人物が現れてくるのではないかと思っている。まあ安易な予想は止めて、今後の推移を見続けていきたい。
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素晴らしきイタリア映画の世界ーネオ+クラッシコ映画祭

2017年03月12日 21時47分44秒 |  〃  (旧作外国映画)
 恵比寿ガーデンシネマで、11日から「イタリア ネオ+クラッシコ映画祭」というのが始まった。ネオレアリズモの映画、つまり「無防備都市」や「自転車泥棒」なんかは、今もあちこちで上映されることが多い。でも「わが青春のイタリア女優たち」として上映される5本の映画は、僕はもう二度と映画館では見られないんだろうなあと諦めていた映画である。こんな企画をやる人がいるのか。

 11日に、さっそくヴァレリオ・ズルリーニの「鞄を持った女」と「激しい季節」を見て、陶然となって帰還した。いや、素晴らしい。もう一人、マリオ・ボロニーニの「狂った夜」「汚れなき抱擁」「わが青春のフロレンス」も楽しみだ。イタリアにかつて、フェリーニやヴィスコンティという巨匠がいたことは知っていても、ズルリーニとかボロリーニとか名前を憶えている人もほとんどいないだろう。

 この中でボロリーニの「わが青春のフロレンス」は、71年のキネ旬4位になっていて、僕は当時見ている。匂い立つような世紀末のフィレンツェで、階級闘争の中を生き抜く若い夫婦を絵画のような映像美に描き出した映画。時々思い出して、この映画とか「エボリ」など昔見たイタリアの素晴らしい映画をもう一回見ることはできるんだろうかと思ったりした。それが簡単に実現しちゃんだから、世の中は面白い。でも、知らなきゃ見る人もいないだろうから、少し宣伝しておく次第。

 ヴァレリオ・ズルリーニ(Valerio Zurlini、1926~1982)は、56歳で亡くなってしまって今ではあまり知られていないだろう。でも「激しい季節」(1959)と「鞄を持った女」(1961)は、いずれも「年上の女」に憧れる若き男を情熱的に描き出した映画。今も力強い魅力を持っている。前者はジャン=ルイ・トランティニャン、後者はジャック・ぺランと「フレンチ・イケメン」を起用した点でも似ている。ちなみに、ヴィスコンティもアラン・ドロンを重用したけど、イタリア映画で有名になったフランス俳優は結構いる。

 「激しい季節」は、1943年のムッソリーニ失脚の日、海辺のリゾート、リッチョーネで戦争未亡人がファシスト幹部の息子と運命的な出会いをする。若者たちのようすと未亡人を取り巻くようすをていねいに描き出し、感銘深い。パッショネートな熱情は、戦時下の不穏と相まって、否応なく高まっていく。トランティニャンがファシズム幹部をやってる「暗殺の森」との類似点も興味深い。

 一方、「鞄を持った女」は、クラウディア・カルディナ―レが「だまされた女」で登場し、だました兄の16歳の弟が親切に対応しているうちに恋に落ちる。その若い恋の初々しさ。そして、カルディナ―レの庶民的というか、ちょっと「お品がない」感じの演技が素晴らしい。カルディナ―レは「山猫」が代表だけど、「庶民的」をウリにする美人だった。この映画は中でも一番魅力的に撮られている映画かもしれない。どっちの映画も音楽がステキで、50年代頃の良質の日本映画っぽい感じもある。

 他にも「イタリア式喜劇の笑み」としてアントニオ・ピエトランジェリ監督の映画が2本。これは全く知らないので書きようがない。「現代の巨匠パオロ・ソレンティーノの初期傑作」も2本。他にもやるけど、僕はズルリーニ、ボロリーニの映画が楽しみ。イタリア映画は全般的に好きなんだけど、このように二度と見れないと思っていた映画をやるのはうれしい。政治情勢や巨匠のアートではない、恋愛映画の傑作。そういうのも大事だろう。
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ステキな「?」の「ラ・ラ・ランド」

2017年03月12日 20時58分06秒 |  〃  (新作外国映画)
 他の問題に早く移るため、WBCオランダ戦を見ながら、頑張って二つの記事を書いてしまいたい。さて、まず話題の「ラ・ラ・ランド」を見たので、その話。この映画は評判になり大ヒットもしているけど、けっこう「どうなの?」っていう感想もあるようだ。僕もどっちかというと「」の方なので、書かなくてもいいかなとも思うけど、映画ファンなら見ると書きたくなる要素が多い。出来がいいのは間違いないから、やっぱりちょっと書いておくことにしよう。

 「ラ・ラ・ランド」(題名はロサンゼルスのことで、「夢の都」というような感じでいう言葉らしい)は、現代には珍しい本格的ミュージカル映画である。わざわざシネマスコープでフィルム撮影しているというから、念が入っている。そして、冒頭の渋滞する高速道路での、突然の大乱舞。こういうのがミュージカルのお約束なわけ。事前に情報として知ってたけど、それでもうれしい。

 そうして、主人公の男女が知り合い、移ろいゆくさまをロスの四季に描いていく。もっともロスだから、「四季」といっても、ニューヨークの場合ほど自然の季節感は感じられないけど。その間に、今までの映画などの「引用」というか「オマージュ」的な場面、あるいはジャズへのオマージュのようなシーンが続く。このあたりはもっと知識があれば楽しみが倍加するんだろう。「理由なき反抗」を見て、グリフィス天文台に行くシーンなど楽しい場面が多い。

 アメリカ映画の「ジャンル映画」として、西部劇とかミュージカルがあった。映画ファンなら無条件的に好きだと思う。逆に言えば、先住民の描き方など問題を感じつつも、やっぱり西部劇が好きだと言えるのが「映画ファン」だと思う。そういうのは70年ごろには、ほとんど絶滅してしまっていた。ミュージカルでも、「屋根の上のバイオリン弾き」のようなアート映画的ミュージカルはあったけど、もっと昔の能天気なミュージカルは、80年代以後にミニシアターで見たものである。

 ジーン・ケリーの映画もいいけれど、僕が好きなのはフレッド・アステアの映画。戦前に作られたモノクロ映画だけど、とにかくアステアの超絶タップが凄い。ストーリイもご都合主義で、ただ楽しいような映画が多い。日本人はそういうのを見て、アメリカ人は軟弱だとか悪口を言っていた。戦争が始まったら、先方から和平を申し出るとか幻想を抱いていたが、アメリカ人は全然「軟弱」じゃなかった。当たり前だ。アステア映画のような「洗練の極み」のような「遊び」を作る人々ほど芯が強い。

 「ラ・ラ・ランド」の行く末は、それなりにシビアでビターな後味。筋書きも、それなりにご都合主義だけど、でも成功すれば、それがいさかいにもつながる。もうそういう風にしか描けないんだろう。人種やジェンダーの描き方にはコードがある。昔なら女が男の夢を支えて、男が成功すればハッピーエンドになる。この映画でも、そういう風に話を作ることはできるけど、それじゃダメなんだろう。もっとトコトンご都合主義にすることもできるけど、それもできないということなんだろう。

 それならそれでいいんだけど、その場合は主演者の好み、あるいは主演者のダンス能力が映画を左右してしまう。主演がライアン・ゴズリングエマ・ストーンだと知った時から、僕は幾分かの心配があった。好き嫌いは言っても仕方ないけど、やっぱり娯楽映画の基本はそれ。エマ・ストーンは、「バードマン」よりはキレイに撮ってもらってるけど、やっぱりファニーな感じがする。演技はうまいと思うけど、無条件的に応援しようというのとは違う。映画の中でも、一人芝居を書いて上演してしまうなんて、アート的才能を発揮してしまうタイプになってる。

 ということで、現代はただ能天気にミュージカルを楽しめる時代ではないということがよく判る。そういうことで、ミュージカルとしても、ラブロマンスとしても、僕には「?」が多い展開なんだけど、それでも出来がすごくいいと思う。どこにも隙がない。こういう風に出来がいい映画は年に数本だろうから、映画ファンは見るべきだろうけど、後は好き嫌いのレベルの問題ということになる。

 監督は「セッション」のデミアン・チャゼル(1985~)で、32歳でアカデミー監督賞を得てしまった。前作「セッション」も評価されたけど、僕は好きになれないので書かなかった。才能的には素晴らしいものがある。今年の監督賞は、チャゼルの他、バリー・ジェンキンズ、ケネス・ロナーガン、ドゥニ・ヴィルヌーヴ、メル・ギブソン。俳優として有名なメル・ギブソンを除いて、一般的にはほとんど知らない若手ばかりだろう。日本もそうだけど、世代交代の波が来ている感じである。
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