さて、参院選の結果をあと二回書いておきたい。もちろん重要なのは、自民党と安倍政権のゆくえであり、あるいは民主党や日本維新の会が今後どのようになるのだろうかといった点だろう。でも、まあそういうことはいろんな人が書いてるし、当面国政選挙はないんだから、3年後にはどうなっているか。おいおい考えていけばいいだろう。僕が書きたいのは、もっと小さな党の話である。
小さな党は選挙区では当選が難しいが、比例区なら当選も不可能ではない。そう思うから今まで多くの党が比例区に候補を立ててきた。「女性党」のように何回も出てるけど一度も当選したことがない党もある。1983年に、それまでの全国区が比例代表区に代わった時に、当選者を出した党は9つあった。順に書けば、自民、社会、公明、共産、民社、サラリーマン新党、福祉党、新自由クラブ、第二院クラブである。今はなき小党を解説したい気もするが、長くなるから止める。
その後、新しく当選者を出した党を順番に書いておくと、86年に税金党、89年にスポーツ平和党、92年に日本新党、95年に新進党、新党さきがけ、98年に自由党、01年に保守党、07年に新党日本、国民新党、10年にみんなの党、たちあがれ日本、新党改革、13年に日本維新の会…ということになる。何十年も政治を見てきた世代には懐かしい名前が多いかもしれない。
今回、生活の党、新党大地、緑の党、みどりの風は議席を獲得できなかった。生活の党は岩手県では17パーセントを得ている。新党大地も北海道だけなら11.7%取っている。他の都府県ではすべて1パーセント未満なんだから、参議院比例区で立つのは無理がある。衆院比例区北海道ブロックならともかく。緑の党はちょっと成り立ちが別だが、生活、大地、みどりの風が社民党と一緒のグループを作ったら、単純に合算すれば6%ほどになり、2~3議席になっただろう。
それでもこれらの党は出ただけ存在感はあるわけで、舛添要一が自民党を出て作った「新党改革」は立候補も出来なかった。前回も当選できなかった国民新党は、役割が終わったとして解党してしまった。2010年参院選では、国民新党から出馬した長谷川憲正が40万6千票を得たが、国民新党全体では100万票ほどで議席に結びつかなかった。今回郵便局長会から自民党で出た柘植芳文は42万9千票で(自民党で個人票の1位である)、郵政票という意味では前回と同じだが、自民から出たので当選した。つまり、小党が生き残るのは大変難しいということである。「たちあがれ日本」は太陽の党を経て、今は日本維新の会として残っている。現職の中山恭子も当選した。「たち日」だけだったら1議席も厳しかったのではないか。
05年の郵政解散、09年の民主党勝利の後、自民党を離れて新しい政治グループを作る動きがいろいろあった。しかし、時間が経った今となってみると、ガマンして無所属で通しやがて自民に復党した方が賢かったのかもしれない。国民新党を作ったり、民主党に入ったりした人はほとんどが2012年の総選挙で落選してしまった。自民にいた当時は総裁候補と言われた舛添なども、離党後には政界に居場所がなくなってしまった。
民主党の政権運営を批判して離党したグループも、2012年衆院選と2013年参院選でほとんど消え去った。衆議院では「日本未来の党」の名前で当選した比例区の議員が少し残っているが。小沢一郎の神話も全く消え去ったと言えるだろう。これは何故だろうか。小沢自身に関しては、被災地を訪れるのが遅れたということにつきるのではないか。小沢自身の第4区は沿岸部を含んでいないが、それでも隣の選挙区に有力者がなかなか行かなかったということが岩手においても小沢神話の崩壊の始まりになったのではないか。かつての自由党には、新進党内の右派グループが結集した。小沢は当時は「普通の国」を主張し、グローバリズム的な「改革」を掲げていた。印象としては、当時の小沢「自由党」は、むしろ今の「日本維新の会」などに近い感じがした。いつのまにか、TPPと原発に反対する党のような感じで選挙に臨んでも、どうも今一つ信用できないということもあるのではないか。
「みどりの風」は何故当選できなかったのだろうか。候補者に新味がなかったのではないか。反原発ということで言えば、もっと大きな連合を作ることに全力で取り組まなければならなかったと思う。もともと、山形、埼玉、愛知、島根で現職を抱えていた。このうち代表の谷岡は比例区に回ったが落選。埼玉の行田邦子はみんなの党に移り当選した。「みどりの風」で選挙区に出た山形、島根は落選した。今さら一つ二つの選挙区で、反TPP候補が当選しても政権のTPP参加方針が変わるわけではなかろう。では、抵抗県と政権に見られるよりも、政権と直結した議員を誕生させ、いくらかでも有利な方策を探る方が良いのではないか。そう考えた有権者の方が多いということではないか。
民主党に反対して離党した時には、政権批判の世論をつなぎとめるのは自分たちだと思ったのだろうが、民主政権批判票は自民党に入れればいいのであって、より左の立場には向かわなかったのである。もともと自民、公明、共産以外は、地域に組織と言えるほどもものがない。それでも民主党は有力組合などの組織票が残っている。民主を離れた議員は、人気が落ちて見る影もない民主党からさえ離された票しか獲得できなかった。こうして見ると、自民党と民主党は「腐っても鯛」だったんだなあ。
いいか悪いかではない。小党が生き残るのは今の制度では難しい。ある程度当選して政党助成金を得ないと政治活動が困難なのが実情である。結局、政治家として生き残って仕事をしたければ、ある程度大きな党にまとまっていくしかない。ところがまとまるためには、自分のこだわりの政策を薄めなければならない。それが嫌なら、小さなグループで挑戦を続けるしかない。そうして小さくても存在しているのが新社会党だが、今ではほとんど存在感はない。今度は社民党そのものも非常に小さな党になりつつある。しかし、そうした今までの教訓を学ぶことはできるだろうか。多分できないのではないか。思想を持って立つ人々は小さなことにこだわるのである。また左でも右でも同じだが、関連の社会運動団体との関係が難しく、お互いにケンカしてきたようなグループはなかなか一緒にできない。でも、民主党と自由党が一緒になったほどのインパクトがあるまとまりを作れなければ、自民党一党体制がしばらく続くのではないか。(いや共産党があるではないか、あるいは「緑の党」のような党を育てていくべきだという意見もあるだろうが、それは次回に。)
小さな党は選挙区では当選が難しいが、比例区なら当選も不可能ではない。そう思うから今まで多くの党が比例区に候補を立ててきた。「女性党」のように何回も出てるけど一度も当選したことがない党もある。1983年に、それまでの全国区が比例代表区に代わった時に、当選者を出した党は9つあった。順に書けば、自民、社会、公明、共産、民社、サラリーマン新党、福祉党、新自由クラブ、第二院クラブである。今はなき小党を解説したい気もするが、長くなるから止める。
その後、新しく当選者を出した党を順番に書いておくと、86年に税金党、89年にスポーツ平和党、92年に日本新党、95年に新進党、新党さきがけ、98年に自由党、01年に保守党、07年に新党日本、国民新党、10年にみんなの党、たちあがれ日本、新党改革、13年に日本維新の会…ということになる。何十年も政治を見てきた世代には懐かしい名前が多いかもしれない。
今回、生活の党、新党大地、緑の党、みどりの風は議席を獲得できなかった。生活の党は岩手県では17パーセントを得ている。新党大地も北海道だけなら11.7%取っている。他の都府県ではすべて1パーセント未満なんだから、参議院比例区で立つのは無理がある。衆院比例区北海道ブロックならともかく。緑の党はちょっと成り立ちが別だが、生活、大地、みどりの風が社民党と一緒のグループを作ったら、単純に合算すれば6%ほどになり、2~3議席になっただろう。
それでもこれらの党は出ただけ存在感はあるわけで、舛添要一が自民党を出て作った「新党改革」は立候補も出来なかった。前回も当選できなかった国民新党は、役割が終わったとして解党してしまった。2010年参院選では、国民新党から出馬した長谷川憲正が40万6千票を得たが、国民新党全体では100万票ほどで議席に結びつかなかった。今回郵便局長会から自民党で出た柘植芳文は42万9千票で(自民党で個人票の1位である)、郵政票という意味では前回と同じだが、自民から出たので当選した。つまり、小党が生き残るのは大変難しいということである。「たちあがれ日本」は太陽の党を経て、今は日本維新の会として残っている。現職の中山恭子も当選した。「たち日」だけだったら1議席も厳しかったのではないか。
05年の郵政解散、09年の民主党勝利の後、自民党を離れて新しい政治グループを作る動きがいろいろあった。しかし、時間が経った今となってみると、ガマンして無所属で通しやがて自民に復党した方が賢かったのかもしれない。国民新党を作ったり、民主党に入ったりした人はほとんどが2012年の総選挙で落選してしまった。自民にいた当時は総裁候補と言われた舛添なども、離党後には政界に居場所がなくなってしまった。
民主党の政権運営を批判して離党したグループも、2012年衆院選と2013年参院選でほとんど消え去った。衆議院では「日本未来の党」の名前で当選した比例区の議員が少し残っているが。小沢一郎の神話も全く消え去ったと言えるだろう。これは何故だろうか。小沢自身に関しては、被災地を訪れるのが遅れたということにつきるのではないか。小沢自身の第4区は沿岸部を含んでいないが、それでも隣の選挙区に有力者がなかなか行かなかったということが岩手においても小沢神話の崩壊の始まりになったのではないか。かつての自由党には、新進党内の右派グループが結集した。小沢は当時は「普通の国」を主張し、グローバリズム的な「改革」を掲げていた。印象としては、当時の小沢「自由党」は、むしろ今の「日本維新の会」などに近い感じがした。いつのまにか、TPPと原発に反対する党のような感じで選挙に臨んでも、どうも今一つ信用できないということもあるのではないか。
「みどりの風」は何故当選できなかったのだろうか。候補者に新味がなかったのではないか。反原発ということで言えば、もっと大きな連合を作ることに全力で取り組まなければならなかったと思う。もともと、山形、埼玉、愛知、島根で現職を抱えていた。このうち代表の谷岡は比例区に回ったが落選。埼玉の行田邦子はみんなの党に移り当選した。「みどりの風」で選挙区に出た山形、島根は落選した。今さら一つ二つの選挙区で、反TPP候補が当選しても政権のTPP参加方針が変わるわけではなかろう。では、抵抗県と政権に見られるよりも、政権と直結した議員を誕生させ、いくらかでも有利な方策を探る方が良いのではないか。そう考えた有権者の方が多いということではないか。
民主党に反対して離党した時には、政権批判の世論をつなぎとめるのは自分たちだと思ったのだろうが、民主政権批判票は自民党に入れればいいのであって、より左の立場には向かわなかったのである。もともと自民、公明、共産以外は、地域に組織と言えるほどもものがない。それでも民主党は有力組合などの組織票が残っている。民主を離れた議員は、人気が落ちて見る影もない民主党からさえ離された票しか獲得できなかった。こうして見ると、自民党と民主党は「腐っても鯛」だったんだなあ。
いいか悪いかではない。小党が生き残るのは今の制度では難しい。ある程度当選して政党助成金を得ないと政治活動が困難なのが実情である。結局、政治家として生き残って仕事をしたければ、ある程度大きな党にまとまっていくしかない。ところがまとまるためには、自分のこだわりの政策を薄めなければならない。それが嫌なら、小さなグループで挑戦を続けるしかない。そうして小さくても存在しているのが新社会党だが、今ではほとんど存在感はない。今度は社民党そのものも非常に小さな党になりつつある。しかし、そうした今までの教訓を学ぶことはできるだろうか。多分できないのではないか。思想を持って立つ人々は小さなことにこだわるのである。また左でも右でも同じだが、関連の社会運動団体との関係が難しく、お互いにケンカしてきたようなグループはなかなか一緒にできない。でも、民主党と自由党が一緒になったほどのインパクトがあるまとまりを作れなければ、自民党一党体制がしばらく続くのではないか。(いや共産党があるではないか、あるいは「緑の党」のような党を育てていくべきだという意見もあるだろうが、それは次回に。)