日本の憲政史上、女性として初の衆議院議長となった土井たか子(1928~2014)が亡くなった。そう言えば、この人の名前をしばらく聞いてなかった。反原発、集団的自衛権容認反対等のデモがいっぱいあるけれど、デモの先頭とは言わずとも、メッセージぐらいは寄せてもいいはずなのに、全然名前を聞かないと思ったら、長い闘病で近しい人にも会わないようにしていたのだという。
この人に関しては、40代以上の人なら何事か語るべきことがあるのではないか。評価するにせよ、しないにせよ。日本の政治家でこれほど、さっそうとして、強い意気込みとリーダーシップを感じる人はいなかった、という時期がある。80年代後半の一時期である。自分が見てきた限りで、清新な魅力で国民の期待をものすごく集めた政治家としては、好き嫌いを別にして、田中角栄や小泉純一郎と並んで土井たか子の名前を挙げることができる。(田中角栄はあっという間に「転落」したが。)
土井たか子には「女性として初めて」がいっぱいある。1986年に、議席数では自民党に次ぐ日本社会党委員長に就任した。そこから、様々な「日本の憲政史上、女性として初めて」が始まる。あまり触れられていないが、「女性として初めて、内閣総理大臣指名選挙で指名を受けた」というのもある。えっ、首相になってはいないだろうと思われるだろうが、これは参議院でのことである。1989年夏、参議院選挙で自民党は大敗北し過半数を失った。当時の宇野首相は辞任し、後任の自民党総裁には海部俊樹が選出された。首班指名選挙が行われたわけだが、衆議院は海部俊樹を指名し、憲法の規定で衆議院の指名が優先するため海部内閣が成立したのである。だから、結局はムダに終わったと言えばその通りで、それが判っているから各野党(公明、民社、共産等もすべて)は政策協定もなく、指名選挙で「土井たか子」と書いただけである。しかし、それにしても今まで日本の歴史上で女性が首相の地位にもっとも近づいたのが、この瞬間だったのは間違いない。
この1989年参院選は、自民党が4点セットと言われる逆風に苦しんだ。リクルート事件、消費税、牛肉・オレンジの自由化問題、そして選挙中に大騒動になった宇野首相の「女性問題」である。これに対して、野党側は土井委員長の社会党を中心に「ダメなものはダメ」と攻め立てた。この言葉は、2009年の総選挙時の「政権交代」と同じような強い印象を有権者に与えたと言っていい。リクルート事件で、主要な政治家は大体首相になれる条件がなく(安倍晋太郎や宮沢喜一が典型)、竹下内閣の外相だった宇野宗佑に総裁の地位が回ってきたものの、まさか「女性問題」まで出てくるとは。この選挙は「党首力」が決め手になったのである。
しかし、この「成功」は社会党(社会民主党)にとって、大きな問題を残した面もあるのではないだろうか。社民党が「護憲」とともに「消費税反対」をウリにする政党になってしまった原因はこの時に由来するのではないか。消費税のないアメリカと違い、高率の消費税(と同じ大型間接税)があるヨーロッパの「福祉の充実した共助社会」こそが、ヨーロッパの社会民主主義が作ってきたもののはずである。しかし、日本の場合、「公約違反の大型間接税」という「出自の危うさ」がずっとつきまとっている。1986年に中曽根首相が「死んだふり」を続けて突然衆議院を解散、史上二回目の衆参同日選を強行した。この時に中曽根首相が「大型間接税は導入しない」と確かに公約したことを当時の日本人なら皆よく覚えていた。だから「ダメなものはダメ」というのは、「公約違反はダメ」ということだと思う。
89年参院選、90年衆院選のときの「マドンナ旋風」ももう忘れられているだろう。今振り返ってみると、その時の当選議員はほとんどがその後の政界に生き残れず、数人が民主党で一定の活躍をした程度で終わってしまった。地方選挙でもずいぶん女性議員が誕生したが、結局政治の世界を大きく変えることはできなかった。21世紀になってからは、むしろ右派の女性議員の方が「活躍」していることは周知の通り。でも、僕はこの問題はもっと長いスパンで見ていくべき問題だと思う。
いつの頃からか、中学や高校で「女子の生徒会長」が当たり前になってきた。それまでは、規約にも何にもないのに、「やっぱり生徒会長は男子」という「ガラスの天井」が多くの学校にあったのである。教師のなかにもあったし、第一に生徒の心の中にあったから女子は会長に立候補しないわけである。だんだん変わってきたけど、それは土井たか子委員長の誕生のことからではないか。各学校に「わが校の土井さん」「第二のおたかさん」などと言われる女子生徒がけっこういたはずである。それらの生徒も、今は40代前後の「アラフォー世代」である。しかし、もうしばらくすると、会社や官界で発言力が強くなったり、育児が一段落して地方議会選挙にどんどん出てきたりするはずである。それらの世代の女性が、「自分の若い頃に土井たか子さんという女性政治家がいて、女が総理大臣を目指してもいいんだと強い印象を受けた」と語り始めると思っているのである。そういう時代を、世代を超えて準備したというのが、土井さんの最大の功績なのではないか。
この人に関しては、40代以上の人なら何事か語るべきことがあるのではないか。評価するにせよ、しないにせよ。日本の政治家でこれほど、さっそうとして、強い意気込みとリーダーシップを感じる人はいなかった、という時期がある。80年代後半の一時期である。自分が見てきた限りで、清新な魅力で国民の期待をものすごく集めた政治家としては、好き嫌いを別にして、田中角栄や小泉純一郎と並んで土井たか子の名前を挙げることができる。(田中角栄はあっという間に「転落」したが。)
土井たか子には「女性として初めて」がいっぱいある。1986年に、議席数では自民党に次ぐ日本社会党委員長に就任した。そこから、様々な「日本の憲政史上、女性として初めて」が始まる。あまり触れられていないが、「女性として初めて、内閣総理大臣指名選挙で指名を受けた」というのもある。えっ、首相になってはいないだろうと思われるだろうが、これは参議院でのことである。1989年夏、参議院選挙で自民党は大敗北し過半数を失った。当時の宇野首相は辞任し、後任の自民党総裁には海部俊樹が選出された。首班指名選挙が行われたわけだが、衆議院は海部俊樹を指名し、憲法の規定で衆議院の指名が優先するため海部内閣が成立したのである。だから、結局はムダに終わったと言えばその通りで、それが判っているから各野党(公明、民社、共産等もすべて)は政策協定もなく、指名選挙で「土井たか子」と書いただけである。しかし、それにしても今まで日本の歴史上で女性が首相の地位にもっとも近づいたのが、この瞬間だったのは間違いない。
この1989年参院選は、自民党が4点セットと言われる逆風に苦しんだ。リクルート事件、消費税、牛肉・オレンジの自由化問題、そして選挙中に大騒動になった宇野首相の「女性問題」である。これに対して、野党側は土井委員長の社会党を中心に「ダメなものはダメ」と攻め立てた。この言葉は、2009年の総選挙時の「政権交代」と同じような強い印象を有権者に与えたと言っていい。リクルート事件で、主要な政治家は大体首相になれる条件がなく(安倍晋太郎や宮沢喜一が典型)、竹下内閣の外相だった宇野宗佑に総裁の地位が回ってきたものの、まさか「女性問題」まで出てくるとは。この選挙は「党首力」が決め手になったのである。
しかし、この「成功」は社会党(社会民主党)にとって、大きな問題を残した面もあるのではないだろうか。社民党が「護憲」とともに「消費税反対」をウリにする政党になってしまった原因はこの時に由来するのではないか。消費税のないアメリカと違い、高率の消費税(と同じ大型間接税)があるヨーロッパの「福祉の充実した共助社会」こそが、ヨーロッパの社会民主主義が作ってきたもののはずである。しかし、日本の場合、「公約違反の大型間接税」という「出自の危うさ」がずっとつきまとっている。1986年に中曽根首相が「死んだふり」を続けて突然衆議院を解散、史上二回目の衆参同日選を強行した。この時に中曽根首相が「大型間接税は導入しない」と確かに公約したことを当時の日本人なら皆よく覚えていた。だから「ダメなものはダメ」というのは、「公約違反はダメ」ということだと思う。
89年参院選、90年衆院選のときの「マドンナ旋風」ももう忘れられているだろう。今振り返ってみると、その時の当選議員はほとんどがその後の政界に生き残れず、数人が民主党で一定の活躍をした程度で終わってしまった。地方選挙でもずいぶん女性議員が誕生したが、結局政治の世界を大きく変えることはできなかった。21世紀になってからは、むしろ右派の女性議員の方が「活躍」していることは周知の通り。でも、僕はこの問題はもっと長いスパンで見ていくべき問題だと思う。
いつの頃からか、中学や高校で「女子の生徒会長」が当たり前になってきた。それまでは、規約にも何にもないのに、「やっぱり生徒会長は男子」という「ガラスの天井」が多くの学校にあったのである。教師のなかにもあったし、第一に生徒の心の中にあったから女子は会長に立候補しないわけである。だんだん変わってきたけど、それは土井たか子委員長の誕生のことからではないか。各学校に「わが校の土井さん」「第二のおたかさん」などと言われる女子生徒がけっこういたはずである。それらの生徒も、今は40代前後の「アラフォー世代」である。しかし、もうしばらくすると、会社や官界で発言力が強くなったり、育児が一段落して地方議会選挙にどんどん出てきたりするはずである。それらの世代の女性が、「自分の若い頃に土井たか子さんという女性政治家がいて、女が総理大臣を目指してもいいんだと強い印象を受けた」と語り始めると思っているのである。そういう時代を、世代を超えて準備したというのが、土井さんの最大の功績なのではないか。