尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・土井たか子

2014年09月29日 23時11分17秒 | 追悼
 日本の憲政史上、女性として初の衆議院議長となった土井たか子(1928~2014)が亡くなった。そう言えば、この人の名前をしばらく聞いてなかった。反原発、集団的自衛権容認反対等のデモがいっぱいあるけれど、デモの先頭とは言わずとも、メッセージぐらいは寄せてもいいはずなのに、全然名前を聞かないと思ったら、長い闘病で近しい人にも会わないようにしていたのだという。

 この人に関しては、40代以上の人なら何事か語るべきことがあるのではないか。評価するにせよ、しないにせよ。日本の政治家でこれほど、さっそうとして、強い意気込みとリーダーシップを感じる人はいなかった、という時期がある。80年代後半の一時期である。自分が見てきた限りで、清新な魅力で国民の期待をものすごく集めた政治家としては、好き嫌いを別にして、田中角栄小泉純一郎と並んで土井たか子の名前を挙げることができる。(田中角栄はあっという間に「転落」したが。)

 土井たか子には「女性として初めて」がいっぱいある。1986年に、議席数では自民党に次ぐ日本社会党委員長に就任した。そこから、様々な「日本の憲政史上、女性として初めて」が始まる。あまり触れられていないが、「女性として初めて、内閣総理大臣指名選挙で指名を受けた」というのもある。えっ、首相になってはいないだろうと思われるだろうが、これは参議院でのことである。1989年夏、参議院選挙で自民党は大敗北し過半数を失った。当時の宇野首相は辞任し、後任の自民党総裁には海部俊樹が選出された。首班指名選挙が行われたわけだが、衆議院は海部俊樹を指名し、憲法の規定で衆議院の指名が優先するため海部内閣が成立したのである。だから、結局はムダに終わったと言えばその通りで、それが判っているから各野党(公明、民社、共産等もすべて)は政策協定もなく、指名選挙で「土井たか子」と書いただけである。しかし、それにしても今まで日本の歴史上で女性が首相の地位にもっとも近づいたのが、この瞬間だったのは間違いない。

 この1989年参院選は、自民党が4点セットと言われる逆風に苦しんだ。リクルート事件消費税牛肉・オレンジの自由化問題、そして選挙中に大騒動になった宇野首相の「女性問題」である。これに対して、野党側は土井委員長の社会党を中心に「ダメなものはダメ」と攻め立てた。この言葉は、2009年の総選挙時の「政権交代」と同じような強い印象を有権者に与えたと言っていい。リクルート事件で、主要な政治家は大体首相になれる条件がなく(安倍晋太郎や宮沢喜一が典型)、竹下内閣の外相だった宇野宗佑に総裁の地位が回ってきたものの、まさか「女性問題」まで出てくるとは。この選挙は「党首力」が決め手になったのである。

 しかし、この「成功」は社会党(社会民主党)にとって、大きな問題を残した面もあるのではないだろうか。社民党が「護憲」とともに「消費税反対」をウリにする政党になってしまった原因はこの時に由来するのではないか。消費税のないアメリカと違い、高率の消費税(と同じ大型間接税)があるヨーロッパの「福祉の充実した共助社会」こそが、ヨーロッパの社会民主主義が作ってきたもののはずである。しかし、日本の場合、「公約違反の大型間接税」という「出自の危うさ」がずっとつきまとっている。1986年に中曽根首相が「死んだふり」を続けて突然衆議院を解散、史上二回目の衆参同日選を強行した。この時に中曽根首相が「大型間接税は導入しない」と確かに公約したことを当時の日本人なら皆よく覚えていた。だから「ダメなものはダメ」というのは、「公約違反はダメ」ということだと思う。

 89年参院選、90年衆院選のときの「マドンナ旋風」ももう忘れられているだろう。今振り返ってみると、その時の当選議員はほとんどがその後の政界に生き残れず、数人が民主党で一定の活躍をした程度で終わってしまった。地方選挙でもずいぶん女性議員が誕生したが、結局政治の世界を大きく変えることはできなかった。21世紀になってからは、むしろ右派の女性議員の方が「活躍」していることは周知の通り。でも、僕はこの問題はもっと長いスパンで見ていくべき問題だと思う。

 いつの頃からか、中学や高校で「女子の生徒会長」が当たり前になってきた。それまでは、規約にも何にもないのに、「やっぱり生徒会長は男子」という「ガラスの天井」が多くの学校にあったのである。教師のなかにもあったし、第一に生徒の心の中にあったから女子は会長に立候補しないわけである。だんだん変わってきたけど、それは土井たか子委員長の誕生のことからではないか。各学校に「わが校の土井さん」「第二のおたかさん」などと言われる女子生徒がけっこういたはずである。それらの生徒も、今は40代前後の「アラフォー世代」である。しかし、もうしばらくすると、会社や官界で発言力が強くなったり、育児が一段落して地方議会選挙にどんどん出てきたりするはずである。それらの世代の女性が、「自分の若い頃に土井たか子さんという女性政治家がいて、女が総理大臣を目指してもいいんだと強い印象を受けた」と語り始めると思っているのである。そういう時代を、世代を超えて準備したというのが、土井さんの最大の功績なのではないか。
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「誤報」を恐れず「未報」を畏れよ-朝日問題⑧

2014年09月29日 00時19分43秒 | 社会(世の中の出来事)
 例により長くなってしまったので、最後にまとめて書いてしまって、何とか今回で終りにしたい。最近の回で書いているのは、「朝日たたき」問題は日本の言論空間の今後を左右するような思想、政治的な問題だということである。だから、朝日新聞を取っているとかいないとか、朝日もつまらなくなったしどっちもどっちだとか、やっぱり謝罪が遅れたのは問題ではないかなどといったレベルの問題で語る問題ではない。「思想的事件」なんだから、そういう意味では一人ひとりが「旗幟鮮明」(きしせんめい=立場をはっきりさせる)を求められるのではないか。今回の対応を見ると、朝日以上に毎日新聞も心配。昨年末の特定秘密保護法の時は、朝日や東京より鮮明な反対論だったと思うのだが。

 朝日内部の対応については、首脳陣の内情などは判らないし、関心もない。朝日であれ、他の新聞、雑誌であれ、今回の「朝日たたき」を見て、「敗走」してしまうか、「雌伏」の選択をするか、それとも「再出発」の狼煙を上げるか。僕の基本的立場は幕末の長州藩、第一次長州戦争後を思い出すということにつきる。一端は「恭順やむなし」が藩論となった時に、一人でも立ち向かい決起した高杉晋作のような人物がいて、初めて近代日本は成立した。広がる格差と差別の中で、一人でも「奇兵隊」を起ち上げる覚悟があるか。新聞というのは、やはり「奇兵隊」でなくてはならない。大所高所から読者に「お説教」するようになったらおしまいである。

 でも朝日新聞も、いつの間にか日本のマスコミの中でも一番の「エリート集団」になってしまった。そう言われるし、やっぱり入社試験突破も大変になると、野人臭よりエリート臭が強くなってきたのではないか。世の中全般がそうなってきたし、どこの社もそうかもしれないが、「トップ企業」としての朝日には「頭が高い」といった批判がつきまとう。僕が個人的に接してきた限りでは、記者の一人ひとりは優秀なんだろうけど、電話やネットでの対応などは確かに「守り」中心という感じを受けることもある。

 新聞は「野党」でなければならない。これは具体的な野党支持ということではない。米英みたいに、大部数の大衆紙と少部数の高級紙に分かれ、政党支持もはっきり打ち出す社会もある。しかし、日本では少数派である新聞でも、100万部を超える部数を持つ。政党支持に関しては「不偏不党」を打ち出さざるを得ないだろうけど、「社会の批判勢力」であり、「世の中に警鐘を鳴らす」役目を果たすから、存在意義がある。マスコミの存在そのものが「社会の野党勢力」であるべきだ。

 産経新聞は、2009年の総選挙の民主党勝利後に、公式ツイッターで「産経新聞が初めて下野」と思わずつぶやいてしまった。もちろんこれは取り消されたけど、やはり「ホンネがもれた」というものだろう。このように自己を政権党と一体化させている新聞では困ると思うのである。集団的自衛権だって、原発だって、世論調査では反対の方が多いんだから、基本政策を支持したとしても、進め方をめぐって「もっと丁寧な説明を」とか「もっとゆっくり進めよ」とか言わないと新聞ではないと思う。靖国問題でも産経は一紙だけ賛成の社説を掲載している。読売も日経も批判的なのである。このように朝日だけでなく、読売や日経にも「安倍首相を止める力はない」わけだから、所詮マスコミの影響力はそんなものと思うべきかもしれない。

 僕は「誤報」以上に重大な間違いは「未報」だと思う。「未報」は「未だ報ぜず」である。問題が大きくなったら報道するが、それまでは報道しない。これは再審・冤罪問題をめぐる報道ではよくあることで、「ハンセン病問題」でも「拉致問題」でも同じ。これらは何かあれば報道される問題だけど、本当の問題は「問題として意識されない」場合である。スポーツ面を例にとると、「高校強豪校の体罰問題」「大相撲の八百長問題」「Jリーグの差別問題」など、問題が起きてから報道するのではなく、もっと前からキャンペーン報道するべき問題だったのではないかというようなことである。多くの記者にとって、知らなかったというより、報道の対象として考えていなかったという問題ではないか。そういう問題は山のようにあるはずである。だから、僕は「誤報」以上に、新聞として報道すべき問題を報じていない「未報」が問題だと思うのである。それは「ネットに出ているのに」といったことではなく、「問題として意識されていない問題」を発掘することに、今後のマスコミの意義があると思う。

 ちょっと一般論になってしまった。朝日に投書が採用されたり、自分が関係する集会の記事を朝日が掲載したこともある。テーマによるんだろうけど、朝日や毎日しか載せてくれないことが多い。僕個人は家に年寄りがいるので、朝日を変える意思はないけど、ここ数年の朝日はどうなんだろうと思うことがやはりあった。しかし、朝日は書評欄が充実している他、あまり言われていないけど、「追悼記事の充実」を挙げておきたい。最近で言えば、ローレン・バコールの追悼を山田宏一山口淑子の追悼を四方田犬彦が書いている。これはまさに「読みたい人が書いている」記事である。もう少し前で言えば、加藤和彦の追悼を北山修テオ・アンゲロプロスの追悼を池澤夏樹小沢昭一の追悼を永六輔…と人を得た追悼記事がいっぱい思い起こされる。近年のものをざっと調べてみれば、他にも若松孝二(宮台真司)、森光子(矢野誠一)、中村勘三郎(串田和美)、東松照明(荒木経惟)、大島渚(篠田正浩、吉田喜重、樋口尚文)、山口昌男(中沢新一)、辻井喬(上野千鶴子、藤井貞和)、大滝詠一(内田樹)、ピート・シーガー(なぎら健壱)、安西水丸(嵐山光三郎)…などといった具合で、これはやはり朝日ならではの名物と言ってもいいのではないか。
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「朝日はやっぱりスゴイ」考-朝日問題⑦

2014年09月26日 23時48分42秒 | 社会(世の中の出来事)
 前回に見たように、朝日新聞批判というのは、中央紙の論調を屈服させようという明確なプログラムをもって進められている「政治闘争」だと僕は考えている。だが、それは「有効」なものなのだろうか。何だか逆宣伝しているような気がするのは、僕だけだろうか。特に自民党なんか、国会最大党派であるにもかかわらず、「朝日が誤報を認めたから、河野談話を見直せ」などとすごいことを言い出した。そのトンデモぶりは、問題理解の頓珍漢性もあるけれど、それ以上に「政府の公式な官房長官談話を、いくら大新聞とはいえ、一民間企業の動向で変えちゃえとは何とも乱暴な」と思ったわけである。朝日新聞って、そこまですごいんだ!?
 落語風に言えば、こんな感じ。
 するってえと何かい、朝日新聞ってえのはお国より上なのかい?

 朝日新聞はこのように激しく攻撃され読者を減らすのだろうか。そういう報道もあるけれど、反朝日キャンペーンとして週刊誌の見出しになったりしているので、実際のところはよく判らない。僕の周辺で近年、「朝日を止めた」「朝日に変えた」という例をいくつか見聞きしているが、それを考えると問題理解に役立つと思う。「朝日を止めた」というのは、昔に比べて面白い記事が少ない、名物記者の名文ルポがほとんどない、論調もリベラルというより新自由主義に近くなっていないか、権力監視の気概が少なくなったのではないか…といった「リベラル層の離反」である。特に「3・11以後」は反原発報道に熱心な東京新聞に変えるかという人が一定程度いたと思う。この「離反しかけたリベラル層」は、しばらくは購読を止められなくなったと見ていいだろう。今朝日を見限れば、それは「産経や読売の論調を支持するのと同じ」だからである。朝日としては、この「永年ご愛顧のリベラル層」を今後も大事にしていかないといけない。

 一方、「朝日に変えた」というのは、どんな人だろうか。そんな人がいるのかと言われるかもしれないが、結構多いのではないか。それは「大学受験生を抱えた親」なのである。ここ数年、朝日の最大のウリは「大学受験に一番出題された新聞」ということだというのを知っている人は多いだろう。だから、最近朝日を読むようになったという高校生を僕は数人聞いたことがあるのである。これは今後変るだろうか。なかなか変わらないのではないか。大学教授に朝日読者のリベラル層が多いからというわけでもないだろう。一般記事ならどの社でもいいけど、論述試験に使いやすい文化面のエッセイ、評論などは、今までの執筆者とのつながりが維持できれば、朝日はやはり「一日の長」があるのではないか。このような一種の日本型クオリティ・ペーパー(高級紙)性を朝日新聞が持ってきたのは否定できない。逆に考えれば、今後も文化面の充実、執筆依頼者の充実を図り、政治的主張そのものではない「ちょっと社会のあり方を振り返って、世界や自己のあり方を考える」的なエッセイを充実させることが、朝日にとって最も重要なことなのではないか。

 もちろん、大きな方向として、高齢化の進行と人口減により、朝日も読売も…どこも皆減っていくことは避けられないだろう。デジタル新聞の有料読者も、若い層には増えるかもしれないが、もともと高度成長時代から長いこと読んできた高齢読者がデジタルに変わるわけがない。年金生活で少しでも節約したいところで、もともと新聞は止めようかなどと思っている読者も多いことだろう。そういう層がこの機会に、永年の朝日を離れるということも考えられる。その場合、一部の読者はより安い東京や産経に流れるかもしれないが、多くはこの機会に宅配新聞をやめることになるだろう。

 しかし、日本の場合、新聞は論調の違いによる政論紙というより、宅配制度による「便利さ」と文化、スポーツ等の「イベント業者」という面が大きい。宅配がなければ、一面トップを見て毎日変える人も多いだろうけど、朝晩(産経は朝だけ)食事時には新聞が来ているという利便性は何物にも代えがたいと僕は思う。そして、論調の違いはもう10年以上続いているのだから、「論調の違いで新聞を変える」人(どれだけいるか知らないが一定数はいるだろう)は、もう大体変えているのではないか。それに各新聞ごとに字体や記事の配置などのスタイルが少しづつ違っていて、慣れてしまうと他紙には多少の違和感があると思う。高齢層ほど、もう購読紙を変えたくない人が多いと思う。

 また、読売新聞のキラー・コンテンツは、読売ジャイアンツ箱根駅伝だろうが、正月は箱根駅伝を見るという人でも、アンチ・ジャイアンツだと読売を取るのをためらう。日本一の人気球団巨人と言えど、数で言えばアンチの方が多いだろうし、関西圏や中京圏では浸透しにくい。(ちなみに新聞社としてプロ野球を持っているのは、今は読売と中日だけだが、かつては毎日と産経も持っていた時代がある。)一方、朝日のキラー・コンテンツは何と言っても「夏の甲子園」だけど、こっちの方が日本社会では大きいのではないか。家族、親せきに野球部員がいればもちろん、有力校に生徒が通う親、地元校を応援するファンなども、地方大会報道が一番充実している朝日を、論調は別として一時的でも購読することは今でも多いだろう。(もっとも地方面のほとんどが地方大会の記事になる7月後半はやり過ぎだと思っている人も多いはず。優秀な記者が地方大会の事前取材に時間を取られ過ぎるのも、もったいない感じがする。)

 また、美術展の開催(招待券がもらえたりする)や様々な催し(祭り、フェスティバル等)の主催・後援、系列テレビ局と組んでの映画製作など、どんどん関連事業が幅広くなっている。スーパーやファミレスの折り込み広告も大部数の新聞の方がずっと多いから、そう言う意味でも読売と朝日は優位性を持っている。また出版事業に関しても、読売が子会社化した中央公論を含めて考えると一番充実しているとも言えるが、朝日は文庫、新書、選書と一揃い朝日の名前で持っているわけで、そういう事業を通して作家や学者とのコラボを作りやすい。ちなみに、朝日が戦争責任問題で他紙をリードする報道をしてきたのも、単に論調の問題というより、研究者との接点が系列の雑誌、選書等の執筆を通して多く持っていたということも大きいと思う。関連の旅行社の役割も最近は大きくなってきたと思うけど、朝日旅行の「日本秘湯を守る会」は、朝日全体のキラー・コンテンツになってきていると思う。

 最後に今、各新聞の部数はどのくらいあるかを紹介したい。徳山喜雄「安倍官邸と新聞 『二極化する報道』の危機」(集英社新書。ちなみに著者は朝日の記事審査室幹事とあるが、この著書は7月に脱稿されている。)に出ている数字を挙げると、以下のようになる。
 読売(986万部)、朝日(760万部)、毎日(342万部)、日経(288万部)、産経(167万部)、東京(52万部)=2013年4月現在、日本ABC協会調査。この日本ABC協会とは何かを調べてみると、新聞や雑誌の部数を調査する業界団体で、「Audit Bureau of Circulations」(部数公査機構)の略だそうである。今は中央紙だけを挙げたが、各地方ではブロック紙(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞がブロック紙三社連合、他に東北の河北新報、中国新聞を含める)や地方紙(新潟日報や信濃毎日新聞、京都新聞、神戸新聞など有力な新聞がある。戦時中の合同で一県一紙が多いが、沖縄には琉球新報、沖縄タイムズの2紙があり、県政に影響力がある)の方が読者が多いところがほとんど。TPPや集団的自衛権に関して、ブロック紙や地方紙はほとんどが「頑強な反対派」である。
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歴史の中の朝日新聞-朝日問題⑥

2014年09月25日 23時06分09秒 | 社会(世の中の出来事)
 朝日新聞問題を歴史的な文脈で考えてみたい。ウソも100回聞くと信じてしまう人が世の中にはいるらしいから、朝日新聞を「反日」とか、まあそれは極端すぎるとしても、「左翼新聞」などと思っている人もいるのかもしれない。もちろん、そんなことがあるわけもなく、朝日新聞は基本的にはずっと「体制内野党」的な立場にたってきた。というか、基本的に新聞というのは皆そういうものである。そうではない新聞が欲しいと財界が出資して全国紙となった産経などは別として、本来の問題は朝日ではなく、「読売新聞はどのようにして右派的論調に変容したのか」の方だろう。

 大新聞社というのは、大体国有地を払下げてもらって本社ビルを作っているし、販売網の維持や新聞用紙の手当など既存の社会、経済システムの中で存在している。だから、普段は政府批判をしていても、「最後には体制維持を優先する」ものだと昔から思われている。大新聞のことを左翼陣営はよく「ブル新」(ブルジョワ新聞)などと呼んでいたものだが、60年安保闘争の時の「七社共同宣言」などは、それを証明するものとも考えられる。これは朝日の笠信太郎などが中心となり、6月17日の各新聞に「暴力を排し議会政治を守れ」と題した共同宣言が掲載されたものである。(6・15の国会前衝突で樺美智子が死亡して大きな衝撃を与えたことを受けて作られたもの。日本経済、毎日、東京タイムズ、朝日、東京、産業経済、読売の7社が参加した。)

 大新聞のもとをたどると、朝日、読売、毎日などは、資本の推移があっても大体明治初期にさかのぼることができる。活版印刷技術が新聞発展の条件だが、それ以上に「ある程度自由な言論空間」がないと新聞は存在できない。新聞を読まなくても生きていけるわけだから、「新聞を必要とする」人々、つまり武力で政府に立ち向かうのではなく、言論で反政府活動を行う人々の存在が新聞を成立させる。わざわざ金を出して政府の言い分を読もうという人は少ないから、どうしても政府批判や高官のスキャンダルなどが新聞の売り物になる。だから自由民権運動は新聞で広まり、政府も対抗して讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例などで弾圧を強める。だから新聞の出自は反政府運動にある。

 とは言うものの、新聞を真に大きくしたものは、反政府運動である以上に「戦争」だった。これは世界共通で、1898年の米西戦争はアメリカのハースト系新聞の扇動によると言われる。日本でも日清戦争が始まると、各新聞は反政府の主張を一時おいて戦争報道に熱狂する。日露戦争なども同様で、大正デモクラシーの限界としてよく言われる「内に立憲主義、外に帝国主義」という言葉は新聞にも当てはまる。それでも、大阪から東京に進出した朝日新聞は、護憲運動や普通選挙運動などを熱心に支援した。そして大正時代中頃、寺内内閣時代に大阪朝日の白虹(はっこう)事件が起こっている。「筆禍」事件に発した言論弾圧で、詳しくはウィキペディア等で調べて欲しいが、右翼団体の反発・不買運動、反朝日キャンペーンなど、今回のケースと類似点が多くみられる。この事件で長谷川如是閑などが退社し、大阪朝日が屈服したことが、後の満州事変以降の戦争賛美報道につながったとも見られるので、非常に重要である。

 今年、夏目漱石の「こころ」連載100年ということで、改めて朝日新聞が再連載して注目を集めた。夏目漱石は1907年に東大講師を辞任して朝日新聞に入社して評判になった経緯がある。このように文化的な貢献が大きいために、戦前から朝日新聞は日本を代表する新聞と目されてきた。そのため、右翼から反発を受けることが多く、例えば2・26事件の時も反乱軍に占拠されたし、戦時中には反東条の意味がある中野正剛「戦時宰相論」を掲載して問題化した。このような戦前の「弾圧」は戦後になれば「勲章」になる。吉田茂(戦争中に反東条運動で憲兵隊に拘束された)や共産党(幹部の徳田球一や志賀義雄が「獄中18年」に耐えて釈放され英雄視された)などと同じである。朝日も戦時中には戦争報道を繰り広げたわけだが、それでも戦前の弾圧体験が戦後の朝日新聞に「信用」をもたらしたのは間違いない。

 戦後の朝日は国民感情に沿った「平和」と「進歩」を主な論調としてきた。それを最近は「リベラル」などと表現することが多いが、戦後社会では「進歩主義」という言葉の方が実態に合うのではないか。「進歩」を掲げるので、核兵器には反対しても一時期までは「原子力の平和利用」は「進歩」として支持した。一昔前までは「進歩的文化人」という言葉があって、自民党政府に反対する声明やデモを呼びかける作家、評論家、大学教授などをそう呼んでいた。「平和」(を重視する)意識はまだ残っているけれど、「保守」はマイナスで未来に向かう「進歩」がプラスという考え方はだんだん衰えたから、最近では「進歩的文化人」などといった、今思えば恥ずかしい表現はすたれている。それと歩を合わせるように、朝日の論調に対しても右からの批判が強くなってきた。

 そして、中央紙の一つとして、朝日新聞も論調もそれなりに変化してきたのではないか。例えば、消費増税やTPPは朝日も毎日も読売も「基本的に賛成」である。しかし、TPPには地方紙のほとんどは反対である。(東京新聞が反対なのは、東京新聞が中日新聞の子会社で基本的にはブロック紙、東京における地方紙という意識からではないか。)集団的自衛権などでは、よく知られるように「朝日・毎日・東京」対「読売・産経・日経」となる。一つ一つの問題で、各紙がどんな論調を取ろうと、それはもちろん自由である。しかし、このような「平和」問題における「二極構造」を考えると、先の消費税、TPP問題を考え合わせて想像すると、「あともう少し」と見えないだろうか。部数を考えると、朝日と読売が同じような論調になれば、おおよそのマスコミ、特に中央の新聞、テレビは従わざるを得ないのではないか。「あともう少し」というのは、今、朝日新聞を徹底批判し、屈服させ、論調を少しでも変えさせれることに成功すれば、「憲法改正への道も切り開かれてくる、そこまで、あともう少し」と安倍政権には見えているのではないかという意味であることはもちろんである。

 朝日だろうとどこの新聞社だろうと、個々の記者には様々な考えの人がいるから、もちろん左翼政党(及び新左翼党派)を支持する人もいただろう。一方、保守やノンポリの人もいる。(例えば、松島みどり現法相は朝日新聞記者出身である。)そういう個々の記者の様々な考えを別にして、経営首脳陣の考えはおおむね「体制内野党」=「自民党内のハト派」に近かったのではないかと思う。そう思うと、最近の朝日新聞に宮沢喜一、伊東正義、後藤田正晴、加藤紘一、河野洋平、古賀誠、野中広務などを取り上げる記事が多いような気がする。これらの政治家がやったことは、支持できないことがいっぱいあるように思っているけれど、確かにこれらの政治家が政府の中枢にいたならば、靖国神社に参拝するとか、集団的自衛権の行使などどいった問題は発生しなかったのではないか。「河野談話」が感情的に批判されている様子なども考えると、今の政治の「対立構図」は「自民党内の少数勢力だった右派勢力」が「自民党政治を作ってきた保守本流」を追い落とし、政治的発言権を最終的に奪ってしまうことを目指している、ということだろう。世界の状況を判っている「国際協調派」を追い落とし、「国粋主義」にまとめるという意味で、1930年代の国際連盟脱退や滝川事件、天皇機関説事件に近いムードが週刊誌の見出しだけ見ると存在する。これは明確に「戦争に向けた国づくり」の一環として計画されていたものではないだろうか。
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訂正を求めて謝罪を求めず-朝日問題⑤

2014年09月23日 23時15分51秒 | 社会(世の中の出来事)
 当初の「朝日たたき」の典型として、「誤報を認めたのに謝罪してない」というのがあった。これに対して、僕は異論がある。そもそも一般的な「何でも謝罪」の風潮がおかしいと思う。何でもかんでも謝れと詰め寄る「クレーマー社会」は息が詰まる。大学生が問題を超すと、成人にもかかわらず大学当局が謝罪会見を開いたりする。市役所の臨時職員が事故を起こすといった、成人市民が私的な時間で起こした問題にも市役所に抗議する人がいる。どこかおかしくないか。

 学校でも「いじめ」や「体罰」が問題になっているわけだが、ブログの記事で僕は「『減いじめ』は学校の目標ではない」や「『体罰』なきのみをもって『善し』とはせず」という記事を書いた。発想は似ていて、後者の記事をマネして言えば、「誤報なきのみをもって善しとはせず」となる。いじめや体罰が問題化すると、いじめや体罰をなくすことが、あたかも学校教育の目標であるかのごとく語る人が出てくる。新聞だって同じことで、誤報、誤報と騒ぎになると、ウソを書く新聞があっていいのか、誤報は許せないと叫ぶ人が出てくる。しかし、誤報がなければそれでいいのか

 学校で言えば、いじめも体罰もないけど、生徒も教師も管理されきって自主的なエネルギーも湧いてこないような学校を作ればいいのか。新聞も同じで、誤報もないけれど、何の面白みもない新聞では仕方ないではないか。誤報をしないだけでいいなら、官庁と警察の発表ものとスポーツの試合結果、そしてテレビ番組だけ載せていれば間違いない。実際、余計な人権意識や「社会の木鐸(ぼくたく=古代中国にあった大きな鈴。世の人を教え導く人の意味で使う)」意識が誤報を呼ぶんだから、そんなものはいらないということになりかねない。政府側の意識はそんなところではないか。しかし、それでは官報である。新聞批判が、「新聞の官報化」を推進するのか。

 吉田調書問題で、僕は「文脈理解」の重要性を書いた。その考え方はすべての問題にあてはまるから、慰安婦問題ならば「吉田証言」問題の文脈を丁寧に考えていかなくてはならない。また、「朝日批判」そのものの歴史的文脈もしっかりと考えなければならない。僕の考えでは、「吉田証言」も「吉田調書」も、しっかりとした検証が重要な問題であるとは思うが、社としての謝罪や社長の退陣に発展するような問題なのかと思う。何度も書くように、今は慰安婦問題は大きく取り上げないのだが、では「他紙はなぜ朝日ほど吉田証言を伝えなかったのか」という問題を提起すれば、各紙はどのように答えるのだろうか。それは「吉田証言に危うさを感じたから」ではないだろう。「慰安婦問題の重要性」を感知するほど、歴史感覚、人権感覚がなかったというだけではないのか。それは朝日もレベルは違えど似たようなもので、当初は大阪本社で報道しているだけだろう。

 僕がこういう風に書くのは、長いこと冤罪問題ハンセン病問題に関心を持ち続けてきたからである。ハンセン病問題は、2001年のハンセン病国賠訴訟の熊本地裁勝利以後は、水があふれるように各マスコミで報道された。しかし、特に1996年の「らい予防法」廃止以前はほとんど報道されてこなかった。冤罪問題に関しては、時々一審段階から裁判の問題を追及することもある。けれど、多くの場合は裁判で無罪、あるいは再審の開始決定が出るまではほとんど報道してくれない。だから、「古くから井戸を掘った人」、つまり他の人が書かないうちからしっかりハンセン病や冤罪問題に取り組んで記事を書いてくれた(テレビ報道をしてくれた)記者は、社を問わず関係者は名前を忘れない。

 特に冤罪問題の場合など、捜査当局ににらまれると、他の事件での情報収集にも影響が出かねない。警察、検察は有罪を主張しているので、冤罪主張を取り上げると、「誤報」であるかのように批判される。冤罪であっても、裁判所は認めず有罪判決になることも多い。そういう裁判で、冤罪可能性を報じると「誤報」になるのか。裁判所が無罪判決を出すと、「無罪病」などと誹謗する週刊誌もあるし、そういう週刊誌が今回朝日新聞を声高に批判している。そのような文脈で見てくると、一部週刊誌の朝日新聞批判は、誤報批判である以上に、「朝日新聞の報道姿勢=人権問題重視」を変えたいと願って強く批判しているのではないか

 「誤報」を避けるということだけを考え、各マスコミが委縮し、原発問題や歴史問題の報道に臆病になってはならない。しかし、実際は朝日新聞も少しづつ、「批判されないこと優先」にスタンスを移しつつあるのではないのか。群馬県の「群馬の森」に設置された「強制連行」碑の問題で、東京新聞は「強制連行」と書いているけど、朝日新聞は「戦時動員・徴用」としか書かなかった。これなどは、「正確を期す」というより「批判を避ける」という意識ではないか。そのように、「誤報と批判されないように」意識が広まっていけば、人権問題記事はほとんど書けなくなるのではないか。というか、もっと言えば、ほとんどの記事は書けないのではないか。

 僕が思うのは、教育と同じように、「報道機関」というものも単なる商品ではないということである。普通の商品だったら、確かに欠陥商品だったらクレームをつけるのは当然だ。しかし、教育における「消費者意識」が、学校を作っていく主権者意識を生まないのと同じようなことが新聞にも言えるのではないか。新聞は特に、読者が自分の考えを投稿して他の読者に読んでもらえる可能性があるというかなり特別の「商品」であり「メディア」である。一方的に謝罪を求めるというよりも、よりよき報道を求めるために「訂正」を求めるという方が重要ではないのだろうか。今回の「吉田調書」問題も、謝罪とか責任よりも、ではどういった報道がふさわしかったのか、当日の新聞を作り直して報道し直すということの方がずっと大切なのではないかと思う。そして、各新聞には是非、「誤報」とそしられることを恐れずに、権力犯罪や政府が隠そうとしていることに挑みつづけて欲しいと思うのである。
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池上コラム問題-朝日問題④

2014年09月22日 22時50分46秒 | 社会(世の中の出来事)
 「罪なき者、石を投げよ
 これは池上彰氏が週刊文春に連載している「池上彰のそこからですか!?」というコラムの第180回、9月25日号のタイトルである。読んでない人が多いと思うので、少し紹介しておきたい。池上氏はかつて「ある新聞社の社内報」にコラムを連載していた。コラムの中で「その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました。」経営トップが激怒したという情報が洩れてきたというが、その結果、年度途中で他の筆者(池上氏以外に4人いたという)全員の連載が終わってしまったという。池上氏は「新聞業界全体の恥になると考え」、この話を自分の中に封印してきた。「しかし、この歴史を知らない記者たちが。朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て、ここで敢えて書くことにしました。その新聞社の記者たちは『石を投げる』ことはできないと思うのですが。」

 新聞広告拒否問題も、「週刊現代」の広告を拒否した新聞があるではないかという。「週刊現代」は、新聞社の経営トップに関する記事を立て続けに掲載していていたという。表面的には「紙面にヌードが多くて品位に欠ける」という理由だったというけど、「ライバルの『週刊ポスト』も似たような紙面展開をしていましたが、こちらは広告が掲載されていました。」

 そして、「私が所属していた放送局」(NHKのこと)でも、こんなことがあったという。1981年2月、ロッキード事件5年の特集を組み、三木武夫元首相のインタビューを撮ったが、報道局長の指示で放送直前にカットされた。政治部長も社会部長も、各部のデスクも怒り、説明と放送を求めたが、結局放送されず、次の人事異動で皆異動したという。この問題は何となく覚えているが、一番最初の事例は社内報のことだから、外部の人間には判らない。文脈から考えて、朝日新聞を強く批判している新聞社のことなんだろう。

 池上コラム問題に関しても、一応解説しておきたい。(この経緯に関しては、週刊文春の9月18日号の連載に基づく。)池上彰氏は月末の朝刊に「池上彰の新聞ななめ読み」というコラムを持っている。ところが、先月末のコラムに関して、9月28日(掲載予定は30日)に、「掲載できない」との申し入れがあった。池上氏は、「編集権はそちらにありますから、私としてはとやかく言いませんが、今後の連載は打ち切らせてください」と言った。連載依頼時に「何を書いてもいいですから」と言われていたので、「その条件が一方的に破棄されたのですから、信頼関係が崩れたと判断しました。」

 このいきさつが、朝日関係者から伝わったらしく、翌週月曜日(9月1日)に「週刊新潮」から海外にいた池上氏に取材があった。続いて、「プレジデント」、翌日火曜日に「週刊文春」から取材された。週刊文春は「週刊文春デジタル」に載り、それがヤフートピックスに載って、各紙の取材攻勢が始まったという。後は大きな騒ぎになり、朝日新聞は掲載拒否(掲載見送り)の誤りを認め、4日付紙面に掲載した。また9月6日付紙面で「読者の皆様におわびし、説明します」という文章が一面に掲載された。(そこにはもう少し詳しい説明もあるが、今は省略する。)

 以上、問題の経緯に触れるだけで長くなってしまった。僕はこの話を聞いた時に、「朝日もずいぶんナーバスになっているんだな」と思ったけど、どんな内容か判らないので判断は保留した。この段階は原発事故の吉田調書問題の「誤報謝罪」以前で、池上氏がコラムで触れているのは「慰安婦報道検証問題」だけである。今詳しく書く余裕はないが、僕は慰安婦報道における吉田証言に関しては、多くの新聞の批判とは違う考えを持っている。だから、「池上コラム」を読まずに判断を下せない。

 池上氏の「新聞ななめ読み」に関しては、「一応ちょっと楽しみ」といった感じで毎月読んでいた。文章が判りやすく、朝日だけではなく他紙の報道を引用、解説、批判しているのが役に立つ。が、池上氏のスタンスは「判りやすく解説する」というものだから、この解説では判りにくい、不親切であるといった批判が多いように思う。だから、一読してすぐに忘れてしまう。僕が覚えているのは、ペルーのマリオ・バルガス=リョサが2010年にノーベル文学賞を受賞した時に、この人を知らなかったと書いていたことだけである。読んだときに「エエッ」と思ったので、これは覚えている。バルガス=リョサは邦訳も多いし、かなり知られている。作家としても知っていてもいいんじゃないかと思うけど、それよりこの人はアルベルト・フジモリがペルー大統領に当選した時の、決選投票の相手候補ではないか。知っててもいいんじゃないかと思ったわけである。

 結局、朝日に掲載されたコラムは、「慰安婦報道 訂正、遅きに失したのでは」と見出しがついている。結語の部分に、「自社の報道の過ちを認め、読者に報告しているのに、謝罪の言葉がありません。せっかく勇気を奮って訂正したのでしょうに、お詫びがなければ、試みは台無しです。」と書かれている。それは正しいのだろうか。その問題は次回に書くけど、朝日の検証報道しか取り上げていないこの「ななめ読み」に僕は大きな失望を感じざるを得なかった。これでは「朝日新聞だけ真っ直ぐ読み」である。もちろん、「真っ直ぐ読み」して批判してもいいのだが、それは池上「ななめ読み」に期待されていることではないはず。もっと他紙の検証批判を取り上げ、それを紹介することを通して、朝日の検証報道には不足があるのではないか、と書かれていたら…。それなら僕も理解できるし、朝日も最初から掲載したのではないか。

 池上氏は「ニュース解説」で知られている。テレビのニュース番組では、よくキャスターの隣に専門家が呼ばれて細かい解説をしている。湾岸戦争やイラク戦争時に、「軍事評論家」なる人物がいつも出てきたのが典型的な例である。池上氏が民放でたくさん出ているニュース解説番組では、池上氏は専門解説をする役というより、諸問題の判りやすい整理と説明をしている。つまり、「池上氏の意見」はあまり関係ないのである。今回のコラムだって、立場はともかく、自分なりの慰安婦問題に関する意見を開陳しているわけではない。要するに、検証記事を読んで、言葉は丁寧だけど「間違ったなら謝れ、頭が高い」と言っているだけである。これでは「ななめ読み」ではなく、「俗論」そのものではないかと思ったのである。一体、「誤報」と「謝罪」というのは、必ず結びつかなければならないものなのか。次回に僕の考えを書きたい。
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火のようにさみしい姉がいて

2014年09月20日 23時40分48秒 | 演劇
 渋谷Bunnkamuraのシアター・コクーンでやっている「火のようにさみしい姉がいて」を見た。(30日まで。)清水邦夫の1978年の戯曲で、蜷川幸雄の演出。大竹しのぶ宮沢りえの初の共演だという。演劇はチケットを取っておかないといけないので、しばらくあまり見てなかったけど、秋になって幾つかは行きたいと思っている。今回はやはり、両女優の競演を見たかったのである。
 
 清水邦夫、蜷川幸雄のコンビは、60年代末から70年代にかけ、櫻社の新宿文化での伝説的公演で有名になった。その頃は中高生だから見に行ってないけど、新聞の演劇評で気になって本を買ったのである。だから、「真情あふるる軽薄さ」「狂人なおもて往生をとぐ」「僕らが非情の大河をくだる時」「泣かないのか、泣かないのか、一九七三年のために?」とか、一度聞いたら忘れることのできない題名の戯曲を、僕は本で読んで知ったのである。あの時代の熱をはらんだ圧倒的なドラマの噴出を読んで、僕はなんだか圧倒されてしまい、清水邦夫戯曲の上演をほとんど見ていない。別役実や井上ひさしのように、ものすごくいっぱい見た劇作家と違っているのである。

 だから、1978年の初演も見てないし、全く記憶にもない。70年代後半になると蜷川は商業演劇で大成功し、清水邦夫は「楽屋」(1977)を書き、80年代に入ると、「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」とか「タンゴ、冬の終りに」などの代表作を連発する。その間にこの美しき狂気のドラマ、「火のようにさみしい姉がいて」という戯曲を書いていたわけだけど、案外上演時間も短く(休憩抜きで、110分)、不思議なドラマである。

 「オセロ」を演じながら、精神の均衡を崩していく俳優の男(段田安則)が、(宮沢りえ)とともに郷里に転地療養しようとやってくる。この雪国の町は「東京から5時間もかけて」やってくるところである。うーん、そうだったなあ。清水邦夫の出身地は新潟県新井市(現・妙高市)だから、その辺をイメージしているんだろう。1982年11月に上越新幹線が大宮ー新潟間で開業するが、それまでは特急「とき」に乗って上野から新潟市まで4時間かかったのである。つまり、彼らは特急「とき」に乗ってきたわけだ。どうでもいいことだけど、妻の実家が新潟市なんで、そんなことを考えながら見たわけ。

 ところが、故郷の町へ行くバスの出る途中の町で、とある床屋に入ってバス停の場所を聞こうとするところから、訳の分からない不条理劇風な展開になる。誰もいない床屋で、妻はトイレを借りようとし、その間に男は「オセロ」を演じて、うっかり店の備品のカップを割ってしまう。そこに女主人と周辺の人々がやってきて、男は事件をおこしてしまう。そこで、男の姉と弟が呼ばれてくるのだが、現れた「」(大竹しのぶ)は床屋の女主人と同一人物だった。しかし、男は姉を否認し、誰が誰だか、真実はどこにあるのか?と、様々に錯綜した関係性のドラマが進行する。年上の妻も俳優だったけど、結婚で引退したらしい。男と姉も秘密の過去があったらしい。この「二人の姉」の間で精神のバランスが崩れていく様を、「オセロ」をなぞるように描いて行く。

 このドラマが今もなお、人を引き付ける熱気をはらんでいるかの判定は難しい。床屋には必ず「鏡」があり、実際に前席の観客の姿が映っているが、その前で静かに大竹しのぶがナイフを研いでいる姿は、なんだかとても恐ろしい。蜷川の演出も、鏡をうまく使い印象的だけど、僕にはどうもドラマの魅力が失せている部分もあるように思った。主役の3人以外の、特に床屋に集まる人々の役割が僕には判らなかった。セットは、劇場の楽屋と床屋の二つで、交互に出てくる。この劇は、演劇内世界と外部、妻と姉、東京と郷里など、2つが対比されて進行する。その「図式性」を超える表現の豊かさがあるかどうか。長い時間が経ち、僕には少し古い感じも否めない感じを抱いた。もっとも遠くから見ていて、最近は耳が悪いうえ、例によって蜷川演出はスピーディなので、理解が付いて行かなかったのかもしれない。大竹しのぶは出るだけで貫録だが、僕は宮沢りえの安定した演技が良かったと思う。
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あしたのジョー、の時代展

2014年09月19日 23時55分22秒 | アート
 朝日問題はちょっと置いといて、また教育問題などもちょっと置いて、まず今日見てきた「あしたのジョー、の時代展」の話。前から見たかったけど、真夏は暑いのでなどと思ってるうちに、最終日の9月21日(日)が近づいてきてしまった。練馬区立美術館(西武池袋線中村橋)。
  
 いやあ、懐かしいなあ。「あしたのジョー」もだけど、当時のテレビCMが2階会場で流れてる。「大きいことはいいことだ」(森永エールチョコ、山本直純)、「オー、モーレツ」(小川ローザ)、「男は黙ってサッポロビール」(三船敏郎)…当時を生きていた人なら皆覚えているものばかり。同じフロアには当時のフォークソングのジャケットもたくさん展示されている。何と言っても岡林信康の圧倒的な存在感。高田渡の「自衛隊に入ろう」のニュアンスが今伝わるだろうか。それにしても最後は仙人みたいだった高田渡がこんなに若かったんだなあ。

 「あしたのジョー」っていうのは、高森朝雄(梶原一騎の別名義)原作、ちばてつやの作画によるボクシング漫画。データ的には、1967年暮れから1973年まで『週刊少年マガジン』に連載されたということだけど、アニメ化、実写映画化などで一番インパクトがあったのは、69年、70年頃のことだろう。主人公「ジョー」(矢吹丈)「宿命のライバル」力石徹の死闘は、比喩ではなく死闘だったわけで、両者ノックダウンのあとで力石徹は死んでしまう。それがジョーのトラウマにもなるわけだが、「打たれても打たれても決して相手に屈せず、血反吐にまみれながら強敵に立ち向かう」(展覧会の説明文)ジョーの姿は、「反乱の時代」の象徴にもなっていく。

 梶原一騎と言えば、まったく同時期に「巨人の星」の原作も書いていた。川崎のぼる作画による「巨人の星」は、1966年~1971年に「少年マガジン」に連載されていたわけで、今もなお多くの人の記憶に残る大河マンガを同時期に創作できるというのはすごい。マンガというジャンルの「伝説的な英雄時代」だったわけである。しかし、今は梶原一騎展ではないので、その話は止めておくとして、「あしたのジョー」に戻すと、矢吹丈は「巨人の星」の星飛雄馬以上の大変な環境に育ち、少年院でボクシングを身に付ける。山谷の「ドヤ街」でジョーを気にかけてきた元プロボクサー丹下段平は、毎週「あしたのために」で始まるボクシング技術を書いたハガキを送る。そして少年院で力石徹に出会うのである。そこからの経緯は省略するが、大衆文化のもっとも豊かなドラマ性に富んでいる。しかし、僕はこのスポーツもの定番の「身を持ち崩した昔の英雄」による「あしたのために」に泣かされるのである。

 力石徹の死を悼んで、実際に葬儀が執り行われたというのが、この「あしたのジョー」が最も話題になった瞬間だったと思う。1970年3月24日のことだった。場所は講談社の講堂で、何だかもっと大きな場所でやったような「記憶の改ざん」が生じていたのだが、要するに「基本的にはファン向けイベント」だった。しかし、呼びかけたのが天井桟敷の寺山修司で、ボクシング評論家でもあった寺山が司会をし、読経や焼香も行われた。この時の遺影は残されていなかったというが、今回書き直され、当日の祭壇も復元されている。これが今回の一番の目玉ではないか。僕はこのイベントの話は当時知っていたけど、もちろん出かけていない。(もちろんというのは、当時まだ中学生だったということ。)この時の写真を見ると、寺山修司のもっともカッコいい時代ではなかったかと感慨深かった。天井桟敷のポスターなんかも展示されている。

 そして、力石徹葬儀の一週間後、1970年3月31日、日航機よど号がハイジャックされたわけである。赤軍派の田宮高麿は「われわれは明日のジョーである」と有名な声明文を残した。(「あしたのジョー」ではなく、「明日のジョー」と書かれていた。)このマニフェストの意味も、当時の時代の文脈でとらえないとよく理解できないのではないかと思う。当時の運動世代は「左手に朝日ジャーナル、右手に少年マガジン」といった感じで、マルクスや吉本隆明を読みながら、一方でサブカルチャーにも親しんでいた。「明日のジョーである」という時のヒロイックな昂揚感と未来への確信、革命のために異邦に身を投じる悲壮な覚悟…、そういった時代精神の象徴として「あしたのジョー」ほどピッタリするものはなかったと思う。

 「世界同時革命」を標榜しながら、結局は「チュチェ思想」を受け入れざるを得ず、強大な権力の手ごまとして生きていくしかなかったその後の「よど号グループ」の現実の歩みを思い起こすと、何とも言えない苦い感慨を覚える。しかし、そのような時代を「あしたのジョー」は生きていたのである。赤軍派が「現実の肉体」をもって越境しながらも、実際には世界を「観念」でしかとらえられていなかったのに対して、60年代の「肉体の復権」を今回の展示では「暗黒舞踏」の土方巽(ひじかた・たつみ)に求めている。梶原一騎、寺山修司、土方巽…、その交点に存在したのが「60年代末の熱気」であり、「あしたのジョー」であるという今回の展覧会はとても興味深かった。もちろん「あしたのジョー」の原画がたくさん展示されてます。(もっと早く紹介できれば良かったんだけど。)
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小権力者の宴-朝日問題③

2014年09月18日 23時44分30秒 | 社会(世の中の出来事)
 さて、2回ほど吉田調書を検討したが、「外形的事実」はあった(とも言える)が、その事実の「文脈的意味」の読み取りを「誤読」したという問題だと思う。問題は、朝日新聞がどうしてそのような「誤読」をしたのかである。まだ報道されていない諸問題があるとしても、それはそれとして最終的な編集段階でなぜ正されなかったのか。これは推測でしかないが、東京では「東電全面撤退」問題が大きく報道されたので、吉田調書が「全面撤退問題」に大きな意味を持つ新証言ではないかと「中央からの視点」で見てしまったのではないか。 

 しかし、そういった直接のきっかけを超えて、この「誤報」は大きな問題を提出していると思う。「反朝日派」は朝日が「反日」で「自虐的」だという一方的見方から、「意図された誤報」という主張もある。「所員の9割が所長命令に違反して撤退」していると、どうして「日本を貶める」のか、正直僕には全く判らないけど。危険を自己判断して避難したのなら、「成熟した市民」ではないか。しかし、実は「命令違反」はきつい表現で、なんだか判らないうちにバスに乗ったら福島第二原発に行ったという事例が多かったらしい。この現実の方が、はるかに「日本はどうなっているんだ」という問題ではないか。「反原発」という主張に合うように「誤報」したと考えるのも、おかしい。原発事故があまりにも大変な事態だったという証言は枚挙にいとまがない。それらを1面トップにすれば、ずっとインパクトがあるではないか。

 だから、もっと一般的に考えるべきだと思う。「撤退問題」があったから、「外形的事実」にこだわって誤った評価を下しただけではないか。「外形的事実」にこだわって、全体の文脈を軽視して、誤った評価をしてしまうということは、現代の日本では非常に多い。そういう発想をするのは、簡単に言い切ってしまうと、「小権力者」に特有の発想ではないかと僕は思っている。朝日新聞は、ここ数年紙面がつまらなくなった、官僚的体質が強まったなどと言われることが多かった。名物記者の名物記事なども、昔に比べてめっきり減った。そういう朝日の社内体質が「中央からの視点」や「外形的事実へのこだわり」から全体文脈を軽視することにつながっているのではないか。新聞は「第四の権力」などと言われても、所詮「第一の権力」にはなれない。それなのに、デジタル化の進展で紙の新聞も大きく代わっていくしかない。そうした危機感の中で、「小権力者」としての焦りが現われたのではないか。

 一方、慰安婦報道をめぐって、「朝日が吉田証言を取り消したから、河野談話見直しを」などと主張する人もいる。これも「ひとつの外形的事実」にこだわって、慰安婦問題の文脈をきちんとフォローしない発想である。新聞というメディアが「小権力」化した現代では、主張を問わず、新聞社内でも「小権力者」がはびこるのではないか。この「小権力者」というのは、「小役人」と同じようなイメージで使っているが、社会のあらゆる場面で、「上の要求を下に押し付ける」ことを自分の仕事にしていて、その時の「小さな権力」を自分の力だと誤認しているような人々である。そういう人は、自分の思い込みに固執する。批判されるとすぐキレるから、周りも敬遠しているから批判されていることに気づくのが遅れる。そんなタイプである。そう見て来れば、朝日新聞も「小権力者」化してる感じがするが、他のマスコミや政治家などにも「小権力者」がウヨウヨていることに気づくだろう。(「上の要求」には、具体的な上司がいなくても、勝手に自分で思い込んだ「使命」を他者に押し付けている人も含まれる。むしろ、そっちが多い。)

 新聞が「第四の権力」ならば、その周縁に存在する「週刊誌」は何と言うべきだろうか。新聞が「小権力者」化した現代では、週刊誌はその新聞の「権威」を批判することに存在意義を見出す。「マイナス報道」することで、権威を貶める役割を担っている。そのような意味では、「小権力者」の中にも階層があるということである。人々が「マイナス報道」を喜んで読むのは、権威を貶める「隠微な楽しみ」があるからだろう。今までにも週刊誌報道がきっかけで、権威を喪失した人が結構いる。最近では「みの・もんた」の例が記憶に新しい。朝日自身も「週刊朝日」で、現代日本の「小権力者」の象徴とも言える橋下大阪市長の出自を取り上げたことがあるが、「小権力者」は他の「小権力者」を標的にして「人権無視」の対応をするのである。今、一部の右派系週刊誌が毎号のように「朝日たたき」を続けているが、その「はしゃぎぶり」もいかにも「小権力者」である。こうしたことを続けていて、自分でも楽しいのだろうか。

 世の中にこうした「クレーマー」「モンスターペアレント」のような人々が多くなったのは何故だろうか。元々どんな組織にも「小権力者」がいるわけだが、現代社会では「情報管理」だの「勤務評価」だのが当たり前になって、「小権力者の権限が大きくなっている」ことが大きいのではないか。世の中は競争だといっても、全員そろって一斉にヨーイ・ドンではない。そうだったら、「ゴールの審判」だけが判定の権力を持つわけだけど、バラバラのスタートのうえポイントポイントで部分評価がある。それぞれの「中間評価」という権力が大きくなったのである。一方、インターネットの出現で「弱者の武器」ができたわけである。組織に不満を持つものは、放火殺人などの極端な手段を取らなくても、組織の持つパソコン上の情報をネットに流出させるだけで回復不可能な報復ができる。組織のほうは、どうしても「組織防衛的な発想」しかできなくなってくる。そんな中で、ちょっとしたことに不満を持つ人、つまり「相手のちょっとした過失」という「外形的事実」さえあれば、全体の文脈を無視して相手を攻撃することが許されると思い込む人が大量に発生する。つまり、朝日新聞の「誤報」と朝日を声高に非難する人は、同じコインの裏表なのではないか。

 僕は朝日新聞をずっと読んできたが、単なる報道機関と思っているから、朝日に裏切られた、失望したなどと思うことはない。スキャンダラスな「朝日たたき」の方にも関心はない。ただ、こうした「誤報」や「誤報たたき」が起きる社会のありようが問題だと思うのである。そして、この事態の行く末の危険性だけはしっかりと伝えておかないといけないと思っている。そのことは今後書いて行きたい。一方、朝日新聞とはどういう存在で、今後どうするべきだと思うかということも書いて行きたい。今年の重大ニュースとして、袴田事件の再審開始決定があった。死刑囚として長い長い間を拘束されてきた袴田巌さんが、再審判決を待たずに釈放されるという驚くべき展開となった。マスコミはその日から「袴田さん」と呼称するようになったけれど、一体各マスコミは自社の報道を検証し謝罪したのだろうか。そういう問題を追及する方がずっとずっと大事なのではないか。もっと言えば、「(自社の記者によるねつ造ではない)誤報」がそんなに大きな問題なのだろうか。それより「報道しないという問題」もあるだろう。また今後に続けていきたいが、今簡単に書いておけば、朝日に限らず各マスコミ関係者に(また政治家や教師などにも)求めるものは何かと言えば、「自らの小権力者性を徹底して見つめる」ということなのである。
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「文脈理解」の大切さ-朝日問題②

2014年09月17日 23時01分32秒 | 社会(世の中の出来事)
 「誤報にもさまざまなケースがある。字の間違いなどの単純ミスが一番多いだろう。テレビの字幕には変換ミスがいっぱいある。データの読み間違い、予告記事の早打ち(官庁発表の早期報道なら、マスコミ内の問題だけど、準備していた追悼記事を早く出してしまえば大変な誤報となる)など単純なものもあるが、冤罪事件のような深刻な誤報も存在する。また、記事そのものが全くの思い込み、あるいは極端ものは記事そのものが「ねつ造」なんてこともあった。これらのミスはまあ各紙にあったことである。(長くなるから実例は省略する。)

 では今回の朝日の記事は、どういう種類の「誤報」だろうか。それは「文脈理解」という観点から見た誤報だと思う。「文脈」は英語で言えば、コンテクスト(context)。辞書を見ると「文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト」などとある。吉田調書も「文書記録」だが、ここではもっと広く「歴史上の文脈」という使い方もする言葉として考えたい。世の中のすべての出来事は、前があり後があって起こっている。その続き具合を丁寧にたどって考えるということである。原発事故があったからこそ、われわれは吉田氏の名前を知っているわけだが、もちろん吉田氏は所長になる前からの長い東電勤務があり、長い「原発との関わり」があって事故に直面した。東電関係は吉田調書しか公開されていないので、事故そのものや会社事情なども吉田氏の目を通して見ることになる。そのような「吉田氏の関わりという文脈」で見てみる必要がある。

 吉田所長と言えば、「政府や本店にも直言し、事故対応に務めた現場リーダーの鑑」のようなイメージが作られている。原発事故版「プロジェクトX」で、なんだか中島みゆきの歌が聞こえてくるような。ところで、僕が直接読んでみると必ずしもそのような印象を受けなかった。とにかく、世界で最初の「事象」に追いまくられ、官邸や本店の対応に苛立っている。当時は4号機が定期点検中だったので、下請け労働者(「協力企業」と言っている)が第一原発内の敷地にはいっぱいいた。仕事ができなくなり、いつのまにか労働者の数は減っていっている。当時、何人いたかは誰にも把握できない。そんな中で、管理責任者として当面の事故対応に必要ない人員の「待避」にも気を配らないといけない。しかし、それは決して「当面の最も重大な配慮事項」ではなかったのは当然である。全面撤退をめぐる官邸と本店の「いざこざ」があったわけだけど、事故現場の吉田氏にはそれは全く意味をなさない出来事だった。本人は事故を放置して撤退しようなどとは全然思ってなかったのだから。

 だから、「職員9割撤退」が「命令違反」だろうが、そうは言えないと考えようが、それ自体が「全体の文脈からみれば、本質的には重大な問題ではない」というのが明らかだろう。しかし、「吉田所長には事態が掌握できていたのか」と問うなら、それは全くできていないのである。原発事故は誰にも初めてでどうなるか判らない段階があったということである。本来は「原子力安全・保安院」が政府内で担当するべきものだったのだが、全く機能しなかった。また「原子力安全委員会」の斑目委員長も全く有効な助言ができていない。そこで官邸が直接乗り出さざるを得なくなるわけだが、そのことを批判(または称賛)することよりも、それまで設置されていた機関がまったく意味をなさなかったということの方が重大な問題ではないかと思う。それは「自民党政権による原発依存政策」の中で作られてきたシステムである。自民党は朝日新聞を批判するより先に自らを検証しないといけない。

 一方、東電の人事政策は原発のみを異動させるのではなく、吉田氏も本店勤務で総合的な電源計画にタッチしたりしている。しかし、もともとは原子核工学が専門なので、現場は原発しか経験していない。電事連(電気事業連合会)出向中には「もんじゅ」事故対応に明け暮れ、福島第二発電部長時代も事故対応に追われた。直前の仕事は本店の原子力設備管理部長。この時に中越沖地震があり、柏崎刈羽原発が大きな被害を受けた。このように仕事人生のほとんどが事故対応なので、本当に気の毒な仕事だと思ったけど、そういう技術をこのまま維持していいのかというような「悩み」は感じられない。むしろ中越沖で「想定震動」を上回ったけど、原発そのものは無事だったことで「原発安全神話」を自分で再確認してしまったように感じられる。「成功体験」があだになったのではないか。吉田氏が福島第一に所長として赴任してからも、プルサーマルをめぐる面倒な対応に時間を取られ、決して高いモチベーションを持っていたわけではないように思う。

 このような吉田調書の「文脈」をたどってみると、もっと他に「1面トップ」で大見出しにうたうべき「解読」が存在したはずではないかと思う。なお、ついでに書くと、自衛隊や消防などが「救援」に掛けつけたわけだけど、ほとんど全く意味がなかったような印象を受けた。誰が来ても線量の高い所に行く人はいないのであって、結局原発所員が担当するしかない。そして、実際に自分たちで対応した。官邸や本店の対応はジャマなだけで、誰も助けてくれなかったというムードが調書全体を覆っている。そのことの問題もよく考えてみないといけないだろう。朝から夜まで部活を頑張り続け全国大会で成績を挙げて、自分が学校を支えていると思って体罰やパワハラを意識できなくなっている部活顧問、あるいは「底辺校」で生活指導を担当し力で押さえつけ自分が学校秩序を保っていると自負する生活指導主任。そんな感じが何だか漂っているように感じるのである。ちょっと勤めて替わっていく校長なんか「あのおっさん」でしかない。もちろん、「現場」は「原発政策」など考えない。「仕事」をするだけ。その「潔さ」を評価するだけではいけないのだろうと僕は思う。

 ところで、今の僕の「読み」は「吉田調書」を読んだ限りでの感想である。しかし、今は公開されているから誰でも読めるが、朝日報道の時点では「特ダネ」だった。それは常識的に考えれば「情報提供者」がいたのではないかと思う。その「情報提供者」が朝日が誤読するようにミスディレクションして情報を提供し、朝日はその結果「誤報」してしまったという「陰謀説」も存在するようである。それも全くありえなくはないのかもしれないが、今のところは普通に考えれば、「原発事故を風化させてはならない」と考えた人が情報を提供したのかなと思う。その場合、安倍政権の推進する再稼働政策に大賛成の読売、産経に提供しても、「今さら報道価値が少ない」などと小さな記事にしかならないかもしれない。原発報道に熱心な東京新聞などもありうるだろうが、大部数の朝日の方が報道インパクトが高いと判断して朝日に接触したということか。しかし、まあ、単純な知人関係などをたどって特ダネに当たることも多いと思うから、今のところ何とも言えない。今後も検証されない部分かもしれないが、「こんなことがあったんです」と提供されたとすれば、一種の「誤導」に引きずられた可能性もある。つまり、吉田調書そのものの「文脈」とは別に、「吉田調書」特ダネ報道をめぐる「もっと大きな別の物語の文脈」があるのかもしれない。それは今は判らないことだが。
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「吉田調書」は「誤報」か-朝日問題①

2014年09月16日 23時01分26秒 | 社会(世の中の出来事)
 何回か朝日新聞をめぐる諸問題を書きたいと思うけど、ちゃんと書くのは面倒なので副題は「朝日問題」とする。8月にあった「慰安婦報道の検証問題」には必要な時には触れるけど、今は「慰安婦問題」に深入りしない。(長くなり過ぎるので。「池上コラム問題」は取り上げる。)
 9月11日に、政府は政府事故調の吉田昌郎氏(東京電力福島第一原子力発電所長=当時)の聴取記録(以下、吉田調書)を公表した。これは朝日新聞が今年5月20日付けで特ダネ報道したものである。それ以後、調書公開を求める声があがっていたが、8月以降他社も報道するに至り、政府も公開する方針に転じた。公開された9月11日に朝日新聞は記者会見を行い、当時の朝日新聞報道は「誤報であり、取り消し、謝罪する」と発表したわけである。

 これは他社も含め様々な報道ミスがある中でも非常に深刻なものであると思われる。小さな記事や論説が「コピー&ペースト」されたものだったとか、いろんなミスがマスコミでは起こっているけど、このような「特ダネ」&「1面トップ」、しかも「原発事故問題」という重大問題で、数カ月もしないで「記事の取り消し」が起きるということは普通では考えられない。しかも、朝日が特ダネ報道しなかったとしたら、この吉田調書は今も国民の目には触れずにいたと思われるわけで、その「誤報」は極めて深刻かつ残念だと思うわけである。

 ところで、朝日自身が認めているんだから「誤報」に決まっているじゃないかと言われるかもしれないが、今回の記事は本当に「誤報」なのだろうか。そのことを自分で検証せずに声高に朝日批判をしている人が多く見受けられるが、本来はそこから考えてみるべきだろう。ということで、ではまず「吉田調書」を自分で読んでみたい。首相官邸のホームページで公開されている。「政府事故調査委員会ヒアリング記録」で、吉田氏など全19人の調書が公開されている。印刷文書をPDFファイルにして公開している。(だから、今コピペできないのが面倒。)なお、「取扱い厳重注意」と紙の上部に印刷されている。吉田氏の聴取は、計6日、資料を含め11の調書に分かれているので、見るのは大変である。けっこう長い。ところで、なぜかわが家のパソコンでは、一部が見られないのである。後半のうち、3つ程度が表示されない。(他の政治家調書などはまだ見ていない。)ということで、僕は吉田調書をすべて見ることができなかったのである。(その後見られるようになった。9.17追記)

 そこで朝日などマスコミ報道をもとに判断するしかないのだが、やはり「ある種の誤報」というべきだろうと考える。しかし、「ある種」と書いたように、「見方を変えれば誤報とは言い切れない」という側面を持つのではないか。朝日新聞は、当初「所長命令に違反、原発撤退」と1面トップの見出しを付けた。「3月15日の朝、所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある」と報じていた。(今の要約は9月12日付の朝日新聞によるもの。)ところで、今の要約の前段部分の事実があったのか、なかったのかというと、それは「一応あった」のである。「誤報」というと、普通は「事実が間違っていた」というものだが、今回はそうではないのである。ただし、「待機」とか「撤退」という表現は、「全面撤退」をめぐって官邸と東電本店が混乱する問題があったわけで、もっと慎重な扱いが求められると思うが。

 それなのに、なぜ朝日が「誤報」と判断したかというと、この「所長命令」が所員に伝わっていたとは言えないこと(混乱状態だった)、また所長自身が「その方がはるかに正しい」と評価していたことなどがあるからである。調書を読むと、所員は顔にマスクをしてヘルメットをしていたので、口頭の命令が通る状態ではなかった、所員の大部分はバスに乗れと言われて着いたら福島第二だったという感じだったらしいことなどが明らかである。しかし、吉田氏は第一原発内の放射線量の低い場所に退避するようにという意味で、退避命令を出している。当面の事故対応に必要な100名程度を残して他の所員を退避させようとしたら、10キロ離れた福島第二に行ってしまったということも明らかである。だから、「外形的事実としては、『所長命令に違反』は間違いとは言い切れない」のではないかと思う。その後、所長自身が「その方が正しい」と認める度量がある「物わかりのいい上司」だったからいいけど、誰とは言わぬが「物わかりが悪い上司」だったら「オレは第二に行けとは言ってない。誰だ、そんなことしたのは」とキレてしまい、もめ続けたかもしれない。

 だから、僕は「誤報だ」と騒ぐ前に、「どのようなタイプの誤報か」とまず問うことが大切なのではないかと考える。そのことは次回にくわしく書くが、僕の感想として言えば、命令違反だろうが、そうでなかろうがどうでもいい、ということである。「どうでもいい」は言い過ぎかもしれないが、あの大事故の際中に当面仕事のない職員がどうしようが本質的な問題ではないという感想である。もっともっと重大な観点があり、いくつもの重大な証言がある。人目を引くものとしては「東日本壊滅と思った」というものがあるのは有名だろう。官邸や本店とのあつれきも深刻なものがあった。そういう中で、「撤退問題」に注目したということ自体が本質から少しずれていると思うのである。

 ところで「外形的事実」さえあれば批判できるという風潮は間違いなく存在する。例えば、すぐ思い浮かぶものでは、イラク戦争批判ビラを自衛隊官舎に配布したところ、住居侵入罪で逮捕、起訴されたという事件がある。2004年に起こったこの事件は、さすがに1審では無罪となったものの、控訴審で逆転有罪、2008年に最高裁で罰金の有罪判決が確定している。すべてのビラまきが摘発されたわけではなく、他の営業チラシ等は問題になっていない。「池上コラム問題」を「言論弾圧」と批判した人ならば、ビラを配布しただけで住居侵入罪というのは間違いなく言論弾圧だと認めることだろう。しかし、この事件の場合も「外形的事実は住居侵入罪が成立する」とは言えるだろう。

 また、東京都立学校では、所長命令が口頭では通りにくかったという事態が生じないように、教員全員に卒業式、入学式の前に文書の「職務命令」が手渡されている。そうすれば「命令違反」で処分できるからである。また大阪市では「刺青アンケート」なるものが実施され、提出しなかったものは(刺青の有無などとは関係なく)アンケート不提出ということで処分されている。つまり、世の中は「外形的事実さえ確認できれば、それでいいというのが通例」になっているということである。そういうことを全体的に考えあわせて批判するのでなくては、「朝日誤報問題」は実り少なくなるのではないか。だから、僕は吉田調書を見て、「所員の9割が撤退という外形的事実」は認めうる余地があるが、その全体的評価を誤ったということが問題だと思うのである。そのことの意味は、次回にもう少し考えてみたい。
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追悼・山口淑子

2014年09月15日 00時06分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 山口淑子の逝去が報じられた。現代日本の伝説的な女優であり、山口淑子を考えることはまさに「激動の昭和」を振り返ることにもなる。その半生は、山口淑子・藤原作弥「李香蘭 私の半生」(1987)という本にまとめられている。この本は新潮文庫に入って広く読まれた。僕も文庫版で読んだが、今はどこにあるか見つからなかった。品切れ中なので是非復刊して欲しい。

 山口淑子(1920~2014)の長い生涯はいくつもの波瀾に富んでいた。有名なのは、「満映のスター李香蘭」だったこと。戦後「漢奸」(売国奴)の疑いで裁判にかけられ「日本人であること」が証明されて急死に一生を得て帰国できた。この問題には後でまた触れたいが、その後も波瀾万丈。日本に帰国して映画女優として活躍、その後アメリカに渡り「シャーリー・ヤマグチ」として女優、歌手として活躍。アメリカで彫刻家イサム・ノグチと出会って1951年に結婚。1955年に離婚後は香港のショーブラザーズの映画にも出演。1958年に外交官大鷹宏と再婚し、これを機に芸能生活を引退した。芸能生活20年を記念して、最後に「東京の休日」(山本嘉次郎監督)が作られたが見ていない。
(李香蘭時代)
 しばらく引退していた芸能界に1969年にテレビ司会者として復帰した。「3時のあなた」という午後のワイドショー番組である。調べてみると、月火が高峰三枝子、水木金が山口淑子。1年後に水曜が久我美子、さらに芳村真理に代わり、山口淑子は週2日になる。74年に山口淑子が退任すると、後任はその前から月火に司会をしていた扇千景、扇の代わりに月火は森光子が起用される。他にも司葉子、三田佳子などが務めた時期もあり、何と言う豪華な女優陣が出ていたことか。

 僕が山口淑子の名を知ったのはこの頃。中高生だから毎日見るわけではない。基本的に主婦向け番組なわけだが、テレビは一家に一台の時代だから、試験期間など早く帰宅すると見ることもあったのだろう。山口淑子は硬派かつ行動的で、戦争中のベトナムや紛争絶えない中東、それどころか北朝鮮にまで行っている。そのような行動派キャスターとして知られていた。

 1974年の参議院選挙に田中角栄から口説かれて自民党から全国区で出馬。知名度を期待された「タレント候補」の山口淑子は46位でギリギリだが当選した。この時はNHKの紅白司会で知られた宮田輝がトップ、市川房枝が2位、以下青島幸男、鳩山威一郎、山東昭子がトップ5。全国区は50人まで当選する大選挙区で、この時は任期3年の補欠当選が4人あったので、54人が当選した。参議院議員は3期18年務めて、外交委員長や環境政務次官などを歴任した。このようにアイドルスターから参議院議員まで、国際的に活躍したわけだが、自民党時代も独自に中東外交に務めていた。自民党に幅があった時代で、テレビ時代に世界を飛び回ったことが生きたのである。

 戦後の日本映画で活躍した時期は案外短いので、重要な作品は少ない。「わが生涯のかゞやける日」(吉村公三郎)、「暁の脱走」(谷口千吉)、「醜聞」(黒澤明)、「白夫人の妖恋」(豊田四郎、香港との合作)などが代表だろう。またアメリカ映画では「東京暗黒街 竹の家」(サミュエル・フラー)などがある。「暁の脱走」は田村泰次郎「春婦伝」の映画化で、原作は日本軍の慰安婦が主人公である。後の鈴木清順作品では野川由美子が慰安婦を熱演しているが、「暁の脱走」では軍の慰問に来た歌手に設定を変えている。占領軍の検閲によるとも言われるが、まあ山口淑子のイメージもあったのだろう。

 戦後の山口淑子も実に幅広く活躍して、並みの人生ではなかった。それでもやはり「山口淑子と言えば李香蘭」が多くの人のイメージではないか。その半生はミュージカルにもなって劇団四季により上演された。もっとも僕には知ってることの連続で、期待したほど面白くなかったが。その人生から、平和と反戦の思いが身についていて、ニュースの映像でも「戦争だけは絶対にいけない」と語る場面が放送されていた。このような感覚はある年代までの人には共有されていると思う。自民党議員でもそう思っていた人がいっぱいいたのである。

 一体李香蘭はなぜあれほど人気を得たのだろうか。その「謎」は今でも問いかけるに値すると思う。四方田犬彦「李香蘭と原節子」(岩波現代文庫)などの研究も出ている。日本公演では「日劇を七回り半も観客が取り巻いた」という有名な伝説がある。(日劇=日本劇場は今の有楽町マリオンの阪急デパートのところ。)中国で戦後「漢奸」扱いされたように、人々は皆「満州娘」と思っていたのである。日本でもそう思われて大人気だった。「実は日本人」という真相は隠されていた。日本人が中国で成功したと思って人気があったのではない。いわば「満流スター」というわけである。「満州映画協会」は、かの大杉榮虐殺事件の主犯とされながら早々に釈放された甘粕正彦が理事長をしていた。内田吐夢ほか多くの映画人が満映に渡り、戦後も残ったことは有名である。

 「満映」で大スターになったただ一人が李香蘭だった。僕は日本映画に出た「支那の夜」(長谷川一夫と共演したメロドラマ)など何本か見ている。戦時中の国策色がないわけないが、表面的には娯楽映画の一本である。どれほど李香蘭が人気があったのかは、それらを見ても僕にはよく判らなかった。ある意味では、後のテレサ・テン、アグネス・チャン、それに現在世界で活躍する韓国、中国の多くのスターの先駆けだったのではないだろうか。それにしても、「神話化された青春時代を強制された女性」が後半生を見事に生きたと僕は思う。
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銀座の面白い建物(追補)-銀座散歩⑥

2014年09月14日 00時11分53秒 | 東京関東散歩
 7月に銀座散歩を5回書いたけど、その後さらに面白い新旧の建物を知った。銀座は有名な建物やお店が多いから、それを見てるだけで書けてしまう。リサーチが不足していたのである。そこで追補として、もう一回書きたいと思う。僕がそれらの建物を知ったのは、「中央区ふれあい街歩きマップ2 銀座」という中央区観光協会が出しているマップによる。これはイラストの地図になっているもので、京橋プラザ内の中央区観光協会で入手できる。

 まず、最大の驚きは「奥野ビル」の「発見」である。1932年竣工と言うこのビルは、裏通りにあるからしらみつぶしに銀座を歩かない限り、なかなか見つけにくい。銀座一丁目、中央通りを名鉄メルサのところで曲がって、2本目の道を左に入る。銀座ファーストビルの真向い。そこに、1930年代のパリかと思うような古ぼけたビルが残っているのである。
 
 このビルがすごいのは、画廊が多くて中に自由には入れること、そしてそこに「手動式エレベーター」があるということである。手動と言っても、もちろんエレベーターそのものは電動である。手動なのは開閉ドアで、だから自分で引っ張って開けない限り中へ入れない。そしてこれに乗ることができるのである。注意点は下りる時にドアを閉め忘れないようにすることで、忘れるとブザーが鳴り響く。
    
 このレトロ感は半端じゃない。実に不思議な空間を発見した喜びである。いつまでもあるわけでもないだろうから、是非今のうちに見ておきたいところではないか。マップには銀座最古のビルは、大正13年竣工の銀緑ビルと出てるんだけど、これは松坂屋の裏あたりで再開発であたり一帯空地になっていた。一方、銀座東3丁目あたりのマンションの真ん中に「酒蔵秩父錦」という居酒屋が残っている。昭和2,3年ごろに立てられたとマップにある。それも不思議なんだけど、銀座8丁目に銀座で一番古いバーがあるとあり、見に行くと蔦のからまる古い建物があった。前に見てるけど、昼間だと何だか判らない。知らないと廃屋のように見えてしまう。しかし、そこが山本五十六や白洲次郎も通ったというバー「ボルドー」なんだという。昔は会員制だったけど、今は誰でも行けるらしい。5千円程度で飲めるというから、行って行けない値段ではない。銀座にはよく見ると古い建物が多いが、お店が多く、単なる古いアパートは珍しい。下の写真4枚目は、東銀座で見つけたアパート。
   
 一方、新しい方を見ていくと、これもどうして気付かなかったかと思うのだが、銀座2丁目、プランタンのあるところを入るマロニエ通りに、とんでもない「デビアス銀座ビルディング」がある。一度見たら絶対に忘れられない姿だが、表通りからは見えないから知らない人も多いに違いない。2008年竣工である。こんな屈曲したビルは他に見たことがない。2枚目ずつ別の日。
   
 そこに行く手前に、「ミキモトギンザ2」がある。おっとミキモトは裏にもあったのか。2005年竣工で、ピンクの外壁に様々なガラス窓が散りばめられている。全体を撮りにくいのが困る。プランタンの連絡通路からよく見える。また、中央通り7丁目のライオンビルを過ぎたあたりに「ニコラス・G・ハイエックセンター」というスウォッチグループのビルがある。オメガなどの高級時計のブランドショップと本社機能を兼ねたビルとのことで、ビルの名は創始者から取る。2007年竣工。情報はふれあいマップだけなので、他にも面白いビルが建てられているのかもしれないがよく判らない。新しいビルの方は、お店だから入りやすそうなものだが、高級イメージの店だから、ジーパンにデジカメ姿では入りにくい。
   
 他にも前には載せていない碑をいくつか見た。専修大学発祥の地、佐久間象山塾跡、狩野画塾跡などの碑だけど、まあプレートだけだから省略することにする。こんな古いビル、新しいビルがある銀座という都市空間は、やはり今でも魅力の多い場所なんだと改めて思った。
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中村登監督の映画

2014年09月13日 00時31分45秒 |  〃  (日本の映画監督)
 松竹の映画監督だった中村登(1913~1981)は、2013年が生誕百年で東京フィルメックスで特集が組まれた。その前のヴェネツィア映画祭では「夜の片鱗」が上映されて好評を博したという。最近世界的に再評価されている監督で、最近渋谷のシネマヴェーラ渋谷で特集上映があった。全部見る余裕はなかったけれど、前に見ている作品を含めてまとめを書いておきたい。
(「夜の片鱗」)
 女性映画を得意とした松竹で、中村登監督は安定した力量で文芸映画、女性映画を量産した。家族や夫婦の情愛をしみじみと描きだし、爽やかな後味を残す作品が多い。そういう意味で、日本映画の良質な部分を代表するような監督である。松竹には小津安二郎、木下恵介、渋谷実などの作家性の高い「巨匠」がいたけれど、中村登の位置はそのような「巨匠」というより、安定した「佳作」を作る「名匠」と言った扱いを受けてきた。ベストテンに入ったのは、「紀ノ川」(1966年の3位、有吉佐和子原作)、「智恵子抄」(1967年の6位、高村光太郎、佐藤春夫原作)の2本。「智恵子抄」と「古都」(1963年、川端康成原作)はアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。

 僕はこれらの映画、特に「古都」が大好きで、多分今回で4回見ている。有名な原作、美人女優の名演、しっとりした情緒と奇をてらわないリアリズム演出による中村映画は昔から好きだった。巨匠より「マイナー・ポエット」好みなので、今まで何回か特集されているときには出来るだけ見てきた。しかし、最近注目されているのは、今までほとんど聞いたこともない「土砂降り」「夜の片鱗」などの作品で、そのビターな味わいと人間性への深い考察に驚かされたのである。コメディも面白いものが多く、単なる文芸映画の職人監督を越えた側面が今見直されている。真の評価をこれからに待つ監督だ。

 デビューは案外早く、戦時中の作品が修復されて近年フィルムセンターで上映された。(僕は見逃したので評価できない。)戦後になって、1951年の「我が家は楽し」が最近評価が高い。笠智衆、山田五十鈴の父母、高峰秀子、岸恵子らが子どもの「仲睦まじい家族」に起こるホームドラマ。原作、脚本は田中澄江である。でも、この映画を「家族の素晴らしさ」とばかり評価するのは間違っている。画家を夢見た母の山田五十鈴は、娘の高峰秀子に夢を託す。父も退職し、家の経済も大変なので高峰秀子も働こうとするけど、母は自分の和服を売り続けて娘の画業を応援する。これは「子どもの自立」を愛情でしばる「日本的家族」の典型例。山田五十鈴は自分の羽で布を織る鶴女房である。そのような視点から再評価するべき作品だ。

 女優を美しく撮って松竹映画を支えた中村作品だが、50年代後半は岡田茉莉子有馬稲子の主演映画が多い。岡田茉莉子は、井伏鱒二原作のロードムービー「集金旅行」(1957)が楽しい。地方の風景の珍しさとともに岡田茉莉子のコメディ演技が堂に入る。また、村松梢風原作の「斑女」(はんにょ、1961)も北海道から夫の弟と駆け落ちしてきた岡田茉莉子が、東京タワーを描いていた画家山村聰と知り合い、バーのホステスになりながら生き抜くさまを軽妙洒脱に描いて行く。東京風景、特に東京タワーをこれほどオシャレに使った映画は他にないのではないか。後の「三丁目の夕日」「東京タワー」など足元にも及ばない。日本映画にこんなオシャレな「東京映画」があったのである。
(「集金旅行」)
 引き続き1961年に岡田、山村コンビで撮った井上靖原作「河口」がよく出来ている。財界有力者と別れ画廊を開く元愛人という、ありそうでなさそうな役を岡田茉莉子が楽しく演じる。一方、山村は財界有力者かと思うと、その滝沢修に頼まれて画廊を助ける美術マニアを演じている。これが実におかしな役で、非常に面白い映画だと思う。

 その前に1957年に「土砂降り」があり、これも岡田、山村共演だけど、ここでは親子である。しかも、山村聰は愛人の沢村貞子に3人の子をもうけ、長女が岡田茉莉子、その下に田浦正巳、桑野みゆきがいる。沢村は旅館(「連れ込み旅館」)をやらせてもらい、子どもを育てている。岡田は職場で佐田啓二と仲良くなり結婚の約束もするが…。家庭環境を調べられ破談となり、そこからどんどん転落していく。家族関係が破たんしていく様を、モノクロの美しい映像で冷徹に見据えていく。下町の風景も興味深いが、岡田茉莉子の熱演も見事で、「知られざる傑作」から今や「代表作の一本」となった。

 一方、有馬稲子の「白い魔魚」(1956)は、舟橋聖一原作で、岐阜の紙問屋の娘が東京の大学で学んでいる。キャンパスライフや東京風景が楽しい。1959年の「危険旅行」では流行作家の有馬が仕事を放りだして日本放浪に旅立ち、そこで雑誌記者の高橋貞二と偶然知り合う。各地、特に長崎の平戸の風景が美しい。軽妙なコメディで、ロードムービーの佳作。松本清張原作「波の塔」(1960)は若き検事と愛し合う人妻役を美しくミステリアスに演じる。有馬稲子は美しく忘れがたいが、作品的には軽い。

 しかし、中村映画の真のミューズは、60年代の岩下志麻だった。「古都」「智恵子抄」の他、「千客万来」、「暖春」「爽春」「わが恋わが歌」など佳作がいっぱいある。「智恵子抄」の高村智恵子役は鬼気迫る名演中の名演で、キネマ旬報女優賞を受けた。熊谷久虎監督で1957年に原節子主演の「智恵子抄」も作られているが、今はあまり振り返られず、岩下志麻の智恵子が残った。

 「古都」(1963)は、成島東一郎のカラー撮影、武満徹の音楽が忘れがたく、また父親役の宮口精二も名演。「七人の侍」に並ぶ名演だと思う。岩下志麻が一人二役で、双子が別れ別れになり商家の一人娘と北山杉の村の職人娘を演じ分ける。格差のある姉妹が祇園祭の日にめぐり合う「奇跡」。清冽な感動を呼ぶ作品である。叙情性と厳しいリアリズム、セリフや小道具の美しさ、格調高き名作で何度見ても飽きない。
(「古都」)
 最近評価の高い「夜の片鱗」(1964)は、確かに驚くべき傑作だ。成島東一郎のスタイリッシュなカラー撮影が圧倒的で、一度見たら忘れられない。主演の桑野みゆきは若い時からずいぶんたくさん出演しているが、これが代表作ではないか。ヤクザの平幹二郎に入れ込み、成り行きから街娼を続けてゆくという難役を絶望的なまなざしと倦怠感あふれる演技で演じきっている。定時制高校をさぼってバーを手伝い、ふとなじみの客平幹二郎と結ばれる。家にもいづらく、男の家で暮らし始め、ヤクザの掟に縛られつつ、どんどん堕ちていく。希望のない彼女に惹かれた男が出てくるが…。「原色の街」をさまよう孤独な魂を見つめる目は冷徹かつリリカルで、この作品が忘れられていたのは映画史の損失だった。

 長くなったので他の作品を急いで短評。1958年の「顔役」は、銭湯主人の伴淳が山形市議選に出馬する「選挙映画」で、社会派喜劇だが非常に興味深い。1960年「いろはにほへと」は、保全経済会事件をモデルにした社会派経済サスペンス。これも時代と社会の関係が興味深い。佐田啓二が悪役で、伊藤雄之助が警官と普通の逆。1964年の「二十一歳の父」は曽野綾子原作のビターな青春映画。倍賞智恵子が全盲で、山本圭が名家の息子ながら、家出して彼女と結ばれる。しかし…。この映画はわりと知られていて、見たのは2度目だけど、こんなに社会批判の厳しい映画だとは忘れていた。

 1966年の「紀ノ川」は今回見てないけど、長い長い大河映画で、司葉子、岩下志麻らの家族が和歌山で生きぬいた様を描く。こういう名作はちょっと苦手で、それより平岩弓枝原作、脚本の「惜春」(1967)が傑作。糸屋の跡取りを3人の娘の誰が継ぐか。姉妹の争いを描くが、長女新珠三千代、死んだ主人の愛人で次女、三女を生んだ森光子もいいんだけど、この映画のキモはうすぼんやりした感じの次女を演じる香山美子である。いつものシャキッとした感じと違う役柄で、これが面白い。

 「皇太子ご成婚」から始まる「明日への盛装」(1959)は案外面白かったけど、もう省略。「つむじ風」(1963)は渥美清主演で見たかったけど見逃した。「結婚式・結婚式」(1963)もあちこちでやってたけど、今回も含めていつも見逃し。「風の慕情」(1970)は、さすが橋田寿賀子脚本、吉永小百合、石坂浩二主演だけあって、テレビの2時間ドラマ。オーストラリアまで行って観光映画を作っただけ。吉永、石坂は今と同じで驚き。「塩狩峠」(1973)は三浦綾子原作のキリスト教映画で、今回初めて見たけど、若いころ敬遠していたのが正しかった。僕はこれには感動できない。
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後期の映画-増村保造の映画③

2014年09月11日 23時25分03秒 |  〃  (日本の映画監督)
 フィルムセンターの増村保造特集を延々と見てきたので、その最後の感想。3回書くほど好きな監督なのかと言うと、実は全然違う。特に好きなわけではなく、作品が多いので、好きなのも嫌いなのもある。今回は特集上映で珍しい作品も上映されたので、まとめておくわけだ。今回は映画56本とテレビ映画1本の上映で、1980年の「エデンの園」は上映されない。ヘラルドで公開されたソフトポルノ。

 今回は見なかった映画もあるが、大映時代の映画はオムニバスの「」という作品を除き、すべて見た。しかし、最後の映画「この子の七つのお祝いに」とテレビ作品「原色の蝶は見ていた」は時間が合わず見られなかった。今回たくさん見たわけだが、60年代の白黒映画の質の高さが印象的だった。しかし、60年代末期になると、突然訳が分からない映画が多くなる。日本の大手映画会社の「斜陽化」が極まって行き、大映はついに倒産する。痛々しいまでに、急激に作品も「急傾斜」していく。

 「ぐれん隊純情派」(1963)は、収穫だった中期作品。本郷功次郎、藤巻潤が主演だから、会社が力を入れた映画とは言えない。もっともこの映画に、雷蔵、勝新、田宮二郎は似合わない。行き詰まった愚連隊が旅回りの一座になってしまう。ある町で座長は町の有力者の娘と恋仲に。引き裂かれた悔しさを、いきさつをそのまま舞台に乗せて大評判になる。という「舞台の力」と町の民主化をうたいあげた快作。中村雁治郎、ミヤコ蝶々のベテランが脇で映画を締めている。全然知らなかった映画だが、旅芸人を描いたいくつもの映画の中でも忘れがたい映画だと思う。

 その後の増村保造作品を挙げてみれば、1964年には「女の小箱・より 夫が見た」「」、1965年には「兵隊やくざ」「清作の妻」、1966年には「刺青陸軍中野学校」「赤い天使」、1967年には「痴人の愛」「華岡青洲の妻」など今でも上映機会の多い傑作群が続々と作られていく。このうち、「卍」「刺青」「痴人の愛」の谷崎作品を除いて、後は白黒映画である。また、「兵隊やくざ」「陸軍中野学校」「痴人の愛」を除き、他は若尾文子主演。若尾文子の映画における頂点というべき時期である。

 ところが、1968年の田宮二郎、緑摩子主演「大悪党」以後は、全部おかしい。ストーリイ展開が変で、ついていけない作品が多い。江戸川乱歩原作で、船越英二、緑摩子「盲獣」は、話は変でも原作のイメージをいかした「変態映画」の傑作。しかし、「セックスチェック 第二の性」や若尾文子主演の「濡れた二人」は話が変である。「性」を正面から主題にできる時代が60年代後半にやってきたが、風俗レベルの受容になっている。「第二の性」は安田(大楠)道代が半陰陽の天才ランナーで、陸上界の嫌われ者(戦前の天才ランナー)緒形拳に指導される。二人の関係がどう記録に影響するか。現代の目から見れば、問題ありすぎの「セクハラ映画」に見える。

 この映画で、安田道代の故郷とされ、最後には二人で合宿する設定の場所が、西伊豆松崎近くの岩地というところ。ここが気に入ったか、同じ場所で撮影しているのが「濡れた二人」で、若尾文子が会ったばかりの漁業青年、北大路欣也に惹かれていってしまう。しかし、それはないでしょうという変な演出が連続する。一種の怪作の魅力もあるかと思うが、解説では「キッチュすれすれ」と書いている。

 原作のある「積木の箱」「千羽鶴」も不可思議な映画である。「積木の箱」は三浦綾子原作で、妻妾同居の家で悩む少年の話。若尾文子は主演ではなく、私立学校の裏にある牛乳屋にして、実は…と言う役。「千羽鶴」(1969)は川端康成のノーベル賞記念映画だが、若尾文子は不可思議な演技を披露する。増村=若尾の最後の作品で、京マチコから「くねくねして気持ち悪い」と映画内で評される「軟体動物」を演じている。その後の渥美マリ主演の「軟体動物シリーズ」は、この若尾文子が最初だったのか。過去に吉村公三郎監督で作られた時のキャストが森雅之、杉村春子、木暮実千代に対して、増村版では平幹二郎、京マチコ、若尾文子になっている。変な映画だけど、面白くもある。
(「千羽鶴」)
 1969年の「女体」(じょたい)は日活から浅丘ルリコを迎えて作ったが、これも変。ちょっと親切にされた岡田英次に入れ込み、その後岡田英次の妹の婚約者に夢中になる。一種の生活破綻者を演じているが、依存症患者としか思えない。セックスと言うより、「人間関係依存症」。岡田の義父小沢栄太郎が大学理事長役で、当時の「大学紛争」の様子が出てくるが、そういう騒然とした世相が反映したのか、今見ると主人公の行動が理解不可能。ある意味で、その後ATGで作る三島原作「音楽」と裏表の関係にある作品かもしれない。

 70年の渥美マリ主演の「でんきくらげ」「しびれくらげ」、その間に作られた「やくざ絶唱」、71年の「遊び」は、シンプルながら大映最後の輝きと言える作品群。面白く見られるが、今一つの深みがない。渥美マリは当時話題の若い女優で、若尾文子では不可能なヌード満載の映画になっている。その分、風俗映画的な軽さも気になる。やはり「制限」の中で撮影する方がいいのか。家族や男で辛い目にあいながら、自立していく女性を描く痛烈な映画。「やくざ絶唱」は勝新と大谷直子が腹違いの兄妹で、この関係の深さと面倒くささが面白い。僕が一番思い出があるのは、関根(高橋)恵子の若き魅力全開の「遊び」。こんなシンプルな映画だったのか。若いカップルが絶望に向かって一直線に進んで行くが、やがて作られる「曽根崎心中の先取りだったか。71年に倒産する大映への挽歌にも受け取った。
(「遊び」)
 大映倒産後、勝プロに任されて、東宝公開の「新・兵隊やくざ 火線」「御用牙 かみそり半蔵地獄責め」「悪名 縄張荒らし」を撮った。その間に「音楽」、その後に「動脈列島」、そして最後に傑作「大地の子守歌」「曽根崎心中」である。「動脈列島」は当時の僕の感じでは「新幹線大爆破」より面白かった。大映で一度も撮ってない人気シリーズ「悪名 縄張荒らし」は今では貴重な映画である。杉村春子、大滝秀治、中村雁治郎、太地喜和子らの今は見られぬ助演陣がすごいのである。十朱幸代もとてもいい。昭和の名スターを見る楽しみがある。
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