尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日光湯元は雪の中

2012年11月30日 01時07分28秒 | 旅行(日光)
 27、28で日光に旅行。何度も行ってるけど、行けばそれなりに新しい発見がある。今どき行ったのは、露天風呂工事に伴う「訳ありプラン」というのを見つけたからだが、工事日程がずれて結局露天も入れた。でも雪が降ってて寒くて一回入っただけだった。この時期に行ったのは初めてだけど、雪が積もっているとは思ってなかった。真冬のスノー・シューに行ったことはあるけど、11月で降ってるんだ。中禅寺湖付近はほとんど関係なく、戦場ヶ原付近でパラパラ。奥日光の一番奥の湯元温泉に入ると急に大雪になって、さらに一番奥の「休暇村」付近は完全に積雪状態。いや、ビックリ。部屋から湯の湖が見えるが、こんな感じ。
 

 最近よく書いてるけど、家の真ん前がまだマンション工事中で、遅くなると車や工事材料が道に並んで自分の車を出せない。だから今回も7時半頃には家を出てしまう。代わりに高速は使わず、国道4号を北上。今は「道の駅」が整備されているが、栃木県下野市の「道の駅 しもつけ」は素晴らしい。オシャレなお店が入っていて、おみやげも多い。ここは南部の小山市の北あたりにあるが、国道を道の駅に向かうと「薬師寺」という交差点がある。ああ、ここら辺が下野の薬師寺かあと思っていたが、今どうなっているのかは知らなかった。今回パンフを見つけて行ってみた。下野(しもつけ)の国は、古代の東国仏教の中心である。東大寺と九州大宰府の観世音寺と並んで、天下の三戒壇が置かれたのが下野の薬師寺である。戒壇というのは、僧侶が出家するための戒律を授ける(授戒)する場所で、鑑真が日本に渡航してようやく設置された。ここの薬師寺は、もう一つ重大な歴史的事件があったところで、奈良時代の終わりごろ、例の道鏡が失脚して流されたところ。女帝称徳天皇の寵愛を受け、一時は皇位をうかがったとかいうあの道鏡ですね。ここで2年後に死んで、道鏡塚もある。(今回は行ってない。)薬師寺はその後焼失するが、大正時代に史蹟に指定され、現在一帯の整備がなされつつあり、「下野薬師寺歴史館」が開設されている。でも一帯は畑地帯。回廊が復元されているが、途中という感じ。
  (遠くにあるのが歴史館)

 日光では、日光山内の三重塔を見た。今、東照宮の五重塔の心柱が特別公開されている。スカイツリーの構造に行かされたとか言う技術で、ちょうどスカイツリーくらいの標高のところに立っている。これはこの前見たけれど、近くに別の塔があることは僕は気付かなかった。神橋を渡って東照宮方向に行かず、すぐ右にある「史跡探勝路」の「本宮神社」とあるところを上がっていく。そうすると四本龍寺というお寺扱いになるらしいが、塔が立っているのである。小さいけれど。地元の人以外はほとんど知らない穴場的な史跡と言える。なお車は近くの「小杉放菴記念日光美術館」に停めたが、ここでは今アイスホッケーの美という写真展をやってて無料なんだけど、これを見ると駐車料も無料になった。東照宮の辺りを歩いていたら、奥の駐車場に銅像を見つけた。東照宮を作った棟梁という甲良豊後守宗廣という人で、滋賀県甲良町というところの人。滋賀に記念館があるらしい。名前も知らなかった。
 
 
 翌日は赤沼駐車場に車を置いて、小田代が原まで1時間ほど歩く。寒いのでそこから低公害バスで帰る。このバスも今月いっぱいで今シーズンは終わり。道は雪が硬く凍り、普段より歩きやすい感じ。今ごろは雪も少なく、道が平らにならされている。最近クマの目撃が多いが、さすがにそれはなく、野鳥(シジュウカラなど)を見ただけ。日光ではよく鹿や猿を見るが今回はどちらも見なかった。湿原も完全に冬枯れで、これはこれで美しいし、葉がないから風景はよく見える。快調なハイキング。写真で有名な「小田代が原のハルニレ」、よく「貴婦人」と言われるが、今回は冬の姿。
  

 それでもう戻ることにする。御用邸公園そばの「たくみ庵」で蕎麦を食べ、宇都宮へ。ここで宇都宮美術館へ寄る。ここは行ったように思ったけど行ってなかった。宇都宮環状道路を曲がって帝京大学の先。ちょうど紅葉真っ盛りの広い公園が素晴らしい。が、少し寒い。雨や夏の日は辛いだろうなと思うくらい、駐車場から遠い。マグリットの作品を買ったことで開設の時に有名になったけど、見に行ってなかったのか。マグリット展は東京で何度か見てるから記憶が定かでなかった。今回は「マックス・エルンスト展」をやっていた。コレクション展はなかったので残念。エルンスト展は日本にある作品が多いのでビックリ。好きな人は東京から行く価値がある展覧会だった。近くに「長岡百穴」という、埼玉の吉見百穴みたいな古代の墓地があり、そこによって帰った。
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映画「ミステリーズ 運命のリスボン」

2012年11月29日 23時51分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 長大な映画を今年は何本か見たけれど、フランス映画「ミステリーズ 運命のリスボン」も4時間26分の映画。なかなか行けなかったけれど、東京のロードショーは明日までなので、今日の夕方から見た。せっかく長いのをみたので書いておこうと思うけど、この映画は僕の好きなタイプの映画ではなかった。ただし、つまらないということはない。筋も面白く映像も美しい。舞台となる19世紀初頭のポルトガルでそのままロケしたような屋敷や風景が素晴らしい。でも、どうもあまり僕の中でヒットしないのは何故だろう。プログラムの中で古賀太氏が「どこかマノエル・ド・オリヴェイラやジョアン・セーザル・モンテイロ、ペドロ・コスタのような現代ポルトガル映画の香りがする。」と書いているのを読んで、そうだなと腑に落ちた。僕も何となく見ながらオリヴェイラみたいだなあと思っていた。僕はこれらの監督作品がどうもダメなのである。長いからかなあと思っていたけど、短い「ブロンド少女は過激に美しく」(オリヴェイラ)もダメだった。小説の語りをそのまま映像にしたようなスタイルがピンとこないのである。

 ラウル・ルイス(1941~2011)監督の最後の作品。100本以上の作品を作ったという、この監督。昨年亡くなったけれど、新聞に訃報も載らず、僕もよく知らなかった。「見出された時-『失われた時を求めて』より」や「クリムト」などの作品があると言うが、僕は見ていなかった。今年日仏学院で特集があったけれど、そこでも見ていない。元々チリの出身で、若くして活躍していたらしいが、1973年のCIAによるアジェンデ政権打倒クーデタ後にフランスに亡命した。フランスでたくさん作っているようだが、ほとんど公開されなかったので、僕は知らない。独自の表現で世界的評判になるまえに、実にたくさんの映画を作っているというのは昔の監督にはよくあった。ラウル・ルイスも途中で亡命して、生活のためにスター映画を量産していたのかもしれない。

 今回の「ミステリーズー運命のリスボン」という映画は、ポルトガルの19世紀の小説の映画化だという。そういう古風な文芸映画のムードが確かにある。ミステリーと言っても、犯罪が起こって犯人捜しというのではなく、血と運命にあやつられるまま恋と復讐があざなえる縄のごとく絡まりあっていく様を描いている。登場人物の出自の真相は何なのか、誰が誰の子で、誰と誰がどういう関係なのかが謎で、そういう話が何十年にわたり続いて行く。因果は巡る糸車という話で、マルキ・ド・サドの「恋の罪」という小説なんかもそういう感じで似ているなあと思った。背景はフランス革命とナポレオン戦争の時代。ポルトガルは直接は関係しないが、フランスに留学したり思想的に影響を受けたりしているので、関係が出てくる。時代としては波乱万丈である。

 身分制度は揺るぎ始めながら、まだまだ根強い。カトリック教会の力も強い。しかし、自由思想と恋愛という新しい時代も始まっている。ポルトガルでは新大陸の植民地ブラジルが独立しようという時代。ある孤児が修道院で教育を受けているが、姓も判らない、両親を知らないという状態でいじめられている。この子を心配する神父が実の母に合わせてくれ、いろいろ面倒を見てくれるが、この子もその神父も驚くべき運命のもとにあるのだった。という話が、複数の語りで視点を変えながら、紙芝居のような説明場面をはさんで、長大な物語を大河のように語っていく。何だか最後の頃になるとよく判らなくなってくるところもあるが、まあそういう映画。この前見た「演劇」も長かった。「カルロス」「ジョルダーニ家の人々」も長かった。けど、長い作品が公開されるのは、長いけど面白いからで、長くて長くて閉口したという映画は一本もない。でも肩や腰が疲れるし、お金も余計にかかる。短い映画でも値段は同じなので、あまり短いと損した気もするが、まあ2時間程度までがやはりいいなと思うよね。
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バハイ教とは何かー映画「庭師」のこと

2012年11月26日 01時44分31秒 |  〃  (新作外国映画)
もう午前1時なんだけど、レイトショーで映画を見て帰って来て一段落したところ。そのレイトで見たイランのモフセン・マフバルバフ監督久しぶりの作品「庭師」(The Gardener、2012)を東京フィルメックス映画祭でやっている。もう一回上映があって、12月1日(土)10時40分、有楽町朝日ホール(マリオンの上)。

 この映画を見たかったのは、これが「バハイ教」についての映画だからである。数年前に評判になったアーザル・ナフィーシーテヘランでロリータを読む」(Azar Nafisi、READING LOLITA IN TEHERAN、2003)という自伝を読むと、あまりにも非道なバハイ教徒への弾圧の様子が記されていて、一読すると忘れることはできない。イスラーム体制下のイランで、思想、宗教の自由がないことはもちろんよく知っているが、バハイ教徒の場合、親が死んでも墓をつくることさえできない。宗教弾圧という域を超えて、ちょっと日本の感覚では信じがたい。

 この「庭師」という映画は、イランの有名な監督であるモフセン・マフバルバフが長男とともに、イスラエルのハイファにあるバハイ教の世界本部を訪問したドキュメンタリー・タッチの映画である。しかし、作為と見られる場面もあり、親子で撮りあい議論が決裂し長男はエルサレムを撮りに行ってしまう。しかし、そういう彼らを撮っているカメラもあるのだから、演出的な部分だろうと思う。二人の違いは、親がバハイ教の平和の考えを評価するのに対し、子どもの方は宗教はすべて争いのもとになると主張することである。そんなこと言っていいのかな。冒頭で監督は信仰心がないことを告白しているし、イランで絶対認められないバハイ教を撮っている。しかも、仇敵のイスラエルに入国してハイファに行っている。勇気ある行為というのを超えて、イランに戻ることができるのか心配になる

 アッバス・キアロスタミやアミール・ナデリが日本で映画を作り、バフマン・ゴバディも今回上映されているトルコ・イラク映画を作っているように、もうイラン国内で映画を撮ることができないのかもしれない。それにしても大胆で、「反イスラム」行為と言われても弁明できないのではないかと心配してしまう。日本で見ている人はそこまでの危険な映画だと思わないかもしれない、穏やかな映画になっているけれど。

 映画の内容は、映画祭の解説のサイトを見るのが早い。「19世紀半ばにイランで創始された宗教、バハイ教世界平和を教義とし、他宗教への寛容といった特色を持つバハイ教は、イランでは布教を禁じられ、創始者バハオラがその生涯を終えたイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を構えている。モフセン・マフマルバフとその長男メイサムは、それぞれカメラを手にバハイ教の本部を訪れる。二人は世界各地から集まったバハイ教の信者たちにインタビューするのみならず、互いをカメラで撮りつつ、宗教について、また映画について、対話を重ねる。会話の中で次第に二人の世代的格差があらわになり、父に不満をぶつけたメイサムはひとりエルサレムへと向かう...。」
(ハイファのバハイ教本部)
 とまあ、そういう映画だけど、なんで「庭師」というかと言えば、この本部は美しい庭園になっていて世界中から庭園の庭師が来ている。パプア・ニューギニア、ルワンダ、アメリカから(白人と台湾人の間に生まれた青年である)。そしてモフセンは庭師に、さっきの親子喧嘩を聞いたよと言われ、でも息子さんは善人だと言われる。なんで判るのかと聞くと、「花が歓迎してる」と言われる。花が人間を見分けて、歓迎するんだそうで、彼にはそれがわかる。モフセンはビックリして庭師につき従い、カメラを植物のように植えて水をやったりする。それで「庭師」なんだけど、その美しい平和な庭園は素晴らしい感じではあるが、人間が手を入れて作った庭園を世界のモデルみたいに言われるのもどうかなあ。花はそれぞれ平和に個々で咲きそろう、これが理想らしいけれど。

 バハイ教はやはり一神教ではあって、イスラームにキリスト、ユダヤと言うだけではなく、諸宗教皆同じという考えで、シャカやゾロアスターも預言者として認めてるらしい各宗教いいとこどりで、平和や平等、教育の普及、偏見の除去、科学と宗教の調和、貧富の格差の緩和、アルコールや麻薬の禁止などを教義としているということだ。この教義はまあいい感じなんだけど、それは近代の目で見て人権の考え方に反していない部分が多いということだ。それを理性で納得できるわけだけど、それなら「理性信仰」があればよく、バハイ教信者になる意味はあるのかという気もする。つまり、自分で考えた結果として平和や平等は大事だなと思うからいいわけで、神様に言われて信仰として守っていくというのは何か違うのではないか。

 ここまでいいことをいっぱい言ってるんだったら、バハイ教だけあればいいような感じだけど、そこまで思ってしまえるんならバハイ教さえいらないということになるはずではないのか。神様は人間という不完全な生き物に、そんな合理的な信仰をのみ伝えたのだろうか。断食せよとか、死後に復活したとか、ムチャクチャを言うのが宗教というものだというところが大事なんではないか、などと思ったわけである。だからきっと全世界がバハイ教になったら、バハイ教が抑圧の道具にされるんではないか。そういう長男の考えに僕は近いかもしれない。

 さすがにイラン国内の弾圧は出てこないけれど、バハイ教の世界本部という不思議な場所を見ることができるという意味で、とても興味深い映画。イラン映画というより、宗教、思想、倫理などに関心がある人向けだと思うけど、見た価値は十分あった。マフバルバフ監督は娘二人と妻も映画を作る映画一家だけど、大統領選以後映画がなかった。このバハイ教の平和の教えが広まっていれば、イランも核兵器を作らないなどとずいぶん「危険な発言」をいっぱいしてて、日本で見てる分には大賛成の中身なんだけど、ホント監督一家が心配。
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ポール・セロ―のユーラシア大陸鉄道大冒険

2012年11月25日 00時53分15秒 | 〃 (外国文学)
 ポール・セロー(Paul Theroux、1941~)というアメリカ出身の作家がいる。僕が学生の頃、ユーラシア大陸の鉄道を乗りまわった「鉄道大バザール」(THE GREAT RAILWAY BAZAAR、1975)という本が大評判になった。鉄道ファンでもある作家の阿川弘之訳で1977年に出版され、新人作家の長大な紀行ものにも関わらず(日本が登場することもあって)、ずいぶん話題になった。でも、厚くて高い本だったから当時は読まず、文庫本も出たのだが買わなかった。今度講談社文芸文庫で再刊されたので、上下で1600円×2=3200円と単行本より高いくらいなんだけど、思い切って買ってしまった。合わせて650頁くらいになる。(ポール・セル―という名前で出されている。しかし、この人の本は「セロー」と書かれることの方が多いので、セローと書く。)

 ところで、このポールさんは21世紀になって、ほぼ同じ旅程を再訪することを思い立ち「センチメンタル・ジャーニー」に旅立った。最初の旅の時はベトナム戦争の影を旅していたが、2回目の旅はイラク戦争を背負う旅となった。日本も再訪している。この本が「ゴースト・トレインは東の星へ」(Ghost Train to the Eastern Star、2008)として出版され、2011年に西田英恵訳で翻訳された。上下2段組で560頁、3600円もする厚くて高い本。図書館で借りて読んだけど、読んでるうちに最初の方の国は忘れていってしまう。間に1冊別の本(「ふがいない僕は空を見た」)をはさんで、ここ2週間くらいずっと読み続けた。鉄道本だと思っては間違いで、鉄道を使って各国の民衆とも触れ合う本。鉄道から見た国際関係論みたいな感じで、2冊を読み比べると、この30年という月日を考えることになる。この素晴らしい読書体験は、是非アジアと鉄道と旅と文学が好きな人にお勧めしたい。(僕が思うに、今書いた順番でおススメで、アジアや鉄道ファンの方が、単なる文学好きより興味深いと思う。)
 
 この数年、セローの新刊本は一冊しか出ていないと思う。村上春樹訳で「村上春樹翻訳ライブラリー」に入っている「ワールズ・エンド(世界の果て)」という短編集である。どんな話かと思うと、ワールズ・エンドというのはロンドン郊外のバス停の名前なのである。この短編集はすごく面白くて、他にセローの本はないか探した。1986年にハリソン・フォード、リバー・フェニックス主演で映画化された「モスキート・コースト」の原作者がセローだったけれど、もう絶版になっていた。その他、アメリカ大陸や中国や地中海、アフリカなどを旅した本がいろいろあるようだけど、未翻訳が多い。だから最近の日本では、鉄道ファンよりも村上春樹ファンに知られていただろう。2回目の旅では、その村上春樹と会って「トーキョー・アンダーグラウンド」を回っている。この部分は必読である。

 アメリカ人で鉄道好きというのもなんか不思議な感じもするけど、ボストンの生まれで60年代に青春を送った世代なのである。大学を出た後、「平和部隊」に参加してアフリカのマラウイに行き、その後シンガポールの大学で英文学を教える仕事を見つけた。しかし、シンガポールの抑圧的な体制にそぐわず再任を拒否され、ロンドンで細々と作家をしていた。妻子を抱えた無名作家として追いつめられていたセローは、鉄道でロンドンからアジアを回ってみようと思いついたのである。

 最初の旅のルート。ロンドンを15時30分に起ってパリへ。オリエント急行で、スイス、イタリア、ユーゴスラビア、ブルガリアを経てトルコへ。続いてイランへ行って東北部のマシャド(メシェッド)まで鉄道で。飛行機でアフガニスタンへ行き、カイバル峠を鉄道で。パキスタン、インド、スリランカの大旅行。カルカッタからビルマのラングーンへ。ビルマ北東部まで鉄道へ。戻ってバンコクへ飛行機で。タイからラオス、マレーシア、シンガポールへ。南ベトナムへ飛行機で行き、ユエの鉄道へ。サイゴンから飛行機で東京へ行き、札幌、京都まで。横浜からナホトカへ船で行き、シベリア鉄道でソ連を横断、モスクワ、ワルシャワ、ベルリンを経てロンドンへ戻る。

 ちょっと細かく書いたので、世界地理に詳しくないと判りにくいと思うから、後で地図を載せておく。この30年でずいぶん変わってしまった。まずなくなってしまった国が、ユーゴスラビア、南ベトナム、ソ連と3つもある。政治体制がガラッと変わってしまったのが、旧ユーゴ諸国、ブルガリア、イラン、アフガニスタン、ラオス、ベトナムである。1979年のイスラム革命以後、アメリカはイランと断交したままだから、もはやセローはイランに入国できない。アフガニスタン、パキスタンもアメリカ国籍の人が旅行するのは危険な感じだから避けて通らざるを得ない。

 代わりに中央アジア諸国に鉄道で行けそうだ。ということで、二度目の旅は、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアを経てトルコへ。そこからグルジア、アゼルバイジャン。カスピ海を横断してトルクメニスタン、ウズベキスタンを経て、飛行機でインドへ。スリランカ、ミャンマー、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、中国(昆明だけ)を経て、日本へ。そしてロシアをシベリア鉄道で横断して帰る。それが今回のルートで、カンボジアが初めて。ベトナムはアメリカと戦争した国を訪ねることになる。戦争や歴史を考えるという点では、年齢を重ねたということもあり、今回の方が深い感じ。でも、最初の旅は「青春の旅」の勢いと「昔の匂い」がある。どっちがどっちとも言えないが、同じところを訪ねているところもあるので、「鉄道大バザール」を読んでから「ゴースト・トレイン」を読む方がいい。
 (左が1回目の旅)
 2回目の旅行は、セローが有名作家になったからか、いろいろな人に会っている。トルコでオルハン・パムク(ノーベル文学賞作家)、スリランカでA・C・クラーク、日本で村上春樹である。村上春樹の章は、合羽橋に行き、浅草の並木薮で蕎麦を食べ、ポルノショップに行く。東京大空襲や地下鉄サリン事件を論じながら。そしてメイド喫茶に行って、日本の男の性的欲望の構造を考察する。マンガその他を通して見えてくるものは日本男性として恥かしい感じがするが、一読の価値ある部分である。村上春樹がテレビにも出ずあまり顔を知られていないことで、こういうことができるのを知るのも面白い。しかし、それ以上に火星人みたいなアーサー・C・クラークの姿こそ忘れがたい。この「2001年宇宙の旅」の原作者として知られるSF作家は、後半生をスリランカで送ったことで有名だった。

 最初、オリエント急行のあまりのひどさに絶句する。今はパリへもトンネルで行けるし、津軽海峡もトンネル。(最初の旅は青函連絡船だった。)トルコの発展ぶりは目覚ましい。インドも大発展してバンガロールも訪れるが、人が多すぎる。タイやマレーシアも安定して発展している。ベトナムはアメリカ人が旅行して戦争の話もするが、実に印象的。一回目の旅は73年で「停戦協定」は結ばれたが、内戦が続いていた。もう大変な中を旅しながら国土の美しさに感動している。こういう美しい国だから、フランスが植民地化し、アメリカも出てきたのかと書いている。2度目の旅では素晴らしい経済発展ぶりで、人々の向上心に感心しながら旅している。一方、前回はとても入れなかったカンボジアでは、何年たってもポル・ポト時代の負の遺産が大きい。今も苦しむ様子が印象的である。

 変わっていないのはビルマで、国名だけミャンマーに変わったが、抑圧体制は不変。2005年当時の話である。会う人々皆が軍を嫌い、アウンサンスーチーを待ち望んでいる。北部のマンダレーから少し行った英国が開発した避暑地で、懐かしい再会がある。このビルマ、ミャンマーの章が一番感動的である。この本の出版後に劇的に変化したことがうれしい、一方、「中央アジアの北朝鮮」と言われていた、ニヤゾフ独裁下のトルクメニスタンの、バカバカしいほどの個人崇拝と独裁ぶりも描かれている。よく入国できたものだが、そんな作家という情報も持ってなかったんだろう。独裁者ニヤゾフはその後急死したので、貴重なドキュメントになった。

 日本では北海道を訪れ、稚内まで行って「稚内温泉童夢」に行っている。ここは僕も行ったけど、日本一の温泉という訳では全くない。他の温泉に是非連れて行きたくなった。マレーシアを鉄道で旅したこともあり、クアラ・ルンプール駅の素晴らしさは僕も知っている。行きたくなったのはスリランカ。最近は車で行ってしまうけど、寝台列車の旅もしたくなってきた。アジアの香辛料の匂い、日本の蕎麦も含めたヌードルの旅でもある。このスパイス臭がダメな人にはこの本は無理だが、全体に漂うアジアの香辛料のムードが懐かしいという人には、この本は忘れられない読書になるはずだ。
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「大学は多すぎるのか」問題

2012年11月24日 00時47分38秒 |  〃 (教育行政)
 一度書いておきたいと思っていた「大学設置」の問題。読書科の話を書いた流れで、大学の問題も書いておきたい。もともと田中真紀子文科相が、3つの大学の認可を認めなかったという問題から起こった話である。その話を聞いた時には、乱暴な話だなあと思い、早く認可されればいいと思ったけれども、田中真紀子という人のことだから自己正当化に努めて問題はこじれ、野田首相の任命責任が問われる展開になるのではないかと思っていた。案外早く文科相が翻意して早々に認可されたので、ゴタゴタせずに解散に踏み切れたということになる。(田中文科相におかれては、残り少ない任期の中で「朝鮮学校への授業料無償化適用」を決断して欲しいと思う。)

 なんで乱暴な話だと思ったかというと、「教育政策は学年進行でなければならない」からである。「行政の継続性」という観点から問題だと言った人もいるが、そういうことを言いだしたら政権交代しても何も政策を変えられなくなる。できるかできないかは別にしても、普天間基地を国外に移転させたり、八ッ場ダム建設を凍結したりすることは、それ自体がやってはいけないということではない。だから「大学設置基準が問題だ」と言うのは構わない。(内容が適切かどうかは別。)だけど、今の高校3年生の中には、その大学が設置されると思い進学しようと考えていた生徒がいるわけである。教育の政策というのは、ある日突然全部変えてしまうということはできない。学習指導要領なんかでも、今の生徒が卒業し、新しい生徒が入って来たら、その新しい生徒から新要領が適用になるというように順々に変わっていく。これを「学年進行」というが、そういう風に変えていかないと、教育の問題では子供が困ることになるのだ。

 ところで、案外田中文科相の問題提起は受けているらしい。岡田副首相なんかも「認可されたときには、建物が全部作られているというのはおかしいと思う」などと発言していた。アレレ、岡田さんでもそんなこと言うんだ。もちろん認可の時期をもっと早くすることはすぐにできるだろう。しかしそうなると、「文科省が正式に認可して、学生を募集してしまった」というのに、4月になっても校舎が出来上がらず、教員も決まってないということが起きるに決まっている。そんな不条理に比べれば、事前に協議しながら進めて、全部出来上がったかどうか確認して「正式認可」にする方がいいに決まってる。もちろん「2段階認可」というやり方もあるだろうが、現在だって事実上はそうなってるに違いない。一番の問題は、いつ学生の募集開始を正式に認めるかで、秋には推薦入試が始まるんだから、その頃までに校舎も作り終って、それを確認して正式に認可するというスケジュールになるしかない。誰がやっても、そういう時期の設定になってくるに違いないと思う。

 そういう問題もあるが、「大学が多すぎる」という根本の問題はどう考えるべきか。僕もそれはじっくり考えるべき問題だと思う。印象論で、昔の大学生=エリートというような感覚で、エリート育成論にしてはいけないと思う。大学が多く、大学生の質が低下しているというなら、大学を減らして大学生を減らせばいいわけである。高校は9割以上が行っているわけだから、大学が減れば「高卒」が最終学歴になる若者が増える高卒が増えると何かいいことがあるのか。今だって高卒の求人が厳しいんだから、就職口が急に増えるはずがない。大部分が「フリーター」になって、将来の見通しもなくなるに決まっている。というか、実際に大学を減らしたりすれば「専門学校」がその分増えることになるだろう。「質の低い大学生」であっても、高卒よりは勉強しているはずで、フリーターでいるよりも社会にとっては益になるだろうと誰でも判ると思うんだが。

 もう一つ、別の問題がある。今年になって群馬県高崎市の創造学園大学というところが認可を取り消されるという事態が起こった。それを見ても大学は多すぎるという人がいるが、その議論を進めていくと、地方の大学からつぶさないといけなくなる。子どもの学力と親の経済力さえあれば、多くの人は東京や大阪、京都の大学に行きたいと思ってるだろう。医学部なんかは地方大学をねらう人もあるが、東大医学部に入れるんならそっちを選ぶだろう。東京の大学だっていっぱい出来過ぎて、不況で仕送りが大変な地方の学生が集まっていないという。しかし、それでも地方の大学より、大都市にあるというだけで恵まれている。その地域に一つしかないというような大学は、単なる高等教育機関ではない。若者の存在自体が町の活性化になり、文化活動の中心となる。そういう地方の大学を減らすのはおかしい。大学が多すぎる、減らせとなると、確実に地方にしわ寄せがいくのではないか。

 ところで、日本の大学は今およそ5割の進学率になっている。子どもの半分が大学へ行くのか。そう言えば多いという感覚も判らなくはない。しかし、高卒の就職者を求めるような産業構造はもう変わってしまったので、二度と戻って来ない。研究者をめざす大学ではなく、英語やIT技術を使いこなす「新しい国際感覚」を持った人材育成は、高校までではなかなか出来上がらない。昔の大学生を求める人は、それを大学院卒に求めるべきだ。僕の基本認識はそういうものである。

 そこから考えて行くと、世界の先進諸国を見ても、日本の大学進学率はもっと高くするべきだ。23日付朝日新聞で鈴木寛参院議員が挙げているデータを見れば、米国70%、韓国71%、オーストラリア91%、フィンランド69%、スウェーデン69%などとなっている。韓国にこれだけ差がついているのは何故か、誰か解説して欲しい。しかし、今すぐ日本でこれだけの大学進学を進めるのは無理だ。高校までで「勉強はもういい」と思う生徒がかなりいる。高校までの勉強を変えていく必要がある。と同時に、「勉強したことが生きる社会」「不勉強で発言することが認められない社会」にしないといけない。石原前都知事を初め、あれだけ基本資料集も出ているのに「南京大虐殺はなかった」などと不勉強な発言をしても社会的に生き残ってしまう社会では、誰もマジメに勉強する気にならないだろう。

 それと経済の問題。経済力の問題で大学へ行かない選択をした人がたくさんいる。今の日本の大学教育の最大の問題は学費が高すぎるということだ。これも諸外国と比べて欲しい。国が前面に出て、すべての奨学金は無利子にするべきだ。まずやるべきことは、大学減らしではなく、高校に続いて、大学生の学びへの支援を厚くすること

 ということで、僕の考え方は正反対。大学が多すぎる、大学生の質が低いなどという経済人は、まず自社で高卒の求人を大胆に大量採用するべきだ。そういうことをしないで、大学生の質などという「他人に責任転嫁」をするような経済人がいるところでは、企業も停滞するはずである。
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江戸川区の「読書科」

2012年11月23日 23時31分11秒 |  〃 (教育問題一般)
 江戸川区の小中学校で、「読書科」という授業が導入されている。と言っても、主には「総合学習」で行われているという話だが、年間25時間以上実施するということである。江戸川区教委が昨年導入を決めたもので、一体どういうことをやってるんだろうかと思っていたら、11月22日付の東京新聞が報じていた。小学5年生への授業の様子が写真入りで出ている。


 僕が関心を持っていたのは、1983年から1992年にかけて江戸川区の中学に勤務していて、その時に「朝読書」などの活動を行っていたからである。中学校では、よく朝の時間に「朝自習」が行われている。(その間、教員は朝の打ち合わせになる。生徒の登校時間が打ち合わせ前に設定されているので、生徒だけの時間があるわけ。)この時間を使って、読書を進めようというのは全国で70年代から行われてきたという。僕が関わっていたのは、1985年から1991年に担任をしていた期間。ウィキペディアで検索してみると、1988年から船橋学園女子高校で提唱されて有名になったと書いてある。(ちなみに、船女も今は東葉高校というらしい。)僕がやったのは、当時の学年主任の先生のアイディアで、全国初とは当時も思ってなかったが、先駆的な試みだと思ってやっていた。当時もそういう読書活動をしている学校があるという話は聞いていたと思う。

 僕は自分が本好きだし、朝自習をやる効果よりも読書の方が効果があるのではないかと思い、かなり熱心に取り組んでいた。社会の教員というのは、大体旅行行事担当が回ってくるのだけど、それ以外に自分で立候補して学年の図書委員会の指導も担当させてもらった。(もちろん他にもたくさん仕事の分担はある。なお、大体図書委員会担当というのは国語の先生に割り当てられることが多いので、あえて「立候補」したわけである。)毎週、図書委員会ニュースを発行したりした記憶がある。図書室の予算は限られているので、国語の教員がやると「小説偏重」になる場合もある。生徒の中には、部活に熱中してるスポーツ少年やお菓子作りが大好きな少女などがたくさんいる。小説も大事だが、スポーツ上達や料理、科学や世界情勢なんかを判りやすくヴィジュアルに伝える子供向けの本もたくさんある。そういう本にまず接するのも悪くない、と僕は思っていた。そういう本もできるだけ買うようにした。

 あとは教員が読まないといけない。世の中で話題の本はできるだけ臨時の予算があれば買うことにして、生徒と一緒に教員も本を読む態勢ができるように努めた。本当はもちろん、専任の司書がいればいいのである。しかし、いなかった。全国すべての小中学校に、専任の司書を!これは本好きな子どもへの進路指導にもなる。保健室の養護教諭と連動して、生徒のいじめ相談などが寄せられる「窓口」にもなりうる。その問題もいずれきちんと書いてみたいと思っているが、とりあえず江戸川区の「読書科」を知らない人も多いと思うので、新聞記事の紹介。
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J・M・クッツェーの文学と「遅い男」

2012年11月23日 00時03分01秒 | 〃 (外国文学)
 本や映画に関して自分の備忘のために何回か書いておきたい。書いておかないと忘れてしまうから。まずは昨年暮れに出た本で、ちょっと前に読んだJ・M・クッツェー「遅い男」(J.M.Coetzee Slow Man、早川書房)の話。小説を読みなれた人でないと推薦はできないけれど、大変な問題作で小説愛好家なら読んでおきたい本。ただ、クッツェ―は他に先に読んでおきたい本がある。特に「エリザベス・コステロ」という小説は、本作と密接な関連があり先に読んでおかないと著者のねらいがよく伝わらないだろう。

 そもそもクッツェ―とは何者かという人も多いと思うけど、2003年のノーベル文学賞を受賞した世界的な作家である。イギリスの有名な文学賞であるブッカー賞を2度受賞したことでも知られている。ノーベル賞を取った時点では国籍が「南アフリカ」とされていた。南アフリカ国籍でノーベル文学賞を受けた人には、ナディン・ゴーディマという女性作家がいる(1991年受賞)。ゴーディマもクッツェ―も反アパルトヘイトの言論で知られていて、僕もそういう関心で読んでいた。しかし、その後大傑作の「恥辱」という小説が、政権政党となったANCに批判されたこともあって、クッツェ―はオーストラリアに転居してしまった。民族的には1940年生まれのアフリカーナ―(数百年前から住みついて土着化しているオランダ系の人々で、アフリカーンス語を話す。アパルトヘイト体制を作った人々)なんだけど、英語で書いてきた。イギリス、アメリカに住んで、本当は米国市民権が欲しかったというが、ベトナム反戦運動に参加してふいにしたらしい。だから一貫して英語で表現してきた作家であり、南アフリカからオーストラリアに居を移しても、「亡命」とか「移民」とは言えない。今はアデレードに住んで、この小説もそこが舞台になっている。

 日本でも結構翻訳されていて、「夷狄を待ちながら」(1980、集英社文庫)、「マイケルK」(1983、ちくま文庫、ブッカー賞)、「恥辱」(1999、ハヤカワepi文庫、ブッカー賞)と3冊も文庫本が出ている。池澤夏樹編集の世界文学全集(河出)には「鉄の時代」(1990)が収録されている。他にも翻訳は出ているが僕は読んでいない。これらの作品を読んでみると、特に最初の2冊はどこの話かも判らない寓話的な話になっている。「夷狄を待ちながら」は、ある帝国の辺境の地で民政官を務める男の目を通して、その地へやってきた軍隊を描く。軍の拷問や強硬路線を批判する話とも読めるが、同時に「夷狄」を必要とする「帝国」の構造を寓話で描く作品とも言える。開高健の「流亡記」やベケット、別役実を思わせるような「不条理劇」という感じの作風。それは「マイケルK」も同じで、内戦が激化し母親を連れて故郷を目指す男の話である。これらは発表当時の南アフリカの厳しい言論状況を考えて、発禁にならないように寓話的に書いたと言う。が、それだけでもないだろう。クッツェ―は本質的に方法的な実験をする作家であり、寓話として世界を語る作家だと思う。だからアパルトヘイトという「政治的課題」が一段落しても、世界の構造としての暴力を描いているから古びていない

 アパルトヘイト体制下のケープタウンを一番描いているのは、「鉄の時代」だろう。ガンに侵された老女性がアメリカに住む娘にあてて書いた「遺書」を、いつのまにか家に住みついてしまう「ホームレス」に託すまで。「病気」と「暴力」を描きつつ、黒人少年への警察の暴力を告発する姿が印象的で、差別と暴力の構造を余すところなく描く。「恥辱」になると、もうアパルトヘイトは終わっている。白人で初老の大学教授が女子大生と性的関係を持ってしまい大学を解雇される。疎遠だった娘がいるのだが、彼女はさまざまな遍歴の結果、今は農業をやっていて、結局そこに転がり込む。その娘は黒人支配体制下で生きて行かなくてはならず、性暴力に見舞われ、どんどん変容していく。大変面白く、読みやすい風俗小説の趣もあるが、「性」「暴力」だけで読んでしまうと、この小説が持っている方法的な「毒」が見えにくい。ある男の「転落」を描きつつ、ここでも「暴力」が変える社会のありさまを寓話的に描いている。その黒人社会の中の「暴力」の描き方が、民族文化批判のように受け取られて、クッツェ―は南アフリカを離れた。しかし、たぶん彼はどこにいたときも「内的亡命者」として生きていたのではないかと思う。

 そしてノーベル賞を受け、オーストラリアに移った後の最初の作品が「エリザベス・コステロ」(2003)だけど、一体これは小説なのか。エリザベス・コステロなるオーストラリア女性の老作家が抱く様々な文学、哲学、社会評論がこの「小説」。架空作家だから「小説」と言えるが、中身は評論集と言った方がいいし、ほとんど彼自身の意見を書いているところもあるようだ。ただ本の中では、女性作家の意見という形で進行する。作家が自分の代わりのような人物を作品に登場させることはよくあるけど、性を変えて登場させるのは珍しいし、ほとんど論評だけというのも珍しい。

 そして「遅い男」。冒頭で交通事故。自転車に乗っていた初老の男が片足を失う。「突然の障害」という人生の転機がやってくる。離婚した妻はいるが、事故時点では独り身の自由を生きてきたけれど…。しかし「障害」が介護を必要とし、介護士が派遣されるようになる。なかなか小うるさい男で、文句が多いが、あるクロアチア人の女性が来るようになると、素晴らしさを「発見」し、次第にあらぬ欲望を覚えていく。夫と二人の子もいるというのに。クロアチアについて調べたり、ちょっと近づいたり、いろいろあって…。ここまででも、「障害」と「老い」と「性」を、「介護」という視点で描いた問題作で、「介護文学」とも言える。障害そのものが人間にとって異文化で、それをクロアチア女性が担うことによって、まさに異文化体験となる。ところがこの小説はそこに止まらない。突然小説内にエリザベス・コステロなる老女性作家が乱入してくる。前作の主人公である。この女性は「影の作者」なのだから、これは小説内に作家が入り込んでしまったというのに近い。しかし、作家そのものではないので、女性として男性主人公と相談し、物語の結論をつけていく。もちろん介護士が夫と離婚し主人公と結婚するというようなことはありえないだろう。だけど、なんか彼女の役に立ちたい。長男の私立学校進学を支援したい。それならいいのでは。でも夫は納得できない。ここに長男が登場する。これがまた傑作な登場人物で、現代世代の若さが老人世代の二人を圧倒してしまう。メチャクチャなんだか、思いやり深いのか。いい加減なんだか、計算高いのか。生き生きと現代青年の姿が描かれている。

 そういう「メタ小説」であると同時に、障害者と健常者、老人と若者、男と女、定住者と移民、など様々の「二項対立」が作品内で意味が変わっていく様子が描かれていく。「介護と老いと性」という「危険だけれども、安全なテーマ」が「脱構築」されてしまう。後半は議論が多くて、けっこううっとうしい作品でもあるけれど、小説の方法としてもテーマとしても、大変な問題作。小説が好きな人なら、名訳で読みやすいと思う。クロアチア移民の姿も印象的だが、特にどんどん適応していってオーストラリアの軍人になりたいと思っている長男が印象的である。重要な作家の重要な作品
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カリフォルニア・ドールズ

2012年11月21日 21時59分18秒 |  〃  (旧作外国映画)
 シアターN渋谷という映画館が12月2日で閉館する。昔ユーロスペースがあったところで、7年前にユーロスペースがBunnkamuraの近くに移転した後に、新たな名前で映画館をやっていた。そこの最後の番組の一本として、1981年のアメリカ映画、ロバート・アルドリッチ監督作品、「カリフォルニア・ドールズ」をやっている。なんでも音楽の著作権問題でDVDが発売されていないという。公開当時見て、ものすごく面白かった記憶があって、もう一度見てみたいと行ってきた。いやあ、面白い。昔の映画だから、多分知らない人の方が多いと思うけど、だまされたと思って見て欲しい映画。ただし、女子プロレスの映画なので、格闘シーン満載である。他人が映画の中で殴られているのも耐えられないというくらいの、身体共感能力豊かな「平和主義者」には辛いかもしれないが。そうでなかったら、痛快なアクション映画で素晴らしいロード・ムーヴィーを楽しめること請け合い。
 
 ロバート・アルドリッチ(1918~1983)という監督は、1954年の「ベラクルス」というアクション映画で知られるようになった。以後「攻撃」「何がジェーンに起こったか?」「特攻大作戦」などの映画を作った。戦争映画、西部劇、サイコ・サスペンスなどアクションを中心に多彩な娯楽映画を作った監督である。70年代になると、ホーボー(鉄道タダ乗りの放浪者)と鉄道警備員の闘いを描く「北国の帝王」(1973)、バート・レイノルズが囚人のアメリカン・フットボールチームを活躍させる「ロンゲスト・ヤード」(1974)などの忘れられない「男の闘い映画」を作った。今回同時にリバイバルされている「合衆国最後の日」(1976)も含めて、ほぼすべて男性アクション映画である。そういうアルドリッチの遺作になってしまったのが、この「カリフォルニア・ドールズ」(1981)で、82年のキネ旬ベストテン8位に選ばれた。唯一のベストテン入選であり、女性中心の映画という意味でも珍しい。

 スポーツ映画はアメリカで数多く作られている。ボクシングと野球が一番多い。もう枚挙にいとまないほどの名作が作られてきた。大体パターンは決まっていて、弱い球団、年老いたボクサーなんかが人間としてのプライドを掛けて最後の闘いに挑む。しかし、やられまくって、もうダウン(引退)寸前であるが、家族とか偏屈な名監督なんかの助言で、奇跡が起こるかもしれない。頑張れ!頑張れ!起これよ、奇跡! そして大体奇跡のような勝利が舞い込むわけである。判っているけど、演出と演技で迫真のスポーツシーンになると、見てる側も熱中してしまうし、驚くような技で逆転するのがカタルシスを呼ぶわけである。

 まあ、そういう意味では、この映画もスポーツ映画の定型に当てはまっている。ただし、女子プロレスというジャンルが珍しい。そしてマネージャー役の男性と3人組でアメリカ各地をおんぼろ車でドサ回りする。このマネージャーがピーター・フォーク。オペラを流しながら、小金を求めてさすらいの旅を続けながら、なんとか這い上がろうとする落ちぶれた男を大変印象的に演じている。正直言って、もう刑事コロンボと「ベルリン・天使の詩」しか覚えていなかったんだけど、この映画も記憶しておかないといけない。「誇り高き頑固者」を全身で演じている。

 ピーター・フォークがなんとかして取ってきた「トレドの虎」というチャンピオンとのノンタイトル・マッチ。敵地の試合なので当然負けるべきところ、「カリフォルニア・ドールズ」は本気出してアウェイで勝ってしまう。以後宿敵となった両者が合計3度闘う。泥んこになって裸になっちゃうアトラクションなんかに嫌々出ながら、だんだんレスラーの階段を上っていく「ドールズ」の二人。嫌味な興行師と泣く泣く付き合って「トレドの虎」とタイトルマッチ。雌雄を決する最後の決戦は、荒れに荒れ、もう残り一分、負けに決まってるんだけど…。この最後のプロレスシーンは、とても見応えがあって、興奮必至。

 ボクシング映画だと大体、八百長を持ちかけるギャング組織が敵役になるんだけど、この映画ではそれはない。まあ、プロレスは興行色が強く、いまさら八百長を仕掛けるようなものではないのかもしれない。女子プロレスには、八百長ではなくセクハラ。高校中退で今さら仕事するにも大した仕事はない。なんとか2人+男1人で、プロレスで頂上を目指すのだという、そのど根性。そして最後の闘いにかけた秘策とは…。これは紅白歌合戦かと思うシーンにボー然。観客はほとんどドールズの応援になってしまう。

 男のプロレス映画では、「レスラー」という名作映画が数年前にあった。韓国で作られた「力道山」も忘れがたい。女子大生のプロレス(学生だからプロじゃないけど)を扱った日活ロマンポルノ「美少女プロレス 失神10秒前」というのも今年見たけど…。またプロレスの記録映画も数多い。しかし、プロレス映画の最高傑作は「カリフォルニア・ドールズ」にとどめを指すと思う。これはスポーツ映画というジャンルではあるが、同時に「元気で頑張る女性映画」というジャンルの傑作でもある。「テルマ&ルイーズ」(1991)とか。あるいは「ビッグ・バッド・ママ」(1975)というトンデモナイ女性ギャング映画があった。「フライドグリーントマト」(1991)なんかも南部を生き抜く女性の強さが印象的だった。アメリカの大衆映画の中に脈々と続く、「元気な女たち」の映画というジャンルの一本でもあるだろう。面白くて元気になる映画を見たい人は是非。

 なお、「ロンゲスト・ヤード」も「午前10時の映画祭」でやっている。これからあちこちで見られる可能性があるが、是非見ておきたい傑作である。ちょっと「お下品」なとこもあるけど。「もう一度見てみたい」って、「ロンゲスト・ヤード」を公開の時に見た人はそれほど多いわけでもないでしょうに。よく「午前10時の映画祭」に入ったもんだ。誰か大ファンがいたのか。僕は大学に入ったばかりの時に、蓮見重彦さんの「映画表現論」を取ってしまった。立教大学に来ていたのである。蓮見氏は「ロンゲスト・ヤード」とドン・シーゲルの「ドラブル」を見に行くようにと指示を出した。まあアート映画ではなくて、この両作を見せたいというところに特徴があるが、学生がロードショーを見るのは大変である。なんで見せられたんだと思いながら見た記憶があるのが、「ロンゲスト・ヤード」である。面白かったですけど、名画座で見ればいいような気がしたのも事実である。これもスポーツ映画の代表作と言える。

 シアターN渋谷は、ユーロスペース時代というか、その前の「欧日協会」の時代から映画を見てきた。世界の珍しい映画を見ることが多かった。スイスの映画監督アラン・タネールの「ジョナスは2000年に25歳になる」「光年のかなた」の連続上映というのが思い出に残っている。ドイツの「鉛の時代」「秋のドイツ」もここで見た。ペドロ。アルモドバルの初期作品もここで知られていった。ヒットしたのは何と言っても「ゆきゆきて神軍」だろうか。80年代、90年代の名作、問題作の多くをこの場所で見た思い出の場所だったのだが。
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記録映画「演劇1」「演劇2」

2012年11月21日 00時22分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 想田和弘監督が、劇団青年団を率いる劇作家、演出家の平田オリザに密着取材した記録映画「演劇1」「演劇2」を見た。これが滅法面白いんだけど、合わせて5時間42分もあるから、一日がかりとなる。用事があったり体調が悪い時はいけない。そうこうしているうちに時間が経ってしまった。当初は23日まで上映かと思っていたが、24日以後も朝の上映があるようだ。ただし、2本連続では見られない。渋谷のシアター・イメージフォーラムで。


 想田監督は「選挙」「精神」などの「観察映画」を作ってきた。今回は劇団のまさに「舞台裏」をつぶさに「観察」する。ナレーションや映画のテーマのようなものは提示されない。平田オリザは「静かな演劇」と言われるような、「現代口語演劇」を作ってきた。はっきり言って、どっちもそれほど面白いものではない気がするんだけど、映画はマイナスとマイナスを掛けたような面白さに満ちている。

 「演劇1」は主に青年団の劇団活動を中心に追っている。多分、どんな世界でも「舞台裏」をのぞくことは楽しいんじゃないかと思う。特に平田オリザの演出が「秒単位」で役者のセリフを訂正していく様が「観察」されている。これはなかなか面白い見物で、どうしてああいう「静かな演劇」が出来上がるかが示されている。劇中で劇団員がロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」というフランス映画を見ている場面がある。ブレッソンのこの映画は、「少女ムシェッと」と並んで僕は好きな映画だけれど、他のブレッソン映画は僕にはつまらない。そのつまらなさは、こうしてみると平田オリザの劇世界と似ている。俳優を劇世界の「道具」として使い、世界の原形質を露呈させていく。そういう考えなんだろうけど、そうして現れた世界はあまり豊饒な感じがしない。

 平田オリザが書く演劇論などは非常に面白い。非常に面白いし、読んで役に立つ。この映画でも平田オリザが演劇のワークショップを行う場面が多く撮影されている。特に「演劇2」では、鳥取県倉吉の中学で演劇の授業を行う場面、そのあと教師向けにワークショップを行う場面がかなり長く撮影されている。この場面は非常に面白い。中身的には確かに平田の本に出てくるような場面なんだけど、本を読むより実際の映像で見る方が判りやすいし、実際の中学生の反応が判る。

 そのような平田オリザの社会的活動、演劇の社会的役割などの場面が「演劇2」には多く出てくる。鳥取の「鳥の演劇祭」では「ヤルタ会談」という劇を上演し、県知事や市長と歓談する。また冒頭では、撮影当時(2008年)には野党だった民主党の、今は政権中枢にいる玄葉外相、前原国家戦略相、細野政審会長、古川前国家戦略相などの顔が見える。「冒険王」という外国を放浪している日本人を題材にした劇を見て語り合うという企画の打ち上げであるようだ。当時の民主党には、こうした「文化政策」に親近感を持つ清新さがあったわけである。その後平田は鳩山内閣の参与となり、施政方針演説に関わったりした。そういうことを考えると、今ではこの場面を見ると、「政治」に近づいたことの是非が問われると言ってもいいだろう。しかし、それも演劇を普及させるという目的、舞台に国庫助成を求める戦略とも考えられる。「メンタルヘルス」の講演会に招かれて語る場面には特に平田オリザの考えが示されていると思う。自殺がこれほど多い日本という国で、「こころ」には予算を使わない国。「こころ」は芸術と宗教が担うが、政教分離の日本では宗教には予算が付かない。芸術を支援するということしかない。「芸術保険」に近い考えが外国にはあるという。健保が3割自己負担という感じで、7000円の演劇を見たら、自己負担は2100円になるというような発想。

 「演劇2」ではロボットと舞台をつくる試みも描かれる。フランスに行って演劇を作り上げる様子も出てくる。そこで語られるフランスの状況は、非常にうらやましい。公的劇場に美術部門があって、大道具をつくることができる。「劇場は出来上がった演劇を上演するだけのところではなく、演劇を作り上げていくところ」という考えなのである。このように「演劇2」では、日本だけでなくフランスまでも視野を広げて語られるが、そこでは演出だけでなく、予算面も含めて現実的な側面も出てくる。まさに八面六臂の活躍を続ける平田オリザとはいったい何者なのか。「演劇1」の冒頭で、15分休憩と告げると、15分経ったら起こしてと言いあっという間に寝てしまい、いびきも聞こえる。15分で起こされるとすぐに稽古に戻る。ちょっとその早業、すぐ寝て、すぐ稽古に戻れる姿が常人離れしている。そういう平田という人物の面白さがこの映画を支える一つの柱である。(もう一つの柱が演出やワークショップを間近に見る面白さ。)

 ただしこの映画で問われないものもある。ロボットとやる演劇が出てくるが、あれは面白いのか?舞台裏はどんな劇団も、いや映画製作のメイキングなんかも面白いと思うし、政治や裁判の舞台裏なんかはもっと面白いんだと思う。(できないだけで、もし裁判員裁判を評議を含めて全部「観察」できたら、たぶんもっと面白い映画になるだろう。)だからロボットとつくる苦労話は面白かったけど、できた演劇が面白そうには思えなかった。そういう一番根源的な問いは発せられない。だから、なんで「演劇」というタイトルなのかもわからない。演劇はもっともっと多様なものだから、違う劇作家や劇団に密着観察したら、また違う面白さが出てくると思う。僕は余計な場面も多いと思ったので、大胆にカットして3時間くらいの映画にしてくれた方が多くの人に見やすくなって良かったのではないかと思う。
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ムアツ布団讃歌

2012年11月19日 22時57分55秒 | 自分の話&日記
 土曜日にちょっと疲れてるなと思った。急に寒くなってきたし、11月もいろいろあったから疲れたかなと。普通なら一日休むと元気になるけど、日曜になっても何だかだるかった。あれ、風邪引いてるのかなと熱を測ったら、35度台。まあこういうことはよくあるのだった。熱が出るのではなく、低体温になってしまう。季節の変わり目に身体が付いてけない。全く僕は変温動物なんではないか。本当はこのまま自然に体温が下がり続け、生命活動も低下していって冬眠に入ってしまうというのが、動物の自然なあり方なのではないか。ということで、ブログも見ず、Facebookも見ずに過ごした。これが案外気楽でいい。まあ本を読むぐらいの元気はあったので、ポール・セル―「鉄道大バザール」を読み続けた。

 若い人が時々「やりたいことは」と問われて「寝たい」と答えたりする。去年上野千鶴子、古市憲寿トークショーでも、古市さんがそんなことを言って、会場からはブーイングが起こっていた。が、僕は少し違うと思う。「ずっと寝ていたい」というのは、若い時のみに許された特権的な楽しみではないかと思うのだ。年取ってくると、いろいろ責任があることが多くなる。今日は修学旅行の引率で早起きしなくてはならないというような時に、前夜には寝過ごすと大変だなと思いつつ、いつも自然に目覚ましが鳴る前に目が覚める。そういう風になるものである。そういう責任ある月日を長く過ごして、「老い」が近づいてくると、もう身体が長く寝ていられない状態になっている。血液の循環も悪くなり、腰や肩や膝やあれやこれやが痛くなり、おちおち寝返りも打てない。眠りは浅くなり、ちょっと寝ては起きてしまう。犬的生活になっていくのである。僕はそこまではいってないけど、だんだんそういうことがわかるようにはなってきた。いつまで寝てたいなんて、若い時しか言えない言葉なんだなあということが

 ところで、僕は旅行が若い時から大好きなんだけど、長くなってくると家に早く帰りたいなあという気が強くなってくる。いや、それは誰でもそうなのかもしれないが、僕の場合は「フトン」が理由なのである。結婚して以来僕はずっと「ムアツ布団」を愛用してきた。最近、「なでしこジャパン」の澤穂希選手がイメージキャラクターに起用されてテレビCMも流れてるから、使ってなくても知ってる人は多いだろう。


 昔から身体的理由で小さな腰痛があるのだが、この「ムアツ」でかなり防げていると思う。旅館で厚いマットレスなんかが続くと、てき面に腰が悪くなってくる。「体圧分散」を理想的に実現してくれる「ムアツ」を身体が欲してくる。ムアツ布団はHPによると、「安定した寝姿勢を保つことができる「ムアツ」。 宇宙ロケットの突端の形状(タマゴ型)からインスピレーションを得て、開発されました。 “いい眠り”のためには、従来の敷きふとんのように体に「面」で触れず、 「点で支える」ことが重要だったのです。」ということだ。最初ちょっと違和感があるかもしれないが、すぐ慣れる。

 とは言っても、けっこう高いので若い人が自分で買うのは大変だろう。ちゃんと買うと、数万円から10万近くする。独立してある程度余裕ができたときでないと買えないかもしれないが、とにかく絶対おススメ。特に腰痛を感じている人、スポーツやってる人、肩や背中が凝り性の人、絶対これがいいと思う。ということで、土日はムアツに寝転がって読書三昧だったというわけ。なお、「ムアツ枕」というのもセットで売ってるんだけど、僕はそれはどうもおすすめではないと思う。枕は「通販生活」で18年連続1位という、スウェーデン製の「メディカル枕」が一番いいと思う。上野千鶴子さんの推薦がHPに出てます。)
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「政権交代」という新書本

2012年11月16日 23時47分15秒 | 政治
 中公新書で、小林良彰「政権交代」という本が9月に出た。この本を紹介しながら、解散・総選挙を迎えた日本の政治を考えてみたい。


 2009年に自公連立政権が敗れて、民主党中心の内閣が誕生した。それは突然起こったわけではなく、それ以前の自民党政権を考えておかないと理解できない。どこまで振り返ってもキリがないが、この本ではとりあえず2005年の小泉政権の郵政民営化解散と自民圧勝から書き起こしている。今回初めて選挙権を得た若い世代は、まだ中学生だった頃のことである。大人でも首相が次々と変わったこの7年間、順番にその首相を言えない人がかなり多いのではないか。小泉から始まり、7人に及ぶ。一応書いておくと、小泉→安倍→福田康夫→麻生→鳩山由紀夫→菅→野田、となる。(福田と鳩山は、それぞれ父と祖父も首相だから、名前を書いておく。)

 この程度の問題がクリアーできない人、いやあ忘れちゃったなあというような人は、選挙前にこの本を読んでおいたほうがいい。そして、2009年からの3年間、これももう覚えていないという人もいるのではないかと思う。結構いろんなことがあったし、東日本大震災があって、なんだかそれ以前のことは大昔みたいな気がする人が多いだろう。この本を読んで思い出しておこう。(なお、39頁「総選挙では沖縄県の4つの小選挙区のすべてで自民党は敗退し、民主党が三議席、国民新党が一議席を獲得する。」と書いてあるが、間違いである。前段は正しいが、後半の民主は二議席。沖縄2区は社民党の照屋寛徳氏である。民主党の推薦であるが、明確に社民党所属である。なお、民主の玉城デニー、瑞慶覧長敏(ずけらん・ちょうびん)両代議士は民主を離党しているので、現在沖縄選出で与党にいるのは下地郵政民営化担当相(国民新党)だけである。このような基礎的データが校正でも治らないのは問題。)

 この間の3年間で民主党政権にとって最大の問題は、僕に言わせれば「沖縄の普天間基地問題」である。「最低でも県外」の鳩山首相の当初方針がもし実現していれば、2010参院選は鳩山首相で、社民党も政権内にいて迎えたことになる。民主党が勝利していたのではないか。「普天間問題」で鳩山首相の支持率が下がり、菅内閣に代わる。普天間問題で対米関係は「悪化」したとされ、マスコミは対米関係が心配であるという論調でキャンペーンをした。菅、野田内閣は「沖縄を犠牲にして、アメリカ従属を認める」という方針を取らざるを得なかった。この民主党政権における対米関係悪化、政権の不安定化こそが、それぞれの国の国内事情もありつつ、ロシアのメドヴェージェフ大統領(当時)の北方領土訪問、韓国の李明博大統領の竹島訪問、中国の尖閣問題強硬方針(今年というよりも、むしろ2010年秋の段階の)などを呼び込んでしまったのではないか。そして、それを受けて日本国内で「反民主政権」を主目的とした「ナショナリズム」が高まる。そういう中で、アメリカで石原都知事(当時)が尖閣諸島購入を打ち出した。都民の金で買おうという話を、東京で発信するのではなく、よりによってアメリカで行ったのである。このあたりの裏にあった事情は、まだ不明なことが多い。

 参院選で敗北し、民主党の独自政策は通らなくなってしまった。今自民党が「民主党はマニフェストを守らなかった」などと批判しているが、自民がジャマをしたのだから当然ではないかと思う。自民は「子ども手当」はいらないという方針なんだろうし、それで参院で反対したから通らない。自民党が「民主党はマニフェストを守らなかった」というのはおかしい。「わが党が民主党のマニフェスト実現を阻止した」というべきである。それがいいか、悪いかは国民の判断するところである。自民の協力がないと何も決まらない以上、民主と自民が一致できるテーマしか実現できない。それが「社会保障と税の一体改革」、つまりは消費税増税である。そういう国会構成にしてしまったのは、国民自らであって、国民の側が民主党に「失望した」とばかり言うのは僕には理解できない。この「決まらない国会」が大震災時であったということは、歴史的な不幸だった。僕は原子力規制委員会は、民主党当初案の方が良かったと思うし、それで2012年4月発足をするべきだった。(民主党案は環境庁の外局として規制庁を置くという方針だった。しかし、自民党は「菅首相が介入したから事故対応が遅れた」と主張して、「菅リスク」をなくせと「3条委員会」にせよと主張した。原発をずっと維持するならば、政府と距離を置いた独立委員会のほうがいい。しかし、原発の存廃を政策判断するのなら政府の中に置かないといけない。そういう委員会になったため、今大飯原発の再稼働を止めるのも(活断層問題をどう判断するかも)、逆に他の原発を再稼働するのも、どこがいつ判断するのか判らない。原発を持ちつづけたい自民党の策謀なんだろうと思う。)とにかく、もめるものは自民、公明案を丸のみするしかないまま、野田内閣が消費増税のためにのみ延命してきて、それもついに尽きてしまった。

 選挙戦については、また構図がはっきりしてから書きたいと思う。民主党は今の段階では離党、引退議員がいるため、民主から立候補しようという人が全員当選しても過半数にならない。まあ、今後もう少し各選挙区で決まっていくのだろうが、解散当日にこれでは「政権維持」を口にするのも恥ずかしい。安倍自民に「石原+橋下」では、困ったもんだと思うが、社民党の福島党首はこういう状況に待ったを掛けるのは社民の躍進だと言っていた。だったら、各選挙区で候補を立ててから言ってくれ。今後、維新・みんななどがどのような候補を立てるかによって変わっても来るだろうが、ちょうど一か月前になっても決まってない落下傘候補が、仮に党首人気や政策が受けたとしても当選できるものだろうか。05年の自民の「刺客」は確かに当選した人もいたけれど。今の段階では、前回落ちた自民候補がいるところは、自民が強いと考えられる。しかし、必ず自民・公明で過半数を取ると決まっているわけではない。今後の動向次第。ということで一端終わり。
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都知事選と衆院選-投票率を調べてみる

2012年11月15日 23時59分49秒 |  〃  (選挙)
 中国共産党の新指導部など時間があればじっくり見るんだけど、はっきり言ってもうどうでもいい感じ。都知事選に衆院選が同日に合わさってしまった。1か月しかない。何でだ?という感じ。つまり、「国益」を考えるなら、今やってるべきだった。寒くはなったけど、まだまだ昼間は暖かい。積雪がある地域も山の上の方にはあるかもしれないが、まあ北国でも積もってない。予算編成は12月が山場。12月に選挙、確実に政権交代では、予算編成が滞る。特例公債法案、「ゼロ増5減」(っていうか、ただの5減でしょ)も、こんなに簡単に片付くんなら、10月にやれたでしょ。10月に法案を成立させて、今選挙すべきだった。そうでなければ、新小選挙区の区割りが確定する時期でもいい。違憲状態が確定しているのと同じやり方で選挙するんだから、今度の選挙も違憲である。「違憲選挙」。どの党が勝とうが負けようが、この選挙は憲法違反なのだ。さて、衆院選、野田内閣の話はまた別に書くとして…。

 都知事選的には、迷惑であると思った。消費税だ、TPPだ、五輪だ、原発だと言う議論も大切だが、都知事選は「人物本位で超党派、無党派」で臨みたいところである。昨日も共産や社民の関係者も来てたけど、登壇して挨拶してはいない。そういう党派にとらわれないスタイルで、大きな連合を作っていきたい。個別の議論を始めると、皆いろいろ意見があると思うが、それは今後じっくり議論すればいい。今現在、都知事でもないのに、都政の課題すべてに答えを出しておく必要はないだろうと思う。と言いつつ、総選挙が同時にあるとなれば、まあ自民に入れる人はほとんどいないだろうが、どこに入れる、あそこに入れないという話が出て来ざるを得ない。都知事だけ投票して、衆院選は棄権というわけにはいかないし。困ったなあ、迷惑だなあと正直思った。

 でも、考えてみると、それだけでもない。前知事から後継と言われている猪瀬直樹氏が立候補し、他にいないから自民党も支持する意向であると伝えられている。元々都議会自民は猪瀬氏にいい印象を持っていないらしい。「根回し」をせず「頭が高い」ということらしい。でも衆院選と同日になれば、両方には立候補できないから、出馬が取りざたされた人の多くは知事選には立たない。仕方ないから猪瀬でやるしかないということだろう。票が割れないので、宇都宮不利とも言えるが、石原前知事は自民ではない。「太陽の党」である。選挙時はどうなってるか知らないが。石原後継の猪瀬応援に一生懸命になる自民都議は少ないだろう。来年7月に都議選である。自分の選挙を考えると、衆議院選挙で自民候補を応援する方が優先するのではないか。つまり自民の猪瀬支持は「弱い支持」であると考えられる。そのあたりの「矛盾」を最大限に利用していくことも必要だろう。

 さて、データとして、都知事選と衆院選(比例区東京ブロック)の投票率と得票を見ておきたい。
 まず、都知事選。美濃部都知事当選時から。当選者、次点得票者、投票率の順番。

1967 美濃部亮吉(220万)  松下正寿(206万)  67.5%
1971 美濃部亮吉(361万)  秦野章(193万)   72.4%
1975 美濃部亮吉(269万)  石原慎太郎(234万) 67.3%
1979 鈴木俊一(190万)   太田薫(154万)   55.2%
1983 鈴木俊一(236万)   松岡英夫(148万)  47.9%
1987 鈴木俊一(213万)   和田静夫(75万)   43.2%
1991 鈴木俊一(229万)   磯村尚徳(144万)  51.6%
1995 青島幸男(170万)   石原信雄(124万)  50.7%
1999 石原慎太郎(166万)  鳩山邦夫(85万)   57.9%
2003 石原慎太郎(309万)  樋口恵子(85万)   44.9%
2007 石原慎太郎(281万)  浅野史郎(169万)  54.3%
2011 石原慎太郎(261万)  東国原英夫(169万) 57.8%

 つまり、昔は6割、7割が投票に行っていたが、近年は6割には行かない。5割ちょっと。半分以下の時もある。美濃部時代は「社共共闘」だった。それが崩れたのが87年から。鈴木や石原の2期目、3期目ともなれば、現職強しで投票率が下がる。2011年がちょっと高いのは、大震災で家にいてマジメな気分だったのではないか。選挙戦は低調だったのに、前回より上がる理由はそれしかない。

 では、衆議院選挙。2000年から。東京の投票率と各党の得票
2000 60.4% 民主(165万) 自民(110万) 共産(82万) 自由(77万) 公明(72万) 社民(38万) 
2003 58.3% 民主(229万) 自民(180万) 公明(80万) 共産(53万) (社民25万=当選ゼロ)
2005 65.5% 自民(266万) 民主(196万) 公明(82万) 共産(58万) 社民(30万)
2009 66.3% 民主(284万) 自民(176万) 公明(71万) 共産(66万) みんな(42万) (社民30万)

 ついでに直近の参院選を見てみる。2010年参院選の比例区

 投票率58.7%。民主(190万) 自民(125万) みんな(92万) 公明(70万) 共産(50万) 社民(25万)

 これでわかることは、衆議院選挙が一番投票率が高い。判りますよね。理由を書くまでもなく。
 従って、今回は都知事選もくっ付いてきたから、衆院選だけなら民主もダメ、自民もダメ、第三極、何それって、棄権に回ったかもしれないが、都知事選と一緒となると、6割は行く。ひょっとすると、もっと高くなる。それを考えておかないといけない。

 共産と社民だけでは何の足しにもならない、と言えば言い過ぎだが、全然足りない。国政選挙では民主に入れた大量の反石原票があるこの「民主党に近い反石原票」が、どう動くか。「3・11後」の反原発意識なども受けて、都民の票がどう出るか。はっきりしているのは、投票率が高くなるので、従来の支持層を固めるだけでは、誰も当選ラインに届かない。人柄のイメージなども含め、国政選挙とうまくすみ分けて、「宇都宮=清新」イメージをつくる。と同時に、ヤミ金勢力と全身でぶつかり、国政をも動かし、日弁連という全国組織を統率してきたという「強いイメージ」「組織人にして市民活動家」というイメージを、石原支持者(やさしさだけでは頼りないと思い、政治に強さを求める人)にも浸透させていくこと。とりあえず、そういった戦略も大事だろうと思う。
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追悼・森光子

2012年11月15日 21時06分12秒 | 追悼
 上演2017回を数える舞台「放浪記」や人気テレビドラマ「時間ですよ」などで幅広く活躍、文化勲章、国民栄誉賞を受けた女優の森光子(もりみつこ)(本名・村上美津(むらかみみつ))さんが10日午後6時37分、肺炎による心不全のため、都内の病院で亡くなった。92歳だった。(読売新聞より)

 僕はテレビドラマをほとんど見てこなかったから、森光子さんのテレビでの仕事は語れない。ドラマの名前くらいは知ってるし、「3時のあなた」の司会も見たことはあったけど。コマーシャルもやっていた。そういう気取らない下町のおかみさん風のテレビ女優だと思っていた。芸歴の長い女優で、舞台「放浪記」を持ち役にしていることは後に知ったことである。

 嵐寛寿郎(鞍馬天狗で有名な時代劇俳優)の従妹だったということは今回初めて知った。その縁で戦前から映画に出ていて、戦時中は戦地慰問を行うというような経歴は、あまり大事ではない。60年代頃に東宝を中心に映画にもずいぶん出ていた。最近評価が高い鈴木英夫監督「その場所に女ありて」(62)にも出ている。「ビジネスガール」として銀座の広告会社で大活躍の司葉子。一方、その姉の森光子は「男にだらしない」タイプでお金が足りなくなると、銀座の会社に妹を訪ねてくる。そういうやっかい者の姉をそつなく演じている。司葉子の洋装を美しく撮り、高度成長下の銀座に働く女を取り上げるという映画だから、森光子は引き立て役。和装で性格的に弱いタイプである。当時はその程度のチョイ役俳優だったのかという感じである。

 やっぱり「放浪記」の素晴らしさ、これにつきるだろう。「放浪記」は映画にもなっている。成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演。これは成瀬、高峰コンビのいくつもの傑作には及ばない。それは原作にも問題があると思う。原作は素晴らしい詩情をたたえた、若い女性の貧困との闘いの貴重なドキュメントでもあるけれど、名声と功名心にはやる青春の嫌味な部分も伝えている。身近にいたら、あまり付き合いたくない感じで、親切にしてあげても日記に悪口を書かれてしまうような恐れを感じる。そういう原作の嫌味な部分はむしろ高峰秀子がよく演じていると思う。舞台の森光子は、長い時間をかけて濾過されていった、「放浪記」の素晴らしい部分を凝縮して演じていた。脚色した菊田一夫の素晴らしさもある。日本の大衆演劇が達成した最高の作品と言ってもいいのではないか。

 森光子さんは文化勲章を2005年に受賞した。日本では伝統演劇(能・狂言・歌舞伎・文楽)の役者は何人も文化勲章を受けているが、新劇や大衆演劇の俳優はほとんど受賞していない。まあ新劇人はほとんど左翼だったから、お互い賞の対象外にしていたのだろう。杉村春子は対象になったけれど辞退している。他には森繁久弥と山田五十鈴がいるだけである。文化功労者にまず選ばれ、その中からいずれ文化勲章が選ばれるというシステムに今はなっている。ではその文化功労者に選ばれた俳優はと言えば、東山千栄子、水谷八重子、森繁久弥、杉村春子、山田五十鈴、森光子、高倉健、仲代達矢、吉永小百合、大滝秀治。たったこれだけなのである。今年、山田五十鈴、大滝秀治、森光子が亡くなった。いやあ高倉健や吉永小百合が選ばれていたのは失念していたが、仲代達矢ともども今後の健康と活躍を祈りたい。
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タル・ベーラの映画を見る

2012年11月13日 23時16分57秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ハンガリーの映画監督、タル・ベーラ(1955~)の特集を東京吉祥寺のバウスシアターでやってる。今年公開された「ニーチェの馬」は見ていたけれど、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(2000)と「倫敦から来た男」(2007)は見ていなかったので、この機会に見てみた。16日までやってるけど、別に勧めるつもりはなく、自分の備忘のために書いておく次第。

 ハンガリーはアジア式に姓を先に書くので、タルが姓、ベーラが名前である。で、このタル・ベーラ監督には、1994年に発表された「サタンタンゴ」という7時間超にもなる伝説的傑作がある。去年一度だけ「ぴあフィルムフェスティバル」で上映されたけど、その上映時間に恐れをなして見なかった。今年見た「ニーチェの馬」もとても特徴的な作品で、はっきり言って面白いとは言えないのだが、妙に忘れがたい作品だった。ベルリン映画祭銀熊賞を取っている。

 哲学者のニーチェは、1889年1月3日、イタリアのトリノの街角で御者に鞭打たれる馬を見て、馬を守ろうと近づき馬の首を抱きしめながら昏倒し、そのまま精神が崩壊してしまった。しかし、ニーチェはいいから、その馬はどうなったという映画。もちろんその馬が生きているわけはないから、タル・ベーラが勝手に考えて映像化したわけである。御者の男は娘との貧しい暮らし。荒野の一軒家で質素な食事を取る。寒風が吹き荒れ、ほとんど嵐になってくる。男と娘と馬の暮らしを映画はただ見つめる…。
(「ニーチェの馬」)
 というただ見つめるだけの映画で、画面は「そこにはただ風が吹いているだけ」である。白黒で、暗い画面がちっとも動かない。動かないと進まないので、もちろん動きはあるんだけど、非常に遅いし、何か19世紀ハンガリーの寒村にカメラを据え付けたような映画だった。これは一体なんだ。「ニーチェの馬」というけど、ニーチェの映画ではなく、馬の映画ですらない。難行苦行のような修行の2時間半

 そういうザラザラした、納得できないながら何か心に引っ掛かる映画を作ったタル・ベーラ。いつか他の映画も追いかけてみたいと思っていた。21世紀だって言うのに、白黒の映画しか作ってない。しかも以上の4つの作品しか出てこないし、これでもう映画を作らないとも言う。僕が1回見た限りでは「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が一頭他を抜いた傑作のように思った。145分を37カットという、これはまた極端に長回しの映画で、画面は見つめるだけで動かない。動かないってことはないんだけど、実に静かにゆっくりと動いて行く。だから疲れているときっと寝る。

 時代は判らないが、戦車やヘリコプターは出てくる。ある地方の都市の広場に、クジラを見世物にするトラックがやってくる。それをきっかけに暴動が起き、人間関係が変容していく。という筋では判らない。何でクジラが来ると町がおかしくなるのか、さっぱり判らない。まあ象徴という意味で理解するしかないんだろうけど。この街の様子が、光と闇の映像で美しく描きだされる驚異の映像叙事詩。だけど物語的には、なんだかよく判らない。でもその長回しと町の夜の美しい映像は忘れられない。
(「ヴェルクマイスター・ハーモニー」)
 「倫敦から来た男」は、ジョルジュ・シムノン原作の港町の映画。だからハンガリーではない。フランスかベルギーか、フランス語の映画。そこでロンドンから来た男は行方不明になり、金がなくなる。偶然にその大金を入手した男が、人生を狂わせていく。光と影の白黒映像の美しさはこれが一番かもしれない。でも、長回し、静かな映像という点は他の映画と共通する。これは犯罪が出てくる「フィルム・ノワール」に入ると思うけれど、世界映画史上もっとも変わった犯罪映画ではないかと思う。犯罪、犯人、それをめぐるサスペンスを言うところにこの映画の焦点はない。犯罪をきっかけに変わっていく人間のありさまを、ただ見つめる、そういう映画。138分。夜のとばりを美しく表現する映像は、まさに語義通りの「黒い映画」(フィルム・ノワール)と言ってもいい。
(「倫敦から来た男」
 人間の顔だって、どんな美人の顔もただ見つめていれば、ほくろやシミ、しわが目についてくる。これらの映画でも、じっくりと人間を見つめる(人間だけでなく、すべての眼前にあるものを)ので、「世界の原形質」みたいなものが露出してくる地層を掘っている感じ。そういう原初的な感動がある。ただ普通の意味で面白いと言えるかは、かなり疑問である。タルコフスキーにならちゃんとあるストーリイやテーマが、タル・ベーラには見えにくい。「ミニマリズム映画」というべきか、「静かな映画」(「静かな演劇」に対応して)というべきか。まあアート映画に特別に関心がある人以外は見ない方がいいと思うけど、そういう世界を知りたい人は見て損はない。
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映画「情熱のピアニズム」

2012年11月13日 18時37分47秒 |  〃  (新作外国映画)
 「情熱のピアニズム」という記録映画を見た。是非多くの人に見てもらいたい、驚くような映画である。僕は予告編を見て、ビックリしてしまい是非見たいと思った。(東京では渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映中。)
 

 これはフランス生まれのジャズ・ピアニストミシェル・ペトルチアーニ(1962~1999)の生涯を追ったドキュメンタリー映画である。だから素晴らしいジャズを聞けるんだけど、ジャズの映画というより「人間の映画」。僕はジャズに詳しくないので、この映画で初めて名前を知ったんだけど、このピアニストは「身体障害者」だったのだ。先天性(遺伝性)の「骨形成不全症」という病気だった。生まれたときには全身の骨が折れた状態だった。骨が先天的に弱く、従って骨が身体を支えられず身長が伸びない。なんと身長は1メートルほどだった。いわゆる「小人症」ではない。ホルモンの異常ではなく、骨の問題。

 そういうからだで生まれながら、彼は「神様から最も並外れた贈り物をもらった男」でもあった。4歳の時にテレビで昔のデューク・エリントンを聞いて、親にピアノを買ってと言う。親がおもちゃのピアノを買い与えたら、バカにされたと思ってそのピアノを壊してしまった。親は仕方なく、古いものながら本物のピアノを買ってあげた。彼はまさに天性のピアニストだった。凄まじいまでに動き回る両手が、神の音色を奏でていく。いやあ、ホントすごいですよ。日本公演もあったらしいんだけど、当時は全然知らなかった。13歳で最初のコンサート、20歳でジャズの本場アメリカに渡り、すぐに評価されて活躍した。フランス人で初めて有名なジャズ・レーベル「ブルーノート」と契約した。

 彼は自分ではピアノまでは歩いていけない。自分だけではピアノの鍵盤には届かない。抱っこして椅子に座らせてもらうしかない。足は届かないから、特製の足踏みがある。でも、そんなことは気にしない。いつも明るくて、皆が親しみを持ち、女性にもモテた。「彼を運ぶと特別な関係が生まれるんだ。心音を聞くと動揺したよ。」「運んでもらう人が女性だと喜んだわ。特に胸が大きいと。」「僕は自分以外のものになりたくない。何が不満なんだ?」

 しかし、老化も人より早く訪れてくる。相次ぐ公演の疲れもあり、不摂生のためか体重が多くなってくる。頭髪もない。若い時はけっこうハンサムなんだけど。そんな「チビ、ハゲ、デブ」の三拍子そろった彼が、しかし女性にはモテる。しかも公演先で出会うと突然恋心を抱き、彼女が楽屋を訪ねると「妻だ」と友人に紹介したりする。故郷にはホンモノの妻がいたりするのに。熱情的かつ発作的、はたまた「生き急ぐ」とはこのことかという愛し方。そうして何人かの妻を持ち、彼女たちがインタビューに答えている。子どもも生まれたが、その子は同じ遺伝病を持っていた。そんな人の人生の記録。この凄さは映像で見ないと判らない

 監督のマイケル・ラドフォードは、イギリスの映画監督で名作「イル・ポスティーノ」(94)を作った人。「ヴェニスの商人」もユダヤ人の立場からシェークスピアを描いた興味深い作品だった。劇映画の監督だが、これは記録映画。
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