尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍首相靖国参拝の意味

2013年12月31日 01時19分33秒 |  〃  (安倍政権論)
 第二次安倍内閣発足から、12月26日で1年を迎えた。まとめのようなものを書いておきたいと思っていたけど、書く時間がないまま過ぎていった。そうしたら安倍首相の靖国神社参拝という出来事が起こった。そのニュースを聞いた時の率直な感想は「あーあ」という感じ、アメリカのいう「失望」に近いかもしれない。もともと「期待」をしていないので、言葉は適切でないが。何というか、自分の予測間違いへの「失望」というべきか。もっと前に書いてたら、「当面靖国神社参拝はないと思われる」と書いていたかもしれない。「あーあ」というのは、「日本の最高指導者はあまり賢くないという日本最高の国家機密」を世界中に漏えいしてしまったからである。

 12月上旬に特定秘密保護法が成立した。その時点では、年内にも仲井間沖縄県知事による「辺野古埋め立て」の承認可否の知事判断が出ると言われていた。マスコミ報道では、次第に容認説が強くなっていた。現に27日に知事の容認判断が示された。特定秘密保護法はアメリカが歓迎の意向を示している。辺野古埋め立てが「進展」することもアメリカは歓迎するだろう。よりによって、その前日にアメリカが歓迎しないことが判っている「靖国参拝」をするのだろうか。今、特定秘密保護法や辺野古移設や靖国参拝などの問題点や賛否には触れない。それはちょっと置いといて考える。政権発足直後には、村山談話や河野談話の見直しがしばらく示唆されていた。それがアメリカ国内からの批判が強くなり、次第に「先送り」されていった。一方、アメリカが容認する特定秘密保護法は、成立に向け強引に進めて行った。この流れを見て思ったのは、「アメリカの管理可能な範囲内で軍事大国化を進める」という政策を取っているのだろうという判断である。そう考えると、近々の靖国参拝はないだろうという見通しを持っても不思議はないだろう。

 アメリカが「失望」という談話を出したのは「予想外」だという意見もあるようだが、それは信じられない。またそこまで首相官邸や外交当局が見通しを誤るとも信じたくない。今秋に来日したケリー国務長官、ヘーゲル国防長官がそろって千鳥ヶ淵戦没者霊園を訪問したことを見れば、アメリカの意向ははっきりしている。中国とも、また特にアメリカの同盟国である韓国とも、これ以上のいらぬ摩擦を引き起こし、世界に疑問を広げるような政策を取らないでほしいというのが、当然アメリカの意向だというのが判らないはずがない。もうすぐTPPでアメリカとの厳しい通商交渉が予想されている現段階で、わざわざ日本外交に疑問を投げかける行動を取るのは何故だろう。

 また中国、韓国に対しては、26日に発表した首相談話では、「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであった様に、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。」と述べている。これも「ウソ」だろう。文科省が「いじめ」において定義している精神に照らせば、「相手側の苦痛感」を無視して、一方的に「気持ちを傷つけるつもりは、全くありません」と言って通るなら、世の中にいじめはなくなってしまう。それでも「少なくとも首相の主観では、傷つける意図はない」と思っている人もいるかもしれない。しかし、それもあり得ない。中国、韓国から批判されることを知っていてやっているのだから、「そうなると知っていて、そうなってもいいと思ってやっている」。これは刑事裁判でいう「未必の故意」に当たるのは間違いない。それを知らないはずがない。判っていてわざわざ中国、韓国と摩擦を起こしているのである

 その目的ときっかけは何なのだろうか。僕は「北朝鮮情勢」ではないかと思う。北朝鮮のキム・ジョンウン体制はチャン・ソンテク粛清後、どこへ向かうか。韓国は2014年前半にも軍事的挑発がありうると分析している。そうすると、結局韓国、アメリカも日本との密接な協力を進めざるを得ない。いつまでも靖国参拝だけを問題視してはいられないだろう。一方、これを逆に「北側」から眺めるとどうなるか。安倍政権のもとで日本が軍事大国化することは、中断している6か国協議参加国内で、むしろ日本を孤立化させる可能性を秘めている。チャン・ソンテクは中国との関係の中で何かが問題化したと思われるが、中国はそれでも北朝鮮を完全には切れない。日本との関係悪化を考えると、北朝鮮の近未来の崩壊は中国には受け入れられない。だからこそ、キム・ジョンウンは安心して粛清に乗り出したと言える。

 つまり、安倍政権とキム・ジョンウン政権はお互いに「利益を共有する関係」にある。「同盟」とまで言ったら言い過ぎだが、「共依存」状態にある。安倍政権は北朝鮮の核・ミサイル問題がある限り、集団的自衛権容認、国防軍創設と言った念願の政策を進めやすくなる。一方、北朝鮮側も国内引き締めと対中関係維持のため「日本の軍事大国化」を利用できる。こうした関係があるわけである。安倍晋三氏はかつて小泉政権下で、「北朝鮮に厳しい」ことで名を挙げ次期首相候補となっていった。この過程を安倍氏はよく覚えていて、今回も「北朝鮮の軍事挑発」を自己の目的のために利用したい。「近隣諸国との摩擦政策」はそのような政治目的のために取られているのだろう。

 僕が今回の靖国参拝を「賢くない」と思った理由がもう一つある。それはかねてから、「第一次政権で参拝できなかったことは痛恨の極み」と発言してきたことである。これはただ読むと「第二次政権ではすぐに参拝する」とも読めるが、時点を指定していない以上「第二次内閣のいつか参拝できるとよい」という読み方ができる。退陣するその日でもよいはずである。従って「長期政権を目指すには、参拝を先送りする方が良い」ということになるはずである。なぜならば、「まだ参拝していない以上、安倍首相は長期の政権担当をねらっているぞ」と周囲に示せるからである。対外関係ばかりではなく、自民内で後継総裁を目指す政治家に対しても「参拝あいまい化戦略」の方が有効のはずである。

 それなのに、参拝に踏み切った。それはどんな目論見があるのか。僕は「憲法改正」を政治過程に載せる意向があるのではないかと思っている。安倍首相は政権担当後には、経済、復興を優先させるということで、現実的に大変な憲法改正を先送りしたのではないかと思っていた。しかし、次の衆参選挙では自民も議席を減らしかねない。その可能性の方が大きいと、特定秘密保護法審議で思ったのではないか。参院選までは頭を低くして政権運営をしてきた。しかし、衆参で大きな議席を得ることに成功した。中曽根、小泉を抜く長期政権も視野に入ってきた。次期選挙で自民と争うかと思われた「維新」も急激に失速した。では「維新」が衆院で大量の議席を持っている間の方が、憲法改正がやりやすいかもしれない。そう考えてきたのではないか。衆院では、自民293、維新53、みんな8(「結い」に参加した議員を除き)で、公明を除いても3分の2(320)を有している。参議院は比例区の比率が高く厳しいのだが、次の参院選(2016年)で憲法改正を争点化するために、衆議院では「維新」「みんな」の「抱き込み工作」が進んで行くと思われる。「靖国参拝」を問題化しなかったのは、自民、維新、みんなの3党である。そういう意味が今回の靖国参拝には潜んでいるのではないか。

 
 なお、追記すると、今回の事態を受け、安倍政権における「北方領土問題の解決」がなくなったものと考えている。シリア情勢進展によるプーチン大統領の評価アップ、ソチ五輪などの間に、北方領土解決の道筋をつけることを僕はかつてこのブログで書いたのだが、それはもう不可能。ロシアもテロが相次ぎ、それで手いっぱいだろう。中国、アメリカとの対テロ協力のためにも「戦勝国連合」意識を強めると思われる。日本との関係改善を今すぐ進める意義が薄らいだと判断している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市川崑「東京オリンピック」

2013年12月29日 01時07分10秒 |  〃  (旧作日本映画)
 市川崑監督が総監督を務めた「東京オリンピック」は大変面白い映画だけど、最近は上映される機会が少ない。2020年東京招致決定後初の上映が早稲田松竹であったので、早速見てきた。

 この映画は映画史的に非常に大事な映画である。オリンピックでは最近まで毎回「公式記録映画」が作られてきて、その一覧がウィキペディアに出ている。日本では夏季は72年のミュンヘン、冬季は76年のインスブルックを最後に劇場公開はされていないと思う。その中でも映画史的に有名なのは、言うまでもなく1936年ベルリン五輪を記録した「民族の祭典」「美の祭典」の2部作である。レニ・リーフェンシュタールが作ったこの映画は、今見ても映像美には驚嘆すべきものがある。しかし、ナチスの宣伝であり「ファシズム美学」であることも間違いない。また「記録映画」なのに「再現映像」を巧みに使って詩的感銘を与えている。「映画のつくり方」としても。映画史上に論議を呼んできた。

 もし市川崑の「東京オリンピック」がなければ、今でも「史上最高の五輪映画」は「民族の祭典」になるところだった。でも、市川崑作品が作られ、記録映画のつくり方にも大きな影響を与えた。初めは黒澤明という声もあったが、結局その頃名作を連発していた市川崑に依頼された。どのように撮影されたかは、野地秩嘉TOKYOオリンピック物語」を参照。映画完成後に河野一郎に批判されたことでも有名である。河野は五輪担当大臣を務めた有力者で、河野派を率いた首相候補だった。(河野洋平の父、河野太郎の祖父にあたる。)日本選手の活躍を称賛するような映画ではなかったことが批判の一因だろう。が、それだけではなくカメラ技術の粋をつくして、スポーツをする人間の内面にまで迫ろうという監督のもくろみが根本的に理解されなかったのだと思う。
(撮影する市川崑監督)
 批判を受け多少編集をやり直したというが、ベースの「人間に迫る」は変らなかった。国威発揚の宣伝映画としての側面が全くないわけではないが(公式記録映画である以上、ある程度はやむを得ない)、各種競技の活躍をただ並列的に網羅する「オリンピック・ダイジェスト」ではない。最初こそ開会式の映像が続くが、その後陸上競技になり、100m競争に始まり各種目を延々とクローズアップで映しだす。今でこそ、テレビでもっときめ細かい映像分析を流しているが、当時はスローモーションのクローズアップで、超有名選手を眺めたことは誰もなかったはずである。そこでとらえた決勝直前の「人間の孤独」は、驚くほど新鮮な映像だったのである。

 今見ると、当時の有名人に「名前」が入らないので、判らない人もいるのではないかと思う。さすがに昭和天皇は判ると思うが、重量挙げの三宅義信も名前が出ない。女子バレーボールの大松博文監督も誰でも知ってたからだと思うが、特に名前が紹介されない。観客席にいる長嶋と王も若い。競技は一応すべてがちょっとは出てくるのではないかと思うが、印象としては陸上以外では水泳、体操とバレーボール、自転車のロードレースぐらいしか、ちゃんと出てこない感じ。体操のベラ・チャスラフスカ、マラソンのアベベ・ビキラ、柔道のアントン・ヘーシンクら外国人選手は映画でもひときわ輝いている。
(チャスラフスカ)
 2020年の五輪招致もあるが、それよりも2014年は東京五輪50年なのである。半世紀前の東京五輪は、一体どんなものだったのか。当時を知らない多くの若い人たちも、是非見てみたいのではないか。どう感じるのか、是非見て欲しい気がする。映画の中に、アフリカ中部のチャドから来た若者が登場する。男子800mで予選は突破し、準決勝で敗退した。体育の教師になりたいとナレーションが流れるが、その後一体どのような人生を歩んだのだろうか。また、マラソンやレスリングはまだ男だけだった時代である。競技の多様化、高度化はものすごい。シンクロナイズド・スイミングとかビーチバレーなんか、競技自体があったのかどうか。そういう時代の記憶がこの映画に残されている。また今はなき国もある。「ソ連国歌」は何度か聞くことになる。分断時代のドイツは、東京大会のみ合同選手団で、金メダルの時は「第九」を流したのである。誰が勝っても第九にすればいいんじゃないか。

 僕は東京五輪に関心があり、この映画は多分3回目か4回目。でも20年ぶりぐらいである。昔高田馬場パール座という名画座があり「東京オリンピック」と「日本の夜と霧」(大島渚)という不思議な2本立てを見た記憶がある。多分「日本の戦後を考える」とかの特集だったんだろう。僕は開会式の古関裕而のマーチを聞くと胸が高鳴る思いを禁じ得ない。小学生で聞いたわけで、純粋に感激していた。それでも閉会式の感動の方が大きかった。3時間も映画を見て、最後に閉会式まで来ると今でも感動してしまう。あれがいいんだよなという感じ。「千と千尋の神隠し」に抜かれるまで、日本で一番観客動員が多かった映画。ただ人口が2千万ほど違うので、国民の中で見た人の割合で言えば、(集団鑑賞が多かったため)「東京オリンピック」が一番ではないかと思う。

 この作品は1965年度のキネマ旬報ベストテン2位に選出されている。(1位は黒澤の「赤ひげ」、3位は熊井啓の「日本列島」。)カンヌ映画祭、モスクワ映画祭等で受賞している。市川崑監督は、58年「炎上」(「金閣寺」の映画化)で4位、59年「野火」で2位、「」で9位、60年「おとうと」で1位、61年「黒い十人の女」で10位、62年「私は二歳」で1位、「破戒」で4位、63年「太平洋ひとりぼっち」で4位とベストワン2作品を含めて毎年ベストテンに入選していた。今挙げたように、有名な文学作品の映画化が多い。その意味では、「東京オリンピック」も誰もが知ってる「原作」を自分の感性で構成し直した作品という感じがする。夫人の和田夏十と共に白坂依志夫、谷川俊太郎が「脚本」に参加。(2019.11.20一部改稿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめ防止対策法はできたけど…

2013年12月28日 00時21分41秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題に関する本として、尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」(岩波新書)が11月に出た。「いじめ」に関しては、2012年に「大津事件」が問題化し、2013年6月に「いじめ防止対策推進法」が成立した。過去30年ほどの間に「いじめ」をめぐって何度か重大な悲劇が起こり、その度にマスコミ等でも大きく取り上げられた。今回は初めて対策法が出来たわけで、画期的な出来事と言ってよい。尾木さんは、大津事件の第三者委員会に遺族側推薦で参加した。また当時の民主党政権下での「対策法」作成にも関わった。だから、今この問題を語るべきもっとも適任の人によるタイムリーなまとめの本。教師、教育行政関係者、あるいは子供を持つ親の必読本。

 対策法が成立した時に記事を書こうと思ったけど、まあやめておこうと思った。こういう法律は「ないよりはいい」「あれば役に立つ」という部分が当然ある。でも、それは使いようで、尾木さんは「(問題も課題もあるが)歴史的な意義は大きい」という考え。この法律は、自民党の政権復帰に伴い「復古的色彩」が強くなった。「保護者は子どもの規範意識の指導や学校の取り組みへの協力に務める」「学校は道徳教育や体験学習の充実を図る」「いじめた子には懲戒や出席停止措置をする」など。ここだけ見ると、何じゃ、これという感じだ。現場の意見を無視しているとして、共産党と社民党は反対した。

 法律では、教育行政にいじめ防止の研修や人材確保を義務付けた。また、いじめが発生したときに、学校に事実確認や被害者支援、加害者指導・助言を義務付けた。それらが法的根拠を持ったことが大事という考え方は当然あるだろう。だけど、尾木氏自身が書くように、「学校の多忙化」を解消しない限り、この法律自体が多忙化を促進し、法の形骸化を招く恐れも強い。この法で「いじめ防止組織」を各学校に作ると決められている。「複数の教職員、心理、福祉等の専門家その他の関係者」で組織される。僕はこの組織が形骸化し、多忙を促進し、やがてやっかい者扱いされ、書類上開いたことにするようになるのは間違いないと思う。そして、何か問題が起こった時に、「法で決められているのに形骸化させている学校の責任は大きい」と現場を責める道具に使われる。そうなることは目に見えていると思う。

 いじめ(に限らないが)を防止する学校の組織とは何か、それは学年団所属の教員で構成される「学年会」であり、校内で生活指導を担当する「生活指導部会」ではないのか。複数クラスがあれば必ず学年会がある。生活指導部は名前は学校により違うと思うが、どの学校にも必ずある。「学年会」「生活指導部会」が機能していない学校で、その他に「いじめ防止組織」を作っても、校内で機能するはずがない。この問題はこれ以上書かないが、教師が一番身近に話し合える学年会で、生徒の変容がつかめるか。大津事件では、いじめ深刻化の前に「クラスの授業の荒れ」があったと同書にある。この段階で対処できるのは、学年会と生活指導部会しかないではないか。

 ところで、この法律では「いじめをどう定義しているのだろうか」。定義しなければ、法律を作れない。法律の最初の方に以下のように書いてある。「この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいうこととした。」

 「児童等が心神の苦痛を感じている」「ネットいじめを含む」という点が評価できると尾木氏は書いている。「いじめ定義」は文科省にいじめ発生数を報告するために決められているが、1994年に変更されている。あまりに細かい話になって行くので、ここでは触れない。

 それより同書には、アメリカの事例が紹介されている。マサチューセッツ州のものである。アメリカでは教育は州ごとに法を作る。50州中49州でいじめ対策法があるという。なんと、アメリカは自由放任かと思えば、きちんと対処しているのである。かなり長いが、引用しておきたい。僕はこの定義は非常に優れたものだと思う。特に「所有物にダメージ」「学校内での権利侵害」「教育課程または学校の秩序を妨害」をいじめと理解するのは、なるほどと納得させられる。日本でも、教員の意識をクリアーにするためには役に立つ定義ではないか。

いじめの法的定義
 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返して行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

「いじめ」と定義される具体的な行動
①相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える。
②相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる。
③相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す。
④相手生徒の学校内での権利を侵害する。
⑤実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する。

特徴
①いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す。
②教職員はいじめの予防と介入的方法に関する研修を毎年受けなければならない。
③いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめ「報告件数」が多すぎる

2013年12月25日 00時18分09秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと前の話になるが、文部科学省が12月10日に2012年度の「問題行動調査」のまとめ結果を発表した。文科省サイトの「平成24年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」結果について」で見ることができる。翌日の各紙朝刊は一斉にこれを報道し、「いじめ認知19万8千件」と大きく報じた。2011年度は7万件ほどなので、3倍近くに増えたことになるが、もちろんこれは「報告が増えた」ということである。大津事件を受けて、緊急アンケートなどを行い「軽微ないじめの認知が進んだ」と一応考えられる。

 「一応」と書いたのは、都道府県により報告数の違いが多すぎるからである。それは各紙とも指摘してるし、表を載せている新聞も多い。でも新聞を取っていても見出ししか読んでいない場合も多いし、新聞そのものを読んでいない人も多い。ましてや文科省サイトを見てみる人はほとんどいないだろう。そこで簡単に紹介しておきたいと思ったわけである。僕も文科省の統計そのものをじっくり検討はしていない。一緒に「問題行動」として統計が発表されたのは、暴力行為、いじめ、出席停止、小・中学校の不登校、高等学校の不登校、高等学校中途退学等、自殺(学校から報告のあったもの)、教育相談の全8項目にわたっている。本来はこれを総合的に考察し、また学力テストの結果、さらに県民所得など他の数値も含め総合的に考える必要があるだろう。

 報告数の違いを九州を例にとって見ておきたい。九州各県は多少の経済的、文化的な違いはあるけど、まあ例えば「北海道、秋田、東京、大阪、愛媛」などとアトランダムに取り上げるよりは、社会的に似ていると思う。だから多少の違いはあるのは当然だけど、以下のようにあまりに違い過ぎるのは本来おかしい。小中高特別支援すべて含めた「1000人当たりの件数」を見ることにする。
 福岡(2.5)、佐賀(2.0)、長崎(12.5)、熊本(29.1)、大分(28.9)、宮崎(13.0)、鹿児島(166.1)
 
 いくらなんでも、佐賀県と鹿児島県で80倍もいじめ数が違うとはだれも考えないだろう。鹿児島県の前年は「2.0」で、佐賀県と同じ。鹿児島県は一年で80倍に増えた。これはいじめが増えたのではなく、「報告が増えた」わけである。新聞によれば、鹿児島県は各校ごとのアンケートではなく、「統一アンケート」を実施したという。一方、佐賀県でも前年は「0.6件」で、3倍に増えている。佐賀県は各校で教員の責任で判断しているという。「調査委員会」を校内に設置するなどして芽の段階でいじめをなくそうと努めているらしい。

 和歌山県では「0.9件」が「21.2件」と20倍に増えたが、県教委の指導主事が全高校と全市町村教委に行き、教員が「ささいな冷やかし」と判断したものもいじめに加えたという。(朝日新聞)つまり、簡単に言えば、「19万8千件」には「ささいな冷やかし」も含まれているわけである。もっとも「ささいな冷やかし」ならいいのかと言えば、そうは言えない。言えないけれど、教師側から見て「ささい」と見えるものが、本当に児童・生徒の心には「ささい」なのか「重大」なのかは、本人にだってよく判らない場合もあるだろう。それを「報告すべきか」「報告しなくてもいいか」は判らない。それは報告すべきだろうと思うかもしれないが、小さな事例にも大人が全部対応するのがいいのだろうかという観点もあるからである。人間がたくさんいればトラブルもおこりうるが、それを全部「上から」解決するのがいいのかどうか。この辺の機微は、判断が難しい。

 問題はその「判断の難しさ」を教員が共有していることであって、何かあったらすべていじめ、何でも報告というなら、それは「学びの場」というより、「行政官庁」になってしまうのではないか。2013年度以後の統計も見て行かなければならないが、「多い方に合わせる」、他県はあんなに多い、いじめが多いのは本来よくないはずだが、報告数が多いということは、教員の「いじめ認知」が多い、つまり「教員が熱心に取り組んでいる」、よって「いじめ件数が多い方が熱心に見えて評価される」などという本末転倒が起こらないことを望む。しかし多分、そうなって行くのではないかと思うが。校内に報告すべきいじめ事件が起こらないと、教員が困ってしまうなどという「カフカ的世界」は日本の学校では起こりそうな話である。

 なお、本当は校種別に考えるべきだけど、校種別の報告数はあるけど、「1000人ごと件数」が統一のものしか発表されていない。学校基本調査を参照して自分で計算すればいいわけだが、それは面倒すぎる。ここでは小中高特別支援すべて合わせて計算した数字で見ておくしかない。最後の報告件数が多い県、少ない県を少し挙げておきたい。(なお、いじめの問題は続けて書くことにする。)
多い県
 鹿児島(166.1)、奈良(47.8)、宮城(42.0)、山梨(35.9)、京都(33.9)、千葉(32.2)、熊本(29.1)
少ない県
 佐賀(2.0)、福岡(2.5)、香川(3.3)、福島(3.4)、山形・埼玉(4.5)、広島(4.6)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔵原惟繕の映画⑤「野獣のように見えて」~「愛の渇き」

2013年12月23日 01時06分21秒 |  〃  (日本の映画監督)
 蔵原惟繕監督の映画5回目。日活時代の後期は重要な作品が多いが、なんとか簡潔にまとめたい。
硝子のジョニー 野獣のように見えて(1962)
 北海道の荒涼たる風土の中で、孤独な人々の心象風景を描き出した傑作。「知恵の足りない女」を演じた芦川いづみが素晴らしく、代表作と言ってよい。芦川演じる「みふね」は稚内近くの昆布取りの村に住むが、貧困のため「人買い」秋本に売られる。列車で函館に着いた時に逃げ出し、競輪の予想屋ジョーにすがる。ジョーは宍戸錠で、秋本はアイ・ジョージ。アイ・ジョージは後に事業に失敗し借金がかさんで芸能界から引退状態となるが、当時は大ヒット歌手で紅白にも60年から71年まで連続出演した。「硝子のジョニー」は61年のヒット曲で、同年の紅白で歌った。映画内でも素晴らしい歌声を披露している。だから、この映画は「スター序列で裕次郎、旭以下の宍戸錠を起用した歌謡映画」という企画だが、実際は蔵原監督、山田信夫の感性で作られた「作家の映画」で、日活屈指の重要作と言える。
(「硝子のジョニー 野獣のように見えて」)
 ジョーは腕の良い板前だったのだが、ある競輪選手に入れあげ予想屋になっている。このように「あえて転落した」ジョーだが、狙った選手は成功せず生活が荒んでいる。ジョーを頼るみふねだが、ジョーは裏切ってしまう。みふねは秋本に見つかり連れられそうになるが、秋本は駅で男に刺される。そうするとみふねは秋本の病院に詰めて看病をする。このような「みふね」の設定は言葉では理解しにくいが、周りの荒んだ男たちにとっての「聖女」性がある。「みふね」と関わることにより、ジョーと秋本の孤独と荒廃があぶりだされてくる。この映画は「狭義の日活アクション」ではないが、どのような救済も用意されていない男たちの孤独を描き出した点で、むしろ「ムードアクション」に見られるような「安易な解決」に頼らない場合の、「純粋日活映画」とも言える。

 誰にも頼れなくなったみふねは、鉄路を歩いて郷里をめざし、やっと着いた時にはもう家族がいない。みふねを追ってジョーと秋本もやってくるが、海に入って行くみふねをもはや見つけられない。芦川いづみは清楚可憐な役柄がほとんどだが、その純粋部分を抽出してさらに凝縮したような役を熱演している。フェリーニ「道」のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を思い出させる役。(この両作は基本的に違うと渡辺武信氏は論じているが、インスパイアされているのは間違いないだろう。)

何か面白いことないか(1963)
 「典子」(てんこ)シリーズの第2作。何を見ても面白くない典子(浅丘ルリ子)は、親の遺したセスナ機を競売入札に掛けている。これに応じたのが石原裕次郎演じるパイロット早坂で、大手の会社を退職し自分だけの飛行機を持ちたい。退職金では足らず、生命保険に入りそれを担保にしている。冒頭は今はなき日劇の地下にあったATG系映画館「日劇文化」で、典子が恋人の小池と「戦争と貞操」を見ている。その後喫茶店に入り、テーブルにある陶器製の灰皿のデザインが気に入らないと言い、これを壊せないかなどと言う。近くの席にいる青年(それが実は裕次郎演じる早坂)は、壊せばいいと言ってたたきつけ、500円で弁償する。このような生き方は確かにスッとするところがあるが、納得できない部分もある。「何か面白いことないか」と言って、店の灰皿を壊し、後で弁償すればいいだろうという発想は、どこか間違っている。500円程度だから(今の貨幣価値なら数千円というところか)、出して出せない金額ではないが、他に使いたいとは思う金額だ。それに人のものを勝手に壊していいはずがない。そういうことを口走る「ブルジョワのお嬢さん」性がこの映画をつまらなくしている。

 以後の展開は書かないが、飛行機がダメになりカネを返すためには「自殺しかない」とマスコミが勝手に騒ぎ始める。そのマスコミ批判が「憎いあンちくしょう」以上に激しい。そこで大衆社会批判が前面に出てきて、本筋のはずの裕次郎、ルリ子の葛藤がなかなか進まない。古い飛行機で、エンジンを直すには、唯一残っている大会社のものを使うしかない。社長に頼みに行くがけんもほろろで追い返される。結局、その社長に翻意させられるかが最大のドラマになってしまった。発想は良かったけれど、展開は期待を裏切る感じ。あまり見られる機会がないが、当時の東京の風景も描かれ貴重。今なら海外ボランティアにでも行けばというところだが、当時はまだ海外旅行は自由にできなかった。もっと完全に高度成長した70年前後になると、学生運動に「挫折」してヨーロッパやインドなどを放浪する若者がいっぱい出てくる。60年代末なら「何か面白いことないか」という気分が若い人に共有されていた。その意味では早すぎた発想の映画なのだろう。

執炎(1964)
 浅丘ルリコが異様なまでに美しい反戦映画の名作。漁師の子伊丹一三(後の十三)と平家部落の娘浅丘ルリコが運命的に出会い、結ばれる。戦時中のことゆえ、夫は召集され戦傷を負って帰ってくる。足を切らないと助からないと言われるが、ルリ子の懸命の看病で何とか足を切らず助かる。ようやく村に戻り、二人はリハビリのために村人ともほとんど接せず、二人の愛の世界に没頭する。しかし、戦況悪化のため再び召集令状が来て、伊丹は二度と戻らない。遂に狂気となるルリ子は、敗戦の日に一時的に正気に戻り、夫の死を知り入水するのだった。というほとんど伝説というか、ファンタジーのような純愛を戦争を背景に描き出している。あちこちで撮影され地名は特定されていないが、有名なのは余部鉄橋のシーン。鉄橋を歩いていて傘が落ちていく圧倒的な名シーンがある。今は鉄橋も架け替えられているが、この映画に昔の鉄橋が素晴らしい迫力で残されている。戦争がどんなに女の悲しみを生んだか、慄然とするような思いがする。かなり知られているが、「愛と平和の名作」として、もっともっと有名になってもいい映画なのではないか。
(「執炎」)
夜明けのうた(1965)
 「典子三部作」の最後。ここではルリ子は「緑川典子」というミュージカル女優。題名で判るように、岸洋子が歌った岩谷時子作詞の「夜明けのうた」が全面的に使われた「一種の歌謡映画」。しかし「硝子のジョニー」と同じく、曲だけ使えばいいでしょうという「作家の映画」になっている。典子主演のミュージカルが成功裏に終わりパーティも終わる。そこにスポーツカーが届いていて、不倫中の作曲家が泊ってるホテルへと向かう。彼はもう家に帰らないといけない。ムシャクシャする典子は車を飛ばし、小田原のドライブインまで行ってしまう。そこで浜田光夫と松原智恵子のカップルに出会う。一方、典子の次の作品は小松方正演じる作家が書いた「夜明けのうた」という作品の予定。これはあるミュージカル女優と作曲家の「不倫愛」をもとに、女優の虚実を描き出す作品らしい。しかし、典子は実際に作曲家と不倫中なので、自分への当てこすりと取って絶対に出演しないと宣言する。あてもなく車を飛ばし事故を起こす。というような女優の日常を素晴らしい白黒の映像で描き出す。この映画のルリ子は素晴らしく美しい。ルリ子のマンションの部屋の設計、窓の外の風景も素晴らしい。

 その後の展開は追わないが、数年前に最初に見た時は、ルリ子のエピソードと浜田、松原の若いカップルのエピソードがかみ合わない感じがした。そこにクラブで歌う岸洋子に花束を渡すシーンも入り、「夜明けのうた」が歌われる。だが、2度目に見た感じでは、あまり違和感を感じなかった。「都市映画」という点で見れば、当時の東京の様々な映像が記録されていて、とても面白い。この「都市で生きる女性の心象」というのが、作家のねらい目でもあると思う。そういう風に考えると、若者カップル(松原智恵子は失明の危機にある)も登場することにより、作品世界が重層化できたとも思える。この作品もあまり評価されていないが、今後の再評価が必要ではないか。
愛と死の記録(1966) この時点では見ていなかった。吉永小百合、渡哲也の「原爆映画」。

愛の渇き(1967)
 三島由紀夫原作映画の傑作で、三島映画としては「炎上」と並ぶ、あるいはそれを超える成功作。蔵原作品で唯一ベストテン入りした作品。浅丘ルリコはある資産家の次男の妻だったが、今は未亡人。妻を亡くした義父の中村伸郎と関係を持っている。しかし石立鉄男の若い庭師に見詰められ、以後この若者に興味を持っていく。この映画はいろいろと触れているサイトも多く、見る機会も比較的多いので細部は省略する。三島の原作が好きでないと、退廃的なだけの作品に見えるかもしれないが、今までのルリ子の役柄を抽出して煮詰めるとこのような「美しい悪女」になる。もっとも今「悪女」と書いたが、一応世俗的な評価で言えば「悪女」という部分があるだろうというだけで、「聖女」とも言える。ただの「美女」のプライドに男が翻弄されているだけとも言える。凝った構図で描き出される白黒の画面は大変刺激的で美しい。女を描く「文芸映画」には、「浮雲」「夫婦善哉」など無数の名作が思い浮かぶが、この「愛の渇き」も浅丘ルリコという女優の一番美しい時期と重なった名作である。
(「愛の渇き」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔵原惟繕の映画④「憎いあンちくしょう」

2013年12月22日 01時28分17秒 |  〃  (日本の映画監督)
 蔵原惟繕監督の4回目は「憎いあンちくしょう」に絞って書いた。
憎いあンちくしょう(1962)
 裕次郎、ルリ子のスター映画でカラー作品。内容は非常に充実していて重要だ。日本のロードムービー史上、最高傑作かもしれない。山田信夫のオリジナル脚本で、間宮義雄撮影、黛敏郎音楽。裕次郎は売れっ子タレント北大作で、テレビ、ラジオの出演で毎日忙しい。マネージャーのルリ子がスケジュールを管理している。ルリ子の役名は榊田典子で、「のりこ」だけど周りは「てんこ」と呼ぶ。「典子(てんこ)三部作」の第一作。二人は、大作が新聞に出した募集広告で知り合い、マネージャー兼恋人となるが、忙しい日々に新鮮さを保つために、恋愛関係にあるけどキスもしない、性関係も持たないという「かせ」を自らに課している。730日ほどもそういう関係が続いている。

 このような多忙なタレントの恋愛事情が語られるが、大作は単に有名タレントに留まるのではなく、高度成長時代に「自分を見失っている日本人」の象徴である。当時はまだまだ家族や地域共同体の力が強く、今ほど「個」に分断された時代ではない。しかし、高度成長期にこそ、「これでいいのだろうか」「自分たちは正しく生きているのだろうか」という思いが、人々の内面を覆っていた。先取りする映画作家の心はそれを感知したのだろう。ローマ五輪直前のローマで撮影されたフェリーニの「甘い生活」と同じく、これは東京五輪直前の東京の空疎を描いている。そういう事情がセリフで語られるわけではないが、裕次郎とルリ子の多忙さと「不自然な恋愛関係」を見れば、「何か」がない限りこの二人の関係は壊れてしまうのではないかと思う。それは多くの国民の心に響くものだっただろう。

 大作がテレビで担当する「今日の三行広告から」という番組がある。そこで「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで連んでもらいたし。但し無報酬」という広告を取り上げた。広告を出した井川美子(芦川いづみ)に会いに行くと、熊本の僻地に恋人の医者がいる、ジープがないと助けられない患者がいる、何とかお金を貯めて車は買ったけど、届けるお金がないと言うのである。もう2年も会ってないけど、二人は愛で結ばれていると言う。話を聞きに行った後で、裕次郎はマンションでルリ子を求めてしまうが、拒まれてジャガーで飛び出す。番組に間に合わないかと皆心配するが、本番直前に局に着いて番組が始まると、芦川いづみに2年も会わないで愛と言えるのかと詰め寄る。もう台本無視である。そして、そのジープは自分が運ぶと生番組内で宣言してしまう。

 裕次郎はいったん着替えてからジャガーで下町に乗り付け、ジープに乗り換えてさっさと運転し始める。ルリ子は追ってきて、決まったスケジュールがあると止めるが、裕次郎はジャガーのキーを投げ渡し、九州に向け出発する。裕次郎の運転シーンは、ほぼ本人が運転しロケで撮影されている。(もちろんすべての道程を裕次郎が運転したわけではないだろうけど。)貴重な風景が映されていて、広島では原爆ドームも見える。日本初の高速道路である名神高速の部分開通は1963年である。日本中どこにも高速道路はない。東海道新幹線もない。ひたすら国道を西へ向かうのだ。困ったのは、マネージャーのルリ子とテレビのディレクター長門裕之。翌日の新聞には、「北大作に巨額の賠償請求か」などと載っている。しかし、その局面を逆手に取り、長門は本人に内緒で追っかけを開始し、密着取材を行う。そしてヒューマニズムに基づく行為として、特番を作って局長賞を取る。ルリ子はもうこれでいいでしょう、今東京へ帰るなら何とかなると説得する。もちろん裕次郎は拒絶して西へ向かう。

 以後は、裕次郎が先行しルリ子の追跡が続く。裕次郎は明石からフェリーで四国に向かい、ルリ子をいったん撒くことに成功するが、宇野(岡山)で本州に戻るときに気づかれてしまう。このあたりはもはや意地の張り合い。裕次郎がすべての日程をキャンセルした厳然たる「再出発」において、自分との関係もキャンセルされてしまうのか。それは許さないと追っていくわけである。そしていよいよ九州に入り、山道でジャガーが前進できなくなり、ついに谷底に落ちてしまう。本人は何とか直前に脱出したが。このシーンはどこでどうやって撮ったのか。セットだろうが。記憶では、裕次郎のマンションやテレビ局は別にして、運転シーンは全部ロケかと思い込んでいたが、今回見るとルリ子の運転シーンはスクリーンプロセスがかなり使用されていた。

 やっと熊本の山村に着くと、そこには小池朝雄の医師が待っている。小池は文学座から雲、昴と分裂時の中心となった演劇人だが、「仁義なき戦い」シリーズなど映画のわき役でも活躍した。それよりも有名なのは、「刑事コロンボ」のピーター・フォークの吹き替えで、小池を見るとどうもコロンボを思い出してしまう。1985年に54歳で若死にした。熊本の村では、テレビ局の企画で芦川いづみが連れて来られるが、二人は2年ぶりなのに見つめ合ったまま、動かない。それに対し、裕次郎はルリ子に「ぼくたちの第一目が始まるんだ」と告げ、二人は再出発できることを示し映画は終わる。

 風景も新鮮な上、裕次郎とルリ子の関係がどうなるのか、車2台の関係が面白い。見ていてあっという間に時間が過ぎる。これは「狭義」で言えば日活アクションとは言えない。しかし、九州まで車を運転する(特に高速もない時代に)という行為は、「一般人にとっては大アクション」である。ギャングとの銃撃戦なんて一生出会わないが、そのくらいならやってできないことはない。そういう意味で「広義のアクション映画」であって、「映画内のテーマ」としてはむしろ「日活アクションの本質」を示していると考えられる。それは「自分が自分ではない状況」に抗い、「自分を取り戻すために闘う」ということである。そして、自分が自分ではない時に出会った恋人とは結ばれず(あるいは敢えて関係を断ち切り)、自分が自分を取り戻した時に二人は結ばれる
 
 60年代から70年代初頭には、「社会の歯車」でしかない自分とどう向き合うかというテーマが重大な意味を持っていた。成立し始めた「大衆消費社会」の中で、自己の尊厳が失われていく感覚が特に若者には強かった。当時はそれを「実存的不安」と呼んだ。今ではテレビで人気者になること自体を目的とする若者がたくさんいる。売れっ子になって忙しくて大変というのは判るだろうが、「自分のアイデンティティ喪失」という問題意識はなくなったかもしれない。高度に発達した大衆社会が、自明の前提になってしまった。この映画は、時代の社会状況を「人気者の恋愛」という形でドラマ化し、スター映画としても成功させる離れ業を成功させた。日本映画の底力とも言える。ロードムービーとしての面白さ恋愛映画としての深さも同時代の日本映画を超えていて、非常に面白い傑作だと思う。(なお、同年に作られた山田洋次監督の松竹作品「下町の太陽」には、倍賞智恵子を好きになる工員として、役名「北竜介」が登場する。北大作と似ているのが面白い。)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔵原惟繕の映画③「狂熱の季節」~「黒い太陽」

2013年12月21日 01時14分13秒 |  〃  (日本の映画監督)
 蔵原惟繕監督の各映画の寸評3回目。
狂熱の季節(1960)
 「狂熱の季節」は河野典生の原作を山田信夫が脚色、間宮義雄撮影、川地民夫が主演した傑作ハードボイルド映画。すごい熱気にあふれているが、僕はあまり好きになれない。川地はジャズ喫茶で客の財布をすっているのを写真に撮られ新聞に載り逮捕される。それを逆恨みして、新聞記者(長門裕之)の恋人(松本典子)を湘南で見つけてレイプする。長門に仕返しするのならまだしも、こういう逆恨みレイプは気に入らない。身勝手で無軌道な青春を描くのはいいが、モラルも全くないほどに「純化」されたハードボイルド。弟分の郷鍈治(宍戸錠の実弟)は一匹狼じゃだめだと組に入る。その選択を川地はせせら笑い、あくまでも好き勝手に生きる。そのしびれるような一瞬の夏の興奮をジャズのビートに乗せて描き出す。1960年の日本を象徴するような作品で、渋谷、田園調布、湘南のロケも魅力。
(「狂熱の季節」)
 大島「青春残酷物語」の社会派的な世代論や親との関係はこの映画には出てこない。そこが同じ川地主演の鈴木清順「すべてが狂ってる」よりもさらに徹底している。川地民夫がどんなに生き生きと演じていたかは、鹿島茂「昭和脇役伝」(中公文庫)にくわしい。話は変わるが、原作者の河野典生(1935~2012)の再評価も必要だ。大藪春彦らと共に日本のハードボイルドの先駆者である。幻の作家だった高城高は完全復活し創元文庫から全集も出ている。河野典生は忘れられている。

破れかぶれ(1961)
 68分の映画で、ほとんど上映機会がないが、川地民夫主演で無軌道な青年を描く。アメ横でロケされていて、ものすごく貴重な映像が見られる。川地は場末のバーのマダム渡辺美佐子のヒモ状態で、地元の組とのつながりもある。競馬場で組の兄貴分から「○○を買って置け」と言われたカネで違う馬券を買ってしまい、それが外れて借金を負う。それを返そうと金策に走り、美容師の女のところに大金のドルがあるのを見て盗んでしまう。しかしそれはさらに上部の組のカネで、もっと大々的に追われることになり…。坂道を転がるようにどんどん悪い目ばかりが出る。まあ当たり前だよね。失敗が失敗を呼ぶが、年上の女、渡辺美佐子はあくまでも尻拭いしようと思うのだが…。切羽詰まった焦燥が画面を覆って、行き場のない青春映画。
この若さある限り(1961) 未見

海の勝負師(1961)
 宍戸錠主演で、伊豆大島で大々的ロケを行っている。ジョーと加藤武が潜水夫を演じるという珍しい設定。仲間を見捨てて逃げた卑怯者と呼ばれるジョーが、濡れ衣を晴らそうと駆け回る。その時死んだ仲間の妹が笹森礼子で、ジョーを敵と思い込んでいる。ジョーを慕う中原早苗も大島に追ってきて…。日本には珍しい海洋アクションだけど、陰謀の底が浅い。だからジョーの苦悩も定型的な設定を出ない。三原山をジョーだけでなく、笹森礼子も中原早苗も馬で駆け回るのが見所。
嵐を突っ切るジェット機(1961)
 小林旭が航空自衛隊のアクロバット部隊のパイロット。事故でチームが解散し、反発した旭は兄葉山良二がやってる私設航空団に入る。海に続いて、空のアクションで、迫力満点のシーンもあることはあるんだけど、基本的には自衛隊協力の映画という限界がある。
メキシコ無宿(1962)
 後の直木賞作家星川清司が脚本を書き、メキシコロケを敢行したというのに、驚くべく愚作。日本人は日本語をしゃべり何故か通じるが、相手はスペイン語をしゃべる。不思議設定を全篇通すならまだしも、葉山良二や藤村有広は通訳で出てくる。設定上二人が出てこない場面では、両方自国語をしゃべるのに何故か通じる。だけど字幕場面もある。メキシコで殺人犯の汚名を着せられ日本で働いているホセがいる。ホセが日本で事故死して、その遺志をついで、カネを渡し真相を伝えようとするのが宍戸錠。ホセがジョーと知り合って事情を伝えた後で、ホセを死なせるまでが長い。なかなかメキシコに行かない。脚本が練られていないのである。なんとかホセの村に着くが、ホセの恋人マリアはいるか、マリアはいるかって、マリアなんて村人は何人もいるだろ。そのマリアがそれほど魅力的でない。マリアもホセが犯人と思い込んでるけど、それが間違いと判明する事情もアゼン。メキシコまで行って、西部劇風日活アクションを作るのがジョーの念願だろうし、早撃ちやロデオも披露してるのに残念。

銀座の恋の物語(1962)
 裕次郎、ルリ子の歌謡ドラマの傑作。あの「銀恋」の映画化である。今回は上映がないが、過去に2度見た。経済的に厳しく街の広告屋で看板を書いてる裕次郎と、銀座のブティックで「お針子」をしているルリ子。結ばれる直前に、事故でルリ子が記憶喪失に。というとなんてありきたりな通俗的展開かと思われるだろうが、山田信夫、熊井啓の脚本は細部を極めて綿密に描き上げ、心揺さぶる傑作メロドラマになっている。早朝、裕次郎が人力車を引いて行くロケから始まる。「東京の映画」としても、裕次郎・ルリ子映画としても、歌謡映画としても、有数の作品だと思う。「銀恋」自体は別の裕次郎映画「街から街へ つむじ風」という映画のテーマ曲だった。曲がヒットしたので、別映画が企画された。
(「銀座の恋の物語」)
黒い太陽(1964)
 次が順番では「憎いあンちくしょう」だが、本来ならもっと早く作られていたはずの「黒い太陽」を先に。「狂熱の季節」に続く川地民夫主演のジャズ映画のはずが、日活が製作を認めなかった。ジャズに憧れ、黒人を崇拝する川地民夫は、廃墟の教会に住んでいる。黒人兵が白人兵を撃ちライフルを持って逃亡する事件が起き、その犯人の黒人兵が教会に逃げ込んでくる。全く言葉が通じない中で、川地は黒人兵をかくまうことにする。ジープで逃げ回りながら、次第に追いつめられていく二人。当時ジャズを映画音楽に使うのは、「死刑台のエレベーター」やポーランド映画の様々な傑作など世界にいろいろあったけど、この映画ほど内容と密接にからむ「ジャズと脱走兵」ものは世界にもないと思う。前に見た時は、いくら何でも全くディスコミュニケーションの二人が納得できない感じだった。2度目に見るとその点こそ面白い。納得できないような展開も納得させる力を持っている。傑作として再評価すべき作品。これほど60年代的な映画も珍しいと思う。
(「黒い太陽」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔵原惟繕の映画②「俺は待ってるぜ」~「ある脅迫」

2013年12月20日 00時06分45秒 |  〃  (日本の映画監督)
 蔵原惟繕監督の作品を順番に見ていくことにする。
俺は待ってるぜ(1957)
 デビュー作。美しいモノクロ映像美で描かれたフィルム・ノワール。後に「ムード・アクション」と呼ばれるようになる作品群の先駆と言える。石原裕次郎北原三枝、二人がともに傷を負っていて、傷つけ合いながらも惹かれあい、港ヨコハマの陰謀と戦う。三枝が自殺しそうだと裕次郎が助ける冒頭からムードたっぷり。裕次郎は元ボクサーで、ブラジルに行った兄を追って日本を捨てることだけ夢見ている。その兄は、一年前に立ったはずなのに、以後何の連絡もない。日本(内)と外国(外)を媒介する「」は、日活アクションの主舞台だが、特に横浜ロケが多い。この作品でも、横浜という舞台設定が生きている。また「キャバレー」という日活おなじみの設定もうまい。
(「俺は待ってるぜ」)
 二人は惹かれあいながらも、自らの傷と向き合うために、あえて結ばれないでいる。こういう「観念的な設定」が日活アクションの特徴だ。自分が自分ではない間は、好きな女と結ばれるわけには行かない。彼は組織のためではなく、「自己のアイデンティティ」のために戦うのである。新人ながら安定した演出力だが、後の蔵原組ではなく、撮影=高村倉太郎、音楽=佐藤勝という名手が担当している。裕次郎は驚くほど早口で、自分の思い、考えをストレートに三枝に伝える。このスピード感が新世代のアクション。構図にも凝り、素晴らしい映画だが、人物処理や物語の単調さなど、多少後半がアクション映画としてもたつく印象がある。日活アクション初期の佳作。
◎「霧の中の男」(1958)◎「風速40米」(1958)、未見(後者は昔見た気がするけど。)

嵐の中を突っ走れ(1958)
 「俺は待ってるぜ」「風速40米」に続く裕次郎主演映画。会社としては、このような裕次郎ものの監督として大成して欲しかっただろうが、これは裕次郎ファンにしか面白くない映画。体育大学の助手の裕次郎はケンカに巻き込まれ新聞に載ってクビ。千葉県館山の女子高教師の仕事を見つけてもらって、そこで女子高生に騒がれながら、運命の女性北原三枝と再会。ともに水産研究所が絡む陰謀を追求する。って、授業はいつしてるの? そもそも冒頭に鉄棒の大車輪を披露していると、岡田真澄が登場して突然だけど馬術大会に出てくれないかと頼みに来る。裕次郎は引き受けて馬術に行ってしまう。いくら50年代でも学生だけで鉄棒させて、勤務時間中に勝手に抜け出すのは許されないだろう。その大会で北原三枝が優勝し、裕次郎は後をつけていく。そこでケンカに巻き込まれる。

 北原三枝とはその後会えなくなるのだが、実は館山の出身で親が倒れて実家に戻っていた。アルバイトしている地方紙で再会するのは、娯楽映画で許される偶然だが、あまりに露骨だとシラケる。また陰謀もよく判らない性格のもので、どうも盛り上がりにかける。でも、裕次郎が体育教師として中原早苗や清水まゆみに囲まれ、さらに中原の姉役の白木マリにも惚れられ、という明朗青春映画で満足できる人にはOKかも。渡辺武信は、裕次郎役を加山雄三がやっても違和感がないと批判しているが、裕次郎は後には何の傷も負っていない「明朗青春もの」をたくさんやることになる。石原兄弟は、価値紊乱者のような顔をして登場したが、結局は体制に従順な生き方をしていくことになる。
第三の死角(1959)未見 今回土日の朝に上映があったが見なかった。

爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ(1959)
 初の小林旭作品。建設会社の若手が談合体質に愛想を尽かして、自分たちの会社を立ち上げ、東京湾埋め立て工事を安く落札。「風太郎」(と呼んでる)しか労働者として集められないが、悪徳会社の妨害にめけず体を張って彼らの信頼を得て工事を進める。しかし、そこに巨大台風が襲来し…。後に土建業界を揺るがす談合問題を描いていて、今から見ると興味深い。映画としては、筋があっちこっちに行って、しかも自然災害ですべてが決まってしまい、不思議な映画。銀行関係者の妹役の写真家という設定で、白木マリが出ている。写真を撮りまくり個展も開いている。この写真がなかなかよく、もちろん映画のスチル写真として撮ったものだろうが、50年代の建設工事を撮った写真(という設定の映画のスチル)として、展覧会をして欲しいような出来だと思った。

海底から来た女(1959)
 今回は見てないが、数年前の東京フィルメックスで見た。石原慎太郎原作だそうだが、伝説、ファンタジーというべき青春怪奇映画(かな)。奇作というか、怪作というか、珍作というか。
地獄の曲がり角(1959)
 白黒の映像でスタイリッシュにつづられたチンピラの栄光と破滅。ホテルボーイの葉山良二が、客の殺人事件から汚職事件の証拠を入手する。元々彼は仲間と組んで、不倫カップルが来たら地元の組に知らせ、ゆすりの片棒を担いで小金を得ていた。やがてテープレコーダーを部屋に仕掛けて、スキャンダルを知ったら自分たちで儲けるようになっていく。汚職事件をめぐり、謎の女南田洋子と出会い、悪党たちが複雑に絡み合う。最後に迫力あるカーチェイスになり、「地下室のメロディ」を先取りするような結末。これは「俺は待ってるぜ」以来の佳作で、会社からは添え物扱いされるこういう映画の方が蔵原は得意だ。ホテルボーイが一時とは言え、地元の組をつぶして町を牛耳るというのは無理があるが、それを見せてしまうのが映画。そのためには撮影や演出も大事だが、まず脚本が大切という見本。テープレコーダーの使い方など、当時の時代を感じさせる。

われらの時代(1959)
 大江健三郎の最初の長編の映画化。天皇暗殺計画がチンケな社長暗殺(失敗)に矮小化され、迫力が小さくなったけど、まあ悪くはない。白坂依志夫の脚色。ジャズっぽい音楽(佐藤勝)、キャバレーの地下に住む部屋の美術(松山崇)などが、60年直前の青年の焦燥を描き出す。フランス留学を目前とする長門裕之と吉行和子のカップル。長門の弟たちのジャズバンドは、朝鮮人の高(小高雄二)をリーダーとし、爆弾を作って世界を破壊したい。アルジェリア独立運動の青年闘士、猫好きの少女、長門に学資を出していた年上の愛人渡辺美佐子など様々な人物が交錯し、時代の熱狂と混乱を描き出す。原作を語ることで精いっぱいで、登場人物のヒリヒリするような絶望感があまり伝わってこない。その意味では完全な成功作ではないが、以後の川地民夫主演映画につながるものがある。大江の原作も失敗と言われたが、僕は結構好きで、この映画も吉行和子が出てるから結構好き。
(「われらの時代」)
ある脅迫(1960)
 65分の小品ながら、ミステリーの傑作金子信雄と西村晃の演技合戦で、脚本も撮影も素晴らしい。同級生ながら出世した金子と、落ちぶれた西村の対決がすごい。今は上越市になってる新潟の直江津。蒸気機関車がトンネルを抜け、直江津駅に着き、街へ出ていく冒頭のロケが素晴らしい。当時の街並みを手際よくロケで紹介していく。「新潟銀行直江津支店」という架空の銀行では、頭取の婿である金子信雄の次長が、今や新潟市の本店に出世していく直前。そこに彼を脅迫する男が現われる。この男の目的は何か。金子はどう対処するのか。追いつめられた金子と、その下にいる西村はどうするのか。ミステリーだから全部は書かないが、実に面白い。どこかで見られる機会があれば是非。アメリカで出たDVDを売ってるらしい。ハリウッドでリメイクされるという話も。原作は多岐川恭。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔵原惟繕の映画①「プレ・ヌーベルバーグ」の映画監督

2013年12月18日 00時11分34秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日活で50年代から60年代にかけて、石原裕次郎や浅丘ルリ子の映画を作った蔵原惟繕(くらはら・これよし 1927~2002)監督の作品をたくさん見たので、そのまとめ。蔵原監督は狭義の日活アクションというよりも、特に浅丘ルリ子主演、山田信夫脚本で「自己」を追及する映画を作った印象が強い。また川地民夫を主演に無軌道な青春を生き生きと描いた。芦川いづみの代表作と言える「硝子のジョニー 野獣のように見えて」という異色のドラマも残した。僕は昔から大好きでずいぶん見ていたが、上映機会が少ない作品が多く、今回初めて見た映画も多い。
(蔵原惟繕監督)
 日活を退職したのち、石原プロで「栄光への5000キロ」という大作を成功させ、その後失敗作もあるけれど大体は大作映画を作った。「キタキツネ物語」(1978)、「南極物語」(1983)という大ヒット作もあるが、僕はその頃は全く見ていない。浦山版ではない「青春の門」も2作撮っているが、そういう映画があったという記憶もない。確か「雨のアムステルダム」と「春の鐘」(立原正秋原作)を見ただけだ。僕にとって、蔵原惟繕は日活時代に輝いていた映画作家として記憶されている。

 名前を見て思いつく人も今は少ないかもしれないが、文芸評論家(というか日共のイデオローグのイメージが強い)蔵原惟人が親戚にあたる。同じく日活の監督である蔵原惟二は実弟。詩人の蔵原伸二郎も親戚である。最初松竹に入社するが、日活に移籍。57年に「俺は待ってるぜ」で監督に昇進した。前年の1956年に中平康の傑作「狂った果実」が作られているが、ようやくこの頃から、戦前来の巨匠時代から、戦後に大学を出て映画会社に入社した新人監督が各社で輩出する。

 同じ1957年に昇進した監督に、大映の増村保造や東映の沢島忠がいる。蔵原惟繕は1927年生まれだが、増村は1924年生まれ、沢島は1926年生まれである。中平康も1926年生まれ。日活では1927年生まれの舛田利雄が1958年に監督になった。また東宝の岡本喜八は1924年生まれだが、1958年に監督になっている。岡本は戦時中に東宝に入っていて、軍隊経験もある。しかし、それ以外の監督は10代後半から20歳前後に敗戦を迎えた世代である。増村や岡本の映画は、あるいは東映時代劇の枠内ながら沢島の映画は、それまでの映画にないスピード感とテンポのよいリズムで評判を呼んだ。日本映画と言えば、巨匠の映画であれ通常の娯楽作品であれ、過剰な感傷とテンポの遅さという印象が強かった。それが若手監督の登場により変わっていったのである。

 松竹は新気風の登場が少し遅れるため、1960年になって一斉に登場し「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれた。大島渚(1932~2013)、篠田正浩(1931~)、吉田喜重(1933~)と、ここで登場した監督は1930年代の生まれである。この数年の違いは大きい。敗戦を10代前半で迎えた世代である。しかし、彼らの登場の前に他社でもう少し年長の世代により「プレ・ヌーベルバーグ」があったのである。それは映画に留まらず、文学や音楽などとも連動している。これらの監督の映画は、日本の現代音楽を切り開いた作曲家が音楽を担当した作品が多い。また原作者として、石原慎太郎(「狂った果実」他多数)、開高健(増村監督の「巨人と玩具」1958)、大江健三郎(蔵原「われらの時代」1959、後に増村「偽大学生」、大島「飼育」)など、当時新進作家として新世代の旗手と目された作家の映画化が多い。

 彼らの文学や映画を通して、見えてくるものは何だろうか。日本の文学は長く「家の重圧」に苦しむ姿を描き、戦後になると文学も映画も「戦争」とその後の価値転換を描き続けた。それらのテーマは60年代になってもいまだ大きな意味を持ってはいたが、戦後10数年たって登場した世代は「もうすでに復興し高度成長しつつある日本の政治経済体制」こそが目の前の壁であり、敵だった。だから企業社会やマスコミや成立しつつある「大衆社会」の中で「自分」をいかに保つか、「現代社会の中のアイデンティティ」が最も重大なテーマとなったのである。それらはまだ多くの人の課題ではなかった。しかし映画作家は、時代感覚を先取りするように、60年代後半の世界的な若者の反乱を先駆的に描き続けた。蔵原監督の「憎いあンちくしょう」や「夜明けのうた」、「狂熱の季節」や「黒い太陽」は、60年代日本を考えるための重要な視点を与えてくれる。

 もう一つ、これらの監督の初期作品、特にデビュー作はほぼ白黒映画である。まだ新人監督にカラー映画を撮らせる時代ではない。70年代になると、どんな新人の駄作でもカラーになる。60年代までは撮影所システムが生きており、各社で素晴らしい技術者がたくさんいた。その中でスターシステムで、プログラムピクチャーが作られ続けていた。新人監督ももちろん、その中の一つを任されたわけである。彼らの映画が今見て魅力があるのは、この素晴らしい技術に支えられた「モノクロ映画のピーク」だったことが大きい。蔵原監督の映画では、おおむねカラーで撮ったスター作品より、白黒で撮った「自分の映画」の方が圧倒的に素晴らしい。特に「執炎」、「夜明けのうた」、「愛の渇き」の浅丘ルリ子が主演した映画群は、日本の白黒映画の到達点ではないか。作家論が長くなってしまったので、個々の作品の短評は次回以後に書きたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮・張成沢粛清の衝撃

2013年12月17日 01時01分19秒 |  〃  (国際問題)
 北朝鮮で「事実上のナンバー2」と言われてきた張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長が失脚という情報が流れ、続いて党から除名という映像が公開され、13日には「国家転覆陰謀」を理由に死刑が執行された。この事態の持つ意味を考えておきたい。

 まず確認しておきたいのは、この事態が「国際人権規約」に反しているということである。朝鮮民主主義人民共和国も、なんとこの国際人権規約の締約国なのである。人権規約には、自由権規約と社会権規約があり、さらに自由権規約には二つの選択議定書がある。個人通報制度と死刑廃止である。(どちらも日本は批准していないのは承知の通り。)自由権規約では死刑廃止はうたってはいないものの、死刑に関して次のように規定している、「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する。死刑に対する大赦、特赦又は減刑はすべての場合に与えることができる。」また裁判に関しては「有罪の判決を受けたすべての者は、法律に基づきその判決及び刑罰を上級の裁判所によって再審理される権利を有する。」

 国際人権規約に照らして、日本も全くほめられた状態ではない状況にある。先に書いた「中等教育の無償化」もその一つだけど、刑事司法に関しても様々な問題があるのはよく知られている。死刑執行も安倍内閣で常態化しつつある。また、中国は世界で一番死刑執行が多い国として知られている。そういう東アジアの死刑状況を見ても、今回のような特別軍事裁判の一審だけで判決後直ちに執行するというのは異常の程度が飛びぬけている。日本で言えば、明治末の大逆事件のような事例と言える。中国では今年行われた薄煕来裁判でも一応2審まで開かれ経過が報道されている。北朝鮮では様々な粛清があったが、このような「みせしめ裁判」が行われたのは1956年の朴憲永以来ではないだろうか。(朴憲永は南朝鮮労働党系を代表し、朝鮮労働党副主席に就任し副首相、外相を務めたが、朝鮮戦争が勝利できなかった責任を取らされたと言われる。)

 このような経過は予想を超えていた。張は金正日の妹であるキム・ギョンヒ(漢字表記は金敬姫と金慶喜の二つあるので不明)の夫で、「キム一族」として「保護」されると考えられたからである。処刑直前に「強制的に離婚させられた」という情報もあるが、とにかく「ファミリー」内に粛清が起こるとは何があったのだろうかという憶測を呼ぶ。キム・ジョンウンを超えるような勢力を誇り、それがつまづきのもととなったとも言う。人間性に関する罵詈雑言も流されていて、「女性関係の乱れ」が妻の怒りを買っていたという話もあるようだ。しかし、本来ならばそういうことは「表に出してはいけないこと」のはずである。支配層内部の事情をあまり表に出せば、民衆の反感を呼ぶ。張成沢だけが腐敗していて、後はみな清廉だなどということはありえないのだから。

 今までにも張は一時的に失脚し、また復活したこともあった。金日成の弟である金英柱も脚光を浴びた後で失脚し、後にまた役職についている。とにかく「ファミリー」であることは周知の事実なので、政治犯収容所送りなどで、「事実上の終身刑」にされるというような可能性が高いと思っていた。北の粛清ではそういうことが多い。支配層内部で処理され、国際的、国内的には報道されない。その方が「対民衆政策」としては優れている。「何が真相かは判らないものの、どうも失脚したようだ」という形の方が、支配する者としては有効なのではないか。

 ところがこのような大々的な裁判と即決処刑となった。その理由はどこにあるのだろうか。そこまで大きな矛盾が支配層内部にあり、隠しようもない対立関係に陥り、「公然たる処理」を行わないといけない段階に至っていたということである。それは経済開放政策をめぐるものか、対中国貿易の利権をめぐるものか、軍との対立によるものか、キム・ジョンウン第一書記の指導力をめぐるものか、真相は今のところよく判らない。しかし、本格的な対立があったと想定するしかないように思う。

 僕が張成沢という人に注目したのは、1993年に翻訳が出た「北朝鮮崩壊」という本を読んで以来である。文春から出たこの本は、キワモノ的な題名だが、尹学準氏が翻訳していたので読んでみる気になったのである。(「オンドル夜話」「歴史だらけの韓国」など尹氏の本を愛読していたので。)その本の段階ではまだ金日成時代だったわけだが、今後の北情勢のキーパーソンとして「張成沢」を挙げていた。以後の情勢を見ると、確かに節目節目に張成沢が出てきて、キム・ジョンウン時代になったら「後見役として事実上のナンバー2」とまで言われるようになった。

 そこまで勢威を誇った人物を粛清すれば、その波紋は大きくならざるを得ない。ただ失脚させるだけでは不十分で、不満を完全に抑え込むには裁判が必要だったということだろう。しかし、いくら北朝鮮でも「対立した」「気に入らない」だけでは死刑判決は出せない。そこで「クーデタをたくらんだ」という「国事犯」にするしかない。「最高指導者同志」に反逆したという「大逆罪」である。そうなると、民衆の間では「クーデタをたくらむという人がいたんだ」「そういうこともありなんだ」となってしまうだろう。すぐ幕府崩壊、大政奉還にならなくても、これは「大塩平八郎の乱」になりかねない。今後何かあれば、張成沢の方が良かったのではないかと、表立っては言えなくても心の中で思う人が出てくるのは止めようがない。「そういう人がいた」と公表したのは当局なのだから。

 そこでキム・ジョンウンが大々的な経済開放に踏み切り民衆生活のアップが実現すればいいのだろうが、それはむしろ張成沢ラインの政策である。ご本人は遊園地やスキー場を作って「名君」を演じているようだが、この錯誤ぶりは驚きである。ピョンヤンの特権階級しか知らないから、そういう思い付きになるんだろうけど、一部では相当に経済が悪化しているという現状を知らないのか。経済状況の急激な好転は全く期待できないけど、「張成沢が国家を乗っ取ろうとした」と言ってしまった以上、何か具体的な成果を国民に示さないとやっていけないだろう。それは軍関係、特に核開発やミサイル発射しかないと僕には思えるが、どうなるだろうか。核兵器開発はこれ以上本格化させると中国との関係を完全に悪化させる可能性がある。そこでミサイル発射実験やその他の軍事挑発がないとは言えないと考えておくべきだろう

 今後、張成沢の下で働いてきた党と政府の実務官僚の粛清がどうなるかは、非常に重大な問題である。当面は張だけというタテマエで進むかもしれないが、長期的には粛清が進むと考えるべきだろう。党内には「張成沢はファミリーだから安心」と思い「若いキム・ジョンウンで本当に大丈夫だろうか」などとホンネを内輪で語ってしまった人物もいたに違いない。かなり多くの人物が恐怖に囚われていると思う。現に、副首相レベルが中国亡命を申請しているという情報もある。今後公表されないまま、中国や韓国に亡命する高官が現われるのは確実である。次第にもう少し情報が漏れてくるだろうが、北朝鮮情勢は要注意であると考えている。

 簡単に言えば、「北」に対するスタンスはそれぞれ違えど、「やはり金日成はそれなりにすごかった」「金正日も党と国家を掌握していた」、それに対して「若い金正恩は大丈夫なのか」と世界が思っていることを、これで北朝鮮民衆も内心では皆思うようになったという段階に達したと判断している。中国がキーを握っているのは間違いなく、どうなるか注目して行かなくてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「10年研修」廃止へ

2013年12月16日 00時00分52秒 |  〃 (教育行政)
 朝日新聞12月4日付紙面に「教員10年研修廃止へ」という記事が掲載された。(氏丘真弓編集委員によるもの。)この問題をめぐって考えておきたい。この「10年研修廃止」というのは、まあ廃止しないよりは現状としてはいいのだろうけど、要するに「教員免許更新制永続化」ということである。教員免許更新制という制度は、中教審でも一度は取り入れられなかった問題が第一次安倍内閣の政治マターとして強引に施行された経緯がある。よって、安倍内閣が再来してしまった以上、廃止という選択肢は文科省にはないのだろうが。

 記事によれば、文科省の「教員免許更新制度の改善に係る検討会」で、13日に廃止の方針を決めたということである。ただし、2015年の法改正を目指すとあり、来年はまだ存続している。さらに、「10年研修をするかどうかは各自治体の判断に任される」という制度設計になるようなので、必ず廃止されるとは限らない。

 ところで、更新制が本当に発動されてしまった時に、教師も勉強しなくてはいけないなどと真顔で語る人が結構いたのに驚いた。それ以前には更新制ではなく、「10年研修」の方を選択したという教育行政の流れを知らないのである。だから、「10年研修」が廃止にならないまま「更新講習」も義務付けられ、同じ年に重なる教員には重すぎる負担になっていた。そのことが問題であるのは、更新制実施時から文科省も認めてはいた。(記事によれば、10年研修対象者1万2900人のうち、2200人ほどが重なっているという。)教員には自明のことだが、一応説明しておくと、「10年研修」というのは「10年経験者研修」のこと。教員に採用されて10年たつと義務となる。一方、「更新制」は教員免許を10年期限とすると言いつつ、主に事務的な管理しやすさの点から、35歳、45歳、55歳と年齢で区切ることにした。だから何歳の時に教員に採用されたかということにより、一定数の教員は両方かぶってくるわけである。

 「10年研修」は「教育公務員特例法の一部を改正する法律」が、2002年6月12日に公布され、2003年4月1日から施行されて始まった。必ずしも10年ではない場合もあるが、一応法律上は10年をめどに実施する。従って教員人生に一回である。しかし、東京都教委などは、20年研修、30年研修も作ったので、負担感はかなり大きかった。法に上乗せした部分は、さすがに更新制実施で廃止されたが。

 「10年研修」の中身として文科省が例示したのは、「夏季・冬季の長期休業期間等に,20日間程度,教育センター等において研修を実施すること」「課業期間に,20日間程度,長期休業期間中の研修において修得した知識や経験を基に,主として校内において研修を実施すること」ということで、校外20日、校内20日というのだから、これはものすごく大変である。

 更新制の方は、「自費で申し込む」「出張にならない」「校種を問わず、何でもいい」、特に「講習に合格しないと失職するという脅しが掛かっている」という何とも納得しがたい問題がつきまとう。しかし、なによりわが身が大切と、自宅から行きやすく自分の関心により近い講習にさっさと申込みさえすれば、中味は座学が中心だから「10年研修」より楽なのかもしれない。ただし、教員人生に3回あるわけだが。(もっとも管理職や主幹教諭になれば、この更新講習をスルーできるが。)

 教員にとって、研修は義務であり、権利でもある。「義務」というのは、「教育公務員特例法」に以下のようにあるわけである。
第二十一条  教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない
2  教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途その他研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならない。

 また「権利」というのは、同法に以下のようにあるのを見れば、校長や教委の承認がいるのは当然だが、勤務時間内に勤務場所を離れて研修することができるわけで、これは「研修の権利」があるとも言えるのである。
(研修の機会)
第二十二条  教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない
2  教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる
3  教育公務員は、任命権者の定めるところにより、現職のままで、長期にわたる研修を受けることができる。

 ここに定められた教員研修の本質からすれば、教員が研修するのは当然で、その方法は「10年研修」でもなく、「更新制」でもないものを模索して行かなければならない。教育界の状況もどんどん変わって行くし、求められるものも変わって行く。大学で学んだ教育心理学では太刀打ちできない精神疾患や発達障害への最新の理解も不可欠である。大学や企業などもどんどん変わっているので、進路指導も大変だ。そのうえ触法少年や虐待児童への法的制度、生活保護など社会福祉の制度、年金や健康保険などの制度、そういうものも案外教員は知らないものである。関係するケースに当たって初めて知るようなことが多い。自分の担当する教科はもちろんだが、他にも知っておかないと生徒理解が行き届かないということが昔より格段に多くなった。

 そういうことを考えると、校内事情を考えつつ、10年に一度ではなく、あくまでも勤務校での校内研修を軸に、夏季休暇などには都道府県教委や大学等での研修、および自主的な校外研修が重要だと思う。しかし、まあ考えても実現しないのだから、もう書くのはやめる。更新制については、折に触れまた書きたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大空の虹を見ると私の心は躍る」

2013年12月14日 01時07分47秒 | 演劇
 文学座の「大空の虹を見ると私の心は躍る」を見てきた。鄭義信(ちょん・うぃしん)作、松本祐子演出で、短いながら(1時間45分ほど)心打つ芝居。もう14日、15日の14時の回しかないけれど、紹介しておく次第。新宿の紀伊国屋サザンシアター。
 
 この芝居はある映画館の終りの日々を描いている。鄭義信の戯曲だから見てみたいと思ったけど、特に映画館の話というのに心惹かれたのである。東京でもそうだが、特に地方では名画座的な映画館がどんどんなくなっている。そこには様々なドラマがあるはず。映画館を通して見えてくる人々と町の心の歴史があるはずだ。この劇の映画館「新星劇場」の最後のプログラムは「シェルブールの雨傘」と「草原の輝き」である。ここで、かなりグッとくる。もし自分が館主だったら、一体どんな映画を最後に映画館を閉じるだろうか。「シェルブールの雨傘」は最近もデジタルで上映されているが、「草原の輝き」は今は劇場上映の素材はないのではないか。エリア・カザン監督、ウィリアム・インジ原作・脚本の1961年アメリカの傷つく青春映画の傑作である。主演のナタリー・ウッドは一度見たら永遠に忘れられない。

 でもなんで「草原の輝き」なのか。それが実はこの劇のもっとも重要なカギだった。これはワーズワースの詩から取った題名で、主人公の館主は青春時代にこの映画に感動し、詩集を買ったのである。そこに出ていたのが「大空の虹を見ると私の心は躍る」という詩の一節だったのである。劇を見るまでは全然覚えられなかった劇の題名だけど、見た後では間違うことなく覚えられる。忘れられない。

 この映画館には館主と館主の父がいて、館主の息子も帰って手伝いにきている。その「友人」も東京から来ている。「モギリの女の子」がいて、映写技師がいる。女の子は太目で、映写技師はなぜかいつも「ウサギの着ぐるみ」である。そこに映画は見ないけど、休みに来ている「老女性」がいる。登場人物は以上7人のみ。そして、劇の進行とともに、舞台には重要な「不在の人物」がいることが判ってくる。

 ここで館主一族や映写技師をとらえているのは、「あるいじめ事件」だった。それに加えて、同性愛、介護、地方の疲弊など様々な問題が散りばめられているが、結局は「ある家族といじめ事件」が最も大きな傷であることがだんだんはっきりする。そして台風の夜を経て、登場人物はみな最後の上映を経て「新出発」を迎えるのである。笑いあり、涙あり、登場人物が皆葛藤を抱え、密室状況ですべてが明かされ、「昇華」されていく。こんなに「良く出来た古典的ドラマ」がいまどきありうるのか。構成としてはそう思わないでもないけど、「いじめ事件」と「映画館の最後」をクロスするところに深い感動が湧き起ってくる。「ニュー・シネマ・パラダイス」のテーマが流れ、ワーズワースの詩を朗唱する。多少感傷に入りかける感じもあるけど、まあ「過去にどう向き合うか」をめぐり、すべての人に問いかける芝居。

 「大空の虹を見ると私の心は躍る」。この詩の先が知りたい人は是非舞台を見るか、ワーズワース詩集を買いましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校授業料無償化の末路

2013年12月11日 23時36分23秒 |  〃 (教育行政)
 11月27日にある法律が成立した。「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律の一部を改正する法律」という。いわゆる「高校授業料無償化」が終わりになる「改正」である。衆議院選挙で自民党の公約だった。参議院本会議の投票で、自民、公明、維新、「みんな」が賛成(177票)。(民主、共産、社民、生活その他合計77票の反対があった。)

 高校授業料無償化問題については、民主党政権で成立した時に問題点も残り、当時4回にわたって記事を書いた。
①「高校無償化は人権問題である」(2011.8.9)
②「朝鮮高級学校の場合」(2011.8.20)
③「留年してはいけないのか?」(2011.8.22)
④「定通はかえって『損』なのか」(2013.10.13)
 国際人権規約との関係や朝鮮学校の問題は他の人も言っているが、「留年者からは取る」「定通高校ではかえって負担増なのではないか」という問題は、あまり論じられなかった。

 今回の「改正」は、高額所得家庭からは授業料を取るという変更だと思ってる人が多いと思うけど、実は少し違う。とても面倒な制度設計になっていて、家庭と学校事務の負担はとても大きくなるのではないか。「高額所得者に授業料がかかる」のではなく、「低所得家庭に就学支援金を支給する」のである。ただし、それは学校に集約して、学校に支払われる。「高等学校就学支援金について」という文科省の説明サイトを参照。

 その説明によると、就学支援金はすべての国公私立生徒に出るが、課税証明書と申請書を学校に提出しなくてはならない。逆に言えば、高校教員(あるいは高校事務職員)は、全生徒の家庭から課税証明書を集めなくてはならない。何という面倒な仕事をまた押し付けられるのか。学校はその支援金を授業料と相殺するというのである。

 ところで「市町村民税が30万4200円以上の世帯」では「授業料をご負担いただく」という。これは「両親のうちどちらか一方が働き、高校生1人、中学生1人の家庭であれば、市町村民税所得割額が30万4200円の場合、年収は910万円」なんだそうだ。しかし、いまどきそんなモデル家庭がどれだけいるのか。とにかく、新聞記事などでは「世帯収入910万」という説明がよく出てるけれど、そうではなくてあくまで住民税額の方で判断するということらしい。(ところで、東京23区には「市町村民税」を払っている人が誰もいないんだけど、なぜ特別区民税が書いてないのか。)

 さて、そうすると高校は、支援金の支給申請をまず行い、その結果課税証明で住民税額が判ったら、あらためてその家庭から授業料を取るという段階になる。一体何月から授業料を徴収できるのか。なんでこのような面倒な制度にするのか。全く判らない。これで判るのは、学校事務がものすごく大変になるということである。ところで、この制度改正で浮いたカネを何に使うのか。「低所得層の私立生加算を手厚くする」という。これも全く判らない。何で公立に通わせる親のカネで私立に通わせる親を支援するんだろうか。自民党には私立学校関係者が多いということか。こんな面倒な制度を作ることなく、高額所得者の所得税率をアップし、公立高校はすべて授業料無償とすればいいと思うんだけど。授業料の所得制限は事務負担を増すだけだから、所得税率の方をアップして高額所得者は税そのものを多く負担してもらえばいいのではないか。

 もし高校授業料を高額所得家庭からは徴収するというんだったら、それは大学、専門学校等への進学の奨学金に使うべきではないか。「国際人権規約」に反する政策を堂々と進めるのも不可解だが、中等教育無償化に例外措置を作っても、高等教育への支援を強めるというのなら理解は得られるかもしれない。とにかく、最初から訳の分からない部分もあった無償化措置は、こういう末路を迎えたということの報告。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石の生誕・終焉の地-早稲田散歩②

2013年12月11日 00時54分39秒 | 東京関東散歩
 太宰治のように、生誕地も終焉地も知ってる読者が大半という作家もある。一方、夏目漱石のように、「坊ちゃん」は道後温泉、「三四郎」は東大の三四郎池などと作品情報は知っていても、作家個人がどこで生まれたか、ほとんどの人が知らない場合もある。まあ東京のどこかなんだろうけど。実は漱石の生誕地も終焉地も早稲田である。終焉の地は10分くらい歩くが、そこは「漱石公園」になっていて、銅像も作られている。そこが「漱石山房」という最後のすみかだった場所。そこへ行く通りは「漱石山房通り」と名付けられている。地下鉄早稲田駅で大学と反対の、神楽坂寄りの出口から地上に出て少し歩く。小さな下宿などが今でも多い地域である。ここは新宿区が夏目漱石記念館を建てようと計画しているので、いずれもっと有名になるだろう。
   
 一方、生誕地の碑は大学方面の出口から1分もしない。いや、僕も今回まで知らなかった。駅から大学方面にすぐ行ってしまうので気付かなかったのである。早稲田通りに沿って横断歩道を渡り、角の酒屋を右に下る。その道が「夏目坂」と出ている。そこにすぐ「漱石生誕地の碑」がある。その酒屋は「KOKURAYA」と看板がある。元は「小倉屋」で、ここが堀部安兵衛が高田馬場での決闘の際に立ち寄って枡酒を飲んでいったというお店。それにちなみ、吟醸酒「堀部安兵衛」とか「夏目坂」、さらに地ビール「早稲田」を売っている。
 
 この地域にはお寺が多いので、まずはまとめて。漱石公園から少し行くと外苑東通りという大通りに出る。そこを渡って牛込保健センターを過ぎると、「多聞院」に松井須磨子の墓がある。あの「復活」のカチューシャで一世を風靡し、師の島村抱月を追って自殺したという日本の女優の草分けのような人。隣の「浄輪寺」には、和算の関孝和の墓がある。そこから早稲田通りに戻り駅に向かって歩くと「宗参寺」という大きな寺がある。ここに江戸時代の軍学者、山鹿素行の墓や中世以来の豪族牛込氏の墓がある。その他さまざまな墓や記念碑もあるが省略。あまり墓を見て歩く趣味もないんだけど、散歩途中にあれば見て行こうかなという感じ。(松井、関、山鹿の順番)
  
 早稲田通りをさらに歩き、馬場下町交差点を右に行くと早稲田キャンパス。真向かいに「穴八幡神社」がある。ここは最近工事でいい写真が撮れない。将軍吉宗以来の由緒ある流鏑馬(やぶさめ)をするところで、その銅像があるけど、晴れた日の午後は日が差して逆光。通りの向かい側あたりも寺が多い。こんな紅葉を撮ったけど、一見どこの観光地かという写真が撮れた。
  
 穴八幡を少し行って左折すると、早稲田奉仕園がある。日本キリスト教会館があるところ。僕はここによく通った時代がある。様々なボランティア活動の中心地で、奉仕園企画の東南アジアセミナー旅行に参加したのである。それ以来、そこで開かれる様々な催しによく行くようになった。30年以上前の話。最近まで宿泊ができる棟があって、様々な団体の合宿や忘年会などでよく使った。今はなくなってしまい、ここに行くこともあまりなくなった。元々は早稲田のキリスト教系学生寮に始まるという。「女たちの戦争と平和資料館」もこの敷地のAVACOビルにある。ここのシンボル的建物がスコットホールで、東京都指定の歴史的建造物である。早稲田奉仕園に行けば、何かボランティアや市民運動の集まりがあるし、またチラシが入手できる。
  
 ちょっと離れるけど、明治通りまで行って副都心線西早稲田駅近くまで行くと、重要文化財の建物がある。学習院女子大学の門で、「学習院旧正門」である。川口市の鋳物工場で作られたという。女子大だから中へは入らず、門だけ眺めて帰る。
   
 西早稲田交差点から北の方へ行くと、「甘泉園公園」がある。元は徳川御三卿の一つ、清水家の庭園だと言うが、一時は早稲田大学が管理し、今は新宿区管轄となっている。それほど大きくないが日本庭園。隣に「水稲荷神社」があって、そこに堀部安兵衛の碑がある。安兵衛の碑はあちこちにあるみたいだけど、討ち入り前の高田馬場決闘の碑である。もっとも1971年に移転してきたものらしいけど。さらに少し行くと新目白通りで都内唯一の路面電車「都電荒川線」の終点(始発と言っても同じだけど)の停留所がある。そこは早稲田大学の裏。これに乗って東京東部に行き来できる。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早稲田大学-早稲田散歩①

2013年12月10日 00時48分08秒 | 東京関東散歩
 東京散歩シリーズ。早稲田周辺を取り上げる。早稲田と言えば、まあ早稲田大学ということになる。それ以外にも史跡が多いのだが、早大が目的で行く場合が多い。最近も「いまだ知られざる寺山修司―わが時、その始まり」に行った。1月25日まで。これは大隈タワーで行われているが、元秘書の田中未知氏が保管していた資料を早大の演劇博物館と共同で研究しているとのこと。この「演博」、正式に言えば「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」は一度は行きたい大学博物館である。姿もいい。無料。
   
 夏と秋の写真が混在してる。説明の写真を見れば判るように、エリザベス1世時代のイギリスのフォーチュン座を模した建築で、1928年建築。坪内博士というのは、もちろん坪内逍遥のことで、「小説神髄」を書いたりシェークスピアを最初に翻訳した人として知られている。早稲田大学教授だった人で、館内に記念室がある。坪内の古稀とシェークスピア全集完結を祝って建設したという。この人。
  
 中は古い建物らしく、階段がミシミシと音がするのが今は懐かしい感じ。でも少し軋みすぎかも。展示は写真が撮れないけど、民俗芸能や古典演劇から近代、現代、映画など各分野の展示がある。図書室もある。村上春樹は紛争で授業がない時期に、ここにこもってキネマ旬報のバックナンバーを借りてシナリオを読みまくって過ごしたと書いていた。木造建築に照明が当たり、雰囲気的に落ち着く場所だ。ちょっと古典が多いのだが、最近は60年代の「前衛」演劇や映画に関する展示も多くなっている。
  
 早稲田大学にはもう一つ貴重な博物館がある。「會津八一記念博物館」である。うっかり歌人として有名な會津八一の記念館かと思い込んでいたが、そうではなく會津のコレクションを基に貴重な実物資料を展示するもの。元は図書館で、横山大観、下村観山合作という珍しい大作「明暗」という絵がかかっている。また荻原守衛の彫刻「女」もある。他にも様々な民族学、考古学資料がある他、大隈記念室もある。會津八一が若い人向けに作ったという「学規」と言うのも面白い。ここは受付にある案内を参考に、見たものにチェックして行くと帰りに絵葉書をもらえる。是非、トライ。「学規」をもらった。
  
 ところで、早稲田最大の文化財は大隈講堂だろう。重要文化財指定の建築で、大学の象徴と言える。大きすぎて全体を撮るのが難しいが。講堂を過ぎて少し行くと「大隈庭園」があり、ここからは大隈講堂を横から見ることができる。大学の中にこうした庭があるというのはとてもうらやましい。1927年建設である。 
   
 大隈講堂の2階はこんな感じ。7月のドナルド・キーンさんの講演の時に撮ったもの。
   
 大隈講堂という名前は、もちろん創立者の大隈重信にちなんでいるが、早稲田キャンパスに入るとすぐに大きな銅像があるのは有名だろう。これは朝倉文夫によるもので、1932年完成。ところですぐ近くを振り返ってみればもう一つ銅像がある。元総長高田早苗の像だけど、これは知る人が少ない。また相馬御風作詞の校歌碑も近くにある。「都の西北」というアレ。今では西北と言うなら所沢辺りまで行く感じだけど。 
    
 早稲田キャンパスばかりになったけど、キャンパス風景を少し載せて終り。 
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする