尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「細雪」、3本の映画を比べて見る

2022年03月31日 23時00分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 谷崎潤一郎原作「細雪」は今までに3回映画化されている。以下の3つの作品である。
1950年 新東宝 阿部豊監督 145分 キネマ旬報ベストテン第9位
1959年 大映 島耕二監督 105分 
1983年 東宝 市川崑監督 140分 キネマ旬報ベストテン第2位 アジア太平洋映画祭作品賞、監督賞

 この3本を神保町シアターで見たので、それも一週間以上前のことになるけど、何とか3月中にまとめ。もう上映もしてないし、誰にも無関係ながら自分の備忘という意味である。3本全部前に見ていて、随分しばらくぶりに見直したことになる。今までは原作を読んでなかったので、今度原作を読んでみたところ、なるほどなあと思うことが多かった。長大な原作をたった2時間ほどの映画にまとめなければならない。映画製作にはお金も時間も掛かるから、ある程度は女優中心に「商業映画」として成立させなくてはならない。そこでどこをどう切り取り、どう入れ替えるか。シナリオの勉強になる。

 では、どのように女優中心になっているか。蒔岡家の四人姉妹を上からキャストを紹介すると、以下の通り。
花井蘭子・轟由起子・山根寿子・高峰秀子
轟由起子・京マチ子・山本富士子・叶順子
岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子

 第一作のキャストは今ではもう判らないかもしれない。当時としても山根寿子より、4女の高峰秀子の方が大スターである。一方、②③の山本富士子吉永小百合は、誰もが認める大女優。だから①は「こいさん」(妙子)が中心になり、②③は三女雪子が中心になる感じがする。原作は雪子の方が重要だと思うが、最初の映画化で四女妙子の奔放な恋愛が強調されたのは、時代の影響が大きいと思う。高峰秀子だからという以上に、敗戦と占領という時代相が反映されていると考えられる。
(1950年の「細雪」、左から高峰・山根・轟・花井)
 簡単に各作品に触れていきたい。①は原作完結後すぐの映画化で、これだけがモノクロ映画になっている。それだけに今見ると、ロケなどにまだ敗戦直後の貧しさが見える。しかし、驚くべきことに原作のクライマックスとも言える「阪神間大水害」が描かれるのは①だけなのである。映画では特撮を駆使しているが、今となってはちょっとしんどい。それでも「完全映画化」に一番近いのは①なのである。ただ和服や花見シーンがカラーじゃないのは、やはり寂しい。雪子の山根寿子は戦前から活躍した女優で、50年代末日活の石坂洋次郎作品によく出ていた。電話にも出られずモジモジして縁談を断られる感じは一番出ているかな。
(阿部豊監督)
 ①の監督阿部豊(1895~1977)は無声映画時代から長く活躍した監督で、1926年の「足にさはつた女」がキネマ旬報の日本映画ベストテンの最初の1位になった。その前にハリウッドに行って俳優として活躍し、映画技術を学んで日本に戻った。最初の頃は「ジャック」名で活動していて昔の文献には「ジアツキ阿部」なんて出ている。戦時中には「燃える大空」「あの旗を撃て」などの戦争映画を作った。ものすごく作品数が多いが、戦後は東宝、新東宝、日活で娯楽映画を量産している。「細雪」は戦後唯一のベストテン入選。特に悪くもないのだが、まあ全体的に評価すれば9位は妥当なところか。
(1959年の「細雪」)
 1959年の②は大映製作で、驚くべきことに原作を製作当時の1959年に変えている。その結果、当時の町並みなどをロケ撮影することが出来るので、貴重ではある。冒頭では啓ぼんがこいさんを車で送ってくるし、次女の幸子は自らカレーライスを作ると腕を振るっている。次女京マチ子と三女山本富士子は、大映を支えた看板女優で、「夜の蝶」ではバーのマダムの壮絶な争いを演じた。当然「細雪」でも山本富士子の縁談が話の中心になる。しかし、山本富士子が結婚出来ないなんておかしいので、かつてまとまった縁談があったのだが、デートするその日に交通事故死した過去がトラウマかになって、30を過ぎたとされる。そんなバカなという感じだが、山本富士子との縁談を断る男がいるはずがないので、そんな設定を作ったのである。
(島耕二監督)
 島耕二監督(1901~1986)は戦前の日活映画を支えた俳優だったが、39年から監督に転身した。「風の又三郎」(1940)、「次郎物語」(1941)が高く評価された。映画史的に残るのもこの2本。戦後は「幻の馬」(1955)が一番かと思うが、「銀座カンカン娘」「有楽町で逢いましょう」「情熱の詩人啄木」など多くの作品がある。「細雪」は可もなし不可もなしか。
(1983年の「細雪」)
 1983年の③は明らかに一番優れている。映画的には脚本と撮影、照明などの技術が洗練の極みに達していて、四人姉妹に配する長女の夫が伊丹十三、次女の夫が石坂浩二と安定感がある。ただし、原作を読んでいると、実に驚くべき改変をしていてビックリ。②は時代そのものを変えたから他は気にならないが、③は本家の東京移転を最後に持って行っている。だから途中までの映画化かというと、三女雪子の縁談は最後まで描いているのである。原作では本家と一緒に雪子も上京するのに対し、③では縁談が決まった雪子は本家を見送る側である。しかも、そのお相手の華族の次男(原作は庶子なのだが、映画はただ次男とする)が、元阪神タイガースの江本なので唖然とする。そして驚くべきことに、次女幸子の夫(石坂浩二)が雪子(吉永小百合)に思いを寄せているという設定である。いや、これは面白いけど無茶でしょう。

 そもそも冒頭の豪華な花見シーンだが、原作では本家は加わらない。しかし、映画では長女岸惠子も参加して四人姉妹の豪華絢爛たる花見シーンになる。何だか映画に影響されてしまっていたが、原作を読んだら全然違うので驚き。さらに凄いのは、「こいさん」(四女妙子)が啓ぼんを振ってカメラマンの板倉に思いを寄せるきっかけの「大水害」がない。特撮がないのではなく、セリフにもないのである。これも時代を正確に再現する意味では無茶だろう。自立して生きている板倉の方が、母親頼りの啓ぼんより立派というのは、現代人の感覚だ。階級的にこれほど格差がある相手に好意を寄せるには、生命の危機を助けて貰ったという設定は不可欠のはずである。しかし、こう変えたことで現代映画になったことは間違いない。脚色の手腕である。

 ちなみに啓ぼんと板倉のキャストを比べると。
①啓ぼん=田中春男、板倉=田崎潤 ②啓ぼん=川崎敬三、板倉=根上淳 ③啓ぼん=桂小米朝(現米團治)、板倉=岸部一徳 原作のイメージには①が合っている。
(市川崑監督)
 市川崑(1915~2008)は、さすが巨匠の風格である。長生きしたので、訃報では「犬神家の一族」「細雪」などが代表作などと書かれてしまった。真の代表作は50年代から60年代初期の大映で作った「野火」「おとうと」「破戒」などだろう。50年代初期に東宝で作ったコメディ、1961年の「黒い十人の女」などブラックユーモアも再評価されつつある。角川で横溝作品を映画化して大ヒットしたというのは、おまけというべきだろう。
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「逆引き」異動教員一覧が必要だー教員異動と離任式問題②

2022年03月30日 21時09分53秒 |  〃 (教育問題一般)
 「教員異動と離任式問題」というのを書いたけれど、それは「年度末特番」みたいな気持ちだった。でも書いてるうちに長くなって、一番書きたいと思っていたことを忘れてしまった。そこで簡単に続きを書きたい。何を忘れたかというと、東京の教員異動特集は読みにくいということである。東京新聞の別刷にはぼうだいな人名が掲載されていて、ほぼ全員の名前を知らない。その中から知ってる名前を見つけるということは、大海の一滴を求めるような作業になる。
(2021年の東京新聞教員異動特集)
 何で判りにくいかというと、理由は二つあって、一つは東京の教員数が多いということだ。一体何人ぐらいいるのかということは、統計をホームページで調べることが出来る。毎年5月1日付で調査があって、各都道府県教委が文科省に報告するのである。それを見てみたら、2021年には、全部でおおよそ8万3千名近く。小学校3万6千人、中学校2万人、高校1万9千人、特別支援6千名といったところ。他に中高一貫校、小中一貫校は別扱いで、それぞれ5百名ほど。

 東京は教員の異動年限が原則的に3~6年と異様に短い。まさか全員が6年で皆異動するわけでもないだろうとは思う。(職階を変える「自校昇任」や学年途中だと校長具申で残留することも多い。)そうなると、東京だけで毎年教員が1万人以上移り変わっていることになる。もっとも「退職者」は校長を除いて発表されないから、異動者の実数はもっと減るはずである。新規採用教員の名前は掲載されないから、異動特集に掲載される人数はもっと少なくなる。それでも数千名にはなるだろう。まあずっと小学校教員だった人は、高校の異動欄は見ないわけで、実際は自分の関心があるところだけ見るわけだ。

 もう一つの読みにくい理由は、あまりにも複雑な職階制度が導入されたことである。僕が教員に採用された頃は、「校長」「教頭」「教諭」だけだった。もちろん他にも「実習助手」「寄宿舎指導員」があるのだが、(中学勤務時は)自分に関係ないから見ないわけ。ところが今は「校長」のところに「統括校長」というのもあって、それから「副校長」、「主幹教諭」「指導教諭」「主任教諭」「教諭」に分かれている。以下の図にあるような完全な「ピラミッド型」である。
(東京の教員の職階制度)
 異動年限が短いことと、このような職階制度を作ることは、同じ発想から来ている。つまり「職員集団」の力を弱めて、上意下達型の学校組織に変えるという方向性である。主幹制度を導入すると、学校がいかに素晴らしくなるか、当時の都教委はチラシを作って大宣伝したものだ。学校内部にではなく、都民向けにである。そして果たしてどこがどう変わったのかと思うけど、今はそのことを書きたいわけではない。異動特集でも「主幹教諭」「指導教諭」「主任教諭」「教諭」ごとに掲載されているから、あまりにも探しにくいのである。生徒も親も、担任や部活顧問が主任教諭か教諭かなんて知らないだろう。どうやって探せばいいのか。 

 それを言えば、その前に教員異動特集は「現任校」、つまり転勤先ごとにまとめられている。教員生活が長くなるに連れ、知り合いが増えてきて、あの人が今度の校長か、あの人は今度副校長になったのかなどと思う。だから最初の最初に校長から始まっていても違和感を感じない。でも多くの新聞読者、生徒や親にはそんな情報は二の次だろう。一番知りたいのは、担任や部活顧問、そして教科の教員だった教師が、転勤したかどうかである。まあ、転勤してくれて嬉しいという場合もあるだろうが。だから、3月まで勤務していた前任校ごとにまとめて欲しいと思うわけである。

 これは元の異動一覧データを教育委員会から貰って、それ通りに掲載した情報である。人名の誤植がないかどうかの確認だけで、新聞としては手一杯だろう。(それでも通称使用の教員も、戸籍名で掲載されたりして誰だか判らなかったりする。)だから、もうどうしようもないのだが、僕は何とか「逆引き」の異動特集が欲しいと思うのである。僕が思うに、元のデータをエクセルで作成して、ダウンロードしてソート可能な状態でホームページに載せれば、知りたい人は前任校ごとの情報に変えられるだろう。
(離任式の花束)
 ところで、もう一つ思い出したので書いておきたいことがある。もう10年ぐらい前の話だから、今はどうなっているか知らないが。それは「離任式の花束のお金の出所」である。「離任式」と打ち込んだだけで、「花束」と変換予測が出て来る。学校だけじゃないだろうが、離任者に花束を贈るのは社会的通念だろう。離任式は正式な学校行事である。だから、当然花束代は公費負担だと思ってきた。問題は「誰が誰先生に渡すのか」で、生徒会担当として生徒会役員や部活代表などに上手に割り振るのが仕事である。でも、ある年から花束の公費負担はまかり成らぬとされた。花束は離任教員個人の所属になるから、公費で購入するべき性格の支出ではないというわけである。意味判らんと思った記憶があるが、今もそうなんだろうか。
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教員異動と離任式の問題

2022年03月29日 23時36分48秒 |  〃 (教育問題一般)
 関東地方でも桜が満開になって、時には寒の戻りがありながらも季節は移り変わっていくなあと感じる。日本の会計年度は4月~3月だから、今年も年度末が近づいてきた。学校を卒業し、新しい学校や職場に行く季節である。民間企業でも新卒社員が入社し、何か新しい気分になる。日本人は「」を見ると「別れ」と「出会い」を思い起こして、ちょっと感傷的になる。

 多くの職場で人事異動があるが、中でも教員異動には特別な意味がある。地方自治体の行政職や警察などは幹部級職員の異動だけ、新聞の地方欄に掲載される。しかし、教員に関しては新聞が別刷を作って全員の異動を報道する。それだけ読者というか、地域社会に関心が高いのである。単に「お世話になった先生」だからというだけではない。不登校、家庭事情、病気などで登校も大変な児童・生徒がいっぱいいる。その事情を一番つかんでいる学級担任が替わるか、替わらないかは重大問題に違いない。

 異動した教員には「離任式」が行われる。(その反対に着任した教員の紹介・あいさつは「着任式」になる。)この問題に関して、東京新聞3月22日付紙面に「先生の異動 年度内に教えて」という記事が掲載された。「お別れ言いたいけど…都の解禁4月1日」「都『年度末まで差し替えも』」というリードがあって、中学生、保護者、教員(元校長)の声が紹介されている。

 この問題をどう考えるべきだろうか。実は東京でも多くの高校では年度内に離任式を行っている。自分の体験も振り返ってみても、「異動と離任式」には地域ごとにかなり差があるのが実情だろう。離任式に関しては、①「終業式に続いて行う、②「年度末に登校日を設けて行う」③「新年度の早い時期に行う」④「離任式を行わない」の大体4パターンになるのではないか。年度末に登校させるというのは、地方では結構よく聞く話だけど、東京では行われていない。先ほどの記事にあったように、都教委の基本方針が「異動の発表は発令日の4月1日」というタテマエからだろうか。

 東京の教員異動特集は、東京新聞だけが別刷で報じている。(近年は都教委のホームページにも掲載。)でも一時住んでいた千葉県では朝日や読売にも別刷があったので驚いたことがある。それも4月1日より前である。今年の東京新聞のサイトに「公立学校教員異動」のお知らせが掲載されていて、それを見ると千葉、栃木が3月26日(土)埼玉、茨城、神奈川が3月31日(木)東京、群馬が4月1日(金)と3つのパターンがある。いや、千葉は随分早いなあと思ったわけである。もちろんどこでも異動の発令日は4月1日である。(退職の発令は3月31日。)細かいことを言い出せば、正式発令前に差し替えがないとは言えないはずである。
(東京新聞の教員異動特集発行日一覧)
 だけど、長い教員人生の中で突然差し替えられたケースは見聞きしていない。そもそも「異動発令は4月1日」などと言うなら、相手先(新赴任校)との連絡、打ち合わせもしてはならないはずだ。でもそんなことを言っていては仕事にならない。新任校との打ち合わせは、一回だけは出張が認められている。つまり相手校への交通費は公費から支出される。担任や部活動の希望、家庭等の事情を新任校に伝え、教科の進め方の打ち合わせなどを済ませなければ、新学期にスムーズな仕事始めが出来ない。

 自分の場合、中学勤務時は新年度に離任式が行われていた。つまり、異動の発表は年度内にはなかった。その場合、卒業担任の異動ならともかく、学年途中で担任が抜けることもあって、発表を聞かされた生徒たちがエッとどよめくことも多かった。部活動や生徒会活動などは生徒にも引き継ぎが必要なことが多く、やはり年度内に発表して欲しかった気持ちはある。しかし、まあ、実際にはどうしても事前に伝えておくべき家庭などには、非公式に伝えているんじゃないだろうか。いろんな事情を抱えて、そうそう不人情なことも出来ない。少なくとも僕にはそうして伝えたケースもあった。

 高校に移ったら、終業式に異動を発表していたので、それでいいんだなと思った。先の東京新聞の記事でも、「なぜ東京では新年度まで秘密にするの」というのは中学生の声だった。小中と高校では何が違うのだろうか。そこには確かに違いもある。それは高校の場合、入学人員を決めて試験を行っているわけだから、新1年生のクラス数は決まっている。多くの全日制高校では卒業式を3月上旬に終えて、その後は新年度に向けた準備期間になる。年度内に新入生説明会を行って、制服や校則、教科書購入などを周知するわけである。だから、新学年団を早期に決める必要がある。

 一方で、中学の場合、そもそも何クラスになるか、最後まで決まらない場合がある。今は「学校選択制」などもあるが、公立小学校の生徒数から私立や都立中高一貫校へ抜ける生徒を引けば、2月中には入学する生徒数もはっきり決まるはずだ。しかし、民間企業の転勤が急に決まって、突然一家で引っ越しするケースもある。普通は数人減ろうが増えようがクラス数が変わるはずがないが、時には学級編成の基準数ギリギリの場合もあって、クラス数が増減するのである。そういうケースを見聞きしたこともあるが、急に増えれば教員一人加配である。(クラス数が急に減ったら減員になるはずだが、さすがにそれは行わないことが多いだろう。)そんなこともあってか、新年度の校内人事決定、発表も高校よりずっと遅い。

 中学の場合、大体は新年度発足早々の金曜日に離任式があった。どこでも金曜の午後に「学級活動」を置いていて、そこの時間を利用するのである。そして夜に親睦会主催の「歓送迎会」があることが多い。(コロナ禍でもう3年やってないだろうが。)まだ土曜授業があった頃だが、まあ翌日は半ドンだから金曜に飲み会を設定するんだろう。新年度に離任式というのは良いこともあって、異動後の状況を紹介できることである。時には校種が変わったり、管理職になったり、転職したりする場合もあるから、生徒にも興味深いのである。だけど、やっぱり小中も離任式は遅くてもいいから、人事異動の発表は年度内に行うべきだろう。

 ところで東京の小中でも年度内に異動を発表している(と思う)場所がある。それは小笠原諸島の学校である。何しろ一週間に一本しか本土への航路がないから、早く乗らないと新任校の始業式までに着かない。前に春休みに小笠原に出掛けたことがあるが、まだ3月中なのに本土へ戻る教員に出会った。埠頭には「○○先生ありがとうございました」などの紙を持った生徒たち、保護者がいっぱい集まっていた。やはりそういう場は必要だなあと思う。

 生徒たちが異動する先生に色紙などを書いて渡せる時間的余裕がないと、学校もギスギスしてしまうと思う。教師が誰でも関係ないという人もいるだろうが、多くの人間にはそんな機会があった方が、新年度に向けて気持ちを切り替えられるもんだ。
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ウクライナ戦争、「泥沼化」の可能性ー戦争のシナリオ②

2022年03月28日 22時44分48秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナ戦争の行方について、「突然終わる可能性」を1回目に書いたけれど、それで完全に終わる性格のものではない。ウクライナは東部2州の「分離独立」(その後しばらくすれば、ロシアに併合されるだろう)を認めることは出来ない。ゼレンスキー政権が仮に承諾しても、国民投票では否決されるだろうし、国会で講和条約が批准されるとは思えない。逆にロシア側からしても、一度は独立まで承認した東部2州をウクライナに「返還」するはずがない。他にもロシアがでっち上げた「偽国家」はいくつもある。ロシアは徹底的にロシア系の「分離主義者」を守ろうとするはずだ。では、どうなるのか。

 どうにもならないから、「泥沼化」するということになる。ウクライナがロシア軍を国境の外へ追い出すのは、今のところ難しいと思われる。一方、ロシア軍がウクライナ全土を占領するのも大変そうだ。そもそも首都を制圧することによって、ウクライナを「正常化」することが当初の目標だったのではないかと思われる。政権を取り替えて「かいらい政権」を樹立すれば、全土を占領する必要はない。苦労の多い地方統治はかいらい政権に任せればいいのだから。しかし、ゼレンスキー政権の打倒は難しくなりつつある。(ロシアによる暗殺計画が何度も計画されたと言われるので、今後政権中枢へのテロが起こる可能性は否定できないが。)
(西部のリビウへのミサイル攻撃=26日)
 つまり、ウクライナ情勢は「中期的には泥沼化せざるを得ない」性格を持っている。しかし、そのために日々ロシア軍が都市を攻撃し、多くの死傷者が出る事態を続けていて良いのか。良いはずがないが、攻撃を命じたプーチン政権が戦争を止めない限り戦争は続く。その結果、ロシアに対する経済制裁もどんどん強化されていく。ロシアにとっても、それは好ましくないだろうから、どこかで妥協がなされる。合理的判断で考えれば、そうなるはずだが、合理的判断が出来るなら戦争自体が起こらない。プーチン大統領や政権中枢には、それだけの判断が難しい段階になっているのか。

 第二次大戦末期の1945年2月、もう日本軍は敗戦必至だった。その時近衛文麿元首相が昭和天皇に早期講和を上奏したところ、天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい」と語ったと伝えられる。追いつめられた帝国日本と今のロシアでは置かれた事情が違うが、それでも指導者の発想は似ているものだ。今後の戦況がどうなろうと、最終的にはウクライナとの交渉が必要となる。しかし、交渉をより有利に進めるには、「軍事的勝利」、もっと正確に言えば「占領地の拡大」が絶対条件になる。

 軍の指導部は「出来ません」とは言えない。軍、情報関係者が「ウクライナ制圧は短期間で可能」と進言したから、戦争が始まったんだろう。誤算はいろいろとあっただろうが、今さら泣き言は言えない。「もう少しで出来ます」と言い続ける。我々は間違えたと内心で思っても、大っぴらに発言出来る状況ではないだろう。かくして停戦がまとまらず、ダラダラと戦闘が長く続く。3ヶ月、半年と戦争が続いていき、解決の兆しが見えなくなる。まあ、日中戦争の経過と似たようなことになる。

 このような「泥沼化」はあり得るシナリオだろう。プーチンが決断しない限り、この可能性が高い。その場合、今はまだロシアにとって「遠くで起こっている戦争」に近いが、ロシアの経済的困窮が深まっていき、「国家総動員体制」の構築が迫られる。ロシア国内の締め付けは今以上に強まり、完全に戦時独裁政権となる。それが経済的に世界が密接に結びついた21世紀に起こりうるだろうか。僕にはそこまでは何とも判断が付かない。ただ、現時点では「停戦」しても、完全な解決がすぐに実現出来るとは思えない。

 「ロシアの一方的停戦」「停戦しないまま泥沼化」の二つ以外の可能性は少ないと思う。例えば、ロシアが周辺国を攻撃し、NATOが応戦する可能性。ミサイルがポーランドに誤爆されることは絶対にないとは言えない。ただ、それが本格戦争に発展する可能性は低いと思われる。どちら側も「偶発」として処理するのではないか。今の段階ではウクライナ側で政変が起こって、より妥協的またはより好戦的な政権が成立することは考えなくていいだろう。ウクライナ側がロシア領内にミサイルを発射することも考えにくい。周辺諸国のあっせんによって解決する、あるいは国連の関与で停戦する可能性も難しい。結局、ひとたび武力を発動してしまった以上は、外交的手段のみで解決することは出来ない。残念ながら、それが現時点の見通しだと思う。
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ウクライナ「冬の陣」、突然終わる可能性もー戦争のシナリオ①

2022年03月27日 23時02分10秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナ戦争に関して、考えるべきことが幾つもある。事態の本質をどう理解するか世界各国の対ロシア姿勢の分析日本国内の言論状況の考察などなどだが、まあ順番に少しずつ書いていきたい。多くの人はまず「これからどうなるか」が気になるだろう。そういうことを書いても数ヶ月すれば、予測の当たり外れははっきりしてしまう。どっちになっても、もうその記事は読まれない。だからあまり書きたくないんだけど、一応準備しておく必要もあるから書いておきたい。

 当初はロシア軍が首都キエフを簡単に制圧すると思われていたが、1ヶ月経って首都攻防戦は停滞している。ロシア軍が攻撃しないからなのか、出来ない事情があるのかは判らない。現時点では東部のマリウポリが焦点になっている。黒海の奥の方にクリミア半島とロシアに囲まれた「アゾフ海」という内海がある。マリウポリはそのアゾフ海に面した港湾都市で、戦争前は50万人ほどの人口があった。クリミアドンバス(ドネツク、ルガンスク両州)を結ぶ交通の要衝で戦略上の重要地になる。
(ウクライナ戦争地図)(マリウポリの攻撃)
 ウクライナ戦争の行く末をはっきり示すのは難しい。そもそも何で始まったのかも、未だによく理解出来ない人が多いだろう。結局ロシアのプーチン大統領が何を考えているのか、それが判らないわけである。政治・経済・軍事的な合理的要因だけでは、戦争が理解出来ない。だから「プーチンはすでに合理的な判断が出来ない状態になっている」という分析もある。でも、まあパワハラ的言動が増えたり、苛ついたりすることはあるだろうが、精神的に破綻しているとまで見るのは行きすぎだろう。

 そこで注目されるのが、25日に行われたロシア軍参謀本部のルツコイ作戦総司令部長の記者会見である。「作戦の第1段階の任務は総じて達成された」と述べ、今後は「ドネツク、ルガンスク両州の解放に集中することが可能になった」と述べた。その前からロシアはキエフ制圧を断念し東部攻撃に集中するのではという観測があった。正式に記者会見したということは、その観測を裏付けたものだと言ってよい。この発言は何を意図しているのだろうか。
(記者会見するルツコイ氏)
 僕は前から思っているのだが、ロシア軍のウクライナ侵攻が「突然終わる可能性」を考えて置くべきではないか。世界には「泥沼化する」という観測が多いようだが、ロシアが一方的に戦闘を打ち切る可能性も事前に考えておかないといけない。あらゆる戦争は勝つためにやるのであって、やってみたら負けてしまいましたというわけにはいかない。プーチンも負けを認める事態になったら、権力基盤が揺らぐと考えられる。だけどスポーツと違って、戦争の勝ち負けははっきりした点数では示されない。だからプーチンが勝ったと言って、周りも認めれば取りあえずロシア内部では勝ち扱いに出来る
 
 かつて「中越戦争」と言う戦争があった。(1979年に中国がヴェトナムに侵攻した戦争。カンボジアに侵攻したヴェトナムを中国が「懲罰する」と始めたが苦戦した。約一ヶ月後に中国は懲罰完了を宣言して撤退した。)同じように、今回もプーチンによる「ウクライナ懲罰戦争」の要素がある。それだけではないと思うが、今回もプーチンが一方的に勝利を宣言して攻撃を終了する可能性を考えて置くべきではないか。事前にロシア側は例えば「ゼレンスキー大統領打倒」などといった具体的なことは言ってない。東部を確保して「ロシアの安全は確保された」「大勝利だ」と言えば、取り巻きは「プーチン万歳」となる。

 しかし、ぼくはそれで全部解決するとは言わない。キエフ周辺からはベラルーシに軍を引き揚げるかもしれないが、東部戦線からは引き揚げないだろう。だから停戦後の和平交渉は行き詰まると考えられる。つまり「ウクライナ冬の陣」は終わるが、いずれ「夏の陣」があると想定される。「冬の陣」「夏の陣」というのは徳川家康からの連想で、必ずしも今年や来年の夏という意味ではない。ただその間、「外堀を埋める」か「惣堀を埋める」かの欺し合いが起こるわけである。

 そしてウクライナ弱体化に一定のメドを付けて、次の侵攻が始まる。ウクライナ側がクリミアや東部2州のロシア帰属を認めるはずがないから、また何らかの戦いが予測されるわけだが、取りあえず今回の戦闘が一方的に停戦となったら、世界はどう対応するだろうか。当初はともかく、夏頃になれば次第に不和が表面化するのではないか。ロシアからの天然ガスや小麦がないと、世界経済が大混乱する、戦闘が終われば制裁は解除してもいいのでは。そういう声に対して、きちんとした停戦実現までは待つべきだ。いやプーチンは信用出来ないから、プーチンいる限り制裁は解除してはならない。様々な声が上がるだろう。

 ロシアが国際世論を「分断」するためには、この一方的勝利宣言に戦略的有効性があると思うのだが、必ずそうなると思っているわけでもない。シナリオ②は「泥沼化」だろうし、シナリオ③の「破滅的大戦争」も絶対にないとは言えない。そこら辺を次に考えたいと思う。
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青山真治監督の逝去を悼む

2022年03月26日 22時39分26秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の青山真治が亡くなったというニュースは驚いた。何しろまだ57歳だった。昨年春から食道ガンの治療を続けていたが、3月21日に死去。相米慎二監督が2001年に53歳で亡くなった時も驚いた。もう随分昔のことだが、1984年にフランソワ・トリュフォーが52歳で、1986年にアンドレイ・タルコフスキーが54歳で亡くなった時も、非常に好きな映画監督の作品がもう見られないことが悲しかった。僕は青山監督がお気に入りでよく見てきたから、今後の作品が見られないことが本当に残念だ。

 青山真治は1964年生まれで、1989年に立教大学文学部英文学科を卒業とウィキペディアにある。立教大学出身の映画監督はこの世代に多く、1955年生まれの黒沢清、1956年生まれの万田邦敏らを先頭に、塩田明彦青山真治を輩出した。日大芸術学部などと違い、映像や芸術などの学部がない中で自主映画サークルからプロがこれほど出たのは奇跡だ。僕は大学で黒沢清らの自主映画上映会に行ったことがあるが、青山監督とは世代が違っていてキャンパスで知らずにすれ違ったこともないだろう。

 「Helpless」(1996)で劇場映画にデビューしたが、僕は見ていない。その後の「WiLd LIFe」「冷たい血」なども見てなくて、最初に見たのは「シェイディー・グローヴ」(1999)。なかなか面白かった記憶があるが、傑作とまでは思わなかった。それが次の「EUREKA」(ユリイカ、2001)が世界映画史上に残る大傑作だったので驚倒した。217分もある長大な映画に完全にノックアウト。カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞エキュメニック賞を受賞した。題名はギリシャ語で「発見」の意味。
(「EUREKAユリイカ」)
 九州で起きたバスジャック事件で心に傷を負った運転手(役所広司)と乗客だった中学生姉妹(宮崎あおい宮崎将)が再生のため旅に出る。少年によるバスジャック事件(2000年5月)がロケで使った西鉄バスで現実に起きたが、その時点で映画は完成してカンヌ映画祭の上映を控えていた。恐ろしいまでのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。1997年に少年による神戸連続殺傷事件が起き、「少年犯罪」が重大問題となっていた。この長大な「癒しと再生の一大叙事詩」は、僕の魂を直撃する傑作だった。「再生」に向かうには、ここまでの長さが必要だった。監督自身によって小説化され、三島由紀夫賞を獲得した。

 その後の「月の沙漠」「レイクサイド・マーダーケース」「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「こおろぎ」「AA」などは見てないのもあるが、見たものも今ひとつ。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は浅野忠信宮崎あおい筒井康隆も出ている近未来SFのディストピア映画。そういうムードは嫌いじゃないけど、何となくまとまってない。「こおろぎ」は長く公開されず、ちょっと前に見たけど完全に失敗作。やっと納得できたのは「サッド ヴァケイション」(2007)だった。監督が生まれた北九州を舞台にした作品で、暴力と家族の葛藤を突き詰めていた。浅野忠信、石田えり、宮崎あおい出演。
(「サッド・ヴァケイション」)
 その次が2011年の「東京公園」でロカルノ映画祭グランプリ。映像が魅力的な割に、内容が今ひとつ判らなかったが、三浦春馬主演で最近上映機会が多くなった。幽霊が出て来る設定なので僕は苦手。最高に素晴らしかったのは次の「共喰い」(2013)。田中慎弥の芥川賞受賞作を映画化したもので、芥川賞受賞作の映画では熊井啓「忍ぶ川」(三浦哲郎原作)、村野鐵太郎「月山」(森敦原作)とともにベスト3だと思う。原作は下関で、監督の生まれた北九州と近く、風土的に共通性がある。父子の相克を厳しく見つめた作品で、今までの作品と同じく血縁と暴力がテーマになっている。父は光石研だが、息子は名前を知らない若手俳優だった。しかし、それが菅田将暉だったのである。もう一回見直したい作品である。
(「共喰い」)
 遺作となったのは、2020年の「空に住む」だが、主演の多部未華子の魅力は出ているものの全体的には僕は好きじゃなかった。2010年代になってからは、長編劇映画が少なかった。短編映画、舞台演出、小説や批評などは多いものの、それよりも2012年に多摩美大教授に迎えられたことが大きいのだと思う。僕としては、東京を舞台にした映画は映像は素晴らしいが、今ひとつ。全部の映画が好きなわけじゃなく、郷里の九州を舞台にした暴力や血縁の悩みからの再生を求める映画が素晴らしいと思う。今後改めて評価されていくと思うが、何と言っても「EUREKA」が日本映画史に残る傑作だと考える。しかし、また見る元気はないかもしれない。
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アニメ映画「アンネ・フランクと旅する日記」、現代に蘇るァンネの意義

2022年03月25日 22時36分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 イスラエルの映画監督アリ・フォルマンの「アンネ・フランクと旅する日記」が公開された。東京では3月11日公開だが、もう一日2回の上映である。日比谷のシャンテ・シネ3だけの上映だが、映画館はガラガラ。早く見ないと終わってしまいそう。ほとんど話題になっていないし、そもそもアリ・フォルマンなんて言われても知らない人がほとんどだろう。アニメファンも、社会派映画に関心の深い向きも敬遠してしまうのかもしれない。でもこの映画の作り方は大いに刺激的だし、美しい映像にも目を奪われる。そして「現代でアンネ・フランクを考えるとはどういう事か」を見るものも考えることになる。

 アリ・フォルマン(1962~)はアニメ映画「戦場でワルツを」(2008)で知られている。この映画は米アカデミー賞外国語映画賞ノミネートなど世界各地で高く評価された。日本でも2009年に公開され、キネ旬ベストテンの8位に入った。1982年のレバノン内戦に従軍したイスラエル兵(自分自身)を描いていて、イスラエル軍による虐殺事件の記憶をなくした主人公の苦悩を描く。アニメ作品だが、社会派問題作と言うべき映画で、僕は非常に深い感銘を受けた。実写ではなくアニメであることで深くなっている。

 アニメーションは何でも描けるわけで、現代の日常を描いてもいいわけだが、やはりファンタジーやSF分野が多くなる。特撮で作るのもいけれど、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」なんか、アニメだからこその魅力にあふれている。まあ新海誠監督作品などは、ファンタジー的場面より日常場面の方が魅力的かもしれないが。ということで、今回の「アンネ・フランクと旅する日記」もファンタジー的な発想で作られたところに魅力がある映画だ。アンネ・フランク財団から「アンネの日記」のアニメ化を委嘱され、監督はいろいろと考えた結果、素晴らしいアイディアを思いついた。それはキティーを実体化させるということである。
(アンネとキティー)
 アンネ・フランクは空想の友だちキティーに向けた手紙という形式で日記を書いていた。そのキティーがある嵐の日に、日記の字の中から飛び出してくる。こんな素晴らしい発想をどうして思いついたのだろう。キティーは日記とともに博物館から飛び出した時だけ、他人にも見える実体となる。キティーは日記が終わった時点までしか知らないから、アンネがその後どうなったかを知らない。知りたくなったキティーは、日記を持ち出してアンネを探し始める。博物館で日本人客(!)から財布を掏っていた青年がペーターで、キティーは彼と一緒にアンネを探す旅に出る。
(戦前のアンネ一家)
 「Where Is Anne Frank」が原題である。アンネ・フランクはどこにいるの? キティーが聞いて回ると、アンネはここに、そこに、あそこにもいると皆が答える。橋の名前、病院の名前、学校の名前…いろんなところにアンネ・フランクの名前が付いている。だけど、本当のアンネ・フランクはどうなったしまったの? もう僕らはアンネの運命を知っている。知っている人しかこの映画を見ないだろう。そんな中で「アンネの日記」をただアニメで再現しても、昔は大変だったなあという感慨で終わりかねない。
(現代に蘇った赤毛のキティー)
 ちまたでは「アンネの日記」盗難事件で持ちきり。昔風の衣装を着た赤毛の女の子が犯人らしい。キティーが駆け回るアムステルダムの街頭では、折しもシリア難民の取り締りが厳しくなっている。かつてドイツ兵がユダヤ人を強制連行した町で、今はオランダ人が難民を送り返そうとしている。強制収容所跡を訪ねてアンネの消息を理解したキティーは、アムステルダムに戻って難民追放を止めないと日記を焼いてしまうと宣言する。そう、アンネが今に生きていたら、難民の救援をしたに違いないと作者は発想した。そういう風に「アンネの日記」を現代に蘇らせたのである。これはとても刺激的な発想である。

 この発想を生かせば、過去の名作を映像化するときにとても役立つだろう。だけど…と僕はさらにいろいろと考えてしまう。アリ・フォルマンにとって、オランダ(あるいはEU諸国)のシリア難民拒否を批判するのはそんなに難しくない。あれほどシリア難民を迷惑がったヨーロッパ諸国が、今のところウクライナ難民には受け入れ反対という声はないようだ。そこにはダブル・スタンダードと言われても仕方ない点がある。でもフォルマン監督の母国イスラエルを目指すシリア難民なんていないんだから、簡単に言える。イスラエル国民であるアリ・フォルマンはパレスチナ難民問題はどう考えているのだろうか。
(アリ・フォルマン監督) 
 そこまで考えなくていいのかもしれない。この映画は美しい映像と興味深い展開で作られていて、親子や学校で鑑賞するのに最適だ。見るものの心を動かすことが優先されてもやむを得ないだろう。そうは思いつつも、つい思ってしまうわけである。なお、フォルマンは2013年に「コングレス未来学会議」という実写映画も作っている。2015年に日本公開されたが、全然記憶がない。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの「泰平ヨンの未来学会議」という本の映画化だという。レムは「惑星ソラリス」の原作者である。ところで映画内でキティーとペーターはいっぱいスケートをしている。オランダがスピードスケートであんなに強いのも納得だ。英語映画なので、画面では「アン」「ピーター」と発音しているが、字幕は「アンネ」「ペーター」としている。
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クルコフ「ウクライナ日記」を読むー2014年「マイダン革命」の日々

2022年03月24日 23時12分17秒 |  〃  (国際問題)
 ロシアによるウクライナ侵攻から1ヶ月が経った。まあ2月は28日までだから、3月24日で29日目になる。この戦争については、3月初めに5回書いた。その後の展開をそろそろ考える時期だけど、この間書くことがいっぱいあって遅れている。そんな中でアレクセイ・クルコフウクライナ日記」(集英社、2015)という本を読んだので、まずこちらを紹介。この本を知らなかったが、大きな書店でウクライナ関連本をまとめた中にあったので買ってしまった。臨場感あふれる本だが、必ずしも判りやすい本とは言えない。本体価格2400円もするので、国際情勢に関心が深い人以外には必読とは言えないだろう。

 著者のアレクセイ・クルコフ(1961~)はウクライナを代表する作家として知られる。日本では「ペンギンの憂鬱」「大統領の最後の恋」という2冊が新潮社のクレストブックから翻訳されている。04年、06年に刊行された時には、かなり話題になったと記憶している。キエフに住んでいるが、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれ、ロシア語で創作する作家である。しかし、ウクライナの市民権しか持っていないし、ウクライナへの帰属心を持っている。日本で翻訳された小説は先の2冊だけだが、他に幾つもの著書がありヨーロッパ各地で高く評価されている。
(アレクセイ・クルコフ、キエフでヘルメット姿の写真)
 3月15日の朝日新聞に「ウクライナの国民的作家 クルコフ氏緊急寄稿」という記事が掲載された。かなり長い寄稿だが、編集サイドが付けたリードには「ロシアが恥ずかしい」「私たちは降伏しない」「独立と自由は譲らず」とある。ソ連時代、ロシアとウクライナの往来は頻繁で、クルコフもキエフで育ってキエフ外国語大学を卒業したが、祖母に育てられたため母語はロシア語なのである。そういう生育歴からロシア語で創作するが、いわゆる「親ロシア派」ではない。一方でウクライナでは過激な右派民族主義者も存在するが、彼らにも批判的である。ウクライナには東西の地域差があるが、クルコフは朗読会などで各地を訪れる機会が多く、全国の実情に通じている。「ウクライナ日記」は、そんなクルコフの2013年から14年に掛けての日記である。

 この本が読みにくいのは、自分がウクライナの政治情勢、政党や政治家にうといことが第一。クルコフは当然自分が知っていることは前提なしで書いている。詳しい訳注が付いているけど、なかなか付いて行くのが難しい。またこれは本当の日記だという理由もある。永井荷風は後世出版されることを意識して、日記を作品として清書していた。クルコフはもう何十年も日記を付けていると書いているが、この本は書かれてすぐに出版された。時事的緊急性から推敲は後回しという感じである。本人にしか関係ない家族や友人に関する記述も多い。また有名作家だから近隣諸国からの招待が多く、肝心なときにウクライナにいないことが結構多い。

 そういう風に日本で読むと判りにくいことが多いのだが、それでもこの本で幾つものことを教えられた。2014年2月に当時のヤヌコビッチ大統領が辞任に追い込まれた。ヤヌコビッチ大統領は「親ロシア派」の代表格で、この政変を「親ロ」「親欧米」で理解しようとする人が多い。日本でもこの政変を「アメリカの謀略」などと証拠も挙げずに決めつける人がいる。形の上では確かに「親ロシア派」の大統領が解任されロシアに亡命した政変だが、焦点は「自由と民主主義」か、「言論の自由のない社会」かの争いだった。プーチンに従って国策を変えたヤヌコビッチ大統領に対する反発が国民の怒りに火を付けたのである。
(ヤヌコビッチ)
 どういう事かというと、そもそものきっかけは2013年11月21日のアザーロフ首相の声明だった。長く交渉が続けられてきたEUとの連合協定の調印を間近に控えて、その交渉を中止すると発表したのである。当時はヤヌコビッチ政権でも、EU加盟を目指す方向性を否定していなかった。だからこその協定調印なのだが、直前に中止されたのは誰もがロシアの影響(というか、もっと言えばプーチンの指図)と受け取った。その頃、ウクライナに資金援助するとか、特別にロシアの天然ガスを割引するなどと持ち掛けられていた。このような不明朗なやり方、いつの間にかロシアの言いなりになるような政権に怒った国民は、独立広場に集結した。
(ヤヌコビッチとプーチン)
 この「広場」がウクライナ語で「マイダン」である。ただ「マイダン」と言えば、首都キエフの最大広場である「独立広場」を指すという。全国各地の都市には広場があって、そこに民主化運動家、野党政治家が集まったのである。それは僕らにとって、1989年5月の天安門広場を思い出すと言えば、通じるかもしれない。時期は真冬だったが、マイダンに泊まりこんだ運動は2014年3月まで続いた。クルコフはキエフ中心部に住み、マイダンまで徒歩で5分程度。家からはバリケードが見え、射撃音が聞こえた。クルコフは毎日のようにマイダンに通い、日々の出来事を記録したのである。

 政変の細かな経過はネットで調べられるので省略する。ここで驚いたのは、「院外団」の大きな役割である。院外団というか、民兵というか、内務省の外側にあって警察ではなく、マイダンにいる人々を襲撃するのである。ロシアはよくウクライナは「ネオナチ」だと非難する。マイダンにはかなり過激な民族主義者も集まっていたが、国家権力を背景にしたナチスの突撃隊のような組織は親ロシア派に存在した。そういう組織が野党政治家やジャーナリストを誘拐したり、暴力を振るったりする。警察は捜査しないし出来ない。そういう状況が続き、2月18日にはついにマイダンに武力攻撃が加えられ死傷者が出た。(クルコフはその時外国にいた。)その事件をきっかけにして、1989年の中国と違って、ウクライナではヤヌコビッチがロシアに逃亡した。
(新大統領に当選したポロシェンコ)
 僕がもう一つ驚いたのが、ヤヌコビッチの過去である。デモ隊のスローガンが「服役囚は辞めろ」だった。東部に生まれたヤヌコビッチには、実は高校卒業後に暴力団に入り窃盗(あるいは強姦)で2回実刑に服した過去があったのである。その判決は後に父の知人の有力者のつてで、無効になった。そして共産党に入党し、1996年からドネツク州で重職に就くようになった。97年からドネツク州長官を務め、2002年にクチマ大統領から首相に指名された。このような経歴を見れば判るように、ソ連や東欧で冷戦終結後に多数見られた「ギャング政治家」の典型だ。本当に暴力団出身というのがちょっと凄いが、こういう地域ボスが共産党を支えていた。

 そしてヤヌコビッチの失脚後、ロシアはもはや隠すこともなく、クリミアと東部2州に軍事行動を起こす。マイダンに欧米の特務機関員はいなかったが、クリミアと東部2州には紛れもなくロシアの特務機関員が存在した。ただし、クルコフはマイダン派、特に右派民族主義者にも厳しい目を向けている。政治が私物化されてきたウクライナでは、ヤヌコビッチ失脚に功があった勢力には新政権で有力がポストが与えられるべきだとポスト争いがはじまった。そんな絶望感の中で、ダーチャ(別荘)に行って子どもたちとジャガイモを植えたりするのが楽しみ。政治は激変しても、生活の日々は続く。そんな日記で、今回の戦争の直接の始まり、日中戦争で言えば「満州事変」に当たる時期を知るためには重要な材料になる。
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三重県の榊原温泉、「枕草子」に出て来る名泉ー日本の温泉⑮

2022年03月23日 22時48分35秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本で一番古い温泉はどこだろうか。原始時代に掘削技術はないけれど、列島各地に自然湧出する温泉があるんだから、大昔から人々が利用していたに違いない。だから最古がどこかは判らないけれど、大昔の文献に出て来る温泉は幾つかある。愛媛県の道後温泉聖徳太子が入浴したという伝説がある。その真偽は不明だが、斉明天皇中大兄皇子が百済救援のため九州に赴く途中で来たことはあるらしい。この二人は有馬温泉(兵庫県)や白浜温泉(和歌山県)にも行ったという話が伝わっている。

 また「枕草子」に書かれている温泉もある。第百十七段に「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」と出ている。「有馬の湯」は有馬温泉で間違いない。「玉造の湯」も島根県の玉造温泉だろう。この名前の由来は、付近で瑪瑙(めのう)が採れたため古来から勾玉(まがたま)作りをしてきたため。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)というのがここで作られたと言われるから、古くから朝廷に知られていたのだろう。問題は「七久里の湯」である。読みも不明だが「ななくり」と思われる。

 今全国のどこを調べても、七久里温泉なんて場所はない。「枕草子」には名前しか書いてないから判らないのである。しかし、歴史的に「ななくり」と呼ばれていたらしい温泉がある。それが三重県の榊原(さかきばら)温泉である。いや、長野県の別所温泉だという説もあって、別所に行くとパンフにそう出ている。でも大方は榊原温泉だろうとされているようだ。しかし、そう言われても、それはどこ? 関東ではほとんど知られてないし、行った人も少ないだろう。じゃあ、そこへ行ってみようじゃないか。
(「湯元榊原館」の源泉風呂)
 南紀には何回か行ってるが、熊野古道に行きたいと思って、ある夏にドライブに出掛けた。(結果的には突然台風が襲って来て、古道を歩くどころか熊野川が氾濫して停滞せざるを得なくなった。)一日で奈良の奥の方まで行くのは無理なので、最初の日に榊原温泉に泊まった。どこにあるかもよく判ってなかったが、今は津市、当時はまだ久居(ひさい)市である。南北に長い三重県の中で、東西でも南北でも大体真ん中になる。江戸時代にはお伊勢参りの参拝前に沐浴する湯として賑わったと言われる。
(三重県の温泉地図)
 調べてみると、今では自然湧出する源泉はないという。昔は自然湧出していたらしいから、知られていたのだろう。奈良京都から伊勢へ行く時の途中にあるから、昔の人にもなじみがあったのか。今は5軒の旅館が営業してるようで、調べてみると湯元榊原館というところは、自家源泉100%を掛け流している風呂があると出ている。どうも全体的に湯量が減ってしまい、循環させる旅館が多いようだ。ではそこへ泊まろうと予約した。湯元榊原館はとても大きな旅館で、やはり大きな風呂は循環だったと思う。しかし、源泉と明示した湯船があった。それが一番上の画像だが、多くの人がそこに浸かりきって動かない。
(湯元榊原館)
 それは温度が37度ぐらいでヌルいのである。しかしアルカリ性単純泉の「まろみ源泉」と称していて、夏だからずっと入っていられて、肌はツルツル感がしてきて気持ちが良い。いくらでも入っていられる。だんだん体が温かくなってくる。素晴らしい名湯で、関東からだとちょっと遠いけど、一度は行く価値がある温泉だ。料理や部屋も満足で、大きな旅館は失望することが多いのだが、ここは良かった。「枕草子」の話を知らないと、地元以外の人がなかなか行かないと思うが、ちょっと記憶しておきたいところだ。
(赤目四十八滝)
 観光としては、近くに赤目四十八滝がある。「室生赤目青山国定公園」というのがあって、国立公園ほど有名じゃないけど面白い場所が多い。室生寺は「女人高野」として知られていて、僕も大好きなお寺だけど、赤目四十八滝青山高原となると関東では知名度が低い。僕が一度行ってみたかったのは、もちろん車谷長吉の直木賞受賞作「赤目四十八瀧心中未遂」、そしてその映画化、荒戸源次郎監督作品があったからだ。なんか非常に凄いところのように撮られているけど、案外小さな滝が続く場所だった。どっちかと言えば「ガッカリ名所」かもしれない。オオサンショウウオの生息地で「日本サンショウウオセンター」がある。これは見どころがあった。
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佐藤忠男さんの逝去を悼むー映画、教育、アジア

2022年03月22日 23時12分52秒 | 追悼
 佐藤忠男さんが亡くなった。3月17日没、91歳。マスコミ報道では大体「映画評論家」「日本映画大学名誉学長」と書かれている。それに間違いないけれど、「評論」の内容は映画に止まらず、漫画、大衆文学、教育等々幅広い分野にわたっていた。新潟市に生まれ、中学に落第した後、予科練や鉄道教習所などを経験した。その後定時制高校に通いながら、映画をたくさん見て雑誌「映画評論」に映画評を投稿した。また「思想の科学」に投稿した「任侠について」が鶴見俊輔に認められた。

 こういう経歴から想像出来るように、映画をベースにしながらも独自の視点から日本の大衆文化全般に強い関心を持った。また教育にも一家言あるわけで、教育評論の著書も多い。1930年生まれで、子ども時代に戦争を経験した世代だから、反戦平和の思いが強かった。後にアジアやアフリカなどの映画を積極的に日本に紹介したのも、映画を通して世界を知り国際的な友好関係を広げたいという強い思いがあった。「思想の科学」は多くの新しい書き手を送り出したが、佐藤忠男は最も有意義な活躍をした人だろう。

 今では当たり前の映画研究だが、ある時期まで映画や漫画などはマジメな研究の対象にならなかった。DVDもビデオもなかった時代には、映画は見たらそれっきりである。テレビが出来てからは、時々テレビで放映されるようになったが、それでも昔の映画を後から見るのは難しい。だから古くから映画を見てきた世代が、あの俳優は素晴らしい、あの監督はすごかったなどと「印象批評」するのが大方の映画評論だった。そこに「黒澤明の世界」(1969、三一書房)や「小津安二郎の芸術」(1971、朝日新聞社)が登場した。映画を技術的に分析するとともに、監督の世界を思想的に検討する。ようやくそういう映画批評が登場したのである。

 僕は中公新書の「ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画」(1971)に読んで、非常に大きな影響を受けた。アートの見方を完全に揺さぶられた。そのことは「「同化」と「異化」ーアートのとらえ方①」(2019.8.13)で書いた。「大島渚の世界」(1973、筑摩書房)も出たときに読んだと思う。僕は佐藤忠男さんの本を高校生の時から読んできて、本当に大きな影響を受けたのである。同じ時期に「不良少年物語」「教育の変革」(以上1972年)「学習権の論理」「日本の漫画」(以上1973年)「戦争はなぜおこるか」「世界映画100選」(以上1974年)などの本が続々と出されている。その幅広さに驚嘆するしかない。
(「大島渚の世界」)
 「大島渚の世界」の目次をちょっと紹介する。「閉ざされた青春の暗い情熱」(「青春残酷物語」「太陽の墓場」)、「ラジカルなスターリン主義批判」(「日本の夜と霧」)、「戦後民主主義を越えて」(「日本春歌考」)、「想像力の自由はどこにあるか」(「絞死刑」)、「戦後への愛惜をこめた全否定」(「儀式」)…。一見何だか判らないようなATG映画の見方を教えてもらうとともに、章名を見て判るように「戦後思想史」の勉強でもあった。こういう映画や本で僕は自分の世界観を作っていったのである。

 先に挙げた「世界映画100選」という本は、とても独特な本だった。もちろん世界映画史に残る名作傑作も選ばれているのだが、特に60年代以後は世界各地の様々な映画を積極的に紹介していたのである。その中には当時ほとんど日本での紹介がなかった韓国の「義士安重根」という映画もあった。後に僕も見る機会があったが、確かに立派な堂々たる歴史映画だった。しかし、まあ作品的に言えば「世界映画100選」に入る映画ではないだろう。その後の韓国では世界各地の映画祭で受賞した映画が山のように作られている。だけど佐藤氏は日本では伊藤博文を暗殺したテロリストと記憶されている安重根が見方を変えれば民族の英雄だという映画の存在を日本人が知っておくべきだと考えたのだろう。74年の段階ですでにそういう本を書いていた。

 しかし、佐藤さんはイデオロギー的に映画を評価する人ではない。もともと「思想の科学」出身なのだから、むしろプラグマティストである。映画には娯楽作品もあれば、社会派問題作もある。そして、その中に「世界各地の人々の心を知る」という意味も認めていた。だからこそ80年代に入ると、世界各地を訪れ新しい映画を日本の紹介したのである。それは国際交流基金による国家的要請でもあったが、東南アジア、南アジア、ブラックアフリカ、西アジア・北アフリカなどに及んだ。僕も忙しい時期だけど、休日を利用してよく見た。そして韓国の林権澤(イム・グォンテク)監督を中心にした「韓国映画の精神 林権澤監督とその時代」(2000,岩波書店)という本もまとめた。
(「韓国映画の精神」)
 60年代のキネマ旬報ベストテンの投票を見ていると、佐藤忠男さんの慧眼に驚く。1966年から投票に参加しているが、いきなり大島渚「白昼の通り魔」が1位、鈴木清順「けんかえれじい」が2位という投票である。「けんかえれじい」は他に誰も入れていないから、佐藤氏がいなければあの傑作が0点だった。1968年には小川紳介の三里塚第1作「日本解放戦線・三里塚の夏」を4位に選んでいる。1969年だけ紹介すると、「①少年②私が棄てた女③パルチザン前史④心中天網島⑤緋牡丹博徒・花札賭博⑥長靴をはいた猫⑦男はつらいよ⑧新宿泥棒日記⑨続・男はつらいよ⑩喜劇・女は度胸」となっている。監督名は省略するので知らない人には判らないだろうが、東映動画や森崎東(デビュー作)が入っているのが凄い。

 大衆文化を通して日本人の心情を探る仕事は、「長谷川伸論」「庶民心情のありか」(以上1975年)「忠臣蔵ー意地の系譜」「日本人の心情」(以上1976年)などで頂点に達する。特に「瞼の母」「一本刀土俵入り」など「股旅物」で知られた長谷川伸を本格的に論じた「長谷川伸論」にはとても刺激を受けた。自分が近代日本の民衆文化史に関心を持っていたので、特に深い感銘を受けた。その後、日本映画の歴史を追究し、総決算として「日本映画史」全4巻(1995、岩波書店)をまとめた。「決定版日本映画史、4000枚」とある分厚い4巻本を買って、僕はちゃんと読んだものだ。
(「日本映画史」第1巻)
 その後、今村昌平が作った日本映画学校校長を石堂淑郎から引き継ぎ(1996~2011)、日本映画大学になってからは初代学長を務めた(20011~2017)。それは大きな業績なのだろうが、僕にはよく判らない。ちょっと前まで、映画祭などで珍しい映画が上映されると、佐藤忠男、久子夫妻が見に来ているのを僕は何度も見た。僕はひょんな用事で話をしたことが一度あるが、ちゃんと話を聞いたことがなかった。でも本を通して非常に多くのことを学んだ人だった。追悼するとともに、感謝したいと思う。
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女性監督の映画「美しき青春」ー「細雪」姉妹が見た「リケジョ」映画

2022年03月21日 22時59分24秒 |  〃  (旧作外国映画)
 国立映画アーカイブで「フランス映画を作った女性監督たち―放浪と抵抗の軌跡」という特集上映をやっている。シネマヴェーラ渋谷でも、4月から5月に「アメリカ映画史上の女性先駆者たち」という特集が予定されている。無声映画時代にフランスからアメリカに移って映画を製作したアリス・ギイという人は両方で上映される。最近発表された国立映画アーカイブの来年度の予定にも、2023年になるが「日本映画と女性(仮)」という特集が予告されている。

 これらは世界的に共通する問題意識があることを示している。映画草創期から「女優」は存在したが、女性の映画監督は少なかった。日本では歌舞伎では「女形」がいるが、初期の映画も「女形」から始まった。職業的に俳優をしている女性がいなかったのだから。しかし、顔が大きくクローズアップされる映画では、すぐに女優に取って代わられることになった。そのように「見られる側」としては女性も映画に必須だったが、製作スタッフには女性はいないと思われてきたのである。

 一般的な通念として、個人で創作可能な作家や画家には「女流」がいても、多くの人を束ねるオーケストラの指揮者映画や演劇の演出家などは「男の仕事」とみなされてきた。最近でこそ少しは女性の映画監督が登場したが、歴史的にはほとんどいなかったと思われてきた。しかし、実は映画が始まった頃から、女性は映画製作に関わっていた。確かに数は多くないけれど、今までは「消されていた」のである。それは科学史における女性研究者の貢献が消されてきたのと似たような事情がある。

 と言っても全部見るのは大変だから、あまり見てない。その中で「美しき青春」と「ガールフッド」という2作品を見て興味深かった。「美しき青春」は1936年に作られ、日本でも1939年に公開された。当時からあったキネマ旬報ベストテンで第8位に入選している。これを見たのは、「細雪」に出て来るからである。下巻124頁には、妙子が家を出てしまった侘しさを紛らわすために、幸子と雪子姉妹はほとんど二日おきぐらいに神戸で映画を見て歩いたと出ている。見たのは「アリババ女の都へ行く」「早春」「美しき青春」「ブルグ劇場」「少年の町」「スエズ」などと出ている。
(「美しき青春」)
 この年の日本映画では「」(長塚節原作、内田吐夢監督)や「土と兵隊」(火野葦平原作、田坂具隆監督)などが話題作だが、確かにそれは幸子が見るような映画ではない。ではこれらの映画はどのような内容だったか。新潮文庫の注を見る。「美しき青春」は「一九三九年製作のフランス映画。ジャン・ブノワ=レヴィ監督。音楽に憧れつつ、家を継ぐために心ならずも医科大学に学ぶ学生が、父の癌を知って自殺するまでを描く。主演ジャン・ルイ・バロー。昭和一四年封切り。」と出ている。

 この注は何をもとに記述したのか不明だが、映画アーカイブのチラシでは「(監・脚)マリー・エプシュタイン、ジャン・ブノワ=レヴィ」と書かれている。そのことは映画のクレジットで確認できた。マリー・エプシュタイン(1899~1995)は日本語で書かれたサイトがないが、フランス語のウィキペディアを見ると生没年や作品名を確認することが出来る。まさに女性監督が消されていたのである。マリー・エプシュタインはジャン・エプシュタイン(1897~1953)の妹で、兄の作品の脚本を書くなどして映画界に関わりが出来た。ジャンは無声映画「アッシャー家の末裔」(ポー「アッシャー家の崩壊」の映画化)で知られている。
(マリー・エプシュタイン)
 1936年製作だから、先ほどの注は間違っているが、実はもっと重要な問題がある。川本さんの本にもジャン・ルイ・バロー(1910~1994)主演と出ているが、それが間違いなのである。映画の原題は「Hélène」(エレーヌ)で、タイトルロールのマドレーヌ・ルノー(1900~1994)が主演なのである。ルノーはコメディ・フランセーズ所属の人気俳優だったが、36年当時のバローはまだ知名度が高くなかった。この映画の共演をきっかけに二人は40年頃に結婚し、戦後になってルノー=バロー劇団を結成した。1960、77、79年の3回来日公演を行っていて、僕も70年代の来日は(見てないけど)記憶している。バローは1945年の映画「天井桟敷の人々」の主人公として有名になり、日本で夫婦の知名度が逆転したため、どこかで情報が間違ったのだろう。

 映画「美しき青春」の内容はさらに興味深いものだった。エレーヌマドレーヌ・ルノー)はグルノーブル大学で基礎医学を研究して修士号を取得した。さらに研究を深めたいとパリから列車で大学へ戻る時、教授と一緒になる。教授夫人の歌手はパリに残ってしまい、切符が余ったから一等切符をあげるという。列車内で相談をすると、女は台所や客間に居るのが似合っていて、研究室はふさわしくないと言われる。しかし、エレーヌは「定規のようにまっすぐ」研究者の道を進みたいと訴える。そして教授もエレーヌを助手として雇ってくれた。教授のテーマは「人工的にマウスにガンを発生させて、ガン抑制物質を見つける」ことである。DNA発見以前には最前線の研究じゃないか。エレーヌはそれを手伝いたいと言うのである。
(マドレーヌ・ルノー)
 マドレーヌ・ルノーは昔から大好きな女優で、もう30代半ばになるのに顔立ちが若いから20代の院生に違和感がない。そして、ピエールジャン・ルイ・バロー)という恋人も出来る。ピエールは歌を作っていて、医者向きではない。歌を教授夫人に送ると、歌って貰えることになった。もうすっかり音楽の道へ進みたいピエールは悩み多き日々を送り、エレーヌは彼と結ばれてしまう。そして妊娠、産めないと訴えるが、医者は健康に問題ないから産むしかないと言う。ピエールに相談出来ないまま、彼と山に行くと研究室から毒物を持ち出した彼は自殺してしまう。何とか警察の疑いを晴らしたエレーヌは頑張って博士号を取得したのだが…。

 もちろん時代の制約、幕切れの甘さなどがあるが、何と1930年代に「リケジョ、シングルマザーになって頑張る」という映画が作られていたのである。単に監督が女性だったというだけではない。時代に先駆けた問題意識に驚くしかない。もちろん死んじゃうピエールではなく、博士号を取るエレーヌこそ主人公である。理系の女子学生を描いた映画は世界的にもあまり思いつかない。吉永小百合が「女医」を目指す「花の恋人たち」(1968)という映画があったけど、他にあるんだろうか。そもそも学生が出て来る映画は山のようにあるが、何を勉強しているのか判らないことが多い。きちんと研究テーマが出て来るのも貴重。女性スタッフが関わることの重要性が理解出来る。
(「ガールフッド」)
 セリーヌ・シアマ監督の「ガールフッド」(2014)は簡単に。「16歳のマリエム(トゥーレ)は3人の少女との出会いをきっかけに今までとは違う自分になろうとする。『燃ゆる女の肖像』(2019)がカンヌ国際映画祭で2冠に輝き、世界的に注目を集めるセリーヌ・シアマ(1978-)の長篇第3作。前2作で自伝的な要素を盛り込み、思春期におけるジェンダーとアイデンティティを題材として取り上げたシアマが、緩急を効かせた演出によって思春期の少女の悩みと衝動、解放感を描き出した青春映画。」とある。
(セリーヌ・シアマ)
 これを真に受けたら全然印象が違った。まずマリエムは黒人で、勉強が出来ない生徒。すでに中学を1年留年していて高校には行けないと教師に言われる。学校を飛び出したら、3人の女子がつるんでる。この不良グループが実に日本のそれとそっくりで笑える。何見てんだよ、インネン付けるのかと言ってケンカを吹っかける。それが「3人の少女との出会い」で、結局マリエムも仲間に加わる。そしてケンカに勝って得意になるが、それも空しいと思い始め、地域ボスのアブに近づく。そして彼のもとでヤクの売人になるって、思春期の悩みとか解放感と違うだろ。セクシャルマイノリティを描くことが多いシアマ監督が描く「スケバン映画」だった。
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映画「MEMORIA メモリア」、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作

2022年03月20日 20時54分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 香月泰男の絵を見て「判らない」と書いたけれど、その前に見ていた「MEMORIA メモリア」という映画も判らない映画だった。これはタイの名匠、というか映画という枠に収まらない現代アーティストであるアピチャッポン・ウィーラセタクンが南米のコロンビアで撮影した新作映画である。2021年のカンヌ映画祭で審査員賞を受賞したが、これはカンヌで4回目の受賞になる。(2010年の「ブンミおじさんの森」は最高賞のパルムドールを獲得した。4月にデジタル版が上映される。)彼の映画はいつもよく判らない。でも判らないから見たくないのではなく、夢のような懐かしさで魅了されるのである。

 今度の「メモリア」はどんな映画かというと、映画館のサイトには以下のように出ている。「地球の核が震えるような、不穏な【】が頭の中で轟く―。とある明け方、その【音】に襲われて以来、ジェシカは不眠症を患うようになる。妹を見舞った病院で知り合った考古学者アグネスを訪ね、人骨の発掘現場を訪れたジェシカは、やがて小さな村に行きつく。川沿いで魚の鱗取りをしているエルナンという男に出会い、彼と記憶について語り合ううちに、ジェシカは今までにない感覚に襲われる。」
(ジェシカは「音」を探る)
 突然の爆発音に驚くけれど、それは頭の中で起こっている症状なのである。監督自身が体験したというが、そんな病気がホントにあるのか。と思うとウィキペディアにも「頭内爆発音症候群」(Exploding head syndrome)という項目がちゃんとある。「寝入る直前や目覚めた直後に短時間の大きな幻聴が発生する状態のこと。不規則に発生し、通常痛みなどの深刻な健康問題は無いものの、閃光が見えるなどといった一時的な視覚障害が発生する場合がある」と書かれている。原因は不明で治療方法も未確立。テレビニュースでは、ウクライナに響く砲撃音が報じられている。あれが頭の中で起きるのから、本人は不安で仕方ないだろう。

 ジェシカを演じているのは、2007年に「フィクサー」でアカデミー賞助演女優賞を獲得したティルダ・スウィントン。最近ではウェス・アンダーソン「フレンチ・ディスパッチ」で獄中の天才美術家を見いだす批評家J.K.L.ベレンセンをやっていた。この映画は設定がよく判らないのだが、冒頭では入院している姉を見舞うためにボゴダ(コロンビアの首都)に来ていて、朝方に爆発音を聞く。彼女はその音を再現したいと思って、音響技師を訪れ様々な音を聞く。その技師はエルナンと言ったが、別の日にはそんな人はいないと言われる。その後、病院で考古学者アニエスと知り合い、古人骨の発掘現場を訪れ、そこからさまよって行くと魚のうろこ取りをしているエルナンという男にあう。
(エルナンに出会う)
 こういう風に書いていても、実は何も伝わらない。いつものアピチャッポン映画と同じく、ストーリーを語る映画ではないからだ。そこには夢のような世界が広がっていて、合理的な起承転結は存在しない。見るものはどうしてもストーリーを探して見てしまうから、彼の映画は判りにくいと感じる。僕も最初に「真昼の不思議な物体」(2000)や「トロピカル・マラディ」(2004)を見た時には、全然判らないから失敗作だと思った。その後に「ブンミおじさんの森」「世紀の光」「光りの墓」と見てきて、だんだん慣れてきたのである。判らないけどクセになるのが、アピチャッポン・ウィーラセタクンである。
(アピチャッポン・ウィーラセタクン)
 アピチャッポン・ウィーラセタクン(1970~、Apichatpong Weerasethakul)の英語表記を引用したが、当初は日本語表記も揺れていた。今は一応上記のようになっているが、ウィキペディアは「アピチャートポン」としている。アメリカに留学し、シカゴ美術館附属美術大学で、美術・映画製作の修士となった。タイの土着的な精神世界を描いているが、現代アートを学んだことが前提なのである。我々は彼の映画を通して、東南アジアのアニミズム的な世界観に接して、生者と死者が同居する不思議な世界を旅する。今回の「メモリア」では前世の記憶みたいな話になるが、南米という新たな土地もやはり現世を越えるような不思議な世界である。それでも全く違和感がないのは、ともに熱帯雨林が広がる風土だからだろうか。

 世の中には「よくわかるもの」が氾濫しているが、それは「すぐに忘れるもの」でもある。いつまでも残るのは、むしろ見た時に違和感を感じる「わかりにくさ」ではないか。アートだけでなく、政治や経済でも極端に短絡的な「わかりやすさ」は警戒した方がいい。世の中にはなんだか理解しにくいものが存在していて、そういう中に世界を見るためのヒントがある。
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香月泰男展を見るー「シベリア・シリーズ」の画家

2022年03月19日 20時55分43秒 | アート
 香月泰男展練馬区立美術館で開かれている。27日までなので、もう終わりが近いから昨日見に行った。香月泰男(かづき・やすお、1911~1974)は「シベリア・シリーズ」で知られた戦後日本を代表する洋画家の一人である。2021年が生誕110年ということで、各地で回顧展が開かれてきた。神奈川県立近代美術館(葉山)で最初に始まったが、調べてみると練馬に巡回するとあったので待っていた。はっきり言って全く判らないんだけど、その判らなさがすごいので書いておきたいなと思う。
 
 香月泰男は山口県三隅町(現長門市)に生まれ、東京美術学校に学んだ。1942年、山口県立下関高等女学校に勤務中に召集を受け、「満州国」で軍務に服した。敗戦とともにシベリアに抑留され1947年までクラスノヤルスクの収容所で強制労働に従事した。引き揚げ後は復職し、1960年まで高校教員をしていた。60年代に描き始めたのが、抑留中のシベリアに材を取った「シベリア・シリーズ」と後に言われるようになった絵である。それが評判を呼んで、1969年に第1回日本芸術大賞を受けた。

 僕は昔からシベリア抑留に関心があり、随分本を読んできた。抑留者は全部で57万を超え、約5万8千人が亡くなったとされている。なかなか情報が伝わらず、帰国事業は1947年から1956年に及んだ。シベリア抑留自体が国際法違反だが、その中では香月泰男は2年間で帰国できたのだから、もっとも早いグループになる。とは言っても、もちろん厳寒の地で理不尽に労働を課せられたのだから、心の奥に深い傷を残しただろう。それが60年代以後の「シベリア・シリーズ」になるが、画家は自分にとってシベリア体験は「夢」だと語り、自分の夢はモノクロームだとして暗いトーンの絵を描いたのである。
(香月泰男)
 アートが「わからない」というのはどういうことだろうか。昔、印象派が初めて登場したとき、人々はそれを認められなかったという。でも今では世界の多くの人は印象派の絵を見たら「美しい」と感じるだろう。僕の子ども時代には、ピカソの絵も「訳がわからないもの」の象徴のように使われていた。しかし、次第に慣れて行ったからか、今ではよほどの抽象画を見ても、何か感じるものだろう。しかし、香月泰男のシベリア・シリーズを見て、僕はよく判らないなあと感じた。それは何故だろう。いや、もちろんシベリア抑留時の苦難の日々を事細かに具象画として描いて欲しいわけではない。シベリア・シリーズは明らかに優れた技術で描かれているし、そこに「何か深いもの」があるのも伝わるのだが、どこか判らなさを感じてしまう。
(「青の太陽」1969年)
 香月泰男はもちろん、シベリアへ連行される前から多くの絵を描いている。シベリア・シリーズ時代にも違う絵も描いている。戦前の若い頃の絵も随分個性的だった。何だろうと思うと、その部屋には「逆光の中のファンタジー」と題されていた。映画や演劇では普通主役が引き立つように照明を当てる。絵の場合も同じで、レンブラントやフェルメールのように、主たる人物に光を当てるのが普通だろう。しかし、香月の絵では人物の後ろから光が当たっていて、人物の顔が暗い。そういう絵が多いのである。故郷を描いた絵でも同様で画面が暗くなっている。
(「点呼」1971年)
 それは山口県の日本海側の厳しさを反映しているなどと言われるらしい。それは僕にはなんとも言えないが、シベリア・シリーズは何も香月泰男にとって特別に突出していたのではなく、若い頃からの絵と地続きになっていると思う。画像で最初にあるチラシの絵は「渚(ナホトカ)」という1974年の作品だが、「青の太陽」や「点呼」などとともにシベリア・シリーズである。このシリーズは全部で57点になると言うが、すべて見た時にシベリアだと思うよう絵は一点もない。「点呼」は比較的具象的に理解出来る方だけど、それでも随分暗くて兵士たちは「マッチ棒」みたいである。しかし、兵士の本質は「モノ」なのかもしれない。

 「青の太陽」もシベリアとか戦争などと言われても、やはり全く判らないんだけど、これは明らかに優れた絵だということは伝わってくる。戦争体験者世代の心象風景を伝える絵で、心に訴えてくるものがある。それがシベリア抑留の苦痛や鎮魂などと言われると、その意味の理解の部分で判らなくなるのだが、ただ見れば心に残る。シベリア・シリーズと同時代に描かれた日常生活を描く作品も同様にどこか暗くて不思議な構図をしている。長いこと見たかったシベリア・シリーズとは、こういう絵だったのか。

 香月には「私のシベリア」(1970)という本があるが、ウィキペディアにはこの本は立花隆がインタビューをもとにまとめたものだとある。立花隆には「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(文藝春秋、2004)という著作もあって、それらを読めばこの画家についてもっと深く知ることが出来るのだろう。
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川本三郎「『細雪』とその時代」を読む

2022年03月18日 23時08分25秒 | 本 (日本文学)
 谷崎潤一郎細雪」について3回書いたので、一応重要なところは終わったけれど、何しろ大河小説だから面白いところは他にもいっぱいある。それらを川本三郎『細雪』とその時代」(中央公論社、2020)をもとにして触れておきたいと思う。僕は川本さんの本は幾つも読んでいるが、この本のことは知らなかった。出たときに見たかもしれないが、本体価格2400円もするから「細雪」を読んでない段階では買うわけがない。しかし、「細雪」を読んだ人は是非ともこの本を読むべきだ。

 とても面白い本だが、何よりも地図が載っているのが嬉しい。「細雪」を読んで何が判らないといって、大阪や神戸の土地勘がないので困る。この本には芦屋とその周辺大阪市街船場神戸市街東京・渋谷と5つの地図が付いていて、芦屋の蒔岡家の場所や妙子が水害に遭う洋裁学院などが図示されている。僕も大まかなこと(大阪から西へ、尼崎、西宮、芦屋、神戸だという程度)は知っていても、夙川(しゅくがわ)とか岡本香櫨園(こうろえん)などとあっても細かい地理が判らない。大阪でも船場上本町道修町(どしょうまち)などの位置関係が頭の中にない。(実は東京だって、23区の西の方になると、位置関係がよく判ってない。)地図があることだけで、「細雪」を読んだ人ならこの本を読みたくなるはずだ。

 昔、高校生の時に谷崎訳「源氏物語」を読んでみた。ものすごく面白かったが、実は受験対策という発想である。古文で源氏がよく出るから、現代語訳であらすじをつかんでおきたかった。でも最初はよく理解できなかったのである。その時に読んで非常に役だったのが、岩波新書にあった秋山虔(けん)「源氏物語」という本だった。やはり源氏のような大河小説になると、ただ読んでいても理解が難しく、「補助線」のようなものがいるなあと痛感した。「細雪」は近代小説だから読めば判るけれど、戦前の関西の話をより深く味わうためにはやはり「補助線」が欲しい。それに最適なのが川本氏の本なのである。
(川本三郎氏)
 大阪や神戸に関して多くの証言、例えば神戸生まれの映画評論家、淀川長治の残した話を紹介する。谷崎周辺の話も興味深い。つい「細雪」のモデルは松子夫人だという思い込みから、松子夫人は船場生まれだと思い込みやすい。しかし、実は船場生まれなのは松子の前夫、根津清太郎という人物の方で、松子は大阪湾岸にあった造船所の令嬢だった。この根津は奥畑啓三郎、つまり「こいさん」(妙子)と恋仲になる「啓坊」(読み方は「けーぼん」)のモデルだという。川本氏は啓ぼんを登場人物の中で唯一共感出来ないと書いている。確かに店の貴金属を持ち出して妙子に貢ぎ、母の死後に兄から勘当される啓ぼんは甲斐性なしに違いない。でもつかず離れず付き合って、巻き上げるものはきっちり巻き上げている「こいさん」はどうなのよと僕は思う。

 妙子が啓ぼんから乗り換えた板倉は「芸術写真」を志した。また縁談に奔走する井谷は繁盛する美容師だった。そこで川本氏は当時の写真や美容師の実情を調べてみる。そこで見えてくる近代日本が興味深いのである。また阪神大水害のネタ探し。谷崎自身はその日は家にいて無事。小説では悦子が小学校に行き、貞之助が救助に行く。現実の谷崎は大雨を心配して義理の娘には学校を休ませたという。妙子の水害はだから全くのフィクションなのである。それを書けたのは、当時の小学校や高校のまとめた記録だという。そこから迫真の水害描写を作り出したのは、やはり谷崎の作家としての力というしかない。

 また外国人との交流も忘れがたい。隣家のドイツ人とは子どもたちがすぐに仲良くなる。事変下に事業が立ち行かなくなり帰国することになるが、横浜まで見送りに行くぐらい親しくした。また妙子の人形を習いに来たカタリナを通して、白系ロシア人一家とも親しくする。実際に谷崎家の隣に外国人が住んでいたというが、これら脇役が見事に造形されていて忘れがたい。「盟邦」ドイツ人や革命を逃れて日本に来たロシア人、と書いても問題ない人々になっているけど、戦時下に外国人との交友をこれほど暖かく書き込んだ谷崎の開かれた精神に驚嘆する。

 また幸子一家の女中「お春」の重要性も川本さんは忘れていない。当時は電化製品がない時代だから、ちょっと余裕のある家庭には「女中」がいた。農村から来たかと思うと、お春は尼崎の出身。勉強が嫌いで高等女学校には行かず、女学校を出て女中奉公を志願した。女学校までは行ってるんだから、極貧ではないのである。むしろ礼儀見習いの意味で、良い家庭の女中に行ってから見合いするというコースもあった。お春は15で勤めに来て、今は「上女中」である。これは炊事洗濯などの家事を担当する「下女中」と違って、主人の身の回りの世話をする女中のこと。下女中は呼び捨てだが、上女中は「どん」が付いて「お春どん」と呼ばれた。知らないことは多い。「どん」なんて女中一般を軽く呼ぶ時の言葉と思っていた。
  
 「お春どん」は社交性があって外面が良く、出入りの店員などに受けがいい。でも実はだらしがないんだと幸子はこぼしているが、東京へ悦子を連れて行くときにも付いて行っている。台風に襲われ隣家に避難するときは、交渉一切をお春が仕切って、本家の子どもたちを助けた。本家の鶴子にも大変有り難がられる。本家の女中と一緒に、功をねぎらうために日帰りだけど日光見物をプレゼントされて大喜び。地下鉄で浅草へ出て、東武線で日光へ行けば、東照宮だけでなく華厳の滝まで見て日帰り出来るのである。やはり関西人でも富士山と日光は特別な観光地だったと判る。

 川本さんの本では今までに、「川本三郎「荷風と東京」を読む」(2014.7.23)、「川本三郎「小説を、映画を、鉄道が走る」」(2014.12.22)、「川本三郎「『男はつらいよ』を旅する」を読む」(2017.6.27)を3回書いていた。今度の本は2006年から2007年に掛けて「中央公論」に連載されたものが、2020年に単行本になった。間が空いているが、土地勘がないから難しいものがあったのだと思う。「細雪」の面白さを倍増させてくれる本だった。
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災害・病気・戦争ー「細雪」を読む③

2022年03月17日 23時03分42秒 | 本 (日本文学)
 「細雪」は華やかな物語と思われているのではないか。没落する美しき姉妹の夢のような日々…。そういう印象を強めたのは、3回目の映画化である1983年の市川崑監督作品の影響も大きいと思う。そこでは姉妹が着飾って花見をするシーンが描かれる。また舞台化された「細雪」も毎年のように上演されて、美人女優が共演してきた。原作にも間違いなく華やかなシーンがある。冒頭近くの花見シーンは有名だ。何故かこの一家は吉野山は無視して、花は京都と決めている。芦屋にいた幸子雪子妙子に、幸子の娘悦子と夫の貞之助が加わって春の京都に出掛けるのが恒例になっている。幸子が松子夫人だから、貞之助は谷崎自身である。カメラを持って美人姉妹を撮りまくる。周囲の人々も思わず見とれて写真を撮る。おのろけシーンである。
(市川崑監督「細雪」)
 また中巻の「蛍狩り」も素晴らしい。雪子の見合いを兼ねて、義兄の実家の親戚筋の岐阜県大垣市近くの農村を訪れる。見合いはともかく、一度蛍を見にと言われて本家の立場も立てるために行くことになる。そこでまさに夢幻能の如き圧倒的な蛍の乱舞を見ることになる。実際に谷崎の体験あってのことだというが、僕はこの場面のことは知らなかった。映画には出て来ないからである。宮本輝原作「螢川」を須川栄三監督が映画化していて、素晴らしい蛍の乱舞が見られるが、あれは実際の蛍ではなかった。電気を使った特撮なのである。暗い夜でこその蛍を映画で撮影するのは無理だろう。エピソード的にも省略可能だし。

 また食べ物の描写も多い。鮨あり、洋食あり、谷崎自身の好みが出ている。この小説は日中戦争前夜に始まり、直接は出て来ないけれどほとんどは「事変下」の非常時に進行する。政府は「国民精神総動員運動」を推し進め、その時の有名なスローガンが「ぜいたくは敵だ」「パーマネントはやめましょう」だった時代である。しかし、谷崎は悠然として「ぜいたくは素敵だ」の世界を書き続けた。幸子姉妹もパーマをかけ続け、そのことが雪子の縁談につながる。これが谷崎潤一郎なりの「戦時下抵抗」だった。

 ところで実際に読んでみると、「細雪」に華やかさはあまりないのである。小説内では災害病気が満ちている。またあまり描写されないが背景に戦争もある。その上、「本家」や周囲の人々、子どもや女中たちなどあれこれの気苦労が毎日ある。それが日常生活というものだろう。中でも中巻における1938年の「阪神大災害」は迫真の描写力もあって、一度読めば忘れがたい。谷崎はエロスや伝奇的イメージが強いが、リアリズム作家としての確かな力量を思い知らされる。この大水害では「こいさん」(妙子)が死にかけて、それを写真師板倉が生命の危険を顧みずに助けて、小説世界を書き換えてしまう。
(1938年の阪神大水害のようす)
 板倉とは奥畑家で丁稚をしていたが、渡米して写真技術を身に付け写真館を開いている人物である。妙子と奥畑啓三郎(啓ぼん)は、駆け落ちがマスコミで報道されて、堅く交際を禁止された。しかし、妙子が人形作りに精を出して認められ展覧会を開くと、それを聞きつけた奥畑が現れ焼け木杭に火がついた。「こいさん」と「啓ぼん」は、そこだけ取り出して描くなら、織田作之助「夫婦善哉」や林芙美子「浮雲」に匹敵する「腐れ縁小説」になったはずである。ところが妙子にしてみれば、啓ぼんが甲斐性なしであるだけでなく、他にも女がいてダンサーに子を生ませたなど聞き及び、いい加減飽き飽きしてきていた。

 人形の写真を撮るため啓ぼんから聞いて板倉に頼むようになり、板倉は蒔岡家と親しくなる。そして命がけの救助活動。その日啓ぼんも幸子の家に現れたが、パナマ帽を被ったオシャレ姿が汚れないよう気をつけていた。それを後で聞いて、いい加減啓ぼんに愛想を尽かし、妙子の気持ちは急速に板倉に傾く。啓ぼんは甲斐性なしだが同じ階級である。板倉は結婚相手には不可と幸子も雪子も大反対だが、妙子は気持ちを変えない。ところが板倉を悲劇が襲う。まあ映画などで知っている人も多いと思うので書いてしまうが、東京に来たときに突然板倉危篤の電報が来て、急いで帰ると板倉は中耳炎から脱疽を起こして急死してしまう。

 妙子はその後啓ぼんとズルズルよりを戻したら、啓ぼんと鮨を食べに行ってサバに当たって赤痢になり、またも死にかける。つくづく不運な娘で、谷崎もその後も随分いじめている。一方、災害としては幸子が娘悦子を東大病院の医者に見せるため東京にいたとき、すさまじい風台風に襲われる場面が印象的だ。しかし、地震は出て来ない。関東大震災(1923年)や北丹後地震(1927年)の後、しばらく関西では大きな地震がない時期が続いていた。
(「細雪」を書き始めた住居「倚松庵」)
 病気としては、姉妹の母が結核で亡くなっている他、赤痢黄疸など今はあまり聞かない病気が多いのが特徴だ。特に脚気(かっけ)には驚いた。冬になると一家で脚気気味になって、自分たちでビタミンBを注射している。それを自分たちでは「B足らん」と呼んで、家で注射してるのにビックリ。脚気はビタミンB1の不足で起こると判っているのだから、注射ではなく食生活を改善しようという発想がない。恐らく「白米」中心の食事で、野菜が切れる冬に栄養不良になるのだろう。ビタミンB1は豚肉や緑黄色野菜、豆類などに多いというが、上流階級ほど足りなくなる。(今はあまり脚気を聞かないが、インスタントラーメンなどにはビタミンB1が添加されているという話。)

 こうして書いていくと終わらないが、娘の悦子はなんと「神経衰弱」になるし、幸子は流産もする。映画には出て来ない病気話がいっぱいで驚いた。家族ではなく見合い相手だが、母が精神病(詳しくは不明)ということで縁談を断るのもビックリした。ずっと家に籠もっているというが、統合失調症などではなく認知症の可能性もあると思った。最後、結婚式に向かう雪子が「下痢」が治らないという唖然とする終わり方をすることもあって、「細雪」は「病気小説」の印象が強い。

 「戦争」に関しては戦時下に書くことは不可能だが、外国人は議論しているが日本人はあまり意見を言わない。「南京陥落」「漢口陥落」などの提灯行列も出てこなくて、戦争をあおる場面がないから、うっかりすると戦時下ということを忘れそうである。実際、日米戦争が末期になるまで、中国と戦争をしている段階では(政府が「事変」などと言っていたこともあり)、国民も危機感に乏しかった。貞之助など軍需産業の仕事が増えて(会計士である)、収入が増えている。そのため夫婦で「旧婚旅行」としゃれ込み、富士五湖に出掛けているぐらい。(富士屋ホテルが作った富士ビューホテルに泊まっている。)やはり階級が違う感じだが、男の兄弟がいないことも大きい。しかし、彼らは大空襲を生き延びられたのか。戦後の混乱期をどう生きたのか。気になるけれど、日米戦争勃発前で小説は終わってしまうのである。
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