尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画監督岡本喜八と「戦中派」ー『おかしゅうて、やがてかなしき』を読む

2024年03月17日 20時35分10秒 |  〃  (日本の映画監督)
 2024年は映画監督岡本喜八の生誕百年に当たる。それに合わせたように、集英社新書から前田啓介おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』が1月に刊行された。岡本喜八は『日本のいちばん長い日』や『肉弾』など、戦争を描く作品で知られる。この本は奇跡的に発見された日記を用いながら、戦時中の映画青年の肖像を描いている。映画監督としての人生を書くまでに、この本の半分以上が費やされる。映画監督に関する本だけど、むしろ「戦争に直面せざるを得なかった世代」の思いを伝える本と言ってもよい。映画を見てない人にも是非読んでみて欲しい本。

 岡本喜八こと、本名岡本喜八郎は、1924年2月17日鳥取県米子市に生まれた。(没年月日は2005年2月19日で、満81歳を迎えた直後だった。)僕の父親は1923年2月11日生まれなので、ほぼ一年違いだった。岡本喜八の祖父は大工だったが、父の代に雑貨商として成功した。母は隣の島根県安来市出身で、喜八の若い時に結核で亡くなった。米子商蚕学校(現・米子南高校)を卒業後、明治大学専門部商科に進学し、東京で映画や舞台に通う日々を送った。著者は関係者や様々な資料を当たり、当時の青春を再現している。1942年12月3日の午後に「神田松竹」で『ハワイ・マレー沖海戦』を見たが、ちょうど同じ日に後の作家山田風太郎も同じ映画館で見ていたという。そんな歴史上の「奇縁」を探し当てたのもすごいと思う。
(岡本喜八)
 戦時中に書かれた日記は当時の若者の姿を生き生きと伝えている。幼い頃は漫画家になりたかった喜八は、やがて映画演出家を目指した。どの道、米英との戦争に突入した以上、恐らくは二十歳過ぎで死ぬことが避けられない。郷里に帰らず好きな道に進みたいと考え、1943年夏に東宝の入社試験を受けた。なかなか結果通知が来なかったが、やがて合格の知らせが届いた。つまり、岡本喜八は戦後入社ではなく、戦時中にすでに東宝に入って映画製作に関わっていた世代なのだ。その後、徴用されて中島飛行機武蔵野製作所(現武蔵野市)で空襲を受けた。この本は岡本喜八の回想に頼らず、現場を訪れ資料にあたるのが特徴だ。

 武蔵野市にももちろん出掛けているが、さらにその後徴兵されて豊橋で受けた空襲の現場も訪れる。岡本喜八はその時の苛烈な体験を生涯に何度も語っている。だが、回想を鵜呑みにするのではなく、多くの人の回想や諸記録に当たって裏を取ろうとしている。そうすると岡本の回想とは違う現実も見えてくる。そういう記述が長いので、人によっては退屈かもしれないが、それあってこその探求的な伝記なのである。そして、僕も今まで全然知らなかったことを知ることが出来た。

 それが第3章「早生まれ」に書かれている。当時は満年齢で20歳の男性に兵役の義務があった。そのため20歳になったら、男は「徴兵検査」を受けるわけだが、検査はもちろん毎日毎日単発的に行うのではない。学校と同じく、ある年代の国民をグループにして対象にするのである。だから多くの男がズラッと並んで検査を受けるというシーンに、映画や小説で何度も接した。僕はそれを当然学年単位の集団だと思い込んでいた。しかし兵役法では、1943年の徴兵検査の対象は「1942年12月1日から1943年11月30日に生まれた者」だったのである。従って、同じ学年でも「早生まれ」の岡本は1944年の検査を受けたのである。

 このことは岡本喜八の人生に決定的な意味を持った。鳥取時代の同級生は半数近くが戦死したが、それは1943年の検査を受けた者だった。その世代はいよいよ南方が危うくなり、多くの若い兵士がフィリピンや沖縄に送られた。一方、1944年検査の世代は、いよいよ実戦に出るという時にはすでに輸送船がなく、今度は「本土決戦」だという時代になっていた。飢えに苦しみながら猛訓練を受けて、やがて上陸する米軍に「特攻」攻撃を行って戦死すると思っていたのである。しかし、いくら苦しくても「本土」にいたので(空襲はあったけれど)、生き残る確率が高かったのだ。
(『江分利満氏の優雅な生活』)
 この本ではようやく東宝に戻るまでが長く、映画に関しては「戦中派の思い」に特化して分析している。どうしても「生き残った世代」の思いを消せない岡本だが、同時に楽しい映画を作ることにこだわった。いわゆる「社会派監督」にはならず、むしろ『ああ爆弾』や『殺人狂時代』などのカルト的犯罪映画が世界で人気だ。そんな岡本は日中戦争をパロディ的に描いた『独立愚連隊』(1959)、『独立愚連隊西へ』(1960)で注目された。そして1963年に山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の思いをぶちまけた。だけど僕はその映画に共感しつつも疑問も覚えた。受賞パーティー後に部下を連れ回し、主人公役の小林桂樹が大演説をぶつ。しかし、家まで連れて行かれて朝まで相手をさせられるって、パワハラ上司ではないか。
(『日本のいちばん長い日』』
 『日本のいちばん長い日』(1967)はもともと小林正樹監督が担当する予定だったという。「事実」のみで構成されているようで、やはり脚色もあるらしい。また配役に関しては、阿南陸相の三船敏郎、米内海相の山村聡は、遺族からするとむしろ逆の方が似ていたらしいのも興味深い。この映画は主に国家最上層部を描いているので、その後自らの戦争体験をもとに『肉弾』(1969)をATGで作った。僕はこの映画が岡本監督のベストだと思う。この映画は戦争末期に「本土決戦」で特攻で死ぬと運命付けられていた青年(つまり自分自身)が、何のために死ねるのかを自問する過程を描いている。少女に巡り会って「死ねる」と思う描写など胸打つシーンが随所にある。
(『肉弾』)
 ただ岡本映画には弱点もある。それはこの本の中で五木寛之の評に示されている。岡本は兵士の影の部分を描けないのである。僕が同時代に見た岡本作品にあまり熱中出来なかったのも、その点が大きい。登場人物を突き放して見る視点がない。あえて作らないのだろう。岡本世代(戦中派)は「戦前」を知らなかった。だから「日本でどうして反戦運動を起こせなかったか」という問題を考えること自体が出来ない。死ぬ意味を見つけられないのは、日本の侵略戦争だからだという発想がないわけである。

 井上ひさし原作の映画化『青葉繁れる』(1974)を数年前に初めて見たのだが、これはジェンダー的観点から今では受け入れられない映画だなと思った。こういう風に、岡本作品には今になると再検討が必要なものが結構多いのではないか。しかし、「戦中派」とは何か、この本は映画というジャンルを超えて多くの問題点を提起している。映画を見てない人こそ読むべき本だろう。
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石田民三監督の映画を見るー「花ちりぬ」「むかしの歌」など

2022年07月03日 22時46分19秒 |  〃  (日本の映画監督)
 石田民三(1901~1972)という映画監督がいたが、ほとんど知られていないだろう。国立映画アーカイブで開かれている「東宝の90年 モダンと革新の映画史(1)」で6プログラムの小特集が組まれている。そこで入手できるニューズレター掲載の佐藤圭一郎石田民三小伝」が初の伝記だという。その小伝で触れられているが、1974年に当時のフィルムセンターで「監督研究ー清水宏と石田民三」という特集上映があった。それ以来の石田民三特集だから、48年ぶりになる。実は僕はその特集で「花ちりぬ」「むかしの歌」などを見たのである。どんな監督だろう、他に作品はあるのかと思いつつ、ほとんど上映機会もないままだった。
(石田民三監督)
 石田民三が活躍した1930年代後半には、すでに日本映画界では世界的な巨匠が活躍していた。まだ世界で認められてはいなかったけれど、溝口健二小津安二郎成瀬巳喜男らはキネマ旬報のベストワンになっている。他にも戦後長く活躍した内田吐夢田坂具隆豊田四郎などの作品がベストテンに並んでいる。48年前に同じ特集が組まれた清水宏も何本もベストテンに入選している。一方で、石田民三作品は一本も入っていないし、戦後映画界でもその名を聞かなかった。一体、どういう人なんだろうと思っていたが、今回見た作品を中心に簡単に紹介してみたい。

 代表作から書くことにするが、まずは「花散りぬ」(1938、74分)。この作品と次の「むかしの歌」は、「女の一生」「華々しき一族」などで知られる劇作家森本薫が脚本を書いている。文学的香りが漂う一因でもあるだろう。「花散りぬ」は画面に女性しか出てこない映画として知られている。(男声は出てくる。)同時代のアメリカにジョージ・キューカー監督「女たち」(1939)というエステサロンを舞台にした女性しか出ない映画がある。ペットの犬もメスしか使わなかったというエピソードがあるが、製作年を見ると「花散りぬ」の方が1年早いのである。

 この映画は元治元年(1864年)の京都・祇園の一角にあるお茶屋(京都で芸妓を呼んで飲食する店。東京で言う「待合」)の2日間を描いている。7月19日に起こった禁門の変(蛤御門の変)の前後である。長州が攻めてきて戦争になると大騒ぎで、お茶屋に来る客もいない。1年前の「八月十八日の政変」までは店に長州藩士も来ていた。お茶屋に生まれて外の世界に憧れる「あきら」(花井蘭子)は長州へ落ち延びる前に手紙を寄こした長州藩士を待ち望んでいる。一方、江戸から流れてきた「種八」は幕府ひいきである。あきらの母の茶屋の女将は、自分らには佐幕も勤王もない(言葉は違うけど)と言っている。
(「花ちりぬ」、左=花井蘭子)
 芸者の世界を描く映画はかなりあるが、客が全く出てこないのは珍しい、というか発明である。カメラはセットを自在に動き、芸者たちを描き分けていく。ただし、もう俳優を知らないので、なかなか見分けにくいが。町では避難する人で混雑という噂、そんな中で夜に戸をたたく音がするが、女将の命で開けない。それは誰だったのか。女たちのいさかいをていねいに描くが、小さな世界にも様々な人間がいて争っている。女将は新選組に呼ばれて帰らないが、あきらは長州の男を待ち続けている。石田監督は長年お茶屋に通い詰めていて理想のセットを作って1ヶ月の稽古をしたという。

 「むかしの歌」(1939、77分)は明治10年の西南戦争直前の大阪を舞台にしている。船場の船問屋兵庫屋のお澪(みお=花井蘭子)は許婚もいるが、実は自分が母の実の子ではないことを知って悩んでいる。ある日、町で倒れた娘を介護して家に連れてきて、その娘お篠山根寿子)をずっと家で面倒を見る。しかし、その篠こそが実の母が江戸で産んだ父親違いの妹だった。昔、頼まれて兵庫屋の子を産んだ母は江戸で芸者になり、旗本と結ばれた。没落して一家で大阪に移るが、夫は西郷軍に参加しようかと悩んでいる。そんな2つの家の細々として事情を、映画は美しい画面構成で描き出す。「浜辺の歌」のメロディが何度も流れて、郷愁を呼び起こす。もっとも「浜辺の歌」は1918年出版というから、大正ノスタルジーには向いても明治情緒の歌ではないけれど。ラストで兵庫屋は没落して、お澪は芸者に出ることになる。家の没落に揺れる女心を水の都の風情に描き出した心に沁みる名品である。
(「むかしの歌」、右=花井蘭子)
 「天明怪捕物 梟(ふくろう)」(1926、59分)と断片「おせん」(1934、17分)はそれぞれ東亜キネマ、新興キネマで作られた無声映画。「梟」はクレジットが欠落して石田作品じゃない説もあるという。何にせよ娯楽チャンバラ量産時代の無声だから、今は触れない。次の「夜の鳩」(1937、70分)は作家武田麟太郎の原作・脚本。浅草の小料理屋「たむら」の看板娘おきよ(竹久千恵子)は、もう年がたって容色の衰えを気にしている。兄嫁の経営方針で、亡父時代の格が失われたと嘆いている。憧れていた劇作家村山(月形龍之介)は今も通ってくるが、どうも妹のおとしに気があるらしい。雇いのおしげは義父と母の間で苦労している。浅草を舞台にした映画、一部ロケをした映画はかなりあるが、この映画のような小料理屋は少ないと思う。普通の風俗映画っぽいが、ジェンダー、ルッキズムなどの観点から見直す意味はあるだろう。
(「夜の鳩」)
 「あさぎり軍歌」(1943、81分)は戦時中の作品だから、冒頭に「撃ちてし止まん」と出る。しかし、内容的には軍部批判的なニュアンスが感じられる。八住利雄脚本。明治初頭、彰義隊前後の江戸が舞台である。旗本の国武三兄弟の生き様を描くが、長兄は芸者(花井蘭子)と結婚して勘当された。今は町人になって、大蔵組で武器を研究している。弟は海軍にいるが、榎本武揚が軍艦を蝦夷地に向かわせることに反対している。日本の軍艦を国内戦争に使うべきではないと言う。一方で兄廃嫡後の当主となった婿は彰義隊に入ろうとしている。長兄辰太郎はこれからは日本人は心を合せて異国と戦うべき時、国内で争う愚を説く。これがタテマエ上戦時下に適合するが、実際は最新武器も知らず精神論だけで戦うと言っている旧幕武士批判がどうしても当時の軍人批判に聞こえてくる。実際にこの映画で上野戦争のさなかに妻が琴を弾く場面が軍に批判され、映画が嫌になったという。

 「花つみ日記」(1939、72分)は大阪ロケも貴重な映画で、お茶屋の娘高峰秀子と転校生の友情を描く。今回はまだ上映がないが、神保町シアターで見たことがある。ガーリー・ムーヴィーの元祖みたいな逸品である。戦後は映画界に復帰せず謎だったけれど、通い詰めた京都・上七軒町(北野天満宮裏)の芸者と結婚し、上七軒の主だったという。芸妓は芸を売る仕事であって、その芸を磨くための「北野をどり」を始めて亡くなるまで座付作家だったという。戦時中にさびれた上七軒復興のため、上七軒芸妓組合を作って組合長になったというから本格的である。「花散りぬ」で助監督だった市川崑などが復帰を勧めて、その気もあったらしい。テレビ演出などもしたらしいが、結局本格復帰はならなかった。

 石田民三は映画の時間も短いように、「マイナー・ポエット」的な映画作家だったと言える。茶屋や芸者の世界につきものの、「色と金と欲」を描いてこそ本格的ドラマになるだろう。しかし、彼にとってお茶屋の世界はもっとロマンティックな情緒の世界であって欲しかったのだろう。凝った構図、映像美、見つめるカメラなどで、人間悲劇を見せる。そういう作風だったかに思える。それぞれの時代に石田映画のヒロインがいるようだが、一番は花井蘭子(1918~1961)だろう。「むかしの歌」の花井、山根姉妹は、1950年の「細雪」第一作でも繰り返された。戦後も脇役ではあるが重要な映画によく出ていたが、健康を害して42歳で亡くなった。戦前は正統的な美女という役回りで人気があったようだ。東宝に入る前には日活で人気女優だった。「花散りぬ」「むかしの歌」は二十歳前後だったが、花井蘭子の映画になっている。
(花井蘭子、当時のブロマイド)
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青山真治監督の逝去を悼む

2022年03月26日 22時39分26秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の青山真治が亡くなったというニュースは驚いた。何しろまだ57歳だった。昨年春から食道ガンの治療を続けていたが、3月21日に死去。相米慎二監督が2001年に53歳で亡くなった時も驚いた。もう随分昔のことだが、1984年にフランソワ・トリュフォーが52歳で、1986年にアンドレイ・タルコフスキーが54歳で亡くなった時も、非常に好きな映画監督の作品がもう見られないことが悲しかった。僕は青山監督がお気に入りでよく見てきたから、今後の作品が見られないことが本当に残念だ。

 青山真治は1964年生まれで、1989年に立教大学文学部英文学科を卒業とウィキペディアにある。立教大学出身の映画監督はこの世代に多く、1955年生まれの黒沢清、1956年生まれの万田邦敏らを先頭に、塩田明彦青山真治を輩出した。日大芸術学部などと違い、映像や芸術などの学部がない中で自主映画サークルからプロがこれほど出たのは奇跡だ。僕は大学で黒沢清らの自主映画上映会に行ったことがあるが、青山監督とは世代が違っていてキャンパスで知らずにすれ違ったこともないだろう。

 「Helpless」(1996)で劇場映画にデビューしたが、僕は見ていない。その後の「WiLd LIFe」「冷たい血」なども見てなくて、最初に見たのは「シェイディー・グローヴ」(1999)。なかなか面白かった記憶があるが、傑作とまでは思わなかった。それが次の「EUREKA」(ユリイカ、2001)が世界映画史上に残る大傑作だったので驚倒した。217分もある長大な映画に完全にノックアウト。カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞エキュメニック賞を受賞した。題名はギリシャ語で「発見」の意味。
(「EUREKAユリイカ」)
 九州で起きたバスジャック事件で心に傷を負った運転手(役所広司)と乗客だった中学生姉妹(宮崎あおい宮崎将)が再生のため旅に出る。少年によるバスジャック事件(2000年5月)がロケで使った西鉄バスで現実に起きたが、その時点で映画は完成してカンヌ映画祭の上映を控えていた。恐ろしいまでのシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)である。1997年に少年による神戸連続殺傷事件が起き、「少年犯罪」が重大問題となっていた。この長大な「癒しと再生の一大叙事詩」は、僕の魂を直撃する傑作だった。「再生」に向かうには、ここまでの長さが必要だった。監督自身によって小説化され、三島由紀夫賞を獲得した。

 その後の「月の沙漠」「レイクサイド・マーダーケース」「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」「こおろぎ」「AA」などは見てないのもあるが、見たものも今ひとつ。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は浅野忠信宮崎あおい筒井康隆も出ている近未来SFのディストピア映画。そういうムードは嫌いじゃないけど、何となくまとまってない。「こおろぎ」は長く公開されず、ちょっと前に見たけど完全に失敗作。やっと納得できたのは「サッド ヴァケイション」(2007)だった。監督が生まれた北九州を舞台にした作品で、暴力と家族の葛藤を突き詰めていた。浅野忠信、石田えり、宮崎あおい出演。
(「サッド・ヴァケイション」)
 その次が2011年の「東京公園」でロカルノ映画祭グランプリ。映像が魅力的な割に、内容が今ひとつ判らなかったが、三浦春馬主演で最近上映機会が多くなった。幽霊が出て来る設定なので僕は苦手。最高に素晴らしかったのは次の「共喰い」(2013)。田中慎弥の芥川賞受賞作を映画化したもので、芥川賞受賞作の映画では熊井啓「忍ぶ川」(三浦哲郎原作)、村野鐵太郎「月山」(森敦原作)とともにベスト3だと思う。原作は下関で、監督の生まれた北九州と近く、風土的に共通性がある。父子の相克を厳しく見つめた作品で、今までの作品と同じく血縁と暴力がテーマになっている。父は光石研だが、息子は名前を知らない若手俳優だった。しかし、それが菅田将暉だったのである。もう一回見直したい作品である。
(「共喰い」)
 遺作となったのは、2020年の「空に住む」だが、主演の多部未華子の魅力は出ているものの全体的には僕は好きじゃなかった。2010年代になってからは、長編劇映画が少なかった。短編映画、舞台演出、小説や批評などは多いものの、それよりも2012年に多摩美大教授に迎えられたことが大きいのだと思う。僕としては、東京を舞台にした映画は映像は素晴らしいが、今ひとつ。全部の映画が好きなわけじゃなく、郷里の九州を舞台にした暴力や血縁の悩みからの再生を求める映画が素晴らしいと思う。今後改めて評価されていくと思うが、何と言っても「EUREKA」が日本映画史に残る傑作だと考える。しかし、また見る元気はないかもしれない。
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「豪姫」という失敗作と宮沢りえー勅使河原宏監督の映画⑥

2021年06月18日 22時47分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の最後の長編劇映画は「豪姫」(1992)である。これは公開当時に見たけれど、失敗作だなと思った。その後見直す機会もなかったが、せっかくの監督特集だから見てみることにした。劇場で見られることも少ないので貴重である。しかし、やっぱりこの映画は間違いなく失敗作だ。キネマ旬報の昔のベストテン号を調べてみたら、37位だった。1位が「シコふんじゃった。」、2位「青春デンデケデケデケ」、3位「阿賀に生きる」、4位「紅の豚」という年である。勅使河原監督の他の長編は全部ベストテンに入選しているのである。キネ旬ベストテンも今見ると不思議な結果もあるけれど、これは理解出来る感じがする。
(「豪姫」)
 ここでは「失敗の理由」を考えてみたい。「豪姫」は実在の人物をモデルにした富士正晴の同名小説の映画化。秀吉から家康へと移り変わる時代を背景に、茶道で有名な戦国大名、古田織部豪姫の長い関わりを描いている。タイトルロールの豪姫宮沢りえで、それが最大の売りになっていた。そこで「利休」が評価された勅使河原宏に声が掛かって、豪華で高い美意識で作られたセットが作られた。草月流が全面協力するのも前作と同じ。

 つまり企画が二番煎じなのである。さらに「千利休」と言えば誰でも知ってるが、「豪姫」を知ってる人は少ないだろう。原作も野上弥生子秀吉と利休」から富士正晴豪姫」へ。野上弥生子の原作は女流文学賞を受賞し、高く評価された。それに比べて富士正晴の原作を知っていた人は少ないだろう。企画自体が「利休」の縮小再生産だったのである。そして見てみれば、豪姫以上に古田織部(仲代達矢)の存在が大きい。利休に比べれば、古田織部は知らない人が多いだろう。
(仲代達矢演じる古田織部)
 では、どうしてこの企画が成立したのだろうか。それは主演の豪姫に宮沢りえをキャスティングして、10代の代表作を作りたかったんだろう。実在の豪姫(1574~1636)は前田利家の娘として生まれ、子どものいなかった羽柴秀吉の養女となった。数え年2歳の時のことで、織田家臣団の中で秀吉、利家の絆は固かったのである。秀吉に愛され、男ならば関白を譲ると言われたらしい。しかし、そうもいかないから、秀吉の猶子だった宇喜多秀家(1572~1655)に嫁いだ。秀家は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、八丈島に流罪となり半世紀を生きて亡くなる。

 つまり、宮沢りえは「二人の豪姫」を演じなくてはならない。秀吉のもとでお転婆な10代と、夫と遠く別れて実家の前田家に幽閉されて生きる30代を。かなり頑張っているものの、この演じ分けは相当に苦しいように思う。さらに実際の豪姫にとって一番重要な人物である宇喜多秀家が出て来ない。話には出て来るけれど、キャストにはない。代わりに古田織部の下人「ウス」(永澤俊矢)が重要な役として出て来る。この架空の人物は豪姫と一緒に利休の首を取りに行く。その他肝心の場面に出てきて豪姫の役に立つ。映画の中心部はむしろ山中に逃れて生き延びるウスの物語だ。永澤は新人で頑張っているが、アクションはともかくセリフ回しは違和感が大きい。
(竹のトンネルの中で)
 「豪姫」と銘打ち、宮沢りえが主演とうたいながら、宮沢りえのシーンが少ない。出ていても後半は難役で10代では苦しい。古田織部はラストで家康から切腹を命じられるが、その政治的意味合いは利休の死ほど大きくない。脚色は「利休」に続いて、赤瀬川原平勅使河原宏。前作「利休」に引きずられている気がする。ほとんど似た感じで、物語の凝縮性だけが薄くなった。これでは失敗作になるのも無理はない。ただし、勅使河原宏流の美学は見どころがある。特に前田家預かりの屋敷にある「竹のトンネル」。「利休」にもあったし、熊野本宮で行われた舞台「すさのお異伝」でも、「」が使われている。晩年の勅使河原にとって竹は大きな意味を持っていた。
 
 宮沢りえは1973年4月6日に生まれている。映画の公開は92年4月11日なので、19歳になったばかり。撮影は18歳の時に行われたのである。篠山紀信の写真集「Santa Fe」は1991年11月13日に出版された。10代半ばからモデル、俳優、歌手として活動していたが、社会現象化したのは「Santa Fe」からだろう。そして1992年11月27日に関脇貴花田(後の横綱貴乃花)との婚約が発表された。2ヶ月後に破談となったが、様々な人生行路があり得た中で10代最後の1992年には2本の映画が公開されている。「豪姫」と「エロティックな関係」(若松孝二監督)である。
(映画「エロティックな関係」)
 「エロティックな関係」はフランスのレイモン・マルローの小説を映画化した「エロチックな関係」(長谷部安春監督)のリメイクである。舞台はパリに戻している。これは内田裕也北野武らが「10代の宮沢りえをフィルムに残したい」という思いで企画したらしい。僕はむしろこっちの映画に「すったもんだ時代」の宮沢りえの魅力が封印されている気がする。21世紀になって、宮沢りえの演技力と存在感は誰しも認めるものとなった。大竹しのぶを継ぐ大女優は宮沢りえだろう。そんな宮沢りえの10代の日々が残された。「豪姫」という映画の映画史上の意味はそこにあるだろう。
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「他人の顔」と「燃えつきた地図」ー勅使河原宏監督の映画⑤

2021年06月17日 22時46分39秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督には7本の長編劇映画があるが、今回頑張って全部見直したので書いてしまいたい。勅使河原宏は才能と環境に恵まれて、様々な業績を残した。その中で一番価値があると思われるのは、60年代に安部公房作品を続けて映画化したことだ。いずれも作家本人が脚色し、武満徹が音楽を担当した。武満徹の音楽は映像や脚本と同じぐらい印象的である。安部公房(1924~1993)は68歳で亡くなったためにノーベル文学賞を得られなかった。生前はその超現実的、SF的な設定で鋭く人間存在を追求する作品が世界的に評価されていた。

 安部公房と勅使河原宏は1950年に「世紀の会」というグループを結成したときからの仲間だった。62年の「おとし穴」(テレビドラマ)、64年の「砂の女」に続き、66年の「他人の顔」、68年の「燃えつきた地図」を映画化している。二人のコラボレーションは70年の大阪万博用に作られた「1日240時間」まで続いた。「砂の女」が間違いなく最高傑作だが、前に書いた。ここでは「他人の顔」と「燃えつきた地図」について書きたい。
(「他人の顔」)
 映画「他人の顔」は傑作だが、むしろ「怪作」と言うべきかもしれない。仲代達矢演じる化学会社の社員は、工場で爆発事故があり顔面全面に大ケガを負った。そのため顔を包帯で巻いて暮らしている。異様な姿なのだが、顔のケガが激しすぎて人目にさらしたくない。妻の京マチ子にも包帯姿で接している。精神的に不安定な仲代達矢は、平幹二朗の精神科医に通っていて、平はよく出来た仮面もあるという。仲代は樹脂製のマスクを顔に付けて、違う人格を持ったように感じる。仲代、平の戦後を代表する名優が丁々発止とやり合う場面は見応えがある。
(安部公房)
 磯崎新が加わった美術も素晴らしく、特に平幹二朗の病院は魅力的というよりホラー映画に出てきそうなキレイすぎて怖い病院である。「砂の女」だった岸田今日子が「看護婦」をしているのも怖い。この映画は最初はずいぶん前に見て、その「前衛」的作風、音楽や美術を含めて何という凄い映画だろうかと感心した。しかし、数年前に見直したら、何だか気持ち悪い映画だなあと思った。特に仲代が別の顔(それは仲代達矢の顔そのものだが)を持つことによって、別宅を用意して妻を「誘惑」するという展開が「」である。そこまで妻に執着するんなら、素顔をさらせないものか。別の顔を持てたのなら、違う女性を誘惑したくならないのか。
(マスク=仲代、奥の男=平)
 映画は基本的に小説と同じ設定だが、ラストが違っていると言う。(読んだのは大昔なので忘れたが。)いずれにせよ「大衆社会」の中でアイデンティティを失っていく個人を描いている。映画になった三作は安部公房の「失踪三部作」と呼ばれ、もっとも油が乗っていた時代の作品だ。ミステリアスな世界にたたずむ現代人。「本当の自分」とは何だろうか。映画には「ケロイドの女」(入江美樹)も登場する。長崎の被爆者と思われる設定。この女性の描き方を見ると、「他人の顔」は「ルッキズム」(外見にもとづく差別)を先駆的に考察している。妻役の京マチ子が新鮮、秘書役の村松英子、ヨーヨーに取り憑かれた管理人の娘市原悦子も見事。ビヤホール「ミュンヘン」で歌う女に前田美波里。そこの客として安部公房が写っている。キネ旬5位。
(仲代と京の夫婦)
 1968年の「燃えつきた地図」は勝新太郎主演の「前衛的」探偵映画という作りになっている。原作自体がミステリーとして書かれていて、基本的には原作の設定通り。勝新がはまり役かミスキャストかの判断が難しいが、出来映えは三作の中では低いだろう。でも、僕は原作も映画も好きなのである。キネ旬8位。興信所の調査員(勝新太郎)が失踪した男の調査を頼まれる。男が持っていたマッチをもとに「椿」という喫茶店を訪ねるが、店主の信欣三、店員の吉田日出子の対応は素っ気なく、何か怪しい感じ。出てみると、妻の弟という人物が待っている。依頼人(男の妻=市原悦子)は情報を隠しているようだ。
(「燃えつきた地図」)
 妻の弟はヤクザで、男の日記を持っているという。翌日日記を求めて付いていくと工事現場に連れて行かれる。そこで抗争が起こって弟は殺される。男が失踪当日の朝呼び出したという同僚田代(渥美清)とも会うが、何を言いたいのかよく判らない。ヌード写真を撮るという店に連れて行かれるが、情報は得られない。右往左往させられた挙げ句、田代はこれから自殺すると電話してくる。追っても追っても正体が判らない男を東京の外れを延々と探し回る。そのうちに探偵自身が自分のアイデンティティを失っていく。まあ筋があるような、ないような映画だが、当時の東京の描写が魅力的だ。まだ貧しさもあるが、「交通戦争」と呼ばれた時代だけに車が多い。
(勝新が東京を行く)
 勝新太郎は勅使河原宏の演出を見ていて、これなら自分も監督が出来ると思ったらしい。「我らの主役」というテレビドキュメンタリーでは「テシさん、テシさん」と呼んで私淑している様子が判る。そして現実に作った監督第1作「顔役」(1970)は確かに「燃えつきた地図」っぽい。カメラのアングルなど監督の好きなように回している。勅使河原はテレビ版「座頭市」も演出したとは知らなかった。「虹の旅」を見たが、中村鴈治郎、井川比佐志などが脇を締めて、勝新太郎の市は安定した面白さだった。もう一つの「夢の旅」こそ面白そうだったが見逃した。
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「おとし穴」と60年代前衛映画ー勅使河原宏監督の映画④

2021年06月14日 22時56分53秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の最初の長編映画「おとし穴」は、今見ても驚くほど新鮮な「前衛映画」である。見るのは3回目で、若い頃に初めて見たときはよく判らなかった。前回は3年前に「砂の女」と二本立てで見た。その時は久方ぶりの「砂の女」に圧倒されて「おとし穴」の印象が薄かった。今回はさすがに筋立ては覚えていて、映像や構成に注目して見たのだが、改めて感じるところが多かった。撮影監督の瀬川浩によるモノクロの美学はこの映画で完成していたことが判る。

 「おとし穴」は1960年10月20日に九州朝日放送から放送された安部公房のテレビドラマ「煉獄」の映画化である。当時のテレビのことだから、放送時の映像は残っていないと思われる。筑豊のある炭鉱で、第二組合の委員長とそっくりの人物が殺される。1960年は「60年安保闘争」の年だが、「総労働対総資本の対決」と言われた三井三池炭鉱の大争議の年でもあった。九州ではその印象はさらに強かっただろう。三池争議では第一組合から第二組合が分裂したり、またピケ中の組合員が暴力団に殺される事件も起こった。だから、このドラマはどうしても三池争議をモデルにした社会派ドラマと思われただろう。
(第一組合と第二組合の委員長が対決)
 冒頭では炭鉱の厳しい労働を嫌って逃げ出した二人の労働者が、農民を欺して石炭が出るかもと掘削のフリをしている。そこからも逃げだし、港で荷運びをする。そこからまた炭鉱で働こうとするが、その時仕事をあっせんする下宿の主人から「ある場所」に行く仕事を持ち掛けられる。前に謎の男から写真を撮られていて、その写真から依頼されたのである。この労働者は名前がなく「抗夫A](井川比佐志)とある。写真を撮っていた男も名前がなく、いつも白い服を着てスクーターに乗って現れる「謎の男」(田中邦衛)である。

 冒頭は社会派風だが、その後Aが指定の場所に行くところから、不条理劇のムードが強まる。炭鉱のボタ山や人のいない炭住(炭鉱労働者向けの住宅)をモノクロで撮った「光と影」がすごい迫力だ。炭鉱や金属鉱山のあったところでは、つい最近までこういう風景がよく見られた。「ノマドランド」と同じである。その寂れた中を太陽だけが照りつける。ただ一人残っているのは、駄菓子屋の女佐々木すみ江)である。Aは駄菓子屋で場所を訪ねるが、指定場所は人気のない道である。そこで謎の男が現れて男を殺す。

 死んだ男から幽霊が抜け出て、自分は何で殺されたのだろうと言う。この映画では死んだ人間が幽霊になって、自分の死体を見つめる。謎の男はその後駄菓子屋に行き、事件を目撃していた女にニセの証言をするように依頼して大金を渡す。男の死体を見た新聞記者は、これは第二組合の委員長だという。しかし、電話してみると委員長の大塚井川比佐志)は生きている。話を聞いた大塚は、犯人はハゲがあるというニセ証言を聞いて、それは第一組合委員長の遠山に似ていると思い、これは謀略だと直感した。大塚は遠山を呼び出して会うことにするが…。謎の男が再び戻ってきて、駄菓子屋の女も殺してしまって…。
(反転する田中邦衛)
 謎の殺し屋をスタイリッシュに演じる田中邦衛は非常に印象深い。田中邦衛の映画では特殊な役柄だが、実に存在感の強い俳優だと実感させられる。たまたま第二組合委員長のそっくり男が見つかったので、謀略による第一組合潰しが仕組まれた、と筋を合理的に理解することは出来る。しかし、映画を見た触感はそういう社会派的な感じよりも、謎めいた語り方による不条理劇という感じが強い。60年代は白黒からカラーへと移り変わる時期だったが、60年代に数多く作られる「前衛」映画はモノクロが多い。その一番最初が「おとし穴」だった。

 その頃、外国のアート映画を日本に紹介しようという「日本アート・シアター・ギルド」(ATG)が創設され、ポーランドの「尼僧ヨアンナ」を皮切りに続々と名画が公開された。日本映画も上映したが、その一番初めが「おとし穴」だった。ATGあってこその勅使河原作品だった。その後60年代末には自主製作に乗り出し「1千万円映画」を作るが、その大部分も白黒映画だった。その意味でも「おとし穴」の貢献は大きい、1962年のキネマ旬報ベストテンで8位に選出されている。
(プリペアド・ピアノ)
 今回音楽を担当した高橋悠治のトークがある会を見た。高橋悠治は若い頃に「水牛楽団」をやっていたときに何度も聞いているが、話を聞くのは久しぶり。もう80を越えているが元気そうだった。「おとし穴」の音楽は音楽監督として武満徹、他に一柳慧(いちやなぎ・とし)と高橋悠治がクレジットされている。この顔ぶれも凄いが、映画の音楽も実に素晴らしく「前衛」ムードを出す。武満がスコアを書いて、3人で演奏したらしいが、プリペアド・ピアノを使うんだという。それ何という感じだが、ピアノの中にゴムや金属などをセットして(プリペアして)、音色を打楽器的に変えるんだという。知らないことは多いもんだと思った。
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映画「利休」、権力者と文化人ー勅使河原宏監督の映画③

2021年06月11日 23時10分15秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督は、1972年の「サマー・ソルジャー」で一端劇映画製作を離れる。1980年には草月流家元になったし、もう二度と映画は作らないのかと思っていたら、1989年に突然「利休」という大作を発表した。3年後の宮沢りえ主演の「豪姫」(1992)が最後の映画になった。どちらも戦国時代を舞台にした重厚な歴史劇である。同時代に見たのはこの2本だけである。今回「利休」を再見して、今もなお意味を持つ現代を描く映画だと思ってしまった。

 1989年には熊井啓監督の「千利休 本學坊遺文」も作られ、千利休(1522~1991)の競作となった。これは利休没後400年を控えて、茶道界の協力や盛り上がりがあったためである。勅使河原監督の「利休」は、野上弥生子秀吉と利休」の映画化で、モントリオール映画祭最優秀芸術貢献章キネ旬7位。一方「千利休 本學坊遺文」は井上靖本覚坊遺文」の映画化で、架空の弟子、本覚坊(映画化に際して本學坊に変更)の目から見た利休を描いた。ヴェネツィア映画祭銀獅子賞キネ旬3位。つまり「千利休」の方が「利休」より若干評価が高かったのである。

 当時の僕の評価も同じだった。「千利休」は熊井監督らしく内省的に問い詰めていく厳しさがテーマに合っていた。一方「利休」は登場人物のキャスティングを見ても、豪華絢爛たる戦国バロック。目指すべき地点が違っていて、まさに勅使河原宏らしい総合的芸術プロデューサーの作品なのである。撮影では実際に当時の茶器や掛け軸が使われ、俳優、スタッフの緊張感は大変なものだったという。大々的なセットに加えて、彦根城、三渓園、仁和寺などでロケされ、目で見る国宝みたいな映像。そこで「権力者と文化人」をめぐる深刻な葛藤が繰り広げられる。
(「黄金の茶室」の秀吉と利休)
 ここでちょっと両作のキャストを比較しておきたい。最初が「利休」で、( )内が「千利休」。
千利休三國連太郎(三船敏郎)、豊臣秀吉山崎努(芦田伸介)、織田信長松本幸四郎(現・松本白鴎)徳川家康中村吉右衛門北政所岸田今日子大政所北林谷栄豊臣秀長田村亮茶々(淀君)=山口小夜子石田三成坂東八十助(故・10代目坂東三津五郎)、古田織部嵐圭史(加藤剛)、細川忠興中村橋之助(現・中村芝翫)、古渓和尚財津一郎(東野栄治郎)、山上宗二井川比佐志(上条恒彦)、りき(利休夫人)=三田佳子…。

 信長、家康、秀長、北政所、淀君、三成などは「千利休」には出て来ないか、出ていても知名度のある俳優ではない。信長の弟の織田有楽斎は、「利休」では細川護熙がカメオ出演。この時点では熊本県知事で、セリフはない。「千利休」では萬屋錦之介が演じて、最後の映画出演の大役となっている。親王役で10代の中村獅童も出ている。歌舞伎界を中心に驚くべきオールスターキャストになっている。歴史上の重要人物を散りばめて、見事にまとまっている。名古屋の高校卒業の赤瀬川原平が脚本に参加、秀吉が妻や母親と名古屋弁でしゃべりまくるのがおかしい。また勅使河原映画の常だが、武満徹の音楽がとにかく素晴らしくて印象深い。
(「千利休」の三船敏郎と奥田瑛二)
 利休は秀吉に取りたてられ、権力者と上手くやっていたが、前田玄以と関係が悪くなる。小田原攻めを控えて、秀吉は伊達政宗取り込みに利休が必要だった。しかし、秀吉の勘気を被って小田原にいた元の弟子、山上宗二を秀吉に取りなすも、頑固な宗二は秀吉の怒りを買って惨殺される。見殺しにしたと非難する向きもありながら、秀吉とは上手く付き合っていたが、豊臣秀長の死後に次第に権力から遠ざけられていく。「唐御陣は明智攻めのようにはいくまい」とうっかりもらして、秀吉の怒りを買うことになる。そんな折に大徳寺山門の木像事件が利休の立場を悪くする。
(淀君の山口小夜子)
 この辺りは歴史上の通説に従って進んでいる。豊臣政権内で秀長=北政所=利休ラインから、淀君=石田三成ラインに権力が移り変わるわけである。そんな中、狭い茶室の中で、秀吉と利休が対決するラスト近くの緊迫感は見る者の心に強いインパクト残す。それは権力者に立ち向かう文化人の志である。「唐御陣」、つまりあの無謀な朝鮮侵略戦争は、多くの大名が内心反対なのに誰もが口をつぐんでいる。「明智攻め」は準備なく臨んで勝った、「唐御陣」は準備万端で臨むから勝つに決まっていると秀吉は言う。利休は「外(と)つ国のことでございますれば」と外国侵略であるから簡単にいくものではないと正論で立ち向かって敗れる。

 利休は敗れて、謝罪も拒否して死を賜る。この歴史解釈は不動の定説ではない。しかし、この映画を見ていると、そんなことはどうでもいいと思える。三國連太郎の覚悟を決めた姿に、今でも勇気を与えられる。これほど一身を賭して対外戦争に反対した人がいたことを誇りに思える。学術会議会員拒否問題を、新型コロナウイルス対策を、「集団的自衛権の部分的解禁」を…思わずにはいられない。残念なことに、今も「利休」という映画のテーマが過去のものになっていない。現代の問題意識につながっている。思えば、2022年は千利休生誕500年だ。来年は「アートの力」を再確認するためにも、この映画をデジタル化して大々的に上映して欲しいと思う。
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「サマー・ソルジャー」、脱走米兵のリアルー勅使河原宏監督の映画②

2021年06月10日 23時04分04秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の1972年作品「サマー・ソルジャー」は、キネ旬ベストテン9位に選出されている。しかし、その割に知られてないし、見た人も多くないだろう。勅使河原監督の長編劇映画7本中、唯一ウィキペディアの項目がないぐらいだ(2021/06/10現在)。公開から半世紀近く経って忘れられたということではなく、公開当時もそんな感じだった。当時僕は高校2年生で、すでに映画ファンだったが、この映画には気付かなかった。翌年のベストテン号を見て、そんな映画があったんだと思った。僕が見たのも大分後のことである。

 「サマー・ソルジャー」はヴェトナム戦争の時代に、米軍基地を脱走した米兵をドキュメンタリー・タッチで描く映画である。日本(本土)の米軍基地は後方支援の役割を担っていて、ヴェトナムへ送られる米兵や休暇等で訪れた米兵などが多数いた。(沖縄の基地からは直接北ヴェトナムに出撃していた。)米兵の脱走はフィクションではなく、実際に横須賀に入港した空母イントレピッドから4人の米兵が脱走したケースは有名だ。彼らはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)系の支援を受けて、ソ連からスウェーデンに亡命した。

 また、基地の周りの酒場や風俗店には多くの米兵が訪れたが、中にはそのまま基地へ戻らない兵士もいた。この映画でも冒頭で岩国基地の米兵ジムが礼子(李麗仙)に匿われている。礼子は明らかに米兵相手の飲み屋の女だが、ジムを溺愛しているらしい。警察が尋ねて来るなど不安が募って、脱走兵援助組織を頼る。これは明らかにベ平連系の「ジャテック」をモデルにしている。そこで教えられて東京に出てきて、ジムは様々な家庭を転々とする。ギターが得意で自分の作った歌を披露することもあるし、社長の知り合いと偽って自動車修理会社で働くこともある。しかし、常に周りの目に怯えていて、日本語が全く出来ないジムに安らぎはない。

 勅使河原監督の長編劇映画では「サマー・ソルジャー」だけがオリジナル脚本である。しかも日本人の脚本家ではなく、日本文学研究者のジョン・ネイスン(John Nathan)が書いている。ネイスンは三島由紀夫大江健三郎の翻訳者として知られていた。「三島由紀夫ーある評伝」(1974)の著者でもある。(翻訳が出た後で、三島未亡人の怒りを買って絶版になったが、没後に新版が出た。)そんなネイスンが何故シナリオを書いたのか。「ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録」という本に「サマー・ソルジャー」という章があるが、僕はまだ読んでない。
(ジョン・ネイスン)
 脱走米兵支援運動に関しては、いくつかの証言がある。関谷滋・坂元良江編「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)や阿奈井文彦「ベ平連と脱走米兵」(文春新書)などである。それらは支援運動の負の側面にも多少は触れているが、基本的には「人道的な市民運動」として書かれている。僕も基本的には同じ認識を持っている。戦争に負けて20数年の時点で、多くの日本人は二度と戦争は嫌だ、戦争が嫌で逃げてきた米兵を何とか助けたいと思っていた。多くの日本人が米兵を善意のみで匿ったことは誇るべき歴史だと思っている。

 しかし、それは「基本的前提」である。実際にはそんなにうまく行ったことばかりではない。今とは全く違ってほとんど外国へ行ったことのない時代だし、米兵だって日本の知識はほとんどない。異文化理解なんて発想もない時代に、双方が突然のカルチャーショックに見舞われた。特にもう一人の米兵ダリルは性的な飢餓に耐えられず女と知り合いたいと思う。観世栄夫中村玉緒夫妻では万が一を恐れて妻を実家に帰す。小沢昭一黒柳徹子夫妻では深夜に帰ってきたダリルが、妻に襲いかかる。黒柳徹子の映画出演は珍しいので大変貴重なシーンだ。

 ジムはその後訪ねてきた礼子と彼女の実家に逃げる。さらに逃げだし、長距離トラックの運転手(加藤武)に拾われて京都を目指す。運転手は小田原で娼婦をあてがってくれる。京都でも苦労し喫茶店で一人でいると米兵支援の女子学生と出会う。結局岩国に帰って基地に出頭する道を選ぶ。支援組織には「NO THANKS」と書き残す。ジョン・ネイスンは一体何を訴えたいのだろうか。脱走兵や支援運動の否定ではないだろう。善意で行動してもカルチャーギャップがあるということか。米兵も支援日本人も相互に無理解な様子が映像に残されている。
 
 当時の日本人も、どうも毎日米の飯に魚のおかずである。米兵も嫌になるはずだ。今も米飯にあじの開きという夕飯もあるだろうが、毎日魚じゃないだろう。特に子どものいる家ではハンバーグとかポーク・ジンジャーとか肉の方が多いと思う。中華もイタリアンもあるし、もっと珍しい外国料理も食べている。米兵の方だってスシぐらい食べるだろう。それを思うと、当時の中産階級が受け入れているんだろうが、ずいぶん半世紀前はまだまだ画一的な暮らし方だったなあと思う。そういう意味での時代の証言でもある。

 1972年の日本映画は、僕には「旅の重さ」(斉藤耕一監督)の年だった。キネ旬ベスト1は「忍ぶ川」(熊井啓監督)で、評判が高かったので僕は初めて東宝の封切館に行った。また日活ロマンポルノの評判が聞こえてきて、前年の「八月の濡れた砂」が良かった藤田敏八監督の「八月はエロスの匂い」を見に行ったりした。(ホントは成人指定だからダメなんだけど。)神代辰巳監督の「一条さゆり・濡れた欲情」はさすがに封切りでは見てないが、翌年銀座並木座で見て凄い傑作だと感嘆した。主に洋画を見てた時期で、「サマー・ソルジャー」に関心が向くわけない。
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「十二人の写真家」「アントニー・ガウディ」ー勅使河原宏監督の映画①

2021年06月09日 22時22分21秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏(てしがはら・ひろし、1927~2001)の没後20年ということで、シネマヴェーラ渋谷で特集上映が行われている。僕は劇映画は見ているが、記録映画は見ていないから貴重な機会だと思って、この機会に見ようと思った。全部終わってからだと大変だから、まず記録映画に絞って書いておきたい。勅使河原宏は1964年に作った映画「砂の女」で世界的に評価された。3年前に見直したときに、「映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る」(2018.4.24)を書いた。
(勅使河原宏監督)
 その時にこう書いた。「(勅使河原宏は)華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。 」今回は2週間だけの映画上映だが、来たるべき生誕100年には本格的な大回顧展を望みたい。また前衛芸術運動のプロデューサーとしての関連分野の研究進展も望まれる。

 1960年代の日本映画界では「会社システム」によって多くの娯楽映画が量産されていた。しかし、会社システムの外部で映画を製作し、ベストワンになった映画監督が二人いる。それが「不良少年」(1961)の羽仁進と「砂の女」(1964)の勅使河原宏である。二人とも本人の才能も図抜けているが、「本人よりも親が有名」だった。羽仁五郎・羽仁説子勅使河原蒼風と言われても、今ではピンと来ないかもしれないが当時は誰でも知っていたビッグネームだ。
(勅使河原蒼風)
 勅使河原蒼風(1900~1979)は華道の草月流を一代で築いた人物である。世界に生け花を広め、独自の前衛的作風で知られた。彫刻も多く作っていて、それは「いのちー蒼風の彫刻」(1962)という短編で描かれている。また華道作品や教室の様子は「いけばな」(1956)というカラー短編に残された。この映画は草月流と父親の宣伝映画みたいなものだけど、東京の風景や高度成長直前に華道を学ぶ人々を記録していて非常に興味深い映像だ。

 それ以前に「北齊」(1953)を作っている。これは美術評論家・詩人の瀧口修造が製作していたが資金不足で中断したフィルムを勅使河原宏が完成させたという。葛飾北斎の作品をクローズアップして人物を大きくするなど興味深い。キネマ旬報ベストテン文化映画部門で2位になった。その後1955年に「十二人の写真家」を作った。写真雑誌「フォトアート」創刊6年を記念して製作された映画で、題名通り12人の写真家を追っている。木村伊兵衛三木淳大竹省二秋山庄太郎林忠彦真継不二夫早田雄二濱谷浩稲村隆正渡辺義雄田村茂土門拳である。
(「十二人の写真家」)
 全員は知らないけれど、木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、大竹省二らの超有名な写真家の映像が残されている。49分で12人だから、1人4分ほどだから短すぎるけれど、それでも貴重である。三木淳は草月流を撮影していて、宏の妹で後の2代目家元勅使河原霞の若き日の姿が映されている。木村伊兵衛は下町を歩いてスナップを撮りまくる。大竹省二は鵠沼海岸でモデル撮影。林忠彦武者小路実篤の家を訪ねて写真を撮る。土門拳は家から出て子どもたちを撮る。僕にはカメラ機種は判らないけれど、こんな貴重な歴史的映像が残されていたのかと驚いた。

 その後1959年に父親の米国訪問に同行して海外へ行く。当時は映画撮影どころか、海外旅行も普通は出来ない時代だ。それが可能なんだから、やはり恵まれている。その時に今ではホセ・トーレスと表記されるボクサーと知り合い、彼の練習風景を撮影した。それが「ホゼー・トレス」(1959)で、後に「ホゼー・トレスPartⅡ」(1965)も作られた。この人は非常に有名なボクサーということでウィキペディアに経歴が載っている。モノクロのスタイリッシュな映像に、武満徹の素晴らしい音楽が被る。検索すると、武満の音楽をYouTubeで聞くことが出来るが、大変な迫力だ。
(「ホゼー・トレス」)
 1958年に赤坂の草月会館を舞台に草月アートセンターが作られた。1950年代末から60年にかけて、日本では各ジャンルで「前衛アート」が花開いた。現代音楽、ジャズ、実験映画、演劇、美術、舞踏など幅広い分野で多くの作品が発表された。海外からの招待者も多かった。僕は時代的に見ていないが、70年代にはまだ草月会館でコンサートなどが行われていて、行ったことはある。それら「前衛」のアーティストはお互いに知り合って影響を与え合ったが、それには草月アートセンターの果たした役割が大きい。勅使河原宏の大きな仕事と言って良い。

 その後、60年代は主に安部公房原作の映画を作る。その後映画を離れて陶芸に打ち込んだりしたが、1979年に父が死に、後を継いだ妹の霞が1年で急死したため、1980年に3代目家元を継ぐことになった。本当は大組織のトップは嫌だったかもしれないが、華道を越えた総合芸術をプロデュースした意義は大きいと思う。そんな中で1984年に記録映画「アントニー・ガウディ」を作っている。今では知名度の高いガウディとサグラダ・ファミリア教会だが、その頃はまだ知る人ぞ知る存在だったと思う。1992年のバルセロナ五輪をきっかけに知名度が上昇したと思う。僕は当時この映画を見なかったが、下からあおる映像が迫力。ガウディの他の建築も多く取り上げられ、非常に興味深いアートフィルムだった。
(「アントニー・ガウディ」)
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森崎東監督作品を振り返る

2020年07月18日 22時50分18秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の森崎東(もりさき・あずま)が7月16日に亡くなった。1927年生まれで、92歳だった。最後の作品となった2013年の「ペコロスの母に会いに行く」は故郷の長崎を舞台にした作品で、キネマ旬報ベストテンで1位になった。作品完成後に認知症を公表していたので、もう作品は作れないものを覚悟していた。むしろよく2020年まで生き抜いたというべきだろう。もうずいぶん昔の作品ばかりになって、訃報では「喜劇の名手」とされ、「ペコロス…」や「時代屋の女房」が代表作のように出ているが、それらはむしろ例外的な作品だ。
(森崎東監督)
 森崎東は1960年代末の山田洋次監督喜劇の多くで脚本を書いている。中でも「男はつらいよ」第一作の脚本を山田洋次と共同で書いている。(というか、どう書いたかは知らないけれど、二人の名前がクレジットされている。)「男はつらいよ」第3作の「男はつらいよ フーテンの寅」では監督をしているぐらいだ。1969年の監督昇格作品は「喜劇・女は度胸」であり、寅さんに続く3本目は「喜劇・男は愛嬌」、1971年には「喜劇・女は男のふるさとよ」「喜劇・女生きてます」で力量を認められた。「喜劇」と付くんだから、喜劇の名手なんだろうと思われても当然か。
(「ペコロスの母に会いに行く」)
 森繁久弥が社長を務める「新宿芸能社」を舞台とする「女シリーズ」は、「女は男のふるさとよ」「おんな生きてます」「女売り出します」「盛り場渡り鳥」と4作作られた。ある程度評価もされたし、僕も大分経ってから見て、なかなか面白かった。でも「男はつらいよ」シリーズのような「喜劇の名作」ではなかった。むしろ下層民衆のバイタリティを描くという意味で、同時代に作られた日活ロマンポルノのような感触もある。ストリッパーが出てきても、松竹映画だからもう少しお上品だったけど。でも松竹的なホームドラマの枠には収まりきらない印象があった。映画の完成度を無視して、激情が噴出するようなイメージがある。
(「女生きてます 盛り場渡り鳥)
 そこら辺を松竹も判っていたのか、「寅さん」は一本で終わり、黒澤明「野良犬」のリメイクとか、朝ドラの映画化「藍より青く」などを監督した。1970年にも喜劇シリーズの中で、劇画の映画化「高校さすらい派」もあった。(これは僕はわりと好き。)しかし、1975年に松竹との契約を打ち切られ、その後は他社で撮ることが多くなった。でも「塀の中の懲りない面々」「釣りバカ日誌スペシャル」「美味しんぼ」「ラブ・レター」など、ごく普通にそこそこよく出来たエンタメ映画も松竹で作っている。松竹も力量は買っていたのだろう。

 東映で「喜劇 特出しヒモ天国」(1975)を作り、ATGで「黒木太郎の愛と冒険」(1977)を作った。特に後者で自分なりの暗さに向き合ったことは大きかったと思う。敗戦時に17歳だった森崎だが、8月16日に特攻隊員だった次兄・森崎湊が割腹自殺した。その後京大を卒業して松竹京都撮影所に入るが、その間共産党員であり六全協を迎えたのである。それらの思想的苦悩が森崎映画の奥に潜んでいると思う。それを初めてATG映画という場を得て描いた。

 森崎映画は3本しかベストテンに入っていないけど、最初は1985年の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(7位)である。異様に長い題名が忘れられない映画だが、これは「3・11」後に再見した。原田芳雄原発ジプシー(渡り労働者)を演じたことで、「反原発映画」として再発見されたのである。またデビュー作の主演者だった倍賞美津子が主演して、森崎映画を代表する女優となった。日本で働くフィリピーナも出てくるし、雑多なテーマを散りばめすぎた感があるが、それでもバイタリティあふれる作品だ。
(「…党宣言」)
 2004年の「ニワトリはハダシだ」(8位)も忘れがたい作品。やはり原田芳雄、倍賞美津子の主演だが、知的障害を持つ少年を扱う。主演は本格デビュー作の肘井美佳も良かった。そして最後の「ペコロスの母に会いに行く」になる。これは森崎が一本も作らなかった「名作」になっていて、そのためベストワンになったけれど、故郷で撮ったためか年齢のせいか、エネルギーが適度に枯れていたのかもしれない。「名作」は僕の場合褒め言葉ではない。猥雑なるエネルギーに満ちていたが、「名作」になりきらなかった作品群が懐かしい。
(「ニワトリはハダシだ」)
 一貫して「民衆」でも「人民」でも「市民」でもなく、「下層庶民」を描いたと思う。「庶民」はずる賢い面もあるが、エネルギーがある。同年生まれの神代辰巳、一年年上の今村昌平も同じように猥雑なエネルギーを持つ民衆像を描き続けたが、それぞれどう違うのか。僕には今はっきりとした解答はないけれど、考えてみたい問題だ。「時代屋の女房」には触れなかったが、夏目雅子が素晴らしい映画だ。
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大林宣彦監督を追悼し、いくつもの映画に感謝!

2020年04月11日 22時48分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)が亡くなった。4月10日、82歳。亡くなったのは、奇しくも遺作の「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の公開予定日だったが、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言で延期になった。一体いつになったら見られるんだろうか。ガンで闘病中で余命宣告を受けていたのは公表されていた。だから驚きはなく、むしろ「花筺」(はながたみ)と「海辺の映画館」と最後に集大成的な作品が二つも作られたことに感謝である。
(大林宣彦)
 大林宣彦は僕の世代にとって特別な映画監督(の一人)だ。溝口、小津などの巨匠は名前を知ったときにはずいぶん前に亡くなっていた。黒澤明は存命だったが、数年に一本大作を撮る人で全盛期は過ぎていた。大林監督は1938年生まれと世代的には年長だが、商業映画デビューは1977年の「HOUSE ハウス」だから、デビュー作から見ているのである。そして70年代から80年代に大きな影響力を持った角川映画でも撮ってヒット作を連発した。角川文庫と連動した「ねらわれた学園」(1981)や「時をかける少女」(1983)など僕らの世代は大体見てるんじゃないか。もちろんテーマ曲も歌えるだろう。
(「時をかける少女」)
 そういう人は他分野を見ても数少ないと思う。ただ大林監督は有名になりすぎたかもしれない。故郷の尾道を舞台に撮り続けたことで、「ふるさと創生」の代名詞のようになりマスコミや大企業にも受けてしまった。社会批判色が少なかったので、広告などにも起用されやすかった。それが僕には残念だったが、最晩年になって大震災後に今度はまた変わったと思う。反戦のメッセージを次代に残そうと努め、映像技法的にも自由奔放な映画を作り始めた。そこがやはり偉大な映像作家だった証だ。

 大林監督はもともと個人映画の作家として有名だった。上映される機会は少なかったが、時々池袋の文芸地下(今の新文芸坐の敷地に洋画専門の文芸坐があり、日本映画専門の文芸地下は下にあった)でやっていた。それらの映画は独特な長い名前を持ち、不思議に懐かしい思い出のような映像が魅力的だった。「Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道」(1964)、「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)、「CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅」(1968)などである。これが面白くて、僕は名前を記憶することになった。

 これらの映画は当時は自分で8ミリ映写機を回して撮影して編集するもので、そういう映画を作っていた人は当時は非常に珍しかった。それが認められ、CMディレクターとなり大活躍する。日本映画の海外ロケも珍しい時代だが、CMなら海外スターを起用できるとチャールズ・ブロンソンの男性用整髪料「マンダム」が大評判となった。「丹頂」から社名を「マンダム」に変えてしまったぐらいだ。他にも上原謙、高峰三枝子の「国鉄フルムーン」、山口百恵・三浦友和の「グリコアーモンドチョコレート」、ソフィア・ローレンの「ホンダ・ロードパル」、「レナウン・ワンサカ娘」など評判になったCMをいっぱい作っている。
(「マンダム」)
 そこで満を持して商業映画を撮ることになって、当時の流行でもあったホラー、パニック映画の「HOUSE ハウス」(1977)を東宝で製作した。批評家受けは悪くて、キネ旬ベストテンでは21位だったが、僕はとても面白くてその年のベストワンである。少女たちが家に食べられてしまうという話をポップな感覚で撮っている。今思えばガーリーなファンタジーとして先駆的な作品で、影響を受けた若い世代が後にたくさん出てくる。次が「ブラックジャック」を映画化した「瞳の中の訪問者」だが面白くなかった。主演が片平なぎさだから見たんだけど。その後段々判ってくるけど、原作があってヒットを期待される時期に公開される映画ほど面白くない。やはり「個人映画」の作家なのだった。
(HOUSE」)
 転機になったのは、1982年の「転校生」。2017年にフィルムセンターで再見した時のことは「大林宣彦『転校生』を35年ぶりに見る」に書いたので、ここでは省略する。ベストテン3位に入選し、初めて高く評価された。「尾道三部作」の最初で、山中恒原作だがほとんど自由に作っている。ATGで製作して大手じゃなかったのが良かった。次が角川の「時をかける少女」(1983)で、原田知世主演で大ヒットした。原作は筒井康隆のジュブナイルSFだが、何度も映像化されている中で一番いいだろう。あの頃僕らは「ラベンダーの香り」と言われても、謎めいて判らなかったのだ。
(「さびしんぼう」)
 尾道三部作の最後が「さびしんぼう」(1985)だが、ノスタルジックなムードが最高と言える作品で、僕は大林作品の最高傑作レベルだと思う。「ふたり」(1991)「あした」(1995)「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~」(1999)を「新尾道三部作」と言うが、やはり最初の方がずっといいと思う。僕らも、監督も飽きたのかもしれない。「ふたり」はとてもいいと思ったが、どうも既視感が次第に強くなった。これらの尾道映画は「観光映画」ではなく、何気ない日常を撮ることで、全体として懐かしいムードを作り出し「ロケ聖地めぐり」の先駆けとなった。その功績は非常に大きい。

 作品が多くて長くなっているが、わざわざ16ミリで撮影した「廃市」(1984)は忘れがたい。福永武彦の傑作短編の映画化で、福岡県柳川の堀割を古びた町のムードを満喫した。もっとも数年前に再見したら、ちょっとガッカリしたところもあった。もっと大傑作に思い込んでいた。時間経過による思い込みの美化である。もう一つ、ノスタルジー映画ではないが、個人的な思いで作った「北京的西瓜」(1989)がある。中国人留学生のお世話に奔走する千葉県船橋の八百屋を描く。ちょうど天安門事件にぶつかり、中国ロケが出来なかった。あまり取り上げられないが、非常に特別な価値がある映画だと思う。
(「廃市」)
 残りは簡単にしたいが、原作映画化として「異人たちとの夏」(1988)、「青春デンデケデケデケ」(1992)、「はるか、ノスタルジイ」(1993)、「女ざかり」(1994)、「理由」(2004)などがある。「異人たちとの夏」は高く評価されたが、僕は設定に納得できない。素晴らしいのは「青春デンデケデケデケ」で、芦原すなおの直木賞受賞作を実にうまく映像化した。四国の高校生のバンド映画だが、ベンチャーズ世代なのである。これを見ると、やはり大林映画のキモは「失われゆく青春へのノスタルジー」にある。丸谷才一の話題作「女ざかり」は吉永小百合主演だが全然面白くなかった。
(「青春デンデケデケデケ」
 「SADA」(1998)という映画はベルリン映画祭で受賞したというので、一応見に行ったが面白くなかった。阿部定の映画なんだけど、大島渚、田中登に付け加えるところはなかったと思う。こうして次第に面白くない映画が多くなってしまい、「なごり雪」(2002)や「22歳の別れ」(2007)などは見逃した。そして大震災後に「この世の花ー長岡花火物語」(2012)、「野のなななのか」(2014)、「花筺」(2017)、「海辺の映画館~キネマの玉手箱~」(2020)の、いわば「山崎紘菜四部作」が作られた。その評価はまだ僕には出来ない感じだ。「海辺の映画館」を見られてからじっくり考えたい。

 ずっと追ってきたので長くなってしまった。青春時代からずっと見ていた監督で、ひたすら画面に夢中になって切ない思いに浸ってきた。まだ書きたい映画も残っているぐらい、作品数が多い。全部見た人はいないんじゃないだろうか。特集上映が行われ、また映画館のスクリーンで見られる日を待ち望んでいる。長い間素晴らしき映画を作り続けた大林監督に感謝したいと思う。
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高畑勲監督の逝去を悼む

2018年04月06日 23時06分00秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日本のアニメーション映画監督、プロデューサーの高畑勲監督が亡くなった。1935年10月29日~2018年4月5日没、82歳。今から多くの人が追悼を語ると思うが、やはりマスコミでは「火垂るの墓」や「アルプスの少女ハイジ」が大きく取り上げられている。それはそれで当然だとは思うけど、ニュースでは「1985年、宮崎駿監督などとスタジオ・ジブリを設立しました」なんて語られる。短い時間ではその前は語られないのである。だからちょっとだけ書いておこう。

 高畑監督の最初の監督作品は、東映動画の「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)。「動画」というと、今じゃスマホで誰でも撮れる映像のことだが、昔はアニメのことを指した。60年代末には日本映画が危機と言われていたが、今思うと素晴らしい映画が続々と作られていた。アニメでは東映で矢吹公郎の「長靴をはいた猫」と高畑「太陽の王子…」が伝説的な大傑作とされていた。僕は同時代には見てない。70年代に映画マニアになってから、追いかけて見たのである。これはアイヌの民話をもとにした物語なのである。そんな話がアニメで作られていたのだ。

 その後、東映動画労組の組合運動で宮崎駿と知り合う。退社後、テレビで「アルプスの少女ハイジ」などのアニメを手掛けて評判になるが、これは高校から大学時代で全く見てない。劇場アニメで「じゃりン子チエ」と「セロ弾きのゴーシュ」を作り、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」をプロデュースする。ヒットしたお金で、今度は宮崎製作、高畑監督で作ったのが、記録映画「柳川掘割物語」(1987)。これは福岡県柳川市で掘割を守る人々を描いた165分もあるドキュメンタリーだが、ものすごく感動的だった。もう忘れている人が多いかもしれないが、高畑、宮崎という人を考えるためには必見の映画だと思う。

 1988年に「火垂るの墓」を作って世界的に高い評価を受けた。当時はまだ映画会社の系列で2本立て上映する時代で、「となりのトトロ」と東宝系で2本立てだった。この映画は確かに素晴らしい出来で、「子どもに見せる戦争映画」のスタンダードになったのも当然だ。だから逆に敬遠する人もいるだろうし、僕も再見してないが、やっぱりよく出来ている。次に「おもひでぽろぽろ」(1991)、続いて「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)。東京の多摩地区を舞台にしながら、エコロジカルな意識が描かれ共感した。そして、「ホーホケキョとなりの山田君」(1999)、間が開いて「かぐや姫の物語」(2013)。これが最高傑作なんだと思う。まあ多くの人が見ている映画は書かないことにしたい。
  
 映画館でちゃんと追悼上映をやって欲しいなあ。絶対みんな行くんだから。
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川島雄三監督生誕百年

2018年02月03日 23時14分14秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日本映画史上に異彩を放つ映画監督、川島雄三生誕百年になる。川島雄三は1918年2月4日に青森県田名部町(むつ市)に生まれ、1963年6月11日に亡くなった。享年45歳筋萎縮性側索硬化症という難病を若い時から患っていて、晩年は歩行が不自由だったという。脚本家時代に弟子だった作家藤本義一は、「生きいそぎの記」と題した本を書いている。生地のむつ市で特集上映が行われ、衛星放送では50本の放映が行われるというが、東京では(今のところ)大々的な回顧上映が企画されていない。ここで川島雄三再評価の機運を高めたいと思って振り返ってみたい。
 (川島雄三監督)
 川島雄三は松竹映画還って来た男」で1944年に監督デビューしている。「戦中派」だったのかとちょっとビックリするが、その後、日活東宝に移籍し、また重要作品を大映で3本撮っている。今まで生誕百年が大々的に回顧された監督は、小津安二郎なら松竹、黒澤明なら東宝と中心になる会社があった。まあ小津や黒澤も他社で重要作を撮っているが、川島ほど各社にまたがってはいない。中心になって回顧してくれる会社がないのは川島雄三にふさわしい感じもあるが。

 川島作品はキネ旬ベストテンには2作しか入選していない。一つは1957年の「幕末太陽傳」の4位、もう一つは1963年の「しとやかな獣」の6位。「幕末太陽傳」はキネマ旬報が2009年に行ったオールタイムベストテン投票でも、堂々の4位になっている。(1位は「東京物語」、続いて「七人の侍」「浮雲」で、5位が「仁義なき戦い」になっている。)日活で作られた「幕末太陽傳」はどんどん評価が高まっているが、川島雄三の最高傑作だということは、誰が見ても揺るがないだろう。

 この2作品は僕も若いころから何度か見ているが、昔は他の作品がほとんど上映されなかった。1956年の「洲崎パラダイス 赤信号」や1962年の「雁の寺」ぐらいしか見られなかったものだ。「雁の寺」は水上勉の直木賞作品の映画化で、若尾文子の名演もあって15位にはなっている。でも、「洲崎パラダイス 赤信号」は今見ればすごい傑作だけど、当時のベストテンでは28位にしか入ってない。でも入れた人がいるだけいいので、川島作品の多くはほとんどが作品的には忘れられていた。
 (「洲崎パラダイス 赤信号」)
 最近は古い日本映画を専門的に上映するところが東京に複数出来て、川島作品もずいぶんやっている。主演級だった俳優が亡くなって追悼上映があったりすると、各社で撮っていただけあって川島作品がよく入っている。そうやって川島映画をかなり見られるようになると、「文芸映画の名手」という面と「時代を突き抜けたカルト作家」という側面が見えてくる。「しとやかな獣」は今見ても強い毒がインパクトがある。設定も構図や色彩なども、かなりぶっ飛んでいるから、調子が悪い時に見ると入り込めない時もある。でも間違いなく傑作である。
 (「しとやかな獣」)
 しかし、どうも時代が早すぎたようなブラックユーモア作品も多い。どちらも1959年東京映画作品の「グラマ島の誘惑」「貸間あり」などは、もう笑えないレベルすれすれ。飯田匡原作の「グラマ島の誘惑」なんか、皇族と慰安婦が遭難して同じ島に漂着するという設定だから、そんな映画があったんだと驚いてしまう。井伏鱒二の原作「貸間あり」も怪しい間借り人が集まるアパートのセットがすごい。フランキー堺、桂小金治の主要キャストも共通している。落語家の桂小金治をスカウトしたのは川島監督だった。「人も歩けば」「縞の背広の親分衆」「イチかバチか」(遺作)など、後期の東宝作品にブラックユーモア色が強いのは健康状態もあったのだろうか。

 一方同時期でも1960年「赤坂の姉妹 夜の肌」(原作由起しげ子)、1961年「特急にっぽん」(原作獅子文六)、「花影」(原作大岡昇平)、1962年の「青べか物語」(原作山本周五郎)、「箱根山」(原作獅子文六)などの安定した文芸作品を連発している。今見ると、これらの映画は風俗的にも興味深く、原作を巧みに映像化した手腕にしびれる。今なら名作と評価されたに違いない。だが、これほど連発することは会社の映画でないと難しい。この時代の最高傑作は、大映で撮った冨田常雄原作の「女は二度生まれる」だろう。神楽坂の芸者、若尾文子の男性遍歴を丹念に描いて、社会批判を忍ばせる。

 後期の東宝、大映作品で長くなってしまったが、一番多くの作品を撮っている松竹映画は見てないものも多い。デビュー作の「還って来た男」は織田作之助原作で、教師の田中絹代と帰還した兵士の話。その後24本も撮っている。「とんかつ大将」(1952)、「東京マダムと大阪夫人」(1953)などは傑作コメディ。後者は芦川いづみのデビュー作品。「適齢三人娘」(1951)、「明日は月給日」(1952)は、占領下で復興していく世相も興味深く、コメディとしてなかなか面白いと思う。

 日活に移った後は、最初の「愛のお荷物」(1955)が非常に出来が良いコメディ。今と違って、日本は人口抑制が課題と考えられていて、そのことを厚生大臣一家を題材に面白おかしく描いている。最後は山村聰の大臣にも子供が出来てしまう。「あした来る人」や「風船」「わが町」など原作ものも多いが、やはりこの時代は「幕末太陽傳」ということになる。こう見てくると、喜劇的才能を発揮した感じだが、社会風刺やブラックユーモアのスパイスが効いている作品が多い。

 安定して原作を任せられると考えられていたと思うが、今見ると当時の世相の映像が貴重である。当時の箱根や浦安は今や川島作品を見るしかない。また「特急にっぽん」は獅子文六ん「七時間半」の映画化だが、新幹線以前の東海道線の最速特急「こだま号」の姿を堪能できる。また売防法施行直前の「洲崎パラダイス」も貴重だ。そのような意味も含めて、川島雄三作品は今も新しい感じで楽しめる。今後も初期作品を中心に発掘が進むことを期待したい。まだ全貌が見えていないと思う。
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「初恋・地獄篇」とその後-羽仁進の映画④

2017年07月23日 21時29分17秒 |  〃  (日本の映画監督)
 羽仁進の映画のまとめを終わらせてしまいたい。アフリカやアンデスで撮った後、次に作ったのは「初恋・地獄篇」である。1968年、ベストテン6位。羽仁プロとATGの提携作品。当時、ATG(日本アートシアターギルド)は作家が自由に作れる「1千万円映画」という企画を始めていた。68年は2位「肉弾」(岡本喜八)、3位の「絞死刑」(大島渚)と、ベストテンにATG映画が3本も入った。ATG映画特集なんかは今も時々あるから、この映画は他に比べると上映機会が多い。僕も4回目だと思う。
(「初恋・地獄篇」)
 「初恋・地獄篇」は羽仁進の最高傑作だろう。ATG映画でも最大のヒット作となった。脚本に寺山修司が名を連ねていて、寺山特集なんかでも上映される。だけど、今回の「文学界」やトークなどでの発言によると、ATGに企画を通すために寺山の名を出したものの、羽仁が書いた脚本の概要を見せたら、寺山はこれでいいんじゃないのと言ったという。寺山は共同脚本に名を出す代わりに、製作現場を見たいと言った由。この証言そのものの検証も必要だが、今まで「初恋・地獄篇」の詩的、幻想的なシーン、風俗的・見世物的感覚などを何となく寺山由来と思っていたのも再検討が必要だ。

 この映画は、養護施設育ちの少年シュンと、集団就職で上京したが今はヌードモデルをしているナナミという二人の幼くも切実な触れ合いをリリカルに描いている。シュンは彫金師夫婦にもらわれ彫金をしているが、養父に虐待され、近所では幼女と仲よく遊んでいる。危ういシュンのセクシャリティに比べて、ナナミは大胆にヌードを披露してる。工場で働くより、自分のカラダを金にする方が有利だとすでに知っている。この10代の二人も新人で、特にナナミの石井くに子は見事な存在感。

 ナナミの関わる性産業の描写、若い二人の性愛の様子なども率直に描かれているが、興味本位という感じがなく、全体に詩的なイメージがずっと続く感じがする。モノクロの画面は美しく(撮影は奥村祐治に変わった。一部でカラー場面があるが、ベースはモノクロ)、完成度が高い。ナナミの同級生「代数君」の高校文化祭に行って、稚拙な8ミリ映画を見るところは、若い時代の切なさと恥ずかしさが伝わってくる名シーン。ナナミをよく撮影に来た「あんこくじさん」(安国寺さん?)の造形も面白い。そして突然の悲劇がやってきて映画は終わるが、余韻は長く残り続ける。

 「初恋・地獄篇」をもっと詳しく書いてもいいが、長くなるから省略。次の69年の「愛奴」は大失敗作。ベストテン27位。墓地で出会った美しい夫人に連れられ謎めいた洋館を訪れると、召使の少女「愛奴」を自由にしていいと言われ、極限の快楽を経験する…って、何だそれって感じの話。原作があって、フランス文学者栗田勇の戯曲なのである。もちろん、そんなウソみたいな話が現実にあるわけがなく、夫人は実は東京大空襲で死んだ霊魂だった…と言われましても。「雨月物語」を見てれば予測通り。もともとは荒木一郎と司葉子で企画したが、荒木一郎が事件を起こして流れたという話。
(「愛奴」)
 続く70年の「恋の大冒険」は誰もベストテンに投票してない。今まで失敗作と言われてきたが、最近ではカルト的なミュージカル映画として再評価されつつある。人気絶頂の「ピンキーとキラーズ」のピンキー(今陽子)を主人公に、山田宏一渡辺武信が脚本、和田誠が美術、いずみたくが音楽を担当したミュージカルである。この顔触れで判るように、70年前後の新しい感性を今に伝える作品で、画面に出てくる70年風俗も興味深い。遊び感覚で時代を超える映画だろう。
(「恋の大冒険」)
 今陽子が集団就職で「迷いたけラーメン」に勤める。そこの社長、前田武彦は怪しげな電波で社員を洗脳しているが、カバが大嫌い。一方、怪電波で上野動物園の動物たちもおかしくなり、公害として騒がれる。前武はやはり電波洗脳で由紀さおりが自分を好きになるように仕向け、ついには結婚式を挙げる日となる。そこに動物園を抜け出したカバが現れ…。当時、テレビ司会者として大人気の前田武彦が怪演を繰り広げ、その他多数のゲスト出演者とドタバタを繰り広げる。完全に成功しているとは思えないが、いずみたくと和田誠を楽しめる。70年にはこんなおふざけは受けなかっただろうが、今になると貴重な映像になっている。羽仁進にはこういう資質もあるということだ。

 その後、71年にイタリアのサルデーニャ島を舞台に「妖精の詩」を作った。実の娘の羽仁未央がなぜか一人孤児院にいて…。「禁じられた遊び」の名子役ブリジット・フォッセーも出ている。フィルムの褪色が著しいけど、そういう問題ではなく…という映画。子どもが可愛いのは真理だろうけど、反面の真理として、我が子が可愛いのは親だけだというのもある。羽仁未央は1964年生まれだから7歳だった。「元祖不登校」みたいな人で、2014年に亡くなった。

 1972年の「午前中の時間割り」は、再びATGで作りベストテン16位に入っている。前に書いたことがあるが、これは公開時に見ている。主演者が高校生で、確か都内の高校の生徒会あてに割引券が送られてきた。その当時から何度か見ているけど、まあ失敗作だろう。ついこの間の荒木一郎特集で見たからパスするつもりだったが、あまりに暑い日で他へ行く元気がなく、避暑のつもりでまた見たら案外面白かった。仲良し女子高生2人が夏休みに旅行する。映画好きの男子から8ミリカメラを借りて持っていく。そして、女子高生の片方が死んでしまう。旅行中に出会った謎の男は何?

 素人が映画を撮ることが大変だった時代だから、当時の旅フィルムが面白い。残されたフィルムは何を語る? 謎の男「沖」は、当時天才ジャズトランぺッターと言われていた沖至が演じているのも貴重。旅先は伊豆だと思うが、夏休み感覚にあふれている。全体に「ガーリー」(girly)なムードが漂っていて、その危うい「女子高生映画」感覚が面白い。稚拙であることも、かえって当時のムードを感じさせる。成功作とは思えないけど、案外捨てがたい。自分の高校生時代を思い出しちゃうし。
(「午前中の時間割」)
 劇映画最後は、1980年の「アフリカ物語」。最初クレジットにジェームズ・スチュアートって出てくるから、同じ名前かよと思ったらご本人だった。つまり「スミス都へ行く」や「裏窓」の俳優が老人で出ていた。事情あってアフリカ奥地で動物たちと暮らす老人と孫娘。そこに飛行機が墜落して記憶喪失になった男が現れる。自然保護、動物との共生を訴え、アフリカの動物たちの素晴らしい描写も多い。それなりにドラマもあるけど、これはサンリオが作った子供向け映画。なぜかベストテン12位になってるけど、成功とか失敗とか評する映画でもなかろう。まあ、それでいいんだという映画。
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アフリカとアンデスー羽仁進の映画③

2017年07月22日 22時43分00秒 |  〃  (日本の映画監督)
 羽仁進の映画をたどる3回目。2回目に書いた「不良少年」「充たされた生活」「彼女と彼」を僕は高く評価しているんだけど、羽仁進の映画全体からすると、社会派的、芸術表現的に突出している感じがする。そういう面が羽仁進に在ったのは確かだろうが、本人の資質からするともっと自由な映画を作りたかったんじゃないかと思う。つまり、子どもや自然を見つめる映画のような。

 ということで、次に作ったのは「手をつなぐ子ら」(1964)という映画になる。ベストテン31位だから、高い評価は得られなかった。これは今回初めて見たけど、確かに失敗作だろう。この映画は伊丹万作脚本、稲垣浩監督の「手をつなぐ子等」(1948)のリメイクで、前作は当時高く評価されベストテン2位に選出された。障害児教育の先駆者、田村一二の原作を、病床の伊丹万作が脚色した遺作で、障害児学級を描いている。その脚本に羽仁進が手を入れ、64年当時の大阪の小学校の話にしている。

 確かに「弱い者いじめ」などは描かれるし、どうも知的に少しボーダーの感じの子どもを描いているけど、普通の小学校の話になっている。素人の子どもたちが自然な演技をしている点で、ドキュメンタリー時代のような感触がある。でも、脚本はキッチリしているし、劇的事件がいくつか起こる。劇映画としては弱く、ドキュメントにしてはドラマ的。モスクワ映画祭審査員賞。担任教師役の佐藤英夫は、「七人の刑事」など多くのテレビドラマで知られるが、これは映画の代表作だろう。

 そして、その後羽仁進は日本を飛び出して、世界を舞台にしたドキュメンタリー・ドラマを作る。当時はまだ日本人が自由に世界旅行へ行けない時代だった。(外貨の持ち出し制限が撤廃されたのは1966年からだが、外国の観光旅行は特別の富裕層しかできないことだった。)そんな時代、「異文化理解」なんて概念もない時代に、欧米ではない外国へ出かけて映画を作った。羽仁進の発想力は時代をはるかに飛びぬけていたことがよく判る。

 最初は渥美清がアフリカ大好きになった映画、「ブワナ・トシの歌」(1965)で、ベストテン8位。これは実に素晴らしい映画だけど、今見られる映像は画面が褪色してしまっている。是非修復して欲しい。渥美清と言えば「寅さん」しか思い浮かばないというのは悲しいと思う。実話を基にした原作があるけど、もう感触としてはドキュメンタリーを見ている気がする。実際渥美清以外の現地の人々は素人を使っている。それが実に素晴らしいのである。

 大学の研究者がタンガニーカの奥地に研究に行くことになり、渥美清が先遣隊として建設会社から派遣される。学者たちが住むプレハブ住宅を作るためである。だけど現地にいるはずの学者は病気で不在。言葉も知らない渥美清が、一人で住宅作りを始めるけど…。村人に手伝いを求めると、村の仕事を手伝いたいのかと誤解され牛飼いに駆り出され…。だんだん村人が手伝いに来るが、のんびりした村人とはペースが違う。ついにトラブルになり渥美清は手を上げてしまい、村を追放される。

 渥美清は奥地の山でマウンテンゴリラを調べている日本人学者のところへ避難する。そこで見た厳しい自然、マウンテンゴリラの死体、一年に一度もゴリラに会わないような学者の日々。村の学校の先生に相談に行けというアドバイスに従うと、村の裁判が開かれる。アフリカの奥地でこそ、白人に支配された歴史から「非暴力」が村の掟になっている。そんな中でだんだん「異文化」を理解していく渥美清(が演じる建設労働者)が素晴らしい。ついに完成し、最後に村人の送迎の宴が開かれ「ブワナ・トシの歌」が歌われる…。これがまた素晴らしい内容で、感動的だ。

 こういう映画が1965年に作られていたということが素晴らしい。この映画を見るのは3回目なんだけど、2回目は割と最近で一昨年だった。渥美清没後20年という特集で見たので、今回はパスしようかとも思ったけど、何度見ても素晴らしい映画だった。ところどころで出てくる動物の素晴らしい映像は、後の羽仁進につながっていく。舞台になるのは、1964年にタンガニーカとザンジバルが連合したタンザニア。タンガニーカの独立を村で喜ぶシーンがあるが、1961年のことだから再現映像だと思う。

 続いて、1966年に「アンデスの花嫁」を作る。ベストテン6位。(この2本の映画は東宝系の東京映画が製作に参加している。)これは厳しい南米アンデス山脈に暮らすインディオの村に、左幸子が出掛けてゆく。日本人の「農業指導員」の「写真花嫁」として子連れで向かうというのである。いくら自分の妻とはいえ、こんなつらいシーンばかりさせていいのか…というような壮絶なシーンが多い。現地の女性と取っ組み合いをするシーンもあり、体当たり演技が素晴らしい。

 夫の福田は、どうも農業指導というよりも「インカ遺跡の発掘」をしているらしい。新婚の妻を置いて出かけることも多い。村ではタネがなく、アマゾン流域に入植した日系人集落に取りに行く。その役割が左幸子で、ペルーのあちこちを見て回りながら入植地に付く。そこで高橋幸治が村人を演じている。左と高橋だけがプロの俳優で、他は素人を使っている。これも非常に独特のドキュメンタリー・ドラマだけど、日系人中心の話なので、ただ一人現地のルールと格闘する「ブワナ・トシの歌」の方が今見ると面白い。だけど、映像や「女性映画」的な観点からすると、「アンデスの花嫁」も捨てがたい。

 両者ともに、今はあまり触れられないけど、日本人がまだ自由に海外旅行もできない時代に作った、時代に先がけた傑作だと思う。羽仁進の発想が国境などに関係なく、世界に羽ばたいている。世界の各地でロケされた映画は当時もたくさんあるけど、ヨーロッパやハワイなどを「観光」する映画が圧倒的に多い。「異文化」と格闘する映画は数少ない。フランスの映画祭で「ブワナ・トシの歌」を見た批評家は「二人の素人俳優が素晴らしい」と新聞に書いたという。渥美清を知らない人は「素人俳優」と思ったのである。羽仁映画では、国境だけでなく、俳優と素人の差も飛び越えている。
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