2024年は映画監督岡本喜八の生誕百年に当たる。それに合わせたように、集英社新書から前田啓介『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』が1月に刊行された。岡本喜八は『日本のいちばん長い日』や『肉弾』など、戦争を描く作品で知られる。この本は奇跡的に発見された日記を用いながら、戦時中の映画青年の肖像を描いている。映画監督としての人生を書くまでに、この本の半分以上が費やされる。映画監督に関する本だけど、むしろ「戦争に直面せざるを得なかった世代」の思いを伝える本と言ってもよい。映画を見てない人にも是非読んでみて欲しい本。
岡本喜八こと、本名岡本喜八郎は、1924年2月17日に鳥取県米子市に生まれた。(没年月日は2005年2月19日で、満81歳を迎えた直後だった。)僕の父親は1923年2月11日生まれなので、ほぼ一年違いだった。岡本喜八の祖父は大工だったが、父の代に雑貨商として成功した。母は隣の島根県安来市出身で、喜八の若い時に結核で亡くなった。米子商蚕学校(現・米子南高校)を卒業後、明治大学専門部商科に進学し、東京で映画や舞台に通う日々を送った。著者は関係者や様々な資料を当たり、当時の青春を再現している。1942年12月3日の午後に「神田松竹」で『ハワイ・マレー沖海戦』を見たが、ちょうど同じ日に後の作家山田風太郎も同じ映画館で見ていたという。そんな歴史上の「奇縁」を探し当てたのもすごいと思う。
(岡本喜八)
戦時中に書かれた日記は当時の若者の姿を生き生きと伝えている。幼い頃は漫画家になりたかった喜八は、やがて映画演出家を目指した。どの道、米英との戦争に突入した以上、恐らくは二十歳過ぎで死ぬことが避けられない。郷里に帰らず好きな道に進みたいと考え、1943年夏に東宝の入社試験を受けた。なかなか結果通知が来なかったが、やがて合格の知らせが届いた。つまり、岡本喜八は戦後入社ではなく、戦時中にすでに東宝に入って映画製作に関わっていた世代なのだ。その後、徴用されて中島飛行機武蔵野製作所(現武蔵野市)で空襲を受けた。この本は岡本喜八の回想に頼らず、現場を訪れ資料にあたるのが特徴だ。
武蔵野市にももちろん出掛けているが、さらにその後徴兵されて豊橋で受けた空襲の現場も訪れる。岡本喜八はその時の苛烈な体験を生涯に何度も語っている。だが、回想を鵜呑みにするのではなく、多くの人の回想や諸記録に当たって裏を取ろうとしている。そうすると岡本の回想とは違う現実も見えてくる。そういう記述が長いので、人によっては退屈かもしれないが、それあってこその探求的な伝記なのである。そして、僕も今まで全然知らなかったことを知ることが出来た。
それが第3章「早生まれ」に書かれている。当時は満年齢で20歳の男性に兵役の義務があった。そのため20歳になったら、男は「徴兵検査」を受けるわけだが、検査はもちろん毎日毎日単発的に行うのではない。学校と同じく、ある年代の国民をグループにして対象にするのである。だから多くの男がズラッと並んで検査を受けるというシーンに、映画や小説で何度も接した。僕はそれを当然学年単位の集団だと思い込んでいた。しかし兵役法では、1943年の徴兵検査の対象は「1942年12月1日から1943年11月30日に生まれた者」だったのである。従って、同じ学年でも「早生まれ」の岡本は1944年の検査を受けたのである。
このことは岡本喜八の人生に決定的な意味を持った。鳥取時代の同級生は半数近くが戦死したが、それは1943年の検査を受けた者だった。その世代はいよいよ南方が危うくなり、多くの若い兵士がフィリピンや沖縄に送られた。一方、1944年検査の世代は、いよいよ実戦に出るという時にはすでに輸送船がなく、今度は「本土決戦」だという時代になっていた。飢えに苦しみながら猛訓練を受けて、やがて上陸する米軍に「特攻」攻撃を行って戦死すると思っていたのである。しかし、いくら苦しくても「本土」にいたので(空襲はあったけれど)、生き残る確率が高かったのだ。
(『江分利満氏の優雅な生活』)
この本ではようやく東宝に戻るまでが長く、映画に関しては「戦中派の思い」に特化して分析している。どうしても「生き残った世代」の思いを消せない岡本だが、同時に楽しい映画を作ることにこだわった。いわゆる「社会派監督」にはならず、むしろ『ああ爆弾』や『殺人狂時代』などのカルト的犯罪映画が世界で人気だ。そんな岡本は日中戦争をパロディ的に描いた『独立愚連隊』(1959)、『独立愚連隊西へ』(1960)で注目された。そして1963年に山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の思いをぶちまけた。だけど僕はその映画に共感しつつも疑問も覚えた。受賞パーティー後に部下を連れ回し、主人公役の小林桂樹が大演説をぶつ。しかし、家まで連れて行かれて朝まで相手をさせられるって、パワハラ上司ではないか。
(『日本のいちばん長い日』』
『日本のいちばん長い日』(1967)はもともと小林正樹監督が担当する予定だったという。「事実」のみで構成されているようで、やはり脚色もあるらしい。また配役に関しては、阿南陸相の三船敏郎、米内海相の山村聡は、遺族からするとむしろ逆の方が似ていたらしいのも興味深い。この映画は主に国家最上層部を描いているので、その後自らの戦争体験をもとに『肉弾』(1969)をATGで作った。僕はこの映画が岡本監督のベストだと思う。この映画は戦争末期に「本土決戦」で特攻で死ぬと運命付けられていた青年(つまり自分自身)が、何のために死ねるのかを自問する過程を描いている。少女に巡り会って「死ねる」と思う描写など胸打つシーンが随所にある。
(『肉弾』)
ただ岡本映画には弱点もある。それはこの本の中で五木寛之の評に示されている。岡本は兵士の影の部分を描けないのである。僕が同時代に見た岡本作品にあまり熱中出来なかったのも、その点が大きい。登場人物を突き放して見る視点がない。あえて作らないのだろう。岡本世代(戦中派)は「戦前」を知らなかった。だから「日本でどうして反戦運動を起こせなかったか」という問題を考えること自体が出来ない。死ぬ意味を見つけられないのは、日本の侵略戦争だからだという発想がないわけである。
井上ひさし原作の映画化『青葉繁れる』(1974)を数年前に初めて見たのだが、これはジェンダー的観点から今では受け入れられない映画だなと思った。こういう風に、岡本作品には今になると再検討が必要なものが結構多いのではないか。しかし、「戦中派」とは何か、この本は映画というジャンルを超えて多くの問題点を提起している。映画を見てない人こそ読むべき本だろう。
岡本喜八こと、本名岡本喜八郎は、1924年2月17日に鳥取県米子市に生まれた。(没年月日は2005年2月19日で、満81歳を迎えた直後だった。)僕の父親は1923年2月11日生まれなので、ほぼ一年違いだった。岡本喜八の祖父は大工だったが、父の代に雑貨商として成功した。母は隣の島根県安来市出身で、喜八の若い時に結核で亡くなった。米子商蚕学校(現・米子南高校)を卒業後、明治大学専門部商科に進学し、東京で映画や舞台に通う日々を送った。著者は関係者や様々な資料を当たり、当時の青春を再現している。1942年12月3日の午後に「神田松竹」で『ハワイ・マレー沖海戦』を見たが、ちょうど同じ日に後の作家山田風太郎も同じ映画館で見ていたという。そんな歴史上の「奇縁」を探し当てたのもすごいと思う。
(岡本喜八)
戦時中に書かれた日記は当時の若者の姿を生き生きと伝えている。幼い頃は漫画家になりたかった喜八は、やがて映画演出家を目指した。どの道、米英との戦争に突入した以上、恐らくは二十歳過ぎで死ぬことが避けられない。郷里に帰らず好きな道に進みたいと考え、1943年夏に東宝の入社試験を受けた。なかなか結果通知が来なかったが、やがて合格の知らせが届いた。つまり、岡本喜八は戦後入社ではなく、戦時中にすでに東宝に入って映画製作に関わっていた世代なのだ。その後、徴用されて中島飛行機武蔵野製作所(現武蔵野市)で空襲を受けた。この本は岡本喜八の回想に頼らず、現場を訪れ資料にあたるのが特徴だ。
武蔵野市にももちろん出掛けているが、さらにその後徴兵されて豊橋で受けた空襲の現場も訪れる。岡本喜八はその時の苛烈な体験を生涯に何度も語っている。だが、回想を鵜呑みにするのではなく、多くの人の回想や諸記録に当たって裏を取ろうとしている。そうすると岡本の回想とは違う現実も見えてくる。そういう記述が長いので、人によっては退屈かもしれないが、それあってこその探求的な伝記なのである。そして、僕も今まで全然知らなかったことを知ることが出来た。
それが第3章「早生まれ」に書かれている。当時は満年齢で20歳の男性に兵役の義務があった。そのため20歳になったら、男は「徴兵検査」を受けるわけだが、検査はもちろん毎日毎日単発的に行うのではない。学校と同じく、ある年代の国民をグループにして対象にするのである。だから多くの男がズラッと並んで検査を受けるというシーンに、映画や小説で何度も接した。僕はそれを当然学年単位の集団だと思い込んでいた。しかし兵役法では、1943年の徴兵検査の対象は「1942年12月1日から1943年11月30日に生まれた者」だったのである。従って、同じ学年でも「早生まれ」の岡本は1944年の検査を受けたのである。
このことは岡本喜八の人生に決定的な意味を持った。鳥取時代の同級生は半数近くが戦死したが、それは1943年の検査を受けた者だった。その世代はいよいよ南方が危うくなり、多くの若い兵士がフィリピンや沖縄に送られた。一方、1944年検査の世代は、いよいよ実戦に出るという時にはすでに輸送船がなく、今度は「本土決戦」だという時代になっていた。飢えに苦しみながら猛訓練を受けて、やがて上陸する米軍に「特攻」攻撃を行って戦死すると思っていたのである。しかし、いくら苦しくても「本土」にいたので(空襲はあったけれど)、生き残る確率が高かったのだ。
(『江分利満氏の優雅な生活』)
この本ではようやく東宝に戻るまでが長く、映画に関しては「戦中派の思い」に特化して分析している。どうしても「生き残った世代」の思いを消せない岡本だが、同時に楽しい映画を作ることにこだわった。いわゆる「社会派監督」にはならず、むしろ『ああ爆弾』や『殺人狂時代』などのカルト的犯罪映画が世界で人気だ。そんな岡本は日中戦争をパロディ的に描いた『独立愚連隊』(1959)、『独立愚連隊西へ』(1960)で注目された。そして1963年に山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の思いをぶちまけた。だけど僕はその映画に共感しつつも疑問も覚えた。受賞パーティー後に部下を連れ回し、主人公役の小林桂樹が大演説をぶつ。しかし、家まで連れて行かれて朝まで相手をさせられるって、パワハラ上司ではないか。
(『日本のいちばん長い日』』
『日本のいちばん長い日』(1967)はもともと小林正樹監督が担当する予定だったという。「事実」のみで構成されているようで、やはり脚色もあるらしい。また配役に関しては、阿南陸相の三船敏郎、米内海相の山村聡は、遺族からするとむしろ逆の方が似ていたらしいのも興味深い。この映画は主に国家最上層部を描いているので、その後自らの戦争体験をもとに『肉弾』(1969)をATGで作った。僕はこの映画が岡本監督のベストだと思う。この映画は戦争末期に「本土決戦」で特攻で死ぬと運命付けられていた青年(つまり自分自身)が、何のために死ねるのかを自問する過程を描いている。少女に巡り会って「死ねる」と思う描写など胸打つシーンが随所にある。
(『肉弾』)
ただ岡本映画には弱点もある。それはこの本の中で五木寛之の評に示されている。岡本は兵士の影の部分を描けないのである。僕が同時代に見た岡本作品にあまり熱中出来なかったのも、その点が大きい。登場人物を突き放して見る視点がない。あえて作らないのだろう。岡本世代(戦中派)は「戦前」を知らなかった。だから「日本でどうして反戦運動を起こせなかったか」という問題を考えること自体が出来ない。死ぬ意味を見つけられないのは、日本の侵略戦争だからだという発想がないわけである。
井上ひさし原作の映画化『青葉繁れる』(1974)を数年前に初めて見たのだが、これはジェンダー的観点から今では受け入れられない映画だなと思った。こういう風に、岡本作品には今になると再検討が必要なものが結構多いのではないか。しかし、「戦中派」とは何か、この本は映画というジャンルを超えて多くの問題点を提起している。映画を見てない人こそ読むべき本だろう。