尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『シェフチェンコ詩集』を読むーウクライナの国民的詩人

2022年10月31日 22時43分33秒 | 〃 (外国文学)
 「ウクライナの国民的詩人」と呼ばれているタラス・シェフチェンコ(1814~1861)という詩人、画家がいる。生年を見れば判るように、2014年が生誕200年だった。春にアンドレイ・クルコフウクライナ日記』を読んだ時、シェフチェンコの生誕200年記念イベントがあちこちで開かれていたのが印象的だった。「シェフチェンコ200年」は、まさに2014年の「マイダン革命」、そしてロシアのクリミア奪取ドンバス侵攻と重なったのである。

 その本を読むまで名前も知らなかったけど、シェフチェンコとはどういう人なんだろう。検索すると、この人ではなくウクライナのサッカー選手が先に出て来るぐらい日本では未知の詩人である。しかし、岩波文庫10月新刊で『シェフチェンコ詩集』が出た。さっそく読んでみたのだが、この人は画家でもあった。編訳の藤井悦子氏の翻訳も非常に判りやすい名訳である。ウクライナの歴史、文化を知ることは、2020年現在とても重要なことだと思う。詩、特に外国の詩は日本ではあまり読まれないと思うけれど、やはり紹介しておきたい。こういう本が出たということぐらい知っておいた方が良いと思うから。

 ウクライナでは本当に重要な人らしく、100フリヴニャ紙幣の肖像にもなっている。全国に銅像があるようで、リビウにある銅像の前でロシア侵攻に抗議する人々の画像があった。ウクライナの歴史は非常に複雑で、ここでは細かく紹介出来ないけど、15世紀頃にはコサック(コザーク)と呼ばれる軍事的共同体がステップ草原各地に作られていた。当時はロシアよりポーランド・リトアニアやスウェーデンなどの方が有力な時代で、コサック国家もロシアと協力する道を選んだ。
 (リビウの銅像前)
 その結果ウクライナはロシアの属国化していくが、シェフチェンコはそういうウクライナの歴史に抗議する。自分もロシアの首都(当時)ペテルベルクで学ぶことになった。ウクライナに戻る時は「小ロシア」への旅行を許可すると書かれる。多くの人がそれを当然視して生きていた中で、シェフチェンコは「ウクライナ・ナショナリズム」をうたい上げたのである。また多くの絵画を通して、ウクライナの風景美を残した。農奴に生まれ、自由にならない境遇に憤り農奴解放を目指した。その結果、逮捕され皇帝夫妻を批判した詩稿が発見され10年の流刑を言い渡された。そうして彼の短い生涯の貴重な時間が奪われたのである。
 (シェフチェンコの絵)
 シェフチェンコ詩集は藤井悦子訳で、今までにも出ていた。今回は最後の詩集『三年』から今まで訳されていなかった10編を選んで新たに訳したものである。短いものもあるが、中には文庫本で40頁以上もある長詩もある。長い詩というのは読みにくいものだが、案外スラスラ読めてしまう。それは翻訳が良いこともあるし、劇的な世界に引き込まれることもある。

 冒頭に置かれた「暴かれた墳墓(モヒラ)」だけ少し紹介しておきたい。
 静けさにみちた世界 愛するふるさと
 わたしのウクライナよ
 母よ あなたはなぜ
 破壊され、滅びゆくのか。
 朝まだき 太陽の昇らぬうちに
 神に祈りを捧げなかったのか。
 聞きわけのない子どもたちに
 きまりごとを教えなかったのか。
 「祈りました。こころを砕いてきました。
 昼も夜も眠らず
 幼子たちを見守り、
 きまりごとを教えました。
 一度(ひとたび)はわたしも
 この広い世界に君臨したのです…
 それなのに、ああ、ボフダンよ!
 愚かな息子よ!
 さあ、お前の母を、
 おまえのウクライナを見るがいい。

 これは全体の3分の1ぐらいで、短い方の詩である。「墳墓(モヒラ)」はウクライナのステップに存在する古代の墳墓。ボフダンは17世紀にロシアと協力したコサックの指導者だと注がある。詳細な注と解説があって、全部読むのは大変だけど、ウクライナ文化を知るためには重要な本だと思う。本体価格780円だから、それほど高くはないのも良い。
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人形とお城の町ー岩槻(さいたま市)散歩

2022年10月30日 23時03分31秒 | 東京関東散歩
 岩槻(いわつき)を散歩した。2005年に合併して、埼玉県さいたま市岩槻区になっている。しかし、江戸時代を通して岩槻藩があり、今も城下町の面影が色濃い町だった。また昔から「人形作り」で知られ、全国的に「人形のまち」として知られている。町のあちこちに、今も多数の人形製作会社があって看板を上げている。2020年2月には「岩槻人形博物館」が開館したのだが、すぐにコロナで休館になってしまった。その時以来、2年半ぶりにようやく散歩に出掛けられた。

 鉄道利用の場合、東武鉄道野田線(アーバンパークライン)しかない。大宮と春日部の間である。春日部から快速で5分ほどで着いたので驚いた。史跡があるのは東口の方である。改札を出た真ん前に観光案内所があって、ガイドマップが置いてある。まずこれを確保するべき。最初にどこへ行こうかなと思って、駅から東方向の城跡公園は遠いので、そっちに行った後では南の郷土資料館へ行く気が失せそうに感じた。そこで郷土資料館の方へ行く時に、ちょっと裏道を歩いていたら大きなお寺が見えた。芳林寺というが、何と戦国時代の太田氏ゆかりの寺で太田道灌の銅像があるじゃないか。案内やガイドに全然出てないんですけど。
  (太田道灌像)(芳林寺)
 何でも戦国時代創建の寺で、太田道灌の孫に当たる太田資高が母の供養のため、名前を芳林寺と改め現在地に移転したという。そのゆかりで太田家の墓所がある。また岩槻藩初代の高力(こうりき)家2代目高力正長の墓所もある。関ヶ原以前に死去した人である。なお最初の埼玉県庁が一時ここに置かれたという碑もあった。ウェブ情報では確認出来ないのだが、とにかく碑はあった。太田道灌の銅像はあちこちにあるようだが、駅に近いし、ここも知られて良いところだ。
(太田家墓所)(高力墓所)(最初の県庁碑)(芳林寺由来)
 芳林寺から少し歩いて大きな通り(市宿通り、日光御成道)に出て、少し南へ歩くと「岩槻郷土資料館」がある。ここは1930年建造の岩槻警察署で、国の登録文化財。無料施設だから入ってもいいし、まあ外観だけ写真を撮れば良いとも言えるかな。この通りには、所々古そうなお店がある。道は現代的で車が引っ切りなしなので、宿場町というほどの風情はないけれど。(岩槻は中山道と日光街道を結ぶ日光御成道の宿場で、将軍一行が宿泊する宿場だった。)
(郷土資料館)  
 市宿通りを北へ向かい、駅前から直進してきた大通りを渡る。少し裏へ入って裏小路へ入ると、大分昔の城下町っぽくなる。道の名も広小路、江戸小路、天神小路など「小路」という名前になっている。そんな中に「岩槻藩遷喬(せんきょう)館」がある。岩槻藩に使えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が1799年に開いた私塾だが、後に藩校となった。藩校になったのは文化2年から8年の間(1805~11年)頃だという。明治以後住宅になって、一部改築されたらしいが、建物の基本は残っていた。1956年に岩槻市に寄贈され、修復が行われて公開された。中へ上がれて、修復の様子が写真展示されている。無料。
   
 儒者児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」と言われたという「時の鐘」が次の目標。人形博物館は帰りに寄ることにして、遷喬館から裏小路を歩いて行く。1671年に最初に置かれて、その後1720年に改鋳された。鐘はそれがずっと使われているようで、今も朝と正午に鳴らしているという。鐘楼は江戸時代後期(天保年間)に焼失し、その後再建された。中は見られない。
  
 そこから歩いて行くと実はもう昔の城の中で、今は案内板しか残っていない。下の1枚目は大手門跡とある。網の向こうは何だろうと思うと、大回りしたあげく霊友会の敷地だった。近くの信号を右折すると「岩槻城跡公園」、左折すると「久伊豆神社」。「クイズ神社」と読んで人気があるが今回はパス。城にはもともと石垣や天守閣はなく、関東には多い土塁の城。
(大手門跡)(堀跡)
 今も残っているのは、黒門(下1枚目)と裏門(下2枚目)。その間に「人形塚」が立っている。岩槻城は江戸近くだから、比較的小さい譜代大名の居城だった。転封が多く、歴代で9家もある。中では3代阿部家が11万5千石だった時が最高。1756年に大岡忠光が城主となってからは、幕末まで大岡家が治めた。大岡忠光は9代将軍家重に仕えて、言語不明瞭だった家重の言葉をただ一人聞き取れたという人物である。その「功績」で旗本から大名に出世したわけである。しかし、幕末まで安定して支配出来たんだから、まあ悪くはなかったんだろう。公園はかなり広いが、今は市民の憩いの場となっている。
   
 一番奥に池があり、途中で何回も曲がっている赤い橋が架かっていた。そこから少し行くと、東武鉄道の昔の特急(ロマンスカーと呼んでいた)「きぬ」が保存されていた。休日は中を見られると書いてあった。
   
 そこから戻って、人形博物館へ。人形に特に関心があるわけではないから、作り方の展示などを通り過ぎるように見てオシマイ。疲れてきたから、修学旅行の生徒みたいである。岩槻はひな人形、五月人形などを今も作っている会社がいっぱいあった。いちいち写真は撮らなかったけど、その風情が面白いなと思う。でも個人で買うという感じの店ではない。
 (人形博物館)
 それから駅へ戻る途中で、駅近くの大工町通りに入り、愛宕神社を見る。神社が目的ではなく、そこがお城の土塁の上にあるんだという。その様子が残されているのが珍しいんだそうだ。
   
 その他、町のあちこちに登録文化財があるんだけど、まあ全部載せてもという感じ。藩校の近くに「鈴木酒造」というのがあって、資料館があると出ていた。帰りに寄ろうかと思ったが、行きそびれた。他にも人形を見せるところもあるし、本当は春に来た方がいいのではないかと思う。案外コンパクトにまとまっていて、半日ほどの歴史散歩には向いた町だった。
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給付金遅れは「マイナカード」が原因ではないーマイナ保険証問題③

2022年10月29日 22時32分42秒 | 政治
 マイナ保険証問題3回目。今回の河野デジタル相の方針は、そもそも岸田首相の指示によるという。首相には「マイナンバーカードが普及していないために、国民給付金の給付が遅れた」という思いがあるらしい。2020年のコロナ発生当時、岸田氏は自民党政調会長を務めていた。給付金という構想が出て来た時には、ずいぶん迷走したことは記憶に新しい。岸田氏は当初、所得制限を設ける制度を考えたが、結局「全ての国民に(所得を問わずに)給付する」ということになった。その経緯はともかくとして、岸田氏は「デジタル化の遅れ」を感じたというのである。しかし、その認識は間違っている。
(デジタル化を進める岸田首相)
 その問題を書く前に、マイナンバーカードに関する根本的な問題を書いておきたい。マイナンバー、つまり「個人識別番号」はすでに全国民に割り振られている。納税年金手続きなどには番号を書く必要がある。有価証券の取引にも必要である。そのため、年金事務所に別個に所得を届けなくても、向こうの方で事務処理出来るようになっている。つまり、「マイナンバー」は国民がカードを持つ必要はなく、すでに行政が実用化している。これ以上、国民の個人情報を収集する必要はないだろう。

 ところで、マイナンバーカードの説明を見ると、「全ての国民の方が、1人に1枚のマイナンバーカードを作成できます」とある。だから、子ども分にもポイントが付くと大宣伝している。保険証に利用されるとなると幼児でも作らざるを得なくなる。そのカードは「プラスチック製のICチップ付きカードで券面に氏名、住所、生年月日、性別、マイナンバーと本人の顔写真等が表示されます」と出ている。すなわち、まさにこれは「個人カード」ということになる。

 2020年の国民給付金では、当初「マイナカードでも受け付ける」と大宣伝した。そして地方自治体にはパスワードを忘れたなどの問い合わせが殺到した。そして最初のうちはマイナカードの申請がいっぱいあったが、自治体が対応出来なくなってマイナカードの申請を取り止めたということが多かった。それは何故だろうか。先の給付金は最後になって「世帯ごと」の給付になった。カードだけでは、配偶者や子どもがいるかどうかは判らないから、自治体がいちいちマイナカードによる申請を確認しなければならない。いったん誤支給してしまった後では、山口県で起こったケースのように揉めることがある。

 この問題は以前に書いたが、相変わらず理解していない政治家がいるようなのは何故だろう。マイナカードを幼児にも持たせようとしているが、それなら新生児も銀行口座を作らないといけないのか。マイナカードによる申請を求めるなら、個人情報しかないのだから、子どものカードで申請し子どもの口座に振り込むしか方法はない。これはムチャだろう。未成年のカードは不要なのである。親の口座に振り込むんだったら、子どもの情報は親権者のカードに紐付けるしかない。

 マイナカードは個人カードである。それなのに何故「世帯ごと支給」になったのか。それは「家族制度」ということだろう。別に旧統一教会の影響というわけではない。もともと日本の保守派は戦前の「天皇制絶対主義」を清算出来ていない。戦前の体制では、天皇が父、皇后が母、「臣民」は陛下の赤子という「家族国家」思想によって国民を統合しようとした。国民の中には「家制度」があって、「イエ」を中心にして国家が成り立っていたのである。家制度は現行憲法でなくなったはずが、国民の中には今も名残がある。「個人」を主張すると、「間違った個人主義」などと批判する政治家がいるのだ。

 そういう日本で、「個人」ですべてを把握しようという「マイナンバーカード」を普及させようとする。この矛盾に自分で気付かないのだろうか。「戸籍カード」なんてものを各家族ごとに作成することは不可能だ。そんなものは要らない。諸外国で「給付金が早かった」事例は多いようだ。それはカードがあるからではない。「個人識別番号」はすでにあるんだから、これは納税者番号と同じだから、番号と口座を登録すればカードなんかなくてもすぐに給付出来るのである。カードリーダーもパスワードも不要。郵便で口座情報をやり取りして給付出来るんだから。ネットショッピングを思い出せば、そんな面倒なカードは使わない。

 ところで、別問題だが「マイナンバー」という呼び方はもう止めて欲しいなと思う。他人が「マイナンバー」という時、それはその人のパーソナルナンバーを指すはずである。こちらの個人番号は相手からすれば「ユア・ナンバー」だろう。行政が街角でカードを作れとやってるけど、それは「あなたもカードを作りましょう」という意味だから、「ユアナンバーカード」と呼ばないと誤解される。パーソナルナンバー、それより個人番号で良いではないか。
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便利な行政、不便な行政ーマイナ保険証問題②

2022年10月28日 23時03分20秒 | 政治
 マイナ保険証問題2回目。実際に本日は一家で誰も保険証を使わなかった。そこで僕は先週に続いて散歩に出掛けたのだが、それはもう少し後に書きたい。今日は電車に乗る前に最寄り駅近くの自販機で、缶コーヒーを買った。今では小さな缶も130円するが、近くに安く売ってる自販機があるのを僕は知っている。中身は同じBOSSのブラックなのに、そこでは100円である。しかも、小銭だけでなく、千円札でも買えるし、交通系ICカードも使える。こういうのを「便利」だなと僕は思う。

 自販機がこんなに乱立しているのは、電気を消費していて環境的によろしくないかもしれない。そうも思うけど、東京の夏はあまりにも高温多湿で、それが秋から冬に変わると、今度はカラカラに乾燥して風も強い。いっぱいあっても利用者がいなければ撤去されるはずだ。これだけあるのは、利用者がいてペイしてるに違いない。近くにスーパーやコンビニもあるが、そういう店の方が電気使用量も多いはず。他にも買うなら別だが、缶飲料だけなら自販機の方が便利だ。何を言いたいかというと、買う場所も、買う方法も「選択肢」が用意されているのが「便利」だなと思う理由なのである。
(「便利」を強調する河野大臣)
 河野デジタル相は就任以来、ずっと「便利な行政にする」と言っている。「デジタル化」によって、不便になることもある。何が便利で、何が不便かは人によっても違うだろうが、簡単に一般化して言えば、選択肢が多い方が便利で、選択肢が少なくなると不便だというのが常識的な考え方だろう。映画館で考えてみれば、昔は指定席は少なくて、普通は当日券を買って自由に席に座った。入れ替えはなくて、何回見ても良かったのは、ヒマがある学生には大変良かった。しかし、行ってみると満員で座れず入れないこともあったから、誰かと見たい時は困ってしまうこともあった。

 最近はスマホやパソコンから事前に席を確保出来る映画館が増えた。後ろで見たい、前でみたいなど席の好みもあるし、ヒット作の座席を事前に確保出来るのは便利だ。大手シネコンの場合、空席があれば当日でも映画館で買える。だから事前予約出来るのは、選択肢が増えていいと思う。だけど中には満席でもないのに、当日券を買えないケースがある。何でも東京国立博物館の「国宝展」がそうだというし、東京フィルメックスという映画祭もそうだ。国立映画アーカイブもつい先頃までそうだった。(今は一部の席を当日売っているようだが、席の選択が出来ない。)そうなると選択肢が減って不便な感じがする。

 では「マイナ保険証」の場合はどうなるだろうか。まず「マイナンバーカード」の申請である。インターネット(パソコン、スマホ:)、証明写真機、または郵送である。その際、交付申請書写真がいる。自動車免許は交付時にその場で撮るけど、マイナカードは自分で撮るわけである。しかし、まあここまでは良い。

 問題は引き取り時。指定された日時に、原則として本人が取りに行く。15歳未満の子どもの場合、法定代理人(親権者)と本人が同行する必要がある。そして、その際、「4桁の数字」と「英数字を混ぜた6〜16文字」の2種類のパスワードを設定する必要がある。そして受け取るには、本人確認書類を示す必要がある。

 これが今問題になっているわけだが、本人確認のために運転免許証やパスポートがいるのである。子どもはマイナカードが5年(作った時期から5回目の誕生日まで)なので、マイナ保険証一本になった場合、0歳、5歳、10歳の時に親が仕事を休んで付きそう必要がある。そして運転免許証はないのだから、パスポートや障害者手帳などがある場合を除き、他の書類がいる。

 その場合、保険証、年金手帳、学生証などが2種類必要になる。生徒手帳はあるだろうが、年金手帳は子どもにはない。そして、紙の保険証もなくしてしまうと、子どもは何によって本人確認をするのだろうか。もちろん、運転免許、パスポートを持ってない大人も同様である。今まで保険証で本人確認してカードを引き取れたのに、保険証とマイナカードが一体化すると、マイナカードの引き取り、再発行の際に混乱するのは必至だろう。(まあ、よく考えて見れば、2回目以降の更新時はそれまでのマイナカードで本人確認することになるんだろう。)

 さて。カードは引き取った。それだけではダメである。マイナンバーカード読み取り機能があるスマホ、またはパソコンとカードリーダーを用意し、マイナポータルサイトに接続する。その際、先のパスワードを間違いなく打ち込まないといけない。そして、まあうまく行ったとして、いろいろと進んで行って、保険証利用登録を申し込むのである。書くのが面倒になってきたから止めるが、詳しくは「マイナポータルサイト」を見てくれと言うしかない。

 便利になることも何かあるんだろう。でも年金生活者、今後正規に就職するとも、仕事や住所を転々とするとも思えない人には、これは「不便になったな」と思う。自分はデジタル・ネイティブ世代ではない。仕事に必要だと言われて何とかしてきたし、確かに便利な点はある。僕もネットで前売りを買って映画に行くことが多いけど、それだけになってしまうと不便だと思う。選択肢がないのが嫌なのである。一体どこの独裁国のマネをしたいのか、全く不便な世の中になったと慨嘆する次第。
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病院には誰が行くか、政治は誰のものかーマイナ保険証問題①

2022年10月27日 22時22分24秒 | 政治
 10月12日に『「マイナ保険証義務化」に断固反対する!ー国民皆保険制度を守れ』を書いた。今までにも似たようなことを書いているけど、この問題に関しては本気で怒っているので、改めてまとめて書きたいと思う。論点が幾つかあるので、3回になる予定。

 まず一応政府も「マイナ保険証がなくても保険診療が受けられるように新制度を作る」と言っている。では、それで良いではないかと思うかもしれないが、そうではない。その新制度はどんなものか、これから考えるそうである。それがおかしい。一番影響を受ける人のことを考えないで、何のためにやるのか全く理解出来ない。現在すでに「マイナ保険証」というものがある。それを止めろとまでは言わない。今まで通り紙の保険証を発行して併用すれば良い。何の問題があるのだろうか。
(新制度を用意という政府)
 まず、誰が保険証を利用するのかという問題を考える。もちろん国民全員が利用するわけだ。時々風邪ぐらいひくし、病気というんじゃないけど歯医者に行くこともある。もしかすると明日にも体調不良で病院に行くかもしれないし、その前に今日これから階段を踏み外して救急車を呼ぶ事態もありうる。可能性としては、誰もがいつ利用するか判らない。しかし、恐らく自分自身は明日は使わない。明日病院に行く予定はないし、可能性として明日事故に巻き込まれる確率は低い。

 だからある年代の人は、保険証をそう何回も使わないのである。僕は一年に一度も保険証を使わない年が結構あった。自慢するわけではない。病気にならないのは良いことだが、ホントは1年に2回ぐらい歯医者で見て貰う方がよい。教師には長期休暇があるから、行けないはずはなかった。でも歯医者が嫌いで、怖いから避けたのである。せっかく高い保険料払ってたんだから、行っておけば良かった。今マイナ保険証が出来たけど、病院で実際に使う人は少ないと言われている。それは多分、マイナカードがあって保険証を使えるように出来る人は、壮年で多忙かつ健康で「病院に行かない人」だからだと思う。

 じゃあ、「病院へ行く人」とは誰か。ミクロ的には皆が行くが、マクロ的に見てみれば「後期高齢者」(75歳以上)、子ども(特に乳幼児)、そして壮年世代でも重度の障害(身体、精神、知的、及び難病)を持つ人である。「れいわ新選組」から参議院に当選した船後靖彦、天畠大輔議員などを思い浮かべれば、自分でマイナカードを作って取りに行き、自分でマイナ保険証を使えるように出来るはずがない。「誰か」(介助者や行政当局など)にやって貰う必要があるが、その時にパスワードを教える必要がある。今挙げた類型の「高齢者」「子ども」「障害者」という、もっとも医療サービスを利用する人々が困ってしまうのである。

 まあ、高齢者に関しては、80代、90代になっても元気で歩き回っている人も結構いる。中にはパソコンやスマホを駆使している人もいるから、人様々である。しかし、確実に高齢になればなるほど、病気になる人は増える。認知能力の衰えも生じてくる。だから「保険証をなくす」のである。捨てたはずはない。どこかにあるんだろうが、すぐに見つからない。これは保険証をいい加減に扱っているわけではない。大事なものだから大切にしまっておかなくてはと思って、二重三重に「秘匿」してしまって、自分でもどこに置いたか忘れてしまうのである。これは自分の家で日々起こっていることである。

 今のところ、90代半ばの母親は大きな病気もせず介護保険も利用せずに済んでいる。でも時々は歯医者に行きたい(入れ歯が不調)とかワクチンを打ちに行くということがある。探しても保険証が見つからない。そういうことがあるのである。では、そういう場合どうすれば良いのか。知ってる人はいるだろうか。僕は知っているのだが、「役所」(僕の場合は徒歩2分の区民事務所)に、「家族」が出掛けて申請すれば、「即日」で再発行出来るのである。実際にやったんだから間違いない。(手数料は必要。)

 河野デジタル相は「マイナカード再発行を一週間で出来るようにする」など言っている。一週間? 保険証がないからと一週間ガマンしてたら、重病だったら死んでしまう。すぐに病院に連れて行くべき時に、こんなバカな話があるのか。紙の保険証がいかに便利かという、一つの証拠である。この「紙の保険証廃止」という愚策は、家族に高齢者や障害者がいる人なら絶対にやらない

 ここで判ることは、政治はそういう人を置き去りにしていることである。政治は何のためにあるのか。困ってる人は見捨てるのか。例外的にマイナ保険証がなくても対応出来るようにすると言ってるけど、それがどんなものになったとしても、「お前たちは例外なんだぞ」と国家が認定するということなのである。障害者にはならないかもしれないが、今後多くの人は80代、90代、時には100歳以上を迎える。10年に一度は更新しないといけないマイナカード。何歳になっても、マイナ保険証なんてものが必要なのか。昔は紙の保険証を送ってきてくれたもんだけど、と後世の人を嘆かせないようにしなければいけない。
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習近平終身体制の確立ー中国共産党第20回大会を考える

2022年10月26日 22時22分22秒 |  〃  (国際問題)
 中国共産党第20回党大会が終了し、新指導部が決定した。日本のマスコミは習近平が中央委員会総書記に選出されたことを「異例の3期目」と書いているが、それは前から判っていたことだ。真に異例なのは、党中央から習近平に近い人以外がいなくなったことである。胡錦濤前総書記が党大会閉幕式を途中退席した様子が報道され世界を驚かせたが、「公式」には「体調不良」になるのだろうが、ベースには明らかに新人事への不満があるに違いない。
(退席する胡錦濤前総書記)
 中国共産党には「不文律」として「68歳以上は退任する」というものがあるとされる。不文律だから公表されたものではないが、それに従うとすれば、1953年6月15日生まれで現在69歳の習近平総書記は退任するはずである。しかし、それはまあ、もうなし崩しになっていた。一方で、現在67歳の李克強首相は憲法の規定で首相は2期だから、来年の全人代で首相は退任することになる。しかし、党人事では政治局常務委員に止まり、全人代常務委員長に就任するのではないかとの観測が強かった。

 しかし、香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストが李克強首相は完全に引退すると18日に報道した。また20日には首相の後任に李強上海市共産党委員会書記が有力と報じた。どうやらそれが当たっていたのである。新人事が発表されたら、一時は上海のコロナ封鎖問題で失脚寸前とも言われた李強がナンバー2になっていたから、恐らく来春に李強が首相に就任すると思われる。

 それとともに、非常に驚かされたのは、胡春華副首相が常務委員に昇格するどころか、政治局員にも選出されず、これこそ異例の降格になったことである。胡春華は胡錦濤に重用された「団派」のホープだった。中国共産党青年団は胡耀邦、胡錦濤、李克強が第一書記を務めて、党中央リーダーへのエリートコースとされてきた。胡春華も2006年から08年にかけて第一書記を務めて、次代のホープと呼ばれちょっと前まで首相の有力候補とされていた。政治局員は25名から24名に削減されているから、まさに胡春華が最終段階で消されたと想像出来る。

 新指導部発表翌日の人民日報は、習近平ばかりが異様に大きな写真で報じられた。同紙は「偉大な事業には人々の期待を集める領袖(りょうしゅう)が必ずいる」と書いているそうだ。「偉大な領袖」とまで呼ばれていないが、もはや誰も並ぶものなき「領袖」の位置に習近平は存在する。他の6人は3面で紹介されたという。一応名前を挙げておくと、李強趙楽際王滬寧蔡奇丁薛祥李希で、僕はコアなチャイナ・ウォッチャーじゃないから、李強以外は名前も知らない。丁薛祥(てい・せつしょう)は現在60歳で、唯一次回党大会時に「引退年齢」ではない。上海出身の技術者で、習近平が上海書記時代に秘書長として支えていた。今後副首相に就くとされるが、地方幹部を経験していないので、総書記の後任候補にはならない。
(新指導部を伝える人民日報)
 この布陣を見る限り、習近平は4期目もやるつもりである。というか、永遠にやるのではないか。終身体制が確立したと思わざるを得ない。それがどのようなものになるかは判らない。党大会がなくなってしまうということまではないだろう。5年後にあるだろうし、そこで習近平が総書記に選出されるのではないか。5年後もまだ74歳で、バイデン(11月20日で80歳)、トランプ(76歳)、インドのモディ首相(72歳)、プーチン(70歳)などと比べても、この難局を率いるのはとても無理だなどとは言えない。しかし、そういう問題ではなく、もしかしたらどこかで総書記、国家主席を退くかもしれないけれど、党中央軍事委員会主席は退かないと思う。鄧小平と同じ道を歩むのである。それがはっきりしたと思う。
(新指導部)
 冷戦終了後、フランシス・フクヤマが「歴史の終焉」と考えたのは、経済成長に伴い中間層が力を付け、世界中どこの国でも自由民主主義体制になると見込んだからだ。しかし、ロシアや中国の現状はその見通しが全くの誤りだったことを明確にした。その文明史的意義はまだ完全には判らないが、この問題は非常に重大である。一般的に言えば、内部から「外様」を完全に排除した組織は腐敗するだろう。安倍政権末期に「公私混同」が目立つようになったことを思えば想像出来る。プーチン政権の場合は露骨な帝国主義的侵略戦争を始めてしまった。そうなると、習近平政権が今後どのような路線を取るのか、十分な注意が必要だ。

 中国共産党は「経済成長」を成し遂げることで、一応国民の消極的承認を取り付けてきたと考えられる。そのため、本格的な「台湾解放」(侵攻作戦)を始めるのは非常に大きなリスクを負うだろう。西側諸国からは経済制裁を科され、大きな経済的影響を受けるに違いない。また、小泉悠ウクライナ戦争200日』(文春新書)が指摘しているが、ロシアも中国も少子化が進行している。特に中国で軍事的、政治的に実務の中心となるのは、ほぼ「一人っ子政策」の世代と考えられる。「台湾解放」とはただミサイルをぶち込んで終わる問題ではない。台湾省政府を機能させるまで、軍人だけでなく文官の大規模な動員が必要になる。「一人っ子」が1万人死ぬことに今の中国が耐えられるだろうか。その意味でも習近平はウクライナの今後をじっくりと見つめているだろう。
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銀山温泉と乳頭温泉郷ー日本の温泉㉒

2022年10月25日 22時46分21秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本の温泉シリーズ。前回蔦温泉を書いた時に、アントニオ猪木がそこに墓を作っているという話を書いた。その直後に訃報を聞いたのには驚いた。ところで前回以来、東北の温泉を何となく思い出してしまって、続けて東北から選びたい。もっとも出来るだけ知られざる名湯を書きたい志で始めたが、今回は「超有名秘湯」である。矛盾した言葉だが、最近はそういうのがある。ホントの秘湯はガイドブックにも載ってない宿で、案外素晴らしかったり、ガッカリするほどボロかったりする。ウェブで予約出来れば、もう秘湯を越えてる感じがするが、「有名秘湯」は値段も高くなっているのが困るところだ。

 さて、山形県の銀山温泉と秋田県の乳頭温泉郷を書こうと思うんだけど、温泉好きなら誰でも知っている名前だろう。まだ行ったことはなくても、一度は行きたいと思ってる。そんなところである。東北でも奥の方になるから、なかなか行きにくい。今は大手のツァーでも行けると思うけど、昔はそこも「秘湯」だったのである。銀山温泉は「おしん」で一躍全国に知られるまでは、あまり有名な温泉ではなかった。何しろ銀山川に沿う温泉街がレトロ感あふれる素晴らしさで、よく「大正ロマン」とか言われる。実際に大正から昭和前期に建てられた宿が残っている。それは以下の写真でもよく判るだろう。
(銀山温泉)
 山形県東北部にあって、尾花沢市から道がある。ここも20年ぐらい前に夏にドライブした温泉地だが、「尾花沢スイカ」が名産で道の駅に並んでいたのが思い出。もう一つ、大相撲の元関脇琴ノ若の出身地で、巨大な肖像写真が街道沿いに立っていて驚かされた。今の佐渡ヶ嶽親方で、最近は息子の琴ノ若が活躍してるんだから時の流れは早いものだ。ここは泉質にそんなに特徴があるわけではなく、温泉街を楽しむ場所だろう。夏から秋に宿泊して、ブラブラ歩いて夕涼みを楽しむ。そんな温泉としては長野県の渋温泉と双璧だと思う。温泉街として一度は行きたい魅力がある。(なお、ここのある宿にアメリカ人の女将がいて、良くマスコミにも取り上げられていた。今回Wikipediaを見たら、離婚してアメリカに帰ったと出ていて驚き。)

 一方、秋田県の乳頭温泉郷は、泉質の異なる6つの湯、休暇村乳頭温泉郷を入れると7つの宿があり、全国でも最も知られた「秘湯」だろう。特に乳白色の「鶴の湯」の露天風呂は、雑誌やテレビの温泉特集で必ず大きく取り上げられる。もういつも満員で、予約を取るにも大変な宿。何ヶ月か前に電話する必要があるが、案外直前キャンセルがあるもので諦めずにチャレンジする方がいい。(秘湯の会のサイトで予約出来ることになってるけど、ほぼ無理だろう。)僕が行ったのは21世紀初頭のことで、よく取れたなと思う。小さな部屋だったけど、食事は美味しかったし、湯は素晴らしかったから満足。
(鶴の湯)
 僕は2年連続して、ここへ行った。それは秋田駒ヶ岳に登りたかったからで、1年目は雨で登れなかったのである。それは山の話で書いたが、秋田駒は素晴らしかった。一年では入りきれない温泉があったし、また行こうと思わせる魅力も大きかった。田沢湖など近隣のドライブも楽しいが、何と言っても湯めぐりである。宿泊者向けに湯巡り手形を売っていて、それを買って歩き回るわけである。何人もゾロゾロ歩いているが、温泉郷は広い。鶴の湯だけ離れているが、後は歩いて回れる範囲である。特に黒湯が知られている。泉質は様々で、蟹場(がにば)も素晴らしいと思う。
(黒湯)
 妙の湯は女性客向けにオシャレ系戦略で売ってる秘湯。ここには2泊しているが、気持ちよいところだった。金の湯、銀の湯があり、泉質が素晴らしい。最近かなり知られていて、人気も高いようだ。
(妙の湯)
 でも僕のオススメは、休暇村に連泊して楽しむというものである。休暇村も独自源泉で、しかも大浴場と露天風呂で違う泉質である。全国各地にあるが、安心して泊まれる。収容人数が多いから循環湯が多いのだが、ここや日光湯元など掛け流しの宿もあるのである。食事も美味しく、子ども向け施設も多いから家族連れには良い。また恋人と行くなんて時に、黒湯や孫六に連れて行くと、ディープ秘湯に引かれてしまうかもしれない。休暇村ならそこは安心で、こういう宿も無いと困るのである。
 (休暇村乳頭温泉郷)
 また行きたくなって来たなあというところで終わり。繰り返しになるが、乳頭温泉郷は「歩いて湯巡りする」ことに意味があるところである。一人じゃ詰まらない。誰でも良いから、一緒に回ると楽しいなあと思うところだ。それは銀山温泉も同じ。
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荻上直子監督『川っぺりムコリッタ』、不思議な魅力

2022年10月24日 22時30分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 荻上直子(おぎがみ・なおこ)監督の『川っぺりムコリッタ』という映画をやっている。ホントは去年公開の予定が、コロナ禍で今年に延期されていた。題名が判らんと思って見るのが遅れたが、これがなかなか不思議な魅力で面白かった。僕はこの監督の映画が苦手で、2017年の前作『彼らが本気で編むときは、』をうっかり見逃してしまった。フィンランドで撮影した『かもめ食堂』(2006)はヒットしたけれど、あの映画もところどころ不気味な描写があって「癒し映画」なんて思えなかった。

 『川っぺりムコリッタ』も何だか変なところは多いんだけど、全体としてはなかなか気持ちよく作られている。冒頭で山田(松山ケンイチ)という男が水産工場にやってくる。そこで雇われるのだが、社長が「更生出来るから」と言っている。どうやら前科者で、住まいも会社があっせんした「ハイツムコリッタ」というところが用意されている。大家の南(満島ひかり)に会うと、聞いていると鍵を渡される。平屋建ての長屋みたいな部屋で一風呂浴びていると、隣室の住人島田(ムロツヨシ)がお風呂貸してとやってくる。それから毎日のように「ご飯ってね、ひとりで食べるより誰かと食べたほうが美味しいのよ」と言って押しかけてきて、一緒にご飯を食べることになってしまう。
(山田と島田は一緒にご飯を食べる)
 このムロツヨシの強引さが魅力で、何だか判らないながら段々なじんでくる。会社ではイカをさばいているが、結構大変そう。それでも次第になじんできたある日、家に役所からの通知が届いた。小さいときに出ていった父親が死んで発見されたという。どうでも良いと思ったが、隣室の島田がお骨は大事と言うから、ある日市役所に骨を取りに行った。部屋には同じような身元不明の遺骨がたくさん並んでいた。そして部屋に遺骨を置いておくけど、どうしたら良いのか。一方、島田の作る家庭菜園に協力したり、大家の南さんの事情、向かいに住む墓石売りの溝口(吉岡秀隆)、南や溝口の子どもたちなど、少しずつ人間関係も出来てきたのだが…。
(皆ですき焼きを囲む)
 登場人物はみんな過去に大きなドラマがあるが、それは現時点では描かれない。映画内ではシチュエーションだけで、過去を持つ人々が何となく仲良くなっていく様子を見つめている。不思議な出来事がいっぱいあって、どう理解していいのかというシーンもあるけど、人間は何となく仲良くなっていけるんだなあと思える。会社でも重労働ながら、時々イカの塩辛を貰ってきて、島田と一緒に食べている。山田の過去は説明されず、「母親はクズだったし、父親も野垂れ死にだし。ろくでもないのってうつるのかなって」と思っている山田も、最後に皆で父の葬儀をしている。見ていて不思議に心が和むのである。ま、いろいろあっても、トマトやキュウリは美味しいよなあと思える映画。「食べること」と「生きること」、そして「死ぬこと」について感じる映画。
(荻上直子監督)
 ムコリッタというのは、仏教用語で漢字で書けば「牟呼栗多」になるという。時間の単位で「少しの間」というような意味。具体的に言えば、「1昼夜=30牟呼栗多」というから、約48分間ぐらいになるらしい。しかし、そういう具体的な時間を意味しているわけじゃないだろう。この映画はオールロケで撮影されているが、撮影地は富山県である。最近富山県でロケされた映画が多い。富山出身の山内マリコ原作の『ここは退屈迎えに来て』『あの子は貴族』、富山に場所を移した『ナラタージュ』『羊の木』等の他、調べると『真白の恋』、『追憶』、『RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ』『ほしのふるまち』『人生の約束』など多数にのぼる。ロケ誘致を進めてきて成功している。この映画も富山県の「空気感」がうまく生かされて魅力的。
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『近代日本の心情の歴史』ー見田宗介著作集を読む④

2022年10月23日 22時58分37秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介著作集を読むシリーズ、今月は第Ⅳ巻『近代日本の心情の歴史』を読んだ。1967年に出た同名の著作を中心に、「イメージの近代日本史」「柳田国男『明治大正史・世相篇』解説」「近代日本の愛の歴史」という3つの短い文章を収録している。大部分が「心情の歴史」なので、それを中心に書く。この本は簡単に言えば、近代日本の流行歌の歌詞を分析して、そこに日本人の心情の歴史を探る本である。後で書くように、方法的にどうかと思う点もあるし、時代の制約もあると思うが、基本的には「アイディア勝ち」とでも言うべき面白い本である。後の仕事につながる重要な本だと思う。

 戦前から1950年代に掛けて活躍した時雨音羽(しぐれ・おとは、1899~1980)という作詞家がいた。「君恋し」などで知られている。時雨が編集した『日本歌謡集 明治・大正・昭和の流行歌』(1963、現代教養文庫)という本があり、明治初期から1963年(本の出版された年)までの「日本歌謡年表」が巻末にある。そこに載っている497曲の中から歌詞を入手出来た451曲を分析して、主要なモチーフごとに分類する。そしてその数値的な変遷や歌詞内容を分析したわけである。

 そのモチーフを列挙すれば、「怒り」「うらみ」「やけ」「自嘲」「おどけ」「よろこび」「希望」「覇気」「義侠」「風刺」「批判」「慕情」「甘え」「くどき」「媚び」「嫉妬」「ひやかし」「あきらめ」「未練」「孤独」「郷愁」「あこがれ」「閉塞感」「漂泊感」「無常感」になる。歌詞にそれらの因子があるかを3人で判定し、2人が合致したら採用とする。

 見田氏以外の判定者は、井上勲斎藤輝子(後、井上輝子)両氏の協力を得たとある。井上勲氏は「後にすばらしく簡潔な文章を書く日本近代史学者」に、井上輝子氏は「日本におけるフェミニズム理論の初期を切り拓く社会学者」になったと「定本解題」に書かれている。いや、ビックリ。『王政復古』などを読んだ井上勲、「女性学」の先駆者だった井上輝子。二人とも名を知っているが、まだ無名の東大院生時代(多分)のことである。1937年生まれの見田さんにとっても、20代最後の研究と言えるだろう。
(講談社学術文庫版)
 この本は1978年に講談社学術文庫に入っていて、学生時代に読んだ記憶がある。それが上記画像の本だけど、自分のものはどこにあるか判らず検索して探した。現在は絶版のようである。今回はそれ以来、約40年ぶりの読書だが読んでるうちに何となく思い出した。「限界芸術」の中に「民衆思想史」を探るという問題意識が僕にも刺激的だった。というか、僕も同じような方向を志向していた。ただ僕の場合は大衆文学大衆映画を取り上げたかった。あるいは映画やミステリーが成立する場所としての「都市」という関心もあった。だから非常に面白かったし、方法論的な共感も強かった。

 でも、何というか途中で飽きてしまうのである。この本は先に挙げたモチーフを整理し、「怒りの歴史」(以下「の歴史」は省略)、「かなしみ」「よろこび」「慕情」「義侠」「未練」「おどけ」「孤独」「郷愁とあこがれ」「無常感と漂泊感」の10テーマにまとめて分析する。その際、どのモチーフはどの時代に多く、どういう変遷をたどるかなどが考察される。と同時に主要な「流行歌」の歌詞を取り上げて分析するわけである。でも「歌詞」分析に止まるから、10テーマもあると飽きてくるわけである。

 「怒りの歴史」を見てみると、数としては非常に少なく15曲で明治初期に集中しているという。でも当時はまだラジオもレコードもない時代で、自由民権運動の壮士たちが歌う「ダイナマイト節」などである。これを昭和期のヒット曲と同じレベルで評価してよいのかは疑問だ。むしろそれら「演歌」を作り出した人々、例えば代表的な演歌師として有名な添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう、1872~1944)などの伝記的研究の方がずっと面白いのではないだろうか。「限界芸術」といえども「作家」が存在する以上、単なる作品分析だけでは不十分ではないか。しかし、「心情の歴史」に絞って分析する本書ではそこには踏み込まない。
(添田唖蝉坊)
 それぞれ個別分析は興味深いけれど、ここでは特に興味深かった「郷愁とあこがれの歴史」に絞る。日本では戦争をはさんで昭和中期に「郷愁」の歌が多かった。多くの国で工業化に際して農村から「労働力」が供給される。しかし、日本ほど故郷に「郷愁」を持つことは少ないという。日本では「出稼ぎ型」労働が多く、「ふるさとを追われてきた」のではなく、「ふるさとを見捨ててきた」のでもなく、どちらかと言えば「ふるさとに見送られてきた」という。100%の家郷喪失者ではなかった。

 戦後になって10年前後の時期には、東京への憧れを歌う歌と故郷への憧れを歌う歌が同居している。「東京のバスガール」「有楽町で逢いましょう」と「別れの一本杉」「東京だよおっ母さん」が同じ時期にあった意味は何か。そこではもはや「都会の孤独」対「ふるさとの温かさ」という対立軸では論じられないという。それは「南国土佐を後にして」が日本調で吹き込んだ曲はヒットせず、同じ曲をペギー葉山が洋楽調で歌って初めてヒットしたという事実に特徴的だという。そして「安保闘争後」に「望郷」を歌った代表的な曲である「北上夜曲」では、イエやムラへの郷愁はなく、初恋の舞台としての自然の美しさのみを歌うに至る。

 僕が一番時代的な制約を感じたのは、笠置シヅ子東京ブギウギ」の記述である。「笠置シヅ子が、やせた身体を舞台いっぱいに踊らせて、歌うというよりは絶叫した「東京ブギウギ」は、時代の心情のある一面をあまりにも鋭く体現していたが故に、戦後状況の収束とともに、ほとんど聞くにたえないものになってしまった」「こんにちたとえば、音量いっぱいにあげたラジオでこの歌を聞くならば、我々は顔を赤らめるだろう」とまで書いている。1967年にはそういう感覚が存在したということが興味深い。今ではむしろ「戦後民衆のエネルギー」を象徴する歌として思い出されていると思う。エネルギッシュで楽しく、別に恥ずかしさなんか感じない。後の世代は笠置シヅ子を「再発見」したのである。
(笠置シヅ子「東京ブギウギ」)
 結局この本は「高度成長以前の民衆の心情」を分析したことになる。むしろ問題は、高度成長下の60年代、70年代であり、その後の「安定成長」「長期不況」の中で「流行歌」そのものが変容していった時代をどう考えるかである。今では流行歌を通して日本人の心情を分析するなんていう方法論そのものが成り立たない。「日本レコード大賞」受賞曲を調べてみれば、ある時点までは「国民皆が知っていた歌」があることが判る。そういうのは多分、1981年の「ルビーの指輪」、1982年の「北酒場」ぐらいで終わる。(例外はあるけれど。)だから、この本の続編を書こうという人は現れないだろう。

 作詞家や作曲家、歌手の分析が少ないのは残念で、そこが「社会学」と「歴史学」が違う部分だと思う。歌詞で聞くと言うより、人気歌手の歌だからはやるというのが現実ではないか。だから「歌手」をいかに売り込んだかなどの実証的研究が不可欠だ。ところで、僕はここで取り上げられている歌の半分ぐらいは何となく口ずさめる。若い人でもネットで探せば聞けるだろう。歌を知っていれば、なかなか楽しい近代民衆史である。長くなったので、他の文章は省略。
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山本有三と太宰治ー三鷹散歩

2022年10月21日 22時56分41秒 | 東京関東散歩
 関東はようやく「秋晴れ」っぽくなった。10月の初めの頃はまだ暑かった。その後急激に気温が下がって雨が続いた。結局、日本の一年はほとんどが暑いか寒いかになった。暑くもなく、寒くもなく、自分の用事も入ってない日は、一年に数少ない。今日はそういう一日だったから、散歩に行こうと決めていた。行きたいところは幾つもあるが、まずは東京都三鷹市に行こう。JR中央線で23区から多摩地区に向かって、2つ目が三鷹駅である。下りたのは約45年ぶり、2度目。昔「三鷹オスカー」という映画館があって、『若者たち三部作』一挙上映を学生時代に見に行った時以来。

 行った順番とは違うのだが、まず山本有三記念館から。1996年開館だから、もう26年も前のことになる。出来た年から行きたいと思っていて、もう四半世紀以上経っていたとは驚き。すごく見映えがする洋館として、こんなところがあったんだと思った記憶がある。三鷹駅南口から左の方に斜め(南東方向)の道があり、玉川用水に沿って「風の散歩道」と呼ばれている。この道は井の頭公園に続き、ジブリ美術館をめぐるバスが通っている。その通りの真ん中あたりに瀟洒な洋館が建っている。
    
 もっとも上に載せた画像は庭側から見たもので、道からは見えない。というか、家も道からかなり奥にある。真ん前に案外広い駐車場がある。そこから庭があり、建物の反対側にも大きな庭園がある。休日はまた違うのかもしれないが、今日は人が少なくて実にノンビリ出来る。表から見ると、何だかとても不思議な形をしている。
   (記念館前の駐車場)
 そもそも今では山本有三(1887~1974)と言われても、誰だという人も多いだろう。戦前から戦後にかけて、とても有名な作家だった。今でも新潮文庫に『路傍の石』や『真実一路』なんかが生き残っているようだ。代表作は幾つも映画化され、僕も『路傍の石』の田坂具隆監督版(1938)と久松静児監督版(1960)を見ている。賢いが貧しい少年が苦労しながらも真面目に生きて行くみたいな作風で、ある時代までは文学全集に必ず入っていた。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』も、山本有三編「日本少国民文庫」の一冊として刊行され、最初は山本・吉野の共著となっていた。記念館は中を映せたので。
   (『路傍の石』を執筆した和室) 
 山本有三はここに1936年から1946年まで住んでいた。自分で建てた家ではない。清田龍之助という実業家が建て、1926年に登記された。設計者は未だに判明していない。山本有三は隣の吉祥寺に住んでいたが、家族が多く手狭になったので、ここを買い取って、妻、4人の子、母親と自分の7人家族で引っ越してきた。この家は敗戦後に占領軍に接収されてしまい、一家は大田区に引っ越すことになる。戦後は貴族院議員、参議院議員として言語政策、文化財保護などに奔走したが、返還後もここに住むことはなかった。そんなに広くはないけれど、素晴らしい庭も見応えがある。3月5日まで、明治大学文芸科長の時期を扱った企画展を開催中。
  (入口の扉)(愛用のスーツ)
 三鷹と文学と言えば、山本有三より太宰治を思い出す人の方が多いだろう。山本有三記念館は洋館の魅力で行くところで、今でも読まれているのは圧倒的に太宰である。しかし、大きな記念館などはない。太宰はもちろん津軽の出身であって、三鷹は「自殺した場所」(最後の住所)である。自殺未遂、薬物中毒、不倫、愛人と自殺とくれば、誇るべき大作家として顕彰しにくい。でも、読めば圧倒的に面白く、単なる「破滅型私小説」の枠を飛び越した才能に舌を巻くしかない。大きなお屋敷に住んでいたわけじゃないから、当時の建物はほとんど消えている。ようやく近年になって、2008年に「太宰治文学サロン」、2020年に「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」が開設された。
   
 前2枚は「小さい家」で、三鷹駅南口の「三鷹市美術ギャラリー」に当時の家が再現されている。特別展は撮影出来ないが、入口と書斎だけ撮影可。後2枚の「サロン」は駅からちょっと離れた場所にある。太宰が通った酒屋「伊勢元」の跡地にあって、太宰の本を手に取って読んだり出来る。しかし、まあ大ファン向けかなと思う。
   
 むしろ太宰ファンならずとも、まあ一度行ってみたいと思うのは禅林寺のお墓の方だろう。何しろ森鴎外もあるのだ。どんなお寺かと思ったら、駅からまっすぐ南に10分ほど行ったあたりの大きな寺である。珍しく黄檗宗(おうばくしゅう)。しかし、二人の墓は全く普通の感じ。2枚目が森鴎外。3枚目が太宰治というか、津島家の墓。一般のお墓の中に混じっているので探しにくいかも。一応案内板があるけれど、そこには出ていない三鷹事件遭難犠牲者追悼碑(4枚目)も忘れずに。
   
 太宰の時代から残る数少ないものが、陸橋・三鷹跨線人道橋である。線路沿いにずっと西へ歩けば出て来る。車庫を一望できる跨線橋は太宰も愛したという。近々撤去されるとされ、早く見に行く必要がある。多分晴れた日の夕暮れが一番素晴らしいだろう。当然橋上は鉄網で囲まれていて、高いところから写真を撮るという点では不満な場所。ただ人が歩いていると、絵になるのである。まあ他人だから撮らなかったけど、何人かで行くと良い構図になるかなと思った。1929年に出来たもので、撤去時期は不明。三鷹市とJRの間で「一部保存」が合意されたという。
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続報・東京都のスピーキングテスト問題ー反対の声止まず

2022年10月20日 22時55分30秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会が11月27日に実施を予定している英語のスピーキングテスト。直近では8月3日に「東京の「スピーキングテスト」実施と多くの疑問」を書いた。その後も反対の声は止まず、都議会でも取り上げられた。自分でも新しく考えたことがあり、改めて現時点で続報を書いておきたい。

 まず、「19日にはテスト理論や英語に詳しい研究者らが都立高校入試への活用反対を表明した。」(朝日新聞)「言語学が専門の大津由紀雄・慶応大名誉教授や、英語教育に詳しい鳥飼玖美子・立教大名誉教授ら5人が都教委に要望書を提出し、19日に記者会見した。テスト結果の入試への活用見送りを求めた。」という。もちろん都教委という組織は、このような動き(要望書の提出など)があっても、協議に応じるなどということはない。このまま「粛々と実施される」のだと思う。だが、大津氏や鳥飼氏は大学入学共通試験における民間テスト導入問題でも反対を表明していた人たちである。国は止めたが、都は止めない。
(記者会見する大津氏や鳥飼氏)
 10月の都議会でも、この問題が取り上げられた。立憲民主党と東京維新の会が「スピーキングテストの結果を合否判定に使わない」とする条例案を提出した。これに対し、自民党と都民ファーストの会は「都立高入試の受験科目選定への介入は教育行政の中立性を脅かす」と反対。共産党も「都議会の多数派が条例などで教育目的や内容を決定することに慎重であるべきだとして反対」した。しかし、共産党は「都教委によるテストの事実上の強制も教育基本法が禁じる不当な支配だ」と主張し、都教委による自主的なテスト中止を求めたという。都議会の議員数は自民、都民ファースト、公明、共産、立民の順で、第5会派の提出した条例はもちろん否決されたが、都民ファーストから3人の賛成議員があった。

 そして、立民、共産らの反対派議員は、10月7日に「スピーキングテスト活用反対」の都議会超党派議連を発足させた。都民ファーストの会から条例案に賛成した3議員の他、欠席した2議員も議連に参加した、3議員はその後会派から除名処分を受け、それに対し「除名処分は無効」とする弁明書を会紀委員会に提出したということである。議連には42議員が参加しているが、都議会議員は全部で123人(定数は127、現在の欠員4)だから、3分の1に過ぎない。しかし、このような超党派議連が地方議会に出来たというのは、かつて聞いたことがない。それだけ都民、保護者の批判、疑問も大きいのだろう。
(スピーキングテスト反対議連が発足)
 僕が考えたのは、このテストの「自己採点」は可能なのかという点である。都立高校の入選では、解答用紙のみ提出し、問題用紙は持ち帰る。そのため中学では翌日に「自己採点」を行うことが出来る。解答用紙は返却されないが、個人の得点は中学当てに開示されている。学校で普通に行われている定期考査の場合、もちろんテスト返却が行われ、自分でどこを間違えたか振り返ることが出来る。学校で行われるテストというのものは、本来「結果だけ」ではダメである。今回は得点結果はもちろん教えられるだろうが、もともとの解答(スピーキングの録音)と採点過程は生徒に開示されるのだろうか。この発音ではこのぐらいの点数だろうと本人が納得出来るということが、テストには必要ではないか。

 またスピーキングテストの扱いが過大に過ぎるという批判がある。僕も言われて初めて気付いたが、「1000点満点の20点」だから、このぐらいは影響が少ないと思い込んでいた。都立高校の選抜は、「学力検査」と「調査書」で行われる。学力検査は普通科の場合、5教科で実施され、各100点、500点満点を700点満点に換算する。一方、調査書は中学の評定を5教科(テストを行う教科)はそのまま、テストを行わない4教科は倍にする。つまり、「オール5」の生徒の場合、5×5=25、4×5×2=40、合計65となる。その65点満点を300点満点に換算するのである。合計すると、「当日のテストが500点満点でオール5の生徒」は、700+300で1000点になる。それにスピーキングテストの点数20点満点を加えて、1020点満点にするというのである。

 ちょっと複雑だけど、わざわざ換算するのが面倒くさいだけで、よく読めば判るだろう。換算は教員が手作業で行うなんてわけはなく、都教委からエクセル形式の様式が送られてくる。昔はフロッピーディスクが来たけど、今はさすがに違うんだろう。ところで、調査書点だが65点満点を300点にするというのは、およそ4.615倍にすることになる。小数点は割り切れなく、延々と続く。そうすると、英語が「5」だったら、およそ23.075になる。「4」だったら、18.46である。

 2学期に英語を頑張って、4から5になったとしても、5点しか増えない。スピーキングテストは別個に20点になるから、中学3年生2学期の英語はスピーキングの練習にのみ使う方が有利である。「4技能を重視」ではなく、事実上「3技能(読む・書く・聞く)の軽視」ではないのか。あるいは、中学の教科が事実上10教科になったと言っても良い。明らかに過大だろう。

 さて、条例の問題に戻って。自民、都民ファースト、共産などは、「教育行政の中立性を脅かす」として反対した。かつて都議会では一部議員が都立養護学校(当時)の性教育をめぐって、教育に不当に介入したことがあった。その「不当性」は裁判の結果、最高裁でも認定された。だから、都議会が教育を論じる場合は慎重に考える必要がある。だけど、都議会議員には質問権がある。都教委が一部保守系委員に引きずられ、介入の「共犯」となったけど、都教委が「介入はおかしい」と言えば済んだ問題だ。

 では、教育委員会の方がおかしい場合はどうなるのか。議会には条例制定権があり、教育委員会にすべてお任せではなく、教育に関する条例を提起しても許されるのではないか。問題はその内容の当不当であって、今回の場合「スピーキングテストを行うこと」は教育委員会の裁量範囲としても、それを「合否判定には使わないようにする」という条例制定を「教育に対する不当な介入」と考えるのは疑問がある。都教委は何を言っても変えないんだから、都民がおかしいと思う問題があれば、条例制定を目指すしかないのではないか。普通の組織なら、このように反対の声が上がれば、話合いに応じたりするもんだと思うけど、そういうことを一切しないクローズドな組織が都教委である。全国の教育委員会一般とは違う議論をしなければいけない。
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トム・ストッパード作『レオポルトシュタット』を見る

2022年10月19日 23時03分07秒 | 演劇
 新国立劇場トム・ストッパード作『レオポルトシュタット』を見た。イギリスの有名劇作家ストッパードの最後かも、という戯曲の日本初演である。2020年1月にロンドンで初演され、コロナ休演をはさみながら大評判となり、ローレンス・オリヴィエ賞最優秀新作戯曲賞を受けた。2022年10月、ちょうどブロードウェイ公演も始まっている。そんな話題作を広田敦郎翻訳、小川絵梨子演出で、早速見られるのはとても嬉しい。今年屈指の注目公演だと思うが、登場人物がとても多く、最初は理解が難しい。しかし、ラストに至って作者の思いが判る時、体が震えるほどの圧倒的な感銘が押し寄せた。まさに今見るべき演劇だ。

 これは作者の自伝的要素もあるという。それがラストに判るんだけど、作者の紹介は後に回したい。しかし、題名は最初に説明しないと判らない。レオポルトシュタット(Leopoldstadt)というのは、ウィーンの第2区の地名である。僕はウィーンのことは全然知らなかったので、調べて初めて判った。17世紀ハプスブルク家の皇帝レオポルト1世にちなむ地名だという。地区の南部にプラーター公園があり、映画『第三の男』に出て来た大観覧車がある。ウィキペディアによると、1923年段階で38.5%がユダヤ系住民だった。この『レオポルトシュタット』という劇も、ウィーンに住むユダヤ人2家族の50年以上に及ぶ物語である。

 ホームページに登場人物が出ているが、とても多い。カーテンコールには子役も含めて25名も出て来た。時間経過が長いので、子どもは大人になり、新たな子どもが登場する。子役が一人で何役もやっている。この作者には『コースト・オブ・ユートピア』という19世紀ロシア人の革命論議を描く9時間の超大作がある。今度の作品も一体何時間掛かるかと、事前にちょっと心配した。結局は休憩なし、2時間20分ほどだったが、どうして50年以上も描くのに一幕で出来るのか。それは円形の回り舞台にある。この前見た首都圏外郭放水路みたいに柱が何本も立っている。冒頭はクリスマスで、大きなテーブルと幾つかの椅子がある。そこに一族が集まっている。次の場では舞台が回って、裏側で新しいドラマが始まる。乗峯雅寛の美術が素晴らしい。
(日本公演)
 最初は1899年のクリスマス。あれ、ユダヤ人なのに、なんで? その時代には裕福なユダヤ人家庭では、ウィーンの上流階級と親しく交わり、中にはカトリックに改宗する人もいたらしい。だからクリスマスも過越の祭も祝う。子どもたちがツリーを飾り付けし、てっぺんにダビデの星を取り付けてしまい、大人たちの笑いを誘う。大人は大人で、何人もが別々に話している。実際に大きな部屋に同席して見ているような感じである。次に1900年になると、不倫関係もある。子どもが生まれると、割礼をすべきかどうか悩む。メルツ家ヤコボヴィッツ家、両家の人々にはユダヤの伝統をどう考えるか、多少の違いもあるようだ。

 この段階では登場人物がよく判らない。そこから1924年になる。つまり第一次大戦で敗れて、ハプスブルク帝国は解体され小さなオーストリア共和国になっている。メルツ家の一人息子ヤーコブは大戦で負傷して片腕を失った。最初に子どもだった世代も大きくなり、中には共産主義を支持する者もいる。一方、小さくなったオーストリアは、言語が同じ大国ドイツと一緒になる方が良いという考えも者もいる。そんな混沌の時代に揺れているユダヤ人世界を描き出す。
(ロンドン公演)
 次が1938年になって、ついにナチス・ドイツがオーストリアを併合する日がやって来る。人々は逃げるべきか、それほど悲観しなくても良いのではないか、年寄りをどうすると議論している。ヤーコブの従妹ネリーは小さな息子レオを抱えて、イギリス人記者パーシーと婚約している。一家でイギリスのヴィザが取れるのか。という議論をしているうちに、ナチスがやってきて一家の家を接収すると告げる。議論しているヒマはなかったのである。それは「クリスタル・ナハト」の日。ウィーンでも反ユダヤの声が響く。今までユダヤ人性をそれほど意識せずに、富裕な階層として生きてきた人々にナチスのむき出しの憎悪が押し寄せたのである。
(家族関係と配役一覧)
 ホームページに配役一覧と系図が出ている。はっきり言って、見ている間は判りにくい。系図を見たって、全部は覚えられない。(配役は省略。)外国人の人名が舞台に飛び交い、時間が経つたび子どもが大人になっていく。だけど、ラストになって、これらの人々のほとんどがナチスの収容所で亡くなるか、または自殺していることが観客に伝えられる。ラストは1955年。連合国の占領が終わり、オーストリアが永世中立国として主権を回復した年である。アウシュヴィッツからただ一人生き残ったのはナータンだけ。ニューヨークに逃れていたローザが、戻ってきて屋敷を買い取った。そこにネリーの息子レオが大きくなって登場する。

 イギリス人記者と結婚したネリーはドイツのロンドン空襲で亡くなっていた。レオはイギリスで教育を受け、すっかり英国風に生きてきて、名前も英国風に変えて生きてきた。ユダヤ人であることは意識してこなかったのである。だが、このとき初めて恐るべき一家の悲劇を認識したのである。この一族の凄絶なまでの犠牲に思いを馳せるとき、歴史を語り継ぐ大切さを目の当たりにする。「まさか」と油断しているときに、すでに悲劇は始まっていた。それこそが2022年にこの劇を見る意味ではないか。
(トム・ストッパード)
 トム・ストッパード(Sir Tom Stoppard、1937~)は、もう85歳。引退を決めたわけではないようだが、年齢からして最後かもと口にしたらしい。『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(1966)で評判となり、自分で映画化もした。『ハムレット』に端役で出て来る人物を取り上げた劇である。映画『恋におちたシェイクスピア』(1998)のシナリオで米アカデミー賞脚本賞を受賞している。しかし、シェイクスピア専門というわけではない。冷戦下の東欧の反体制派を支援し、それをテーマにした作品も多い。後にチェコ大統領となる劇作家ヴァツラフ・ハヴェルとも知り合いだった。プラハでロック音楽を続ける若者を描く『ロックンロール』(2006)などがある。

 僕はストッパードの個人史をよく知らなかったが、彼は今回の作品のレオとよく似た人生を歩んでいた。もとはチェコのユダヤ人家庭にトマーシュ・ストロイスラーとして生まれた。ナチスが来る直前に、父が勤めていた会社の配慮でシンガポールに逃れたのである。そして日本軍がシンガポールを占領する前に、母と子どもたちはインドに逃げ延びたが、父は残って志願兵として戦った。そして父は船が爆撃されて撃沈して亡くなったという。母は子どもをイギリス風に教育し、イギリス軍人と再婚した。1946年、一家はイギリスに帰国し、トマーシュはトムとして生きてきた。自身の出自を知ったのも50代を越えてからだという。このような現代史の悲劇が作者自身に存在し、日本も大きく関わっていたのである。31日まで、まだチケットは残っている。
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『キャプテンサンダーボルト』(阿部和重・伊坂幸太郎)が面白すぎる

2022年10月17日 20時55分09秒 | 本 (日本文学)
 阿部和重伊坂幸太郎が共作した『キャプテンサンダーボルト』(新潮文庫)がムチャクチャ面白かった。阿部和重は芥川賞作家だが、長いこと読んでなかった。2020年秋に連続読書したけど、この本を読む前に疲れてしまった。伊坂幸太郎はずっと読んでいたんだけど、『ゴールデンスランバー』(2007)を堪能したところで飽きてしまった。だから10年以上読んでなかったんだけど、最近『マリアビートル』を久しぶりに読んだのは、ハリウッドで映画化というビックリニュースがあったから。そしてまさに手元に『キャプテンサンダーボルト』があったので、この機会に読もうと思ったのである。

 正直共作なんて信用してなかった。面白くないに決まってると思い込んでいた。対談が最後に付いてるけど、それを読むとホントの共作である。一章ごとに書き分けたとか、役割分担したとかではなく、お互いに全編を書き直し合って書かれたらしいのである。企画はもっと前からあったらしいが、文藝春秋から書下ろしで2014年11月に出版され、2017年に文春文庫に入った。それが2020年に新潮文庫NEXとして再刊され、ボーナストラック、特別対談に加えて、さらに書下ろし短編もある、686頁もある大長編。
(阿部和重)
 阿部和重は山形県東根市、伊坂幸太郎は宮城県仙台市の出身で、多くの作品の舞台にもなっているのは、読者なら周知のことである。(だから映画『ブレット・トレイン』も、東北新幹線のままだったら良かったのに。)ということで、東日本大震災の後に書かれた本がパンデミックさなかに再刊され、ウクライナ戦争中に読むことになった。それがことさら意味あることに感じられたが、内容的にはひたすら読み進んでしまうジェットコースター本で、しかも相当揺れるしトンデモ展開の連続である。でも間違いなく面白い。こんな面白い本がそんなに知られてないのは残念。
(伊坂幸太郎)
 ミステリーだと最初に登場人物一覧がある。でも、この本は登場人物紹介がイラスト付き。さらにまず「井ノ原悠」「相葉時之」っていう名前である。それに桃沢瞳なる謎の美女が出て来て、「村上病」を調べている。この冗談みたいな命名はさらに続き、相葉が連れている犬が「ポンセ」って言うのである。井ノ原、相葉は説明不要だと思うけど、ポンセは元横浜大洋ホエールズ所属の外野手である。阪神のバースと同時代で賞に恵まれなかったが、それでもホームラン、打点でリーグ1位になった年がある。(当然ながら2022年にノーヒットノーランを達成した日本ハムの投手ポンセではない。)

 「村上病」は明らかに村上春樹である。対談で阿部和重は「村上春樹は僕らの世代の作家にとって、上空を遮っているUFOのような存在」と述べているぐらい。特に『1Q84』(2009、2010)の直後の作品だけに、「村上春樹に立ち向かう」意識が強い。ちなみに「村上病」というのは、致死率70%の恐怖の細菌感染症で、第二次大戦後の日本で発生した。その後、ワクチンが開発され、ほぼ全国民が接種して現在は収まっているものの、謎の奇病として恐れられている。その病原菌は「蔵王山のお釜」(火口湖)にのみ存在し、お釜周辺は厳重な立ち入り禁止区域になって数十年。
(蔵王の「お釜」)
 井ノ原、相葉は子ども時代に山形県で少年野球チームに入っていた。しかし、それから20年近く、マジメな井ノ原も、いい加減な相葉も、ともに借金数千万円を抱える身。ひょんなことから、謎のテロリストと対決することになるのも、要するにお金が欲しかったからである。この小説では野球が大きな役割を果たしている。時期的に東北人には忘れられないだろう、東北楽天ゴールデンイーグルス田中将大投手が快進撃を続け、ついに24勝0敗の勝率10割で優勝、日本シリーズも制した、あの2013年が舞台になっている。作中にもこの話題はいっぱい出て来る。

 もう一つ、二人には共通点があった。昔テレビでやってた「鳴神(めいじん)戦隊サンダーボルト」の大ファンだったのである。このヒーローものは、かつて映画化されたものの、突然公開中止になってしまった過去がある。蔵王でロケされたということで、地元の二人は大いに期待してたのに…。何でも主演俳優のスキャンダルというんだけど。仙台の映画館主に大ファンがいて、何故かお蔵入り映画のビデオを持ってて…。一方で桃沢瞳は東京大空襲の日に蔵王で墜落したB29がいるという秘話を突き止める。

 「村上病」を調べる彼女の真意はどこに? 謎が謎を呼び、恐るべき銀髪外国人が追ってくる一方、突然相葉が拘束され「村上病患者発生」と報道される。基本、ミステリー的な冒険小説だから、ネタバレ的なことはこれ以上書けない。パンデミックを経て、病原菌やワクチンに詳しくなった我々には、このような「謎の病気」を恐れる社会が判る。「テロ」や「怪しげな組織」も、この小説以後ずっと詳しくなった。全く先見の明的な小説なのである。そして、すべての謎は蔵王のお釜にあった!
(オーストラリアの義賊キャプテンサンダーボルト)
 壮大なエンタメ小説だが、小説内の様々なアイディアが今になって妙にリアルな感じがする。第二次大戦中の秘話が今の世界に続くというのも、大江健三郎、村上春樹の小説世界を受け継ぐ構造である。阿部和重も伊坂幸太郎も、いささかやり過ぎ的な部分が多い作家で、読んでて疲れるときがある。しかし、この共作ではお互いに打ち消し合って、ジョークも効いてて面白い。ちなみに、「サンダーボルト」にはいろいろあるみたいだが、作中にはマイケル・チミノ監督、クリント・イーストウッド主演の『サンダーボルト』(1974)が出て来る。また19世紀オーストラリアの義賊にキャプテン・サーダーボルトと名乗った人物がいるという。検索したらホントにいた人で、上記のような写真が出て来た。とにかく圧倒的に面白かった。
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「戦前日本の映画検閲ー内務省 切除フィルムからみるー」を考える

2022年10月16日 22時21分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 懐徳館庭園を見た後で、国立映画アーカイブに向かった。15日はユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして「戦前日本の映画検閲 ―内務省 切除フィルムからみる―」という上映と講演がある。今は大ホールが工事中で、小ホールだから収容人数が少ない。これは完売必至と見て、発売開始当日にチケットを買っておいた。(今はパソコン、スマホでしか購入できない。)当日は内務省の切除フィルム上映があるというのだから、非常に貴重だ。一体どういうものなのか、気になるではないか。

 まずこのフィルムの出所に関して。これは元フィルムセンター主幹を務めていた鳥羽幸信氏(1916~1992)の寄贈資料にあったものだという。鳥羽氏は、羽鳥天来の名前で無声映画の弁士もしていた人で、かつてフィルムセンターで元気な姿をお見かけしたものだ。1978年のフィルムセンター定年後も、図書館などで無声映画上映会を開いていた。鳥羽氏が寄贈した数多いフィルムの中にあったのが、今回のものだという。しかし、題名がなかったため、これが内務省の切除フィルムだとは近年まで判明しなかった。

 鳥羽氏は戦前に内務省の検閲現場で下僚として勤めていたという。敗戦時に焼却されるものを幾つか持ち出した可能性があるという。稲垣浩監督の名作『無法松の一生』の切除フィルムもあったんだけど、さすがにそれはちょっとなどと語っていた記録があるという。ただそれだけでもないようで、業者が任意放棄したフィルムや業者から譲渡されたフィルムなども混じっている可能性があるらしい。とにかく珍しいものには違いなく、近年デジタル化して、作品の同定を進めてきたという。

 今回はフィルム上映とデジタル上映が連続して行われた。内容は同じだから、まるで大島渚監督の『帰ってきたヨッパライ』みたいな感じの繰り返しである。デジタル映像には、現時点で判明している作品名が付いている。内容的には、事前に予想していたものとはかなり違っていた。戦前の検閲といえば、まずは「国体」(天皇制)だと考える。左翼的、体制批判的な言論を取り締まるのだという、そういう予断があった。確かにマルクス主義の思想書などは伏字のオンパレードである。

 でも、考えてみれば会社組織で製作される映画の場合、最初から上映禁止になると決まってるものは作るはずがない。上映台本の検閲もあるんだから、映像になる段階では体制批判はないのである。今回ほんのちょっとだが、衣笠貞之助監督『日輪』の削除フィルムがあった。これは横光利一原作の映画化で、1926年のキネマ旬報ベストテンで2位になっている。フィルムが残っていないので、今回は非常に貴重だ。卑弥呼を主人公にしているので、天皇制神話に抵触するから検閲されたのかと思っていた。しかし、台本段階でチェックが入り、問題ないように改作されたうえで製作されたのである。公開後に長野県から、この映画を上映して良いのかと問い合わせがあって、内務省は問題なしと回答したという。

 それでも削除されたのは、残虐シーンという理由だった。「残虐」といっても、時代劇にチャンバラは付きものである。普通は日本舞踊のような殺陣(たて)になっているが、監督によってはもっとリアルな描写を求める。どうせ血糊に決まっているわけだが、人間を完全に刺しているようなシーンは削除である。また「風俗壊乱」というか、監督・公開年不明の『志士奮刃』という映画では、武士が女に執拗に襲いかかる。悪い旗本が料亭などで目を付けた女を手籠めにしようとする、そんな感じ。しつこく追い回し、帯がクルクルとほどけていく。別に裸が見えるわけでも何でもないけど、「その後」を連想させるから不可なんだろう。

 上映後に加藤厚子氏の講演が行われた。加藤氏は学習院女子大学非常勤講師で、専門は日本近現代史(戦前・戦中の映画産業と映画統制)とホームページに出ている。この講演は非常に充実していて、内務省検閲の実際が説明された。日本映画の場合は「出願」「査閲」「手続」の3段階で済むが、面倒なのは外国映画である。内務省以前に「税関検閲」があって、どうしても通過出来ないものは「拒否(積戻し)」になるのである。それを避けるために、業者が勝手にフィルムを削除してしまうこともあった。その後、台本を作成し、字幕版を作成した上で検閲に臨み、それを通過した後に最終的な字幕版をもう一回内務省検閲を申請する。

 何という面倒くささであることか。戦前の外国映画はそんな苦労をしていたのである。代表的な映画輸入会社だった東和の資料が川喜多映画文化財団にあって、台本検閲の事情がうかがえる。その結果、後半の外国映画編は「キス・シーン特集」である。では、キス・シーンだって削除されると判っているのに、何故検閲まで残したのだろうか。それは「外国風俗の特殊性」というか、家族どうしでもあいさつとしてキスするんだから、全部を削除できない。そして恋愛映画でも特に扇情的なキス・シーンは削除もやむを得ないが、ある程度清純なものは見逃される場合もあったのかもしれないのである。

 それを予想させるものは、小津安二郎監督の『一人息子』に引用された『未完成交響楽』のキス・シーン削除である。『未完成交響楽』はシューベルトの伝記映画で、シューベルトの実らぬ恋を描いている。日本では1935年に公開され大ヒットした。『一人息子』は小津の最初の発声映画で、東京にいる日守新一のところに飯田蝶子の母が田舎から訪ねてくる。映画に連れて行って、そこで『未完成交響楽』を見るシーンにキスがあり、削除された。という風に「検閲時報」に記載されているという。
(『未完成交響楽』)
 ここで不思議なのは、公開映画に何故キス・シーンがあったのだろうかという点である。実は脚本家廣澤栄氏の回想録に、この映画にキス・シーンがあると友人から教えられ、数年後に東京で見たときにはキス・シーンがなかったという話が出ているという。川喜多財団にも複数の台本があるらしい。大ヒットし、新しい上映フィルムが作られた時にはキス・シーンがなくなった。公開当時はキス・シーンがあった可能性もあるのである。僕が考えつくのは、字幕付き外国映画、特にクラシック音楽の物語を見る層は、特別扱いだったのかもということだ。娯楽映画ではないし、恋人同士が親の決めた結婚で別れる設定である。それに対し、日本映画はもっと大衆が見るものだから、キス・シーンは絶対許されなかったのか。とにかく、未だ解明されない謎である。

 ミッキーマウスのキス・シーンも削除されていたり、いろんな映画が出て来る。解説資料も詳細で、非常に貴重な機会だった。映画検閲のリアルを知る上で、画期的な上映だった。今後ネット上でも公開されるというから、家でも見られるはずである。今後の研究進展を期待したいと思う。
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懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)に行く

2022年10月15日 22時41分40秒 | 東京関東散歩
 10月第3土曜日は毎年東京大学のホームカミングデーである。まあ、僕は東大が「ホーム」じゃないけれど、2年間コロナで開催されなかったこの日を実は待っていたのである。それは東大本郷キャンパス内にある「懐徳館庭園」が公開されるからである。東京には幾つも素晴らしい庭園があって、国の名勝に指定されている。その中で普段は非公開なのが、浅草寺の伝法院庭園とここ懐徳館庭園である。伝法院は時々公開されるので、前に見ている。しかし、懐徳館は1年に1日だけの公開なのである。
    
 「懐徳館庭園」は「旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園」である。よく知られているように、東大本郷キャンパスは江戸時代に加賀藩上屋敷だった。有名な「赤門」(現在、構造調査のため閉門中)は1827年に将軍家斉の娘が前田家に輿入れするときに建てられた門である。明治になって、前田家は本郷邸を本邸とした。その後改築を行い、1905年に日本館、1907年に西洋館が竣工し、明治天皇も訪れた。へえ、本郷の地に壮麗な洋館があったんだ。その後1926年に前田邸敷地と農学部、代々木演習林を交換することになり、前田家は駒場に今に残る大規模な洋館を建てたわけである。(本郷の洋館は空襲で焼失。)
(本郷にあったかつての洋館懐徳館) 
 懐徳館庭園は本郷キャンパスの一番東側にある。今日は自宅から行きやすい地下鉄千代田線湯島駅から歩いて、龍岡門の方から入った。結構坂道だったのを忘れていて、本富士警察署まで結構疲れたが、東大構内に入れば案外近い。突然出て来る感じである。日本館が見えるが、それが先の写真。玄関近くに机があってちょっとした資料が置いてあった。玄関は空いてるけど、中は公開してない。館に入れなければ、さっさと庭の方に向かうしかない。そうすると案外狭くて、池に水がないから「枯山水」そのもの。どこか兼六園を思わせるけど、あそこをぐっと小さくした感じか。
   
 庭の方から邸宅を見ると、こんな感じ。この邸宅は戦後になって、1951年に総長宿舎(大学迎賓館)として再建されたものだという。その時庭園はなるべく在来のもので修復したと書かれている。庭側はガラス窓で廊下が見える。昔風の日本の家である。
   
 「懐徳」とは論語から取られているという。「君子懐徳、小人懐土、君子懐刑、小人懐恵」だそうである。「君子は徳を重んじるが、小人は土地を重んじる。君子は法を重んじるが、小人は自らの利益を重んじる」という意。前田家はさすがに百万石で、今の東京にも幾つもの足跡を残している。ただし、この本郷邸やその後の駒場邸も江戸時代のものではない。震災、戦災があったからではなく、大名家は華族として明治に続き、皇族の訪問に備えて洋館を建設したのである。島津邸(現・清泉女子大)も同様。近代遺産なのである。帰りがけに振り返って屋敷を写した。
  
 後はブラブラ歩きながら本郷三丁目駅に急ぐ。東大構内は内田ゴシックと呼ばれるような壮麗な建築がたくさん残っている。こういう建物を見ると、どんな青春のドラマがかつて繰り広げられたのかと想像の翼がふくらんでいく。東京の大学には近代の美が残されている。また無料の博物館なども多い。以前も書いたが、「大学を観光に生かす」ということをきちんと考えて欲しいと思う。東京と京都では大きな財産になると思う。
 (安田講堂)(赤門)
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