尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

青春映画の快作「いとみち」、津軽三味線が素晴らしい

2021年06月30日 22時12分03秒 | 映画 (新作日本映画)
 青森県出身の横浜聡子監督が地元で作った映画「いとみち」は、実によく出来た青春映画の快作。展開は判っているが、津軽三味線の魅力が映画を成立させている。青森県板柳町岩木山を望むりんご畑が広がる中に住む高校一年生相馬いと駒井蓮)は、教科書を読むときも津軽弁が抜けない。母を幼稚園の時に亡くし、家では民俗学者の父(豊川悦司)と母方の祖母(西川洋子)と暮らしている。祖母が津軽三味線の名手で、いとは幼いときから三味線に親しみ中学時代にはコンクールで優勝したこともある。しかし、津軽弁を気にして引っ込み思案で、高校では三味線のことを話さず友だちも出来ない。

 高校生になったら三味線からも離れてしまったいとは、自分でも何か新しい出会いを求めている。つぶやいていたらスマホが反応して、近くのアルバイト情報が検索される。時給の高い「青森市のメイドカフェ」があって、つい電話してみたら早速行くことになる。青森市には詳しくないからウロウロしながらメイドカフェを探すと、働くことになってしまう。津軽弁に妨げられて、いとは「おかえりなさいませ、ご主人様」がうまく言えない。しかし「永遠の22歳」(後に10歳の娘がいると判る)幸子(黒川芽以)、東京に出て漫画家になりたい智美(横田真悠)、東京からUターンしてきた店長(中島歩)らに助けられながら、いとも何とかメイドカフェの仕事を続けていけた。
(店長と三人の店員)
 ところがある日、テレビニュースでオーナー(古坂大魔王)がインチキ健康食品販売で販売で逮捕されたニュースが流れる。メイドカフェは客が離れ、経営危機に陥る。店長は今なら退職金を払えるから店をたたむというが、いとはせっかくなじんできたから続けたいと思う。父は「結局は水商売だろ。逮捕者が出たような店で働かせたくない」と言って、いとは腹を立てる。家出して高校でただ一人話せるようになった早苗の家に行くと、優等生の早苗も悩みを抱えている。そこで三味線を弾いて盛り上がってしまい、いとは店で津軽三味線をやりたいと思いついた。友人の早苗は青森県の地元アイドル「りんご娘」のジョナゴールドが演じている。印象に残る儲け役。「りんご娘」は青森県民の知名度100%だという話で、メンバーにはりんごの名前が付いている。
(店に来てみた父親と)
 この映画はいろいろとギリギリの線で成立している。まず「メイドカフェ」とはどんなところか。男性の「期待」に応えることで成立している以上、あからさまな風俗業ではないとはいえ、多くの大人は父トヨエツのセリフに同感するのではないか。宇野祥平初めとする「いとちゃんを守りたい」男たちもどうもステレオタイプ。それより何より、この映画では津軽弁に字幕が付いていない。だからネイティブどうしの会話は半分ぐらいしか判らない。映画だから、人物の表情や体の動きでニュアンスが伝わる。そこに期待して、あえて字幕なしで津軽弁を話しまくる。僕は見ていて何となく通じるもんだなあと思った。勇気ある方針だった。
(祖母に三味線を教わるいと)
 映画の成功は津軽三味線にかかっている。主演の駒井蓮の責任は重大だ。そこで猛特訓を繰り返して、祖母との共演シーンなど実に見事。こうなれば映画の筋道は見えている。筋道が読めないことが面白い映画もあるが、すべてが筋書き通りに進行するのが快感を与える映画もある。駒井蓮は2000年生まれ、青森県平川市生まれだが、東京でスカウトされ中学時代から活躍していた。「朝が来る」で蒔田彩珠の姉を演じていた。成績もよくて、現役の慶大生だという。本格的主演第一作だが、見事な存在感だと思う。この映画でも津軽三味線を吹き替えなしに実演していて、見るものは思わず応援してしまうだろう。

 僕は知らなかったのだが、「いとみち」は越谷オサムの原作があって、新潮文庫に入っている。「いとみち二の糸」「いとみち三の糸」という続編も出ている。越谷オサムは「陽だまりの彼女」がベストセラーになって映画化もされた。僕も読んでみたのだが、ラストの展開には付いていけなかった。横浜聡子(1978~)監督は自主映画出身で、2006年に「ジャーマン+雨」でデビュー。日本映画監督協会新人賞を得た。その後「ウルトラミラクルラブストーリー」「俳優亀岡拓次」を作り、「いとみち」は長編劇映画4作目。だけど、「りんごのうかの少女」などの短編映画も作っている。青森県出身を最大限に生かした地元エンタメ映画で、岩木山が主人公みたいに画面に出てくる。ラストでは父といとが一緒に岩木山を登っている。気持ちの良い終わり方で、近来にない青春映画の快作だった。
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「洪水はわが魂に及び」、終末論と自閉症の世界ー大江健三郎を読む④

2021年06月29日 23時45分42秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎シリーズは今回で一端中断。大長編は読むのに一週間近く掛かり、今月はほとんど大江作品を読んでいた。また作品が溜まったら書きたい。三作目は「洪水はわが魂に及び」で、1973年9月に上下2巻の新潮社「純文学書下ろし特別作品」として刊行された。これは僕が初めて同時代に読んだ(つまり単行本で読んだ)作品で、非常に大きな感銘を受けた記憶がある。その年の野間文芸賞受賞。もっとも僕が持ってる本は、上巻は初版だが下巻は1974年4月30日付の第7版である。半年で非常に売れている。上巻は820円、下巻は930円で、これはこの間の「狂乱物価」を反映していると思う。刊行当時は高校3年生で、お金のためか受験のためか、上巻しか買わなかったらしい。74年は浪人中だが、下巻を買ってるんだからその年に読んだのだろう。
(単行本上巻)
 東京の外れに核兵器のシェルターを改造したトーチカのような建物があり、そこに自閉症の子どもと閉じ籠もって暮らす男がいる。かつて保守党有力者の秘書をしていて、その娘(直日)と結婚した。障がい児が生まれたことから結婚生活が破綻し、男は名前も「大木勇魚」(おおき・いさな)と変えて「樹木の魂」「鯨の魂」の代理人を称している。樹木や鯨の魂と交信し、息子「ジン」ともテレパシーで通じている。ジンは鳥の鳴き声を集めたテープを聞いて聞き分けることが出来る。テープから音が出ると「アカショウビンですよ」「センダイムシクイですよ」などと答える。これは大江光をモデルしているということだが、読んだときに非常に強い印象を受けた。僕はそのジンの声が今もずっと耳奥に残り続けている。

 その近くにつぶれた映画撮影所があり、一角に少年らのグループが住み着いている。勇魚はそのグループが建物に現れたことから関係を持つようになる。当初は敵対的なムードだったが、やがて「言葉の専門家」として遇される。彼らは「自由航海団」と名乗り、首都圏大地震などで近く終末を迎えるだろう世界から船で逃げだそうとしている。若い「ボオイ」は男に敵対心を持つが、女性メンバーの伊奈子はジンと心を通わせる。リーダーの喬木(たかき)は冷静だが、武器に堪能な多麻吉は攻撃的である。カメラマンだった「縮む男」は、不思議なことにどんどん体が小さくなっているという。勇魚は彼らとともに世界について議論し、英語を教えるようになる。そして武器訓練キャンプ地を探していた彼らに、妻を通じて南伊豆の別荘予定地を紹介する。
(単行本下巻)
 そこでは伊奈子がオルグした自衛隊員が武器の訓練を行う。勇魚とジンも同行するが、ジンが水痘にかかって伊奈子は看病に付き添う。その間に「縮む男」が秘かに訓練の写真を撮って週刊誌に売り込んだことが発覚した。メンバーは「縮む男」の裁判を行い、有罪を認める「縮む男」に暴行を加えて殺害する。自衛隊員はそれを受けて逃亡し、伊東付近の漁港で自殺する。警察が動き出し、撮影所跡に残った「ボオイ」はブルドーザーで抗戦するが死ぬ。残りのメンバーは勇魚の家に籠城する。ジンの病気が治って勇魚と伊奈子が東京に戻った時には、もはや機動隊との衝突が避けられなくなっている。ジンを避難させるために伊奈子や喬木は投降するが、銃の得意な多麻吉と勇魚は残る。そこに機動隊は大きなクレーン車で大玉をぶつけて家を破壊し始める。

 これは誰が見ても、1972年2月に起きた「あさま山荘事件」と山岳ベースで起こった「リンチ殺人事件」を思い出させる。しかし、「大江健三郎全小説」第7巻の尾崎真理子解説によると、1971年に発表された創作ノートにすでに同様の構想が書かれていたという。作家の想像力が現実を予見してしまったのである。現実に同じような事件が起こったため、作者はグループから政治性を抜き去ったという。その結果、この「自由航海団」というアナキスト的な一団が当時としては理解が難しくなったと思う。機動隊員が一時「捕虜」になるシーンでは、「こんなことで革命が出来るか」と詰め寄る機動隊員に、彼らは「だから革命はしないんだよ」と何度も答える。マイノリティである彼らは、カタストロフィが訪れたときには自分たちが迫害されると信じている。だから自分たちも武装して自衛する必要がある。これは20年後のオウム真理教事件を先取りしていた。
(司修による単行本表紙)
 この小説には全体に「終末論的世界観」が満ちている。そもそも題名の「洪水はわが魂に及び」とは文語訳旧約聖書から取られていて、要するにノアの方舟の大洪水が自分の胸元まで及んできたということだ。その意味では東日本大震災の大津波が福島第一原発に及んだことも想起させる。大江健三郎が原発反対運動に参加しているのも当然だろう。この小説が刊行された直後の、1973年10月に第四次中東戦争が起こり、アラブ産油国が「石油戦略」を発動し世界中で「石油危機」(オイル・ショック)が起こった。日本で続いていた高度経済成長は終わりを告げ、1974年の経済成長率は戦後初めてマイナス成長となった。1973年3月に発売された小松左京日本沈没」がベストセラーになり、1973年6月には筑摩書房から「終末から」が創刊され(1974年廃刊)、野坂昭如は「マリリン・モンロー・ノー・リターン」で「この世はもうすぐおしまいだ」と歌っていた。

 まさにそのような時代相が小説に反映されている。しかし「再生可能エネルギー」「持続可能な開発目標」(SDGs=「Sustainable Development Goals」)などと言われる現在から見ると、安易に「世界が滅びる」といっていた時代がロマン主義に思える。世界は大きく変わったが、「終末」は迎えず、石油は枯渇せず、鯨は滅びなかった。当然だろうと今は思える。鯨ではなく本当に滅亡したのはニホンカワウソだった。1979年が最後の目撃例だと言うから、大木勇魚には鯨よりニホンカワウソの魂と交信して欲しかった。あるいは日本のトキは滅亡し、中国から借りたトキを繁殖させている。それは戦後の偽善を象徴すると考えて、佐渡のトキ保護センターを襲撃した少年を描く阿部和重ニッポニア・ニッポン」という小説もある。襲撃後に少年がクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を聞くシーンが忘れられない。つまり「終末論」的な世界観と機動隊との衝突という小説の基本構造はちょっと古くなっているかなと思った。
(文庫版「洪水はわが魂に及び」)
 他の大長編がかなり入り組んだ難解な構造を持っているのに対し、この小説はかなり判りやすい。時間は一方向に流れるし、勇魚とジン、自由航海団それぞれを描きわけ、やがてそれが合体し、ラストのカタストロフィに至るという構成である。その分、時代的な制約を受けやすいとも言える。やはり「左翼過激派」時代に生まれた小説という感じもする。だがこの小説の真の主人公はジンだという読み方も可能だろう。ジンの世界から見れば、また読みが変わってくる。映画「レインマン」の前に、自閉症の世界の豊かさを世界に示したのは大江健三郎と大江光だ。そのことは特筆大書すべきだし、この本を読んだ人なら鳥の鳴き声を当てられるジンを永遠に思い出すだろう。(もっとも伊奈子のセリフとして「ジンはいい白痴だねえ」とあるように、時代の制約は大きいが。)

 ところで、この小説を読み直して一番驚いたのは、小説の舞台が世田谷区だったことだ。そんな核シェルターが都内にあって、機動隊と大衝突事件が起きたとは。まあ半世紀前には東京の周辺区にはまだまだ農地が多かった。童謡「春の小川」は渋谷区だったという時代ほどではないけれど、50年経つとずいぶん変わる。映画の撮影所跡地というのは、日露戦争で当てたとあるから倒産した新東宝かと思う。大江が住む世田谷区成城に近い砧(きぬた)には東宝のスタジオがあり、新東宝の撮影所も近くにあった。また国分寺崖線と呼ばれる崖と湧水が続く地帯がある。世田谷区西部にはそういう地帯が続いていて、そこが舞台となったのである。東京でない感じがしてしまうが、まさに70年代東京の外れの方を描いているのである。(なお、保守政治家とつながる妻、縮む男、スパゲッティをゆでる主人公など、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』との関わりが強いと感じた。)
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「懐かしい年への手紙」、壮大な人生の総括ー大江健三郎を読む③

2021年06月28日 23時30分25秒 | 本 (日本文学)
 1回目に書いたように、僕の大江読書史において「躓きの石」となったのが「懐かしい年への手紙」(1987)だった。30年以上経ってようやく読んでみたのだが、これは素晴らしい傑作ではないか。しかし、昔頑張って読んでも感銘は少なかったかもしれない。ダンテ神曲」(それも文語版)やイエーツの引用が多いし、英語のダンテ研究も出て来る。外国語だけでなく一種の「引用の織物」になっていて、そこには自分の作品も含まれる。メキシコ滞在中の話もあれば、自分の家族(と思われる)人物も出て来る。まるで「私小説」のように語られるが、すべてがフィクション。時制も入り組んでいて、過去と現在を自在に行き来する。
(一般的に入手しやすい講談社文芸文庫版)
 そういう風にかなり「読みにくい」小説であるのは間違いない。だがそれだけなら頑張って読み切ることも出来るだろう。しかし、この小説の「キモ」は人生をある程度生きてきて、過去を振り返って自分を総括するというテーマにある。「懐かしさ」(ノスタルジー)を基底に置き、ある作家の文学人生(だけでなく結婚生活や性体験までを)、ユーモアたっぷりに振り返る。その悠然たる筆致を味わうには多忙な現役時代は不向きである。そもそもある程度の人生体験を経てないと、しみじみと読める小説ではない気がする。原稿用紙1000枚を超える大長編で、フランス語訳「Lettres aux années de nostalgie」があってノーベル賞の対象になった。

 「」という小説の語り手は、小説内で「K」とか「Kちゃん」と呼ばれている。久しぶりに村に住むアサ)から電話があり、ギー兄さんの妻であるオセッチャンから相談を受けたという。村に戻ったギー兄さんが何か始めるらしく、そのことで村人と揉めているという。老母もKの子どもたちに会いたがっているので、一度四国の村に帰って欲しい。K一家は四国を目指すが、長男「ヒカリ」は障がいを持っていて空港へ行く途中で具合が悪くなる。松山便を逃してしまうが、下の子どもたちが高知までの便があるから、高知から松山行きのバスに乗って途中下車すれば大丈夫と知恵を出す。まるで実際の大江一家の報告のように小説世界が始まっていく。
(今回読んだ初版単行本)
 このギー兄さんというのは、Kの5歳上で村の山林地主に生まれた人物である。そして一生を通じてKの「師匠」(パトロン)でもあった。戦後の貧しい中で、Kはギー兄さんの勉強相手に選ばれ、英語の手ほどきを受ける。その後もずっと文通を続け、作家になった後もいろいろと示唆に富む助言を受けてきた。このKは紛れもなく大江健三郎である。イニシャルや生まれが同じということではなく、「奇妙な仕事」や「死者の奢り」で注目を集め、「セヴンティーン」第2部の「政治少年死す」が右翼の怒りを買って逼塞を余儀なくされるなど現実の作品名が明記されている。ギー兄さんはそういうモロに政治的なテーマよりも、村の歴史や神話をこそ書いて欲しいと望む。そうして取り組んだのが「万延元年のフットボール」なのだった。

 ところがある時期から、Kの人生からギー兄さんが消えた。何故かといえば、村で起きたある事件によって、ギー兄さんは刑務所で服役したのである。その事件の詳細はなかなか語られないので、物語はミステリアスなムードをたたえたまま、終盤になって刑期を終えたギー兄さんがKの現実へ再登場するわけである。このギー兄さんは架空の人物とは思えないほど、生き生きとした描写がなされていて忘れがたい。そもそも「万延元年のフットボール」などの作品で「森の隠遁者ギー」という謎めいた神話的イメージの人物が出て来る。これは本名が「義一郎」といって、村を捨てて山で暮らす人物であるとされる。ギー兄さんは出所後に、自分の名前を使ったなと手紙に書いてきたという挿話が出て来る。

 物語は三部に分かれていて、一部と三部は現在だが二部で過去が語られる。そこで語られるのは、Kとギー兄さんの知的、文学的、性的な冒険の日々である。東京の大学を出た後に学者への道を断念して村へ帰ったギー兄さんのもとに、東京から二人の女子大生が訪ねて来る。そこで繰り広げられる愛と性の冒険の日々。それがギー兄さんのいたずらで突如終わる。Kは東京で若い作家となり、高校時代の友人秋山の妹「オユーサン」と結婚する。結婚式に出たギー兄さんは長い演説をして彼の行く末を心配する。安保反対運動のただ中で、Kも反対運動の中にいたが作家の訪中団に加わって肝心の時に日本にいない。ギー兄さんは妻のオユーサンが夫に代わってデモに参加し暴力にあうのではないかと心配する。わざわざ上京したのだが、ギー兄さんの方が新劇団に襲いかかる暴力団に殴られて大怪我をしてしまった。
(単行本の裏)
 誰も助けてくれない中、その時に必死に介抱して病院へ運んでくれた二人の新劇女優がいた。そしてその一人「繁さん」とは深い仲になって、二人は一緒に村へ戻ってきたのである。そしてギー兄さんは村で新しい農林業を中心にした「根拠地」作りを始め、繁さんも村の文化運動を始めて若者たちと演劇レッスンを行う。「根拠地」は60年代、70年代に全世界でたくさんあったコミューン運動を思わせる。その人間関係の葛藤の中である「事件」が起こり、ギー兄さんは獄囚となったのである。それはどのように起こり、どのような過ちだったのか。我々の世代は何を目指し、何に失敗したのか。痛切な反省とともに、60年代のコミューン主義的な夢が総括される。この痛切な感情が、ノスタルジックな青春の思い出を単なる懐旧的青春譚に終わらせない。

 この小説は明らかに「万延元年のフットボール」の自注であり、再説である。だから「万延元年のフットボール」を先に読んでいる必要がある。「万延元年のフットボール」は読んだ後にいくつかの「謎」を残す。一つは異形なスタイルで「自殺」した友人が主人公根所蜜三郎に取り憑いているが、友人の具体像が書かれていないこと。もう一つが弟の鷹四が起こす「事件」を、蜜三郎はむしろ「事故」ではないかと推察するのだが、その真相の解明。その2点の謎は「懐かしい年への手紙」を読めば氷解する。というか、どっちもフィクションなのだから「真相」も何もないわけだが、要するに「万延元年のフットボール」で書かれたことは現実にはこうだったんだとされる。こういう複雑なナラティブは過去の文学作品の中でも珍しいと思う。

 全体にノスタルジックなムードが漂うのも大江作品には珍しい。自分の周辺の人物らしき人物を多数登場させながら、壮大なホラ話になっている。描写はユーモラス、今では男目線と言える部分もあるかと思うけれど、若かりし日の性的冒険もあけすけに語られる。しかし一番印象に残るのは「谷間の村」の宇宙観である「永遠の夢の時(ジ・エターナル・ドリーム・タイム)」という感覚である。これを作者は作中で柳田国男を引用して「懐かしい年」と呼ぶ。僕らは何事かを成し遂げたが、また何事をも成し遂げずに世を去って行く。すべては循環する時の中にある。そういう感覚を共有する掛け替えのない友人の痛ましい人生。

 僕らは皆掛け替えのない友人や恋人と出会った「懐かしい年」を記憶していると思う。僕もまた何事をなし、何事を失敗したのか、「懐かしい年への手紙」を書きたいと思わせる。そんな心揺さぶられる小説で、大江文学史上一二を争う感動作ではないか。「コミューン」(共同体)への憧れを持った人なら、この優れた作品をじっくり読んで過去を総括して欲しいなと思う。
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「万延元年のフットボール」、性と暴力と想像力ー大江健三郎を読む②

2021年06月27日 20時44分41秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎の「万延元年のフットボール」は傑作で、大江健三郎の代表作とされている。ノーベル文学賞の対象作品でもある。もっとも僕はこの本を半世紀以上前の中学生の時に読んでいて、その時も凄いとは思ったものの判らないところが多かった。(それでも三島由紀夫仮面の告白」よりは判った感じがしたけど。)なんで中学生の時に読んだのかの個人的な思い出から書きたい。今は「ヤングアダルト」という分野が確立され、高校生直木賞なんかもある。しかし、半世紀前には「坊ちゃん」や芥川龍之介の次に読む本がなかった。
(今一番入手しやすい講談社文芸文庫版)
 北杜夫どくとるマンボウシリーズなどを読んだら、もう文庫本を自分で探すしかなかった。最新の小説として三島由紀夫大江健三郎が入っていた。学校で中学生向けの本を借りたくても、生徒急増期で僕の学校では図書室も教室として使われていた時代だった。確か朝日年鑑で「万延元年のフットボール」を知ったと思う。中央公論社の「日本の歴史」シリーズを持っていたので、本屋の方から売り込みがあったと思う。世界情勢だけでなく、後ろの方に文学賞などの情報もある。そこに最新の傑作は「万延元年のフットボール」だと出ていた。
 
 「万延元年のフットボール」は1967年1月から7月に「群像」に連載され、9月に刊行された。第3回谷崎潤一郎賞を(安部公房の戯曲「友達」とともに)受賞した。今に至るまで最年少受賞である。この書かれた年代、つまり「60年代」が本の中に息づいているのである。何が凄いのかはよく判らなかったけれど、僕は本を買って、読んで、凄いと思ったわけである。1971年に講談社文庫が創設されたとき、第一回配本に「万延元年のフットボール」もあった。その時に文庫も買ったのは、解説(松原新一)を読むためだったと思う。つまり判らないところを少しでも解消したかったのだ。その後半世紀読まなかった本を、今回ようやく読んだことになる。
(講談社文庫第一回配本の「万延元年のフットボール」)
 あらすじを書くと長くなるから細かい話は書かない。読んでみて「古さ」を感じるところがあった。最初は「マゾイズム」と書かれているのに驚いた。今の版を確かめてみると、さすがに「マゾヒズム」と直されている。主人公根所蜜三郎には障がいのある子どもが生まれたが、その子は「白痴」とか「精薄」(精神薄弱児の略)と書かれている。今じゃ使われない言葉だが、確かに60年代には使われていたと思う。全体的に政治状況がベースにあるので、それも今では通じにくい

 「万延元年」というのは、西暦1860年のことである。安政と文久にはさまれて、わずか一年しかなかった。細かくいうと1860年4月8日から1861年3月29日までである。安政7年3月3日(1860年3月24日)に「桜田門外の変」が起こり改元されたと言われる。「安政」時代には欧米との貿易が始まり、孝明天皇としては望ましくない元号だったのだろう。しかし、「万延」時代は短かすぎて知っている人は少なかった。その年が「60年安保の100年前」だと気付いたのが、まずアイディアの勝利である。その年に根所蜜三郎と弟鷹四が生まれた四国の山奥の村では、百姓一揆が起こり彼らの祖父の弟が指導者だったと伝えられていた。その祖父は弾圧を逃れて土佐から東京へ逃れたともいわれているが、詳細は不明とされる。

 この村は大江健三郎自身の生まれた愛媛県大瀬村(現内子町)を思わせる。初期からずっと書かれてきた村だが、江戸時代には大洲藩領で実際には万延元年に大一揆が起きたという史実はないようである。(なお「一揆」は当時の研究状況を反映して、村人による「抵抗運動」を指している。一揆勢が武装して藩権力に立ち向かうようなイメージは、現在の研究では否定されている。)100年前に起こった一揆の祖父とその弟が、村へ戻った蜜三郎と鷹四に重なる。鷹四は村の青年たちを組織しフットボールのチームを作る。100年を隔てた土俗と近代の重なりが「万延元年のフットボール」という卓抜なネーミングの由来である。ここはやはり「サッカー」ではダメだろう。「フットボール」という言葉の喚起力が作品を成立させている。
(単行本の「万延元年のフットボール」)
 それにしても作品を覆う「死のイメージ」に改めて驚いた。冒頭から異形な形で自殺した友人のイメージが蜜三郎につきまとっている。蜜三郎と妻の菜採子は障がい児が生まれて以来夫婦関係が壊れている。蜜三郎、鷹四の兄弟は本来5人兄妹だったが、長兄は戦死、次兄は戦後起こった朝鮮人集落との暴力事件の際に死んでいる。さらに妹も自殺し、戦時中の父の死にも不審がある。というように三浦哲郎の「忍ぶ川」「白夜を旅する人々」みたいな一族なのである。

 鷹四は安保反対デモに参加していた時に暴力に目覚めて、転向してデモ隊を襲う暴力団に加わる。その後は保守政治家が組織した「改悛した日本人」の一団として渡米し、放浪し、今帰国しようとしているが、帰国便が遅れている。そうやって始まる物語は、冒頭が非常に「晦渋」でなかなか内容に入れない。村では強制連行され森の伐採に従事していた朝鮮人の中で、土地を買い集めて実業家になった「スーパーマーケットの天皇」がいた。村にもスーパーが出来て他の店は皆借金を抱えている。鷹四は村に残る倉屋敷を「スーパーマーケットの天皇」に売り払う契約を勝手に結び、車で村へ向かう。安保闘争を通して鷹四の信奉者となった星男桃子という「親衛隊」も付き従っている。村でやり直そうと誘われた蜜三郎、菜摘子も村を訪れる。

 村で彼らの家を守っていたジンは、食べることを止められない巨女になっている。村では兄の死、祖父の弟などに関して蜜三郎と鷹四の記憶や見解はことごとく対立している。幼い頃に祖母からは「チョウソカベが来る」と恐怖をあおられる。洪水で橋が落ち、冬は雪に閉ざされる山奥の村で、ついに大事件が起きる。この「雪に閉ざされた村」の緊迫感は凄い。ミステリーみたいな設定だが、「全小説」の解説で尾崎真理子がトルコのノーベル賞作家オルハン・パムクの「」に言及している。僕も読んでいるときに、これは影響しているなと思った。
(ジョン・ベスター訳の英語版「The Silent Cry」)
 村で奇怪な出来事が起こっているのもガルシア=マルケスを思わせるが、世界に大きな影響を与えた「百年の孤独」が刊行されたのは1967年である。「万延元年のフットボール」と同じ年なので、影響関係はない。大江健三郎とガルシア=マルケスは同時に同じような作品世界を構想していたのである。これは両者ともにウィリアム・フォークナーの影響を受けているのだと思う。フォークナーはミシシッピ州をモデルにした架空の地で起きる「ヨクナパトーファ・サーガ」を書き続けたが、それに当たるのがガルシア=マルケスの「マコンド」や大江健三郎の「四国の森」である。

 村の青年たちが飼っていた鶏が寒さで死ぬ。そこから一気にカタストロフィに至る緊迫感は、日本文学史上に類例が思い浮かばないぐらいの迫力だった。それは短期的には60年代末の「性と暴力の革命」を予見した。しかし、今になってみれば、むしろこれは「ヘイトクライム」である。鷹四グループによってあおり立てられた村人は、朝鮮人経営のスーパーマーケットを略奪する。そこで積み重なった道徳的退廃が破滅をもたらす。鷹四と妹の秘密、祖父の弟の真実が明かされるとき、多くの犠牲を出した小説世界は未来へ向かってほのかな灯りをともして終わる。

 多くの人が死に、性と暴力に彩られた作品世界。間違いなく日本文学が世界文学に通じた作品だ。イマジネーションによって歴史と現在がつながり、未来を展望する。そして「60年安保」の10年後(「70年安保」)を目前にしていた時代精神に働きかける。そのような「性と暴力」を通して再生がもたらされる世界は、今読んでも迫力に満ちている。だけど、ジェンダー的、あるいは最新の歴史認識からは読み直しも可能かもしれない。僕はそこまで踏み込む元気はないけれど。大江作品を読むときは最初は初期の短編から初めるべきで、この作品からチャレンジするのは大変かもしれないなと思った。
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大江健三郎を読まなくなった頃ー大江健三郎を読む①

2021年06月25日 23時32分09秒 | 本 (日本文学)
 ここしばらく大江健三郎(1935~)を何十年ぶりかで読んでいる。というか、実は去年「日常生活の冒険」を再読し、一昨年頃に文庫で「河馬に噛まれる」「いかに木を殺すか」を読んだのだが、そこで途切れてしまったのである。僕は大江健三郎だけでなく、谷崎潤一郎ドストエフスキーなどもずっとずっと読みたいと思い続けてきた。何でかというと、「持っている」からだ。改めて買ったり借りたりする必要はなく、「今、そこにある本」なのである。そういう状態はもう何十年も続いてきた。いっぱいあって読み始めると時間が取られるから後回しにしてきたのである。でも、持っているんだから「読まずに死ねるか!」(by内藤陳)である。
(大江健三郎)
 まず最初に「僕はなぜ大江健三郎を読まないようになったのか」を書いておきたい。最近講談社から「大江健三郎全小説」が出て改めて注目された。また、新潮文庫には初期の短編を中心にずいぶん残っているし、講談社文芸文庫にもずいぶん入っている。だから今もそれなりに読まれているんだろうと思う。まあ世の中には川端康成を知らない人もいるんだから(テレビで見た某芸人は知らなかった)、大江健三郎の名前も知らない人もいるだろうけれど。

 それにしても1994年にはノーベル文学賞を受賞したわけだから、名前ぐらい知ってる人が多いだろう。読書家だったら、少しは読んでいるだろう。でも60年代、70年代には単なる小説家を越えて「政治の季節を熱く生きる」ための必読書だった。時代が違ってしまったから、今読み直すとどのように感じるのだろうか。僕は若い頃に大江作品のほとんどを読んでいた。知的で冒険的でイマジネーションをかき立て、さらに性的な描写に満ちていたのも大きい。若い文学ファンを魅了するアイテムがいっぱいだったのである。大江は21世紀になっても多くの長編小説を送り出した。文学賞は一作家一回という規定が多く、若い頃に多くの賞を取ってしまった大江の後期小説は文学賞を受けることがない。僕もその頃になると、全然読んでいない。でも買っていた
(デビュー当時の大江健三郎)
 何で読まなくなったのか。一番の理由は「仕事が忙しかった」ということだ。大江作品は長くて重いうえに、プロットが入り組んでいて、外国語がそのまま引用されたりして読みにくい。社会科の教員は常に本職に関係する本を読まないといけない。(社会科の全分野に精通している人はいないので、得意じゃないところを教えるときには関連の最新知識をインプットしないと不安なのである。)僕が読まなくなったのは、1987年の「懐かしい年への手紙」からである。その年は中学3年の担任をしていて、本が出た10月は私立高校の説明会が毎日のように行われる。僕は某高校へ向かうバスの中で読んでいて、これは今読んでられないと思った。そして高校のある終点まで寝てしまって、そこで一端読むのを中止したのである。以後は「懐かしい年への手紙」から再開したいと思って他の本は買ったままになった。(本は30年以上枕元に置かれていた。)

 しかし、忙しいだけが理由でもないだろう。それなら長期休業中に読めるはずだから。それは「大江健三郎に代わる作家」が現れたということだ。大江健三郎は東大在学中に芥川賞を受賞し、20代から世界に注目される作家だった。その時点では「青春の文学」だったのである。それが次第に変わっていった。それは当然のことで誰でも年齢を重ねて作風も変わっていく。だけど大江健三郎には特別な事情もあった。よく知られているように大江健三郎は高校時代の友人伊丹十三の妹ゆかりと結婚し、生まれた最初の子どもに障がいがあった。「個人的な体験」以後のほとんどの大江作品には、何らかの形でその体験が語られている。長男の大江光の成長とともに、大江文学は「親としての視点」が多くなり「中年文学」になっていった。20代、30代で子どものいなかった僕には村上春樹の世界の方が近くなったわけである。
(ノーベル賞授賞式に向かう大江健三郎と大江光)
 あまり語る人がいないのだが、大江健三郎と村上春樹の世界には共通点が多いと思う。青春の挫折と痛みを卓抜な奇想で描き出す共同体への憧れと絶望がテーマに見え隠れする、性や犯罪の描写を恐れず小説世界を展開するなどなど。いつも穴に落ち込む村上春樹だが、「万延元年のフットボール」を読めば、穴に落ちた最初の作家は大江健三郎だと判るはず。マジック・リアリズムとかグロテスク・リアリズムなどというのも、今では珍しくない手法になっているが、大江健三郎が日本初と言って良い。しかし、大江文学が「中年化」していくと、いつまでも青春している村上春樹の方が読みやすいから、それでいい気がしてしまう。かくして大江作品の新作は買っておくだけで、村上春樹の新作を延々と読み続けることになったのである。

 ノーベル文学賞を1994年に受けたということは、授賞対象作品はずっと前に書かれているわけである。僕が80年代後半に大江作品を読まなくなったのも、「すでに最高傑作は書かれている」と思ったからだ。それは「同時代ゲーム」(1979)である。これはかなり難しいし、方法的にも技巧を凝らしている。この頃から大江はそれまでにも増して「方法的関心」を強め(1978年に岩波現代選書から「小説の方法」を出している)、山口昌男、武満徹、中村雄二郎らと雑誌「へるめす」を出していた。そこに連載された「M/Tと森のフシギの物語」(1986)まで僕は読み続けたが、これは「同時代ゲーム」の完全なリライトだった。まあ「同時代ゲーム」が難しいと敬遠されたから語り直したらしいのだが、何だかもういいよと思ってしまったわけでもある。

 芸術家が年齢とともに「セルフ・リメイク」が多くなっていくのは避けられないのか。小津安二郎の晩年の映画は、娘(あるいは妹など)が「嫁」に行くことを延々と違う形で描き続け、よほど詳しい人でないとどれがどれだか判らない。画家なら終生のテーマを見つければ、「富士山の画家」「馬の画家」などともてはやされ、似たような絵に高値が付く。世界にそれ一枚しかないから、似ていても価値があるんだろう。作家の場合は印刷されて出回るから、似てると避けられる。(エンタメ作品のシリーズは別で、同じテイストじゃないと売れなくなる。)長く読んできた村上春樹作品も、最近は特に短編などデジャヴ感が強まっている。すでに最高傑作を書いてしまったということなんだろう。大江作品も障がいのある子ども、四国の森の不思議な力、外国文学のお勉強など似た感じが強まってしまったので敬遠したのである。

 大江健三郎は「戦後民主主義者」を自認し、核兵器原発問題に常に発言してきた。護憲平和主義者としての立場も常にはっきりさせてきた。だから保守派、右派には読まずに敬遠する人が多いと思う。一方、方法的に難しくなったから、ニュートラルな本好きでも避ける人がいる。「戦後民主主義」を批判した新左翼にも受けが悪い。政治的立場が同じ人でも直接の運動に関わらない大江文学を読まない人が多い。かつて本多勝一は文藝春秋や新潮社のような「右派出版社」から出し続ける大江を批判していたものだ。これは「純文学」雑誌が、新潮(新潮社)、文學界(文藝春秋)、群像(講談社)、すばる(集英社)、それと季刊になった文藝の(河出書房)しかないのだから、小説家にとってはやむを得ないと思う。(昔は中央公論社の「海」や福武書店の「海燕」があったものだが。)性や犯罪の描写も激しいから、それで読みたくない人も多いだろう。

 かくして今や「有名だけど読まれてない」作家になっているのではないか。それはある意味石原慎太郎も同じかもしれないが。僕は今回、大江健三郎を読み直す前に開高健石原慎太郎を読んでみた。文学的現在地の感覚を昔に戻すために。60年代初期にはこの3人が最新の文学だった。その後立場は別れていくが、当時持っていた意味を思い出すことも意味があると思う。同時に石原慎太郎ばかりでなく、大江健三郎もジェンダーやセクシャル・マイノリティ、病気や障がいの語り方などを検討する必要がある。半世紀以上経つと、我々の認識もそれなりに深まり変化してきているのだから。読み始めると長くなって、今後時々書き続けるつもり。今度は途中で挫折せずに読み切るのを目指している。
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夫婦別姓訴訟、最高裁決定を考える

2021年06月24日 22時39分12秒 | 社会(世の中の出来事)
 2021年6月23日に、最高裁大法廷は「夫婦別姓」を定めた戸籍法の手続きを合憲とする決定を下した。最高裁が以前の判断を変えない場合は、「小法廷」で決定を下すのが普通である。今回は15人の最高裁裁判官全員が関わる「大法廷」に回付された。その時点で「何らかの新しい憲法判断」がなされるのかと僕は予想しないでもなかった。結果的には新しい判断はどこにもなかった。2015年の最高裁判決を踏襲する判断でしかなく、その時は少数意見の違憲判断が5人だったのが今回は4人に減ってしまった。
(最高裁で「夫婦別姓」合憲判断)
 僕もよく知らなかったのだが、今回の訴訟は戸籍法の規定によって婚姻届を受け付けられなかったことを受けて、家庭裁判所に家事審判を訴えたものである。裁判ではないので、原決定に対する特別抗告審になる。普通の裁判のような「判決」ではなく、単に「決定」である。裁判のニュースでよく並んだ裁判官を映す画像が出るが、今回はそういう画像もないし「不当判決」といった垂れ幕もない。判決言い渡しがないのである。2015年の訴訟は民法の規定を違憲として賠償を求めた民事訴訟だった。だから形式的に言えば、裁判の形が違っていて「新しい判断」と言えないこともない。それが大法廷に回された理由なのか。
(申立人の主張)
 2015年訴訟を巡っては記事を5回書いた。基本的なことはそこで書いたので、リンクを貼っておく。
「夫婦別姓」問題①-最高裁判決の読み方(2015.12.21)
「女性の進出」問題-夫婦別姓問題②(2015.12.22)
「少子高齢化」の問題-夫婦別姓問題③(2015.12.23)
「子どもの姓」問題-夫婦別姓問題④(2015.12.24)
「事実婚」と「戸籍制度」-夫婦別姓問題⑤(2015.12.25)
 その後も時々触れているが、最近では今年2月に以下の記事を書いた。
「夫婦別姓」に対応しない自民党ー結婚の「規制緩和」が必要だ(2021.2.15)

 「夫婦別姓」は特に奇抜な要求でも何でもなく、もともとは1996年の法制審議会答申で出されたものである。日本が1985年に批准した女性差別撤廃条約によって国籍法が改正され、父親だけでなく母親が日本国籍である場合でも子どもに日本国籍が与えられるようになった。そのような法的整備の一環として、「婚姻年齢の統一」(2022年4月から実施)、「女性のみの再婚禁止期間引き下げ」、「婚外子の相続差別廃止」と並んで、「選択的夫婦別姓」が求められたのである。今や日本にのみ残っている「夫婦同姓強制制度」がなんで変わらないのか。

 それは自民党の一部に強硬な反対論があるからだ。国会議員全体を見れば、野党議員の多くは賛成派だと思われるし、自民党内にも賛成派がいるから「党議拘束」を外せば成立するのではないか。つまり法的な性格を持たない「政党」という私的結社の都合で、「国民の代表」である国会で議論も出来ない。むろん野党側では何度も議員立法として提出しているのである。しかし、国会では与野党共同で提出する以外、議員立法は審議すらされないことがほとんどだ。まして採決まで行くということはあり得ないのである。しかし、それは国会の「慣習」に過ぎない。

 日本の最高裁は政治的問題をめぐる裁判では消極的になることが一般的だ。憲法は「国権の最高機関」を国会としている。だから国会には大きな裁量権があるとするのも理解出来なくはない。しかし、国会が一向に判断を下さない場合はどうなるのか。2015年も、2021年も、多数意見は議論を国会にゆだねた。思い出すのは「一票の平等」をめぐる「議員定数訴訟」である。1976年に初めて違憲判決が出るまでには、門前払いされる訴訟が何回もあった。その後何度も違憲判決が出ているが、それを受けて国会としても選挙区の区割りや議員定数を変えるなどの対策が行われた。まだ完全とは言えないが、最近は「違憲状態」と認めながらも、「選挙は有効」という「事情判決」が出ることがある。
(最高裁裁判官の多数意見、少数意見の顔ぶれ)
 僕は今回はこの「事情判決」が出る可能性があると思っていた。「婚姻届」で「同姓」を求めるのは、憲法違反とまでは言えない。しかし、女性に姓の変更が求められることが多く、働く女性に不利になっている現状は否定できない。それを「事実上の違憲状態」ととらえ、国会が何らかの対応を講じない場合は「違憲」となりうるという論理である。今回はまだ「合憲」だが、国会が結論を出せない場合は違憲判決になりますよという判断である。今も他に行われている裁判があるようだ。自民党がいつまでも放っておくと、いつか必ず違憲判決が出るのではないか。

 「選択的夫婦別姓」は損する人が誰もいない。同姓にしたい人は同姓にすればいいし、結婚制度に縛られたくない人は事実婚のままでいい。もちろん結婚しない、したくない人にも影響しない。「親子の姓が異なるようになる」という人がいるが、今もそういう子どもは、親の離婚・再婚に伴って現実にたくさんいる。日本は古来から夫婦別姓というのも大間違いで、源頼朝の妻は北条政子だと皆習ったはず。保守派が「守るべき伝統」というのは大体が明治以後の「創られた伝統」である。この程度のことさえ解決できない日本の政治では困る。これより大変な問題は何も解決できず、有望な若者が日本を去ってしまう。それを憂えるのである。
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東芝株主総会問題、経産省と菅首相の重大疑義

2021年06月23日 22時38分44秒 | 政治
 日本の株式会社の多くは、国と同じく4月~3月を会計年度としている。前年度の決算の株主総会は3ヶ月以内に開く必要があるから、日本の株主総会は6月末に集中する。昔は「総会屋」を分散させるために「一斉集中日」があったものだ。今は昔よりはバラけて個人株主も出席しやすくなっている。阪急阪神ホールディングスでは例年阪神タイガースの成績不振を延々と問う個人株主がいると言うが、今年は例年にない好調ぶりだから特に質問もなかったという話。まあ、昨年と今年はコロナ禍で株主総会には来ないでくれ(ネットで賛否を表明)と書いてある。そんな中で注目を集めているのが、25日予定の東芝の株主総会だ。
(外部調査報告書の内容)
 東芝と言えば、多くの家電製品を発売しテレビ番組やCMも多かったから、多くの人が小さい頃から名前を知っていただろう。冷蔵庫洗濯機掃除機電子レンジなどの一号機は東芝製だという。1875年に田中久重が創設した工場を発端にして、1939年に「東京芝浦電機株式会社」、1984年に「株式会社東芝」と名前を変えてきた。4代社長の石坂泰三、6代社長の土光敏夫など財界活動で知られたトップも輩出してきた。そんな東芝も2015年に発覚した粉飾決算問題以来、昔日の面影はなくなってしまった。

 携帯電話やパソコン事業を売り、「白物家電」も2016年に中国の「美的集団」に売却した。それでも債務超過が続き、東証1部から2部へ指定替え。半導体メモリ事業も譲渡し、「東芝日曜劇場」や「サザエさん」の提供も取りやめた。このようにして「身売り」を続けながら生き延びたため、一般消費者からは遠くなっているが、その結果、原子炉軍事機器鉄道車両などの重工業メーカーになっているという。政府から見れば、かえって重要性が増しているのかもしれない。
 
 さて、まあ一企業としての東芝の問題なら、ここで書く必要もないだろう。僕が関心を持つのは、東芝経営陣と経産省、政府との不透明な関わりである。株が公開されている以上、外国の投資ファンドなどが買うこともある。今や東芝株の約半数は外国人株主で、中には「ハゲタカファンド」みたいなところもあるだろう。「物言う株主」として配当増などを要求し、株価が上がったところで売り払うようなところである。株主が配当を増やすべきだと主張するのは当然で、それ自体はとやかく言えないが、資本主義のルールだからと言ってそういう投資ファンドも困ったもんだと思う。
(最近の東芝の株主総会)
 とは言うものの、それは民間企業の問題で本来は政府が関与する問題ではない。ところが昨年の定期株主総会で不適切な問題があった。そもそも昨年1月に不正取引が発覚し、それをきっかけに投資ファンド側が株主総会に独自の取締役案を提出した。それは昨年の総会で否決されたのだが、秋になってその時の議決権の集計に不適切な処理があったことが判った。ファンド側が第三者委員会の設置を求めて臨時株主総会の開催を要求、今年3月に開かれた臨時株主総会で調査を求めた提案が可決された。その後にイギリスの別の投資ファンド(CVCキャピタル・パートナーズ)が東芝の買収を提案したが、実はそこが車谷暢昭社長の出身母体だった。さすがにおかしいという声が強く、車谷社長は辞任を余儀なくされた。

 実に面倒な話で、たびたび不正が発覚する東芝はどうなっているんだと思うが、それと別に第三者による調査が発表されたところ、驚くべきことが判った。経済産業省が裏で海外株主に「圧力」を掛けていたというのである。これでは日本の「資本主義」はルールなき「国家管理」であって、中国を非難することは出来ない。東芝経営陣の方から総会前に経産省に支援を求めたのだというが、経産省もそれに応えたのである。経産省参与がハーバード大学の基金運営ファンドに投票の変更を依頼することもあった。経産省は外為法(外国為替管理法)を利用して圧力を掛けたんだという。その過程において、公権力の乱用や国家機密の漏洩などがあった可能性を否定できない。
(調査を否定する梶山経産相)
 ところが驚くべきことに、梶山経産相はこの対応を当然のこととして、調査もしないと明言している。なんで調査せずに問題ないと言えるのか。東芝側の調査報告書に間違いや誤解があるというなら、しっかりと調査するのが当然ではないか。さらに昨年7月27日に加茂正治執行役上席常務菅官房長官(当時)に面談している。菅氏からは「強引にやれば外為で捕まえられるんだろう」という話もあったと報告しているという。もっとも菅首相はそんな発言はしていないと言っているようだが、官邸がここまで介入するのか。これは権力の乱用としか思えないし、これが日本の現実なのかと改めて世界に示すものだ。国会でも是非追求しなくてはいけない。
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超ワイルド! 川原毛大湯滝のド迫力ー日本の温泉⑥

2021年06月22日 22時35分35秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 普段は見てない「鶴瓶の家族に乾杯!」を昨日(6月21日)見ていたのは、四万温泉(群馬県中之条町)が出て来るから。先週フラッと見たら、元サッカー日本代表の中澤佑二が沢渡温泉を歩いていた。沢渡や四万は僕が大好きな温泉で、特に四万温泉は何度も行っている。いろんな番組に取り上げられる四万温泉の「積善館」は日本ベスト級の温泉旅館。最近は外見だけ見て素晴らしいと言う人があるが、外見だけなら長野県渋温泉金具屋の方が凄いと思う。積善館は有名な「元禄風呂」が素晴らしいが、それと同じぐらい料理が美味しい。

 しかし、このシリーズでは四万温泉みたいにテレビの旅番組でよく取り上げられる有名温泉は扱わない。そこで「名旅館」の反対にワイルドな温泉を書いてみたい。日本では温泉法上、金属イオンが一定程度含まれている他に「泉源の水温が25度以上」のものを温泉と呼んで良いことになっている。(25度未満だと「冷泉」「鉱泉」などと呼ばれる。)しかし、地下深く掘れば掘るほど水温が上がる。100メートルで3度上がるともいうから、深く掘って地下水に当たれば大体温泉ということになる。そこで地下千メートルも掘った「温泉」が全国に乱立する。

 法的に認められているんだから、僕が文句を言う筋合いではないが、やはり温泉というのは自然湧出の方が「らしい」と思う。そして自然湧出の極みは、そのまま大自然の中で湯に入れるというものだろう。全国を探せばそういうところが幾つかある。川を掘ればお湯が出る「川湯温泉」(和歌山県)や「尻焼温泉」(群馬県)、宿の前を流れる川がそのまま露天風呂になっている那須の「大丸温泉」などもある。また北海道の知床には滝が温泉になってる「カムイワッカ湯の滝」がある。これは相当行きにくくて、通行止めになっていることもある。僕もまだ行ってない。

 しかし、知床と同じぐらい大胆にワイルドな大自然の湯が東北地方にあることを案外知らない人が多い。それが秋田県湯沢市の「川原毛(かわらけ)大湯滝」である。秋田県東南部で、宮城県の鳴子温泉をさらに奥へ行って県境を越える。東京からだと早立ちしないと一日では厳しい距離だ。ここは川の上流で温泉が湧いていて、滝となって落ちるところの滝壺に入れる。源泉は96度だというが、沢水とブレンドされて滝壺は適温になるという奇跡みたいな滝である。滝に打たれるも良し、その気になれば滝壺で泳ぐも良し。ただ、強酸性なので(PH1.41とウィキペディアに出ている)、注意が必要。
(川原毛大湯滝)
 この湯滝は近くでは有名で、特に夏は多くの人が訪れる。男女とも来るから水着で入ることになっていて、更衣所も出来ている。でもかなり広いし、滝壺も複数あるから休日を避ければ混雑というほどでもないと思う。ここの開放感、ワイルドさは絶対に他では味わえない。車がないと行きにくいが、一度は訪れたい知られざる名所、宝物だ。観光バスで行くプランを見たことがないから、やはり何とか自分で行くしかない。ここに入らずして「ワイルドだろ~」とか言ってはいけない。
(川原毛大湯滝)
 滝は標高700メートルだというが、そこからさかのぼったら(まあ車で登ることになるが)、「川原毛地獄」になる。日本各地で硫黄臭漂うガスが噴出して熱水があちこちから湧き上がる灰色の景色を「地獄」と呼んだりする。日本三大地獄が「恐山」「立山」「川原毛」だと言うけど、川原毛だけ名前を知らない人が多いと思う。箱根の大涌谷、登別温泉や別府温泉の地獄などが有名だが、スケールでは川原毛が圧倒的に大きい。立山は行ってないけど、恐山は霊場として開発されているが、川原毛は荒涼感が強い。ここから強酸性泉が湧き出ているわけである。
(川原毛地獄)
 そこまで行ったら一日では帰れない。泊まるなら泥湯温泉になる。奥山旅館ともう一つがある。奥山旅館は日本秘湯を守る会の会員だが、2016年に火事で全焼した。再建されたようだが、最近はどうなっているのか。名前通り、泥のような成分が沈殿していて凄い温泉だ。ただし、硫化水素で死者が出た事故も起きているので、湯滝は大丈夫だけど、地獄や泥湯温泉には注意が必要。湯沢市には他にもたくさんの温泉がある。前回触れた稲住温泉鷹ノ湯温泉小安温泉郷など。また湯沢といえば「稲庭うどん」の産地でもある。最近は東京にも出店しているけど、「八代目佐藤養助商店」の本店で食べたのも忘れられない思い出だ。
(泥湯温泉)
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ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」(1950)初公開

2021年06月21日 22時25分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの映画監督ロベール・ブレッソン監督(1901~1999)の「田舎司祭の日記」(1950)が公開されている。なんと初公開である。ロベール・ブレッソンは映画史上の巨匠と認められているが、まだ未公開作品が幾つか残っている。あまり大衆受けしない映画ばかり作った監督で、スターは使わず素人を俳優に使ったことで知られる。音楽も使わず、ただ対象を凝視するような映像が続く。自分では「映画」と呼ばず「シネマトグラフ」と呼んでいたという。

 「田舎司祭の日記」(Journal d'un curé de campagne)はフランスの小説家ジュルジュ・ベルナノス(1888~1948)の1936年の小説の映画化である。この本の名前だけは、昔の新潮文庫に入っていたので知っている。文庫には「古典」だけが入っていた時代のことである。ブレッソンが映画化した「少女ムシェット」やモーリス・ピアラ監督が映画化した「悪魔の陽のもとに」の原作者でもある。カトリック作家として知られているが、若い頃は右翼団体アクション・フランセーズの活動家だったり、フランスを去ってブラジルで農場を経営したり、なかなか興味深い人生を送っている。

 「田舎司祭の日記」はブレッソンの長編第3作で、監督のスタイルが確立された映画と言われる。僕は昔第2作の「ブーローニュの森の貴婦人たち」を英語字幕で見たことがある。何だか全然判らなかった気がするが、なかなか独自の映画ではあった。それでもまだ映画音楽があったが、「田舎司祭の日記」では効果音しか使われていない。フランスの有力な映画賞ルイ・デリュック賞を受けた。主演したクロード・レデュは素人だったが、その後テレビの人形劇などで活躍した。

 映画は若い司祭が北フランスの寒村に赴任したところから始まる。司祭は初めての赴任で、さらに病気を抱えている。胃が不調続きで、肉や野菜を食べられずにパンとワインしか取らない。本当に何もないような村で村人も新人を温かく迎えるゆとりがない。自転車で村を回って人々の悩みに応えようとするが、なかなかうまく行かない。日々の思いや悩みを日記に書き付けたのが原作ということになる。それでは映画にならないから、ナレーションを多用しながら、主人公の司祭をずっと追い続ける。他の映画と同じく、ドキュメント的な作り方になっている。

 悩み多き司祭の楽しみは、子どもたち相手の教理問答。しかし、一番しっかりと教理を理解しているセラフィータは司祭に懐かない。村には領主がいて、広い屋敷に住んでいる。子どものためのフットボールチームを作ろうと領主を訪れると、悲しみにくれる夫人がいる。領主のもとには息子と娘がいたが、息子は事故で死んだという。それ以来夫人は神を信じない。夫は家庭教師と不貞しているらしく、娘は寄宿舎に送られると司祭に訴える。一族の悩み多き生活にどう対応するべきか。神を畏れぬ夫人に神の愛を説くのだが…。

 領主一族の問題に関わる内に、村人は彼を非難し司祭の病気は重くなる。その様子がドラマティックに描くけれど、基本的にキリスト教の神をどう理解するかというのがテーマである。だから登場人物にとってドラマなんだなとは理解出来るけれど、遠い感じもする。子どもが亡くなったという悲劇に立ち向かうのに、「神の愛」で納得できるのか。神など存在しないという方が納得できちゃうだろう。そういう風にテーマが日本人には遠いということが、ミニシアター・ブームの中でも公開されなかったんだろう。しかし、今見てもモノクロの力強い映像が印象的で、映画史的な意味でも、キリスト教文化理解の意味でも、重要な映画だと思う。
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都議選から五輪、総選挙へー政局のおさらい

2021年06月20日 22時26分36秒 |  〃  (選挙)
 2021年6月16日(水)に第204通常国会が閉会した。4野党が共同で会期延長を求めていたが、拒否されたわけである。そこで菅義偉内閣不信任案を提出したが、「粛々と」否決されて終わった。自民党の二階幹事長は「不信任案が出たら、総理に解散を進言する」などと脅してきたが、結局それは嘘の脅しだったのだろう。何でも10年前の2011年には、野党だった菅義偉議員が、当時の菅直人首相に国会延長を求めていたという。それを受けて、菅直人内閣は8月30日まで大幅に会期を延長した。だからこそ、民主党内閣は自民党に政権を奪還されたのだろう。

 今までのケースでは、国会で様々な問題が追及されると内閣支持率が下がり国会を開いていない間に少しずつ支持率が上がって行くというパターンが(少なくとも安倍内閣では)多かった。今回は東京五輪、パラリンピックのあり方コロナ感染者やワクチン接種の事情など予測出来ない問題も多いが、いずれにせよ国会を開いてない方が政権には都合がいい。

 もうすでに、河井克行元議員の実刑判決東芝株主総会への経産省関与問題平井デジタル改革相のパワハラ・談合疑惑など目白押し。今後「赤木ファイル」開示、菅原一秀元議員の略式裁判夫婦別姓訴訟の最高裁判決等と続く。その中で「五輪観客問題」の結論を今月中に出すという。国会を開かないのなら、首相自身(官房長官ではなく)記者会見して国民にきちんと説明するべきだけど、もちろんそんなことはしないのだろう。

 国会に限らず、五輪開催なども、すべては「10月(予定)の衆議院選挙」に有利かどうかが判断基準になる。つまり首相は「五輪の有観客開催」が「国威発揚」につながり、選挙に有利だと判断しているわけでなる。そう上手く行くかどうか。僕には判断しようがないが、五輪をきっかけに支持率が反転上昇して、選挙では自公で過半数を獲得する(菅氏が自民党総裁を続投する)という可能性は「かなりある」と思っている。逆に言えば、首相としてもそこに賭けるしかない。

 ところで、五輪、総選挙を前にして、都議会議員選挙がある。6月25日告示、7月4日投開票なので、もう間もなくである。国政選挙がある年は、都議選の結果がその後の選挙結果に連動することが多い。2009年には民主党が都議会第一党となり、直後の総選挙で民主党の政権交代につながった。2001年には小泉首相誕生直後に自民党が都議会で圧勝し、直後の参院選でも自民党が圧勝した。前回2017年は「都民ファーストの会」が躍進して、自民党が大敗した。

 2017年秋の衆院選では小池都知事が「希望の党」を結成し、民進党(当時)も加わって「政権選択」になるはずだった。小池氏による「排除」発言から「立憲民主党」が誕生し野党第一党になるという結果になったが、逆の意味で都議会選挙が中央政界に波及したわけだ。
(現在の都議会勢力分野)
 では今回はどうなるだろう。今の段階で言えることは少ないが、「都民ファーストの会」が激減し、その分「自民党」と「立憲民主党」が増えることは大きな傾向としてはっきりしている。どっちの傾向が大きく出て来るかは、今のところはなんとも言えない。そもそも「都民ファーストの会」は前回「風」だけで当選した議員が多く、名前もあまり浸透していない。小池知事が前面に出れば別かもしれないが、今回は「コロナ対応」「五輪」を理由にして知事は「静観」などと言われている。政権をあまり刺激したくないとも言うが、秋の衆院選に自民党から出馬して国政復帰説もあるらしい。
(都議選の投票意向調査)
 都議選は1人区も多いが8人区まであって、予想が立てにくい。1人区は順当なら自民党以外は当選が難しい。そこに前回は公明の支援を得た「都民ファーストの会」が席巻することになった。今回公明は自民支援に戻ったので、常識的には1人区はほとんどが自民党だろう。菅内閣のコロナ対応への低評価、相次ぐ議員の不祥事などが自民党の得票にどの程度影響するか。それは秋の衆院選を占うことになるだろう。

 もう一つの大注目は公明党の得票。今回は新人を含めて23人を立て、現状維持を狙っている。選挙上手なだけに全員当選の可能性は高いと思うが、新人が立つところでは取りこぼしもあるかもと言われている。問題は得票数である。実は公明党というか創価学会が一番力を入れるのは都議会選である。国政選挙の時は全国すべてで選挙をしているんだから、東京だけに力を入れるわけにはいかない。都議選の時は東京しか選挙をやってないから、全国から支持者が動員される。遠い遠い縁をたどって電話を掛けてくるのも、今や都議選の公明党ぐらいだ。

 都議会は公明党発祥の地でもあり(公明党以前の「公明政治連盟」も出来ていない時代、最初に選挙に乗りだしたのは首都圏の地方選挙だった)、歴史的に重要視されてきた。しかし、コロナ禍で昨年から創価学会や公明党の地道な集会はほとんど開けていないという話である。支持者の高齢化でどの党も集票に苦労しているが、公明党も支持者の活動が鈍っているのかどうか。その試金石が都議選で前回票に比べて、どのような出方になるかで判断出来るだろう。

 共産党は現有18議席が、微増、微減、現状維持のどれになるか微妙なところ。立憲民主党は前回民進党が壊滅的だっただけに、今回はそれをどこまで取り戻せるか。増えるのははっきりしているが、大選挙区の最後の方がどうなるかは今の段階ではなんとも言えない。「都民ファーストの会」の票の出方とも合わせて、秋の衆院選を予見する結果になるか。ホントは五輪から衆院選の話まで書きたかったのだが、都議選だけで長くなってしまった。まあ地元だけに都議選には関心があるので悪しからず。
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「豪姫」という失敗作と宮沢りえー勅使河原宏監督の映画⑥

2021年06月18日 22時47分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の最後の長編劇映画は「豪姫」(1992)である。これは公開当時に見たけれど、失敗作だなと思った。その後見直す機会もなかったが、せっかくの監督特集だから見てみることにした。劇場で見られることも少ないので貴重である。しかし、やっぱりこの映画は間違いなく失敗作だ。キネマ旬報の昔のベストテン号を調べてみたら、37位だった。1位が「シコふんじゃった。」、2位「青春デンデケデケデケ」、3位「阿賀に生きる」、4位「紅の豚」という年である。勅使河原監督の他の長編は全部ベストテンに入選しているのである。キネ旬ベストテンも今見ると不思議な結果もあるけれど、これは理解出来る感じがする。
(「豪姫」)
 ここでは「失敗の理由」を考えてみたい。「豪姫」は実在の人物をモデルにした富士正晴の同名小説の映画化。秀吉から家康へと移り変わる時代を背景に、茶道で有名な戦国大名、古田織部豪姫の長い関わりを描いている。タイトルロールの豪姫宮沢りえで、それが最大の売りになっていた。そこで「利休」が評価された勅使河原宏に声が掛かって、豪華で高い美意識で作られたセットが作られた。草月流が全面協力するのも前作と同じ。

 つまり企画が二番煎じなのである。さらに「千利休」と言えば誰でも知ってるが、「豪姫」を知ってる人は少ないだろう。原作も野上弥生子秀吉と利休」から富士正晴豪姫」へ。野上弥生子の原作は女流文学賞を受賞し、高く評価された。それに比べて富士正晴の原作を知っていた人は少ないだろう。企画自体が「利休」の縮小再生産だったのである。そして見てみれば、豪姫以上に古田織部(仲代達矢)の存在が大きい。利休に比べれば、古田織部は知らない人が多いだろう。
(仲代達矢演じる古田織部)
 では、どうしてこの企画が成立したのだろうか。それは主演の豪姫に宮沢りえをキャスティングして、10代の代表作を作りたかったんだろう。実在の豪姫(1574~1636)は前田利家の娘として生まれ、子どものいなかった羽柴秀吉の養女となった。数え年2歳の時のことで、織田家臣団の中で秀吉、利家の絆は固かったのである。秀吉に愛され、男ならば関白を譲ると言われたらしい。しかし、そうもいかないから、秀吉の猶子だった宇喜多秀家(1572~1655)に嫁いだ。秀家は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、八丈島に流罪となり半世紀を生きて亡くなる。

 つまり、宮沢りえは「二人の豪姫」を演じなくてはならない。秀吉のもとでお転婆な10代と、夫と遠く別れて実家の前田家に幽閉されて生きる30代を。かなり頑張っているものの、この演じ分けは相当に苦しいように思う。さらに実際の豪姫にとって一番重要な人物である宇喜多秀家が出て来ない。話には出て来るけれど、キャストにはない。代わりに古田織部の下人「ウス」(永澤俊矢)が重要な役として出て来る。この架空の人物は豪姫と一緒に利休の首を取りに行く。その他肝心の場面に出てきて豪姫の役に立つ。映画の中心部はむしろ山中に逃れて生き延びるウスの物語だ。永澤は新人で頑張っているが、アクションはともかくセリフ回しは違和感が大きい。
(竹のトンネルの中で)
 「豪姫」と銘打ち、宮沢りえが主演とうたいながら、宮沢りえのシーンが少ない。出ていても後半は難役で10代では苦しい。古田織部はラストで家康から切腹を命じられるが、その政治的意味合いは利休の死ほど大きくない。脚色は「利休」に続いて、赤瀬川原平勅使河原宏。前作「利休」に引きずられている気がする。ほとんど似た感じで、物語の凝縮性だけが薄くなった。これでは失敗作になるのも無理はない。ただし、勅使河原宏流の美学は見どころがある。特に前田家預かりの屋敷にある「竹のトンネル」。「利休」にもあったし、熊野本宮で行われた舞台「すさのお異伝」でも、「」が使われている。晩年の勅使河原にとって竹は大きな意味を持っていた。
 
 宮沢りえは1973年4月6日に生まれている。映画の公開は92年4月11日なので、19歳になったばかり。撮影は18歳の時に行われたのである。篠山紀信の写真集「Santa Fe」は1991年11月13日に出版された。10代半ばからモデル、俳優、歌手として活動していたが、社会現象化したのは「Santa Fe」からだろう。そして1992年11月27日に関脇貴花田(後の横綱貴乃花)との婚約が発表された。2ヶ月後に破談となったが、様々な人生行路があり得た中で10代最後の1992年には2本の映画が公開されている。「豪姫」と「エロティックな関係」(若松孝二監督)である。
(映画「エロティックな関係」)
 「エロティックな関係」はフランスのレイモン・マルローの小説を映画化した「エロチックな関係」(長谷部安春監督)のリメイクである。舞台はパリに戻している。これは内田裕也北野武らが「10代の宮沢りえをフィルムに残したい」という思いで企画したらしい。僕はむしろこっちの映画に「すったもんだ時代」の宮沢りえの魅力が封印されている気がする。21世紀になって、宮沢りえの演技力と存在感は誰しも認めるものとなった。大竹しのぶを継ぐ大女優は宮沢りえだろう。そんな宮沢りえの10代の日々が残された。「豪姫」という映画の映画史上の意味はそこにあるだろう。
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「他人の顔」と「燃えつきた地図」ー勅使河原宏監督の映画⑤

2021年06月17日 22時46分39秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督には7本の長編劇映画があるが、今回頑張って全部見直したので書いてしまいたい。勅使河原宏は才能と環境に恵まれて、様々な業績を残した。その中で一番価値があると思われるのは、60年代に安部公房作品を続けて映画化したことだ。いずれも作家本人が脚色し、武満徹が音楽を担当した。武満徹の音楽は映像や脚本と同じぐらい印象的である。安部公房(1924~1993)は68歳で亡くなったためにノーベル文学賞を得られなかった。生前はその超現実的、SF的な設定で鋭く人間存在を追求する作品が世界的に評価されていた。

 安部公房と勅使河原宏は1950年に「世紀の会」というグループを結成したときからの仲間だった。62年の「おとし穴」(テレビドラマ)、64年の「砂の女」に続き、66年の「他人の顔」、68年の「燃えつきた地図」を映画化している。二人のコラボレーションは70年の大阪万博用に作られた「1日240時間」まで続いた。「砂の女」が間違いなく最高傑作だが、前に書いた。ここでは「他人の顔」と「燃えつきた地図」について書きたい。
(「他人の顔」)
 映画「他人の顔」は傑作だが、むしろ「怪作」と言うべきかもしれない。仲代達矢演じる化学会社の社員は、工場で爆発事故があり顔面全面に大ケガを負った。そのため顔を包帯で巻いて暮らしている。異様な姿なのだが、顔のケガが激しすぎて人目にさらしたくない。妻の京マチ子にも包帯姿で接している。精神的に不安定な仲代達矢は、平幹二朗の精神科医に通っていて、平はよく出来た仮面もあるという。仲代は樹脂製のマスクを顔に付けて、違う人格を持ったように感じる。仲代、平の戦後を代表する名優が丁々発止とやり合う場面は見応えがある。
(安部公房)
 磯崎新が加わった美術も素晴らしく、特に平幹二朗の病院は魅力的というよりホラー映画に出てきそうなキレイすぎて怖い病院である。「砂の女」だった岸田今日子が「看護婦」をしているのも怖い。この映画は最初はずいぶん前に見て、その「前衛」的作風、音楽や美術を含めて何という凄い映画だろうかと感心した。しかし、数年前に見直したら、何だか気持ち悪い映画だなあと思った。特に仲代が別の顔(それは仲代達矢の顔そのものだが)を持つことによって、別宅を用意して妻を「誘惑」するという展開が「」である。そこまで妻に執着するんなら、素顔をさらせないものか。別の顔を持てたのなら、違う女性を誘惑したくならないのか。
(マスク=仲代、奥の男=平)
 映画は基本的に小説と同じ設定だが、ラストが違っていると言う。(読んだのは大昔なので忘れたが。)いずれにせよ「大衆社会」の中でアイデンティティを失っていく個人を描いている。映画になった三作は安部公房の「失踪三部作」と呼ばれ、もっとも油が乗っていた時代の作品だ。ミステリアスな世界にたたずむ現代人。「本当の自分」とは何だろうか。映画には「ケロイドの女」(入江美樹)も登場する。長崎の被爆者と思われる設定。この女性の描き方を見ると、「他人の顔」は「ルッキズム」(外見にもとづく差別)を先駆的に考察している。妻役の京マチ子が新鮮、秘書役の村松英子、ヨーヨーに取り憑かれた管理人の娘市原悦子も見事。ビヤホール「ミュンヘン」で歌う女に前田美波里。そこの客として安部公房が写っている。キネ旬5位。
(仲代と京の夫婦)
 1968年の「燃えつきた地図」は勝新太郎主演の「前衛的」探偵映画という作りになっている。原作自体がミステリーとして書かれていて、基本的には原作の設定通り。勝新がはまり役かミスキャストかの判断が難しいが、出来映えは三作の中では低いだろう。でも、僕は原作も映画も好きなのである。キネ旬8位。興信所の調査員(勝新太郎)が失踪した男の調査を頼まれる。男が持っていたマッチをもとに「椿」という喫茶店を訪ねるが、店主の信欣三、店員の吉田日出子の対応は素っ気なく、何か怪しい感じ。出てみると、妻の弟という人物が待っている。依頼人(男の妻=市原悦子)は情報を隠しているようだ。
(「燃えつきた地図」)
 妻の弟はヤクザで、男の日記を持っているという。翌日日記を求めて付いていくと工事現場に連れて行かれる。そこで抗争が起こって弟は殺される。男が失踪当日の朝呼び出したという同僚田代(渥美清)とも会うが、何を言いたいのかよく判らない。ヌード写真を撮るという店に連れて行かれるが、情報は得られない。右往左往させられた挙げ句、田代はこれから自殺すると電話してくる。追っても追っても正体が判らない男を東京の外れを延々と探し回る。そのうちに探偵自身が自分のアイデンティティを失っていく。まあ筋があるような、ないような映画だが、当時の東京の描写が魅力的だ。まだ貧しさもあるが、「交通戦争」と呼ばれた時代だけに車が多い。
(勝新が東京を行く)
 勝新太郎は勅使河原宏の演出を見ていて、これなら自分も監督が出来ると思ったらしい。「我らの主役」というテレビドキュメンタリーでは「テシさん、テシさん」と呼んで私淑している様子が判る。そして現実に作った監督第1作「顔役」(1970)は確かに「燃えつきた地図」っぽい。カメラのアングルなど監督の好きなように回している。勅使河原はテレビ版「座頭市」も演出したとは知らなかった。「虹の旅」を見たが、中村鴈治郎、井川比佐志などが脇を締めて、勝新太郎の市は安定した面白さだった。もう一つの「夢の旅」こそ面白そうだったが見逃した。
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雨の日と月曜日はー気象病には「くるくる耳マッサージ」

2021年06月16日 22時34分11秒 | 社会(世の中の出来事)
 カーペンターズの「雨の日と月曜日は」を初めて聞いたとき、アメリカ人でも同じなんだなと思ったもんだ。僕にとってカーペンターズは同時代の懐かしさに満ちた曲ばかりで、今でも時々聞くことがある。「トップ・オブ・ザ・ワールド」とか「イエスタデイ・ワンスモア」とかと並んで、「雨の日とと月曜日は」(Rainy Days And Mondays)は昔から好きな曲だ。

 Rainy days and Mondays always get me down
 (雨の日と月曜日はいつも気が滅入ってしまう)

 その通りだと僕は思ったけど、その頃は「」より「月曜日」が問題だった。ちょうど高校生になった頃で(1971年の曲)、別に授業や学校が嫌なわけではなかったけれど、それでも休みの日の方がずっと良かった。それはまあ仕事をするようになっても大体は同じような気持ちだった。一方、「」の方は、傘を持っていくのが面倒だったり、急な大雨だと濡れるのが嫌だったりはするけれど、要するに「メンドー」なのが困るだけだった。

 年齢を重ねると、確かに雨だと体調が優れないことがあるようになった。別に病気というわけではないけど、だるかったり眠かったりが快晴の日より甚だしい。また季節を問わず、「季節の変わり目」が良くない。腰が痛くなったり、寝付きが悪くなる。特に夏が近づくと、電車の冷房が厳しくなる。これが体の不調の最大要因になる。特に体の中で体温が低い「」が冷えすぎて、困ってしまう。自然に耳に手を当てて温めているんだけど、最近「くるくる耳マッサージ」という言葉を知った。
(くるくる耳マッサージ)
 そういう気象による体調変化を「気象病」という。これは低気圧が近づくことで起こる。周囲の気圧が下がると、体内の圧力の方が高くなる。そうすると、内部の圧と、外部の圧の総和が一致するように変化する「パスカルの法則」が体内で起きる。気圧低下によって、自律神経は副交感神経に偏り体がだるくなったりする。また、体が膨張しやすくなり、めぐりが悪い、むくみやすい、古傷がうずくなどの症状が起こる。気圧の影響を体がコントロール出来ず、痛みや痺れ、気怠さなどの症状が起こる。まあ、そういうことである。
(気象病のメカニズム)
 この気圧変化を感じ取り脳に伝達するセンサーが、耳の奥の「内耳」である。内耳を満たすリンパ液の循環が悪化すると、気圧変化に敏感になって自律神経が乱れやすい。だから内耳の血流をよくする「くるくる耳マッサージ」が効果的なんだという。なるほどね。実際確かに効果はあるような気がする。空気の圧力なんて普段は全然感じてないわけだが、実際には10ヘクトパスカル気圧が低下すると、1平方当たり空気の重さは100キロ近く減少するという。そんな圧力に人体は対応して、何も感じないように出来ているのである。
(梅雨時の気象病)
 特に梅雨時は雨が多いだけでなく、急に湿度が高くなり「高温多湿」な日本の夏になる。体が適応できない人も多くなるはずだ。そんな時に「気象病」と認識するだけでも意味がある。耳のマッサージなどを知ってると役立つと思って書いておく次第。今回の記事は東京新聞6月15日付「梅雨つらい頭痛なぜ? 自律神経乱れ血行不良に」の情報を基にしています。
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イスラエルの政権交代をどう考えるか

2021年06月15日 23時32分48秒 |  〃  (国際問題)
 イスラエルで12年間続いていたベンヤミン・ネタニヤフ政権がついに交代した。3月23日に行われた(直近2年間で4回目の)総選挙の結果、ネタニヤフ首相の反対派が合同して「8党連立政権」が誕生して、ベネットが首相に指名された。しかし、事前報道によれば「与党連合」は62議席あったはずだが、首相の信任投票の結果は賛成60,反対59、棄権1だった。薄氷の結果である。「8党連立」なんて言うと、僕は1993年の細川政権の「8党派連立」を思い出してしまう。ベネット政権は細川政権よりも長持ちするだろうか。
(ベネット政権が成立)
 他国のことではあるものの、イスラエルの政治状況は世界の中で大きな意味を持っている。また「拘束名簿式比例代表制」という、それ自体は珍しくはないけれど、完全に比例代表オンリーというある種珍しい選挙をやっている意味も考える必要がある。イスラエルではここ数年右派のリクード党首の「ネタニヤフか」、それとも「反ネタニヤフか」で国論が分裂していた。2019年4月20日、9月17日、2020年3月2日、2021年3月23日と4回も選挙が行われたが、安定政権が出来なかった。今回も第1党は30議席のリクードなのでネタニヤフが政権続投を目指したものの挫折した。
(ネタニヤフ前首相)
 続いて第2党のイエシュ・アティド(未来がある=中道系、17議席)のヤイル・ラピド党首が組閣工作を行い、期限の6月2日に連立協議がまとまった。それは極右のヤミナ(7議席)党首のベネットを最初の2年間の首相とし、イスラエル政治の「禁じ手」であるアラブ政党も加えて、何とか過半数を成立させるというアクロバット的な連立である。しかし、ネタニヤフはなかなか国会を開かず、その間に連立切り崩し工作を進めた。ようやく13日に国会を開き、その結果連立政党から少し引き抜いたものの、棄権1があったためにベネット政権が信任された。

 イスラエルの国会(クネセト)は全部で120議席だが、過去の選挙で過半数を得た政党が存在しない。それでは政権成立が困難になるし、現にこの2年間の政治状況は停滞と言うしかない。じゃあ、他国のように「小選挙区」にすれば良いではないかというと、それは出来ない。「ユダヤ人国家」であるとともに「民主主義制度」を取るイスラエルでは、極端な「ユダヤ教正統派」である「シャス」(9議席)や「トーラー」(7議席)、そして「宗教シオニズム」(6議席、ヤミナから分裂)などが当選出来る制度でないといけない。以上3党派はネタニヤフ支持だった。

 一方、「イエシュ・アティド」(17議席)に加えて、「青と白」(8議席)が中道系。「労働党」(7議席)と「メレツ」(6議席)が左派リベラル系。かつてネタニヤフの下で外相を務めたリーベルマンが率いる右派「我が家イスラエル」(7議席)、リクードから分裂した右派「新しい希望」(6議席)、そして「ヤミナ」(7議席)は首相を出したが以前はリクードと連立していた右派。ここにアラブ系政党「ラーム」(4議席)が加わった。これでようやく62議席である。

 リクードとネタニヤフ支持の宗教政党合計は52議席である。そこで何とか政策が近い右派系政党を抱きこもうとしたが、どれもネタニヤフに反発が強く成立しなかった。他にアラブ系政党「合同リスト」が6議席ある。パレスチナに住むアラブ人は、ユダヤ国家建国とともに全員が難民になったわけではない。イスラエルに残っても「二級国民」扱いされることが多いが、それでも民主国家のタテマエ上アラブ系政党の立候補を拒めない。比例代表だと10議席ぐらいを獲得するわけである。しかし、アラブ系政党には右派のベネット首相を支持できない人もいたわけだ。一方、右派の中にもアラブ系と協力して政権を作ることに抵抗があって、何人かが切り崩されたわけである。
(ネタニヤフ退陣を喜ぶ人々)
 ネタニヤフはイスラエル史上最長の政権を維持してきた。1996年に一回目の政権を担ったが、1999年に労働党のバラクに敗れた。その後リクード党首もシャロンに敗れたが、2009年6月に首相に復帰した。その後、2013年、2015年の選挙にも勝って長期政権を維持していた。第1次政権時からスキャンダルが多く、現在は汚職などで起訴されている。そういう人が首相になるというのは他国では考えられない。しかし、右派的政策を強引に進めて、国民の中には熱烈な支持者がいる。「ビビ」という愛称で呼ばれて人気もあるが、反対派から見れば政策的にも人格的にも受け入れがたい。これはドナルド・トランプや安倍晋三に似ている。

 この間もガザ攻撃や世界に先駆けてのワクチン接種など、何とか続投狙いの政策を進めていた。しかし、反ネタニヤフの方が優先するという議員の方が多かった。とはいえ、政策的にこれほどかけ離れた「呉越同舟」を絵に描いたような連立も世界史上に珍しい。明日にも崩壊してもおかしくないが、逆に揉めそうなことは何も手に付けず、ワクチン接種を生かして経済再建のみを手掛けたら案外支持が高くなるかもしれない。2年後にはヤピド首相への交代が予定されているので、とにかく2年間持たせるのが目標だ。有利なのは、ネタニヤフがトランプに近すぎたため、バイデン政権がベネット政権に親和的になるだろうことだ。さて、どうなるだろう。
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「おとし穴」と60年代前衛映画ー勅使河原宏監督の映画④

2021年06月14日 22時56分53秒 |  〃  (日本の映画監督)
 勅使河原宏監督の最初の長編映画「おとし穴」は、今見ても驚くほど新鮮な「前衛映画」である。見るのは3回目で、若い頃に初めて見たときはよく判らなかった。前回は3年前に「砂の女」と二本立てで見た。その時は久方ぶりの「砂の女」に圧倒されて「おとし穴」の印象が薄かった。今回はさすがに筋立ては覚えていて、映像や構成に注目して見たのだが、改めて感じるところが多かった。撮影監督の瀬川浩によるモノクロの美学はこの映画で完成していたことが判る。

 「おとし穴」は1960年10月20日に九州朝日放送から放送された安部公房のテレビドラマ「煉獄」の映画化である。当時のテレビのことだから、放送時の映像は残っていないと思われる。筑豊のある炭鉱で、第二組合の委員長とそっくりの人物が殺される。1960年は「60年安保闘争」の年だが、「総労働対総資本の対決」と言われた三井三池炭鉱の大争議の年でもあった。九州ではその印象はさらに強かっただろう。三池争議では第一組合から第二組合が分裂したり、またピケ中の組合員が暴力団に殺される事件も起こった。だから、このドラマはどうしても三池争議をモデルにした社会派ドラマと思われただろう。
(第一組合と第二組合の委員長が対決)
 冒頭では炭鉱の厳しい労働を嫌って逃げ出した二人の労働者が、農民を欺して石炭が出るかもと掘削のフリをしている。そこからも逃げだし、港で荷運びをする。そこからまた炭鉱で働こうとするが、その時仕事をあっせんする下宿の主人から「ある場所」に行く仕事を持ち掛けられる。前に謎の男から写真を撮られていて、その写真から依頼されたのである。この労働者は名前がなく「抗夫A](井川比佐志)とある。写真を撮っていた男も名前がなく、いつも白い服を着てスクーターに乗って現れる「謎の男」(田中邦衛)である。

 冒頭は社会派風だが、その後Aが指定の場所に行くところから、不条理劇のムードが強まる。炭鉱のボタ山や人のいない炭住(炭鉱労働者向けの住宅)をモノクロで撮った「光と影」がすごい迫力だ。炭鉱や金属鉱山のあったところでは、つい最近までこういう風景がよく見られた。「ノマドランド」と同じである。その寂れた中を太陽だけが照りつける。ただ一人残っているのは、駄菓子屋の女佐々木すみ江)である。Aは駄菓子屋で場所を訪ねるが、指定場所は人気のない道である。そこで謎の男が現れて男を殺す。

 死んだ男から幽霊が抜け出て、自分は何で殺されたのだろうと言う。この映画では死んだ人間が幽霊になって、自分の死体を見つめる。謎の男はその後駄菓子屋に行き、事件を目撃していた女にニセの証言をするように依頼して大金を渡す。男の死体を見た新聞記者は、これは第二組合の委員長だという。しかし、電話してみると委員長の大塚井川比佐志)は生きている。話を聞いた大塚は、犯人はハゲがあるというニセ証言を聞いて、それは第一組合委員長の遠山に似ていると思い、これは謀略だと直感した。大塚は遠山を呼び出して会うことにするが…。謎の男が再び戻ってきて、駄菓子屋の女も殺してしまって…。
(反転する田中邦衛)
 謎の殺し屋をスタイリッシュに演じる田中邦衛は非常に印象深い。田中邦衛の映画では特殊な役柄だが、実に存在感の強い俳優だと実感させられる。たまたま第二組合委員長のそっくり男が見つかったので、謀略による第一組合潰しが仕組まれた、と筋を合理的に理解することは出来る。しかし、映画を見た触感はそういう社会派的な感じよりも、謎めいた語り方による不条理劇という感じが強い。60年代は白黒からカラーへと移り変わる時期だったが、60年代に数多く作られる「前衛」映画はモノクロが多い。その一番最初が「おとし穴」だった。

 その頃、外国のアート映画を日本に紹介しようという「日本アート・シアター・ギルド」(ATG)が創設され、ポーランドの「尼僧ヨアンナ」を皮切りに続々と名画が公開された。日本映画も上映したが、その一番初めが「おとし穴」だった。ATGあってこその勅使河原作品だった。その後60年代末には自主製作に乗り出し「1千万円映画」を作るが、その大部分も白黒映画だった。その意味でも「おとし穴」の貢献は大きい、1962年のキネマ旬報ベストテンで8位に選出されている。
(プリペアド・ピアノ)
 今回音楽を担当した高橋悠治のトークがある会を見た。高橋悠治は若い頃に「水牛楽団」をやっていたときに何度も聞いているが、話を聞くのは久しぶり。もう80を越えているが元気そうだった。「おとし穴」の音楽は音楽監督として武満徹、他に一柳慧(いちやなぎ・とし)と高橋悠治がクレジットされている。この顔ぶれも凄いが、映画の音楽も実に素晴らしく「前衛」ムードを出す。武満がスコアを書いて、3人で演奏したらしいが、プリペアド・ピアノを使うんだという。それ何という感じだが、ピアノの中にゴムや金属などをセットして(プリペアして)、音色を打楽器的に変えるんだという。知らないことは多いもんだと思った。
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