2016年も残り少なくなり、書かずにいた問題をいくつか書いてしまいたいと思う。「教育問題」について、折々に書きたいと思いながら、そのままになることが多い。今年の「教育事件」としては、「いじめ問題」がかなり多かった。前回この問題を書いたのは、2013年末の「いじめ防止対策法はできたけれど…」である。法成立から数年たって、そこで書いたように「形骸化」しているのかもしれない。
最近の傾向として、「ネットいじめ」が特に多いのと、「原発事故避難者」へのいじめという問題が起こったことが挙げられる。日本も含めて世界中に、理想社会などどこにもない。どこも不完全な社会に、不完全な人間が住んでいるのだから、さまざまな社会問題、オトナ社会のゆがみが子ども社会に反映されてくる。それにしても、「原発事故」という日本にとって非常に衝撃的な出来事が、こうして矮小化されていくのかと思うと、「これが今の日本なんだ」と痛感する。
文科省の有識者会議は、いじめ防止対策を議論した結果、「自殺予防、いじめへの対応を最優先の事項に位置付ける」と提言するそうである。(朝日新聞2016.10.25)一見して、いいこと、当然のことのように思われるが、恐らく「教師いじめ」としてしか機能しないだろうと思う。新聞に載るようないじめ事件は、教師人生で一生に一度あるかないかである。(というか、普通はない。)いじめ対応が「最優先」と言われても、毎年必ずある「全国学力テスト」の方が目の前の課題に決まってる。テスト結果を公表し、それが学校評価に使われ、教員の評価にも関係してくるといった「競争的教育政策」をそのままにして、「いじめ対策が最優先」と言われても…。
学校という職場は、企業として考えれば「小企業」である。業種ごとに多少違うが、「中小企業」というときの「中」に入るには、従業員数100人超が必要だろう。教職員が100人超なんて学校は大学しかないし、小規模の小中学校では20人~30人程度だろう。そこに〇〇委員会をやたらに作っても機能するのは難しい。僕が先に書いたように、「学年会」と「生活指導部会」がきちんと機能する方が大事だ。そこがいじめ防止の最前線であり、いじめ問題が広がる前に事前対策を打ち出せるのは、当該生徒を抱える学年教員団しかない。そのためにはどうすればいいか。
それなのに、「認知件数少ない自治体に『指導を』」などと先の新聞記事にある。それじゃあ、教師が頑張って、大きないじめが発生していない学校はどうなるのか。いじめる生徒がいないと困ってしまうではないか。本末転倒もきわまる事態になる。どうするかと言えば、大した事件でもないものを、いじめ認知も少しは必要だからと「格上げ」して報告し、「解決に至った」とするしかないだろう。管理職の作文能力がより必要になるということなんだろう。
昨今のニュースで報じられたいじめ事件に関しては、学校側が「家庭がいじめとして相談しなかった」とか、たかり行為がひんぱんに起こっていながら危機感を持たないなど、ちょっと考えられない事態が多い。「いじめ」を法的に規定したために、一種の行政用語になってしまい、「いじめかどうか」といった問題で堂々巡りをしてしまう。「いじめ」だとしたときに、指導や報告の義務を大きくし過ぎると、現場的感覚で「まあ、いじめとまで言わなくてもいいんじゃないですか」となりやすい。
背景にある「教員多忙問題」を何とかしない限り、同じようなことは繰り返されると思わないといけない。大体、文科省や政治家が要求しているのも、「いじめなんか起きないように、生徒をよく管理するように」と、教師の「生徒管理能力」を高めたいという発想が強い。それでは「教師の前では、管理された言葉しか使わない子ども」を量産するだけである。
「教員の人権センサー」をみがき、子どもたちの中の暴言、暴力にひそむ反人権文化を変容させていくといったことは考えていないだろ。そういう「人権センサー」のすぐれた教員は、当然のように教育行政の問題点にも敏感になるし、子どもたちの現実批判力も付けてしまう。本来は教師が主導して、子どもたちの中の人権感覚を高め、自らいじめ撲滅につながる試みをしていかないといけない。
原発事故避難者へのいじめ多発が報じられる今こそ、「原発事故とは何か」「原発は今後どうすればいいのか」を、教師も子どもも、また保護者も含めて、自由闊達に討論する場が必要なはずだ。でも、そんなことはできないんだろうと思う。政権の原発維持方針がはっきりしているから、「政治的中立を冒す」とかなんとかいう輩が出てくる。少なくともそういう心配をする人がいる。でも、学校でその問題をタブーにしていながら、子どもへのいじめだけは防ぐということはできるのか。いや、それはいいから、タテマエを言い続けろということか。
これも以前に書いているが、「いじめゼロ」は学校目標ではない。「思いやりのある子どもを育てる」とか、そっちの方が目標である。目標達成に近づけば、自然にいじめは減るわけだ。そのためには、「子どもが生き生きとした学校」でなくてはならない。そして、さらにその前に「教師が生き生きとした学校」でなくてはいけない。いまの教員は、毎日学校で楽しいんだろうか。子どもたちのこと以前に、僕は最近はまずそっちが心配になるんだけど。教師が生き生きとして、知的活力にみちて働いている学校は、どれだけあるんだろうか。
最近の傾向として、「ネットいじめ」が特に多いのと、「原発事故避難者」へのいじめという問題が起こったことが挙げられる。日本も含めて世界中に、理想社会などどこにもない。どこも不完全な社会に、不完全な人間が住んでいるのだから、さまざまな社会問題、オトナ社会のゆがみが子ども社会に反映されてくる。それにしても、「原発事故」という日本にとって非常に衝撃的な出来事が、こうして矮小化されていくのかと思うと、「これが今の日本なんだ」と痛感する。
文科省の有識者会議は、いじめ防止対策を議論した結果、「自殺予防、いじめへの対応を最優先の事項に位置付ける」と提言するそうである。(朝日新聞2016.10.25)一見して、いいこと、当然のことのように思われるが、恐らく「教師いじめ」としてしか機能しないだろうと思う。新聞に載るようないじめ事件は、教師人生で一生に一度あるかないかである。(というか、普通はない。)いじめ対応が「最優先」と言われても、毎年必ずある「全国学力テスト」の方が目の前の課題に決まってる。テスト結果を公表し、それが学校評価に使われ、教員の評価にも関係してくるといった「競争的教育政策」をそのままにして、「いじめ対策が最優先」と言われても…。
学校という職場は、企業として考えれば「小企業」である。業種ごとに多少違うが、「中小企業」というときの「中」に入るには、従業員数100人超が必要だろう。教職員が100人超なんて学校は大学しかないし、小規模の小中学校では20人~30人程度だろう。そこに〇〇委員会をやたらに作っても機能するのは難しい。僕が先に書いたように、「学年会」と「生活指導部会」がきちんと機能する方が大事だ。そこがいじめ防止の最前線であり、いじめ問題が広がる前に事前対策を打ち出せるのは、当該生徒を抱える学年教員団しかない。そのためにはどうすればいいか。
それなのに、「認知件数少ない自治体に『指導を』」などと先の新聞記事にある。それじゃあ、教師が頑張って、大きないじめが発生していない学校はどうなるのか。いじめる生徒がいないと困ってしまうではないか。本末転倒もきわまる事態になる。どうするかと言えば、大した事件でもないものを、いじめ認知も少しは必要だからと「格上げ」して報告し、「解決に至った」とするしかないだろう。管理職の作文能力がより必要になるということなんだろう。
昨今のニュースで報じられたいじめ事件に関しては、学校側が「家庭がいじめとして相談しなかった」とか、たかり行為がひんぱんに起こっていながら危機感を持たないなど、ちょっと考えられない事態が多い。「いじめ」を法的に規定したために、一種の行政用語になってしまい、「いじめかどうか」といった問題で堂々巡りをしてしまう。「いじめ」だとしたときに、指導や報告の義務を大きくし過ぎると、現場的感覚で「まあ、いじめとまで言わなくてもいいんじゃないですか」となりやすい。
背景にある「教員多忙問題」を何とかしない限り、同じようなことは繰り返されると思わないといけない。大体、文科省や政治家が要求しているのも、「いじめなんか起きないように、生徒をよく管理するように」と、教師の「生徒管理能力」を高めたいという発想が強い。それでは「教師の前では、管理された言葉しか使わない子ども」を量産するだけである。
「教員の人権センサー」をみがき、子どもたちの中の暴言、暴力にひそむ反人権文化を変容させていくといったことは考えていないだろ。そういう「人権センサー」のすぐれた教員は、当然のように教育行政の問題点にも敏感になるし、子どもたちの現実批判力も付けてしまう。本来は教師が主導して、子どもたちの中の人権感覚を高め、自らいじめ撲滅につながる試みをしていかないといけない。
原発事故避難者へのいじめ多発が報じられる今こそ、「原発事故とは何か」「原発は今後どうすればいいのか」を、教師も子どもも、また保護者も含めて、自由闊達に討論する場が必要なはずだ。でも、そんなことはできないんだろうと思う。政権の原発維持方針がはっきりしているから、「政治的中立を冒す」とかなんとかいう輩が出てくる。少なくともそういう心配をする人がいる。でも、学校でその問題をタブーにしていながら、子どもへのいじめだけは防ぐということはできるのか。いや、それはいいから、タテマエを言い続けろということか。
これも以前に書いているが、「いじめゼロ」は学校目標ではない。「思いやりのある子どもを育てる」とか、そっちの方が目標である。目標達成に近づけば、自然にいじめは減るわけだ。そのためには、「子どもが生き生きとした学校」でなくてはならない。そして、さらにその前に「教師が生き生きとした学校」でなくてはいけない。いまの教員は、毎日学校で楽しいんだろうか。子どもたちのこと以前に、僕は最近はまずそっちが心配になるんだけど。教師が生き生きとして、知的活力にみちて働いている学校は、どれだけあるんだろうか。