書き始めてしまったから、もう少し日野啓三の話を。日野啓三の最高傑作は何だろうか。「夢の島」だけはだいぶ前に読んでいて、もうよく覚えていないのだが、今回読んだ中では「台風の眼」(1993、野間文芸賞)と「砂丘が動くように」(1986、谷崎潤一郎賞)は圧倒的な力を発揮している本だった。
「台風の眼」というのは、手術後に自分の一生を振り返るようにして書いた「一種の自伝」だけど、普通の自伝とはかなり印象が違う。普通の自伝は、自分の人生をつながりのあるストーリイのように語るものだ。しかし、「台風の眼」は人生の瞬間瞬間の映像をスチル写真のように並べたような小説。だから、ずいぶん読みにくい。でも、非常に迫力のある文章で書かれている。
日野啓三は1929年に東京で生まれた。父は広島県福山の近くの地主の息子だったけど、東京帝大法学部を出たのに大恐慌にぶつかって就職口がなかった。その後、植民地の朝鮮で銀行員になり、親子で転居した。最初は南部のミリャン(密陽)に住んだ。(ここはイ・チャンドンの傑作映画「シークレット・サンシャイン」の舞台になった町である。)近くの中学に進んで苦労するが、父が京城(今のソウル)に転任して日野も移った。父は後にもっと北の町に行き、日野は父の知り合いの女世帯に居候する。
戦時色が次第に濃くなり、学生は勤労奉仕で工場に行くようになる。もっと厳しい戦争に巻き込まれた子供も多い中で、朝鮮植民地にいたことは、ある意味では恵まれていた。特に文学少年でもなかったけど、この時代の「植民者」の一員だった体験は彼にとって決定的だった。敗戦に伴い、日野は自分たち日本人は襲撃されるだろうと思う。言語化できないまま、彼は自分たち日本人の位置に気付いていたのである。だけど、実際は朝鮮神社が焼かれただけで、日本人を襲う事件はなかった。
父母も敗戦直前に京城に帰っていて、なんとか日本に「帰国」する。帰国と言っても、自分は全く知らない内地の農村に住んだわけである。それは「帰国」というより、「異文化体験」である。こういう風に、戦後に「外地」(朝鮮や満州など)から「引き揚げ」て、「故国に送還」された作家はかなり多い。安部公房、五木寛之、別役実などに共通する、「日本的共同体」からの疎外感、根を持たない感覚、どこにいても居場所がない感じなどは、日野啓三文学にも共通している。若いころの五木寛之がよく言っていた「デラシネ」(根無し草)の文学である。
僕が思うに、日野啓三は「滅びゆく国」に生きたことで、「作家」にならざるを得なかった。その最初が「大日本帝国が統治する朝鮮植民地」だった。その彼が「作家」たる自覚を持ったのは、前回書いたように特派員として派遣された「南ベトナム」(ベトナム共和国)だった。日野が南ベトナムという国に「虚構性」、あるいは「植民者の買弁的性格」を鋭敏にかぎ分けたのは、自分が幼いながら植民地に住んでいたものの嗅覚が働いたのだと思う。1975年に北ベトナム(ベトナム民主共和国)が南ベトナムを崩壊させる形で、ベトナム戦争が終結した。南ベトナムこそ、日野啓三にとって第2の「滅びゆく国」を見た体験だった。ベトナム戦争が終わって、日野啓三は本格的作家活動を始めた。
ところで、僕はもう一つ、日野啓三は「滅びゆく国」を生きていたと思う。それは(言い方はいろいろあると思うけど)、「80年代バブル日本」である。朝鮮植民地や南ベトナムとはまた違うものの、同時代の日本に「腐臭」を感じ取ったのではないか。それが彼に都市の中に「滅びゆく幻想」を幻視させた。そんな小説の中でも、「砂丘が動くように」はとても面白く、よく出来た小説である。「抱擁」や「夢の島」と違って、この小説は東京を舞台にしていない。ふと訪れた日本海側の町である。そこで砂丘をよみがえらせようと闘う人々を描いている。
防砂林で囲まれ「死にゆく砂丘」を蘇らせようとする人々。一種のミステリーのように、あるいはSFのように進行するが、「砂」そのものが生きているような不思議な世界である。安部公房「砂の女」やSFの「デューン 砂の惑星」なんかと似た感じもあるが、ここでは不思議な盆栽を作る少年とその盲目の姉、女装して暮らす謎のリーダーなど、幻想小説という枠組みで書かれている。宇宙論(コスモロジー)や人間の内なる自然へ向かう作品。「台風の眼」と違って、「抱擁」や「砂丘が動くように」はとても読みやすい。文章も判りやすい。だけど、奥が深い感じがする。「純文学ファンタジー」として、また「人間と自然」を新しい意識で書く物語という意味でも、再評価すべき作品だと思う。
「台風の眼」というのは、手術後に自分の一生を振り返るようにして書いた「一種の自伝」だけど、普通の自伝とはかなり印象が違う。普通の自伝は、自分の人生をつながりのあるストーリイのように語るものだ。しかし、「台風の眼」は人生の瞬間瞬間の映像をスチル写真のように並べたような小説。だから、ずいぶん読みにくい。でも、非常に迫力のある文章で書かれている。
日野啓三は1929年に東京で生まれた。父は広島県福山の近くの地主の息子だったけど、東京帝大法学部を出たのに大恐慌にぶつかって就職口がなかった。その後、植民地の朝鮮で銀行員になり、親子で転居した。最初は南部のミリャン(密陽)に住んだ。(ここはイ・チャンドンの傑作映画「シークレット・サンシャイン」の舞台になった町である。)近くの中学に進んで苦労するが、父が京城(今のソウル)に転任して日野も移った。父は後にもっと北の町に行き、日野は父の知り合いの女世帯に居候する。
戦時色が次第に濃くなり、学生は勤労奉仕で工場に行くようになる。もっと厳しい戦争に巻き込まれた子供も多い中で、朝鮮植民地にいたことは、ある意味では恵まれていた。特に文学少年でもなかったけど、この時代の「植民者」の一員だった体験は彼にとって決定的だった。敗戦に伴い、日野は自分たち日本人は襲撃されるだろうと思う。言語化できないまま、彼は自分たち日本人の位置に気付いていたのである。だけど、実際は朝鮮神社が焼かれただけで、日本人を襲う事件はなかった。
父母も敗戦直前に京城に帰っていて、なんとか日本に「帰国」する。帰国と言っても、自分は全く知らない内地の農村に住んだわけである。それは「帰国」というより、「異文化体験」である。こういう風に、戦後に「外地」(朝鮮や満州など)から「引き揚げ」て、「故国に送還」された作家はかなり多い。安部公房、五木寛之、別役実などに共通する、「日本的共同体」からの疎外感、根を持たない感覚、どこにいても居場所がない感じなどは、日野啓三文学にも共通している。若いころの五木寛之がよく言っていた「デラシネ」(根無し草)の文学である。
僕が思うに、日野啓三は「滅びゆく国」に生きたことで、「作家」にならざるを得なかった。その最初が「大日本帝国が統治する朝鮮植民地」だった。その彼が「作家」たる自覚を持ったのは、前回書いたように特派員として派遣された「南ベトナム」(ベトナム共和国)だった。日野が南ベトナムという国に「虚構性」、あるいは「植民者の買弁的性格」を鋭敏にかぎ分けたのは、自分が幼いながら植民地に住んでいたものの嗅覚が働いたのだと思う。1975年に北ベトナム(ベトナム民主共和国)が南ベトナムを崩壊させる形で、ベトナム戦争が終結した。南ベトナムこそ、日野啓三にとって第2の「滅びゆく国」を見た体験だった。ベトナム戦争が終わって、日野啓三は本格的作家活動を始めた。
ところで、僕はもう一つ、日野啓三は「滅びゆく国」を生きていたと思う。それは(言い方はいろいろあると思うけど)、「80年代バブル日本」である。朝鮮植民地や南ベトナムとはまた違うものの、同時代の日本に「腐臭」を感じ取ったのではないか。それが彼に都市の中に「滅びゆく幻想」を幻視させた。そんな小説の中でも、「砂丘が動くように」はとても面白く、よく出来た小説である。「抱擁」や「夢の島」と違って、この小説は東京を舞台にしていない。ふと訪れた日本海側の町である。そこで砂丘をよみがえらせようと闘う人々を描いている。
防砂林で囲まれ「死にゆく砂丘」を蘇らせようとする人々。一種のミステリーのように、あるいはSFのように進行するが、「砂」そのものが生きているような不思議な世界である。安部公房「砂の女」やSFの「デューン 砂の惑星」なんかと似た感じもあるが、ここでは不思議な盆栽を作る少年とその盲目の姉、女装して暮らす謎のリーダーなど、幻想小説という枠組みで書かれている。宇宙論(コスモロジー)や人間の内なる自然へ向かう作品。「台風の眼」と違って、「抱擁」や「砂丘が動くように」はとても読みやすい。文章も判りやすい。だけど、奥が深い感じがする。「純文学ファンタジー」として、また「人間と自然」を新しい意識で書く物語という意味でも、再評価すべき作品だと思う。