尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「コロナ時代」、自分の場合を振り返る

2024年03月31日 22時04分16秒 | 自分の話&日記
 たった4年前の「コロナ時代」、世の中の人々はもう忘れているんじゃないかと書いた。それは一般論だから、自分の場合を振り返っておきたい。もちろん自分にとっても、新型コロナウイルスは大きな問題だったけれど、多くの人に比べれば影響は比較的小さかったと思う。僕にとって「コロナ」以上に、この間は「母親」の問題の方が大きかった。

 1927年11月生まれの母は、2020年初めに「コロナ禍」が始まった時は92歳だった。家で食事をして、お風呂も入り、テレビも見ていた。新聞のテレビ欄を朝チェックして、見たいテレビに赤マルを付けていた。通院もせず、介護保険も使っていなかった。だから90代にしては元気だったけれど、さすがに以前のように頻繁にデパートに買い物に行くことはほぼなかった。僕は2020年から数年旅行しなかったが、それはコロナが原因ではなく、母親を置いて家を空けることが難しくなったと思ったのである。

 92歳だから、ワクチンのお知らせが来たとき、どうしようかと思った。本人は行かなくていいと言ったけど、以前利用したクリニックでもやるというから、僕がネットで予約して連れて行った。その時は2回接種が必要だったわけだが、ワクチンが回ってこないと言われて、1回打った後で2回目をキャンセルされてしまった。そこでちょっと遠い(母親の足の状態では歩いて行けない距離の)小学校を予約して(システム上2回連続しか出来ない)、タクシーで連れて行った。8月の暑い日で、ちょうど東京五輪の女子バスケ決勝戦をやっていた時だった。そうやって、何とか2020年、21年を過ごしたが、2022年11月に95歳の誕生日を迎えた数日後、心臓の痛みを訴えて救急車を呼ぶことになった。そのまま入院になったが、それらのことは当時書いた。
(某病院の面会制限のお知らせ)
 コロナ時代には病院や福祉施設などは、原則として面会禁止になった。入院当日や病状説明日などは別にして、はほぼ面会出来なかったと思う。母の場合、当初の救急病院から療養病院に転院したのだが、その転院日と病状説明日の2回しか会っていない。そういうことが多くの病院や施設で起こったはずである。急速に認知機能の衰えが見られたので、面会に行っても理解出来なかったかもしれない。別にものすごく親孝行というわけでもないけど、普通だったらもっと行っていたはずである。それが「僕のコロナ時代」だったということになる。
 
 よくオンライン集会のお知らせを貰うんだけど、一度も参加したことがない。そこまでする気が起きない。「オンライン授業」とか「オンライン会議」とか言われても全く判らない。技術的に付いていけない。ずいぶん時代に離されてしまった気がする。この間、母親と同居していたので、自分なりに集まりや外食などを避けていた。それが長くなって、何だかリアルな集会などに行くのもちょっと面倒になった気がする。映画館、劇場などすべて閉まった。やってない以上、出掛けても仕方ない。

 2020年4月、5月頃は大体は家にいたはずである。だけど、家で本を読むことは可能なんだから、それで精神的には大丈夫だったのである。小津安二郎監督の映画『彼岸花』で、田中絹代の妻が夫の佐分利信に対して「戦時中は大変だったけれど、家族がまとまれて良かった」と懐かしむようなセリフがあった。(正確には記憶していないが。)「コロナ時代」も似たようなことがあったのではないか。飲食や観光などの業界ではあり得ないだろうが、テレワーク可能な仕事をしていた場合、通勤せずに夫婦(と子ども)で過ごせた貴重な時間でもあった。それが嫌という人も中にはいるだろうが。
(半分の席しか入れない映画館)
 僕の場合、フルタイムで働く現役じゃなかったので、要するにあまり変わらなかった。いや、もちろん映画館や寄席が開いていれば行きたいのである。落語を聞いていると、「戦争中でもやっていた寄席が閉まった」とマクラに語る人が何人もいる。だから、今こうして客が戻って来て嬉しいというわけである。だから、ようやく元に戻った感じなのは嬉しい。この間、コロナに感染した人も弱毒化したオミクロン株以後は増えてきた。しかし、自分は一度も罹らずに済んだ。他の単なる普通の風邪にも罹らなかった。マスクのおかげなのか、それまでよりも健康だったのは不思議だ。
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「コロナ時代」とは何だったのかー新年度から一般医療に移行

2024年03月30日 22時08分11秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「新型コロナウイルス」に全世界が翻弄されていたのは、たった4年前のことである。2020年の今頃は突然の学校休校で大騒ぎになっていた。2023年5月の連休明けから感染症法上の位置づけが「5類」に移行し、感染者の全数把握が行われなくなった。その前までは毎日毎日の新規感染者数が日々の大きなニュースになっていた。5類に移行した後でも、特に大きな問題は起きなかった。今では何となく「もう終わった問題」に感じている人が多いだろう。

 そして、2024年4月からは、感染者の医療は(普通の病気と同様に)自己負担が発生するようになる。(今までは全額国庫負担。)ワクチン接種もインフルエンザ等のワクチンと同様に自己負担となる。(高齢者等への配慮はあると思うが。)最後の週末に「駆け込み接種」に訪れている人も多いとか。2020年の「流行語」だった「三密」も、今ではすぐに全部言える人は少ないんじゃないだろうか。自分もそうなので、検索してみたら「密閉・密集・密接」だった。忘れるのは早い。

 もちろん、コロナウイルスそのものは今も当然存在し、新たに感染する人は多い。3月29日に厚労省は定点医療機関からの新規感染者数は計2万5727人だったと発表した。(東京新聞3月30日付。)これは前週比0.85倍だという。1医療機関あたりの感染者数は、東京や大阪が3人台なのに対し、秋田が10人を越えるなど比較的東北地方に多いらしい。今でも毎週2万5千人が新たに感染しているのである。だけど、社会が不安感に満ちることはない。この間感染した人も増えてきたが、まあ「風邪」のような感じで軽快した人が多い。今では過剰に心配する人はいないだろう。

 コロナウイルスの専門家会合も解散したという。2024年4月をもって、「新型コロナウイルスの時代」は完全に終了すると言っても良いだろう。4年前の夏は中止せざるを得なかった高校野球も、春の選抜大会では声出し応援も可能になって開催されている。こうなると、世の中の人々は「あの頃の恐怖」を全く忘れたのかと逆にちょっと心配だ。あの時代は一体何だったのか。そして、そこから学ぶべきこと、考えるべきことは何か。例えば内閣や国会で、総括する動きはあるのだろうか。あるいはマスコミや医療関係者もきちんと検証しているのか。もう忘れてしまっても良いという問題じゃないだろう。
(平均寿命の推移)
 日本では2023年5月までに、約6万人の死者があったという。当初は「自粛」で他の感染症も減り死者が減少したが、翌年以降は高齢者の「フレイル」(衰弱)が進行し、死者が増大した。結果的にずっと伸びてきた(東日本大震災以後)の平均寿命が下がる現象が起きた。「コロナ期」に予想以上に少子化が進行したのも、自粛やテレワークの影響が大きいと思われる。その影響は今後もずっと続くわけで、日本社会に大きな影響を与えた大事件だった。忘れてよい問題ではなく、多くの組織で記録を保存する必要がある。公立学校など職員が異動する職場では、この間の取り組み状況が廃棄されてしまう可能性がある。

 僕の見るところでは、コロナの影響は職業や生活環境によって大きく違ったと思う。医療関係者新規開業したばかりの飲食店などが一番大変だったのではないか。自分の住んでいるところでも、ずいぶん店がなくなった。もともと回転が早い店が多いのだが、出来たばかりの店がコロナで閉店してしまったのは借金が返せないのではないかと心配になる。学校や福祉施設なども大変だっただろうが、基本的には「言われたとおりにやって、感染を防ぐ」以外に方法がない。普通の会社はテレワークが多かったようだが、結局一段落すると元に戻ったのだろうか。いや、労働力は結局完全には戻っていないのではないか。

 国全体で言えば、「緊急事態」に対応する専門部署が必要だと、大災害などが起きるたびに言われるが結局何も変わらないようである。何事も「その場しのぎ」という政治文化が根づいているのである。これほどの規模のパンデミックは、100年間起きないかも知れない。だが、SARSなどを考えると「10年に一度は中程度の新感染症の流行がある」と考えるべきだろう。その間に大地震も1~2回程度はある。集中豪雨などはほぼ毎年起きる。またテロ事件なども起きないとは言えない。やはり「常設機関」が必要だと僕は思っている。
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映画『ピアノ・レッスン』、30年ぶりに見た大傑作

2024年03月29日 20時42分55秒 |  〃  (旧作外国映画)
 1993年にカンヌ映画祭で女性監督として初めてパルムドールを受賞したジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』が4K版で公開された。昔の映画が修復されて上映されることが最近よくあるが、最初の一週間を逃すと回数が少なくなることが多い。そこで鈴本演芸場に行った日のお昼に見ることにした。日本では1994年の2月に公開されて、キネマ旬報の外国映画ベストワンになった。米国アカデミー賞でも主演女優賞、助演女優賞、脚本賞を獲得した名作である。作品賞、監督賞を逃したのは、同じ年にスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』があったためである。

 今見ても新鮮な大傑作だったが、細部の展開をほとんど忘れていた。やはり30年というのは長い。19世紀半ば、スコットランドから口をきけない女性エイダ(ホリー・ハンター)が女児フローラ(アンナ・パキン)とともにニュージーランドに嫁いでくる。ピアノとともに生きているような女性で、わざわざ大きなピアノを持ち運んできた。しかし、道が悪いために運ぶことが出来ず、ピアノだけが海岸に取り残される。この海辺のピアノをロングショットで映すシーンが素晴らしく、これだけは一度見たら永遠に忘れないだろう。ピアノを置き去りにした夫とは心が通わないが、近所に住むベインズ(ハーヴェイ・カイテル)が土地と交換にピアノをもらい受け、ピアノのレッスンをするという。
(エイダとフロ-ラ)
 このベインズという男は原住民(マオリ族)とともに生きてきて、文字も読めない無知で粗野な男である。顔にはマオリのように入れ墨をしているぐらいだ。彼がピアノを運ばせたのは、何も音楽に関心があったのではなく、エイダに惹かれてしまったのである。エイダは彼の元を訪れ、ピアノを弾く。夫はベインズはピアノの練習をしていると信じているが、実は弾くことはない。フローラは外へ出ていろと言われ、二人だけの空間になるのである。この危うい関係がどうなっていくのか。片時も画面から目が離せない緊迫感が漂う。ニュージーランドの中でも辺境の地で、口をきけない女性が自らの生き方を決められるのか? そしてラスト近くになるまで、壮絶な人間ドラマが繰り広げられる。あっと驚く展開が続き時間を忘れる。 
(ハーヴェイ・カイテル)
 ホリー・ハンターは自ら希望して難役に挑み、自らピアノを弾いている。『ブロードキャスト・ニュース』(1987)でアカデミー賞主演女優賞ノミネート、ベルリン映画祭女優賞を得たというが覚えていない。興味深いことに、この映画で主演女優賞を獲得した年に、『ザ・ファーム 法律事務所』でアカデミー賞助演女優賞にもノミネートされていた。しかし、助演で受賞したのはフローラ役のアンナ・パキンの方で、わずか11歳だった。これは『ペーパー・ムーン』のテイタム・オニールの10歳に次ぐ史上2番目の若さ。僕はこの子役の存在を全く忘れていて、見ていて凄いなと思い始めた。どんな大女優になっているのかと思ったが、コンスタントに活躍しているようだがテレビが中心みたいである。
(ジェーン・カンピオン監督)
 ジェーン・カンピオン(1954~)はニュージーランド生まれの監督で、同国初の世界的監督だ。イギリスで学んだ後、本国の市場規模が小さいのでオーストラリアで活動していた。『スウィーティー』(1989)、『エンジェル・アット・マイ・テーブル』(1990、ヴェネツィア国際映画祭審査員賞)で注目され、僕もすごいアート系監督が現れたと驚いたものだ。この映画の後はニコール・キッドマン主演の『ある貴婦人の肖像』(1996)などを作った。近年は作品が少なかったが、2021年に『パワー・オブ・ザ・ドッグ』で注目された。繊細な、時には病的なまでに揺れる心を描くことが多く、現世で生きにくい人々に心を寄せる映画を作ってきた。

 『ピアノ・レッスン』は生涯の代表作で、単に「女性監督」という枠組ではとらえきれない映画だろう。94年のベストテンを見ると、2位にチェン・カイコー監督の『さらばわが愛 覇王別姫』が入っている。92年のカンヌ映画祭パルムドールである。僕はどちらかと言えば、そっちの方が当時は面白かった。これも近年リバイバルされているから、見比べてみると面白い。『パルプ・フィクション』『ギルバート・グレイプ』『日の名残り』など最近でもスクリーンで見られる映画がいっぱいベストテンにある。その中で、3位になったロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』(レイモンド・カーヴァーの短編を組み合わせた作品)が見られないのが残念だ。これも一度はスクリーンで見るべき映画である。
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林家つる子の「芝浜」に感銘ーつる子・わん丈の真打昇進披露興行

2024年03月28日 21時29分54秒 | 落語(講談・浪曲)
 27日夜、落語協会真打昇進披露興行に行ってきた。今回は「抜てき」だから、是非見たい。それも女性落語家初の抜てきである林家つる子、三遊亭円丈の弟子だった(没後は三遊亭天どん門下に移籍)三遊亭わん丈の二人。どっちもすでに聴いていて、実力は十分。これは見なくてはいけない。特に今年になって林家つる子を2回聴いて、すっかりファンになった。つる子、わん丈は交互にトリを取っているが、つる子の日に行ったのはそのためである。上野の鈴本演芸場夜の部は、開場4時半の30分前にはすでに行列が出来ていた。(前売りを買ってある。)地元群馬・高崎からも多くのファンが詰めかけているようだった。

 昇進披露興行というのは、会長などの幹部、昇進する落語家の師匠などがズラッと並んで口上を述べるから、顔ぶれが豪華になる。皆面白かったが、それは最後にして、やはりトリの林家つる子から。感極まって毎日泣いているそうで、自分じゃなくわん丈の昇進披露でも楽屋で涙いっぱいだと「暴露」されていた。この日も高座冒頭は涙声だが、中央大学時代に落研に誘引した先輩たちが来ていたという。元々高崎女子高では演劇部で、落語には縁がなかった。僕はつる子の落語は「一人芝居」だなと思って聴いている。完成された古典を味わう「話芸」というより、多数の人物を全身で演じきる「芝居」なのである。

 演目は有名な「芝浜」だった。これは「芝浜」そのものが有名な噺だという意味だけではない。林家つる子ヴァージョンの「芝浜」が評判なのである。NHKでドキュメンタリー番組にもなったというが、自分で納得出来なかった部分を「女性の視点」で描き直したのである。「芝浜」はかつて桂三木助(3代目)が描写力を練り上げたことで有名で、そのエピソードは安藤鶴夫三木助歳時記』に美しく描かれている。だけど「つる子ヴァージョン」はほとんど自然描写がない。代わりに魚の行商をする勝五郎が長屋に来て「おみつ」と知り合うという馴れそめから始まる。男の落語家が名も付けずに呼んでいた妻に名が与えられた。
(林家つる子の「芝浜」)
 落語だけでなく、歌舞伎など昔の芸能には、現代の眼で見ると「不適切」な描写が数多く存在する。特にジェンダー的には感覚的に伝わりにくい設定がいっぱいある。歌舞伎は変えられないが、落語は自分なりに改作出来るのが特徴だ。そして「妻の視点」を取り入れることで、これほど豊かな感情を揺さぶる作品になるのである。僕は従来の噺も良いと思うけれど、つる子版の方が現代では自然な感動を呼ぶと思う。おみつは「魚の目」のような美しい目を持つ男に惚れたのである。

 昔マルセ太郎が「スクリーンのない映画館」という芸をやっていた。映画を舞台で語り下ろすのだが、『泥の河』を聴いた時、映画も原作も素晴らしいけれど、こういう感動もあるんだと思った経験がある。僕は林家つる子の「芝浜」を聴いて、実はマルセ太郎を思い出したのである。たった一人で語っているのに、傑作映画を見たような映像がくっきりと脳裏に浮かび上がるのである。女性落語家というだけでなく、現代の表現活動に大きな刺激を与える感動の傑作を聴いた。

 真打披露興行というのは、初めからお祝いで来ている客ばかりだ。口上後に三三七拍子で締めるのに協力するつもりでやって来る。だから最初からノリがよく、客席は笑いがあふれていた。色物の大神楽「鏡味仙志郞・仙成」や動物ものまねの江戸屋猫八、紙切りの林家二楽、そしてトリ直前(膝)の立花家橘之助もわん丈が太鼓で出て来て、志ん朝や小さんの出囃子をやって大受けしていた。元会長の鈴々舎馬風は最近は椅子に座ってやるのだが、「美空ひばりメドレー」を延々と歌い出したのには驚いた。口上でも存在感を発揮し、締めの音頭を取っていた。

 大受けしていたのが柳家三三たけのこ」で、この季節にはよく聴く噺だが非常に上手いなあと思った。口上でも司会を務めて、今まさに乗っている落語家である。「たけのこ」は武家時代に隣家の竹林から延びて筍が生えてきて、それを食べるため両家が掛け合うのが超絶的におかしいのである。ところで以前の抜てき昇進は、2012年の春風亭一之輔、そして古今亭文菊古今亭志ん陽以来だというが、この3人は今回交替で一人ずつ出ている。見た日は古今亭志ん陽で、ネタは初めての「猫と金魚」。これは「のらくろ」で知られた戦前の漫画家田河水抱が作った噺なんだとWikipediaに出てた。話が通じない番頭がメチャクチャおかしい。
(柳家三三)
 他の人はネタだけにするが、古今亭菊之丞たいこ腹」の幇間(たいこもち)もおかしい。柳亭市馬会長は「藪医者」、林家正蔵副会長(つる子師匠)は「一眼国」、わん丈師匠の三遊亭天どん釜泥」、新真打の三遊亭わん丈は「毛せん芝居」。披露興行はトリが目玉で、この日だけは師匠が目立ってはいけない。軽いネタで笑わせて、トリに向けて盛り上げる役である。そして、この豪華な顔ぶれは短いながらもきちっと笑わせてプロの手腕を味わった一日だった。 
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東南アジアのネポティズム(縁故主義)ーインドネシアとカンボジア

2024年03月26日 22時34分02秒 |  〃  (国際問題)
 東南アジア諸国は、日本にとっても重要だし世界的にも大きな意味を持っている地域だ。東南アジアは文化的、宗教的に一律には語れない多様性を持っているが、政治情勢も複雑。今回はいくつかの国に絞って「ネポティズム」(縁故主義)という視点で考えてみたい。この地域の10か国でASEAN(東南アジア諸国連合)を作っているが、現時点で最も重大な問題は「ミャンマー情勢」である。昨年来大きな変動があったが、今回は取り上げない。また今も一党独裁を続けるヴェトナムラオスも触れない。

 インドネシア大統領選挙が2月14日に実施され、選挙結果がようやく3月20日に発表された。もちろん選挙前から当選確実だったプラボウォ国防相が当選した。(なお、次点候補が異議を申立てている。就任は10月ということで、何とも悠長な国である。)プラボウォ氏は実に3度目の挑戦で勝利したことになる。2014年、2019年の大統領選にも出馬したが、現職のジョコ・ウィドド大統領に敗れていた。関心がある人には周知のことだが、プラボウォ氏は独裁者として知られたスハルト元大統領の次女と結婚して、スハルト時代に軍人として権勢を振るった。しかし、独裁崩壊後に軍法会議で軍籍をはく奪されてしまった。
(プラボウォ次期大統領)
 そこでプラボウォのキャリアも終わったかと思われたが、事実上のヨルダン亡命を経て実業界、政界に進出して成功した。そして全国の農民を組織して新党を樹立、大統領候補と言われるようになった。2014年、2019年の大統領選に臨むも惜敗したが、その後にジョコ政権の国防相に就任して、影響力を増した。72歳と高齢だが、今回はなんとジョコ大統領の長男ギブラン・ラカブミン・ラカ(ジャワ島中部のスラカルタ市長)を副大統領に擁立するという奇手を用いて、ジョコ大統領支持層を取り込んだとされる。プラボウォ氏は保守的で伝統的イスラム層に支持され、ジョコ氏は都市部中間層や非イスラム層の支持が厚かった。

 インドネシアで注目されるのは、過去の独裁時代の記憶が薄れつつあることだ。それはフィリピンでかつての独裁者フェルディナンド・マルコスの長男、フェルディナンド・マルコス・ジュニア(通称ボンボン)が2022年に大統領に当選したことでも似たような事情が見て取れる。プラボウォはジョコ長男を通して、現職支持層にも浸透した。ジョコ氏は「庶民派」というイメージで売っていたが、このような血縁主義ネポティズム)に抵抗できなかった。
(ボンボン・マルコス)
 ネポティズムという概念は、血縁で結ばれた関係者を政治的に優先させる政治を指す。前近代では同族支配が当然だったが、近代社会では「能力主義」が原則になっている。だが特にアジア社会では、有力者の血縁にあるものが権力に近くなることがよくある。日本だって与党議員のほとんどは「二世」「三世」だし、韓国でも大統領縁故者が引退後に摘発されることが多い。中国は政治制度が違うため血縁ではないけれど、習近平政権ではかつて部下として仕えたような個人的関係者を優先する傾向が見られる。

 日本の場合は国会議員に当選するためには、親の知名度がある方が有利となる。だが当選しても、国会議員一期の議員が総理大臣に選ばれることは普通はない。党の中で段々と階段を上っていき、その間にリーダーとして相応しいかどうか検証される。それに対して、東南アジア諸国では直接に最高権力者に登ることがある。最近の例ではカンボジアがそうだった。カンボジアでは1985年にフン・センが32歳で首相になり、2023年まで38年間の長期政権を保っていた。2023年7月に野党を排除したまま総選挙を実施して、与党が勝利した後でフン・セン首相は辞意を表明し、後継には長男のフン・マネットが就任した。
(フン・マネット首相)
 フン・マネット(1977~)は陸軍司令官で政治経験はなかった。アメリカ、イギリスへの留学経験があるというが、どういう政治思想を持っているか知られていない。2021年に父親から後継指名を受け、そのまま後継首相となったのである。これでは「北朝鮮」と同じような「一族支配」に近くなる。カンボジアではかつて1970年代のポル・ポト政権下で、大虐殺が起こった。その復興には日本を含めて国際的な支援が行われたし、我々もずいぶん一市民としてできる応援を続けてきた。なんでこんなことになってしまったのか、僕には全く判らない。アジア社会とネポティズムは非常に重大な問題で、今後も考えて行きたい。
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『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』、「マカロニ・ウエスタン」の傑作を見る

2024年03月25日 20時20分56秒 |  〃  (旧作外国映画)
 セルジオ・レオーネ監督の「ドル3部作」4K版がリバイバル上映されている。『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』の3作のことで、まず最初の2本が上映中。(なお「ドル箱3部作」という表記もあるが、今回「ドル3部作」としている。)これらは「マカロニ・ウエスタン」(アメリカではスパゲッティ・ウエスタン)と言われたイタリア製西部劇の世界的ブームを呼び起こした。当初は残酷描写が売りの「まがい物」と思われていたが、今ではエンニオ・モリコーネの音楽と主演したクリント・イーストウッドを全世界に知らしめた映画史的にも重要な傑作シリーズと認識されている。

 『荒野の用心棒』(1964)は言うまでもなく黒澤明監督の『用心棒』の(無許可の)リメイク作品である。後に問題になって、日本の上映権は黒澤プロに所属している。黒澤作品を見てない人でも、今では定番的設定なので筋書きは読めるだろう。このストーリーは多分江戸時代の日本よりも、アメリカ国境に近いメキシコの方が相応しいと思う。冒頭のアニメのタイトルロールから、すべてが完璧に決まってる。主人公は名前もなく、ただ二大勢力が対立する町にフラッとやってきた。彼はカウボーイハットに無精髭を伸ばし、ポンチョをまとって、その下には銃を隠し持っている。演じているのはテレビドラマ「ローハイド」で知られ始めていたが、映画では無名のクリント・イーストウッド(1930~)だった。
(『荒野の用心棒』)
 監督のセルジオ・レオーネ(1929~1989)はイタリアで娯楽映画を作っていたが、世界的には全く無名。多くのスターにオファーしたが断られ、結果的にイーストウッドになったという。それが大成功したのである。また小学校の同級だったエンニオ・モリコーネに音楽を依頼、一度聞いたら忘れられないメロディが西部劇に合っていた。各国入り交じったキャストだったので、その国ごとに吹き替えて公開されたという。今回は英語版に字幕が付いている。この段階では監督は面白い映画作りに徹していて、確かに何度見ても面白いと思う。ロケはスペイン南部で行われたが、まるでメキシコっぽいセットは違和感がない。イーストウッドは両勢力を行き来しながら、彼らを操る。そして最後に有名な決闘シーンである。構図も決まっていて見入ってしまう。
(『夕陽のガンマン』)
 『荒野の用心棒』が大ヒットして、すぐに『夕陽のガンマン』(1965)が作られた。「3部作」というけど、この前書いた香港の『インファナル・アフェア』シリーズなどと違い、全く継続性はない。ストーリーだけじゃなく、主人公の設定も違っている。ただ質感は同じで、カッコいいイーストウッドに、忘れがたいモリコーネの音楽が重なる。ロケ地も同じだから風景も似ている。違うのは主人公が「賞金稼ぎ」で、懸賞金がかかる悪党を追っている。同じように賞金稼ぎをしているモーティーマー大佐という役も新味。リー・ヴァン・クリーフが演じて凄みを出している。両者の共闘と欺し合いが見物となっている。
(右=リー・ヴァン・クリーフ)
 エルパソ銀行は鉄壁の守りを固めているが、そこを狙う「エル・インディオ」(ジャン=マリア・ヴォロンテ)の盗賊団がいる。イーストウッドはその一味に潜入して仲間を装う作戦を取るが…。それぞれが策謀をこらして、なかなか展開が読めないけれど、欺し合いの末に銃撃戦になる。筋としては娯楽映画の枠組で解決されるわけだが、ワイド画面に多くの情報が詰め込まれ、風景や音楽とあいまって「映画を見たなあ」という感じ。やはりこういう映画はテレビ画面以下ではダメで、大きなスクリーンで見たい。『続・夕陽のガンマン』は確か前に見ているが、コミカルな要素も入って時間的にも一番の大作になっている(178分)。
 
 その後、巨匠と認められたレオーネ監督は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』(公開題名『ウエスタン』)という傑作を作った。これは最近リバイバルされたが、非常に見ごたえがある傑作だった。そして遺作となった1984年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は日本でベストワンになった。公開版は144分だったが、その後さらに長いヴァージョンが幾つも作られているらしい。日本でも公開されて欲しいのだが、まだ見られない。今回の「ドル3部作」がヒットすれば、可能性も出て来ると思うのだが…。どうも可哀想なぐらい客が少ない。東京では丸の内TOEI、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷、グランドシネマサンシャイン池袋などで上映されている。宣伝しておく次第。
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フランス映画『12日の殺人』、ある未解決事件を追う

2024年03月23日 20時44分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 昔の映画を見ることが多いのだが、最近の新作ではフランス映画『12日の殺人』がなかなか面白かった。フランスを代表する映画賞セザール賞の作品賞を2022年度に受けた作品である。2023年度の作品賞はこの前書いた『落下の解剖学』だった。二つの映画はともにフランス東部のグルノーブルが舞台で、「事件」をめぐる物語という共通点がある。しかし、後者が「法廷映画」なのに対し、こちらは「警察捜査映画」になっている。実際に起きた事件をモデルにして舞台を移したらしい。

 題名通り、事件は12日に起きる。10月12日の深夜、パーティーから帰る途中で女子大生クララが何者かにガソリンをかけて火を付けられた。グルノーブル近郊の山間の住宅地である。そのとき警察では、引退する殺人捜査班長の送別会が開かれていた。新しく班長に昇格したヨアンにとって、初めての大事件である。被害者の身元はすぐに判明した。被害者のスマホが無傷で残っていて、鳴り出したからである。電話は親友のナニーからで、前夜はそこでパーティーをしていたのである。
(ナニーに聴取するヨアン)
 ナニーからクララが付き合っていた男性を聞き出し会いに行くけど…。男には他に本命があって、クララの方が勝手に熱を上げていたという。他にもいろいろと男の影が見えてきて、自ら「セフレ」という男もいる。高校時代に付き合っていた男は、クララを焼いてしまいたいというラップをユーチューブにアップしていた。さすがに心配になって自ら出頭して釈明する。その間に刑事側の事情も語られる。相棒のマルソーは家庭が上手く行かず、ずっと警察に泊まっていたので、ヨアンは自分の家に泊める。それでもマルソーの心は荒れてしまい、問題を起こして捜査から離れて行く。ヨアンは時々自転車で走り回って精神的安定を得ている。
(ヨアンとマルソー)
 様々な「容疑者」が現れながら、動機も判らず犯人は見つからない。そのまま時間が経って迷宮に入ったかと思われる時、ヨアンは女性の予審判事に呼び出される。3年目の命日が近づいた今こそ、この事件の再捜査を始めるべきだと言う。やり方としては、事件現場で張り込み、お墓にカメラを仕掛けることを勧められた。捜査班には今では女性刑事も入っている。張り込んでいると両親が現れるが、他には誰も来ない。一方、墓のカメラからは謎の男が現れて歌を歌うシーンが撮れていた。この男は一体何なのか? 
(予審判事)
 この映画では真相が判明して見る者がスッキリする結末は与えられない。捜査側は男性ばかりだが、被害者は女性である。事件は被害者に対する恨みなのか、それとも女性一般に対するヘイトクライムなのか。この映画は2013年に起きた事件を取材したノンフィクションの映画化だという。日本との司法制度の違いもあるが、被害者家族に伝える苦労などは同じである。捜査側から描いた物語だが、どういう経過をたどるのか見入ってしまう。人間心理を描く意味では『落下の解剖学』の方がすごいけど、フランス社会や女性に対する犯罪を考える意味では『12日の殺人』が興味深かった。
(ドミニク・モル監督)
 監督のドミニク・モル(1961~)は、前作『悪なき殺人』を撮った人である。その映画は見てるけど、書かなかった。あまりにも入り組んだストーリーがちょっとご都合主義的に関連している感じがしたからである。今まで『ハリー、見知らぬ友人』(2001)や『マンク 〜破戒僧〜』(2011)という映画などが公開されているというが、全く記憶にない。セザール賞監督賞を『ハリー、見知らぬ友人』と『12日の殺人』で受賞している。確かな演出力を感じるが、女性の目で捜査に進展があるという観点が犯罪映画としての新味である。見て楽しいだけの映画じゃないが、見ごたえは十分だった。
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そもそもパーティー券は「詐欺」に近いー「外国人」の購入制限問題

2024年03月22日 22時40分58秒 | 政治
 安倍派パーティー券の「裏金」不記載問題は、予想されたような展開になっている。衆参の「政治倫理審査会」(政倫審)が開かれ、多くの議員が出席したものの肝心なことは何も判っていない。野党側は嘘をつけば偽証罪に問われる「証人喚問」を求めているが、与党側は応じていない。また多くの「不記載」議員が政倫審に出ていない。政倫審は3分の1の要求があれば招致できるが、野党委員だけでは数が足りない。そこで与党である公明党に協力を求めたが、公明党は応じないようだ。(公明党は自民党に厳しいようなことを口では言うが、肝心なところでは自民党を離れない。)しかし、こういう展開は予想通りだろう。
(野党は証人喚問を要求)
 憲法の規定により、2024年度予算が年度内に成立することは確定している。そうなれば、もう与党は野党に譲歩する必要はなく、国民向けに関係議員に対する「一応の処分」は行われるだろうが、自民党としてはそれでウヤムヤにしたい。補欠選挙で自民党に厳しい結果が出れば、岸田首相に責任を取って貰えば良いのであって、それで終わり。そう考えているだろう。「もし」があるとしたら、予算案の衆院通過が3月第2週まで延びていれば、政府は暫定予算を組む必要に迫られたかもしれない。

 その時にこそ、野党側が与党を追いつめ証人喚問などを実現できたのである。ただ、その場合与党や与党寄り「識者」から「能登半島地震復興をジャマするのか」という声が殺到するだろう。立憲民主党が採決直前に予算委員長の不信任案鈴木財務相の不信任案を出して抵抗した時に、予算案本体には反対した「日本維新の会」「教育無償化を実現する会」は両不信任案に反対し、「国民民主党」は財務相不信任案に反対した。野党というけど、肝心な時に与党を助ける党がある。そしてSNSでも立憲民主党の「抵抗」に批判の声があり、結局腰砕けになってしまった。「闘う」時に足を引っ張るのが日本社会である。

 それはともかく、最近は「そもそも政治資金パーティー券って何だろう」と思っている。これまでは派閥のパーティー券収入が還流して、政治資金報告書に不記載だったことを批判してきた。まあ、当然である。政治資金パーティーを開くことは合法行為だが、政治資金を記載しないのは違法行為である。現行法でそうなっている以上、パーティーそのものは問題視せず、組織的に不記載だったことを批判したわけである。だけど、それで良いのだろうかと思うようになってきた。
(有村質問)
 きっかけとなったのは、3月6日の参院予算委員会における有村治子議員(元女性活躍担当相)の質問である。「外国人による政治献金が禁じられる一方、政治資金パーティー券の購入は認められている現状について「事実上どちらも政治活動への経済的支援に変わりはない。外国人によるパーティー券の購入をただしていかなければ、日本の政治が外国勢力から支配や干渉を受ける制度的な脆弱性を持ち続ける」と述べ、法改正を訴えた。」と質問しているのである。

 あれ、やっぱりそうなの? それ言っちゃうの? 政治献金が禁じられているのは、何も外国人(法人)だけではない。「一定の補助金等を受けている会社(法人)」や「(3年以上の)赤字企業」なども同様である。しかし、パーティー券については制限がない。それは何故かと言えば、パーティー券購入は「パーティーに出る対価」であって、「政治献金」じゃないからだろう。パーティーを開く(参加する)のは、集会の自由があるから問題ない。パーティーに参加するには、コンサートやスポーツの試合などと同じく「チケット」が必要だ。外国人であれ赤字企業であれ買っても良いわけである。

 しかし、やはり自民党議員であってさえ、タテマエではそうだけど、実は政治献金そのものだと理解している。売った分全員が来たら会場があふれてしまうし、飲み物、食べ物もあっという間に無くなる。それでも会社でまとめ買いして、代表一人が出席し多くの政治家と名刺交換して、一緒の写真を撮って帰る。パーティー券分の飲み食いをする気は初めからないのである。だから実質は政治献金。そこで「外国人も実質的に政治献金可能じゃないか」と発想するのは、さすが自民党議員は「排外主義」なんだと判るけど、真の問題は外国人じゃないだろう。

 3月2日付朝日新聞「企業献金の深層②」という企画記事では、「パーティー券購入「行くわけないが」」と大きく報じて、岐阜県の建設業者の話が載っている。「東京のホテルだろ。朝8時に行くわけないよ」と国会議員秘書に言ったら、「今はオンラインでも参加できますよ」と返されたとある。それならば、オンラインで参加する場合は(飲食しないんだから)パーティー券を安くするべきだろう。こういう風に「行くはずがないパーティー」の券でも個人で買うのは自由かも知れない。だが企業が負担していれば、背任とか横領に当たらないのだろうか。

 これって限りなく詐欺に近くないだろうか。昔の豊田商事(老人から金塊を買うとしてお金を集めて、買ってなかった)とか、最近のトケマッチ(高級時計を預かって貸し出すと称して、売り払っていたらしい)なんかの商法に何となく似てないだろうか。ただし、パーティー券の場合は、お互いに出ないことを承知で金を出して(集めて)いることが違っている。だが、「全員来たら入りきれないパーティー券を売る」のは、そもそも「詐欺事件」なんじゃないかと思う。
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原武史『戦後政治と温泉』を読むー戦後初期の首相は温泉で決定を下した

2024年03月21日 22時06分25秒 | 〃 (さまざまな本)
 政治学者の原武史著『戦後政治と温泉』(2024、中央公論新社)を読んだ。今まで原氏の本はずいぶん読んでいるが、これは提唱する「空間政治学」の概念がうまく生きた「傑作」だと思う。学問的著作に「傑作」という表現はおかしいかもしれないが、そう評価したくなる「作品」である。そして、戦後政治史に関して様々なことに気付かされる本だった。裏表紙の帯に「サンフランシスコ講和会議の下準備も“抜き打ち解散”の決定も温泉だった」とある。まさにその通り、戦後初期の重要な政治的決定は、伊豆や箱根の温泉で下された。そのことを余すところなく論証した本である。 
(表紙の写真は吉田茂)
 この本で追求されているのは、戦後政治史のベースを作った吉田茂鳩山一郎の政争に始まって、続く石橋湛山岸信介、そして60年安保後の池田勇人までである。社会党が加わった三党連立内閣が崩壊し、吉田茂の第二次内閣が出発した1949年に始まり、1964年の東京五輪後に池田首相が辞任するまで、おおよそ15年間がこの本で描かれる。その後の佐藤栄作首相になると、軽井沢の別荘を愛用するようになり、「温泉」の持つ役割が低下していった。現代の首相は「広島」「長崎」「終戦記念日」の式典に出席した後で短い休暇を取っている。しかし、この本が対象とする時代では、首相が閣議を欠席して1ヶ月以上も温泉旅館や別荘に滞在していた。昔とは言え、そんなことが許されていたのかという感じ。
(鳩山一郎)
 原武史氏は、鉄道ファンとして関西の私鉄に着目した『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』や団地に着目した『団地の空間政治学』など興味深い視点から、「空間政治学」を唱えてきた。また多くの公的史料や日記などを活用して、『大正天皇』『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』など、天皇を中心とした近現代政治史も書いてきた。この本はそれらのスタイルがうまく合わさり、伊豆や箱根の温泉宿や別荘(今はすでに取り壊されている物が多い)を訪ねつつ、数多くの政治家の日記を使って温泉で「政治」が動いた時代を再現した。原氏の著作には何度か触れてきたが、写真は未掲載だったから載せておきたい。
(原武史氏)
 政治家ごとに行きつけの宿、あるいは別荘は違っていた。吉田茂は三井家の持つ別邸を借り切ることが多かった。鳩山は熱海で療養することもあったが、伊豆長岡にあった野口遵(チッソの創業者)の別荘「水宝閣」を借りた。どちらも今はない。何で戦後に有力政治家が温泉に籠ったのだろうか。理由は幾つか考えられる。当然戦前の彼らは東京に本宅を持っていたが、それは空襲で焼けてしまった。また占領下の東京にいたくもなかっただろう。そして高齢の政治家たちには健康面の不安があった。吉田は大磯に自宅を持っていたが、夏の高温多湿に音を上げて箱根に避暑に行った。鳩山は脳卒中で倒れて、熱海の温泉で療養することが多かった。吉田・鳩山のし烈な政争は政治史に有名だが、その主たる舞台は伊豆や箱根だったのだ。
(箱根宮ノ下、奈良屋旅館)
 鳩山後に首相となった石橋湛山も温泉を利用した。肺炎で倒れて2ヶ月で退陣したが、退院後には伊豆長岡温泉で半年間療養した。その後を継いだ岸信介は、箱根宮ノ下の奈良屋旅館を愛用した。宮ノ下温泉は有名な富士屋ホテルがあるところだが、岸はその近くにあった大きな奈良屋旅館の別邸を主に使った。この旅館は2001年に閉業して解体され、跡地には会員制リゾートホテルが建っているという。岸はそこに外相や外務次官などを呼び、安保改定案を練っていた。しかし、インドのネール首相が来日した際は、富士屋を使っている。洋式ホテルだから国際儀礼に使いやすい。翌日は芦ノ湖に出掛け、堤康次郎(元衆議院議長、西武グループ創業者)の案内で西武系の遊覧船に乗っている。富士屋ホテルは今も健在で、僕も泊まったことがある。
(箱根宮ノ下・富士屋ホテル)
 60年安保で岸首相が退陣した後は池田勇人が首相となった。池田になると、箱根でもちょっと離れた仙石原の別荘が使われた。本人のものではなく知人や親族のものというが、恐らく無料で借りていて、今ならば問題化したかもしれない。この間、首相を辞めた吉田茂は大磯や三井別邸にいて、弟子筋の池田は折に触れて訪問していた。吉田は人を寄せ付けない「ワンマン」で知られ、箱根で面会することはなかった。池田も滞在中の別荘には(小さいここともあり)、人を呼ばなかった。代わりに近くにあった箱根観光ホテル(後に箱根パレスホテルと改称し、2018年閉業)を会議等に使っていた。初の日米貿易経済合同委員会もそこで開催された。「所得倍増政策」もこのホテルで練られたという。
(箱根観光ホテルのパンフレット)
 最終章で原氏は戦後の皇室と温泉という興味深いテーマを提出している。昭和天皇は各地方を訪れているが、宿泊地のほとんどは地元の有名温泉旅館が多かった。そして皇太子夫妻(現・上皇、上皇后)も各地を訪れ、青年たちとの懇談を重ねていたのだという。また社会党出身の村山富市首相が退陣を決めたのも、伊豆長岡の三養荘という旅館だった。それら興味深いエピソードを最後に語って、これら「温泉」での政治はある種「ワーケーション」の先駆ではないかとも指摘している。この本で取り上げられた旅館、別荘の多くは今は取り壊されている。もう歴史の跡を訪ねられないのが残念な思いがする。
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中学英語「広がる学力差」の背景にある教育政策

2024年03月20日 22時02分12秒 |  〃 (教育問題一般)
 『中学英語「難しい」 広がる学力差 新指導要領導入から3年」という記事が朝日新聞(3月19日)に掲載されていた。その記事によると、「2021年度に始まった中学校の新指導要領で、英語が格段に難しくなり、生徒に英語嫌いが増え、学力格差も広がっているー。教育現場で、そんな見方が定着しているという。」さらに記事を引用すれば、「都内の公立中の英語教諭は『生徒のできる、できないの差が際立つようになった。』都内の別の公立中の英語講師は『一部の子は英会話教室や塾で学ぶことでカバーしているが、それができない家庭もある。クラスの全員を巻き込んだ授業が難しくなっている』と話す。」と出ている。
(英語4機能の平均正答率=産経新聞)
 そりゃまあ、そうなるだろうなあと僕は驚かなかったが、拡大は今後も続くだろうと予測できる。検索してみたら、産経新聞の記事で、全国学力テストの結果が比較されていた。難易度が違うのだとは思うが、「下がっている」という結果になっている。この原因について、新学習指導要領で、内容が難しくなったことが大きいと出ている。例えば、以前は中一の終わりに習っていた「can」を使う会話を、入学間もない時期に扱うようになったという。また高校で習っていた仮定法や現在完了進行形を中学で教えるなど、文法の学習事項が前倒しになっているとのことだ。

 また中学で扱う単語は、1200語から1600~1800語に急増したという。さらに小学校の教科「外国語」では、単語の暗記にあまり時間を割かないため、生徒によっては小学校で扱う600~700語も中学でやらないといけないという。これではよほど学力の高い生徒以外は、中学の英語授業に付いていけなくなるのは当然だろう。ただ、このような事態は当然事前に予測されることであり、教育行政としては「予想したとおりになっている」ということだと思う。
(英語学力の格差拡大=江利川春雄氏のブログから)
 どうしてそう判断するかというと、中学入学段階で英語の学力格差が付くのは、小学校で英語を必修科目にする以上当然のことだからだ。かつて英語は(大部分の生徒にとって)中学で初めて接するものだった。だから他教科では学力差があるが、中学1年の1学期では英語の学力差はゼロだった。そのため、中学になったら英語の授業を頑張るんだと思って入学する生徒も多かった。そして初心を貫けたのか、担当教員と合っていたのか、他の教科はダメでも英語だけ得意だという生徒がけっこういたものだ。

 今では小学校で英語の授業があって、評価も付く以上、中学入学段階ですでに英語の得意・不得意、好き・嫌いがあるだろう。そして中学では「すでに小学校で習っている」という前提で教科書が進行する。そして急激に難しくなる。これでは英語嫌いを増やすようなものだ。だが、それは逆に言えば、「英語ができる少数の生徒を残す」という役割も持っている。それで良いということなんだと思う。先の記事では「クラスの全員を巻き込んだ授業」が難しいという声が出ていたが、もうそういう授業はしなくてよいと教育行政では考えているのだろう。「できる子を伸ばす」で良いのである。

 ということは、「中学英語の広がる学力差」は(行政から見て)困ったものではなくて、「政策目標が実現している」と考えるべきだ。縮む日本では、少数のエリートが海外で稼げれば良く、学力の低い層は日々を実直に生きて行けば良しとする。だから「学力重視」を叫ぶと同時に、「道徳教科化」が実現したのである。ただ、この「学力格差拡大政策」は、これから学校以外の多くの場面で大きな問題を起こすのではないだろうか。その「負担」を誰がどこで負うべきか。社会的合意がないままに、社会全体に格差が拡大してゆく。そういう未来が待っている気がしてならない。
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『辻政信の真実』(前田啓介著)、「神か悪魔か」伝説の参謀の生涯

2024年03月18日 22時02分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回書いた『おかしゅうて、やがてかなしき』では、著者の前田啓介氏について触れる余裕がなかった。名前を知らなかったが、よく調べて書いてる。高齢の人かなと思ったら、1981年生まれの読売新聞記者だった。滋賀県出身、上智大大学院卒業後、2008年に入社して、長野支局、松本支局、社会部、文化部、金沢支局を経て、文化部で歴史、論壇を担当と出ている。岡本喜八の本を書く前に、2冊の本を書いていて、最初の本が『辻政信の真実』(小学館新書)だった。(次が講談社現代新書の『昭和の参謀』。)そう言えば、そんな本が出てたなと思い出した。持ってなかったが、辻政信の本を読もうと買ってみた。

 400頁を越える新書にしては厚い本だが、非常に読みやすい。それも当然、これは金沢支局勤務中に地元出身の有名人を調べて、地方版に連載したものなのである。「辻政信」と言われても、今では誰か判らない人が多いだろう。近現代史に詳しい人なら、この人の名を悪魔のように(または神のように)、良くも悪くも強烈な存在感を発揮した人物として知っていると思う。副題が「失踪60年ー伝説の作戦参謀の謎を追う」とある。この本が出たのは2021年で、それは参議院議員だった辻政信が東南アジア視察に出掛けたまま「謎の失踪」をしてから、ちょうど60年目の年だった。
(前田啓介氏)
 辻の前半生はドラマチックだが、この最期もすごい。参議員議員が海外で失踪したまま未だに真相が不明なんだから、好き嫌いはともかく強烈にドラマチックである。僕も陸軍参謀時代のことはおおよそ知っていたが、生い立ちなどは知らなかったので驚くことが多かった。辻政信は1902年(明治35年)に、石川県の東谷奥村(現・加賀市山中温泉)という山奥の小村で、4人兄弟の3男に生まれた。家は貧しく、他の兄弟は皆小学校のみだが、勉強の出来た政信だけが高等小学校に進んだ。そこで終わるのが貧しい「田舎の秀才」の人生だが、彼はその後、陸軍の名古屋幼年学校に合格した。
(辻政信)
 僕は知らなかったのだが、高小卒にも幼年学校の受験資格があったという。もちろんほとんどは中学に進んでから受けるのである。補欠合格と言われることもあるが、それは間違いだと前田氏は証明した。官報に合格者が成績順に掲載されていて、合格50名中の24位だったという。そこから頑張って首席で卒業した。幼年学校は無料ではない。家族は政信に賭けて、支援を惜しまなかったのである。そして、続いて進んだ陸軍士官学校でも首席卒業である。高小卒として異例中の異例だろう。支えた家族もすごいが、政信も勉学にすべてを注ぎ「堅物」と言われてもひるまなかった。その様子はちょっと「異常」かもしれない。

 陸軍で「活躍」した時のことは詳しくは書かない。本書では知らない人にも判るように書かれている。昭和史を彩る様々な戦争の裏に、かならず辻がいた。第一次上海事変、陸軍士官学校事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、マレー作戦、フィリピン戦線、ガダルカナル、ビルマ戦線…。戦場にあっては、勇猛かつ果断、自ら先頭に立ち最前線に赴く。「不死身」と言われたのも無理はない。

 だがノモンハン事件(満州・モンゴルの国境紛争で、日本軍とソ連軍が激突した)を拡大させ、多くの犠牲者を出したのは辻の無謀な作戦だと言われる。英領マレー半島を一気に南下しシンガポールを占領したマレー作戦は稀に見る大勝利と言われるが、占領後のシンガポールで華僑の大虐殺を辻が命じたと言われる。誉める人は神のごとく、貶す人は悪魔のごとく辻政信を語る。辻ほど毀誉褒貶の激しい人物は歴史上にも珍しい。この本を読んで初めて辻政信を知る人は、彼の人生をどう感じるだろう。
(『潜行三千里』)
 敗戦にともない、戦犯に問われると思った辻は「潜行」することにした。初めは僧に扮して脱出しようとしたが、その後中国の蒋介石政権を頼り、さらに帰国して各地を転々と隠れ住んだ。戦犯解除後に当時の様子を『潜行三千里』という本にまとめて大ベストセラーになった。最近復刊されて、新聞にも大きな広告が載っている。他に何冊も本を書き、全国を講演して回った。この本には兼六園での講演会に3万人が集まった写真が載っている。ホントに立錐の余地もなく多数の男性が集まっている。
(故郷に立つ銅像)
 そういう人気を背景にして、1952年衆院選に立候補してトップ当選した。当初は無所属だったが、その後(鳩山一郎系の)「日本民主党」に入党し、保守合同で自由民主党に所属して4回連続当選した。ところが当時の岸信介首相を厳しく批判し、そのため何と自民党を除名されてしまう。そこで衆議院議員を辞任して、1959年の参議院選挙の全国区に出馬して第3位で当選したのである。つまり同時代の日本人には人気があったのだ。そして1961年4月4日(家族は4が続く日は不吉だと止めたと言うが)、戦乱のラオス和平を探るとして東南アジアへ出掛けた。本書ではその後公開された外務省文書を初めて使ってラオス入国まで確認している。

 戦後の政界人生ではほとんど一匹狼だったようで、仲間もなく出世もしなかった。陸軍時代も問題を数多く起こしながら、危機になると使い勝手が良いので呼び戻される。上に立つものが「無責任」なのが日本の組織の特徴で、声が大きい者を排除出来ないのである。それに部下には慕われたようである。全力で取り組み、上官でありながら第一線に立つ。それが「組織人」としてどうなのかと言われても気にしなかった。その意味では真の大物とは言えず、上司のために「過激」なことを言う役目を果たしていた。

 この本の冒頭で半藤一利氏が辻を「絶対悪」と評したと出ている。自分も今までどこかそんな風に思っていた。ノモンハンで、シンガポールで「問題」を起こした辻を、その後もガダルカナルやビルマで重用するなど、日本軍の根本的欠陥を象徴するようなケースだと思う。この本を読んで、辻その人は魅力もあると思ったが、こういう人は困るなあと思った。「本気の人は怖い」のである。軍隊はタテマエ社会なので、全く遊ぶことなき「堅物」が堂々とタテマエを主張すると誰も議論で勝てない。

 こういう人は時々いると思う。以前「指導力不足教員」より、「指導力過剰教員」の方が困ると書いたことがある。辻はまさにそういうタイプの軍人で、マジメで体力抜群、頭脳明晰だから、普通の人はかなわない。神のごとくに崇めて信奉する。教員でもそのような「指導力過剰」な人が時々いて、付いていく生徒がたくさんいて「熱心な良い先生」と言う。だけど、その裏に少数の「付いていけない」生徒を生み出してしまう。辻政信という人もそういうタイプの人間だったんじゃないかなと思った。
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映画監督岡本喜八と「戦中派」ー『おかしゅうて、やがてかなしき』を読む

2024年03月17日 20時35分10秒 |  〃  (日本の映画監督)
 2024年は映画監督岡本喜八の生誕百年に当たる。それに合わせたように、集英社新書から前田啓介おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』が1月に刊行された。岡本喜八は『日本のいちばん長い日』や『肉弾』など、戦争を描く作品で知られる。この本は奇跡的に発見された日記を用いながら、戦時中の映画青年の肖像を描いている。映画監督としての人生を書くまでに、この本の半分以上が費やされる。映画監督に関する本だけど、むしろ「戦争に直面せざるを得なかった世代」の思いを伝える本と言ってもよい。映画を見てない人にも是非読んでみて欲しい本。

 岡本喜八こと、本名岡本喜八郎は、1924年2月17日鳥取県米子市に生まれた。(没年月日は2005年2月19日で、満81歳を迎えた直後だった。)僕の父親は1923年2月11日生まれなので、ほぼ一年違いだった。岡本喜八の祖父は大工だったが、父の代に雑貨商として成功した。母は隣の島根県安来市出身で、喜八の若い時に結核で亡くなった。米子商蚕学校(現・米子南高校)を卒業後、明治大学専門部商科に進学し、東京で映画や舞台に通う日々を送った。著者は関係者や様々な資料を当たり、当時の青春を再現している。1942年12月3日の午後に「神田松竹」で『ハワイ・マレー沖海戦』を見たが、ちょうど同じ日に後の作家山田風太郎も同じ映画館で見ていたという。そんな歴史上の「奇縁」を探し当てたのもすごいと思う。
(岡本喜八)
 戦時中に書かれた日記は当時の若者の姿を生き生きと伝えている。幼い頃は漫画家になりたかった喜八は、やがて映画演出家を目指した。どの道、米英との戦争に突入した以上、恐らくは二十歳過ぎで死ぬことが避けられない。郷里に帰らず好きな道に進みたいと考え、1943年夏に東宝の入社試験を受けた。なかなか結果通知が来なかったが、やがて合格の知らせが届いた。つまり、岡本喜八は戦後入社ではなく、戦時中にすでに東宝に入って映画製作に関わっていた世代なのだ。その後、徴用されて中島飛行機武蔵野製作所(現武蔵野市)で空襲を受けた。この本は岡本喜八の回想に頼らず、現場を訪れ資料にあたるのが特徴だ。

 武蔵野市にももちろん出掛けているが、さらにその後徴兵されて豊橋で受けた空襲の現場も訪れる。岡本喜八はその時の苛烈な体験を生涯に何度も語っている。だが、回想を鵜呑みにするのではなく、多くの人の回想や諸記録に当たって裏を取ろうとしている。そうすると岡本の回想とは違う現実も見えてくる。そういう記述が長いので、人によっては退屈かもしれないが、それあってこその探求的な伝記なのである。そして、僕も今まで全然知らなかったことを知ることが出来た。

 それが第3章「早生まれ」に書かれている。当時は満年齢で20歳の男性に兵役の義務があった。そのため20歳になったら、男は「徴兵検査」を受けるわけだが、検査はもちろん毎日毎日単発的に行うのではない。学校と同じく、ある年代の国民をグループにして対象にするのである。だから多くの男がズラッと並んで検査を受けるというシーンに、映画や小説で何度も接した。僕はそれを当然学年単位の集団だと思い込んでいた。しかし兵役法では、1943年の徴兵検査の対象は「1942年12月1日から1943年11月30日に生まれた者」だったのである。従って、同じ学年でも「早生まれ」の岡本は1944年の検査を受けたのである。

 このことは岡本喜八の人生に決定的な意味を持った。鳥取時代の同級生は半数近くが戦死したが、それは1943年の検査を受けた者だった。その世代はいよいよ南方が危うくなり、多くの若い兵士がフィリピンや沖縄に送られた。一方、1944年検査の世代は、いよいよ実戦に出るという時にはすでに輸送船がなく、今度は「本土決戦」だという時代になっていた。飢えに苦しみながら猛訓練を受けて、やがて上陸する米軍に「特攻」攻撃を行って戦死すると思っていたのである。しかし、いくら苦しくても「本土」にいたので(空襲はあったけれど)、生き残る確率が高かったのだ。
(『江分利満氏の優雅な生活』)
 この本ではようやく東宝に戻るまでが長く、映画に関しては「戦中派の思い」に特化して分析している。どうしても「生き残った世代」の思いを消せない岡本だが、同時に楽しい映画を作ることにこだわった。いわゆる「社会派監督」にはならず、むしろ『ああ爆弾』や『殺人狂時代』などのカルト的犯罪映画が世界で人気だ。そんな岡本は日中戦争をパロディ的に描いた『独立愚連隊』(1959)、『独立愚連隊西へ』(1960)で注目された。そして1963年に山口瞳の直木賞受賞作『江分利満氏の優雅な生活』で戦中派の思いをぶちまけた。だけど僕はその映画に共感しつつも疑問も覚えた。受賞パーティー後に部下を連れ回し、主人公役の小林桂樹が大演説をぶつ。しかし、家まで連れて行かれて朝まで相手をさせられるって、パワハラ上司ではないか。
(『日本のいちばん長い日』』
 『日本のいちばん長い日』(1967)はもともと小林正樹監督が担当する予定だったという。「事実」のみで構成されているようで、やはり脚色もあるらしい。また配役に関しては、阿南陸相の三船敏郎、米内海相の山村聡は、遺族からするとむしろ逆の方が似ていたらしいのも興味深い。この映画は主に国家最上層部を描いているので、その後自らの戦争体験をもとに『肉弾』(1969)をATGで作った。僕はこの映画が岡本監督のベストだと思う。この映画は戦争末期に「本土決戦」で特攻で死ぬと運命付けられていた青年(つまり自分自身)が、何のために死ねるのかを自問する過程を描いている。少女に巡り会って「死ねる」と思う描写など胸打つシーンが随所にある。
(『肉弾』)
 ただ岡本映画には弱点もある。それはこの本の中で五木寛之の評に示されている。岡本は兵士の影の部分を描けないのである。僕が同時代に見た岡本作品にあまり熱中出来なかったのも、その点が大きい。登場人物を突き放して見る視点がない。あえて作らないのだろう。岡本世代(戦中派)は「戦前」を知らなかった。だから「日本でどうして反戦運動を起こせなかったか」という問題を考えること自体が出来ない。死ぬ意味を見つけられないのは、日本の侵略戦争だからだという発想がないわけである。

 井上ひさし原作の映画化『青葉繁れる』(1974)を数年前に初めて見たのだが、これはジェンダー的観点から今では受け入れられない映画だなと思った。こういう風に、岡本作品には今になると再検討が必要なものが結構多いのではないか。しかし、「戦中派」とは何か、この本は映画というジャンルを超えて多くの問題点を提起している。映画を見てない人こそ読むべき本だろう。
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3月の奥日光はまだ真冬ー異常に水量がない華厳の滝

2024年03月15日 22時37分58秒 | 旅行(日光)
 突然また奥日光へ旅行。そろそろどこかへ行きたいな、できたら暖かい方が良いなと思いつつ、なにかと用事が立て込んでいた。ところが最近定宿にしている休暇村日光湯元に安いプランがあると気付いて、急に行く気になった。今の日光は外国人観光客の方が多い感じだった。行って判ったけど、確かにこの時期の日光には日本人客が少ない理由がある。年度末の平日だから現役世代は行きにくいに決まってるが、それだけではない。日光杉並木や世界遺産寺社に立ち並ぶ杉の大木が茶色くなって花粉を出している(と思う。)まあ我ら夫婦は花粉症に縁がないので、この時期でも行けるのである。

 今回は特急スペ-シア(新型のスペ-シアXじゃなく)で行って、そこからバスで行動。奥日光は今も寒い時期で地吹雪や路面凍結が心配。宿泊客は乗降自由のフリーパスが半額になる(3月いっぱい)。湯元温泉までのフリーパス3500円が1750円になるのである。寝ててもいいから冬はバスが安心。車で回ると駐車場がちゃんとある場所に入ってしまう。駅前からすぐ乗るのではなく、裏通りを歩いたので、1日目も2日目も今まで知らなかった店でお昼を食べて面白かった。

 東武日光駅からいろは坂あたりまでは道には雪がなかったが、いろは坂の途中から道に雪が積もっている。中禅寺バスターミナルで下りてみると、北風が吹いて寒い寒い。こんなに寒いのか。宿に着く頃には粉雪舞い散る天気になってしまった。宿から見た外の風景を撮ったのが下の1枚目。2枚目は宿だが、完全に真冬じゃないか。3枚目は近くにある奥日光小西ホテル。大きなつららが凄い。少し周辺をハイキングしようかと思ってたけど、考えが甘かった。冬用の装備をしてない限り無理である。
  
 今回は久しぶりに華厳の滝の真ん前までエレベーターで行ってみた。もう何度も行ってるし、駐車場が有料だから車で行動するときは通り過ぎてしまう。今回行ったのは、歴史的に水量が少ないという話を聞いていたからである。行くまでの道は雪掻きされて歩けるが、雪は横に山となっている。男体山が晴れて良く見えた。
 
 華厳の滝が見えてくるが、確かに遠くから見ると「何このチョロチョロ流れてるヤツ」という感じ。外国人客はこういうものと思うのか、喜んで皆写真を撮っている。実は華厳の滝の水量は管理されていて、中禅寺湖の水が滝になっている。今年は例年にない暖冬で雪が少なく、中禅寺湖の水位自体が見たことないほど低くなっていた。その結果、華厳の滝はまあ一応あるという程度になってしまった。2011年に行ったときは雨台風直後で、毎秒60トンと異常に豊かな水量だった。今回は0.3トンというけど、多分もっと少ない。比べてみるとよく判るだろう。(逆光で見にくいけど。)空は快晴なんだけど。
(2011年)(2024年)
 その前になるが、駅から裏通りを歩いて、面白そうなお店があれば食べたいと思っていた。いつもは通らない裏道はこんな感じなのか。あちこちに神社やお寺があるのも日光らしい。結局は東照宮への参道に出て、「弦庵」という手打ちそばに入った。何組かいた客のほとんどは「日光ゆば蕎麦」か「日光ゆばせいろ」を頼んでいたようだが、つい他で食べられないと思って「グリーンカレーそば」を注文してしまった。ま、おいしいんだけど、合うかどうかは…? 世界の弦楽器が壁際に並んでる店だった。
  
 宿の休暇村はやはり過ごしやすい。布団もエアーになったし、デザートやコーヒーを部屋に持ち帰ってもいいという。(持ってかないけど。)お風呂も緑色の大浴場と白色の露天風呂にじっくり浸かるとうれしい。2日目は早めに町まで下りてしまうことにして、実は行ったことがない「憾満ヶ淵」(かんまんがふち)を歩いた。「裏見の滝入口」でバスを降りて、小学校を過ぎると「大日堂跡」に出た。この辺の案内板を読むと、どれも「明治35年の大洪水で流され」と出ている。1902年にスゴイ洪水があったらしい。昔はそこに「大日堂」という施設があって、日光に来た明治天皇が立ち寄ったとか。庭園もあって美しい名所だったという。
  
 普通は神橋方向から行くことが多いと思うが、今回は逆コース。少し歩くと、大谷川(だいやがわ)の流れる渓谷「憾満ヶ淵」である。地蔵が並んでいて、何体あるか数えるたびに違うとかで「化け地蔵」と言われる。半ばあたりに「霊庇閣」(れいひかく)がある。対岸の不動明王石像を供養する護摩壇だったというが、これも洪水で流され1971年に再建された。
   
 渓流から離れて大通りに出ると、金谷ホテル歴史館付近だった。そこのレストランも美味しいが何度も行ってる。そのちょっと先にピザ屋があると、前日に気付いた。ナポリピッツァの店(リンネ)で、大きな窯で焼いているのが見える。一人で焼いてて時間がかかると断りが出ている。なかなか美味しかった。そこから駅に戻って、電車まで時間があるので「明治の館」のケーキショップで一休み。あることは知っていたが、売店だけだと思っていた。しかし、2階で食べることも出来る。喫茶メニューだけだが、明治の館の有名なチーズケーキを楽しめる。案外人がいないし、駅を見下ろせて穴場だなと思った。
  
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それで岸田内閣は結局どうなるのかーやはり9月に辞職か?

2024年03月13日 22時33分58秒 | 政治
 1月末の安倍派裏金問題の「法的決着」以後は、政局について書いてない。昨年来何度も書いてきたことの続きだから、一回完結の記事として「岸田内閣の行方」に絞って考えてみたい。まず確認だが、4月28日に(今のところ)衆議院3選挙区の補欠選挙が行われる。これは与党に厳しい結果が予測されているが、どうせならここで一緒に解散してしまうという想定も可能だった。長崎4区などは解散すれば無くなってしまうので、勝敗カウントから外れる。自民党が減らすとしても、野党の選挙協力がない時点で「奇襲」すれば、「自公で過半数」は可能じゃないか。

 しかし、この予測は今のところほぼ考えられないと思う。年末時点から変わった点が二つある。一つは昨年末に安倍派二階派に強制捜査が行われ、自民党内ではこの2派閥の問題と思われた。ところが岸田派事務総長も略式起訴されたことである。もう一つは、元日に能登半島地震が起きた。大規模断層地震で、能登半島西部では大きな隆起が見られた。その結果、能登半島の被害は想定以上に大きく、特に水道の復旧が大幅に遅れている。住民の多くは二次避難を続けていて、この段階で解散総選挙を行うことは「被災者無視」だという非難を避けられない。

 では、その地震災害要因はいつまで続くのか。秋以降、来年になれば、一応総選挙は可能だろう。今の段階での予測では、「6月解散、7月選挙」も出来なくはないのではないか。避難者は残っているだろうが、それを言えば原発事故被災による避難者もまだ多いわけである。通常国会会期末に野党は当然内閣不信任案を出すだろう。それをきっかけに、岸田首相が「解散・総選挙に打って出る」と言えば、法制上誰も止められない。内閣支持率が落ちているので、野党側は岸田首相での選挙を望んでいる。自民党が減るのは間違いないんだから、自民党内は「いかにして首相の暴挙を止めるか」に躍起となる。

 さて、10日のBSテレ東の番組で公明党の石井幹事長が興味深い発言を行った。「公明党の石井幹事長は、次の衆院選の時期について、今年9月に行われる予定の自民党総裁選後の「可能性が高い」との見方を示しました。石井幹事長は民放のBS番組で「自民党の総裁選で選ばれた総裁は非常に支持率が高くなる」と指摘。秋に予定されている総裁選の後に次の衆院選が行われる可能性が高いとの認識を示しました。」これは注意深く、岸田再選なしとは言ってないが、事実上は岸田後の新総裁で選挙をやりたいということだ。連立与党とはいえ、他党の幹部が「You're Fired! = おまえはクビだ!」(トランプの決めぜりふ)と言っても良いのか。
(石井発言)
 しかし、これは自民党内からは言えないから、公明党が代弁していると考えた方が良いだろう。小選挙区で何とか勝てる人は良いけれど、このままでは比例区で復活するのが難しいのは目に見えている。何とか違う首相のもとで選挙に臨みたい。それが自公議員のホンネだろう。だが誰が後継首相になれば良いのか。世論調査では石破茂元幹事長への期待度が突出して高いが、「石破だけにはしたくない」で大方の自民議員はまとまるはずだ。旧「安倍派」から出すわけにはいかず、茂木幹事長にも政治資金疑惑がある。およそ派閥の長である人が皆総裁選に出にくいという、かつてのリクルート事件(1989年)の時みたいな状況になっている。

 では肝心の岸田首相はどう思っているのか。なかなか動かない自民党の中で、自ら首相として初めて政治倫理委審査会に出席した。しかし、かつての小泉首相のように「自民党をぶっ壊す」などとは言わない。小泉郵政改革は、多くの離党者を出した。一時は小泉改革に熱狂した国民も、次の選挙では民主党への政権交代を選択した。民主党政権には郵政反対派の「国民新党」など反小泉の保守派も参加していた。今回の問題を深追いすると、安倍派を支持してきたウルトラ保守が自民党を離れるかも知れない。それをきっかけに自民党が「三度目の下野」に追い込まれる可能性もある。
(政倫審に出席した岸田首相)
 その事を考えると、何となく煮え切らない対応、官僚的な答弁を続けている岸田首相は「まだ再選を諦めていない」と見ることが可能だ。しかし、安倍派、二階派に加えて、相談なしに「派閥解散」を打ち出したため、麻生派や茂木派も今では首相を支える気が無いように見える。党内に岸田再選へ向けて熱気の高まりがないが、同時に自分が取って代わるという熱気もない。低支持率のまま、本人には辞める気が無く夏を迎える。そこで解散に踏み切れるか。どうやって、解散を止めるのか。自民党内から不信任案に賛成するということは考えられない。(総選挙で公認されなければ、旧安倍派は復活当選出来ない。)

 自民党の大多数は、「安倍派処分」など恨まれることは岸田首相にやって貰いたいだろう。そして「責任を取る」として首相が辞めてくれれば一番良い。岸田内閣は9月まで続けば3年やったことになり、安倍、小泉には及ばないけれど、21世紀で3番目の長命政権になる。菅内閣は東京五輪、岸田内閣は広島サミット。大仕事は一つやった。またこれから3年間岸田内閣が続くのは、誰が見ても長すぎるんじゃないか。やっぱり方向性としてはそうなりそうな気がする。問題は誰が首に鈴を付けるのか。それは麻生副総裁しかいないと考えられる。次も「岸田派」から出すから、ここで身を引いてくれないかと言うわけだ。

 具体的には「林(芳正官房長官)か、上川(陽子外相)か」である。どっちも岸田派だから、首相が辞めない限り自分で出るとは言えない。林を担ぐと、山口県で確執がある安倍派が高市早苗を立てるだろう。閣内から出るんだったら河野太郎も出るかもしれない。そうなると上川陽子を各派閥まとまって擁立するというのが、あり得る選択肢だろう。もう一つ、小池都知事が都知事選に出馬せず、自民党に復党申請するとどうなるか。今の段階で読めないけれど、そういう可能性も全くなしとは言えない。

 僕は麻生副総裁の「上川外相おばさん発言」は、次の総裁候補として認知したという宣言だと思っている。上川外相が問題視しないと言ったのも、「私はわきまえた女」として後継擁立を受けるという党内ボスへの返答だと考える。だから「麻生発言」を何度も批判してきたけれど、今回は書かなかった。生臭い思惑がある発言をタテマエで非難しても、誰にも届かないからだ。だけど、麻生副総裁が説得しても岸田首相が辞職しないとなった場合、どうなるのかまでは僕にも全然読めない。
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川本三郎『林芙美子の昭和』を読むー「大衆」を生きた女性作家

2024年03月12日 22時24分13秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子を読んできて、とりあえずこれが最後。川本三郎林芙美子の昭和』(新書館、2003)である。僕は川本三郎さんの本が好きでかなり読んできた。この本は400頁以上ある分厚い本で、2800円もした。どうしようかと思ううちに、発行1ヶ月で第2刷になっていた。やっぱり買っておくことにしたが、この本を読むのは林芙美子をちゃんと読んでからにしたいと思って、早20年。読み始めたら面白くて『放浪記』より早く読み終わった。中身も面白かったが、ようやく片付けられて嬉しい。

 川本三郎さんの本をここで何回書いたか、自分で調べてみたら4回書いていた。それは『川本三郎「荷風と東京」を読む』、『川本三郎「小説を、映画を、鉄道が走る」』、『川本三郎「『男はつらいよ』を旅する」を読む』、『川本三郎「『細雪』とその時代」を読む』の4本。本当はもっと読んでるが、書いてないのもある。例えば、どちらも2014年に出た『成瀬巳喜男 映画の面影』(新潮選書)や『日本映画 隠れた名作 - 昭和30年代前後』(筒井清忠と共著、中公選書)である。

 川本三郎は70年代後半から「都市論」的な評論で注目されたが、次第に近代日本の小説や映画を論じるようになった。都市論的視角から東京を歩き回った永井荷風に関心を持つ一方で、昔の庶民の姿を写し取る成瀬巳喜男監督の映画にも惹かれた。そうなると、成瀬監督が何作も映画化し、荷風を敬愛した「東京を歩く人」である林芙美子に注目したのは必然というべきだろう。そして予想通りこの本はとても面白くて読みふけってしまう本だった。
(川本三郎氏)
 まず本書では『放浪記』を「大都市東京を歩いた本」として読み解く。それも「新興の町・新宿」から生まれたという。なるほど芙美子本人も新宿から近い落合近辺に長く住んでいたし、「下町」を舞台にした小説は少ない。あれほどの「貧乏」に苦しめられながら、東京の東側に住んだことがないのである。そして一日中行商に歩いたり、原稿売りに歩き回る。世田谷に住んでいた時は、歩いて都心の出版社に原稿を持ち込んで、また数時間かかって家に到着すると、すでに速達で原稿が戻っていたりした。

 言われてみれば『放浪記』で林芙美子は東京を歩き回る。ただ読んだときにはその事をあまり意識しない。それは「求職」か「原稿売り」という、窮迫に迫られての徒歩だからだ。もっとお金があれば市電を使うんじゃないかと思ってしまう。だが、確かにこの本を読むと、林芙美子の「肉体」は歩くことを苦にしない。だからこそ、後に中国戦線で「漢口一番乗り」を果たせるのである。150㎝もない身長だったというが、驚くべき元気さ。それは「都市」という誰も知らない町で、自立して生きている女性の強さである。他の「女流作家」には「お嬢様」が多い中、これほど庶民そのものの中から出て来た小説家は珍しい。

 そして東京を歩き回ったように、林芙美子はパリも歩く。「満州」も歩き、戦火の中国も歩いた。そこで見た民衆像を等身大で書き続けた。ただ従軍して書かれた文章には、やはり弱さもある。林芙美子は「一生懸命戦う兵隊」に寄り添いたいという思いでいっぱいだった。しかし今から考えれば、その戦争は紛れもなく「不義の戦争」だった。当時はそのことを書けないとしても、そのことを全く意識していないらしいのは、今になると困る。現時点で断罪するというのではなく、ただ林芙美子の真情に寄り添うのでもなく、現在地からすれば「次は間違わない」ためにどうすれば良いのかを問う必要がある。

 戦時中の疎開から帰って来て、林芙美子は書きまくる。そこで書かれたのは、「解放された明るさ」ではなく「暗い戦争」であった。それが『浮雲』を覆っている「暗さ」に現れている。しかし、最後に未完で終わった新聞小説『めし』では、新しく登場した「主婦の不安」を描いているという。林芙美子を読んで、今読んでも十分面白いことに驚いた。数多くの庶民が出て来るが、ジェンダー的に引っ掛かるところが少ない。戦争中の文章は頂けないが、当時生きていた人々を考える時には、今も必読だと思う。

 川本三郎氏の本は重くて持ち歩くのも大変だが、林芙美子を読んでなくても、成瀬巳喜男の映画を見てなくても、十分面白く読めると思う。こういう本を読むのはとても楽しい。人生のご褒美みたいな体験だ。
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