いじめがなくならないという理由について。長くなると思うので2回に。僕がそれを書いておきたいと思うのは、流通している学校論に納得できないものをずっと感じてきているからだ。
学校現場の多忙化、「競争」を進める教育行政の問題なんかを僕もよく書いてるけど、そういうのは「いじめ問題の解決を難しくしている要因」であって、そもそもいじめが起きる理由ではない。文科省や教育委員会の現場無視の教育行政がなければ、いろんなことがよほどやりやすくなると思うけど、今ほどひどくなかった80年代にも重大ないじめ事件が起こった。
学校や教育については、ほとんどの人に何か言いたいことがあるものだけど、「右」も「左」も学者や評論家なんかは大体勉強ができた人なんだろうと思う。いじめが問題になると、よく新聞なんかに「いじめられている若者へ」みたいな文章が載ったりするけど、みんな結構むずかしいことが書いてある。
学校の先生というのもそうで、そりゃあ各教科すべてできたわけではないだろうけど、「勉強が大嫌いだった人」が教員になるはずがない。もちろん僕もそうである。体育や芸術の先生だって、部活ばかりやってたり、いつも一人で絵を描いてるような人も中にはいるかもしれないが、大学を出て教員採用試験を通ったんだから、生徒だった頃に勉強ができなかったわけがない。(体育の先生というのは数が多いので、いろんな人がいるのも確かだが、団体プレーで動くことに慣れているためか、一緒に仕事をしやすい人が多いと思う。)
だから、教師がいくら生徒の心に寄り添うなどと言っても、勉強やスポーツが本当に苦手な生徒のことをわかるのは難しい。日本社会は「頑張ること」を強要するから、教師も「まあ頑張ろう」と言い、生徒も「判った、頑張る」と答えて、なんか理解しあったつもりになっている。それで大体の時間は平穏に過ぎていくけど、何か事件が起きると両者の距離の大きさが判るのである。
「右」の側はよく「戦後教育が悪い」などと言う。いじめは戦前にも戦中にもあったんだから、こんな言説にはなんの説得力もない。要するに「学校は教員による秩序があるべきだ」という前提があり、「道徳教育」によって「学校秩序」を維持するべきだとなる。だから秩序が崩れた学校は、生徒を統制できない教員に問題があるとなる。そういう教員がいるのは、「自由と権利を強調する戦後憲法」と「教員の権利を主張する教員組合」のせいである、と続く。今はいちいち反論しないけど、こういう風に「あるべき学校」を自明の前提において、演繹(えんえき)的に議論を進めていって、学校の現実が自分の理想と違っても自分の前提を疑うのではなく、「教師が悪い」と決めつける。そういう発想では、「今の時代のいじめ」に苦しむ子どものリアルに近づけないのは明らかだ。
一方、「左」というか「進歩的教育学者」というタイプの考え方があって、「こどもは学びを求めている」とか「皆で学び、皆で育つ」とか「学ぶことは本来楽しいものだ」とか、そんな発想をする。僕もそれを全否定するものではなく、「こどもの知的関心を軽んじてはいけない」とは思う。「皆で学ぶ」ための工夫もいろいろ開発されていて、現場で役立てる知恵はたくさん蓄積されている。教員の自主研修が出来にくくなっているが、夏は様々な研究大会が開かれていて、そういうのに行かせてもらえればたくさんのアイディアを持ち帰ることができるはずだ。(最近は教育委員会主催以外の集まりには休暇を取らないと参加させないところが多い。)しかし、そういう工夫をして授業を判りやすく面白くしたり、学校行事を盛り上げたり、生徒の連帯感を育てたりすれば、いじめはなくなるんだろうか。生徒の連帯感が生まれ、学校に「反いじめ文化」が根付いて行けば、確かにいじめレヴェルを下げたり、教員が早期発見できたりする可能性は増える。でも、要するに「減いじめ」に近づいたということであって、現実の学校としてはそれで十分だと思うけど、「いじめそのものをなくす」ことにはならないだろう。
そうすると、今度は一挙に「人間の本能には攻撃性があり、戦争もいじめもなくせない」などと決めつける人が出てくる。僕はそういう「人間の本質論」にはあまり関心がない。専門が歴史だったから、個別ケースの積み上げに関心があって、理論や哲学にあまり関心がないのである。そういう立場で見ると、人間に攻撃本能があるかどうかは知らないが、「人間の攻撃本能から起きた戦争はない」ということである。全部の戦争は知らないけど、あったら教えて欲しい。その当時の社会システムが戦争を起こすのであって、そうじゃないと戦国時代が長く続いた後で、今度は戦争のない江戸時代が200年以上続く理由が判らない。人間の本能ならいつも戦争がなければならない。社会のあり方が変われば戦争はなくなるのである。いじめも同じで、本能で起こるんだったら、どの時代、どの学校でも起きるはずである。いや、起きているというべきかもしれないが。それでも、軽い段階で終わる場合もあるし、重大な事件になってしまうこともある。その違いは、本能だけでは説明できないだろうと思う。(いったんここで切る。)
学校現場の多忙化、「競争」を進める教育行政の問題なんかを僕もよく書いてるけど、そういうのは「いじめ問題の解決を難しくしている要因」であって、そもそもいじめが起きる理由ではない。文科省や教育委員会の現場無視の教育行政がなければ、いろんなことがよほどやりやすくなると思うけど、今ほどひどくなかった80年代にも重大ないじめ事件が起こった。
学校や教育については、ほとんどの人に何か言いたいことがあるものだけど、「右」も「左」も学者や評論家なんかは大体勉強ができた人なんだろうと思う。いじめが問題になると、よく新聞なんかに「いじめられている若者へ」みたいな文章が載ったりするけど、みんな結構むずかしいことが書いてある。
学校の先生というのもそうで、そりゃあ各教科すべてできたわけではないだろうけど、「勉強が大嫌いだった人」が教員になるはずがない。もちろん僕もそうである。体育や芸術の先生だって、部活ばかりやってたり、いつも一人で絵を描いてるような人も中にはいるかもしれないが、大学を出て教員採用試験を通ったんだから、生徒だった頃に勉強ができなかったわけがない。(体育の先生というのは数が多いので、いろんな人がいるのも確かだが、団体プレーで動くことに慣れているためか、一緒に仕事をしやすい人が多いと思う。)
だから、教師がいくら生徒の心に寄り添うなどと言っても、勉強やスポーツが本当に苦手な生徒のことをわかるのは難しい。日本社会は「頑張ること」を強要するから、教師も「まあ頑張ろう」と言い、生徒も「判った、頑張る」と答えて、なんか理解しあったつもりになっている。それで大体の時間は平穏に過ぎていくけど、何か事件が起きると両者の距離の大きさが判るのである。
「右」の側はよく「戦後教育が悪い」などと言う。いじめは戦前にも戦中にもあったんだから、こんな言説にはなんの説得力もない。要するに「学校は教員による秩序があるべきだ」という前提があり、「道徳教育」によって「学校秩序」を維持するべきだとなる。だから秩序が崩れた学校は、生徒を統制できない教員に問題があるとなる。そういう教員がいるのは、「自由と権利を強調する戦後憲法」と「教員の権利を主張する教員組合」のせいである、と続く。今はいちいち反論しないけど、こういう風に「あるべき学校」を自明の前提において、演繹(えんえき)的に議論を進めていって、学校の現実が自分の理想と違っても自分の前提を疑うのではなく、「教師が悪い」と決めつける。そういう発想では、「今の時代のいじめ」に苦しむ子どものリアルに近づけないのは明らかだ。
一方、「左」というか「進歩的教育学者」というタイプの考え方があって、「こどもは学びを求めている」とか「皆で学び、皆で育つ」とか「学ぶことは本来楽しいものだ」とか、そんな発想をする。僕もそれを全否定するものではなく、「こどもの知的関心を軽んじてはいけない」とは思う。「皆で学ぶ」ための工夫もいろいろ開発されていて、現場で役立てる知恵はたくさん蓄積されている。教員の自主研修が出来にくくなっているが、夏は様々な研究大会が開かれていて、そういうのに行かせてもらえればたくさんのアイディアを持ち帰ることができるはずだ。(最近は教育委員会主催以外の集まりには休暇を取らないと参加させないところが多い。)しかし、そういう工夫をして授業を判りやすく面白くしたり、学校行事を盛り上げたり、生徒の連帯感を育てたりすれば、いじめはなくなるんだろうか。生徒の連帯感が生まれ、学校に「反いじめ文化」が根付いて行けば、確かにいじめレヴェルを下げたり、教員が早期発見できたりする可能性は増える。でも、要するに「減いじめ」に近づいたということであって、現実の学校としてはそれで十分だと思うけど、「いじめそのものをなくす」ことにはならないだろう。
そうすると、今度は一挙に「人間の本能には攻撃性があり、戦争もいじめもなくせない」などと決めつける人が出てくる。僕はそういう「人間の本質論」にはあまり関心がない。専門が歴史だったから、個別ケースの積み上げに関心があって、理論や哲学にあまり関心がないのである。そういう立場で見ると、人間に攻撃本能があるかどうかは知らないが、「人間の攻撃本能から起きた戦争はない」ということである。全部の戦争は知らないけど、あったら教えて欲しい。その当時の社会システムが戦争を起こすのであって、そうじゃないと戦国時代が長く続いた後で、今度は戦争のない江戸時代が200年以上続く理由が判らない。人間の本能ならいつも戦争がなければならない。社会のあり方が変われば戦争はなくなるのである。いじめも同じで、本能で起こるんだったら、どの時代、どの学校でも起きるはずである。いや、起きているというべきかもしれないが。それでも、軽い段階で終わる場合もあるし、重大な事件になってしまうこともある。その違いは、本能だけでは説明できないだろうと思う。(いったんここで切る。)