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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「北陸代理戦争」をめぐってー東映実録映画とは何だったのか④

2017年04月30日 21時59分15秒 |  〃  (旧作日本映画)
 東映実録映画の話に戻って。実録映画の「スワンソング」とも言われる「北陸代理戦争」(1977)は、日本映画史上でも最凶レベルの「呪われた映画」である。公開当時に(多分銀座並木座で)見たと思うけど、その後長いこと見る機会がなかった。シネマヴェーラ渋谷で40年ぶりに見たんだけど、それももう2週間前である。早く書こうとは思ったけれど、どうせなら伊藤彰彦「映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件」(講談社+α文庫)を読み直してからと思ったのである。
 
 この映画があまり上映されなくなってしまったのは、上映直後にモデルになった川内弘組長(映画では川田登)が映画と同じように殺害されるという事件が起こったからだ。そこには東映映画の深い因縁が幾重にも絡んでいて、その問題は後で語ることにする。川内組長は毎日のように同じ喫茶店にコーヒーを飲みに行っていて、そこで襲撃された。ところで、2カ月前に公開された映画でも、名前こそ変えられているものの、その喫茶店で襲撃されるのである。

 先の書の初めの方で、そのシーンは実際の喫茶店を実物大に採寸して、東映京都撮影所内に再現したセットで撮影されたと書かれている。僕はこの本を前に読んでいるにもかかわらず、このシーンでは「現実の喫茶店でロケされた」と思って見ていた。監督の深作欣二の著書にもそう書いてあるというから、思い込みというのは恐ろしいものだ。僕も本を読み直さなかったら、同じような間違いを書いたに違いない。自分でもビックリである。だけど、それほどうまく編集されている。

 当時の東映映画の主力とされていた「実録映画」は、もうかなり陰りを見せていたが、東映はまだ作ろうとしていた。「実録」とある以上、実際の抗争事件をモデルにする。完全な実話ではない。それでは問題が起きるから、フィクションということにして、名前を変え事件経過も再構成する。実在人物の話を誰か作家にリライトしてもらって、「原作小説の映画化」という体裁にすることも多かった。だけど、映画になりそうな題材もだんだん少なくなる。そこに福井の川内弘を紹介されたのである。

 脚本の高田宏治が川内に会い、インタビューをする。その時の録音テープが高田のもとに残されていて、先の伊藤著「映画の奈落」はそのテープを使って入念な検討がなされている。そこから脚本の完成までの苦労、さらに撮影時のトラブル、とにかく大変なこと続きだった。トラブルのすべてを書いていてはとても終わらない。そもそも当初は菅原文太主演で「新仁義なき戦い」シリーズになるはずだった。だけど、文太は病気療養ということで、松方弘樹が主演になった。当時、文太は「トラック野郎」シリーズも大ヒットし、確かに多忙だったろうけど、実録映画に飽きていたのかもしれない。

 社内で脚本を問題視する声も上がるし、福井県警からはロケの協力が得られない。それにかつてない大雪に見舞われ、ロケはさっぱり進まない。助演の渡瀬恒彦は、ロケの最初で車が横転して大けがをして降板した。松方弘樹の連れ合いとなる高橋洋子は、市川崑の「悪魔の手毬歌」と掛け持ちで、死体となって水に浮くシーンで風邪をひいてしまった。「北陸代理戦争」撮影時には38度の発熱状態。もともと「深作組」とは「深夜作業組」の略だと言われるぐらいの深作でもさすがに追いつかない。

 当時の大手映画会社では、系列映画館に定期的に新作映画を供給し続けなければならない。前作品がよほどの大ヒットでもしない限り、封切りの日時は最初から決まっている。この場合は2月26日である。ところが2月になっても全然撮影が進まない。もう仕方ないから、中島貞夫監督に頼み込んで、B班を作って撮れるシーンを頼み込む。そういうことは昔のプログラムピクチャーでは時々あったことだけど、この映画ほど追い込まれた状態での依頼も珍しいのではないか。

 だから、細かく見るとタッチの違いもあるのかもしれないが、中島貞夫も深作と並んで実録映画を中心的に担っていたし、見ていて違和感は全くない。追い込まれて撮っている感じもそれほど感じない。もともと映画自体が、追い込まれて窮地に立つヤクザたちの物語なので、かえって迫真力が増したかもしれないと思うほどである。そうやって、困難な撮影が終わったのが、2月22日。今の感覚で言えば、ウソとしか思えない日付だ。全国公開の4日前まで撮影していたなんて…。

 まあ、あまりにも大変な公開までの日々は「映画の奈落」を読んでほしいと思う。だけど、やはり本だけでは実感が得られない。映画を見直して、記憶の中では北陸の冬の寒々した印象ばかりが残っていたのだが、案外ユーモアもある。というか、今見ると、そのやり過ぎ的なシーンが笑わずにいられない。冒頭、川田は約束を守らない親分の西村晃を雪に埋めて、その周りを車で回って脅している。(実際の撮影は土管の中に西村が入り、その周囲を雪で囲ったという。)そこから、すごい迫力である。

 だけど、このように「親を親とも思わない」ヤクザ像は掟破りである。実際にいたとしても、公然と描いているのは危険とは言える。しかも、過去の抗争事件ではなく、当時の川内組は現実に抗争を抱えていた。今では考えられないが、東映は「山口組三代目」などの映画を実名で作っていた。警察側とのあつれきはずっとあって、高倉健主演の山口組シリーズはヒットしながらも2作で中止される。「北陸代理戦争」も、モデルとなった福井県では上映されなかったのである。

 映画の筋はかなり複雑なので、ここでは省略する。山口組と目される「全国制覇を目指す組織」は、北陸進出をねらって内紛があると仲介役となる。弱小側は強者に助けを頼んで「代理戦争」となる。だけど、この映画内の川田組長は、けっして大組織の走狗とならず、敗れても敗れても大組織を追い出そうと抵抗する。それはフィクションだからで、現実とは違うはずだが、現実にも映画撮影開始の日に、川内弘は所属する山口組系菅谷組を破門されたのである。

 その問題は別にして、映画内ではその抵抗ぶりが面白い。そして、川田を助ける女の側の描き方。姉の野川由美子は川田の命乞いのため、対立する親分の女となる。その妹の高橋洋子は、傷を負った川田の看病をするうちに関係が芽生え、川田をはめた実の兄を殺害する。その激しい女の激情が、この映画のもう一つの魅力になっている。先の伊藤著によれば、いままで「実録映画の終末」と言われてきたこの映画は、実は脚本の高田宏治が後に書き続ける「鬼龍院花子の生涯」や「極道の妻たち」シリーズにつながる女性映画の先駆けとも言えると評価している。

 今見ても、その熱気に驚くような映画だけど、この映画はヒットしなかった。もう実録映画も飽きられていたし、宣伝の時間もなかった。ハナ肇、地井武男らの助演も印象的なので、本来はもっと評価されても良かったと思う。だが、公開2か月目に川内弘組長殺害事件が発生して、映画そのものが事件を誘発したのではないかとまで言われた。そこまで言えるかどうかはともかくとして、とにかく一種触れてはならない映画のように扱われてきたのは間違いない。伊藤氏の本が出て、ラピュタ阿佐ヶ谷で特集上映が行われた数年前まで、ちゃんと上映されなかったと思う。思っていたよりも、陰惨な映画ではなく、出来は良かった。そのことを記録しておきたい。
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アメリカの「非リア充」女子高生映画「スウィート17モンスター」

2017年04月28日 23時28分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 最近一番面白かった新作映画が「スウィート17モンスター」。タイトルに入れたように、アメリカの高校で「非リア充」の不満いっぱいの「イケてない」女子高生ネイディーンの日々を描く映画である。チラシに「ゴーストワールド」よりリアルで、「JUNO」よりイタくて身に迫り、「リトル・ミス・サンシャイン」より家族愛に感動する、と書いてある。見てない人には意味不明だろうけど、これで判る人には見逃せない。

 兄のダリアンはイケメンで活動的、学校でもモテるけど、ネイディーンは兄にはかなわないと思っている。ただ一人味方になってくれた父が、自分の目の前で死んで以来、どうにもやるせない日々ばかり。恋に恋する空回りが続く17歳の日々。だけど…ただ一人親友のクリスタがいるのだ! ところが、ある日突然クリスタがなんと兄と付き合い始めてしまったのだ。ウソでしょ。いやいや、けっこうお互いに本気っぽいんだけど…。親友を裏切ってまで兄と付き合うのか!?

 という展開がリアルでおかしい。そこでますますおかしくなりネイディーンは、かねて憧れの先輩に突然トンデモメールを発信してしまったり。先生のところに押しかけて、これから自殺すると宣言してみたり。アメリカじゃ高校生は皆クルマにセックスかと思うと、そうでもないんだという映画はけっこうある。アメリカでもというか、ある意味日本以上に「スクールカースト」が厳しい。そういう中で生きる高校生を、リアルかつコミカルで、しかも同情を持って描くのはかなり大変だと思うけど、これは面白かった。

 主人公のネイディーンは、ヘイリー・スタインフェルド(1996~)という人で、これは誰だと思うと、コーエン兄弟の「トゥルー・グリット」で父の復讐に奔走する14歳の女の子を演じてアカデミー助演女優賞にノミネートされた。その後歌手としても活躍しているというけど、「よく見るとけっこう可愛くもあるがどうもイケてない」という感じをうまく演じている。クリスタはヘイリー・ルー・リチャードソンという女優で、こっちの方が難しいかもしれないけど嫌味なく演じている。

 教師役のウディ・ハレルソンの「やる気なさげの飄々教師」が面白く、ラスト近くの登場もなるほどという感じである。(ただ、そういう家庭生活なんだろうなあと予測はできる。)アメリカの高校を映画で見ると、完全に単位制なんだと思う。教師と生徒の関係も相当に違っている感じだが、よく判らない。監督・脚本はこれが初監督作品のケリー・フレモン・クレイグ(1981~)という人。こういう人がどんどん出てくる。僕は2001年に作られた「ゴーストワールド」が大好きなんだけど、コミックの映画化であるあの映画より、確かにリアルかと思う。韓国系のアーウィン・キムという生徒も面白かった。
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アカデミー賞作品「ムーンライト」

2017年04月27日 21時35分58秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年のアカデミー賞作品賞受賞作品「ムーンライト」を見た。「ラ・ラ・ランド」と最初間違って発表されたことで話題となった作品である。ゴールデングローブ賞の作品賞は「ドラマ部門」「コメディ・ミュージカル部門」に分かれているが、今年の受賞作は前者が「ムーンライト」、後者が「ラ・ラ・ランド」だったから、アメリカではこの二つの映画が特に評価されたということだろう。

 この映画は「作家性」が高い映画で、商業的に作られた作品ではない。そこに好き嫌いがあるかもしれないけど、非常に重要な映画だと思う。それは「アフリカ系アメリカ人」の青年を描いているというだけでなく、自分のセクシュアリティに悩む青年の物語なのである。アカデミー作品賞を獲得した映画で、セクシャル・マイノリティを描いた初の作品だという。そう言えば、今までの「ミルク」とか「キャロル」なんかは作品賞に届かなかった。

 「ムーンライト」はシャロンというアフリカ系青年の人生を3つのエピソードで語っていく。最初は「リトル」と呼ばれたいじめられっ子の子ども時代。そこでは助けてくれる大人もいて何とか切り抜けていく。続く高校生時代の「シャロン」は苛酷な学校生活を描いている。が、そんな中で幼なじみのケヴィンとの複雑な関係が心に残る。最後の「ブラック」は、高校時代を受けて、自分を作り直した新しい姿を見せている。そこにケヴィンから久しぶりに電話がある…。

 脚本・監督のバリー・ジェンキンズ(1979~)は、「ムーンライト」で描いたマイアミのリバティシティで生まれ育った。映画には監督自身の体験が反映されている。2008年に自主製作映画で評価されたが、日本では未公開だからこの監督のことは全然知らない。今回の作品も低予算の映画で、多くのアメリカ映画の感触とは違うアートシネマのタッチで進行している。こういう映画もちゃんとアメリカで作られていて、評価もされるわけだ。ハリウッドの大作を見てるだけでは判らないアメリカの苦悩を描いている。

 麻薬の蔓延、荒廃した学校、母親との複雑な関係などシャロンを取り巻く環境は非常に厳しい。だから、そういう環境を告発する社会派映画かと思うと、そういう側面もあるけれど、最後の着地点が少し違う。幼いころから、引っ込み思案とか、いじめられやすい、おとなしいといったムードをシャロンは持っている。そういう彼がどう生きていくのかとこっちも心配になるわけだが、最後のエピソードでは意外な変貌を外形的には見せている。だが、さらに意外な本質を最後に描くのである。

 その時になって初めて、この映画の一番の眼目が「愛の物語」だったことにわれわれは気づく。そうだったのか。やりきれない思いで毎日を生きてきたシャロンの、心の奥に潜んでいたもの。それを描くために、この映画では「映像美」を駆使して、「黒人の美しさ」を描き出している。そこが日本でうまく伝わるかというと、そこはちょっと難しいかもしれない。僕もなかなかわかりづらい。映画自体も細かく説明するのではなく、省略しながら描いていくから観客の想像力が必要である。

 第一部で出てくる、シャロンを助けるフアン役のマハーシャラ・アリがアカデミー助演男優賞を得た。これはムスリムとしての初の助演男優賞だそうだけど、この人は1部にしか出てこない。わずか24分間の出演シーンで受賞したという。一方、母親役のナオミ・ハリスも助演女優賞にノミネートされた。非常な名演だったと思うけど、デンゼル・ワシントンが監督した「Fences」のヴィオラ・デイヴィスが受賞した。昨年のアカデミー賞ではノミネートにマイノリティが少ないと問題化したけど、今年の助演女優賞は5人中3人がアフリカ系だった。批判も影響したかもしれないけど、作品自体に力があったのだろう。

 ということで、楽しいとか面白いという基準で見ると、ちょっと難しいかもしれないけど、一度は見るべき問題作だろう。マイノリティを描く視線が、社会問題を告発するという方向だけではなく、セクシャリティなどの観点からも描かれている。世界の多くのマイノリティ社会の方に「家父長制」が残り続けることはよくある。アメリカのマッチョ的風潮の中で、ただでさえ難しい荒廃した環境の中を生き抜いたシャロン。それはじっくり見る価値がある。そしてじっくり見ないと判らないように、監督も小さな声で語っている。
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「部活映画」の作られ方-部活映画の構造③

2017年04月26日 22時46分12秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「部活映画論」のまとめ。主に高校(時には中学)の部活動を描いた映画はかなりある。多くは原作のマンガ、小説があり、時には実話がもとになる。そういう映画にはどういう特徴があり、そこから日本の学校について何が判るか。昔の映画を中心に含めて、ちょっと考えてみたい。

 まず、大きく二つに分けられる。一つは部活を中心にした青春娯楽映画で、もう一つは部活の活動そのものではなく、部活を通して「学校社会」を描く映画である。昨年の大みそかに再見して、ここにも書いた山下敦弘監督「リンダ リンダ リンダ」などは後者の代表。軽音楽部の中がもめてて、文化祭にも出られそうにない。そんなやる気なさげの日常と、それでもやりたい部員の日々が「地方の青春」をあぶりだしていく。部活そのものを描く映画ではないが、「文化祭映画」ではある。

 部活を描くんだから、その映画には高校生ぐらいの俳優がたくさん出てくる。20代初めぐらいの俳優が出ることもあるけど、それはちょっときつい感じがする。アイドルグループがまとまって出演することも多い。マンガやラノベは作者も読者も若い層が中心だから、テーマに部活が扱われやすいのだろう。だけど、学校のシステムを知らずに書いてることが多いから、実際の学校とは違うことも多い。まあ、一種の青春ファンタジーなんだから、あまり目くじらを立てるほどのこともないと思うが。

 学校なんだから「授業」があるはずである。みな留年せずに進級。卒業しているようだから、授業にも出ているはずだ。当然試験も受けている。本当は部活や恋愛以上に、試験が悩みの生徒も多いと思うけど、それはほとんど出てこない。同様に親もあまり出てこないことが多い。ケガをしたり、部活の人間関係に悩んだりするようなときに、初めて出てくることが多い。現実をすべて描いていると時間が足りなくなるから、特に娯楽映画の場合、青春もの以外でも「省略」が多くなる。

 部活の種類は、最近は運動部より文化部が多い気がする。あるいは「珍しい」活動が取り上げられることが多い。矢口史靖の「ウォータ―ボーイズ」「スウィングガールズ」は、その珍しさを巧みなコメディに仕立てた作品で、部活映画というより「作家性」が評価された映画だろう。運動部、特に団体競技を扱う映画は昔はある程度あったと思うが、最近は少ないと思う。2016年の「青空エール」は、野球部と吹奏楽部を合わせて取り上げているが。サッカーでは(6人だった時期の)SMAP総出演の「シュート!」(1994)がある。(連休中に神保町シアターでレイトショー。)

 50年代、60年代のテレビ普及以前の時代には、スポーツ映画がかなり作られていた。長嶋茂雄主演の「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(1964)や「若ノ花物語 土俵の鬼」(1956)のような映画である。テレビがなければ、大画面で人気スポーツを見たいだろう。今はネットで動画をすぐみられるし、スポーツの技量も上がっているから俳優が演じることもできない。テレビなどで「密着ドキュメント」をいっぱいやってるから、それらをネットで見ればいいわけだろう。

 「部活映画」は一種の「バックステージもの」である。つまり「舞台裏」である。高校野球などは全試合がテレビの地上波で中継されているから、わざわざ映画で試合を見る意味はない。意味があるなら、裏で指導者との関係、ポジション争い、ケガや進路の悩みなんかをじっくり描く場合だろう。だから、運動部の場合でも、試合に至る「舞台裏」ものになる。部活映画の「バックステージもの」の最高峰は、1990年のベストワン作品、中原俊の「櫻の園」だろう。学園の創立記念日に毎年演劇部はチェーホフの「桜の園」を上演する。その日、演劇部に何が起こったか。
(「櫻の園」1990年版)
 吉田秋生のマンガが原作だが、ここでは「桜の園」の上演にはほとんど意味がない。毎年の恒例行事だし、有名な戯曲だから、舞台そのものを見せる意味はない。上演を前にタバコが見つかるという、むしろ「生活指導」をめぐる物語と言ってもいい。それに対し、平田オリザ原作、木広克之監督「幕が上がる」はまさに演劇部をめぐる部活映画になっている。ただ、そうなると「部活」そのものと部活外の事情がないまぜになることによる「作品性」が問われてくる。文章で描かれた原作を、実際に生身に人間が演じなくて行けない。アイドル映画でもあり、部活映画でもあるところが難しい。

 「劇中劇」がそんなに素晴らしいなら、われわれも劇中劇だけ見ればいいのではないか。部活の裏でどんなことが起こっていたかは、大会での評価には関係ない。一方、裏のドラマが面白いなら、そっちだけでもいい。そこらへんが部活映画の難しいところで、両者がともに進行しながら最終盤にクライマックスがやってくるという風にうまく行くことはなかなかできないだろう。

 そうなると「ダンス部」系の活動は、一番うまく行く可能性が高い。音楽部系は「アフレコ」でうまい演奏に変えることができる。いくらアイドル俳優が頑張っても、大会レベルの演奏や合唱をするのは難しい。実際に「ハルチカ」は他の高校の演奏が使われている。だけど、「チア☆ダン」では配役された俳優たちが実際に踊っている。それも確かにうまくシンクロナイズされている。そこが本物の青春っぽいわけである。50分近い演劇部の出し物に比べてダンス、伝統芸能系は出し物の時間が短い。

 ところで、部活映画で見えない問題がある。一つは大会の運営である。大会出場校は交代で受付などの実務を担っているはずだ。大会でも審判の役割が回ってくる部活もあるだろう。そういう面はまず出てこないで、大会にただ出ているだけみたいなのは、どうなんだろうか。もう一つは「集団主義」である。部活映画を見ている限り、それは前提そのものだから、あまり感じない。部活も学校の一部で、日本の学校に根強い集団主義を持っている。だが、勝利のためには「友情」を乗り越える必要も出てきて、「集団性」の二律背反になることがある。それは「チア☆ダン」のケースである。

 部活でも、より個人性の強い活動もある。そういう活動をもっと扱っていくとどういう映画になるだろう。「写真甲子園」というのがあるが、それを映画化しようという企画が進んでいる。それはどんな映画になるだろう。陸上競技でも走高跳の選手を扱う「チルソクの夏」(2004、ベストテン9位)は見てない人が多いかもしれない。これは下関を舞台に、韓国のプサンとの陸上競技大会に出た女子選手と韓国の男子選手の交流を描いている。下関出身の佐々部清監督らしい企画だけど、このように個人競技を扱えばテーマを深める可能性が出てくる例だと思う。

 高校生を扱う映画では、部活でなくても「部活性」を帯びてくる。「ビリギャル」はある種「受験勉強部」の活動というような内容で、本人のやる気と指導者、家族のあり方など物語の構造は「チア☆ダン」とほぼ同じである。「セトウツミ」であってさえ、「帰宅部」の映画とでも言えるような特性を持つ。そこに個人性と集団性の狭間で生きていくしかない人間のありようを見て取れる。
(「セトウツミ」)
 あれこれ書いてきたけど、青春のノスタルジーでもなく、集団主義の強調でもなく、「新しい自分の発見」につながるようなもの。「部活映画」にいま望まれるのはそんなものだと思う。「でんげい」で実際に描かれているのは、そうした「自分の発見」のようなものだった。ドラマでもまだまだ新しいものを作れるだろう。誰しもが経験した「学校」という装置は、これからも日本社会を映し出す鏡になる。授業だけでは輝けない生徒のもう一つの顔。それを表現する試みとして「部活映画」の可能性があると思う。
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「でんげい」でわかること-部活映画の構造②

2017年04月24日 22時51分18秒 | 映画 (新作日本映画)
 ドキュメンタリー映画「でんげい~私たちの青春~」という映画が新宿のケイズ・シネマでモーニングショーされている。(28日まで、朝10時20分のみ)これは大阪の建国高校という韓国系の学校の「伝統芸能部」が全国高等学校総合文化祭(高校総文)に出た時の記録である。非常に面白くて是非多くの人に見てもらいたい作品だけど、上映が少ない。今後の各地での上映に期待したい。

 どっちかというと、社会問題的な関心もあって見たんだけど、これはすぐれた「部活映画」になっていた。しかし、その話をする前に少しいくつかの説明をしておきたいと思う。まず、この映画だけど、これは韓国のMBCテレビのチョン・ソンホという人が作ったテレビドキュメンタリーだという。それが2016年の大阪アジアン映画祭で「いばらきの夏」の題で上映された。正式な公開を望む声が高まり、あらためて「でんげい」とタイトルを変えて公開されている。

 旧題名にある「いばらき」は、2014年の高校総文が開催された茨城県のことである。ちょっと総文祭の説明をすると、1977年から開催されている全国の高校文化部の祭典である。毎年夏に開かれ、今年は宮城県で行われる。運動部の全国高校総合体育大会(インターハイ)に対して、文化部のインターハイなどと呼ばれ、最近は知名度も上がってきた。

 細かくなるけれど、毎年行われている部門を紹介すると、演劇、合唱、吹奏楽、器楽・管弦楽、日本音楽、吟詠剣詩舞、郷土芸能、マーチングバンド・バトントワリング、美術・工芸、書道、写真、放送、囲碁、将棋、弁論、小倉百人一首競技かるた、新聞、文芸、自然科学の19部門ある。書き写していて、こういうことをやっている高校生がいて、全国大会もあるんだということに心が揺さぶられた。(なお、演劇、日本音楽、伝統芸能部門の優秀校は、8月末に東京の国立劇場で上演される。)

 ちょっと細かく書いてしまったけど、この総文祭には文化部独特の悩みもある。運動部の場合、例えば野球部だったら、甲子園を目指す地方大会が終われば、普通は3年生は引退していく。勝てばその夏の甲子園である。一方、文化部の場合、多くは秋に大会がある。夏休みがないと、大会に出すだけのものを作れない。全国を目指すような部は別にして、多くの高校では秋の文化祭に発表することが当面の目標だろう。ということで、地方大会で優秀校に選ばれても、全国総文祭は次の夏であり3年生は卒業している。大会出場を勝ち取った先輩がいなくなり、代わりに1年生が出ることもある。

 「でんげい」で出てくるのは、まさにその悩みである。誇りを持って伝統芸能部に入部したけど、それにしても夏に全国とは大変だ。そういう悩みをていねいに追っている。ところで、この「学校法人白頭学園建国高等学校」とは何だろうか。関東圏の人はほとんど知らないだろう。調べてビックリしたことに「韓国人学校」ではない。もとは確かに戦後に作られた民族学校なのである。日本にある「外国人学校」「インターナショナル・スクール」はほとんどが法的には「各種学校」である。(東京韓国学校もそうである。)でも「建国高校」は学校法人を設立し、正式に日本の私立高校となった。だから高校を卒業すると、日本の大学はもちろんだが、韓国の延世大や高麗大、梨花女子大などにも進学している。

 「日本の高校」なので、当然日本の検定教科書を使って学習するが、韓国語、韓国文化も学習する。幼稚園からあって、小学校では1年から英語を学習し、「トリリンガル」として英・韓・日の三か国語を使える人材を育てるという。ほう、そういう学校があったのかと思って、これもまたつい細かい説明をしてしまった。映像を見ると、親にも日本人や中国人もいる。基本は韓国系の学校なんだろうけど、単に民族教育を行うことを目標とする学校ではない。そういう中で「伝統芸能部」があるのである。

 全国大会に出る郷土芸能は、和太鼓や民謡、舞などがほとんどである。(和太鼓部門と伝承芸能部門がある。)当然そうなのだが、そこに韓国の伝統芸能が出る。それを他の学校も当然のように受け入れている。(最初はどうだったか知らないけど、今は毎年出てくる名門校なので、驚きはないだろう。)この映画でも、そういう活躍をしている在日同胞がいるんだと遠くから応援するようなスタンスで見ている。当日までには、苦しいこと、悩むことも多い。そういう青春ドラマを心を込めて撮影している

 部員が取り組んでいるのは、「地神パルギ」という厄払いの伝統芸能である。それと「サムルノリ」と呼ばれるようになったもの。今ではほとんど「伝統芸能」の一般名詞になりつつある感じだけど、元は70年代に結成された創作パフォーマンス集団である。伝統的な農楽をもとに、伝統楽器を4つ(ケンガリ、チン.チャング(長鼓)、プク)用いて、踊って声も出すから大変だ。それと白い細長いひものついた「サンモ」という帽子をかぶる。昔何度か見たものだが、このひもの動きが魅力的だった。首を回しているのではなく、膝でリズムを取るんだという。

 五月の連休には先輩もやってきて、柔道室に泊まり込んでが合宿が行われる。そこから夏の全国大会までのドラマは、一言でいうと「チア☆ダン」と同じと言える。技量の差、家族の支え、だんだんうまくなるが、指導者に厳しく叱られる、繰り返して練習する、最後には「突き抜けた」境地に達して何かをつかむ。基本的に「ダンス映画」であるという点で共通しているのである。

 ところで「伝統芸能」と言っても、「サムルノリ」に始まる現代音楽とも言える。ここで行われているのはある種の「作られた伝統」ではないかと思う。それは日本の伝統として行われる「和太鼓」も同じで、この部門は最初から創作も認められているという。和太鼓の勇壮な連打が「伝統」としてあった地区は少なく、鬼太鼓座などから影響されて高校でもやっていると思う。数十年前まで日本人の中で生きていた「伝統芸能」とは、小唄、長唄、義太夫、都都逸、浪花節なんかだと思うけど、さすがに今の高校生でやっているところはないだろう。それでいいんだと思うし、さまざまな「伝統」を認め合う多様性が日本の教育の中にあることがいいと思う。
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「チア☆ダン」と「ハルチカ」-部活映画の構造①

2017年04月23日 23時07分53秒 | 映画 (新作日本映画)
 実録映画の話はまだ数回分あるんだけど、ちょっと間を空けて、その前に「部活映画」の話を書きたい。もともと「部活動のあり方」論を書きたいと思っているんだけど、僕が書いても変わるわけではないから、いつでもいいやと先送りしている。「部活映画」も部活動への問題意識もあって見るんだけど、その結果何が判るか。見てから時間も経って忘れないうちに書いておかないと。

 まず、「チア☆ダン」だけど、近年の正統的部活映画の収穫だと思う。「部活映画」というのは、「変格的コメディ」としての「ウォーターボーイズ」や、「反部活映画」である「桐島、部活やめるってよ」などの方が作品的には成功しやすいと思う。成功した正統派としては、大林宣彦の「青春デンデケデケデケ」などを挙げてもいいが、あれはむしろ直木賞受賞作映画化という「文芸映画」で、ノスタルジックな青春映画という趣が強い。中高の部活が出てくる映画は多いけど、部活が中心じゃない映画が多い。

 「チア☆ダン」は「~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~」という長い副題が付いている。だから、実話だということは全員が承知して見ることになる。(福井県立福井商業高校がモデルで、映画では福井中央高校。撮影は新潟の長岡を中心に行われた。)この映画の「成功」の最大原因は実話性にあると思う。映画の途中でどんな困難が待ち受けていたとしても、最後は成功すると思って見ていられる。何も全米制覇しなくても日本代表になっただけで凄いんだし、日本一にならなくても2位だって凄い。だから実話じゃなければ、全米制覇したらかえってウソっぽく見えるに違いない。

 アートシネマではこんなにうまく行くとおかしい感じがするけど、エンターテインメントなんだから定型でいいのである。チアダンスの世界など観客も知らないから、「実話」だということで映画の骨格が定まってくる。また、小説やコミックの映画化だと「生徒の論理」だけで進むことがあるが、実話だということで指導教師や周辺のおとなの事情も描きやすい。そこで「複合的な視点」で描かれることでうまく行きやすい。と言っても、まあ学校側の対応や教師の描き方はパターンを脱していない。
 
 「チア☆ダン」(河合勇人監督)の主演は広瀬すずで、去年の「ちはやふる」では競技かるた部で大活躍した。あの映画では設定上、もうすでにかるた名人であり、問題は学校にかるた部を作れるかにあった。「チア☆ダン」では広瀬すすは素人で始まるので、ドラマ性はより高い。共演の中条あやみ(「セトウツミ」でヒロイン一期(いちご)役)や山崎紘菜(大林亘彦「長岡花火物語」や「野のなななのか」に出ているが、それよりTOHOシネマズの映画館で上映前にいつも見ている顔)は最初からうまいことになっている。広瀬すずの「ひかり」は、「笑顔」がいいけど、途中で怪我して大会に出られなかったりするドラマがある。米国大会の前日にはさらにすごいドラマがあり、顧問の教師と対立もする。

 もう一本「ハルチカ」も部活を舞台にした青春映画である。星野源初主演映画「箱入り息子の恋」を撮った市井昌秀監督作品。僕は知らなかったんだけど、初野晴の原作は「日常の謎」系のミステリーシリーズだそうである。映画はオリジナルストーリイで、青春映画色が濃い。「セーラー服と機関銃」リメイク版のヒロイン橋本環奈が「チカ」、映画初主演の佐藤勝利が「ハルタ」で、幼なじみの二人を合わせて「ハルチカ」である。チカは高校では吹奏楽部に入ると決めてフルートも買ってしまっているが、高校では吹奏楽部消滅の危機にある。校長に頼み込んで、「何とか9人の部員を集めれば存続」となる。

 このように「ちはやふる」も含めて、「部活映画」では「部の存在」そのものが問題になっている。「チア☆ダン」では、やる気のない生徒を前に「バトントワリング部」を教師が「チアダンス部」に変えてしまう。それもけっこうムチャである。映画では校長が部活もなんでも決めているけど、「校務分掌を無視する」のが学校もののパターンである。普通は部活の問題は生活指導部の管轄で、校長は後で聞くだけだろう。部活新設のルールはあるはずで、人数がそろわなくても「同好会」でスタートできるはずだ。何も一年目で大会に出なくてもいいので、「ちはやふる」や「ハルチカ」は本来同好会でスタートするべきだ。

 だけど、まあそれじゃドラマが作れないし、高校の3年間をひたすら駆け抜けるのが青春部活映画というものである。だが、そこに様々な事件というか、ドラマが起こってくる。大体4つぐらいになるかと思う。①生徒の中に不登校とか、進学を考えて辞めさせたい親などが出てきて、そろわないといけない人数に危機が訪れる。これは団体競技的性格(演劇部などの場合も含めて)を扱うので重大なのである。②より高い技量を求める顧問教師との対立。顧問にやる気がなくても生徒だけでも活動はできる。だからドラマとしては顧問が熱心で技量も高いことで、ドラマ性を作ることになる。実際、大会優勝を目指すとなれば、相当高い要求をしていかないとダメだろう。

 ③続いて、部員あるいは部員以外との友情や恋愛が部活に問題を引き起こす。これも定番である。だが、部活映画ではそれはかなりあっさりと描かれることが多く、部活そのもの、スポーツや音楽などの感動がいざこざを消してしまうことが多い。④それより深刻なのは、部員相互の力量差である。「チア☆ダン」では、もともとうまい生徒とうまくないけど入ってきた生徒がいる。「ハルチカ」では、よりによって部活存続の中心だったチカが、高校に入って音楽を始めたんだから一番ヘタである。「ちはやふる」では5人の力量に差があり過ぎて団体戦勝利が難しい。

 これは現実にも大変な問題だけど、優勝まで考えない多くの学校の場合は、まあ何とかなるわけである。甲子園出場が見えてくるレベルだと、レギュラーをどうするか。あまりうまくない3年とうまい新入生の問題など、部活ドラマはそこに焦点を当てることが多い。それもこれも、「団体競技」を描くからである。「部活動を通して人間陶冶を目指す」という日本の教育のタテマエがそこに見える。マンガがうまければ、学校外でプロを目指す「バクマン。」になる。実際校外でアイドル活動をしている人もいるわけだが、「部活映画」ではあくまで「学校中心主義」が貫かれる。

 結局は「ひたすらなる練習」こそが「技量の差」を克服する唯一の道であるというのが、多くの「部活映画」の答えだ。主役はそれなりのスターが配役されているので、最後には団体としてのまとまりが回復され、大会でうまくいくわけである。それでいいのかと思うが、エンタメ映画では成功例しか出てこないからやむを得ない・現実にはケガなどで部活を辞めると、そのまま高校を退学する例も多い。部活内部のやる気の有無、というかやる気の方向性の違いから、人間関係が修復不可能になることも多い。それは「部活映画」には出てこない。もっとビターな青春映画の分野なんだろう。
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東映実録映画とは何だったのか③-タブーはどう描かれたか

2017年04月22日 23時38分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 社会の裏側で「汚れ仕事」を行っている私的な暴力組織はどこの社会にもあるだろうと思う。そんなものはないという国があったとしたら、それは「公的な組織」(軍や秘密警察など)が汚れ仕事を引き受けているということだろう。ソ連やユーゴスラビアが崩壊してしまうと、ロシアやセルビアにも「組織暴力」がはびこるようになった。中国も経済開放を進めたら、同じようになった。

 どこの社会にも、売春や違法薬物などがあるものだけど、それ以上に「体制内」で問題が起こった時にそれを秘密裏に処理する「汚れ仕事」が必要とされたということだ。また、そういう組織には、一般社会で受け入れられないような「はみ出し者」が集中して、独特の対抗文化が形成される。だから、それらの組織には「社会的なタブー」がいっぱいあるもんだけど、実録映画ではどう描かれただろうか。

 そういうタブー的なテーマは本当は娯楽映画ではまず描かれない。だから「タブー」なわけだけど、この頃の東映実録映画ではかなり触れられている。もともと「仁義なき戦い」などは現実の抗争をもとに映画化したわけで、それ自体が一種の「タブー破り」だった。主人公は手記を著した美能幸三(映画では広能昌三=菅原文太)なので、抗争の中で反対の立場だったものには不満が大きかった。

 しかし、大ヒットしたことで、東映はある種「面白ければなんでもいい」的に企画を進めていく。もともとそういうスタンスが強い会社で、「良識派」からは非難されることが多かった。そこで大ヒットした深作欣二監督などは、製作にかなりの力を持ったと思う。もっとも深作欣二は「軍旗はためく下に」(1972)で、単なる反戦平和を超えた反軍から、さらに反天皇制をも見据えた映画を作っていた。実録映画はあくまでも「娯楽映画」の枠内にとどまり、さすがにそこまで深い思想的な映画は作れなかった。

 日本では長い間、暴力団が政界や実業界、あるいは興行界とは深い関係を持っていた。その後ずいぶん変わっていくし、法律の改正で今はなくなったようなことも多い。例えば「総会屋」という存在。松方弘樹主演の「暴力金脈」(1975、中島貞夫監督)では、足を洗った松方が総会屋になって東京進出を目指すが、それに因縁のヤクザ梅宮辰夫が付いてくる。丹波哲郎が大総会屋を演じていて迫力がある。会社の裏に不正ありと嗅ぎつけると「総会屋」の出番となる。誇張も多いだろうが、「そういう時代だったのか」的な作品である。もっともコミカルな作品でタブーに挑戦する感じは少ない。

 強大な権力との癒着そのものを直視する映画はない。(「日本の黒幕」という大作はそういう部分もあるかもしれないけど見ていない。)だけど、警察との癒着は「県警対組織暴力」(1975、深作欣二監督)で描かれた。菅原文太の警察官と松方弘樹の組長が「友情」で結ばれ、そこに組織暴力根絶を目指す県警本部のエリート梅宮辰夫が赴任する。いつもはヤクザを演じた俳優が警察側になる。だけど違法な取り調べなど、やってることはほとんど同じである。ヤクザとも付き合って「情報」を得ている、それなくして暴力団捜査はできないという「現場」的な感覚とあくまでも違法な組織征圧を目指すトップとの対立を鋭く描いている。相当の力作で面白く見られるけど、文太個人の問題に矮小化していて本質を突いているとまでは言えない。岡山の話とされ、梅宮が石油会社に天下るラストが印象的。

 一方、組織暴力の問題は、どこの国でも「差別」と深い関係を持っている。アメリカの場合は、イタリア系移民やアフリカ系、今はさらにアジア系などの民族問題を避けて通れない。日本の場合でも「差別」や「貧困」が背景にあって、暴力集団に参加したという人も多いはずである。そういう面もあまり本格的には描かれなかったけど、朝鮮人差別を直視した映画として「やくざの墓場 くちなしの花」(1976、深作欣二監督、笠原和夫脚本、キネ旬8位)がある。これは娯楽映画としては突出していて、当時は大きな話題となった。この映画も主筋は警察と暴力組織の癒着を描いている。渡哲也主演で、今回は上映がなかったので細かいことは覚えていない。

 「日本暴力列島 京阪神殺しの軍団」(1975、山下耕作監督)は、「朝鮮人」という言葉こそ出てこないが、冒頭に大阪・鶴橋の描写があり、「血」が強調されるので、判る人には容易に民族問題を背景にしていることが判る。これは山口組全国制覇の先駆けとなった「柳川組」をモデルにしていて、実際に組長は朝鮮人だった。組織内には日本人もいたが、内部で微妙ないさかいもあったと描かれている。ただし、この映画のテーマは民族問題ではなく、「大組織に使い捨てされる悲哀」である。小林旭の東映初主演映画。(なお、実録映画のモデルとなっている昭和20,30年代は、韓国との国交前で、「在日韓国人」という呼び方はしなかった。70年代半ばは「朝鮮人差別問題」と呼んでいたと思う。)

 また「沖縄」の問題は、「沖縄やくざ戦争」(1976)、「沖縄10年戦争」(1978、どちらも中島貞夫監督)が描いている。また深作欣二が実録映画以前、というか沖縄復帰以前でもあるが、「博徒外人部隊」(1971)を撮っている。いずれも沖縄進出をもくろむ本土のヤクザ組織と地元の「ウチナンチュー」意識を持つ組織との対立・抗争を描いている。見慣れた俳優たちが、沖縄を強調するのはさすがにちょっと違和感がある。(ヤクザ役俳優が警官役をやるのは、映画の配役なんだからどうってことないけど。)それと復帰直後で沖縄側にヤクザ映画のモデルとされることへの反発が強かった。武器の供出元として米軍が出てくることはあっても、基地問題や沖縄戦もあまり触れられない。

 このように成功の度合いはともあれ、実録映画は結構多彩なテーマに果敢に挑んでいた。しかし、こうしてみると、「問題」は描かれていない。これはさすがにタブーが強かったのか。「利権」とヤクザの関わりは、その後大きな問題となるが、実録映画製作時には同時代すぎたのかもしれない。実録映画そのものが、敗戦から30年ほど経って、過去の抗争が「歴史」になってきた地点で作られている。高度成長も終わり、戦後初期が一種ノスタルジックに語られていく風潮の中で存在したのである。「同和対策」問題は当然、1965年の同和対策審議会答申以後の問題だから、まだ対象化は難しい。

 もっとも山下耕作監督「夜明けの旗」(1976)がこの時代に東映で作られている。山下監督は、時代劇、任侠映画の名作をいくつも作ってきた監督だが、実録映画も何本か作っている。それらは「伝記映画」の色彩が強い。「夜明けの旗」も副題が「松本治一郎伝」とあり、不世出・不屈の反差別運動家だった解放同盟委員長の松本治一郎の正統的な伝記映画である。この映画はある種、大組織の動員を当て込んだ企画でもあるけれど、熱気ある大作になっている。その後ほとんど上映の機会がなく、今では見ていない人が多いと思うが、必見ではないか。大手の会社で製作された映画では、一番問題を直接訴えている映画だろう。だから東映映画人に問題意識はあったのである。
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東映実録映画とは何だったのか②-凄惨な「内ゲバ」の時代

2017年04月21日 23時39分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「東映実録映画」が作られた70年代半ばの時代的背景を振り返っておきたい。当時は産業としての日本映画にとって転換期だった。60年代までは撮影所で続々と作られた娯楽映画が、系列の映画館で毎週のように公開された。しかし、71年暮れに大手会社の大映が倒産し、また日活が一般映画の製作を中止してポルノ映画に特化すると発表した。それは非常に大きな衝撃を映画界に与えた。

 映画の興行収入は、近年は日本映画が外国映画を上回っている。しかし、80年代、90年代は圧倒的に外国映画が上回っていた。初めて外国映画が邦画収入を抜いたのは、1975年である。以後、多少増減はあるものの、それまでの「邦画絶対時代」は変わったのである。それはテレビの普及に加えて、高度成長に伴う都市化や高学歴化で洋画に親しむ人が増えたことも大きいだろう。

 こうして今までの日本映画の製作、興行のあり方はこの時代以後に大きく変わる。大手会社の松竹だけは、「男はつらいよ」というキラー・コンテンツを擁していたけれど、72年ごろからは系列館での上映に先立って、洋画専門館で一本立てロードショーを行うようになった。「洋画ファンでも見る価値がある邦画」というのが、宣伝になる時代になっていたのである。

 その頃アメリカでは「ゴッドファーザー」(1972)が大ヒットしていた。日本でもヒットし、作品的な評価も高かった。その後世界的に「実録ギャング映画」が多く作られた。大きな世界映画史的な目で見れば、直接の影響は少ないとしても「東映実録映画」もその中に数えるべきなのかもしれない。それらの映画は、ギャング団のメンバーを美化するのではなく、抗争の中の様々な側面を(家族の様子なども含めて)描き出していくことが大きな特徴である。

 ところで、日本で1973年ごろの時代に生きていた人は、何か時代が大きく変わったことを実感していたと思う。73年秋の「オイル・ショック」で高度成長が終わり、低成長時代が始まった。その年の後半から「狂乱物価」と言われた物価上昇が始まり、1974年の物価上昇率はなんと31.4%を記録した。一方、73年初めに長く続いたベトナム和平会談が終結し、「パリ和平協定」が結ばれた。それを受けて、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が解散した。72年に連合赤軍による「集団リンチ事件」と「あさま山荘事件」が起こり、60年代末期からの「革命の季節」も跡形もなく消え去っていった。

 「仁義なき戦い」の第3部は「代理戦争」と題されていたが、この言葉は当時の一般用語で基礎常識である。これは元々「米ソの代理戦争」という風に使われ、ベトナム戦争がその代表だった。そのような冷戦下の用語を「ヤクザ戦争」に援用したわけだが、それ以前からよく使われていたと思う。「東映実録映画」では、よく冒頭に「この映画に出てくる団体名は架空のものである」などと字幕で説明される。そして、地方に進出する架空の暴力団が出てくるが、それは「山口組」のことなのである。

 戦後初期に東京で「活躍」した安藤組を、その当時の親分でその後映画俳優となった安藤昇主演で映画化した作品もいくつかある。だけど、「仁義なき戦い」シリーズを含めて、実録映画に出てくる抗争事件は実は全国制覇を目指す山口組を何らかの形で描く「一大山口組サーガ」という側面を持っていた。何でそんなことが可能だったのか。もちろん、実録映画に出てくるモデル関係者も、組織暴力団封じ込めをねらう警察庁も東映に陰に陽に圧力をかけていた。高倉健を主演にして作られた山口組三代目を描くシリーズが2作で中止になったのは警察の圧力による。

 この問題は非常に重大なので、また別に書きたいと思うけど、ギャング映画はともすれば「ギャング美化」と非難された歴史がある。そのためラストでは警察に自首したり、警察側が勝利することは世界的なお約束になっている。でも現実でもヤクザ抗争は最終的には押さえ込まれるわけで、最後の一人まで戦って双方の組織全員が死ぬなんていう抗争事件はない。だから、「東映実録映画」では当然のように、若い者だけが犠牲になり、最後はボス同士が妥協して手打ちとなる

 現実にそうなんだから、そのようなプロセスになる宿命を実録映画は持っていた。そこをいかにリアルに描き出すかが腕の見せどころである。そのリアルさと生き生きとした描写で一番評価されていたのは、深作欣二の何本かの作品である。キネマ旬報ベストテンに入選している実録映画は、深作映画の5本だけである。作品的な評価だけでなく、ヒットもしていたから、深作欣二はより深いテーマに踏み入っていく。だけど、実際にはそれらの作品はあまりヒットせず、東映は深作欣二に「新仁義なき戦い」と題したシリーズを作らせることになった。

 ヤクザ抗争というのは、血で血を洗う凄絶なものなはずである。任侠映画では、あるいは東映や大映の時代劇でも、善玉と悪玉が抗争して善が勝って終わる。その争いでは人が多数死んでいるが、様式化された舞踊のようなアクションで描かれるのが普通だった。でも、実録映画では血まみれの死にざまが延々と描写される。そのような運命を生きるしかない下積みの組員の姿が印象的だった。そういう構造は何もギャングだけのものではない。あらゆる「運動」につきものの宿命だろう。

 そこを突き詰めると、凄絶な死に向かっていく破滅的な映画になるはずだ。そうなると映画が陰惨な印象になり、作品的にはともかく興行的にはつらくなる。今見直すと、松方弘樹の映画にはその陽性なキャラクターを生かしたコメディタッチのものが多くて、今見ても面白い。それでも題名だけは「脱獄広島殺人囚」とか「強盗放火殺人囚」とかいったものすごい題名を付けられている。その方が受けると思われていた時代なんだろうと思う。実録というより、まったく作り物の「暴動島根刑務所」の破天荒が面白く、ラストの「手錠のままの脱獄」シーンはとても面白かった。

 そういう映画もあったわけだけど、実録映画は大体が破滅的な印象が強い。その極北的な作品は、明らかに「仁義の墓場」(1975)である。破滅へ突き進む実在のヤクザ石川力夫を渡哲也が演じ、その壮烈な人生は強烈な印象を残す。強烈すぎて、あんまり見たくないほどだ。(だから今回は見てない。)このような映画がなぜ作れたのか。これはどうしても、当時の革命の季節終焉後に吹きすさんだ「内ゲバ」の時代のことを思い起こさないわけにはいかない。今じゃ「内ゲバ」ってなんだと言われるかもしれないけど、あの時代の重苦しいムードを今に伝えるのが実録映画なんじゃないだろうか。
(「仁義の墓場」)
 1977年のドイツの連続テロ事件を描いたファスビンダーやシュレンドルフの映画「秋のドイツ」という映画がある。日本でその映画に当たるものは、1975年の「仁義の墓場」ではないだろうか。この題名は実に深い意味を持っていたのではないかと思う。「仁義の墓場」が公開された1975年2月は、後に東アジア反日武装戦線によるものと判明する連続企業爆破事件が続いていた時期だった。
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東映実録映画とは何だったのか①-「活動写真」の輝き

2017年04月20日 21時40分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷で「抗争と流血 東映実録路線の時代」という特集上映があった。多分その企画の方が先なんだろうと思うけど、ほとんどの「実録映画」に出演した松方弘樹が亡くなり、新文芸座で追悼上映があった。(さらに渡瀬恒彦も亡くなって、来月に新文芸坐で追悼上映がある。)

 その中の何本かを見たので、改めて「実録映画とは何だのか」を考えてみたい。実録路線最後を飾ると言われる「北陸代理戦争」から40年。その映画のモデルだった川内弘が、映画と同じように殺害された事件はちょうど1977年4月13日に起きていた。まさに40年前のできごとである。

 いま「昭和天皇実録」が刊行されている。この前、中公新書「六国史」を読んで、そう言えば「実録」という言葉は、多分879年に完成した「日本文徳天皇実録」が初見なんではないかと思った。もともと天皇に関する「実際の記録」を意味するんだろうけど、大昔の六国史でも現代の「昭和天皇実録」でもすべてが記録されているわけではない。注意深く「取捨選択」が行われている。

 僕は歴史が専門だけど、70年代からの映画マニアとしては、「実録」と言えば「東映実録映画」を最初に思い浮かべる。1973年1月の「仁義なき戦い」大ヒットを受けて、東映で続々と作られた作品群である。「北陸代理戦争」以後も何本かは作られていて、全部を合わせると50本近い。それらは「現実の事件」に材を取ったものが多い。だから「実録」と言われるわけだが、もちろん現実のモデルがいる暴力団抗争事件をそのまま映画化できるわけがない。当然「取捨選択」が施された。

 実録映画がそれほど作られたのは、映画界内部の問題映画外の社会的事情があると思う。東映という会社は、50年代から60年代初期には「時代劇」を中心にしていた。60年代半ばから70年代初期には「任侠映画」を続々と送り出した。「任侠映画」と「実録映画」は、ヤクザが主人公であることは共通している。だけど、映画の作りというか画面のタッチは全然違う。

 時代劇と任侠映画は、娯楽映画シリーズとして作られ、月に何本も公開された。筋はパターン化しているし、俳優を見れば善玉か悪役かが判る。だから安心して見ていられる。だけど、60年代半ばから、テレビが最大の娯楽になり、判りやすい時代劇はテレビに移行していった。また、シリーズ映画はパターンが定型化しているので、10本程度続くと飽きられてくる。製作側も違うものを作りたくなる。人気俳優も人間だから、10年たつと10歳年とるわけで、アクションものや恋愛映画の主人公がきつくなる。

 東映任侠映画の場合、高倉健鶴田浩二を二枚看板にしていたが、後期になると二人と同じぐらい藤純子の人気が高かった。しかし、彼女は結婚のため72年で(いったん)映画界を引退したので、東映は営業的に新路線が強く求めていた。そういう要素はあったものの、そこに広島ヤクザ抗争を実際に主要登場人物として「活躍」した美能幸三(映画では広能昌三)が出所してきて、手記「仁義なき戦い」を書かなかったら、映画化されることはなかった。その意味では「偶然」も大きな要因になった。

 その「仁義なき戦い」は傑作となり、大ヒットした。なぜかという問題への答えはいくつもあるけれど、脚本の笠原和夫、監督の深作欣二の実力がまさにピークに達しようとしていたことが大きい。と同時に、「実録映画」はその本質として善玉と悪役が決まっていない。昨日の友は今日の敵。離合集散が激しく、主要人物もどんどん死んでいく。主人公格の人物たちも、ホンネで行動している。

 そういう映画だから、今まで必ずしも恵まれなかった役者にも、活躍の場が広がることになる。パターン化された映画では、悪役はそれほど印象に残らないし、残ってはならない。だが、実録映画では「チョイ役」の俳優でも、その暴発で抗争の局面がガラッと変わることもあり、脇役俳優の出番がグッと大きくなった。東映の大部屋俳優たちの「ピラニア軍団」が有名になり、川谷拓三のような印象的な脇役が大活躍した。見ている側としては、その俳優たちの生き生きとした演技が一番面白かった。

 「北陸代理戦争」で主人公の妻を演じた高橋洋子のトークがあったけど、そこで印象的だったのは松方弘樹は映画のことを「シャシン」と言っていたという話だった。「シャシン」とはつまり「活動写真」のことだけど、英語でも映画を「motion picture」というように、「動き」あっての映画だろう。その動きは何もアクションだけには限らない。ストーリイ展開の動きも、俳優たちのアクションも、実録映画シリーズほど「動き」が印象的だった映画群はないと思う。それが一番の魅力だった。

 映画としては「仁義なき戦い」シリーズの「代理戦争」「頂上作戦」が最も面白いと思う。このシリーズは何回か通して見ているけど、津島利章のテーマ音楽が流れるだけで、初めて見た時の高揚感が戻ってくる感じがする。第一作の「仁義なき戦い」は確かに面白いけど、後のことを知ると「序章」という気がしてくる。深作欣二は前年に「軍旗はためく下に」「現代やくざ・人斬り与太」「人斬り与太・狂犬三兄弟」を撮っている。「軍旗…」は直木賞受賞作を映画化した反戦映画だが、戦後史を再考する志は共通している。「人斬り与太」シリーズは菅原文太主演で、映画のタッチは「仁義なき戦い」と共通している。深作監督が大ブレイクするのも当然だった。ある意味で「実録映画路線」は1972年から始まっていたとも言えるだろう。その後続々と作られる映画に描かれた問題は次回に考えたい。
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「坊っちゃん」「倫敦塔」他ー夏目漱石を読む②

2017年04月18日 23時02分51秒 | 本 (日本文学)
 漱石読書の2回目。ちくま文庫版漱石全集の第2巻には「倫敦塔」「幻影の盾」など7編と中編「坊っちゃん」が入っている。しかし、「坊っちゃん」以外は恐ろしく読みにくい。それらは擬古風の美文で書かれたロマン派風の作品で、漱石初期にはそういう作品も書いていたということである。泉鏡花や幸田露伴みたいな作家になったかもしれない可能性が、漱石にもあったわけだ。

 だけどまあ、あまり成功していないと思う。特に「一夜」「趣味の遺伝」なんかは何だか全然判らない。ただ、「趣味の遺伝」は旅順攻撃で戦死した友人が出てきて、中で乃木将軍(と思われる将軍)の凱旋の模様が描かれていて興味深い。「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」「薤路行」(かいろこう)はイギリスに材を取っている。「カーライル博物館」は写生的だけど、それ以外は幻想的な短編。中世騎士の伝説を描く「幻影の盾」や「薤路行」は結構いいけど、今では読みにくくて雰囲気に浸りにくい。「倫敦塔」が一番いかもしれないけど、イングランド史の暗い王権簒奪の歴史が身に沁みる。ただ「琴のそら音」は普通の文章で書かれたホラーもので、後味も悪くなくて面白かった。
 
 ということで、「坊っちゃん」にたどり着くまでにだいぶ時間がかかる。「坊っちゃん」は中学以来だと思うが、今でもものすごく面白い。「文体」が確立している。だけど、内容的には生徒だけでなく、自分も教師を体験したわけだから、ある程度感想も変わってくる。今回、小林信彦「うらなり」(2006年、文春文庫に2009年)を取り出して読んだけど、今では両者を比べて読む方がいいと思う。漱石の原作で「うらなり」とあだ名された英語教師古賀の「その後」を描いている。昭和9年になって、古賀(うらなり)と堀田(山嵐)が再会する。「マドンナ」のその後も出てくる。それらは著者の創作だけど、違和感はない。
 
 今はどうなのか知らないけど、「坊っちゃん」は中学生ごろの必読本とされていた。「中一時代」とか「中一コース」とかいう「学年雑誌」を多くの生徒が予約購読していた時代で、多分そういう雑誌の付録に付いてたので読んだんだと思う。文学初心者でも読める。スラスラとどこまでも渋滞しない文体で、漱石が初めて獲得したものだと思う。1906年に書かれたが、その時点では「猫」もまだ続いていた。「ホトトギス」には両方載っているという。「猫」は猫語りと、苦沙弥先生と、漱石自身が混然となっている。そこが魅力でもある。だけど、「坊っちゃん」は漱石が後景に退いて、主人公の語りに一本化されている。

 今までに多分2回読んでると思うけど、それこそ半世紀近い前だから、ずいぶん忘れていた。一番驚いたのは、「マドンナ」(遠山令嬢)がほとんど出てこないこと。確かに出ているし、坊っちゃんも駅で実見しているけど、他にはほとんど出てこない。「坊っちゃん」は戦前の山本嘉次郎監督作品から、昨年正月の二宮和也主演のテレビドラマまで何度も映像化されている。映画の中では、岡田茉莉子、有馬稲子、加賀まりこ、松坂慶子らがマドンナを演じている。坊っちゃん以上に、マドンナに集客効果を期待しているような感じである。赤シャツがマドンナ宅を訪れるような場面は原作にない。

 原作を表面的に読むと、どこか四国辺の中学(漱石が実際に赴任していた松山中学がモデルと普通思われているが、名前は出てこない)に赴任した「坊っちゃん」が、「江戸っ子」の流儀を押し通す「痛快物語」である。最後まで名前が出てこないから、すごい。読んでるうちに「デジャブ」(既視感)が高まってきた。自分で読んでるんだから当たり前だろうという話ではなく、映像で見た高倉健や石原裕次郎のサラリーマンものを思い出したのである。60年代初期に作られた大衆映画の中では、会社にはびこる不正を新進気鋭の社員が暴いて正義を実現する。高倉健や石原裕次郎は、そういう映画の中の「快男児」にピッタリである。「坊っちゃん」はそういう快男児の原型と言っていい部分がある。

 だけど、「坊っちゃん」をよく読むと、漱石は表面的印象とは違うことも書いている気がする。小説を読んでいるだけでは、「坊っちゃん」先生を生徒がからかう場面が最初にある。天ぷらや団子、温泉などの様子を教室でからかわれる。その後、初の宿直で「バッタ事件」が起きる。バッタ事件などは相当に悪質で、この学校にはそれ以前から問題があったのではないかと思われる。その後、坊っちゃんは赤シャツ(教頭)と野だいこ(美術教師吉川)に釣りに誘われ、生徒の裏に山嵐(数学主任堀田)がいるらしいとフェイクニュースを吹き込まれる。

 坊っちゃんは今までの学校を知らないので、来たばかりで問題を起こしている教員である。まあ採用すぐというのはそんなものだと思うが、「初任者研修」も何もないので手探りでやっていくしかない。坊っちゃん自身も、「江戸優先主義」を振りかざし、地方蔑視が甚だしい。それに直情径行でかっとしやすいから、生徒からすれば一番からかいやすい新任教員である。だから何も判っていないのだが、英語教師古賀の父が死んで古賀家没落が始まるのは、もっと前である。赤シャツとマドンナの関係も坊っちゃんの来るずっと前から始まっている。山嵐と学校側の確執も前からである。

 坊っちゃん側からすると、坊っちゃんの大活躍で学校の不正が正されるかのように思われるが、実は違っている。坊っちゃんと山嵐は学校に辞表を出して去り、校長と教頭は安泰である。それに先立って古賀先生も延岡に去っている。赤シャツの完勝である。坊っちゃんは、この「学園紛争」の脇役である。校長からすれば、堀田先生を追放した後で、数学が手薄にならないように、坊っちゃんを抱き込む必要がある。というより、東京物理学校(今の東京理科大)を出ていて、学士ではないものの東京出身をウリにできる坊っちゃんが赴任してきたから、山嵐追放へ動き始めたと言ってもいかもしれない。

 「坊っちゃん」を読んでる限りでは痛快物語だけど、教員間では完敗してるし生徒の応援もない。中学対師範学校での生徒のケンカでも、赤シャツの弟が誘い出しに来ていて、生徒はむしろ赤シャツ側だったのだろうか。生徒の応援のない教員間トラブルは大変だ。そういう「苦い現実」を隠し通し、坊っちゃん視点から「痛快物語」にしているのが小説「坊っちゃん」である。だけど、このネーミング自体、最後の方で野だいこのからかいの言葉として出てくるのである。「青二才」といった意味である。だから漱石は「裏の現実」を認識していて、そのうえでこの小説を書いているのである。
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アメリカによる「懲罰戦争」と国際法

2017年04月17日 23時14分13秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカによるシリア攻撃を先に「国際法違反」と書いた。「集団的自衛権」の行使じゃないことははっきりしてるし(アメリカの単独行動だから)、アメリカが攻撃されたわけでもないので「個別自衛権」の発動にもならない。だけど、違法と自ら認めてしまうわけにもいかないから、「化学兵器がアメリカに使われる恐れがある」から「自衛権の行使だ」と言い続けるしかない。

 それはともかく、「国際法違反の侵略戦争」だとアメリカを非難している人もかなりいるけれど、それはどうなんだろうか。まあ、国際法違反の武力行使は全部「侵略戦争」だとも考えられる。「侵略」という言葉の定義次第だとも言える。ただ地上軍を送らず、アサド政権打倒をも目指していない(現段階では)ことを考えると、通常の考え方で言う「侵略」とは少し違っている。

 アメリカが攻撃したのは、政権の本拠地から遠い軍事基地に限られ、直ちに政権打倒を目指していないことはロシアに対しても明確になっていると思う。じゃあ、何なんだというと、まさに「懲罰的軍事行動」というようなもんだろう。(もちろん、それは「侵略」だとも言えるが。)歴史的に考えると、アメリカのパナマ侵攻作戦とか、グレナダ侵攻。あるいは1979年の中国による「ベトナム懲罰戦争」(中越戦争)もあるだろう。まあトランプが習近平に「国際的前例は中越戦争だ」とは説明していないだろうけれど。

 アメリカだけでなく、ロシアも近隣の(自分の方からは)「勢力園」だと考えているところでは、軍事行動を繰り返しているウクライナ東部の親ロシア勢力には間違いなく軍事援助をしていると思う。またジョージア(グルジア)のアブハジア自治州は事実上「独立」状態にあるが、ロシアの軍事援助がある。それに内戦中のシリアでアサド政権に対して、ロシアが全面的に軍事支援をしていることも「国際法違反」に近い。(アサド政権が「正統政権」であるのは確かだから、必ず違反だとは非難できない。)

 しかし、シリアはアメリカの勢力圏ではない。本気でアサド政権打倒まで考えるならば、地上軍を投入してロシアと全面対決する決心がいる。2013年の化学兵器問題の時には、オバマ政権でそこまで行われる可能性があった。中東に関して「より深刻な危機」だったのである。だが、今回は地上軍の投入を考えているとは思えない。ただ、問題によっては「懲罰的軍事行動」を辞さないということなのである。だから、その軍事行動の対象に「北朝鮮」がなってもおかしくない。アメリカから見て「超えてはならないライン」を超えると、懲罰的軍事行動の可能性があるということなのである。

 そして、そこにこそ今回のシリア攻撃の一番の問題点がある。ツイッターによる「トランプ砲」では、友好国であれ民間企業であれ、どこが標的になるか判らない。だから友好国首脳であっても、トランプ政権を「忖度」して「戦々恐々」にならざるを得ない。一方、今回の攻撃で反米国では「いつ難癖を付けられて攻撃されるかもしれない」という「恐怖」を植え付けられたのは間違いないだろう。単に「北朝鮮」に止まらず、ベネズエラとかエクアドル(ウィキリークスのアサンジをロンドンの大使館で匿っている)、あるいは内戦の続くイエメンなども標的にされる可能性があるのではないか。

 ところで、このシリア攻撃に限らず、それをもたらした化学兵器問題なども、本来は国連安保理で討議して結論を出すべきものだろう。だけど、ロシアが拒否権を使うから何も決定できない。それはアメリカや中国に関しても同様だ。中国は南シナ海での「海洋進出」問題で、国際司法裁判所の判決に従っていない。初めから従う気がないから、国際司法裁判所で自国の主張をしていない。こういう風に、「大国は何をしてもいい」制度はおかしいではないか。

 そう思うけれど、拒否権をなくす安保理改革はできない。それこそ拒否権を行使されるから。それに拒否権がないと、国連に入っている必要がないと脱退しかねない。そもそも国際的平和機関から、自分の言い分が通らないから脱退するという先例を最初に作ったのは、日本じゃないかと世界中から言われてしまうのがオチだ。そういう日本のような国を出しては無意味だから、あえて国際連合では拒否権という仕組みを作ったわけである。だから拒否権は当面やむを得ない。

 だから、アメリカかロシアか中国が味方に付いてくれれば、何も決まらないことになる。(イギリスフランスもあるけど、イギリスは通常アメリカと同じ判断に立つし、フランスはアフリカの自国勢力圏以外には軍事的行動をしない。フランスがアフリカ中部でイスラム過激派に軍事行動を起こすのは問題もあるけど、アメリカもロシアも中国も支持してしまうから問題にならない。)

 それは国連や国際司法裁判所は、軍事的執行機関がないんだから、他国への強制力を持たない以上どうしようもない。法律は作れても、警察がないのと同じである。では「常設の国連軍」を作ればいいのか。その問題は昔から議論はされるけれど、誰もそのためにお金を出さないだろう。自国に反するような行動を取るかもしれない「常設国連軍」に資金と人員を提供する大国はないだろう。それにそういう組織が、あまりにも強大な力を持ってしまうのも、いいことばかりではないはずだ。

 それでも議論の場としての安保理がある限り、詭弁でも何か言わないといけない。それは「ないよりはまし」だと思うしかない。だが、強大国に踏みにじられる側の国、あるいは国家を形成できない少数民族には、この仕組みは納得できないだろう。どうすればいいのか、誰にも答えはない。
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アメリカのイスラエル大使館問題

2017年04月16日 21時45分51秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカによるシリア攻撃問題から連動して、一番気にかかる問題は「イスラエル大使館問題」である。世の中には、そうではない、4月中にも「北朝鮮攻撃」がありうると心配(または期待?)している輩がかなりいるらしいけど、アメリカ(及び北朝鮮と中国)の対応を観察していると、決してすぐには武力攻撃にはならないだろうことが様々暗示されているように思う。もっとも、僕もトランプ大統領がどういう行動を取るか、完全に予測できると思っているわけではないのだが…。

 トランプ氏は大統領選挙中に、中国を為替操作国に認定すると言ってきた。しかし、最近になってこの認定はしないと決定された。トランプ政権にとって、雇用の拡大が「一丁目一番地」の政策である。下院議員の任期は2年しかない。それに合わせて上院の3分の1も改選されるから、経済問題の実績を上げることは急務である。(もっとも、経済指標そのものを信用できないとして、「オルタナティヴ・ファクト」を主張するのかもしれないが。)そうすると、中国といたずらに対立を深めるのではなく、「取引」の関係に引き込むことが重要になる。中国を反発させるだけでは、経済政策がうまくいかない。

 そういうファクターも大きいと思うけど、そもそもトランプ政権がロシアと中国をそれぞれ相手に回していくことは不可能だろう。シリア問題でロシアと対立している現時点で、中国を無視する(メンツをつぶす)形で北朝鮮問題に武力行使という選択をできるとは思えない。そういった問題はまた別に詳しく考えたいと思うが、一番重大だと思うことは、先に書いたようにトランプ政権内で、バノンの影響力が失墜してクシュナーの影響力が大きくなっているという問題である。

 クシュナーは「敬虔なユダヤ教徒」とされ、そのためイバンカ・トランプは結婚に際してユダヤ教に改宗したという。ユダヤ人にも様々なタイプがあるが、クシュナーは「正統派」に属するというから、イスラエルが絶対だと考えられる。中東情勢に対して、アジアへの関心は少ないと考えておいた方がいい。だから、アジアでは何もしないというわけでもないだろうが、トランプ政権にとっては「イスラエル大使館問題」の方が重大なのではないだろうか。

 このイスラエル大使館問題というのは、日本ではあまり知らない人も多いかと思うので、少し紹介しておきたい。そもそも世界地図なんかでは、「イスラエルの首都はエルサレム」と書いてある。一応そういうことになっているわけだけど、国際的にはエルサレムを首都とは公言しないルールになっている。アメリカの大使館も、日本をはじめ世界各国の大使館もエルサレムではなく、テルアビブにある。

 エルサレムの国際的地位はまだ未決着なのである。そもそも…とイスラエル建国からアラブとの何回かの中東戦争を全部書いていると終わらなくなるから、ここでは省略する。とにかく、アラブ諸国の中にはイスラエルの存在をそもそも認めていない国が多い。エジプトとヨルダンが例外的に国交を持っているだけである。将来できるはずの「パレスチナ国家」は本来「東エルサレム」を首都とすることを予定している。エルサレムはユダヤ教だけでなく、キリスト教やイスラム教にとっても「聖地」であり、イスラエルだけのものではない。アメリカがエルサレムを「首都」と扱うことは、サウジアラビアやイラク、エジプトなど「親米国」の国民感情に計り知れない悪影響を与える。もうそれははっきりしている。

 ところで、トランプ氏は選挙戦中に「イスラエルにある大使館をエルサレムに移す」と公約してしまっているのである。この問題は複雑で、そもそも米国議会は「エルサレム大使館法」を1995年に通している。クリントン政権時代である。ではアメリカの大使館はエルサレムにあるのかというと、今もテルアビブにあるままである。それは何故かというと、ビル・クリントンは大統領令を発してこの法律の効力を差し止めたからである。それをブッシュもオバマも踏襲してきた。

 ただし、その大統領令は効力が半年しかないのである。だから、この20年以上アメリカ大統領は半年ごとに、エルサレム大使館法の効力を差し止めてきたわけである。トランプが公約したのは、この「大統領令を発しない」ということなのである。オバマ大統領による大統領令は、昨年12月に出たということだから、6月には切れてしまう。5月中には判断しないといけない。クシュナーらにとっては、この問題こそ一番の関心事ではないかと僕は判断しているわけである。

 じゃあ、どうなるか。この「エルサレム大使館問題」は、「一つの中国問題」と同じく、安易に手を触れてはならない問題だと思う。ある種の「フィクション」を皆で尊重していくしかないんだと思う。そういう現実をトランプ政権が理解できるか。日本の小泉首相のように、選挙戦中(もっとも自民党総裁選だけど)の発言にとらわれて、靖国神社参拝を続けて中国との首脳会談が出来なくなってしまった人もいる。トランプがどう判断するかは、非常に注目される。

 僕が思うに、「IS壊滅作戦を優先させる」という名目で、「わたしは公約を守る男だが、この公約の実現はわたしの政権の二期目に延期する」とか言って、事実上先送りしてしまうのが「最善」ではないだろうか。あるいは、大統領令で差し止めはしないけど、大使館はテルアビブに置いたままにするということもあり得るだろうか。でも、それは「違法」になってしまうから、問題だろう。もし本当にエルサレムに移したら、親米政権が倒れかねないほどの問題である。まさに「テロリストに塩を送る」行為である。(「塩を送る」は日本でしか通用しないが。)

 他にも様々な問題が山積しているわけだが、外交的にはこの問題をどうするかの調整は、かなり時間がかかると思う。中国問題と違って、公約は順守するべきだという意見も政権内に強いと思うからである。そうなると、北朝鮮問題どころか、世界の他の地域に関わることはかなり難しいのではないかというのが、僕の今の時点の観測なんだけど。
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アメリカのシリア攻撃をどう考えるか②-アサド政権側の問題

2017年04月15日 00時09分20秒 |  〃  (国際問題)
 前回はトランプ政権の問題を見たので、今度はシリアのアサド政権側の問題を考えたい。まず、その前に「そもそも化学兵器は使われたのか」という問題がある。トルコに逃れた被害者が多く、トルコ政府はサリンを確認したと言っている。トルコは反アサド政権の立場だけど、被害住民の証言は海外のメディアも取材している。100人以上が死亡したということで、何らかの神経ガスが使用されたと考える方が自然だろう。問題はだから「誰が使用したか」である。

 「アサド政権が使用した」と米国は主張するが、その証拠の有無以前に「アサド政権が使用したとしても、そのことを認定するのは米国の権限なのか」という問題がある。世界情勢の「解釈権」が一義的にアメリカに属するなんて馬鹿げたことがあっていいはずがない。では誰が認定するべきか。国連安保理に委嘱された「化学兵器禁止機関(OPCW)」の専門的調査が必要だというしかない。

 アサド政権側は「化学兵器は廃棄して存在しない」と主張している。ないものは使えないわけだが、反政府軍が使用したという主張をしている。そうだとしたら、ここでは国際的調査を受け入れて大々的なアピールをする絶好のチャンスのはずである。だけど、アサド政権も、後ろ盾になっているロシア政府も、調査を受け入れていない。国連安保理の決議案ではロシアが反対して拒否権行使となった。空軍基地への立ち入り調査などの条項に反対ということだが、それは必要なものだろう。

 もちろん、アメリカ側にしても、それほどアサド政権使用の確証があるのなら、一方的に限定的攻撃をするよりも、国際世論に訴える方が「長い目で見て効果的」と考えられる。しかし、その場合「トランプ政権は何をするか判らない」と強く印象づけることはできなかった。北朝鮮問題や貿易摩擦を考えろと、シリア問題よりも他の問題への「副次的効果」を狙ったものなのかもしれない。

 ところで、トランプ政権は従来のアメリカのシリア政策を改めて、アサド政権存続を打ち出そうとしていた。アサド政権側がいま化学兵器を使うのは、常識的には考えがたいことだろう。混迷を続けていたシリア内戦も、昨年来ロシアの本格的支援を受けたアサド政権の勢いが盛り返していた。化学兵器使用が事実なら、なぜそうした馬鹿げた行為をしたのかの説明が必要だろう。

 化学兵器は「貧者の核兵器」というぐらいで、実際にオウム真理教が作成、使用できたわけである。シリアでも、ヌスラ戦線などには化学兵器作成能力があると言われているようだ。また、もともとアサド政権が持っているものが反体制派に流れたという主張もある。だけど、そういうことが絶対にないとは言えないと思うけど、やはりこれほど大規模な攻撃を行うというのはアサド政権にしかできないのではないだろうか。それ以外にアメリカは公にしていない直接証拠(シリア軍内部の無線傍受等)があるのかもしれない。それは判らないことだが、アサド政権側の対応に問題があるのは確かだと思う。

 もともと2013年にアサド政権が化学兵器を使ったという疑惑が生じた。その時にオバマ政権はシリア直接攻撃に踏み切る直前まで行った。それをロシアが仲介する形で、シリアが化学兵器禁止条約に加入し、化学兵器を廃棄するということでまとまった。その経緯を見る限り、シリアには化学兵器がないばかりか、新たに作ることも、反体制派に流れることもありえないはずだ。(すでに流れていたとしたら、その情報を明らかにするべきだ。)シリアの化学兵器問題は、単に使用の有無だけでなく、その廃棄プロセスが信用できるかどうかというもっと大きな問題を突き付けている。

 アサド政権に反対する立場の国は多い。トルコ、サウジアラビア、イスラエルなど、イラン以外の中東諸国は大体反アサドだと言ってもいいだろう。だから、そういう国からすれば、米国がアサド容認に切り替わったら困ることになる。だけど、だからと言って、これらの国々が謀略を仕組んで、アサド政権内で化学兵器を使わせたと見るのも難しい。独裁政権は情報疎通がうまく行かず、ちぐはぐな対応をすることはよくある。アサド政権がシリア軍をどこまで掌握しているのかも僕には判らない。

 判らないことばかりだけど、イラクのフセイン政権もちぐはぐな対応をして自滅した。大量破壊兵器がないのにあると言い張ったブッシュ政権も問題だが、フセイン政権の方も明確な対応をしなかった。アメリカの対応を読み誤ったのかもしれない。今回もアサド政権はトランプ政権の出方を読み誤った可能性もあるだろう。ロシアと協調的なトランプ政権なら、この程度までは黙認されると踏んで、対応を試したのかもしれない。アサド政権が関与したとするなら、そういう考えもあり得るということだが。

 とにかく、これで完全にシリア情勢は振り出しに戻り、出口なき状況に戻った。トランプ政権は、アサド政権打倒よりも、IS掃討を優先するとは言っているけど、さて今後どうなるか、状況は不透明である。それは次回に検討する「米国の在イスラエル大使館問題」がどう決着するかの期限が近づいていて、中東大乱もあり得るからである。
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アメリカのシリア攻撃をどう考えるか①-トランプ政権の問題

2017年04月13日 21時19分33秒 |  〃  (国際問題)
 4月7日、アメリカがシリアのアサド政権軍を巡航ミサイルで攻撃した。その前に、4日シリア北西部のイドリブ県で、化学兵器(毒ガス)による爆撃が行われた(とみられる)。それがアサド政権軍によるものとアメリカは断定し、ミサイル攻撃を加えた。この事態をどう考えるべきだろうか?

 本当は昨日から書くつもりだったんだけど、つい浅田真央記者会見を書いてしまった。数回かかると思うから、つい面倒な気がしてしまうのである。でも、まあ大事なことだから、国内問題を差し置いてまず書いておきたい。この攻撃そのものは、「国際法違反」だろう。それが本質だという人もいると思うけど、ここではその問題は一番最後に回したいと思う。

 今回の事態で思い出すのは、1998年にクリントン政権によって行われたアフガニスタンやスーダンへのミサイル攻撃である。これも無謀なものだったけど、その直前にアル・カイダが関与したとみられるケニア、タンザニアの米大使館爆破事件が起きていた。それに対する「報復」として、「自衛権の発動」という名目でミサイル攻撃が行われたわけである。(もっともスーダンの「化学兵器工場」は間違いだったとされるが。)それに対して、今回はアメリカへの攻撃がどこにもない。

 トランプ大統領は「アメリカは世界の警察官ではない」と言い、「アメリカ・ファースト」を唱えていた。かつてオバマ政権が同じく毒ガス使用が疑われたアサド政権を攻撃しそうになった時、在野時代のトランプは口を極めてオバマ批判を繰り返していたという。今回は全く逆の立場となり、赤ちゃんが殺されているなどとシリア攻撃の正当性を主張している。そんなに世界の悲惨事に同情できるんだったら、他の問題の対応も変わって然るべきではないのか。

 今回のトランプ政権の対応は、その直前の4日に起こった、バノン首席戦略官のNSC(国家安全保障会議)が常任メンバーから外れるという出来事と密接な関連があると観測されている。バノンは白人至上主義の陰謀論者とよく言われる危険人物だけど、だからこそ外国の紛争に「人道的介入」をすることには反対する立場と考えられる。バノンはトランプの娘婿のクシュナーと対立していると言われる。トランプ大統領は娘のイバンカを無給の補佐官にして、イバンカとクシュナーの影響力はますます強まっていると思われる。イバンカがシリア攻撃正当化に力を注いでいることを見ても、とりあえず「クシュナー路線」が大統領を動かしていると見て取ることが出来そうだ。

 トランプ政権はずっと低空飛行が続いていたが、最高裁判事に保守派を任命することに成功し、今回のシリア攻撃も国内的には支持されるとみられる。(政界では議会民主党も反対していない。国民世論の動向はまだ報じられていない。)「国内で行き詰ったら、国外で戦争をする」という古典的な戦略を取っているのではないだろうか。今回は限定攻撃になるだろうが、東アジア情勢にも大きく影響していて、トランプ政権の一挙一動に世界が注目せざるを得ない。

 今回は中国の習近平国家主席訪米中にシリア攻撃が行われた。これも計算されたものだとしたら、ずいぶん仕組んだものである。トランプ政権は中国に貿易問題で厳しいことを言ってきた。北朝鮮問題でも中国を批判している。党大会を控えて訪米の失敗を許されない習近平は、冒頭でシリアをめぐってトランプ政権と完全対立する道を選べない。支持はしないまでも、「暗黙の了解」的な対応になる。そして、国連安保理の採決では、中国は今回は棄権した。ロシアが拒否権を使ったため否決されたものの、中ロの間にひびを入れるという外交的得点を挙げたのは確かである。

 アメリカのティラーソン国務長官はちょうど訪ロしていたが、シリアに関する認識は完全に正反対である。トランプ政権は、米ロ関係は冷戦終結後最悪だとまで言っている。これはトランプ政権に関して、事前に言われていたことと違っている。トランプは公然とオバマ政権の対ロ政策を批判していたし、プーチンを持ち上げていた。実際に今回の化学兵器問題が起きる直前には、アサド政権存続でロシアと協調する動きを見せていた。それがあっという間に事態が急転した。今は米ロ対立が言われている。

 ロシアが米大統領選に介入し、トランプに肩入れしたという疑惑がある。それが本当なら、ロシアがトランプ政権の命運を握っているはずである。今回のようなことを見れば、トランプ政権側には後ろ暗いことはないということにも見える。この問題をどう考えるべきだろうか。もし実際にロシアが選挙に介入していたとしても、ロシアはそれを公にはできないと思われる。道義的問題もあるし、介入方法を公表できるものではない。責任者の処罰などを求められても困る。

 アメリカ国内的に言えば、ロシア寄りを警戒されていたトランプ政権は、ロシア寄りの政策を打ち出しにくい。今回もどこかで妥協するのかもしれないが、ロシア強硬路線の方が国内的には支持されると思われる。じゃあどうなると言われても、今後シリアに地上軍を送るなどは考えられない。ただアメリカのアサド政権否認は続く。ロシアのアサド政権擁護も続く。よって、シリア内戦は出口が見えない状況が続く。ということにならざるを得ない。つまり、シリア内戦を続行させるという意味が今回の事態を通して見えてくる真相なんだと思う。じゃあ、アサド政権側やロシアなどの対応をどう見るか、東アジアへの影響、国際法の問題などは次回以後に。
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歴史的傑作映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」

2017年04月11日 21時18分32秒 |  〃  (旧作外国映画)
 台湾の故エドワード・ヤン(楊徳昌、1947~2007)の畢生の大作「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(1991)が、「4Kレストア・デジタルリマスター版」として公開されている。92年に日本で上映されたときは188分版だったけど、今回は236分版である。(日本でも、92年6月に236分版が公開されているというが、自分はその前に見たと思う。)長いからなかなか見る機会を作れなかったけど、ようやく見た。上映時間が4時間近いとなると、そうは見られないと思うけど、これは素晴らしい傑作である。

 昔見た時もすごい傑作だと思った。僕のその年のベストワンである。批評家受けも良くて、キネ旬ベストテンで2位になっている。ちなみに1位は、さらに長いジャック・リヴェットの「美しき諍い女」だったから、これはやむを得ない。台湾映画ではホウ・シャオシェンはヒットするものの、エドワード・ヤンはあまり一般受けがしなかったと思う。都会の孤独をスタイリッシュに再構成するエドワード・ヤンの映画は時代を飛びぬけていたと思う。紛れもなく最高傑作だと思う「牯嶺街少年殺人事件」も、もう二度と見る機会がないかと諦めていた。その後、海外で評価が高まり、今回のデジタル版が昨年の東京国際映画祭で上映された。そして、満を持して一般上映である。

 ただし、この映画は見ていて必ずしも判りやすい映画ではない。ロング・ショットの長回しの画面に、似たような登場人物が点景のように登場し、数人の主要人物以外の特定が難しいのである。表面的には、この映画は「対立する不良少年団もの」だけど、俳優はみな素人を使ってるし、関係が見えにくい。もちろん、そうじゃない作り方も容易にできるわけで、全体に夜の暗いシーンがほとんどであることも含めて、監督の意図した判りにくさである。それでも映画を見ている間は、退屈するということがなく、一貫して傑作を見ているんだという緊張感に支配されている。そんな映画である。

 現代の台北を描くことが多かったエドワード・ヤンには珍しく、この映画は「過去」を描いている。具体的には1960年の台北である。そして、出てくる人々は「外省人」である。1949年、国共内戦に敗れた国民党政府が台湾に移るが、それに伴い台湾に移住した人を「外省人」、もともと台湾にいた人々を「本省人」と呼ぶ。ホウ・シャオシェンの「悲情城市」(1989)は本省人の運命を描いていた。

 蒋介石が支配する戒厳令下の台湾社会。父は外省人の公務員だけど、融通が聞かない清廉な人物で、その子小四(シャオスー)も試験でうまく行かず、名門建国中学の昼間部には落第し、夜間部に通っている。(建国中というのは、日本統治下の台北一中である。)家族は夜間部に多い不良グループとつるむことを心配している。そんな小四は毎日のように仲間と学校の隣にある映画撮影所に忍び込んでいる。そんな彼がある日、小明(シャオミン)という少女と運命的に出会う。家庭的に恵まれない小明は、不良グループのリーダーの彼女である。

 そんな二人を中心に、不良グループの抗争、小四の家族のあり方などが語られていく。10代半ばほどの幼い恋であり、幼い抗争事件なんだけど、彼らにとって生死を賭けたものである。その出口のない痛ましさは、10代の青春映画で多く描かれたものであるとともに、60年代初期の台湾社会の行き詰まりと暗さを象徴している。50年代から60年代にかけて、世界的に「不良青年もの」の映画が多数作られた。ジェームス・ディーンが、石原裕次郎が、ジャン・ピエール・レオが、ズビグニエフ・チブルスキーが…大人社会への反抗と孤独をヒロイックに演じていた。

 この映画でも、不良青年たちは自分たちの仕切る音楽会を開き、そこではエルヴィス・プレスリーが歌われる。英語題の「A Brighter Summer Day」は60年に出たプレスリーのシングル「今夜はひとりかい?」(Are You Lonesome Tonight?)の歌詞から取られている。)だけど、憧れのアメリカは歌詞の中では輝いているけど、現実の台湾社会は暗かった。その中で起きた、ある少年による殺人事件

 現実に起きた事件がモデルで、建国中夜間部を退学になった少年が、在学中の少女を殺害して台湾社会に大きな衝撃を与えたという。エドワード・ヤンはその時建国中昼間部にいたというから、その衝撃は大きかっただろう。日本で言えば、「小松川事件」のようなものである。大島渚は事件をもとに「死刑と国家」を問う「絞死刑」を作ったけど、エドワード・ヤンはもっと乾いたタッチで大叙事詩「牯嶺街少年殺人事件」という大作で台湾社会の過去を総括したのである。

 ところで、以前に見た時は「不良青年もの」の側面から見たと思う。でも、今回見てみると、家族映画の側面がかなり強いと思った。父親を先頭に、誠実で不器用な家族である。大陸から逃れて、両親と子ども5人の家庭。外省人だから支配の末席に連なるけれど、うまく世渡りができない。父は政治に絡んで取り調べも受ける。とても幸せに生きていけそうもない。息子の小四もどちらかというと、うまく生きていけないタイプに見えてくる。それが最後に悲劇につながってしまうのではないか。

 今回は長い分、脇役的人物の描写が多く、それが世界の複雑さをより一層明確にしていると思う。でも、登場人物が多くて、画面はほとんど夜のシーンだから、長い映画を見ているうちに人物がこんがらかってくる。DVDで細かく見直せば新しい発見も多いかと思うけど、判らなくても大画面で少年少女たちの瞳を見つめていたい気がする。(ところで、ヒロイン役はなんでこんなにモテるのか。イマイチわかるような、わからんような…。モテるというよりも「守ってあげたい」ということかな)
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