尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

殿ヶ谷戸庭園ー東京の庭園⑤

2019年11月30日 22時54分15秒 | 東京関東散歩
 関東地方では11月下旬に寒い雨が降り続いた。一週間続いた雨が上がったので、寒いけど国分寺市に散歩に行った。多摩地区でただ一つの都立庭園である「殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園」が駅前にある。大昔の武蔵国国分寺があったところだが、日本中にあった国分寺の中で市の名前になっているのはここだけだ。だから中央線の駅名も国名が付かないただの「国分寺」になっている。
    
 紅葉の名所でカメラ片手の入園者がたくさんいた。今年はどこでも紅葉、黄葉が遅れていて、都心では越年しそうな感じだ。殿ヶ谷戸庭園でもまだまだ紅葉狩りを楽しめそうだった。都心の多くの庭園が大名庭園だったのとは違って、ここは近代になって作られた別荘庭園である。北区の旧古河庭園も同様だが、今じゃ北区は都心に近いイメージだ。それに対して、殿ヶ谷戸庭園は都心からは離れたイメージはある。もっとも都庁が新宿に移転した今では、新宿まで30分もかからない通勤圏内だけど。
   
 作ったのは江口定條(さだえ)という人である。パンフには満鉄副総裁の後、貴族院議員を務めたとある。近代史上ではほぼ忘れられた人物だが、ウィキペディアに載っていて、三菱合資総理事を務めた実業家だった。東京高商(現一橋大)卒で、同校教諭も務めた。如水会(東京高商、一橋大学の後援組織)の初代総裁もしている。満州事変のあった1931年に満鉄副総裁に就任したが、翌年に民政党系を嫌った政友会の犬養毅内閣に罷免されたと出ている。1913年から15年にかけて別荘を築き、その時は「随宜園」(ずいぎえん)と名付けられていた。1929年に岩崎小彌太が買い取り「国分寺の家」として親しんだという。結局ここも三菱系の庭園だったのか。
   入り口を入ると左方向に資料館がある。広場風に芝生が広がり、その奥に木が続いている。高いところは洋風庭園で、そこから下がったところに湧水を生かした池を設けて和風庭園とする。これは旧古河庭園も同じだ。大名庭園のような大きな池泉回遊式庭園は海や川に近いところに作られた。一方、武蔵野台地国分寺崖線(がいせん)を生かしたのが別荘庭園。この地域は多摩川の河岸段丘が続いていて、その崖に沿って湧水が多い。湧水を利用した「治郎弁天池」を整備したのは、1934年のことで岩崎家になってから。
  
 上の写真の真ん中が湧水の出ているところ。池から上に登っていくと「紅葉亭」が作られている。そこは集まりに借りられる場所でもあるらしいが、庭園に向かった部分は休憩所として開かれている。そこから見る紅葉が素晴らしいわけだが、人も多くて写真は撮りにくい。それに昼間は逆光になる。
   
 樹を通して光がもれる様は抽象画みたいな感じ。そこから入り口に戻ると広場になるから、気が晴れる。かつて開発計画があり、庭園を守る住民運動があった。その結果、1974年に都が買収し開園した。2011年に国の名勝に指定されている。近代の庭園としては珍しいと思う。そんなに広くないし、駅から近いので散歩に最適。そこから「名水100選」指定の「真姿の池」や国分寺跡に足を伸ばしたが、それはまた別の記事に書きたい。
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神田松鯉の講談を聞く

2019年11月29日 21時14分00秒 | 落語(講談・浪曲)
 新宿末廣亭11月下席は、落語芸術協会所属の講談師・神田松鯉(かんだ・しょうり、1942~)がトリを務めている。そのちょっと前には、2月に真打昇進、伯山襲名が決まっている超人気の神田松之丞も出ている。松鯉は今年「人間国宝」に認定され注目が集まっている。人気の師弟を聞こうと末廣亭はいっぱいだである。もっとも夜の部始め頃に行けば、まだまだ一階桟敷席が空いていた。
(神田松鯉)
 松鯉の出し物は十日間続けて「赤穂義士伝」長講である。マクラで言ってたけど、講釈師は「冬は義士、夏はお化け」でメシを食ってきた。季節柄寒くなれば、義士伝となる。なんて知ってるように書いても、僕は聞いたことがない。夏のお化けの方は、一龍斎貞水の「立体怪談」を見てるけど、冬の義士には関心がない。そもそも講談を聞いたことがあまりないが、「忠臣蔵」そのものも(そりゃあ映画は何本も見てるが)どうも好きになれない。いくら何かあったとしても江戸城内で切りつけてはまずいでしょう。それを家臣だからといって「仇討ち」と称して討ち入りするのは「テロ」じゃないの?

 なんて思ったりするわけで、最近じゃ僕は四十七士のことを冗談で「AKO47」なんて言ってる。そんな僕が松鯉の講談を聴いてどうなる。それまでの落語、講談、各種色物に湧いて、いよいよトリの登場、「待ってました!」の掛け声と共に雰囲気も最高潮に達する。演題は「赤垣源蔵徳利の別れ」である。明日は討ち入りという前夜、義士の一人赤垣源蔵は最後の別れに兄を訪ねる。兄は不在、兄嫁は病床だったため、源蔵は壁に掛かった羽織を兄に見立てて酒を酌み交わす。翌朝討ち入りの話を聞いた兄は、下働きの市助を確認に行かせる。果たして義士の列にいた源蔵は形見の品を渡すのだった…。

 もちろん、もっと多少の綾があるわけだが、基本はシンプルな話である。これがしみじみ聴かせて素晴らしい。何でこんな話が泣かせるんだよと思いつつ、涙を禁じられない。それがまあ「」なんだと思う。と同時に「死を見つめた透明な心境」がいかに心を打つことか。ところが後で調べてみると、赤垣源蔵なる人物は四十七士にはいない。実在したのは赤埴源蔵重賢で、赤埴は「あかばね」と読む。兄もいなかった。そうなんだと思ったけど、そこにこそ「日本の大衆文化」の豊かな流れを感じる。現実を少し変えても、こういう物語を作ってきたわけである。
(神田松之丞)
 少し前に出た神田松之丞(かんだ・まつのじょう)は2回目だけど、圧倒的な面白さだ。エネルギーがあふれ、場内の心を鷲づかみにする。その勢いは誰も止められない。けっこう周りの噺家が「松之丞ネタ」で売れるぐらい、当人も面白そうだ。客をあっちに連れて行き、こっちに連れて行き、ジェットコースターに乗ったようなストーリー裁きに感嘆する。この面白さはホンモノだと思う。それが「講談」に留まるのか、講談界を飛び出てしまうのか。他の仕事のオファーも多くなりそうだが、売れすぎてテレビの人気者なんかになるタイプじゃないような気がする。とにかく面白いので、ファンが熱狂するのも無理ない。チケットが取りづらいが、時々寄席でやるときが狙い目かもしれない。

 新宿末廣亭は定席で一番遠いので、最近行ってなかった。夜の部だと帰りが遅くなるが、行っただけのムードを味わえる。一番寄席らしい建物なのは間違いない。桂小文治、三笑亭夢太朗などの落語も充実していたが、バイオリンのマグナム小林が発見だった。落語協会の「のだゆき」さんみたいな芸で面白かった。
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胡波監督29歳の「遺作」、「象は静かに座っている」

2019年11月27日 22時58分16秒 |  〃  (新作外国映画)
 中国映画「象は静かに座っている」(2017)が上映されている(渋谷のシアター・イメージフォーラム)。234分と約4時間にも及ぶ長大な作品だが、決して退屈しない。監督・脚本・編集を務めた胡波(フー・ボー、1988~2017)監督はこの作品完成後に29歳で自殺した。その意味でも「映画史の伝説」と呼ばれることになるだろう。とにかく「暗い映画」で、テーマも深刻、展開も破滅的、画面は常に薄暗いという映画である。中国の地方都市はこれほど希望がないのかと「時代閉塞の現状」に心を塞がれる。

 登場人物たちが皆「居場所を失う」様を異様な長回しで見つめている。原題「大象席地而坐」、英語題「An Elephant Sitting Still」と意味は全部同じだけど、象は出て来ない。登場人物たちが「満州里」の動物園には「ただ座っている象がいる」というのである。だからどうなんだという気がするが、登場人物たちはその象に象徴的な意味を込めているようだ。じゃあ映画の場所はどこなんだと思うと、後半になって「石家荘」の駅が出てくる。河北省の省都で、満州里は東北地方最北の都市だからずいぶん遠い。ロシアとの国境だから、「国境の町」のイメージがセンチメンタルな感情を喚起するのかもしれない。
(ブーとリン)
 「行き場のない悲しみを抱えた孤独な“4人の運命”が交差する――どん底から希望を目指すある1日の物語」とコピーにある。その中心となるのは、友だちをかばってケンカ相手を突き飛ばした「ブー」という少年だ。かばう意味がなかったことは後に判る。ケンカ相手の兄は「危険な人物」で、ブーを追ってくるが彼の私生活も火が付いている。ブーが思いを寄せるリンは一緒に満州里に逃げてくれない。それどころか、母との葛藤を抱えるリンは学校の副主任の先生と付き合っている。そういう若者たちに交差するように、子ども夫婦から迷惑がられている老人も絡んでくる。それが「孤独な4人」である。

 胡波監督は、ハンガリーのタル・ベーラ(「サタンタンゴ」)の指導で短編を作ったというが、影響は明らかだ。また少年のいさかいを描くエドワード・ヤン「クーリンチェ殺人事件」も思い出させる。登場人物が自らドツボにはまるような展開は多少図式的だが、自身の短編小説の映画化だという。画面は暗すぎるし、手持ちカメラは長回しだけど、画面はクローズアップが多い。技法的に完成された傑作じゃないだろう。人物たちは大声で怒鳴る人と声を挙げない人ばかり。もっと軽やかに語れると思うけど、それをしないのは画面の暗さに「中国の現在」を象徴させているとしか思えない。
(胡波監督)
 中国映画、あるいは台湾や香港を加えて中華圏の映画が世界を驚かした時代があった。それから30年、巨匠たちは「武侠映画」(チャン・イーモウ「SHADOW 影武者」やホウ・シャオシェン「黒衣の刺客」など)は作るが、現在を描かない。それでもインディペンデントで映画を作ることが出来るし、その映画を外国の映画祭に出品できる。「象は静かに座っている」もベルリン映画祭フォーラム部門第一回最優秀新人監督賞を取ったし、台湾の金馬奨では2018年の作品賞を受けた。主演俳優たちも素人ではなく、知名度があるようだ。そのような「余地」が中国社会に存在するのは評価しないといけない。

 映画を離れた感想になるが、この映画を見ると中国社会の「余裕のなさ」に胸ふさがれる思いがする。ソ連東欧圏が崩壊して30年、決して良いことばかりではなかったと報道されている。「社会主義時代」は自由も豊かさもなかったけれど、安定と平等はあったなどと。その評価はともかく、中国は今も一党独裁の「社会主義体制」のはずだ。だが「改革開放」を経て「社会主義市場経済」という意味不明の概念の下、格差が深刻化している。もともと都市と農村部は差別されているが、地方都市の人々も現在を疾走するように生きている。どこへ向かうのか、全く判らない。

 主人公たちは「満州里」を夢見るが、列車は不通になったと言われ、バスに乗って北京を経て瀋陽(シェンヤン)へ向かう。その途中で映画は終わってしまうが、どこにたどり着くのだろうか。その答えを出さずに監督は命を絶った。そのことに暗澹たる思いがする。4時間もの映画はなかなか見るチャンスがないかもしれないが、是非見ておくべきだと思う。映画という以上に、巨大な隣国を少しでも知るために。石家荘の風景なんて見ることはなかったと思うし。
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イタリア映画「LORO 欲望のイタリア」とベルルスコーニ政権

2019年11月25日 22時31分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 パオロ・ソレンティーノ監督のイタリア映画「LORO 欲望のイタリア」は、イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニ(1936~)を描く大作だ。157分もあって少し長すぎかなとも思うが、政治と人間の欲望を見つめた問題作である。イタリア映画界ではヴィスコンティやフェリーニなどの大巨匠時代が遠く去って、監督や俳優の知名度が今ひとつの感じだが、僕はイタリア映画が好きでよく見ている。

 イタリア映画界の新しい巨匠と言うべき存在がパオロ・ソレンティーノ(1970~)と今年「ドッグマン」が公開されたマッテオ・ガローネ(1968~)だろう。ソレンティーノは「グレート・ビューティー/追憶のローマ」でアカデミー賞外国語映画賞を受賞した他、「イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男」(2008)や「グランド・フィナーレ」(2015)などが代表作。いずれも怪優ともいうべきトニ・セルヴィッロが主演している。「グレート・ビューティー」や「グランド・フィナーレ」は驚くべき映像美で世界を見つめる。一方、「イル・ディーヴォ」は汚職まみれの保守政治家アンドレオッティ元首相を描いた。今回の「LORO」は両者の融合で、ベルルスコーニ元首相をテーマにしているが、サルデーニャの映像美も忘れがたい。

 「LORO」の意味が判らないが、プログラムを読んだら「彼ら」という意味だとあった。恐らくはベルルスコーニを取り巻く「彼ら」でもあり、地震被災(2009年のラクイラ地震が描かれる)などを生き延びるイタリア庶民の「彼ら」でもあるだろう。ベルルスコーニと妻のヴェロニカは実在の人物だが、冒頭でほとんどの人物と事件は架空だといったお決まりの断りが出る。ベルルスコーニと言えば、セックススキャンダルと放言汚職、職権乱用、脱税等の疑惑まみれの政治家として悪名高い。失脚中のベルルスコーニに対して、取り巻き連が美女を集めてパーティを開く趣向など興味深く描かれる。
(ベルルスコーニ本人)
 ベルルスコーニは元々イタリアを代表する大実業家だった。建設業界で頭角を現し、その後テレビに進出して全国放送を行う民放を複数所有していた。サッカーのACミランの会長としても知られる。無名の人物が実業界で成功したのは、マフィア資金の洗浄に関わったからだという噂もある。イタリアでは1990年代初期に「政界再編」が行われた。それまでの中道右派、中道左派政権幹部がほとんど汚職に絡んでいたことが暴露され、既成政治家が権力を失った。その時にベルルスコーニが保守派を結集して「フォルツァ・イタリア」(頑張れイタリア)を結成し、政界に進出したのである。

 何回か失脚と復権を繰り返したので、調べてみると4回首相に選出されている。2回と3回は続いているので、実際は2回失脚して2回復権したことになる。最初が1994年5月から95年1月の短期政権。2回目は2001年6月から05年4月。続いて05年4月から06年5月までの5年間の長期政権。これで終わりかと思ったら、2008年5月から2011年11月までの第4次政権が成立した。この間、左派政権と交互に国政を担当したが、内政面では数多くの訴訟で起訴されて対応に追われた。最終的には2011年に未成年者売春罪職権乱用罪で起訴され政界引退を表明した。2013年には議員資格を剥奪されている。ただ子どもを各マスコミの代表にして隠然たる影響力を保持しているとされる。

 そんなベルルスコーニを映画化してしまえるイタリアもすごい。その女性差別的言動や性的スキャンダルなど、ドナルド・トランプのさきがけとも言えるだろうが、むしろ日本人としては田中角栄を思い出させる。今もなお、一種の「人気者」として記憶される「角さん」のような陽性のイメージもこの映画のベルルスコーニに見られる。今もなおベルルスコーニが一定の「人気」を保ち続ける秘密を探る映画でもある。そこがブッシュ(子)政権のチェイニー副大統領を描いた「バイス」と違うところだ。

 「バイス」は政界情報としては興味深いが、政治的メッセージを込めた映画だった。「LORO」は「彼ら」という題名が示すように、もっと複雑な視点を持っている。裸の美女が多数出て来るが、主人公を断罪していないように思われる。セックスシーンも多いけれど、それは注意深くベルルスコーニではない。むしろ映画内でベルルスコーニは振られている。「口のにおいが祖父に似ている」なんて言われちゃって。しかしラストで彼が言うには、「真相は私と彼女の祖父は同じ入れ歯洗浄剤を使っているということだ」。そうかもしれないが、やはり「老い」が彼をむしばんでいる。だからこそ権力に執着もするんだろう。主にサルデーニャ島の別荘にいた時期を扱っていて、その映像の美しさも印象的だった。
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幌尻岳、日高山脈の雄峰ー日本の山⑪

2019年11月24日 22時04分51秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 西日本の山を3回続けたので、もう一回北に戻って山の話。北海道の山には、すでに書いたトムラウシを初め、アイヌ語由来のカタカナ山名が多い。二ペソツウペペサンケペテガリなど独特な語感が旅情を誘うが、アプローチが大変でなかなか行けない。日高山脈の主峰、幌尻岳(2052m)も「ポロ」(おおきな)「シリ」(山)という意味である。火山が多い北海道には珍しく、日高山脈は地殻変動で作られた。厳しい山稜が続いて開発も遅れ、日高山脈襟裳国定公園の指定は1981年だった。
(幌尻岳)
 90年代半ばには毎年のように北海道へ車で行って山へ登っていた時期がある。今までに書いた大雪山利尻山は登ったので、(まだ書いてないけど知床の羅臼岳も行ってるので)ある年いよいよ幌尻岳に登ろうとなった。しかし、これは二度と思い出したくないような大変な山行だった。山登りに来てるんだから、急登やガレ場には文句を言えない。でも登山口までのアプローチが長すぎると嫌になる。幌尻岳は普通、平取町から幌尻山荘まで行くルートが使われる。林道をずっと登って、車を置いて川沿いに沢登りをして山荘まで5時間ぐらい掛かる難ルートである。

 ところが北海道の山を紹介するガイドを見たら、もう一本新冠(にいかっぷ)から登るコースが載っていた。そっちの方が幌尻には直登出来そうで、地図で見ると良さそうな気がした。ところが登り口にある「新冠山荘」まで行くのはこちらでも大変らしい。途中で車は通行止めになり、林道は鎖で閉鎖されている。事前に申し込むと鍵を送ってくれるという。なんかすごいところだなと思ったけど、連絡して鍵を送って貰った。ダムが幾つもあって、恐る恐る狭い林道をゆっくり進む。新冠湖を過ぎると通行止めになる。そこから4時間ぐらい歩いて新冠山荘を目指すのである。
(新冠山荘)
 今調べてみると、この山荘自体は今も手入れされて使えるようだが、台風被害もあってほとんど使われないルートになっているらしい。平取コースも沢登りがすごく大変らしいが、新冠コースも真昼のダラダラ登りが何時間も続くのでウンザリした。北海道とは言え、真夏なんだから暑いのである。それはまあガマンするとして、問題はアブみたいな虫の襲撃。もちろん夏山へ行くんだから、防虫スプレーなど防備はしっかりしていった。それでも数が多すぎるのだ。追い払っても追い払っても、何十匹ものアブが付いてくる。こういう虫には何か存在意義があるのか。絶滅しちゃっても全然惜しくないなんて思うけど、やはり食物連鎖の一環が崩れると環境破壊になるのか。
(幌尻岳テレカ)
 疲れて山荘に着くと、すぐに食べて寝てしまった。もう一つのグループがいて、宴会をやっていたけど知らんぷりしていた。翌朝登り始めるが、コースタイムは3時間ぐらいになってるけど、そんなに簡単じゃなかった。ゆっくり登っていったが、途中で高山植物が美しかったのは記憶にある。でも山頂は覚えてない。山頂についたときは、もう疲れていた。ガイドには戸蔦別岳(とつたべつだけ)へのルート上にある「七つ沼カール」が出てくる。僕らもそっちまで行くのを予定はしていたが、どうも疲れてもういいやと諦めることにした。カールは「圏谷」と言って、氷河に削られたお椀状の谷のこと。写真で見ると素晴らしく美しかったけど、行くことはないだろうな。
(幌尻岳の高山植物)
 それから来た道を降りて山荘へ。置いてあった荷物を持って元来た道を戻る。幌尻湖(ダム)を経て、今度はダラダラ下る。まあ下りになる分ずいぶん楽だけど、やはり虫の襲撃は続くのである。晴れてるのは雨よりいいけど、太陽と虫に参ったなあという下りだ。車にたどり着くと、そこから襟裳岬を目指す。予約したのは襟裳岬の宿。日高には大きな観光ホテルが少なく、襟裳岬まで飛ばした。そこが良かったのでゆっくり休息できたが、登山靴とソックスの間にも虫の死骸がいっぱいあってウンザリした。日高は競走馬の産地として有名で、ドライブしてると牧場風景が美しい。ログハウスに泊まれる日高ケンタッキーファームにも泊まったことがあるが、つぶれてしまった。またドライブしたい場所だ。
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池袋西口野外劇場で「マハーバーラタ」を見る

2019年11月23日 22時45分47秒 | 演劇
 新設された池袋西口野外劇場の「杮落とし」(こけらおとし)公演の「マハーバーラタ~ナラ王の冒険~」を見てきた。「東アジア文化都市2019豊島バージョン」と銘打たれている。「マハーバーラタ」は古代インドの宗教的叙事詩で、「ラーマーヤナ」と並ぶ二大叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典でもある。演出は宮城聰、製作・出演は「SPAC - 静岡県舞台芸術センター」。宮城聰はSPACの芸術総監督で、今までも「マハーバーラタ」を各地で上演してきた。歌舞伎座で新作歌舞伎としてやったこともある。今回は池袋の東京芸術劇場の真ん前に野外劇場が作られ、新たに豊島バージョンとして公演した。

 僕は静岡まで見に行くのが大変なので、宮城君の芝居を最近見てない。(君付けの理由は後述。)それまでの「ク・ナウカ」時代はいくつか見ているけど、久しぶりだから楽しみにして発売日にチケットを買いに行った。また豊島区や芸術劇場にも縁があるから、これは見ておかなくちゃと思った。数日前まで楽しみにしていたのだが、最後になって晴れの天気予報が変わった。午後2時半から入場、3時開演だから、それまでどこ行こうかと計画していたが、昨日からグッと冷え込んだ雨が降っている。もう他に行くのはやめにして、防備をしっかりして臨むことにした。

 お芝居の感想は「面白い」とか「判らない」とかいろいろあるだろうが、今日に限っては一にも二にも「寒かった」。小雨ながら、止むことなく降り続き、気温も低い。予定上演時間は90分なんだけど、それでも1時間が限界かなあ。最後の頃は早く終わってよと願うことしきり。ちょっと前まで、暖かな晴天の日が続いていた。まさか、こんなことになるとは。日本の野外公演といったら、「薪能」やあちこちの「ロックフェスティバル」が思い浮かぶが、やはり夏じゃないと難しいのかと思う。事前にチケットを買う必要を考えると、都市における常設野外劇場は最近の気象状況から難しいなと思った。
(シネリーブル池袋の男子トイレから見る、真ん中の丸い部分)
 「あらすじ」をホームページからコピーすると、こんな感じ。「その美しさで神々をも虜にするダマヤンティ姫が夫に選んだのは、人間の子・ナラ王だった。その結婚を妬んだ悪魔カリの呪いによって、ナラ王は弟との賭博に負け国を手放すことになる。落ちのびていく夫に連れ添おうとしたダマヤンティ。だが疲れて眠っている間に、彼女の衣の切れ端を持ってナラは去る。夫を捜して森をさまようダマヤンティを様々な困難が襲う。行く先々で危機を乗り越えた彼女はやがて父親の治める国へ。一方ナラも数奇な運命を経てその国にたどり着く。果たして夫婦は再会し、国を取り戻すことが出来るのか…。

 円形部分の中に椅子を置いて観客席とする。円形部の上が舞台となり、一周をうまく使った。その下に楽器が置かれて、音楽と演技が一体化している。この構造は面白いけど、周りをさえぎるものは何もなく、向こうに「ビックカメラ池袋西口店」のネオンが見える。宮城聰の舞台は、演技者とセリフが分かれることが多い。つまり、人間で行う文楽(人形浄瑠璃)のような感じ。今回も大部分はそうだけど、重要なところはナラ王やダマヤンティ姫が自ら語る。最初にナラ王とダマヤンティ姫が登場するときは、厳かすぎて「即位の礼」か何かか。ナラ王が賭博で国を失った後はコミカルなやり取りも多い。
(ホームページから)
 大団円でダヤマンティ姫が登場するときは、その神々しい姿が圧倒的だ。演じる美加里の存在感の大きさ。「平安時代の日本にインドの叙事詩『マハーバーラタ』が入ってきたらどういう化学反応が起こったか?」とホームページに演出意図が語られている。話自体は判りやすくなっていて、セリフも口語だから理解出来る。音楽と相まって、祝祭的な交響感覚が場内を覆うはずのところ、ある程度は感じ取れたけど、やっぱり寒いなあという観劇体験だった。

 前に「見田宗介「現代社会はどこに向かうか」を読む」(2018.12.30)で書いたけれど、僕は1980年に見田宗介さんを囲む講座に参加したことがある。その会が終わっても、時々事後の集まりを持っていた。そのメンバーの一人だったのが宮城聰君で、僕の方が少し年長だから当時「君」付けで認識してしまった。当時は東大生で自分の劇団を作ろうとする頃だった。先代の林家正蔵(8代目)が大好きだというのが印象的だった。その後、東大をやめてプロになると宣言した頃からは、集まりにも顔を出してないと思う。ずいぶん活躍してるなと遠くで見てるだけ。

 なお「こけらおとし」とは「新たに建てられた劇場で初めて行われる催し」のことだが、「」(こけら)と「」(かき)は違う字である。旁(つくり)の部分が「こけら」は4画で、「かき」は5画なのである。「こけら」って言うのは、材木を削った際の木片のこと。
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旧芝離宮庭園ー東京の庭園④

2019年11月22日 21時07分25秒 | 東京関東散歩
 「東京の庭園」ミニシリーズの4回目は旧芝離宮庭園浜松町駅から徒歩1分で、駅からすごく近い都立庭園だ。その割に空いていて、お昼時に行ったけど、すごくガラガラだった。実は都立9庭園の中で、ここだけ行ったことがなかった。近くに広大な浜離宮があって、芝離宮は存在感が薄い。浜離宮は25万㎡もあって、4万㎡ほどの芝離宮は小さい感じがしてしまう。しかも周りがグルッと大きなビルになってしまって、囲まれた感じがしてしまうのだ。大きな池を回る池泉回遊式庭園
   
 園内に小高くなった山が作られていて、そこから庭園を見渡せる。そこが見どころだが、面積が小さい割に池が大きいから面白みが少ない。池をグルッと回るだけだし、池を撮ればビルの影が映り込む。これじゃ「インスタ映え」しにくいのかなと思った。日本式庭園は「池泉」が大切だから、水の得られる場所に作られた。今では別荘は高原かなんかに作るが、昔は海や川沿いの低地に作られたことが多い。芝離宮の池はもともとは海水を取り込んだ汐入湖だったが、今は締め切って淡水の池になっている。 
   
 上の写真の1枚目が海水の取水口だったところ。ここは江戸初期の大名庭園で、国の名勝に指定されている。元は埋め立て地で、1678年に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した。幕末には紀州徳川家の屋敷で、明治になって有栖川宮家を経て、明治8年に宮内省が買い上げ、翌年に芝離宮となった。1924年に皇太子(後の昭和天皇)の結婚記念で東京市に「下賜」され、公開された。大名庭園の名残を残す4本の石柱が残っている。大久保忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたものだという。茶室の柱だったらしい。
 
 池に映るビルの影は下の写真を見れば印象的。南に東京ガス、北に汐留ビルがある。すぐ近くに劇団四季自由劇場がある。それより高速道路をはさんで、すぐ隣に都立芝商業高校がある。昔は隣に東京都公文書館があった。そこは研修で行った記憶があるが、そう言えば芝商は行ったことないな。(東京都公文書館は、今は世田谷の元玉川高校校舎に移転している。)
   
 芝離宮庭園は、正式には「恩賜」が庭園に前に入る。岩崎家が東京市に寄付した清澄庭園は「恩賜」が付かない。宮内庁管理の「皇居東御苑」は実は江戸城だが、これはまだ「恩賜」されていないわけだ。皇室から東京市に寄付されたのは戦前のことだから、わざわざ「恩賜」と言い続けるのもどうなんだろうか。国民主権の社会にふさわしくないと思うけど。ここには弓道場もあるが見なかった。曇天の日で、その影響もあってか、池に映るビルばかり印象に残った感じ。
   
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映画「ひとよ」と「閉鎖病棟」

2019年11月21日 23時04分04秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近はシネマヴェーラ渋谷で上映されているフレッド・アステア特集を結構見てた。戦前から戦後直後にアメリカで活躍した俳優だが、タップダンスの神技を見ているとすごく幸せな気分になる。まだまだ続いているが、アステアばかり見ていると新作映画が終わってしまう。近年は日本映画の重厚な作品が秋に公開されることが多い。人気スター目当てに拡大公開されるけど、重い作品はすぐに上映回数が減ってしまう。だから「ひとよ」と「閉鎖病棟」を続けて見てしまうことにした。

 どちらもよく出来ていて、なかなか見応えがある。「ひとよ」は近年好調が続く白石和彌監督で、脚本は白石監督とは「凶悪」などで組んだ高橋泉が手がけている。なんでも原作は劇作家桑原裕子の舞台作品だというが、僕は知らない。地方都市を舞台に、ある家族に降りかかった「犯罪」の行く末をじっくりと見つめてゆく。DVの父親がいて、このままではいられないと思った母がいる。一家はタクシー会社をやっていて、母も運転手だった。子どもを守りたい一心で、母は父親をひき殺して自首する。
(左から佐藤健、松岡茉優、鈴木亮平)
 それから15年。長男大樹鈴木亮平)は電機屋で働き妻子もいるが、うまく行ってない。次男雄二佐藤健)は東京で雑文を書きながら作家になりたいと思っている。一番下の長女園子松岡茉優)は美容師の夢を諦めスナックで働いている。結局「父の暴力」からは逃れられたが、「殺人者の子」を見る「まなざしの暴力」にさらされる日々が始まったのだった。自首前に母は「15年したら戻ってくる」と言い残す。すでに出所して各地で働いていた母こはる田中裕子)が、約束通り戻ってきた…。

 タクシー会社は今も親戚が経営して残っていた。そこに「堂下」(佐々木蔵之介)というマジメな運転手が入社してくる。この堂下の事情が判ってきた頃に、母をめぐる家族の葛藤もピークを迎える。日本は殺人が非常に少ない国だが、起きる殺人の大部分は「家族内犯罪」である。その場合、残された遺族は「犯罪被害者の家族」であり「犯罪加害者の家族」でもある。その二重性の矛盾を若い子どもたちは一心に引き受けて生きなければならなかった。そこに次男が抱える屈託が生まれる。園子が「夢をあきらめないで」(岡村孝子)をスナックで歌うのが切ない。

 日本映画ではあまり描かれたことがない深刻なテーマが心に刺さる。ロケは茨城県で行われ、大洗などの地名が明示される。空を広く映し出す画面が印象的で、人間社会は小さいなという感じを与える。筒井真理子韓英恵など助演陣もいいが、なんと言っても母親の田中裕子がすごい。今さらながらだが、今回も女優賞有力候補だろう。三人の子どもたちは、いずれも熱演している。松岡茉優は何気ない仕草が見事で、やっぱりうまいなと思った。解決しない問題を抱えて生きる人々を描いた力作だ。

 「閉鎖病棟 それぞれの朝」はミステリー作家箒木蓬生(ははきぎ・ほうせい)の山本周五郎賞受賞作の映画化。全く覚えてないけれど、この原作は「いのちの海」(福原進監督、1999)として映画化されたことがあり、今回が2度目の映画化だという。ある精神病院で起こった殺人事件をめぐって展開するが、ミステリーや社会派というよりも「メロドラマ」として進行する。「閉鎖病棟」という題名だが、時代は近年に設定されていて「開放病棟」である。患者たちは許可を受ければ外出も出来て、町に買い物に行くことも出来る。小諸高原病院でロケされ、素晴らしい効果を上げている。

 基本設定が僕にはどうにも理解出来ないけど、それを受け入れてしまえば平山秀幸監督の演出のうまさを味わえる。主人公は梶木秀丸笑福亭鶴瓶)という車いすの老人だが、この人物は死刑囚である。死刑執行に失敗し、精神病院に収容することになった。というんだけど、これは理解出来ない。死刑の実態を無視した設定だし、再審でも恩赦でもない死刑囚が民間の病院にいて自由にしているというのも理解出来ない。八王子の医療刑務所に移送されるんだったらあり得ると思うけど。
 
 まあ、それはともかく、そのように「生きているけど、存在していない」ような秀丸を中心に、病院内の様々な人々が描かれる。特に重要なのが、塚本(綾野剛)、島崎由紀(小松菜奈)である。家族に虐待される由紀に、さらに大きな悲劇が訪れる。その事件をめぐって、秀丸はどういう行動を取ったのか。それがこの映画のメインとなる。そして起訴され裁判になるが…。メロドラマ的には非常に盛り上がるし、「精神病院」の描き方もおかしくない。ただ、「絶対悪」のような存在が現れてきていいのだろうか。「悪」を見つめず、基本的には「善人」の葛藤のみ描いている。そこがメロドラマという理由だが、それでも映画はかなり盛り上がる。「ひとよ」は泣けないけど、こちらは泣かせる。
(上田城ロケで、右から小松菜奈、綾野剛、鶴瓶、板東忠太)
 この映画を支えているのは、小松菜奈の魅力。映画内でも他の患者に「若いのは得」と言われているが、若いと言うより「カワイイ」ということだ。今までの作品以上に演技力を求められる難役だが、説得力ある演技だったと思う。ミステリー的なメロドラマなので、筋は全然書いてないけど、あまり面倒に考えなければ楽しめる出来映えだと思う。でも基本設定がなあ。
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多和田葉子、高瀬アキの「晩秋のカバレット2019」

2019年11月20日 22時50分25秒 | アート
 11月18日に両国のシアターΧ(カイ)で行われた多和田葉子(詩・朗読)、高瀬アキ(ジャズピアノ)の「晩秋のカバレット2019」の「ハムレット・マシーネ 霊話バージョン」というのに行ってきた。一体何なんだか、今ひとつよく判らないながらも、すごく刺激的で面白かった。そもそも「カバレット」って何だ。ウィキペディアを見ると、これは「キャバレー」(cabaret)でフランス語でダンスやコメディショーなどをするレストランやナイトクラブとある。ただドイツ語圏の「das Kabarett」は「文学的なバラエティー・ショー」のことだと出ている。それなら「なるほど」と納得できる。そういう感じの催しだった。
(多和田葉子)
 多和田葉子(1960~)はドイツ在住の作家で、日本語とドイツ語で小説、詩を書いている。1993年に「犬婿入り」で108回芥川賞を受けた。これは非常に面白かったが、その後読んでなかった。この間数多くの賞を受けているが、特に2018年に「献灯使」が全米図書賞を受けたことで、一気に評判が高くなった。一部では次の日本人ノーベル文学賞は多和田葉子だという呼び声も高くなっている。だからという訳でもないんだけど、「きずな」という都の退職会員向け雑誌に割引が載っていたので行ってみることにした。(千円が百円引き。)こんな催しがもう18回も続いているとは全然知らなかった。客席数300ほどだが、補助席まで満員で毎年来ているような人も多いようだった。

 今年は劇作家ハイナー・ミュラー(1929~1995)の「ハムレット・マシーネ」(Die Hamletmaschine)を基にしたものだった。誰?、何それ?という感じだけど、ミュラーはブレヒト以後最も重要な劇作家とウィキペディアに出ていた。東ドイツで活動したが当局と衝突して上演できず、西ドイツに招かれてミュラーブームが起こったという。「ハムレット・マシーネ」(1977)は代表作で、多和田葉子のハンブルク大学での修士論文テーマだった(来春日本で翻訳刊行される)と言っていた。もともと数ページのテクストで、「さまざまテクストからの引用や暗喩を織り交ぜたコラージュ的なモノローグ」なんだという。

 高瀬アキもベルリン在住で、ヨーロッパ各地でジャズや即興音楽で活躍して、多くの賞も受けている。単なる伴奏じゃなくて、お互いに掛け合いで進行するところもある。多和田作品には、言葉遊び的な部分、字や音声からの連想で発想が飛んでいくようなシーンが多いが、今回も「ハムレット・マシーネ」を基にしながらも、自由な詩の朗読として進行した。僕は時々はさまれるドイツ語も判らないし、原作も聞いたことさえなかった。どうにも評価の軸が見つからないんだけど、全然退屈しない。多和田葉子の朗読はきちんと書かれていたものだが、ピアノはほぼ即興だったとトークセッションで語られていた。

 章名だけ書いておくと、「第一章 家庭の事情」「第二章 水入らず」「第三章 美術館にて」「第四章 しゃあしゃあソーシャルメディア」「第五章 母の回収」となる。「ハムレット」を下敷きにしながら、どんどん発想が飛んでいく。「前衛朗読会」であり、多和田葉子、高瀬アキのセッションとも言える。と思ったら後ろの方から歌声が聞こえてくる。何だっけ、どこかで聴いた曲だけど…。パンフをよく見ると、小さな字で「ゲスト オペラ歌手中村まゆみ」と書いてあった。

 曲は「カルメン」と言われて、ああそうかと思った。「ハバネラ」や「闘牛士の歌」などのアリアじゃなくて、「第3幕への間奏曲」だった。言われても判らないかもしれないが、聴けば誰でも知ってる曲だ。最後がビゼーというのも判るようで判らない。結局僕には判らないんだけど、後のトークできちんと判っている人が多くて感心した。多和田さんは「朗読はやめられない趣味」だと言っていた。シアターΧだけじゃなく、早稲田大学やゲーテ・インスティテュートでもやってるらしい。「判らないけど、魂の奥に働きかけられた」感じなので、また今後も行ってみようかなと思った。
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スコセッシ監督「アイリッシュマン」

2019年11月19日 23時09分53秒 |  〃  (新作外国映画)
 マーティン・スコセッシ監督の新作映画「アイリッシュマン」(The Irishman)は、素晴らしい出来映えだ。200分を超える超大作で、演技も撮影も素晴らしい。冒頭の音楽を聞いた瞬間に映画の世界に引きずり込まれる。ダブル主演のロバート・デ・ニーロアル・パチーノに加え、「グッド・フェローズ」でアカデミー助演男優賞のジョー・ペシもいい。脚本のスティーヴン・ザイリアンも「シンドラーのリスト」でアカデミー脚色賞を受賞した他、スコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」などでノミネートされている。監督、脚本、男優3人だけで、何回アカデミー賞にノミネートされているんだろうか。

 しかし、この映画を知らない人はまだ多いだろう。そんな映画ならヒットランキングに出ているかと思うと、それはない。近所のシネコンに行っても、この映画はやってない。東京のミニシアターで限定公開されているだけだ。それというのも、あまりに巨額の製作費に恐れをなして、多くの会社が手を引く中、最終盤になってNetflixが出資して完成したのである。従って、この映画はもうすぐ(11.27)ネット配信される。しかし、僕としては映画はやはり大スクリーンで見たいのである。

 この映画の原作はミステリー作家チャールズ・ブラントのノンフィクションで、ハヤカワNF文庫から上下2巻で刊行されている。この本は実在人物の証言に基づき、「ジミー・ホッファ失踪の真相」を暴いた本である。もっと言えば、自分が殺したという証言である。それが真実のものと認められているか、僕はよく知らない。しかし、この映画は戦後アメリカ社会の暗部を驚くべき迫力で描き出している。ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノの迫力ある対決シーンだけでも、恐るべき迫力に心奪われてしまう。

 この映画に出てくるジミー・ホッファという人物は何者か。かつてジャック・ニコルソンが主演した「ホッファ」(1992)という映画も作られている。簡単に言えば、ホッファは労働組合指導者なんだけど、裏でマフィアとつながっていたことで知られている。1930年代に全米トラック運転手組合(チームスター)に関わり始め、経営者に立ち向かうタフなり-ダーとして頭角を現した。1957年に3代目委員長に就任し、共和党や民主党に並ぶ影響力を誇った。50年代にはエルヴィスと、60年代にはビートルズと人気を競ったと映画内で言われている。それは言い過ぎだろうが、全米で誰もが知る人物だった。
(ジミー・ホッファ)
 ホッファはなぜマフィアと深い関係を持ったのか。経営者がスト破りにギャングを使うのは洋の東西を問わず、ホッファは戦前から逆にマフィアに近づいたらしい。その後自分の勢力拡大にマフィアが有益だと気づいた。特にチームスター年金を一元化したことが大きい。支部ごとにバラバラだった組合年金を本部に統合し、運用を銀行任せにせず自分で行った。当時の銀行はギャンブル業界に融資しなかったため、チームスター年金がラスヴェガスを作ったと言われるらしい。一応運用組織があったが、事実上ホッファが年金を融資していて、マフィア絡みの娯楽施設にどんどん貸してリベートを取っていた。60年大統領選ではニクソンに献金し、ケネディ政権に憎まれ、年金不正、賄賂などで訴追された。結局懲役13年が確定し収監されたが、1971年にニクソン大統領によって特赦された。

 映画はフランク・シーランロバート・デ・ニーロ)の一代記として進行する。若いトラック運転手だったフランクは、車の故障をきっかけにラッセル・ブファリーノジョー・ペシ)と知り合う。何者か判らなかったが、実は近辺のレストランを経営し裏ではマフィアという人物だった。フランクはアイルランド系だったが、イタリア戦線に従軍したためイタリア語が話せた。そのため「ジ・アイリッシュマン」と呼ばれて、仲間として認められて行く。次第に「家のペンキ塗り」(殺し屋の隠語)を任されるようになり、信頼を裏切らない働きをみせる。序盤は若造フランクの出世物語(ギャング界での)である。
(フランクとラッセル)
 その頃身近に信頼できる相手がいなかったジミー・ホッファアル・パチーノ)の元へ、フランクが抜てきされて付きそうようになった。信頼されて、あるチームスター支部の支部長にまで成り上がる。労働組合の話なんだけど、事実上裏でマフィアと話が通じている。政権とのつながりもあり、キューバ革命で失った利権を取り戻そうと動いている。しかし、ロバート・ケネディ司法長官の追求は鋭く、ホッファは下獄することになる。その間は身代わりを立てることになるが、特赦されて出てきてもかつての権勢が戻ってこない。マフィアとしては、何かと口うるさいホッファよりも、操縦しやすい身代わり委員長の方でいいのだ。こうしてホッファとマフィアの対立が深まっていく。
(法廷のホッファ)
 そして1975年7月30日ジミー・ホッファは失踪した。広範な捜査が行われたが、公式には今も真相は不明である。映画で描かれたような事実があったのか。それは判らないが、映画を見る限り「予告された殺人の記録」である。だが、超有名人だったホッファは自分が消されるとは思ってない。フランクは必死に説得するが、聞く耳を持たない。フランクは自分の本籍がマフィアなのだと悟ることになる。冒頭からフランクとラッセルが夫婦共々、結婚式に向かうドライブシーンが続き、その間に過去がはさまれている。次第に事態が見えてきて、緊迫感が高まる。非常に優れたシナリオだと思う。

 世界には未解決の失踪事件がいくつかある。例えば、1967年3月26日にマレーシアで失踪したタイのシルク王ジム・トンプソン。1961年4月21日、ラオスで失踪した参議院議員(戦前の元日本陸軍参謀)辻政信らである。これらは様々な小説や映画などの題材になってきた。アメリカでは、このジミー・ホッファが一番有名で、やはり多くの映画・小説などで触れられている。ただしホッファ事件は国家の謀略ではなく、間違いなくマフィア絡みだろう。この映画(原作)の真実性は判断できないけど、映画としては「アイリッシュマン」が決定打である。スコセッシとしても、「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」を超えるとは言わないが、すごく良いと思う。「沈黙」とは比較出来ないけれど。
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江戸と近代ー清澄白河散歩②

2019年11月17日 22時28分37秒 | 東京関東散歩
 清澄白河近辺には史跡も多いが、特に史跡と言うほどではないけれどムードある建築が豊富で、町並みを見ているだけで散歩が楽しい。古いものと新しいものが同居している。庭園・公園もあって、住んでみたいと思うほどだ。「白河」というのは、江戸時代の老中、白河藩主松平定信から来ている。定信の墓所が霊巌寺(れいがんじ)という寺にある。もっとも地名となったのは昭和の初め頃だという。深川江戸資料館に近いところにあり、多くの人が通っているけど、寺を訪れる人は少ない。
  
 霊巌寺は明暦の大火で、日本橋の霊厳島から移転したという。ここの文化財は、松平家墓所(国史跡)と江戸六地蔵5番目の地蔵菩薩像。定信墓所は近づけないように囲われている。松平定信は寛政の改革を主導した人物で、僕はどうも好きになれない。まあ地名になるほどの知名度はあるということだろう。江戸六地蔵って、全然知らないんだけど、18世紀初頭に作られ5つが現存しているという。
   
 霊厳寺の前は「江戸資料館通り」で、深川めし屋などが並んでいる。資料館そのものは単なるビルだから省略。前に見てるから、見学も略した。清澄白河駅にあった広告で、だいたいこんな展示かと判ると思う。立体的展示が多く、面白いことは面白いけど、まあ何度も見なくてもいいかな。
   
 近代建築で面白いのが「深川図書館」。清澄庭園の裏あたりにある。出来たのは1909年だと言うから、100年を超えている。その後改修はしているようだが、随所にレトロ感覚が残る。階段のステンドグラスも美しい。
  
 もう一つが「清洲寮」。1933年に作られた民間集合住宅で、一階には今はお店も入っているが、上の方は今も貸し部屋になっているようだ。実に不思議な感じだが、清澄白河には合っている。
  
 清澄庭園の周辺は2階建てのレトロなムードの建物が並んでいる。こんな感じ珍しい。
   
 こういう風情ある建物や元工場みたいな懐古物件がこの地区には多い。近くの木場公園に「東京都現代美術館」があることで、ここにもギャラリーが増えてきた。そこに「サードウェーブ」と呼ばれるコーヒー店が集まり、東京でも注目の地区になっている。「第三の波」というのは、アメリカで言われている言葉で、インスタントが第一、スタバなど「シアトル系が第二、コーヒーをワインのように芸術品として品質管理するようなものを第三と呼ぶらしい。一番有名な「ブルーボトルコーヒー」が下の一枚目。混んでたから飲んではいない。昔の清澄庭園の半分は「清澄公園」として開放されている。ここも木が立ち並んで気持ちいい空間。こんな感じが都心に残っていた。
  
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芭蕉のいた町ー清澄白河散歩①

2019年11月17日 20時18分23秒 | 東京関東散歩
 清澄庭園に行ったのをきっかけに、その周辺も歩いてみたくなった。11月上旬のことで、少し時間が経ったけれど、まとめておきたい。清澄白河駅が出来るまで、そういう地名があることもあまり知られていなかった。これは駅近くの地名「清澄」と「白河」をつなげたもの。

 近くを隅田川が流れ、清洲橋が架かっている。駅からちょっと北へ歩くと、小名木川が通っている。これは隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で作られたとされる。江戸の物流を支えた重要河川で、時代小説などによく出てくる。隅田川に一番近い萬年橋(まんねんばし)を北へ渡ると、地名が「常盤」(ときわ)に変わる。萬年橋は江戸時代に掛けられ、北斎や広重の浮世絵に描かれた。木造の橋は関東大震災に耐えたが、1930年に震災復興計画で建て替えられた。
 (今の萬年橋と葛飾北斎「深川萬年橋下」)
 萬年橋を越えると、そこは松尾芭蕉が住んだあたりである。ほんの少し歩くと、左に案内が出てくる。「芭蕉記念館分館」とある方に行くと、途中に小さな「芭蕉稲荷神社」がある。ここが「芭蕉庵」のあったところとされている。別に芭蕉が稲荷になったわけじゃなくて、1917年に地元の人々がその場所に稲荷神社を建立したんだという。「芭蕉案跡」の碑もあるが、本当にここだったのか。まああまり詮索しても仕方ない。今は小さな神社である。(都営新宿線森下駅からも同じぐらいの距離。)
  (稲荷神社、芭蕉庵跡碑、説明板)
 松尾芭蕉はなぜ深川に移り住んだのか。もともと伊賀上野の生まれだった松尾芭蕉(1644~1694)は、仕えていた藤堂家の若君、良忠(俳号蝉吟)のもとで「宗房」を名乗って俳句を始めた。1666年に蝉吟が死去し、芭蕉は仕官を退いた。1672年に句集「貝おほひ」をまとめ評判になり、1675年に江戸へ向かった。江戸では日本橋に住み、神田川の水道工事監督をしながら俳句修行を続けた。こういうような経歴は、今まで若き俳人の苦闘期で、水道工事もアルバイトのように思われていた。それに対し、10月末に新潮文庫で刊行された嵐山光三郎「芭蕉という修羅」は新しい視点を提示している。 

 嵐山著「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」も面白かったので、「芭蕉という修羅」もさっそく読んでみて、なるほどと刺激的だった。伊賀上野は伊勢津藩の支配下にあり、その藤堂家3代目当主藤堂高久は4代将軍家綱の大老酒井忠清の娘を正室としていた。酒井大老は権勢を振るい、藤堂家もその余録に預かる。芭蕉が江戸で有利な「利権」である水道工事に携わったのも、その一つだという。俳句じゃなくて、「水道工事監督」が本職だったのである。1680年に家綱が死んで、弟の綱吉が後継となり酒井大老は罷免される。「越後騒動」など酒井が裁いたお家騒動は再審となる。そのような政界激動を受け、芭蕉も日本橋を引き払い、スポンサーだった杉山杉風の持つ深川の家に身を潜めたのだという。

 その当否は判らないが、深川隠棲は一種の逃避行だったというとらえ方は興味深い。しかし、1882年に「八百屋お七の大火」で芭蕉も焼け出され、甲斐に避難。翌年に戻るも、「野ざらし紀行」の旅に出て、1686年に芭蕉庵で「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を作った。蛙を題材にしたことが新鮮だが、嵐山光三郎が清澄庭園で一日観察していても、池に飛び込む蛙はいなかったという。蛙が水に入るときは、端からそっと入るという。もし飛び込むとすれば、蛇など敵に襲われた時しかないというのである。そうなると、芭蕉が詠んだ蛙も逃げていたのかもしれず、この句の鑑賞にも影響してくる。
   
 芭蕉稲荷神社から川へ向かうと芭蕉記念館分室があり、2階が芭蕉庵史跡展望庭園となっている。芭蕉像が置かれ、川を遠望している。芭蕉像が見ている川の様子が3枚目の写真。そこから川沿いに芭蕉の句の展示が続く。全部載せても仕方ないから「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」。
  
 江東区芭蕉記念館がすぐ近くにある。大通り沿いに入り口があり、川の散歩コースからは入れない。小さな記念館で、別に無理して見なくてもいいと思うけど、深川近辺に芭蕉がいたということは知ってていいかなと思う。ここにも「古池や」の句碑がある。
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日本語の「4技能検定」はいらないの?ー「国語」教育考③

2019年11月15日 22時25分09秒 |  〃 (教育問題一般)
 「国語」教育について、いつまで書いても仕方ないからこれで最後。実は僕が今まで不思議に思っていることがある。
 次の文章は、現行の「学習指導要領」の一部だけど、何の教科(科目)か判るだろうか。 
「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」の指導を通して,次の事項について指導する。

 「話すこと・聞くこと」を最初に持ってきて、いかにも重視している感じだから、きっとこれは英語(外国語)じゃないかと思うと違う。これは「国語」の必履修科目の「国語総合」の一部である。(一部って言うのは、このように具体的に一文の中に「4技能」が出てくるところを見つけて引用したもの。)
(現行の学習指導要領「国語」)
 外国語(英語)の必履修科目「コミュニケーション英語基礎」の学習指導要領は以下の通り。
 「英語を通じて,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに,聞くこと,話すこと,読むこと,書くことなどの基礎的な能力を養う。」

 「学習指導要領」は文部科学大臣の「告示」に過ぎず、国会で議決されたものではない。しかし最高裁判決で「法的性格」を持つとされた。そのことが多くの問題を生んできたし、ずいぶん前の最高裁判決そのものを問い直す必要もあると思う。でも今はそのことは置いといて、高校では必ず英語の「4技能」を養わないといけないわけである。法的性格の文書にそう書いてあるんだから。

 だから、大学入試でも「4技能」を問う必要がある。しかし、大量の人数を扱う入試で「話す力」を測るのは難しいから、民間試験の検定等を受けなければいけないということにした。それが「英語民間試験問題」の構図である。それだったら、なんで「国語の4技能検定」は要らないのだろうか。だって、同じく必修の「国語総合」に4技能を養うと明記されているんだから、大学入試で国語の4技能を測らなくていいのか。なんで英語だけ検定を受けないといけないの?

 僕は別に「日本語4技能検定」をやれって言ってるわけじゃない。英語ばっかり言われているけど、学習指導要領だけを見る限り「国語」も4技能を養うとされていることと整合性があるのかと言いたいだけ。英語も国語もやらなくていいと思う。ただ不思議なことがある。「国語」でもいくつかも「検定」がある。一番有名なのが「漢字検定」だろう。そのほかにもいろいろあって、「日本語検定」というのもある。この二つは「漢検」「語検」と呼ばれている。他にも山のようにあるけれど、話す力を見る「日本語能力検定」は外国人向けで日本語母語者を対象にしていない。

 日本語の「話す力」は最近あまり重視されてないんじゃないか。昔は実際会って話をし、その後は電話で話すようになり、それからパソコン等でメールを送る。今は身近な間柄では「Eメール」さえ使わず、各種SNSで連絡し合うのが普通だろう。学校でも「弁論大会」なんて行事もあまり行われていないんじゃないだろうか。そういうことを考えると、検定で測定するのは難しいだろうけど、「新聞の社説を読んで内容をまとめて発表する」ぐらいは学校でやらないとまずいかもしれない。テレビで国会中継を見ていても、内容以前に「かみ合わない応答」が多すぎる。本当は選挙立候補に際して、漢字検定、日本語検定などを義務づけてみたい気もしてくる。
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「国語」から「日本語」へー「国語」教育考②

2019年11月14日 22時54分27秒 |  〃 (教育行政)
 高校国語の新指導要領について書いたから、ついでに今まで「国語」に関して思っていたことを書いておきたい。サブタイトルに「国語」とカッコを付けている。「国語」って何だろうか? 国語、数学、英語をよく「主要3教科」などと呼び、「国数英」(あるいは英数国)と略している。「」は理解出来る。確かに「数の勉強」だ。でも「」というのは何だ。「国」の勉強なのだろうか。もちろん違う。「国語」の「」の方の勉強なのである。そして、その「語」とは「日本語」に他ならない。

 じゃあ、なぜ「国」を付けるのだろうか。自分たちが所属している国だけが国家ではない。世界には200近く国家が存在する。その中には「国家」と「言語」が違っている国も多い。(スイスには4つの公用語があるし、ベルギーはオランダ語圏とフランス語圏に分かれている。一方、ドイツオーストリアは同じくドイツ語を公用語としている、など。)日本では「国家の成員」がほぼ「日本語」を話すからといって、それを「国語」と言ってしまっていのだろうか。それは「国家の言葉」という「正しい言語」を上から押しつけるということにつながらないだろうか。そして、そのことを私たちはどの程度自覚しているだろうか。

 「国語」という言葉がいつから教育で使われているのか、僕はよく知らない。「国語」という言葉は明治になって出来た言葉だが、学校の「教科」に使われたのはいつからだろう。1941年に「国民学校令」が出され、小学校が「国民学校」に改称された。その時の初等科(小学校)の教科は4つだった。「国民科」「理数科」「体練科」「芸能科」である。そして「国民科」の中に、科目として「修身」「国語」「国史」「地理」があった。このように「国語」というのは、「修身」や「国史」と並ぶような言葉だったのである。

 「国史」とは、まあ「日本史」だが「日本国の歴史」=「天皇家の歴史」であり、歴代天皇の名前を暗記するのが重要だった。戦後の高校の学習指導要領を調べてみると、当初は「国史」とされていたが、1951年には「日本史」と名前が変わった。歴史教育においては、「国史」という言葉への問題意識があったわけだ。それに対して「国語」の方はあまり意識されずに今まで続いている。

 東京大学文学部の学科名を調べてみる。1890年に京都大学が出来るまで日本に大学は一つだから、ただの「帝国大学」と言っていた。1887年段階の学科として「和文学科」や「史学科」があった。1897年に「東京帝国大学文科大学」と名前が変わり、1910年に「3学科19専修学科」となり、その専修の中に「国史学」「国文学」という表現が出てくる。1919年に東京大学文学部となった時点で、正式に「国史学科」「国文学科」が誕生した。戦後になって1949年に新制大学に代わった時も、引き続き「国史学」「国文学」となっていた。この言葉は東大紛争を超えて生き残り、1994年になってようやく「国史学」を「日本史学」に、「国語学、国文学」を「日本語・日本文学」に変更されたのである。(東大HPより。)

 2004年になって、「国語学会」が「日本語学会」に改称された。教育界だけが取り残されている。「日本語 教育」の検索では、「日本語教育とは日本語を話せない外国人向け」といった説明も出てくる。一方「国語」とは「日本語が母語であることを前提にした日本語教育」なんだという。しかしこれは詭弁だろう。「国語」という以上、「国家」を前提にしている。世界の多くの言語の中の一つを深く学ぶという視角がなくなってしまう。まあ「日本語」と変えても「日本を超えられない」とか言う人もいるかもしれない。それでも「国家」をまず意識するのが先決だろう。

 日本語が母語である人は、難しい四字熟語なんかは知らなくても、日常会話なんかは苦労せずに出来ると思い込んでいる。そのため「会話のスキル」を意識することもなくなる。世界の言語の中で、日本語がどのような特徴があり、他言語とどう違っているのか。そういうことをほとんど教えないまま、「英語が出来ないのは英語教育がおかしい」とか言っている。「国語」という教科名を疑うところから、「外国語教育のあり方」を考えていくべきじゃないだろうか。
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文学は教育に必要か-「国語」教育考①

2019年11月13日 22時48分50秒 |  〃 (教育行政)
 自分の教科(社会科、あるいは地理歴史)でもないのに、英語について何回か書いたことがある。それは「英語教育問題」が「教育改革(改悪)」の象徴のように扱われてきたからだ。本来、他教科に口を出す能力もないし、その気もない。しかし、今度は「国語教育」について書きたいと思う。2018年に発表された高校の新学習指導要領が「文学軽視」と大きな問題になっている。この新指導要領は2022年から実施予定だが、地理歴史・公民科にも相当大きな問題があるように思う。

 あまり細かいことを書いても仕方ないけど、一応簡単に説明。現行要領では「国語総合」(4単位)が必履修で、他に「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」(4)、「古典A」(2)、「古典B」(4)がある。

 新要領では「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必履修で、他に「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」(各4単位)が置かれる。このうち「現代の国語」は「実社会で必要な議論や討議、説明資料をまとめる活動」で、「言語文化」は「上代から近現代に受け継がれた日本の言語文化」を学ぶ。今まで国語では文学作品の読解が多かった印象があるが、新要領になると高校生が文学作品を深く触れる機会がなくなってしまうと危惧されているわけだ。

 最近は単位制高校も増えて、必履修科目がほとんど2単位ものである。「数学Ⅰ」と「英語コミュニケーションⅠ」は3単位(2単位まで減可)とされているだけだ。3年間(または定時制4年間)で国語が必修4単位だけということはない。だが、残りが皆4単位ものとなると、進路活動への効果も考えて「論理国語」や「国語表現」を置く学校が多いだろうと思う。確かに「文学」に触れる機会が少なくなるのは間違いない。それで良いという考えもあるだろう。「イマドキの高校生」には大人ともきちんと「話が通じる」基本的スキルを養うのが第一だというのも判らないでもない。

 そもそも何でこのような指導要領になるんだろう。それは「公民」科で「現代社会」をなくして「公共」という新科目を作る。英語では「話す力」を重視する。そういうのと通底する流れを感じる。要するに財界からの要望で「使える人材」を作れということだ。もう一つ「言語文化」が必履修なのは、「日本の伝統文化」偏重という視点で理解出来ると思う。近年の(特に安倍内閣における)教育政策は、新自由主義(経済界)と国家主義(右派勢力)の双方を混ぜ合わせたものと考えれば判ることが多い。

 結論から書くと、僕はやはり若い世代に「文学の読み方」を伝えるのは非常に大事なことだと思う。もちろん「契約」など実社会の「論理的文章」も使いこなせないといけない。それは前提である。「論理的文章」が今の子どもたちには通じないと嘆く人も多いだろう。スマホニュースならまだしもいい方で、電車の吊り広告で見ただけの週刊誌の見出しで「世界を理解したつもり」の人だって多いと思う。実は老若を問わず、読み書きで困る人も多いのが実情だ。運転免許の試験で苦労したり、福祉や年金の書類が理解出来ない人もいると思う。高校生なんだから、最低限新聞ぐらいちゃんと読めないと。

 もちろん「論理言語」は大事なんだけど、「実社会」ではそれでいいかもしれないが、実は我々の言語活動はむしろ「非論理的言語」によっていることが多い。家族間のコミュニケーションは大体そっちだ。地球温暖化や憲法改正問題を議論する家庭はほとんどないだろうし、子どもの進路問題だってきちんと話そうと思いつつ、多忙を理由にちゃんと向き合っていないことも多いはず。家庭では人間は言語だけではない、「顔色」や「しぐさ」などでコミュニケーションを取っている。仕事は出来る人間なのに、家庭内ではコミュニケーションが取れない人もいる。

 子どもや老人が発する「非言語的コミュニケーション」を理解することの大切さ。これは今後ますます我々に必要になってくる。それは「文学」の領域だ。文学では「言外の意味」「余韻」を生かすことが大切だからである。言語だけでなく、本当は演劇レッスン映像作品製作なども役に立つ。それが「国語」科で扱うべきかは判らないけど。(むしろ新教科を考えるべきなのかもしれない。)

 ここで最近読んだ本を挙げて終わりにしたい。直木賞受賞作の荻原浩「海の見える理髪店」と芥川賞受賞作の滝口悠生「死んでいない者」である。「大衆文学」と「純文学」の違いもよく判るだろう。どっちも「家族」をテーマにしている。書かれていないことをどう理解するか、それが文学では問われる。
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