詩人の谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)が2024年11月12日に死去、92歳。読み方は「たにかわ」で濁らない。「たにがわ」と濁る名前もあるので、僕も今まで間違って読んでいた。Wikipediaには「詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家」と出ているが、別の仕事も詩人の延長である。何しろ詩集だけでも100冊以上、絵本も同じく100冊以上ある。年平均2冊以上出してきたのである。大学教授にも小説家にもならず、一貫して詩人として生きたのだが、そんな人は他に思い浮かばない。中国人の谷川研究者である田原(ティアン・ユアン)によれば、世界的に読まれている日本の詩人は松尾芭蕉と谷川俊太郎だけということだ。
僕は今まであまり谷川俊太郎を読んで来なかった。今回読んでみようと思ったのだが、何を読めばいいか。岩波文庫に『自選谷川俊太郎詩集』があるが、本屋になかった。他に何かあるかなと思ったら、集英社文庫に先の中国人研究者田原の編で『谷川俊太郎詩選集』が4冊あることに気付いた。2005年に3冊出て、その後書いた分を2016年にまとめた。集英社文庫にはその他『二十億光年の孤独』他詩集がいくつも入っている。今まで気付かなかったが、ちゃんと読むならまず集英社文庫を探してみるべきだろう。そういうことをしているとお金もヒマもかかるんだけど、読んだだけの収穫は得られたと思う。
谷川俊太郎は父谷川徹三と母多喜子の一人っ子として生まれた。谷川徹三は1963年から65年にかけて法政大学総長を務めた哲学者で、芸術院会員にもなった人物である。生前は非常に有名な人だったが、今では数多い著作を読む人も少ないだろう。母親は衆議院議員長田桃蔵という人の娘で、この母方の祖父が孫を見たいと強く望んだため俊太郎が生まれたという。谷川徹三夫妻は特に子どもが欲しくなかったらしく、戦前には珍しく一人っ子として育った。そして父親は北軽井沢の大学村に別荘を所有していた。
それは草軽電鉄が所有していた土地を法政大学関連人物に売った別荘地である。野上豊一郎・弥生子夫妻を中心に、法政以外でも気に入った岩波茂雄、安倍能成、田辺元、岸田国士など当時のそうそうたる文化人が購入していた。谷川俊太郎は東京生まれだが、浅間山麓の雄大な大自然に親しんで育った。このことが俊太郎少年を「詩人」にした最大の要因だろう。後に最初の妻となる岸田衿子(詩人)は劇作家岸田国士の長女なので、実は幼なじみだったのである。
1944年に豊多摩中学に入学したが、もう戦時下。直接の被害にはあわなかったが、空襲を体験し死体を見ている。一端母の実家淀に疎開して終戦を迎え、元の豊多摩中学(1948年に新制都立第十三高校、1950年に豊多摩高校)に復学した。しかし、勉強の意味を見出せず、不登校になり教師とも衝突した。大学進学の意欲もなくなり、定時制に転学して1950年にようやく卒業した。しかし、ほとんど「引きこもり」である。家で模型飛行機やラジオを作るかたわら、詩作に熱中した。
父親も心配したため、俊太郎は詩作のノートを見せた。どうせ子どもの遊び程度と考えていた父は、そのノートを見て才能を感じ、友人の三好達治に見せた。三好は大いに興奮して、三好の序文付きで6編が『文學界』に掲載されるという幸運なデビューとなった。そのノートは刊行の予定だったが、版元が倒産。父親が原版を買い取って自費出版的に出版されたのが『二十億年の孤独』である。1952年のことで、これは石原慎太郎や大江健三郎より数年早かった。この詩集は今読んでも「若書きの懐かしさ」にあふれた作品が多く、才能が感じられる。しかし、父なくして幸運なデビューはなかったのである。
50年代に一時誌誌『櫂』(かい)に参加したが、生涯のほとんどはどの流派にも参加せず、一人で詩作を続けた。それも平明な言葉でつづられ「人生」を考えるような詩が多かった。およそあらゆる方法、形式の現代詩を書いたが、「天成の詩人」と呼ぶしかなく、言葉が自在に操られている。長編小説は書けないと自分で言っていて、詩もそんなに長くないものが多い。そういうタイプの詩人だったのである。そこで僕が何で谷川俊太郎をあまり読んでこなかったかも判明する。僕は若い頃に結構日本の現代詩人を読んでいたが、同じ「櫂」同人の大岡信、茨木のり子、吉野弘、川崎洋などの方が手法的にも内容的にも興味深かったのだ。
谷川俊太郎が一番輝いていたのは、70年代から80年代頃だと思う。向かうところ敵なしの感じで、詩作や翻訳を多数出版した。1975年に対照的な『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』と『定義』を刊行して大評判となり、僕も珍しく現代詩集を買って読んだ。同じ年から「マザーグース」の翻訳もしている。その2年前には絵本『ことばあそびうた』が大評判になっていた。「かっぱかっぱらった かっぱらっぱかっぱらった」で始まる詩は有名だろう。このように「ナンセンス」を積極的に再評価したのも時代風潮にあっていた。意味のあるもの、ないものにこだわらず、日本語表現の幅を大きく広げた詩人だ。
こうして書いていると終わらない。僕が特に初期のことを書いたのは、「詩人」の出発地を確認したかったからだ。デビュー作に「孤独」とあるが、これは社会的な孤立、差別などではなく、夢想好きな少年の「宇宙的規模」の観念的孤独である。それを自分でも認めているが、社会が大きく変わってもコスモロジカル(宇宙的)な孤独感は今も生き生きと通じるのだ。「社会派」的作風の詩を書けない谷川俊太郎だからこそ、「言葉遊び」などが現代の若者にも受けるのと同様である。
代表作を挙げるとさらに長くなるので控える。好き嫌いもあるだろうが、僕は冒頭に書いた「詩選集」では第2巻(1975~88)あたりが一番輝いていたのではないかと思う。もっともそれは僕の「青春」と同時代だからこそ、そう感じてしまうのかもしれない。長男の谷川賢作は「父は『かがやく宇宙の微塵(みじん)』になったのではないか」と述べている(朝日新聞)。この言葉は宮澤賢治の『農民芸術概論綱要』にあるものだが、本人も21世紀に書いた「私」という詩の中で「私も「私」も〈かがやく宇宙の微塵〉となった」と書いている。なお、「私は母によって生まれた私/「私」は言語によって生まれた私」と書いている。
2024年はフォークシンガー高石ともやも亡くなった年になった。高石ともやが谷川俊太郎の詩に曲を付けた『あわてなさんな』というCDがあって、かつて高石ともや年忘れコンサートのゲストに谷川俊太郎が登場したことがあった。谷川俊太郎本人を見たただ一回の体験。そのCDにある谷川俊太郎の詩『じゃあね』を一部紹介したい。
「忘れちゃっておくれ/あの日のこと/くやしかったあの日のこと/けれどもそれももう過ぎ去って/じゃあね/じゃあね/
年をとるのはこわいけど/ぼくにはぼくの日々がある/いつか夜明けの夢のはざまで/また会うこともあるかもしれない/じゃあね /もうふり返らなくてもいいんだよ/さよならよりもきっぱりと/じゃあね」