2024年12月の訃報、日本の政治・経済関係を中心に。読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄が12月19日死去、98歳。中曽根康弘元首相が2019年に101歳で死んだあと、僕は時々「ナベツネはいつまで生きるのか」と思うことがあった。100歳には届かなかったが、十分長生きした。最初に書いた長い肩書きにあるように、最後まで「代表取締役」兼「主筆」であり続けた。これは他の新聞社ではあり得ないし、むしろあってはならないことだろう。それを言えば、そもそもジャーナリストは「文化」だと思うが、「ナベツネ」は自ら政治のプレーヤーだったので、ここで書くわけだ。マスコミ人としては異例の人だった。
1945年東京帝大入学後に、陸軍に召集された。復員後に東大に復学、今度は共産党に入党した。活動に疑問を持ち1947年末に離党(除名)したが、この両方の体験から「反軍」「反共」という「ナベツネ」の信念が作られた。21世紀になって、小泉首相が靖国神社に公式参拝したとき、それまでの「保守」「自民党寄り」のイメージを覆すかのような激しい批判を繰り広げた。それを「ナベツネの本質は硬骨のリベラリストだった」と論じる人がいる。しかし、僕は全く同感出来ない。(大体、今まで読売の主張に賛同してきた「保守」陣営に同調した人がいないではないか。仲間内を説得できなかったのである。)
「リベラリスム」(自由主義)とは、その主張内容の以前に「常日頃のふるまい」で判断されなくてはならない。読売新聞はもともと保守的ではあった(社主の正力松太郎は自民党議員だった)が、それでもある時期までは「庶民派」風のところがあり、反骨の記者も多かった。それが「ナベツネ」が実権を握るにつれ、全く異論を許さない体制が作られたのである。自ら「独裁者」を任じていたぐらいである。この人の下では仕事が出来ないと思わせる「リベラリスト」はあり得ないだろう。
1950年に読売新聞に入社、「週刊読売」を経て政治部記者となった。自民党の有力者だった大野伴睦の「番記者」となり、信頼されて総裁選やポスト交渉まで任された。その後、まだ若手だった中曽根康弘と懇意となり、裏の仕事も手伝うようになる。内閣や議員のゴーストライターを務めたりしていたので、「新聞記者」を越えた「政治屋」だったと言うべきだろう。「昔はそんなことが許された良き時代だったのか」という問題ではない。記者が自ら大臣ポストを交渉するなど、当時でもアウトだろう。「英雄伝説」にしてはいけないと思うが、他には誰もマネ出来ない戦後ただ一人の怪物的人間ではあった。
ホントはプロ野球(1リーグ制をめぐる問題)やサッカー(Jリーグの理念をめぐる)の話が残されているが、それはよく言われているので省略したい。中公文庫に『渡辺恒雄回顧録』(伊藤隆、御厨貴、飯尾潤)という本が入っている。なかなか興味深い聞き書きだと思うが、結構高いし(1362円)読まなくいいやと放ってある。きっと面白いと思うんだけど。
軽自動車で知られる「スズキ」の相談役(元会長兼社長)鈴木修が12月25日死去、94歳。もともと銀行員だったが、2代目の鈴木俊三氏の女婿となり、1958年に鈴木自動車工業に入社した。1978年に社長就任後すぐに発売された軽自動車アルトがヒットし、「軽自動車」のスズキというブランドを確立した。またインド政府の要請に応えて1981年に進出し、インドの経済成長とともに日本を上回る販売数を記録するまでに育てた。後継者と見込んだ女婿小野浩孝(元経産省課長)が2007年に先に亡くなるなど不運もあって、2008年に会長兼社長に復帰した。(2015年に長男に譲る。)徹底した現場主義を貫いて、家業の「中小企業」を世界的企業に育てた実業家だった。静岡県(特に浜松市)に大きな政治、経済的影響力を持っていた人である。
JR東海初代社長を務めた須田寛が12月13日に死去した。僕はこの人のことを知らなかったが、非常に興味深い人である。引退後の2007年から15年間「鉄道友の会」会長を務めるなど、経営者という以上に「鉄道ファン」という面があった。新幹線建設に深く関わり思い入れも強かったようで著書も多い。いわゆる「改革派」ではなく、性急な分割民営化には疑問を持っていたので、自分が初代社長になるとは思っていなかったそうである。「シルバーシート」「青春18きっぷ」「ホームライナー」「オレンジカード」などの企画に関わった。また「のぞみ」の投入や品川新駅の設置など新幹線の利便性向上を実施した。社長就任直後に「シンデレラ・エクスプレス」のCMが始まり、大きな話題となった。2021年までJR東海相談役を務めていた。
元高島屋常務の石原一子(いしはら・いちこ)が12月1日死去、100歳。この人も長生きによって忘れられたかも知れない。同族経営を別にして、「東証1部上場企業初の女性役員」だった人である。1952年に東京商科大学(現一橋大)を卒業し、男女同一賃金だった高島屋に入社、二児を育てながら1979年に取締役になり広報室長についた。1987年に退社し、多くの会社や団体に関わり、女性経営者育成に務めた。Wikipediaには国立市のマンション景観問題で、環境を考える会代表を担ったと出ている。
元最高裁長官の山口繁が11月27日死去、92歳。福岡高裁長官から1997年に最高裁裁判官に就任、同年秋から2002年まで5年間長官を務めた。2002年の郵便法事件で、大法廷で違憲判決を言い渡した。2015年には当時審議されていた「安保法制」について、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲だと述べたことで知られる。
元秋田県横手市長の千田謙蔵(ちだ・けんぞう)が12月20日死去、93歳。この人は1952年に起きた「東大ポポロ事件」の被告として知られていた。学生劇団「ポポロ」の上演中、私服警官を見つけた学生らが警察手帳を取り上げるなど吊るし上げた事件である。「大学の自治」が争点となったが、1972年に有罪確定。しかし、千田は故郷の横手に戻って1959年に27歳で市議(社会党)に当選して3期務めた。1971年には市長に当選し、根強い人気に支えられ5期20年間務めた。その間、市民参加や暮らしと健康を守る市政を掲げて活動した。引退後も自治や平和運動に尽力した。
「原爆乙女」として知られた笹森恵子が12月15日、カリフォルニアで死去、92歳。13歳で被爆し、大きなケロイドを負って自由に指や首を動かせなくなった。1955年にアメリカの慈善団体の招きにより、渡米して治療を受ける「原爆乙女」の一人となった。その後アメリカで看護師となり、被爆体験を語り平和を訴える活動を行った。
・社会学者の打越正行(うちこし・まさゆき)が9日死去、45歳。『ヤンキーと地元』で知られる。
・少女画で知られた少女漫画家高橋真琴が11月17日に死去、90歳。イラストレーターとして大きな瞳の少女が人気を得た。男性。また漫画家の森田拳次が23日死去、85歳。『丸出だめ夫』で知られた。漫画評論家の村上知彦が22日死去、73歳。
・映画美術家の小池直美が11月29日死去、75歳。相米慎二監督『ションベンライダー』『魚影の群れ』、滝田洋二郎監督『おくりびと』などを担当した。
・バスケットボール女子の強豪校として知られる愛知県の桜花学園の監督、井上真一が12月31日死去、78歳。全国高校総体で25回、全国高校選手権で24回の優勝を記録。日本代表で活躍する多くの選手を指導した。