尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

田中美津、竹本信弘、荒井献、伊藤隆他ー2024年8月の訃報③

2024年09月08日 21時32分23秒 | 追悼
 1970年代前半の「ウーマンリブ」運動の中心だった女性運動家、鍼灸師の田中美津が7日死去、81歳。60年代末にベトナム反戦運動に関わるようになり、本郷三丁目の自宅が東大闘争活動家のアジト化した。活動家の男性を見て失望し、「女性解放」という問題意識を持ち、1970年8月、「女性解放連絡会準備会」を結成。10月21日の国際反戦デーで女性だけのデモを行い、「便所からの解放」というビラを配った。同年「ぐるーぷ闘うおんな」を結成。これらの活動は現代フェミニズム運動の出発点とされる。75年の「国際婦人年メキシコ会議」に出席するためメキシコに赴き、そのまま4年滞在した。帰国後、鍼灸学校に通い、82年から新宿で鍼灸師を続けた。そのことも含めて、同時代の女性の生き方に大きな影響を与えてきた。著書に『いのちの女たちへ』(1972)や『自分で治す冷え性』(1995)など。ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(2019)がある(追悼上映あり)。
(田中美津)(昔)
 1970年前後に新左翼の理論家滝田修のペンネームで「過激派の教祖」と呼ばれた竹本信弘が7月14日に死去、84歳。8月に報道された。京都大学で思想史を専攻し、1967年に京大経済学部助手となった。暴力革命論を展開し当時学生たちに影響を与えたと言われる。1971年8月に起こった「朝霞自衛官殺害事件」(「赤衛軍事件」)の首謀者とされ、1972年1月9日に指名手配されたが、竹本は不当な濡れ衣を晴らす義務はないとして、以後「潜行」生活に入った。この事件は川本三郎『マイ・バック・ページ』の事件だが、実行犯Kは「虚言癖」があり供述には問題があると言われていた。
(竹本信弘=滝田修)
 僕が知っているのはその「潜行」報道からで、1974年には潜行しながら本も出し「不在の存在感」があった。後になって土本典昭監督の記録映画『パルチザン前史』を見て、これが滝田修かと感慨があった。10年以上も潜行したが1982年8月8日に逮捕され、裁判では無罪を主張するも1989年に幇助罪で懲役5年の判決が出た。未決勾留の方が長いので直ちに釈放され、同年『滝田修解体』を出版して過去を否定した。調べてみると2018年に『今上天皇の祈りに学ぶ』という本を出していて、この人も結局「転向」したのかと思った。何故出頭して裁判闘争を行わなかったのか、僕は昔から疑問に思っている。
(映画『パルチザン前史』) 
 新約聖書研究の第一人者荒井献(あらい・ささぐ)が16日死去、94歳。原始キリスト教史や新約聖書学が専門で、聖書の歴史的研究を行った。東大名誉教授、学士院会員。イエスの実像を探る研究は多くの人に影響を与え、特に1973年の岩波新書『イエスとその時代』は僕も刺激を受けた。『原始キリスト教とグノーシス主義』(1971)で学士院賞。専門研究は奥深いが、イエスやユダを論じた一般書は現代思想として読まれた。なお、2010年に亡くなった夫人の荒井英子氏は『ハンセン病とキリスト教』(1996)などの著書があり、以前『小島の春』の映画上映と荒井英子さん講演会を企画した思い出がある。
(荒井献)
 歴史学者の伊藤隆が19日死去、91歳。日本近現代政治史専攻、東大名誉教授。保守系論客として知られ、「新しい歴史教科書をつくる会」理事となり、分裂後は「日本教育再生機構」に参加し育鵬社教科書の執筆代表者となった。この人に関しては、2015年に中公新書の書評『伊藤隆「歴史と私」を読む』を書いた。若い頃から立場が違うけど、史料発掘の業績は大きい。その本でもいかに昔の政治家の文書を見つけるかが大変に面白かった。また「オーラル・ヒストリー」の開拓者としての業績もある。70年代には戦前の日本政治史を「ファシズム」ととらえることに疑問を表明し論争となった。その問題については思うところもあるが、ここでは触れないことにする。伊藤史観が定説となったわけではないだろう。
(伊藤隆)
 7月29日に世界第2位の高峰K2(パキスタン、8611m)で山岳カメラマン、クライマーの平出和也(ひらいで・かずや、45歳)と中島健郎(なかじま・けんろう、39歳)が滑落した。この事故に関して、8月22日二人が所属する「石井スポーツ」が「生死を確認できない」ものの、「追悼の意を表する」と死亡と認識する報告を発表した。二人とも「世界最強」と言われるクライマーで、少人数で荷物を軽量化してスピーディーに行動する「アルパインスタイル」で、数々の未踏ルートを登ってきた。「登山界のアカデミー賞」と言われるフランスのピオレドールを平出は日本人最多の3回、中島も2回受賞している。
(左=平出和也、右=中島健郎)
・元プロ野球選手の宅和本司(たくわ・もとじ)が4日死去、89歳。1954年に何回に入団し26勝9敗、防御率1.58、275奪三振で、新人王と投手三冠に輝いた。翌年も24勝11敗で最多勝。その後近鉄を経て61年引退。通算成績は56勝26敗なので、ほぼ最初の2年だけの活躍だった。また元大相撲の小結千代天山が28日死去、48歳。99年に入幕し、連続3場所で三賞を受賞したことで知られる。99年名古屋場所で新小結となるがケガでその後は活躍出来なかった。
・在外被爆者救援に取り組んだ森田隆が12日死去、100歳。広島の被爆者だが、56年ブラジルに移住。日本では原爆手帳が支給されていると知り、84年に「在ブラジル原爆被爆者協会」を設立した。自伝『広島からの最後のメッセージ』(2017)がある。また広島の被爆者で原爆死没者名簿の記帳を約40年間続けた池亀和子が16日死去、82歳。
・沖縄戦研究で知られた元沖縄国際大教授、吉浜忍が23日(訃報発表日)までに死去、74歳。2戦争遺跡の文化財指定に取り組むとともに大学に「沖縄戦」の科目を新設した。2017年に『沖縄の戦争遺跡』を出版した。
・「シャトレーゼ」創設者の斉藤博が10日死去、90歳。1954年に山梨県甲府市で菓子販売業を始め、67年に合併してシャトレーゼとなった。
・前島根県知事での溝口善兵衛が20日死去。財務官時代は「ミスター・ドル」と呼ばれた。07年から3期島根県知事。
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桂米丸、新川和江、田名網敬一、松岡正剛他ー2024年8月の訃報②

2024年09月07日 21時54分46秒 | 追悼
 2024年8月の訃報。日本人は芸能、文学、アート関係などを最初に書き、学者や社会運動、その他の人を2回目に。僕には何と言っても高石ともやさんの訃報に大きな衝撃を受けた。

 落語家で元落語芸術協会会長の4代目桂米丸(かつら・よねまる)が1日に死去、99歳。この年齢には驚くが、引退していたわけではない。2019年9月が最後の高座(新宿末廣亭)で、90歳を過ぎても寄席に出ていた。しかも自作の新作落語で皆を笑わせていたのである。僕は何度も聴いていて元気な人だなと思っていたが、コロナを機に見なくなった。1961年から75年まで続いたテレビ番組「日曜演芸会」で司会をしていたので、多くの人に知られていた。また1976年に芸術協会会長となり、77年の法人化(落語芸術協会)後も99年まで23年間にわたって会長を務めた。1946年に古今亭今輔に入門して1949年に桂米丸を襲名。弟子の桂歌丸が先に亡くなったが、他の弟子に桂米助(ヨネスケ)や桂幸丸桂竹丸桂米福などがいる。新作を作り続けた情熱が凄い。
(桂米丸)
 詩人の新川和江が10日死去、95歳。僕はほとんど読んでなくて、茨城県結城市出身とも知らなかった。疎開してきた西条八十に詩を学んだというから創作歴が長い。1953年に第一詩集『睡り椅子』を発表以来、多数の詩集を刊行し現代詩人賞、歴程賞など多くの受賞歴がある。83年に吉原幸子とともに季刊雑誌「ラ・メール」を創刊して女性詩人を育てた。代表作としては「わたしを束ねないで」が知られている。「わたしを束(たば)ねないで/あらせいとうの花のように/白い葱(ねぎ)のように/束ねないでください わたしは稲穂(いなほ)/秋 大地が胸を焦がす/見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂」(中略)「わたしを名付けないで/娘という名 妻という名/重々しい母という名でしつらえた座に/座りきりにさせないでください わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風」と続く。全文はネット上でも読めるが、力強い言葉だ。
(新川和江)
  グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家の田名網敬一が9日死去。88歳。武蔵野美大在学中の1957年に日宣美で特選。卒業後に広告会社に勤めるが2年で退社に幅広い創作活動を展開した。極彩色のポップなデザインで知られたが、アメリカ大衆文化の影響だけでなく東京大空襲など戦時の記憶が反映していると言われる。僕は70年代に四谷三丁目にあったイメージフォーラムで、映像作品の特集上映を見た記憶がある。ちょうど現在国立新美術館で大回顧展を開催している。
 (田名網敬一)
 著述家、編集者で「編集工学」を提唱した松岡正剛(まつおか・せいごう)が12日死去、80歳。71年に出版社「工作舎」を設立して.雑誌「」を創刊した。そのことは記憶しているが、「遊」は買ったことがない。自分の方向性と少し違っていたのである。2000年からネット上で「千夜千冊」の連載を始め、一日一冊ずつ同じ著者は取り上げずに完走した。しかし、それも読んでなくて、僕は名前を知っていただけで読んだことがない人だった。文化横断的に日本文化を幅広く論じ、多くの人々に影響を与えた。
(松岡正剛)
 ノンフィクション作家の石川好(いしかわ・よしみ)が19日死去、77歳。伊豆大島に生まれ、大島高校卒業後に兄を頼って渡米し農園で働いた。1969年に帰国し慶応大を卒業、再び渡米し庭園業で働いた。1981年帰国後米国体験を基に作家となり、『カリフォルニア・ストーリー』(1983)でデビューした。1988年の『ストロベリー・ロード』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。これはものすごく面白い本で、カリフォルニアのイチゴ農園の体験を描いている。突然現れた大型新人という感じで、その後日米関係に関して多くの言論活動を行った。テレビにもよく出ていて、1995年の参院選に「新党さきがけ」から神奈川選挙区で出馬したこともあった。(3人当選のところ、5位で落選。)その後、あまり名前を聞かなかったが、今回調べると秋田公立美術工芸短期大学学長や酒田市美術館長などを務めていた。そう言えば忘れてたなあと思い出した訃報。
(石川好)
 作家の大崎善生(おおさき・よしお)が3日死去、66歳。日本将棋連盟に勤務し、雑誌「将棋世界」編集長時代に『聖(さとし)の青春』(新潮学芸賞)で作家デビュー。映画化もされた。『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞、『パイロットフィッシュ』で吉川英治新人賞を受けた。2001年から作家に専念し短い作家人生の中で多くの作品を残している。
(大崎善生)
・7月13日に児童文学者の矢玉四郎が死去、80歳。「はれときどきぶた」のシリーズで知られた。
・俳優の下村青が15日死去、60歳。劇団四季で『コーラスライン』『キャッツ』『ライオンキング』などに出演した。
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アラン・ドロンとジーナ・ローランズー2024年8月の訃報①

2024年09月06日 22時30分02秒 | 追悼
 2024年8月の訃報特集。8月には重要な訃報が相次いだが、国内のものが多かった。外国人で日本にも知名度が高い人はアラン・ドロンだけだろう。そこで今回は外国の訃報を最初に書き、日本人の訃報は2回に分けて書きたい。フランスの映画俳優アラン・ドロン(Alain Delon, 1935.11.8~2024.8.18)が8月18日に亡くなった。88歳。近年体調不良が伝えられていたので意外感はないが、訃報が大きかったのに驚いた。今でも「二枚目俳優」として知名度が高いのである。(「二枚目」は死語かもしれないが。)
 (アラン・ドロン若い頃)
 両親が離婚したため家庭的に恵まれず、若くして軍隊に入りインドシナ戦争に従軍した。休戦協定でフランスへ帰り、カンヌ映画祭でスカウトされた。美男子ぶりに自信を持って、カンヌを訪れたのである。そして「世紀の美男子」として世界で人気を得た。日本では1960年公開の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)で人気がブレイクし、今も代表作と呼ばれる。パトリシア・ハイスミスの原作にある毒や暗さを表現できる俳優だった。しかし、生い立ちも影響したかもしれない「影」が最後まで付きまとった。むしろ初期の代表作はヴィスコンティに愛された『若者のすべて』や『山猫』じゃないだろうか。さすがに巨匠の傑作である。
(『山猫』)
 人気的にも作品的にもピークは60年代後半から70年代前半だろう。数多くの映画に出ているが、ほとんどが犯罪者役。それは日本の高倉健などとも共通する。『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督)のようにロマンティックな映画もあるが、一番ハマっているのはジャン=ピエール・メルヴィル監督作品だと思う。刑事役の『リスボン特急』もあるが、『サムライ』『仁義』では孤独な犯罪者を見事に演じている。「サムライ」は原題通りで、「一匹狼の殺し屋」をやっている。もともと侍の原義はボディガードだが、いつのまにか外国では一匹狼的なイメージになったわけである。
(『サムライ』)
 アラン・ドロンは最初アメリカ映画にスカウトされた。まずフランス映画界で成功したが、ハリウッド進出を考えていた。60年代半ばにはハリウッドに移住しアメリカ映画に出ていた。また仏伊合作『さらば友よ』(チャールズ・ブロンソンと共演)、『ボルサリーノ』(ジャン=ポール・ベルモンドと共演)などがヒットした。そしてアメリカの西部劇『レッド・サン』でチャールズ・ブロンソン、三船敏郎を共演した。しかし米映画では余り成功せず、その後はフランスを中心に中級娯楽作が多くなった。1985年に『真夜中のミラージュ』でセザール賞男優賞を受けたが、どんな映画か覚えていない。作品的には初期以外は恵まれなかった。
(『レッド・サン』)
 私生活では僕の知った頃(70年代初期)には女優のミレーユ・ダルクと「同棲」していて、その前に女優ナタリー・ドロンと結婚していたが、さらにその前には女優ロミー・シュナイダーと婚約していた。これらの情報は日本の映画雑誌にも細かく紹介されていた。日本でも非常に人気があったが、殺人事件への関与疑惑などスキャンダルも絶えなかった。そのような点も含めて「暗い魅力」があったと言うべきか。1975年の『アラン・ドロンのゾロ』という映画があったが、とても楽しい映画で、こういう映画こそ本領発揮というべきだろう。テレビでは野沢那智が吹き替えをやっていたのも思い出。

 アメリカの女優ジーナ・ローランズ(Gena Rowlands)が8月14日に死去、94歳。アメリカ映画はカリフォルニア州のロサンゼルス郊外ハリウッドが中心となってきたが、それ以外でも映画は作られてきた。その代表が「ニューヨーク派」で、インディペンデンスで作家性の強い映画が作られてきた。1959年に『アメリカの影』を作ったジョン・カサヴェテスが代表。そのジョンと演劇学校時代に知り合い、1954年に結婚したのがジーナ・ローランズだった。二人の間に生まれたニック・カサヴェテスゾエ・カサヴェテスは映画監督になり、ニックの監督した『きみに読む物語』にはジーナ・ローランズも出演した。
(ジーナ・ローランズ)(ジョン・カサヴェテスと)
 テレビにもよく出ていたらしいが、代表作は夫であるジョン・カサヴェテス作品になる。特に『こわれゆく女』(1974)は情緒不安定な妻役でアカデミー賞主演女優賞ノミネート。さらに『オープニング・ナイト』(1877、ベルリン映画祭女優賞)、『グロリア』(1980、アカデミー賞主演女優賞ノミネート)、『ラヴ・ストリームズ』(1984)などで強烈な女性像を演じ続けた。アカデミー賞はどうしても大会社中心になるが、ジョン・カサヴェテス作品でノミネートされたのはそれほど無視できない迫力だったのである。日本でも80年代以後「ミニ・シアター」ブームで公開され、最近も上映されている。
(『グロリア』)
 その中で『グロリア』はジョン・カサヴェテスとしてもジーナ・ローランズとしても異色の作品。ギャングの殺人を目撃したことから追われている少年をたまたま匿って逃げることになる女性をものすごい迫力で描いている。この種の物語の原型となった。知名度はアラン・ドロンに及ばないだろうが、忘れがたい女優である。
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追悼・高石ともやー「フォークソング」の原点を歌い続けた人

2024年08月19日 22時32分09秒 | 追悼
 「フォークシンガー」の高石ともやさんが亡くなった。8月17日死去、82歳。スマホのニュースで見て驚いた。もちろん82歳の男性が亡くなっても驚くようなニュースじゃない。しかし、僕は2023年12月に行われた「年忘れコンサート」に行っていた。そこでは声量など特に衰えを感じさせなかった。この年忘れコンサートに僕は40年以上毎年夫婦で行っている。2022年だけは母親が入院中で危ないと言われていたので、チケットは持っていたが行けなかった。そのまま終わりだと嫌だなと思ってたら、2023年に行けた。そして元気なら2024年もあるのかなと思っていた。

 「高石ともや」という名前は、昔は受験期になると「受験生ブルース」がラジオで流れていたから覚えたんだと思う。大学に入ったらそこは高石ともやの卒業した大学で、当時はクリスマス行事で高石ともやとザ・ナターシャセブンのコンサートが行われていた。まあ、そういうことで同窓生なんだと知ったわけである。その後、いろいろ経緯があるのだが、妻もファンだということで東京で毎年末にあるコンサートに行くようになった。当初は有楽町の読売ホールでやってたが、その後亀戸のカメリアホールに変わった。時間も昔は平日の夜だったが、次第に土曜日の昼間になった。仕事をしてたときも、何とか都合を付けて毎年行ってきた。
(CD「高石友也ベストコレクション」)
 年忘れコンサートには、ある時期まで著名なゲストが出ていた。谷川俊太郎永六輔灰谷健次郎などは特に思い出にある。新内の岡本文弥もそこで聞いた。同じ「フォークシンガー」と言われる中川五郎遠藤賢司などもゲストで来たことがある。コンサートでは毎年のように歌われる「」「私の子どもたちへ」「想い出の赤いヤッケ」など定番の名曲も良いけれど、それ以上に一年を振り返る歌やトークが楽しみだった。東日本大震災の後で、被災地に行って感じたこと、それが心に響く。社会の移り変わり、世界の問題、著名人の訃報…いちいち感じ方に共感出来るのである。
(75歳でホノルルマラソン連続完走40年の日。2016年12月。)
 本当に凄いと思うのは、毎年12月上旬に行われるホノルルマラソンに参加していたことだ。走り終えて、戻ってすぐにコンサート。本当に丈夫そうで、80歳を超えても声量はしっかりしていた。ある時期からマラソンを始めて、市民ランナーとして有名になった。日本初のトライアスロン大会で優勝しているので、単なる「市民ランナー」を越えているし、「君はランナー」という曲も作っている。多くのマラソン大会に招かれ、走るとともに歌ってきた。有森裕子の言葉で知られる「自分をほめてあげたい」はもともと高石ともやさんの言葉だった。そして妻に先立たれてから10年以上も元気で活動を続けたのは本当にすごいと思う。
(CD「陽気に行こう」107ソングブックCD版)
 思い出はいっぱいあるが、少し音楽的に振り返っておきたい。高石ともや(当初は「高石友也」と表記していた)は「関西フォークの旗手」と呼ばれた。もともとは1941年12月9日(日米開戦翌日)に北海道雨竜町で生まれた。本名は「尻石」だから、これで歌手活動は出来ない。大学で東京に出たが、歌手活動は関西で始めた。その経過はなかなか波瀾万丈なのだが、ここでは省略する。「フォークソング」は要するに「民謡」だが、60年代にはアメリカのジョーン・バエズなどの「反戦フォーク」のイメージが強い。日本でも反戦集会などで歌う人が出てきて、その走りが高石友也岡林友康だった。
(CD「高石ともやのファミリー・フォーク12曲集」)
 ここで興味深いのは、高石友也の名前を使って「高石音楽事務所」が作られ、高石友也も岡林信康もそこに所属したのである。岡林が作って二人で歌った「友よ」は60年代の抵抗歌として金字塔だと思う。またザ・フォーク・クルセダーズや高田渡、五つの赤い風船など皆ここに所属して音楽活動を行ったのである。しかし、70年代になると高石ともやはアメリカに「フォークの原点」を求めて旅立つ。ピート・シーガーなどに学びつつ、さらにブルーグラスなどアメリカの「草の根」の音楽に触れて帰国した。そして福井県名田庄村(現おおい町)に住み、ザ・ナターシャー・セブンを結成した。(グループ名は住んでいた村から。)

 そしてアメリカの歌を原語でコピーするのではなく、きちんと日本語訳を付け日本の歌として歌ったのである。また日本の民謡も歌うなど、独特の歌作りを行った。107曲をレコードにした「107ソングブック」は高く評価され、1979年の日本レコード大賞企画賞を受賞した。しかし、1980年に木田高介(元ジャックス)が脱退、直後に事故死、1982年にはマネージャーの榊原詩朗がホテル・ニュージャパンの火事で亡くなる。それらをきっかけにしてグループ活動が難しくなっていった。以後はほぼ高石ともやはソロで活動する。普通の意味での歌手と言うより、ランナーや市民活動の中で歌い続けるスタイルを一貫させてきた。

 僕には歌手という以上に、個人的思い出がいっぱいあって語りきれない。授業で紹介した歌もあるし、辛いときに口ずさんでいる歌もある。何を書いて良いのかわからないが、取りあえず訃報を聞いて書いた次第。
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キム・ミンギ、ロバート・タウン、シェリー・デュヴァル他ー2024年7月の訃報②

2024年08月08日 22時24分55秒 | 追悼
 2024年7月の訃報特集。外国と1回目で書けなかった国内の訃報。まず韓国のシンガーソングライター、劇作家、俳優のキム・ミンギ(金敏基)が21日に死去、73歳。誰だと言われるかもしれないが、韓国現代史に大きな影響力を持った人である。70年代以後の韓国民主化運動を象徴する歌とされる「朝露」を作った人。「朝露」初め彼の歌は独裁政権下では禁止曲に指定されていた。2003年の金大中の葬儀では集まった人々が期せずして「朝露」の歌声が響いたと言われる。91年にソウル大学路に小劇場を開き、そこから多くの歌手や俳優を輩出した。特に94年初演のミュージカル『地下鉄1号線』は世界的にヒットした。僕は李政美(イ・ジョンミ)さんが「朝露」を原語と訳詞で歌ったCDを持っているけど、今回探し出せなかった。
(キム・ミンギ)
 アメリカの脚本家ロバート・タウンが1日死去、89歳。1974年の『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)でアカデミー脚本賞を受賞した。この映画で身勝手な父を演じていたのが映画監督のジョン・ヒューストンである。他にも『さらば冬のかもめ』『シャンプー』『グレイストーク』でアカデミー賞にノミネートされた。テレビで『ナポレオン・ソロ』などを書いた後で、ロジャー・コーマンの低予算映画の脚本を書くようになり、クレジットされていないものの『ゴッドファーザー』にも参加したという。その後監督にも進出したが成功しなかった。他に『チャイナタウン』の続編『黄昏のチャイナタウン』(1989、ジャック・ニコルソン監督)や『ミッション・インポッシブル』などがある。
(ロバート・タウン)
 アメリカの女優シェリー・デュヴァルが7月11日死去、73歳。アルトマン監督の『三人の女』(77)でカンヌ映画祭女優賞を受けた。初期にはアルトマン監督作品の出演が多く、独特の風貌が作風に合ってすぐに名前を覚えてしまった。『BIRD★SHT』『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』などである。その後スタンリー・キューブリックの『シャイニング』(80)で夫に恐怖して絶叫する妻役で知られた。同年のアルトマン監督『ポパイ』のオリーブ役など大作にも出た。90年代以後はテレビドラマの出演が多くなり、2002年に引退。僕は初期のアルトマン作品が好きなので忘れられない女優である。
(シェリー・デュヴァル)
 小説家ではアルバニアのイスマイル・カダレが1日死去、88歳。日本では知名度が低いが、第1回ブッカー国際賞やエルサレム賞などを受けていて、ノーベル文学賞候補と言われていた。アルバニア労働党一党独裁時代には発禁とされ、弾圧を受けた。そのような不条理な体験を原体験にした作品で知られている。日本では『夢宮殿』『砕かれた四月』『死者の軍隊の将軍』などが邦訳されている。またアイルランドの作家エドナ・オブライエンが27日死去、93歳。女性を主題にした作品が評価され、日本でも『カントリー・ガール』『みどりの瞳』『八月はいじわるな月』『愛に傷ついて』などが翻訳されている。
(イスマイル・カダレ)(エドナ・オブライエン)
 アメリカの映画プロデューサー、ジョン・ランドー(5日死去、63歳)は、『タイタニック』の製作者だった。アメリカのビデオ・アートの第一人者、ビル・ヴィオラ(12日死去、73歳)は日本に滞在して禅などの影響も受けた。世界文化賞受賞。アメリカの女優シャナン・ドハーティ(13日死去、53歳)は『大草原の小さな家』の子役で活躍、その後『ビバリーヒルズ白書』のブレンダ役で人気を得た。ベトナムの最高指導者、ベトナム共産党書記長グエン・フー・チョンが19日死去した。80歳。2011年に書記長となり、15年に初の訪米、日本との関係強化を図った。国内では統制を強化し、国家主席2人、国会議長を解任している。それだけの実力者であっても、もう僕はベトナム指導者の名前を覚えていなかった。31日にハマスの最高指導者、イスマイル・ハニヤがイランで殺害された。62歳。これは「イスラエルの国家テロ」というべきだが、ここで書く対象とは異なるだろう。
(グエン・フー・チョン)
 日本ではフリーアナウンサーの押阪忍(6月29日死去、89歳)、陶造形作家で笠間に工房を構えた伊藤公象(いとう・こうしょう、6日死去、92歳)、漫才師「大瀬ゆめじ・うたじ」で活躍し、13年に解散後はピン芸人で活動した大瀬うたじ(6日死去、76歳)、浪曲師で故国本武春の母だった国本晴美(6日死去、86歳)、劇作家、演出家で劇団「少年王者館」主宰の天野天涯(7日死去、64歳)、プロゴルファーで上田桃子や古閑美保らを育てるとともに、マンガの原作者として『風の大地』などが人気となった坂田信弘(22日死去、76歳)、特定のたんぱく質分解酵素「プロテアソーム」の発見者で文化功労者、田中啓二(23日死去、75歳)、91年から1期大阪府知事を務めた中川和雄(29日死去、97歳)、政治家で衆議院議員6期、参議院議員2期、郵政相を務めた渡辺秀央(31日死去、90歳)。この人は自民党、新進党、自由党、民主党、改革クラブ(新党改革)と移った。それよりミャンマー軍部と深いつながりがあることで知られ、日本ミャンマー協会を設立し会長となった。軍事クーデター以後も関わりを持ち続け政界引退後も影響力を持っていた。
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梁石日、槇文彦、遠藤章、野口武彦、白石かずこ他ー2024年6月の訃報②

2024年07月07日 19時45分37秒 | 追悼
 2024年6月の訃報2回目。日本の作家、学者などを中心に。まず最初に作家の梁石日(ヤン・ソギル)が6月28日に死去、87歳。僕はこの人の本をあるときいっぱい読んでた。80年代にタクシー運転手の体験を軽妙に描く本を何冊か読んで注目した。それが崔洋一監督『月はどっちに出ている』の原作になったわけである。そして『夜を賭けて』(94)、『血と骨』(98)という二つの超大作を発表した。どっちも直木賞候補になったが、深刻な歴史的背景がありつつも骨太なエンタメ作品である。「在日朝鮮人文学」の中に、そういう人が出てきた。読んでて波乱万丈で面白いのである。特に『夜を賭けて』は大阪砲兵工廠跡の鉄くず窃盗団、つまり開高健『日本三文オペラ』、小松左京『日本アパッチ族』と同じ話を描いている。それが実の話だったのかと驚いた。しかし、あまりにも似たような傾向で多作なので、21世紀になったら読まなくなってしまった。
(梁石日)
 建築家の槇文彦が6月6日死去、95歳。まあ建築のことはよく知らないが、「モダニズムを基本にした知的な作品」だそうである。東大で丹下健三に師事し、磯崎新、黒川紀章と三羽ガラスと呼ばれた。60年代から数多くの設計を手掛けているが、代々木の東京都体育館を改築した東京体育館(90)や69年から98年にかけ作られた「代官山ヒルサイドテラス」などが代表作と言われる。プリツカー賞など内外の多くの賞を受賞している。他の作品に京都国立近代美術館、幕張メッセ、テレビ朝日本社、ニューヨーク世界貿易センター跡地のビルなど。僕の身近なところでは足立区北千住にある東京電機大学千住キャンパスがある。
(槇文彦)(代官山ヒルサイドテラス)
 詩人の白石かずこが6月14日死去、93歳。多くの詩人が70年前後に小説を書いて評価された(富岡多恵子や三木卓など)が、白石かずこは一貫して詩とエッセイ、翻訳しか手掛けなかった。そのため実際に読んでる人は少ないと思う。僕も読んでないが、70年代頃には「前衛的女性芸術家」の代表のように思われていた。 『聖なる淫者の季節』(70)でH氏賞、『砂族』(84)で歴程賞、『現れるものたちをして』(96)で高見順賞、読売文学賞、『詩の風景、詩人の肖像』(09)で読売文学賞など、主要な詩の賞を受け長く活躍した。世界各地の詩人祭などのイベントで朗読を行い世界的に評価されている。一時映画監督篠田正浩と結婚していた。三島由紀夫、寺山修司などと交友してきたことでも知られる。
(白石かずこ)
 江戸時代を中心に多くの著作がある文芸評論家、日本文学者の野口武彦が6月9日死去、86歳。東京出身だが長く神戸大学教授を務めた。70年代から『谷崎潤一郎論』(73)で亀井勝一郎賞を受賞するなど文芸評論で活躍したが、専攻は近世文学、近世思想史。『江戸の歴史家』(80)でサントリー学芸賞、『「源氏物語」を江戸から読む』(85)で芸術選奨文部大臣賞、『幕末気分』(09)で読売文学賞など一般向け著作で多くの賞を受けてきた。95年には阪神淡路大震災で被災し、その後『安政江戸地震 災害と政治権力』(97)を書いている。他に『荻生徂徠―江戸のドン・キホーテ』(93)、『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』(94)、『江戸は燃えているか』(06)など多数。余りにも多いので、とても全部は読めないけれど、こうしてみると何冊かは読んできた。この人がすごいと思うのは、2010年に脳梗塞を患いながら片手でも執筆を続け10冊以上の本を出したことである。
(野口武彦)
 フランス文学者、女性学者の西川祐子が6月12日死去、86歳。フランスに留学し、パリ大学で文学博士号取得。近代日本文学を女性学の立場から研究した多くの著作がある。『森の家の巫女高群逸枝』(82)、『私語り樋口一葉』(92)、『借家と持ち家の文学史 「私」のうつわの物語』(98)、『古都の占領 生活史からみる京都 1945-1952』(2017)など。共著に西川祐子、上野千鶴子、荻野美穂『フェミニズムの時代を生きて』(2011)など。夫はフランス文学者の西川長夫。
(西川祐子)
 コレステロール低下薬スタチン」の発見者として知られた東京農工大学特別栄誉教授の遠藤章が6月5日死去、90歳。ここ10年以上毎年ノーベル賞候補と騒がれてきたが受賞はならなかった。日本国際賞、米ラスカー賞など数多くの賞を受けている。幼い頃からカビや菌類に関心があり、東北大から三共に入社、アメリカ留学でコレステロールの重要性を認識した。帰国後に6千種もの微生物を調べ、米の青カビから有望物質を発見した。発がん性の問題で困難にぶつかりながら、米メルク社と三共が開発に成功。世界で一日に4千万人が服薬する「奇跡の薬」と呼ばれている。一般的な知名度は高くなかったので、人間ドックで高コレステロールを指摘され「最近いい薬があるので心配ないですよ」と言われたというエピソードがある。
(遠藤章)
坂根厳夫(さかね・いつお)、4月28日死去、94歳。朝日新聞記者を経て、慶応大教授、情報科学芸術大学院大学学長を務めた。芸術と科学の境界領域に関心を寄せ、多くの展覧会を企画した。『遊びの博物誌』『イメージの回廊』など多くの著作がある。僕は70年代頃に朝日新聞でよく坂根記者の記事を読んでいて大きな影響を受けた。
鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)、5月27日死去、93歳。俳人。山口誓子、秋元不死男に師事し、78年に俳句誌『狩』を創刊し主宰した。以後半世紀にわたって俳句界を牽引した。2002年俳人協会会長。2015年に芸術院会員。「摩天楼より新緑がパセリほど」「人の世に花を絶やさず返り花」「秋天の一滴となり鷺下りる」などの秀句がある。
武田国男、9日死去、84歳。93年から武田薬品社長。創業家の三男として生まれ、長男の死後に社長候補となった。成果主義を取り入れるなど脱創業家を進め、日本の製薬会社として初の売上高一兆円越えを達成した。
関淳一、9日没、88歳。2003年~2007年に大阪市長を務めた。医学博士だが大阪市立病院から保健部長を経て、95年から大阪市助役。戦前に20年間大阪市長を務めた関一の孫。
伴英幸、10日死去、72歳。原子力資料情報室共同代表。国の原発事故対応や原子力政策を批判した。
斎藤栄、15日死去、91歳。作家。横浜市に勤務しながら、66年に『殺意の棋譜』で江戸川乱歩賞を受賞した。72年に作家専業となり、多くのベストセラーを書いた。『奥の細道殺人事件』などの他、『タロット日美子』シリーズ、トラベルミステリーの『江戸川警部』シリーズなどで知られる。将棋ファンとして関連の本も多く、第4回大山康晴賞を受賞している。
三島喜美代、19日死去、91歳。美術家。空き缶や新聞、雑誌などを陶で表現した作品で知られる。
川満信一(かわみつ・しんいち)、29日死去、92歳。詩人。元沖縄タイムス取締役。沖縄タイムス文化事業部長などを務めた。雑誌「カオスの貌(かお)」を主宰しながら、独自の立場から『沖縄・根からの問い』『琉球協和社会憲法の潜勢力』などの著書を書いた。
ルース・スタイルズ・ガネット、11日死去、100歳。アメリカの児童文学者で『エルマーのぼうけん』で知られた。
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久我美子、アヌーク・エーメ、D・サザーランド他ー2024年6月の訃報①

2024年07月06日 21時37分18秒 | 追悼
 2024年6月の訃報特集。今回は内外合わせて、俳優など芸能界の訃報を取り上げる。外国の訃報は少なかったので、今回にまとめる。まず女優の久我美子。6月9日に誤嚥性肺炎で死去、93歳。読み方は「くが・よしこ」だが、本名は同字ながら「こが・はるこ」である。侯爵の久我(こが)家当主の長女として生まれた。村上源氏の系統で、五摂家に次ぐ清華家筆頭の家柄である。戦前ならとても映画女優になれなかったに違いない。経済的困窮もあったらしいが、1946年に東宝ニューフェースに応募して合格。

 最近黒澤明監督の『酔いどれ天使』(1948)を見直したが、久我美子はまさに年齢と同じ17歳の女子高生を清楚に演じていた。結核患者だが明日を信じて医師の指示に従っている。「掃きだめ」のようなスラム街を舞台にした映画だが、久我美子が出て来るシーンだけ清らかな風が吹きすぎる感じ。76年も前の映画に出ていた人が今まで生きていたのは不思議な感じだが、女優にはそういうことがあるのだ。そして1950年に今井正監督『また逢う日まで』に出演した。出征する恋人岡田英次とガラス窓越しに接吻する切ないシーンは、戦争の悲劇を象徴する場面として未だに語り継がれる。
(『また逢う日まで』)
 代表作は木下恵介監督の『女の園』(1954)だと思う。京都女子大の学生運動をモデルにして、闘争に積極的な学生を演じた。京都府学連委員長として運動を支援していた大島渚に大きな影響を与えた映画。共演した岸恵子有馬稲子を加えて女優による初のプロダクション「にんじんくらぶ」を設立した。50年代の小津、溝口、木下など巨匠作品の名作に数多く出演している。またベストセラー『挽歌』の初映像化(1957)では主演した。大島渚『青春残酷物語』の主人公の姉は「前の世代の過ち」を演じた。その後も映画やテレビで活躍したが、やはり50年代が一番だろう。1961年に俳優の平田昭彦と結婚。

 フランスの女優、アヌーク・エーメ(Anouk Aimée)が6月18日に死去、92歳。久我美子とほぼ同世代で、巨匠作品に出たことも似ている。50年代から60年代にかけて世界的に活躍した。特にクロード・ルルーシュ監督のカンヌ映画祭最高賞『男と女』の主演で知られる。僕はこの映画を見て、世界にはこんな美しい人がいるのかと思った記憶がある。『モンパルナスの夜』(1958)のモディリアーニの妻役で有名になり、フェリーニ『甘い生活』(1959)、『8 1/2』(1963)やジャック・ドゥミ『ローラ』(1961)などで、忘れがたい役柄を演じた。ルルーシュ監督が2019年に作った続編『男と女 人生最良の日々』でも主演した。
(アヌーク・エーメ)(『甘い生活』)(『男と女』)
 カナダ出身の俳優ドナルド・サザーランドが6月20日に死去、88歳。60年代にアメリカ映画で活躍するようになり、ロバート・アルトマン監督の反軍映画『M★A★S★H マッシュ』(1970)で主演して世界に知られた。僕もこの映画で名前を知った思い出がある。その後も世界的に活躍し、フェリーニ監督『カサノバ』やベルトルッチ監督『1900』などヨーロッパ映画でも活躍した。アカデミー賞作品賞の『普通の人々』でも主演しているが、演技賞には縁が薄く一度もアカデミー賞にノミネートされなかった。晩年になっても『ハンガー・ゲーム』シリーズなどに出演している。
(ドナルド・サザーランド)
 上方落語の桂ざこば(2代目)が6月12日に死去、76歳。1963年に桂米朝に入門し、桂朝丸を名乗った。88年に桂ざこばを襲名した。70年代には一時東京のテレビにも出ていたが、その後大阪で活動するようになった。上方落語なので僕は一度も聴いていない。米朝没後(2015年)は米朝事務所専務として一門を支えた。芸術選奨文部科学大臣賞(2017年)など受賞多数。
(桂ざこば)
 沖縄アクターズスタジオ創設者のマキノ正幸が6月28日に死去、83歳。マキノ雅弘監督と女優轟由起子の間に生まれた。芸能界周辺で仕事をしていたが、72年頃に沖縄に移住し83年にスタジオを開設した。ここから安室奈美恵SPEEDなどが出て来たわけで、非常に重要な意味があった。しかし、21世紀になって経営が傾くなどいろいろと困難があったようである。そういう学校があったことは知っていたが、マキノ家が関わっていたとは今回初めて知った。
(マキノ正幸)
 メジャーリーグで史上最高の万能選手と言われたウィリー・メイズが6月18日に死去、93歳。黒人リーグから出発し、1951年にニューヨーク・ジャイアンツ(58年にサンフランシスコに移転)に入団した。54年には打率3割4分5厘、41本塁打、110打点で、MVPを獲得した。通算成績は3293安打、660本塁打、1903打点、打率3割2厘、339盗塁を記録している。ホームラン王4回、盗塁王4回など走攻守に秀でた成績を残した。大リーグ史上唯一の「3000本安打、300ホームラン、打率3割、300盗塁」を達成した選手である。「コンプリート・プレーヤー」と呼ばれた。
(ウィリー・メイズ)
・元NHKのディレクター、映画監督の佐々木昭一郎が18日死去、88歳。芸術選奨新人賞の『さすらい』(1971)、つげ義春原作でエミー賞優秀作品賞の『紅い花』(1976)、ギャラクシー賞、エミー賞優秀作品賞の『四季・ユートピアノ』(1980)、「川3部作」(『川の流れはバイオリンの音』(81)、 『アンダルシアの虹 川』(83)、芸術選奨文部大臣賞の『春・音の光 川(リバー)』(84))など多くの作品がある。2014年には映画『ミンヨン 倍音の法則』が公開された。「映像の詩人」と呼ばれた。
山田昌(やまだ・まさ)、16日死去、94歳。名古屋弁で活躍した俳優で、「おしん」「真田丸」などのテレビにも出演した。
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A・マンロー、R・コーマン、武田花、吉田ルイ子他ー2024年5月の訃報②

2024年06月09日 19時47分22秒 | 追悼
 2024年5月の訃報2回目。外国人の訃報から。カナダの作家アリス・マンローが5月13日没、93歳。2013年ノーベル文学賞受賞者である。短編小説のみ書いたことで知られるが、それは育児をしながら創作できるジャンルだったからである。カナダ東部のオンタリオ州に生まれ育ち、一地方に住む人々を描き続けた。特にエディンバラから移住した自らの一家のルーツを描いたことで知られる。日本では21世紀になってから、「新潮クレストブックス」で『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』と次々に翻訳され評判になった。クレストブックスはほとんど文庫化されないので、僕はアンソロジー収録作しか読んでない。人生の真実を一瞬の中に追求する鋭さに定評があった。
(アリス・マンロー)
 アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
 アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
 アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
 5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領アブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
 他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。

 写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
 フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
 元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
 元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
 大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
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唐十郎、中尾彬、小山内美江子他ー2024年5月の訃報①

2024年06月07日 22時29分53秒 | 追悼
 2024年5月の訃報特集。今回も芸能関係の訃報をまず書いて、その他及び外国人の訃報を2回目に書きたい。一番大きく取り上げられたのは、唐十郎だった。肩書きは劇作家、演出家、俳優、作家などである。5月4日没、84歳。1983年に47歳で亡くなった寺山修司と命日が同じだった。生年は寺山が5年ほど早いが、60年代末の「アングラ演劇」の旗手として当時から並び称せられる存在だった。1969年12月12日には、唐十郎主宰の「状況劇場」と寺山修司主宰の「天井桟敷」が役者どうしの乱闘事件を起こしてお互いに現行犯で逮捕された事件もあった。狂乱の60年代末期を文化面で象徴する一人だった。
(唐十郎)
 1867年に新宿の花園神社境内で紅テントを建てて公演を始めた。評判になったというが、その時点では僕は小学生なので全然知らない。天井桟敷もそうだが、街頭やテントで「演劇」と称して怪しげな見世物を行う連中と見られていただろう。しかし、1970年に『少女仮面』が岸田国士戯曲賞(劇作家の新人賞として有名)を受け、その頃から演劇的な評価も高くなっていった。70年代初めに『少女仮面』が角川文庫から出た時に読んだ記憶がある。詩的なセリフが飛び交い、読んだだけでも熱気が伝わるような戯曲だった。実際に見たのは大学時代だと思うが、実は紅テントはあまり見てなくて、佐藤信の黒テントの方が合っていた。
(若い頃)
 紅テントは何回か見てるけど、正直よく覚えていない。最後に見たのは2003年に高く評価された『泥人魚』。腰痛持ちなので、もうテント芝居は辛いなと痛感した記憶がある。作家では『佐川君からの手紙』で1983年に芥川賞を受けた。映画では1976年にATGで『任侠外伝・玄界灘』を監督した。正直どっちもあまり面白くなかった。僕は唐十郎とは相性が良くないのだが、状況劇場から多くの異才を輩出した功績は大きい。妻だった李麗仙(88年に離婚)、麿赤児四谷シモン根津甚八小林薫佐野史郎らである。つげ義春夫人の藤原マキもそう。大島渚監督『新宿泥棒日記』(1968)が当時の様子を伝えている。
(紅テント)
 俳優、タレントの中尾彬が5月16日に死去、81歳。元々武蔵野美大在学中に日活ニューフェイスに合格したが、絵を諦めきれず退社してフランスに留学した。その後も絵は描き続け認められている。帰国後、劇団民藝に所属(71年退団)しながら、映画にも出演した。中平康監督『月曜日のユカ』(1964)が実質的デビューで印象に残る存在感を発揮していた。『本陣殺人事件』(1975)では主役を務め、何人目かの金田一耕助を演じた。テレビドラマでは多くの大河ドラマや『暴れん坊将軍』(徳川宗春役)などで活躍した。晩年はヴァラエティ番組やCMが記憶に残る。池波志乃(10代目金原亭馬生の娘で、古今亭志ん生の孫)と「おしどり夫婦」の印象が強いが、実は再婚で前妻との間に子どもがいる。
(中尾彬)
 脚本家の小山内美江子が5月2日死去、94歳。当初は映画監督になりたかったが、女性では無理と言われスクリプター(記録)を務めた。長男(俳優、映画監督の利重剛)出産後、家でできる仕事として脚本を書き始めた。数多くのテレビドラマを執筆したが、特に1979年に始まり何シリーズも作られた『3年B組金八先生』が大きな評判を呼んだ。時の社会問題も取り入れ、教育界にも影響を与えた(と書かれることが多いが、「一人の教師の頑張りで学校を変えられる」と誤解させた面もあると思う。)他には朝ドラ『マー姉ちゃん』『本日も晴天なり』、大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などがある。晩年になっても国際的な教育支援活動を行い、カンボジアを中心に400を越える学校を建てた。カンボジアからは叙勲されている。
(小山内美江子)
 漫才師の今くるよが5月27日死去、76歳。高校時代にソフトボール部で一緒だった相方今いくよ(2015年に67歳で没)とコンビを組み、80年代に女性漫才コンビとして大活躍した。なかなか売れなかったが、80年代になって認められた。84年に上方漫才大賞、88年に花王名人大賞受賞。80年代の「漫才ブーム」を支えたコンビだが、「夫婦漫才」ではない女性どうしのコンビとして先駆的だった。大柄な体格に派手な衣装のくるよと、反対に痩せたいくよの容姿をネタにした掛け合いが爆笑を呼んだ。吉本の後輩女性芸人の面倒見が良かったと言われている。
(今くるよ)
 作曲家のキダタローが5月14日死去、94歳。全く知らなかったが、案外大きな訃報で驚いた。何でも「浪花のモーツァルト」と言われていたとか。今いくよ・くるよは東京のテレビにもいっぱい出ていたから知っているが、関西圏のテレビCMは全く知らないのである。まあ「バラエティ生活笑百科」や「プロポーズ大作戦」のテーマ曲と言われると、聞いたことはある。でも「かに道楽」や「日清出前一丁」のCMは関西人は誰でも知っているそうだが、東京では思い浮かばない。そういう地域性がある。
(キダタロー)
井川徳道、16日没、95歳。映画の美術監督で、東映映画の任侠映画の多数を担当した。テレビでも『暴れん坊将軍』『水戸黄門』などを担当している。加藤泰監督の『明治侠客伝 三代目襲名』『沓掛時次郎 遊侠一匹』『緋牡丹博徒 お竜参上』などの名作の美術担当である。他にも深作欣二監督の『仁義なき戦い 頂上作戦』『北陸代理戦争』『柳生一族の陰謀』『魔界転生』などがある。日本映画アカデミー賞、毎日映画コンクールなど受賞多数。
増山江威子が20日死去、88歳。声優。『ルパン三世』の峰不二子役で知られた。60年代の『鉄腕アトム』から『アタックNo.1』『天才バカボン』など長年テレビアニメで活躍したほか、劇場アニメや洋画の吹き替えなどでも活躍した。
真島茂樹、22日没、77歳。ダンサー、振付師、大ヒットした『マツケンサンバII』の振付を行った人である。紅白歌合戦で美川憲一『さそり座の女』でも振付を担当した。
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曙、笠谷幸生、O・J・シンプソン、ヒッグス他ー2024年4月の訃報②

2024年05月07日 19時26分54秒 | 追悼
 スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
 として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
 1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
 (笠谷幸生)
 アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
 物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
 元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
 歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
 ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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フジコ・ヘミング、星野富弘、桂由美、P・オースター他ー2024年4月の訃報①

2024年05月06日 19時25分30秒 | 追悼
 2024年4月の訃報特集。1回で終わるかと思ったら、最後になって重要な訃報が相次いだ。タイトルに挙げた4人はいずれも5月になって報道された人である。1回目は文化関係者をまとめて。まずピアニストのフジコ・ヘミングが4月21日に亡くなった。92歳。そのドラマティックな人生は大きく報道された。父親はスウェーデン人、母親が日本人で、1931年にベルリンで生まれた。5歳で日本に移り、戦時中は岡山に疎開、その後青山学院高校、東京芸大を卒業した。若き優秀なピアニストだったわけだが、その後留学しようとしたら無国籍だったことが判明した。難民として西ドイツに留学し才能を認められたが、風邪をこじらせて左耳の聴力を失った。それ以前に右耳の聴力も失っていたのである。その後はスウェーデンでピアノ教師をしていた。
(フジコ・ヘミング)
 母親の死後、1995年に帰国。1999年2月にNHKで「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映され、多くの人がこの人の存在を知ったのである。デビューCD『奇蹟のカンパネラ』(パガニーニのヴァイオリン協奏曲のロンドをリストが編曲したピアノ曲)は200万枚の大ヒットとなった。若い人ならともかく、聴力を失いながら(その後左耳は40%回復)高齢になって大ブレイクしたのは印象的である。最近はあまりクラシックのコンサートに行かない僕も上野の文化会館に聞きに行ったものである。まあ何を聞いたか忘れてしまったが。2023年11月に転倒するまで、世界各地でコンサートをしていた。晩年に円熟した人だった。
(CD『奇蹟のカンパネラ』) 
 口にくわえた筆で絵や詩を創作した星野富弘が28日に死去、78歳。もともとは群馬県の中学で体育教員をしていた。しかし、採用初年度の1970年に体操部の指導中に転落事故にあい、脊髄損傷で首から下の身体機能を失った。1972年に口で絵筆を動かして表現活動を始め、74年にはキリスト教に入信した。80年代に「花の詩画展」を全国各地で開催して大きな感動を与えた。評判を呼んで、91年には東村(現みどり市)立富弘美術館が開館した。草木湖畔に立つ美術館には多くの人が訪れている。足尾に通じるわたらせ鉄道沿いの地区で、僕も行ったことがある。人生というものはどこで道が分かれているか、計り知れないということをこの人の人生は教えてくれる。素直に感動した美術館である。
 (星野富弘)
 ファッションデザイナーの桂由美が26日死去、94歳。デザイナーといっても、この人はブライダルデザインに特化していた。洋装のウェディングドレスを日本に定着させた人である。一時は文学座研究生になるなど演劇を目指していたが、後にファッションを仕事に選び、誰もやっていなかったブライダルデザインを選択した。戦時中に育ち、戦後の憧れだったウェディングドレスを「一ヶ月の給料で買える」ようにしたいと思ったのである。ヨハネ・パウロ2世に博多織の祭服を献上したこともあった。政治的には保守派で「日本会議」のメンバーだったという。死去数日前に「徹子の部屋」収録を行っていた。
(桂由美)
 アメリカの重要な作家二人が亡くなった。まずポール・オースターが30日に死去、77歳。日本では柴田元幸訳で新潮文庫に収録されている。『孤独の発明』やニューヨーク3部作(『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)などは、ある種前衛ミステリー風で取っつきにくい印象がある。しかし、そこで終わらせてはもったいない。『ムーン・パレス』(1989)は最高に心打つ青春小説だし、『偶然の音楽』『リヴァイアサン』も面白かった。もっともその後は買ってあるけど読んでない。
(ポール・オースター)
 映画にも深い関心を持ち、自身の短編を基にした『スモーク』(1995)の脚本を担当、また『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998)では監督を務めた。ボール・ベンジャミン名義で発表されたミステリー『スクイズ・プレー』(新潮文庫)は野球小説としても秀逸。都市生活者の孤独や憂愁を描き、日本でも人気が高い作家だった。『スモーク』は近年修復版が公開され、新宿東口映画祭で上映がある。タバコをめぐる綺譚だが、本人は肺がんで亡くなったのである。
(映画『スモーク』)
 アメリカの作家、ジョン・バースが2日死去、93歳。実験的な作風と物語を融合させた『酔いどれ草の仲買人』(1979)や『旅路の果て』『やぎ少年ジャイルズ』『キマイラ』などが代表作とされる。アメリカのポストモダン文学の代表者と言われるが、短編しか読んでないのでよく判らない。同じ日にフランスの女性作家マリーズ・コンデが死去した。90歳。カリブ系黒人だが、パリに学んでソルボンヌ大学を出た。ギニアの俳優と結婚してアフリカで活動したが、70年にフランスに戻り創作活動を本格化させた。世界的に高く評価されていて、『生命の樹 あるカリブの家系の物語』『心は泣いたり笑ったり マリーズ・コンデの少女時代』など邦訳もある。2018年にスウェーデンの市民団体が設立したニューアカデミー文学賞を受賞した。
(ジョン・バース)(マリーズ・コンデ)
 「ぼくら」シリーズで知られる作家、宗田理(そうだ・おさむ)が8日死去、95歳。この人を有名にした『ぼくらの七日間戦争』(1985)は、昔中学校の文化祭で演劇にしたことがある。その思い出が鮮烈なんだけど、今回Wikipediaで知ったそれ以前の「編集者時代」が凄かった。日芸映画学科に進み若い頃から脚本の助手をしたが、仕事が減って高利貸し森脇将光の「森脇文庫」の編集者となった。今じゃ知らない人が多いと思うけど、造船疑獄の端緒となった森脇メモは宗田が書いたというのである。その後PR会社を設立し自動車業界の裏情報を梶山季之、清水一行らに提供した。そして水産業界の裏を知って書いた『未知領域』が直木賞候補となって作家専業となった。「ぼくら」シリーズは中学生に始まり、高校生編、青年編、教師編と延々と何十冊も書かれ、累計発行部数2千万部と言われる。全然知らない前半生があって、それは忘れられている。
(宗田理)
 フランス文学者、文芸評論家、詩人の粟津則雄が19日死去、96歳。特に詩人ランボーの研究や翻訳で知られる。小林秀雄の影響を受け、詩や文学に止まらず美術や音楽などヨーロッパ文化について幅広く評論活動を展開した。正岡子規、萩原朔太郎など日本の詩人に関する本も多い。特に草野心平と交友が深く、草野心平記念文学館長も務めた。翻訳ではゴッホ書簡全集、ランボー全詩集、モーリス・ブランショなどがある。法政大学名誉教授。芸術院会員。
(粟津則雄)
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五百旗頭真、鈴木健二、加藤幸子、ポリーニ他ー2024年3月の訃報②

2024年04月08日 22時19分39秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。1回目に書ききれなかった日本の学者、著述家等と外国人の訃報をまとめて。政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)が6日死去、80歳。兵庫生まれで、京大で猪木正道に師事、広島大助教授からハーバード大研究員を経て神戸大学教授となった。このように東大系じゃなく、猪木、高坂正堯の系譜の現実主義的政治学者として名をなした。日米関係史、占領政策などを研究し、1985年『米国の日本占領政策』でサントリー学芸賞、『占領期 首相たちの新日本』(1997)で吉野作造賞などを受賞。2006年から12年まで防衛大学校長を務めた。多くの内閣で有識者会議委員を務めている。95年阪神淡路大震災で被災したのをきっかけに「災害復興」研究に携わった。その経験から2011年に「東日本大震災復興構想会議議長」を託され、「創造的復興」を掲げて復興への道筋を示した。最後まで「ひょうご震災記念21世紀研究機構」の理事長を務めていた。
(五百旗頭真)
 元NHKアナウンサーの鈴木健二が29日死去、95歳。テレビ司会者として、またエッセイストとして大活躍していた80年代には、日本人全員が知っていた人である。ニュースや紅白歌合戦司会なども担当したが、それより『歴史への招待』(1978~84)、『クイズ面白ゼミナール』(1981~88)などの教養・バラエティ番組で有名になった。特に後者では「教授」と呼ばれて人気を得た。また180冊以上の著作があり、1982年の『気くばりのすすめ』は400万部を超えるベストセラーになった。NHK退職後は、テレビにはほぼ出ずに、熊本県立劇場館長(1988~98)、青森県立図書館館長(1998~2004)を務めた。映画監督鈴木清順の弟
 (鈴木健二)
 作家の加藤幸子(かとう・ゆきこ)が30日死去、87歳。5歳から11歳まで北京で過ごし、敗戦後に引き揚げてきた。その後、同居していた叔父(戯曲『なよたけ』などで知られる加藤道夫)が自殺して大きな衝撃を受けた。北大農学部卒業後、農林省、日本自然保護協会などに勤めた理系、自然保護活動家の加藤幸子が作家になったのは、若い時の体験のため。1983年、『夢の壁』で芥川賞、『尾崎翠の感覚世界』(芸術選奨文部大臣賞)、『長江』(毎日芸術賞)などの他、『北京海棠の街』『苺畑よ永遠に』『翼をもった女』などの作品がある。その清冽な世界が好きだった。東京港野鳥公園設立に尽くした人でもある。
(加藤幸子)
 SF作家、ゲームデザイナーの山本弘が29日死去、68歳。SFとしては『去年はいい年になるだろう』(2011、第42回星雲賞日本長編部門)、『多々良島ふたたび』(2016、第47回星雲賞日本短編部門)や『アイの物語』などがある。それ以上に有名なのは、オカルト、UFO、ノストラダムスなどの疑似科学本を「トンデモ本」と名付けて、その世界を楽しんでしまおうという「と学会」を結成して初代会長になったことである。この「トンデモ」という言葉はすっかり定着してしまった。本人はいたって真面目に疑似科学を正面から批判していて、それは『ニセ科学を10倍楽しむ本』(ちくま文庫)でよく理解出来る。是非一読を。
(山本弘)
 ラリードライバーの篠塚建次郎が18日死去、75歳。三菱自動車のドライバーとして、ダカール・ラリーに参戦。12回目の1997年に日本人として初の総合優勝を果たした。2002年に三菱を退社したが、生涯現役を目指して日産と契約するなどした。21世紀になってからはソーラーカーのレースに参戦して活躍した。妻は三浦友和の姉。
(篠塚健次郎)
 大相撲の元関脇、明武谷(みょうぶだに)が10日死去、86歳。驚くことに「明武谷」は本名である。189㎝と当時としては破格の高身長で、「人間起重機」と呼ばれた。1957年7月場所で新入幕、1969年11月場所で引退するまで、豪快な吊り出しを得意技として、殊勲賞、敢闘賞を各4回受賞するなど活躍した。僕はこの人の活躍を幼い頃に覚えているのだが、驚いたのは引退後である。中村親方を襲名して指導に当たっていたが、「エホバの証人」に入信して1977年に廃業したのである。よりによって格闘技を認めない宗派に入信するなんて。その後はビル清掃などをしながら布教したという。
(明武谷)
 経済界ではメニコン創業者の田中恭一が10日死去、92歳。現代音楽の作曲家、篠原眞が3日死去、92歳。イタリア文学者の大久保昭男が12日死去、96歳。イタリアの作家アルベルト・モラヴィアの翻訳は大久保訳でほとんど読んでいる。政治家では鳥取県知事(74~83)、衆議院議員(83~90、93~2003)、郵政大臣を務めた平林鴻三が28日死去、93歳。また冒険家の阿部雅龍が27日死去、41歳。2018年~19年にかけ、単独徒歩で南極点に到達した人である。

 イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが23日死去、82歳。1960年、18歳でショパン国際ピアノコンクール優勝、ルービンシュタインが絶賛して知られた。その後8年間の空白を経て、1968年から国際的活動を再開し、現代最高のピアニストと呼ばれた。古典から現代音楽まで何でもこなしたが、特にショパン、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどを得意とした。何度も来日したが、聞きにいったことはない。だがクラシック界の貴公子だったポリーニが亡くなったというのはショックだ。自分も年を取ったということだから。
(マウリツィオ・ポリーニ)(ショパン「練習曲集」)
 スウェーデンの世界的陶芸家、デザイナーのリサ・ラーソンが11日死去、92歳。動物をモチーフにした温かみのある作風で知られる。猫のキャラクター「マイキー」などが日本でも人気を集めた。
 (リサ・ラーソン)
 日本では報道されていないが、フィリピンの女優ジャクリン・ホセが3日死去、60歳。80年代から女優として活動し、近年はブリランテ・メンドーサ監督作品で国際的に知られた。『ローサは密告された』(2016)でカンヌ映画祭女優賞を受賞している。最近公開された『FEAST -狂宴-』でも重要な役を演じていたので訃報に驚いた。重厚な存在感で知られた女優だった。またアメリカの俳優ルイス・ゴセット・ジュニアが29日死去、87歳。『愛と青春の旅だち』(1982)でアフリカ系初のアカデミー賞助演男優賞を得た。テレビドラマ『ルーツ』では、主人公クンタ・キンテの友人のバイオリン弾きを演じていた。
(ジャクリン・ホセ)(ルイス・ゴセット・ジュニア)
 アメリカの心理学者、行動経済学者のダニエル・カーネマンが27日死去、90歳。心理学的見地から消費者行動を分析する独自の研究で、2002年のノーベル経済学賞を受賞した。従来の経済学では人間は経済合理的に行動するとしていたが、現実の人間の意思決定ではそういう前提とは異なる習性があることを示した。
(ダニエル・カーネマン)
 元米上院議員のジョー・リーバーマンが27日死去、82歳。2000年の米大統領選で、民主党候補アル・ゴアの副大統領候補となった。これはユダヤ系として初のことだった。1989年から2013年まで上院議員を務めたが、民主党内では最右派に属し最後の任期では無所属となった。地元の予備選で左派候補に敗れて、本選を無所属として戦って当選したのである。イラク戦争支持、同性婚反対などを主張し、2008年大統領選ではオバマではなく「個人的友情」で共和党のマケインを支持した。
(ジョセフ・リーバーマン)
 2000年にノーベル物理学賞を受けたハーバート・クレーマーが8日死去、95歳。受賞理由は「高速エレクトロニクスおよび光エレクトロニクスに利用される半導体ヘテロ構造の開発」。イギリスの脚本家、デヴィッド・サイドラーが16日死去、86歳。『英国王のスピーチ』で米アカデミー賞を受賞した人。イタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジが26日死去、93歳。2002年に静岡県にヴァンジ彫刻庭園美術館が開館したが、23年に閉館した。アメリカの彫刻家リチャード・セラが26日死去、85歳。鋼板による巨大彫刻で知られる。ヴァンジ、セラ二人とも高松宮世界文化賞を受賞している。
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鳥山明、寺田農、天児牛大、坂本長利他ー2024年3月の訃報①

2024年04月07日 21時38分35秒 | 追悼
 2024年3月の訃報特集。まず1日に漫画家の鳥山明が亡くなり、一週間後の8日に集英社から公表された。68歳。若い時の写真しかなくて、近年の肖像写真を公表していなかったのは驚いた。以下の画像は「徹子の部屋」に出演した時のもの(1983年5月4日)。(著名人が亡くなると、テレビ朝日のニュースで大体「徹子の部屋」の映像が流れる。)『Dr.スランプ』の累計発行部数は3000万部、『ドラゴンボール』は2億6000万部を記録。キャラクターデザインを務めた『ドラゴンクエストシリーズ』は、8,800万本の出荷本数というからものすごい。しかし、本人は生まれ育った愛知県に住み続けた。
(鳥山明)
 僕は鳥山明のマンガに関して書けることがない。小さい頃はテレビでアニメをよく見てたけど、大きくなってからは(時間が合わず)見なくなった。鳥山明のマンガがテレビ化され大ブームになったのは、80年代から90年代にかけてで、自分には子どももいないから見る機会がなかった。それでも名前を知っているぐらい有名人だったけど、作家論や作品論は書けない。諸外国でも大きく報道されたが、鳥山明がこんなに世界的に知られていたとは知らなかった。2013年にはフランスのアングレーム国際漫画祭40周年記念特別賞を受けている。内外で「伝説の漫画家」「史上最も影響力のある漫画家」と呼ばれる人だった。

 アニメ関係では、1990年1月からアニメ『ちびまる子ちゃん』の主人公まる子の声優を務めていたTARAKOが死去、63歳。本名は非公表。原作者さくらももこの声に似ていたため、オーディションで抜てきされたという。それ以前に『うる星やつら』『めぞん一刻』などでも声優を務めていたが、本人はシンガーソングライターを目指していてCDも出している。小さな役だが『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』などでも声優を務めたほか、CMやテレビ番組のナレーションも数多く務めていた。
(TARAKO)
 俳優の寺田農(てらだ・みのり)が14日死去、81歳。文学座付属演劇研究所に入所、三島由紀夫作『十日の菊』で舞台デビュー。その後テレビや映画に数多く出演した。1968年の岡本喜八監督『肉弾』で、監督自身の戦争体験を演じて鮮烈な印象を与え毎日映画コンクール主演男優賞。岡本喜八、実相寺昭雄、相米慎二らの監督作品で重用され、相米慎二『ラブレター』では主演を務めた。声優では『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐で知られた。また、一人芝居『土佐源氏』で有名な坂本長利が20日死去、94歳。「ぶどうの会」「変身」を経て、1967年から『土佐源氏』を演じた。これは宮本常一忘れられた日本人』の挿話を一人芝居にしたもので、異様な迫力がある傑作だった。他に日活ロマンポルノなどの映画、テレビ『Dr.コトー診療所』の村長役などにも出ていた。また伝統芸能では能楽の観世流シテ方で人間国宝の坂井音重(さかい・おとしげ)が27日死去、84歳。
(寺田農)(坂本長利)
 舞踏家で『山海塾』主宰の天児牛大(あまがつ・うしお)が25日死去、74歳。1980年代以降、ヨーロッパで「BUTOH」の大ブームを起こした。70年代初頭に土方巽や大野一雄に出会い、舞踏を目指した。72年に麿赤兒の「大駱駝館」の設立に関わり、75年に「山海塾」を旗揚げ。外国での評価が高く、92年フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受けた。世評が高くなって一度見てみようと、世田谷パブリックシアターに見に行ったが、全く理解不能なので驚いた。また舞踏家の中嶋夏が3日死去、80歳。バレエ、モダンダンスを経て、土方巽、大野一雄に師事した後「霧笛舎」を創設して国際的に活躍した。メキシコで死去。
(天児牛大)(中嶋夏)
 美術関係では彫刻家の舟越桂が29日死去、72歳。彫刻家舟越保武の次男で、東京造形大、東京芸大大学院で彫刻を学んだ。クスノキの半身像に着彩し目に大理石を入れ、詩的で端正な人物像で知られた。独特の憂愁や精神性はキリスト教信仰から来ると言われる。海外でも高く評価された他、本の装幀に多く使われた。天童荒太『永遠の仔』は特に印象的だった。中原悌二郎賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。また画家、美術評論家の谷川晃一が10日死去、86歳。60年代は前衛美術運動に参加していたが、88年に伊豆高原に拠点を移して素朴な画風に転じた。評論、エッセイの他、絵本など著書多数。妻は故・宮迫千鶴。
(舟越桂)(谷川晃一)
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小澤征爾、赤松良子、山本陽子、赤堀政夫他ー2024年2月の訃報①

2024年03月07日 22時13分38秒 | 追悼
 2024年2月の訃報特集。先月はロシアの反体制派指導者ナワリヌイ氏の訃報は別に書いた。世界的に大問題となったが、ここではそれ以上書かない。それ以外では、まず指揮者の小澤征爾が2月6日に亡くなり大きく報道された。88歳。何しろ翌日の朝日新聞は、2面全部を使って村上春樹の追悼文を掲載したぐらいで、これには驚いた。小澤征爾には大江健三郎との対談『同じ年に生まれて:音楽、文学が僕らをつくった』という本がある。この世代(特に男性)がどんどん物故している。僕は小澤征爾について全然知らない。母親の小澤さくら、娘の小澤征良の本は読んだのに、小澤征爾のコンサートには一回も行ってない。カラヤンやベームの来日公演には行ってるが、やはり日本の指揮者に関心がなかったのかもしれない。レコードやCDさえ持っていないのだから。
(小澤征爾)
 ボストンやウィーンが本拠地だったから、なかなか聴く機会もない。晩年になってサイトウ・キネン・オーケストラが毎夏松本でやってたが、あっという間に高額なチケットが売り切れてしまう。僕も一度は見たかったのである。小澤征爾が海外に本拠を移したのは、1962年の「N響事件」がきっかけとなった。NHK交響楽団と揉めて契約を解除されたのである。大問題となって、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、武満徹らが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、日比谷公会堂で日フィルを指揮して実現したという。「征爾」の名は、「満州国」を作った軍人、板垣征四郎、石原莞爾から付けられたのは有名。
(小澤征爾)
 元労働省官僚で「均等法の母」と呼ばれた赤松良子(あかまつ・りょうこ)が6日死去、94歳。1953年に東大を卒業して労働省に入省、婦人少年局に配属された。1979年には国連公使として、女子差別撤廃条約に賛成票を投じた。1982年に婦人少年局長に就任し「男女雇用機会均等法」の立案に当たった。(85年成立。)その後、ウルグアイ大使などを歴任。退官後の1993年、非自民の細川内閣成立に際して、民間人枠から文部大臣に就任した。その後、2008年に日本ユニセフ協会会長に就任し、死去まで務めていた。最後まで選択的夫婦別姓制度や「クオータ制」(候補者に一定の女性を割り当てる)などの実現に向け活動した。
(赤松良子)
 女優の山本陽子が20日に死去、81歳。1963年に日活ニューフェースとして芸能界入りしたが、当時の日活には若手人気女優が多く脇役が多かった。70年頃からテレビや舞台で活躍するようになり、大河ドラマ『国盗り物語』や『となりの芝生』などで人気を得た。71年に森光子主演の『放浪記』で初舞台を踏み、94年の『おはん』では紀伊國屋演劇賞を受賞し、400回以上上演された。この人を一番見ているのはテレビCMで、山本海苔店との契約が42年に及び、ギネス世界記録に登録された。その印象から和服の印象が強いが、実生活ではジーンズでポルシェに乗るのが好きだったという。2月2日放送の「徹子の部屋」に高橋英樹とともに出演していた。誰が死んでも黒柳徹子との映像が出て来るのがすごい。
(山本陽子)
 女性史研究者のもろさわようこが29日死去、99歳。本名は両沢葉子。長野県に生まれ、地方紙記者などを経て、市川房枝主宰の「婦人問題研究所」の所員として「婦人展望」の編集者となった。その後女性史を研究し、『おんなの歴史』(1965)『信濃のおんな』(1969、毎日出版文化賞)など数多くの著書を通じて、先駆的な女性史研究を行った。82年に佐久市に「歴史を拓(ひら)くはじめの家」を開き、沖縄県南城市、高知市にも同様のオープンスペースを開設して晩年まで行き来しながら活動を続けた。
(もろさわようこ)
 元参議院副議長を務めた角田義一(つのだ・ぎいち)が23日死去、86歳。保守系が圧倒的に強い群馬県で長年野党系の中心として活動した。県議を経て社会党から国政に挑んだが2度落選、3度目の1989年に初当選した。95年に再選、その後民主党に移って、01年に3回目の当選を果たし、04年に参院副議長に就任した。しかし、07年に闇献金疑惑が報道され副議長を辞任した。07年参院選には立候補せず引退し、元の弁護士を続けながら、民進党、立憲民主党で活動した。群馬県民の森にあった「朝鮮人労働者追悼碑を守る会」の共同代表を務めて、撤去に強く反対していた。
(角田義一)
 2月24日に仲宗根美樹が死去、79歳。両親は沖縄出身だが疎開先の東京で生まれた。61年の「川は流れる」が大ヒット、62年以後に紅白歌合戦に5回出場した。71年に結婚して引退(その後、離婚・再婚)、歌手としては忘れられた感があるが60年代に人気歌手だった記憶はある。また「内山田洋とクールファイブ」メンバー、小林正樹が15日に死去、81歳。毎月歌手の訃報が続いている。
(仲宗根美樹)
 ダイソー創業者で、大創産業の社長、会長を務めた矢野博丈(やの・ひろたけ)が12日死去、80歳。若い頃は転職を繰り返したが、72年に東広島市で移動販売の「矢野商店」を創業。倒産した商品を引き取り移動販売するうちに、全品100円という販売方法に商機を見出した。77年に大創産業、87年から100円ショップの全国展開、01年には海外にも進出。国内4300店、海外25か国990店を有する規模に育て、「100円ショップ」「百均」という業態を確立した人物である。訃報で名前を知った人。
(矢野博丈)
 作家では児童文学者の谷真介(7日死去、88歳)、ミステリーの梓林太郎(1.27日死去、91歳)。スポーツで64年東京五輪レスリング、グレコローマンフライ級金メダルの花原勉(5日死去、84歳)。映画プロデューサーの叶井俊太郎(かない・しゅんたろう、16日死去、56歳)はフランス映画『アメリ』を買い付けて大ヒットさせた。漫画家倉田真由美の夫としても知られた。フジテレビのプロデューサー、黒木彰一(13日死去、54歳)は「笑っていいとも!」「SMAP×SMAP」などを担当した。物理学者俵好夫(13日死去、91歳)は俵万智の父だが、70年代に(当時は)世界で一番性能の高いサマリウムコバルト電池を発明した。佐々木宏幹(ささき・こうかん、26日死去、93歳)は、宗教人類学者でシャーマニズム研究の第一人者。もう一人、安倍晋三元首相の母、安倍晋太郎元外相の妻、岸信介元首相の娘である安倍洋子(4日死去、95歳)の訃報もあった。
 
 死刑確定事件で4件目の再審無罪判決を受けた赤堀政夫が22日死去、94歳。1954年3月に静岡県で起きた幼女殺害事件「島田事件」で逮捕、起訴され、60年に最高裁で死刑が確定した。83年5月に東京高裁が新証拠で自白の信用性が揺らいだとして再審開始を決定。その後高裁が検察の即時抗告を退け、87年に再審が始まり89年1月に無罪となった。この事件には深刻な問題(社会的偏見や鑑定の間違いなど)があった。80年代には免田事件、財田川事件、松山事件の3事件で「死刑から無罪」という再審事件があった。その被害者は赤堀さんで皆亡くなったことになる。そして今5件目の袴田巌さんの再審が開かれている。
(赤堀政夫)
 外国ではイタリアの映画監督パオロ・タヴィアーニが29日死去、92歳。兄のヴィットリオとともに、脚本、演出を共同で「タヴィアーニ兄弟」として映画を作ったことで知られる。『父 パードレ・パドローネ』(1977)でカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。その他幾つもの名作を作ったが、2018年に兄が死去。その後も一人で映画を作り『遺灰は語る』(2022)はベルリン映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。日本公開時にはここでも紹介した。映画では『ロッキー』で敵役アポロ・クリードを演じたカール・ウェザースが1日に死去、76歳。
(パオロ・タヴィアーニ)
 マラソン世界記録保持者のケルビン・キプタムが11日にケニアで交通事故死、24歳。2023年10月のシカゴ・マラソンでキプチョゲの記録を34秒更新する2時間0分35秒をマークした。世界初の2時間切りを実現するとしたらこの人と言われていた。
(キプタム)
 他にノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが17日死去、93歳。「平和学の父」と呼ばれる。貧困や差別のない「積極的平和」という概念を提唱したことで知られる。日本でも中央大、立命館大などで教えたことがあり、多くの邦訳書がある。ソ連時代の元首相ニコライ・ルイシコフが28日死去、94歳。ゴルバチョフ書記長のもと、85年に首相となってペレストロイカを推進したが、次第に保守化して90年に解任された。ソ連崩壊後に一時国会議員を務めた。カナダの元首相ブライアン・マルルーニーが29日死去、84歳。1984年から93年まで進歩保守党で首相を務め、アメリカとの自由貿易協定を締結した。
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ベッケンバウアー、中岡哲郎、西嶋勝彦他ー2024年1月の訃報②

2024年02月09日 22時43分14秒 | 追悼
 2024年1月の訃報特集2回目。ドイツ(旧西ドイツ)のサッカー選手、監督のフランツ・ベッケンバウアーが1月7日死去、78歳。「皇帝」(カイザー)と呼ばれたサッカー界の巨人で、訃報は日本でも大きく報じられた。1974年ワールドカップ西ドイツ大会で主将を務めて優勝した。その後代表監督となり、1986年は準優勝、1990年ワールドカップイタリア大会では優勝した。選手、監督双方で優勝を経験したのは二人目とされる。守備選手でありながらボールを奪ったら攻め上がる「リベロ」のポジションを確立させた。近年マラドーナ、ペレなど伝説的サッカー選手が次々と亡くなっているのは残念。日本でも知名度が高く、名前にちなんで「別件バウアーですが」などという表現があったぐらいである。
(ベッケンバウアー)
 技術史家の中岡哲郎が6日死去、95歳。大阪市立大学名誉教授。活躍していた時代には相当の知名度があったと思うが、訃報は非常に小さかった。言論活動をしていたのはネット時代以前なので、顔写真が出て来ないぐらいである。『工場の哲学』『技術文明の光と影』『日本近代技術の形成』など一般向け著作多数がある。現代の工業化社会に警鐘を鳴らす人だったと思うけど、読んでないからよく知らない。研究者の訃報をまとめると、マルクス経済学者の大内秀明が9日死去、91歳。東北大名誉教授。宇野弘蔵やマルクスに関する多くの著作があるが、最晩年には宮澤賢治やウィリアム・モリスを論じていた。ドイツ文学者の谷川道子が9日死去、77歳。東京外国語大学名誉教授。ドイツ現代演劇が専門で、ブレヒトやハイナー・ミュラーの著作を多く翻訳している。
(中岡哲郎著『近代日本技術の形成』)
 弁護士から2人。袴田事件再審弁護団長西嶋勝彦が9日死去、82歳。この人の生涯を調べると、若くして加わった八海事件に始まり、仁保事件、徳島ラジオ商事件、島田事件など戦後を代表する冤罪事件の弁護に加わってきた。島田事件が再審無罪を勝ち取った後に袴田事件に加わり、94年から弁護団長を務めていた。もうすぐ終わる前に亡くなるのは無念だろう。もう一人、山本博弁護士が17日死去、92歳。この人は弁護士以上にワイン評論家として著名で、多くの著作がある。日本にワイン文化を定着させた最大の功労者。僕もワイン本で名前を記憶している。本職は戦後を代表する労働弁護士で、何しろ砂川事件弁護団に始まり全逓中郵事件など戦後の代表的労働事件を担当した。日本労働弁護団名誉会長。そして21世紀には主に翻訳家として活動、エド・マクベインやロバート・B・パーカーなどハードボイルドの翻訳をしていた。それも名前を見たことがあるが、同一人物とは知らなかった。
(西嶋勝彦)(山本博)
 アマスポーツ界の「ドン」が二人亡くなった。田中英寿が13日死去、77歳。青森県出身で早くから相撲で活躍。日大に入学して、69、70、74年と3度アマチュア横綱になった。プロ入りしたら大関は間違いないと言われたが、アマを続けて80年に現役引退、83年から日大相撲部監督となった。高見盛、舞の海、遠藤など多くの人気力士を育てた人である。国際相撲連盟会長、日本オリンピック委員会理事、副会長も務めたが、2005年に「週刊文春」に暴力団との交際が報じられ辞任した。ところでこの人を皆が覚えているのは、2008年から21年まで日大理事長を務めていたからだ。そして数々のスキャンダルが報道され脱税で逮捕、起訴された。元日本ボクシング連盟会長の山根明が31日に死去、84歳。奈良県をボクシング王国と呼ばれるまでに育て、2011年ボクシング連盟会長となり、翌年に終身会長となった。二人は交友があり、2018年4月に山根が日大客員教授になっている。しかし、田中に先立ち、2018年に多くの不祥事が告発され年末に連盟から除名された。二人ともさすがの「面構え」がテレビ映えしていた。
(田中英寿)(山根明)
 財界では、元アサヒビール会長の福地茂雄が29日死去、89歳。99年に社長、2002年から2006年まで会長を務めた。しかしこの人が知られているのは、本業以上に2008年から11年に第19代NHK会長になったからだ。当時の古森経営委員長と親しく、就任には反対意見も強かった。元リコー社長で経済同友会代表幹事を2007年から2011年に務めた桜井正光が24日死去、82歳。リコーで初の技術系出身社長で、11年間務めて業績を大きく伸ばした。今調べたら都立墨田川高校出身だった。

 昨日の書き忘れだが、作家の利根川裕(とねがわ・ゆたか)が29日死去、96歳。『宴』(1966)が評判となった他、映画化された『喜屋武マリーの青春』(1986)など著書多数。またテレビ朝日の深夜番組『トゥナイト』の司会を1980年から94年まで務めた。経済評論家の山崎元が1日死去、65歳。個人投資家向けの判りやすい本を多数書いた。保守系では日本会議会長を務めた田久保忠衛が9日死去、90歳。時事通信外信部長などを歴任。他に大きく騒がれた訃報に、漫画家の芦原妃名子(25日死去、50歳)と「桐島聡容疑者を名乗る人物」(29日死去)の訃報があるが、今はよく判らないので書かないでおきたい。
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