尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

那須・温泉と歴史の旅

2012年04月28日 00時59分34秒 |  〃 (温泉)
 那須方面に2泊の旅行。なんで今頃かというと、「休暇村那須」の50周年プランがあって、さらに40日以上前早割で6700円なのを発見したわけ。(GWからは高くなって、もうこのプランはない。)せっかくだから、泊まったことがない近くの板室温泉にも泊って2泊の旅行。

 今回は最初の日を除いて雨。本当は「那須平成の森」に行ってみたかった。(施設自体には見に行ってみたけれど。)「那須平成の森」というのは、2011年5月にオープンしたばかりだから、まだ知らない人が多いと思う。那須御用邸の一部が環境省に移管されて自然と親しめるふれあいの場として開設された自然公園である。誰でも歩けるゾーンもあるけど、予約してインタープリターと行く3時間の「ガイドツァー」でしか行けないゾーンもある。そういう新しい発想の自然と親しむ場所として、是非一度行ってみたかった。ただ、今回は予約満杯で、ガイドツァーはもともとダメだったんだけど。

 温泉は昨年はなかなか新しいところへ行けず、今まで行った数が360台で停滞中。関東の温泉地でまだ行ってない数少ない一つが那須と塩原の間にある、板室(いたむろ)温泉。(栃木県の一番北の方。)「国民保養温泉」に指定されている「湯治場の雰囲気を残す」温泉である。泉質は無色透明のアルカリ泉で、肌がスベスベになる。宿泊はどこにしようかと迷ったんだけど、「勝風館」にしたのは「ムアツフトンの宿」だからである。昭和西川のムアツフトン、これは慣れると止められない。今までにもムアツで泊まった宿があるけど、是非多くの宿でも取り入れて欲しい。この宿は実におばあちゃんの長逗留の多いようでびっくり。きっと効能がいいからに違いない。1泊7500円。2~5泊6555円。6~9泊6430円。10泊以上6135円。(2人以上の場合。一人だと1050円増し。)という値段設定を見よ。食事は家庭料理で特別豪華なものはないし、トイレも共同だけど、親切な感じで好感の持てる旅館だった。板室温泉は、宿泊客に限り他の旅館の風呂にも入れる企画をやっているのもいい。(ただし、全部の宿ではない。16時までと言う所もあるので、早めに着いた方がいい。)僕は「加登屋旅館」の湯へ行ってみた。掛け流しの湯をひとり占め。(別館の方。古いムードの木造で有名な「本館」はやっていない。)
  (前が勝風館と風呂。最後が加登屋の風呂。)
 「休暇村那須」には、那須湯本温泉を過ぎて、ロープウェイ乗り場をめざしてどんどん車で登って行く。1230mの別天地というけど、まだ雪が端の方に積みあがってる。雨というより霧がたちこめ、視界が全く聞かない。宿に入ってからは風も強くなる。食事はバイキングだけど、いろいろのものがあって値段の倍くらい食べた感じ。お風呂は前に行ったことがある大丸温泉の湯で、循環だったけど大きいからやむを得ないのだろう。今回は宿と温泉に関しては、コストパフォーマンスとして満足、満足。

 さて、雨で山歩きがダメだから、今回は那須野が原の歴史中心に回ることにした。那須・塩原方面のガイドブックに出ていない歴史ツァーである。那須連山のふもとの「那須野が原」は、水資源に乏しい扇状地で、明治になって「那須疎水」ができるまで開発が進まなかった。しかし、それは中世以後の話で、古墳時代までさかのぼると、関東と奥州を結ぶ地帯として古墳が多く作られ栄えた。それを証明するのが国宝那須国造碑」(なすの・くにのみやつこの・ひ)である。現在大田原市の笠石神社にある。近くに「なす風土記の丘資料館(湯津上館)」が作られ、レプリカが展示されている。資料館のほぼ真ん前に「下侍塚古墳」(しもさむらいづか=前方後方墳)がある。この地域には国指定史跡が集中しているが、これもその一つ。そして日本の考古学史上、初の本格的な学術調査の行われた場所として有名なところである。時は元禄の世、1692年のこと。何と水戸光圀公こそが、その調査のプロデューサーだった。さらに車を走らせると、「那須郡衙(ぐんが)遺跡」が発掘された近くに、「風土記の丘資料館(小川館)」がある。共通券なので両方行くべし。那須と言ってもずいぶん茨城に近い方で、ここらまで那須野。
   (国造費解説、湯津上資料館、下侍塚古墳)
 という古代探訪から、今度は一気に近代へ。この地域には「三島」「青木」といった地名が残っている。那須疎水完成後、政府は那須野を払い下げ、競ったように明治の元勲がこの地域の開拓に乗り出したのである。三島通庸、青木周蔵、大山巌、山縣有朋、松方正義らである。知ってるかな。最後の二人が総理経験者。どちらかというと歴史の悪役みたいな人も多いけど。このうち、自由民権の弾圧知事として有名な三島の別邸は焼けて、跡地が那須野博物館になっている。(栃木県令の三島が払い下げを受けるのもどうかと思うが。)それ以外の人の別邸は残っている。またここらは乃木将軍の別荘があった場所としても知られている。那須野に残る近代史跡の素晴らしさはもっと多くの人に知られて欲しい。

 建物で一番素晴らしいのは、内部まで公開されている「青木別邸」である。これは外相や駐英公使として条約改正に務めた青木周蔵の建てた洋館で、とても美しい。今は道の駅「明治の森・黒磯」として整備されていて、レストランや物産館もある。国指定重文で、夫人がドイツ人だったからか本格的洋館として見所が多い。ここは前に見たので今回はパスして、ジェラートを食べただけ。
 
 今も発展しているところと言えば、薩摩出身の総理大臣(というより大蔵卿時代の「松方デフレ」で有名な)松方正義の開いた松方農場で、これが今の「千本松牧場」である。西那須野塩原インターを出てすぐ。前にも行ったことがあるけど、今回は雨が小康状態だったので、中をゆっくり歩いてみた。桜が道に散りしきっている。牧場の端の方にある「松方別邸」も遠望することができる。まだ松方家が使っているとのことで非公開。場所は千本松農場にある地図をじっくり見るとわかる。裏道もあって裏も見られる。ここはおみやげも豊富、牛乳やヨーグルトもおいしいし、動物とふれあったりスポーツもできるので家族連れで楽しめる好スポット。(1日目の宿にあった「牛乳無料券」で飲んだ牛乳が美味しかったので、ヨーグルトやシュークリームを買って2日目の宿で食べてしまった。まさに無料券を配る目論見通りだけど、美味しかった。)


 塩原には乃木神社があり、そこに「乃木別邸」がある。これは洋館ではなく和風である。この家は乃木がヒマな時代に「晴耕雨読」していたところで、地域一帯に乃木将軍の逸話が多い。乃木将軍が行った温泉で有名なのが大丸温泉。乃木温泉というホテルもある。2012年は明治天皇没後100年、つまり乃木「殉死」100年である。乃木希典も振り返られるのだろうか。家の前に池があり、これは戦後出来た池だが、夫人の名を取って静池という。池越しに別荘を望むと少し見える。別荘の周りは自然に囲まれた林になっていて、気持ちいい散歩コース。
 
 乃木別邸から少し行くと、大山巌の開いた大山農場があったところで「大山別邸」がある。大山は長く陸軍に君臨し元老となった人物。今は「那須拓陽高校」の農場となっていて、別邸は公開されていないので道に案内がない。だから探すのに苦労したが、「大山農場」がヒントになって見つけることができた。ただし高校の管理下にあることを踏まえて連絡をすれば外観は見学可能。
 塩原から矢板に入ると、長州閥の親玉で首相も務めた山縣有朋の農場があったところ。山縣は目黒の椿山荘を初め庭園を残した人でもある。小田原にあって関東大震災で倒壊後に移築された「山縣別邸」がここにあり、山縣有朋記念館になっている。写真の左側洋館が有朋時代も建造で、右は後で作られたもの。 
  (左が大山別邸、右が山縣別邸)
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映画「ルート・アイリッシュ」

2012年04月24日 21時24分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 ケン・ローチ監督のイギリス映画「ルート・アイリッシュ」を銀座テアトルシネマで上映中。(5月11日まで11時55分、16時35分の2回上映。)

 イギリスというか、世界を代表する社会派中の社会派、ケン・ローチ監督の2010年の新作「ルート・アイリッシュ」。この監督にはアイルランドの独立闘争を描いた「麦の穂をゆらす風」という傑作があったから、題名だけみるとアイルランド問題の映画かなあと思うけど、これはイラク戦争の話「民間兵」の悲劇を扱っている。あまりにいろいろな問題が起こるので、もうなんだかアメリカ兵の撤退でイラクのことは忘れがちである。この映画は2007年という設定だが、軍ではなく「民間会社」の社員として危険な戦争に関わる男たちの映画である。

 「ルート・アイリッシュ」というのは、バグダッド空港と米軍管轄区域グリーンゾーンを結ぶ「世界一危険な道路」のこと。そこでテロ攻撃があって死んだ英国人フランキー。しかし、彼の死は偶然だったのか。彼が残した携帯電話にある映像は、同僚のショッキングな出来事を示していた。その事件を隠すことが事件の真相なのか。家族同様に育ったファーガスは、フランキーの妻とともに真相を追い求める。会社が悪いのか、仲間にやられたのか。というミステリー仕立てで映画は進んで行く。

 しかし、映画はイラクの戦場を知るファーガスの心の闇にも迫り、悲劇の深さを示す終幕へ続いて行く。この映画は、カンヌ映画祭に出品されたが無冠で終わった。映画としては、ケン・ローチとしては普通かなとも思う。常に、移民問題、虐待、貧困、戦争などをテーマにしてきた監督だが、時々はずすこともある。前作「エリックを探して」など、サッカー選手エリック・カントナを主人公に迎えて作った喜劇だが、ラストは「トンデモ映画」に近い、不思議な映画だった。この映画もどうしようかなと思ったんだけど、やはり巨匠、観る価値はあった。見逃さないように紹介する次第。

 「戦争の民営化」は最近よく言われる。もちろん戦闘行為そのものは軍が行うわけだが、後方の「治安維持」などは「警備会社」と言う名の戦争会社に委託するわけである。こうして軍の関与を減らすことができる。警備員が勤務中に襲われるのは、「労災」かもしれないが「戦死」にはカウントされないわけである。そしてそういう戦争請負会社が成長し、政治にも影響力を持つようなことが米英では見られるらしい。そういう「戦争の現代化」の実態を暴く映画

 今日の東京新聞夕刊に吉武輝子さんの追悼文を樋口恵子さんが書いている。その中に以下のような部分があった。「すべての活動の根底に、終戦直後に米兵から受けた性暴力の経験がある。だから、全身全霊を挙げて暴力を憎み平和を希求しつづけた。一昨年、私が代表を務めるNPOの大分集会「平和を語るフォーラム」で吉武さんは言った。『男は乱暴する性、女はされる性、ではありません。軍隊は男の人格を踏みにじります。それが女に向けられるのです。』」
 その「軍隊は男の人格を踏みにじる」ということがよくわかる映画であると思う。直接は性暴力の映画ではないけれど。
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淡島千景追悼上映と淡路恵子トークショー

2012年04月22日 00時16分58秒 |  〃  (旧作日本映画)
 訃報を聞いた時に追悼・淡島千景を書いたが、淡島千景の追悼上映が池袋の新文芸坐で始まった。今日は淡島千景を姉と慕う淡路恵子のトークショーも行われた。淡路恵子はまだSKD(松竹歌劇団)の研究生だったときに黒澤明監督の「野良犬」に抜擢された。そのときに淡島千景に憧れていたので、「淡」の字を入れた芸名にしたくて淡路島とは何の関係もないけど「淡路」とつけ、名前の方は黒澤監督が付けてくれたという。期せずしてそれは淡島千景の本名と一致していたということだ。
(淡島千景)
 淡島千景は宝塚出身だが、淡路の時代は戦後の食糧難の時代で関西在住者しか宝塚を受験できずに仕方なく松竹を受けたのだという。映画でも淡島と淡路は共演が多い。しかし、映画界衰退後、舞台で「毒薬と老嬢」をずっと姉妹役で共演してきた思い出が多いということだった。淡路が夫だった萬屋錦之介の舞台の相手に淡島千景を推薦した話、デパ地下に行ったことがなかった淡島を案内して一緒に行ったときの話など、「お姉ちゃん」との思い出をきびきびと楽しそうに語って飽きない感じ。本当に敬愛していたのだなあという気持ちが伝わってきた。
(淡路恵子)
 映画は「夫婦善哉」(1955)と「新・夫婦善哉」(1963)。「夫婦善哉」は何十年ぶりの再見。しかし「新」は初めてである。そっちで淡路と共演している。森繁が淡路と浮気し東京まで行ってしまう。淡路には「兄」と称する小池朝雄という愛人がいる。なんか成り行きで、森繁と小池が淡路を真ん中にして三人で寝る場面があって、おかしいことこの上ない。
(「夫婦善哉」)
 小池朝雄は、「刑事コロンボ」の声をやった人で記憶されている。文学座分裂後に福田恒存とずっと行を共にした舞台人であり、「仁義なき戦い」シリーズでも活躍した。1985年に54歳で死去。森繁や淡島のように長命に恵まれなかったが忘れがたい俳優である。映画の方は、前作で幼かった森繁(維康柳吉)の娘がすっかり大きくなって、藤田まことがやってる医者と結婚する。森繁は安房鴨川で養蜂を始めようとして、最後は淡島が「頼りにしてまっせ」という。前作と反対。続編があることを知らなかった。

 「夫婦善哉」は、たまたま成瀬巳喜男の超名作「浮雲」と同年に当たってしまった。ベストテンも1位と2位。淡島の一代のはまり役も、「浮雲」の高峰秀子が相手では演技賞がほとんど来なかったのもやむを得ない。どっちも「腐れ縁」の成り行きを描く名作だが、波乱万丈の末どんどん落ちて行く転落の様は「浮雲」の方が深い。「夫婦善哉」ではやはり「船場の名家」とか「芸者」とかいうプライドや名誉をめぐる意地の張り合いが大きい。

 今後のスケジュールとしては、当時大ヒットした「大番」の正続、駅前シリーズの第1作「駅前旅館」(井伏鱒二原作)、小津安二郎の名作中の名作「麦秋」、一葉原作を3話オムニバスで描いた「にごりえ」(「東京物語」「雨月物語」を押さえ、当時キネマ旬報ベストワンになった)などの上映がある。あまり知られていない作品では、清水宏監督「母のおもかげ」が感銘深い。「鰯雲」は戦後の厚木近辺の農村の変容を描き、貴重な現代劇の役柄。2010年の「春との旅」が最後の作品。
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死刑制度をめぐる小論②

2012年04月20日 22時06分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度についての続き。小川法相は執行にあたって「国民の声を反映した裁判員制度でも死刑が支持されている」と述べている。また世論調査でも死刑容認派が85%を超えていることも理由に挙げている。これが納得いかないのである。世論調査は確かにその通りだけど、では原発や消費税の問題も世論調査で決めるのか。そうだったら首尾一貫しているが。

 これは市民運動や評論家などにも言えることだけど、リーダー層は世論調査の結果を自分の言動の理由として語るべきではないと思う。民主主義なんだから最終的には国民が決めることになる。しかし、政治家や「知識人」は自分が正しいと思うことを発信すればいいのである。それを聞いた国民の方が、それが正しいかどうかを判断する材料にするわけである。ところが、逆にリーダー層の方が「世論調査はこうなるだろう」と「空気を読んで」言動を決めたのでは本末転倒である。そういうことをしていたら、国民に人気がない政策は誰も打ち出せないし、世論調査通りに政治を行うんだったら政治家もいらない。かつて1980年にフランスのミッテラン政権で死刑を廃止したときも、世論調査では死刑賛成の方が多かったのは有名な話である。しかし、国家のあり方をめぐる基本問題だから国会の議論で決定したわけである。そしてその後、与野党は入れ替わったりしているが、死刑廃止は定着している。

 その世論調査であるが、「基本的法制度に関する世論調査」(平成21年12月)の結果を見ると、確かに賛成派が多いようにも見える。しかし、この調査は「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」という二つの意見の二択という変な聞き方をしている。その結果「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」が5.7%「場合によっては死刑もやむを得ない」が85.6%ということになる。なお「わからない」が8.6%である。だから「わからない」と答えるのはありなんだけど、「どんな場合でも反対」と「場合によっては賛成」を聞くだけでは正しい調査とは言えない。(「場合によっては反対」「どんな場合も賛成」を選択肢にいれないと論理的におかしい。)逆に考えれば「どんな場合でも賛成」が誰もいないのだから、これは廃止論の根拠にもなりうる結果ではないのか。他の調査にも言えることだが、行政の行う世論調査というのは、聞く設問がおかしいことが多い。

 「裁判員裁判で死刑判決が出ている」ということも死刑制度そのものの議論とは関係ない。現に刑法に死刑がある以上、「判例」を全く無視していいなら別だけど、中には死刑判決があるのは当然である。死刑制度を置いているから死刑判決が出るだけなのであって、死刑を置いている側の法務省や国会議員がそれを「死刑賛成」の理由にするのは不当である。

 ということで、僕は死刑を執行する理由としてどれも納得できない。それは「こういう理由で死刑に賛成で、死刑制度は意味のある制度である」という発信を国家の側で全くしないことへの不信である。今現在「死刑制度がある」のでそれを維持し続けるというだけで、以前の原発政策と同様である。「すでに原発があるから続けて行く」というだけで、思考停止状態である。そして具体的な細部の問題は全然情報を公開しない。議院内閣制だから行政府の長は(ほとんど)立法府の一員である。「つらい職責」なんだったら法を改正して廃止すればいいではないか。自分がルールを決定する立場にある人が、「ルールがあるから変えられない」というのは変である

 よく「法律にあるのだから法相は死刑を執行すべきである」などという人がいる。しかし法律にあることを実行していくだけなら官僚の仕事である。政治家である国会議員が大臣をしている意味は、法律の改廃と言う「政治的行為」を課しているということであるはずだ。こういう風に死刑存廃の議論を打ち切って執行を再開するというあり方の中にも、「政治主導」が全く意味を失い、単なる「官僚主導」に戻ってしまった野田内閣の現在があると思うのである。
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死刑制度をめぐる小論①

2012年04月20日 00時13分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度に関して、何回か。僕はずっと昔から死刑制度廃止論者で、廃止運動のまとまった集まりである「死刑廃止フォーラム90」にも90年の発足当時から賛同会員になっている。僕の中では解決してるので、実はあまり書く気がしない。書きだすと100回くらい必要になると思うし、すぐ書けるけど。死刑に反対ならどんどん書けばいいと言われるかもしれないが、「死刑制度は死刑存置論によって存在しているわけではない」と思っている。死刑制度を存在させているのは「死刑存置感情」なので、それに対抗して「死刑廃止論」を展開しても、かえって「またリクツで論を立てている」と思われるだけで、議論が成立しないのではないかと思っているのである。

 では、今回書くのは何故なのかというと、野田内閣や橋下「維新の会」を考える前提として、死刑制度の問題を考えてみたいのである。さて、3月29日に小川敏夫法務大臣の指示で、3人の死刑が執行された。1年8か月ぶりで、2011年は一回も死刑執行がなかった。それは江田五月、平岡秀夫という死刑反対派が法相だったことが大きいのだろうと思う。昨年暮れに、一川防衛相、山岡国務相(国家公安委員長、消費者担当相)に対する「問責決議」が参議院で可決された。それを受けて野田首相は1月初めに内閣改造に踏み切ったが、両大臣の交代、岡田克也副首相の登用が注目される中、その時なぜか法務大臣が平岡秀夫氏から小川敏夫氏に交代した。後から報道されたところでは、平岡法相は死刑存廃の議論を法制審議会に諮問する考えを示していたらしい。どうも死刑制度の問題で異例の法相交代(他の閣僚はほとんど交代していない)が起きたのではないか。

 新任の小川法相は就任当時から執行再開に積極的な意向を示していた。だから執行そのものは意外ではないと言えるが、その理由づけと日付には考えさせられた。(理由づけの問題は次回。)昔は国会開会中は執行しないものだったが、近年はそれは無視されている。多分、「平成23年度内の執行」ということなのだろう。前回は2010年7月、その前は2009年7月で、「4月から3月までの会計年度」で見れば、死刑執行がない年度はなかったことになるのである。

 しかし、ちょうど執行前日の28日の新聞(発表は27日)に、アムネスティ・インターナショナルは、2011年の死刑執行状況を報告している。計198国中、執行があったのは20か国。多い順に、中国(670以上)、イラン(360)、サウジアラビア(82)、イラク(68)、米国(43)、北朝鮮(30)となっている。中国や北朝鮮は完全な執行数は判らないので、もっと多いだろうと思う。これらの国の名前を見れば、人権状況に問題がある国、米国が「ならず者国家」とかつて呼んだ国や、そこに戦争を仕掛けて自らも好戦国家と言われる米国(死刑を廃止した州もある)などの名前がずらっと並んでいる。ここに名前を連ねるのは不名誉なことではないのか。法務官僚はそういう世界の状況を知らないはずはない。このままいつまでも死刑制度を維持していけるのか、何も感じないのだろうか。

 アムネスティのサイトを見れば、1978年には「廃止国60 存置国122」だった。それが2009年になると「廃止国139 存置国58」に大きく状況が変わっている。もちろん世界がどうあろうと、日本が独自の政策を取るということもあってよい。でも他の問題では「世界では」「グローバル化」などと言ってる人が、死刑制度の問題を避けているのが不思議なのである。法務官僚は「議論しなくていい状況」だと本当に思っているのだろうか。この、「世界の状況への鈍感さ」が他の問題にも通じる現在の日本の大きな問題なのではないかと思う。
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「原野商法」をすすめる石原都知事は「背任」

2012年04月18日 20時11分10秒 | 政治
 石原慎太郎都知事が「都が尖閣諸島を買う」などという発言を海外で行った。最近は大阪や名古屋に「妄言」パワーを奪われてしまい、何か全国に話題になるようなテーマを求めていたのだろうか。これを「壮挙」などという人がいるので始末に負えない。尖閣問題は国家の問題であって、都税を使うような問題ではない。当たり前ではないか。緊急にちょっと。

 尖閣諸島は(国民としては意味はあるが)、都民としては購入しても全く意味がない。「都民も行けばいい」などと言っているが、行っても何もないから「国境のもめてる地域に行ってみた」体験をするだけである。工場も農地も保養所も作れない。そういう土地を買うことに都の税金を使うという発想。自分の思想、信条のために税金を私物化して何とも思わないのである。これは民間企業なら「背任」として刑事問題になるだろう。全く会社の利益にならない土地に対して、社長が購入計画を立てている。「原野商法」に引っかかったのである。コンプライアンスはどうなってるんだ?

 折しも今日、都は首都直下型地震の被害想定の見直しを発表した
 「首都直下型地震、死者2倍に…都が新被害想定」(読売新聞)「東京都は18日、首都直下で起きるとされる東京湾北部地震(マグニチュード=M=7・3)で、都内約30万棟の建物が全壊し、約9700人が死亡するとの新たな被害想定を発表した。都内の最大予測震度を6強から7に上方修正した文部科学省研究チームの分析を基に推計した結果、死者数は前回想定(2006年)の2倍近くになった。帰宅困難者も約70万人増えて517万人に上るとした。」

 オリンピック招致も断念し、震災対策を進めるべきだ。それなら都税を払う意味を認めるが、尖閣を買うような金があるなら都税を減税してくれ。

 ところで、日本は尖閣諸島に対してどのような立場を取っているのだろうか。それは外務省のサイトで明確にされている。「尖閣諸島の領有権についての基本見解」である。Q&Aにあるように、「尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しません。」というのが日本政府の基本的立場である。「北方領土」はロシアとの平和条約が存在しない現在、ロシア側も領土問題が存在することを認めないわけにはいかないだろう。しかし、尖閣諸島は日本が実効支配していて、ことさら日本側から「領土問題がある」かのように騒ぎ立てる必要自体がないと考えられる。それを考えると、地方自治体が尖閣諸島を保有するという発想自体が、相手の土俵に乗っての発想になっているのではないか。
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袴田事件、DNA鑑定は「不一致」

2012年04月17日 23時23分46秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 16日の東京新聞夕刊を見ると、1面に「袴田事件 死刑囚とDNA不一致」と載っていた。さらに「関連記事6面」とあり「弁護団『有罪証拠無くなる』 望まれる早期の論争決着」という解説記事が載っている。一方、併読している朝日新聞夕刊を見ると、「DNA1か所で一致 袴田事件 検察側鑑定」と出ているではないか。これでは正反対である。朝日を読んでみると「白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型の一部について、袴田死刑囚本人のものであることを『排除できない』との結果だった」と書いてある。東京新聞を見直してみると「静岡地検推薦の鑑定人が『本人と完全に一致するDNA型は認められなかった』と結論付けたことが16日、明らかになった。」とある。一方、「緑色パンツの血痕様の部分とも照合し、死刑囚本人のDNAである可能性は排除できないと言及した。」と書いてあった。17日の朝日朝刊を見ると、「訂正」が載っている。しかし、そこでは「白半袖シャツ」ではなく「緑色パンツ」の間違いだという訂正である。

 今ウェブサイトで新聞を見てみると、読売は「犯行時着衣のDNA、袴田死刑囚と完全一致せず」、毎日は「袴田事件:「一致DNA認められず」 検察側の鑑定結果で」とある。実は朝日のサイトでも「袴田事件「完全一致のDNA型なし」 検察側鑑定」となっていて、夕刊の記事とはニュアンスが違っている。これで各紙大体同じである。これをどう見るかだが、「可能性は排除できない」は「一致」ではない。従って、朝日16日夕刊の見出しは誤報である。鑑定人は、不一致ならもちろん「不一致」と書くだろうが、最新の鑑定技術でも判別が難しく不一致と判断はできなかったと言いたいのだろう。しかし一致していれば「一致」と書くわけで、「一致する可能性を排除できない」とは、つまり「一致したという判断はできない」ということなのである。これを「1か所で一致」と書くのは、日本語読解力の不足というべきだろうか。

 ちょっと話を整理すると、4月13日に弁護側鑑定人は「不一致」という結論の鑑定結果を出している。16日に明らかになったのは検察側鑑定人の結果で、これも「完全に一致するものはない」ということで、両者の鑑定は矛盾しない。もともと今回鑑定対象とされた「5点の衣類」というのは、初めから袴田死刑囚が着ていたものではない。(捕まった時に着ていたシャツに、犯行時の被害者の血痕があるかが争われているのではない。)1966年6月、静岡県清水市(現・静岡市)で起きたみそ会社専務一家4人殺害事件。従業員の元プロボクサー袴田巌さんが逮捕、起訴され裁判で無罪を主張する。そして1967年8月になって、みそ工場のタンクから「5点の衣類」が見つかったのであるこれが「真の犯行時の着衣」と検察側は裁判途中で主張を変えた。それまではパジャマで犯行に及んだと「自白」させられていたのだが。(「自白」調書はあまりにも強引で長時間の取り調べがあり証拠としての価値が認められなかった。検察官作成の一通を除き。)

 現在判っているように、(映画「BOX袴田事件」に描かれているように)、担当裁判官の一人はこの事件を無実と考えていた。証拠となるべき「自白調書」は価値を認められなかった。そういう(検察側にとって)危ない展開になっているとき、突然「物的証拠」がみそタンクから湧いてきたのである。その「犯行時のズボン」は法廷で履かせてみるときつくて履けなかった。(その様子は「袴田事件」のサイトにある。)だから弁護側は今主張している。この「物的証拠」自体がでっち上げなのだと。さすがにそこまではやるまい。無実の人間を間違って捕まえることはあるかもしれないが、「有罪の証拠」をねつ造して無実の人間を検察、警察が陥れるということまでは考えられない。そう思う人が多いかもしれない。しかし、今回明らかになったことは、それ。証拠とされるものが、もともと「でっち上げのねつ造証拠」であった可能性なのである。

 そのような証拠ねつ造は、大阪地検特捜部でフロッピ-改ざん事件があったように全国どこでも起こりうると思っている。しかし、戦後21年目の静岡県と言えば、中でもありえそうな場所だというのは、少しでも冤罪事件に関心を持っている人なら誰でも知っていることだろう。著名事件に限っても、
 1947 幸浦事件(1・2審で3人死刑、最高裁で破棄差し戻し、高裁で無罪、1963年最高裁で無罪確定)
 1950 二俣事件(1・2審で死刑、最高裁で破棄差し戻し、1958静岡高裁で無罪、確定)
 1950 小島事件(1・2審で無期懲役、最高裁で破棄差し戻し、1959東京高裁で無罪、確定)
 1954 島田事件(1・2審で死刑、1961死刑確定。1989再審で無罪。)
 1955 丸正事件(1・2審で無期懲役、懲役15年。1960有罪確定。再審請求するが、請求人死亡。)

 さらに21世紀になっても「御殿場事件」と呼ばれる無実を訴える事件が起こっている。また1968年に起きた金嬉老事件では、静岡県警に根強い朝鮮人差別が告発された。このようなことから1966年の清水で証拠のねつ造があったと言われても、僕なんかは「ありそうな話ではないか」と思うものである。

 袴田事件にはもっと不思議なことが一杯あって、とても「合理的な有罪認定」は不可能な事件である。それでも裁判所がかろうじて有罪判決を出せたのは、「物的証拠が後から出てきた」ことが一番大きいのだろうと思う。それが崩れたと言ってよいのではないか。袴田事件の様々な論点を書いていると終わらないので、支援団体のサイト(弁護団、「袴田巖さんの再審を求める会」、「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」があるのでそちらで。

 なお、もう終わっているのだが、アムネスティ・インターナショナル日本支部で袴田事件の再審開始を求めるオンライン署名を行っていた。そのサイトも参考に。
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グル・ダット映画の全貌

2012年04月16日 23時57分50秒 |  〃 (世界の映画監督)
 東京のアテネフランセ文化センターで、インド映画の伝説的巨匠グル・ダットの全作品上映会があった。グル・ダットの代表作「渇き」(1957年)は昨年見直した機会にこのブログにも感想を書いた。出演作品も含めて全作品を見られるというので、全部見たのだが、特に昨年の東京国際映画祭で上映されながら見逃していた「グル・ダットを探して」が貴重だった。イギリスのテレビ局が1989年に作成したドキュメンタリー作品。(ビデオ上映)

 グル・ダットは1925年生まれで、1964年に39歳で自殺したという短い生涯だった。監督第1作「賭け」(1951年)は26歳。最後の監督作品「紙の花」(1959年)は34歳。芸術の歴史でこのような悲劇的な人生は決して珍しいとまでは言えないけれど、それでもあまりにも痛ましい。「グル・ダットを探して」を見ると、本人の内省的な性向がうかがわれるが、芸術上、また私生活上にも苦悩が多く、最後は追いつめられたような状況にあった。今ならもっと周りで配慮するなり治療的対応も取れたのではないか。

 グル・ダット作品は、「渇き」が1989年の大インド映画祭で公開されて評判を呼び、2001年に国際交流基金による全作品上映会が行われた。その時に「」「表か裏か」「渇き」「紙の花」を見た。と言っても記録を見直してわかったことで、ほとんど記憶はない。今回見て思ったことは、たった7本の監督作品だけど、明らかに最後の2本(「渇き」「紙の花」)が突出している。この2本にしても最初に見たときは、白黒の古い映画でもあり、なんだかよく出来た娯楽映画に歌と人生の哀歓をまぶした程度に見えた感じもした。でも、「グル・ダットを探して」を見てよく判ったが、歌の使い方光と影の撮影などグル・ダットがインド映画の革新者であり、その後のインド映画に影響を与えている。だからその後のよくできたカラー映画を見てしまうと、グル・ダット映画が古いようにも感じられてしまうわけである。

 ところで「賭け」の歌を歌っている(吹き替え)のが当時の人気歌手。グル・ダットは彼女と結婚し、子供も生まれる。その後、「渇き」「紙の花」の主演を務めて、宿命的な出会いを演じたワヒーダー・ラフマーンと実人生でも「不倫」の関係になった。自伝的とよく言われる「紙の花」では、人気監督(グル・ダット)が偶然見つけた素人女性(ワヒーダー・ラフマーン)を大スターにして、個人的にも結ばれる。しかし、娘のために別れて、その後監督作品も失敗、映画界から見捨てられ、酒に溺れ破滅していく…という「自己予言的」な作品になっている。この2本の映画を見る限り、監督にとってラフマーンとの出会いは「宿命」と思われる。だから、ラフマーンという「運命の女」との出会いが歴史的傑作を生んだと言える。グル・ダット監督作品ではないけれど、両者が主演し映画内で不思議な縁で結ばれる「十四夜の月」を見ると、ワヒーダー・ラフマーンのあまりの美しさに驚き。グル・ダットとワヒーダー・ラフマーンは、映画史上ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマン、ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナに匹敵するような、監督と女優による「奇跡の映像」の伝説なのではないかと思う。

 初期作品はフィルム・ノワール的。どこの国でも、「愛」と「金」に引き裂かれる主人公が暗黒街で苦悩するというような映画が量産されていた。「賭け」や「」はグル・ダットは出演していません。この二つではまだ「作家」とまでは言えない段階。映画美術や歌は面白く、鈴木清順の初期などをちょっと思わせるが、まあ巧みな娯楽映画。3作目の海洋アクションというべき「」(グル・ダット自身が出演した初作品)の後半あたりから、「光と影」の絵画的構図などが目立ってくる。4作目の「表か裏か」もフィルム・ノワール的な喜劇。「的」と書くのは、彼の場合犯罪映画と言えども「愛の映画」以外の何物でもないからである。歌の魅力も大きい。5作目「55年夫妻」がコメディの傑作で、当時の社会状況も伝える面白い映画。人物の造形も面白くよくできた映画だが、内容的についていけない部分もある感じ。

 そして「渇き」になる。僕にとって、この映画は前より面白く、何度見てもいい感じがする。この映画の、ご都合主義的なストーリーは、一度見て知っておく方がつまづかないのかもしれない。筋としては、何だこれというような展開だが、歌と詩が本当に素晴らしい。白黒の撮影も素晴らしく、映像と歌という視覚的、聴覚的な快楽に身をゆだねる体験。そして主人公の「売れない詩人」の「詩と真実」の深さ。そして、最後の作品「紙の花」に至る。インド初のシネマスコープ作品で、横長の画面に光と影の美しい映像で、主人公の苦悩の人生が描かれる。その転落の様は、自分で演じているうえに、その後を知って見るから、悲しすぎる映画とも言える。そしてそれが彼の最後の監督作品になってしまった。映画監督が映画界を追われて転落して行く映画が。
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追悼・清水美和さんと「毎日登山家」東浦奈良男さん

2012年04月14日 00時24分48秒 | 追悼
 卒業式の話以来、学校のことを書いてきた。まだまだあるんだけど、ちょっとお休みしたい。その間に「大阪維新の会」のこととか、死刑執行再開の問題を書きたいと思いながら書けないでいる。そういうことも書いておきたいが、東京新聞に出ていた話を。

 追悼としては、まず東京新聞論説主幹清水美和さんが亡くなったことに触れておきたい。10日、すい臓がんで死去。58歳。ええっ、つい最近まで書いてたじゃない。ビックリ!「清水美和」と何だか女性日本画家かなんかにいそうな名前だけど、「よしかず」と読んで中国の専門家である。一般向きの本をしては、ちくま新書で「『中国問題』の核心」「『中国問題』の内幕」という本が出ている。大変判りやすい。「中国農民の反乱」で2003年にアジア・太平洋賞。2007年に一連の中国報道で日本記者クラブ賞、と東京新聞の訃報にある。

 僕も中国を中心とした清水さんのコラムは必ず目を通していたが、それと同時に訃報に「脱原発などの社論形成にも力を尽くした」とある。原発だけでなく、東京新聞が市民の視線に立つ報道を続けていることは大いに評価されるべきだと思う。今中国の政治、経済の行く末が大変気になる時期に清水さんを失うことは日本にとって大きな損失である。

 一方、12日の夕刊に「1万日登山 挑んだ雄姿 達成目前 死去の男性しのぶ」という記事が載っていた。ええっ、「毎日登山家」の東浦奈良男(ひがしうら・ならお)さんが亡くなっていたのか。昨年末と記事にある。86歳。


 この人のことは、前に「山と渓谷」に特集記事があり知っていた。写真家吉田智彦という人がこの人を追いかけて、『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』(山と渓谷社)という本にまとめている。その写真展が、登山用品店のモンベル名古屋店で開かれている。今後各地を回り、東京では11月に渋谷店で行われるという。

 と言っても全然知らない人が多いと思う。三重県伊勢市の人で、1984年に印刷会社を定年退職してから、連続登山を始めた。と言っても三重県だからそう高い山があるわけではない。「低山」ということになるが、自宅から山頂まで全部歩くから大変な難行苦行である。それを毎日行うのである。健康のためとか山が好きというだけなら、毎日は行かないだろう。僕だったら、関西の名山、大峰とか大台ケ原、奈良の山々や琵琶湖の周辺などにも足を伸ばしたくなると思う。そうすると準備や移動のための日が生じて、「毎日登山」ができない。ただ、低山ばかりではと思ったのか、毎年富士山に登ったという。自宅周辺で登ってから夜行で富士へ、登って降りて夜行で帰り、次の日はまた自宅周辺。これには驚いた。「毎日」を続けるためなのである。

 かくして98年に5000日に到達。1万日連続登山をめざしていたが、9738日の記録で途切れたという。昨年6月に登れなくなったという話である。27年間の大記録。これは誰にも破れないだろう。だって、雨の日も風の日も、台風が来ようが登るのである。低山であっても、そういうことが誰にできるか。「毎日登山家」なのであった。これは「行」というべきか。僕にははっきり言ってよく理解できない部分があるが、人間というものの中にあるすごい精神力に触れる思いがする。そういう人が亡くなった。
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三部制高校で働くということ④

2012年04月13日 00時00分35秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育について、日ごろから考えてきたことを自分なりにまとめてみたいと思ってきた。別に「教育」だけが重要問題だと思っているわけではないけど、自分が現場感覚で書ける領域は学校についてだけである。で、一般論を展開するのもいいけれど、忘れないうちに自分の関わったことを書いておきたいなと思っているわけだ。僕が教育について考えたいと思っていることは、大きく言うと二つになる。一つは教育の目的であり、学校が育てるように言われている「(広義の)学力」とはなんだろうということである。これについてはいずれ書きたい。もう一つは、「教育」をシステムととして展開している最大の「現場」である学校という場の問題。特に教師の働きの実情についての問題。

 ちょっと一般論から書くけれど、最近の教育行政は「学校は学力向上」、だから「教師の仕事は授業」ということに偏り過ぎていると感じている。首長や教委や校長が設定する、学力試験の平均点や有名大学の進学実績に関する数値目標達成に向けて、言われた通り頑張るのが教師の仕事と思っているのではないか。だから、「授業力の向上」が叫ばれる。授業は基本的には教師一人ひとりが40人ほどの生徒を相手にする。つまり教育は「個人競技」とされ、大相撲みたいに「稽古しろ」「もっと稽古しろ」「稽古して出世をめざせ」と言われているのが、「10年研修」とか「教員免許更新制」なんだろうと思う。

 でも多くの教員の実感とすれば、学校は団体競技なんではないだろうか。だから個人の教員の力を育成するだけでは学校はよくならない。個人で練習するだけでなく、フォーメーションの確認とかセットプレーの練習とかの方が重要でしょうと思っているのである。なぜなら、東大受験者が沢山いるというような高校は超少数で、圧倒的に多数の教員は、クラス経営や生活指導や行事の運営などに悩んでいるものだからだ。それらは教員どうしのチームプレーで乗り越えていくしかない問題である。しかし、現場の教員の「協働性」を育てると、「教員組合の影響力が増す」という思い込みにとらわれた勢力が大きな力を持っている。それもあってか、教育行政は学校の現場力を弱めよう、弱めようと努めてきているというのが大部分の教師の実感ではないかと思っている。(ところで、10年研修や教員免許更新講習が、教師個々の力を伸ばす方策というのも間違いだと思うけど。)

 さて、やっと三部制高校の場合の「現場の協働性」について。一つは「教員の勤務体制が分かれている」ことの功罪。朝勤務と夜勤務に職員が二分される。だから、「親睦会」が持ちにくい。職員の親睦会(慶弔や忘年会、旅行などのためにお金を積み立てる組織)は大体の職場にあると思う。学校でもほとんどはあると思うけど、これこそほとんど調査研究されていない分野だろう。当然予想されることとして、三部制高校では歓送迎会や忘年会が設定しにくい。全員の勤務時間がそろう行事の後などに設定したりしているが。(ちなみに夜間定時制高校では土曜日に出てくるしかない。)もちろん、「飲みニケーション」で学校が動くというのは本来おかしいわけで、育児や介護をかかえた教員が出てこれない場をそんなに重大に語ることもないわけだ。でも、三部制だとそういうこともあるということ。

 二つ目。今、「功罪」と書いたが、勤務体制が分かれていることは共通理解の困難性という問題もあるけれど、やり方によってはいい面もあると思う。保護者への連絡を夜の教師が行いやすい。朝の教員が準備し、夜の教員が片付けることができる。部活や委員会指導なんかも、最後の締めを夜の教員に頼める。特に、最終下校時間と(朝勤務の)勤務時間修了が異なっているので、下校指導は夜勤務の教員がするしかないので朝勤務の担任が帰りやすい。ホームルーム教室もないし。このあたりは、結局は教師個々の関係性の問題になると思う。

 三つ目。生徒像の問題にからみ、「二人担任制」というやり方を取っている。1期生から3期生までは、1年次、2年次を各クラスの担任を二人とした。学校開設当初の教員配置からだんだん正規の配置数になるにつれ、最近では2年次から一人担任となっている。これは最初はどういう風に機能するのかよく判らなかった。前回書いたように多様な生徒像があるので、「クロスチェック」「セカンド・オピニオン」という意味で、1年目の生徒にとっては必要なシステムのような気がする。生徒にとっては二人いればどちらかと接触すればいいので、楽だろう。5クラスあるので、1年次担任団は10人で構成される。今は大規模校でも8クラスくらいだろうから、担任団の数としてはこれは経験したことがない多さである。必ずうまくいくとは限らないだろうが、そういうやり方もあるということである。(担任生徒数の方を減らすという学校もあるようだけど、僕の経験は「30人の生徒全員を二人で共同担任する」というやり方である。)あまり個人的なことを書かないつもりなんだけど、この時の担任団もまた楽しかった。(僕は松江二中でも荒川商業でも六本木でも、非常に恵まれた担任団だった。学年団で苦労している先生には申し訳ないけれど。この学年担任団というのが、学校の最重要の組織なので、そのあり方をもっと考えないといけないと思う。)

 補足。三部制高校では「職場会」が持ちにくく、職員団体(教員組合)の活動が難しい。それは一つ目で書いたことと同じである。もっとも今はどこの学校でもやりにくいと思うけれど。
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三部制高校で働くということ③

2012年04月11日 23時46分26秒 |  〃 (教育問題一般)
 ちょっと間が空いてしまったけれど、「三部制高校」の話の続き。三部制と言うか、単位制で定時制課程である高校はもともと、学年制の全日制高校にはなじみにくい生徒像を想定して作られている。だから当然そういう生徒が集まってくる。特に「チャレンジスクール」というタイプでは、調査書不要で学力検査を行わないから、不登校経験者が多く希望する。それらの生徒はどのような生徒だろうか。もちろん多様な生徒像であることを前提にしたうえで、やはり全日制高校とは違ったタイプが多くいるのは間違いない。

 僕が一番感じたのは、「チャレンジスクール」に集う生徒には今までにもたくさん会ってきたということだった。中学でも全日制高校でも、また夜間定時制高校でも、様々な生徒がいた。身体的、知能的な障害を抱えた生徒は何人も教えてきた。しかし、今までの学校では「その一人の生徒にどう対応すべきか」という問題だったと思う。そういう場合、例えば身体的な障害(聴覚に障害があるなど)のある生徒に対しては、このように対応しようというような話は職員間で当然行われた。しかし、なかなか教員皆で理解することが難しい、発達障害や人格障害などの生徒には学校では手が回らない傾向があったと思う。大体、学習障害などという言葉は、僕の学生時代には聞いたことがなかった。しかし、今思い返すと、どこの学校にもいたなと思うわけである。大人数の生徒がいる学校では、発達障害の生徒は圧倒的に少数である。多くの生徒が進路や部活動に熱心に取り組む中一方で、いわゆる「問題行動」生徒(「非行傾向」という意味である)も一定程度いてその対応に追われる。だから数としては少ない「奇異な行動をする生徒」が目に入って来ないのである。一杯いたけれども、「あいつは変人だ」で済ませてしまい、学校で共通理解して対応を考えるべき生徒としては見えてこないのである。

 夜間定時制高校は、本来は経済的に大変で昼間に働きながら夜学ぶという生徒を想定しているわけだが、もうずいぶん前からそういう生徒は数少なくなっている。学力的に低い生徒や問題行動を起こして高校を一度中退した生徒などがいて、さらに最近は外国出身生徒が増えている。その中に、発達障害などの生徒も当然いるのだが、多少周りとなじめない不思議な行動が多い生徒でも、生徒自体が少ないうえに学校行事などが少ないので、あまり目立たずに「ちょっと変わった生徒がいるな」と思われながら、なんとか卒業して行ったりする。一クラス30人で、学年制だから学校に来られない生徒は退学、留年していくので、卒業までにだんだん減ってくる。20人もいなければ、さまざまな生徒がいても、それは「さまざまな生徒がいるな」としか思われないわけである

 ということで、三部制高校。ここは定時制課程で一クラス30人なのだが、数的には全日制高校に近いくらいの生徒がいる。そうすると、今までの学校では「個人的に変わった生徒」だったのが、量的に増大した結果「学習障害」「自閉症」などの生徒が多数存在することが見えてくるのである。さらに、精神的に不安定な生徒(うつ傾向の生徒)、人間関係などに不安感を持っている「不安神経症」傾向の生徒、精神面ではないけれど身体的に病弱ですぐ来られなくなる生徒などが多く存在する。

 ところで、発達障害があるというのと、性格的にちょっと「変人」であるというのは見極めがむずかしい。さらに、神経症であるか、統合失調症であるか、うつ傾向が強いのか、あるいは家庭状況に問題があり通常の人間関係の学びが不十分であるのか、身体的に病弱で様々な社会体験を積むことなく来てしまったため一見とっつきにくいのか、経済的に大変で恵まれない暮らしをして常に脅えているようになったのか。このあたりの違いは、専門の診療を受けても見極めが難しい。医者が変わると、全然診断が違うこともある。自己認識も様々で、自分では何とも思ってない人もいるし、不安を抱えながら毎日やっとの思いで通っているケースもある。ただ、お互いに大体は不登校経験者であると判っているので、こういう高校では自分を飾る必要がないということは大きいのではないかと思う。

 こうして書くと、みんな障害や病気のように感じるかもしれないが、もちろんそうではない。「特色授業」にひかれて受けた生徒も多いし、不登校でもなんでもないが経済的に大変で希望した生徒もかなり多い。(例えば、午前部に入って昼からはアルバイトしたいと考えるわけである。夜間定時制だと夜の勉強になるが、ここだと午前の勉強だけで卒業できる。)また芸能活動をするために三部制高校を希望する場合もある。特に六本木高校は演劇やダンスの授業もあるし、山手線内にあるという地の利から芸能活動をしている生徒がかなりいた。卒業まで行かなかった生徒も多いけれど。

 そして多分一番多いのは、人間関係のちょっとしたつまづきで不登校になったものの、環境が変われば何の問題もないかのごとく毎日楽しそうに登校できる生徒である。「問題もないかのごとく」と書いたように、突き詰めていくとやはり多少の「問題」はあることが多いと思う。人間関係が苦手だったり、自分のこだわりが強い部分があって、自分でもそのことが心配だったりする。しかし、それを言えば、親や教師も含め大人でも結構同じような問題を抱えているわけだけど。

 そして、これらの生徒を理解するための「研修」が当初は非常に多かった。それは役に立ったけれど、それで理解を深めた障害を抱える生徒の中で、どれだけが卒業できたかという問題は残ると思う。結局、単位制であるとはいえ、学校に登校できない生徒は卒業はできない。そうすると、生徒像からするとどうしても全員が卒業まで行くのは非常に難しいという風に思う。教員は生徒の症状を完全に理解するのは難しいけれど、その生徒が登校できる(精神的、身体的)態勢にあるか、どう支援していけばいいかはある程度判るのではないかと思う。

 そういう経験を異動した次の学校で生かすことができるのだろうか。僕はこれだけ三部制を作った都教委の意図がよくわからない。生徒理解の経験が他で生きることが重要だと思っているのだが。中学、高校で進学重視、競争重視を進めれば、当然その態勢にのっていけない生徒が増えてくるはずである。そこでそういう生徒の受け皿を作っておくという意図であるのかもしれない。それでは都の教育全体としては、本末転倒ではないかという感じがする。(今日で終わるかと思ったけど、さらにもう一回。)
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「青い山脈」-映画に見る昔の学校④

2012年04月10日 23時51分07秒 |  〃  (旧作日本映画)
 8日に映画「青い山脈」(今井正監督、1949年)を再見した。2011年は今井正監督の生誕百年で、国立フィルムセンターでも特集が予定されている。一足先に銀座シネパトスで2回にわたる特集上映があり、8日には「青い山脈」の寺沢新子役でスターになった杉葉子のトークショーがあった。

 杉さんは1928年生まれ、もう80歳を超えているが実に若々しい。東宝の第2回ニューフェースで、成瀬巳喜男作品など50年代に活躍。1961年にアメリカ人と結婚してロスに住んでいる。文化庁の文化交流に貢献したり、折に触れ日本に帰って活動してきた。戦時中に上海の女学校を出て以来、世界をまたにかけた活躍にはビックリ。今井監督は若い俳優への指導がうまく、杉さんも自然体でいいものを引き出してくれる今井演出に得心し、その後も試写会などに誘ったりしたと楽しそうに語った。会場に香川京子さんが見えていて、何十年ぶりかの再会という劇的なシーンだった。(2019年没)。

 「青い山脈」は計5回映画化されている。1回目が圧倒的に有名で、以後は若い女優の売り出し企画となった。(ちなみに、若い女学生寺沢新子役は、杉葉子、雪村いづみ、吉永小百合、片平なぎさ、工藤夕貴。)多くの人にとって、「青い山脈」は今ではテーマ曲で記憶されていると思う。

 「若く明るい歌声に 雪崩は消える 花も咲く
       青い山脈 雪割桜
            空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ

 「若く明るい歌声」が、どうしてマイナーなんだろうかと昔から疑問だ。なぜこれが「戦後の理想」を歌ったとされるのか。後の世代からは理解不能である。変な歌詞だし。(4番まである。)歌詞は西條八十、作曲は服部良一という大御所である。戦後を代表するヒット曲の「リンゴの歌」も短調。戦争の記憶が生々しすぎる時代には、本当に明るく陽気な歌は出てこないのかもしれない。

 この映画では、新採女性教師島崎雪子(原節子)の存在感が圧倒的に大きい。劇中で美人、美人と言われているが、実際輝くばかりの美しさ。49年のベストテンは1位が小津の「晩春」、2位が「青い山脈」だから、全く原節子の全盛期である。この映画は多くの人にとって、古い因襲がはびこる学園の民主化のために原節子が闘う映画だった。民主主義の啓発でもあり、男女交際をめぐる「若さと恋愛のロマンティシズム」でもある。若い男女が惹かれあうのは自然の摂理で、それをいやしいもの、隠すべきものと考えるのは、「封建的な因襲」だ。そのような「戦後民主主義映画」の文脈で、この映画は理解されてきた。石坂洋次郎の原作自体がそういう意味合いで書かれた新聞小説である。
(「青い山脈」の原節子)
 ところが今見直すと、「生活指導上の事件」をめぐる「学校側の拙劣な対応」の映画だった。海辺の古い町、休日のある日。杉葉子(女学校の生徒)が池部良(旧制高校の生徒)の家を訪ねる。杉の家は貧しく、卵を売って教材費に充てるため売り歩いていた。池部の両親は出かけていて、池部は全部買うから料理を作ってくれと言う。仲良くなって、近所の占いを一緒に見てもらう。偶然の成り行きで、「男女交際」ではない。ただ、若い女性が男の家で料理を作るのは、「誤解を招きかねない行為」ではある。杉は前の学校でも同じようなな問題があり、転校してきたばかりらしい。

 杉が占っていた場面を目撃していた生徒がいた。池部は交際相手で、相性を占っていたと思い込む。そこで何人かで相談して、女名前の手紙をかたって、「男子高校生からの呼び出しの手紙」を書いて投函する。それを受け取った杉は、英語教師の原節子(多分、クラス担任なんだろう)に相談する。原節子は授業の後半をこの問題の指導にあて、この行為がいかに卑劣な行動であるかを糾弾し、関係生徒の反省を求める。書いた生徒たちは、杉が風紀を乱す行為をするからいけないのに先生はちっとも生徒が学園を思う気持ちを判ってくれないと反発する。これが親や地域ボスも巻き込む「政治闘争」化していき、ついに理事会で大論争が巻き起こる。

 この理事会の場面(後編のハイライト)が昔から有名で、証拠の手紙を資料として読み上げると「変しい 変しい」と書いてあった。「恋しい」と書くつもりで「へんしい」と書いてしまったという落ちである。もう一つ、「悩ましい」を「脳ましい」とも間違っている。これは手書き時代にはありそうだ。でも「恋しい」が書けないというのは、こういう手紙を書くにしては抜けすぎていて、よく考えるとリアリティがない。だが旧字で書くと「戀しい」と「變しい」なので、これなら間違いそうだ。(前が恋で、後が変。)今見ると、この後編の理事会場面はつまらない。いくら何でもこんな学校は当時でもないでしょ。

 これが今の学校で起こったらどうなるか。杉の行為は「誤解を招きかねない」部分はあるが、明確に校則違反とまでは言えないだろう。一方、同級生の行為は、「名前をかたった手紙でクラスメイトを呼び出す」わけで、今でも「大問題」である。全国どこの学校でも「大事件」になるだろう。何も起こらなかったからいいけど、場所と日時を指定した呼び出しを実際にかけている。今なら暴力事件や動画に撮るといった展開も想定される。男がいると期待して出てきたところを動画サイトに投稿されたら、ちょっと立ち直れないほどの大イジメ事件に発展する。

 この事件は、けっして新旧の対立ではない。「ちょっと可愛く、ちょっとお茶目で、男子にモテそうな明るいタイプの転校生」に対する、嫉妬感情に基づく集団イジメ事件なのである。両者はいじめの加害者と被害者である。校内で起きた生活指導事件だから理事会で判断する問題ではない。「生徒同士の事件ですから、教員と生徒で解決します」と校長が理事会の干渉をはねつけるべきだ。

 実際の学校だったら、集団的イジメ事件の様相はあるが、まだ手紙を一通送っただけで嫌がらせ段階だからあえて大事にしないという方針もありうる。イジメ認定になると「退学勧告」「無期謹慎」もありうるが、中身的には重すぎる。しかし実際に手紙に呼び出しが書かれている以上、相手に恐怖感や嫌悪感を抱かせた。軽くても「登校謹慎一週間」以下ということは僕には考えられない。それだけでは「片手落ち」と言われかねないし、杉の行為も誤解を招く部分があった。校長まで出てくる必要もないが、「生活指導主任注意」くらいだろうか。

 この校内イジメ事件をここまで大きくしたのは、新人教師原節子の不適切な行為である。原はバリバリの新採、若くて美人、都会の大学出たての英語教師、生徒と一緒にバスケをしている(バスケ部の顧問?)行動的な教師である。だから生徒にも大人の男性にもファンができるのは理解できる。でも、どうだろう? 張り切ってる、若い美女が正論をとうとうと述べる。反発しないか。 世の中美女ばかりではない。英語もスポーツも不得意で美人でもなければ、反発するでしょ、フツウ。

 クラスで正論をぶって手紙を書いた生徒を追いつめた。適切な指導ではない。そう見えないのは映画だからで、「金八先生」型ドラマなのである。転校生杉への反感のようなものは教師には見えたはずだ。(映画を見てても感じられるくらい明確に描かれている。)だから、それらの生徒の話をじっくり聞くまで「事件」を公にせず、クラス内部で解決をさぐる方策を取るべきだった。

 原節子に好意を持つ校医沼田は、理事会に向け「対策」を練る。それが「ニセ理事」を送り込むというものなんだから、どこに民主主義があるのか。どっちもどっちとしか思えない。しかも、生徒が正しいか、原節子が正しいか、理事会で投票で決するというんだから、この話狂ってる。このあたり、「陽のあたる坂道」などに通じる石坂文学の「議論好き」の特徴である。でも、日本ではそういう風に物事は進まない。何でも議論して多数決で決するのがいいわけではない。

 もう一つの問題は、「ともしび」「人間の壁」と同じく、学校の問題が、いつのまにか地域ボスとの闘いの様相を呈することだ。「地域ボスとの闘い」映画は、当時星降るごとく存在した。地域では旧来からの伝統的支配者が実権を握っていたが、大学を出た「ムラで一番の知識層」である教師が、「教え子を再び戦場に送らない」というスローガンを掲げて闘争を始めた。地域ボスにとって大きな脅威だった。50年代以後つねに「教育」「教員組合」「教科書」が保守勢力から攻撃され続けてきた理由である。この戦後史の本質的対立関係を忘れて、現在の教育問題を理解することは出来ない。(2020.5.29一部改稿)
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春風亭一之輔真打昇進披露興行

2012年04月09日 23時41分50秒 | 落語(講談・浪曲)
 落語協会で「21人抜き」真打昇進で盛り上がる春風亭一之輔の昇進披露。今日、新宿末廣亭で見てきました。3月下旬に上野・鈴本演芸場でスタートして、もう19日目。実に安定した面白さで、早くも大物の風格で、感心、爆笑。夜興行は明日で終わり、この後、浅草演芸ホール池袋演芸場国立演芸場と昼興行が続きます。(国立は夜の日、一日あり。)おヒマが作れる方は、是非、行かれるといいと思います。

 初めから花見もあって混雑が予想される一発目の上野を避けて、昼夜入れ替えなしの新宿で映画を見てから行こうかと思ってました。旅行もあって時間が厳しかったけど、これは見逃さなくて良かった。今日は「ヒューゴの不思議な発明」を見てから、昼席の終わりごろから聞きました。おかげで、さん喬師匠は昼夜と二度聞きました。

 肝心の一之輔は聞いたことがなくて、評判は聞いていたけど、素晴らしいですね。今日は「くしゃみ講釈」という上方系の噺で、上方落語と微妙に感じが違う。そこらへんのアレンジがうまいし、完全に客席をつかんで離さない。兄貴分との掛け合いの面白さはベテランの域。正当派の立派な芸風に、今後の期待が高まるばかり。顔つきもいいです。

 僕の大好きな柳亭市馬が口上で相撲甚句をやったのもすごく良かった。師匠の春風亭一朝は得意の笛。口上メンバーは、前会長の鈴々舎馬風師匠のもと、市馬師匠や昼夜出てきた柳家さん喬師匠、一朝師匠。落語は小朝も良かったけど、春風亭の正朝、勢朝、師匠の一朝など、皆良かったのは披露興行で観客も多いので頑張ってる感じ。色物も良かったし、観客が多く皆大笑いしていたので、お祝いムードで盛り上がっていた。満足して帰りました。
 
 今後見たい方は、上記演芸場のホームページで出演者を確認して行って下さい。(一之輔は毎日出るけど、他の人は代わる日もあるので。)
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金沢旅行

2012年04月08日 23時12分08秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 金沢に初めての旅行。新幹線で上田まで行ってバス。行きは飛騨高山、帰りは白川郷に寄って、金沢は駅前のホテルに2泊。食事なしで安いホテルだけど「全部込みで2万円」という旅行を見つけて、これは安いと思った。実は金沢は初めて。これで泊まったことがない県は本州では福井県だけとなった。(あとは高知、福岡、大分、佐賀、長崎。)

 例年なら兼六園も桜咲く季節だけど、今年はどこ行っても寒い。土曜日の白川郷なんか雪が降っていた。初日の高山も雨模様。ここは30年前に来ている。その時は、オークヴィレッジの夏休みに行って、そこから富山の利賀で行われた第1回世界演劇祭へ。そして奈良の「交流(むすび)の家」(ハンセン病回復者の宿泊施設)へ行って、そのまま韓国のハンセン病回復者定着村のワークキャンプ。一体いつ家に帰ったんだか、という青春放浪大旅行だった。よって、高山の詳しいことは忘れてしまった。少なくとも、まだ「飛騨牛」とか「高山ラーメン」でいっぱいではなかった。
一応、古い街並みを歩いた。ラーメンは細麺すぎ。
 お勉強になったのは、「飛騨高山まちの博物館」という無料の広い博物館。古い蔵を利用して、いろいろな展示があるが、多すぎるかも。「飛騨の匠」の意味を初めて知った。これは「飛騨出身のすぐれた職人技術」のことだと思っていたが、実は奈良時代以前からあるらしい「朝廷の制度」だった。飛騨の職人技術を都の建設に使うために、庸調を免除する代わりに労役として都で働かせるという「公の制度」。個人のすぐれた職人技のことではないのである。

 金沢は駅前のホテルだったので、駅にある「百番街」などのおみやげショップ街が役立つ。この駅の壮大なまでの広場建築は一見の価値あり。全体的に古い中に新しいものが生きる文化力が生きた町。人口は46万ほど。駅前に時計があり、デジタルかと思えば、実は水で時刻を表現している。写真では判りにくいかもしれないけど、ちょっと驚きの仕掛けである。
 
 2日目、朝は雨、というよりみぞれ交じり。これはこれはと思いながら、降水確率8割では一日雨だなあと思った。ホテルを出るころに雨があがっていたので、とりあえずは兼六園へ。1972年、高校生の時の一人旅で岡山後楽園を見ている。そして水戸偕楽園は行ってない。日本三景なんか一つも見てない。山と温泉中心の年が多かったもので。兼六園は何が「兼六」なんだか行ってみてよく判った。東京の大名庭園は大体行ってるけど、ここがベストだと思う。「眺望」があるのが大きい。庭園だけならどこでも作れるが、町を見下ろせるのは立地が限られる。まあよくつかわれる場所の写真だけど。
 斜めの松。
 ところで、兼六園のすぐ近くにある金沢神社に「金城霊澤」という泉がある。これは「芋掘り藤五郎」という伝説があるところで、これが「金沢」という地名の由来だそうである。そこから県立美術館、歴史博物館を見る。歩いて香林坊(繁華街)へ。ここには「109」がある。お昼を食べて、まだ天気が持ってるから、武家屋敷へ。そして尾山神社へ出て、近江町市場へ。写真の変な三層の建物が神社の山門。ちょっとびっくりの和洋折衷。明治になってできた「利家とまつ」を祀る神社である。写真の銅像が前田利家である。よくみると、背中に変な袋を背負っている。これは「母衣」(ほろ)というものである。戦いの中で本陣と前線を行き来したりする役目で、敵味方にも識別できる色付きのものを背負った。精鋭の武士が務めることが多かったということで、信長軍団には「黒母衣衆」「赤母衣衆」がいた。利家は赤母衣衆のトップだった。いや、実はこれまで知らなかったんだけど。
   
 市場を見てもまだ天気が持っている。ならば、ひがし茶屋街まで歩こうということで、途中の「泉鏡花記念館」を見て行く。金沢三文豪というのが、泉鏡花、徳田秋声、室生犀星である。いずれも記念館がある。他にも鈴木大拙(禅を広めた仏教哲学者)の記念館もある。人材を輩出したといえば言えるけど、では読んでるかというと読んでない。秋声や犀星の映画化作品は見てるけど、読んでるのは鏡花だけかなあ。でも、鏡花はすごく変な作家だと思うけど。玉三郎の舞台や映画で知ってる人が今は多いだろうと思う。記念館のすぐ近くに、「声」と書かれた不思議な建物が。チラシを見たら、「朗読小屋 浅野川倶楽部」とある。いやあ、朗読専門館などと言うものがあるとは、金沢の文化力である。川を渡り、ひがし茶屋街を歩く。風情は素晴らしい。今は完全に観光化していると思うけど。翌日バスで寄った金箔のお店にある「黄金の茶室」の写真とともに。
  
 金沢は戦災を受けず古い城下町の街並みが残っている。しかも江戸時代を通じて「加賀前田百万石」の治世が変わらなかった。そこで生まれた長い年月をかけた文化力が今も生きている。今回は行かなかった「金沢21世紀美術館」というのも面白いらしい。県立音楽堂も駅前にあるし、県立能楽堂まである。「アンサンブル金沢」という日本初のプロ室内管弦楽団として有名なところである。そういうところだとは聞いていたが。町を歩き回っているとコンビニが少ない。コンビニより古道具屋や仏壇屋の方が多いかもしれないという不思議な町である。金箔はほぼすべて金沢で作られているという。金箔関係や和菓子や九谷焼のおみやげは多いけど、あとの産業は何だろうか。 

 翌日は白川郷を経て帰る。ここがまた雪景色。多分今シーズン最後。と思えば、まあいいか。グチャグチャの雪解け道よりも大雪の方がきれいなんだろう。でも寒い。もちろん「合掌造り」の世界遺産集落である。外国人観光客が多いことにびっくり。アジア系もヨーロッパ系も。雪も魅力なのかもしれない。「かまくら」も作られていた。明善寺の資料館は上まで上がれて付近を一望できる。お寺の方にはってあった紙とともに。
   
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三部制高校で働くということ②

2012年04月04日 23時44分25秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育とか学校と言うのは、世の中で一番あれこれ論じられてるテーマの一つだろう。小説やドラマなんかにもよくある。誰にも自分なりの経験があるし、子供や孫が行くから年を取っても関心事である。それぞれ何か思ってることが多いのである。しかし、教員を長くやったものの立場から言うと、「論じられていない学校のテーマ」は数多いと思う。日本の学校は、学校教育法により設置され、教育内容は学習指導要領で基本が定められている。最近問題になっている小学校の英語教育とか中学体育の武道必修化も、学習指導要領が変わったことから来ている。行事や部活動も書いてあるし、教科書や国旗国歌の問題も、考え方はそれそれでも、「学習指導要領をめぐる問題」であることは共通している。

 しかし、実際の学校にとっては「学習指導要領」で触れられていない問題が大きな意味を持っていることがある。例だけあげておくと、「そうじ」と「教員の異動」である。(その問題はいずれ別に書きたい。)そして、教育内容を定めるものである以上、指導要領に書いてあるはずがない言葉もある。代表が「放課後」である。多分多くの人にとって、学校の思い出の大きな部分が「放課後」だろう。部活や行事の準備、補習や進路活動…などもそうだけど、いじめやケンカのいやな思い出もあるかもしれないが、チョコをあげたり手紙を渡したり、図書室で本を読んだり、誰もいない教室から校庭の部活を見てたりする時間である。学校と言う場所が多くの人にとって大切なのは、友達や先生となんでもない会話ができるそういう時間空間が存在しているということにあると思う。(だから、学校を学力向上とか公務員の規律などということだけで測ってはならないと強く思う。)

 ところで、三部制高校では、教師からすると「放課後」がない。生徒からすると「放課後がない」生徒と「放課後がありすぎる」生徒がいる。実にアンバランスである。教師にとって、昼休みは昼食か勤務前、夕休みは会議。他の時間帯はすべて授業である。(むろん自分の授業がない「空き時間」はあるけれど。)そうじや毎日のホームルームはない。それは夜間定時制も同じだけど、クラスごとの授業だから生徒はつかまえやすい。三部制の単位制高校では授業が生徒ごとにバラバラだから、生徒をつかまえるのが難しいのである。(三部制でも簡単なホームルームを行うところがあるかもしれないが。)授業だけは出てくるけれど、行事や部活は参加しない(しづらい)生徒も多くて、そういう生徒はお昼や夕方ですぐ帰るので「放課後がない」。一方、朝の生徒でも部活のために夕方まで残っていることがある。また上級生になるにつれ、必履修を取り終り特色授業をピンポイントで取るようになるので、授業のない時間帯が生じることがある。普通の学校では、授業時間中に生徒がウロウロしていれば「サボリ」であるが、三部制では合法的な空き時間があるわけである。「放課後がありすぎる」わけである。こうして生徒の活動が教師には見えづらく、生徒がどこで何をしているかがつかみづらい学校になってしまうのである。

 教師にとって、生徒の放課後に当たるのが「空き時間」である。空き時間の重要性の研究、というのもあまりないと思うけど、教師にとって非常に大切な時間である。たまった事務処理をしたり、授業の教材研究をしたりすることが一番多い。特に最近は面倒な提出書類が増えてしまったし、三部制では前回書いたように持ち授業が多いので授業準備に追われる。どこの学校も最近はそうだと思うけど、特に三部制高校では常に追われているような気持ちで仕事をしている。しかし、空き時間の一番大事な役割は、教員どうしのちょっとした連絡や情報交換であると思う。この「茶飲み話」がなければ組織としての学校がうまく回らない。それを教育行政は理解していないだろうと思うけれども。

 ところが、三部制では勤務が2交代だからなかなか会えない教員が多い。しかも、2時間連続授業だから(自分が朝からの勤務だとすると)、自分が5・6時間目が授業、もう片方の先生が夜勤務で7・8時間目が授業だったりすると、その日にはちゃんと話ができない。まあ実際は少し残ったりメモを残したりするわけだが。こういう仕組みになってるので、生徒の情報もつかみにくく、教員間の情報交換もやりにくい。じゃあ何で学校が回っているかというと、行事などもクラスではなく有志参加で教師もクラス全員を指導する場面が少ないのである。進路情報を求める生徒や検定前の補習に参加したい生徒は、それなりにちゃんと来るわけである。だから授業だけでいい生徒には余計なものが少ない「自由な学校」だろうし、勉強や部活に熱心に取り組みたい生徒もそれなりに自分のペースでできる学校であるわけだ。でも教師からすると、全員を把握しなけらばならない場面もある。例えば翌年の時間割を作る「履修指導」などが代表だけど、生徒のなかには連絡が難しい生徒がかなりいて大変な思いをすることになる

 空き時間も2時間(45分×2だから90分だけど)あるので、事務仕事や授業準備だけではどうしても飽きてくるときがある。そこで時々やっていたのは、「健康と研修を兼ねた校内散歩」と自分で言っていた単なる見回り。校内態勢を組んで皆で回るときもあるけど、自分だけでも気分転換のために散歩するわけ。図書室によって最近入った本をみるだけでもいいから、そういうことをして行かないと生徒の様子が見えない。何してるんだかという生徒(別にルール違反をしているわけではないけど)を多数発見できるし、誰も知らなかった意外性抜群のカップルを発見することもある。けっこう「バカップル列伝」を書けると思う。まあ、そういうのも教師の仕事の中にあるわけだ。(カップルを発見することではなく、生徒のようすを見まわること。)そういうのは管理職の見えないところに存在するもので、だから校長が上から見ていて教師の仕事を数値で評価することなどできやしないし、してはならないと思う。(この項あと一回続く。しかし、旅行に行くんで、少し後になります。)
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