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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

都教委、育鵬社を採択せずー中学教科書問題

2020年07月31日 22時34分58秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 東京都教育委員会の定例会が2020年7月27日に開かれ、来年度からの都立中学校特別支援学校の教科書を採択した。その結果をホームページで確認すると、今回は育鵬社の歴史、公民教科書が採択されなかった。1990年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が登場して以来、中学の歴史教科書が大きな問題になってきた。都教委は今までずっと扶桑社か、その後身の育鵬社を採択してきたが、19年ぶりに右派系教科書を選ばなかったのである。
(都教委定例会=都教委ホームページから)
 まず採択結果を見てみると、歴史では都立中高一貫校10校すべてが山川出版になっている。特別支援では視覚障害が教育出版、聴覚障害、肢体不自由・病弱では日本文教出版(日文)である。公民では、白鴎を除く中高一貫校と視覚障害で教育出版、白鴎附属中と聴覚障害、肢体不自由・病弱で日本文教出版(日文)になっている。採択のための調査研究資料も公表されているが、いつものように採択された理由が全然判らない。

 中学教科書は原則として4年間同じ教科書を使用することになっている。4年ごとに新しい教科書が検定を受け新たな採択が行われる。前回は2015年なので、本来は去年が新規採択の年だけど、学習指導要領の改定に伴って新しい教科書が出なかった。そこで2020年が新規採択の年になったわけだけど、例年なら集会などが行われてマスコミでも取り上げられる。僕も今まで前回、前々回には教科書展示会に出掛けて記事を書いた。しかし、今年は新型コロナウイルス問題でどっち側の集会も開きにくい。僕も教科書を見に行ってないのである。

 今回は清水書院が撤退し、代わりに高校で圧倒的なシェアを持つ山川出版社が新たに参入した。高校教科書との連続性をウリにしているので、まあ中高一貫校で採択されるのは納得できる感じか。歴史では育鵬社と並ぶ右派系教科書の自由社が、今回は検定で不合格となった。そういう検定のあり方をどう考えるかという問題はあるが、問題が多すぎたのだろう。育鵬社も執筆者を見ると故人(渡部昇一、岡崎久彦氏など)が多く、インパクトに欠けたのか。山川参入で全国の中高一貫校はほぼ同じ傾向になると思う。
(山川の中学歴史教科書)
 90年代の歴史修正主義運動は、「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した教科書を生み出した。「扶桑社」(産経新聞の子会社)から出版されたが、最初は東京と愛媛の養護学校しか採択しなかった。あまりにも右派的な記述が多く、全国的な広がりが難しかったのである。扶桑社で2回出した後で、もっとマイルドにするべきだという八木秀次らが分かれて、育鵬社(扶桑社の子会社)に代わった。藤岡信勝らは自由社から出版を続けたが少数派となった。
(教育出版の公民教科書)
 育鵬社の教科書は「大東亜戦争」と書く。「当時の公式的呼称」だけど、今の時点でそう教えるべきなのか。僕は社会科の教員として、「歴史修正主義」には抵抗しなければと思ってきた。中学教科書は無償だから、税金を使って特定の歴史観を奨励するのと同じである。一般書を書くのは自由だが、教科書を作って右派系政治家の力を使って採択するやり方はおかしい。都教委が中高一貫校を設置し、附属中の教科書を都教委が決めるとなったとき、その最初のターゲットとなった白鴎高校は僕の出身校だ。そこで同窓生としての反対運動を始めたのである。

 前回(2015年)のときとは教育委員も代わっていることが大きいのだろう。はっきり言って、もう都教委はずっと育鵬社かと半分諦めていた。右派系の人は、右派的な首長が選んだ右派的な教育委員に期待を掛けてきた。「左翼的労働組合」などが圧力を掛けるから、一番ふさわしい教科書が選ばれないなどと「妄想」を抱いていたのである。だから、「圧力」のない「静かな環境」で採択するべきだとか言っていた。今回はコロナ禍のため、市民運動もマスコミ報道もなかった。「静かな環境」のもとで選んだら、育鵬社が選ばれない皮肉な結果になったわけだ。

 この問題はもっと早く書くべきだった。弁護士の澤藤統一郎氏のブログ「憲法日誌」を読むまで気がつかなかった。都教委のホームページも新しい情報がすぐに画面から見えなくなってしまう。いつもだと第4木曜が都教委の定例会だが、今年は4連休のため月曜日に延期されていた。その告知は見ていたんだけど、つい確認を忘れてしまった。寄席に出てる人なんかはチェックしてるのに、我ながら問題意識の薄れ方に驚き、反省した。
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フレッド・ジンネマン監督「第七の十字架」を見る

2020年07月29日 22時30分20秒 |  〃  (旧作外国映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「ナチスと映画Ⅲ」で、フレッド・ジンネマン監督の「第七の十字架」(1943)を見た。過去2回は割合に有名な作品が多かったが、今回は珍しい映画がいっぱい入っている。「第七の十字架」は戦時中に作られた反ナチス映画で、日本では未公開だった。調べてみると、日本でもDVDが発売されているけれど、見たことがある人は少ないだろう。

 題名を見て思い出す人もいるかもしれない。「第七の十字架」はドイツの女性作家アンナ・ゼーガーズ(1900~1983)の代表作で、1942年に発表された。(最近岩波文庫に収録された。)著者は当時ナチス支配を逃れて、スイス、フランス、メキシコと亡命していた。著者はドイツを代表する左翼作家(ドイツ共産党員)で、戦後は東ドイツに帰国した。日本でもずいぶん翻訳されていたが、今ではほとんど忘れられているだろう。ゼーガースをハリウッドで映画化出来たのかと思ったけれど、戦時中は米ソは同盟国だし反ドイツが優先するわけだろう。

 1936年、つまりまだ第二次大戦前なわけだが、ドイツ国内では反政府運動家を入れる収容所があった。そこから7人の収容者が脱走し、所長は激怒して7人を十字架にはりつけにすると宣言した。次々と見つかってしまうが、マインツに残された組織を訪ねるゲオルク・スタイナーは果たして逃げ延びられるのか。一体誰が信用できて、誰が疑わしいのか。どうやって逃げ延びればいいのか。ゲオルクの絶望と希望を、光と影を巧みに生かしたモノクロ映像で緊迫感を高める。この後、たくさん作られた「ナチス収容所映画」の中でも最も初期のものだろう。

 もちろん収容所幹部が脱走者を英語で尋問する映画である。ハリウッドにセットを作って撮影されたわけだし、字幕には「ゲオルク」と出るが画面では明らかに「ジョージ」と発音している。時期が時期だけに、「ユダヤ人絶滅収容所」ではなく、「政治犯」を収容しているところだ。(ロマ人や同性愛者、精神障害者の問題ももちろん出て来ない。)しかし、「ハリウッドがナチスの収容所をいかに描いてきたか」を考えるときに落とせない映画だ。ドイツ社会をどう描くかも重大だ。

 フレッド・ジンネマン(Fred Zinnemann、1907~1997)は、僕の場合は「ジャッカルの日」(1977)や「ジュリア」(1977)を若い頃に見た思い出が鮮烈だ。ハリウッドの巨匠という感じだが、調べてみるとウイーン生まれのユダヤ人だった。映画作りに憧れて渡米した日に、ウォール街で恐慌が起きたという。見習い時代の修業を経て、B級映画を2本作った後、最初のA級映画として「第七の十字架」を監督した。その後「真昼の決闘」(1952)、「地上(ここ)より永遠に」(1953)で成功し、「わが命つきるとも」(1966)で、アカデミー作品賞、監督賞を受賞した。
(フレッド・ジンネマン監督)
 「信念を貫く人物を描く作品で本領を発揮し」とウィキペディアに出ている。「わが命つきるとも」はヘンリー8世によって処刑されたトマス・モア(「ユートピア」の著者)を描いた映画だった。「真昼の決闘」や「ジュリア」も確かにその通り。主演俳優にオスカーをもたらした信念を貫いた人物像が忘れがたい。「第七の十字架」もやはり信念を貫いて反ナチス活動を続ける人々を描いている。ただし、主人公のゲオルクは「狂言回し」に近く、彼を取り巻く人々の描き方の方が興味深い。すでにナチスに賛成する人が圧倒的になっていて、誰が信用できるのかが判らない。
(ゲオルク=左とローダー夫妻)
 ここで描かれているのは、「頭のいい人」はリクツで自分を納得させて次第にナチス寄りになっていく。一方、ナチスの政策を評価しつつも、あくまでも「友人」として親身になってくれる「善き人々」は信用できるということだ。これは多分、時代と国境を越えた真実ではないか。主人公を助けた人が口にする言葉がある。「砂糖壺にアリが来た」「一匹ずつは小さいけれど、砂糖は壺からなくなった」。「アリを全部殺すことは出来ない」。一人が出来ることは小さいけれど、小さな抵抗を積み重ねることは出来る。日本を含め世界の多くの人々に、今も生きる言葉だなと思った。

 主人公ゲオルクはアカデミー賞を2回受賞した名優、スペンサー・トレイシー。行き場を失った彼が最後に頼ったローダー夫妻は、政治的な同志ではなかった。その妻を演じているのがジェシカ・タンディだったのでビックリ。1989年に「ドライビング Miss デイジー」で80歳にして最高齢アカデミー助演女優賞を受賞した人だ。夫役も実際の夫婦だった俳優ヒューム・クローニンという人がやっている。宿で彼を助けるトニーという女性を演じたシグネ・ハッソという女優も印象的。8月14日まで時間を変えて、数回の上映予定がある。
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浜田寿美男「虚偽自白を読み解く」を読む

2020年07月28日 22時08分15秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 岩波新書から2018年に出た浜田寿美男虚偽自白を読み解く」を最近になってようやく読んだ。けっこう大変な読書体験だったけど、多くの人が知っておいた方がいいことが書いてある。

 浜田寿美男氏(1947~、奈良女子大学名誉教授)は子どもの発達心理学が専門の心理学者で、専門分野の本をたくさん書いている。同時に80年代後半から狭山事件など冤罪事件の「自白」について被告側の鑑定書を書くようになった。冤罪事件を扱った本もずいぶんある。昔は冤罪関係の本は大体読もうと思っていたので、浜田氏の本も知っていたけど、僕はちゃんと読んだことがなかった。なかなか専門的で大変そうに思えたのである。

 そして実際に短い新書本ながら、なかなか大変な読書だった。冤罪事件、つまり「無実の被告人(再審請求人)」の無実を証明するためにはどうしたらよいか。というか、本来は検察側が被告の有罪を証明する必要があるわけだが、日本では事実上起訴された時点でマスコミなども有罪視して報道することが多い。そして実際に「自白調書」が存在することが多い。しかし、被告人は自分ではないと主張する。一体どっちが正しいのか。

 昔の有名な冤罪事件では、「法医学鑑定」が問題になることが多かった。「無実」なんだから、「自白」と言っても捜査員の誘導がなければ成立しない。そうすると必ず客観的証拠と矛盾するところが出てくる。例えば、「自白」による凶器では実際の傷跡と矛盾するとか。だから医学などの自然科学による新鑑定が重要だったわけである。そして多くの鑑定が認められて無罪判決に結びついてきた。しかし、浜田氏による「供述心理」の分析は従来の鑑定と全然違う。

 世の中には、誰もが絶対に疑えない「完全無実」の事件がある。例えば、足利事件の管家利和さんは無期懲役が確定していたが、有罪の証拠とされたDNA鑑定が再鑑定で間違っていたことが証明された。直ちに釈放され、再審が開かれ、検察側も有罪の立証をしなかった。あるいは、富山県氷見市の強姦事件では、被告人の有罪が確定し懲役刑も終わっていた。その後、真犯人が名乗り出て客観的証拠にも一致し、再審で無罪となった。
(足利事件再審無罪判決)
 だから足利事件氷見事件では、誰もが無実を疑えないわけだが、実はどちらの事件でも被告人は「自白」している。そして裁判になっても無罪を訴えなかった。足利事件では拘束一日で「自白」し、時々自分じゃないと言っては、また引っ込めたりして、一審の最終段階になって初めて無罪を主張した。氷見事件では、ついに裁判中も無実を訴えず有罪が確定して服役している。つまり、「ウソの自白」は「拷問」や「強力な誘導」がなくても起こるし、裁判になればすぐに無罪を主張するというほど簡単なものではないのだ。

 著者は足利事件狭山事件清水事件(袴田事件)に加えて、日野町事件(滋賀県で起こった無期懲役事件で、再審開始決定が出たが検察が抗告中、請求人は獄中で死亡)、名張事件(名張毒ぶどう酒事件)などの「自白供述」を詳しく検討する。そして、どの事件にも「無実の人でなければ、ありえない供述」を発見する。真犯人には真犯人しか判らない「秘密の暴露」が現れる。一方、無実の場合は、無実でありながら「自白」して捜査員に受け入れられる供述をしようとするが、その中に真犯人だったらあり得ない「無知の暴露」が見つかる。

 足利事件の場合など、捜査員はDNA鑑定を完全に信用しているので、無実を疑いながら無理やり犯人に仕立てているのではない。本当に真犯人と思い込んでいる公権力を相手にして、いくら本当に「無実」であっても闘い続けるのは大変なことである。言うことを聞いて、相手に合わせて供述する方がずっと楽なのだが、それでも「現場検証」がある。足利事件では、現場検証で被害女児の服を捨てた場所を「正しく指摘した」ことで、真犯人の「秘密の暴露」とされた。日野町事件でも同じようなことがあった。どうして、無実の人にそんなことが起こるのか。

 著者はそれを「賢いハンス効果」だと喝破する。19世紀末のドイツで有名になった「計算のできる馬」である。観客の見ている前で、簡単な計算の答えを蹄でたたいて答えたということで有名になった。しかし、実は人間の微妙な反応を察知してたたく数が判ったのである。だから、人間の影響をシャットアウトすれば出来なくなることが証明された。浜田氏は足利事件や日野町事件を詳しく検討し、同行した捜査員が直接指示していなくても、実際上は「賢いハンス効果」で「ここです」と場所を示すことが出来るのだと証明している。

 この本が読むのが大変だったと書いたけれど、多くの事件で取り調べ状況を詳しく検討するのを読むうちに、読んでる方も取り調べを受けているような臨場感があるのである。単に冤罪事件がテーマだからじゃなくて、新書ながら重い内容を持っている。これを読むと、狭山事件清水事件の再審請求が滞っている状況に驚きと怒りを感じざるを得ない。著者の鑑定は、一度宮崎県の大崎事件で再審開始に結びついたというが、上級審で取り消された。今まで裁判所で認められていないということだが、裁判官の「論理的思考力」も試されているのである。取り調べに弁護士が同席することの重要性も、改めて深く感じた。
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大林宣彦監督「青春デンデケデケデケ」

2020年07月27日 22時37分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 大林宣彦監督の追悼上映の続き。「青春デンデケデケデケ」(1992)と「時をかける少女」(1983)だが、後者は見なかった。2017年に国立フィルムセンターで「再タイミング版」を見てるので、今回はまあいいかと思ったのである。筒井康隆原作を尾道で映画化したもので、同時代的にはすごく面白かった。しかし、趣向は覚えているので再見したら案外面白くなかった。原田知世の記憶が改変されてしまって、尾美としのりが可哀想。「ラベンダーの香り」も今じゃ珍しくもないが、あの頃はほとんど誰も知らなかったのである。

 「青春デンデケデケデケ」は、公開当時に2回見てるので3度目になる。非常によく出来た青春映画で、いい映画を見たなという気持ちを見る者に残す。芦原すなお直木賞受賞作の「完全映画化」で、物語にある適度なセンチメンタリズムやユーモアはほとんど原作由来である。尾道シリーズなど冒頭に「A movie」と表示されるが、この映画にはない。原作があって、石森史郎(ふみお、「旅の重さ」などの脚本家)のシナリオがあって、原作の舞台となった香川県観音寺市でロケをした。プロの技量を十分に楽しめる幸福な映画だ。

 主人公(語り手)である「ちっくん」こと藤原竹良林泰文)が高校時代にロックバンドを作った思い出を振り返った物語である。ロックバンドじゃなくても、高校時代に何かに打ち込んだ経験を描くという意味で「部活映画」的な構造を持っている。というか、「軽音楽部」として正式に学校で活動できるようになって、高校3年の文化祭(燧灘祭=すいたんさい)がハイライトになる。「王道文化祭映画」の最高峰レベル。(ヘタレ文化祭映画の最高峰は「リンダ リンダ リンダ」。)
(練習シーン)
 今回一番驚いたのは、ちっくんと一緒に最初にバンドを作ることになる白井清一浅野忠信だったこと。全然知らなかった。浅野忠信の名前は、多分「幻の光」(是枝裕和、1995)や「PiCNiC」(岩井俊二、1996)あたりで認知したと思う。今調べると、それ以前に僕の見ていた映画に結構出ているじゃないか。しかし、この物語で白井清一よりも重要なのは合田富士男大森義之)の存在だ。お寺の息子で、時には父に代わって法事を務める。

 世慣れていて、エロ本をちっくんに貸したり、檀家を通していろんな話を知っている。エレキギターを買うために夏にバイトするが、その工場も合田が見つけてくる。その手腕は周囲でも認められていて、男だけでなく女生徒も恋愛相談を持ちかけている。物語の中のユーモラスなエピソードには大体彼が絡んでいる。スクーターに乗って、丸刈りの合田が法事に出掛けるシーンなど、通りすがりの誰彼に話しかけながら、ちっくんと話し続ける場面がとてもいい。お寺を練習に使う目算もあって、合田の参加がキーになる。夏休みの思い出にと同級生の女の子が海に行こうと誘うシーンも、裏に合田の企みがあった。
(自宅近くの海でデート)
 ドラムに岡下巧を吹奏楽部から引き抜いて、バンドが出来る。白井のエピソードとして「八百屋お七みたいな」引地めぐみ、岡下のエピソードとして、石川恵美子の好きな三田明美しい十代」を演奏するシーンなど、それぞれのメンバーを生かしながらの語り口がうまい。みんな原作にあるわけだが、実際の映像や音楽が加わると説得力が増す。これが映画にするという意味だろう。祖谷渓(いやだに)の小歩危(こぼけ)に合宿に行くシーンも、映画を見たときは行ってなかった場所だが、今見ると行ったなあと懐かしく思い出す。「かずら橋」はほんとうに怖かった。
(合宿シーン)
 大林監督の初期作品のような特撮を駆使した映画ではないが、編集で見せる映画でもある。カメラはパンや移動で激しく動き、それを自由自在に編集している。音楽の使い方もうまく、見る者を青春の懐旧に浸らせる。一体何カットあるのかと思うぐらい、上手に編集している手腕も見どころだ。原作の舞台でもある観音寺第一高校でロケできたのも大きいだろう。故郷の人々が映画製作に協力していることも、暖かなムードを醸し出している理由だと思う。そして、最後の感傷がまた多くの人に自分の青春を思い出させる。ところで、僕の世代には古いイメージのベンチャーズだが、ちょっと前の世代にはこれほど大きな衝撃だったのである。
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大林宣彦監督「HOUSE」「ねらわれた学園」

2020年07月26日 22時42分08秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸坐で大林宣彦監督の追悼上映を断続的にやっている。先月は「さびしんぼう」「野ゆき山ゆき海べゆき」を書いたが、今月は「HOUSE」「ねらわれた学園」と「時をかける少女」「青春デンデケデケデケ」の2本立てを2日ずつ上映である。まずは最初の2本だが、どちらも公開直後に見て以来だ。「公開直後」と言っても、若い頃はほとんど名画座で見ていたから、多分どこかの名画座で見たんだと思う。1977年の「HOUSE」は大林監督の商業長編映画のデビュー作だが、見た時にすごく面白いと思った。その年の自分のベストワン映画だった。
(HOUSE」)
 1977年7月30日公開だったから、ほぼ43年ぶりに再見したことになるが、確かに今も面白かった。「特撮」を駆使して、ひたすら楽しい映像を作っている。こういう「遊び感覚」だけで作られた映画は初めて見た気がしたんだと思う。日本でもパロディやブラックユーモア、オシャレ感覚の映画はそれまでにもあった。しかし、パロディやブラックユーモアは、事前の知識があってこそ楽しめるところがある。「HOUSE」は若い観客が見て、ただ楽しめる映画に作られているのである。
(「HOUSE」)
 もっとも「HOUSE」が1位というのは、今から客観的に振り返れば過大評価だろう。77年は「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督)の年で、第1回日本アカデミー賞はじめ、キネ旬、毎日映コンなど映画賞を独占していた。僕はこの映画があまり好きではなかったが、3位の「はなれ瞽女おりん」(篠田正浩監督)や2位の「竹山ひとり旅」(新藤兼人監督)の方が上だと思う。近年になって見直したが感銘深い映画だった。「HOUSE」は21位で、11位以下には「黒木太郎の愛と冒険」(森崎東)や「北陸代理戦争」(深作欣二)などが入っている。

 「HOUSE」に関する情報はネット上に多い。「カルト的映画」なんだろう。ポップ感覚あふれるホラー映画で、77年じゃ少し早過ぎたんだと思う。当時18歳の池上季実子が主演だが、美少女ぶりに圧倒される。しかもなんとヌードシーンがある。実に自然で美しい描写で、僕は忘れていたのでちょっと驚いた。大林監督は少女を使っても、ヌードを見せるときがある。今の方が難しいかもしれないが、すごく美しいシーンだと思った。

 池上演じる「オシャレ」他7人の少女が田舎のお屋敷で悲劇に見舞われる。まあ「ホラー」というか、笑っちゃう展開だから、一緒になって楽しむ映画だと思う。他の6人は大場久美子松原愛神保美喜などだが、残りの3人は女優としては残らなかった。少女趣味的な「ガーリー・ムーヴィー」は後に多くの女性監督によって作られるが、「HOUSE」は12歳だった監督の娘、大林千茱萸(ちぐみ)のアイディアを生かした「ガーリー」な感覚が楽しい。同時に大林監督のオトナとしての売れ筋感覚も発揮されている。ずいぶん遊び的描写があるのに、88分と短いのも良い。
(「ねらわれた学園」)
 1981年の「ねらわれた学園」は薬師丸ひろ子主演のアイドル映画として作られた。眉村卓のジュニア向けSFの原作を角川映画が映画化した。大林監督の長編5作目で、テーマ曲となった松任谷由実守ってあげたい」が流れてくると、時間が戻って若い頃がよみがえる気がする。もっとも映画としてはたいしたことがないが、まあ若い時なら楽しく見られる。SFだし、ほぼ全編特撮で楽しく作られている。薬師丸ひろ子は健闘しているが、「時をかける少女」の原田知世と同じく、若すぎて池上季実子ほどの魅力を感じられなかったのが残念。
(「ねらわれた学園」=第一学園)
 話は超能力で学園支配をねらう「金星人」たちに対し、同じく超能力者である薬師丸ひろ子が立ち向かう。ただそれだけの物語で、その学園が何故ねらわれるのか、全く判らない。「HOUSE」はオリジナル脚本だから、7人の美少女たちがどういう順番でどうなるかは判らない。でも「ねらわれた学園」は話が単純すぎて、昔見た時も映像しか楽しめなかった。でも映像は楽しいのである。東京で撮影されているが、ロケハンの重要性も感じさせる。舞台の「第一学園」は、都庁が建つ前の空き地に特撮で合成したという。

 校長を原作者の眉村卓がやっている。担任の先生は岡田裕介で、今は東映会長である。当時の東映社長岡田茂の息子で、東宝の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主役に(親と無関係に)スカウトされた。70年代当初は青春映画によく出ていた。悪の手先になるクラスメイト有川は手塚真で、手塚治虫の息子だが映像クリエイターとして活動している。稲垣吾郎、二階堂ふみ主演で、手塚治虫の「ばるぼら」の映画化作品が公開を控えている。大林作品は特別出演や友情出演がいっぱいで、探すのも楽しい。名前を忘れている人が多く、後で検索することになる。「HOUSE」では池上季実子の父を作家の笹沢佐保がやっていた。
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磐梯山と安達太良山ー日本の山⑲

2020年07月25日 22時36分26秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 2020年いっぱいで終えるために、日本の山シリーズもどんどん書いてしまいたい。今回は福島県にある2つの名峰、磐梯山(ばんだいさん、1818m)と安達太良山(あだたらやま、1728m)。どちらも磐梯朝日国立公園に指定されている。前に書いた出羽三山の月山も同じ国立公園だし、朝日連峰、飯豊(いいで)連峰、吾妻連峰と日本百名山が多く入っている国立公園である。その中でも、磐梯山、安達太良山は東京から近いから、学校行事でも多く利用されている。
(磐梯山と猪苗代湖)
 磐梯山に最初に登ったのは、林間学校の引率だった。教員になった最初の年のことだから、自分で企画したわけでもなく付いていっただけ。磐梯山は登り口がいくつもあるが、一番早く登れるのは八方台登山口(1194m)だろう。磐梯山ゴールドラインの途中にあって、前日に乗ってきた貸し切りバスで来るわけだ。30分ほどで中ノ湯温泉に着く。今はもう営業してないとのことだが、当時から古めかしい宿だった。夏休みに入った直後で、あちこちの学校登山が集中していて、中ノ湯辺りから「渋滞」になってしまった。子どもが多すぎるのである。1時間で弘法清水、30分で山頂だけど、その間ずっと、少し行っては立ち止まりの連続。疲れないで済んだけど。
 (磐梯山テレカ)
 磐梯山は1888年に大噴火を起こして、現在の裏磐梯の景観を作った。桧原湖五色沼などの美しい湖沼地帯はその時の噴火で長瀬川がせき止められて作られた。その時の噴火では477人が亡くなったとされ、近代最悪の火山被害である。さて、最初の登山から10年ちょっと、その時勤務していた高校でも秋の移動教室で磐梯山に行くことになった。今度は担当だったから、事前に登っておきたいと思って夏に夫婦で登りに行った。(事前に下見してるけど、旅館との打ち合わせなどが中心で、まだ山開き前だから実際の登山は出来ない。)
(秋の五色沼)
 朝早く車で家を出たら、10時前に八方台に着いたので驚いた。2時間ほどだから、予定通りのコースタイムで登頂。判りやすいコースだし、特に問題もなかった。展望も良かったので、下の猪苗代湖がよく見えた。山より覚えているのは、その日泊まった裏磐梯猫魔ホテル。福島交通系が開発したバブルっぽいホテルで、案の定その後倒産、一時は星野リゾート系になったが、今は「裏磐梯レイクリゾート」となっている。いい温泉が掛け流しになっていて、潰れてはもったいない。実は僕が一番覚えているのは、ここで食べた中国料理。夕食はホテルに入っている店で食べる仕組みで、香港でも有名というお店を選んだ。かなり高かったけど、人生で一番美味しい中国料理。翌日は五色沼でボートに乗った。秋の本番は、まあ省略します。
(安達太良山)
 安達太良山は、その数年後に登りに行った。二本松市の岳(だけ)温泉に泊まって、翌日に登る。当時は「ゴンドラリフト」と言ったけど、今は「ロープウェイ」がある。いつ変わったのかは判らない。岳温泉からは奥岳までバスも出ているから、ここは一番登りやすい百名山の一つだと思う。登り口はもう1350mなので、山頂までは80分ほどである。気持ちいい尾根筋を気持ちよく登っていった思い出がある。山頂から1時間ぐらい歩くと、「くろがね小屋」という温泉のある山小屋がある。よく紹介されている小屋だが、実はその温泉が岳温泉の源泉なんだという。
(あだたらロープウェイ)(安達太良山テレカ)
 東北道安達太良サービスエリアなどから安達太良山が遠望できる。下に見える川は阿武隈(あぶくま)川である。そうなると、僕らは山を指さしながら、高村光太郎の詩を口ずさむことになる。「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」そして、これが「ほんとうの青空」なのかあと感慨を覚える訳である。いや、そんなことは関係ないという人もいるだろうが、二本松と安達太良山は「光太郎・智恵子の愛の神話」を抜きに語れない山だと思う。
(智恵子生家)
 僕も「智恵子生家」などを訪ねたが、山と温泉に加え、史跡が豊富なのも魅力である。磐梯山だと野口英世記念館はよく学校で行くところだ。そして会津若松で鶴ヶ城に寄ったりするが、会津若松や二本松の幕末悲史は今どうとらえるべきだろうか。白虎隊(びゃっこたい)も知らない人が多くなっていると思うし。二度目に赴任した学校では、安達太良山が林間学校の行き先だった。(すぐに異動したので僕は行ってない。)学校でも「林間学校」などが難しくなってきたし、今では磐梯山や安達太良山に学校で行くことも少ないのかな。
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吉行和子「浮かれ上手のはなし下手」を読む

2020年07月22日 22時58分19秒 | 〃 (さまざまな本)
 吉行和子さんは僕の大好きな女優である。エッセイも何冊も書いていて、読んだものもある。岸田今日子、富士真奈美と三人組の共著も多く、そっちも読んでいる。今度の本は「ひとり語り 女優というものは」(文藝春秋、2010)として刊行され、2013年の文庫化に際して「浮かれ上手のはなし下手」と改題されたもの。戦後演劇史の貴重な証言で、とても面白かった。映画史、文学史にも貴重な話が多く、こんな面白い本を読まずに放っておいたのかと思った。

 最近マジメ系で内容が重い本が続いた(天安門事件、インドネシア大虐殺、五・一五事件など)が、さらに浜田寿美男「虚偽自白を読み解く」(岩波新書)を読んで、完全に燃え尽きた。いずれその書評も書きたいと思うけど、今度は脳内をクールダウンできる本を読みたくなり、田中小実昌ほのぼのバス路線の旅」(中公文庫)を読んだ。次が「浮かれ上手のはなし下手」で、これは巣ごもり期間に枕元の本を整理したら下の方から出てきた。何だまだ読んでなかったのか。上の方に出しておいて、やっと読んだけど、調べたらもう電子書籍だけになってる。

 吉行和子(1935.8.9~)は、もうすぐ85歳になる。最近も山田洋次監督の「家族はつらいよ」シリーズで元気な姿を見ているが、もう舞台には立っていない。父が戦前に若くして死んだ吉行エイスケ、母が美容師で2015年に107歳で死んだ吉行あぐり。(朝ドラ「あぐり」のモデルになった。)兄が吉行淳之介、妹が吉行理恵で、どちらも芥川賞作家である。兄妹についての話も多く、戦後文学史の貴重な裏話もいっぱい。こういう風に書くと有名人一家に思い込んでしまうが、吉行和子が劇団民藝の研究生になったときは、まだ兄は受賞前だった。
(若い頃)
 母が貰ったチケットで民藝の「冒した者」(三好十郎)を見て、劇団の衣装係になりたいと思う。女子学院に通っていたが、ぜんそくで休みがちで本と裁縫が好きな子どもだったから、衣装係ならできると思ったわけである。そして研究生募集を見て試験を受けたら合格した。「アンネの日記」がデビューとよく出ているが、それもオーディションで選ばれた主役が病気休演になった期間のことだった。研究生の最後に新人公演をやったとき、演出家のダメだしメモに「下手すぎる」とあった。これは「しもて」すぎるの意味だったが、本人はいくら演出家でも「ヘタすぎる」はないでしょとむくれた。そんなレベルから始まったのである。

 演劇だけじゃ食べていけないから、民藝の俳優は製作再開の日活映画にたくさん出ていた。最近になって、昔の日本映画をよく上映する映画館が出来て、僕もずいぶん昔の吉行和子を見た。僕の好きなタイプなんだけど、映画ではそれほど重要な役はやってない。石原裕次郎や赤木圭一郎のエピソードも興味深い。でも僕の大好きな「あいつと私」は民藝で批判されたという。安保闘争のシーンでデモ参加者どうしの不祥事が出てくる。それが安保闘争を汚すものというんで、ビックリした。やはり「新劇」には「左翼教条主義」がまかり通っていたのである。

 今村昌平監督の「にあんちゃん」がベルリン映画祭に出品されて、受賞有力と言われて初めての海外旅行に出かけた。その後で、今度は新劇合同訪中団で中国へ行った。特に中国旅行では、文学座の杉村春子の付き人になって苦労した話が興味深い。民藝でも滝沢修宇野重吉らの大幹部のようすも出てくる。だんだん新劇界も変わってゆくが、寺山修司に「民藝やめたら」と言われた。(ちなみに病没直前の電話では「治って退院できたら、キミと暮らしたいな」と言われた由。もっとも多くの女性に同じことを言ったらしい。)そして、鈴木忠志率いる早稲田小劇場で唐十郎「少女仮面」をやるとき、民藝を辞めて出演したのである。

 時代が違って、僕もその事は知らなかった。民藝で身につけたスタニスラフスキー・システムを抜き去るために、ずいぶん苦労したとある。それだけでは食べていけないから、商業演劇にも出た。大川橋蔵の歌舞伎座公演や鶴田浩二の大阪・梅田コマ劇場公演に出た。それから、翻訳劇を上演する路線になる。最初が「蜜の味」、それから渋谷の地下劇場ジァンジァンで朝倉摂演出で「人形姉妹」をやって、ニューヨークでも上演した。実はこれらは全然見てないので、時間を戻して見てみたい感じだ。ラストの引退公演と銘打った「アプサンス~ある不在~」は俳優座劇場で見ている。その頃は六本木に勤務していたので、行きやすかった。
(「愛の亡霊」)
 映画では大島渚監督がカンヌ映画祭監督賞を受けた「愛の亡霊」(1978)が面白い。「愛のコリーダ」で絶賛された話を藤竜也に聞いていたら、カンヌでは思ったほどの歓迎ではなかったという。「コリーダよりすごい」と大島が言うから、それはポルノ映画的にもっと強烈と思ったら、違ったわけである。実際、僕は「コリーダ」より「亡霊」の方がすごいと思ったけど、プロデューサーからすれば40歳を超えた主演女優ではと思われたらしい。

 そんな話が続くうちに、病気や借金の話となり、母に先がけて兄(94年)や妹(06年)が亡くなる。最後はクーデンホーフ光子の生涯を一人芝居にした話。岩松了の「浮雲」に出た話があって、僕は見ているのに吉行和子が出たことを忘れていた。エピソード満載で、演劇・映画が好きな人には落とせない本。
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「のぼる小寺さん」、青春部活映画の快作

2020年07月21日 21時04分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 古厩智之(ふるまや・ともゆき)監督、吉田玲子脚本の映画「のぼる小寺さん」は、滅多にない青春部活映画の快作だ。これが今年のベストワンとは言わないけれど、ああ見て良かったなあと思う映画。コロナ禍で座席が半分しかない中で、溜まった映画はどんどん劇場公開を終えて二次利用で製作資金を回収しようとしている。「のぼる小寺さん」は是非大きな画面でみたい映画だし、学校の映画教室などでも上映して多くの若者に見て欲しい映画だ。

 もともとは「珈琲」という作者名によるコミックだというが、僕は知らない。その原作を「けいおん!」「聲の形」「夜明け告げるルーのうた」などの脚本を書いた吉田玲子が脚色した。今度は実写映画だが、脚本が優れている。監督の古厩智之は青春映画を軽快に撮る名手で、今度も素直に感情移入して、ドキドキしながら展開を楽しめる。
(ボルダリングする「のぼる小寺さん」)
 主人公「小寺」(工藤遥、ちなみに下の名は出て来ない)は中学生からフリークライミングの選手で、高校でもクライミング部でひたすら体育館にあるボルダリングのコースで練習している。こういう施設がどのぐらいの高校にあるか知らないけれど、小寺さんは一生懸命だ。冒頭で担任の先生が、進路希望調査を白紙で出したといって数人を残している。小寺さんは翌日、「クライマー」と書いて出して呆れられる。「競技を続けながら体育系大学を目指す」とかの「現実的な進路希望」にした方がいいと教師はいう。小寺さんは「ウソを書く方がいいんですか」と言う。

 小寺さんは生真面目で、少し一生懸命すぎておかしいんじゃないかと思うぐらいだ。クライミングは得意だが、バレーボールは苦手で、授業でボールを鼻に当ててしまったりする。「球技不得意系」みたいだから、確かに少し人と違っていると思う。でも、ひたすら頑張っている小寺さんを見てると、周りの人間も変わっていく。ボケッと見ていた同級生の「近藤」(伊藤健太郎)は、ヘタレ卓球部員でヘタクソなラリーをしている初心者だが次第に一生懸命練習するようになる。いつも見つめてしまって、好意を持ったのかなと思うけど、感化されてゆくのだ。
(田崎の写真を見る小寺さん)
 写真が好きな「田崎ありか」、キモいと言われていたがクライミング部に入部した「四条」(よじょう)、学校に来ないで遊んでいる「倉田梨乃」、皆が皆、フランクでナチュラルに接してくれる小寺さんに感化されてゆく。そして文化祭(淵高祭と出てくるが架空の高校名)がやってくる。ここで1年2組の話だったと判るが、「動物喫茶」をやっている。(動物の格好をして接待する喫茶店で、このアイディアは使えそう。)そして見に来た男の子が持ってた風船をうっかり放してしまう。その時、小寺さんは…! このシーンのためだけでも、是非見て欲しい映画だ。

 「部活映画」あるいは「部活小説」「部活漫画」は数多いけれど、ほとんどは団体競技だ。野球部、サッカー部、バレーボール部…。個人競技である剣道、柔道、相撲、卓球などでも「団体戦」を描くのが普通。文化部でも演劇、吹奏楽、書道、競技かるたなど、皆「団体競技」である。古厩監督の旧作「ロボコン」(2003)も、部活じゃないけれど学校どうしの団体戦だった。団体だと内部に上手下手があり、そこに葛藤と団結が生まれる。しかし、「のぼる小寺さん」は全く違う。ひたすらのぼる小寺さんを描くことを通して、何人かの「関係性の変容」を見つめる。
(小寺さんと近藤君)
 人生にはこういうことは結構あると思う。学校でも行事が成功するときは、誰かが引っ張る姿を周りが見ている。勉強でも同じで、検定合格に一生懸命な生徒がいると、周囲も感化されてゆく。そういうことは実は人生に多いと思う。「一人でも頑張る」ことで、「ほんのちょっとでも世界を変えられる」のだ。この映画の成功は圧倒的に主演の工藤遙に拠るところが大きい。「モーニング娘。」の第10期メンバーに11歳で選ばれ、2017年に卒業とある。僕は知らなかったが、今回は3ヶ月の特訓を経て実際に登っている。伊藤健太郎も卓球でスマッシュを決めているが、クライミングは比較にならないぐらい危険だし難度も高い。この難役にチャレンジして見事に映画を支えている。いま元気をなくしている人は是非見てください。
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東京都北区の都議補選の結果を考える

2020年07月20日 22時26分36秒 |  〃  (選挙)
 2020年7月5日の東京都知事選に関しては、先に2回書いた。もっと書きたい感じもしたが、特に情報も持ってないし、批判を書くだけだから止めることにした。しかし、「山本太郎の選挙戦をどう考えるか」「桜井誠の約18万票の得票をどう考えるか」などは重大な問題だろうとは思っている。これで終わりでもいいんだけど、都知事選と同時に「都議会議員選挙の補欠選挙」が5地区で行われた。全部自民党が勝利したのだが、それは当然だろう。都議選は本来「大選挙区」で行われるが、今回は全部定数1の「小選挙区」だったのだから。

 その中で、特に北区の都議補選女性候補5人の戦いとなった。さらに小池都知事の与党である地域政党「都民ファーストの会」が独自候補を唯一立てて、どの程度の得票になるかが来年の都議選に向けて注目された。この地区の開票結果をもとに、「コロナ禍」の選挙で何が変わったのかを見てみたい。最初に書いておくが、結果を分析しても全然面白くない。だからすぐには書かなかったんだけど、一応知っておいてもいいかなと思って書き留めることにした。

 ところで何で補欠選挙が行われたのだろうか。2017年の都議選で再選された音喜多駿(おときた・しゅん)が2019年の北区長選に出馬したことで、1議席が空白となったのである。音喜多は区長選に惜敗したが、7月の参院選東京選挙区に「日本維新の会」から出馬し、定数6のうち6位ながら当選した。音喜多は2013年に「みんなの党」から当選し、その後書くのが面倒だから省略するけど、いろいろと渡り歩き2017年は「都民ファーストの会」でトップ当選した。以後も迷走が続き、区長選には「あたらしい党」という名前だった。

 今回の開票結果は上の画像通りだが、ちょっと過去にさかのぼって調べてみる。2013年までは「定数4」だった。2017年から「定数3」に削減された。2009年は民主党政権成立直前で、都議選でも民主党が圧勝した。「民・民・自・公」で共産党が落選した。2013年には民主党が惨敗し共倒れして、「自・公・共・みんな」となる。自民(高木けい)は約3万4千票、公明(大松あきら)は約2万8千票、共産(曽根肇)は約2万5千票、最後の音喜多は約1万3千票だった。

 2017年都議選では、「都民ファースト・公・共」となって、自民が削減分の第4位になって落選した。トップの音喜多は約5万6千票、公明は約3万4千票、共産は約3万票、自民は約2万9千票、最下位で民進党の和田宗春が8千3百票だった。今回は音喜多辞任によるものだから、本来は「都民ファーストの会」が欠員となるが、音喜多は「維新」に移った。「維新」も出ているので、むしろそっちが音喜多票の後継になる。公明と共産は現有議席があるから、今回は公明は自民を、共産は立憲民主を推薦して選挙協力を行った。

 自民新人の山田加奈子は公明の票もあるから盤石のはずだ。結果は5万2225票で、ダントツのトップだった。しかし、2017年の自公票の合計は約6万3千票あるはずで、1万票ほど少ない。次点の立憲民主、斉藤里恵3万6215票だが、これは前回の共産+民進票(3万8千票)とほぼ同じである。3位が維新の佐藤古都で、3万3903票、次が「都民ファーストの会」の天風いぶきで、2万3186票。合わせると5万7千ほどで、これは前回の音喜多票とほぼ同じだ。

 今回は他に「N国」(ホリエモン新党)の新藤加菜が6126票で、この票はどこから出てきたのか。投票率は前回が57.16%で、今回が57.69%だからほぼ変わらない。都知事選の得票を見てみると、小池=9万7776票、宇都宮=2万2729票、山本=1万6547票、小野=1万5091票となっている。(桜井=4806票、立花=1156票)宇都宮+山本票は、ほぼ斉藤里恵票と同じだが、維新票は半分以上が小池に流れたのだろう。自公票はほぼ小池なんだろう。

 ここは衆院選小選挙区では足立区西部とともに「東京12区」である。東京唯一の公明党立候補区で、太田昭宏前代表の選挙区だ。2009年には民主党の青木愛が勝って、太田代表が落選した。2012年に復活して、2014、2017と当選した。年齢の関係で今期限りの勇退が決まっていて、比例区北関東ブロックで3回当選の岡本三成が小選挙区に回ることがすでに決まっている。北区在住と出ているが、知名度的には太田に大きく負けているだろう。次の衆院選も近い中、今回の都議補選できっちりと自民に「自公協力の価値」を示したわけである。

 一方、立憲民主党と共産党の選挙協力は何のプラス効果も生まなかった。維新は東京でも、「大選挙区」の都議選なら当選可能性を示している。全体として、全国のいろんな選挙を見ても、多少の波乱はあるものの大体は予想通りの結果になっている。コロナ禍で政治不信は高まったが、投票行動に大きな変化は見られない。街頭の選挙運動がほとんど出来ない状態では、有権者も今までの選択を維持しているのかと思う。ということで、全然面白くない結論になるが、日本はコロナでも変わらないらしい。
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大森立嗣監督の傑作「MOTHER マザー」

2020年07月19日 20時58分38秒 | 映画 (新作日本映画)
 金曜日(17日)は夜に浅草演芸ホールに行ったわけだが、じゃあ昼間に一本映画を見てから行こうかと思った。東京メトロ銀座線で浅草に近いTOHOシネマズ日比谷シネマズ上野か日本橋を調べたら、大森立嗣監督、長澤まさみ主演の「MOTHER マザー」が時間が合いそうだった。大森監督は結構見ているけど、出来不出来があるし、長澤まさみの「毒親」も見たいような見たくないような…。でも、これは見逃さなくて良かった。傑作だったのである。

 これは何より、長澤まさみの演技を見る映画だ。とても楽しいとは言えないけれど、目が離せない。「ロボコン」や「セカチュー」の時代から、ここまで来たんだなあ。今年の女優賞の有力候補である。この物語は実話が基になっているというが、僕はこの「祖父母殺害事件」を知らない。大森監督と港岳彦(「宮本から君へ」など)の共同脚本で見事にダメな母親を造形している。

 大森立嗣(たつし)は最近コンスタントに仕事をしている。「さよなら渓谷」(2013)や「日日是好日」(2018)は傑作だと思うが、最新作の「タロウのバカ」(2019)は納得できずに書かなかった。犯罪をテーマにした「ぼっちゃん」(2013)や「」(2017)などに空回りが多いように思う。だから今回も心配しながら見たのだが、母親の「生活力のなさ」、「だらしない生き方」、男や長男への依存的生き方が説得的に描かれている。身近にいれば実にうっとうしい人間だ。
(大森立嗣監督)
 三隅秋子(長澤まさみ)は、冒頭から家族に見放された感じで、好意を寄せる男に金をたかる行き方をしている。「毒親」というレベルではない。「毒親」はとにかく子どもを養育する責任は果たすが、秋子はネグレクトというしかない。現実にも多くの虐待事件が報じられるが、そういうときに僕はよく、子どもの父親、あるいは母の実家、そして福祉制度はどうなっているんだろうと気に掛かる。この映画では全部出てきて、皆が心配しているが、母親が強固な意志で逃げてしまえば無力なのである。ホームレスになって「保護」されるが、秋子は逃げてしまう。

 それは川田遼阿部サダヲの好演)が現れて、腐れ縁的にまとわりつくからである。どうしようもないのに秋子は遼の子どもを身ごもってしまう。長男の周平に加え、妹まで生まれるが、もちろん男には捨てられる。実家はもう何度も援助しては、子どもの養育費にならずにパチンコでその日に使ってしまうので呆れている。妹ばかり親がひいきしてきたというが、妹は姉が勉強しなかっただけだという。生活保護を受けていたが、男をたぶらかしては逃げているうちに切れてしまった。一体、どうすればいいんだろう?これまでは「体」を使って切り抜けてきたが。
(秋子と遼と周平)
 いくら何でも、子どもだけは学校へ行かせろよと思う。周平は福祉職員の高橋亜矢(夏帆)に薦められて、地域のフリースクールに通う。本当は行きたい周平に、何とか行かせないように毒づく母秋子は、確かに「毒親」である。こんな親は果たしているのかと思うかもしれないが、自堕落と自己防衛で生きている人は確かにいる。今まで会わずにいられた人は幸せである。そういう母親像を長澤まさみが全身で演じている。周平に嫌われたらダメで、「それでも母が好き」だという「共依存」を観客に納得させられるか。僕は成功したと思う。
(阿部サダヲ、長澤まさみ、奥平大兼)
 この映画の成功は、脚本や主演だけではなく、周平役の新人、奥平大兼(2003~)の力も大きい。何でも空手をやってるというが、演技経験はゼロらしい。素晴らしい存在感だった。撮影の辻智彦の仕事も印象深い。題材がトンデモだから、近寄りすぎても遠ざかりすぎても、内容に入れない。僕はつかず離れずの演出や撮影が良かったと思った。このケースの場合は、早い段階で母子を引き離すしかなかったと思うが、現実には難しいものもあるだろう。どうすれば良かったのだろうか。ところで、「MOTHER マザー」的な題名は違和感があるなあと思う。
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森崎東監督作品を振り返る

2020年07月18日 22時50分18秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の森崎東(もりさき・あずま)が7月16日に亡くなった。1927年生まれで、92歳だった。最後の作品となった2013年の「ペコロスの母に会いに行く」は故郷の長崎を舞台にした作品で、キネマ旬報ベストテンで1位になった。作品完成後に認知症を公表していたので、もう作品は作れないものを覚悟していた。むしろよく2020年まで生き抜いたというべきだろう。もうずいぶん昔の作品ばかりになって、訃報では「喜劇の名手」とされ、「ペコロス…」や「時代屋の女房」が代表作のように出ているが、それらはむしろ例外的な作品だ。
(森崎東監督)
 森崎東は1960年代末の山田洋次監督喜劇の多くで脚本を書いている。中でも「男はつらいよ」第一作の脚本を山田洋次と共同で書いている。(というか、どう書いたかは知らないけれど、二人の名前がクレジットされている。)「男はつらいよ」第3作の「男はつらいよ フーテンの寅」では監督をしているぐらいだ。1969年の監督昇格作品は「喜劇・女は度胸」であり、寅さんに続く3本目は「喜劇・男は愛嬌」、1971年には「喜劇・女は男のふるさとよ」「喜劇・女生きてます」で力量を認められた。「喜劇」と付くんだから、喜劇の名手なんだろうと思われても当然か。
(「ペコロスの母に会いに行く」)
 森繁久弥が社長を務める「新宿芸能社」を舞台とする「女シリーズ」は、「女は男のふるさとよ」「おんな生きてます」「女売り出します」「盛り場渡り鳥」と4作作られた。ある程度評価もされたし、僕も大分経ってから見て、なかなか面白かった。でも「男はつらいよ」シリーズのような「喜劇の名作」ではなかった。むしろ下層民衆のバイタリティを描くという意味で、同時代に作られた日活ロマンポルノのような感触もある。ストリッパーが出てきても、松竹映画だからもう少しお上品だったけど。でも松竹的なホームドラマの枠には収まりきらない印象があった。映画の完成度を無視して、激情が噴出するようなイメージがある。
(「女生きてます 盛り場渡り鳥)
 そこら辺を松竹も判っていたのか、「寅さん」は一本で終わり、黒澤明「野良犬」のリメイクとか、朝ドラの映画化「藍より青く」などを監督した。1970年にも喜劇シリーズの中で、劇画の映画化「高校さすらい派」もあった。(これは僕はわりと好き。)しかし、1975年に松竹との契約を打ち切られ、その後は他社で撮ることが多くなった。でも「塀の中の懲りない面々」「釣りバカ日誌スペシャル」「美味しんぼ」「ラブ・レター」など、ごく普通にそこそこよく出来たエンタメ映画も松竹で作っている。松竹も力量は買っていたのだろう。

 東映で「喜劇 特出しヒモ天国」(1975)を作り、ATGで「黒木太郎の愛と冒険」(1977)を作った。特に後者で自分なりの暗さに向き合ったことは大きかったと思う。敗戦時に17歳だった森崎だが、8月16日に特攻隊員だった次兄・森崎湊が割腹自殺した。その後京大を卒業して松竹京都撮影所に入るが、その間共産党員であり六全協を迎えたのである。それらの思想的苦悩が森崎映画の奥に潜んでいると思う。それを初めてATG映画という場を得て描いた。

 森崎映画は3本しかベストテンに入っていないけど、最初は1985年の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(7位)である。異様に長い題名が忘れられない映画だが、これは「3・11」後に再見した。原田芳雄原発ジプシー(渡り労働者)を演じたことで、「反原発映画」として再発見されたのである。またデビュー作の主演者だった倍賞美津子が主演して、森崎映画を代表する女優となった。日本で働くフィリピーナも出てくるし、雑多なテーマを散りばめすぎた感があるが、それでもバイタリティあふれる作品だ。
(「…党宣言」)
 2004年の「ニワトリはハダシだ」(8位)も忘れがたい作品。やはり原田芳雄、倍賞美津子の主演だが、知的障害を持つ少年を扱う。主演は本格デビュー作の肘井美佳も良かった。そして最後の「ペコロスの母に会いに行く」になる。これは森崎が一本も作らなかった「名作」になっていて、そのためベストワンになったけれど、故郷で撮ったためか年齢のせいか、エネルギーが適度に枯れていたのかもしれない。「名作」は僕の場合褒め言葉ではない。猥雑なるエネルギーに満ちていたが、「名作」になりきらなかった作品群が懐かしい。
(「ニワトリはハダシだ」)
 一貫して「民衆」でも「人民」でも「市民」でもなく、「下層庶民」を描いたと思う。「庶民」はずる賢い面もあるが、エネルギーがある。同年生まれの神代辰巳、一年年上の今村昌平も同じように猥雑なエネルギーを持つ民衆像を描き続けたが、それぞれどう違うのか。僕には今はっきりとした解答はないけれど、考えてみたい問題だ。「時代屋の女房」には触れなかったが、夏目雅子が素晴らしい映画だ。
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神田松鯉の「乳房榎」ー浅草演芸ホール7月中席夜の部

2020年07月18日 17時26分59秒 | 落語(講談・浪曲)
 緊急事態宣言解除後、映画館には行ってるけど寄席や劇場には行ってない。僕が見たい演劇は、おおむね新宿や渋谷以遠(自宅から見て)の夜公演が多い。どこかで食べなきゃいけないし、家に着くのが遅くなる。しかし、浅草演芸ホールの7月中席(後半)の夜公演はトリが神田松鯉の怪談噺連続長講だから、家から近いしどうしても聞きたくなって出掛けてきた。

 客席は一席ずつ空けて座れないようになっていた。神田伯山も出るし、客席半分は入れない前提での「ほぼ満員」になったが、他の寄席より広いから「密」な感じはあまりない。9時に終わって、つくばエクスプレスを使ったら9時40分に自宅に着いた。これは東京感覚ではものすごく早い。先に軽く食べて、帰りは外食しないで帰る。これなら心配は少ない。

 なんと言っても神田松鯉(しょうり)先生。人間国宝認定以降、何回か聞いてるが素朴な語りに乗せられてしまう。今回は5夜連続の怪談噺で、本来なら梅雨明けしている頃である。今年は梅雨が長く、各地で被害が起きている。東京も久しく太陽を見ていない。本来なら「猛暑の五輪どうする」と息巻いていた時期だが、どっちも外れるとは年初には予想できなかった。しかし、梅雨寒の多湿感も怪談向きだと松鯉先生は言う。
(神田松鯉)
 「番町皿屋敷」や「お岩誕生」などもある中で、「乳房榎」に行ったのは圓朝の原作を読んでいて、板橋にある「乳房榎」も見に行っているからだ。しかし、乳房榎(という木がある)は直接は出て来なかった。悪党が絵師の先生宅に入り込んで、先生が長い仕事を頼まれている間に、留守宅の奥方を手込めにする。そこから恐怖の犯罪と因縁話が始まる。悪党が師匠をあやめた後で、突然灯りが消えて懐中電灯で演者だけが浮かび上がる。怪談らしい趣向。

 今回は落語家も出ているけれど、松鯉門下の3人が講談を披露する講談中心のプログラム。最初が神田阿久鯉で、江戸時代に怪盗に憧れた少年の話。中入り前に神田伯山の「万両婿」で、15分圧縮ヴァージョンは筋を知ってると今ひとつか。前に聞いてるから。「大岡政談」の一種である。途中で救急車の音が聞こえて「うるせえな」とか言いながらやってた。熱演だから客席には受ける。中入り後に神田鯉栄の次郎長もの。阿久鯉と鯉栄は、伯山の姉弟子にあたる女性講談師だが、持ち味が少し違う。伯山もいいけど、この二人がだんだん楽しみになってきた。しかし、やっぱり何となく乗せられてしまう松鯉先生が一番聞きたくなる。

 ねづっちの謎かけ、北見伸&スティファニーのマジック、鏡味正二郎の大神楽(曲芸)なんかも、いつ見ても受けている。僕も面白くて大好き。実は初めての「ザ・ニュースペーパー」、真打間近の「成金」メンバー春風亭昇々も面白かった。浅草演芸ホールはプログラムが充実していて、一度行ったらまた行きたくなった。これで3千円、4時間楽しめるって、他の芸能に比べてもコスパがいいし、マスクして見ているのも思ったよりは辛くなかった。
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中公新書「五・一五事件」を読む

2020年07月16日 23時15分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書で小山俊樹五・一五事件」を読んだ。出たときに買うかどうか迷って買わなかった。新聞の書評を見て買うことにしたが、1ヶ月で再版になっていた。事件について類書がないぐらいに詳しい。戦前の歴史に関心がある人には、落とせない本かなと思う。副題が「海軍青年将校たちの「昭和維新」」とある。陸軍青年将校が中心になった「二・二六事件」に対して、「五・一五事件」は海軍青年将校が中心だったが、確かに僕もそんなに詳しくは知らない。

 5月15日に起きたから「五・一五事件」と呼ぶわけだが、じゃあ、それは何年のことか。そんなのは常識だと言えるほど、皆が判っているとは思えない。「満州事変」「二・二六事件」「盧溝橋事件」(日中全面戦争開始)を起きた順番に並べられる人は少ないと思う。高齢層の人はよく、学校で現代史を教えないから若い世代が戦争を知らないと言う人がいる。しかし、これらは基本中の基本であり、受験に必須である。先ほどの4つの歴史事項は書いた順に起きたわけだが、ちゃんと答えられるのは受験生ぐらいかもしれない。

 帯には「昭和戦前、最大の分岐点」とある。これは「政党内閣」の日本的なあり方(憲政の常道)がここで途切れたことを指すのだろう。「憲政の常道」と当時言われたのは、普通選挙で勝利した最大政党の党首を内閣総理大臣に推挙する慣例のことである。日本国憲法の「議院内閣制」(国会が総理大臣を指名する)と違って、当時は天皇が総理大臣を任命した。もちろん誰でもなれるわけではなく、「元老」と呼ばれる長老が天皇に首相候補を推挙する慣例があった。

 明治時代は薩摩や長州出身の「藩閥内閣」が続いたが、次第に政党が力を蓄えていった。1924年の加藤高明内閣から1932年(昭和7年)の「五・一五事件」までの約8年間が日本の短い「政党内閣」時代だった。1932年5月15日、海軍青年将校が首相官邸を襲撃し、政友会犬養毅首相を暗殺した。政友会は後継総裁に鈴木喜三郎を選任したが、「最後の元老」西園寺公望は首相候補として斉藤実(さいとう・まこと)海軍大将(前朝鮮総督)を選んだのである。
(犬養毅首相)
 事件当日の様子は本書で見て貰うとして、その後の第2章、第3章は襲撃側の前史、海軍における国家改造運動を扱っている。あまり細かい話を書いても仕方ないけれど、海軍は藤井斉という強力なリーダーが存在した。またロンドン軍縮条約をめぐる「統帥権干犯問題」が起こって海軍内の「国家改造運動」が盛り上がった。陸軍にも同志が多数いたわけだが、陸軍青年将校は時期を待つ判断をしていた。1931年9月に「満州事変」が起きたこと、1931年末の政変で民政党内閣が崩壊し、政友会の犬養内閣が成立して陸軍大臣に皇道派の荒木貞夫が就任したことなどが背景にある。

 当時「三月事件」「十月事件」という未発のクーデター事件があり、さらに井上日召らの「血盟団」による「一人一殺」のテロも起こった。海軍の藤井は陸海民間が決起するクーデターを計画していたが、満州事変後に日本側の謀略で起きた「第一次上海事変」で戦死した。これは日本海軍初の航空戦の戦死である。その結果、「テロ」で良い、自分たちはさきがけとして決起する。「破壊」だけを担当するというような発想で、首相暗殺に至る。同時に牧野内大臣邸や政友会本部の襲撃もあり、また右翼的農民運動家橘孝三郎の率いる「愛郷塾」生による「変電所襲撃」(帝都暗黒化計画)も実行された。

 そこら辺は昔は知ってたと思うけど、もうほとんど忘れていた。僕も首相暗殺だけみたいに思い込んでいたが、もう少し大規模な計画だったのである。しかし、藤井戦死後のリーダーだった後輩の三上卓は「テロ」を選んだ。犬養内閣の政策への不満ではない。「特権階級」の代表としての襲撃であり、彼らにはその後の計画がない。一応、戒厳令を敷いて一気に「国家改造」を実現するということになるが、国家改造とは「天皇親政」である。天皇の周りで悪い政治を行っている「君側の姦」を取り除くだけで、自分たちの歴史的役割は終わる。
(三上卓)
 実際に「政党内閣」はここで終わった。政友会の新総裁、鈴木喜三郎は首相になれなかった。その裏にあったものは何か。今までは僕も「軍部の反発」程度に思い込んでいたが、著者によれば「昭和天皇の意向」が働いていた。それは重要な指摘だ。この間の経緯はかなり複雑なのだが、結局選ばれた斉藤実は海軍内でロンドン軍縮条約を認める立場に立っていた。政友会内閣よりも、実質的には穏健だったのかもしれない。

 一年経って裁判が始まるが、そこで大規模な「減刑運動」が起こった。それは有名な話だけど、入手しやすい最近の本で、ここまで詳しい叙述はないだろう。どうして「首相暗殺の殺人犯」に同情が集まったのか。何故主犯の三上らは求刑死刑に対し、禁固15年という「軽い判決」だったのか。その裏事情も究明されている。軍人だから軍法会議で裁かれて、所詮は軍内の政治で判決が決まる。一方、民間人である橘らは普通の裁判所で裁かれ、橘には無期懲役と軍人被告とは段違いの重刑になった。当日は東京にいなかったにも関わらずである。

 この陸海軍少壮軍人による国家改造運動をどう考えるべきか。軍人だって人間だから、いろいろ考えるだろうが「軍人勅諭」で禁じられる政治関与はおかしいだろう。軍を辞めて民間人でやるならともかく、軍に在籍したまま軍の武器を使用してテロを行うのは間違っている。大日本帝国憲法は軍に関してはタテマエ上は「天皇親率」だが、政治上のことは議会を置き選挙を認めているのだから「天皇親政」はできない。世界に軍のクーデターは山のようにあるけれど、大体は「議会と憲法を停止して、クーデター勢力が全権を握る」のが通例だろう。だが天皇絶対を掲げる以上、明治天皇が定めた「欽定憲法」を否定できない。

 そういう風に構造的に失敗が運命づけられていたわけだが、それ以上に昭和天皇の「大御心」はテロ勢力に同情的ではなかった。そのことは「二・二六事件」に至れば完全に判明する。政治のリアリズムがない。現在では実感出来ない問題になってしまったから、歴史好きでもなければ陸軍の「統制派」「皇道派」なんて言っても判らないだろう。それよりも、東北には身売りせざるを得ない貧困があると決起しながら、多額の資金を得て決起前日に料亭で酒と芸者で遊ぶ神経が僕には判らない。やっぱり「上から目線」で偽善だったかと思ってしまう。
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韓国の傑作映画「はちどり」

2020年07月15日 22時26分53秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国の若き新人女性監督の映画「はちどり」を見た。最初は渋谷のユーロスペースで公開され、好評でヒットしたらしくTOHOシネマズ日比谷と池袋で拡大上映されている。TOHOシネマズ池袋は今月に開館したばかりで、元の豊島区役所を再開発した「ハレザ」に入っている。まだ行ってないから池袋をネット予約して出掛けていったのだが、何と山手線が駒込駅で停まってしまった。少し余裕を見て出たのだが、待ってても動かない。開映時間が迫ってきたので、やむを得ずタクシーで行くことにした。チケットを買ってあると、こういう場合困ってしまう。奇跡的に間に合ったのだが、果たしてタクシー代に見合った作品だったろうか。

 これは間違いなく傑作である。韓国を代表する大鐘賞は、「パラサイト 半地下の家族」とぶつかってしまって受賞はならなかったが、作品賞、監督賞、脚本賞にノミネートされた。受賞は新人監督賞に止まったが、キム・ボラ(1981~)の才能は素晴らしい。ソウル近郊に住む中学2年の女子生徒の日常を描くだけなんだけど、その観察眼と演出力は並々ならぬものがある。「はちどり」(ハミングバード)は女子生徒キム・ウニを象徴している。韓国にはいない鳥だが、世界で一番小さな鳥でありながら、毎秒55回も羽ばたきしてホバリングできる。何もない日常を生きているだけのようだけど、ウニの心の中は波瀾万丈である。
(キム・ボラ監督)
 時は1994年と冒頭で明示される。キム・ヨンサム(金泳三)政権時代で、民主化運動で大統領直接選挙が実現して7年、ソウル五輪から6年。「中流層」が増えつつも、受験競争は激化し、伝統的な家父長制は健在である。商店街の餅菓子屋一家で、時には総出で仕事をする。父は口うるさく、母によると浮気している。母は日々の生活に追われていて、兄はウニに暴力を振るい、姉は遊び回っている。ウニは自分が何をしたいか判らないまま、ボーイフレンドや後輩と遊んでいる。「漢文塾」に通わされているが、ある日行ってみると高麗大生の先生はクビになり、ソウル大休学中のキム・ヨンジという女性が代わりでやって来る。
(キム・ヨンジ先生の授業)
 初めて話を聞いてくれる年上の女性を見つけ、ウニも心を開く。このヨンジ先生の描き方がうまい。最初に見ただけで、観客はウニにどういう意味を持つ存在になるか予感するだろう。同級生の男子、女子、後輩などは、やはり揺れている。学校の先生は紙を配って「不良を書け」と言う。「カラオケ行かずに、ソウル大に行こう」とクラス皆に大声で唱和させる。いくら何でも変すぎる。そんな中、ウニは耳の後ろのシコリが気になる。病院で検査して、大きな病院で手術した方がいいということになる。入院前にヨンジ先生にプレゼントすると、先生はお見舞いに来てくれる。入院中にキム・イルソン(金日成)が死んだとニュースで流れる。

 さて、このように流れを書いていても、映画の魅力はほとんど伝わらないと思う。何故ならストーリーを見せる映画ではないから。思春期の微妙な心の揺れを繊細な心理描写で見せてゆく。誰もが思い当たる若い頃の怒りやドキドキ感に共鳴しながら見ていくと、何かがあるなと予感する。それは1994年10月21日のソンス(聖水)大橋崩落事故だった。漢江に掛かる大きな橋が建設後15年で、中央部分が突然崩れた。ウィキペディアを見ると、32人が死亡し17人が重軽傷を負った。手抜き工事だったという。言われてみると、そういう事故があったかなと思う程度の記憶だが、同時代に中学生だった監督には忘れられないだろう。後に韓国ではセウォル号事故が起き、日本でも大震災と原発事故が起こった。若い心に与えた衝撃はよく理解出来る。

 90年代半ば、連絡ツールは「ポケベル」だった。「ポケベル時代」を生きた人には懐かしいだろう。僕はその頃に中学・高校に勤務していたから、何だか担任教師として「この子はこうなる」と予測して見てしまいドキドキした。主人公一家は集合団地に住んでいて、「団地映画」としても優れている。ポン・ジュノ監督の長編デビュー作「ほえる犬は噛まない」(2000)を最近見直したが、出来がいい「団地映画」だった。しかしシャレた趣向に富んだポン・ジュノに対し、キム・ボラの眼差しは「人間」に向かっている。あるいは「韓国社会」そのものに。最近評判が高い韓国女性作家のいくつもの小説と共通性があると思う。演劇や音楽など隣接分野も含めて、韓国の女性表現者に注視していく必要がある。
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「イップ・マン 完結」と香港映画

2020年07月14日 22時37分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 全4作作られてきた「イップ・マン」(葉問)シリーズの最終作「イップ・マン完結」が公開された。今まで書いてないけど、前3作は全部見ている。イップ・マンというのは、中国武術の師匠でブルース・リーを教えたことで知られている。映画はひたすら壮絶な武術合戦で、まあ面白いんだけど、あまりにも「勧善懲悪」ドラマに作りすぎていて僕なんか途中で飽きてしまう。それでも主演のドニー・イェンが大のはまり役で、今やハリウッドスターとして活躍するようになった。

 日本で最初に公開されたのは2011年の「イップ・マン 葉問」(2010)という映画だが、実は原題は「葉問2」だった。真の第1作は「イップ・マン 序章」(原題「葉問」、2008)として公開されたが、これは日中戦争下の物語で敵役が日本人だった。だから公開が遅れたんだろうが、2作目が日本でもヒットして急きょ公開されたのだった。2作目では戦後の香港を舞台に、支配者であるイギリスへの反感を描いている。本当は革命を逃れて香港に亡命したイップ・マンだけど、国共内戦は完全に消されて日英を相手役にすることは大陸全土で大ヒットする条件だろう。

 3作目の「イップ・マン 継承」(原題「葉問3」、2015)は香港で認められつつも、再開発を進める黒幕にマイク・タイソンをキャスティングした。若き日のブルース・リーも出てくる。この間、時ならぬイップ・マンの大ブームが起こり、アンソニー・ウォンが主演した「イップ・マン 最終章」などの映画も作られた。今回の「イップ・マン 完結」(原題「葉問4」、2019)は、ブルース・リーの招待でイップ・マンがアメリカに行く。息子の留学先を探すが、アメリカ人に武道を教えるブルース・リーへの反発から、中華総会会長の推薦状が得られない。その後海兵隊で空手を教えるか、中国武道を取り入れるかの争いや会長の娘をめぐるいじめに巻き込まれる。

 すべてウィルソン・イップ監督で、手慣れた演出である。日本の剣術映画や忍者映画も同じだが、まずは道場破りみたいな他流派との争いがある。しかし、それは同じ武道家どうしでフェアに戦うことになるが、その後権力・金力をかさに無理難題を言ってくる悪役が登場して、「最後の戦い」を強いられる。イップ・マン(1893~1972)は実在人物だけど、伝記映画じゃなくてオリジナル脚本である。都合が悪い問題は抜かして、外国人を敵役に設定することで中国ナショナリズムに受け入れられる作り方である。

 別にそれが悪いというわけじゃなくて、香港娯楽映画にも「政治性」があるということだ。香港カンフー映画の最大市場は中国本土なんだから、商業的要請がある。そして、そのことから「昔風の勧善懲悪映画」をあえて再現している。全部同じような作りだから、狙ってやってるんだろう。セットも昔風に作って、懐かしいムードを出す。そこで繰り広げられる「壮絶な体技」を楽しむだけである。「完結」が一番かというと、前の方がすごかった気もするけど、これはこれで十分に楽しめる。特に中華総会会長との闘いが面白かった。
(現実の葉問とブルース・リー)
 僕はあまりカンフー映画を見なかった。70年代にブルース・リーの大ヒットから、日本でも山のように公開された。でも、正直言ってアクション映画は圧倒的にハリウッド製がすごかったと思う。当時はカーアクション全盛期だったし、クリント・イーストウッドのダーティ・ハリー・シリーズも熱かった。体技もいいけど、車や銃の方が迫力があったわけである。それにアジア映画は全体的にエンタメ力が弱かった。社会派的な映画で、問題を知る意味で見た映画はあるけれど、中国や韓国のエンタメ映画が充実するのは20世紀末頃だと思う。

 そんな中で一人気を吐いていたのが香港映画だった。60年代のキン・フーに始まり、ジョン・ウー監督やチョウ・ユンファジャッキー・チェンの映画などは素晴らしく面白かった。今や中国派の巨頭という印象になってしまったジャッキー・チェンだけど、80年代の壮絶な体技はすごかった。アン・ホイピーター・チャンウォン・カーウァイ(王家衛)、ジョニー・トーなど作家性も高い独自の魅力を持った監督もたくさん現れた。そんな香港映画の黄金時代ももう終わりかな。もう香港で作る意義はほとんどないだろう。大陸の市場が圧倒的に大きくなってしまい、無視することは商業映画には無理だろう。「イップ・マン」シリーズは香港映画の挽歌かもしれない。
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