尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読む

2024年07月01日 22時33分20秒 | 〃 (さまざまな本)
 集英社新書4月刊の三宅香帆なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本が評判になっていると聞き、読んでみた。これはある種「読者論」の体裁を取って、働き方について提言をしている本だった。帯には「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」とある。現代人なら誰しも思い当たるようなキャッチコピーだろう。若い時は読書家だったけど、働くようになったら難しい本、大長編小説などを読めなくなったと嘆く人は多いはず。この問題設定に僕もちょっと書きたくなった。

 最初に2021年の映画『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督)を取り上げたことも共感を呼んでいるらしい。その映画については、当時『映画「花束みたいな恋をした」と「あの頃。」ー魅力の青春映画』を書いた。読み直してみたら、2020年にコロナ禍で大ヒットしたアニメ『鬼滅の刃』の興収トップ記録を初めて破った映画だった。『怪物』でカンヌ映画祭脚本賞を受けた坂元裕二の脚本。ふと出会った菅田将暉)と有村架純)は本や映画のテイストが似ていて話が合った。恋に落ちて一緒に暮らすようになるが、大学を卒業すると麦は仕送りがなくなる。イラストレーターになる夢を捨て本格的に働き始めたが、そうすると二人の距離が大きくなっていく。本屋に行っても麦は自己啓発本みたいなものを手に取るようになっていく。
(『花束みたいな恋をした』)
 これはよくあるような話だろう。僕はそれを麦が「おじさん文化」に取り込まれていくと書いたが、本書では二人の階級的背景を重視している。これは就職後の必然とまでは言えないと思う。麦と絹は一緒にアキ・カウリスマキの『希望のかなた』を見たが、麦は今ひとつ乗れない。だけど、僕はずっと夫婦でカウリスマキ映画を見てたんだから。映画は見ている間は受動的に鑑賞出来るので、エンタメ系だけではなくアート映画でも結構見続けられると思う。問題は長時間労働で疲弊していると、集中力が失われることだ。その意味で20世紀の教師は、夏休みや考査期間中などに自分の趣味に時間を使いやすかったのだ。
 
 だけど、僕もかつて『大江健三郎を読まなくなった頃ー大江健三郎を読む①』という記事を書いた。若い頃からずっと読んできた大江文学だが、1987年に出た『懐かしい年への手紙』を某私立高校の学校説明会に行くバスの中で読んでいて、今はこれは読めないなと思った。そして2021年に改めて読んで、ものすごく面白い本だったことに驚いた。大江作品は「純文学度」が高いので、仕事をしていた間は読めなかった。村上春樹なら読めたので、小説全部を読まなかったわけではない。むしろ仕事に関係する本は読み続けていた。社会科教員といっても専門の歴史もどんどん新しい知識が必要だし、地理や政治経済になると不得意分野も多い。

 僕はずっと本を読み続けてきたが、現職中は仕事に関する本がどうしても多くなる。それはつまらない本をガマンして読んでいたのではない。中にはつまらない本もあるが、基本的には授業に役立つものを楽しんで読んでいた。その意味では読書全般が仕事のノイズということはない。仕事にもよるだろうが、「読書」が仕事に必須な職場はかなりあると思う。それでも「純文学」(的な本)を読むのは現職バリバリの時は難しい。もちろんどんなに忙しくても『失われた時を求めて』を読み切れた人がいないとは言えない。しかし、やっぱり短期的に集中するべき課題を幾つか抱えていると、あまりに長い本には入れ込めないもんだ。

 この本で触れられているが、現代では「映画を早送りして見る」ような「ファスト教養」を求める人が多いという。それが良いのか悪いのか僕には決められない。これは決して批判の意味で書くのではないが、この本の半分以上を占める近現代読者論はまさに「ファスト教養」のお手本である。有名な研究書を簡潔にまとめながら書かれている。例えば前田愛先生の『近代読者の成立』とか、僕も取り上げた本では福間良明「勤労青年」の教養文化史』、小熊英二日本社会のしくみ』なんかである。

 一般向けに書かれた新書などを使いながら、大胆に時代を分析していく。明治大正期は僕も知らないから通説通りで納得したが、80年代、90年代になると、これでいいのかなと思うところも多い。今は詳しく触れないけど、後の世代から見るとこんなもんだったのかという感じ。著者の三宅香帆氏は1994年生まれで、京都大学大学院前期課程修了の文芸評論家とある。1994年生まれというと、もちろん地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災は記憶にない世代。「3・11」(2011年の東日本大震災)には高校1年生だったはず。そうすると僕が最後に教えていた世代なので、何となく判る気がする。もちろん人様々だが読書大好きはいつでもいる。
(三宅香帆氏)
 ただこの人の「読書できないから仕事を辞めた」みたいなことは真に受けない方が良いと思う。「京大大学院」という背景があって、その後の幾つもの本に関わる仕事に結びついた。もちろん「本」だけでなく、「音楽」「演劇」「ダンス」なども同様だが、それで一生生きていける人は少ない。多くの人は多少似通った分野で定職に就くことが多いはず。それでもやりようによっては、かなり読めると思う。それは三宅氏が言う「半身の働き方」である。それは最近必要になったのではなく、今までもずっと「身を守る」ためにやられて来た方法だ。我々はまず自分と家族を守っていく必要がある。

 最後に三宅氏はいくつかのコツを書いている。例えば「iPad」が良いと言うけど、僕は今後どうなるかわからないけど、今のところ「紙の本」に執着している。内容と同時に、「本」の匂いや感触が好きなのである。それでも視力面で小さな字は難しくなるから、拡大できる機能がある方が良いとも思う。「書店に行く」というのも大事で、そうすることで意外な本に出会える。そして僕が言いたいのは、ネットで買うのもやむを得ないが(本屋では求めにくいタイプの専門書などもある)、そうすると向こうから勝手に勧めてくる本は買わないことである。AIかなんかで自分の買いたい本を決められては困る。

 そして、三宅氏にはまだ遠い先だけど、やがて長時間労働をしたくてもやれない年齢がやってくる。そうなると、今度は「純文学」系の本を読む自由と内的必然性が出て来る。若い時に「生きる目的は何だろう」と思って小説に心惹かれたように、今度は「自分が生きてきた目的はなんだろう」と小説や思想書、宗教書を求めるようになる。そういう時代まで生き抜くために、それまで取っておく本があっても良い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発掘本『ロック・デイズ 1964-1974』、ロックの「その日」に立ち会った男

2024年06月16日 16時55分21秒 | 〃 (さまざまな本)
 6月15日に母親の一周忌を行った。命日は7月だが、都合で6月になった。個人的な事柄なのでここでは書かないが、これで一応「喪明け」になる。暑くなって疲れたし、昨日は早めに寝てしまった。書きたいことが溜まったので、頑張って書きたい。まずはちょっと前に読んだ「発掘本」の紹介。発掘本と書くのは、珍しいものを見つけたという意味だけじゃなく、ホントに「発掘」したのである。別の本を探してたら、下の方から出て来た。そもそもこんな本を買ってたのを忘れていたのである。

 マイケル・ライドンロック・デイズ 1964‣1974』(バジリコ、2007、秦隆司訳)という本で、出版社のサイトを見ると今でも注文できるようである。著者マイケル・ライドン(Michael Lydon)は、「ローリング・ストーン」誌の創刊編集者という。60年代初期に大学時代を送り、イギリスで大ヒットしていた「ザ・ビートルズ」に批判的な記事を書いていた。でも卒業してニューズウィーク」の記者に採用されロンドン支局に配属されると、ジョン・レノンポール・マッカートニーにインタビューして、すっかりファンになってしまった。そして「ロック」専門記者みたいになっていったのである。
(マイケル・ライドン)
 次にサンフランシスコに配属され、すぐに1967年の伝説的なモンタレー・ポップ・フェスティバルを目撃した。(この音楽祭の記録映画『モンタレー・ポップ』は最近初公開され、記事を書いた。)つまり、ジャニス・ジョプリンの大熱唱やジミ・ヘンドリックスのアメリカ登場(ギターを破壊して燃やした)、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏など「伝説」を目撃したわけである。そして、ジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンなどを取材した。前の二人は1970年に亡くなり、ジム・モリソンは1971年に亡くなった。皆「27歳」だったのはよく知られている。(これを「27クラブ」と呼ぶらしい。)その3人を身近に取材できたのである。ジャニス・ジョプリンは「成功の全部が奇妙な感じだわ」と語り、生育歴にも触れている。こんな貴重な本はない。
  (ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン)
 その他、B・B・キングのディープ・サウス巡業公演に同行したり、アレサ・フランクリンをレポートしたりしている。が、なんと言っても一番貴重なのが、1969年のローリング・ストーンズ全米ツァーに同行取材を許された時の記録だ。当時はビートルズ、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズがコンサートを休止中だったが、69年になってストーンズが公演を再開した。そして全米を同行取材することが許された。ライドンの記者人生にとって、最高の日々だろう。そして裏のドタバタ、混乱が記されている。生身のミック・ジャガーやキース・リチャーズを身近に見ることが出来る。当時はブライアン・ジョーンズが急死して、代わりにミック・テイラーが加入したばかりだった。ファンには見えない部分が記録されている。
(1969年のローリング・ストーンズ全米ツァー)
 そして、この全米公演の最後に「オルタモントの悲劇」が起こった。著者はその時も一緒にいたのである。それは1969年12月6日、最後に無料コンサートが企画され、暴走族ヘルズ・エンジェルスが、武器を所持していたとして観客の黒人青年メレディス・ハンターを刺殺した。実は大混乱を恐れたストーンズ側がヘルズ・エンジェルスを「警備」担当で雇っていた。ヘルズ・エンジェルスは裁判で「正当防衛」を認められている。しかし、ロック・コンサートで殺人事件が起きたという衝撃は大きかった。著者は事件を目撃した頃を最後に、今度は自分でもステージに立ちたくなっていき、音楽活動を始めたという。

 一番最後に「ボブ・ディラン・オン・ツァー」があるが、これは取材ではない。1974年に行われたボブ・ディランの公演は、そもそも記者の取材を認めなかった。著者は自分でチケットを確保して、全部の公演を見たのである。それは記事にはならず、原著で初めて公になったという。このように、マイケル・ライドンは本当に「ロックのその日」を目撃したことになる。出て来ないのは、1969年8月に開かれたウッドストック・フェスティバルぐらいだろう。なぜかは不明だが、著者は基本的に太平洋側で活動することが多かったからだろうか。ディープサウスの様子などを読むと、まだまだ南部は差別に満ちていたことが判る。それにしても、一人でこれほど多くの伝説的ロックミュージシャンに会って取材した人は他にいないと思う。とても貴重な本だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小熊英二『日本社会のしくみ』を読むー新知見満載の日本社会像

2024年05月12日 20時10分37秒 | 〃 (さまざまな本)
 『生きて帰ってきた男』に続いて、小熊英二日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019)を読んだ。これがまた参考文献まで入れると600頁を越えるという、新書とは思えぬ分厚さである。しかも内容も重厚で、なかなか進まず一週間以上かかってしまった。新書というジャンルは「一般向け」概説書が多いが、この本は注や参考文献の多さから見ても「研究書」というべきだろう。非常に大切なことが書かれているけど、万人向けではない。自分もよく理解出来たという実感がないが、大切だと思うところを中心に簡単に書いておきたい。驚きに満ちた日本社会の姿を通して、いろんなことを考えさせられた。

 21世紀の日本では「大企業が正社員を減らし、非正規として働かざるを得ない人が増えている」。こんな風に思っている人は多いのではないか。ところがデータを検証すると、これがどうも違っているというのである。つまり「大企業正社員型」で働く人は、ほとんど減っていない。全体の26%ほどだという。日本の大企業は(中には没落してしまった会社もあるが)、大きく見れば減っていない。大企業を運営する人員は同様に必要なのである。これは実感として、東京中心部のビル群、毎朝の通勤風景などが変わっていないのを見ても推測できるという。じゃあ、何が減ったのだろうか。それは「地元型」だという。

 地方へ行けば、中心部の商店街は「シャッター街」となる一方、ちょっと離れた国道沿いにショッピングモールが作られている。その結果、地元商店街で働いていた人々は全国的なチェーン店の非正規店員となったわけである。とは言っても、商店・飲食店や農家がなくなったわけではないし、地元自治体に勤める地方公務員を含めて、ほぼ「地元」を中心に活動する人は一定程度存在する。「地元型」は36%だという。そしてその他の非正規、自由業などを合わせた「残余型」が38%を占めるという。
(就業別の推移)
 「地元型」が減って、残余型が増えている。大企業型は現状維持。意外かもしれないが、上記グラフを見れば確かにそうなっている。よく「(国民)年金だけでは食べていけない」という声が聞かれる。国民年金はもともと(厚生年金、共済年金がある)大企業や公務員と違って、老後の資金が少ない自営業や農家を想定して作られたという。つまり、自宅兼職場で定年もなく一家総出で働く人々に合わせた制度だった。「地元型」が減って「残余型」が増えて、自宅を持たずに住居費(アパートの家賃)を払わなければならないとなると、年金で生活を支えることは不可能なのである。
(裏表紙)
 日本の会社、あるいは会社員の働き方は欧米先進国と大きく違っているとよく言われる。日本は(かなり変わったとはいえ)「終身雇用」であり、大卒一括採用が多い。労働組合も会社ごとにまとまっている。日本で職業を聞くと「三菱○○」「三井○○」など会社名を答える。外国では会計とか販売とか職業そのものを答える。職業ごとに組合があり、採用も欠員が出たときに資格を条件にして募集する。などとよく言われる。これは大体言われている通りらしいが、では何故そのような違いが生まれたのだろうか。著者はそれを近代史全般を振り返ることで究明しようとする。外国分析はラフスケッチだというが、とても興味深い。
 
 全部詳しく書くほど理解出来たとは言えないが、特に重大なことは日本の近代化のあり方が大きい。明治になって欧米で確立した技術(鉄道など)をそっくり導入した。民間資本はまだ遅れていたので、政府が中心になって「上からの近代化」を進めたわけである。従って「国家公務員」のあり方から生まれた制度が多いというのである。一括採用、定期人事異動、定年制など、大体そう。特に近代官僚組織としての軍隊の意味が大きかった。軍ではイザとなれば戦場で部下を率いるわけだから、体力の衰えた下士官は役に立たない。年齢による退官制度は軍から生まれたのである。

 日本では「外部評価」による資格制度が少ない。ドイツなどでは昔からある同業者組合などの資格認定が有効だという。日本でも大企業内部では熟練工を表彰するような仕組みがあり、「○○マイスター」などと呼ばれたりする。しかし、その資格は会社内でしか通じないことが多く、従って安易に辞めるわけにはいかない。同業他社に転じたら、(ある程度は経験者優遇を受けられても)大分下がった地点からスタートしなければならない。これが「長期雇用」が多くなる理由だという。そう言えば、看護師や保育士など資格で勝負できる職業は流動性が高い感じがする。

 いま日本で問題なのは「低学歴化」だという。日本で高学歴というと、有名大学を卒業しているという意味で使うことが多い。しかし、それは本来の高学歴ではない。大学を出て得られる資格は、どんな大学でも「学士」である。それに対して大学院を修了することで「修士」「博士」の資格になる。これが本来の「高学歴」である。欧米では、例えば会計に欠員が出たら、「経営学修士の資格を持つか、同等以上の経験を有する」などと求人するという。一方日本では将来経営者を目指すなら、大学院へ行ってる時間が不利になる。大卒一括採用時に、出世競争がスタートしてしまうからである。
(大学院進学率)
 この本でもう一つ理解できることは、どの国の制度もその国の歴史的な成り行きがあって成立しているということだ。だから立場はどうあれ、どこかの外国の制度は良さそうだと思って、継ぎ接ぎ式に持ってきてもうまく行かないという。だが、この「一括採用」による「低学歴化」は今後変えてゆくべきだろう。日本の将来にとって、きちんと勉強していない(学問的トレーニングを受けていない)人が政府や大企業を運営することは不安材料である。大学院へ行くことそのものよりも、「勉強して自分をヴァージョンアップする」ことが企業の中で評価されるような仕組みがあるかどうかということである。

 今書いたことは、この本に書かれていることの10分の1にも及ばない。あまりにも多くも問題が出ていて、それは「日本社会のしくみ」を究明しようという熱意のもとに、雇用だけでなく教育や社会保障、政治や歴史全般にも追求が広がっていくからだ。頑張って読んでみれば、いろんな問題を知ることが可能だ。しかし、それと同時に「文献研究の限界」にも触れている。その社会の中で生きている人には、あまりにも当たり前で書くまでもないことは、文献として残りにくいのである。そこで慣習や慣行などを洗い出してゆくことも必要となる。研究のやり方のトレーニングとしても役立つ本だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小熊英二『生きて帰ってきた男』を読むー類書がない面白さ

2024年05月11日 22時45分12秒 | 〃 (さまざまな本)
 4月は読まないままだった新書本に取り組み続け、最後に小熊英二の新書を二冊読んだ。やはり興味深かったが、とにかく分厚い。さすがに新書には飽きてしまって、今は違う本を読んでいる。先に読んだ『生きて帰って来た男』(岩波新書、2015)は、ポリープを取った時に読んでた本だった。「あとがき」までいれて389頁。著者にしては薄い方になる本だけど、岩波新書だから結構ズッシリ感がある。刊行当時評判になったが、何となく読まないうちに9年も経ってしまった。ずっと近くに積まれていたのだが、奥の方に入ってしまい探すまで苦労した。しかし、この本は読みやすくて、とても充実した本だった。

 小熊英二氏(1962~)は、とにかく分厚い本が多い印象がある。主著が文庫化されてないから、思想史に関心がない人は読んでないだろう。『単一民族神話の起源――<日本人>の自画像の系譜』(1995)で颯爽と論壇デビューした時は、30代前半の新進研究者だった。その後、『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』(1998)、『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズムと公共性』(2002)とさらに長大な本を出したが、僕はずっと読んできた。毀誉褒貶もあったが、非常にスリリングな本だった。しかし『1968』上下(2009)になると、持ち歩けないぐらい重い本が2冊で、買ったまま読んでない。『社会を変えるには』(2012、講談社現代新書)も興味深かったが、それ以後読んでなかった。
(小熊英二氏)
 『生きて帰ってきた男』は著者の父親である小熊謙二氏の生涯をインタビューした本である。小熊謙二(1925~)は一介の市井の人物だが、晩年に戦後補償裁判に関わった。そのためかWikipediaに項目が立っていて、それによればまだ存命である。(更新されていないだけかもしれないが。)刊行当時の書評でも、実の父親の戦争体験、特にシベリア抑留を聞き書きしたことが大きく取り上げられていた。戦争体験、中でもシベリア抑留は非常に重い体験に違いない。しかし、ソ連軍に連行された人は60万人以上と言われ、体験を書き残した本は相当ある。僕もずいぶん読んでいて、そういう目で見ると特に珍しい本ではない。

 そもそも題名が『生きて帰ってきた男』である。最初の目次を見ると、徴兵され、シベリアに連行され、帰国後に結核になって療養所に入った。どんな人の人生も語るべきことがあるが、この本の主人公、小熊謙二は結局生還するわけである。生きて帰って来ない限り、著者の小熊英二氏が誕生しない。よって、結末の判っているミステリーみたいな気がして、つい読み遅れたのである。だがその予測は読んでみて間違いだったと判った。実は戦争体験以外のところが抜群に面白く、類書がないのである。

 小熊謙二は1925年生まれ。この前読んだ映画監督岡本喜八は1924年(早生まれ)、僕の父は1923年(早生まれ)、僕の母は1927年だから、小熊謙二はちょうど僕の両親の真ん中だ。この世代は戦争と結核で大きな被害を受けていて、僕の父母もそうだった。小熊謙二の兄や姉、そして僕の母の生母や兄は結核で亡くなった。僕の父の兄はシベリアで死んでいて、その場所は小熊謙二と同じチタだった。彼はソ連の実態を知って共産主義に幻想は持たなかったが、戦争責任を認めない保守勢力の「足を引っ張る」ため選挙では社会党や共産党に入れてきたという。これは僕の「左翼というより反右翼」に近い。読んでるうちに何だか親近感が湧いてきた。アムネスティ日本支部に80年代から加入して毎月外国へハガキを送っているのも僕と同じ。
(チタの場所)
 小熊謙二は北海道で生まれたが、元々小熊家は新潟県中蒲原郡の農家だった。そこの次男小熊雄次が著者の祖父になる。先物取引に失敗して北海道に渡り、札幌で結婚して子どもも生まれたが妻を亡くし網走に移った。そこで代書屋をやり、宿泊していた旅館の娘片山芳江と再婚した。片山家は元々岡山出身だったが、こうして新興の北海道で新しい家族が生まれたのである。しかし、先走って書くと、父方も母方も没落してしまう。芳江は結核で亡くなり、祖父は火事で旅館を失い東京へ出て小さなお菓子屋を開いた。謙二は祖父に預けられ、東京で育ったのである。そして兄の勧めもあって、早稲田実業に進むことが出来た。

 子どもを上級学校に進ませる発想は祖父にはなかった。しかし、そこまでである。大学に進むお金があるわけない。何とか小商人としてやって来た祖父は、戦時下に没落し(お菓子屋は休業させられた)、空襲で家も失う。北海道に残った父も欺されて没落し新潟に帰った。両者ともそこそこの老後資金を貯めていたが、戦後のインフレで紙くず同然になった。年金制度もなく戦争で全く生きる術を失ったのである。今まで戦争体験を語るのは、文字を書ける大学出身の知識層が多かった。「農民兵士の手紙」の研究はあるが、地域的に調査がしやすい。没落すれば全国に散らばる小商店主(旧中間層)の戦争体験は極めて珍しいと思う。

 親は没落、シベリア帰り、結核回復者の小熊謙二は、いかにして息子(英二)を大学へ入れることが可能な生活を手に入れたか。この本で一番興味深いのは「高度成長をいかに乗り切ったか」である。謙二の妹が東京学芸大の事務をしていて、そのツテで立川ストアという店のスポーツ部門要員に雇われる。社長の拡大方針が失敗した時に、謙二が中心になって整理し自ら立川スポーツという会社を立ち上げ社長となった。自分はスポーツをしないのに、スキー、登山、テニスなどのブームに乗ったのである。さらにベビーブーム世代のための学校増設時代で、新設校に食い込んで体操着や体育館履き、運動用具などを売りまくったのである。
(不戦兵士の会機関誌「不戦」)
 そんな小熊謙二の心に、年齢とともに戦争体験、というか戦争責任を置き去りにした戦後日本への憤りが深まっていく。「不戦兵士の会」に参加したのである。さらにシベリア抑留の「慰労金」を「朝鮮人兵士」が貰えないことを知り、補償を求める訴訟の共同原告人にまでなった。ただし一緒に日本国を訴えた韓国人原告には「日本の裁判では負ける」と事前に告げていた。日本国家への幻想もないのである。この小熊謙二という人間の中で、人生の最後に正義を求める心がどんどん高まっていった様は心打たれた。

 最後に特に興味深かったこと。学校回りの際には、4月1日に訪ねてはいけない。新設校立ち上げで多忙な教員は、そういう業者を鬱陶しいと思って排除する。学校ごとに体育教員と事務職員と、どちらが主導権を持っているか確かめる必要がある。なるほど。また著者の兄は(一人は祖父の片山家の養子にする約束)輝一、政一だった。これは(片山家の出身の)岡山の殿様池田輝政に由来するという。一方自身の謙二は、(小熊家の出身の)新潟の武将上杉謙信に由来するという。だからもう一人男子が生まれたら、信三だったろうという。当時の命名法はそんなものだと語るのは印象的だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日米地位協定を考える2冊の新書ー『日米地位協定』『日米地位協定の現場を行く』

2024年04月22日 23時00分55秒 | 〃 (さまざまな本)
 日米地位協定を考える2冊の新書。まず山本章子宮城裕也日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』(岩波新書、2022)を読んだ。今まであまり「沖縄の基地問題」や「日米安保条約」などの記事を書いていない。世界のすべての社会問題を書けないので。でも問題意識は持っていて、新書レベルなら買って勉強したいと思う。著者の宮城氏は毎日新聞記者で、山本氏は琉球大学准教授。その山本章子氏は『日米地位協定』(中公新書、2019)で石橋湛山賞などを受賞したと紹介されていた。果たしてその本を読んだのか、買ったけど読んでないのか。そうしたら他の本を探した時に出て来たのである。

 『日米地位協定の現場を行くー「基地のある街」の現実』というのは、まさに題名通りの本で「基地のある街」現地ルポである。宮城裕也氏(1987~)は沖縄県宜野湾市生まれで、沖縄国際大学卒業後、毎日新聞に入社した。つまり沖縄の「基地問題」を身近に知っていて、本土の青森県などで勤務したのである。青森赴任時は米軍基地のある三沢を訪れ取材を重ねてきた。その他に首都圏の厚木基地や山口県の岩国飛行場、そして自衛隊築城基地新田原基地、種子島近くの馬毛島、沖縄の嘉手納基地を取材してまとめたのがこの本である。各地の実情がよく判るので、読む価値がある。

 宮城氏が出た沖縄国際大学と言えば、2004年8月13日に起きた「米軍ヘリコプター墜落事件」を思い浮かべる人も多いだろう。宮城氏は高校2年生だったが、この事故がきっかけになって沖国大に進学して基地問題を学んだという。この事故は夏休み中だったので奇跡的に人的被害がなかったが、大学キャンパス内に米軍ヘリが墜落したのである。一つ間違えば大惨事になりかねなかった。それとともに、事故直後の米軍が一帯を封鎖して日本側の警察、消防、自治体関係者も中へ入れなかった。もっともその措置は「合法」である。「日米地位協定」があるからだ。さらにこの本で知ったが、国会審議を経ない「合意議事録」というのが根底にある。
(沖国大米軍ヘリ墜落事故)
 そのように米軍基地で起こることに日本側は発言権がないとなれば、全国で「民族派」の怒りが爆発するのかと思うと、もちろんそうではない。それどころか、この本で読むと「米軍基地とは共存していく」と思っている現地の声がかなりある。もちろん騒音問題などが揉めているところはあるが、全国各地で「基地は迷惑だから米軍は撤退して欲しい」と思っているだろうという思い込みは間違いなのである。それにしても、最近大問題になっている基地による水質汚染なども、日本とドイツでは対応が違うようだ。「国防」の名の下に「国民生活」が脅かされる。帯にあるように「日米同盟のもうひとつの姿を映し出す」本である。
(山本章子氏)
 じゃあ、その地位協定とは何だろうかと問うときに、山本章子日米地位協定』(中公新書)はまず読むべき本だろう。もっとも新書本と言っても短い学術書という感じなので、全員読むべしというのはちょっと大変か。それでも頑張って読めば、戦後日米「同盟」史のあらかたの流れがつかめるだろう。戦後のサンフランシスコ講和条約と同時に締結された「日米安保条約」。その時に結ばれたのは「日米行政協定」だった。そして、安保条約が改定されたとき(「60年安保」)、行政協定が「日米地位協定」に改められた。しかし、同時に非公開の「合意議事録」が作られたわけである。

 それからヴェトナム戦争、沖縄返還、「思いやり予算」と続き、1995年がやってくる。米兵による少女暴行事件が起こり県民の怒りが爆発した年である。それら全部を細かく紹介する余裕がないが、表面的には覚えているニュースの裏にこういうからくりがあったのかと思った。沖縄県は直接協定改定を要望している。ドイツ、イタリア、韓国と比べても、地位協定改定交渉を日本政府が全くネグレクトしているのは何故だろうか。しかし、現実にはなかなか難しいのだと思う。日本政府はジブチに自衛隊基地を置いていて、そこでは同じような「地位協定」を結んでいるからである。

 そして、問題はそれだけではない。地位協定を改定して、米兵が犯罪行為を起こした場合、直ちに日本当局が身柄を拘束出来るようになったとする。その場合、日本の警察、検察の取り調べ時には弁護士の同席が認められていない。そのような「野蛮な司法制度」を有する国に、米国民を委ねてよいのか。そういう声がアメリカで湧き起こり議会の承認が得られないに違いない。日本の様々な制度が国際的な人権水準を満たしていない現状があるのは間違いない。アメリカから見れば、日本は「アジアの後進国」であって「不平等条約の対象国」とまでは表面的には言わないだろうけど、底流にはそういう見方があるんじゃないか。

 なお、山本書でイタリア憲法に戦争放棄条項があると知った。Wikipediaのイタリア憲法を見ると、以下のような条文である。「イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する。国家間の平和と正義を保障する体制に必要ならば、他の国々と同等の条件の下で、主権の制限に同意する。この目的を持つ国際組織を促進し支援する。」イタリアも敗戦国で、国民投票で王政を廃止してから、新たな共和国憲法を制定した。この結果、ドイツがアフガニスタンに派兵し(数多くの犠牲者を出した)のに対して、イタリアは同じNATO加盟国であってもPKO活動以外に自国外に軍隊を送らないという。その制定過程や運用実態はよく知らないが、比較検討が必要だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝説の詩人、谷川雁の全体像ー『谷川雁 永久工作者の言霊』を読む

2024年04月13日 22時58分30秒 | 〃 (さまざまな本)
 読んでない新書を引っ張り出してきて、まず読んだのは青木栄一文部科学省』(中公新書、2021)だが、これは多くの人に(僕にも)詳しすぎるから紹介は止めることにする。次に読んだ松本輝夫谷川雁』(平凡社新書)を取り上げたい。2014年に出た本なので、積んどく間に10年も経ってしまった。関連で谷川雁の兄谷川健一が書いた『柳田国男の民俗学』(岩波新書)も読んでみた。こっちは2001年出版で、近くに置いてあったのに20年以上経っていたのが驚き。谷川健一の本は岩波新書に何冊も入っていた(『日本の地名』など)が、全部なくなっていたのにも時間の経過を感じた。

 谷川雁(1923~1995)が、詩人や社会運動家(むしろ「革命家」というべきか)として活動したのは60年代前半までである。僕も同時代的には全然知らず、70年代にすでに「伝説」もしくは「悪名高き人物」になっていた。日本共産党員として九州で活動し、森崎和江とともに福岡県中間市の大正炭鉱に住み着いた。その時代には「東京へゆくな ふるさとを創れ」という詩を書いていた。そして上野英信、石牟礼道子らと雑誌「サークル村」を創刊したが、60年安保をめぐって党を除名された。60年代前半は大正炭鉱労働者の闘争支援に全力を注ぎ、吉本隆明とともに新左翼のスター的存在だったのである。
(谷川雁)
 ところが闘争に敗れ、森崎との関係も破綻し、詩作を封印して上京したのである。英会話教材会社の重役に迎えられ、会社で起こった労働争議の弾圧者となった。吉本隆明は労働組合の集会で応援の講演をしたという。文学活動から撤退していたので、まるで20歳で詩作を封印しアフリカで武器商人となった19世紀のフランス詩人アルチュール・ランボーみたいな話だ。しかし、その後重役を解任され、新たに「十代の会」を組織して宮澤賢治の童話を演劇にする活動を行った。「十代の会」の活動は、池袋の西武百貨店にあった「スタジオ200」という小さなホールで公演を見た記憶がある。(あまり面白くなかった。)

 そういう谷川雁の後半生を含めた全体像を知りたいと思って、この新書を買ったと思う。しかし、もう緊急性がなかったので読まずに放ってしまったのである。著者の松本輝夫氏(1943~)は谷川雁と劇的に出会い、その後雁のいたラボ教育センターに入社したという人である。会社では経営者対組合運動家として対立し、その後21世紀になってラボ教育センター会長となった。一方で退社後には谷川雁研究会を起ち上げて代表となった。そういう意味で谷川雁を語るにはうってつけの人物だろう。
(若い頃の森崎和江)
 松本氏は若い頃に谷川雁に会いに行ったことがある。福岡の大正炭鉱闘争の熱気が伝わってきて、会ってみたくなったのである。何のツテもなく訪れて、労働者の多い居酒屋に立ち寄り、炭鉱労働者と飲んだのである。そのうち雁が「天皇」と呼ばれているのを批判したところ、殴られてメガネを壊され雁のもとに連れて行かれたという。そんなすごい出会い方が昔はあったのである。そこで松本氏は雁の家に、共産主義の本以上に柳田国男など民俗学の本があるのを見た。これは当時平凡社の編集者(後独立して民俗学研究者)だった兄の谷川健一の影響なんだろうと思ったのである。
(谷川健一)
 谷川雁には『原点が存在する』(1958)という有名な本がある。「下部へ、下部へ、根へ、根へ そこに万有の母がある。存在の原点がある」というフレーズが有名になった。この「原点」とは何か。それは柳田学のいうところの「常民」、日本の農村共同体のイメージなんだという。それは全く気付かなかった。50年代末は高度成長以前であり、毛沢東の「根拠地論」が魅力をもって語られていた。つまり革命家としては「中国共産党派」であり、同時に民俗学的発想で農村共同体を評価していたということか。70年代後半には完全に高度成長以後の社会になっていて、僕は「原点」を詩的イメージ以上に感じられなかった。

 それにしても谷川雁の言語感覚は驚くほど鋭く、呪術的とも言える。もう一つの有名な本『工作者宣言』(1959)では、「すなわち大衆に向っては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者のしかばねの上に萌えるものを、それだけを私は支持する」と宣言する。このフレーズもしびれるような魅力がある。そして東大闘争で知られた「連帯を求めて孤立を恐れず」も谷川雁の言葉だった。こういうフレーズの言霊的呪縛は大きかったのである。

 そして著者によれば、「沈黙」ととらえられてきたラボ教育センターの時期こそ、谷川雁の詩的創作力は絶頂に達したという。そこでは英会話をただ教えるのではなく、子どもの日本語能力も育てつつ演劇的想像力を養う「物語」を重視した。そこで教材化されたものは有名な物語の「再話」だったが、子どもたちに喜ばれる詩的喚起力に富んだ教材がたくさん作られたという。特に「古事記」の国生み神話のドラマ化は素晴らしいという。英訳はC・W・ニコルが担当していた。確かに素晴らしい「物語」が残されている。

 だが解明されない謎は多い。労組への対応以前に、組織人として公私混同が激しかった。鶴見俊輔などの証言を引用して「いばる人」だったと書かれている。その意味では「九州男児」を脱し切れなかった。大正炭鉱闘争でも、雁が組織した行動隊員が仲間の妹をレイプして殺害する事件を起こしたとき、今ではとても許されない無理な総括をしている。人生の中で幾つもの「謎」多き「偽善」を貫いていたのである。この本では若い時に愛児を失った体験が重大だと書かれている。しかし、その母親である結婚の事情は書かれていない。誰も書いてないらしい。森崎和江との関係もそうだが、谷川雁にはまだまだ謎が秘められている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原武史『戦後政治と温泉』を読むー戦後初期の首相は温泉で決定を下した

2024年03月21日 22時06分25秒 | 〃 (さまざまな本)
 政治学者の原武史著『戦後政治と温泉』(2024、中央公論新社)を読んだ。今まで原氏の本はずいぶん読んでいるが、これは提唱する「空間政治学」の概念がうまく生きた「傑作」だと思う。学問的著作に「傑作」という表現はおかしいかもしれないが、そう評価したくなる「作品」である。そして、戦後政治史に関して様々なことに気付かされる本だった。裏表紙の帯に「サンフランシスコ講和会議の下準備も“抜き打ち解散”の決定も温泉だった」とある。まさにその通り、戦後初期の重要な政治的決定は、伊豆や箱根の温泉で下された。そのことを余すところなく論証した本である。 
(表紙の写真は吉田茂)
 この本で追求されているのは、戦後政治史のベースを作った吉田茂鳩山一郎の政争に始まって、続く石橋湛山岸信介、そして60年安保後の池田勇人までである。社会党が加わった三党連立内閣が崩壊し、吉田茂の第二次内閣が出発した1949年に始まり、1964年の東京五輪後に池田首相が辞任するまで、おおよそ15年間がこの本で描かれる。その後の佐藤栄作首相になると、軽井沢の別荘を愛用するようになり、「温泉」の持つ役割が低下していった。現代の首相は「広島」「長崎」「終戦記念日」の式典に出席した後で短い休暇を取っている。しかし、この本が対象とする時代では、首相が閣議を欠席して1ヶ月以上も温泉旅館や別荘に滞在していた。昔とは言え、そんなことが許されていたのかという感じ。
(鳩山一郎)
 原武史氏は、鉄道ファンとして関西の私鉄に着目した『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』や団地に着目した『団地の空間政治学』など興味深い視点から、「空間政治学」を唱えてきた。また多くの公的史料や日記などを活用して、『大正天皇』『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』など、天皇を中心とした近現代政治史も書いてきた。この本はそれらのスタイルがうまく合わさり、伊豆や箱根の温泉宿や別荘(今はすでに取り壊されている物が多い)を訪ねつつ、数多くの政治家の日記を使って温泉で「政治」が動いた時代を再現した。原氏の著作には何度か触れてきたが、写真は未掲載だったから載せておきたい。
(原武史氏)
 政治家ごとに行きつけの宿、あるいは別荘は違っていた。吉田茂は三井家の持つ別邸を借り切ることが多かった。鳩山は熱海で療養することもあったが、伊豆長岡にあった野口遵(チッソの創業者)の別荘「水宝閣」を借りた。どちらも今はない。何で戦後に有力政治家が温泉に籠ったのだろうか。理由は幾つか考えられる。当然戦前の彼らは東京に本宅を持っていたが、それは空襲で焼けてしまった。また占領下の東京にいたくもなかっただろう。そして高齢の政治家たちには健康面の不安があった。吉田は大磯に自宅を持っていたが、夏の高温多湿に音を上げて箱根に避暑に行った。鳩山は脳卒中で倒れて、熱海の温泉で療養することが多かった。吉田・鳩山のし烈な政争は政治史に有名だが、その主たる舞台は伊豆や箱根だったのだ。
(箱根宮ノ下、奈良屋旅館)
 鳩山後に首相となった石橋湛山も温泉を利用した。肺炎で倒れて2ヶ月で退陣したが、退院後には伊豆長岡温泉で半年間療養した。その後を継いだ岸信介は、箱根宮ノ下の奈良屋旅館を愛用した。宮ノ下温泉は有名な富士屋ホテルがあるところだが、岸はその近くにあった大きな奈良屋旅館の別邸を主に使った。この旅館は2001年に閉業して解体され、跡地には会員制リゾートホテルが建っているという。岸はそこに外相や外務次官などを呼び、安保改定案を練っていた。しかし、インドのネール首相が来日した際は、富士屋を使っている。洋式ホテルだから国際儀礼に使いやすい。翌日は芦ノ湖に出掛け、堤康次郎(元衆議院議長、西武グループ創業者)の案内で西武系の遊覧船に乗っている。富士屋ホテルは今も健在で、僕も泊まったことがある。
(箱根宮ノ下・富士屋ホテル)
 60年安保で岸首相が退陣した後は池田勇人が首相となった。池田になると、箱根でもちょっと離れた仙石原の別荘が使われた。本人のものではなく知人や親族のものというが、恐らく無料で借りていて、今ならば問題化したかもしれない。この間、首相を辞めた吉田茂は大磯や三井別邸にいて、弟子筋の池田は折に触れて訪問していた。吉田は人を寄せ付けない「ワンマン」で知られ、箱根で面会することはなかった。池田も滞在中の別荘には(小さいここともあり)、人を呼ばなかった。代わりに近くにあった箱根観光ホテル(後に箱根パレスホテルと改称し、2018年閉業)を会議等に使っていた。初の日米貿易経済合同委員会もそこで開催された。「所得倍増政策」もこのホテルで練られたという。
(箱根観光ホテルのパンフレット)
 最終章で原氏は戦後の皇室と温泉という興味深いテーマを提出している。昭和天皇は各地方を訪れているが、宿泊地のほとんどは地元の有名温泉旅館が多かった。そして皇太子夫妻(現・上皇、上皇后)も各地を訪れ、青年たちとの懇談を重ねていたのだという。また社会党出身の村山富市首相が退陣を決めたのも、伊豆長岡の三養荘という旅館だった。それら興味深いエピソードを最後に語って、これら「温泉」での政治はある種「ワーケーション」の先駆ではないかとも指摘している。この本で取り上げられた旅館、別荘の多くは今は取り壊されている。もう歴史の跡を訪ねられないのが残念な思いがする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五野井郁夫、池田香代子『山上徹也と日本の「失われた30年」』を読む

2023年08月04日 22時50分19秒 | 〃 (さまざまな本)
 五野井郁夫池田香代子による『山上徹也と日本の「失われた30年」』(集英社インターナショナル)という本を読んだ。これは非常に刺激的で多くのことを学んだ本だった。現代日本で生きる人の必読本と言っても良い。論文も入ってるけど、大部分は対談で読みやすい。全部合わせても170ページほどで、値段も本体価格1600円。夏のチャレンジ本に相応しい。

 書評を読んで買ったんだけど、なかなか読む気になれなかった。もちろん表題の人物は「安倍晋三元首相暗殺事件で起訴されている被告人」である。2023年3月末に出た本で、事件から1年になる頃には読みたいと思ったが、読むにはちょっと頑張るエネルギーがいりそう。この本は著者二人が彼のものとされるツイッターへの投稿を分析して語りあった本である。論点が非常に多くてなかなか消化できないけど、ものすごく興味深い論点が並んでいて、考えるべきことが満載だった。
(池田香代子氏)
 池田香代子氏は1948年生まれで、もともとはドイツ文学の翻訳者だった。1995年にヨースタイン・ゴルデル著『ソフィーの世界』の翻訳(ノルウェー語原作をドイツ語から重訳)がベストセラーになって名を知られた。2001年には『世界がもし100人の村だったら』(ダグラス・ラミスとの再話)が評判になった。以後、様々な社会運動に関わってきた。五野井郁夫は1979年生まれで、政治学や国際関係論の学者(高千穂大学教授)。親がカトリックで、「宗教2世」を自認している。「氷河期世代」の一人として、自分は幸運に恵まれただけだと何度も述べている。帯には「宗教2世の政治学者対「100人の村」著者」とある。
(五野井郁夫氏) 
 事前に注意点がある。まず取り上げられた人物はまだ裁判も始まっていない被告人であること。またここで分析されているツイッター投稿は、本人によって間違いなく自分のものと確認されているわけではない。ただし、事件前日に島根県在住のジャーナリストに送った「犯行予告」的な手紙の中で、自身のアカウントとして書かれていたという。このアカウントは事件後(7月19日)に凍結されていて、現在は見られない。しかし、凍結前にコピーしていた人がいた。内容的には本人以外のものとは考えにくい。

 アカウント名は「silent hill 333」というもので、著者によるとコナミから2003年に発売されたゲーム「サイレントヒル3」と関連しているのではないかという。これは「前世で母の手によってカルト的な神の儀式の生贄にされ、家族も殺された少女が復讐を果たす物語」だという。2019年10月13日に始まり、2022年6月30日までの間に1364件のツイートを投稿した。この本の最後に、その中から重要なものが引用されていて、直接読むことが出来る。これが意外なことに、なかなか興味深いのである。ある種「狂信的」あるいは「復讐心に燃える」といった先入観があったが、それは覆された。単純な人物ではないのである。

 例えば、今までの報道では「コロナ禍で旧統一教会の韓鶴子総裁が来日できなくなり、代わりに安倍晋三元首相を狙った」的なイメージを持っていた。しかし、どうも違うようである。教会側の警備が厳しいこともあるが、内部で揉めている旧統一教会で総裁を殺害したら、かえって喜ぶ内部勢力がいると認識したらしい。本人はもともと「ネトウヨ」的な世界観があり、安倍政権も支持していたようだが、ツイッターを見る限り石破茂氏への期待の方が大きかったらしい。

 映画『ジョーカー』など様々な映画、音楽、本などにも言及している。韓国発祥の宗教だけに、「反韓」傾向は強いが、これもかなり揺れも見られる。それ以上に「女」「女性」という言葉が多いようで、「インセル」をめぐる言及が多い。これは"involuntary celibate"を略したもので、「不本意な禁欲主義者」「強いられた独身」のような意味だという。「非モテ男性」のことで、ネットではよく使われる用語らしい。このように統一教会問題だけでなく多くの問題が語られている。

 しかし、やはり山上被告の特別な生育歴には語る言葉が無い思いがする。彼は何度も何度も「母」に裏切られながら、母を否定出来ないのである。外部の者は否定できても、家族だけは完全には否定しきれない。単に母親が教会側に多額の献金をして、そのため大学への進学がかなわなかった(それは事実だが)というレベルでは語れない。それを僕が完全に読み解くのはなかなか難しい。五野井氏(1979年生まれ)と山上被告(1980年生まれ)という同世代に降りかかった「就職氷河期」という「失われた年代」を無視しては語れないのである。それは著者たちのように、一度きちんと考えてみる価値がある問題だ。

 もちろん「殺人は絶対悪」である。それは前提だが、なぜこのような人物が生まれたのか、彼は秋葉原無差別襲撃事件ややまゆり園襲撃事件などの「犯人」と、どこが共通しどこが違っているのか。この世界に生きていて、われわれも考えなくてはいけない。内容的には相当大変だが、多くのことを考えさせられた。まだ自分でも上手く言えない。なお、見田宗介氏の「まなざしの地獄」論や栗原彬氏の分析に何度も言及されている。たまたま僕もよく知っている社会学者なので、そこら辺から深めて行きたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「良心的な暗さ」の構造ー見田宗介(真木悠介)著作集まとめ②

2023年07月31日 22時49分56秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介著作集を読んだまとめ2回目。80年代半ばに書かれた「論壇時評」を読み直すと、一番最初に大江健三郎の反核論を「良心的に暗い文章」と評していたのが印象的だった。そのような文章への「共感と違和」は僕も共有出来たからだ。もっとも大江健三郎の文体は特徴的で、もともと難解で知られている。そのような大江個人の特性もあるかと思うが、ここで指摘されていたことは「戦後」の「進歩的文化人」の言説が時代とズレつつあったということだろう。
(見田宗介氏)
 ウィキペディアを見てみると、21世紀になって対談で語られた言葉として「(論壇時評執筆時は)『資本主義か共産主義か』というような20世紀の冷戦的思考の枠組みから自由にならなければ、という予感が強くありました。」という言葉が引用されている。「論壇時評」が始まった85年は、「ソ連」でゴルバチョフ書記長が誕生し「ペレストロイカ」が始まった年だった。そして、89年には「冷戦終結」が宣言され、90年には「ドイツ統一」、91年末には「ソ連解体」へと時代は大きく動いた。まさにその激動を先取りするかのように、「冷戦的思考」からの解放を目論んでいたのである。

 そして、確かに90年代初頭には、日本でも冷戦思考にとらわれない政治、思想、芸術などの新しい試みがあったと思う。日本でも従来と違う「冷戦後時代」が構想できたかに一瞬見えた。しかし、90年代後半から様々な分野(特に歴史認識やジェンダー認識で)「バックラッシュ」が激化して言論空間が狭められていった。また「バブル崩壊」にともなって、70年代、80年代の文化を支えた基盤も失われた。21世紀になって、2001年の「同時多発テロ」によって世界は変わり、そして2022年の「ウクライナ戦争」によって完全に「新しい冷戦」が始まったかに見える。

 今になって思い当たるのは、世界的に「冷戦終結」がうたわれ「平和の配当」などと言っていた時代でも、実は東アジアでは冷戦構造が残り続けていたという事実である。当時多くの人は東アジアでも冷戦構造は変わりつつあると期待を込めて思っていた。朝鮮半島では南北双方が国連に加盟(1991年)、2000年には韓国の金大中大統領と「北朝鮮」の金正日国防委員長が初の「南北首脳会談」を行った。中国と台湾の関係でも、70年代以後は経済交流が進み、オリンピックには「チャイニーズ・タイペイ」の名で台湾選手も参加するのが通例となった。経済発展とともに、中国もいずれは政治的民主化が進むと思われていた時代だった。
(東アジアの冷戦構造) 
 今ではそのような楽観的な見方に与する人は少ないだろう。そういう世界全体の構造の中で、改めて「良心的な暗さ」は何を意味していたかを考え直す必要がある。日本は戦前には「大日本帝国」として近隣諸国を侵略した歴史を持つ。その「加害者責任」が語られるようになったのは、70年代後半以降のことだろう。そして80年代、90年代にはアジア諸国民から補償を求める訴訟も相次いだ。しかし、「保守」の側には受け入れられず、逆に苛烈な反動が起きた。

 一方で、戦後日本は戦勝者のアメリカと安保条約を結び、「アメリカの核の傘」のもとにある。日本で「反核兵器」を語る際に、それほど明快にスパッと断言出来る方がおかしい。戦後日本が背負った幾重にも重なった「ねじれ」の中で、「良心的」であればあるほど「晦渋さ」を避けられない。自国の歴史の中の「加害責任」を認められない国は多い。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、トルコ等々自国内で問題を抱え続けている。良心的であれば暗くならざるを得ない構造の中でわれわれは生きている。

 そう理解するときに、かつての見田氏の目論んだ「論壇の見取り図」は大きな変更が必要だと思う。『 〈深い明るさ〉を求めて』で触れたが、見田氏は論壇各誌を4つの象限に区分けする。その時に「右下」にあったRは恐らく「右」を示し、文藝春秋、中央公論、諸君!(廃刊)などが示されていた。現在はそこにさらに「月刊HANADA」などが加わり、町中の書店を見るとここに分類された雑誌しか見ることが出来ない。岩波書店の『世界』は続いているけれど、よほど大きな書店に行かなければ置いてないだろう。

 論壇は「オルタナティヴ」を求めるどころか、「右」の寡占状態になったのである。当時は論壇には「左」の人が多く、その「良心的な暗さ」を指摘する意味はあったと思う。しかし、歴史を先取りするならば、このような「右の寡占」を予測し、それをどう乗り越えるかを考える必要があったのである。これは見田氏だけでなく、自分自身も含めた苦い自省である。もちろん部分部分を取れば、世界も日本もいろいろ良くなったことも多い。しかし、今では「深い明るさ」を求めるなどという楽観的な見通しを持てるとは思えない。「良心的な暗さ」は日本を取り巻く構造的な苦悩がもたらしたものだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オルタナティヴの夢破れてー見田宗介(真木悠介)著作集まとめ①

2023年07月29日 22時34分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介さんが2022年4月1日に亡くなって、1年以上経った。僕は非常に大きな影響を受けてきたので、その時に追悼を書いた。(『見田宗介さんの逝去を悼んでー「解放」を求めた理論家として』)その後、毎月一冊をメドに著作集を読んできた。出たときに買ったまま読んでなかったのである。別名義の真木悠介著作集を含めて、全14冊を読み終わったので、そのまとめを書きたい。ほとんどの人はあまり関心がないだろうが、僕にとっては重要だ。少ないかもしれないが、強い関心を持っている人もいるだろう。見田(真木)氏の遺した業績をどう読むか、非常に難しい問題が突きつけられている。

 一言で言うと、著作集を全部読む意味はなかったと思う。「社会学」研究の初期著作は、面白さはあったとしても半世紀近い前の業績だ。現時点に響く部分が少ない。社会学の方法論的な著述は、自分にはほとんど意味がない。読む価値があるのは、「比較社会学」的な手法でなされた「人間解放の理論」、及び時事的な問題を含めたエッセイ的な文章だと思う。詩的な直感で書かれたような文章は今もなお大きな魅力を持っている。だけど、肝心の「解放理論」の方はどうだろうか。あまりにも楽観的に描かれてきたように僕には思われる。今では「見田理論には何が欠落していたか」という視角からの検討が必要だと僕は考えている。

 見田さんは1985年、1986年に朝日新聞の論壇時評を担当した。それがまとめられて、『白いお城と花咲く野原』にまとめられた。このときの論壇時評は多くの反響(あるいは毀誉褒貶というべきか)を呼び、現在の担当者である宇野重規氏も、最初の文章で見田氏の時評を読んで刺激を受けたと書いていた。驚くことに、当時は月2回も論壇時評が掲載されていたから、計48本の文章が新聞に掲載された。そのうちの40本が同書に収録されている。つまり8本は「時事的」との理由で収録されなかった。もっとも本人はさらに絞り込んで、16本だけで本にしたかったと述べている。この本は著作集は別にして、単著としては絶版になっていた。復刊を望むと書いたが、2022年に河出書房新社から刊行された。(本体価格2400円)。
(復刊された『白いお城と花咲く野原』)
 最初にこの本を読み直して、2回記事を書いた。それが 『「論壇時評」再読、35年目の諸行無常』『 〈深い明るさ〉を求めて』である。この本は今もなお非常に面白かったけど、ずいぶん予測(期待)が外れたこと、時代とともに考え方が変わったこともかなりある。例えば、ニューヨークでは猫に不妊手術をすると聞いて「背筋が凍る」と書いている。しかし、今ではペットに不妊手術を行うのは、むしろ飼い主のマナーだと思う人が多いと思う。先の記事にも書いたけれど、当時アンドレ・ゴルツという人が今後の技術発展で「一人当たり生涯労働は2万時間ほどで済むようになる。40年で割れば週10時間の労働で生きていける」と主張した。

 そこから「1日5時間、週2日働けばよくなる」と結論するのだが、そんな夢みたいなことが実現するわけないじゃないか。その計算が確かだとして、企業からすれば「週に10時間働かせて、2時間分の時間外手当を払う」社員をひとり雇えばよいという方向に向かうのは、簡単に予測出来る。人は何かを食べなければ生きていけないから、「モノ」の移動に関わる人間も必ず必要である。しかし、そのような労働力は交換可能な人材だから、「派遣社員」で対応する。「長時間労働の少数」と「非正規雇用の多数」に社会は分断される。これが世界各地の「先進国」で起こっている現実だと思う。

 そのような方向性を予測して、それをどう乗り越えてゆくか。それが見田さんの本には出て来ないと思うのである。むしろ「IT革命」が人類にもたらす「正の影響力」に期待する言論が見られる。そうなのかもしれないが、今を生きる人間としては「(SNSなどの)負の影響力」に目が向いてしまう。ウェブ空間は「公共財」になったというより、「相互監視空間」になったというべきなのではないか。何か間違ったこと、おかしなことを言っている人がいても、僕もそれを指摘せずにスルーするようになっている。初期の頃は指摘したこともあったが、ちゃんと受けとめて貰えないことが多くて面倒になったのである。

 いま思うと、見田さんが期待した「オルタナティヴ」の方向へ世界は変わらなかった。未だに多い旧体制を固守する「保守」、保守のもくろむ改憲を阻む議席の獲得で自己満足している「戦後左翼」、近代を乗り越えると称して軽さを称揚する「ポストモダン」、それらのいずれでもない「心のある道」を歩む「もう一つの別の方向性(オルタナティヴ)」を求めたのだろうが、それは日本社会の多数派にならなかったのである。真木悠介『気流の鳴る音』を読んでいたことは、深い意味で自分を支えてきたかもしれない。でも現実の仕事の中では、真木氏の「人間解放理論」が役だったのだろうか。

 日本社会が大きく変化していったのは、80年代半ばの中曽根政権だった。電電公社や国鉄の民営化など「組合つぶし」の民営化路線もそうだし、臨教審による教育改革(という名の新自由主義的教育行政)など、その後の日本社会を決定的に変えた方向性がまさに80年代半ばに行われたのである。その意味で、『白いお城と花咲く野原』に落ちている「現代の権力」への分析が必要だった。明らかに欠落があったことは否定出来ないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自我の起源』ー真木悠介著作集を読む③

2023年07月01日 20時19分33秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介・真木悠介著作集を読み始めて、これが最後になる。見田宗介著作集が全10巻、真木悠介著作集が全4巻だが、『気流の鳴る音』だけは独自に5回書いたから、全部で18回になる。その全体的感想はもう少ししたら別に書きたいと思う。

 最後の『自我の起源』(1993、岩波書店)だが、これは実に頭が痛い本である。いや、面白くないというのではなく、叙述そのものは興味深くもあるのだが、何しろ横書きの「自然科学」研究なのである。厳密に言えば、「動物」の「社会」に関する研究史の整理で、それは一種の「比較社会学」に入るとも言えるだろう。だけど、原著を30年前に読んだときから、これは一体何なんだと頭を抱えるしかない本だった。人間解放の理論を期待して読むと完全に肩すかし。
(原著)
 副題が「愛とエゴイズムの動物行動学」である。ダーウィンが『種の起源』を著したのに続き、次は『個の起源』を問うわけである。それは興味深くもあるけれど、動物の世界を考えることが人間とどうつながるのだろう。確かに犬や猫を見ていて、名前を呼ぶと答えてくれる感じがして「自分の名前」を覚えているように見える。でも、犬や猫段階には「自意識」はないから、自分は○○という名前だと認識しているのではなく、「飼い主が接してくれる時の記号」として記憶されているんだろう。では、ミツバチなどの「社会性動物」の場合はどうなんだろう。

 それを当時評判になっていたリチャード・ドーキンス(1941~)の『利己的な遺伝子』(The Selfish Gene、1976)を取り上げて検討するのである。調べてみると、この本は何回か版を改めて出版されており、91年に出たオックスフォード大学版が1992年に日本でも翻訳されている。この「生物は遺伝子の乗り物」的な見解は俗説レベルで非常に有名になっていた。それをきちんと論評するのは確かに面白いんだけど、何しろ30年前の著作である。この30年間の遺伝子研究の発展は著しいから、今になるともっといろいろ進んでいるんだろうなと思う。つまり、今になると、この本も増補版が必要なんだろう。
(リチャード・ドーキンス)
 この本は2001年に岩波モダンクラシック版、2008年に岩波現代文庫版が出ている。その現代文庫版には大澤真幸氏による「周到な解説」が付いているという。それを読めば良いんだろうけど、まだ読んでない。著作集に初めて収録された「〈自我の比較社会学〉ノート」を読むと、この本は次のような全体構想をもつ〈自我の比較社会学〉の第Ⅰ部の骨組みだとある。

 Ⅰ 動物社会における個体と個体間関係
 Ⅱ 原始共同体における個我と個我間関係
 Ⅲ 文明諸社会における個我と個我間関係
 Ⅳ 近代社会における個我と個我間関係
 Ⅴ 現代社会における個我と個我間関係

 「全体の遂行には少なくとも15年を要すること、その前に先にしておきたい他の仕事があること、人間はいつ死ぬか分らないこと。これらを考慮して、取りあえず第Ⅰ部のみを切り離して発表することにした」とそこには書かれている。ここで全体構想の中の位置づけを明記しておくのは、「自我という問題を『生物社会学的』的な要因だけから解こうとしているような誤認を防ぐため」という。Ⅱ部以下の粗いスケッチも書かれているが、僕にはよく理解出来ない。

 この本は動物行動学などの成果を分析しながら、ミツバチ、サルなど様々な「動物社会」を通して、「個体性」の起源を探っていく。これに「性現象と宗教現象」という宮沢賢治を論じた文章が収録されていて、両者はコインの裏表みたいものらしい。判るようで判らない言葉だが、著者にとって「個の起源」という以上に「」や「エゴイズム」の問題が非常に大切だということなのだと思う。見田宗介著作集にも『生と死と愛と孤独の社会学』という巻がある。これは一般に社会科学の対象としては珍しいだろう。

 一般には「愛」や「エゴイズム」の起源ではなく、それが基になって移り変わってゆく人間社会の様々な問題、宗教、家族、戦争、文化などを主題とするのではないか。そこに見田社会学、あるいはさらに「真木悠介」理解のキーがあるように思った。本書の内容そのものは、僕はよく判らないのでスルーしたい。僕の若い頃には、動物行動学を学問として確立したコンラート・ローレンツ(1903~1989)は非常に有名だった。1973年にはノーベル生理学・医学賞も受賞して、世界的な名声を得た。
(コンラート・ローレンツ)
 ローレンツでは、僕も『ソロモンの指輪』は読んでいるが、他に有名な本として『攻撃』もある。僕は「戦争の比較社会学」という本を書くんだったら、動物社会の研究も必要になると思う。人間にはそもそも「縄張り」の獲得や維持のための攻撃本能があり、それは動物にさかのぼるものだという見解もあり得るからだ。そこから始めて、「原始共同体」や「文明諸社会」における戦争のありようを比べて考察することになる。そういう本なら動物から始まっても違和感がないが、「自我の起源」というテーマで動物を論じて終わってしまう本書には、最初に読んだときからどうも違和感が強いなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『南端まで 旅のノートから』ー真木悠介著作集を読む②

2023年06月24日 22時34分02秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介真木悠介)さんの著作集を読んできて、残りは真木悠介名義の2冊になった。もう一気に終わらせてしまおうと思って、図書館から2冊を借りてきた。見田宗介著作集(全10巻)は全巻買ったのだが、真木悠介著作集(全4巻)は買わなかった。原著を全部持っていたからだ。それでも図書館から借りるのは、増補や「定本解題」を確認するためである。本来、次は第3巻の『自我の起源』だけど、第4巻を先に読んだ。この巻は短くて読みやすそうだったから。実際すぐ読めて、見田(真木)さんのエッセイストとしての魅力が溢れている。旅心を誘われるし、最初に読むべき本かもしれない。
(原著表表紙)
 著作集では『南端まで』という題名になっているが、これは1994年6月に出た『旅のノートから』(岩波書店)という本の増補版である。「ノート」というだけあって、横書きの本になっている。原著から「汽車とバス」という文章が削除され、原著以後に書かれた5つのエッセイが増補されている。題名の『南端まで』には特に意味はないという。自分の旅は大体「南」へ向かっているからという程度だという。インドの南端には行ってるけど、後はメキシコやブラジル、ボリビアなどが多い。まあ「南北問題」というときの「南」でもあるんだろう。主にインド、ラテンアメリカの旅の記録である。
(コモリン岬の子どもたち)
 上記写真は原書カバーにも使われているが、インド最南端のコモリン岬(タミル・ナド州)で撮られたものである。そこを夜に訪れた時、子どもたちが大きな声で行くなと叫んでいた。著者は多分そこが聖地であり、外部の者は立ち入るなという意味かと受け取ったのだが…。著作集冒頭に収録されている「コモリン岬」は、その時に撮影した写真の意味は何だったのか、2006年になって改めて書かれた文章だ。非常に優れた短編小説の趣があるエッセイ。この巻の文章は読みやすく含蓄が深いものが多いけど、特にこの「コモリン岬」は忘れがたい。(中身にはここでは触れないことにする。)
(原著裏表紙)
 題名を見ても判るとおり、大体の文章は旅行エッセイなんだけど、それ以外のものも入っている。「伝言」「光の降る森」は屋久島に住んでいた山尾三省をめぐるエッセイで、見田宗介著作集第10巻『晴風万里』と重なる。屋久島まで行ってるから旅でもあるが、山尾三省に触れながら考えたことの記録でもある。山尾三省という存在は著者にとって、非常に大きなものだった。早くからコミューン運動に関心を持っていた著者にとって、山尾三省は特に大きな意味を持っていたことが判る。

 「狂気としての近代」は「時間の比較社会学・序」と題されていて、その名の通りの文ではあるが、メキシコの話がいっぱい書かれている。メキシコについては、「メキシコの社会と文化」「メキシコの生と形式」という旅エッセイを越えた本格的評論も入っている。それは1974年から75年にかけて、著者が「エル・コレヒオ・デ・メヒコ」という大学院大学に招かれて教えていたからだ。ここは70年代には毎年日本から教授を招いていて、鶴見俊輔や大江健三郎などもそれでメキシコに滞在したのである。そこがどんなところで、どういう意味を持っていたか、よく理解出来る文章である。
(当時の著者)
 また「夢4巻」という不思議な文章もある。自分が見た夢という体裁で、4つの話が出ている。あまりに具体的で詳細であり、これが本当の夢の記録とは思えないが、ちょっとどういう意味を持っているのか僕には判断出来ない。興味深かったのが「コーラムの謎」。コーラムとは、インドの家庭の前に白い粉で書かれた模様である。インドに行ったことがなく、初めて聞いた言葉だった。画像検索してみると、いろんな模様が出て来る。何でそのようなものを書くのか、インド人にも諸説あると書いてある。僕には判らないけど、模様を見てると何か凄いなと思う。

 全体を通して、近代化された日本人の感覚では測りがたいインドやメキシコの社会を旅することで、「近代化された身体」を相対化してゆく文章が多い。『気流の鳴る音』ではインディオの教えを分析するという形で、『時間の比較社会学』では世界に存在した各文明の学問的分析という形で行ったことを、旅エッセイという形式で書いたものである。「補巻」としても良かったと言っているが、構成をシンプルにするため止めたという。しかし、内容的にはエピローグだと書いている。僕はむしろ見田宗介著作集を含めて、全体のプロローグとしても読めると思う。この巻を読んで共感出来なかった人は、他を読んでも理解不能だろう。

 なお、原著は「シリーズ旅の本箱」という全15冊の一冊だった。全く記憶していなかったけど、そういうシリーズがあったのである。他には加藤周一『幻想薔薇都市』、亀井俊介『アメリカの歌声が聞こえる』、小田実『NYーベルリン 生と死』、養老孟司『昆虫紀行』、沼野充義『モスクワーペテルブルク縦横記』、池内紀『今は山なか今は浜』など、なかなか興味深そうなラインナップが並んでいるが、全く記憶にない本ばかり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、非暴力抵抗運動の敗北まで

2023年06月14日 23時04分24秒 | 〃 (さまざまな本)
 樋田毅(1952~)氏の『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(2021、文藝春秋)を読んだ。『記者襲撃』『最後の社主』を書いた人の3冊目。前の2冊はものすごく面白かったし、今度の本もテーマ的に是非読みたかった。地元図書館で借りたんだけど、初めて行く図書館にあったので、借りに行くのが遅くなった。内容的に「面白かった」と評するのは不謹慎かもしれないが、実に興味深く一気読みしてしまった。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しただけのことはある力作である。

 3冊の本の中でも、僕はとりわけ「面白い」と思ったが、それは何故かと言えばまさに著者が当事者だからである。「赤報隊事件」を追うのも、社主付きのあれこれも、基本的には「仕事」である。しかし、この本では著者こそ当事者なのである。だから、この本の題名は少し不十分で、ホントのところは「彼は早稲田で死んだ」、『その後、われわれは何をしたのか』『そして、何故われわれは敗北したのか』が真の内容である。僕はこの本を半世紀前に早稲田大学で起きたリンチ殺人事件の記録だと思って読み始めて、もちろんその通りなのだが、それ以上に現代に突き刺さってくる重大テーマを論じた本だと気付くことになった。
(樋田毅氏)
 題名にある「彼」とは、1972年11月8日に早稲田大学構内で殺害された川口大三郎(20歳)という第一文学部2年生である。当時革共同(革命的共産主義者同盟)の革マル派中核派は血で血を洗う「内ゲバ」を繰り広げていた。早稲田大学は革マル派の「拠点校」となっていて、それ以前から大学を暴力的に支配していた。その実態はこの本でよく理解出来る。自治会の多数派を握ることによって、自治会費や早稲田祭パンフレット代などの「利権」を独占していた。

 「川口君」は革マル派に疑問を持ち、中核派の集会に行ったこともあるようである。しかし、中核派メンバーではなく、周囲には「革マルも中核も失望した」と語っていたらしい。しかし、早大内の革マル派メンバーからは中核派とみなされ、授業後にある教室に連れ込まれて集中的暴力を受けた。授業中の大学構内で、「拉致監禁」されたのである。そして全身を角材等で滅多打ちにされて、ショック死するに至った。「監禁」を心配して、クラスメートが教員に知らせたりしていたのに、何故か救出出来なかったのである。そして、死体は東大病院前に放置され発見された。
(川口君事件を報じる新聞)
 この事件に加わったメンバーは確定している。当初はシラを切ったものの、5人メンバーのうち一人が耐えきれずに「自白」し、逮捕・起訴された。その人物には著者が取材しているが、最後になってこの本への掲載を断ったということである。そのため、事件の詳細な経過は書かれていない。また「彼」がどのような青年だったのかも、ほとんど触れられていない。何故なら、著者自身がその後、激動の渦に呑み込まれたからである。著者は1年J組所属で、川口大三郎はちょうど一つ上の2年J組だった。個人的な知り合いではなかったというが、とても他人事とは思えなかったのである。

 革マル派は形式的には「謝罪」したが、川口君は中核派のスパイだったと決めつけ、(革命のための)やむを得ない出来事だったとした。そのことに多くの学生が反発を覚えて、一気に反革マル派運動が盛り上がることになった。学内で内ゲバ殺人が起きた例は他にもあるが、このように「一般学生」の大衆的盛り上がりを見せた大学はないようである。何百人、何千人もの学生が、革マル派自治会幹部を追求し、革マル派に代わる新しい自治会を作ろうとした。そして学生大会を開くまでになる。そのことは連日新聞で報道された。僕は当時高校生で、事件そのものの記憶はあるが、その後の展開に関しては全く記憶になく、手に汗握る知られざる現代史に一喜一憂して読んだ。
(学生大会を報じる新聞)
 その細かな経過は本書に譲るが、翌1973年度の新入生を迎える時期になったら、一時は猫を被っていた革マル派がその暴力的体質をむき出しにするようになった。新入生は最初は事情が判らず、そのような時期を狙って他大学からも暴力専門部隊を動員して、集中的に反革マル派学生の動きをつぶしていったのである。そして、それに対応して、反革マルの自治会を作ろうとしていた側も「武装やむなし」との傾向が生じた。この「武装」とはヘルメットとゲバ棒(角材、鉄パイプ等)のことである。しかし、本格的武装組織を訓練している革マル派に抵抗出来るはずもなかった。

 樋田氏は1年生にして臨時自治会の委員長を務めていた。自身の立場は「あくまでも非暴力を貫く」「不寛容に寛容で立ち向かう」と決めていた。これは渡辺一夫氏の影響である。しかし、著者自身も襲撃され、何とか命は取り留めたものの、数ヶ月の入院を余儀なくされる重傷を負った。襲撃時に周囲に学生たちもいたのだが、皆逃げてしまったという。著者自身も似たようなケースで、助けることが出来なかった。この襲撃時の体験は後々まで夢に見るほどの恐怖心となったのである。そして、2年次終了時に運動から撤退することを決意した。非暴力でまとまってきた仲間たちが続々とヘルメットを被って現れる時の孤立感には言葉もない。

 著者は当時の委員長や自治会メンバーに会いに行っている。その内容は非常に興味深く、人生の深淵をうかがわせる。ところで、多くの人は不思議に思うだろう。授業をやってる大学キャンパス内で、「自治会」が暴力を振るうというのはどういうことか。大学当局に施設管理権があるはずである。実は簡単な話で、大学当局が事実上革マル派自治会と癒着していたのである。一般学生に革マル派自治会幹部が追求されていると、大学当局が警察に救出を要請するのである。反革マル学生たちを警察が規制して、革マル派部隊が学内へ入れるのである。その理由は判らない。革マル派を追い出しても、中核派が支配して、両者の争奪戦になるぐらいなら、革マル派自治会を温存する方が良いと思ったのだろうか。

 この本は実に現代的なテーマを扱っている。例えば香港ミャンマーを思い出す。ひとたび権力機関が牙をむいた時の恐ろしさを日本からはなかなか感じ取れない。この本を読むと、その恐怖とはこんなものだったかと思った。もっとも早稲田では学外に出れば、そこには平和な市民生活があった。国家権力そのものが暴力支配をむき出しにした場合、もっと恐ろしいだろう。それに対して、「非暴力」は意味を持つのだろうか。しかし、重武装を進めることでしか、「敵」には対抗出来ないのだろうか。まさに今の日本で問われていることだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『時間の比較社会学』、近代社会を対象化するー真木悠介著作集を読む①

2023年05月25日 22時50分35秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月見田宗介著作集を読んできて、全10巻を読み終わった。しかし、筆名真木悠介名の真木悠介著作集全4巻が残っている。もっともその中の『気流の鳴る音』は別に5回にわたって検討したので、もう書いている。そこで残された3冊を「真木悠介著作集を読む」というシリーズで読んでみたい。その最初が『時間の比較社会学』で、1981年11月に岩波書店から刊行された。その後、岩波書店の「同時代ライブラリー」「岩波現代文庫」に収録された。
(「時間の比較社会学」)
 僕は刊行直後に読んで、とても感銘を受けた思い出がある。ある意味、これこそ学問的代表作かなと思ってきた。しかし、今回読み直したところ非常に難解な本だったので驚いた。こんな難しい本を若い頃に読んで理解出来たのだろうか。しかし、当時僕は大学院生で、難しい文章を人生で一番読み慣れていた時期だった。また1980年に真木(見田宗介)さんの講座に参加して、著者本人を知っていたのも大きいだろう。講座修了後も集まりは続いて、81年の夏には八王子の大学セミナーハウスで合宿を行った。その時には竹内レッスンなどを行って大変に刺激的だった。そういう条件が重なって、理解力が今より高かったのかもしれない。

 この本は「時間意識」に関して、「原始共同体」(アメリカのホピ族やアフリカのヌアー族)、古代日本古代ヨーロッパヘレニズムヘブライズム)、近代社会(カルヴァンやプルーストなど)をていねいに検討して「比較」している。その結果として、近代人が自明のものと考えている時間意識が決して絶対的なものではないことを証明する。僕が当時驚いたのは、人類学、哲学、文学など諸学を総動員して論述していく驚くべき博識である。古代日本の分析など特に面白かった。

 しかし、よくよく考えてみれば、著者自身は直接フィールドワークしていない。誰かの研究の二次利用なのである。その構想力が大きいので気が付かないけれど、ここで使われている分析そのものが正しいのかは不明だ。それはまあいいんだけど、いろんな本の分析を総合するみたいな構成に今はあまり魅力を感じない。やはり直接その民族に密着して調べる方が面白くないか。もっとも古代日本に「密着」することは不可能だが、だから「歴史」として分析するしかない時代の方が面白い。
(ネタ本の一つ、エヴァンス=プリチャード『ヌアー』)
 「時間」とは何だろうか。考えてみれば不思議だ。物理学、生物学的に、どのように定義されるのだろうか。「現在」は常に過去になる。時間を「365日」「24時間」「60分」「60秒」で表示するのは、近代になってからのことだ。ひと月を太陽暦で表わすのも明治初期から。年を数えるということは、毎年新年がやって来て「現在」は「過去」になり、新しい「未来」がやって来るという意識である。つまり、「過去→現在→未来」という直線として「時間」を意識している。過去を探ると、自分以前の先祖になる。未来を探れば、いずれ自分も死んでしまう。そういう「流れ」が時間だと普通思っている。

 ところが「未開社会」の研究報告によれば、人々は時間を直線とは意識していない。むしろ「円環」と認識しているらしい。地球が自転、公転しているのは昔も今も同じだから、季節の移り変わりというものはある。狩猟採集経済では、特に時間の意識が近代人とは違う。変化が起きるのは、農業の開始である。稲作が始まれば、いつ頃苗を植えて、いつ頃収穫するかという「時間」を人々は意識する。そして「一年」という流れが出来るが、農業社会では時間意識は厳しくない。我々は何時に起きて、何時から仕事をするなどと「時間」を意識せずには暮らせない。これらは今ではそれほど衝撃がない考察かもしれない。

 古代日本で「古事記」「万葉集」「古今和歌集」を例に取って、時間意識の変遷を探るところは一番興味深かった。特に王権の詩人として生きた柿本人麻呂と氏族社会末期に名族の末裔として生きた大伴家持(おおともの・やかもち)を取り上げて分析した箇所は今も刺激的。僕は昔から大伴家持の歌が好きなんだけど(そういう人は多いだろう)、その「時間意識」を分析するという視点はなるほどと思った。もっとも昔読んでるわけだが、全部忘れていたのである。具体的な分析はここでは省略するが、実に興味深いのでここだけでも読んで欲しいと思った。
(富山県にある大伴家持像) 
 『気流の鳴る音』を受けて、この本や『宮沢賢治』『現代社会の理論』などの一連の仕事は、「近代世界の相対的な対象化のための比較社会学」というモチーフが潜在的、顕在的に貫通していると著作集解題に書かれている。この本のあとがきには、有名な「比較社会学の全体的なイメージ」が書かれている。ここで全部は書かないが、この後に「関係の比較社会学」「身体の比較社会学」「教育の比較社会学」「支配の比較社会学」「解放の比較社会学」などが次々と書かれるはずだった。実際には「時間」に続いて「自我」を書いただけで終わってしまったが。

 それは「ニヒリズム」と「エゴイズム」が著者の最大関心事だったからである。「時間のニヒリズム」というのは、つまり何をしても最後は死んじゃうじゃないかという思いである。だけど、これは怖いことなんだろうか。ある人は死ぬが、ある人は不死であり、自分がどっちかは自分では判らないと言うのなら、それは確かに怖い。でも全員が死ぬ(いつか、どのようにか、痛みはあるかなどは不明だけど)ということは、僕にはむしろ「恩寵」であり納得できることのような気がする。いずれどうせ死ぬんだから、何をしても意味がないのではなく、その後も生き残る人々のために少しでも意味ある何事かをしたいと思うけどな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樋田毅『最後の社主』ーザッツ・深窓の令嬢

2023年05月14日 23時03分00秒 | 〃 (さまざまな本)
 樋田毅最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム』(講談社、2020)を読んだ。先に紹介した『記者襲撃』を書いた元朝日新聞記者の次の本。事件記者として生きてきた人が、最後に社主である村山美知子の秘書のような仕事に就いた。何で自分がと思いながらも、赤報隊事件の取材を続けて良いことを条件にして引き受けた。社主村山家と朝日新聞経営陣の確執は、社内のみならず一般的にも知られていた。最後の仕事は「わがままお嬢」のお相手かという感じで始まる。

 『記者襲撃』で描かれた右翼及び「旧統一教会」の諸事情は実に恐るべきものがあった。今回の『最後の社主』はそういう恐ろしさはないけれど、こんな事があったのかと驚くような秘話が続々と出て来る。前著に勝るとも劣らぬ一気読みの面白さである。朝日新聞経営陣の対応を批判して終わるので、出版時には「守秘義務違反」などと抗議されたという。著者と講談社は回答書を送ったが、反応はなかった。確かに身近に仕えることで知った「秘話」も存分に書かれているが、対象者の村山美知子からは信頼され、伝記を書くことを依頼されていた。この本は朝日新聞社の媒体では全く紹介されなかったという。
(村山美知子の葬儀)
 村山美知子(1920~2020)は長命だった。2020年に99歳で亡くなっている。1977年以来朝日新聞社主を務めていたが、社主である村山美知子という人を僕は全く知らなかった。クラシック音楽に造詣が深く、「大阪国際フェスティバル」という催しを1958年から開催してきたという。これはすごく有名な音楽祭だというが、名前も知らなかった。今年も開かれている歴史の長い音楽祭である。大阪の新朝日ビルに作られた旧フェスティバルホールは、実に素晴らしい音楽ホールだったらしい。当時は上野の東京文化会館さえまだなかったのである。(2012年に建て直された新ホールも、旧ホールの音響環境を維持しているという。)

 樋田氏は是非クラシック音楽ファンにも読んで欲しいと書いている。この本で見る村山美知子の音楽に関する見識は大変なものがある。世界中からテープを送ってきたという。音響の良さにひかれて、世界の音楽家から愛された音楽祭だった。ストラビンスキーカラヤンロストロポーヴィチなどはその一例である。1967年にはバイロイト音楽祭の2回しかない海外公演が開かれ、多くのオペラファンが東京からも通ったという。(東京公演はなかった。)日本の若い音楽家を早くから支援し、外国で賞を取りながら日本で活躍の機会がなかった小澤征爾佐渡裕などに活躍の場を与えたのもこの人だった。
(村山龍平)
 世界音楽史に輝く有名人が綺羅星の如く出て来るので、あ然とする。音楽祭プロデューサーとしては「お嬢さん芸」を越えたものがあった。しかし、やはり村山美知子という人は、まず祖父村山龍平(1850~1933)から書かないといけない。村山龍平は1879年に大阪で朝日新聞を創刊した時の一人である。1881年に木村家から株を買い取り、上野理一とともに経営者となった。「大阪朝日新聞」である。その後もおおよそ村山家=3分の2上野家=3分の1という構成で、両家が朝日新聞社の株主として続いてきた。1888年には東京にも進出し、戦争や大衆社会化を経て大発展していった。

 ビックリするほどの高配当を続けて、村山家は関西実業界でも有数の大富豪となった。神戸の御影(みかげ)に大邸宅を築き、今はその一角に村山龍平の収集品を集めた香雪美術館が建っている。龍平の一人娘、於藤は婿として長挙(ながたか)を迎え、長女美知子と次女富美子が生まれた。龍平翁絶頂期に初孫として生まれた美知子は、祖父に可愛がられて育つ。「ザッツ・深窓の令嬢」という感じで、こういう人が日本にもいたのかと感心した。関東圏ではなかなかお目に掛からないタイプのお嬢様である。 
(父母と姉妹)
 樋田氏は社主付を引き受けた後に、君の本当の仕事は朝日が外資に乗っ取られた時にその経緯を世に問うことだなどと先輩に言われている。朝日はあれこれ言われ続けたが、この何十年かの経営陣にとって「村山家の株がどうなるか」こそ最大の関心事だったことがよく判る。美知子の父、長挙は戦時中に朝日新聞社長となったが、主筆の緒方竹虎と対立した。戦後に公職追放されるが、解除後に社主、社長に復帰し、経営陣との対立が再燃した。1963年には「村山事件」と呼ばれる内紛が起こり、対立は決定的となった。(もう一人の社主、上野家は経営側を支持した。)
(晩年の美知子社主)
 そういう経緯があり、樋田も警戒して接していたが、次第に美知子の優雅な生き方に魅了されてしまう。ミイラ取りがミイラになるというか、スパイとして送り込まれたのに二重スパイになったというか。言葉が適切じゃないかもしれないけど、朝日新聞社のやり方もどうなんだと思うことが多くなっていくのである。美知子には短い結婚歴があったことがこの本で明かされたが、その後は独身を通し後継はいない。妹には子どもがいたので、放っておくとすべての株は甥の元に行く。その甥という人物は新聞経営には関心がなく、美知子も社主向きではないと考えていた。

 甥はアスキー創業者の西和彦と親しく、社主一族が集まった時などに連れてきたりしていた。そんなこんなから、最後は外資に株が売られるのではという憶測が週刊誌などに掲載されることになった。しかし、樋口が実際に会った感じでは、そういう人ではないと書いている。非上場である朝日新聞社株を相続する際、その株をいくらで計算するべきか。場合によっては莫大な相続税が掛かってしまう。そういうことを甥の側でも心配していたのは間違いない。一方、美知子の方でも「家の存続」のため、養子を探す試みも行われた。そこら辺は今までには知られない話だと思うけど、いやあ「上」の方は大変ですねえという感じ。

 その間の社の対応に樋田氏は疑問も持つわけである。僕はその「村山家の株問題」をどう解決するのは良かったのか、全然判らない。でも、そういう秘話があったということは事実なんだから、大変面白かったのである。「公器」である新聞社の裏ではそういうことがあったのだ。大変面白い本だったけど、一番は「深窓の令嬢」ってこういうものかという感慨である。美知子社主は最後の最後まで、筋金入りの令嬢として生き抜いた。著者ならずとも、知らず知らずに引きつけられていくのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする