尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「情報化社会」の成立、その光と影ー「現在史」の起点1995年⑥

2025年01月07日 21時55分25秒 | 社会(世の中の出来事)

 1995年の「ヒット商品番付」(日経流通新聞)東の横綱は「ウィンドウズ95日本語版」が選ばれた。新語・流行語大賞トップテンには「インターネット」が入っている。ヒット商品番付を見ると、1996年に「激安携帯電話・PHS」、1999年に「低価格パソコン」が選ばれている。2000年の新語・流行語大賞年間大賞は「IT革命」だった。つまり、1995年に始まる数年が情報通信革命の真っ只中にあったことがよく判るだろう。このため世界がすっかりかわってしまったのである。(ちなみにヒット商品番付2010年に「スマートフォン」があり、新語・流行語大賞トップテン2011年に「スマホ」が入っている。)

 1995年を起点にこの30年間を考えると、一番大きく変わったのは「いま自分がこのブログを書いていること」だ。こういう「インターネットで誰もが発信出来る世の中」が来るとは想定できなかった。この人類史的大変化を一応「情報化社会の成立」と呼んでおきたい。検索してみると、「情報化社会」とは「インターネットをはじめとした通信インフラの整備やデジタル技術の進化によって情報の生産や処理、消費などが中心となった社会」だそうである。ま、そういう世の中になって、良かったこともあるし良くなかったこともある。「光と影」である。「夢のアイテム」が実現したら、「悪貨が良貨を駆逐した」のだろうか。

(携帯電話普及率1993~2024)

 データの確認をしておきたい。総務省による上記グラフを見ると、95年3月段階ではまだ携帯電話の普及率10%だった。それが96年3月には約25%97年3月には46%に急上昇している。10人に一人とは「知ってはいるが、まだほとんど持ってない」状態だが、95年だけで2.5倍に増え、翌年にはほぼ半数の人が持つようになった。これはその時代の記憶に大体合っている。ただこの段階の「携帯電話」はまさに「携帯電話そのもの」でしかなかった。つまり通話機能しかなかった。携帯電話と言う製品なんだから当たり前である。それだけで皆がすごいもんが実用化されたとビックリしていたのである。

 携帯電話普及以前の「最新通信機器」はポケベル(ポケットベル)だった。90年代半ばに高校生を担任したときには、まだ携帯電話ではなく「ポケベル」で生徒に連絡したことを覚えている。ポケベルはそれまでは新聞記者や医者などを緊急に呼び出す以外の利用はなかったけれど、その頃に「女子高生の必須アイテム」になった。この頃も携帯電話そのものはあった。ただあまりにも重くて、また高価なため、一般人が持つものじゃなかった。旅行会社が遠足用に貸してくれたりした。生徒も携帯電話を持っているわけじゃないので、近くの公衆電話から連絡するしかなかったのである。

 下記のグラフは主要な情報通信機器の保有率だが、1999年段階で携帯電話は6割を超える人が持っていたが、パソコンは3割ほどしか持っていなかった。自分の場合、携帯電話は1997年に初めて持ったが、まだパソコン(インターネット)は使ってなかった。初期の段階では、どっちも「仕事で必要」という理由で買うものだった。携帯電話は営業職などであり、パソコンもネット上のコンテンツがまだ少なかったので、会社や学校など「組織」がホームページを作り始めたというレベルだった。

(情報通信機器の保有率1999~2016)

 コンピュータというものは、もちろんその前からあった。学校にもあって、得意な先生が成績処理などに使っていた。それが安価な「パソコン」の発売で、少しずつ使う人が増えていき、閉じられたネットワークで会員どうしがつながる「パソコン通信」というサービスも出来た。1996年に公開された森田芳光監督『(ハル)』はその当時を伝える貴重な映画だ。(深津絵里、内野聖陽の初主演映画。)ゲーム機「ファミコン」もコンピュータだし、文書処理機能だけに特化した「ワードプロセッサー(ワープロ)」もあった。およそ半数ぐらいの教員が使っていたと思う。僕は「親指シフト」の富士通OASYSで定期テストを作っていた。

(インターネット個人利用率1997~2021)

 インターネットは上記グラフのように、1999年から2002年頃に2割ぐらいの利用率から5割を超えるほどに急激に利用者が増えた。こうなると「量が質に転化する」段階を迎え、仕事でも使わざるを得なくなっていった。(入学者選抜に利用するとか。)ネット利用者が激増すると、会社だけでなくほとんどの旅館・ホテルなどがホームページを作るようになった。僕は2000年にインターネットを利用し始めたが、旅行に行く前に旅館などの情報を確認するようになった。しかし、この段階ではネット予約はまだ出来なくて、調べた情報を基に電話や旅行会社で宿を取っていたのである。

 そういうネット勃興期には、僕もある種の「知の共和国」「民衆の広場」になる可能性があるかもと幻想を抱いていた。今はもうそういう思いは消え去ったと思う。誰かが変なこと、間違ったことを書き込んでいても、僕はもう(ほぼ)放置している。自分の時間を削って誰かに間違いを指摘しても、「難癖付けてきた」みたいにとらえる人の方が多いらしい。まあ、自分は出来るだけ確認可能なことを書きたいと思うが、そうも行かないこともある。「間違いや思い込みを書き込む」という以前に、どうでも良いことに関心を持つ人が多いのである。「悪貨は良貨を駆逐する」ことを証明した30年なのかもしれない。

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沖縄の異議申立て「封殺」の30年ー「現在史」の起点1995年⑤

2025年01月06日 22時18分34秒 | 社会(世の中の出来事)

 阪神・淡路大震災が発生し、地下鉄サリン事件が起きた1995年。青島幸男が都知事に当選し、アメリカ大リーグで野茂英雄が活躍した。すべて前年暮れに「来年こんなことが起きる」などと言っても誰も信じなかっただろう。というか、そもそも誰にも予想さえ出来ないことだった。そんな1995年に、もう一つ重大な出来事が起こったのだが、これは「そういうことが起きてもおかしくない」と思われたか、当初は中央のマスコミでは大きな報道ではなかったと思う。それが1995年9月4日に起きた「沖縄米兵少女暴行事件」である。この事件名はWikipediaにあるもので、一応そう書くことにする。

(米兵少女暴行事件抗議デモ))

 もちろん似たような事件はそれまでも起こり、その後も起きてきた。沖縄の歴史は長い苦難の連続で、何もこの30年に限ったことではないとも言える。薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以来約400年、明治政府による「琉球処分」(1879年)以来約150年。米軍による「沖縄戦」(1945年)以来、80年。沖縄民衆の「異議」はすべて「ヤマト」によって「封殺」されてきた歴史だろう。沖縄民衆の抵抗運動も「島ぐるみ闘争」(1956年)など長く続いてきた。しかし、「現在史」として今に続く「沖縄問題」は、1995年に始まったと言って良いのではないかと思う。

 事件はあまりにも残忍なものだった。買い物をしていた12歳の少女(小学生)が米兵3人に粘着テープで顔を覆われ拉致され、基地内で借りたレンタカーで海辺に連行され暴行されたのである。沖縄県警は強姦致傷、逮捕監禁罪で逮捕状を請求したが、日米地位協定の取り決めによって、日本の捜査当局は被疑者米兵の身柄を確保して取り調べを行うことが出来なかった。県民の怒りは沸騰し、県議会初め各自治体で抗議決議が採択された。10月21日には宜野湾市で県民総決起大会が開会され、大田昌秀知事初め8万5千人が結集した。これは「本土復帰」(1972年)後の最大規模の抗議集会だったのである。

(1995年の県民大会)

 さすがにこの頃には本土マスコミも大きく報道し、地位協定改定を求める声が高まった。当時の大田昌秀知事は、沖縄戦研究で知られた学者で、「革新統一候補」として1990年に知事に当選した。沖縄の米軍基地は土地提供に応じない「反戦地主」が多くいて、その場合は「駐留軍用地特別措置法」によって市町村長が代理で署名し、市町村長が拒否した場合は県知事が代理署名することになっていた。しかし、大田知事は県民の激しい反基地感情を背景に、11月27日に「代理署名拒否」を明らかにした。国の職務執行命令も拒否したため、国は行政訴訟に訴え福岡高裁那覇支部は国の訴えを認めた。そして1996年8月に最高裁大法廷は全員一致で、国側勝訴の判決を言い渡した。「国の条約履行義務を果たせなくなり公益性を著しく害する」という理由である。

(代理署名をめぐる動き)

 この時は社会党委員長の村山富市が首相を務めていた。沖縄県を訴えたのも村山首相である。社会党左派だった村山が首相になった結果、当時の社会党は党内議論をほとんど行わずにそれまでの「日米安保」「自衛隊」を認めない政策をあっという間に変えてしまった。当時の社会党支持者は、(新進党を結成した)小沢一郎より自民党総裁の河野洋平の方が「まだマシ」という理屈で自社連立を納得させていたと思う。しかし、その結果として村山首相も「国家の論理」に囚われたのである。そして社会党首相を出していた本土の政治状況では、沖縄に連帯する抗議運動はあまり大きくならなかったと記憶する。

 その後、沖縄県の基地負担軽減が大きな課題となり、1997年に橋本龍太郎首相とクリントン大統領の間で「普天間基地移転を含む基地移転案」がまとめられた。普天間基地は沖縄内でも最も危険と言われる基地だが、この時の案ではただの返還ではなく「移転」とされ、移転先は名護市辺野古に決められた。しかし、この問題は沖縄県民の反対を招き、27年経っても解決していない。沖縄県と国に間では何度も裁判となったが、すべて沖縄県が敗訴している。詳しい経過を書くと長くなるのでここでは省略するが、地元名護市長選では直近2回とも自民党支持の市長が当選している。

(辺野古)(沖縄の世論調査=2024年)

 その後も2004年の沖縄国際大学キャンパスへの米軍ヘリ墜落事故など、大問題が起き続けた。8月13日と夏休み中だったので、奇跡的に人的被害が起こらなかったが、普天間基地の危険性をまざまざと実感させる出来事だった。少女暴行事件の経過を見ておくと、起訴後に日本側に身柄が引き渡され懲役6年6ヶ月から7年の実刑判決が確定した。アメリカの記録映画監督ジャン・ユンカーマンによる『うりずんの雨』は刑期終了後の3人を追っている。一人は再び暴行・殺害事件を起こし自殺していた。一人は取材を拒否したが、一人の元被告が取材に応じた。全員黒人兵で、来日した家族は人種差別を訴えた。当時の太平洋軍司令官は「レンタカーを借りる金で女が買えた」と発言したことも記録しておかなくてはならない。

(沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故=2004年)

 その後、「台湾危機」が取り沙汰され、米軍だけでなく自衛隊の「南西諸島シフト」が進んでいる。それらの情勢から、沖縄県の米軍基地は「地政学的必要性」があると思っている人も多いかも知れない。しかし、そういう理解は間違っていると考える。米軍は戦争の結果として沖縄を占領し、多大な基地を確保した。その戦争は大日本帝国が国策として始めたもので、その敗北による結果は法的に継続している日本国が引き継いでいる。アメリカは「血であがなった軍事基地」と考えているのだ。米軍基地が沖縄県に集中しているのは、日本が始めた戦争の結末であって日本国に責任がある。

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オウム真理教事件、世界初の都市型宗教テロー「現在史」の起点1995年④

2025年01月05日 22時39分58秒 | 社会(世の中の出来事)

 1995年を考えるシリーズは切りがないが、今のところ6回書こうかと思っている。4回目にやはり「オウム真理教事件」を書いておきたい。東京在住者としては、1995年は阪神・淡路大震災以上に、まず地下鉄サリン事件の年だった。1995年3月20日に東京の営団地下鉄(現東京メトロ)の丸ノ内線(2)、日比谷線(2)、千代田線の5本の列車内で毒ガスサリンが散布され、死者12人、負傷者約6300人を出す大惨事となった。その実行犯はその後の捜査で解明されている。それがオウム真理教教団だったわけだが、この事件を知らない世代が出て来ているらしい。検索すると警察が作った「知っていますか?」というチラシが複数出てくるから驚き。大地震は時々起こっているが、これほどのテロ事件はその後日本では起きていないからだろうか?

 (地下鉄サリン事件)

 「坂本弁護士事件」「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」を「オウム三大事件」と呼ぶが、いま詳しいことは書かない。調べればすぐに概要はつかめる。オウム真理教については、教団死刑囚の刑が執行された2018年を中心に何度も書いている。95年以前から怪しい気配を漂わせていて、それは1990年の『オウム真理教が選挙に出たころ』や『オカルトと神秘体験』で詳しく書いた。1994年に松本サリン事件(死者7人、負傷者約600人)が起き、当初は近所に住んでいたK氏が犯人視され報道被害を受けた。しかし、1995年元旦の読売新聞が山梨県上九一色(かみくいっしき)村(現甲府市、河口湖町)にあったオウム真理教の本拠地付近からサリンが検出されたと報道した。これを受けて、新年から何かただならぬ雰囲気に包まれることになった。

(松本サリン事件30年)

 2月28日に目黒公証役場事務長が白昼に拉致・誘拐される(その後死亡)事件が起き、妹がオウム教団にいて揉めていたためオウム真理教の犯行ではないかと疑われた。警察は確証をつかみオウム真理教への捜索を計画し、自衛隊で化学戦訓練を受けていた。だから、地下鉄サリン事件が起きた時、大部分の人は「オウムだ」と直感したはずだ。そして3月22日に、目黒事件に関してオウム関連施設への捜索が開始されたのである。それまで阪神・淡路大震災一色だった東京のテレビは、以後教祖麻原彰晃(あさはら・しょうこう、本名松本智津夫)が逮捕された5月18日を頂点に、ほぼオウム関連報道ばかりになった。

 サリンはまだ残っているという噂が根強く流れ、都庁がある新宿でテロがあるという流言で新宿の駅ビルが閉鎖された日もあった。東京の繁華街では人出がグッと減ってしまったが、そういう「恐怖の日々」はその後2回経験することになった。2011年の東日本大震災福島第一原発事故後に「計画停電」が行われ、放射能被害を恐れて人々は家に留まった。そして2020年の新型コロナウィルスパンデミックにより「緊急事態宣言」が出された日々である。もう4回目は懲り懲りだ。

 過激な宗教教団がテロ事件を起こすこと自体は今までもあった。特にアメリカの「人民寺院」事件(1978年に南米ガイアナのコミューンで918人の信者が集団自殺または大量殺人した)は有名だ。「世界滅亡」などの教義で集団自殺したり、教団脱退をめぐって信者が殺害される事件はそれまでもあった。しかし、このような「都市型無差別テロ」が起きるとは誰も思ってなかっただろう。その意味で世界に大きな衝撃を与え、社会のあり方を大きく変えてしまった。街からごみ箱が撤去され、防犯カメラが設置された。電車の網棚に新聞雑誌を置き去りにする人はいなくなった。

 それ以上に大きかったのは、オウム信者なら何でも逮捕(微罪逮捕)するのが当然という風潮が定着し、社会を「過罰感情」が覆ったことである。それがこの年ぐらいから普及する「ネット社会」で加速した。人々はクレームを恐れて口をつぐみ、言うべきことを言わず闘うべき時に闘わなくなった。(まあ、それ以前からだけど。)当初は確かにオウム教団の内情が不明だったため、「オウムにはやむを得ない」と思った人が多いのである。そして、裁判では地下鉄サリン事件だったら、実行役は死刑運転役は無期懲役と同じ判決が出された。死者が出なかった車両もあったが、「共謀共同正犯」ととらえて実行者は全員死刑判決だった。

(麻原彰晃ら死刑執行)

 麻原ら主要幹部クラス7人の死刑は2018年7月6日に執行された。その後、残された死刑囚6人が7月26日に執行された。麻原は法律で死刑が執行できない「心神喪失」だった可能性がある。13人中10人が再審請求中だった。当時『オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由①』『オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②』を事前に書いたが、もちろん僕が書いたからと言って変わるわけもない。執行後は『オウム死刑囚、刑執行の問題点を考える』『オウム「B級戦犯」の死刑執行』を書いた。

 記録に留めるためだが、今さら読む必要もないだろう。僕が死刑執行に反対した理由は上記記事に書いた通りだが、別にオウム幹部が冤罪だとか同情すべき点がある(一部死刑囚に関しては重すぎたと思うが)というわけではない。社会から「排除」することで、人々は事件を忘れてしまう。やはりそうなりつつあるので、麻原教祖の処遇はどうあるべきだったか、皆が考え続けるような刑罰が望ましいと思うのである。「排除して終わったことにして刑罰感情を満足させる」という死刑制度そのものに反対だということである。それはオウム真理教事件でも変わらない。(変えてはならないと思っているということだ。)

(周辺住民が法相に申し入れ=2024年12月13日)

 僕は事件が起きた日比谷線は、自宅から都心に出る手段なので、毎日ではないけれどいつも使っている。六本木に勤務していたときは大きな被害を出した築地駅、霞ヶ関駅を通って通勤していた。しかし、事件当時に関しては人生でただ一回「同じ区内に勤務する」時期だったので、自分が事件にあう恐れはなかった。しかし、オウム後継団体の「アレフ」「ひかりの輪」の施設がある地区なので、今も住民協議会があって「組織解散」などを求めている。12月13日には足立区長を中心に鈴木法務大臣に要望書を提出したというニュースがあった。(足立区の会長は中学の同級生。)オウム真理教事件の風化を防ぐ運動は今も続いている。

 なお、『オウム事件の「真相究明」とは』に書いたが、両サリン事件は神奈川県警が1989年の坂本弁護士一家殺害事件に適切に対処していれば防げた可能性がある。坂本事件現場にオウムのバッジが落ちていたとされるが、何故かオウムへの捜査が行われなかった。宗教団体の殺人事件を想定できなかったと言えばそれまでだが、坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。ここは神奈川県警による日本共産党緒方靖夫国際部長(当時)への違法盗聴事件を追及していた。

 神奈川県警は後に様々な不祥事が頻発し、警察官による覚醒剤使用事件が起きた時には、「不祥事隠ぺいマニュアル」があったことが発覚した。県警本部長が逮捕、起訴、有罪となった前代未聞の事件である。神奈川県警の坂本弁護士事件対応を国家的に検証する必要があったと思うが、それはなされなかった。明らかに問題を抱えた組織だったのである。

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第3次ベビーブームは起きなかったー「現在史」の起点1995年③

2025年01月03日 22時14分18秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」を「現在史」の起点と考えて、今の日本を理解しようというシリーズ。基本的には「1995年に起こったこと」を基にするわけだが、ここで一回「1995年前後に起こらなかったこと」を取り上げたい。それは「ベビーブーム」「第二次ベビーブーム」に続く「第三次ベビーブームは起きなかった」という厳然たる事実である。それは以下に示す1960年から2023年までの出生数推移グラフを見れば一目瞭然である。それはなぜだったのだろうか。

(出生数)

 戦争が終わって兵士たちが長い戦争から帰還してきて、1947年から空前のベビーブームが始まった。その年が267万9千、翌48年が268万2千、49年が269万7千と最高を記録し、以後233万8千、218万8千、200万5千と1952年まで年間200万を超えていた。これは第二次大戦を経験した諸国に共通した現象だったが、日本では後になって「団塊の世代」と呼ばれるようになった。その後、漸減するけれど150万~170万程度で推移し、有名な1966年の「ひのえうま」の136万1千を例外として、翌年から再び増えていく。そして、1971年から74年まで4年連続で200万を超える出生数があり「第二次ベビーブーム」と呼ばれた。

(平均初婚年齢の推移)

 当時の平均初婚年齢を調べてみると、女性の場合は23、4歳だった。1947年生まれの女性は、1971年に24歳となる。平均だからもっと早い人も遅い人もいるわけだが、第一次ベビーブーム世代が結婚する時期を迎えて、出生数も増えたわけである。(なお、この頃に生まれた子どもたちは、1980年代半ば以後中学、高校に進学する時期を迎える。その時期に教師をしていたので、進路決定や学級増などの対応が大変だったことをよく覚えている。)1971年生まれの女性は1995年に24歳となる。当時の平均初婚年齢は26歳ほどだが、早く結婚する人もいるわけだから1995年ぐらいから出生数が増加に転じてもおかしくない

(婚姻数)

 そして実際に1994年は前年よりも出生数が多かった。しかし、上記グラフを見れば判るように、その後減る一方だったのである。婚姻数を調べてみれば、90年代前半にやはり増えているのである。出生数と婚姻数のグラフを見比べて見れば、よく判るだろう。出生数はほぼなだらかに減り続けているのに対し、婚姻数は一端増加する時期があった後で減少に転じている。それは何故だったのだろうか。よく言われたのは「女性の高学歴化」「女性の結婚年齢の上昇」ということで、高卒で就職していた女性も4年制大学や専門学校に進学する人が増えた。社会に出る年齢が高くなるに連れ、結婚・出産も遅れ気味になったので、「第三次ベビーブーム」は少し遅れてやってくるという観測も多かった。だけど結局それは起こらなかったのである。

 そこで「バブル崩壊」「就職氷河期」に直面下世代だったということが指摘された。1986年に「労働者派遣法」が成立して、派遣労働者が増えた。当時の家族意識は、子どもは2人(あるいは1人か3人)、出来れば大学に進学させたい、家の祭祀継続のため男子をどうしても望むという人は少なくなっていた。だから、それなりの安定した収入がなければ子どもを持つことをためらう意識が強くなっていただろう。それでも、ベビーブーム世代は安定した職に就いていたから結婚したわけではない。むしろ安定した職にない人でも、かえって周囲が面倒を見て結婚したケースが多いのではないか。

(コンビニ店数の推移1983~2008)

 その頃高度成長が一段落して、「日本的」な生活様式が整備されていく。「一人でも生きていける社会インフラ」が成立したことが大きいのかも知れない。「コンビニ」はその象徴である。60年代から70年代に「電化社会」が完成して冷蔵庫洗濯機がどの家庭にもあるようになった。もし冷蔵、冷凍製品を家で保管出来なければ、「一人暮らし」はとても大変だったはずだ。そして80年代以後にコンビニが増加する。一人でも十分暮らしていけるのだから、結婚や出産は「もっと理想的な出会い」のために待てるようになった。シングルの人生というのは決して珍しいものではなくなったし、不幸せを意味するものではなくなった。

(今後の人口予測)

 「一人でも生きていける社会」の成立は、社会の進歩であって元に戻せるものではない。社会を維持する人口確保という意味での「少子化対策」の時期はもう通り過ぎたと思う。もはや人口増加社会はやって来ないので、何らかの対策を取れば人口が増加するというような幻想は持つべきではない。むしろ「いまを生きる人々がもっと幸せになれる社会システムの構築」という意味で、「結婚の多様化」を進めていくべきだと思う。「夫婦別姓」や「同性婚」は当然だが、相続などに関わらない「相互扶助システム」を作っていく必要がある。厚労省による人口予測(上記グラフ)を越えて出生数減少が進んでいるのだから。

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「大地動乱の時代」始まるー「現在史」の起点1995年②

2025年01月02日 22時22分25秒 | 社会(世の中の出来事)

 「1995年」はどういう年だったか。最も重大なものは「大地動乱の時代」が始まったことだと思う。1995年1月17日午前5時46分、淡路島北方の明石海峡を震源とする大地震が起きた。気象庁は「兵庫県南部地震」と命名したが、一般的には阪神・淡路大震災として知られている。犠牲者は6434人にのぼり戦後最悪(当時)の大被害を出した。2025年に地震発生30年を迎えるので、様々な振り返りが行われると思う。だから、ここで震災被害のことは細かく書かないことにする。

(倒壊したマンション)

 震災当時、東京ではなかなか情報がつかめなかった。これほど大きな被害になっているとは想像出来なかったのである。1948年の福井地震をきっかけにして1949年に「震度7」という揺れの基準が作られた。しかし、以後50年近く一度も震度7が適用された地震はなかった。ところが、その後2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震(2度)、2018年の北海道胆振東部地震、2024年の能登半島地震と、この30年間に7度も震度7を記録しているのである。

 これはまさに「異常」というべき事態ではないのか。人間世界の感覚からすれば非常に長い時間をかけて動いていくのが地球の地質年代だろう。それなのに一人の人間が生きている間にこれほど大地震が起こるものなのか。ところが、このような大地震発生を警告した本がある。それが地震学者石橋克彦氏(1944~、当時建設省建築研究所)による『大地動乱の時代ー地震学者の警告』(岩波新書、1994)である。当時読んで、そんなことがあるのかと思ったけど、まさに翌年大震災が起きた。

(『大地動乱の時代』)

 僕は当時神戸に行って震災を見た思い出がある。2月初めの連休(建国記念の日が土曜日だった。当時土曜はまだ学校の授業があった)を利用して行ったのである。少しボランティアをしても良かったんだけど、行った段階ではもう人手も足りていたので日帰りで帰ってきた。前から関わってきたFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が灘区の避難所でボランティアを始めていて、そこに卒業生も行ってたので顔を出しに行ったわけである。当時生徒文集に書いた記録があるので読み返してみた。

 新大阪止まりの新幹線、普通電車で住吉まで。そこから代替バスに乗り換え。そういう風に行ったと出ている。尼崎あたりはまだ屋根のビニールシートが目立つ程度だが、次第に倒壊した建物が多くなる。それも全部じゃなくて、古い家などが倒壊しているのに、隣の新築マンションはちゃんと建っている。町のあちこちにピサの斜塔みたいなビルがある。実に不思議というか、異世界に紛れ込んだような感覚。避難所は養護学校だったので、キレイな教室が並んでいて、駅にも近く「もう物は持ってこないで」と告知していた。ボランティアも子どもやお年寄りの相手が中心だった感じ。時期的に一番大変な時期は過ぎていたと思った。

(水道蛇口のレバーも変わった?)

 阪神淡路大震災は当時非常に大きな衝撃を与えた。今になると東日本大震災という大災害に記憶が「上書き」された感もあるが、当時は経験のない大災害だったのである。よく「水道蛇口のレバー」が上に上げると水が出る方式になったのは阪神淡路大震災がきっかけと言われている。テレビ番組で池上彰氏もそう解説していたが、調べてみるとそう簡単なものではないようだ。それ以前から議論されていて、欧米の方式に統一したというのが正しいらしい。ただ当時の議論の中で、震災時に物が落ちて蛇口が出っぱなしになった事例もあったとも言われている。わが家など未だに混在していて、うっかり間違ってしまう。

 ところで、石橋克彦氏は1997年10月号の雑誌「科学」に「原発震災―破滅を避けるために」という論文を発表した。大地震によって原発メルトダウンが起き、震災被害と放射能汚染が複合的に絡み合う災害を「原発震災」と名付けて警告したのである。そして何と14年後に石橋氏の警告はまたしても的中したのである。学問的予知能力に驚くしかない。2024年1月1日に発生した能登半島地震では、実は動いた断層のほぼ直下に「珠洲原発」を建設する計画があったのである。長い反対運動があり最終的に2003年に計画は凍結されたが、下の地図を見れば判るようにまさに恐るべき事態になっていた可能性がある。

(珠洲原発予定地)

 このような「大地動乱の時代」に原発の新増設を主張し、首相官邸に石破首相を訪ねて(2024年11月27日)「原発新増設」を求める要望書を提出したのが国民民主党である。僕はこの政策はまったく支持できないが、最近国民民主党の支持率が上昇しているのは国民の多くもまた原発新増設に賛成なんだろうか。それともあまり知らずに「手取りを増やす」ことに賛同しているのか。ところで、石橋氏は次に『リニア中央新幹線と南海トラフ巨大地震 「超広域大震災」にどう備えるか』(2021,集英社新書)を書き、リニア新幹線に警鐘を鳴らしている。(リニア新幹線建設は中止すべきである参照)「二度あることは…」にならないか。

(石破首相に原発新増設を要望する国民民主党)

 最後に紹介だけしておくが、Wikipediaの阪神・淡路大震災に関する文学の項を見ても、神戸在住だった詩人安水稔和(やすみず・としかず)氏が出ていない。もし図書館に入っていれば、今年の機会に是非探して読んでみて欲しい。またどこかの文庫に是非収録して欲しいと思っている。(神戸の詩人、安水稔和の逝去を悼む

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「男はつらいよ」が終わり、野茂はメジャーで活躍したー「現在史」の起点1995年①

2025年01月01日 22時34分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 2025年という年は、1995年から30年であり「昭和100年」に当たる。1995年は当時を生きていた人にとって、驚天動地の出来事が相次いだ「災厄の年」だった。日本で生きていた人には、1995年(とその周囲の数年)が時代の変わり目だったことが実感出来るはずだ。「1995年」を我々が今生きている「現在」の起点として考え、その意味を数回にわたって考えてみたい。

 かつて社会学者の見田宗介氏は「戦後日本」を3期に分けて、「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と呼んだ。(生と死と愛と孤独の社会学参照。)第1期と第2期の境目は1960年頃で、高度成長時代が始まった。第2期と第三期の境目が1970年代前半で、高度成長時代が終わった。それ以後が「虚構の時代」だが、それも1995年頃に終わったと思う。「犯罪」を指標にすれば、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」があり、多くの人の実感に合うだろう。

時代区分」というものは、今まさに歴史の現場で生きている我々にはなかなかつかめない。政治経済の場合は、一応はっきりとした指標がつかみやすいが、社会全般や文化などはゆっくりと変わっていく。それでも1990年代後半から21世紀に掛けて、携帯電話インターネットが一般的になった。「Windows95」が発売された1995年が指標の年となるだろう。

 政治では1993年細川護熙内閣が誕生したときから、政党の組み合わせは変わったとしても「連立内閣」が常態となった。現在も自民党と公明党の連立である。1995年は前年の1994年に成立した村山富市内閣だった。社会党、新党さきがけが擁立した村山社会党委員長に、当時野党だった自民党が相乗りした変則的な連立である。1995年は「戦後50年」に当たり、「村山談話」が出されたのは非常に象徴的だった。しかし、この社会党首相の誕生は「社会党(的なもの)の消滅」をもたらした。

 自社さ連立政権は、1995年の統一地方選で思わぬ結果をもたらす。国政主要政党が相乗りした候補を擁立したため、それに反発した「タレント候補」が出馬したのである。1968年の参院選全国区で当選して元祖タレント候補と呼ばれていた青島幸男が東京都知事、横山ノックが大阪府知事に当選した。これは誰も想定しなかった「無党派の反乱」と受け取られ、大きな衝撃を与えた。結果的に青島は一期で引退、横山は二期目に当選したが選挙運動期間中にわいせつ事件を起こし有罪となった。

(都知事に青島幸男氏が当選)

 1995年は結果的に『男はつらいよ』シリーズの最終作が公開された年になった。1995年12月23日に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』は、毎年1~2作作られてきたシリーズの実質的な最終作となった。それは主演俳優の渥美清の体調という個人的な要因によるものだけど、95年が寅さんシリーズの終わりだったということは「時代の変わり目」を象徴する感じがする。1969年から続いてきた映画シリーズは、2年後に特別編が作られたが、それはもはや渥美清の新作ではなかった。

(男はつらいよ 寅次郎紅の花)

 この映画を撮るとき、すでに渥美清は肝臓ガンが肺に転移して主治医は出演不可能と言ったという。山田監督も渥美の体調を案じて最終作になるかもと考え、マドンナに最多となる4度目の浅丘ルリ子リリーを登場させた。浅丘もこれが最後と覚悟し、監督に「寅さんとリリーを結婚させて欲しい」と直訴したという。山田監督は50作まで作ることを予定し、すでに次作を書き出していた。だから結婚まではしないのだが、リリーと寅さんは奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島で一緒に住んでいた。

 そして寅さんは映画の最後に、震災に見舞われた神戸に現れる。1995年は阪神淡路大震災が起こり、全く想定されていなかった大被害をもたらした。史上初めて「震度7」が記録されたのである。そして被災地の熱い要望に応えて、病身の渥美清はその長い芸歴の最後に「震災ボランティア」を演じた。たまたまふらっと神戸に現れたという設定の寅さんは、「本当に皆さんご苦労様でした」が最後のセリフとなった。その後多くの災害を体験した日本人に遺した予言のような言葉じゃないだろうか。

 1995年にはもう一つ全く予期されていなかったことが起きた。それは野茂英雄がアメリカの大リーグで活躍したことだ。近鉄バファローズにいた野茂投手は望まれて温かいムードで大リーグに渡ったのではない。1990年に入団し、その年から4年連続最多投手となった野茂は、94年シーズンは8勝7敗と低迷した。鈴木監督との折り合いも悪く、契約更改でもめて自由契約となり、ドジャーズとマイナー契約を結んだのである。これは村上雅則以来32年ぶりのことだった。

(アメリカで活躍した野茂英雄投手)

 誰も日本人野球選手がアメリカで通用するなどと考えてはいなかった。だから移籍に関するルールもはっきりとしていなかった。結果的には6月2日に初勝利を挙げ、13勝6敗で新人王となった。「トルネード投法」が流行語となり、その後2度のノーヒットノーランを記録した。アメリカで2008年まで活躍し、123勝109敗。日本時代の78勝と併せて、日米通算201勝となっている。今テレビを付ければ、シーズン中は毎日大谷翔平のニュースを大きく報じている。野茂に続きイチローや松井秀喜のように野手もメジャーに渡った。サッカー、バスケ、バレーなど他競技でも多くの日本人選手が外国で活躍している。野茂が切り開いた道だ。

 1995年の「新語・流行語大賞」の年間大賞は「無党派」「NOMO」「がんばろうKOBE」の3つだった。トップテンには「ライフライン」「安全神話」「官官接待」「インターネット」などが選ばれている。無党派やインターネットも「新語」だったのである。そこから30年経った。この30年は一体どんな変化を日本に及ぼしたのか、数回考えてみたい。

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低投票率はなぜ生じたか、「中間組織」の衰退の問題

2024年12月31日 22時12分24秒 | 社会(世の中の出来事)

 年末の何かとせわしない時期に何だか書くのが面倒になる時がある。2024年はあんなに暑かったのに、今度は突然冬が来て日本海側は豪雪である。関東地方はまだ晴れているから良いというものではなく、ホントにカラカラで火事も多いしノドが痛い。あまり寒いと心も冷えてくるかも。ということで次第に毎日書くのも大変になってきたのかもしれない。

 さて、前回記事で犯罪の「トクリュウ」化を通して「孤立社会化」ということを指摘した。続いて選挙の投票率に注目して、実際どのくらい減っているのか、世代ごとに見るとどうなのかを見てみたい。自治体は投票者を把握出来るので、その気になれば全年代の投票率を確定出来るはずである。しかし、さすがにそれは面倒すぎるので、幾つか抽出して調査しているらしい。2024年の衆院選に関しては、青森県の世代別投票率という画像が見つかった。左から右へ年齢が上がっていく。一番右の80代以上がグッと低くなっているが、それを別にすればおおむね年齢が高いほど投票率が高くなる。(10代は少し高いが。)

(青森県の2024年衆院選世代別投票率=日テレ)

 これを「若い人ほど政治的意識が低い」などと言うことが多いが、果たしてそういう理解で正しいのだろうか。戦後の衆議院選挙投票率の推移を示したのが下のグラフである。それを見ると、大きな傾向として「年代に関係なく段々下がっている」というのが判る。70%は行っていた投票率が70年頃から時に7割を割っている。やがて6割程度が普通になり、郵政解散(05年)、政権交代(09年)が例外的に高かったがそれでも7割には行かない。その後、直近4回ほどは5割台前半から半ば。グラフは2021年までだが、2024年は53.85%とまた低くなった。これは裏金問題に怒った自民党支持層がいたと思われると当時分析した。

(2021年までの衆院選投票率推移)

 このように全世代で下がって来ているのである。それでも高齢になるほど投票に行くのは何故だろうか。年齢が高くなるほど、「今までずっと投票してきた(党や候補者)」がいる場合が多い。選挙に関する「体験格差」が若年層との間にある。そういうこともあるだろうが、それ以上に「投票を働きかけられる社会的関係の差」が大きいのではないか。どの世代だって、特に国内政治や国際情勢に詳しい人は限られるだろう。昔の若者だって、「活動家」そのものはそんなにいなかったと思う。

 だけど、「親から地域代表の自民党候補の投票を頼まれる」とか「同級生に民青(共産党の青年組織)活動家がいて電話があった」あるいは「同級生に創価学会員がいて(公明党への)投票を頼まれた」とか、ごく普通に体験していたと思う。地域の中でも「町内会」(事実上保守系の有力者がいる)、農協医師会などの存在感が大きかった。会社で働くようになれば、労働組合に所属して推薦候補の応援をする。次第にエラくなれば自民党の党員になって会社に協力する。特にはっきりとした政治意識を持っている3分の1程度の人を除けば、4割程度の人は「立場上」とか「周囲の働きかけ」で選挙に行ってたんじゃないかと思う。

(労働組合組織率)(労働組合加盟者数)

 そういう投票を呼びかけてきた組織の弱体化が低投票率の原因だと思う。今は労働組合の組織率しかグラフが見つからないけど、上記画像のように、投票率と連動するかのように下がってきた。労働組合加盟者数を見ると、特に激減したわけではないが、それは近年パート従業員などの組織化に取り組んできたからだろう。そのため、加盟者数自体は少し持ち直しているが、組織率は下がっている。労働組合のない会社(福祉法人なども)が多い上、非正規労働者が多くなっているんだから当然だろう。それとともに労組に参加しない人も増えている。自民党が賃上げを求める時代に、労組の価値を感じないということか。

 それでも立憲民主党国民民主党の参院選当選者を見ると、労働組合代表がズラッと並んでいる。自民党も郵政、建設、医師会など業界代表者がズラッと上位を占める。公明党(創価学会)や共産党も個人票ではなく、組織の力で票獲得を行っているので「組織選挙」ということは同じである。25年参院選はどうなるか注目だが、少なくとも組織内候補は未だ有力なのである。組織が弱体化したと書いたばかりだが、弱体化したといっても国民の半数しか行かない選挙ではまだまだ「組織の力」は有効なんだろう。つまり、残り半数の「誰からも働きかけがない孤立層」が問題なのである。

 こう考えてみると、若年層ほど投票率が低い理由が見えてくる。同級生に政治活動家がいて呼びかけられるということは今では少ないだろう。せいぜいバイトなど流動的な職に就いている程度では、選挙に関する「関係の網の目」に引っ掛からない。年齢を重ねるほど、職場や地域で何らかの社会関係が出来てきて、「あの政治家にはお世話になった」とか「あの党には頑張って欲しい」などの自分なりの「投票価値観」が作られてくる。そういうことなんじゃないかと思う。

 「学校」や「職場」というのは、誰しもが一度は所属する場所だが、そういう組織と政治・行政は直結しているわけではない。その間に「業界団体」「労働組合」「協同組合」「町内会」「ボランティア団体」など「中間団体」が存在する。それらの中には近年活発に活動しているところもあるけど、少子高齢化にともなって次第に弱体化しているんじゃないだろうか。特にコロナ禍で活動を停止した後、なかなか元に戻れない地域の合唱団とか俳句結社、草野球チームなんかも多いんじゃないだろうか。メンバーはどんどん年齢が上がっていくので、次のリーダー、新人加盟者が出て来ないと、組織力が低下して行ってしまう。

 やがて地域の公民館図書館スポーツセンターなども耐用年数が来て、施設の物的限界が来る。建て直さないといけないが、行政的には福祉予算や上下水道の維持が優先するから、あと10数年すれば地域からどんどん社会教育施設もなくなっていくんじゃないか。そうなったときにますます住民の自治力が低下してしまう。日本でも市長選などは投票率が3割程度のことがあるし、地方議会の議員確保も大変になっている。何か抜本的な対策を講じない限り、日本社会の底が抜けてしまうのではないか。

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「トクリュウ」と「投資詐欺」ー2024年という時代

2024年12月29日 22時18分42秒 | 社会(世の中の出来事)

 2024年もあと少し。来年2025年という年は、「1995年から30年」という一世代分の時間が経った年になる。1995年は本当にいろいろとあって、忘れられない年になった。現代日本を考える時に起点となるだろう年である。そのことを考えようかと思ったんだけど、まあそれは2025年になって書けばよいだろう。その前に「2024年とはどういう年だったのか」。

 毎年毎年自分にはよく判らない出来事が相次ぐ。その中でも「都知事選で石丸伸二氏が2位となった」とか「兵庫県知事選」とか、投票行動そのものは有権者が自由に決めればよいことだが、その時に今までの選挙ではそれなりの力を発揮していた「組織」というものはどうなったんだろうという気がする。もっとも今まで「組織の指令通りに投票する」ということには否定的だったわけである。だけど、選挙情報が「Web情報」(主にYouTube)になるとは、自分にとって理解が難しいのである。

 選挙だけでなく、犯罪の世界でも「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)という言葉が聞かれるようになった。12月24日には、全国の警察幹部を集めた会議が開かれ、露木康浩警察庁長官が『組織犯罪対策の軸足を、暴力団からトクリュウにシフトすべき転換期にある』として、警察の総力を挙げた対策を指示したという。犯罪という、ある意味で「組織」が一番有効で役立ちそうな世界でも、旧来の暴力団よりも「トクリュウ」が重大な存在になっているらしい。もっとも「トクリュウ」を仕切っているのも、旧来の犯罪組織なのかもしれないが、いずれにせよ見える形の犯罪組織は弱体化しているんだろう。

(暴力団とトクリュウの違い)

 他にも犯罪と言えば相変わらず「特殊詐欺」のニュースが多かった。2024年には特に「著名人の名を騙る投資詐欺」というのものが大問題になった。僕もこれは見たことがあるが、Facebookに堂々と載っていた。一見広告のように(というか「広告」として載せたグループがあるわけだが)出ているから、信じてしまった人がいるらしい。池上彰氏や森永卓郎氏、堀江貴文氏や前沢友作氏などを見たことがあるが、池上氏は国際問題には詳しいだろうが経済ジャーナリストではない。森永氏は闘病中だし、堀江氏や前沢氏が言ってることを信じる人がいるのか思うけど、現にいたらしいから恐ろしい。

(池上彰氏を騙る投資詐欺)

 これは「だから投資は恐ろしい」という話じゃないだろう。「投資」に関する最低限の知識もない人がいるという話である。ただ日本は諸外国に比べて金利が低く、株式市場の水準も高くない。「世界をよく知る人」は何か「うまいこと」をしているんじゃないか。自分も「うまい話」に乗りたいもんだ的な感情が底流にあるんだと思う。だけど、そんな「うまい話」はない。あったとしても、そんな簡単に接触できるはずがない。(株や債権は金融機関しか売買できず、証券会社や銀行に口座を開くのが最初にやることになる。単にどこかの会社の株を買うのはすぐ出来るが、「投資信託」なら目論見書が送られてくる。)

 そういう投資詐欺と「ロマンス詐欺」だけで、660億円もの被害があるというからすごい。まだ明るみに出ない被害もあるだろうから、本当はもっと多いだろう。「ロマンス詐欺」というのもヒドイ話だけど、「お金がある高齢者」と「孤独な高齢者」がいるということだ。これも今までの「町内会」などの地域組織が弱体化し、一方で「SNS」が高齢者にも身近になった。「」「」を利用しようという悪い側も今や「組織」ではない。詐欺の金を取りに来たり、ATMで引き出そうという人間も「闇バイト」で集められた人である。欺す側も欺される側も、助けてくれる人もなく「広い荒野にポツンといるような」社会にいる。

 2024年の出生数は70万を割り込むらしいが、この「少子化」ということも「孤独社会」のもたらすものだと思う。政治の世界では、今までは「自民党と共産党の間」で投票先を決めるものだった。もちろん右にも左にも、もっといろんな勢力があるのは皆知っているが、選挙には出て来ない少数勢力だった。今は自民、公明だけでなく、野党には立憲民主、日本維新の会、国民民主、れいわ新選組、共産、参政党、日本保守党、社民と10党も衆議院選挙で当選している。(参議院には「NHK党」もある。)こんなことも今まで経験したことがない。大きな「組織」が緩んでいることの結果だろう。

 問題は「大組織の時代」が終わることではない。それが「自由に各人が自ら考えて選ぶ」社会になるというよりも、「デマや陰謀論」の影響力に支配された社会になっていることだ。それは日本に限らず全世界共通のことである。そんな中で、出来うる限り「自分の目」「自分の頭」で感じ考えたことを貫いていきたいと思うけど…。それも独りよがりなのかもしれない。

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日本被団協にノーベル平和賞ー「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」

2024年10月12日 22時31分14秒 | 社会(世の中の出来事)

 2024年のノーベル平和賞が「日本被団協」に贈られると発表された。これは世界的に「意外な授賞」と受け取られている。僕も被団協への授賞は「もうないもの」と思っていたので、テレビニュースの速報を見て驚いた。今年は中東情勢に関連して選ばれるのではないかと予測されていた。個人的には「国際刑事裁判所」(ICC)が受賞するのではないかと予想していた。ICCは現在プーチンにもネタニヤフにも逮捕状を発している。世界はいまICCを強力にサポートする必要があるからだ。
(記者会見する箕牧智之被団協代表委委員)
 「日本被団協」(日本原水爆被害者団体協議会)に関しては、2017年にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞したときに、こう書いている。「僕はできれば「日本被団協」との共同授賞が良かったと思う。今年は事前にはイラン核合意関係の授賞が有力とされていた。いずれにせよ、北朝鮮の核開発やトランプ政権発足があり、核兵器をめぐる授賞になるだろうと僕も予想していた。日本の「ヒバクシャ運動」に授賞することは、「戦争認識」問題を呼び起こす可能性があり単独授賞は難しいかもしれないが、もう残された時間が少ないのでぜひ授賞して欲しかった。」(『ノーベル平和賞、サーロー節子さんの演説』)

 この間毎年のように被爆者運動を支えてきた人々が亡くなっている。例えば2000年から被団協代表委員を務めていた坪井直氏は、2021年に96歳で亡くなった。今回の決定を受けて記者会見を行った箕牧智之(みまき・としゆき)氏は、坪井氏の後を受けて広島県被団協理事長、日本被団協代表委員となったのである。「日本被団協」はもちろんノーベル平和賞を取る目的で活動している団体ではない。しかし、ノーベル平和賞受賞は自分たちのやって来たことに意義があったと認定されたことになる。もっと早く受賞したならば、さらに多くの「ヒバクシャ」の苦難が報われただろうと残念なのである。
(ノーベル平和賞を発表する委員長)
 日本の「ヒバクシャ運動」はどのような意味があるのだろうか。日本の原水禁運動は1954年の「第五福竜丸事件」(アメリカがビキニ環礁・エニウェトク環礁で行った水爆実験によって、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸が被爆した事件)を受けて、国民的な平和運動として発足した。しかし、60年代初頭に「ソ連の核兵器をどう評価するか」をめぐって分裂する。その後は原水協(共産党系)、原水禁(社会党系)、核禁会議(自民党、民社党系)の3つに分かれて活動していた。被団協は1965年に「いかなる原水禁団体にも加盟しない」と決め原水協を脱退した。(広島県では被団協も分裂して2つあるとのことである。)

 それ以後は政党の立場を離れて、日本政府や国連などに核兵器廃絶や原爆被害への国家補償などを求めてきた。被団協はあらゆる国の核兵器に反対し、「被爆者」の声を世界に届けることで、国際世論に大きな影響を与えてきた。アメリカや中国などでは、「原爆が戦争を終わらせた」「日本の侵略戦争の結果」という歴史観が根強い。そのことが先の引用で「戦争認識問題を呼び起こす可能性」と書いた理由である。だが、現時点ではそういう問題は後景に退いたのではないか。

 それはウクライナ戦争ガザ戦争が世界に衝撃を与えたからである。第二次世界大戦で最も大きな被害を受けた「ソ連」と「ユダヤ人」は、かつての悲劇を逆の立場で繰り返している。ドイツ軍が破壊し尽くしたウクライナに、今度は東からロシアが侵略している。ナチスによってジェノサイドの悲劇を受けたユダヤ人が戦後に建国したイスラエルは、今ではパレスチナ人に無慈悲な攻撃を繰り返している。どこに「歴史の教訓」があるんだろうか。そのような時に、「自分たちを最後のヒバクシャに」と訴えてきた戦後日本の被爆者運動の倫理性を振り返ることは大きな意義がある。

 「原爆を落としたアメリカに報復しよう」とか、「二度と核兵器の被害を受けないため日本も核武装しよう」などとは、被爆者は考えなかったのである。恐らくロシア人やユダヤ人にも、自国の現状を深く恥じている人が多くいるだろう。同じように日本でも、「核兵器の抑止力」を声高に語りながら「唯一の被爆国」と称して広島で首脳会議を行うような自国のあり方に深く恥じている人がいる。もっとも世界どこの国でも、そういう人が大きな勢力にはなっていない。
(記者会見に同席した高校生平和大使)
 そんな時に思い出すのは、記者会見でも同席していた「高校生平和大使」の活動だ。東京ではほとんど取り組まれていないが、1998年に長崎県に始まったという。署名活動を行い国連に提出するなどの活動を若い世代が行ってきた。この取り組みをノーベル平和賞に推薦する動きもあるらしい。「ヒバクシャ」はやがて一人もいなくなる。世界から核兵器をなくすために、どうやって引き継いで行くべきか。日本人の大きな課題だ。そのヒントになるのが、この高校生平和大使じゃないだろうか。その運動のスローガンが「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」だという。衆議院選挙が直近に控える今、すべての人が噛みしめるべき言葉だ。

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「スポーツウォッシング」をどう考えるかーパリ五輪③

2024年08月16日 22時20分16秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京は毎日猛暑が続くが、今日は久しぶりに30度に届かなかった。台風7号の接近によるものだが、週初めから週末は台風に警戒と言われ、東京・名古屋間の新幹線が計画運休するなどした。そこで今週は昨日まで猛暑の中を頑張って出掛けて、今日は休むことにした。ところが自宅周辺は雨風ともに大したことなく(というかほとんど雨も降らず)、何だという感じの一日だった。

 もう一回パリ五輪関係の記事を書いておきたい。今度は「スポーツウォッシング」(sportswashing)についてである。僕はこの言葉を今回初めて聞いたのだが、Wikipediaに項目があって2015年にアゼルバイジャンで行われたヨーロッパ選手権の時に初めて使われたという。ヨーロッパ選手権というのは「アジア大会」のヨーロッパ版で、そういうのがあるわけだ。

 日本では2023年11月に集英社新書から西村章スポーツウォッシング なぜ<勇気と感動>は利用されるのか』という本が出ていることが判った。西村章氏(1964~)は主に二輪ロードレースを取材してきたスポーツジャーナリストで、2010年に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞、2011年に第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞したと出ている。
(『スポーツウォッシング』)
 僕はその本を知らなかったが、内容を簡単に紹介すると、「「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」として、2020東京オリンピックの頃から日本でも注目され始めたスポーツウォッシング。スポーツはなぜ”悪事の洗濯”に利用されるのか。その歴史やメカニズムをひもとき、識者への取材を通して考察したところ、スポーツに対する我々の認識が類型的で旧態依然としていることが原因の一端だと見えてきた。洪水のように連日報じられるスポーツニュース。我々は知らないうちに”洗濯”の渦の中に巻き込まれている!」と書かれている。

 オリンピックやサッカーのワールドカップはあまりにも巨大な商業的イヴェントとなり、参加国のナショナリズム高揚のための仕組みになっているという批判はこれまでにもあった。競技数が増えすぎてオリンピックを開催できる国は限られて来ている。昔開催したことがあるストックホルムやヘルシンキ、アムステルダムなどではもはや難しい。アジア、アフリカの国々でも開催可能な都市は幾つもないだろう。そういう議論は前からあったと思うが、「悪事の洗濯」というのは新しい視点かなと思う。

 そもそもオリンピックは「アマチュア選手の祭典」として始まったわけだが、今は完全にプロ選手の争いになっている。もともと五輪競技だったサッカーなどはともかく、ゴルフやテニスなどプロ競技として確固たる存在感のある競技まで実施されるようになった。もっと大きな大会を転戦している選手たちにとって、オリンピックはどの程度の重みがあるのだろうか。(男子サッカーの場合、五輪では「23歳以下」という条件を付けている。)プロリーグがない競技でも、プロとなって活動してる選手が多くなった。
(スポーツウォッシングによって毀損されるもの)
 そうなると選手や競技団体も自分たちの生活がかかっている。政府は補助金を出して選手強化を図り、選手たちは「結果」を求められる。その結果(メダル)を獲得することで、国民は選手たちを「英雄」としてもてはやし、メディアも選手たちの動向を詳しく報道する。そのため、本来追求されるべき物事がなかったことにされる。東京やパリでもそういう部分がいっぱいあったが、北京の夏冬の五輪、あるいはソチ冬季五輪2018年のワールドカップロシア大会などはまさに「スポーツウォッシング」だった。

 そのことは忘れないようにしないといけないと思う。だが「スポーツウォッシング」だから「オリンピックは見ない」、「ナショナリズム高揚の装置」だから「ワールドカップは見ない」とまで言うと、僕はちょっとどうかなと思う。オリンピックほど巨大ではないかもしれないが、およそあらゆるスポーツ大会には似たような側面がある。プロ野球や高校野球も見ないのだろうか。それは単にスポーツ観戦に関心がないというだけなのではないのか。

 スポーツ以外の音楽、映画などでも巨大な市場が形成されている。これらの分野では作者の政治的主張を盛り込んだ作品も存在しているが、それはアート市場の片隅で許容されるだけだ。主にヒットしているものは(特に日本では)「現実逃避」的なものが多い。そして、そういう「大衆娯楽」的なものを一切拒否して生きることは不可能である。8月はマジメに戦争を考えるべき時で、戦争ドキュメント番組は見ても良いけど、他のテレビ番組は見ちゃいけないなんてことになったら、それこそ「戦前と同じ」である。

 僕はオリンピックを(見られる時間にやってる限りにおいて)見たけれど、それは他の番組より面白いからだ。世界最高レベルの選手の争いがナマでやってるんだから、面白くないはずがない。日本では団体球技の人気が高いが、サッカー、バレーボール、バスケットボールなど誰でも学校でやったことがある。卓球やバドミントンも同様だろう。ルールは少しずつ変わっていくが、基本は不変。これらの競技が全世界で行われているのは、要するに面白いのである。

 オリンピックは地上波テレビ放送で見た人が多いらしい。インターネットですべての競技が見られたが、ただスイッチを入れれば良いテレビの方が便利だ。そして付けるとアナウンサーや解説者が絶叫してたりしてうるさい。日本のスポーツ中継は概して騒音レベルである。だけど、僕は聞いてないから良いのである。コマーシャルと同様に耳が自動的にシャットアウトしてしまう。

 「スポーツウォッシング」という概念は、他分野にも応用出来る。例えば「万博」もウォッシング装置だろう。重要な考え方だが、オリンピックや他のスポーツ中継を面白いと思う人は、見れば良い。好きなものを見る自由は手放せない。
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ロシアの五輪復帰には時間が必要、ロシア「排除」は二重基準かーパリ五輪②

2024年08月14日 22時40分04秒 | 社会(世の中の出来事)
 パリ五輪では、「AIN」(中立国)という選手がいた。「個人資格の中立選手」として、ロシアとベラルーシからドーピングなどの条件をクリアーした選手が出場出来る仕組みである。15人出場してメダルは5個獲得したが、国別ランキングには登場しない。(獲得種目は金=トランポリン男子、銀=トランポリン女子、ローイング・男子シングルスカル、テニス女子ダブルス、銅=重量挙げ男子108キロ級。)出場選手が少なかったのは、ロシア国内で「参加するな」的な心理的圧力があったためだろう。具体的なことは判らないが、事実上プーチン政権や「特別軍事作戦」を支持するかどうかの「踏み絵」になったと思われる。ロシア国内ではテレビ放映もなかったとのことで、五輪の存在は消された。

 そんな中で、パリ五輪中のエピソードとして「北京冬季五輪のフィギュアスケート団体」のメダル授与式があった。元々は金=ROC銀=アメリカ銅=日本だった。ROCはロシアオリンピック委員会のこと。しかし、ロシアのワリエワ選手のドーピング問題で、金メダルは取り消された。そこで銀と銅が繰り上がることになり、パリで授与式が行われたわけである。日本チームはすでに引退した宇野昌磨はスイスのアイスショーと重なり不参加だったが、他の選手たちがパリに集まった。下の写真は毎日新聞社のサイトにあるものだが、余りに素晴らしいので使わせて貰った。(右から 坂本花織、樋口新葉、鍵山優真、木原龍一、三浦璃来、小松原美里さん、小松原尊=トロカデロ広場で2024年8月7日、玉城達郎撮影)

 ところで、ロシアが「排除」されたのに対し、イスラエルが参加出来たのは「二重基準」だという批判があった。(イスラエルは金=1、銀=5、銅=1の計7個のメダルを獲得。)ウクライナとガザで戦争が続く中で、国連安保理の米ロの対応は「二重基準」と言われても当然だろう。まあ「国益第一」という意味では、どっちも同じ基準というべきかもしれないが。その事は今までも書いてきたが、オリンピックの対応はどう考えるべきだろうか。しかし、そこで考えるべきことは「ロシアは東京五輪にも参加出来なかった」という事実だ。ロシア選手は確かに参加していた。ただし「ROC」として参加が許容されたのである。
(東京五輪ではROCとして入場)
 「二重基準」だと批判する人はそのことに触れない。ロシアは今までも「オリンピック精神に反する」行動が見られ、「ロシア」という国としては参加を認められていなかった。金メダルを獲得してもロシア国旗は掲げられず、国歌の代わりにチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」が流された。そのような経過を考えると、ロシアがウクライナに侵攻したまま通常の対応をすることはIOCとしても当然出来ないだろう。団体競技の予選にロシアの参加は認められず、従って参加資格を得られない。
(ロシアオリンピック委員会の旗)
 一方、イスラエルは当然のこととしてガザ戦争以前に団体競技予選に参加していた。男子サッカーのU21欧州選手権が2023年6月に行われ、イングランドが優勝、スペインが準優勝、イスラエルとウクライナが4強だった。(イスラエルはヨーロッパ協会所属である。)ヨーロッパ出場枠は開催国フランスを除き3か国で、スペイン、イスラエル、ウクライナに与えられた。(イングランドが出てないのは、「五輪加盟国」ではないということか。)このようにすでに獲得していた出場権は、スポーツ界内部の不祥事以外では取り消されないだろう。この参加を取り消さないのは「二重基準」なのか。

 イスラエルがガザでいかに非道なことをしていても、それを言い出せばそもそもはハマスのテロ攻撃をどう考えるべきかと反問されるだろう。ハマス幹部も戦争犯罪を犯したと国際刑事裁判所も認めている。ではパレスチナの参加も認めないのか。パレスチナはメダルには届かなかったものの8人の選手を派遣している。パレスチナの参加は当然だし、イスラエルの参加も選手の権利だと思う。一方、ロシアの選手はドーピング問題が完全解決しない限り、今後も参加は難しい。(ベラルーシの参加は認めるべきだろう。)

 ロシアのドーピングは軍や諜報機関、ひいては政権上層部が関わっていると思われる。世界中のすべての五輪選手は厳しいドーピング検査をクリアーして試合に臨んでいる。検体を国家機関が関わってすり替えてしまうなんてことをするのはロシアだけだろう。(いや、中国でも組織的ドーピングが行われているとアメリカは非難しているが、今のところ公式的には証明されていない。)2028年ロス五輪は米国開催だから、ロシアもアメリカも妥協しにくい。今後の開催国はイタリア(冬)、米国、フランス(冬)、オーストラリア、米国(冬)と「西側」主要国が連続する。ウクライナ戦争がいつ和平に至るか判断が難しいが、戦争が終わっていたとしても、ロシアはすぐには参加出来ないだろう。ロシア選手団の本格復帰までは相当の時間がかかると思う。
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タヒチ島と男子リレー予選問題ーパリ五輪①

2024年08月13日 22時55分10秒 | 社会(世の中の出来事)
 パリ五輪第33回夏季オリンピック競技大会)が7月26日~8月11日に行われた。終わってしまえばあっという間で、僕は見たり見なかったり。日本選手は金メダル20個を獲得し、米中に続く第3位となった。しかし、圧倒的にメダルに縁がなかった選手が多いわけだし、メダル数にこだわる気もない。最後にレスリングで大量に金メダルを取り「海外五輪史上最高」と言われるが、僕にはむしろ金メダル確実と言われながら一回戦で敗れた須崎優衣(女子レスリング)に、連覇の難しさを感じて感慨があった。

 足立区出身の女子レスリング68キロ級尾崎野之香は、一回戦をわずか32秒で「10対0」のテクニカルフォール勝ちして圧倒的に強さを印象付けた。しかし、2回戦では得意技を封じられ、キルギスのメーリム・ジュマナザロワに8対6で敗退した。この選手は決勝まで進出して銀メダルだった。その結果、尾崎選手は翌日の敗者復活戦に回ることが出来、勝ち進んで銅メダルを獲得した。須崎選手も結局銅メダルを獲得出来て(それまでの経過はいろいろとあったが)、まあ良かった。

 日本選手の話はいくらも出来るが、若い女子選手の名前が読めないなあと毎回感じる。読めないというか、漢字と合ってない読み方をさせるわけである。昔からそういう生徒は結構いたけれど。女子サッカー選手には、結構「○子」という名前の人が多いのが新鮮な感じ。男子自転車BMXフリースタイルの中村輪夢(りむ)とかセーリングの飯束潮吹(いいづか・しぶき)とか、命名から将来を予測させる名を付ける場合もある。ま、他人が口を挟む問題でもないだろうが。

 ところで、今回のパリ五輪であまり問われなかったことを書いておきたい。一つはサーフィンをタヒチ島で行ったことである。選手村が借り上げた豪華船だったこともあって、そういうのもありじゃない的な報道が多かったと思う。前回銀メダルの五十嵐カノア選手がメダルに届かず、サーフィンの報道は少なかった。しかし、タヒチ島はフランス領ポリネシアという植民地である。独立運動もあって、「国連非独立地域」に指定されている地域である。
(サーフィンの選手村)
 さらに「フランス領ポリネシア」というと、フランスが核実験を行ったムルロア環礁が含まれている。隣接地域と言っても良い。ちょうど8月にやってる五輪なのに、日本のメディアが全くそこに触れないのが不思議だ。フランスは植民地の独立が遅れていて、ニューカレドニアで問題化しているのは周知のこと。世界で今もこれほど植民地を保有している国はない。国内でも植民地主義の清算が遅れている。僕にはタヒチで五輪をやるのは無神経に見える。内陸のパリじゃ出来ないが、東京五輪では千葉県だったようにノルマンディーなど本国で可能な場所はいくらでもあるだろう。(ムルロア環礁はツアモク諸島南部にある。)
 (タヒチの地図)
 もう一つ、陸上男子400メートルリレー(100×4リレー)の予選結果を見て、これは何だと思った。全体的に柔道団体や男子バスケットボールの日本・フランス戦など、これはどうもと思う審判の判断が見られた。しかし、陸上のリレー予選ほど極端な「フランス有利」はないと思う。まず、予選は2組に分かれ、各組上位3チームは順位で決勝に進出する。残り2チームはタイム順で上位2チームが進出する。では、予選の順番を見てみたい。(下線=決勝進出)

 予選A組 ①米国南アフリカ英国日本イタリア⑥オーストラリア⑦ナイジェリア(38秒20)⑧オランダ(38秒48)
 予選B組 ①中国38秒24)②フランス(38秒34)③カナダ④ジャマイカ⑤ドイツ⑥ブラジル⑦リベリア 失格=ガーナ

 ジャマイカにバトンミスがあり、決勝進出出来なかったのは予想外だろう。それにしても、予選B組トップの中国ですら、A組なら8位である。まあ周囲を見て、タイムをセーブしたのかもしれないが。純粋にタイム順で選ぶなら、フランスは9位だから入らなかった。日本はタイムで救われたが、オーストラリア、ナイジェリアはタイムで中国を上回ったのに予選敗退となったのである。
(男子400メートルリレー決勝)
 決勝の結果は、①カナダ(37秒50)②南アフリカ③英国④イタリア⑤日本(37秒78)⑥フランス⑦中国 失格=米国
 何とアメリカが失格してしまい、B組3位だったカナダが優勝という意外すぎる結果になった。それにしても、2~5位は予選A組からだった。アメリカが失格しなければ、当然上位だっただろう。開催国がシードされるのはあり得ることかも知れないが、これはちょっと極端過ぎるのではないか。
 
 400メートルリレーほど極端ではないけれど、1600メートル(400×4)リレーも似たような感じ。
 予選A組 ①ボツワナ英国米国日本(2分59秒48)⑤ザンビア(3分00秒08)⑥ドイツ⑦ポーランド⑧トリニダード・トバゴ
 予選B組 ①フランス(2分59秒53)②ベルギーイタリア④インド⑤ブラジル⑥スペイン⑦南アフリカ 失格=ナイジェリア

 フランスは予選A組4位の日本より遅いタイムなのに、B組1位になったのである。何でこうなるの的な疑問を感じないか。なお、南アフリカは予選最下位なのに、審判判断で決勝進出となった。詳細は知らないが、何か理由があったのだろう。
 結局、決勝はどうなったか?
 ①米国②ボツワナ③英国④ベルギー⑤南アフリカ⑥日本⑦イタリア⑧ザンビア⑨フランス

 何だかこの組分けには、フランスへの「忖度」を感じずにいられない。どうも不可解だし、フランスってこういうことをするんだとつい思ってしまうんだが。
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MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?

2024年06月23日 22時19分37秒 | 社会(世の中の出来事)
 人気バンド「Mrs. GREEN APPLE」(ミセス・グリーン・アップル)の新曲「コロンブス」のミュージック・ビデオが公開停止になった問題。僕はそのバンドは名前ぐらいしか知らないから、特に関心がなかった。(ちなみに音楽ではどんどん新しいものが登場する。高齢になるといちいち追いかけるのが面倒になって、自分の若い頃の音楽以外関心が薄くなる。今の若者もそうなるに違いない。)ただ、その批判の方向性に違和感を持ったので指摘しておきたいと思った。

 そのビデオは「コロンブスらを模したメンバーが、訪れた島で類人猿に車をひかせたり、西洋音楽を教えたりする」(朝日新聞、6.19)という。「人種差別的で、植民地支配を容認する表現と批判されても仕方がない」と一橋大学の貴堂嘉之(きどう・よしゆき)教授は記事の中で指摘している。僕はビデオを見てないけど、その内容なら批判されるのは当然だと思う。記事の見出しは「コロンブス 変わる評価」「専門家 歴史学ぶ必要」である。東京新聞の記事でも、見出しは「教養欠落 日本の現在地」とある。その記事によれば、英BBC放送(電子版)は「関わった人に世界史を学んだ人はいなかったのか?」と書いたという。
(MV「コロンブス」)
 確かに「教養不足」や「歴史学ぶ必要」はあるだろう。だけど、関係者の誰かが「今どきコロンブスを取り上げたら、炎上するかもしれませんよ」と知ってれば良かったのだろうか。もちろん事前に止められなかったことは問題だけど、コロンブスが炎上案件だと知って取り上げなければそれで良いのか。「炎上しそうなものは敬遠すべきだ」が正解なんだろうか。それでは「炎上する」「批判される」ことを避けることこそ、一番の「営業方針」だということになってしまう。
(Mrs. GREEN APPLE)
 今回の問題は「炎上」したことではなく、「植民地支配を正当化している(と解されてもやむを得ない)」ものだったことにある。「Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて」(2024.6.13)によると、「類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりました」が、「類人猿を人に見立てたなどの意図は全く無く、ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをするというイメージをしておりました。」「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでしたが、上記のキーワードが意図と異なる形で線で繋がった時に何を連想させるのか、あらゆる可能性を指摘して別軸の案まで至らなかった我々の配慮不足が何よりの原因です。」

 しかし、「コロンブス」「ナポレオン」「ベートーベン」がホーム・パーティをするという趣向自体、「西欧の偉人」しか出て来ない。日本の音楽バンドがなぜそういう発想になるのかという問題がある。そこに「類人猿」まで出て来るというのだから、この紋切型の発想を見ると、誰か関係者の中に「秘められた差別的意図」があったのかとさえ思う。そう思われてもやむを得ないのではないか。そうとでも考えないと、これほどの「連想アイテム」満載になるとは思えない。

 ところで、ちょっとだけ書いておくが、今「コロンブス」と書いてきたけど、本当はこの表記自体に問題がある。クリストファー・コロンブス(1451~1506)は、もうその表記で定着しているから、日本の教科書にも一応そう出ていると思う。しかし、ジェノヴァ共和国(今のイタリア)生まれだから要するにイタリア人で、本来は「コロンボ」である。しかし、そのままでは大航海に乗り出せない。結局スペイン王室の援助で航海に行ったわけである。スペインでの名前は「クリストバル・コロン」だった。今は「コロン」という表記を採用するべきだと思う。

 それとともに、よく「アメリカ大陸の発見」とか「新大陸到達」というが、コロンは生涯を通してアメリカ大陸には一度も行ってない。彼が着いたのはいくつかの島で、至る所で略奪を繰り広げながら最終的に砦を築いたのはイスパニョーラ島である。(自らそう命名した。)現在東にドミニカ、西にハイチがある島である。(世界で23番目に大きな島。)25万人の先住民がいたとされるが、スペイン支配のもとで「絶滅」するに至る。コロンは「インド」に着いたと信じたが、「アメリカ大陸」でさえなかった。

 それはともかく、「コロンブス」を取り上げるならば、今だからという問題ではなく、「征服された側」から描く必要がある。もちろん『関心領域』のように、あえてナチ官僚の目から徹底して見ていくという方法はある。「批評意識」があれば、それでも良いのである。つまり、「コロンブスを避ける」のではなく、「コロンを批評する」のである。そういう内容なら、「炎上」したとしても、それは正しい方向の炎上である。誰にも批判されないものを作るならアーティストではない

 世界各地で多くの「影響力を持つ人々」(インフルエンサー)がガザ地球環境性的マイノリティ問題などに自分の考えを公表している。アメリカやフランスでは、大統領選挙や国会議員選挙に対して、自分の考えを明らかにしている。日本ではそういう人がほとんどいない。これほど日本社会が行き詰まった原因の一つは、「言うべきことを言わない」人が多すぎたことにあるんじゃないか。「教養」や「世界史の知識」はそれだけあっても意味がない。ちゃんと行動が伴ってこそ、真の「教養」だ。
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「TKB48」を知ってますか?ーより良い避難生活を目指して

2024年05月03日 20時50分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2024年は能登半島地震で年が明けたが、その後も台湾地震など大きな地震が起こった。四国(愛媛県南部)でも初めて震度6弱を記録する地震が起きた(4月17日)。死者が出なかったのは幸いだが、その分「激甚災害」の指定はない見込みで、被害があった人は自費で修理しないといけないから大変だという。激甚災害とは「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」により、大規模災害には国庫補助率のかさ上げや国による特別の貸し付けなどが行われる制度である。

 能登半島地震から4ヶ月経ったが、未だ避難所生活を送っている人が相当いる。水道の復旧が特に遅れていると言われる。それに当初の避難所生活は、トイレや食事が大変だったという話がよく聞かれた。「半島部」は交通が不便で、日本は地理的に離島、山間部、半島が多く、ある意味災害時は「そんなもの」で皆でガマンするべきものだと思い込んでいるかもしれない。
(TKBとは)
 ところが最近「TKB48」という言葉を聞いてビックリした。どうしても最初はどこかのアイドルグループかなと思ってしまう。あてはまる町の名前が思いつかないが、JKT48(ジャカルタ)なんてのもあるから、海外の町なのかなと思ったり…。だけど、これはトイレキッチンベッドの略なのである。災害地にトイレ、キッチン、ベッドを48時間以内に整備しようという目標である。それは行政頼りでは出来ない。もともと準備されていて、いざというときはヴォランティアが活動するのである。

 英語だからアメリカ発祥かと思うと、どうやらイタリアから始まったらしい。イタリアも地震大国で、大きな地震が何度もあったのを僕も記憶している。最初の避難所立ち上げは、市民がヴォランティア的に行うものとなっていて、行政が大々的な支援を行えるようになる前に一定の市民生活を送れるようにするのである。それは「災害時であっても、市民が普段営んでいる生活を保障する」という市民社会保護の考え方だという。
(災害時の高齢者向け介護施設)
 僕は聞いたことがなかったけど、日本でも多くの施設などでこの理念が広がりつつあるようだ。日本では二次避難、あるいは仮設住宅が出来るまで、雑魚寝したりするのが当然視されていないか。温かくないままの食事が続いても、あるだけありがたいと思ってないか。特にトイレが困ったという話をよく聞くが、それを「人権」の問題として意識しているだろうか。こう考えていくと、日本の避難生活が全く世界基準に達していないことが理解出来る。

 TKB48という言葉をもっともっと広める必要がある。知らない人も多いと思うから、是非広めていきたい。僕も最近聞いたばかりだが、福祉や行政の現場では知られているのかもしれない。だけど、一般的にはまだ知らない人の方が多いと思う。AKB48に似ているから、一度聞いたら忘れないだろう。もちろん言葉を知ることが目的ではなく、いざという時に自分も出来る範囲でヴォランティア的に避難所運営に関わるという気持ちが大切だと思う。仮設住宅を作るのは一市民では無理だが、避難所をすぐに作って運営するのは可能である。もちろん誰でも安心できるベッドやトイレが絶対に必要だ。
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鹿児島、松山、徳島、松江…、「第三の町」は?②選定編

2024年01月18日 22時51分46秒 | 社会(世の中の出来事)
 ニューヨークタイムズ選定「行くべき都市」に選ばれるべき「第三の町」はどこだろう? ということを前回に検討して、県庁所在地城下町、(出来れば)九州か四国、ただし政令指定都市は除くという条件を考えた。北海道の魅力は「日本情緒」じゃないところにあるから、ここでは除いて考えたい。というところまで、前回条件を絞った。

 この条件で考えてみると、四国は4県の県庁所在地、高松、徳島、松山、高知がすべて城下町である。(全部、百名城。)そもそも四国の場合、昔の国名が県名になっていないけど県境自体は同じである。旧国名の讃岐、阿波、伊予、土佐は、今もよく使われている。旧国の独自性が強い、ちょっと特別な地域である。九州では、鹿児島佐賀大分が城下町で、いずれの城も百名城になっている。長崎と宮崎は城下町ではなく、福岡と熊本は政令指定都市。

 さて、ここからどこを選ぶかなかなか難しいのだが、「日本情緒」とちょっと違うかもしれないけど、ストーリー性から鹿児島市をまず選んでみた。要するにアメリカ人の相当ディープな観光客向けの話である。南北戦争とほぼ同じ時代に、事実上の独立王国サツマの首都だった鹿児島は、イギリスと抵抗戦争を戦い、その10数年後には中央政府に立ち向かい兵を挙げた。そんな地域は他になく、「日本のディープサウス」(深南部)とでも呼ぶべき地域ではないか。
(鹿児島市の仙巌園)
 上記画像はまるで「富士山と五重塔」だけど、実は島津氏が作った大名庭園、仙巌園(せんがんえん)である。桜島を借景にして、実に雄大。そしてそこには反射炉も作られ、世界遺産にもなっている。庭園として素晴らしく、国の名勝に指定されている。そして鹿児島は活火山を背景にした世界にも珍しい大都市で、下記画像を見れば判るように「日本のナポリ」と呼んで遜色ない。日本人はどうしても、長州、薩摩というと幕末維新を思い出すわけだが、今回の山口選定も別に維新とか関係なかった。
(鹿児島)(ナポリとヴェスヴィオ火山)
 歴史や飲食文化の独自性も高い地域で、興味深い。フロリダ州がキューバと関係が深いように、サツマは昔琉球を支配していた。日本の大部分のところでは、「サケ」と言えば「ライスワイン」が出て来る。しかし、サツマとリュウキュウでは「ショウチュウ」と呼ばれるジャパニーズ・ウォッカを「サケ」と呼ぶのである、などなど。ちょっと面白いストーリーを書けそうだ。

 四国ではどこも面白いので、「シコク・エリア」としてまとめるというやり方もある。個別都市としてみれば、まずは「松山城」と「道後温泉本館」のある松山か。愛媛県には宇和島、今治、大洲など興味深い城下町が多い。だが、やはり観光地としては県庁所在地の松山か。ここはノーベル賞作家ケンザブロー・オオエが学んだ町で、『北京の55日』の国際的俳優にして、ラーメンをテーマにしたカルト・ムーヴィー『タンポポ』の監督ジューゾー・イタミと知り合い、オオエはイタミの妹と結婚した。まあ、正岡子規と夏目漱石では外国人には縁が薄いかなと思って、現代の話を。
(松山城)(道後温泉本館)
 しかし、日本人には鹿児島や松山はかなり観光地として知られた町である。そこで徳島を選べば、盛岡、山口並みの意外感が出て来る。ここは町の真ん中に眉山(びざん)という山があって、ロープウェイがある。県庁所在地としては珍しいだろう。そこからの夜景は函館や長崎ほど知られていないが、十分に行くべき価値がある。阿波国分寺庭園という興味深い建造物がある庭園もある。そして夏にはリオのカーニヴァルに匹敵する大規模なストリートダンス・フェスティヴァルが開かれることでも有名。
(眉山からの夜景)(阿波国分寺庭園)(阿波踊り)
 ところで、同じ中国地方から続くとは考えにくいが、町そのものとしては僕は松江が捨てがたいと思っている。松江城武家屋敷があり、ラフカディオ・ハーンという興味深い人物が住んでいた。日本的ムードでは盛岡や山口をしのいでいる。
(松江城)(武家屋敷)
 ということで4つ選んでみたが、何も県庁所在地に限らないとすれば、他にいろいろある。弘前、鶴岡、会津若松、松本、福山などである。今回は抜いたのだが、沖縄県の那覇だって「城下町」と言えないことはない。また「エリア」として考えるという手もある。僕は「信州エリア」や「琵琶湖エリア」は大きな可能性があると思う。長野県は城下町や宿場町、門前町に古い情緒が残っている。有名な城も多い。一方で現代的な宿泊施設も多い。山岳景観そのものはカナディアン・ロッキーやアルプスに及ばないかもしれないが、日本情緒を加えれば十分健闘出来る。

 また琵琶湖エリア、つまり滋賀県だが、京都や奈良の大きな寺とは違う、民衆に根付いた小さな寺がたくさんある。彦根城も素晴らしいが、むしろ安土城、小谷城(浅井氏)、観音寺城(六角氏)、佐和山城(石田三成)、坂本城(明智光秀)など、「廃城」がたくさんある。そういうところに歴史ロマンを感じる人には魅力的だ。ニンジャの甲賀、焼き物の信楽などもあり、京都や奈良の近くなのに、ちょっと違った日本の姿を見られる。

 他にも離島、つまり佐渡や隠岐などという選定もあるかもしれないが、むしろ大穴は釧路じゃないか。やはりサマー・ヴァケイションを利用して日本旅行をする人が多いだろう。トーキョーもキョートも今や猛暑である。山口も暑い。九州や四国も暑いのである。だが多分暑くない、というかほとんど寒い地域が道東地域なのだ。20度を切る日も結構ある。日本有数の漁港で、美味しいシーフードに恵まれている。近くには釧路湿原国立公園、阿寒摩周国立公園に加え、近年「厚岸霧多布昆布森国定公園」が指定された。「あっけし・きりたっぷ・こんぶもり」である。ちょっと遠出して根室の東端に至れば、今やアメリカ人が観光に行けないロシア支配地の東端を望める。暑い地域を見た後、最後に釧路へ行くという選択こそ賢いかもしれない。
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