震災時の虐殺事件第2回。今回は中国人虐殺事件。これも余り知られていない。仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』(青木書店)が震災70周年の1993年に出ていたが、その本は読んでなかった。仁木ふみ子(1928~2010)は、大分県の高校教師から日教組の婦人部長を務めた人。中国語ができるらしく上海で労働運動を調べていて事件を知った。そして、外交資料館をあたりながら、現場の江東区大島(おおじま)に住んで調査を続けた。
仁木さんの本を読むまでに、中国人が多数虐殺されたこと、中国人の代表王希天が虐殺されたことは知っていた。しかし、問題を本質をきちんと理解していなかった。それまでは震災の混乱の中で「自警団」による「朝鮮人虐殺」が起こり、排外的民衆によるアジアへの蔑視から中国人虐殺も起きたと思っていた。また、誰が虐殺されたかなど特定できないだろうと思っていた。ところで驚くべし、名前が判っていたのである。もちろん全員ではないが、大島で虐殺された人々はかなり名が判るのだ。前記著書に資料として、500人強の名が列挙されている。
いまや、朝鮮人虐殺と中国人虐殺と日本人(沖縄県民を含む)虐殺という3つの集団虐殺があり、また大杉栄(ら)と南葛労働運動家(亀戸事件)と王希天の3つの社会運動家の虐殺と多くの未遂事件があったと言うべきだ。大島にいた中国人虐殺事件と王希天虐殺事件は、関わりはありながらも別の事件なのである。そのことにも驚くが、この事件に関しては日本政府の隠ぺい工作が完全に解明されている。それほどの事件なのに、まだまだ知られていると言えないのも驚きである。
当時の「外国人労働者」はどうなっていたのか。朝鮮は植民地だから、総督府の圧制で日本に労働力として流入したのは判る。一方、中国は独立国。当時中国人労働者、というか外国人労働者は原則自由だったのだ。日本はカリフォルニアの日本移民排斥を人種差別と批判していた。日本商人が中国へ行けるようにするためにも、相互主義で中国人も自由だった。しかし、日本まで集団で働きにくる外国人は、中国南部から世界に出て行った「華僑」しかいない。
このとき来ていたのはほとんど浙江省温州(うんしゅう。上海の南方)から来た人々だった。伝手をたよって同郷の人々がやってきて、東京市内に住めず(留学生以外は禁止だったらしい)、府下の南葛飾郡大島町に集住していた。(東京府東京市が15区だった時代。)この地帯は川(運河)が縦横に走り、当時は船便をいかして産業革命の先端だった。中国人労働者は工場で石炭の荷下ろしなどの肉体労働をしていた。不況になると日本人労働者と競合し、衝突事件も多数起こっていた。政府は23年になると労働禁止職を指定し、退去命令を出したり、「上陸時の見せ金制度」を作った。その時の退去労働者の名まで、現在判るのである。こうして政府は中国人労働者の制限政策へ代わった。
突然退去命令が出されては労働者が困る。賃金の不払いや雇い主の暴力など多くの問題を見かねて、労働者の町大島の真ん中に、1922年9月に僑日共済会を設立したのが王希天である。王は1896年に東北の長春で生まれ、1915年の悪名高い「21か条要求」の年に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と日本に留学した。その後学生運動のリーダーとなり、1919年の五四運動の時は東京で運動に参加、田中義一陸相に招待されて会ったが節を曲げず、以来警視庁の尾行がついていた。日本でキリスト教に入信し、留学生や日本のキリスト教関係者(特に救世軍の山室軍平)、社会運動家に大きな信望があった。共済会は中国人の救済のため多くの会社に掛け合い、王希天は地元の労働ブローカーに憎まれ、亀戸署にも目を付けられていた。
(現在の中国で「革命烈士」となった王希天)
9月1日当日、大島には60数軒の中国人宿舎があり、千数百人の中国人がいた。亀戸、大島は全焼はしないが、工場には類焼したものも多い。深川方面からの避難者が多数いて中川土手で野宿していた。2日、戒厳令が出て、軍隊が展開する。(総武線の北は近衛師団習志野騎兵連隊、南は第一師団野戦銃砲連隊。)3日、軍隊が大島を取り囲み、朝から虐殺を開始した。昼頃が一番ひどく、国へ帰してやると言い174名を連れ出し、広場で軍を中心に警察、民衆と共に虐殺した。生き残りが1人いたのである。(現在の都営地下鉄新宿線東大島駅前付近。)現地の警察、民衆も加担しているので、中国人と朝鮮人の誤認はありえない。
中国人がいなくなった住居は民衆に略奪された。何の事はない、「朝鮮人暴動」ではなく、日本人が略奪したのである。この「民衆」とは誰か? 薪割り、とび口、日本刀を持ってきて虐殺した人々は誰か。地元民は顔見知りで、そこまでできない。近くの町の日本人労働ブローカー、すなわち「手配師」、その暴力組織員たちであろうというのが仁木説である。これは現在の山谷などの状況を見るとうなづける。彼らは以前から中国人労働者と衝突を繰り返していた。
政府はこの事件の隠蔽を決め、刑事を派遣して住民を黙らせ、報道を規制した。朝鮮人の場合は「自警団の暴走」として多少の裁判を行なったが、中国人のこの事件は全く隠された。政府内部にもその方針に批判的だった者がいた。その人が中国の要求など関連文書を、目立たぬように分散して保管した。60年以上後に、仁木さんが発見できたのは、そのためである。
(細かい話になるが、隠す方針を決めた実務者は臨時震災救護事務局警備部だという。その委員は内務省警保局長後藤文夫、陸軍省軍務局長畑英太郎、海軍省軍務局長大角岑生、外務省情報局長広田弘毅、陸軍少将阿部信行らである。昭和史に関心を持つ人なら、知ってる名前が多いはず。将来の首相、内相、海相らがよってたかって隠蔽したのである。なお、畑英太郎は、元帥畑俊六の兄で、宇垣陸相時代の陸軍次官。1930年に死亡したが、やはり大物。)
一方、王希天は神田に住んでいて、まずは留学生の救援にあたっていた。大島に入ったのは9日で、だから中国人労働者虐殺とは全く別なのである。大島に来て虐殺を知り、死体の身元を調べていた王は、9日夕に亀戸署に連行され、以後行方不明となる。中国政府からの調査依頼にも、一貫して行方不明で押し通した。政府はご丁寧にも各道府県に「行方不明人調査」の通牒を出し、真に受けて捜査して「該当人は立ち寄った形跡なし」と回答した県もあるという。
もちろん政府は真相を知っていたが、隠ぺいしていたのである。その真相が解明されたのは、当時の兵士が必死に守った日記(渋を塗って腹巻に隠して常時持ち歩き、没収と検閲を免れた)を、死ぬ前に王の遺族に伝えたいと半世紀を経て公開したからである。当時、朝鮮人、中国人は千葉県習志野の俘虜収容所に収容して「保護」する方針だったが、12日に習志野へ行くといって連れ出された王希天は、事実上の軍命令で逆井橋(中川にかかる橋。首都高小松川線の下の所)に来た所で虐殺されたのである。亀戸署管内の活動家として目をつけられていて、公然たる国家テロにあったと理解すべきだ。(狭義の「中国人虐殺事件」ではない。)
この王希天という人物は、まだ27歳という若さだったが、当時の証言を見ると、相当の人物である。被害者の現地温州を調査した仁木氏によれば、今も王の活躍は語り伝えられている。生きていれば世界史的重要人物となったことは疑いない。王は中国で周恩来の同窓だったことがあり、日本に留学する周に影響を与えた。東京で一緒に撮った写真もあるのである。パリに留学した周とも文通が続いていたらしい。王は出身地の東北に妻子があり、遺児は文化大革命中、(王家は富商の出身だったらしいが)周恩来の保護で生き延びた。また、東北出身のため張学良の友人で、学良からは日本政府に問い合わせがあった。王希天は周恩来と張学良の友人だったのである。
「関東大震災で虐殺された中国人を追悼する会」は、現在虐殺の犠牲者のほとんどを出した温州の奥地の山地に、教育援助をする「中国山地教育を支援する会」として続いている。歴史の検証から国際協力へ。日本のNPOの歩みの一つのあり方かなと思う。(この事件に関しては、岩波現代文庫に、田原洋『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』(2014)がある。原著は1982年に出た本だというが、未読。)
仁木さんの本を読むまでに、中国人が多数虐殺されたこと、中国人の代表王希天が虐殺されたことは知っていた。しかし、問題を本質をきちんと理解していなかった。それまでは震災の混乱の中で「自警団」による「朝鮮人虐殺」が起こり、排外的民衆によるアジアへの蔑視から中国人虐殺も起きたと思っていた。また、誰が虐殺されたかなど特定できないだろうと思っていた。ところで驚くべし、名前が判っていたのである。もちろん全員ではないが、大島で虐殺された人々はかなり名が判るのだ。前記著書に資料として、500人強の名が列挙されている。
いまや、朝鮮人虐殺と中国人虐殺と日本人(沖縄県民を含む)虐殺という3つの集団虐殺があり、また大杉栄(ら)と南葛労働運動家(亀戸事件)と王希天の3つの社会運動家の虐殺と多くの未遂事件があったと言うべきだ。大島にいた中国人虐殺事件と王希天虐殺事件は、関わりはありながらも別の事件なのである。そのことにも驚くが、この事件に関しては日本政府の隠ぺい工作が完全に解明されている。それほどの事件なのに、まだまだ知られていると言えないのも驚きである。
当時の「外国人労働者」はどうなっていたのか。朝鮮は植民地だから、総督府の圧制で日本に労働力として流入したのは判る。一方、中国は独立国。当時中国人労働者、というか外国人労働者は原則自由だったのだ。日本はカリフォルニアの日本移民排斥を人種差別と批判していた。日本商人が中国へ行けるようにするためにも、相互主義で中国人も自由だった。しかし、日本まで集団で働きにくる外国人は、中国南部から世界に出て行った「華僑」しかいない。
このとき来ていたのはほとんど浙江省温州(うんしゅう。上海の南方)から来た人々だった。伝手をたよって同郷の人々がやってきて、東京市内に住めず(留学生以外は禁止だったらしい)、府下の南葛飾郡大島町に集住していた。(東京府東京市が15区だった時代。)この地帯は川(運河)が縦横に走り、当時は船便をいかして産業革命の先端だった。中国人労働者は工場で石炭の荷下ろしなどの肉体労働をしていた。不況になると日本人労働者と競合し、衝突事件も多数起こっていた。政府は23年になると労働禁止職を指定し、退去命令を出したり、「上陸時の見せ金制度」を作った。その時の退去労働者の名まで、現在判るのである。こうして政府は中国人労働者の制限政策へ代わった。
突然退去命令が出されては労働者が困る。賃金の不払いや雇い主の暴力など多くの問題を見かねて、労働者の町大島の真ん中に、1922年9月に僑日共済会を設立したのが王希天である。王は1896年に東北の長春で生まれ、1915年の悪名高い「21か条要求」の年に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と日本に留学した。その後学生運動のリーダーとなり、1919年の五四運動の時は東京で運動に参加、田中義一陸相に招待されて会ったが節を曲げず、以来警視庁の尾行がついていた。日本でキリスト教に入信し、留学生や日本のキリスト教関係者(特に救世軍の山室軍平)、社会運動家に大きな信望があった。共済会は中国人の救済のため多くの会社に掛け合い、王希天は地元の労働ブローカーに憎まれ、亀戸署にも目を付けられていた。
(現在の中国で「革命烈士」となった王希天)
9月1日当日、大島には60数軒の中国人宿舎があり、千数百人の中国人がいた。亀戸、大島は全焼はしないが、工場には類焼したものも多い。深川方面からの避難者が多数いて中川土手で野宿していた。2日、戒厳令が出て、軍隊が展開する。(総武線の北は近衛師団習志野騎兵連隊、南は第一師団野戦銃砲連隊。)3日、軍隊が大島を取り囲み、朝から虐殺を開始した。昼頃が一番ひどく、国へ帰してやると言い174名を連れ出し、広場で軍を中心に警察、民衆と共に虐殺した。生き残りが1人いたのである。(現在の都営地下鉄新宿線東大島駅前付近。)現地の警察、民衆も加担しているので、中国人と朝鮮人の誤認はありえない。
中国人がいなくなった住居は民衆に略奪された。何の事はない、「朝鮮人暴動」ではなく、日本人が略奪したのである。この「民衆」とは誰か? 薪割り、とび口、日本刀を持ってきて虐殺した人々は誰か。地元民は顔見知りで、そこまでできない。近くの町の日本人労働ブローカー、すなわち「手配師」、その暴力組織員たちであろうというのが仁木説である。これは現在の山谷などの状況を見るとうなづける。彼らは以前から中国人労働者と衝突を繰り返していた。
政府はこの事件の隠蔽を決め、刑事を派遣して住民を黙らせ、報道を規制した。朝鮮人の場合は「自警団の暴走」として多少の裁判を行なったが、中国人のこの事件は全く隠された。政府内部にもその方針に批判的だった者がいた。その人が中国の要求など関連文書を、目立たぬように分散して保管した。60年以上後に、仁木さんが発見できたのは、そのためである。
(細かい話になるが、隠す方針を決めた実務者は臨時震災救護事務局警備部だという。その委員は内務省警保局長後藤文夫、陸軍省軍務局長畑英太郎、海軍省軍務局長大角岑生、外務省情報局長広田弘毅、陸軍少将阿部信行らである。昭和史に関心を持つ人なら、知ってる名前が多いはず。将来の首相、内相、海相らがよってたかって隠蔽したのである。なお、畑英太郎は、元帥畑俊六の兄で、宇垣陸相時代の陸軍次官。1930年に死亡したが、やはり大物。)
一方、王希天は神田に住んでいて、まずは留学生の救援にあたっていた。大島に入ったのは9日で、だから中国人労働者虐殺とは全く別なのである。大島に来て虐殺を知り、死体の身元を調べていた王は、9日夕に亀戸署に連行され、以後行方不明となる。中国政府からの調査依頼にも、一貫して行方不明で押し通した。政府はご丁寧にも各道府県に「行方不明人調査」の通牒を出し、真に受けて捜査して「該当人は立ち寄った形跡なし」と回答した県もあるという。
もちろん政府は真相を知っていたが、隠ぺいしていたのである。その真相が解明されたのは、当時の兵士が必死に守った日記(渋を塗って腹巻に隠して常時持ち歩き、没収と検閲を免れた)を、死ぬ前に王の遺族に伝えたいと半世紀を経て公開したからである。当時、朝鮮人、中国人は千葉県習志野の俘虜収容所に収容して「保護」する方針だったが、12日に習志野へ行くといって連れ出された王希天は、事実上の軍命令で逆井橋(中川にかかる橋。首都高小松川線の下の所)に来た所で虐殺されたのである。亀戸署管内の活動家として目をつけられていて、公然たる国家テロにあったと理解すべきだ。(狭義の「中国人虐殺事件」ではない。)
この王希天という人物は、まだ27歳という若さだったが、当時の証言を見ると、相当の人物である。被害者の現地温州を調査した仁木氏によれば、今も王の活躍は語り伝えられている。生きていれば世界史的重要人物となったことは疑いない。王は中国で周恩来の同窓だったことがあり、日本に留学する周に影響を与えた。東京で一緒に撮った写真もあるのである。パリに留学した周とも文通が続いていたらしい。王は出身地の東北に妻子があり、遺児は文化大革命中、(王家は富商の出身だったらしいが)周恩来の保護で生き延びた。また、東北出身のため張学良の友人で、学良からは日本政府に問い合わせがあった。王希天は周恩来と張学良の友人だったのである。
「関東大震災で虐殺された中国人を追悼する会」は、現在虐殺の犠牲者のほとんどを出した温州の奥地の山地に、教育援助をする「中国山地教育を支援する会」として続いている。歴史の検証から国際協力へ。日本のNPOの歩みの一つのあり方かなと思う。(この事件に関しては、岩波現代文庫に、田原洋『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』(2014)がある。原著は1982年に出た本だというが、未読。)