尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

荻外(てきがい)荘と大田黒公園ー近衛文麿旧居と杉並の名園

2024年12月13日 21時32分02秒 | 東京関東散歩

 昭和戦中期の首相近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891~1945)の旧居「荻外荘」(てきがいそう)の修復が終わり、今週から一般公開された。ここは国の史跡に指定されているが、近現代の指定は非常に珍しい。特に政治家関連の史跡は非常に貴重だ。荻窪駅(JR中央線、地下鉄丸ノ内線)から徒歩15分ほどで、途中に大田黒公園角川庭園があるので、格好の散歩道。荻外荘は隣接する荻外荘公園から眺めるのは無料だが、中を見るなら300円。水曜休。喫茶室もある。

   

 荻窪駅南口から歩き出す。方向の案内板は充実しているが、道が複雑なのでスマホのナビを使う方がいいかもしれない。駅から一番近い太田黒公園に行き着けば、そこにパンフが置いてある。荻外荘そのものはどこから入るのか迷ったけれど、まずは隣の公園に行って家を見てみる。平屋建ての和風建築で、もとは1927年に建てられた。築地本願寺で有名な建築家伊東忠太の設計である。大正天皇の侍医頭だった入澤達吉の別荘として建てられたもので、1937年に近衛が入手したという。

   

 荻外荘入口には今も「近衛」という表札が掛かっている。近くから見ると、上のような感じ。荻外荘の名前は元老西園寺公望の命名である。玄関には西園寺が書いた額が掛かっていた。近衛は目白に本邸があったが、富士山も望める荻窪が気に入って、入手後はほとんどここにいたという。1932年の東京市拡大(35区)によって荻窪はすでに東京市内だったけれど、実感としては郊外の別荘だろう。しかし甲州街道に近く、車で行動出来る近衛には案外便利な場所だったんだろうと思う。

 (玄関)(中国風応接間)

 中に入ると、玄関の方から見ることになる。中国風とされる椅子の応接間もあるが、もう一つ和風の応接間が「荻窪会談」が行われた部屋である。1940年7月19日、次期首相に決定していた近衛が自邸に陸海外の大臣候補を呼んで行った会談である。下の写真左から近衛松岡洋右吉田善吾東条英機。第2次政権発足(7月22日)直前で、吉田は現職の海軍大臣。松岡、東条は時期外相、陸相に予定されていた。ドイツ「電撃戦」を受け、会談では日独伊枢軸強化、日ソ不可侵協定などの方針を決めた。

(応接間)(荻窪会談)

 どうも「杉並に偉人が住んでいて、日本政治の重要な会談が行われた」的な紹介をしている気がするが、今書いたように「日本の歴史を誤らせた」場なのである。「負の歴史遺産」であることを忘れてはいけない。日中戦争拡大の直接的責任者であり、政治的責任は大きい。また敗戦後に戦犯指定を受けて、1945年12月16日に服毒自殺したのも荻外荘。しかし、そのことはほとんど触れられていない。戦後は一時吉田茂が住んでいたこともあるが、その後応接室などは巣鴨の天理教東京教務支庁に移転されていた。今回天理教当局と交渉して、改めて戻した上で「荻窪会談」当時の再現を目標に修復を進めたという。

   

 廊下から外の公園の方を見ると、なかなか良い感じ。南側(公園)が低くなっていて、建物は高台にあるから見晴らしが良いのである。荻外荘から「角川庭園」へ案内に沿って5分ぐらい歩く。角川書店創業者で、歌人・国文学者でもあった角川源義(かどかわ・げんよし、1917~1975)の家だった場所である。庭園的にはあまり大きくなく、時間が少なければ省いてもいいかな。角川関係の資料が展示されているわけでもないが、集会所としてよく利用されているらしい。

   

 そこからまた5分ちょっと歩くと大田黒公園。首都圏では紅葉のライトアップがテレビでよく紹介される所だが、初めて。音楽評論家大田黒元雄(1893~1979)の旧居をもとに作られた回遊式庭園である。大田黒と言われても誰それという感じだが、日本の音楽評論の草分けで文化功労者に選ばれた人。それにしてもこんな立派な庭がよく持てたなと思うと、実は死後に周囲の土地を併せて杉並区が整備した庭園だった。大田黒の父は芝浦製作所を再建した後、全国の水力発電所を経営した大田黒重五郎という戦前の経済人だった。元雄は父の財力で好きな音楽の道に進み、特にドビュッシーを日本に紹介したという。

   

 門を入ると、イチョウ並木が今まさに黄葉していて素晴らしい。グループで来た人は皆「オオッ」と声を発して、スマホを取り出す。人も多くてなかなか撮りにくいのと、もうすでにかなり落葉していて落葉がいっぱい。そっちを撮ると。

  

 紅葉も見頃で素晴らしい。池をめぐる散歩道が紅葉の中心で、ここが無料で見られるのは素晴らしい。

   

 大田黒元雄が住んでいた洋館も公開されている。中にはスタインウェイのピアノが置いてあった。

   

 その後荻窪駅に戻って、丸ノ内線で新宿で下車してSONPO美術館で『カナレットとヴェネツィアの輝き』を見た。一度は見なくて良いかなと思ったんだけど、やはり見に行くことにしたけど、それは別の話。

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八王子城を見に行くー日本百名城の廃城

2024年12月04日 22時40分07秒 | 東京関東散歩

 関東地方は比較的暖かな小春日和が続いている。そういう日にまだ行ってない日本百名城に行こうと思って、八王子城に行ってみた。国指定の史跡としては「八王子城跡」となる。戦国時代末期、北条氏にとって小田原を守るための重要な軍事拠点だった山城で、1590年に豊臣秀吉軍に攻め落とされて廃城となった。現在は発掘、整備が続き、2012年には「ガイダンス施設」が出来た。

 結構大変な山城で、安土城ほどじゃないけど山歩きは久しぶりなので大丈夫かな。主に「御主殿」(ごしゅでん)エリアと山登りが必要な本丸エリアに分かれている。何かすぐに山に登る人もいるようだが、城としては「御主殿」の方を見ないといけない。八王子城は北条氏政(4代目)の弟北条氏照の本拠地だった城で、氏照の館があったとされるのが御主殿である。管理棟から左へ下って、山道を歩いていく。なかなか着かないなと思った頃、城山川にかかる曳橋を渡れば虎口の石垣が見えてくる。

   

 その前に出発地点に戻すと、管理棟前に「史跡八王子城跡」とあり、そこから「御主殿方面」と書かれた道がある。そこを進むと気持ち良い山道が続いている。山登りの後では御主殿に行くエネルギーがないと思って先に行ったが、結果的にはこっちだけでもよいかも。城というのは戦闘のために作られるわけだが、実際に戦争になった城は少ない。江戸時代に作られた城は、権力を誇示するかのような巨大な建造物になった。大坂城のように「冬の陣」「夏の陣」で実際に戦闘に巻き込まれ焼け落ちた城もあるが、後に再建された。その点、八王子城のように実際に戦闘が起こって、そのまま廃城になった城は全国でも少ない。

   

 進んで行って虎口(こぐち)に着くと石垣があるが、これは残っていたものではなく史跡指定後の整備事業で再建されたものである。虎口とは曲輪(くるわ)の出入り口だが、敵と最初にぶつかる地点だから曲がったりして突撃しにくいようにしている。なるべく当時の石垣・石畳を使って「できるだけ史実に忠実に復元」とパンフに書いてある。虎口を登り切ると御主殿跡で、ここは調査・整備の途中なので今はただの空き地。もっとも建物の礎石が判るような整備をしている。

   

 その先に「御主殿の滝」があって、そこで北条方の婦女子が自刃して身を投じたという。見に行かなかったんだけど、正直言えば、存在に気付かなかった。そこから戻って、今度は本丸への山登り。山自体は標高445mだが、ほとんどが直登で標準タイム40分。とてももはや標準では登れず、休み休み登る。40分というのは、ちょっとした低山ハイクで、しかも登りにくい石だらけ。本格的な登山靴までは要らないだろうが、ただの城めぐりじゃなく山登りの覚悟は必要。

   

 まあ休み休み行くうちに次第に高度を稼ぎ、7合目、8合目、9合目の標石が出て来る。途中で八王子から都心方面を一望出来る展望がよい場所があった。登り切ると八王子神社がある。さらにその上に本丸があるというので、行こうと思ったが道が大変なので途中で止めてしまった。多分霜が解けたんだと思うが、山道がかなり滑りやすく、細い道だと危ないなと思った。特に何もないところで、もともと天守閣などはなかった城である。豊臣軍の攻撃に備えて、急ごしらえで整備された城で、最後まで完成していなかったとされる。展望的には低山ながら眺望を楽しめるが、史跡というよりは低山だった。

   

 北条氏照は兄である北条氏政を助けて、軍事・外交を担って活躍した武将である。もともとはもう少し北にあった滝山城が本拠地だった。八王子城は1571年に建造が始まった(他の説もあるらしい)が、氏照の本拠となったのは1587年である。滝山城も「続日本百名城」に指定されていて、武田信玄や上杉謙信に攻められたこともある。しかし、山城としては低いため、統一権力の豊臣軍との本格的交戦を予想して本拠地を移したと考えられている。そして、実際に3年後に大軍が押し寄せてきた。

 1590年7月24日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの1万5千人ほどの大軍に攻められ、一日も持たず落城した。城主の氏照は小田原に行っていたため、城代など3千名ほどが籠城していたと言われる。城攻めの基本は「衆寡敵せず」である。これほどの兵力差があれば勝ち目はなかった。しかし、八王子城である程度時間が稼げると踏んでいた北条氏としては痛恨の敗戦となり、そのまま小田原は開城に追い込まれることになった。氏照と前当主(4代目)氏政は秀吉から切腹を命じられた。

 そういう場所だからか、ネットで「八王子城」と検索すると、「危険です」とか「心霊スポット」などと表示されるほどである。まさかそんなことがあるわけもない。そんなことを言い出したら、広島、長崎、沖縄本島はもちろん、東京や大阪だって行けなくなってしまう。ここの場所は東京西部の中心地八王子市の中でも西の方、大まかに言えば高尾山の北の方である。圏央道八王子西インターから10分ぐらい。土日はバスがあるとのことだが、平日はタクシーかマイカーになる。

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赤山城跡と安行ー江戸時代の関東と「植木の里」

2024年11月13日 22時10分03秒 | 東京関東散歩

 埼玉県南東部に安行(あんぎょう)という地区がある。昔は安行村だったけど、1956年に川口市と合併した。近くの人以外はあまり知らない地名だと思う。昔は僕の最寄り駅からバスが出ていて、時々母親が庭に植える植木を買いに行っていた。(持ち帰れないから、後から届けて貰ったんだろう。)安行は「植木の里」で、園芸農業の盛んな地として知られていたのである。

 また、僕の最寄り駅近くを通っている道路を「赤山街道」と呼んでいる。この赤山って何だろうと昔から思いながら、全然知らなかった。やがて自動車で東北方面(日光など)に行くようになったら、安行近くに「赤山」という地名があった。ふーんと思ったけど、じゃあ何で「赤山街道」なのかは知らなかった。最近やっとそのことが判明したので、この前行ってみた。

 江戸時代に「赤山城」(赤山陣屋)というのがあったのである。東北道につながる首都高に川口ハイウェイオアシス(一般道からも利用出来るサービスエリア)がある。首都高に入って2つめのインターで下りちゃうので、今まで利用したことがなかった。(トイレは自宅まで我慢出来るので。)この前どんなところだろうと下りてみたら、そこは「イイナパーク川口」という公園だった。物産館などの他、「歴史自然資料館」もある。赤山城跡というのは、この公園の近くにあるらしいと地図もあった。

   (赤山陣屋跡地と碑)

 そんな城は知らないという人が多いだろう。「大名」じゃないので、史跡としては「赤山陣屋」とも呼ばれる。しかし、堀なども備えたなかなかのもので、1629年伊奈忠治が築いた。ここは「関東郡代」と呼ばれた伊奈氏の拠点だったのである。今は堀跡と思われるものなどの他、当時の建物は何も残ってない。それも当然、伊奈氏は幕末まで続かなかったのである。イイナパーク北口から5分程度歩いたところに、碑が立っているだけである。案内板は2024年に建てられていた。

   (伊奈忠次像)

 公園にある「歴史自然資料館」は本当に小さな施設だったが、そこに赤山陣屋のジオラマがあった。上の1枚目だが、遠くから撮ったしガラス越しで何も判らない。2枚目は伊奈氏の説明パネル。3枚目は堀跡。資料館前には初代の伊奈忠次の像が作られていた。忠次は徳川家康に仕えた武将で、関東支配に大きく貢献した。新田開発や利根川の付け替えなどにも関わったらしい。伊奈氏の祖地である埼玉県伊奈氏小室に1万石を与えられた。それは長男、孫と受け継がれたが、後継なく改易となった。

 忠次長男の忠政が1618年に亡くなったため、関東代官としての仕事は弟の伊奈忠治が引き継いだ。この忠治は以前から勘定奉行を務めて7千石を与えられ、赤山に屋敷を築いていた。この忠治こそが関東地方の河川改修、利根川東遷事業や荒川、江戸川などの開削工事を行った人物である。これらの功績により、関東代官領の支配は代々伊奈氏が世襲することになり、12代、約200年近く、赤山陣屋を拠点にした伊奈氏の関東支配が続いたのである。

 伊奈忠次という名前はなんとなく記憶にあった。家康時代の歴史に出て来たと思う。しかし、それ以後18世紀末まで伊奈氏が関東の代官を世襲していたことは知らなかった。当然それだけ長く続けば強大な力を持つようになる。一時は飛騨代官も兼ねたり、勘定奉行配下から老中直属に変わったりした。このように強大化した伊奈氏で18世紀末に御家騒動が起こる。その結果、1792年に12代忠尊(ただたか)は改易され、伊奈氏の関東支配は支配は終わり赤山城も破壊されたのである。

 お取り潰しの後、伊奈氏の持っていた強大な権限は分割され、関東代官の地位は勘定奉行の下に戻った。ということで、もう僕もそんな伊奈氏の業績は全然知らなかったのである。強大だった時代、赤山に至る道が整備され、日光街道の千住、越谷、中山道の大宮に至る赤山街道が整備されたのである。僕の家近くに残る赤山街道の名は千住へ向かう道のなごりだった。近くの源長寺に伊奈氏歴代の墓所があるということで訪ねてみた。下2枚目、3枚目の写真。寺には寝釈迦像があった。

   (寝釈迦像)

 安行地区は「埼玉県立安行武南自然公園」に指定されている。県立公園は国立公園、国定公園に次ぐ自然公園だが、埼玉県には長瀞玉淀、奥武蔵、両神、武甲など首都圏から多くの観光客が訪れる地区がある。「武南」は武蔵の南ということで、さいたま市浦和、及び川口市安行の二地区が合わさって1960年に指定された。でも「自然」というより、人工の景観が広がる地域で、しかも今はほとんど宅地化している。現地でも自然公園という案内は全くなかった。下のような感じ。

   

 ただの田舎の農村風景だろうという感じだ。これが自然公園なら全国のほとんどは指定可能じゃないか。と思うけど、70年前は園芸農家の他は雑木林が広がるような地域だったんだろう。園芸と言っても、安行地区は植木や盆栽などが中心で、そういうのが植えられた農家が今も多い。まあ、わざわざ散歩に来るほどでもないと思ったけど。「埼玉県花と緑の振興センター」もあって、どんなところかと行ってみたが、確かにいろんな樹木はあったけど閑散としてた。

 

 この地区には「道の駅」もあって、「川口緑化センター 樹里安」(上1枚目)が指定されている。ここには多くの植木や花、盆栽が販売されているので、関心がある人には楽しいかも。農産物直売所もある。そこに「安行観光マップ」もあるから、まあ一応観光の対象にはなっているらしい。長年の疑問が解決したけど、全国ではほとんど知られてないだろう地域だろう。

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築地本願寺をめぐるー築地散歩②

2024年11月04日 21時46分31秒 | 東京関東散歩

 築地という地名は読んで字の如く「土地を築く」という意味で、まあ埋め立て地のことである。時代は江戸初期、明暦の大火で焼失した浅草の本願寺の再建場所として、幕府から与えられた代替地だった。佃島の門徒が造成を担当したという。その後寺町として発展し、また大名屋敷も多かった。ということで、築地と言えば成り立ちからしても本願寺なのである。なお、今も浅草(地下鉄田原町近く)に本願寺があって、浅草浄苑という霊園のCMで知られる。あっちは東本願寺で、築地は西本願寺。 

   (歩道橋の上から)

 地下鉄築地駅を出れば、もう目の前に築地本願寺の偉容が広がる。なかなか写真では魅力が伝えられない。そのぐらい独特で、忘れがたい姿をしている。何枚写真を撮ってもよく撮れたという満足感がない。今は外国人客が多く、人が入らないように撮るのが難しいということもある。階段を登って中を見ることが可能。無料のお寺では珍しいが、写真を撮ることは憚られる雰囲気。いつも法会を行っていて、その日に申し込むことも出来る。お坊さんに様々なことを相談出来る「僧談」申し込みコーナーもある。ネットで写真を探すと、以下のような感じ。椅子席である。ニコライ堂の内部見学は有料だから、ここは貴重。

  

 東京の建造物は大体関東大震災で焼失したところが多い。築地本願寺もその一つで、現在の本堂は1931年に竣工して、1934年に完成した。まだ100年は経っていないが、2014年に重要文化財に指定されている。日本の寺院と言えば、どうしても中国風を思い浮かべて、それが通念になっている。でも築地本願寺だけが違うのである。これは「古代インド風」なのである。設計したのは伊東忠太で、当時は東京帝大名誉教授だった。本願寺派法主で探検家としても有名な大谷光瑞と知り合いで依頼された。

   (重要文化財指定)

 伊東忠太(1867~1954)は建築界で初めて文化勲章を受けた人で、現時点で重要文化財に5つが指定されている。他は橿原神宮平安神宮本願寺伝道院(建築当時は真宗信徒生命保険本館)、伊賀上野にある芭蕉記念の「俳聖殿」。明治神宮の共同設計者でもあり、武田神社、弥彦神社、上杉神社、靖国神社遊就館などの設計もしていて、近代神社建築の第一人者だった。現存しない台湾神宮、朝鮮神宮、樺太神社なども設計していて、まさに「帝国の建築家」というべき存在である。

 築地本願寺は当時としては珍しい鉄筋コンクリート建築で、インドの仏塔(ストゥーパ)風の塔屋を持っている。仏教は本来インド発祥だから、外観は古代インド風を取り入れたわけである。当初は異様だったと思うが、今となってはなじんでいる。歴史的な観光寺院を別にすれば、見ていて一番見ごたえがある寺じゃないか。しかも、この寺は今も多くの人を受け入れている。2017年にはインフォメーションセンターと合同墓が作られた。前者にはカフェが併設され、いつも賑わっている。あんまり並んでるので、まだ入ってないけど、実は本堂右手奥にある「伝道会館」でも食事が出来る。オシャレ度では劣るが、こっちで十分。

(カフェ)(第一伝道会館)

 境内にはいろんな碑があるが、あまり知られてない。下の写真で順番に、都旧跡の「土生玄碩」(はぶ・げんせき)の墓で、19世紀前半の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖だという。次が「酒井抱一」(1761~1829)の墓。姫路藩酒井家の次男に生まれ、画家・俳人として知られた人である。江戸琳派の祖とされる。次は九条武子の碑。大谷家に生まれ、九条侯爵家に嫁いだ。歌人として知られ、また「大正三美人」とうたわれた。慈善活動でも知られ、仏教婦人会を組織した。震災孤児の支援や築地本願寺再建に尽力したが、完成を見ずに1928年に亡くなった。最後が親鸞聖人の像。

   

 碑はもっと多いんだけど、余り載せても大変だから省略する。つまり史蹟指定などはない碑である。築地本願寺はプロがじっくり写真を撮れば、とても面白いところだと思う。今回何度か行ったけど(見つからない碑があって、探し回ったため)、一番最初に行った晴れた日の夕方の本堂を最後に数枚載せておく。

   

 荘厳な感じがうかがえる。ものすごくたくさん来ている外国人観光客は何を感じるんだろうか。ここは「日本美」じゃないんだけど、理解出来ているんかな。築地場外市場の方も行ったけど、時間もなくてちゃんと見なかった。人が多すぎるのもあるし、マーケットなら「アメ横」の方が近くていいなと思った。それにしても、聖路加周辺の碑を探し歩き、本願寺でお茶して場外市場へ回るというのは、東京の半日散歩としては充実したコースなんじゃないかと思った。

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築地小劇場跡や聖路加病院周辺、碑がいっぱいの町ー築地散歩①

2024年11月03日 20時41分11秒 | 東京関東散歩

 暑さが和らぎ、まだ寒くもない。そんな季節は今や日本にごく少ない。じゃ町を散歩しよう。まず「築地」(つきじ)である。銀座の隣で、自分の家からは地下鉄で一本。でも今まで一度もちゃんと行ったことがない。この前「出川・一茂・ホラン フシギの会」というテレビ番組で築地場外市場を取り上げていた。東京の有名地らしいから、東京人はよく行ってると思われるかも知れないが、一度も行ったことがない。地下鉄は築地、東銀座、銀座、日比谷と続く。そっちは若い頃から何千回と下りてるはずだ。

 築地に行った理由は、実は「築地小劇場」である。1924年に開設された「新劇」用の劇場である。今年がちょうど100周年になり、その意義を振り返る企画が幾つもある。1945年に空襲で焼けて、その跡地には記念の碑が作られている。ところがその碑が危ないと2月に東京新聞が報じた。碑がある土地が再開発され築地駅に直結する商業ビルが建設予定だという。その後碑がどうなるかは未定だという話だった。(その後、保存されることが決まったが、いったん無くなる。)

    

 ちょうど100年だし、今のうちに見ておきたいと思ったわけである。場所は築地本願寺があるのと反対側で、信号を曲がったところに見えている。信号は幾つかあるが、住居表示地図にも出てるし、割とわかりやすいと思う。小山内薫土方与志らが創立メンバーで、広島原爆で亡くなった丸山定夫や戦後に『夕鶴』で知られる山本安英らが活躍した。単に演劇史というだけでなく、近代の社会運動史、文化史全般に大きな影響を与えた。左翼演劇のメッカとも言える劇場で、築地署で虐殺された小林多喜二の労農葬はここで行われた。ところで、「旧劇」の中心地、歌舞伎座や新橋演舞場に徒歩5分ほどと非常に近かったのに驚いた。

 築地ほど碑が多い町は珍しい。築地小劇場ばかりではなく、ものすごくたくさんの碑が立っている。その多くは「聖路加病院」の周囲に集まっている。有名な病院で、つい「せーろか」と読んでる人が多いと思うが、読み方は正式には「せいルカ」である。築地駅から病院方向へ行く道は「聖ルカ通り」になっている。以前大病院に直接行っても医療費が変わらなかった時代に、母親がよく聖路加病院まで行ってた。1993年に新館が出来、94年に出来たレストランなども入った聖路加ガーデンがお気に入りだった。

  (1933年再建の旧館)

 幕末以来、居留地だった築地にはキリスト教系の医療施設が作られた。「聖路加」は聖公会系で、立教大学創設者として知られるウィリアムズらが来日し、教育や医療を実践したのである。きちんと聖路加病院が開設されたのは、1901年のことで、ウィリアムズの後任マキム主教の要請によって、来日したルドルフ・トイスラーが開設したのである。トイスラーが1934年に亡くなるまで暮らした家は「トイスラー記念館」(中央区の区民有形文化財指定)として現存・公開されている。最初の建物は関東大震災で壊滅し、1933年に再建され建物が旧館として今も使われている。チャペルとともに東京都選定歴史的建造物に指定されている。

   (トイスラー記念館)

 築地駅から聖路加病院方面に行き、築地川公園を過ぎると、聖路加国際大学が見えてくる。その向こうが旧館病院、トイスラー記念館がある。大学周辺にいろんな大学の創設碑が並んでいる。1869年(明治2年)から1899年まで、築地は外国人居留地になっていた。つまり外国人は築地以外には住めなかった。そのため外国人が日本人に教育するには、築地に学校を作るしかなかった。そのためキリスト教系の立教学院立教女学院を初め、青山学院明治学院女子学院雙葉学園などの創設の地となっている。

(立教学院)(青山学院)(立教女学院)(女子学院)

 それらの学校の前に福沢諭吉の慶應義塾がこの近くに創設された。1858年の安政年間のことで、まだ慶応義塾とは言わないが。中津藩中屋敷が聖路加のあたりだったらしい。またその中津藩屋敷で1771年に前野良沢がオランダの解剖書を初めて読んだという。そこで聖路加国際大学の敷地の前に「慶応義塾大学発祥地」と「蘭学事始」を合わせた「日本近代文化事始の地」が立っているのである。僕は立教大卒だが、築地の創設碑は初めて見た。慶応や青学の卒業生も見ている人は少ないと思う。

   (日本近代文化事始の地)

 碑は他にもいっぱいあって、聖路加国際大学前に「浅野内匠頭屋敷跡」の碑がある。何とまあ、ここにあったのか。そこから左に進んで「居留地通り」には「芥川龍之介生誕の地」の碑が車道側に立っている。そこから少し行って明石小前に「居留地跡」という碑がある。もちろん築地全域が居留地だったんだろうから、単に碑があったところだけが居留地じゃない。これらの碑は小さな地域に集中しているけど、あちこち点在している。ただブラブラ歩いているだけでは見つからない。ネットで調べる他、中央区観光協会の作っている地図が非常に役立つ。Webでダウンロードも可能。案内所もあちこちにあって配布している。

(浅野内匠頭屋敷跡)(芥川龍之介生誕の地)(居留地跡の碑)

 明石小からすぐのところに「カトリック築地教会」がある。地名的には「明石」になるが、1874年に建てられた日本初のカトリック教会だった。煉瓦作りの本格建築だったというが、関東大震災で倒壊。すぐに復興に取り組み、1927年に完成したのが今の建物。「東京都選定歴史的建造物」になっている。築地の宗教施設と言えば、もちろんキリスト教会ではなく、築地本願寺だが次回に。

 (カトリック築地教会)

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謎の石切山脈と笠間栗モンブランー秋の笠間散歩

2024年10月22日 21時59分49秒 | 東京関東散歩
 昨日(20日)、茨城県笠間市を訪れた。事情あって月曜日に行ったが、月曜だと笠間日動美術館など諸施設が閉まっている。まあ結局時間がなくなって、開いてても行けなかったのだが。今回一番行きたかったのは「石切山脈」である。笠間は以前2回行ってるが、そこは当時はまだ知られていなかった(公開してなかったのかも)。笠間は笠間稲荷神社笠間焼で知られている。参拝や陶磁器を求める客で一年中賑わっている。そんな町が最近では「日本一の栗」で知られてきた。そして市の北方に「稲田石」という優れた石材が発掘されるということも知られてきた。
   
 上掲のような風景をテレビなどで見た人もいるんじゃないだろうか。石を切り出した跡に水が溜まって「地図にない湖」が出来ている。これが「石切山脈」と呼ばれる地帯で、東西約10km、南北約 5km、地下1.5kmに及ぶ岩石帯とホームページに出ている。明治32年に始まる日本最大級の採掘現場、ここの「稲田石」が国会議事堂、東京駅、最高裁判所などに使われた。「稲田石」は、約6,000万年前に海底深くで長い時間をかけ冷えて固まった花崗岩だという。車で行くと北関東自動車道笠間西インターを下りて、東の方に少し行ったところで曲がる。案外判りにくくて迷ってしまった。
  
 「石切山脈」は通称で、大きく入口に出ているわけではない。だから、うっかり通り過ぎてしまった。入場料300円で見られるが、本当は1000円払って「プレミアムツァー」に参加すると、奥の方の入場禁止区域を案内してもらえる。インターネットで予約出来るけれど、大体埋まっている。平日の朝9時半とかじゃないと、なかなか予約が難しい。まずはただ見て来ようと思ったんだけど、やはり奥まで行きたいなと思った。入口付近はストーンアート展示場になっていて、いろんな彫刻がある。その向こうに湖が間近に見えている。これだけで終わりかなと思ったら、左手奥の方に第2展示場があった。
  
 さらにずっと奥の方まで進んで行くと、また違った方向から湖を見られる。少し湖面に近くなった感じで迫力がある。ここは「前山採掘場」で、すべて石を掘った跡地だというのがスゴイ。宇都宮の大谷石採掘場も地下神殿風で素晴らしいが、こっちは謎めいた秘湖で面白い。まあ写真を何枚撮っても同じような風景なんだが、一応。
  
 階段を下って、さらに奥に行けた。まあ写真的には同じようなものになってしまうけど。周囲は石の跡地で、何だか飛鳥の石舞台みたいだ。よくよく湖面を見ると鳥がいる。遠くて全然見えないけど。
  
 立ち入り禁止やの工場もあった。排水を溜める貯水場もあった。なお、ここにもモンブランを出すカフェがある。2000円以上と高いんだけど、行った時はもう売り切れだった。石切山脈とは出てないけど、モンブランという旗が目印になる。
 
 昔の学校をカフェにしている「カサマロン・カフェ」がガイドに載っていたので、行ってみたが休み。事前に調べるべきだなあ。けっこう遠かったので時間をムダしたが、面白そうなところなので、いずれ行きたい。ということで時間も遅くなってきたので、もう「道の駅かさま」だけ行けば良いと判断したが、ここがまた大混雑。2021年に出来た「道の駅」なので、まだ行ってない人が多いと思うが、関東地方の秋のテレビではよく紹介される。笠間栗を使った「モンブラン」を出す店が集まっていて、大人気なのである。しかし、秋の時期は車を停めるだけで30分は待つと思う。
   
 ここで有名になったモンブランは、「錦糸栗クリーム」というか、栗あんを細切りにして掛けるのが特徴。機械から雨のように細い栗糸が降り注ぐ様子はパフォーマンス的にも面白い。中で食べる店はもう売り切れだったが、キッチンカーで出している店があった。それがまた長蛇の列だけど、裏の方も見たらもう一軒(一車)あったので、そこで頼んでみた。1200円なり。美味しそうでしょ。でもねえ、この錦糸栗は案外食べにくいんだな。食べるときにボソボソこぼれてしまうし。まあ、話題ということで一度はいいか。ここは帰りに寄る「道の駅」という意識ではなく、家族連れやカップルならここだけ目標に行くべきところなんだろう。
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鑁阿(ばんな)寺と足利学校ー「100名城」足利氏宅跡を見に行く

2024年10月02日 22時24分12秒 | 東京関東散歩
 少し涼しくなってきたので、どこかへ出掛けたい。栃木県足利市鑁阿(ばんな)寺足利学校に行ってみようと思った。どっちも30年ぐらい前に行ってるのだが、その後に鑁阿寺が国宝に指定された。また、「日本100名城」にも選定された。えっ、単にお寺としか思わなかったけど、鑁阿寺はお城だったの? そう思うと、ここは「足利氏宅跡」として国史跡になっていた。

 ここは京都で将軍になる前、鎌倉時代に作られた中世武士の館だったのだ。だから寺の周囲は濠で囲まれ土塁が築かれている。そこに足利氏によって寺が建てられ、1234年には足利氏の氏寺になった。鑁阿(ばんな)は足利氏2代目義兼の出家後の法名。(足利尊氏は8代目。)「鑁阿」はサンスクリット語を漢字にあてただけで、「大日如来」のことを指す。
    (鑁阿寺本堂=国宝)
 国宝指定の本堂は1199年に持仏堂が作られた。その後火災で焼失していたものを、足利義兼によって1299年に建立された。15世紀初頭に全面的に改築されている。「密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重」と寺のホームページに出ている。100名城スタンプは本堂を登ったところにある。関東地方の国宝建造物は数少なく、昔は日光と鎌倉(円覚寺舎利殿)と東村山の正福寺地蔵堂しかなかった。その後、埼玉県の歓喜院聖天堂、迎賓館、富岡製糸場も指定されている。京都・奈良などと比べると、歴史が浅いなあと思う。鑁阿寺は2013年に指定された。

 本堂以外に、重要文化財指定建造物が二つあって、それが一切経堂鐘楼一切経堂は美しさでは一番かなと思う。現存のものは、1407年に関東管領足利満兼により再建されたものとある。普段は外部のみ見学だが、内部を公開する日もあるらしい。鐘楼はホームページに出てないのでよく判らない。県や市指定文化財の建造物は他にもあるが、長くなるから省略。
(本堂) (一切経堂)(鐘楼)
 今回は「100名城」として行ったので、やはり周囲を見ないと。その濠や土塁は確かに言われてみれば、これはただのお寺ではない。奈良や京都の寺に行って、こういう風に囲まれている所はないだろう。しかし、中世武士の館と言われても何の痕跡もなく、今では普通のお寺として見る人が多いはず。お城という感じは受けないが、そこにこそ「100名城」選定の意義がある。中世の山城、武士の館からアイヌのチャシ遺跡群や吉野ヶ里遺跡も選ばれていて、「城」への意識を大きく拡大していた。
   (濠と土塁に囲まれて)
 本堂前には大銀杏があって、それもみどころ。境内は緑に覆われ、紅葉すると見事だろう。門も正面の楼門だけでなく、西門、東門が残っている。多くの寺は四方から自由に入れると思うが(見学無料の場合)、そこは武士の館で濠があって入れない。入る時には門を通る必要がある。濠には鴨が多数泳いでいて、大きな鯉もいた。
 (境内)(大銀杏)(西門)
 鑁阿寺の前に足利学校に行った。建物は国宝じゃないが、収蔵物には国宝がある。中に入るには有料だが、いろいろ見られて歴史好きには面白い。「日本最古の学校」をうたい、近世の藩校などと一緒に「日本遺産」になっている。「めざせ!世界遺産」だそうである。正確な創建年代は不明だが、室町時代の上杉憲実(関東管領)が再興につとめて「庠主(しょうしゅ)」(学長)制度を設けた。関東を中心に全国から学徒が集まり、ザビエルが「最も有名な坂東の大学」と紹介したことで知られる。戦国時代に「軍師」と呼ばれた人も、多くはここで学んだことが明らかになっている。
   
 上杉氏が滅びると後北条氏が保護し、その滅亡で危機に陥ると徳川家康に接近して存続できた。もともと寺だったところで仏像もあるが、孔子堂も作られ江戸時代には儒教の古書が保管された場所として尊重されたという。つまり学校というより、図書館として続いたわけである。その後紆余曲折あったが、1921年に国史跡に指定され保存されるようになった。1990年には建物と庭園が復元され、歴史ムードを感じられる場所になっている。
   
 方丈(ほうじょう)は学生が講義を受けたり行事などに使われた場所だが、復元施設。中に入れるので、上がってみるとここで勉強するのかと面白い。漢字テストが置いてあったが、やらなかった。その奥に「庫裏」(くり)、つまり台所がある。そこら辺が足利学校の中心で、有料チケットを買わないと入れない。
(庭)(歩道橋から) (訪れた人々)
 図書館の入口に「今までに訪れた人々」が書かれていて、古くは林羅山から渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作、近代になると渋沢栄一、大隈重信、乃木希典、東郷平八郎など多彩な顔ぶれが来ていたことが判る。学びに来たと言うよりは、まあ観光みたいな人が多いと思うが。車で行って太平記館の駐車場(無料)に停めた。そこは太平記の解説施設じゃなくて、単にお土産所だった。足利名物の「古印最中」などを買って帰ってきた。他に行きたいところもあったが、行きに渋滞にハマったのでさっさと帰宅。
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猛暑の迎賓館を見に行くー50周年記念で「羽衣の間」の写真を撮る

2024年07月30日 22時44分16秒 | 東京関東散歩
 関東以西は毎日ものすごい猛暑が続いている。とても散歩どころではないんだけど、昨日(7月29日)「迎賓館赤坂離宮」に行ってきた。JR、東京メトロ四ツ谷駅から徒歩7分(とホームページに出てる)と、それほど遠くもない。でも余りにも暑くて(東京でも38度になった)、何で来ちゃったんだと思ってしまった。まあ今日無事に書いてるぐらいだから、大丈夫だったわけだが。

 迎賓館は国宝に指定されている。国宝指定建築物は是非見るようにしているが、迎賓館に今まで来なかったのは「内部で写真が撮れない」からだ。外観だけに1500円の参観料は高いかもと思っていた。(事前予約して和風別館も見ると、2千円。)しかし、今年は「迎賓館」(として整備されてから)50周年として、7月は特別に「羽衣の間」の写真撮影可だった(8月は「東の間」、9月は「花鳥の間」の撮影可)。ということで、「羽衣の間」は7月中に行かないと写真を撮れないから行ってみたわけ。

 迎賓館はよく正面からの写真が使われるので、僕も「主庭」から見た外観を知らなかった。内部を見た後、庭を見ることになるが、写真的にはこっち側の方が見ごたえがある。噴水があったり、松の木がアクセントになっている。迎賓館はもともとは1909年に「東宮御所」、つまり皇太子(大正天皇)の居所として建てられた。しかし、大正天皇はほとんど使わずに「離宮」となった。あまりにも壮大なネオ・バロック様式で使い勝手が悪かったともいう。だけど、やはり近代日本洋館建築の最高峰ではある。
   
 受付を済ませて中へ入ると、いろいろとグルグル回って行く。広いのでどこがどうやら判らないし、写真を撮れない。羽衣の間ってどこだと思う頃、出て来た。全景はホームページからコピーする方が理解しやすい。
(羽衣の間)
 ここは広さ約330平方メートルで、典型的なロココ様式なんだという。名前は天井に謡曲「羽衣」の壁画(フレスコ画)があるから。もともと舞踏会場として設計され、迎賓館で一番大きなシャンデリアがある。
   
 実際に撮ったのがこんな写真だが、やはり観客がいるから難しい。つい大きなシャンデリアに目が行くわけ。ここは今は晩餐会の招待客に食前酒、食後酒を提供する場になっているという。こうしてみると、誰が見てもヴェルサイユ宮殿の影響というか模倣。昨日書いたハイチ(サン=ドマング)で大もうけをしたブルボン王朝が建てた宮殿を、アジアの後発帝国主義国が精一杯マネした。複雑な感慨もあるが、ここまでやれば立派とも思う。内部には日本風の装飾も施されている。見終わると、外へ出て主庭へ回る。ものすごく暑くて、行きたくないけど、せっかく来たんだから。
   
 横から見るのもなかなか面白い。4枚目の樹木はゴルバチョフ「お手植え」の記念植樹である。そしてもとへ戻ると、前庭に行ける。こちらがよく写真で見る正面側になる。そこではパラソルと椅子があって、お茶が飲めるところがある。暑くて休みたいを通り越えて、早く駅に戻りたいという気持ちで寄らなかった。
   
 ここはもともと片山東熊が設計した。近代建築史に名高いジョサイア・コンドルの弟子で、宮内省に勤務して多くの建築に携わった。京都国立博物館奈良国立博物館東京国立博物館表慶館新宿御苑御休所などが残っている。戦後になって国に移管され、国会図書館や東京オリンピック組織委員会などが置かれたこともある。当時の迎賓館は旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)だったが、狭すぎるとして赤坂離宮を迎賓館に改修した。その「昭和の大改修」は村野藤吾が担当し、1974年に完成。その時谷口吉郎設計による「和風別館・洗心亭」も作られた。

 現在も迎賓館として使用されているので、外国からの賓客があるときは非公開となる。2016年からそれ以外の日は公開されている。観光立国をめざすとした菅官房長官が残した恐らく唯一の「善政」だろう。外国人観光客は確かに多かった。また行くかどうかは微妙だが、国宝なんだし一度は見ても良いのかなと思う。「権力者の館」ではあるが、それはお城だって同じだし。
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林芙美子記念館から萬昌院功運寺、新井薬師まで

2024年03月03日 21時59分16秒 | 東京関東散歩
 林芙美子を最近ずっと読んでいたから、林芙美子記念館に行こうかなと思った。林芙美子が建てて、1941年から1951年に死ぬまで住んでいた家である。新宿区中井にあるが、林芙美子はその前から近くの落合周辺に住んで気に入っていたのである。ここは前に一度行ってるんだけど、それは20世紀のことだ。その時は都営地下鉄大江戸線中井駅はまだ完成していなかったと思うから。(開業は1997年。)前は西武新宿線中井駅から行ったが、今日は大江戸線の方が早そうなのでそれで行った。地上に出ると、どっちがどっちだかよく判らないけど、案内がきちんとあるから迷うことは無い。
(記念館のパンフ)
 妙正寺川を渡り、西武新宿線踏切を越えて、三の坂交差点を左折し四の坂をちょっと登る。そこに林芙美子記念館がある。新宿区立で、林芙美子の夫、手塚緑敏の没後新宿区が買い取って、1992年3月に開館した。山口文象の設計によるもので、この人の設計した建物は現存しないものが多いので貴重だ。周辺は坂ばかりで、そのことは随筆によく出てくる。家も道路から高くなっていて、坂の途中に作られている。記念館のすぐ上は階段になっているぐらいだ。
(妙正寺川)(三の坂)(記念館)(四の坂)
 記念館は庭から見るのが一番風情がある。緑敏がよく手入れしていたというが、今も整備されて昔の様子を留めている。大きく分けて二つに分かれていて、一番はずれのアトリエが今は展示室になっている。芙美子が使っていた和室や台所などはもう片方にある。東京に住んでいた有名人の家は、ほとんどは震災、空襲で焼けるか、高度成長期に取り壊された。それを生き延びても、相続した遺族が維持出来ずに消えていった。林芙美子の家はその意味でも東京に残された貴重な文化財だと思う。
   
 家は月に2回ぐらい中へ入れる見学会があるが(ホームページで参加者を募集)、普段は庭側から見るだけである。(旧アトリエの展示室は入れる。)主な部屋を紹介すると、大きな部屋として寝室茶の間客間書斎などが並ぶ。さらに小間風呂場台所などがある。まあ、各部屋を全部紹介しても面白くないだろう。結構大きい家だと思い込んでいたが、今見ると人気作家の割りにそんなに広い部屋ではない。まあ林芙美子自身もそれほど大きくなかったんだろう。
(寝室)(茶の間)(客間)(書斎)
 庭からグルッと回ると、格子門があり(今は使われていない)、そこから玄関に通じる。昔はここに原稿取りの編集者が詰めかけていたという。さらに台所には冷蔵庫があった。戦前に自宅に冷蔵庫があった家は珍しい。芝浦電気製で、本来はホテルなど向けだったというが、芙美子は結構料理好きで客が来るとツマミなどをササッと自分で作っていたという。
(格子門)(玄関)(台所)(冷蔵庫)
 面白いのは家を上から望めることで、敷地内に坂がある。屋敷を帰りに見たら竹林になっていた。パンフには「数寄家造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっている」とある。僕にはよく判らないけど、林芙美子を読んでない人でも建築的に見る価値があるんじゃないかと思う。
(上から望む)(全体図)(解説)
 記念館から道なりに西へ進み、再び川を渡って南の方へ行く。大通りに行き当たって右折すると寺が多い地区になる。そんな中に萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)がある。僕は普通の感覚に従って、萬昌院は山号みたいなもので功運寺という名前のお寺だと思ったら、今Wikipediaを見たら二つの別々の寺院が1948年に合併したと出ていた。何でここへ来たかというと、この寺に林芙美子の墓があるのである。案内板が墓地の入口にあって見つけるのは難しくなく、すぐ見つかった。
   
 ところで寺の位置は確認していったが、どんなところかは知らずに出掛けたのである。そうしたら驚くことに、ここに吉良上野介の墓があるじゃないか。萬昌院を開山したのが今川義元の三男で、今川氏と吉良氏は姻戚になっていて、もともと菩提寺だったという。功運寺の方は秀忠時代に老中を務めた永井尚政が開いた寺で、ずいぶん多くの墓がある。糟屋武則という賤ヶ岳七本槍の一人の墓があるというが見なかった。名前も覚えてないし。どっちの寺も移転を繰り返して今の場所に落ち着いたらしい。
  (吉良一族の墓)
 寺を出て北へ進み、うまく言えないんだけどグルグル曲がっていくと、童謡「たきび」の碑がある。作詞した巽聖歌(1905~1973)が近くに住んでいて、散歩するうちに詩想を得たという。「垣根の垣根の曲がり角 焚き火だ焚き火だ落葉焚き」である。戦時中に発表されたときは火が空襲の目標になるとか軍に批判され、戦後は教科書に載ったが道で焚き火するのは危険と消防庁に言われたらしい。今じゃ垣根の家などほぼなくなったし、落葉を焚くのもなくなった。僕の子どもの頃は庭にレンガを積んで焚き火をして石焼き芋を作ったもんだが。
  
 そこから少し歩いて、梅照院新井薬師へ。ここは今まで行ったことがない。広津和郎の小説で読んだけど、戦前はこの辺りに花街もあったとか。今も寺や近辺は栄えていて、今日は骨董市をやっていた。『じい散歩』で主人公の爺さんがここへ来るシーンがあった。すごく大きな寺かと思っていたら、西新井大師なんかより小さい感じ。ただ隣に新井薬師公園というのがある。
   
 そこから新井薬師前駅に行って帰るつもりだったけど、そう言えば中野駅も1㎞ぐらいだったはずと思い出した。中野まで歩くことにしたが、案外近かったので驚いた。こっちの方は土地勘がないので判らないのである。冬は寒いから散歩したくない。それに林芙美子記念館は2月半ばまで臨時休館していた。明日の方が温かいという予報だけど、記念館は月曜が休館。雨の日も最近多かったし、散歩も難しい。家までの往復を入れて1万3500歩ぐらい。
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トキワ荘マンガミュージアム

2023年12月19日 22時38分58秒 | 東京関東散歩
 『じい散歩』を散歩するだけじゃ楽すぎるので、その日は南池袋で梵寿綱の建築を見た後にトキワ荘マンガミュージアムに行ってみた。まあたくさん歩くことが目的で、この日は(家から駅への往復を含め)総計1万6千歩になった。夕方に文楽を見る日だから、落ち着いてしっかり見る気持ちの余裕がない。もっとも今までに幾つもの文学館、郷土歴史館などに行ってるけど、あまりちゃんと見てないと思う。最近は特にそうで、修学旅行の生徒並みになってきた。いちいち字を追うのが面倒なのである。

 駅で言えば、西武池袋線椎名町東長崎、都営地下鉄大江戸線落合南長崎と三つの駅が近い。今回は椎名町から池袋まで歩こうと思ったので、東長崎まで行った。ミュージアム単体なら、それが一番近いのではないか。だけど、豊島区が作ったいろんな施設が並んでる「トキワ荘通り」をゆっくり見て歩く方が興趣があるかもしれない。東長崎から行くと、突然トキワ荘が出て来る。
   
 トキワ荘があった場所に再現したのではなく、そこからちょっと離れた南長崎花咲公園(トキワ荘公園)に建てた。真ん前から写真が撮れると良いんだけど、ちょうど逆光の時間帯で上の2番目の写真みたいな角度じゃないと撮れなかった。(これでもシャープじゃないけど。)3番目の写真は真裏のもので、光的にはここからが良い時間。裏を撮ってる人がいなかったが、何の建物でも裏が面白いことが多い。もっとも2019年から作り始めて、2020年開館だから、まだまだ古い感じが足りない。それは仕方ないことだが、昔のトキワ荘自体も1952年に建てられたものなので、若き漫画家たちが集っていた時代は新築アパートだったのである。
 
 そう言えばトキワ荘そのものの説明をしていない。様々なメディアを通して、「漫画の聖地」みたいな伝説は多くの人が知っていると思う。手塚治虫藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫ら超有名な漫画家が若き日にこのアパートに住んでいたのである。部屋の割り振りは上記パンフの中面に載っている。ミュージアムは予約優先になっているが、平日は余裕があって予約なしでも入れると思う。(自分もそうだった。)1階は写真を撮れないが。特別企画展「ふたりの絆 石ノ森章太郎と赤塚不二夫」を今やってる(3月24日まで)。2階は当時の部屋が再現されていて、そこは写真が撮れる。
           
 写真を見ると、窓の向こうが見える感じだが実はそれは絵である。今とは風景が違うので昔風の絵を描いている。再現された部屋には生活の様子まで作られたものもあれば、皆で写真が撮れるような部屋もある。僕もついうっかりしていたが、漫画家たちは偶然に集まったわけではない。手塚治虫が売れてきて前のアパートに編集者の出入りが激しくなって、苦情が出た。そこで『漫画少年』を出していた学童社の社長の次男が住んでいたアパートを紹介したのである。手塚治虫が入居したのが、1953年初頭。そうなると学童社に連載を持つ漫画家をそろって入居させれば会社側も便利である。漫画家側からしても、多忙時に手助けして貰えるから仲間がいると都合が良い。まあそういうことで、ここに漫画家が集結したわけである。
  
 面白いのは電話ボックス。当時の様子を再現してあるが、もちろん使えるわけじゃない。公園にはキレイなトイレや売店もある。好きな人には一杯見どころがあるんだろうけど、そろそろ先を急ぎたい自分はさっと通り過ぎてしまった。そこから歩いてトキワ荘通りを椎名町方面(山手通り方面)へ歩く。少し行くと、有名な中華料理店「松葉」がある。ここは若き漫画たちがいつも食べていたところで、藤子不二雄の漫画によく出てくる。ところで、ホンモノのトキワ荘はこの「松葉」の道を隔てたちょっと奥にあり記念碑がある。こんなに近いんだから、良く行くはずである。
  
 通り沿いにはトキワ荘マンガステーショントキワ荘通りお休み処昭和レトロ館など、いろんな昭和レトロっぽい施設が出来ている。マンガステーションではトキワ荘関係の漫画家の作品をただで読めると書いてあった。しかし、平日午後にそうそうヒマな人はいないだろうから、どこも閑散としていて入りにくい。僕も外から写真を撮って、今日はオシマイとした。
  
 最近池袋東口に「アニメ東京」という施設が出来た。その他アニメ関係のお店が集中している。好きな人はそっちも回ると良いんだろうけど、池袋駅まで歩いて終わり。まあ、一度は行ってもいい施設だろう。正式には「豊島区立」が付く。
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藤野千夜『じい散歩』を散歩するー池袋周辺散歩

2023年12月17日 22時09分56秒 | 東京関東散歩
 いつも本を読んでて、今の本が終わったら次はこれ、その次はと大体順番を心積もりしている。でも時々は突然ズレてしまうこともあり、最近は藤野千夜じい散歩』(双葉文庫)にハマって崩れてしまった。そういう本が評判になっていることは知っていた。2020年に出た本で、2023年8月に文庫化された。僕が買ったのは10月に出たもので、もう第8刷になっている。

 藤野千夜は2000年に『夏の約束』で芥川賞を取った作家だが、この本はむしろエンタメ的な家族小説。「老人ユーモア小説」だけど、定番を裏切る設定が大いに笑えるのである。大体この世の中では、仕事してきた男が定年後に先に弱ってしまう。妻は地域に友人がいていつまでも元気なはずが、この本は全く逆で、90歳近い夫の方が今も毎日散歩する「健康オタク」なのである。

 その家族小説としての紹介は別に書くが、この本はもう一つ「散歩小説」という新しいスタイルを創造した。主人公は椎名町(西武池袋線で池袋の次の駅)に住んでいて、池袋近くに自分が所有するアパートを持っている。その一室を「秘密基地」にして、エロ本、エロビデオなどを収集しているというトンデモ爺さんなのである。そこで毎日のように散歩して「アパート管理」に出掛けるわけである。その時寄り道するお店などが全部実在のもので、ガイドブック的な役割も果たすわけである。

 これを読むと池袋周辺を歩きたくなるが、近年話題のアニメの街みたいな話はもちろん出て来ない。それどころかデパートも家電量販店もウロチョロせず、昔からの店ばかり行っている。そこら辺が面白く、知ってる人には「あるある感」満載で楽しいのである。また建設会社をやっていたので、面白い建築があれば見に行くという趣味があって、池袋にあるライト設計の「自由学園」(重要文化財)を見に行っている。地元なのに、80半ばになるまで見てないのは不思議だが、そういうことを気にしてはいけない。

 この本で初めて知ったのは、梵寿綱(ぼん・じゅこう)という建築家で、もちろん本名じゃない。調べてみると本名が田中俊郎(1934~)という、早大建築科卒の建築家である。「日本のガウディ」と言われているらしい。「賢者の石」という不思議な建物が南池袋にあるという。ネットで調べると、南池袋公園そばの本立寺隣とあるから探しにいった。
   
 確かに装飾過多の不思議な建物が見つかった。会社が入っているから、そばで撮影するわけに行かない。でも小説にはマンションの中を見られたという記述がある。探すと確かにキラキラした不思議空間が見つかった。何じゃ、これ。
 
 そこから池袋駅に戻って、西武線で東長崎駅へ。実は散歩したのは夕方に文楽を見た日で、この際だから「トキワ荘マンガミュージアム」を見たいと思ったのである。(それは別記事で。)そこから椎名町駅まで歩く。ここは昔いとこが下宿していて何度か行ったことがある。蕎麦屋の名店「」が初めて開店したのもこの近くで、学生時代に食べに行った。まあ、一般的には「帝銀事件」が起きたことで知られている町だが、今じゃそれを言っても知らないかもしれない。
 (長崎神社)
 この地域で一番大きな長崎神社が駅のすぐそばにある。主人公(明石新平)一家もここに初詣に行くらしいが、名前は出てない。そこから歩いて15分ぐらいのところに「秘密基地」のアパートがあるというから、西池袋周辺なんだろう。新平は山手通りを歩いて、立教通りに出ている。今は無電柱化工事ということで一方通行になっていた。五号館手前を曲がって、旧江戸川乱歩邸を見に行ってる。そう言えばクリスマスツリーを今年は見てないなとかつぶやいている。
(旧乱歩邸)(昼間のツリー)
 立教通りを歩いていて、新平は文庫BOXという本屋で「官能小説」を買った。「大地屋(おおちや)」書店が本当の名前だが、ほぼ文庫だけ置いてある書店である。外国作家は別だけど、日本人の文庫は出版社ごとじゃなく作家ごとに並んでるのが特徴。つまり、普通の本屋は新潮、角川、講談社などが別になってるけど、ここはただアイウエオ順で置いてある。だから買いたい本の著者名が判っている場合探しやすいのである。ちょっと前の文庫を見たいときは役に立つ。14日はやってなかったので、15日にもう一回行ったら、ここに続編の『じい散歩 妻の反乱』があったので買ってしまった。(文庫じゃない本も少しある。)
 (ロサ会館)
 そこから西口をブラブラして、ロサ会館のゲームセンターでクレーンゲームをしたりするから、実に不良老人である。まあ昔は遊んでいたらしい。酒は昔から苦手な口で、大の甘党である。特に西口の「三原堂」がお気に入りで、何でもご褒美が和菓子なので子どもから「あんこが貨幣」なんて言われている。特に乱歩先生お気に入りの「薯蕷饅頭」(じょうよまんじゅう)を主人公も愛好している。山芋を生地に使うのが特徴。「池ぶくろう最中」とか「池袋 乱歩の蔵」なんてのもある。
   
 これは読めば買ってみたくなるお菓子である。そういう店があるとは聞いてたけど、場所も知らなかった。大学が池袋と言っても、学生は和菓子屋など用はない。でも今や減塩に気を遣う日々で、アルコールもダメ。バターやクリームたっぷりの洋菓子も控えた方がよい状況に陥っている。そうなると和菓子は実に貴重で、塩分使用量が少ない上、脂肪分も少ない。まあ、こんにゃくゼリーならいいだろうけど。さて、食べてみた「薯蕷饅頭」は上品な甘さで口に甘さが残らず確かになかなか美味しかった。

 主人公の新平は年に似合わず、和食より洋食党である。散歩するとあちこちの洋食屋や喫茶店でしっかり食べるという驚異の老人なのである。特にお気に入りは池袋東口の「タカセ」。大正9年創業という「池袋では知らない人がいない」というパン・洋菓子店である。西武デパートからロータリーをはさんで真向かい辺りにある。2階が喫茶、3階がレストランになっていて、主人公はここの喫茶の常連で係の女店員と仲良くしている。この店は不思議なパンをいろいろ売っているが、特に主人公お気に入りは「あんみつドーナツ」。揚げパンにあんこと求肥が挟んであるという甘そうなパンで、続編ではこれを買って雑司が谷霊園を散歩している。
 
 ここも上の方は入ったことがなかったので、この機会にと思い入ってしまった。ケーキセットなんか食べてる場合じゃないんだけど。ケーキは古風な感じで、駅真ん前にありながら「昭和」が生き残っているようなところである。それが新平お気に入りのところなんだろうけど、店内部は客が多くて写真を撮れない。窓際席が取れれば駅前が見られていい感じ。ケーキは無くなっちゃった浅草の有名喫茶店「アンヂェラス」を思わせる。昔風の味が懐かしく、また行ってみたいなと思った。
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根津神社から上野公園まで散歩

2023年12月04日 20時19分18秒 | 東京関東散歩
 入院していた日本医科大病院に書類を書いてもらう用事があったので、そこから直近の根津神社谷中霊園を通って上野公園まで歩いてみた。(上野駅で切符を買う用事もあった。)大した散歩じゃないけれど、それでも1万3千歩歩いたし、ちょうどイチョウが黄葉して見事だった。晴れ渡って青空がキレイな日だったが、月曜日だから諸施設が閉館だったのが残念。もちろん判っていて今日行ったのだが。地下鉄千代田線千駄木駅から団子坂を上って、「団子坂上」信号を左折5分程度で日本医科大病院に着く。案外近いところにいたのか。そこから道路を渡れば、そこがもう根津神社である。
   
 根津神社はツツジの名所として知られていて、その時期にはいっぱいの見物客で賑わう。今は静かな時期だが、案外外国人客が多かった。現在の社殿は1706年に後の6代将軍徳川家宣(当時は甲府藩主)が献納した土地に建てられた。それ以前に太田道灌も社殿を建てていたという。国の重要文化財に指定され、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされているという。重文なんか各地にいっぱいあるけど、震災、空襲を経た東京では貴重な文化財である。
   
 昔は根津権現と呼ばれていて、昔の小説にはその名で出て来ることが多い。また、この地域は江戸郊外でかつては遊郭があった。元々は非公認のものだったが、幕末には幕府の許可を得て営業していたようだ。明治になって、1888年6月で廃止され州崎(現在の江東区)に移転した。禁止の理由は東大(当時はただの帝国大学)がすぐそばに出来たからだと言う。近年の直木賞受賞作木内昇『漂砂のうたう』や西條奈加『心寂し川』がこの地域を舞台にしていて、何となく昔の風情を残している気がする。
  (谷中霊園)
 根津神社からひたすら東方向に歩くと谷中の寺町に出る。こんなにお寺が集中しているところは他にないと思う。さらに進むと谷中霊園に出る。都立の霊園だが、有名人の墓が多いことで知られる。もっともちゃんと調べてこなかったから、どこにあるのか判らない。というか、お墓めぐり(「掃苔=そうたい)という趣味がなく、墓にそれほど興味がないのである。ただ都会に真ん中にありながら静かな空間が広がっていて、それが散歩に向いている。ここからは遠くにスカイツリーが見える。徳川慶喜、渋沢栄一、横山大観、牧野富太郎、鳩山一郎などの他、最近では森繁久彌、平尾昌晃などの墓もあるらしい。
   
 あまり長居しないで、さっさと上野公園に向かう。上の最初の写真は旧吉田屋酒店で、下町風俗資料館付設展示場になっている。次が東京芸術大学で、ここもイチョウが凄いので撮ってみた。続いて国際子ども図書館(旧上野図書館)。最後が東京国立博物館本館だが、いつもは人が並んでいる。青空の下、こんなに人がいない写真。
   
 後は上野公園内のイチョウを撮って歩く。ホントに今日がまさに黄葉日和だった。美術館、博物館が多いところを歩いたが、全部閉まってた。日本医科大病院書いてもらう書類は12月にならないとダメなもので、12月1日はつい行きそびれた。他の日でもいいんだけど、早く処理したいと今日にした。しかし、施設的なところが全部閉まってるのも詰まらないもんだ。併設のカフェやミュージアムショップも全部やってないわけで。最後は国立西洋美術館。何度も行ってるけど、今や世界遺産。ここも月曜じゃなければロダンの彫刻を近くから見られる。上野公園散歩は前にしていて、銅像などはその時にいっぱい写真を撮ったから、今日はこれだけで終わり。何だか載せる意味があるか疑問だが、イチョウと青空がキレイなので記録しておこう。
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桜田門、皇居外苑から乾通りー江戸城散歩②

2023年11月29日 22時40分25秒 | 東京関東散歩
 一週間前に江戸城本丸跡、つまり「皇居東御苑」を散歩したけど、江戸城散歩はそれで完結しない。いまお城めぐりをする歴史ファンには「日本100名城スタンプラリー」をしてる人が多い。ところが江戸城に関しては、一番お城っぽい皇居東御苑にスタンプが置かれてない。皇居外苑の和田倉濠噴水公園楠公レストハウスにあるのだ。(もう一つ北の丸公園にもあるらしい。)そんな周辺部でスタンプを押しても江戸城に行ったことにはならないと思うが。

 実は自分もスタンプ帳を持っているのだが江戸城を押してない。二重橋とか楠正成像なんかも行ってない。「皇居」と言われるとあまり関心もなかったし、地元の人はいつでも行ける場所には行かないものだ。(東京タワーも子どもの頃に行っただけ。)ということで「江戸城散歩②」をしてきた。せっかくだから12月3日までやってる「乾通り一般公開」も行ってみた。

 まずは霞ヶ関駅まで行って桜田門まで歩く。(有楽町線に桜田門という直近の駅があるが、自分の家からは一本で行けない。)ここは「桜田門外の変」が起きた場所である。関東大震災で被災して復元されたというが、基本は1663年に建造された門がもとになっている。国の重要文化財にも指定されていて、そこを自由に出入りできる。知らない人が結構いるけど、ここは一度は行っておくべきだろう。桜田門には二つあって、ここは「外桜田門」。通ると「櫓門」がある。
(外桜田門)(櫓門) 
 ところで門に行くまでにお濠を渡ることになる。そこで見られる石垣や内濠が素晴らしいのである。この水景の魅力は日本の城の中でもベスト級だろう。皇居一周マラソンをする人がいるが、「江戸城」としてきちんと評価する人が少ない。今は外濠は埋め立てられているが、元は数寄屋橋やお茶の水駅前の神田川なん外濠である。そのような広大な城だったのである。東京都心部を歩けば、それはすべて江戸城散歩だった。そして北に寛永寺、南に増上寺という将軍家の寺が配置されていた。
   (桜田門交差点)
 桜田門を抜けると、広場になる。ここが「皇居外苑」で、僕はちゃんと行ったことがない。取りあえずスタンプがあるところを目指すが、東京人なのによく知らずにウロウロしてしまった。まあ、それで良いのである。何故なら少し歩こうというのが主目的なので。広場に生える松が素晴らしい。
  
 楠正成像が先にあるはずが判らずにずっと歩いていたら、乾通りを目指す大量の人々が歩いている。それを避けながらずっと歩くと、東御苑の案内が出て来てしまった。アレレと思ったら、実は和田倉濠噴水公園は内濠通りの向かい側にあるのだった。
  (和田倉濠の説明)
 続いて二重橋を探す。昭和天皇のイメージが離れないが、ちゃんと見たことがない。見ても良く判らないけど。
 
 それで楠正成像楠公レストハウスはどこにあるんだ? 和田倉濠の無料休憩所にあったマップを見ると、これも内濠通りの外側、日比谷公園から日比谷濠を隔てて隣にあるじゃないか。この銅像は上野公園の西郷隆盛像靖国神社の大村益次郎像と並び、東京三大銅像なんだそうだ。住友グループのホームページにそう出ている。何で住友かというと、これは別子銅山開坑200周年を記念して、住友が宮内省に献納したのだという。(ホームページには宮内庁とあるけど、明治の話なんだから間違い。)東京美術学校の高村光雲を中心にして総力を挙げて作ったという。1896年に銅像が完成し、1900年の台座完成を待って竣工した。ところで、日本史上最大の「大忠臣」、楠正成を知る人も今ではどれだけいるだろうか?
   
 最後に「乾通り」。荷物検査とボディチェックがある。面倒くさいけど、一度は見る価値はあるだろう。何しろ江戸城の真ん中を突っ切れるのである。ゆっくり歩いて30分程度。混んでいるようで、中に入れば案外空いている。紅葉はそれほどなく、江戸城史跡を見る意味が大きい。入るのは坂下門。ここは坂下門外の変の起こったところで、一日で桜田門、坂下門を見られた。少し歩くと宮内庁の建物が古そうだ。そして先週見た富士見櫓を反対側から見ることが出来る。
(坂下門)(宮内庁)(富士見櫓)
 石垣や紅葉を見ながらゆっくり歩くと乾門に着く。案外あっという間。道行く人々は木々を背景にスマホで写真を撮るのに夢中で、石垣などに関心はないようだった。今回もレストハウスなどには皇室関係の土産ばかりで、江戸城関係の本がない。
  (乾門)
 自宅への行き帰りを含めて、1万6760歩。これはなかなか歩いた。お濠に関してはまだ半分以上見ていない。
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江戸城散歩①ー皇居東御苑を歩く

2023年11月22日 22時22分36秒 | 東京関東散歩
 めっきり朝晩冷えるようになったが、今日の昼間は暖かいぐらいの一日。入院中に足が弱くなって、少し歩いただけで筋肉痛という困った状態である。そんな中もう少し歩いてみたいと江戸城を散歩してきた。(特別史跡)の「江戸城」は徳川将軍の居所だったところだが、薩長に乗っ取られて天皇家の居所になった。故に今は「皇居」と呼ばれているが、その東半分は「皇居東御苑」として公開されている。案外そのことを知らない人もいて、東京人に行ってない人が結構多い。僕は学校などの行事で三度ほど行ったが、個人で行ったことがない。そこで、今日の日に合わせて(?)夫婦で散歩してきた。
 
 最寄り駅は地下鉄大手町駅で、ここは5つの路線が集中している。その中で千代田線が一番近い。別に調べていったのではないが、たまたま家から一番近い路線を使ったら便利だった。「大手門」方面を目指しエスカレーターに乗ると、向こうの方にもう見える。お濠に掛かる橋を渡ると荷物検査があり、外国人観光客がいっぱい並んでいる。その向こうの大手門は空襲で焼けて再建されたもので、写真は省略。入ると三の丸尚蔵館がある。天皇家所蔵だった宝物を展示するところで、昔は無料だった。改築後の今月仮開館して、千円取るようになった。ネット予約が必要だし、内容に特に関心ないのでパス。
(同心番所)(百人番所)(大番所)
 大手門近くに三つの番所が残されている。もちろん再建だが、要するに警備員詰め所である。最初が同心番所、続いて百人番所、石垣を入ると大番所がある。当然ながら、本来はもっと多くの番所があったという。写真が撮りにくい(逆光のため)が、百人番所の向こうに大手町のビル群が臨めるのが面白い。この辺りから石垣が続いて来る。昔は石垣しか残ってない江戸城に何か物足りなさを感じたものだが、最近お城ファンが増えて本やテレビ番組が多くなった。そうすると、天守閣より石垣に目を向けてこそファンみたいな感じがしてきた。そういう目で見ると、さすが将軍の城である江戸城は日本ベスト級なのである。
   
 ちょっと大きさが判らないかもしれないが、とにかく一つの石が大きい。畳より大きい石がキレイに切り取られ整然と積み重ねられている。一体どうやったのだろうか? これらの石は「伊豆石」と呼ばれるもので、伊豆半島から切り出されて海上を運ばれてきた。火山性の岩石で、種類としては安山岩だろう。江戸時代初期に有名な大名たちが動員され建造されたもので、Wikipediaを見ると加藤清正、池田輝政、福島正則、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎ら自らも名城を築いた大名たちが名を連ねている。
   (ツワブキの花)
 少し坂を登っていくと、広場に出る。本来は広場ではなく幕府中枢部の建物が集中していたところである。「松の大廊下跡」とか「大奥跡」の表示があるが、要するに説明板があるだけなので省略する。こんなところにあったのかと思うけど、今は何もなく芝生が広がっている。そして奥に天守台が見えている。一応そこが目的地ということになる。ここが良いのは、あちこちにベンチが置いてあって晴れていれば休憩しやすいことだ。今日は遠足で来ている小学生がいっぱいいた。
   
 天守台とは要するにかつて天守閣があった場所である。ここも石垣が素晴らしいが、それよりも坂を登ると江戸城の最高地点に立てるのである。天守閣は江戸初期に三度築かれ、1657年の明暦の大火で焼失した。そして、そのまま江戸市街復興を優先して再建されなかった。なくても治政上問題なしと判断したのである。最近江戸城天守再建論があるが、僕はなくて良いのではないかと思う。空襲で焼けた、あるいは少なくとも維新期に無くなった城は再建したいという議論が起きても不思議はない。でも江戸城の場合、360年以上無かったのだからそれで良いのではないか。なお、英文の説明を読んでいて、天守閣は英語で「Keep」だと知った。
  (大きなクスノキ)
 その後、どこに抜けるか(出入りできる門は3つある)と思ったが、西南角にある富士見櫓をいつも見逃すのでそっちへ向かってブラブラ歩いた。林間を歩くと竹林があり、中にシホウチクもある。四角い竹である。また石室も出てきた。これは冷やすのではなく、火事の際に大奥の備品を避難させるところだったという。非常に大きなクスノキも2本あった。
                 
 西南角にある富士見櫓は空襲で焼けなかったが、関東大震災時に損壊したため解体して復元したという。ここはお濠越しに外から見る方が美しいのではないかと思う。中には入れない。ビルが建ち並んで、今は富士山が見えないという。しかし、江戸時代には富士山方向に江戸市街を眺望出来たのだろう。
 
 グルッと回って広場に戻って、「展望台」があるので一応寄ってみる。展望台と言っても、今ではビル街の展望である。下には白鳥濠という孤立したお濠があって、上から見られる。展望台下にトイレと休憩所がある。土産も売ってるが、皇室関係ばかりで江戸城の歴史本がほとんどない。まあ、そういう場所だと思うしかないのかと思うが何とかならないか。
  
 1万歩近く歩いて、少し疲れてきた。北の丸公園まで歩こうかと思っていたが、大手門に戻って「将門の首塚」を見て帰ることにした。再開発中ですっかり明るくなっていてビックリ。案外家から近く、12時少し前に出て、3時半頃には帰って来た。駅までの往復を入れて、1万600歩ほど。②はいずれ周辺を歩いて書きたい。
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ハチ公生誕百年展ー渋谷区郷土博物館と國學院大學博物館

2023年10月01日 21時54分45秒 | 東京関東散歩
 散歩というほどじゃないんだけど、「渋谷区立郷土博物館」でやってる「ハチ公 生誕100年記念展」を見てきた。(10月9日まで。)教育映画として作られた「ハチ公物語」(1958年、50分)の上映が午後にあるのは今日が最後だから行っておこうかなと思ったのである。場所がよく判らないが、地図を見ると國學院大學の近くである。そう言ってもよく知らないが、簡単に言えば青山学院大学の裏の辺りの地域になる。渋谷駅から歩いて15~20分ぐらいだが、土地勘がないのでバスで行った。行きは渋谷区のハチ公バス、帰りは國學院大學前から渋谷行きの都バスに乗った。

 ハチ公バス「郷土館・文学館前」で下りると、真ん前に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」がある。白根って誰だと思うと、白根全忠という元渋谷区議会議員。「そんな人しらねえ」と皆言うだろうけど、この博物館の土地を提供した人だという。1階に入ってすぐにハチ公像があり、その奥でハチ公展をやっている。2階が郷土博物館、地下2階が文学館になっている。郷土博物館はどこも似ているが、ここは前近代が少なく、現代(戦後)の渋谷の発展が詳しい。
(ハチ公像)
 ハチ公展は写真を撮れず、カタログもないけど、ハチ公及び飼い主の上野英三郎(1872~1925)博士、上野夫人に関しては非常に充実した展示になっている。特に夫人に関しては僕もほとんど知らなかったので、いろんな事情があったのことを知った。ハチ公は周知のように秋田県大館市で生まれた「秋田犬」で、1923年11月10日に生まれた。(日付には異説あり。)そこで今年が生誕百年ということになるわけだが、上野博士は1925年に亡くなっている。具体的には5月21日である。そうすると上野博士のもとで飼われたのは、1年半もなかったのである。その後ハチ公は1935年3月8日に死ぬまで、10年近く生きた。

 ところで今になって思うのだが、上野博士は毎日渋谷駅からどこへ行っていたのか。それは東大教授なんだから東大に決まってるわけだが、当時は東大農学部は駒場にあった。一高と土地を交換して本郷に移ったのは1935年のことである。駒場だったら京王井の頭線かと思うと、その開通は1933年。それとも上野博士担当の「農業工学」は当時から本郷だったのか。それにしても渋谷からではルートが判らない。秋葉原・神田間がつながって山手線が環状運転を開始するのは、1925年11月で上野博士の没後である。いや、こんな疑問はきっと解決済みなんだろう。僕は今初めて疑問に思ったので、事前に気付いてたら博物館で聞いたのに。
(郷土博物館) 
 それはさておき、午後2時からの映画上映の整理券を1時から配布するという。博物館を見てたら結構並んでて33番になった。上映まで1時間あるので、國學院大學博物館に行ってみた。歩いて1分ぐらいである。非常に広くて、今までに見た大学博物館でトップ級なのに驚いた。神社の歴史や考古資料の展示が充実していて、郷土博物館とはレベルが違う感じ。まあ神社、神道、国学には関心が薄いので通り過ぎる程度だったが、関心と時間がある人には非常に充実した場所だろう。関東大震災時の折口信夫に関する展示があり、朝鮮人虐殺に激しく怒っているのが印象的だった。
(國學院大學博物館)
 郷土館に戻って、映画の上映。「ハチ公物語」は1958年に作られた教育用の映画と思われ、近年になって再発見された。監督は中川順夫(なかがわ・のりお、1909~2004)という人で、劇映画も手がけたが主に脚本家や記録映画で活躍した人らしい。僕は初めて聞いた名前で、「中川信夫」かと思ったぐらいである。ハチ公像の前で教師がハチ公の伝記を語り始めるという劇映画。戦後のシーンはロケが興味深いが、戦前の駅などはセットだろう。まあ大した映画じゃないが、「ハチ公伝説形成史」的な意味で興味深い。それに幼犬期、成犬期、老犬期と秋田犬を3頭用意していて、特に子犬の時期がカワイイのである。子犬は何でもカワイイとは思うが、秋田犬の中でもとりわけ美犬を選んでいるだろう。

 そこから渋谷駅に戻って、やはり最後にハチ公の銅像を見ていこうか。自分の家の場所から遠く、僕はハチ公前で待ち合わせをしたことがない。通りすがりに見てはいるけど、ちゃんと見たことがないのである。まあ東京人は大体そんなものだろう。今はもう写真を撮るために外国人観光客が列を作っていて、ここで写真を撮ろうとしている日本人などいない感じだった。そういう話は聞いていたけど、今は「世界のハチ公」なのである。
 (写真を撮る人々)
 ところで國學院大學の近くに実践女子大もある。そこにも香雪記念資料館があるが、日曜休みなので見られない。そこは下田歌子が創立した学校がもとになり、香雪は下田歌子の号だという。また向田邦子文庫もある。渋谷からほんのちょっと離れたところに大学が集中しているとは知らなかった。ハチ公の映画上映は、8、9、10の午前10時にも予定されている。
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