尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『関心領域』、アウシュヴィッツ収容所の隣の「美しい庭」

2024年05月31日 22時07分27秒 |  〃  (新作外国映画)
 青年座の舞台を見る前に、映画『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督)を見ていた。2023年のカンヌ映画祭グランプリ、2024年の米国アカデミー賞国際長編映画賞の受賞作である。世界各地で非常に高く評価された「社会派アート映画」の傑作だが、そんじょそこらのホラー映画よりずっと怖い。エンタメとして作られたホラー映画は、怖いぞ怖いぞという気分を盛り上げる仕掛けがあざといが、この映画は声高には語らない。ドキュメンタリー映画のように、ある人々を静かに見つめるだけである。ところどころ理解出来ないような描写もあって、少し事前に調べていった方がいいかもしれない。

 『関心領域』(The Zone of Interest)は、第二次大戦中にドイツ軍がポーランドに建設した「アウシュヴィッツ収容所」のルドルフ・ヘス所長一家の生活を描く。彼らは収容所の隣に住んでいる。映画はほぼドイツ語で進行するが、製作はイギリス・アメリカ・ポーランドの合作。イギリス作家マーティン・エイミス(1949~2023)の2014年の小説が原作になっている。(早川書房から翻訳。)ルドルフ・ヘスと言えば、ナチ党副総統で1941年にイギリスに逃走した人を思い出す。しかし、それは「ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス」で、この映画に出てくるのは「ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス」で別人。
(庭で遊ぶ一家)
 紹介文をコピーすると、「空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻ヘドウィグら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?」 
(家族を見つめるヘス)
 画面には美しい庭園が見事に映されている。その向こうに壁があり、煙突から煙が出ている。それが何の煙なのか、この映画を見る人は知っている。それでも所長一家はそこで「美しい暮らし」を営んでいる。ヘスは1940年4月にアウシュヴィッツ収容所の初代所長として赴任し、「絶滅収容所」として「整備」した。夫人のヘートヴィヒ・ヘスは、美しい庭園を作り上げ「東方入植者」のモデルを自負する。アウシュヴィッツの社交界に君臨し、まさに理想の生活を送っていた。1943年秋にルドルフは所長を退任し異動するが、妻は納得せず彼は単身赴任せざるを得なかった。その夫婦トラブルがこの映画一番の見どころか。
(所長夫人)
 妻は何も知らなかったのだろうか? いや、そうではないことがセリフの端々にうかがえる。見たくないものを見ないのではなく、自分たちが「上」なんだと思い込んでいる。普通だったら、夫は隠すべき仕事に携わっていると思いそうだ。だが、それなら収容所から遠くに住んで夫だけ「通勤」すれば良い。まさに隣に住んでいて、何も感じないのである。妻を演じたのは『落下の解剖学』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたザンドラ・ヒュラーで、驚くべき演技だ。夫ルドルフは『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(2015)でヒトラー暗殺未遂犯ゲオルク・エルザ―を演じた、クリスティアン・フリーデルという人。
(ジョナサン・グレイザー監督)
 米アカデミー賞国際長編映画賞には、セリフの半分以上が非英語であるという条件がある。それさえクリアーすれば、英語圏の映画でもよく、今までもカナダのフランス語圏映画が受賞している。『関心領域』はイギリス代表としてノミネートされた。(他にも作品賞、監督賞、脚色賞、音響賞にノミネートされ、音響賞も受賞した。)なお、ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』は日本代表でノミネート、ドイツの代表でノミネートされたのは今公開中の『ありふれた教室』だった。

 脚本、監督のジョナサン・グレイザー(1965~)は、ニコール・キッドマン主演の『記憶の棘』(2004)やスカーレット・ヨハンソン主演の『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013)などを作った人だというが、見てないからどういう人か判らない。何でもへス邸は残っていて、近くにレプリカを建設したという。2021年夏に撮影され、それに合わせて春から庭園を造り始めた。ヘス夫妻は下働きにポーランド人を使っていて、監督は90歳の体験者に会ってリサーチ出来たという。

 この映画を見ていて、どうしてもイスラエルのガザ攻撃を思わずにいられない。その他世界中に「(実際の)壁」や「見えない壁」が存在する。隣で何があっても、見ない人もいる。それは世界中で共通するだろう。『オッペンハイマー』で「被爆者が描かれていない」と評した人は、『関心領域」でも「ホロコーストの実態が描かれていない」と評するのだろうか。そうじゃないとおかしいはずだが。しかし、我々には「想像力」があり、その力は映画を越えて今の現実をも撃つはずだ。
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劇団青年座『ケエツブロウよー伊藤野枝ただいま帰省中』を見る

2024年05月30日 21時59分25秒 | 演劇
 創立70年の劇団青年座が開館60年の紀伊國屋ホールで、『ケエツブロウよー伊藤野枝ただいま帰省中』を上演している(6月2日まで)。何だか判らない題名だが、伊藤野枝と故郷の家族を描く演劇だと知ったら見たくなった。マキノノゾミ作、宮田慶子演出。29日の夜に見たが、やはり夜に出掛けると外食するから、血圧に影響してしまう。演劇や長い映画は拘束時間の関係でしばらく控えようかと思ってたけど、見逃さなくて良かった。とても面白く見ごたえがある舞台だった。

 大正時代の女性運動家伊藤野枝(1895~1923)と言えば、波瀾万丈の生涯を送った人物として知られる。余りにもドラマチックな人生を生き急ぎ、たった28歳で国家権力に虐殺された。その波乱の現場はおおよそ東京近辺だった。この前、野枝の生涯を描いた映画『嵐よあらしよ劇場版』を見たばかりだが、そこでは東京(と周辺の県)しか出て来ない。それが伊藤野枝を描くときの定番で、何しろ彼女の生涯に登場する多士済々の人物こそ面白いのである。野枝にももちろん故郷と家族があったわけだが、そっちは普通省略される。一方この劇では正反対に、故郷の家しか描かれないのである。

 だから舞台上には故郷の家が作られて、そこから動かない。幕は使わず、途中で休憩を挟んで4場のドラマが繰り広げられる。いずれも野枝が帰郷したときに家族・親戚が集まるシーンである。この設定が工夫で、やはり作者マキノノゾミの才能だと思った。現代日本で一番活躍している劇作家(の一人)ならでは。その故郷というのは、福岡県今宿(現・福岡市西区)なので、そうそう気軽に帰省する機会がない。東京で貧窮していた野枝は、人生で数回しか帰れなかったのである。
(マキノノゾミ)
 前半では「強いられた結婚を破談にするための帰省」(1912年、17歳)と「辻潤と長男まことを連れた帰省」(1915年、20歳)の2回。後半では「大杉栄と長女魔子を連れた帰省」(1918年、23歳)と「没後に訪ねてきた同志村木源次郎」(1924年)が描かれる。実は1922年に三女(エマ)と四女(ルイズ)を連れて帰省しているが、それは省かれている。この間、野枝(那須凛)は常に家族と揉め続け。最初は家で決めた結婚を断固否定する。次は辻潤とうまくいかなくなり、辻が「浮気」をしたという。何より「自立」を重んじる野枝に親の統制は効かない。祖母サト(土屋美穂子)は野枝の決断を認めるしかない状況を見事に演じる。

 後半では新聞を賑わせたスキャンダル(日蔭茶屋事件)が起こり、「無政府主義者の巨頭」大杉の娘を産んだ。母の姉の夫、代準介横堀悦夫)は頭山満配下の国家主義者で、二人を別れさせ野枝をアメリカに行かせる、と意気込んで乗り込んでくる。そこに大杉を慕う八幡製鉄所の工員もやって来て、喧々諤々の大論争に発展。結局、皆が踊り出してしまうシーンは傑作。その場では無政府主義と言っても怖いものではなく、日本古来よりつながる共同体の営みこそ「国家に縛られない仕組み」だと示唆する。主義に賛同出来ずとも、大杉はともあれ「ひとかどの人物」で、辻より野枝に相応しいと家族も何となく納得(?)。
(宮田慶子)
 この休憩開けの3場がとりわけ興味深く、次第に大杉のアジテーションに皆が感化されてしまうあたり、見事な演技と演出だった。それはマキノノゾミ戯曲との付き合いが長い宮田慶子の手堅い演出ぶりも大きい。そして、もう見る前に知ってるわけだが、突然の死を迎える。野枝と大杉はこの時は「お盆」に幽霊となって戻って来るという設定。震災での無事を知らせるハガキが野枝から届いていた。それを見た同志「源さん」の深い怒りと悲しみ。大杉の霊は村木は復讐を考えていると言い当てる。(歴史的事実だから書けることだが。)哀切な思いを残して劇は終わる。

 最後に題名の話をすると、「ケエツブロウ」は水鳥の「かいつぶり」のことだった。伊藤野枝が「青鞜」に掲載した詩「東の磯」に出ている。それを青空文庫で見てみると、「東の磯の離れ岩、/その褐色の岩の背に、/今日もとまつたケエツブロウよ、/何故にお前はそのやうに/かなしい声してお泣きやる。」途中省略して、ラストは「ねえケエツブロウやいつその事に/死んでおしまひ!その岩の上で――/お前が死ねば私も死ぬよ/どうせ死ぬならケエツブロウよ/かなしお前とあの渦巻へ――」とどこか自らの最期を思わせ示唆的だ。野枝は大杉とともに死にたいと語るセリフがあったのである。

 新宿の紀伊國屋ホールは、椅子は改装されたが昔の感じが残されている。俳優座劇場が閉館すると、もう70年代からそのままの劇場はなくなってしまう。チラシがたくさん置かれているのも昔と同じ。懐かしい空間がいつまでも残って欲しい。
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「教職調整額10%」以外に多くの問題が潜む中教審「審議まとめ」

2024年05月28日 22時01分43秒 |  〃 (教育行政)
 いわゆる給特法により支給される「教職調整額」を現行の4%から10%に増額するという案が公表された。この問題に関して一度きちんと書いておきたいと思いつつ、なかなか機会がなかった。この問題については校種や教員個々にとっても状況が大きく違っていて、全員の意見がまとまるということはないだろう。僕はベストの案とは思ってないが、「やらないよりはまし」なのか、「やらない方がまし」なのかの判断が難しい。NHKニュースが「定額働かせ放題」という表現を使って報道し、文科省が抗議したというニュースもあった。この問題をどう考えれば良いのだろうか。
(ニュース報道)
 何だかもう決まったかのように書いてる人も多いけど、まだ中教審の答申にも至っていない。中教審の初等中等教育分科会の、さらに下にある「質の高い教師の確保特別部会」で検討された「「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について 」の「審議のまとめ」に過ぎない。それは文科省のサイトにある「令和の日本型学校教育」を担う 質の高い教師の確保のための環境整備に関する 総合的な方策について (審議のまとめ)というPDFファイルで見られる。
(日本教育新聞電子版)
 この10%増額案に関しては様々な意見が飛び交っているが、今回きちんと「審議まとめ」を読んでみて、教職調整額以外にも大きな問題点が幾つもあることが判った。まずは「主幹教諭と教諭の間に新たな職を創設する」という方向性が明記されている。これはすでに10年以上前に東京都で創設された「主任教諭」制度を法的に整備して全国で実施するものと見てよい。東京じゃ、多くの教員が反対していたが、作られてしまったらあっという間に「教員の階層性」が「定着」したかに見える。
 
 第二次ベビーブーム世代の成長に伴って70年代、80年代に大量採用された教員は、2010年頃から大量退職時代を迎えた。東京は全国で一番教員が多いわけだが、もう「管理職以外は全員教諭」という時代を知っている世代は少数派になっているだろう。何でも今では「主幹教諭は上司」と思っている(思わせられている)という話。先の「審議まとめ」では「チーム学校」などと言って教員間の協力体制を構築して「働き方改革」にするようなことが書いている。教育行政は「チーム学校」が大好きだが、何で逆行するようなことばかりするのか。あるいは校長の命令一下整然と働くのを「チーム学校」と思っているんだろうか。

 他に「新卒教員を教科担任にする」(学級担任にしないという意味か?)という教師を増やさないと難しいことも言っている。また学級担任に義務教育等教員特別手当を増額」とも。これは多分「現場」的には賛成が多いのではないか。感覚的には僕も納得する気持ちもあるが、本来学級担任は教科バランスを踏まえながら全員回り持ちで担当するものだ。しかし、諸条件(家庭的、健康的、役職的など)で、担任を持たない(持てない)教師もいる。役職的とは、教務主任や生活指導主任が分掌専任になる大規模校と、分掌主任と学級担任を兼務せざるを得ない小規模校の問題。「チーム学校」的観点からは課題がある。

 もう一つ、「審議まとめ」には明記されていないが、教職調整額を10%にする案が通ったとして、それを「本給扱い」している現行制度が維持されるのかどうかという大問題がある。教員以外には関係ないし、ほとんど知らないだろう。「教職調整額」は本来「残業代なしの対価」ではない。当時の平均時間外業務を調べて4%としたようだが、建前上は「教員の人材確保」が目的だった。従って教育職全員に調整手当が加算されるし、それは「本給扱い」となる。つまり「一時金」(ボーナス)に反映される。「何ヶ月分支給」というときに、(本給+教職調整額)×支給月が払われるのである。
(ぎふきょうそブログより)
 これが10%に増額されると、果たして財政の厳しい地方では同じようにボーナスに反映されるのかという問題がある。そして、さらに大問題なのは、退職金の問題。退職金の支給月数の基準も、本給+教職調整額である。これが10%に増額されても、同じように反映されるのか。上記画像にあるように、もし本給のみ反映となった場合、退職金が100万円近く減額になる可能性がある。逆に言えば、10%増額が実現して一時金、退職金に反映されるなら、これは相当の優遇策となる。だが、そんなことが起こりうるだろうか。少なくとも「退職金には4%のみ加算」などということになりかねない。そういう問題も起こりうるのである。「10%増額」問題そのものは、またいずれ改めて考えることにしたい。
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映画『マイスモールランド』と『遠いところ』、これが日本という国

2024年05月27日 21時52分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 キネカ大森という映画館で「名画座」をやっている。3スクリーンある映画館の1つを「二本立て・自由席」にしているのである。今どき東京にもほとんどなくなったシステムである。そこで『遠いところ』(工藤将亮監督、2023、キネ旬29位)と『マイスモールランド』(川和田恵真監督、2022、キネ旬13位)をやっている(30日まで)。現時点でロードショー公開している映画じゃないけど、作られてから日が浅く内容的にも「新作」と考えて紹介しておきたい。

 どっちも見たいと思いつつ見逃した映画だった。キネマ旬報のベストテン号を見直したら、上記のような順位。つまりベストテンに入るほどの評価ではなかった。僕もその評価は大体同じで、弱いところもあると思った。しかし、社会的に貴重なテーマの「良心作」であり、「佳作」である。『マイスモールランド』から書くが、これは最近思わぬ形で一部で取り上げられている埼玉県川口市在住のクルド人をテーマにしている。父と3人の子で暮らしている(母は母国で死没)一家。主人公のチョーラク・サーリャ嵐莉菜)は、日本の高校に通う17歳の高校3年生。大学進学を目指していて、学校には友だちもいる。
(学校で)
 嵐莉菜(2004~)は優しい仕草に時々見せる鋭い眼差しが印象的。父はイラク、ロシアにルーツを持つ元イラン人(日本国籍)、母親は日本とドイツのハーフいう。本名はリナ・カーフィザデーだが、父親のアラシ・カーフィザデーから嵐という芸名にしてモデル活動をしている。この映画には実の父と妹、弟が同じ役で出演している。つまり出自的にはクルド人ではないわけだが、自分のアインデンティティに悩む生育歴を持つことは共通している。「ワールドカップでどこを応援するのと聞かれ、ホントは日本と答えたかったけど、いけないのかと思ってドイツって答えた」というセリフがあるが、実体験をセリフに取り入れたという。
(一家でラーメンを食べに行く)
 サーリャは小学校の教員が親切に対応してくれて、日本語も早く使えるようになった。一番年長だからクルド語も使えて、周囲の大人の通訳として重宝がられている。学校でも地域でも家庭でも良い子で、頑張ってきた。大学へ行きたいとコンビニでアルバイトを始めたが、それは川を渡った東京の店だった。そこで崎山聡太奥平大兼)というボーイフレンドも出来て充実した日々は突然暗転する。父親の難民申請が却下され、「仮放免」となったのである。働くことは出来ず、埼玉県以外に出るには許可がいる。ビザが不安定なので、大学への推薦もダメになる。それでも秘かに働いていた父親は、見つかって入管に収容されてしまう。
(難民申請が却下される)
 父親がいなくなり家賃を払うお金にも困ってくる。「パパ活」している同級生もいて、つい心も揺れる。そんな中、父親はある決断をするのだが…。映画は最後まで描かないけど、この一家は一体どうなったんだろう? 楽観的な見通しを安易に語ることは出来ない。クルド人の文化、あるいはムスリムの風習などがきめ細かく描かれ興味深い。川和田恵真監督(1991~)はイギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、主人公のような悩みを抱いてきたという。2017年から企画された映画で、自ら小説化もしている。主人公がちょっと出来過ぎという気もするが、嵐莉菜の魅力を引き出す設定だ。

 もう一本の『遠いところ』は、沖縄の貧困問題を描いている。ホームページから引用すると、「一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位」という沖縄県。コザに住む新垣あおい花瀬琴音)は17歳ですでに2歳の子がいる。夫は働きたがらず、暴力も振るう。キャバクラで働いて生計を立てているが、未成年を雇っているとして警察に摘発されてしまう。自分の父は頼れず、母もいない。時々子どもを預ける祖母もいい顔をしない。
(「夜の街」で生きる)
 そうなると、さらに直接「フーゾク」で身を売る以外に道はあるのだろうか。そうして子どもを一人で放っていると、匿名で通報されてしまう。これでもか、これでもかと負の連鎖にはまるあおい。二人の出会いが描かれないが、どうしてこんな男と一緒にいるんだろう。定番的設定だが、「妻子」がいるのに働く気がない男。親になるには早すぎたのか。工藤将亮監督(1983~)は多くの監督の下で助監督を務め、『アイム・クレージー』『未曾有』に続く長編第3作だという。現実を提示するだけで、解決の方向性が見えないドラマだが、それが現実の日本ということだろう。

 『遠いところ』の花瀬心音は2002年生まれなので、撮影時20歳を越えていただろう。飲酒喫煙シーンもあるし、あからさまなセックスシーンもあるから、今は20歳以下では難しい。そのため学校で見せるわけにはいかない映画だが、『マイスモールランド』は学校で鑑賞するのに相応しい。もっとも「何でサーリャがこんな目に合うのか」と質問されても教員が困ってしまうだろうが。それに両作とも、「世の中はお金」であり「手っ取り早くお金を得るのはフーゾク」という「日本社会の現実」が描かれている。これが日本という国なのだ。
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B&Bの宿大東館と小室山ー伊豆・伊東温泉小旅行②

2024年05月26日 21時41分39秒 |  〃 (温泉)
 伊東温泉への旅行の話2回目。東海館からアーケードのある「キネマ通り」を通って、ブラブラと宿に向かう。お土産屋、和菓子屋が多いが、シャッター街とも言える。宿泊する大東館は伊豆急線沿いに南方向にあり、「ラフォーレ」「界」なんかの高そうな宿を通り過ぎると、「お風呂ずきの宿大東館」という案内が電柱に出てきた。結構大きな宿だが、ここは夕食を廃止して「宿泊と朝食のみ」に特化している。風呂は6つあって、源泉掛け流し貸切風呂が3つあり無料で入れる。鍵を掛けると使用中のランプが点くので、点いてなければ自由に入れる。料金は金曜だと7500円ほどという安さ。
 (部屋から市街を望む)
 大東館は温泉本で知って一度行きたいと思っていた。豪華な夕食も飽きてるから、こういうコンセプトの宿もいい。シティホテルならB&B(ベッド&ブレックファスト、一泊朝食付の宿)に何度も泊まってるが、温泉旅館では初めて。まずはお風呂に行こう。防空壕を通っていく「五右衛門風呂」が空いてたので、まず行ってみた。防空壕が暗くて、結構長い。途中で曲がってて、どこにあるんだという頃に出て来た。扉を開けるとムッと熱い。五右衛門風呂というけど、大きな釜風呂が二つあるもの。結構熱いけど、かき回して下げる。浸かるとお湯が溢れてうれしい。肌はツルツルになるし、これは一番良い風呂だった。
(防空壕)
 ただ大浴場(二つあり、時間制で男女交代)の「京の湯」に塩素臭があったのが残念だった。(もう一つの「流れ湯」も塩素臭がしたという。)朝は消えていたから、立ち寄り客もいる早い時間帯は殺菌しているのかも。(あるいは地元の決まりの場合もある。)五右衛門風呂や外にある露天風呂では感じなかったから、大浴場だけなのか。ホームページには「源泉3本を有し、毎分297リットル湧き出し」と書かれている。「客室のお風呂を始め、全てのお風呂は加水、循環式、濾過(ろか)装置のない源泉100パーセント掛け流しの本当の温泉」だと明記してるが…。客室も温泉だというから夜に入ってみた。

 夕食をどうするか。何を持ち込んでも良く、電子レンジもある。だから雨の日なんかは「コンビニ弁当」でもいいか。夏冬だと外に出たくないかもしれない。泊まった日は暑くも寒くもなく、気持ち良い日だった。お薦めの店はホームページにも出ていて、宿で地図も配ってる。せっかく伊豆に来たから地魚の刺身でお酒でも…とは思わず、まあそれでもいいんだけどイタリアンなんかの方が好きなのである。ところが目指したお店を見つけたら、なんか地元客で盛り上がってる気配。中の様子も判らず入りにくい。じゃあ、紹介されてるお蕎麦屋を見に行ったら、今度はガラガラで入りづらい。

 結局近くに見えてたココスにしちゃおうか。何も伊東に来てファミレスに入らなくてもと思うけど、ここはほぼ満員。金曜夜に家族や仲間で集まる貴重な社会インフラだ。しかも驚きの展開が…。今までは「お好きな席に」と言われたけど、ここは「指定席」なのだ。銀行の順番を取るような機械をタッチすると、出て来た番号の席に座るのである。そして、そこでタッチパネルで注文する。それはまあ最近よくあるが、ここでは何と出来た料理をロボットが配膳するのである。えっ、今はそうなってんの? まあこれはこれで気楽だが、ロボットが運べるサイズの料理になっている気もした。
(小川布袋の湯)
 食べ終わるとすっかり真っ暗。実は宿に近いからココスも便利だったのである。安く上がったし。伊東温泉はあちこちに共同湯があって、宿の隣にも「小川布袋の湯」というのがあった。時間が16時から21時と短い。300円払えば誰でも入れる。帰りにちょっと寄ってみたら、これが適温で極楽の湯だった。しかし、地元客が引っ切りなしで、すぐに引き揚げてきた。

 さて、困ったのが寝具である。今はずいぶん変わってきたけど、ここはまだ古くて掛け布団が重いのである。もう五月下旬なんだから、暑くて寝られない。今は家ではもっと軽い布団で寝てる人が多いだろう。これじゃ苦しいです。でも布団なしでは寒いし、困ったなあと思いつつ、いつの間にか寝てしまった。翌朝の朝食は簡素ながらも、なかなか充実していて美味しかった。全体として気持ち良く泊まれる温泉宿だったけど、世に完璧な宿はないものだなあと思った。
 
 次の日、駅に向かう途中で急階段の神社(松原八幡神社)があった。車道もあったのでちょっと登ってみる。そうしたら謎の廃墟があるじゃないか。まあつぶれたホテルなんだろうけど、この廃墟感は今まで見た中で最高レベル。ギリシャ神殿の遺跡かと思うような光景が見えている。帰ってから検索してみたが、よく判らなかった(伊東は廃墟旅館が多いようで)。
  (廃墟ホテル?)
 東海館のお風呂(11時から)に入る前に、小室山に行ってみた。大室山には昔行ったことがあるが、小室山ってどこだ? 川奈ホテルの真上あたりにあるちょっとした山で、2021年に山頂をグルッと回れる「小室山リッジウォーク“MISORA”」というのが出来て大人気らしい。専用リフトがあって簡単に登れる。(徒歩でも行ける。)バスがなかなか来ないから、ついタクシーで行ってしまった。昨日夕食でお金使わなかったら、まあいいか的発想だが、これが大失敗。土曜日だからてっきり朝早くから動いてるに違いないと思ったら、リフトは朝9時半からなのである。だからバスも遅いのに、うっかり9時過ぎに着いちゃったじゃないか。
 (リフトを望む)
 行った日は曇り空の涼しい感じの日だった。晴れわたった青空の日でなら海も青く、多分もっと素晴らしいだろう。伊豆大島もすぐそばに見える。下は川奈ホテルのゴルフ場だろうが、山頂一望の遊歩道がすごい。ひたち海浜公園のネモフィラじゃないけど、こうした解放感あふれる光景が「インスタ映え」するんだろう。団体客がゾロゾロやって来ていた。カフェもあって人気らしい。
   
 バスで戻って港の方まで歩いたら、釣りをしてる人がたくさんいた。海辺に記念碑や彫刻が多いが、もう写真は撮らなかった。東海館の風呂に入って、真ん前のイタリアンで早めの昼食。熱海まで「黒船電車」で行き、熱海からは上野まで普通電車に寝ながら帰ってきた、伊東温泉は湯量が多いようで、町歩きも面白かった。熱海も面白そうな宿がいろいろあるし、この辺りならすぐに行けて良さそうだ。
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レトロな東海館が面白いー伊豆・伊東温泉小旅行①

2024年05月25日 21時43分17秒 |  〃 (温泉)
 伊豆の伊東温泉に一泊旅行。前から気になっていたB&Bの旅館、大東館に泊まった。今回(平日でも行けるのに)金土で行ったのは、これも前から懸案の東海館のお風呂に入るため。前は平日でもやっていたが、今は土日祝しかやってない。東海館は伊東温泉の中心近くに建つ昔の旅館で、1928年に創建され1997年まで営業していた。その後、市に寄贈されレトロ感が売り物の文化施設となっている。実は前に車で見に行ったことがあるんだけど、ものすごい雨の日で車外に出るのも億劫で止めたことがあった。
   
 正直言って、熱海や伊東は近すぎて僕にとって旅情に乏しい。何度も通っているが、初めて夫婦で泊まった。11時東京発の「サフィール踊り子」で出発。全席グリーン車の特別車で、気持ち良いけど写真は省略。12時半過ぎには伊東に着いてしまう。前にも来てるが、駅がすっかりキレイになってるのに驚いた。駅の観光案内所に詳細なガイドマップが置いてある。これは必携。そんなに大きな町じゃないから、町並み探索なら車じゃない方が動きやすい。10分ぐらいで東海館が見えてくる。大川沿いに一周したのが上の写真。(ちなみに隣の建物も古い。こっちも昔の旅館だが、今は「ケイズハウス」というホステル。)
   (望楼から)
 お風呂と違って見学と喫茶は毎日やっているから、まず1日目に見学へ。この職人技のレトロ感は半端じゃない。まあ四万温泉積善館とか渋温泉金具屋とか、レトロ宿に実際に泊まっているんだけど、東海館の場合小さな部屋も多いしトイレもないから今では厳しいだろう。階段で2階、3階へ登るのも一苦労。宿泊客なら文句言いたくなると思う。しかし、文化施設だったらそれも楽しいのである。3階の上に望楼まであるが、1949年創建時には遠くまで見えたことだろう。今は介護施設に転じた旅館がいっぱい。
   
 部屋の中や廊下などは上のような感じ。部屋も見せているが、何かテーマを決めた展示も多く、また彫刻展が開かれていた部屋もある。三浦按針(ウィリアム・アダムズ、江戸時代初期に家康に仕えて伊東で船を建造した)、伊東祐親(すけちか、頼朝と敵対した豪族、伊東の地名の始まり)、東郷平八郎(別荘があった)、木下杢太郎(もくたろう、戦前の詩人)など伊東関連の展示があった。伊東出身の木下杢太郎は近くに記念館があって前に見たことがある。実は本職が東大医学部教授で、ハンセン病研究者として知られていた。記念館には特に本業の説明はなかったと思うが。
  
 せっかく喫茶もあるというから行ってみる。大広間に他に誰もいない。受付で注文するシステム。あんみつなんか食べてしまった。伊豆名物のぐり茶付。ちょっと休みたい時間帯である。お風呂は次の日に改めて入湯だけを目的に出掛けた。写真は撮れないが、ホームページで見られる。ここが今回いろいろ入った中で、最高のお湯。もちろん源泉掛け流しで、入るとジャブジャブあふれる。湯温が熱過ぎずぬる過ぎず、実に快適。大浴場、小浴場が男女時間別交代制。東海館を出たところに、特製マンホールがあった。またちょっと行ったところに、「観光番」(上の2,3枚目)がある。1958年に建てられた交番で、2006年に伊東市に譲与され観光案内所になっている。東海館を出てブラブラ宿に向かったが、ちょっと疲れたから2回に分けることにする。
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日本の都道府県、人口の多い県少ない県ランキング

2024年05月23日 21時46分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年10月1日現在の人口推計が、4月12日に総務省から発表された。ちょっと前のニュースになるが、そこから見られる日本の姿を考えておきたい。まず、日本の総人口は(外国人も含めて)、1億2435万2千人ほどとなっている。日本人だけなら、1億2119万3千人である。これは前年より83万7千人減少で、過去最大。(外国人が24万3千人増なので、総人口の減少幅は2021年に次ぐ過去2番目となる。)まあ日本人の総人口が今後どんどん減っていくのは、大分前から常識だろう。2008年がピークで、2050年頃に1億人を割る見込みになっている。今さらどう変更しようもない既定事実である。
(日本の人口推移)
 今回はそういう大状況を置いといて、各都道府県の人口ランキングを調べてみる。それを見て、何かを考えたいということはない。まあクイズ番組対策みたいなもので、箸休め。人は大体「トップ」は知ってるものだが、「2番目は何だか答えよ」と言われると困ることがある。「日本で2番目に高い山」「日本で二番目に長い川」「日本で二番目に大きな湖」などなど。答えは書かないから、判らない人は自分で調べてください。人口の場合はどうだろうか。

★まず、人口の多い都道府県上位5つ
東京都 1408万 ②神奈川県 923万 ③大阪府 876万 ④愛知県 747万 ⑤埼玉県 733万
 これは比較的当てやすいランキングだろう。常識で推測すれば、おおよそこの5つが上がってくる。ただ「神奈川県」と「大阪府」の順番で迷う人がいるかも知れない。それぞれの県庁(府庁)所在地である横浜市(377万)と大阪市の人口(277万人)は、ずいぶん前の1978年に逆転した。(だから「市」としては横浜が最大である。)一方、神奈川県が大阪府の人口を抜いたのは、2005年ということだ。21世紀になるまで、府県レベルの人口では大阪府の方が多かった。大阪府は面積が小さいこともあって(香川県についで下から二番目)、都市圏としてはどうしても弱い面がある。

★続いて、人口が6~10位の都道府県
千葉県 625万 ⑦兵庫県 537万 ⑧福岡県 510万 ⑨北海道 509万 ⑩静岡県 355万
 これはなかなか難しい。京都府(253万)を入れる人が多いのではないか。京都府は13位で、11位は茨城県(282万)、12位は広島県(273万)である。14位が宮城県(226万)、15位が新潟県(212万)、16位が長野県(200万)。ここまでが人口200万以上となる。順番はかなり難しく、クイズでも出ないだろう。面積がある程度ないと人口も少ないが、同時に一つの県に複数の政令指定都市があるかどうかが鍵になる。福岡県は福岡と北九州、静岡県は静岡と浜松があり、産業の中心となっている。
(都道府県人口ランキング=2009年)
人口の少ない県5つ
鳥取県 54万 ㊻島根県 65万 ㊺高知県 66万 ㊹徳島県 69万 ㊸福井県 74万
 こっちの方が難しいかもしれない。一番少なそうなのが鳥取県というのは知ってる人も多いかも知れない。しかし、その後の順位は難しい。実際に差はそれほどない。ただ、鳥取・島根高知・徳島が参議院選挙で「合区」されているのを知っていれば推測は可能だ。面積的にも小さな県が多いが、高知は面積18位、島根は19位で半分より上の方。山間地が多いのと、そもそも四国地方山陰地方北陸地方は人口が少ない地帯なのである。

人口が下から6~10位の県
佐賀県 79.5万 ㊶山梨県 79.6万 ㊵和歌山県 89万 ㊴秋田県 91万 ㊳香川県 92万
 人口が100万人以下の県は以上の10である。その次が富山県(100.7万)、山形県(102万)、宮崎県(104万)、大分県(109万)、石川県(111万)という順番。人口200万以上の16都道府県、人口100万未満の10県ということは、残りの21県が100万人台ということになる。21世紀になって、人口が200万を割ったのが、栃木、群馬、岐阜、三重など。今回の調査結果では、東京都以外のすべての県で人口が減少した。また75歳以上の人口が2000万人を越えた。このような「過疎化」や「高齢化」「少子化」は散々言われていることで、今回は特にあれこれ考えないことにする。
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「ゼロ歳児選挙権」という暴論ー吉村知事発言考

2024年05月21日 21時54分12秒 | 政治
 河村名古屋市長に続き、今度は吉村洋文大阪府知事の「ゼロ歳児選挙権」発言を取り上げたい。ネット上では取り上げられているが、大手新聞やテレビニュースは報じてないから、もしかしたら知らない人がいるかもしれない。最初はSNSへの投稿だったらしいが、4月25日の記者会見で「少子化問題を抜本から解決するのであれば、0歳児選挙権だ」と言及。子どもが3人いるので「僕は4票の影響力がある」と述べたらしい。「マニフェストに組み込んで、次の総選挙でしっかりと訴えたい」と言ってるとか。

 まともなマスコミがスルーしているのは、これが実現不可能だと知っているからだろう。僕も最初はジョークなんだと思っていたが、マニフェストなんて言ってる。まあ、どこかでストップがかかるだろうけど、全く理解不能。この人は「弁護士」である。ちゃんとした法学教育を受けているはずだが、憲法の勉強をしてないのか。もっともこの人は悪名高き「サラ金」武富士の顧問弁護士だった人である。(武富士は10年以上前に破綻したので、10代だと知らないかもしれない。もう少し上なら、街頭でティッシュを配っていたのを覚えているはず。ちなみに、武富士の高校生用求人票は凄まじいものだったな。)

 何で不可能かというと、日本国憲法の規定。憲法第十五条の2項公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」よって、成人してなければ選挙権は行使出来ない。ちょっと憲法を知っていれば、あるいは憲法の条文を知らなくても常識さえあれば、成人にしか選挙権がないぐらいのことは判るだろう。

 なお、ここで「普通選挙」とある。これは財産や身分に関わらず(公職選挙法違反で公民権停止中など特別の理由がない限り)、すべての人に選挙権が平等に与えられるということである。「子どもの有無」「子どもが何人いるか」で選挙権に差を付けるのも憲法違反である。また同じ条文の4項には「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない」と規定している。だから、仮にゼロ歳児に選挙権を与えても、本人以外が投票権を行使したら憲法違反になる。
(ゼロ歳児にも選挙権?)
 しかし、仮にではあるけれど、この条項を「憲法改正」で変えたらどうなのか。しかし、それも無理である。第十四条で「すべて国民は、法の下に平等」と定められている。次の衆院選から選挙区が一部変更され、「10増10減」となる。最高裁で現行の区割りが一票の平等に反するとして、何度も違憲判決が出たことにより「一票当たりの価値」を出来るだけ平等にするように変更されてきた経緯がある。変更しても問題は残るが、それぐらい「一票の価値」が大問題になってきたのは国民の常識。

 ある人は子どもが1人いるから親が2票、ある人は子どもが3人いるから親が4票なんていうのは、明らかに「法の下の平等」に反する。このような憲法の基本原則、基本的人権の尊重を損なう憲法改正は出来ない。いや、国会の3分の2,国民投票の過半数があれば、何でも変えられるというかもしれない。しかし、国民が賛成したから「民主主義はやめて、日本を独裁国家にします」という憲法改正は出来ない。為政者が仮に企んでも、その場合は国民の「抵抗権」によって阻止しなければならない。

 もうこれで終わりでいいんだけど、実はもっと考えるべきことがある。それは「維新」の体質発想の特異性である。吉村氏はゼロ歳児選挙権が「少子化対策の解決法」だと主張している。どうすればそういう発想になるんだろうか。選挙権をいっぱい行使したいから、子どもをたくさん産む人なんているのか。子どもが多い人の意見が今より政策に反映するのかというと、特にそんなことになるとも思えない。子どもがいる人は特にどこかの党の支持者が多いのか? いや、同じような割合だと思うけど。(それとも皆「維新」に入れると思ってるのかな?)

 それに吉村氏は自分が4票投票できるかのように語っている。これはネット上でも指摘されているが、なんで自分が全部行使出来るのか? 離婚して3人の子の親権を吉村氏が持っているのだろうか。違うでしょ。「夫婦」では、子どもの選挙権は夫が代表して行使するんだと、無意識的に前提しているとしか思えない。

 それより一番大きな問題は「民主主義への理解不足」である。日本は「議会制民主主義」の制度である。問題点が多いのは間違いない。例えば、沖縄の基地問題を沖縄県選出以外の議員が決めてしまって良いのか? しかし、良いのである。今の政権が進める政策内容の是非とは別である。今の基地政策には問題が多いが、選挙で選ばれた内閣が自分たちの政策を進めるのは、それが仕組みだというしかない。様々な問題で「当事者の声」をよく聞くべきだけど、政策は当事者だけでなく「全国民の代表」で決めるのである。

 「未成年」は判断能力に問題があるから、投票の権利はない。だが、それは何歳からかというのは別問題。各地には住民投票の選挙権を16歳からとしているところがある。また他国には国政選挙権も16歳という国もある。引き下げるかどうかの問題はある。しかし、その場合も「本人が投票する」のが前提である。それが民主主義の原則だからというしかない。

 それを理解してない人が「思いつき」のようなことを言い出す。そう言えば、「大阪都構想」というのも僕には「思いつき」としか思えなかった。その系譜から「大阪万博」や「カジノ」も出て来ているんじゃないか。その意味で「維新」の「思いつき政治」を象徴するようなものだと思う。
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「祖国のために命を捨てるのは道徳的」かー河村市長発言考

2024年05月20日 22時33分23秒 | 政治
 ちょっと時間が経ってしまったが、名古屋市河村たかし市長の4月30日の発言について考えてみたい。この人はかつて自民党、新進党、民主党などに所属したが、現在は「日本保守党」共同代表である。(同時に地域政党「減税日本」代表でもある。)高校生の提案で名古屋市は空襲死者らを悼む日を設置することになり、5月14日を「なごや平和の日」とした。(名古屋市は何度か大きな空襲を受けているが、1945年5月14日の空襲で名古屋城が焼失した。)

 「なごや平和の日」制定は良いけれど、その決定を受けた記者会見で、河村市長は「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語ったのである。その後批判もされたが、似たような発言をしている。うっかり発した「失言」ではなく、確信的な発言なんだろう。「時局的」には、最近の自衛隊員の靖国神社集団参拝などにも通じる、「ある方向性」があるんだと思う。
(河村市長発言)
 それは「日本周辺の緊張は激化していて、自衛隊員にも戦死者が出ないとは言えない国際環境にある。その際、日本は国家として戦死者に対して最大限の敬意を持って追悼しなければならない。そのために今から様々な心構えをしておかなくてはいけない」とでも言うようなものだろう。その状況認識がどの程度正しいかという問題は冷静に考えなくてはいけない。しかし、そう思い込んでいる人は一定数いるわけで、今後もこのような発言は続発するだろうと思う。

 この発言について考えるべきポイントは二つあると思う。それは「祖国のため」という部分と「命を捨てる」という部分である。なお、「道徳的行為」も問題ではある。「道徳」は規範というだけだから、これは「道徳的に高く評価されるべき行為」というような意味なんだろうけど、道徳規範の基準を政治家が示すのは問題だろう。しかし、これはそこまでにする。
(日本保守党共同代表に)
 最初に「命を捨てる」から。何故「死者」だけしか評価の対象にならないのだろうか。「祖国のために様々に尽くす」でも、言いたいことは通じるんじゃないか。「良心的兵役拒否」は認めないのだろうか。戦死した人以外にも、多数の傷痍軍人が生まれたし、空襲で焼け出されて「難民」や「戦災孤児」になった人も多数いる。「道徳」を振りかざす人ほど、戦災孤児が「浮浪児」となったり、戦争未亡人がセックスワーカーになったりすると、「道徳的に」非難したりするものだ。
 
 ひとたび戦争になると、実に多くの犠牲者が出る。そして「戦死するか」、あるいは「障害を負ったが命は取り留めた」か、それとも無傷で生還できたかは、ほぼ偶然による。そして、傷痍軍人はもちろん、無事に生還したとしても、戦後の混乱期を生き抜くのは大変だった。「命を捨てた」人がより道徳的に正しい行動を取っていたかというと、そんなことは全然ないだろう。まあ、そんなことは僕が言うことではなく、地元の中日新聞に連載された木内昇『かたばみ』を読みなさいと言っておきたい。

 さて、問題は「祖国のため」である。河村氏はウクライナやガザにも触れたという。どう触れたのか報道ではよく判らないのだが、これはどう解釈すれば良いのだろうか。ウクライナは確かに「祖国を侵略された」立場と言えるだろう。ではロシア兵の場合はどうなんだろう。ロシア兵の戦死者も「祖国のため」として道徳的に正しいのか。イスラエル人とガザのパレスチナ人の場合は、もっと複雑だ。どっち側も「道徳的」なんだろうか。

 ウクライナでも無防備な病院が爆撃されたし、ガザでも病院が爆撃され多くの子どもが死んでいる。そういう死者も「祖国のため」に死んだのだろうか。いや、僕は「国際法違反の戦争犯罪で殺された」と判断するべきだと思う。そもそもの名古屋大空襲の死者だって、「祖国のため」の犠牲者ではなく、「戦争犯罪の犠牲者」であり、「祖国」を言い出すなら「祖国の始めた無謀な戦争政策の犠牲者」である。「祖国のため」と言って様々な戦死者を一緒くたに顕彰するのは、「犯罪の隠ぺい」になりかねない。

 結局「祖国」の始めた戦争には全力で協力するべきで、どんな戦争であっても「祖国の戦争の戦死者」は道徳的に正しいというのが河村氏の世界観なんだろう。だから「アジア太平洋戦争」が侵略戦争であっても、戦死者は「犠牲者」ではなく「道徳的行為」になる。日本人だからそれで良く、もしロシア人に生まれていたら「ロシアの戦争はすべて正しい」と判断する。そういうタイプの思考の持ち主なんだろう。だがグローバル化の進む現代において、ちょっと情報を集めれば「祖国の過ち」はすぐに判明する。

 歴史を振り返ってみれば、様々な戦争があったと判る。「祖国のため」を考えるならば、「祖国の始めた戦争に全力で反対する」方がずっと「道徳的行為」だったことなどいっぱいある。第二次大戦中の日本であっても、日本の内外で侵略戦争を止めさせるために囚われていた人が多数存在する。「戦死者」ならすべて道徳的というより、場合によって「祖国の政策に反逆する」方が道徳的に正しい場合がある。もし、「祖国」とか「道徳」などの言葉をどうしても使いたいなら、そこまで言わなければ歴史の教訓を真面目に受け継ぐとは言えない。
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「つばさの党」と「N党」ー「選挙の自由」濫用は許されない

2024年05月19日 21時45分37秒 |  〃  (選挙)
 政治や国際ニュースについてしばらく書いてない。他に書きたいことがあれば、書かなくて構わないんだけど、久しぶりに書きたくなってきた。4月28日に行われた東京15区の補欠選挙における「つばさの党」問題である。この補選は全国的に注目され、ホントは実際に見て書こうと思っていた。だけど、選挙前日に「大腸内視鏡検査」を控えていて、やってみたらポリープ切除で入院を申し渡された。だから選挙結果は病院のテレビで見た。家から遠くないけど、見に行く気が起こらなかった時期だった。
(つばさの党3人逮捕を報じるテレビ)
 選挙中から、ネットでは「つばさの党」問題が大きく取り上げられていた。新聞やテレビでは、「一部候補」みたいにしか書いてなかったと思うけど、ネットで「つばさの党」だと判った。僕は選挙終了後すぐにでも、警察の強制捜査が行われるだろうと予測していたが、しばらく動きがなかった。そのままになると都知事選で同じことが繰り返される恐れが強く、禍根を残すだろうと思っていた。結局5月13日になって家宅捜索に踏み切り、17日に黒川敦彦代表ら3人の逮捕となった。
(電話ボックスに乗って「妨害演説」)
 この逮捕は当然だ。都知事選で堂々と「再犯する」と予告しているのだから、身柄を確保するしかない。テレビニュースなどで見る限り、明らかに「選挙妨害」である。「公職選挙法違反」だろうが、それと同時に常識的に考えて「暴行」「脅迫」などに該当する思う。何党支持かという以前の問題で、これは認められない。選挙だから演説の自由はあるけれど、これは単なる妨害だし嫌がらせである。特に電話ボックスの上で大音声を出すのは常識外。これは「不法占拠」だろう。
(大音声で妨害)
 都知事選は6月20日告示、7月7日投票が予定されている。あまり近くなっての逮捕では、立候補への妨害と思われかねない。3週間過ぎて、証拠もそろえて逮捕ということだろう。19日に送検され、10日の取り調べ、さらに(恐らく)10日の延長が認められ6月上旬となるが、恐らく他候補への妨害容疑で再逮捕ではないか。逮捕中でも立候補は可能だが、事実上「都知事選での再現阻止」ということだろう。こういう党の出現を見ると、何だかナチの突撃隊を思い出してしまう。

 今回は用意もなく登場したので警察捜査を待つことになった。本当だったら、国民の中から「反撃隊」が現れるべきだったと思う。今の選挙のあり方が最善だとは思っていない。でも世の中には「タテマエ」というものが必要で、それはマジメに仕事した経験があれば理解出来るだろう。他候補に突っかかった様を録画してYouTubeに流すなどもっての外。

 ところで今さら「つばさの党」を批判しても意味ないけれど、もう一つ頭が痛いのが「N党」である。何度も何度も党名を変えて、どうなってるんだと思うと、内紛が相次ぎ今なんと言うかよく知らない。調べてみると、参議院では「NHKから国民を守る党」という会派を作っている。何だ、最初と同じじゃないか。変える意味があったのか。僕が困ったなと思うのは、この党が都知事選に30人を立てる予定ということである。すでに13人の候補を確保したとか。
(都知事選に大量立候補を発表するN党)
 供託金さえ払えば何人出ようが自由だろうと言われれば、理屈ではそうも言える。しかし、公費でポスター掲示板を設置するのである。言うまでもなく都知事に当選するのは一人しかいない。様々な考えを持ついろいろな候補が立つのは自由だし、必要でもある。だが当選者一人の選挙に同じ党から複数立候補するのは本来あり得ない。有権者をバカにした行為である。

 大きな掲示板を用意しなければならず、税金のムダ。終わったら片付けなくてはならず、それもムダ。環境問題への配慮ゼロ。(ちなみに、この掲示板は高校の文化祭でお化け屋敷なんかの壁に再利用されることがある。)たくさん立候補して、掲示板への掲示権を売るとかも言っている。これが許されるのか。今問題になっている自民党の派閥の「裏金問題」。こう言うのを見ると、マジメに選挙をやる意味があるのか。明文で禁止されてなければ、何やってもいいんだろう。政権党もそうやっているじゃないか…。

 そう言いたくなるかもしれないが、だから自分は何やっても良いとはならない。このままでは「公認候補は当選者と同数しか認めない」なんていうバカげた法改正が必要になってしまう。そんなことになる前に、「良識」と「品位」が大切だ。
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木内昇『かたばみ』を読むー戦中戦後を生き抜く家族小説

2024年05月18日 20時45分09秒 | 本 (日本文学)
 『リラの花咲くけものみち』を読んだ次に、花の題名つながりで木内昇かたばみ』(角川書店)を読んだ。東京新聞などに連載され、面白くて感動的と評判になっていた。550頁もある長い小説だけど、確かに面白くてあっという間に読める。単行本を買ってしまったが、2350円(税別)の価値は十分にあった。木内昇(きうち・のぼり、1967~)は2010年刊行の『漂砂のうたう』で直木賞を受賞した女性作家。確かな筆力で、人物と時代がくっきりと浮かび上がってくる様は見事。

 冒頭は戦時中(1943年)に女子槍投げ選手山岡悌子が引退して「国民学校」(小学校から改名されていた)の「代用教員」になるところから始まる。代用教員は戦前にあった制度で、旧制中学や高等女学校を出ていれば師範学校を出ていなくても小学校で教えられた。悌子は日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)を卒業したので代用教員になれたのである。この学校は1922年に二階堂トクヨ(1880~1941)が開いた二階堂体操塾に始まり、人見絹枝など8人の五輪選手を育てたという。今やパリ五輪金メダル最有力候補の槍投げ選手北口榛花がいる日本だが、何事にもこのような先駆者がいたのかと感慨深かった。
(木内昇)
 検索すると角川のサイトで紹介文が出て来る。「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」太平洋戦争の影響が色濃くなり始めた昭和十八年。故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいた…。実はもっと出ているんだけど、これ以上は読まずに読んだ方が絶対に面白い。

 もともと岐阜生まれで、普通の女子がスポーツをやるために上京するなどあり得ない時代だ。しかし、幼なじみの神代清一が甲子園で活躍し早稲田に進学したので追いかけるように上京したのである。悌子は肩を痛めて競技生活は諦めたが、それでも親の圧力を跳ね返して東京に居続けたのは、清一がいたからだ。多摩地区の小金井市で職を得たが、学校は「少国民錬成」の時代だった。体育専門の悌子は竹槍訓練の中心にならざるを得ない。その中で戦時教育に疑問を持たざるを得なくなっていく。彼女は学校に通いやすい小金井に下宿先を見つけた。下が食堂で二階に部屋を作り最初の下宿人となった。

 結局この下宿先の一家と知り合ったことが悌子の人生を決定するのだが、それはまだ判らない。えっ、こうなるの的な展開が続くので、一気読み必至。悲しいことが多かった戦争時代はやがて終わるが、戻る人戻らぬ人様々。悌子は思わぬ人生を歩んでいく中で、「家族」とは何かを考えさせられる。真面目一本気で、まさに槍投げのような人生を送る悌子だが、強いだけではダメな人生に立ち向かう。周囲の人物、それも後半になるに連れ子どもたちの存在が大きくなるが、その破天荒な設定は書かないことにする。厚い小説だけど、あっという間に読めるから是非読んでみて。
(カタバミの花)
 カタバミはよく道端にある「雑草」だけど食べられる。戦時中はこの一家も食べていて、その酸味を好んでいた。花言葉は「母の優しさ」と「輝く心」だと出て来る。ネットで調べると「喜び」というのもあるらしいが、どれも復活祭(イースター)頃に花が咲くことに由来するという。これが題名の理由なんだろう。ものすごく面白かったが、次第に教師として以上に「親と子のあり方」みたいになってくる。小説内では端役の人物が時々思わぬ金言を吐くので油断出来ない。多分人間って誰しも宝石のような言葉をもともと持っているんだろう。そして、「思い込み」や「慣習」に囚われて生きることの愚かさを痛感する小説でもある。
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『デ・キリコ展」を見るーシュールレアリスム以前の形而上的世界

2024年05月17日 21時30分50秒 | アート
 上野の東京都美術館で開かれている「デ・キリコ展」を見に行った。(8月29日まで。)最近めっきり美術館や博物館に行かなくなったが、なかなか値段が高いのである。もうじっくり見るのが面倒で、映画や演劇なら座っていればいいわけだが、自分で見て歩くとなると細かい字の説明を読むのが大変。上野では他に面白い展覧会がいっぱいあるのだが、これを見たのは一つには「シニア割り」があるからだ。そして、もう一つデ・キリコは子どもの頃から大好きで気になっているのである。

 ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978)は長命だったので、僕の学生時代まで存命だった。ただダリなどとは違って、晩年には「古典回帰」したと言われて、とっくの昔に終わった画家という扱いになっていた。しかし今回の展示を見ると、最晩年に「新形而上絵画」を描いていた。もっとも大分力は落ちている感じだが。今年は1924年にアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年になる。シュルレアリスム再評価の試みがあちこちで行われるようだ。
(ジョルジョ・デ・キリコ)
 僕がデ・キリコを知った時はシュルレアリスムの画家と言われていた。その頃はただの「キリコ」と言うことが多く、さらに名前を全部呼ぶ時もフランス読みで「ジョルジュ・デ・キリコ」と言うことが多かったと思う。多分百科事典かなんかで知ったと思うのだが、あまり本物を見た記憶がない。ルネ・マグリットポール・デルヴォーなんかの方が本物の絵を見てると思う。だから、これほどまとまって見たのは初めてで充実感があった。それはいいんだけど、僕が昔「キリコ」として名付けようもない魅力を感じた、「不思議な広場」「不思議な塔」の絵は第一次大戦以前の1910年代には書かれていたのである。
《バラ色の塔のあるイタリア広場》1934年
 こういう絵を見ると、僕は昔から何故か心惹かれてしまう。それは僕の夢の世界と似ている。自分の家に帰ろうと身近な道を歩いていると(あるいは学校へ向かっていると)、いつの間にか知らない町へ入っている。そこには「誰もいない」ことが多い。そこが萩原朔太郎『猫町』と違うところなんだけど、どこか孤独で、しかし懐かしい。デ・キリコの絵では「」が印象的に表現されているが、僕の夢には光と影は出て来ない。だけど誰もいない町並み、不思議な塔などはよく似ている。もちろんデ・キリコの影響でそうなったのかも知れないが、見たときから魅惑されたのだから僕の本質とつながりもあると思う。
《塔》1913年
 その後デ・キリコの絵には「マヌカン」(マネキン)がよく登場するようになる。ギリシャ神話に出て来る「ヘクトルとアンドロマケ」と題されることが多い。どうもギリシャ神話なんて言われるとよく判らないんだけど、表情のない人物像には謎めいた魅力がある。下の絵は1970年のもので、晩年になってもこういう絵を描いていたのである。
《ヘクトルとアンドロマケ》1970年
 いろいろと画像を載せていても仕方ないけど、やはりデ・キリコの魅力は下のような「不思議系」だと思う。第一次大戦以前にパリで作品を発表して、全然認められなかった。それを見出したのは詩人ギヨーム・アポリネールだった。そして大戦後にシュルレアリスムの画家たちにも大きな影響を及ぼした。ということで、デ・キリコはシュルレアリスムというより、それ以前の画家と言うべきだろう。そしてシュルレアリストたちとの蜜月は短く、20年代後半に入ると古典回帰したデ・キリコとシュルレアリスム運動は絶縁するようになった。
《不安を与えるミューズたち》1950頃
 だけど案外その古典風の、馬がテーマの神話風の絵なんかも魅力があるのだ。今回は彫刻や舞台美術なども出ているし、本当はもっとじっくり見たいところ。また短いけれど(2分)、生涯を展望するビデオが流されている。それを見ると、イタリアの風景、トリノ、ミラノ、フェラーラなんかの町の風景がデ・キリコの絵画に大きな影響を与えているのが明らかに見て取れる。
《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》1959
 今回は平日限定65歳以上前売り券というのを買っていたので、さっさと見てきたわけ。デ・キリコの住んでいたローマの邸宅は今は美術館として公開されているという。まあ見に行くことはないだろうなあ。スマホもコインロッカーに入れて見てたから写真は撮らなかった。展示物は撮れないけど、最後に撮影スポットが用意されていた。
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藤岡陽子『リラの花咲くけものみち』ー不登校から獣医師へ、感動の小説

2024年05月15日 22時07分57秒 | 本 (日本文学)
 藤岡陽子リラの花咲くけものみち』(光文社)はとても感動的で心打つ小説で多くの人にお薦め。2024年の吉川英治文学賞新人賞受賞作品。発売(2023年7月)当初の評判(書評)で買ったが、しばらく読まなかった。なんか「感動」するに決まってる小説を読みたい時と読みたくない時がある。この本は不登校になった中学生が祖母に引き取られて生き直してゆく物語である。というと梨木香歩西の魔女が死んだ』みたいだが、この小説はもっと長い人生を語っている。そして東京都大田区に住む主人公は、都立の「チャレンジスクール」に通うのである。(明記されてないが、世田谷泉高校だろう。)これは読まなくちゃ!

 世に「不登校」を語る言説は多く、小説にもかなり書かれていると思う。しかし、主人公岸本聡里(さとり)の陥った過酷な状況は今まで読んだことがない。こういうこともあるのか。多くの場合、「不登校」なんだから学校で嫌なことがあるのである。聡里は小学校4年の時に母が死んで、2年後に父が再婚して妹が生まれた。その後、父は九州に単身赴任し、新しい義母は妹にしか構わない。それどころか、娘が動物アレルギーだったら困ると言って、愛犬パールを手放すように迫るのである。学校に行ってる間にパールが捨てられたら大変だと思って、聡里はそれ以後部屋に引きこもって一瞬もパールから離れなくなったのである。
(藤岡陽子)
 新しい家族とうまく行かないという設定はあるけど、犬を守るために学校へ行けなくなるなんてあるのか? しかし、犬を飼っていた思い出があるなら、この気持ちはよく判るはず。そんなひどい義母がいるのかと思うし、父も何してるんだと思うが、パールを守れるのは聡里しかいないんだから、彼女はよく闘ったのだ。しかし、その代償として不登校どころか、すべての人間関係をなくし髪を切ることさえ出来なくなった。母方の祖母、牛久チドリは可愛がっていた孫から突然何の連絡もなくなって悲しい思いをしていた。ついに中三の誕生日に聡里の家を訪ねて真相を知り、聡里とパールを引き取ると宣言したのである。

 祖母チドリはそこから大車輪でチャレンジスクールを調べ、入学後は夢を持てない聡里の進路として動物好きの彼女に「獣医」を勧めたのである。東大は無理だから、東京の国立大で獣医学部のある東京農工大を受験したが失敗。聡里はそれからでも間に合う私立として北海道の北農大学に合格したのである。札幌近郊の江別市にあるその大学は、酪農学園大学がモデルになっている。(後書きに謝辞が書かれている。)そして北の大地の真っ只中にある大学の女子寮に今しも入寮するために、聡里とチドリはやってきたところである。友だちもいず、人間関係に臆病な聡里は果たして大学生活を送っていけるのだろうか?
(酪農学園大学)
 そこで営まれている学生生活は、思った以上に過酷である。何度も挫折を繰り返しながら、それでも祖母の期待を裏切れないから頑張り続ける聡里。青春小説だから友だち問題もあれば、恋の悩みもある。だけど、獣医学部にはもっと本質的な大変さがあった。犬や猫ならまだしも、「産業動物」である牛や馬になると大きすぎて女子大生には大変だ。そして「命を預かる」という仕事で、人間相手の医師と同じく獣医師にも究極の選択を迫られる場面もある。実習を重ねる中で何度も壁にぶつかるのだ。そしてただ一人の味方の祖母は、授業料を捻出するために一軒家を売ってしまった。祖母ももう高齢でホントはそばについていてあげたいけど…。

 作者の藤岡陽子(1971~)の本は以前『手のひらの音符』を読んで紹介したことがある。(『確かな感動本、「手のひらの音符」を読む』2016.7.28)とてもよく出来た感動作だったけど、今度の本はそれ以上の魅力がある。それは北海道である。聡里にとって「冬の寒さ」も大きなハードルだが、それ以上に花や動物たちの天地である。各章には花の名前が付けられている。「ナナカマドの花言葉」「ハリエンジュの約束」「ラベンダーの真意」…といった具合である。それがまた魅力になっている。それにしても獣医への道は厳しい。人間の場合と同様に、6年間の勉強が必要でその後に国家試験がある。
(ナナカマド)
 僕は藤岡陽子さんの小説は題名がどうなんだろうと思うことがある。『手のひらの音符』もよく判らないけど、『リラの花咲くけものみち』も事前にはよく判らない。この本を書店や図書館で見て、題名で手に取って貰えるだろうか。終章から取られた『リラ…』より、第一章の『ナナカマドの花言葉』でも良かったのではないか。その花言葉というのは、「私はあなたを見守る」である。聡里も何人もの人に見守られていたが、聡里もパールを見守っていた。そして、聡里が多くの人を、動物を見守れるようになれるんだろうか? 展開にお約束が多いとは思うが、感動の小説である。特に犬、猫、馬、牛などが好きな人は涙なしに読めない。
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濱口竜介監督『悪は存在しない』、ヴェネツィア銀獅子賞の評価は…

2024年05月14日 21時42分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 『ドライブ・マイ・カー』で世界的に評価された濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』(Evil Does Not Exist)。2023年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品である。この受賞で濱口監督は世界三大映画祭と米国アカデミー賞すべてで受賞したことになった。『ハッピーアワー』(317分)、『ドライブ・マイ・カー』(179分)など長大な映画を作ることで知られる濱口監督だが、今度の映画は106分とずいぶん短い。長い映画が多くなってしまった現在では、むしろ少し長い中編の味わいである。だけど正直言えば、ラストの着地点の解釈が難しい。全く理解不能と言っても良い。

 この映画は非常に魅力的だと思う。退屈だという評もあるようだが、僕は退屈さは感じなかった。自然描写の美しさに圧倒された思いがする。だけど、どこか変だなとも思う。環境映像じゃなくて一応劇映画なんだから、自然描写的なシーンが余りにも長すぎてはおかしい。映画で人物同士の絡み合うドラマティックなシーンばかりでは見る者の緊張がほぐれない。小津の映画では銀座(だ思うけど)のバーの看板などをただ映すシーンが合間合間に挟まれて、絶妙なリズムを作っている。だけど『悪は存在しない』の風景シーンは異様に長い。しかも真下から木々を見上げた映像など抽象美の映像である。何だろう、これは?
(巧と花親子)
 一応ストーリーらしきものをコピーして紹介しておく。「長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」「水挽町」は架空で、おおよそ長野県の富士見町、原村などでロケされたという。長野県の自然を背景に、「グランピング場」をめぐる地域の葛藤が一応主筋。
(芸能事務所のメンバーと巧)
 いろんな人が出て来るけど、結局村で「便利屋」をしているという安村巧と花という親子が中心になってくる。知っている俳優は一人も出て来ない。監督恒例の「棒読み」なのか、シロウトを使っているのか、それこそ村人のリアルなのか判らないけど、ところどころ聞き取れないぐらいの小声で人間関係も良く理解できない。そして巧はよく忘れる。花を迎えに行く時間を失念していることが多いし、グランピング場説明会に対し地元で事前に相談する日も忘れている。『ハッピーアワー』のワークショップ、『ドライブ・マイ・カー』の下読みの場面が面白かったように、今回の映画でもグランピング場建設説明会の場面が非常に面白い。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 その説明会終了後に建設企画会社の内部事情が描かれる。このようにして、グランピング場建設をめぐる「自然保護」という社会問題を描く映画なのだろうか。そんな展開になりそうな最終盤に、映画は突然不吉な方向に向かって転回し、何が起こっているのか判らないラストを迎える。果たして「悪は存在しない」という題名の意味は何だろう? ラストは「自然」の「悪意」ということか。いや、それでは「悪が存在する」ことになってしまう。あるいは人間同士には「悪は存在しない」が、「自然」はただ存在するだけということか。ラストを細かく書くことは控えたいが、ラストが理解不能で評価するのが難しい。それでも十分美しく、見る価値がある魅力的な映画だと思う。
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米澤穂信『冬季限定ボンボンショコラ事件』、小市民シリーズ完結編(?)

2024年05月13日 21時45分50秒 | 〃 (ミステリー)
 直木賞作家米澤穂信は青春ミステリーのライトノベルから出発した。角川スニーカー文庫の「古典部シリーズ」である。その後創元推理文庫からもう一つの青春ミステリーシリーズが誕生した。人呼んで「小市民シリーズ」というが、題名にスイーツが付いていることが特徴である。『春季限定いちごタルト事件』(2004)、『夏季限定トロピカルパフェ事件』(2006)、『秋季限定栗きんとん事件』(2009)と来たからには、次は冬だと待ち望みながらなかなか出なかった。番外短編集『巴里マカロンの謎』(2020)が一時の渇を癒やしたものの、どんどん作者は有名になってしまった。もう冬は出ないのだろうかと思っていた2024年4月末、ついに出ました、『冬季限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫)である。

 このような「ジャンルもの」については、本や映画、音楽などを問わず関心がない人には何の意味も持たない。今度の小説はとても面白かったが、これだけ読んでみてもホントの面白さは伝わらないだろう。じゃあ、最初から全部読むべきかと言えば、その価値はあるとは思うけど…。ミステリーは脳トレになるし、青春ものは「あの頃」がよみがえって気分を若くしてくれる。とは言うものの、このシリーズは設定が変わっていて普通じゃない。同じ高校に通う小鳩常悟朗小佐内ゆきは、よく一緒にいるところを目撃されるが交際しているわけではない。身近に起こった「日常の謎」を解決するために「互恵関係」を取り結んでいるだけなのである。
(米澤穂信)
 そりゃ何だという感じだが、二人は謎解きはするのもの、本当はそんなお節介はやめたいのである。しかし生来の謎解き好きの虫が騒ぎ、つい口をはさんでしまう。しかし、中学時代に何か苦い体験となった思い出があり、二人は二度とこんなことはやめようと決意した。目指すのは「小市民」である。その意味は目立たず出しゃばらず、おとなしく学校生活を送る一生徒と言った感じか。しかしながら「あっしにはかかわりのないことでござんす」と言いながら、結局は関わってしまう木枯らし紋次郎のように、小鳩君と小佐内さんも謎があれば解いてしまうのである。で、その中学時代の苦い体験ってなんだろう?

 このシリーズは今度アニメになって7月から放映されるそうである。登場人物の絵は画像で出てくるけど、いやあこんなにカッコよくなっちゃうのか。ちょっとイメージが違う感じで、もっと陰影というか、屈託がある感じを思い描いていた。それは今まで語られない「謎の中学時代」の影とも言える。そして15年ぶりに刊行された今回の作品で、ついに中学時代が明かされたのである。それもとりわけ衝撃的な設定として。今回の作品では、冒頭に主人公小鳩君がひき逃げされて入院してしまうのである。スマホも壊れたから誰にも連絡できない。そこでどうしても中学時代に起こった、もう一つのひき逃げ事件を思い出さずにいられない。
(アニメ化のキャラクター)
 小鳩君と小佐内さんも高校3年の受験生、もう謎解きもないはずの2学期末、たまたまスイーツ好きの小佐内さんについて鯛焼きを買いに行き堤防沿いの道を歩いていた時のことだった。年内に早くも雪が積もったため道も歩きにくいが、そこに車が突っ込んできたのだった。全治数ヶ月で、なんと受験もフイになった小鳩君である。一緒にいた小佐内さんはどうなったんだろう? そして同じ道路で起こった前のひき逃げ事件は? その事件は同級生が轢かれ、二人は協力して犯人捜しをしたのだったが…。ある解けない謎を残したまま、心に傷を残して終わってしまったのだった。 

 てなことを字が書けるようになった小鳩君はつらつら思い出してはノートに書いていたのである。そんな小鳩君に小佐内さんが差し入れしたのが、「冬季限定ボンボンショコラ」だった。いつまで昔話に興じているんだと思うと、やはりその中に伏線が散りばめられているではないか。ラスト近くの「怒濤の展開」、それはまあミステリー小説の定番ではあるが、えっそうだったんだの連打に打ちのめされた。回顧談かと思うと、ちゃんと現在進行形のミステリーじゃないか。まあ、僕は設定にちょっと無理があるなという気もしたけど、まずは満足の傑作。そして、春夏秋冬すべて終わって完結編かと思われるが、もしかして大学編もあるの?的な終わり方に期待が高まる。ところでアニメ化連動企画で、限定スイツをどこかで食べてみたいもんだ。
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