尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「3・11」から10年、「防災教育」のこれから

2021年03月17日 22時46分38秒 |  〃 (震災)
 「東日本大震災」から10年が経った。一週間近く前になるが、この間図書館で借りていたカミュの本があったので、そちらを先に書いていた。3月11日は結構テレビのニュース番組を見ていたが、いろいろと思うところがあった。しかし、その日に書かなかったことで、文科相が中教審に諮問した「学校安全」の問題を書けることになった。
(大槌町で花火)
 「10年」は確かに大きな節目だが、その日付自体には意味はない。しかし、そういう時しか大きな報道はないわけで、現に一週間すればテレビも新聞もほとんど報じていない。「風化させてはいけない」と毎年のように言われつつ、その後に生まれた人が多数になっていけば「風化」が進む。それでも原爆や沖縄戦のことを思い出すと、50年ぐらい経ってから初めて思い出を語れるようになった人がいる。まだ行方不明の人も多いし、原発事故から戻れない地区もある。僕はまだ語られていないことも多いのではないかと思っている。
(東北三県の被害状況)
 今回久しぶりに当時の津波や原発事故の映像をずいぶん見たことで、僕も当時の状況を思い出すことが多かった。自分も陸前高田気仙沼の惨状を見ているが、テレビ映像で毎年の変遷を見れば、10年で大きく変わったことが判る。それを「形の上では復興が進んだ」ということはできる。それが本当の意味での「復興」になっているのかとも思うが、「世の中はそういうもんだろう」とも思う。決めつける言葉ではなく、いろいろな人がいることを想像したい。

 10年経って、当時は中学生・高校生だった人が今では教師や自治体職員になっている人がいる。取材に応じて、いかに記憶をつないでいくかを語っている。自分も大きな犠牲を受けたことを話せるようになっている。今度は伝えていく側になっている人がいる。それはもちろん素晴らしいことだと思ったけれど、当然取材に応じない人もいるだろう。

 そもそも被災者だからと言って、頑張って自分のなりたい職業に就けたという人ばかりじゃないだろう。当然だが、10年前に思ったのとは違う人生を歩んでいる人の方が多いはずだ。テレビ画面の奥の方に、今はまだ語れない人が多くいるだろうことを思っている。

 ところで「記憶をつなぐ」という意味では「防災教育」が重要になる。前日に書いた中教審への諮問事項の二つ目が「第3次学校安全の推進に関する計画の策定について」になっていて、ちょうどこの問題を扱っている。前回も挙げた「中央教育審議会(第128回)配付資料」には多くの貴重な論点が指摘されていて、学校関係者だけでなく広く検討されるべきだ。

 現状認識の部分を引用すると、「甚大な被害をもたらした東日本大震災から10 年を迎え、時間の経過とともに震災の記憶が風化し取組の優先順位が低下することが危惧されています。また,今後発生が懸念されている首都直下地震や南海トラフ巨大地震等に対して,児童生徒等の命を守るための対策が喫緊の課題となっています。さらに近年,豪雨災害が激甚化・頻発化しており,防災教育の充実は喫緊の課題です。」となっている。
(内閣府の「防災教育」ページ)
 さらに「防災教育」に止まらず、SNSをめぐる問題新型コロナウイルス感染症など、児童生徒の安全に関する環境が悪化しているということで「安全教育」の重要性に触れている。現状認識は多くの人が共有するものだと思う。ただそれに関して、「学校における組織体制の在り方や関係機関との連携」「校内体制の在り方」などを指摘するのは、いかにも文科省の発想だ。

 もちろんマニュアル整備も重要だし、校内研修も大事だ。教員養成段階での安全教育も大切だ。しかし、「大川小学校の教訓」は何だっただろうか。地震はいつ起こるか判らない。管理職はよく出張するし、教員だって出張も休暇もある。いくら事前に訓練していても、まさに地震発生時には教員は全員はいないのである。学校に「組織的に対応する」ことだけを求めていたら、いざという時に「指示待ち」で動けない教師がいて、手遅れになりかねない。

 それは教師だけに限らない。会社や飲食店でも同じで、最後は自分が責任を持って判断するしかない。そういう時のための教育でなくてはならないと思う。いくら準備していても、地震は学校や自宅にいるときにだけ起こるわけではない。関東大震災はお昼に、阪神大震災は早朝に、東日本大震災は午後に起きた。次は通勤・通学の時間帯に起きるかもしれない。いろんなことを想定しなければいけない。

 高校生はアルバイトしている生徒も多い。バイト先で被災して自宅に帰れないことも起こる。バイトであっても、その店では客を避難誘導する立場にある。そういうことなども考えて、単に学校内に止まらない「防災教育」を考えていく必要があるだろう。
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感動的な魂の書「津波の霊たち」(リチャード・ロイド・パリー)を読む

2021年03月09日 23時02分17秒 |  〃 (震災)
 その日、つまり10年目の3月11日が近づいてきて、マスコミの報道も増えてきた。巨大津波爆発する原発の映像は、もう二度と目にしたくないという人も多いと思う。だけど、忘れてしまっていいのかと言えば、それはやはり違うだろう。これからどんどん「その後に生まれた人」が小学生から中学、高校へと進学していく。日本に住む人は今後も永遠に伝えていかなくてはいけない。

 僕は今回「津波の霊たち 3・11 死と生の物語」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という本を読んだ。著者のリチャード・ロイド・パリー(Richard Lloyd Parry、1969~)は、イギリス人のジャーナリストで「ザ・タイムズ」紙のアジア編集長・東京支局長を務めている。日本で殺害されたルーシー・ブラックマンさんの事件を追った「黒い迷宮」で評価された。原著「Ghosts of the Tsunami Death and Life in Japan」は2017年に出版され、2018年に翻訳された。翻訳は濱野大道(はまの・ひろみち)氏で、素晴らしい名訳。その本が2021年1月に文庫化された。

 この本の評判は翻訳が刊行された時に聞いていた。訳者あとがきまで入れると430頁もあり、値段も1020円する。文庫といえど、決して安くはない。内容だけでなく、字がずっしり詰まっている「重い」本だ。でもこの本は是非読んで欲しい。「読めばわかる、欺されたと思って読んで欲しい」と人に勧めたくなる。魂の書であり、心の奥底に響くものがある。震災に止まらず、日本人についてこれほど考えさせられる本は滅多にない。それが千円ちょっとで手に入るんだから、むしろ安いと言わなければいけない。嗜好品をちょっと後回しにして手元に置くべきだ。
(リチャード・ロイド・パリー氏)
 著者は3月11日には東京のオフィスにいた。高校生でホームステイしたときに人生初の地震を体験、以来何度も地震を経験したけれど、多くの日本人と同じく人生で最大の揺れだった。家族の無事を確認し、13日には早くも東北に自動車で向かった。東北自動車道は閉鎖されていたから、24時間かけて仙台にたどり着いたのである。以来何度も東北に通って取材を重ね、最終的に「石巻市立大川小学校」と「霊体験」を書いた。原発事故はあえて触れられていない。スマトラ大津波も取材した著者は、人生で二度と見るはずがない大津波をもう一回取材したのである。そして多くの犠牲が出た中でも、極めつけの悲惨である「大川小学校」の悲劇を深く取材した。

 そこでは多くの児童と教員が亡くなった。そのことは誰でも知っているから、正直言って読む前に気が重い感じがしてしまうのは仕方ない。震災で学校管理下で死亡した子どもたちは75名だったという。そのうち74名が大川小学校だった。逆に言えば、大川小学校以外ではほぼ児童生徒の安全は守られた。そこには偶然もあれば、奇跡もあっただろうが、普段の訓練が生きた学校も多い。震災で崩れた学校もなかった。津波被災地の学校でも、建物は無事だった。地震は自然現象だから、地震多発地帯では必ずまた起きる。その時どこにいるかを選べるならば、日本の学校にいることが一番安全だと著者は言う。それでも「大川小学校の悲劇」があった。
(地震前の大川小学校全景)
 だから原発事故と並んで、「大川小学校」に「日本の失敗」が見える。この本では裁判に訴え一審判決が出るまでが描かれた。大川小では学校がある地区だけでなく、周辺からスクールバスで通学する児童もいた。それぞれの地域で様々な違いがある。親たちの置かれた境遇も様々である。地震が起きた時間から、他地域で仕事をしていた親だけが助かり、複数の子どもが亡くなった家庭もある。一家ほとんどが亡くなった場合もあれば、地区の中には津波被害を受けなかったところもあった。子どもが複数いて、小学生だけが亡くなった場合もある。さらに遺体がすぐに見つかった人もいるし、一週間、1ヶ月して見つかった人もいる。ついに見つからないままの人もいる。

 様々な立場の違いがあって、連帯と分断が起こる。その中で「なぜ大川小学校の悲劇が起こったのか」に向き合っていない行政の姿が見えてくる。その中で立ちあがってくる人間模様が細かく描かれる。まさに目の前で語られるような言葉で描かれる。「チェルノブイリの祈り」を書いたアレクシーエヴィッチと同じく、ノンフィクションだけどこれは紛れもなく「文学」だ。先の訃報特集で関千枝子の「広島第二県女二年西組」を「僕が読んだ中でも最も心に響くノンフィクション」と書いたけれど、ここにもう一冊を追加する。あの本も「なぜ自分は生き残ったのか」を探る本だった。運命を探求する先に社会が見えてくる。

 この本がすごいのはさらに先があることだ。それは「霊の問題」である。そこは東北だった。遺体が見つからない親たちは、霊能力がある人に尋ね始める。警察なども、その結果を教えて欲しいと言う。他の地域では大災害時でもあまり聞かれないという。そして多くの人が不思議な現象を見聞きする。幽霊が乗ったタクシーなどの話である。内陸部の栗原市の住職、金田諦應(かねだ・たいおう)師は被災住民の相談に乗りながら、「除霊」をするようになる。「カフェ・ド・モンク」という、「文句」と「monk」(僧)、さらに好きなジャズピアニスト、セロニアス・モンクを掛けた「おしゃべりスペース」を開きながら、霊の問題を引き受ける金田師の存在感はすごく大きい。

 この本に出て来る多くの日本人も、口では「幽霊は信じてない」という。著者も心霊現象には否定的だというが、叙述はニュートラルな聞き書きに徹している。そこに深みがある。全体的に著者が外国人ジャーナリストであることが、この本の一番の読みどころなのは間違いない。例えば大川小学校の子どもたちは朝「行ってきます」と家を出て、親は「行ってらっしゃい」と見送った。別れの言葉と日本人に教えられる「さよなら」はこの場合強すぎる。学校への行き帰りのような場合は、「行って、また戻ってきます」の省略の「行ってきます」、「行って、また戻ってらっしゃい」の省略の「行ってらっしゃい」と言うと書かれている。いや、そうだったのか。そんなことを意識していた日本人は多分いないだろう。

 「英国ニュースダイジェスト」というサイトに 「2人の英国人が見たあの日のこと」が掲載されている。そこでリチャード・ロイド・パリー氏が最後に語ることは「政治」だった。「日本は私が知るほかのどの国よりも、自然災害に対する備えが整っています。遅れているのは政治です。私の経験から言うと、日本人は政治を自分たちからかけ離れているものと見なしているように感じます。まるで政治が「別の自然災害」であり、その国民は無力な犠牲者であるかのようです。しかし、民主主義下では、自分でリーダーを選び、そしてある程度のふさわしいリーダーを獲得するものです。」コロナ禍で心に響く指摘だ。再び書くが、必読の本だ。
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役所は壊れても、学校は壊れなかった!?

2016年04月22日 23時27分57秒 |  〃 (震災)
 熊本の大地震から一週間ほど経つが、未だ余震が続きながら、大分県や県南部の方にも広がる気配もある。一方でインフラの復興も少しづつ進み、物資も届きつつあるようだ。空港も再開し、鹿児島本線も全線で開通している。九州新幹線は、新水俣以南が開通し、博多―熊本間も明日には開通する。こういうニュースを聞くと、東日本大震災の時もそうだったけど、多くの関係者の不眠不休の復旧作業があったんだろうなあと思う。その前提として、社会インフラの多くが基本的にしっかりと作られていて、完全に崩壊したわけではないんだと思う。「当たり前のことを当たり前にしっかり仕事をしていてくれた先人」のおかげである。まだ熊本駅から新水俣駅間が不通だし、大分県に通じる在来線も見通しが立たない。高速道路もまだである。いろいろ大変な部分もあるとしても、「緊急事態」期から「今後を見通した中長期的展望を考え始める時期」になってきたということだ。

 今回は「続けて2回の震度7を記録する」という、歴史上に類例がない揺れを記録した。だから、一度目の地震に耐えた家屋が2回目で倒壊したりした。写真で伝えられた「宇土市役所」の状況にもビックリした。宇土市だけでなく、八代市、人吉市、益城町の4自治体の役場庁舎が使用不能になっている。救援、復興の司令塔になるはずの役場がつぶれてしまった。だけど、考えてみれば学校はそこまで壊れなかった。2回の地震はいずれも夜に起こったので、学校が倒壊しても子どもに被害が出たはずがない。そうだけど、役場が大丈夫なのに学校が倒壊したら、猛烈な非難にさらされただろう。

 東京新聞では「地震で役所壊れても学校無事 中国ネット上で熊本の自治体に称賛」(4.21朝刊)という記事があった。中国のネット上で、「『市の財政が厳しい中、庁舎より学校の建て替えを優先した』という宇土市民の声も紹介され、『役人の既得権や治安維持が優先される国とは大違い』『日本のような地方政府だったら、四川大地震でどれだけの子どもの命が救われたことか』との意見もあった。」とのことだ。別に日本社会だから素晴らしいわけではないだろう。「普通選挙」で市長を選ぶわけだから、学校の耐震化をさておいて、市役所を建て直したりしたら、当選がおぼつかない。批判も出てくるし、それを報道する自由もある。「選挙」と「報道の自由」が何よりも大切なのである。普段は当たり前すぎて気づかないけれど、実はそういう「民主主義の仕組み」が世の中を支えているわけである。

 中国の習近平主席は、2014年のAPEC時のオバマ米大統領との会談で、「我々の民主に対するこだわりは“一人一票”に限らない」と述べたそうである。でも、やっぱり「一人一票」が大切なのであると思う。時に人気取り的な政策が出てくるとしても、どんな人でも投票権があるということが重要なのである。だけど…「一票の価値の格差は」「日本の報道の自由は」といくらでも話は広げられるけれど、ここでは中国や日本の政権批判のために書いているわけではないので止めておく。

 そもそも、その日本でも「震度7」が2回くるということも想定されていなかった。だから、学校も倒壊まではしないまでも、ひび割れなどが相次いだ。避難所になっていた学校が閉鎖されたりしている。これは全く想定外で、学校というところは「大災害時には避難所になる」と教員も思っているし、地域住民も思っている。それなのに…ということで、全国的にも大きな影響を与えるのではないかと思う。

 また、熊本城の石垣が崩れたり、しゃちほこが落ちたりしたのも驚きだった。加藤清正が築城した熊本城は、明治10年の西南戦争で焼失した。昭和30年(1955年)に再建されたということだが、その際当然のこととしてコンクリ製になった。木造建築の城に比べて重いということも、石垣に負荷を掛けてきた可能性もあるという。東日本大震災で被災した福島県白河市の小峰城の復元が進められている。(白河藩というのは、松平定信の居城だったところで、僕も行ったことがある。)今回、熊本城の復元に関して、小峰城の経験が役立っているという。具体的なアドバイスも行っているようだ。ニュースを検索していたら、「石工職人・遅澤晴永さん」の話というのが出ていた。「昔、(石を)積んだ人の積みグセがあるのでそれを忠実に再現する。しかも再び崩落しないように強度を保ちながら復元しています」。いやあ、すごいなあと思う。こういう職人さんがいて、「文化」が継承されていくということだろう。
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熊本大地震の衝撃-次は関東?

2016年04月16日 23時34分23秒 |  〃 (震災)
 熊本県で大地震が続いている。4月14日(木)の夜9時25分頃、テレビでニュースを付けていたら「緊急地震速報」が流れた。その日、直前に東京で震度2ほどの地震があったばかりなので、それが前震で今度は東京に本震が来たのかとちょっと身構えてしまった。が、よく見れば画面では熊本県と出ていて、直後に「熊本県で震度7を観測」という緊急ニュースが流れた。その後、それは「益城町」と出て、位置も知らないし読み方すらわからない。調べると「ましき」と読んで、再春館製薬所の本社があるところである。土曜になると、死者9名、熊本城にも大被害という状況が伝わってきた。

 その後も「余震」が続いていたが、16日(土)午前1時25分頃に、震度6強、マグニチュード7.3の大地震が起きた。それを受けて、気象庁は14日の地震は「前震」で、16日未明の地震が「本震」だと発表した。そんなことがあるのか。震度5以上の地震は14回続いているそうで、断層地震でこれほど大きな地震が続くことは確かに稀らしい。地震は阿蘇から大分県にかけても被害をもたらしている。今夜から雨風も強くなるという予報で、屋外に避難している人も多いという話だから大変な状況。

 僕は2011年9月に熊本へ行ったことがある。(ハンセン病や教員免許更新制等の問題に関する熊本行だったのだが。)その前にも、阿蘇や人吉などを旅行している。九州は自分の車で行くには遠いので、あまり行ったことがないのだが、それでも山や温泉に何度かは行っているわけ。でも熊本の街中はは5年前が初めてだったので、熊本城にも行った。その時の写真を見つけてみると、こんな感じ。これかどうかは判らないが、この城壁が崩れたとは驚きだ。
 
 政治状況にも影響を与えると思うが、それは後で考えるととして、「地震」をめぐって今後の事を考えてみたい。今回は「断層」の動きによるものだから、地震そのものは局所的である。「日本が大変だ」などというレベルではない。ただ、九州中央で起こったことにより、福岡と鹿児島を結ぶ九州新幹線や九州自動車道などがストップしている。また熊本空港も本震により使えなくなった。そのことが支援活動や物流に大きな影響を与える可能性がある。

 また、断層はさらに大分県にも続いている。今後、四国へと「中央構造線」に影響を与える可能性を指摘する声もある。大分から四国へと続くと、四国電力の伊方電発がある。だけど、僕にはそれ以上に、まだ動いていない日奈久断層帯南部の方に影響があるかもしれないと心配である。熊本県南部だけど、その先に鹿児島県西北の出水断層帯がある。その場合、現在ただ一つ稼働している川内原発に近くなる。日本の主要活断層については、「活断層地図 主要活断層 98断層帯のリスト」というサイトが判りやすい。布田川・日奈久断層帯も出ている。

 もう一つ、「過去の地震を訪ねて、歴史的な経験に学ぶ」ということである。文科省は大学の文系学部の再編を求め、「文科系学問の価値」が改めて問われている。だけど、「文系」「理系」などという分け方自体を問い直す必要がある。「3・11」以後、歴史学の中で「災害史」が本格的に扱われてこなかったことへの反省がある。歴史学だけでなく、地理学、考古学、民俗学などの研究者が、地震や火山、土砂災害などの研究者と手を携え、列島に生きた人々の過去の経験を問い直し、学んでいく必要がある。理系の人も、古文書を読むまではともかく、自分の生きている場所の過去の情報に深い関心を持つ必要があるだろう。歴史学の中では、磯田道史氏が有名である。朝日新聞土曜版に連載され、中公新書で刊行された「天災から日本史を読みなおす」は必読。

 その磯田さんが16日の朝日新聞で指摘していた事実を紹介しておきたい。熊本県は決して地震がなかったわけではないが、前回の大きな地震は1889年なので、経験者がいない。今までも熊本城が崩落するような地震も起こってきたのである。中でも、1625年に起きた地震に注目するべきだという。この時は熊本城で火薬庫が爆発したという。年表を見ると、その前の1619年に同じ熊本の八代で大きな地震が起きている。さらに注目するべきは、「3・11」のちょうど400年前の1611年、「慶長三陸地震」が起きていることである。M 8.1の巨大地震で、津波で数千人の犠牲が出た。同じ年、「会津地震」も起きている。その4年後、1614年に日本海側の新潟県直江津沖で「高田領大地震」、1615年に相模、江戸に地震。1616年に再び宮城県沖地震で三陸地方に大津波。そして、1619年に八代地震、1625年に熊本地震。1628年に江戸で地震があり、江戸城の城壁が崩れる。そして、1633年に、寛永小田原地震で、1635年に江戸で大きな被害を出す地震

 日本ではどこでも地震があると思うべきだろう。過去に起きた通りに地震が起きるわけではない。だけど、ちょうど400年前にはこういうことがあった。東北地方で大地震があり、その後新潟や熊本で大きな地震が続いた。そして10数年後には江戸、相模に大きな被害が起きる地震があった。これを思う時、「首都圏」も十分に覚悟していなくてはいけないということはますますはっきりする。400年前のことだけど、決して無視はできない。過去の歴史を知ることは大切だ。
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「盗まれた」復興と安倍政権-震災3年目②

2014年03月16日 21時36分06秒 |  〃 (震災)
 自民党の2013年参議院選挙公約を見てみる。(以前は自民党のホームページを開くと、すぐに選挙公約のバナーがあったが、今は「転嫁拒否は違法です!」と大きく出る。過去の公約は「政策」の中の「選挙関連」にある。) さて、公約はいくつかのパートに分かれているが、以下のような構成になっている。(数字の順番は付いてないので、出てくる順に付けた。)
①「まず、復興を加速します。
②「さあ、経済を取り戻そう。
③「さあ、地域の活力を取り戻そう。」
④「さあ、農山漁村の底力を取り戻そう。」
⑤「さあ、外交・防衛を取り戻そう。」
⑥「さあ、安心を取り戻そう。」
⑦「さあ、教育を取り戻そう。」
⑧「さあ、国民のための政治・行政改革を。」
⑨「さあ、時代が求める憲法を。」

 この「まず、復興」、2番目に「経済」というのは、2012年衆議院選挙でも同様だった。参議院選挙に勝利し、「ねじれ」が解消された。公約に書いてあるんだから、「外交・防衛」「教育」「憲法(解釈の変更)」に取り組んでいるのだと言われれば、その通りかもしれない。しかし、あくまでも「まず、復興」だったはずである。どうして国民を二分する行動を安倍政権は取り続けるのか。「靖国参拝」などはその典型で、賛否は否の方が若干多い調査が多いが、大筋において「国論は二分」されている。どういう意見を支持するかという問題と別に、「国論が二分されると判っている」「経済に悪影響を与えかねない」と事前に判断できる行動を何故するのだろうかと問う必要がある

 大震災3年目を迎えて、確かに時間も経ち、「震災の風化」とでも言うべきムードが東京にはあると思う。しかし、そのようなムードをもたらしているのは、単に「時間の経過」ではないと思う。一方においては「2020年東京五輪」があり、自民党の政権復帰をきっかけにして「国土強靭化」の名のもとに、すっかり「公共事業推進」が戻ってきた。地方の保守勢力にとっては、待ち望んだ政権交代だっただろう。経済期待の保守支持層の岩盤が固いので、安倍政権の支持率が長期に安定している。「特定秘密保護法」をきっかけに、一時は確かに下落傾向があったが、年明けとともに元に戻ってきた。調査により多少の差はあるが、5割程度は維持し続けている。

 もう一方、安倍政権を支持しない層の「反対度」はどんどん上がっている。もはや「ガマンが出来ない」というレベルに上がっているのではないか。僕にとっても震災が少し遠くなってきた気がするのだが、その直接のきっかけは安倍政権の打ち出す様々な「悪法」に対応するのに精一杯だということにある。これだけ外交、教育でどんどん「戦後レジームからの脱却」政策が進行していくと、僕が専門的に勉強してきたわけではない「原発問題」や「これからの水産業のあり方」などへの対応は不可能に近い。

 僕の気持からすれば、あからさまに書くなら「「復興」は安倍政権によって盗まれた」という気分である。「民主党の対応が遅いから復興が進まない」などと言っておいて、政権に復帰すれば復興、経済より、防衛・安保などをやりたいのである。政権復帰一期目は、復興と経済再生に専念し、諸外国と摩擦を起こしたり、国論を分裂させるような政策は抑制して欲しかった。僕はそう考えるけれど、まあ、言っても仕方ないのだろう。それでも僕の予想を超えたスピードでものごとは進行している。

 その安倍政権の支持率が下がらない。安倍政権への反発は、もともと安倍政権を支持しない層から大きく広がって行かない。それは国民の中に「とにかくまだアベノミクスに期待するしかない」という気分が強いからではないかと思う。個々の政策課題で調査をすれば、安倍政権のすすめる防衛、外交、教育政策が大きな支持を受けているとは言えないのだが、政権全体の支持率に大きな影響を与えないのである。これをどう考えるべきかは、僕にはまだ判断ができない。そもそも「政権2年目を迎えて、支持率が5割程度を維持している」というのは、「政権が2年続く」のが前提だから、前の第一次安倍内閣を含めて、比較対象がここしばらくない。数年以上続いた長期政権は小泉、中曽根しかないので、今後の予想は立てにくい。

 ただ、今までの保守政権を思い出すと、人事でつまづいたのがきっかけで支持率が落ちることが多かった、小泉政権では、田中真紀子外相の更迭が一つの引き金になった。安倍政権でも、NHK経営委員とか法制局長官など、相当強引な人事を行い、ほころびを見せてしまった。ただ、閣僚の失言が少ない。(麻生副首相の「ナチスの手法」発言などひどい例もあったけれど。)閣僚の中にはウルトラタカ派はかなりいるのに、外交問題化するような発言をしないでいる、下野した3年間がよほどきつかったのだろう。しかし、参院選から1年経ち、内閣改造も行われるとなると、少しづつ「失言」が出てくるかもしれない。「敵失」しかないのでは困るのだが、衆参両院を押さえ、選挙も当分ないとあっては、ますます「復興」は盗まれていくんだろうか。
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復興「まだら模様」の時代-震災3年目①

2014年03月14日 23時46分09秒 |  〃 (震災)
 3月11日に、政府主催の「東日本大震災三周年追悼式」が国立劇場で開かれた。式典における天皇の言葉には「永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」という一節がある。さて、安倍首相は午後2時13分に国立劇場に到着、式典に参列し、式辞を述べ献花した。「首相動静」を見ると、3時38分に官邸に戻って、その後4時41分から国家安全保障会議が開催された。そこで「武器輸出三原則」に代わる新原則の素案が報告された。つまり、もはや安倍内閣において、東日本大震災追悼式は日常業務の一つに過ぎず、直後に「国民が心をひとつに」できない政策を推進するスケジュールがあらかじめ組まれていたわけである。

 僕は震災直後にボランティアとして被災地に行って、1年目、2年目の「3・11」にはブログに記事を書いている。しかし、今年はあえて当日には書かなかった。(前日にレイトショーで見た「東京難民」の終映が近いから先に書いたという事情もあったけど。)震災当日に書くと、その日のマスコミ報道に影響されてしまうのを避けられないと自分でも思う。「復興に向け出来ることを協力して行きたい」とか「原発問題を忘れてはならないと改めて痛感する」とか、別に自分でウソを書くわけではないし、実際そう思っているけれども、まあそういう(はっきり言ってしまえば)「タテマエ」だけ書いて終わってしまいそうである。今年あたりからは、「3・11に思うこと」だけではなく、「3・11当日がどう迎えられたか」も考える材料になっていくんだろうと思う。だから、あえて当日をはずし、追悼式典の「日常化」の話から書き始めたのである。

 確かに3年がたって、少し変わってきたかなと思う。自分の気持ちもそうだし、世の中のムードもそうだろう。東京の話で言えば、めっきり「余震が減った」と思う。余震と思われる福島や茨城の沖合を震源とする地震は、去年あたりまで結構あった。地震が多いと、やはり原発事故や津波を思い出し、ちょっと恐怖感が甦るのである。では忘れたかと言えば、別に忘れたわけではない。東京では関東大震災や東京大空襲があったわけだが、それは日常的にはほとんど思い出さない。地下鉄の霞ヶ関駅はよく通るけれど、もう地下鉄サリン事件をいちいち思い出すことはない。それに比べれば、東日本大震災はまだずっと生々しい記憶である。

 だけど、ある程度時間がたったという事実も否定できない。3年間というのは、震災当時小学6年生だった子どもが中学を卒業してしまうという時間である。時間がたてば、当時は生々しかった記憶も何だか遠くなる。その間も日々、時間は進行していたのだから当然だろう。実際、東日本大震災の直前に起こったニュージーランド南島地震のことは、もうほとんど振り返られない。多くの日本人がクライストチャーチの語学学校に研修に行っていて犠牲となったのだが。(調べてみると、日本人28人を含む185人の死者、行方不明が出た。)

 この「忘れる」ということは、我々が日常生活を送って行ける基礎的条件なんだから、あまり倫理的な批判をしてはいけないと思う。(そうでなかったらすべての人が失敗体験が一度でもあれば人生が終わってしまう。)でも、現に原発事故で家を突然追われたまま帰還できない人が何万人もいる。だから「原発事故を風化させてはいけない」というのも判る。実際に大きな被害を受けた当事者は、もちろん軽々に忘れられるわけがない。家族を失い、家を失ったら、「その日から時間は止まっている」というのが実際のところだろう。だから、ここ数年間が一番、「直接大きな被害を受けた人々」と「それほど被害を受けなかった人々」との様々な差が大きくなるときだろう。だからどうすればいいと簡単には言えないけれど、「そういう段階に入ってきた」と認識していることは大切だと思う。

 大津波の被害は青森から千葉に至る地域に及んだ。原発事故の放射能拡散は、ほとんど東日本一帯に及んだ。(静岡県のお茶が出荷停止になったりしたはずだ。)これほど大規模な災害は日本史上でも珍しい。とにかく戦災以来であることは間違いない。だから1年や2年で「復興」するはずがない。それは判っているので、一年目や二年目の段階では、「復興が遅れている」という批判もあったけれども、なかなか難しいというのも皆が承知していたと思う。でもこの一年の間に、気仙沼市で津波で乗り上げてしまった共徳丸の解体工事など、「震災遺構」の風景もかなり変わって行った。そこで見えてくるものは何だろうか。

 僕はこれから「復興のまだら模様」などと呼ばれる段階が始まると予想している。もともと東北の太平洋側一帯は県庁所在地からも遠く、過疎化が進行していた。震災が起きなかったら、仙台などの一部例外は別にして、大体の地域はゆっくりと過疎が進行し続けただろう。震災が起き、「復興」が叫ばれ、地盤沈下した土地のかさ上げ、高台への移住、防潮堤の再建などがスケジュール化された。どの町はもう放っておくとは言えないから、一応全部元に戻せるようなことを政府は言う。原発からの避難地区も、除染を進めながら少しづつでも帰還を進めるという話になっていた。今の段階ではっきり書いてしまえば、そういう「復興幻想」はもう崩れつつあるのではないかということである。

 もちろん一部の都市地区では、それなりに「復興」が進んで行くんだろう。でも思った以上に人口流出が激しく、なかなか元に戻れないという地区も出てくる。「復興は不可能」とは言えないので、マスコミなどでは「一部は復興しつつあるものの、厳しい地区もあり、復興はまだら模様の様相」などと表現するのではないかと思う。その直接の原因は(まだ東京五輪の直接影響は少ないと思うから)、「国土強靭化」とか「アベノミクス」などで、建設事業がスケジュール通り進行できないことだと思う。土木工事の人員や原料などが不足しているうえ、予算が思った以上に高騰していくのではないか。待っていられない人はどんどん都市に流出していく。子どもが町に住んでる人は一杯いるはずだから。だから住宅再建をしない人も多くなる。実際震災以後2割以上人口が減少している町も出てきているということである。だから、かつてオイルショックの後で開発がとん挫して荒れ野と化した苫東やむつ小川原などのミニ版が広がるのではないか。

 もっと深刻なのは原発避難地域で、家はあっても帰還できない生活が3年も続けば、もはや帰って農業や漁業に戻るというのは難しくなる一方だ。それでも「除染の遅れ」と言われる地域は帰還の可能性はあるが、原発そのものに近い双葉町、大熊町などは帰還できるメドが立たない。というか今の表現はまだ「配慮した言説」であって、はっきり言えば遠い未来はともかく、当面は「帰還不能地区」と言うしかないのだろうと思う。政府もどこかの時点で、「もう帰れないと思って、他の地区で生活再建を考えて欲しい」という時期が来るだろう。それはまだもう少し先なのではないかと思う。それを待っていられず、若い世代から他の地域に定住していく動きがはっきりするだろう。僕は自分に対策があるわけではないので、書いていいのかどうかとも思うけれど、認識のレベルではそのように考えているという話である。原発問題や安倍内閣の問題については、また別に書きたい。
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2年目の「3・11」-「風化」を考える中で

2013年03月11日 23時08分52秒 |  〃 (震災)
 昨年は「1年前の新聞を見る」「3・10と3・11(東京大空襲と東日本大震災)」を書いてるけど、2年目の「3・11」に思うこと。

 今年は、マスコミでは「風化を防がなくては」と言う声をかなり聞いたように思う。これをどう思うか。2年たてば、それぞれの人が、被災したり避難したりしている人も含めて、日常生活が継続されていく中で、「3・11」の記憶が薄らいでくることが避けがたい。僕はそのこと自体は、避けることができないし、やむを得ないことだと思っている。確かに震災直後は、日本中に連帯感、一体感があり、被災地のために自分も何かしたい、できることはないかと強く感情が動いたわけである。また、原発事故の危機感、恐怖感、衝撃の大きさは測り知れないものがあり、「日本というシステム」を作り直さなければならないという強い思いが共有されていた。

 しかし、あの当時を思い起こせば、誰もが(東日本では)地震そのものの揺れ、津波の映像、放射能拡散などの恐怖感、危機感に満ちていた。戦争や災害、個人の病気なんかの恐怖の記憶をいつまでも覚えていては日常生活が送れない。あまりに大きな恐怖のため、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する場合もあるが、多くの人は「忘れる」という心の機能のおかげで生きていける。そういう恐怖感、危機感と、災害後の皆が苦しむ中での一体感、連帯感というのは表裏一体のものではないかと思う。「恐怖感だけ消えていって、一体感だけは残り続ける」という風にうまくは行かないんだろうと思う。それを「風化」という言い方をすれば「風化」だが、その分日常生活が戻ってきたということだ。多分、「子どもを亡くした親」の場合は、今もこれからも「時間が停まった」中を生きている人が多くいると思う。しかし、家が流されたが、家族は無事だったという人は、仮設住宅の日常に適応していく時間の方が、毎日の暮らしの中で多くなって行く。これは自然なことだ。

 東京でも、相当に大きく揺れた。人生で経験した最大の揺れである。その後も余震がかなり長く続いた。津波や原発の問題もあるが、地震の揺れそのものの恐怖もかなり続いたと思う。今も完全になくなったとは言えないが、これは日々の積み重ねの中でほとんど消えている。原発事故そのものによる放射能恐怖も、日常の中では薄らいでいる。東京で生きている限り、確かにあまり震災を考えないで生きていると言える。それを「風化」と言えば言えるかもしれない。復興や除染そのものに、僕たちが直接できることは少ない。そういう段階になっているということも大きい。

 僕はこういう過程は、戦争体験でも、あるいは阪神大震災なんかでも同じようなプロセスをたどってきたと思う。戦争の場合は、あまりにも被災が大きかったのと、復員がバラバラだったために1年、2年という区切りでは「風化」はしなかっただろう。でも、ある段階から「日常生活の中で忘れていく」という過程に入る。大事故、大災害なんかだと1年目までは皆が忘れずにいて、その後なだらかに災害の記憶が後景に退いて行く。10年目までが一つの区切りで、それまでは「風化を防がないと」という声が出る時期である。「10周年」が一区切りになって、後は「周年行事」化していってしまう。大体そういうプロセスになってきた。

 ところで、東日本大震災の直前までマスコミで取り上げられていたのは、ニュージーランド南島地震だったことを覚えているだろうか。クライストチャーチのビルが倒壊して、英語留学していた富山県の学校の関係者が多数犠牲になった。多分富山の新聞やテレビは今年も大きく取り上げたのではないかと思うが、ほとんど全国ニュースにはなっていない。また今年はイラク戦争開戦10周年だが、イラク戦争と日本の関わりを再検討しようという声もほとんど大きくならない。アメリカ軍も撤退し、ブッシュ政権も終わっている今、自衛隊派遣の是非、なんて言う問題も意味が少なくなったと思われているんだろう。僕は小泉政権の当時の対応を厳しく問い直す必要があると思うし、民主党政権で一部行われたが本格的なものとはならなかった。こうしてみると、「風化させていいのか」という声が上がる問題以前に、もう完全に「今の問題」とは思われなくなったケースがあることになる。「風化させていいのか」という声が大きく聞こえるケースは、特に大規模な被災をした場合なのである。

 ところで、東日本大震災では、それだけでいいのかという問題がある。思いつくままに列挙してみる。
①まず、「原発」問題は「現在進行形の問題」であり、事故があった原発の中で何が起こったのかもまだはっきりしていない。基本的には、放射性廃棄物の処理問題が解決できず、政策コスト(補助金等)を含めれば圧倒的にコストが高い原子力発電所が永続するはずがない。今後新規立地できるところがあるとは思えないし、仮に強行的に新設するとしてもそうたくさんできるはずがない。70年代、80年代に作られた原発が多く、もう原発時代の終わりが近いのははっきりしている。しかし、「原子力ムラ」と呼ばれるような産官学の複合体は、自民党の政権復帰とともに解体されずに生き延びかねない。その問題。一進一退を一喜一憂しないで見て行きたい。

三陸の復興は、「過疎」の問題を直視する必要がある。多くの地区で、産業の基盤が完全に破壊され、1メートル近くも地盤沈下した。これをすべて土地の改良をして、また大きな堤防を築き直し、一方で住宅地の高台移転を実現するというのが、本当に実現可能なのか。もともと過疎の問題を抱えていた地域で、今も住民の都市部への移住が多くなっている。公共事業を担当する建設業者も減ってしまったし、全国的に公務員が少なく都市計画などの実務担当者が確保しづらい。結局、政府、県当局の意向が、地元住民とともに考えることなく推進されてしまいそうな感じがする。その結果、形の復興が出来ても人々がもういないということにならないか。これは他地方の過疎地区の問題とも共通する問題だが。

③僕が前から指摘しているが、藤沼ダムの問題。東日本大震災では住宅の倒壊ではなく、津波や原発事故の問題が大きかった。しかし、それ以外の被害もあったのであり、特に福島県須賀川市の藤沼ダム決壊の重大性を忘れてはならない。ダムの崩壊というありえない事故が起こって、8人の犠牲者が出たのである。阪神大震災の高速道路倒壊のような大問題であるにもかかわらず、他の大災害に隠れてほとんど知られてもいない。これは農業用ため池だったものだが、中央道の笹子トンネル天井事故などを見ても、いつどこで大事故が起きないとも限らない。西日本の方がため池が多いので、安全性の確認がどれほど行われているか、厳しいチェックが必要だと思う。さらに大きなダムが崩壊すれば、津波や原発事故以上の大惨事が起きる可能性さえある。(藤沼ダムの問題については、週刊金曜日3・8日号にまさのあつこ「決壊した『藤沼ダム』の教訓をどう生かすか」が掲載されている。)

④その他、文科系・理科系を融合した地震災害研究の必要性、地震・津波以外の火山の大噴火、集中豪雨などの研究、新しい防災教育の必要性など、考えるべき問題は多い。「沈黙の町で」を読んだときに感じたことなのだが、大震災直後に「絆」という言葉があふれたけれど、日本人に必要なのはまだまだ「絆」よりも「自立」なのではないか。組織によりかかり組織を超える発想ができない人ばかりを育てる教育を改めて、「真の自立」を育てないと、次の大震災に生きないばかりか、いじめや体罰などの問題も解決できないと思う。
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1年前の新聞を見る

2012年03月11日 22時52分30秒 |  〃 (震災)
 大震災1年目の日。テレビはずっと特集番組が流されている。それで改めて思ったことは、津波と原発に印象が固定化される前の、揺れそのものの大きさと恐怖である。多くの個人映像が残されていて、とんでもない揺れなのだが、同時にビルや家屋の倒壊はほとんどなかった。かなり壊れたり散乱しているけれど。年末にブログに書いたんだけど、このとき福島県須賀川市の藤沼ダムが崩壊し、土石流が集落を襲い8名の犠牲者が出た。このことの続報がぜひ欲しい。全国には、海辺でも原発地区でもないけど、ダムやため池が近くにあるというところが沢山あるはずだ。

 ところで、前にも書いたことがあると思うんだけど、僕は重大な出来事があった日の新聞はそのまま(切りぬきではなく)取っておくことにしている。1976年の「田中前首相逮捕」の頃から取ってある。もう去年のは捨ててしまった人も、今日は震災特集だから、是非残しておくといいのではと思う。特に若い人。毎年取っておいて比べると、それが何より「忘れない教訓」につながるのではないか。

 で、1年前の新聞を見直してみたい。僕が取ってる朝日新聞。見出しを中心に振り返ってみたい。

12日(土)朝刊 東日本大震災 M8.8世界最大級 大津波
 ちょっと驚くのは、大見出しが「東日本大震災」となってることで、もうこの段階でこの言葉が使われていた。また、マグニチュードは当初の発表が8.8だったですね。1面下に「福島原発、放射能放出も」とある。またニュージーランド南島地震に派遣されていた日本の救助隊は奇しくも11日が最後の活動日だった。都内版では「都内で死者3人」と大見出し。11日に石原都知事が4選出馬を表明していたが、扱いが小さくなっている。

12日(土)夕刊 東北沿岸 壊滅的 陸前高田や相馬、街全体が水没
 気仙沼の船が流された写真が大きく載っている。原発は最終面(普通はテレビ欄のあるページ)で、「放射能放出 5万人避難」と1面ぶち抜き。実はもうこの時メルトダウンしていたわけだけど。僕は昼ごろようやく帰れて、家ですぐに寝た。

13日(日)朝刊 福島原発で爆発 周辺で90人被曝か 炉心溶融、建屋損傷 
 水素爆発で原発が1面トップに。後には、「東京電力福島第一原発」とちゃんと言うようになるが、地元は別にして東京では最初「福島原発」と呼んでいた。しかし、「炉心溶融」と大見出しにあった。3面に「危機管理ちぐはぐ」、4面に「原発対応 くすぶる不満」、5面に「原発で爆発 世界緊張」と原発事故対応への批判的な印象である。裏面は「救援阻む泥の海」。社会面は2面ぶち抜きで「人も 町も 消えた ここにいる 助けて」と大きな見出し。ようやく現地入りした記者の報道が載りはじめた。この段階では「死者686 行方不明642」とされている。

13日(日)特別号外 3号機も冷却不全
 忘れていたが、日曜日に「特別号外」が出ている。「被曝の不安 刻々拡散」「1万人どこに」「生きてる 声よ届け」。写真も大きく出ている。

14日(月)朝刊 「死者は万人単位」 宮城県知事、見通し
 この知事発言は、地元紙河北新報の本を読むと、「死者」と表現することにためらいがあり「犠牲」と表現したとあった。中央紙は「死者」と書いてるけど。「きょうから輪番停電」と1面下に。(ちなみに、このころは1面に広告がない。)

14日(月)夕刊 3号機も水素爆発 福島原発 建屋損壊
 原発事故も拡大。計画停電も始まり、この頃から数日が一番恐怖に満ちたころだったと思う。

15日(火)朝刊 高濃度放射能 放出 2号機 炉心溶融 
 2面に「放射能 高まる緊張」、最終面に「濁流1分 町をのむ」という大見出しで南三陸町の津波の連続写真が掲載されている。今では知られているように、この日に大量の放射性物質が排出された。新聞もその緊張を伝えていた。同時にこの頃から、経済への影響の記事が多くなっている。

15日(火)夕刊 福島第一 制御困難 2号機圧力抑制室損壊か
 1面下部には「最悪の事態に備えを」という編集委員の記事が載っている。2面に「危うい危機管理」「首相自ら、東電入り」。いよいよ、あの日である。最終面には「放射線 身を守るには」という解説がある。

16日(水)朝刊 高濃度放射能 復旧阻む 4号機燃料に近づけず
 1面下部には「東証暴落 1015円安 世界株安の様相」とある。「死亡 4851人以上」「安否不明 14428人以上」となっている。紙面には放射能とか原発自体の解説が多く載っている。スポーツ欄にはプロ野球開始時期をめぐる問題も出ている。この時期は「セ・リーグ 先行か」という観測も。

16日(水)夕刊 3号機から白煙 正門近く高い放射線 
 最終面は「原発避難 福島8万人」。この日、死者・行方不明が9000名を超え、阪神大震災を超えたと出ている。 

 僕が取っておいたのはこの日までである。時々見直してみる必要があるなと思った。
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大地が震えた日

2011年12月27日 21時40分32秒 |  〃 (震災)
 東日本大震災は、首都圏に住んでいる多くの人にとって、人生で経験した一番大きな揺れだったと思う。僕は新潟地震(64年)、宮城県沖地震(78年)など相当大きかった記憶があるが、今回は全くレベルが違う長い長い揺れだった。大津波と原発事故があり、まずそのことを思い浮かべる2011年暮れだと思うが、その前に地震そのもの、大地の震えがあった。

 95年の阪神大震災では多くの家屋が倒壊し多数の死者が出た。阪神高速も倒壊するという驚くべき映像を目の当たりにした。中国四川省では学校が倒壊し、ハイチでは大統領府が倒壊した。直前にあったニュージーランド南島の地震でもクライストチャーチのビルが崩壊し、語学校に通っていた日本人28人が亡くなるという被害があった。今回の地震ではどうだったろうか。確かに大きな津波が襲ったわけだが、その前の揺れそのもので学校やビルが倒れるということはなかった。95年の経験を生かした耐震基準の見直しが生きたのだと思うし、公共工事の手抜きなどはなかったのだと思う。このことはとても大事だと思う。確かに大きな津波が大被害をもたらし、未曽有の原発事故が起きた。でも95年の経験を生かしたように、11年の悲しみも今後に生かしていかなくてはならない

 しかし、地震そのものの被害がなかったわけではない。原発事故も、本体の格納容器などはともかく、地下の配管などは地震で損傷している可能性が高いという説もある。あと何十年もしないと現場に近づけず、当否の検証ができないのだが。そして、多くの人が忘れているだろう、大きな被害もその時起こった。

 福島県須賀川市の藤沼ダム崩壊である。河北新報の記事を参照。1949年建設のダムで、死者・行方不明8名、家屋全壊・流出19戸の大被害を出した。このようなダム崩壊事故は世界でも1930年以来だと記事にある。今、この出来事の検証が大変重要であると思う。八ッ場ダム建設の前に、地震と噴火の大災害を免れない日本で、ダム崩壊事故の教訓を生かさなくてはならない。次の地震のことを考えるとき、東海、西日本の大津波対策や原発事故の危険性を考えるのは当然だが、内陸部でもダム崩壊というようなことがありうるのである。

 また、明治に起こった日本最初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件が、今回の震災でまた被害をもたらした。足尾銅山で使用された土砂が、地震によって堆積場からあふれて渡良瀬川に流れだし、環境基準の2倍の鉛を検出したのである。このこともあまり知られていないだろう。(僕も最近知った。)このように、環境破壊と言う出来事は100年単位では収まらないのである。原発の放射性廃棄物だけの問題ではない。このような現実をきちんと知っておかなければならない。

 震災からしばらくの間は、津波の恐ろしい映像、原発の水素爆発、計画停電、いつまでも来ない電車のダイヤの乱れなど、緊張と恐怖と衝撃が社会を覆っていた。しかし、同時に、この苦難をともに乗り越えようという強い連帯の願いも社会全体に満ちていた。非日常の時期がいつまでも続くものではなく、非日常も日常になってしまう。どんな理不尽な出来事も慣れていってしまう。また、そうではなくては困る。でも、だからと言って、忘れてしまっていいわけではないし、あの恐怖や緊張の日々をそう簡単に忘れられるものではない。年末になってもまだ3千人以上の行方不明者がいる。2万人近い人々の命が一度に奪われた。日本で一日で多くの命が失われた日としては、1945年8月9日以来なのではないか。そして、原発事故により数万の人々が自宅を追われ避難生活で越年する。これも戦争以来のことだろう。これを、東京大空襲の国家賠償を求める裁判で政府側が主張するように、「不運なこと」「国民それぞれが負うべきもの」としてはならないだろうと思う。 
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次の大地震が起こる日は近い

2011年11月11日 21時38分09秒 |  〃 (震災)
 2011年11月11日。東日本大震災が起こってから8か月。いつか書こうと思い、なかなか機会がないままになっていたことを書きます。

 僕はこの間、教員免許更新制に反対する意見を書き続けてきました。それは、講習を受けないと免許失効、失職と言う仕組みが納得できないからです。それを言う以上、「自分はそれなりにちゃんと勉強してきた」と思っています。ただし、すべての分野を一人で目配りできるものではないから、講習とか研修は当然あるべきだと思っています。ただ、自分の教科の専門分野は自分で勉強し続けなくてはいけない。それは「教員の義務」です。

 自分の専門の日本史も分化が進み、近現代史以外では新書を読むぐらいになってしまうのですが、一応その程度は続けてきました。(というか、授業とか専門とかの問題ではなく、要するに純粋に自分の興味関心で読んでるわけですが。)で、岩波新書で現在「シリーズ 日本古代史」が刊行中です。6月に川尻秋生著「平安京遷都」が出てから、最後の一冊が出ませんね。この本を秋になって読んだのですが、過去の地震について驚くべき知識を得ました。多分まだ知らない人が多いと思うので、ここに書いておきます。

 今回の東北の大地震、1000年に一回と言われます。過去にも巨大津波が襲った地震があった、それは貞観地震だということでした。869年のことです。だから1142年前になります。マグニチュード8.3~8.6。この時は、地震で宮城県の多賀城が崩壊しました。また今回なみの巨大津波が襲ったということですよね。この「じょうがん」という読み方の元号もほとんど知らなかったです。貞観は859年から877年まで、清和天皇、陽成天皇の時代。清和天皇は日本初の幼帝で、藤原氏の摂関政治の初期になります。866年には「応天門の変」が起こっています。で、問題はこの後、連動して他の地震は起こったかです。

 その時代は巨大な災害がいっぱい起こっていました。例えば、5年前の864年に富士山の大噴火が起こり、青木ヶ原樹海が誕生しています。そして、貞観地震から9年後の878年に、関東地方に大きな地震が発生しています。マグニチュード7.4.京都でも揺れたと言います。これは地震学者の中には、貞観地震に誘発されたものという説もあるということです。
 
 そして、887年、貞観地震から18年後仁和地震が起こりました。「にんな」です。仁和寺ができた時代です。「東海・南海同時発生、五畿七道が被災、大阪湾に巨大津波、八ヶ岳崩壊など」とされます。東海、南海地震が連動して同時発生したらしいのです。マグニチュード8~8.5。これこそ、まさに今一番心配な地震です。

 つまり、この1100年以上前に起こった過去の出来事を見ると、東北の巨大地震が起こってから20年以内に、関東の大地震と西日本の巨大地震が起こったわけです。これは、地質年代から見れば、「もうすぐ」です。定期点検中の原発でも危なく成りかかったんだから、浜岡原発はいますぐ廃炉(20年では廃炉まで行かない)、伊方や川内なども停止が必要。学校等の耐震化、津波対策など今回の津波の規模を考え、全く新たな目で緊急に対策を講じる必要があります。もちろんオリンピックなんてありえない。仮に東京に決まっても返上になる可能性が高い。最後にもう一回書くと、千年前は20年なかった。今回はもっと遅いかもしれない。早いかもしれません。どっちにせよ地球の長い歴史の中では、連動して近い時間で起こっている。これ、知ってましたか?これこそ、今、まさに全国民が知っておくべきことだと思います。
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震災3か月を前に

2011年06月09日 20時38分46秒 |  〃 (震災)
 6月11日で、大震災より3か月。
 原発事故はいまだ収束せず、三陸の復興のメドは立たない。
 11日は土曜日と言うことで、「6.11 脱原発100万人アクション」が全国で計画されている。賛同の募集もあるので、ご覧下さい。

 今回紹介したいのは、FIWCで気仙沼・唐桑半島に「常駐」している加藤拓馬君ブログの内容である。僕は4月半ばに行ったわけだが、拓馬君は大学卒業後、入社が決まっていた会社に待ってもらって夏まで常駐するという選択をした。最近の記事を少し引用するので、是非よく読んで欲しい。マスコミでは出てこない、そして長く現地にいて信頼を得てきたものに見える視点。必読。僕も考え込んでしまった。(太字・尾形)

気仙沼で働くBさんは、被災後の人々の心情の変化をこう指摘する

「最初は、“命があってよかった!”
 次に、“メシがない。メシがほしい”
 次は、“モノがない。モノがほしい”
 最後は、“カネがない。カネがほしい”
 結局そうなんですよ」

震災から2ヶ月以上が経ち、被災者の心に変化が表れ始めている
 夢から醒めたのだ。
 今までは、どこもかしこも非常事態で、協力し合ってがむしゃらに前進してきた。
 しかし、2ヶ月以上たった今、本当の意味で気づくのだ。
 (あぁ、今回のことは現実なんだ)
 その現実にぶつかったとき、キレイ事が通用しなくなる。
 疲弊とともに、人間の汚さが出始めている。
4月は、ガレキがれき瓦礫に滅入った。夢にまで出てきてうなされた
 5月は、人間の心に滅入っている。どこに行っても、嫌な話ばかりを聞く

日本の皆様へ
 被災地の本当の試練は、ようやくここから始まります
 心の隅でいいです。もうすぐ3カ月を迎えようとしている今、ここから本当の闘いが始まるんだ、ということを心の隅でいいんで、置いておいてください。
 自分に何ができるのか、それを考えるだけでもいいです。
 3月下旬、「何か被災地のためにしたい」そう思った方は多いと思います。私もそうでした。
その気持ちを忘れないでください。決して、復興が順調に進んでいると思わないでください。
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気仙沼・唐桑キャンプから帰って③

2011年04月24日 22時39分42秒 |  〃 (震災)
 震災現地から帰って元気にしていたのですが、今になって少し疲れたなあという感じ。
 土曜日はGWキャンプの事前説明会に行きました。FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の唐桑キャンプはどんどん広がっています。オールド・キャンパーもたくさん参加予定。

 今回良かったなと思うのは、現地で参加する人が出てきたことです。最初に行ったメンバーが苦労しながらボランティアの可能性を広げ活動する中で、一緒にワークに参加してくれる人が出てきました。友達も連れて来て、毎日話せる関係ができました。その後、新聞チラシをまいたら高校生から参加の電話がありました。その後の状況報告によれば、僕たちが帰った後で一緒に参加しているようです。

 唐桑というところは、検索すると「唐桑御殿」という言葉が出てくるようなところです。唐桑御殿という建物があるのかと思ったら、この地域に何百軒とあるお城みたいな壮麗な家を総称する呼び名だそうです。大きな瓦をたくさん使い、大きな柱に支えられた、まさに御殿みたいな建物。その財を支えたのは、遠洋漁業だそうです。そのような家も津波で大きな被害を受けていますが、高台にある家も倒れていません。

 この唐桑半島の突端に国民宿舎からくわ荘があり、この地に関係のできたきっかけの鈴木重雄さんの銅像がありました。(ちなみに、近くに「津波体験館」があって、小沢昭一さんが行った経験が今日(4/24)の朝日新聞に出ていました。)

 鈴木さんはハンセン病回復者として唐桑町長選挙に立候補した方です。1973年のことです。21世紀になって違憲国賠訴訟勝利後は何人か選挙に立候補した人がいますが、40年も前に町長選に挑むというのはどれだけ勇気がいることだったでしょうか。惜敗後に福祉施設高松園を作り、今も福祉法人洗心会として発展しています。国民宿舎誘致に貢献したということで銅像がたったそうです。

 昔、FIWCの韓国キャンプに参加しました。その縁で細いながらもずっとハンセン病との関わりが続き、六本木高校の「人権」の授業でも毎年取り上げたし、こうして震災キャンプにも参加するに至りました。
 縁と言うのは不思議なものだと思っています。「ハンセン病が人をつなぐ」。
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気仙沼・唐桑キャンプから帰って②

2011年04月21日 22時06分17秒 |  〃 (震災)
 帰ってきて新聞をみると、ようやく「死者」が「行方不明」を上回っていました。今でも毎日遺体が発見、確認されています。それでもまだ1万人以上が「行方不明」とされています。

 行った当日も書いたけど、陸前高田を訪れたことは非常に衝撃的なことでした。今回は建物の倒壊による死者は少なく、大体は大津波による被害でした。それは想像を絶するもので、自然の威力は計り知れないと言えば、それはそうなんだけど、それで片付けたくない。

 大体の人は映像、写真等で壊滅した町の様子を見たと思います。それだけで言葉を失うような惨状だけど、実際にこの目でみると、表現のしようがない。僕にとっては、すべて壊滅した町の写真は、授業で東京大空襲を教えるときを思い出させます。

 現代日本ではありえない状況。仕事場もないから暮らしがめどがたたない。では他の町に避難するかと言えば、行方不明の親族がいるから町にいる。地盤沈下して浸水するから元の場所に家は建てられない。平地が少ないから仮設住宅の建設もすすまない。どうすればいいんでしょうか?僕にはわからない。
 よそ者の僕にすぐわかるわけない。

 だけど、見て良かった。言い方は難しいけれど、見る前とは何か認識が違ったと思う。
 唐桑でも海辺の家は破壊されています。でも町全体が破壊されたところはまた違う。唐桑は半島なので高台が多く、川沿いの沖積平野に町が発達した陸前高田などの被害の甚大さは格別と言えます。

 それでも、この地は海で生きる人々の住む地。また海で生計を立てることになると思います。これだけ被害を受けても、海で生きていく。(いや、もう海は嫌で町を出る人もいると思うし、誰もそれを批判できないけど。)そして、僕も日本は海に生きる国だと思うから、ワカメ、さんま、カキなどが復興してほしいし、三陸の海産物がないと寂しい。東北の温泉になんど行ったことか。そして三陸の海産物をなんど食べたことか。現地の人と話して飲んで、やはりそこに行きつくのです。
 同情して言ってるのではなく、僕は東北の温泉と海産物を愛してるから、絶対復興してほしい、と。
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気仙沼・唐桑キャンプから帰って①

2011年04月20日 23時47分33秒 |  〃 (震災)
 震災ボランティアキャンプのまとめを数日続けます。

 今日は六本木高校に行って、今年の第1回「人権」授業。ゲストの立場で今回見てきたことなどを語りました。アンケートに「尾形の授業と思って登録した」という人がかなりいて、申し訳ないです。今日はいろいろな人が歓迎してくれてありがとうございました。

 でも、昨日の今日で、かなり疲れていたね。年も年だし、集団で仕事するのも大変。仕事はいろいろで、危険もあるし、現地の人との関係でも気を使うことがある。精神的にも大変。

 ヘルメット、登山靴(長靴ではダメな場合が多い)、防塵マスク(普通のマスクではダメ)、厚手のゴム手袋でずっと作業してました。これは過去のワークと質的に全く異なる次元のキャンプだと思いました。
 気軽な気持ちでボランティアをできる段階ではないですね。

 ただ、少しすると体もなじんでくるし、メンバー間の関係もできてきます。そして、今回は現地の人々との関係がだんだん濃くなっていって、それが意味があったと思います。

 現地でお世話になった馬場さんのお宅の皆さん(犬のモモも含めて)はもちろん、唐桑に住んで一緒にワークに参加する人が出てきたのがうれしかったです。今回FIWCで新聞チラシを入れたら、一緒にやりたいという声もいろいろ寄せられているようです。
 毎日誰かが訪ねて来てくれて、語り合う(飲む?)のも意義深い時間でした。 

 やはり自分たちだけで津波被害に立ち向かうのは大変なことで、一緒に話しながら片付けを手伝ってくれるボランティアという存在は、確かに意味があると思いました。
 それがまず、第一の確認です。

 明日改めて書きたいと思う、陸前高田市の高田松原の、たった一本残った松の写真を載せておきます。
 もとがどうだったかは、自分で調べてください。
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東北から帰ってきました

2011年04月19日 23時52分37秒 |  〃 (震災)
 本日、9時半頃、東京着。行きも帰りも僕の車で何人か乗っていったので、無事に行き来できて今回のワークキャンプ終了です。

 唐桑では、携帯の受信状態の関係でログインできない時が多く、ほとんどメールで投稿しました。
 それにしても、昨日の投稿は何ですか!酔って打ってるのが一読瞭然(一目瞭然ならぬ)ですね・

 今回は、久方ぶりにパソコンから投稿です。
 写真も少し撮ってきました。最初は撮る余裕がなかったのであまり撮ってません。今後少しずつ載せていきたいと思いますが、いろいろな事情から掲載が難しいものもあり、個人的な報告会等で使いたいと思います。

 どこでもうかがいますので、呼んでください。

 さて、今日は唐桑のコメリ上に乗った自動車。かなり有名なので使わせてもらいます。
 今日、やっと重機が入り、撤去されました。だからこれから行っても見られません。震災から1か月と1週間。それだけたってやっと撤去されました。それが今回の津波被害の規模を示しています。
 遠くから撮ったので、写真が小さいです。パソコンの人は拡大して見てください。

 今日はまず簡単な報告のみで。

コメント
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