尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

これからどんどん大変になる遺産相続ー相続を考える③

2024年05月02日 22時19分42秒 | 自分の話&日記
 遺産相続を通して考えたシリーズ3回目(最後)。1回目は相続財産確定が大変な話。2回目は不動産があると自分では難しいという話。3回目は最後にまとめとして、相続が難しくなっていく様子を考えておきたい。相続は「相続財産額」と「相続人数」で決まってくる。この相続人数の確定もなかなか大変である。もちろん自分にとっては、相続人数は判りきっている。親と兄弟姉妹の数だから自分は知っている。しかし、本当にそうなのか証明せよと言われると、これが結構大変なのである。

 「自分が自分である証明」も昔よりはるかに大変になった。何でもかんでも「本人確認書類」がいる。昔はそんなものはなかったのである。母親が主に使っていた銀行は「みずほ」で、自分が使っている銀行は「三菱UFJ」だが、初めに預金したときの名前は別だった。親が家を買った東京近郊は僕の幼少期には田畑ばかりだったが、どんどん住宅や団地、商店が建ち並ぶようになった。地区の発展に合わせて、駅周辺に銀行が作られていった。それが「富士銀行」や「東海銀行」だったのである。

 まあ僕の世代なら、金融危機などがあって銀行がどんどん合併していった様子はよく覚えている。そして、僕は東海銀行に口座を作ったのだが、開いたのは母親である。中学だか高校だかの時に、勝手に作ったのである。親なら子ども名義ですぐに口座が開けたのである。僕の「本人確認」などもちろんなかった。まだ銀行カードもなかった時代である。今じゃ考えられない。

 ちょっと脱線したが、「相続人数を確定させる」とは、つまり父母に他の子どもがいないかどうかということである。そんな話は聞いたことがないけど、それを証明せよと言われると面倒なのである。結局は生まれた時から死んだ時までのすべての戸籍を集めるということになる。この話は前に書いたことがあるが、異様に面倒だった。旧憲法時代の生まれで、「家族制度」があったからである。今と違って「母の父親」も「戸主」の戸籍に入っていたのである。

 だけど、そんな人は知らないし、ひょっとすると祖父の名前や出身地も知らない人がいるんじゃないだろうか。自分の場合、祖父の戸主の戸籍に母の出生が記録されていた。その後、祖父が分籍して戸主となり、さらに結婚で(僕の)父親の戸籍に移った。その戸籍は父方の祖父が住んでいた市にある。結局全部集めると、何十枚にもなってしまうのだった。もちろん戸籍謄本を申請するときには、僕の本人確認書類が必要になる。

 銀行や証券会社で相続手続きを行う場合、原則的にはその「すべての戸籍」の提出が必要になる。じゃあ、何通取ればいいんだと思うが、それを解決する方法があった。「相続情報一覧図」を作って法務局に登録するのである。これは2017年に始まった「法定相続情報証明制度」で、まあ公式認定された家系図みたいなものである。自分でも出来るらしいが、相続手続きを頼む時に一緒に頼めば簡単だ。(もちろん5万円ぐらい別に必要になる。)ただ、これがあれば紙一枚ですべての相続情報を証明出来るのである。
(相続情報一覧図=見本)
 銀行の場合は、振込手数料が取られるが自分の(他金融機関の)口座に入金可能である。(もちろん同じ銀行に自分の口座があれば、手数料なしで振り込める。)しかし、証券会社の場合、自分も同じ会社に口座を開かない限り相続が出来ない。わが家は父親由来の不動産と株式があったので、手続きが増えていったのである。株や投資信託は毎日値が変動するから、売るかどうかの判断は相続人がするしかない。そして証券会社に新規口座を開くときにも、本人確認書類がいるわけである。(他に「反社じゃない」とか、「北朝鮮に住んでる相続人がいないか」などにチェックする。)
(証券類の相続)
 こうしてやってみると、相続手続きは今後どんどん複雑になっていくと思う。母親の世代だと「暗号資産」など持ってない。FXとかネットの株取引もやってない。ネット上で完結する財産があって、パソコンやスマホにもパスワードが掛かっていたら、財産があるかどうかも判らない。それが判っても、財産額をどう見積もれば良いのか。一応死んだ日の値段で決まるんだけど、株や円相場の変動が激しくて困ってしまう。それにしても、どんどん世の中が面倒になっていくものだ。

 僕の身近な知り合いでも、配偶者がいないとか、子どもがいない、あるいは一人っ子であるという人がかなりいる。そういう人の場合、相続人の確定が難しい。そして昔買ったままの株などが残っていると、処理が大変である。昔は「株券」という実物があった。今は株券もなくなって、デジタル化されている。(2009年に株券電子化が行われた。)高齢者の場合、逆に紙の株式が見つかることもあるかもしれない。「デジタル化」に遺産相続が対応仕切れないのである。

 今は死後10ヶ月以内に相続税を払わないといけない。これはなかなか難しくなるのではないか。自分の場合、不動産の納税負担者の基準が1月1日なので、まず不動産の相続を先に行った。続いて、所有株がたまたま3月決算だったので、3月末までに株の書き換えを行った。相続税は少し掛かるレベルだったが、2月末には払った。遺産分割協議書は不動産とそれ以外の2冊になった。そういうことも可能なのである。だが難しいケースを考えると、申告期限を死後1年に延ばす必要があると思う。また「無条件でパスワードを開示出来る」国家資格(「相続士」とでもいうか)も必要なんじゃないか。
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不動産があれば自分じゃ難しいー相続を考える②

2024年05月01日 22時15分44秒 | 自分の話&日記
 今回相続をやってみて、一番感じたのは「不動産の有無」が問題だということだ。遺言がない場合、相続人が二人以上いると「遺産分割協議書」を作ることが多い。なくても出来るかもしれないが、銀行などの相続手続きを頼むと提示を求められる。その協議書は司法書士に作って貰える。司法書士事務所は調べるとあちこちにあるから、最初は自宅近くの司法書士に頼みに行ったのである。そうしたら自分では出来ないと断られてしまった。それは不動産があったからである。

 不動産、つまり土地や家屋がある場合、司法書士には出来ないと言われたのである。司法書士が誰か紹介してくれるのかと思うと、相続に詳しい税理士を別に見つけて欲しいという。そこでネットで探して、総合的に展開しているサポートセンターに頼んだ。結果的にそれで良かったと思う。母親が良く行っていた銀座松屋デパートのすぐ裏に事務所があったのも何かの縁だろう。

 やって驚き、よく「権利証」が大事だと言われる。後生大事に取っている人が多いだろう。母親もわざわざ銀行の貸金庫なんか借りて保管していた。この貸金庫を開けるまでも大苦労だったが、今はそれは省略。そんな大事な権利証が今はないのである。僕も相続の時には権利証が必要になると思っていたが、全く不要だった。売却するには必要なんだろうが、相続には不要。

 そして今は「登記識別情報通知」というものに変わっていた。それは12桁の符号(パスワード)で、不動産及び登記名義人となった申請人ごとに決められるという。それの通知書が従来の権利証に変わったのである。このパスワードは封印されていて僕は知らない。売却することでもなければ開けない方が良いと書いてある。次の所有権移転時の本人確認用に必要という話。
(登記識別情報通知書=見本)
 これは知らない人多いんじゃないかと思う。この新しい登記方法も、その気になれば誰でも出来るというけど、シロウトだと何度も通うことになると大体書いてある。よほど頑張れる条件があればともかく、相続財産がある程度あるならどこかに頼む方が良い。信託銀行はなかなか手数料が高いから、ネットでいろいろ探した方がベターだと思う。
(相続登記が義務化)
 4月から相続登記が義務化されたのは聞いている人が多いと思う。当然のことだが、自分が住んでる不動産なら登記はするだろう。と思うと能登半島地震のニュースでは何代も登記せずにいたという話が出ていた。都市居住者の場合、売買がひんぱんだから登記はしていることが多いはずだ。登記すれば、その人に固定資産税の納税通知書が送られてくる。大事なのは権利証よりこっちで、きちんと取って置く必要がある。親と別居している人は気を付けていないと後で困る。

 ところで僕の世代だと親が不動産を取得した人が多く、その住居で成人したケースが多い。女性の場合、80代を越えて90代、さらに100歳まで生きる人も多い。2023年は関東大震災(大正12年)から100年だった。つまり、大正末から昭和ヒトケタ生まれということになる。この世代だと、戦争と結核で大きな犠牲を被った。自分の両親もそうだが、そこを乗り越えられた人は壮年期に高度成長時代を迎えたのである。(戦争で男が戦死したので、結婚出来なかった女性も多かったが。)

 自分の場合、小中学校のクラスメートは大体自宅に住んでいた。都市近郊に育ったが、農業地帯がどんどん開発され、住宅地に変わっていった。同級生に農家もいたが、それより開発された住宅を買って移り住んだ人が多い。1970年頃にはほぼ高校に進学するようになっていて、同級生も二人を除き高校に進んだ。自分の場合、進学高校から大学へ進んだので、多分そこで出会った同級生も似たような境遇だと思う。典型的な都市中産階級である。

 その世代が買い求めた住宅が、いま相続時期を迎えているのである。僕の周りでも、多少遅い早いがあるのは当然だが、この10年ぐらいで親が亡くなった人が多い。自分は都市近郊で、そこに同居して住むことが可能だった。教員という地方公務員は、(交通機関が多い東京では)異動しても自宅から通勤可能だからである。これが地方出身者の場合、実家をどうするというのは大問題だろう。取りあえず自分の場合は、親が買った不動産の処理をしたわけである。
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全員に関係がある遺産相続ー相続を考える①

2024年04月30日 22時44分41秒 | 自分の話&日記
 高血圧の薬を飲むようになり、大腸ガン検診にも引っ掛かり、昨秋来頭上に暗雲が漂っているような気がしてきた。そして、この間母親の死去に伴う「遺産相続」をずっとやってきたが、これも面倒くさくて頭が痛い問題だった。大金持ちなら全部誰かに任せて、自分はハンコを押すだけで済むかも知れない。しかし、そんな金持ちじゃないので、出来る範囲のことは自分でやる気だった。しかし、どうしても自分じゃ出来ないこともあったので、外部に頼むことになった。で、どこに頼めば良いんだろう?

 自分が経験した「遺産相続」を通して、思ったこと考えたことを数回書いてみたい。まず「遺産相続は全員に関係がある」ということである。いや、ウチは大して財産がないから相続は関係ないと思う人もいるだろう。しかし、それは大間違い。どんな人でも何かしらの「財産」があり、ごく僅かしかない場合もあるだろうが、残された家族はその処理をしなければならない。もちろん「相続税が掛かるかどうか」という問題は別である。しかし、相続税には関係なくても、相続は発生する。

 そして、今後ケータイ電話ペットクレジットカード、スマホ内にあるが暗証番号が判らない暗号資産など、処理に困る「遺産」がどんどん増えてくると思われる。ちなみに、クレジットカードは暗証番号が判っていれば、(本人のフリをして)ネットで解約出来る場合もあるが、判らない場合は億劫。ネット上では難しく、電話すると何番を押せといろいろ操作して、「オペレーターにつなぎます」と言われて待つこと平均10~15分。それでも通じず何日も掛ける場合もある。

 スマホの解約も非常に大変で、本人が病気入院、施設入所の段階では、相談に行っても本人じゃないとダメ、または自筆の委任状がないとダメと言われることが多いと思う。ウチの場合も「ケータイ電話は重いから持って行かない」と本末転倒のことを言い出してから、10年以上払い続けていた。結構高いわけだから、少なくとも入院した段階で解約したかったが、どうせメンドーなこと言われると思って行かなかった。ちなみにさすがに死んじゃえばすぐに解約出来ました。
(相続税の控除範囲)
 「相続税」はいくらぐらいから掛かってくるのだろうか。知ってる人(経験した人)には周知のことだが、関係ない人は知らないだろう。僕も調べるまで知らなかった。まず「基礎控除が3000万円」で、それにプラスして「相続人数×600万円」が控除となる。つまり、父親が死んで、母親と子ども二人が相続人の場合、3000万+600万×3=4800万円が控除。その母親が死んで、子ども二人が相続する場合は、4200万円が控除。それ以下の場合は、相続税は掛からない。だけど、税務署に相続税ゼロという申告は必要だ。不動産と預貯金、有価証券などで6千万あったとすると、先の控除額を引いた額が相続税の対象となる、
(相続税額) 
 今の例で言えば、母と二人の子で相続する場合は、6千万-4800万=1200万円が相続税対象額となり、1000万を超えてしまったので15%となる。つまり1200万の15%=180万を相続分に応じて支払うことになる。これが相続額5千万だった場合は、無税となる。15%になるのは1000万~3000万だから、総額7800万を超える場合に20%になる。大体はそんな範囲に収まるんじゃないだろうか。6千万の財産を家族3人で相続するなら、合わせて180万ほど納税するというのは、そんな高いわけでもないと思う。

 ところで、では「相続財産額」はいくらぐらいになるのだろうか。預貯金や有価証券類、生命保険は大体判るだろう。だが不動産金などの宝飾品ブランド物などをどう評価するべきか。不動産の問題は次回に回し、ここでは預貯金有価証券類について考えたい。今はネット上だけで完結する預金、株、投信信託なども多いが、母の世代だと預金通帳があるから探せば存在は判明する。(株や投資信託などは、ちゃんとした会社なら報告を随時送ってくるから、それを取っておけば判る。詐欺の場合は、正式な書類を送ってこないはず。)だが、それだけでは済まないのだ。

 きちんとした相続サポート事務所(信託銀行や税理士など)に頼むと、「正規の残高証明書」が必要になるのである。今、預金口座はほぼ全員持っているはずだ。よくニュースなどで「年金だけでは食べていけないから大変」という声が聞かれる。ということは、少なくとも年金を振り込む預金口座はあるわけだ。コロナ禍の国民給付金も振込みで貰ったはずである。その口座を閉じないといけない。役所と民間企業の銀行は情報が連動しない。銀行に「死んだ」と伝えない限り、口座は生き続ける。(だから、年金振込みや公共料金、カード代支払いなどが終わるまで口座を残しておく方が良い。)

 注意が必要なのは、カードの暗証番号を知っていて死後に引き出した場合、相続放棄が出来なくなることだ。親が借金を抱えて死んだ場合、放棄する必要があるかもしれない。それにしても、入院費用、葬儀費などを親の口座から出すのは可能。だけど今は窓口で引き出すのは難しい。カードの暗証番号を知っていて、本人の委任を受けたということで引き下ろすしかない。そのためには、親の認知能力が怪しくなる前に、カードの保管場所と暗証番号を教えて貰っておかないといけない。

 そして死後に「残高証明書」を発行して貰う。これが面倒で、即日発行されるのは郵便貯金だけだと思う。(郵便局は身近にある場合が多く、今回郵便貯金の便利さを感じた。)銀行や証券会社の場合、「発行依頼」がいる。ある銀行はネットで来店予約が必要と言われ、見てみると最短でも2週間先。行って依頼書を出しても、発行まで2週間掛かると言われた。つまり、それだけで一ヶ月を空費したのである。またある銀行は「残高証明書発行料」が掛かるという。それが2千円もするというから呆れてしまう。

 証券会社にも一つずつ電話して依頼したのである。えっ、いくつ銀行や証券会社と取引しているんだという感じだが、これは恐らく多くの高齢者にあることじゃないかと思う。バブルとバブル崩壊を体験した世代である。あちこち転勤が多かった人もいるだろうし、地元にずっといた人でもバブル期には無理やり口座を開いてくれ、国債を買わないかと押し掛けてきた。バブル崩壊後に「ペイオフ解禁」などと、銀行が破綻しても預金は一千万しか払い戻さないと言われた。その頃退職金や遺産相続、土地売却などで何千万か手にした場合、銀行数社に分散したものである。これが80代、90代の親によくあることで、今子どもが苦労するわけ。
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ポリープ切除で、短期入院ー大腸ガン検診で内視鏡検査体験記

2024年04月29日 20時22分09秒 | 自分の話&日記
 ゴールデンウィーク前半に3日間更新しなかったが、どこかへ旅行していたわけじゃない。大腸ガン検診で引っ掛かって、「内視鏡検査」を受けたところ、思わず大きなポリープが発見され切除したのである。小さければ日帰りも可能なのだが、二泊三日の入院になってしまった。その間食事禁止で点滴と飴だけ。ポリープは病気じゃないので、予後が普通なら予定通り退院になって、今朝方9時過ぎに退院してきた。家のフトン(エアー)はやっぱり気持ちいいなあ。

 大腸ガンは非常に増えているという。40代から増えてきて、ガンによる死因の中で、女性1位、男性2位である。男の1位は肺がんだから、喫煙率が下落すれば大腸ガンが上回るだろう。特定健診では大腸ガン検診を受けようという案内が必ず入っていると思う。知ってる人が多いだろうが、検便を2回やって「便潜血反応」を調べる。実は前にも引っ掛かったことがあるけど、それは2回のうち1つだけだった。それでも受けた方がいいんだけど、大体は「気付かない程度の痔」が多いらしい。身近にやった人もそういう場合が多い。だからついやらずに来たけど、昨年は2回とも陽性反応が出たのである。

 これはそろそろやらないといけないなと思って、予約したのが11月中旬。ところが、その予定日直前に脳梗塞で入院になってしまった。仕方ないから一端キャンセル。その後、寒いから先延ばししていたが、ようやく電話したら結構いっぱいで4月下旬になったわけである。検査を受けるには、ただ病院に行けば良いというもんじゃない。前々日から下剤を服用し、前日は消化が良い特別の「検査食」を食べなくちゃいけない。これは病院で事前検診を受けたときに、買ってきた。1500円。ハンバーグとクリームチキンシチューとビーフシチューがあると言われた。ハンバーグにしたが江崎グリコが作っていた。
(検査食)
 さらに当日の朝に、水に溶かした特別な下剤を服用する。水を1800ミリリットル入れて、それを10分おきに200ミリリットルずつ飲むのである。タイマーで計りつつ飲んでいくと、やがて水のような便になってキレイになる。つまり当日は食事抜きで行くわけだが、まあ緊張していることもあるのか空腹感はなかった。そして時間になると着替えをして検査室へ。鎮静剤を使うから痛いということはなく、意識もはっきりして内視鏡で自分の大腸も見られた。そして、ここに大きなポリープがありますねと言われて、これを取るので二泊三日の入院と言い渡されたわけである。

 ポリープというのは、『皮膚・粘膜などの面から突出し、茎をもつ卵球状の腫瘤』と出ていたが、要するに体の中に出来た腫れ物(大腸以外もある)。それ自体は病気じゃないが、悪性だとそこからガンに転化することがあるわけ。そういう段階じゃないので、写真で見ても色がキレイ。しかし、大きさはかなりあったので、この段階で取って良かったと思った。切除手術も簡単で、何の痛みもない。そこをクリップで留めて終了。このクリップは自然排出されるという話。ポリープの写真もくれたが、見たい人もいないだろう。
(大腸)
 上記画像の中で、直腸に近いあたりに出来ていた。その切除部が出血しないように、しばらく食事禁止なんだろう。昨年はHCUというとこに入って、全く動けなかったが、今回は個室があったのでそこにした。個室は高いが、まあ2泊と判っているから、そっちを選択。トイレがいつでも行けて、テレビも自由に見られるから、やはり個室の方が気楽なのである。実はお風呂もあったけど、これは使えない。となると、食事、風呂なしの素泊まり・トイレ付としては、ビジネスホテルの倍以上したかなあ。

 早く帰りたいと思ったが、自由に押っ放すと「アルコール消毒だ」などと言ってお酒を飲んじゃう人もいるんだろう。食事抜き、お酒なども禁止では、病院で点滴しないとダメなんだろう。だけど点滴中は動けないので、体が固まってしまう。入院すると思ってなかったので、もうすぐ読み終わる本しか持ってなかった。充電器もないから、スマホを見まくるわけにもいかない。まだ面会は禁止だが、家から持ってきて貰うことは可能。でも2泊だから、着替えも充電もガマンしようかと思った。テレビしか娯楽がない。衛星放送も見られたので、大谷の試合を見た。

 ということで、突然の短期入院。全然元気だが、しばらく(一週間ぐらい)辛いもの禁止だと書いてある。これは困った。まあ甘いものは普段より多く取れとあるから、スイーツを楽しむしかないか。それにしても、きちんと検査は受けるべきだと痛感した次第。僕は昔から肉はそんなに食べないんだけど、なぜか高脂血症気味の数値が出る。体質なのかもしれない。日本人の食生活が洋風化してきて、大腸ガンが増えていると聞いた。日常生活も気を付けなくちゃいけないなと改めて思った。
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「コロナ時代」、自分の場合を振り返る

2024年03月31日 22時04分16秒 | 自分の話&日記
 たった4年前の「コロナ時代」、世の中の人々はもう忘れているんじゃないかと書いた。それは一般論だから、自分の場合を振り返っておきたい。もちろん自分にとっても、新型コロナウイルスは大きな問題だったけれど、多くの人に比べれば影響は比較的小さかったと思う。僕にとって「コロナ」以上に、この間は「母親」の問題の方が大きかった。

 1927年11月生まれの母は、2020年初めに「コロナ禍」が始まった時は92歳だった。家で食事をして、お風呂も入り、テレビも見ていた。新聞のテレビ欄を朝チェックして、見たいテレビに赤マルを付けていた。通院もせず、介護保険も使っていなかった。だから90代にしては元気だったけれど、さすがに以前のように頻繁にデパートに買い物に行くことはほぼなかった。僕は2020年から数年旅行しなかったが、それはコロナが原因ではなく、母親を置いて家を空けることが難しくなったと思ったのである。

 92歳だから、ワクチンのお知らせが来たとき、どうしようかと思った。本人は行かなくていいと言ったけど、以前利用したクリニックでもやるというから、僕がネットで予約して連れて行った。その時は2回接種が必要だったわけだが、ワクチンが回ってこないと言われて、1回打った後で2回目をキャンセルされてしまった。そこでちょっと遠い(母親の足の状態では歩いて行けない距離の)小学校を予約して(システム上2回連続しか出来ない)、タクシーで連れて行った。8月の暑い日で、ちょうど東京五輪の女子バスケ決勝戦をやっていた時だった。そうやって、何とか2020年、21年を過ごしたが、2022年11月に95歳の誕生日を迎えた数日後、心臓の痛みを訴えて救急車を呼ぶことになった。そのまま入院になったが、それらのことは当時書いた。
(某病院の面会制限のお知らせ)
 コロナ時代には病院や福祉施設などは、原則として面会禁止になった。入院当日や病状説明日などは別にして、はほぼ面会出来なかったと思う。母の場合、当初の救急病院から療養病院に転院したのだが、その転院日と病状説明日の2回しか会っていない。そういうことが多くの病院や施設で起こったはずである。急速に認知機能の衰えが見られたので、面会に行っても理解出来なかったかもしれない。別にものすごく親孝行というわけでもないけど、普通だったらもっと行っていたはずである。それが「僕のコロナ時代」だったということになる。
 
 よくオンライン集会のお知らせを貰うんだけど、一度も参加したことがない。そこまでする気が起きない。「オンライン授業」とか「オンライン会議」とか言われても全く判らない。技術的に付いていけない。ずいぶん時代に離されてしまった気がする。この間、母親と同居していたので、自分なりに集まりや外食などを避けていた。それが長くなって、何だかリアルな集会などに行くのもちょっと面倒になった気がする。映画館、劇場などすべて閉まった。やってない以上、出掛けても仕方ない。

 2020年4月、5月頃は大体は家にいたはずである。だけど、家で本を読むことは可能なんだから、それで精神的には大丈夫だったのである。小津安二郎監督の映画『彼岸花』で、田中絹代の妻が夫の佐分利信に対して「戦時中は大変だったけれど、家族がまとまれて良かった」と懐かしむようなセリフがあった。(正確には記憶していないが。)「コロナ時代」も似たようなことがあったのではないか。飲食や観光などの業界ではあり得ないだろうが、テレワーク可能な仕事をしていた場合、通勤せずに夫婦(と子ども)で過ごせた貴重な時間でもあった。それが嫌という人も中にはいるだろうが。
(半分の席しか入れない映画館)
 僕の場合、フルタイムで働く現役じゃなかったので、要するにあまり変わらなかった。いや、もちろん映画館や寄席が開いていれば行きたいのである。落語を聞いていると、「戦争中でもやっていた寄席が閉まった」とマクラに語る人が何人もいる。だから、今こうして客が戻って来て嬉しいというわけである。だから、ようやく元に戻った感じなのは嬉しい。この間、コロナに感染した人も弱毒化したオミクロン株以後は増えてきた。しかし、自分は一度も罹らずに済んだ。他の単なる普通の風邪にも罹らなかった。マスクのおかげなのか、それまでよりも健康だったのは不思議だ。
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高石ともや年忘れコンサート2023

2023年12月16日 22時16分27秒 | 自分の話&日記
 2年ぶりに「高石ともや年忘れコンサート」に行った話。もう夫婦の間で年末恒例行事になっていて、毎年行くことにしていた。ところが、昨年(2022年)は母親が11月末に入院して「いつ何があってもおかしくない」と宣告されていたので、チケットを買っていたけど行けなかったのである。今年はやっと行けるはずが今度は自分が入院してしまったが、何とか早期に退院できて、まあ良かったかなという年末である。ここ10数年は土曜日の午後に、亀戸カメリアホールで催されている。どう見ても客の大部分は高齢者だから、夜じゃなくて午後の方がありがたいのである。

 毎年秋になると労音から案内のハガキが来るんだけど、今年はなかなか来なかった。ホームページにも出てないから、もうないのかと思ってた。何でも大坂でやってた年忘れコンサートは、本人が去年をもって終わりにすると宣言したとネット上に出ていた。だから東京もないのかと覚悟していたら、発売直前にネット上に告知された。行けなかった去年が最後では心残りだから、今年は行けただけで良かったなと思っている。何と今までかつてない最前列が当たっていた。近すぎかも。
(2023年ホノルルマラソンで)
 そして、高石ともやさんがコンサート直前にホノルルマラソンを走ってくるのも恒例。もう47年連続だという。もちろん完走しているのである。1941年12月9日生まれ、つまり日米開戦翌日の生まれだから、82歳なのである。10年ぐらい前に配偶者を亡くし一人暮らしだが、元気だから凄いのである。そりゃまあ、昔より声量は落ちているかもしれない。でも、もう内容に改めて新鮮さを求めているわけじゃなく、知ってる歌を一緒に聴き、時には一緒に口ずさむだけだから、それで良いのである。

 年末だからクリスマスソングもある。持ち歌の多く(「陽の当たる道」「陽気に行こう」など)もアメリカのカントリーソングに訳詞を付けたものである。そこで改めて思ったけど、アメリカの民衆文化が自分の血肉になってきたと思う。アメリカの文化にもいろいろあるけど、69年代末の「フォークソング」ブームの基盤となったのは、ピート・シーガーウディ・ガスリーなんかが歌うアメリカである。「抵抗の歌」である。ベトナム反戦運動の中で見出されたものだ。
(ジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」)
 今年も「ミー・アンド・ボギー・マギー」を歌った。高石ともやの特徴は日本語の歌詞を自分で付けて歌うこと。ジョン・レノン「イマジン」もオノ・ヨーコ公認の訳詞で歌っている。「ミー・アンド・ボギー・マギー」はクリス・クリストファースンが作った曲だが、1970年10月に急死したジャニス・ジョプリンが生前にレコーディングしていた。そして1971年にシングル・カットされビルボードで1位となった。その頃から大好きな曲だったんだけど、こうして聞けるとうれしい。

 Wikipediaを見たら、この曲を作るときクリストファースンはフェリーニ監督の映画『』を思い出していたんだという。なるほど、僕がこの曲を好きだったのも当然だ。10代の頃から『道』を何度も見て来たんだから。そして、これは「さすらい」の歌である。ヒッチハイクで南部(バトンルージュやニューオーリンズ)からカリフォルニアまで流れていって別れる。Freedom's just another word for nothin' left to lose (自由とはこれ以上失うものがないことさ)という歌詞が心に沁みる。谷川俊太郎の詩に曲を付けたのも高石ともやだ。「じゃあね」と別れていく。

 今まで40数年夫婦で通ってきた。ずっと前は平日夜に読売ホール(当時はそごうデパート、今はビックカメラの上の方)でやっていた。仕事が忙しくても何とか行っていた。一番の危機は忘年会と重なった年で、その年の幹事だったから最初はいないわけに行かなかったのである。そんな年でも最後何十分かは聞きに行ってる。仕事があったときは、多忙で行けるかどうか。今後は高石ともや本人と自分の健康が続くかどうか。やってる限りは行くんだろうなあ。まあ、今年は行けて良かったという確認を書いておく次第。
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「入院疲れ」から早期退院までー人生初、入院体験記②

2023年11月18日 22時14分05秒 | 自分の話&日記
 (前回からの続き)日曜朝に起きてみると、右手に力が入るではないですか。ただし、簡単な検査をすると、まだちょっと右が弱い。それは右手の手のひらを自分側に(甲を外に)して高く上げ、目をつぶって10秒間保つというものです。そうすると、右が次第に下がってくるわけです。自分では同じ高さを維持しているつもりでも。この簡易検査では月曜頃からほとんど左右の違いが無くなってきました。つまり、翌週にはほぼ軽快していたのです。

 ただ入院による「QOL」(生活の質)の低下が、この頃から影響してきました。何しろいろいろ繋がれて寝返りも打てない。トイレにも自由に行けない。ナースコールで看護師さんを呼んで、この時点では車いすに乗り込みます。尿の量も量っていて(便座に測れるカップをはめ込む)、なかなか落ち着きません。次第に自分で予測出来るようになり、この感じだと300CCだろう、今回は400まで頑張ったかなという予測がほぼ確実に出来るようになりました。

 日曜日は何も検査などがないので、起きてるときはテレビを見るか、スマホを見るか。日曜から大相撲が始まったので、今回は十両からずっと見てた感じです。本が読めない、新聞が読めないのは、自分にはつらいのですが、今回は頭を休めるためにもしばらくガマンするかと思いました。本は小説を読める感じじゃないけど、たまたま2016年に出た石川理夫(みちお)『本物の名湯ベスト100』(講談社現代新書)という本を最近「再発見」して枕元の一番上に置いてました。これを持ってきて貰おうかなと思ったけど、まあいいやと決めました。そうしたら火曜日に妻がこの本を差し入れてくれて、本当にビックリしました。
(最後の夕食)
 動けるのがトイレと食事だけだから、それが楽しみです。食事は最初はベッドの上で食べていて、火曜ぐらいからベッドを降りて机で食べました。(テレビを載せている台に引き出しがあって、そこを引き出して食事を食べる。)最初はお粥で、食べやすいけど水分が多い。おかずは魚と肉が交互という感じ。和風、洋風交互の味付けです。朝2回だけパンで、お粥が終わると普通のご飯でした。もちろん薄味ですが、家でもかなり薄味に慣れているので、何の問題もなし。ドレッシングやマヨネーズも付いてるけど、自分はほぼ使わない。(家でも同様。)全部完食しました。もちろんものすごく美味しいとは思わなかったけど、全然問題なし。
(最後の朝食)
 月曜からリハビリが始まって、同じ階を歩いたり、手の動き、頭の働きの確認など。動けるのもいいけど、他人にあって会話できるから嬉しいです。看護師さんだとどうしても忙しいから、トイレや食事の世話以外に案外話す機会がないものです。それでどんどん動けるようになって、問題はむしろ脳梗塞の影響じゃなく、ずっと寝ていることによる身体の硬化、よく起きる腰痛などに移ってきました。トイレに歩けるようになっても、へっぴり腰で遅くなる。これじゃ入院している意味がないです。

 何でいつまでHCUにいるんだろう?それは看護師さんも気に掛けてくれて、大部屋に移れるように調整しますと言ってたけど、最後まで移れなかった。急に寒くなってきて、多くの患者が来ているそうで大部屋も他の部屋もいっぱいだったようです。しかし、同じ階で2回移動しました。なんか救急で来た患者の問題もあって水曜日に移ったら、そこは呼吸器患者の部屋で深夜も非常に音が絶えない。そこで翌日もう一回移ったら、今度は一人部屋になって静かは静かですが、なんか離れ小島に流された感じ。でもいいのです、実は木曜日に翌日の退院が決まったので。

 リハビリで完全に問題なしだったのと、大部屋も空かないので、もういいのではないかという方向性になったようです。水曜日に、翌日午後に妻が来院できるか聞かれ、木曜午前に3回目のMRIを撮った。そして「明日退院」となりました。もう一つ要因があって、主治医の先生が僕の地元の病院に週1回来ているそうなのです。だから、今後はそちらでフォローするということでいいですか? はい、わかりました、お願いしますとなったわけです。歩いて20~30分ぐらいの場所、母親が亡くなった病院からさらに5分ぐらい歩いた場所のようです。「じゃあ、自分で自分宛に紹介状を書きます」と言って渡されました。
 (ラクナ梗塞)
 今回の病気は「ラクナ梗塞」というようです。左脳深部で起こった小さな梗塞です。僕のMRI画像を見ても、検索して出て来た画像にピッタリです。普通の細胞は再生していきますが、脳細胞は死滅したら再生しない。では、何で使えなかった右手が今自由に動かせるのか? この疑問を医者に聞いてみたところ、脳細胞は3割ぐらいしか使ってないと言われてる、使ってない脳細胞に新しい回路が通じたということでしょうと言われました。脳細胞は良く出来ているな、新たなバイパスを作っちゃうなんて。 

 「脳トレ」ではないけれど、僕もいろいろとやってました。記憶力に問題ないかどうか、「ヨーロッパの国を全部言えるかどうか」とか自分でテストしてました。社会科教員だったんで、知ってるのは当たり前。一般には全部は難しいと思いますが、10個とか20個とか目指すのもいいかと思います。自分はバルト三国とか全部思い出せたので安心しました。「か」で始まる字を一分間でいくついえるか言ってくださいとか正岡子規の俳句を書いた紙を正確に写し取るとか、いろいろやりました。子規の句には「法隆寺」とか「鶏頭」とか、今じゃ「打ってるけど、書いてない字」が多く、頭と手の連動感覚を見るには適しているんでしょう。

 病院は(学校などと同じく)多くの人によって運営されています。医者や看護師だけでなく、MRI検査をする放射線技師、リハビリ担当の理学療法士、あるいは清掃や日常用品の取り替えに来る業者など多くの人がいます。中でも身近に接するのが看護師理学療法士の方々でいろいろとお世話になりました。僕も出来るだけ迷惑を掛けないように努めたつもり。その人に言っても仕方ないのに文句を言う人にはなりたくないから。まあ、人間同士なので多少は相性があると思いますが、皆さん親切でありがたかったです。

 この病気は「無罪放免」じゃなく「執行猶予」だということは自覚しています。糖尿病や喫煙はないんだけど、高血圧がなかなか治まらない。塩分など控えるのも今まで以上に徹底していきたいと思います。ブログについても考えたけれど、余り頑張りすぎない範囲で同じように続けたいと思います。映画や本の感想に特化してもいいんだけど、時々は世界や日本の状況を語りたいのが自分であり、自分らしさを捨てても意味がないと思ったからです。ということで、今後とも折々に書いていきたいのでよろしくお願いします。書いてない間に、昔の記事が読まれてかえって順位が上がったのも不思議で、ありがとうございました。
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人生初、入院体験記①

2023年11月17日 22時14分16秒 | 自分の話&日記
 11月11日(土曜日)に「人生初の入院」をして、7日目の11月17日(金曜日)に退院しました。今日は「警報並みの大雨」という予報だったので、一番ひどいらしいお昼頃を避け午前10時過ぎに退院しました。その直前に夫婦そろって病院栄養士からの指導を受け、終わったらすぐタクシーで帰りました。(支払いなどは妻が先に済ませるよう指示されていました。)帰ってきて、一週間入れなかったお風呂に入り(清拭はしていたが、入院階にシャワーがなかったので)、溜まった新聞を読みました。

 案外早く退院出来て嬉しいです。現時点で後遺症などは全く見られません。雨が上がったら近所のドラッグぱぱすに行ったぐらいです。(15~17日がシニア1割引デーで、3ヶ月連続で利用すると医療品・化粧品の2割引券になる。)今日はホントは三遊亭好楽師匠の喜寿落語会のチケットを買ってました。文枝、鶴瓶、志の輔、小朝というスゴいゲストで、今日はそれを書くつもりでした。何も退院当日に書かなくてもと思いつつ、やはり忘れないうちに書いておくことにします。

 渡辺喜美氏の叙勲に関する記事を投稿したのが、今見てみると22時22分になっています。それをFacebookにリンクしようとしていて、突然字が書きにくくなりました。それでも何とか書いて投稿したのが、これも調べてみると22時34分。つまり10時半頃に発症したことになります。それでも何とか右手で打てたのです。ただ一番最初にパソコンを打ったときのように、一文字ずつ押さないといけなくなったわけだけど。ローマ字変換の打ち方を忘れたわけじゃなく、言語能力的にも問題ありませんでした。

 起ち上がってみると、右足もおかしい。本を読むのも諦めて、すぐに寝てしまいました。しかし、翌朝も同じ状態で自分でも「脳かな」と思ってしまいました。月曜にしようかと思いながら、妻が今行った方が良いと強く言うのでその気になって、近所の病院へ。状況を聞き取って、これは「脳梗塞の疑い」ですぐに大病院に行きなさいとして、電話で当たってから日本医科大学付属病院に紹介状を書いてくれました。タクシーを呼びましたと言われて、タクシーでそのまま病院へ。
(日本医科大学附属病院)
 文京区の根津神社の裏あたりで、しかし地名としては文京区千駄木でした。(スマホからの投稿記事は間違い。)そこにあるのも知らなかったけれど、内部は清潔で大きな病院でした。入院当時のことを詳しく書いていますが、要するに「土曜日の午前中には大病院に行っていた」ことが早く退院出来た最大の理由だと思っています。その後MRI検査を受け、「小さな脳梗塞」が確認されました。「小さな」というのは、本流じゃなく支流のさらに支流あたりの細い血管に詰まりが起こったということです。右手右足に指令を出すところだけがおかしくなったということでしょう。

 大部屋が空いてなく、その場合はかなり高い個室で良いかなどと聞かれつつ、実は最初にHCU(高度治療室)に入りました。これは今調べてみると「High Care Unit」のことで、あるサイトを見ると「脳の血管が剥離しかかっていて脳出血を起こすリスクがある場合や消化器系の急性期や手術後など、明確な生命の危機があるわけではないけれども、重症になるリスクの高い患者などの治療」を行うと出ています。自分の場合、生命に関わるとは最初から思ってないけど、場合によってはマヒが残るかもと思いました。医師としては「もっと重大な梗塞が起きる可能性もある」として血圧などの常時モニタリングが必要だと判断したのでしょう。

 そういうことで、点滴チューブ心電図オキシパルスメーターを装着し、さらに1時間おきに自動的に血圧を測定するよう設定されたカフ(血圧測定のため上腕に巻くバンド)を身に付けました。様々な検査もあり、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったですが、測定血圧が非常に高い(180ぐらいあった)ので、自分でも驚きました。その段階では例えば入院関係書類のサインもフラフラする感じ。でも妻が代行するのではなく、何とかゆっくりと自分で書きました。

 そして血液サラサラ薬などの投入を始め…、その日唯一の食事をやっと食べました。ただスマホが自由に使えて外部と連絡は取れました。(充電器を持って来てるわけないから、翌日に妻が差し入れ。充電も自由に出来た。)テレビも見られて、土曜日だから出川哲朗の充電バイク旅などを(もちろんイヤホンで)見て、寝ました。だが、なかなか寝られない。寝付くと1時間経ってまた血圧を測り始める。ちょっと動くと心電図を測るための電極がずれたり剥がれたりして、機械がピーピー鳴り出す。寝られません。でもいつの間にか寝入って朝になる。そうしたら明らかに握力が戻っていました。(長くなったから頑張らずに一端終わり。)
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ただいま入院中

2023年11月12日 19時17分03秒 | 自分の話&日記
 突然ですが、土曜日11日に入院しました。人生で初めて。金曜日に記事を投稿して、その後、Facebookにリンクの投稿を書いている途中で、急に右手の力が弱くなりました。右足も力が入らず、翌朝も変わらないため、近所のクリニックに行きました。そこから紹介で文京区根津の日本医科大病院に行って、そのまま入院。

 病状としては脳梗塞の軽いものになります。日曜になって、かなり改善しています。しかし、検査などいろいろあるので、しばらく入院になりそうです。そのため、ブログの更新は当面お休みします。

 面会は出来ないけれど、病室にスマホを持ち込めるので、それで書いています。テレビも見られます。右手でいま打てているので、そんなに心配しないでください。
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「母の戸籍」を探すミッションー戸籍制度考③

2023年08月21日 22時43分19秒 | 自分の話&日記
 経済評論家の森永卓郎氏に『相続地獄』(光文社新書、2021)という本がある。僕はこの人の本を読んだことはないが、これは一応読んでおけばと言われて読んでみた。今回の事態の大分前である。森永氏の父親は毎日新聞の記者で、内外各地への転勤が多かった。その父親が入院し、やがて亡くなった後の「相続手続きがいかに大変だったか」を書き記した本である。強く印象に残るのは、「貸金庫」の面倒さと戸籍取得の大変さである。これは全く僕も同感で、いま大変な思いをしている。

 特に「貸金庫」というのは、ビジネスとして果たして存在する意味があるんだろうか。僕の母親も実は使っていた。よほど大金持ちなのかというと、もちろんそんなことはない。地震や火事が心配と言い出せば、それは否定出来ない。重要な書類は預けておいた方が良いかも…と考える人はいるだろう。元気なときは自分で出掛けて契約するからいいけど、問題は病気になった時。本人が行かないと開けられないのである。森永氏も車いすの父親を連れて行って、階段しかなくて持ち上げた苦労をした挙げ句、大したものは入ってなかった。僕も銀行に問い合わせたが、生前に開けることは断念した。没後もまだ開けられていない。もちろん、そこに金の延べ棒なんかを隠している人がいて、相続人を名乗る人が勝手に持って行ったら大変なんだけど。

 ところで、その時に要求される書類に、被相続人(死んだ人)の戸籍謄本がある。それも「16歳以後のすべて」が求められる。「相続人」(普通は配偶者や子ども)の側の戸籍謄本もいるが、それは理解出来る。今はマイナンバーカードで取得出来なくなった(一時ストップ)ところが多いらしいが、それでも本籍地に行くか、郵送で依頼することが出来る。(本籍地の役所のホームページを見ると、戸籍郵送依頼書の書式があることが多い。)しかし、森永氏の父は転勤に伴って引っ越しするたびに戸籍を移していた。海外勤務もあったようで、いつでも戸籍謄本を取りやすくしておきたかったんだろう。
(普通の戸籍謄本=見本)
 今書いたように「戸籍を移せる」(転籍)ことを知らない人がいるかもしれない。実は簡単に「転籍」出来る。今の住所に移せば、戸籍謄本などを取る時に簡単になる。また移す先は現住所でなくても可能で、日本国内ならどこでも良い。だから「東京都千代田区千代田一番地」に移す人もいるらしい。皇居である。他にも富士山頂とか、北方領土の国後島なんかにも移せる。日本国の法制上は「国内」だから。だけど、そんなことをしても、謄本を取るとき面倒くさいだけだろう。また、結婚や養子縁組などがなくても、自分ひとりだけ家族の戸籍から分かれる「分籍」という制度もある。
(昔の戸籍=見本)
 ところで、「16歳以後」となると、もうこれは「どこにあるか」の探索から始めなくてはならない。もちろんマイナンバーカードでは取れない。上記見本のように、そもそも読めないような字でビッシリ書かれた大昔の戸籍なのである。これは「除籍謄本」となり、手数料は750円もする。(自分の戸籍謄本を取る際は450円。)まず、生前の戸籍を取って、そこからさかのぼるしかない。普通は結婚前の母親の戸籍のことなど、気にしたことはないだろう。日本では夫婦同姓で、事実上多くの場合は夫の姓を名乗る。だから、母の戸籍は父の戸籍に入っている。そういうことが多く、わが家の場合も同様で、まず筆頭者が父親(故人)の戸籍を取った。

 そこから少し迷走したのだが、父親の戸籍を見ると、結婚相手である母親の情報が書かれていた。そこにまず「福島県」とあった。だから僕は母の戸籍は福島県にあるのかと思ってしまった。母には結婚前の「旧姓」がある。ほとんどの人はそれを知ってるだろう。母親に連れられて、母の実家に住む(母方の)祖父母に会いに行ったことがあるはずだ。その母親の実家に戸籍があるんだろうと思ったわけである。母親からは福島県の浜通りに子どもの頃よく行ったと聞いていた。一度は福島県某市に請求を送ったのだが、そこにはないと電話があった。そこは「母の実家」ではなく、「母の母の実家」だったのである。僕の勘違いである。

 女性が子どもを産む時に、自分の実家に戻って出産することがよくある。それは一般常識として誰でも知ってるだろう。母の出生地が福島県という戸籍の記載を見て、僕はうっかり母の実家がそこにあったのかと思ったのである。しかし、よくよく考えてみれば「母の母」(祖母)が実家に戻って、子ども(僕の母親)を産んだのである。そこは(僕からすれば)祖母の実家だった。この母方の祖母は僕が生まれる前に死んでいるので、今回まで名前も知らなかった。ちょっと細かい話になってるけど、要するに僕の母方の祖父の戸籍がどこにあるかという問題だったのである。

 それは父親の戸籍をじっくり見つめていると(昔の字体で詰めて書かれているので読みにくいが)、そこの最後の方に小さく書いてあった。何でこの話を書いたかというと、これから相続がある人に、親の情報だけでなく祖父母の情報も聞いておかないと困ると伝えたいのである。なお、なんで「16歳以後」なのか。2023年4月1日に変更されるまで「女性の結婚可能年齢は16歳」だったからだろう。別の結婚があって、他に相続対象となる子どもがいないかを確認するわけである。15歳未満で出産してたらどうなる? その場合は結婚出来ないので、父親(僕からすれば祖父)の戸籍に記載されるから、除籍謄本で判明するわけだ。

 現代では離婚・再婚も多くなり、国際結婚、国外移住も増えているから、今後はどんどん相続のための書類集めが大変になるだろう。僕の母親の世代は、戦争や結核で多くの犠牲を出したが、それを乗り切った人には戦後の「解放」が待っていた。そして、高度成長と壮年期が重なり、それなりの財産を残せた人が多いのではないか。自分の家の場合、「父は終身雇用の会社員、母は専業主婦、子どもは二人」というちょっと前までの日本政府が考えていた「標準モデル世帯」そのものだった。だから、相続事務は世の中では簡単な方だと思う。それでも大変だなあと思うわけだから、「終活」は大事である。
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葬儀をめぐる「よもやま話」あれこれ

2023年07月17日 22時49分33秒 | 自分の話&日記
 まだ「海の日」だけど、そろそろ再開したい。もともと「喪に服する」と言いつつも、要するに猛暑の中の葬儀で疲れるだろうということだった。葬儀は14日で、翌日は葬儀社への支払いなどがあって休めなかった。だけど、まあ日曜は休んでいたから大分回復してきた。自分は「作文」に苦労したことがなく、書いてる方が気楽なのである。

 このブログは自分の備忘記でもあるので、母の葬儀のことも簡単に書いておきたい。命日は忘れないと思うけど、葬式をいつやったかは忘れるかもしれない。ところで、前回の訂正がある。実は初めて知ったのだが、「享年95歳」と書いたが「享年」(きょうねん)は「数え年」なんだって。満年齢で数える場合は「行年」(ぎょうねん)と言うんだそうだ。知ってました?

 一般的には両親がいて、結婚していれば配偶者の両親がいる。若くして亡くなったとか、生みの親と育ての親が違うなど様々なケースがあるだろうが、大体の場合実の親と義理の親で4回の葬式がある。僕はこれで4つの葬式が終わった。「悲しい」というよりは、「ホッとした」というのが正直な気持ちである。

 コロナ禍以後は、ほぼ「家族葬」になってると思う。著名人の場合は、家族葬の後に「お別れの会」などと名付けた会が開かれることもある。もちろん母親の場合は家族葬で終わり。後は「四十九日法要」をやって「納骨」である。その間に年金や保険などの手続きをしなければならない。そして相続の手続き。そこまで終わるまで、まだかなりあるなあ。

 家族葬だから、まだ隣近所の人には知らせていない。ここには書いたけど、「ネットで読んだんですけど、お母様がお亡くなりになったのですか」などという問い合わせは一件もない。もちろんそうだと思ったから、書いたのである。僕のブログを読む人はごく少数だろうが、それより近所の人々、母の知人、親戚一同も同じく高齢者で、パソコンもスマホも使ってないだろう。母親の同級生も95歳なんだから、ほとんどは先に亡くなっている。

 結局、葬儀は「葬儀社」である。死亡届の提出に始まって、祭壇の設営、式次第一切は基本的には葬儀社が手配する。母の場合、そこは最初から決まっていた。父の葬儀を担当した地元の会社である。町内会と提携して、自治会名簿に広告が載っている。昔から自分の時もここでと言われていた。電話番号をメモして常時持ち歩いていたから、すぐに病院から電話したのである。

 一番気がかりなのが、お寺との対応。結局は母親が望んでいた通り、父(本人からすれば夫)の墓所に納骨することになる。だから菩提寺に連絡して、その都合を確認して葬儀の日程を決めることになる。そして、「御布施」の額をどうするか。これは葬儀社の人から、ざっくばらんにお寺に聞くしかないとアドヴァイスされた。だから、僕もそうしたのだが、やはり直接聞くしかないようである。答えてくれるだろう。ただ「二人目」の場合、「夫婦で格をそろえる」必要を言われると断れない。

 一番大変だったのは、タクシーの手配だったかもしれない。車は手放したので、猛暑が続く中斎場まではタクシーで行くしかない。(黒い略礼装で、駅から歩くことは不可能。)ところが、予約が取れないのである。普段はタクシーを使わないから、スマホにタクシーを呼べるアプリも入れてない。近くの会社に軒並み電話することになった。(まあ妻がやったんだけど。)

 やっと取れたタクシーの運転手に聞くと、タクシー運転手が減っているんだという。テレビのニュースを見たら、観光地でタクシーが不足していると言っていた。コロナ禍で、密室で客と相対するタクシーを怖がって、利用者も減ったから辞めた人が多いと言っていた。そのまま復活してなくて、タクシーが減っているらしい。

 葬儀費用(あるいは入院費)は母親が貯めていた銀行預金から充ててきた。父親の給与が高かったので、遺族年金もかなりある。数年前から「暗証番号」を聞いていて、足が弱くなった母親に代わってカードで下ろしてくることがあった。カード、通帳そのものは預かれない。親の側も、預金を勝手に使われるのではないかと疑心暗鬼になる。だけど、暗証番号を聞いているだけでも大きい。下ろさなくても、通帳記入が出来れば、何が引き落とされているかを把握出来るから。 

 保険証に関しては、今まで何度も無くしてきた。というか、どこにしまったのか失念したということだが。今回は2022年秋に新しい保険証が送られてきたときに、母親に渡さず僕が管理していた。これが僕がマイナ保険証を批判する理由(のひとつ)である。高齢者は無くすのである。同居していたら預かる方がよい。だが聞くと大丈夫だからという。だから何も言わず預かるしかない。

 そして、そこまで言うと言い過ぎだが、「ゴミ屋敷」が残された。片付けられないのである。性格の問題もあるだろうが、世代的にもそういう人が多いらしい。戦時中のモノのない時代に育って、モノがあふれる時代を迎えた。なかなか不要なモノを捨てられない。というか、不要なモノも、またいつか必要になるかもという気持ちなのである。

 そういう問題はあったものの、悪い人、意地悪な人ではなかった。だから、30年以上、僕の妻ともやってこられたのである。両者ともに感謝。今後はもうしばらくすれば、久方ぶりの旅行にも行けそうだ。まあ私的な話はこれぐらいで。
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母の死の報告ーしばらくお休みします

2023年07月12日 22時30分43秒 | 自分の話&日記
 2023年7月11日に、母親が死去しました。享年95歳でした。しばらく、ニュースにも気持ちが集中しません。このブログもしばらく更新しない心づもりです。「海の日」三連休明け頃に再開したいと思ってます。「服喪期間」とご理解ください。

 母親に関しては、年末に入院した経緯を『母の病状について』として書いています。最終更新が2月2日になってるけど、その後は書いていませんでした。救急病院に運ばれて、年末には「何があってもおかしくない」と宣告されたものの、その後、病状が不思議なことに「一種の安定」になっていきました。年齢を考えても想定外でした。

 その頃から、「転院」の話が出て、2月21日に次の病院に移りました。コロナ禍で面会が出来ない中、その日がしばらくぶりに会えた日となりました。簡単な会話が出来、生後半年ぐらいのひ孫を見て「かわいい」などという言葉が出て来たので驚きました。その後、当初は系列のクリニックにて、2ヶ月後に隣の「療養型病院」に移り、そこにずっと入院していました。 

 そちらも基本的に面会は出来ず、4月に一回だけ病状説明の時に会ったのが最後になりました。その時も2月と同じ感じで、ゼリー状のものなら少し食べられるという話で、簡単な会話も出来ました。その後も「年齢からしても急に何があるか判らない」と言われながらも、特に病状悪化という連絡もなく、前夜も食べて会話もあったということでした。

 11日朝に病院から「呼吸していない」との電話がありました。後で着信履歴を見たら、午前5時6分でした。オムツ交換に向かったら、呼吸がなかったと言います。飛び起きてサッとシャワーを浴びだけでヒゲもそらずに駆けつけて、改めて医者の診断があり、5時46分死亡確認となりました。死亡診断書では「多臓器不全」となっていました。

 しかし、僕は状況から見て、深夜のいつかの時刻に穏やかに呼吸が停まったのだと思います。僕が着いた時には明らかに死亡していました。もともと救急車を呼んだきっかけは、「大動脈解離」(心臓から脳へ行く動脈が破ける)が起こったため、心臓付近から背中にかけて激痛が起こったことでした。その結果、流出した血液で肺が半分ぐらい機能しなくなっていました。

 だから、どの臓器が働かなくなっても、別に不思議ではありません。前日まで特に兆候がなくても、「その日」が訪れたということだと思っています。昨年中に、葬儀社も決めてあって,後は事務的に決めて行くぼうだいな作業があります。正直お寺との連絡など、誰か他の人がやってくれればいいんだけど、誰もいないので自分でやるしかない。

 経験した人なら知ってると思うけど、葬儀とはひたすら細々とした「風習」をこなしていく過程です。「本来どういう意味があるのか」などを問い返しても意味がありません。そういう流れに乗って、こなしている段階。

 母は「俳句」が趣味で、ちょっと前まで地元の句会に参加してしました。また元気なときはデパート巡りや映画に出掛けていました。年取って,それがコロナ禍に重なって、この数年はガーデニングやテレビ中心だったけれど。それでも「趣味」はいろいろあって、それが長命の素でもあったでしょう。

 入院して半年以上経ってしまったので、もう日常生活は「母の不在」に慣れています。今さら「悲しみ」というよりは、「母は母で良く生きた」と思うし、僕は僕で30年以上も(けっこうマイペースな)母親と良く接してきたと思っています。取りあえず人生の最低目標点、「親より長く生きる」はクリアーしたことになります。自分では「やりきった」かなと思っています。
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「革命」の論理から「人権」の論理へーわが左翼論⑦

2023年05月21日 22時43分03秒 | 自分の話&日記
 書き途中になっていた「わが左翼論」を書き終えてしまいたい(後2回)。これは「自分史」を振り返るということであって、だから書きにくい。若い頃には漠然と将来何になりたいといろいろ考えるが、自分の場合は動物学者、考古学者、映画監督などに憧れを持った時期もあった。だけど故あって、最終的には「歴史を学ぶ」ということを選択したのである。その時の「」は書き出すと長くなりすぎるので、ここでは書かない。

 若い時には「世界を理解すること」と「世界を変革すること」との異なる方向の望みがあった。「世界を理解する」と言っても、僕の場合は「宇宙の果てはどうなってる」とか「脳の仕組みを解明したい」という方向には向かわない。「第二次世界大戦はなぜ防げなかったのか」とか「欧米以外でなぜ日本だけが工業化に成功したか」などの問題である。この二つは(当時としては)日本近現代史を考える時に、まずぶつかる大きなアポリア(難問)だった。

 日本の歴史を考えていくと、「日本は歴史のスタンダードを作った側ではなかった」ということに気付く。日本は古代には中国文明を、近代にはヨーロッパ文明を受容して「国」を作ってきた。世界の流れをうまく「日本化」したという表現も可能だろうが、近代の標準である「民主政治」とか「人権宣言」は日本発のものではなかった。そのことを僕は「恥ずかしい歴史」だと思っていた。

 だから若い時には「革命」を求める心理があった。18世紀段階までさかのぼると、世界は独裁的な強権体制の国ばかりだった。そういうところでは、人々に「革命権」があると思っていた。独裁者が自分から譲歩することはない。虐げられた側が闘うことなしに、権利は獲得できない。だから、「革命が世界史を発展させた」と考えたわけである。

 個別の革命を考えると、確かにその多くは「起こらざるを得なかった」理由がある。それに「革命」とはガラガラポンの大変革だから、若い時には魅力的である。若い頃は何でもかんでもぶっ壊したいのである。僕も柳田学の「常民」概念を知っていたわけだが、歴史としては変化の少ない時期よりも、大々的な変革期の方が興味深かった。その意味では「革命幻想」のようなものを持っていたのである。その革命幻想をイメージ化したのが、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」だ。
(ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」)
 日本の歴史の中に、このような「自由の女神」を探すこと。いないとしても、革命への可能性を探ること。そういう憧れのような「革命幻想」が、いつどのようにして自分の中から無くなったのだろうか。一つ大きかったのは、革命の現実、特に同時代の中国で起こっていた「文化大革命」(文革)のとらえ方が大きく変わったことである。
(文化大革命)
 文革はその当時は情報が極端に少なかったうえ日本国内に「中国派」がかなりいたこともあり、ある種の「革命幻想」を僕も持っていたのである。その実相が判ってきたのは、文革終了後かなり経ってからだ。基本は毛沢東による奪権闘争だったと思うけど、毛沢東の呼びかけで党組織そのものを攻撃したため、社会に無秩序が広がった。それだけでなく、共産主義の名の下に恐るべき「差別」「人権無視」が出現したのだった。「革命」とは実に恐るべきものなのである。

 もう一つ自分にとって大きかったのは、政治犯や冤罪者の救援運動に関わったことがある。同時代の韓国の民主化運動には大きなシンパシーを持った。日本史の中に探ってなかなか見つけられなかった、民衆による反軍事政権運動が眼前に展開されていた。そして韓国独裁政権は学生、文学者、宗教家などを逮捕し重罪を科そうとしていた。また、日本から留学していた「在日コリアン」の人々多数がスパイ罪で拘留されていた。日本でも活発な救援運動が展開されたが、僕が最初に参加した「集会」は韓国政治犯救援運動だった。(有楽町そごう=現ビックカメラ7階の読売ホールだった。)

 その時点では「政治犯」というのは韓国とかソ連の問題だと思っていた。それ以外の(報道されない)国は目に入ってなかった。また日本にはおおよそのところ問題はないと思っていたのである。その後次第に知っていくのだが、実は日本の刑事司法は先進国では最低レベルだった。そして数多くの冤罪事件もあり、無実を訴える死刑囚も数多くいるのだった。本を読んでみると、免田事件、松山事件、島田事件などは明らかに有罪とは考えられなかった。しかし、その時点ではマスコミ報道は全くなかった。

 その後実際に冤罪救援運動に関わることもあったが、その中で問われたのは最終的には「裁判官を説得する論理」をいかに構築するかである。支援運動は裁判所に提出する文書を作成するわけではないが、署名呼びかけ文などを作る時には論理性が求められる。ただ「無実だから裁判をやり直せ」と言うだけでは、何も成し遂げられない。大げさな物言いは逆効果でしかない。

 大状況をあれこれ言うよりも、個別の人権事件を少しでも解決したいと僕が思うようになったのは、そういう冤罪問題から来たものだと思う。そこで改めて歴史上のいくつかの革命を考えてみると、そこで起こった恐るべき混乱、流血の大惨事、文化破壊は今ではとても認められないなと思った。フランス革命は昔過ぎるけれど、ドラマティックと言うより恐怖の革命である。ある時期まで歴史の画期とされていたロシア革命もそこで起きたのは混乱と流血で、最終的に独裁政権の誕生で終わったと評価軸が変わった。

 もっとも当時のフランスやロシアには、全国民が参加する普通選挙制度はなかった。しかし、現代の日本には「普通選挙」と「基本的人権」が保証されている。それを考えると、「革命」の必要性はもはやないだろう。「革命」が必要なのは、そのような強烈な破壊エネルギーなくして前進出来ない構造がある場合だ。「革命」反対派を押し切ってでも強引に進めることが要求される。だけど、現代では「反対派」にも言論の自由が保障されている。反対派の言論・表現の自由を圧殺してまで行うべき「革命」とは何か。

 そこまでの価値がある「革命」なんて現代にはないのである。今は個別ケースで「人権」が保証される方が優先されるのではないか。これは「闘い」が不要になったという意味ではない。保証されているはずの人権も「不断の努力」なしにはなし崩しにされて行くだろう。だから「人権のための闘い」というのは永遠に続く。だがすべてをぶっ壊せば上手く行くというような「革命」は、今では傍迷惑でしかない。

 むしろ「革命思想」には、革命幻想にすべてを委ねる「お任せ」的発想がある。それが革命運動家に「家父長的指導者」が多くなる原因でもあるだろう。革命さえ起こればすべて(女性問題、環境問題等々)は解決するのであって、現行制度の中で個別の問題を解決するより「まずは革命を起こすことが優先」だなどと言う人が昔は本当にいたのである。だから、今では僕は「革命の論理」を離れて「人権の論理」に立つのである。
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「紛争」は何を遺したのかー『学生反乱』を読んで④

2023年05月11日 22時34分52秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んで考えたことを4回も書くとは自分でも思わなかった。僕にとって経過を書くことではなく、その後に遺したものは何かということが大切なのである。ただ「仏文科人事問題」や「村松問題」は今では知らない人が多いだろうと思って、是非紹介したわけである。登場する人も多士済々で、戦後史の一コマとしても興味深い。

 さて、その後文学部のカリキュラムは全面撤回に追い込まれ、全学ストも決議された。そのまま夏休みになったが、秋になって最終解決に向けて動き出してゆく。学生の多くは本気で「革命」を考えているわけではない。一部セクト学生は別として、4年生の大部分は卒業、就職に困る事態は避けたい。一方、大学側も入試中止は絶対に不可である。国立の東大と違って、私学は受験料、入学金がなくなってしまったら経営破綻である。学生も全員がバリケードに立て籠もるわけではなく、授業がないならアルバイトに精を出すとか自宅でノンビリするものも当然いるのである。そういう事情が背景にあって、次第に解決の機運が高まっていく。

 文学部教授会は自らの課題を「現代社会における人間学の再創造」と位置づけ、学生対象のシンポジウムを開催した。カリキュラムも作り直し、新規登録を推進した。10月7日に総長の所信表明集会も開かれた。高橋秀氏はこの時、総長の脇に立ち続ける野口定男学生部長の姿を印象的に記録している。中国哲学が専門の野口氏(日本文学科教授)は、他大学の学生部長がどんどん変わる中、紛争期間の学生部長を務めきった。野口氏は野球部初め多くの体育部の監督をしていて、後に日米野球の立ち上げにも関わった。酒豪で知られ、立大卒業の歌手、高石ともやさんが懐かしそうに回顧する話を聞いたことがある。

 この間、機動隊が2回キャンパスを捜索に入ったが、大学が要請したものではなく抗議している。11月11日には文学部集会が開かれ、多くの学生が参加した。中にはメモを取る学生もいて、高橋氏は「今回は行けそうだ」と思ったという。そして12月15日の授業再開が告知された。最後まで封鎖されていた6号館は、1970年1月3日に「六号館封鎖解除教職員行動隊」により、解除された。一部学生は抵抗したが、対立セクトの襲撃と思ったらしい。4階の最後のバリケードを突破したのは法学部の高畠通敏氏と高橋秀氏だった。残っていた16人は、神島二郎法学部長が説諭したあと教職員の車で都合の良い駅に送ったという。(周囲には機動隊がいたようだが、警察には突き出さなかったのである。)
(封鎖解除直後の六号館)
 この時の「紛争」は文学部に何を遺したのだろうか。まずは「研究室」である。それまでは「一人一室の教員の個人研究室」と「『大研』とよばれている助手・副手のつとめる学科事務室」からなっていたという。それが改革により、「学生のための読書室」「事務室に代わる資料室」が設けられたという。いやあ、そうだったのかとビックリした。その後しか知らないから、大学はそんなものとしか思っていなかったけど、それは「改革の遺産」だったのである。この読書室には歴史系の学術雑誌が置かれていて自由に読めた。授業の合間などに皆よく利用していたし、僕も毎日のように顔を出したはずだ。

 また本書には書かれていないが、カリキュラム改革も進められた。もっとも「内示集会」が開かれたとあるが、それは記憶にない。ただ、「学科単位」ではない「全学科共通科目」が設けられていた。例えば、新一年生には「共通基礎購読」(確かそんな名前)が置かれ、全員が何かに所属して指定された本をめぐって教師と一緒に議論した。学科ごとではなく、他学科の教員や学生と一緒なのである。希望・調整の結果だと思うが、僕は日本教育史の寺崎昌男先生(教育学科)の講座で非常に大きな刺激を受けた。寺崎先生はその後東大に移籍したが、定年後に桜美林大学を経てもう一回立教学院本部に戻ってきたようである。

 また夏休みを利用して、4泊5日の宿泊合宿「集中合同講義」(たしかそんな名前)もあった。テーマが設けられ、それに沿って各学科、および他学部からも教員を呼び、合宿討論するのである。テーマをめぐって深い議論を交わすのも面白かったが、最大の眼目は普段なら接しないかもしれない他学科(学部)の教員に接したことである。また他学科の学生と知り合う機会でもあった。場所は八王子の大学セミナーハウスだったが、後に見田先生の講座でも何回も使うことになる。

 そこでの面白いエピソードは幾つもあるけれど、私的な思い出だから省略する。この集中講義では教員も学生も学科を交えて討論した。つまり紛争時に問われた「学科セクショナリズム」を越える試みとして受け継がれていたと思う。実際に僕も他学科の教員に大きな影響を受けた。また他学部の単位も(限定があるが)卒業単位と認められていた。僕もそれを利用して、高畠通敏先生の「政治原論」とか住谷一彦先生の「社会思想史」などを取ったのである。それはともかく、ここでも単なる専門だけではなく幅広く「人間学」を学べる制度が整備されていたのである。
(「六人組」の人々)
 僕はこのような「改革」を遺した当時の教員たちに大きな影響を受けてきた。特に渡辺一民先生は「文学部改革推進のためには運動の成果の制度的定着による永続化が是非とも必要であると強く主張した」と松浦氏は指摘している。60年代の「政治の季節」は何も残さず消え去ったと思われている。だが立教大学では、小さいかもしれないがこれらの改革が残されたのである。それらを推進した人々は、その後も「同志」意識を持っていた。その「六人組」の写真を載せておくことにする。

 当時の立教大学にもセクトの活動はあったと記憶するし、当局側によるロックアウトも時たま行われた。学生自治会は学生大会でリコールされて、そのまま再建されなかった。そのような代償はあったわけだが、他大学のように「機動隊の実力行使による正常化」という国家権力への屈服や「一部セクトによる暴力支配」は基本的にはなかった。その方向に導いた「紛争の筆頭責任者」たる松浦氏の思想的背景は、この本で初めて明かされたと思う。マックス・ウェーバーの「責任倫理」とともに、天皇の退位なき戦後日本の無責任体制への怒りが、この「紛争」を自ら解決する強い意志へ結びついていたのである。
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松浦学部長代理の「戦闘的寛容」ー『学生反乱』を読んで③

2023年05月10日 22時32分50秒 | 自分の話&日記
 『学生反乱』を読んで、1969年の立教大学を考える3回目。この本のテーマは僕にとって私的に重要だが、もちろんそれだけではなく、もっと普遍的な問題につながっている。まず、文学部の最高責任者である文学部長は誰だったのか。1969年3月25日までは海老沢有道教授(史学科)だったが、健康上の理由で任期2年のうち半分を残して退任を申し出た。海老沢氏は日本キリシタン史の大家である。退任は了承され、後任には細入藤太郎教授(英米文学科)が選出された。

 教授会では連休を返上して連日長時間の会議を開いていた。しかし、1969年5月10日に「文学部共闘会議」(文共闘)が結成され6項目の要求への回答が求められた。13日には文共闘によって6号館がバリケードで封鎖された。長時間の教授会が開かれ、1969年5月15日に、文学部集会を開くことが決まった。会場となったタッカーホールは満員の学生であふれたという。13時10分から3時間ほどの予定は、結局深夜1時まで12時間に及んだ。(『学生反乱』の表紙にその時の写真が掲載されている。)
(5・15集会)
 その集会中に細入学部長は体調不良となって、休憩を申し出た。事前にそういうこともあるかと代理の責任者を選定していたという。それは誰だか不明だが、細入氏は松浦高嶺教授(史学科)の前で立ち止まって後事を託して退出したのである。これは全く突然の指名で、その理由は謎だという。そして5月20日の教授会で、正式に松浦学部長代理就任が了承された。海老沢(1910年生まれ)、細入(1911年生まれ)の両氏に対し、松浦教授は1923年生まれで10歳以上若い。荒ぶる学生と対峙するのに、50代後半では体力的に持たない。「平時」なら長老トップで収まるが、ここで「戦時内閣」が発足したということだろう。
(松浦高嶺教授)
 松浦先生は「西洋史概論」かなんかをちょっと受けたと思うけど、個人的に言葉を交わしたことはない。政治的な声明に加わったりするような「進歩的文化人」ではなく、厳格な研究姿勢を保つ英国紳士といった印象を持っていた。今回の本を読んで、松浦先生のリーダーシップと先見性に驚いてしまった。その後も自分の体験を「伝説的」に語り継ぐことはなかったと思う。数年後に入学した僕は、松浦先生が「筆頭責任者」として収拾に当たったということは今回本を読むまで全く知らなかった。

 この本は前半が日録的に順を追って振り返られているが、それは高橋秀(さかえ)氏が記録したメモに基づいている。高橋先生は先に書いたようにローマ史の研究者であるとともに、パイプオルガン奏者として知られ大学行事などでも演奏していた。そのことは僕も知っていたし、聴いたこともある。この本には、年末恒例の「メサイア演奏会」始まりの秘話など、「闘争」以外の話題も豊富で興味深かった。高橋氏は松浦教授と研究室が同じで、信頼されていたからか「秘書」格で紛争解決に当たることになった。例えば、他学部教授会への説明には高橋氏が赴いている。

 文学部教授会はその後、「文共闘」を正式に交渉相手と認め、「団体交渉」(団交)に応じることになる。その過程をいちいち追っていくと長くなりすぎるので、ここでは『学生反乱』に譲って省略したい。ただ、この決定は他学部には非常に不評で、松浦氏によれば「学生自治の基本原則を蹂躙」とか「情緒過多のめろめろ学部」などと批判されたという。前者に関しては、正規の自治会があったのに対し、大学非公認団体の「文共闘」と「取引」したのは間違っているという判断である。

 しかし、他に方策があるのだろうか。松浦氏は学部長代理として「連合教授懇談会」の場で、当時の大須賀総長に以下のような質問をしたという。文学部教授会が学生との団交で、本学の従来のやり方と違うことを取り決めた場合、総長はどうされるかという質問である。これに対し総長は「文学部が他学部や本学の従来のやり方と違うことを取り決めるような事態にいたったとしても、もしそれがリアリティに根ざしたものであれば、それはやがて本学の中に定着してゆくことになるだろう」と答えた。高橋氏は「今私が顧みても、総長としてよくぞおっしゃった」と書いている。速水敏彦氏も「闘争初期の名場面」と評している。

 ところで、この頃文学部にはもう一つ頭の痛い問題が持ち上がっていた。震源地の仏文科教員の一人である村松剛(1929~1994)氏が辞表を提出したまま出勤して来なくなったのである。村松氏はちょっと年齢の高い人なら知っていると思うが、保守派の論客として有名だった。三島由紀夫とは親の代から親しく、三島没後に『三島由紀夫-その生と死』という本を著している。そういう思想傾向だからだろうか、文学部が文共闘の団交要求を認めたことに反発し、5月18日に辞表を提出したのである。そして経過をマスコミに知らせ批判したのである。学生側は村松を免職にせよと迫り、ついに懲戒免職が決議された。
(村松剛『私の正論』)
 本筋とは関係ないけれど、村松問題にちょっと触れておきたい。誰しも辞める自由は持っているが、辞任が正式に決定するまでは(健康に問題ない限り)勤務する責任がある。だから、文共闘の団交要求を認めないとしても、正式機関である教授会には出席義務がある。しかし教授会にも出なかったため、学生の処分要求を退けられないのである。ただ、Wikipediaには懲戒免職になったと出ているが、本書によれば事情はもっと複雑である。学院規則には「懲戒解職」という言葉が使われていて、「免職」という処分がなかった。法的な問題を弁護士と協議しているうちに、一ヶ月経ってしまい自動的に辞職の事前予告期間が来たと出ている。

 何となくなし崩しで、辞職になったような記述である。村松氏は問題の発端の仏文科教員として、学生に答えることなく学年途中で辞職するのはどうなんだろうと僕は思う。そこを学生側にも突かれて、教授会が機能していないことを白日の下にさらす結果を招いたのである。仏文科で起きた事態は、「大学の自治」の名の下に「教授会の多数決」という制度が形骸化していると言われても返す言葉がないだろう。文共闘から見れば「戦後民主主義の機能不全」の象徴である。そこで6月2日午前10時から、翌3日午前12時半まで26時間半に及ぶ団交では村松問題が議論の中心となり、「懲戒免職」が決議されたのである。

 その後、6月19日に「文学部学生諸君へ」という学部長代理の文書が公表された。後に「6・19文書」と呼ばれたというが、ここで文学部教授会としての「反省」「自己批判」を行うとともに、今後の改革の方向性が示された。ここで明らかにされたことは、今までは「文学部」と言いながら、事実上は「8学科連合」に過ぎなかったことである。教員は自己の研究と地位に安住し、大学進学率が向上し学生の質が変わったことを直視せず、「学生も変わったね」などと語るだけだった。「教育者」という面で学生と向き合っていたとは言えない。「文学部」としてどのような学生を育成するのかという共同の認識もなかったのである。

 そこで教授会では松浦氏のリーダーシップの下、大学の理念と機構カリキュラム人事教授会運営図書研究室など10あまりの小委員会を設け、全教員がどこかに所属して夏休み返上で討議を行い報告書をまとめたのである。「理念・機構」委員会に属した速水敏彦氏は、本書の中で報告書を全文掲載している。それを読むと、これは大変なものだなと思った。学生側の文章を今読んで、よくここまで書けたなと思った。(高橋氏もどこにこんな能力が潜んでいたのかと書いている。)しかし、この「理念」報告などを読むと、これは適わないなと正直思った。「学生反乱」が教授側の「本気」を引き出したのである。

 最終解決まで書くと長くなりすぎるので、ここで松浦氏の述べる「大学教員の対応の類型」を見てみたい。①は「過激・暴力学生と決めつけて学生の要求には一切耳をかそうとしない、頑なで権威主義的タイプ」である。②は「戦闘的学生に対して弱腰で、足並みがそろわず、優柔不断なタイプ」である。③は「学生と共同戦線を張って、学生反乱の大学反乱への飛躍をめざしたタイプ」である。そして④として「研究、教育関係の中で学生と共有しうる立場を可能な限り模索して、紛争の建設的な決着を求めたタイプ」である。松浦氏は④の立場を堅持し、学生側からは「松浦超近代化路線」などと決めつけられながらも、「戦闘的寛容」の精神を貫いたのである。それは何を残したのか、長くなったけれど最後にもう一回。
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