尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

関東大震災100年、自分の歴史の中で

2023年08月30日 23時15分14秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年9月1日は、「関東大震災100年」の日である。この日は「防災の日」になっていて、大規模な防災訓練が行われる日である。この由来を知らない人が半分近いという調査結果が載っていた。なるほど、そんなこともあるだろうと思う。
(NHKの特集ページ画像)
 東京の多くの学校は、9月1日が2学期の始業式である。自分が学校に通っていた頃は、始業式、大掃除に続いて、ホームルームで通知表を返したり宿題を提出した頃になると、サイレンが鳴り響いた。「地震が発生しました」と放送があって避難訓練になるのが決まりだった。鞄を持ったまま集合して、そのまま下校となったと思う。今じゃ夏休みを短縮したり、始業式後にすぐ授業を始めたりする学校もあるようで、それでは防災の日の由来も知らない子どもが出て来る。

 僕の生徒時代から、「東京ではもうすぐ大地震が起きる」とずっと言われてきた。東京で起きたそれ以前の大地震としては、1855年の「安政江戸地震」が知られている。水戸藩の学者、藤田東湖が圧死した地震である。そこから関東大震災まで約70年。同じ時間差で起きると仮定すれば、20世紀末にも大震災が起きる可能性がある。少し早めに起きる場合もあると考えると、70年代後半頃から危険性が増大するというわけである。

 それからすでに半世紀近く経ち、まだ東京を再び襲う大地震が起きていない。結局は「相模トラフ」が原因である関東大震災と直下型地震の安政江戸地震では、起きる原因が違っていたということなんだろう。いつでも大地震が起きる可能性は日本中どこでも否定出来ない。しかし、「何年ごと」と決めつけられる問題じゃないんだろう。
(関東大震災震源地)
 自分は教員生活のほとんどを東京東部の中学、高校で勤務してきた。そこは関東大震災で多くの犠牲を出した地域である。火事で何万もの人が亡くなり、同時に朝鮮人、中国人の大規模な虐殺事件が起きた地域でもある。授業では関東大震災ばかり教えるわけにはいかない。だが、やはりきちんとした理解をしておかなくてはと考え、今まで「周年」ごとに行われた集会には出来る限り参加してきた。特に70周年80周年の時は高校に勤務していたから「日本史」や「現代社会」の授業と直結する課題でもあった。

 東日本大震災以前だから、若い世代にはもう東京に大地震が起きたという実感がない。その22年後の「東京大空襲」で再度東京が大規模に破壊されたからだ。そっちの記憶もずいぶん薄れているけれど、まだ「戦争」の方が語り継がれている。マスコミでも取り上げられていたし、教師側からしても「戦争」の方が重大なテーマである。

 だから、つい関東大震災は「そんなこともあった」程度で済ませてしまいがちだ。当時の子どもたちの作文など直接的な史料をどう生かすかが大事だと思う。僕が忘れられないのは、「魔法の絨毯」というのはこれかと思ったという感想である。地震直後の縦揺れに驚いたのである。ちょうど昼時だったので大火災となったことも教訓。これは今も全国で生きていると思う。大火災で巻き上げられた紙類が焼けて千葉県側に降り注いだ。「黒い雨」は関東大震災でも降ったのである。

 その後の「虐殺事件」をどう認識するか。これはなかなか難しい。男は皆兵役の義務があった時代である。日本は日清、日露、第一次世界大戦と10年おきに戦争をしていた。戦場で「活躍」した「勇士」が町のあちこちにいた。かれらは「在郷軍人会」として組織化されていた。「町を守る気概」にあふれた男たちが「殺人を公認された」と思い込んだのである。

 当局も「公認」したわけではないだろう。だから、後に刑事裁判にもなっている。だけど、それらは非常に緩やかな刑罰に終わっている。政府もまとまった調査を行わなかった。今に至るも、何度も野党側や弁護士会などから要求されているにもかかわらず、ちゃんとした調査を行わない。調査を行わないから、「記録がない」などと平気で言っている。(当時植民地だった朝鮮は別にしても、独立国だった中華民国民の虐殺事件に関しては記録が残っている。)

 インドネシアで1965年に起きた「9・30事件」では、軍・警察ともに民衆が共産党員を多数虐殺したと言われている。記録映画『アクト・オブ・キリング』を見ると、これも殺人を「公認」されたと思った人々が、国を守るための「愛国」行為として実行したのである。悪いことをしたとは全く思っていない。日本で1923年に起きたことも、それと同様のケースと思われる。

 結局、外国人も「同じ人間である」という認識は、それまで生きてきた様々の体験の中で人権感覚が養われているかという問題だろう。単に震災時にデマに惑わされないということではなく、日常の生活の中で「いじめ」「差別」などにいかに対処していくかという問題だと思う。
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関東大震災、恐怖の記録ー江馬修『羊の怒る時』発見!

2023年08月29日 23時01分37秒 |  〃 (歴史・地理)
 江馬修(1889~1975)という作家がいる。読み方は「えま・しゅう」になっているが、本名は「なかし」なんだという。飛騨高山の生まれで、明治2年に故郷で起きた「梅村騒動」を描いた『山の民』という大作小説で知られている。一部では島崎藤村『夜明け前』を越える傑作と評価する人もいるようだが、文壇ではほぼ無視されてきた。文庫に入ったこともなく、僕も読んだことがない。代表作を読んでないぐらいだから、他の本も知らない。今ではほとんど忘れられた作家に近い。

 ところが、8月のちくま文庫新刊で(金子光晴『詩人/人間の悲劇』とともに)、江馬修の『羊の怒る時』という本が出たのである。それが「関東大震災の三日間」と副題が付いた稀有のドキュメントなのである。もとは1925年に聚芳閣という出版社から出されたまま忘れられていた。1989年に影書房というところから再刊されたというけど、全く知らなかった。一般的には忘れられていた本だと思うが、これは大発見である。関東大震災理解の基礎文献として必読になると思う。

 江馬修は今ではほとんど知られてないから、僕は「貧乏文士」だと思い込んでいた。ところが調べてみると、1916年の『受難者』という本がベストセラーになり、当時は人気作家だったらしい。震災当時は代々木辺りに住んでいた。もっと細かく言えば「初台」で、「自警団」の合言葉は「」「」だったと出ている。この本では「東京へ行く」、「東京では」という言葉が出て来る。今では世界に知られる新宿や渋谷だが、当時は豊多摩郡だった。東京市外だったのである。東京市が拡大され、35区体制になったのは震災後の1932年のことである。その辺りにはお屋敷も建ち並び、隣家は「I」という退役中将だった。

 まず大地震が起きる。このままでは家がつぶれてしまう恐怖が描かれる。6歳と3歳の女児がいて、まず子どもを助けなければと思って、下の子を連れて庭に出た。前に書いたけれど、夏目漱石の自伝的作品と言われる『道草』では、主人公が地震の時に一人で庭に逃げてしまう。妻から「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」と言われると、「女にはああいう時にも子供の事が考えられるものかね」と答える。このトンデモ主人公には驚いたが、さすがに当時の男でもそんな人ばかりではなかった。まあ江馬は「人道主義的作家」として有名だったらしいけど。

 自分の家は何とかつぶれずに助かるが、周囲を見ると全壊した家もある。大変だと手助けに向かう。近くには交際があった朝鮮人学生もあり、無事だった朝鮮人たちが他の家を手助けしている。「李君」はついに壊れた家から幼子を助け出す。そんな民族を越えた助け合いが直後にはあったのである。遠くの空がなにやら怪しくなり、どうも東京市各地で火事が発生しているという噂が流れる。まだラジオもなく、新聞も発行できず、情報は「噂」と「警察」だけになってしまった。
(江馬修)
 第1日が終わり第2日になると、「朝鮮人さわぎ」が起きてくる。朝鮮人も震災にあって逃げ回るだけなのに、その朝鮮人が放火などをして回っているという「噂」が流れる。「朝鮮人」が騒いでいるのではなく、日本人が騒いでいるだけだったので、本来は「日本人さわぎ」とか「自警団さわぎ」と呼ぶべきだろう。(これは袴田巌さんは無実なのに、「袴田事件」と呼ぶのがおかしいのと同じである。)しかし、当時書かれた文献には皆「朝鮮人さわぎ」として出て来るのである。

 そして著者自身も「そういうことも無いでは無いだろう」と思う。著者自身が個人的に親しくしている朝鮮人は立派な学生ばかりだが、中には悪い人もいるだろう。近くには朝鮮総督を務めたT伯爵邸もあるから、この地域は標的にされるかもしれないと考えてしまった。これは初代朝鮮総督の寺内正毅と考えられる。つまり、日本人は朝鮮人から恨まれることがあると認識していたからこその恐怖なのである。一般民衆が「暴力」に囚われた理由は著者にもよく理解出来ない。著者自身も朝鮮人と疑われたりして、民衆の中にある恐ろしい「殺意」に恐怖を感じている。

 その間に本郷にいる兄一家が心配で、危険を冒して訪ねたりしている。この兄は浅草区長をしていた江馬健という人だという。途中で大火災の実態と「朝鮮人さわぎ」で各町ごとに自警団による「結界」が作られている実情が語られる。東京市の西側で比較的被害が少なかった地区に住んでいた江馬ならではの観察が鋭い。ラスト近くでは兄を通して、浅草区の実情を視察している。兄は浅草寺が焼け残ったことを喜ぶとともに、「吉原復興」が急務だと考えている。

 江馬は後に無事が確認された朝鮮人学生を匿っている。先に子どもを救った李君は、知人を探すために市内に出掛けて戻らない。助けて貰った恩義がある母親は何とか李君を探し回るのだが…。どうしてこんなことが起きたのか。結局、毎夜朝鮮人が押し寄せると言われて「自警団」に駆り出され、著者も周囲の人々も疲弊していく。火事に合わなかった江馬にとって、大震災の最大の恐怖は「朝鮮人さわぎ」だったのである。何故、こんなことになったのか、著者はこの段階では「同じ人間だ」という認識を持てるには「教養」が大切だと考えている。

 その後の江馬は社会主義に近づいて行く。関東大震災を経て、「人道主義」では日本人は変わらないと考えて行ったのである。震災で苦労した妻とも別れ、その後は波乱の人生を送った。再婚した妻がいたが、戦後になって『綴方教室』で知られた豊田正子と暮らすようになり、晩年にはさらに別の女性と暮らしたという。1946年には日本共産党に入党したものの、1966年には中国派として離党した。これはウィキペディアの情報だが、興味深い経歴の人物である。ルポの観察力や文章力は確かで、この本は重大な出来事を後世に書き残した貴重な本だ。
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『詩人/人間の悲劇』ー金子光晴を読む③

2023年08月28日 22時22分32秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んだミステリー、『卒業生には向かない真実』『リボルバー・リリー』が長すぎて、なかなか他の本が読めない。前に2回書いた金子光晴はまだ断続的に読んでいて、僕の持ってる未読の文庫本は後2冊なので頑張って読み切りたいと思っている。と思ってたら、8月のちくま文庫新刊で『詩人/人間の悲劇』(1200円+税)が出た。400ページもあって、エンタメ本じゃないからなかなか進まない。『詩人』は前に「ちくま日本文学」版で部分的に読んだことがあって、ものすごく面白かった。成り行きで読んだが、特に後半の長編詩集『人間の悲劇』は全然判らない。でも、まあ凄いということは伝わってくる。

 金子光晴をずっと読んでみると、「自伝」「回想」は素晴らしく面白いのに、評論的な文章は実につまらないのが特徴だと思う。幼年時代に養子に出され、性への早熟な関心が芽生える。放蕩から文学への開眼、養父が死んで遺産で第1回訪欧。戻ると関東大震災、森三千代と交際、結婚。その後、最初に書いた『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』のアジア、ヨーロッパ大放浪が始まる。この破格の人生行路をあけすけに語って読む者を魅了する。

 この間、1923年に詩集『こがね蟲』を発表し、フランス象徴派の影響を日本の詩として結実させた若手詩人として認知された。しかし、刊行直後に関東大震災が起きたのは不運だった。その後一時関西へ行き、さらに世界大放浪をして詩壇から忘れられたとこの本には出ている。いっぱい詩人の名前が出て来るが、出て来る詩人にはよく知らない人が多い。ネットで調べながら読むが、若くして死んだ人が多い時代だった。金子光晴も幼い頃は病弱だったというが、その後貧困を生き抜いて戦争を迎えた。

 この本で一番凄いのは、やはり戦時中の記録だろう。一切戦争に協力せず、独自の反戦詩を書いていた。象徴性が高くて、当時の検閲官の目を逃れて戦時中に発表できたものもあった。そのことも凄いのだが、それとともに息子の乾をいかにして戦場に送らずに済ませるかの記述が驚き。あからさまな「徴兵忌避」なんだけど、子どもも病弱のため一度軍に連れて行かれたら戻って来れないと信じていた。もちろん日本の戦争は不義であると認識していたこともある。こういう人がいたんだと知ることは大事だ。
(『ちくま日本文学』)
 じゃあ、その金子光晴はどんな詩を書いていたのか。岩波文庫に『金子光晴詩集』があるが、現在品切れ中。「ちくま日本文学」の金子光晴の巻に代表作が入っているので、まずはそれを読んでみるべきだろう。はっきり言って僕にはよく判らない。でも『人間の悲劇』という10の長編詩が集まった詩集を読むと、やっぱり凄いなあと思った。
答辞に代へて奴隷根性の唄
 奴隷といふものには、/ちょいと気のしれない心理がある。
 じぶんはたえず空腹でいて/主人の豪華な献立のじまんをする。

 と始まる長い詩などは、実に鋭くテーマが伝わってくる。読むのが大変で内容も呑み込みにくいものが多いが、一度読んでおくべきかと思う。こういう表現があったのかと目を開かせられる。「時代の批判者として生きる」スタイルにもいろんなやり方がある。
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『エドワード・ヤンの恋愛時代』と『ヤンヤン 夏の想い出』

2023年08月27日 20時05分17秒 |  〃  (旧作外国映画)
 台湾映画の巨匠、エドワード・ヤン(楊徳昌、1947~2007)はもうずいぶん前に亡くなったが、むしろ近年の方が評価が高いかもしれない。現在『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)の4Kレストア版がリバイバル公開されているので、早速見てきた。前に最高傑作『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(2017.4.11)について書いたが、僕は『恋愛時代』も公開当時に凄い映画だと思った。また最後の作品『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)を最近見直して、改めて素晴らしい映画だと思った。

 いま思うと、1990年代は中華圏映画の全盛期だった。中国のチェン・カイコー(陳凱歌)、ティエン・チュアンチュアン(田壮壮)、チャン・イーモウ(張芸謀)、香港のウォン・カーウァイ(王家衛)、そして台湾のホウ・シャオシェン(侯孝賢)、ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)らの傑作群が各映画祭で続々と受賞したのである。これらの人々の中で、エドワード・ヤンの映画はちょっと違っている。若いツァイ・ミンリャンは別にして、大方の「巨匠」たちは過去の歴史的な痛み(日中戦争、国共内戦、文化大革命など)を描くことが多かった。それに対して、エドワード・ヤン(あるいはウォン・カーウァイを含めても)は、すでに発展して世界最先端になった人々の心の孤独を見つめていたのである。

 『恋愛時代』は冒頭で孔子を引用した後で、「台北はわずか20年ばかりのうちに、世界で最も裕福な街の一つになった」と字幕が出る。1980年代には韓国、香港、シンガポールと並び、台湾が「アジアの4小龍」と呼ばれて、急速な工業化が注目されていた。まだ中国本土は経済的には遅れていて、90年代になって中台相互の経済投資や交流が解禁され始めた頃である。この映画の登場人物は恋人と関係が悪くなると、一時大陸に行く。恋愛も「一国二制度」で、それぞれ自立したいなどと話している。今じゃ「一国二制度」には欺瞞的なイメージが付いてしまったが、香港返還前にはそういう言い方もあったのか。登場人物たちは「中国人ならわかるだろう」と言っていて、今昔の感がある。

 それを思うと、原題が「獨立時代」というのも、複雑な感慨を催す。『恋愛時代』には多くの登場人物が出て来て、それぞれの思惑がぶつかり合う恋愛コメディとして作られている。主要登場人物のモーリーは財閥令嬢でカルチャー会社の社長をしている。そこで働くチチは、誰にでも愛想良く接して「会社の良心」と呼ばれている。しかし、モーリーはそれはウソの顔だと決めつける、チチの恋人ミンは公務員で、3人は高校の同級生。誰が誰やら最初はよく判らないぐらいだが、親たちも巻き込んで仕事も恋愛もうまく行かない若者たちの右往左往が描かれる。経済が発展すれば幸福になれるはずが、いざ発展してみると毎日自分を忘れて追いまくられる日々だった。そんな思いをベースにして軽快に進行する。都会の孤独を描いたアジア映画の先駆作。
(エドワード・ヤン)
 『ヤンヤン 夏の想い出』は、2000年カンヌ映画祭で監督賞を受賞した。この時は中華圏から3本が出品され、『花様年華』(ワン・カーウァイ)が男優賞、『鬼が来た!』(チアン・ウェン)がグランプリだった。その中で、やはりエドワード・ヤン作品のみが現代を扱っている。それも台北の結婚式やゴミ出しなど、細かな日常をていねいに描いている。ヤンヤンは小学生で、コンピュータ会社経営の父、別の会社で働く母、女子校に通う姉、そして母方の祖母と暮らしている。母の兄の結婚式で問題発生、その後に祖母が倒れて入院する。その年の夏休みの家族を描いていく。
(『ヤンヤン 夏の想い出』)
 小学生ヤンヤンは何にでも興味を持つ年頃、カメラに関心があって父が買ってあげる。いろんな人を写しているが、それが皆人間の後頭部ばかり。自分では見られないからだという。実際、この映画に出て来る父も、母も、姉も、家で見せている姿とは別の「後ろ姿」があるのだった。そこがとてもよく出来ていて、実に面白い映画だった。173分もある長い映画だが、全然長さを感じない。(今回は2日間のみ特別上映だったので、現時点では上映館なし。)

 なお、日本のゲーム作家役でイッセー尾形が出ている。やはりゲームなら日本だみたいなセリフがあって、台湾からすれば日本経済が先進的だったのである。父親の日本出張シーンもあり、熱海温泉の「つるやホテル」が出て来る。調べてみると、ここは映画公開翌年の2001年に経営が破綻し長く「廃墟」になっていたが、最近香港資本が買収して「熱海パールスターホテル」になったという。日本経済の沈滞を象徴するような話で、日本と東アジアの関係も大きく変わりつつあるなと思う。
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『リボルバー・リリー』、原作と映画はどう違う?

2023年08月24日 22時22分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画『リボルバー・リリー』を見たけど、その前に長浦京の原作も読んだので、まとめて感想。僕はこの原作を何となく戦争中の女スパイの話かと思い込んでいた。そうしたら全然違って、関東大震災から始まる国内の争いだった。それも「帝都」のど真ん中で陸軍と海軍が相争い、そこに内務省も絡んでくるというムチャクチャな設定である。640ページもある長い長い原作は、そこら辺の無茶を何となく納得させてしまう力業を発揮している。映画は原作に沿いながらも、かなり大きな変更も加え、一気に見せるアクションに仕上がっている。まあ、主演の綾瀬はるかのための映画だなあとは思ったけど。

 綾瀬はるか演じる「小曾根百合」(おぞね・ゆり)は、映画では描かれないが原作では壮絶な幼年期を送っている。「幣原(しではら)機関」に見出されて、台湾で優秀な諜報員として育成された。(ちなみに、幣原機関は原作通りだが、戦前の幣原喜重郎外相とは何の関係もない架空の存在である。フィクションなんだから、別の名前を付けた方が良いと思うが。)その結果、百合は「最高傑作」と言われる存在となり、数多くの暗殺事件を実行したとか。しかし、愛人でもあったボスが急死して、その後は東京の玉ノ井で「銘酒屋」(私娼を置く店)を束ねている。玉ノ井は現在の東向島で、永井荷風濹東綺譚』の舞台である。
(原作=講談社文庫)
 原作は関東大震災から始まるが、映画はそこをカットして震災1年後、つまり1924年8月末に始まる。まず玉ノ井が出て来るが、すぐに秩父に移る。原作でも突然秩父に話が変わり、一体何のつながりがあるんだか最初は理解出来ない。ところが実は陸軍が兵士を動員して、ある一家の抹殺を図っているのだ。何のために? 結局その「事件」こそが、この物語のすべてなのだった。簡単に言えば「裏金」の争奪戦みたいなものなんだけど、映画はかなり簡略化している。原作だとなかなか複雑な仕組みと陸軍内の派閥争いが絡み合っている。総じて、映画ではその複雑な部分を省略するので、映画だけ見ると筋書き的に判りにくいのではないか。

 一家で一人生き残った「細見慎太」は父から、玉ノ井の小曽根百合を頼れと言い渡され「書類」を預かった。(原作では弟もいるが、映画では省略されている。)百合はその前から秩父の事件の真相を探るつもりで出掛けていく。二人は出会って、攻撃してくる陸軍兵に立ち向かいながら、何とか東京を目指す。そこが映画ではよく判らないけど、原作では埼玉県の地名が細かく書かれていて、リアリティがある。もっとも国内で陸軍がドンパチやっていて、それに対し百合が昔取った杵柄の銃さばきで逃げ続けるという、設定は全く無理。それをいかに納得させるか。原作では細かな設定と描写で、映画は綾瀬はるかの魅力で魅せる。
(子どもを連れて逃げる)
 映画としては『グロリア』である。ジョン・カサヴェテス監督の映画で、ジーナ・ローランズが故あって子どもを連れてギャングの追跡から逃げ回る。もう一つ、小説ではギャビン・ライアルの『深夜プラス1』で、こっちは警察と殺し屋双方から逃げる実業家を主人公が安全地まで連れて行く。恐らく作者はそれらに影響されて発想したのかと思う。映画は大分原作をコンパクトにしているが、まあ面白く見られるのは間違いない。僕は消夏映画として、それなりに楽しんだけど、これじゃ判らんという人も多いだろう。だからかどうか、東映が意気込んだ大作の割りには案外大ヒットになっていないという話。

 綾瀬はるかのアクション映画というのが、あまり受けないのか。それともほぼ綾瀬はるか単独主演に近く、ちょっと動員力に無理があったのか。映画の百合は美しいドレスを着ながら、銃を撃ちまくっている。トンデモ設定だけど、楽しめる。玉ノ井で百合を助けている奈加シシド・カフカ)、仕事上で助手的な岩見弁護士長谷川博巳)は、原作では百合との関わりが細かく出ている。最後の銃撃戦でも「第二戦線」で大活躍するが、映画はその辺は変えている。その他、豊川悦司、佐藤二朗、野村萬斎、石橋蓮司など豪華脇役を揃えている。しかし、阿部サダヲ山本五十六というのは違和感が強い。
(長浦京)
 原作の長浦京(1967~)は時代小説『赤刃』(2011)でデビューし、次が『リボルバー・リリー』(2016)。そこから冒険・ミステリー系になり、第4作『アンダードッグス』(2020)が直木賞候補になった。映画は行定勲(ゆきさだ・いさお)監督、共同脚本。撮影の今村圭佑はセットやロケの入り交じる映画を印象的に撮っている。玉ノ井は大きなセットを作っているので、原作にはない陸軍との銃撃戦をそこでやってる。いくら何でも首都の真ん中で陸軍軍人がホンモノの銃撃戦を行うという無理についていけるかどうか。そこが評価の分かれ目かもしれない。
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桜井昌司さんの逝去を悼むー冤罪「布川事件」と闘い続けて

2023年08月23日 22時54分44秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 桜井昌司さんが8月23日に亡くなった。76歳。死因は直腸ガンである。僕は遠からずこのような知らせを聞くだろうと覚悟していた。本人がガンで闘病していることを公表していたからである。桜井さんのブログ『獄外記』は8月13日以来更新されていなかったから、全国には心配していた人がきっとたくさんいただろう。
(桜井昌司さん)
 桜井さんは冤罪「布川(ふかわ)事件」で無期懲役判決が確定しながら、無罪を訴え続けた人である。ここでは事件内容については触れないことにする。基本情報だけ書くと、1967年に茨城県布川町で起きた強盗殺人事件で、桜井さんと杉山卓男(たかお)さんが逮捕された。無実を訴えたものの、1978年に最高裁で無期懲役が確定。1996年に仮釈放で出所するまで29年間服役した。獄中から訴えた第1回再審請求は棄却されたが、2001年に第2次再審請求を行い、2005年に水戸地裁土浦支部が再審開始を決定した。検察側は高裁、最高裁と争ったものの、2009年に再審開始が確定し、2011年5月に無罪判決が出たわけである。

 僕は桜井さんの話を冤罪関係の集会や桜井さんが出た映画などで何度も聞いている。しかし、それ以上にかつての勤務高校で、学校設置科目「人権」の特別講師をお願いしたことが思い出深い。僕は昔から冤罪問題に関わりがあったので、授業でも是非取り上げたいと思ったが、では誰を呼べば良いだろう? 弁護士や支援者ではなく、出来る限り「当事者」を呼びたい。いろいろと当たった後で、桜井さんはどうかなと思って、支援組織に連絡先を聞こうと電話した。そうしたら、そこに桜井さんがいて、すぐに快諾してくれたのである。その時の話はとても素晴らしかった。

 「事件」の説明をして、「冤罪」について考えさせるだけではなかった。獄中で「学び直した」経過を語り、「明るい布川」を自称して獄中で作った歌まで披露したのである。「不登校」体験者向けに作られた高校だっただけに、冤罪で服役した体験をマイナスだけにとらえない前向きな生き方には大きなインパクトがあった。その後も連続して毎年来て貰って、僕も非常に感じるところが多かった。最初の授業直後に再審開始が決定し、2011年3月の判決目前に東日本大震災が起きた。
(無罪判決当日、裁判所前で)
 判決は2ヶ月延期され、5月24日に無罪が言い渡されたが、その間に僕は教員を辞めていた。その判決当日は奇しくも僕の誕生日だった。土浦まで傍聴に出掛けたが、傍聴席が非常に少なく(25席)、希望者は1000人以上もいたので抽選に外れた。裁判所への行進に拍手し、判決言い渡し後の「無罪」の幕を見て引き揚げてきた。その後も袴田事件を初め、冤罪・再審関係の重要な節目になると、いつも桜井さんの姿を見たものである。桜井さんは無罪判決後も活動を止めなかった。警察、検察の責任を追及するために、2012年に国家賠償請求訴訟を起こしたのである。

 共同被告人だった杉山さんは国賠訴訟に加わらず、2015年に死去した。一方、桜井さんは全国を飛び回って冤罪を支援し続けた。冤罪を晴らした人は何人もいるけれど、その後も社会に広く訴え活動した人は免田栄さんと桜井さんぐらいだろう。もともと自分の言い分を主張できないような人を狙って冤罪が作られるからだ。獄中で鍛えられた桜井さんだからこそ起こせた国賠訴訟は、2019年に国と茨城県に7600万円の賠償を命じる判決が出た。その時には「画期的な布川事件国賠判決」を書いた。その裁判は、2021年に東京高裁で7400万円の賠償を命じる判決が出て確定した。
(国賠訴訟後)
 このような活動に対しては、2021年に多田謠子反権力人権賞、2023年に東京弁護士会人権賞が贈られた。僕が桜井さんを凄いと思うのは、冤罪支援のフットワークとスタイルである。布川事件を中心的に支援したのは「日本国民救援会」(日本共産党系)で、桜井さんも折に触れて共産党支持を公言していた。(それなのに読売新聞が保有するジャイアンツの熱烈なファンでもあった。)しかし、桜井さんは冤罪を訴えている人がいれば、どこにでも出掛けた。部落解放同盟が主催する狭山事件支援集会にも参加したし、中核派の星野文昭さん(渋谷暴動事件=2019年獄死)の面会にも訪れた。誰にでも出来ることじゃないだろう。
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ネイマールのサウジアラビア移籍問題

2023年08月22日 23時18分19秒 |  〃  (国際問題)
 2023年夏も猛暑の中過ぎていく。夏の高校野球大会も後は23日の決勝を残すのみ。世界大会としては、福岡の世界水泳、オーストラリア・ニュージーランド共催の女子サッカー・ワールドカップが終わり、現在ブダペストで世界陸上が開催されている。これからバスケットボール・ワールドカップが日本(沖縄)、フィリピン、インドネシアで始まり、9月にはラグビー・ワールドカップがフランスで行われる。見る側も大変だけど、まあ全部強い関心があるわけでもない。

 この間野球やサッカーのリーグ戦も続いている。日本では主に米国メジャーリーグでの日本人選手、特に大谷翔平のニュースが毎日大きく報道される。ヨーロッパではサッカーのリーグが始まり、イギリスのブライトンに所属する三笘薫選手がドリブルで何人も抜いて決めたゴールは凄かった。何でも地元メディアの「世界最高の左ウインガーランキング」で、三笘がネイマールを上回ったとか。さて、日本人選手の活躍を書きたいのではなく、問題はこのネイマールの去就の方である。
(ネイマールとアリ・ヒラル会長)
 ブラジル代表のネイマール(31歳)は、ブラジルのサントス、スペインのバルセロナで活躍し、2017年にパリ・サンジェルマンに移籍した。その時も驚いたわけだが、2023年には何とサウジアラビアアル・ヒラルに移籍したのである。調べてみると、確かにアル・ヒラルはサウジの名門クラブである。2022年度のアジア・チャンピオンズリーグでは、浦和レッズが優勝し、アル・ヒラルは準優勝だった。2019年、2021年にはアル・ヒラルが優勝し、ここ10年ほどで4回準優勝している。それ以前にも2回優勝していて、過去4回優勝はアジアトップ。日本や韓国のクラブを押えて、アジアで最高のサッカーチームと言ってもよいようだ。
(サウジ国旗のクリスティアーノ・ロナウド)
 移籍金は2年契約で「9千万ユーロ+出来高」と言われ、日本円では年俸239億円と報道されている。もちろんネイマールがどういう選択をしようが、それは自由である。だけど、他にも超有名選手がサウジアラビアに集結している。ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド(38歳)は、2022年からサウジのアル・ナスルに所属している。フランスのカリム・ベンゼマ(35歳)も2023年からサウジのアル・イステマに移籍した。またカタール・ワールドカップで4強になったモロッコのGKボノがアル・ヒラルに移籍し、他にもブラジルやイングランド、セネガル、コートジボワールなどの代表もサウジに集まっている。
(サウジに移籍したベンゼマ)
 どんな選手が移籍したか、僕もいま調べてこんなに集めているのかと改めて驚いた。「アル・ヒラル」「アル・ナスル」「アル・イステマ」など、みんな「アル」が最初に付いている。これは定冠詞で、英語の「the」にあたる。「アラー」「アルカリ」「アルコール」などのアルである。ヒラルは三日月、ナスルは勝利、イステマは統一とか連合とか、要するに英語のユニオンだという。これはサウジアラビアのクラブチームが全部載ってるウィキペディアのページがあって、それを調べたら載ってたのである。

 何でこんなに世界の強豪を集めているかというと、要するにお金があるわけだ。原油生産を王族が独占していて、サッカーチームも金持ちの王族が所有しているということだろう。詳しくは知らないけど、実質的なオーナーが富豪王族だというのは間違いない。しかし、それだけでなくムハンマド皇太子の「改革路線」のサッカーにおける現れなのである。皇太子はいずれ来る石油枯渇を見越して、アラブの盟主たるサウジの位置を確固たるものにするため、大胆な「開国政策」を取ってきた。
(ムハンマド皇太子)
 しかし、絶対王政という基本は変更しない。今どき世界のどこに、国会もない、だから選挙もない国があるか。国会も選挙も形骸化している国はいっぱいあるけど、ここでは「そもそもない」のである。僕は2017年6月に皇太子が交代したときに「サウジアラビアの皇太子交代問題」を書いて、その時からサウジの変化に関心を持ってきた。2018年10月に、サウジアラビアのジャーナリスト、カショギ氏がトルコで殺害された事件では、皇太子の関与が疑われ「ムハンマド皇太子の関与は?-カショギ事件続報②」を書いた。結局ムハンマド皇太子の「人権意識」なき「上からの改革」には、危険性があると僕は認識している。

 政治とサッカーは違うものだけど、このような人権レベルの低い国に有力選手が移籍するのは問題じゃないだろうか。サッカーの試合を女性が見られるようになったのも、2018年からである。これもムハンマド改革の一つであり、長い目で見るべきだという人もあるだろう。だが、今回の女子ワールドカップでは、アジア予選に出場もしていない。弱くて敗退したのではない。エントリーしたのに、事情があって辞退したのでもない。そもそも予選に出て来ない。男子はワールドカップ6回出場の有力国なのに、女子サッカーは屋内でのみ細々と認められているのだという。「ジェンダー平等」の観点から、サウジアラビアのサッカー協会には問題があり、移籍した有力選手はこの問題を見逃してはいけないと思う。

 最近サウジアラビアとイスラエルが和平交渉を進めていると言われる。また長年対立関係にあるイランとの関係に一定の改善が図られている。ウクライナ戦争のさなか、世界のエネルギー確保の観点から最重要国の一つであるサウジアラビアの動向は目が離せない。サッカーのことを書きたかったのではなく、とにかくサウジに注目せよというのが僕の論点である。サッカー有力選手をこれだけ集めれば、国内リーグは盛り上がるだろう。典型的な「パンとサーカス」政策ではないかと思う。
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「母の戸籍」を探すミッションー戸籍制度考③

2023年08月21日 22時43分19秒 | 自分の話&日記
 経済評論家の森永卓郎氏に『相続地獄』(光文社新書、2021)という本がある。僕はこの人の本を読んだことはないが、これは一応読んでおけばと言われて読んでみた。今回の事態の大分前である。森永氏の父親は毎日新聞の記者で、内外各地への転勤が多かった。その父親が入院し、やがて亡くなった後の「相続手続きがいかに大変だったか」を書き記した本である。強く印象に残るのは、「貸金庫」の面倒さと戸籍取得の大変さである。これは全く僕も同感で、いま大変な思いをしている。

 特に「貸金庫」というのは、ビジネスとして果たして存在する意味があるんだろうか。僕の母親も実は使っていた。よほど大金持ちなのかというと、もちろんそんなことはない。地震や火事が心配と言い出せば、それは否定出来ない。重要な書類は預けておいた方が良いかも…と考える人はいるだろう。元気なときは自分で出掛けて契約するからいいけど、問題は病気になった時。本人が行かないと開けられないのである。森永氏も車いすの父親を連れて行って、階段しかなくて持ち上げた苦労をした挙げ句、大したものは入ってなかった。僕も銀行に問い合わせたが、生前に開けることは断念した。没後もまだ開けられていない。もちろん、そこに金の延べ棒なんかを隠している人がいて、相続人を名乗る人が勝手に持って行ったら大変なんだけど。

 ところで、その時に要求される書類に、被相続人(死んだ人)の戸籍謄本がある。それも「16歳以後のすべて」が求められる。「相続人」(普通は配偶者や子ども)の側の戸籍謄本もいるが、それは理解出来る。今はマイナンバーカードで取得出来なくなった(一時ストップ)ところが多いらしいが、それでも本籍地に行くか、郵送で依頼することが出来る。(本籍地の役所のホームページを見ると、戸籍郵送依頼書の書式があることが多い。)しかし、森永氏の父は転勤に伴って引っ越しするたびに戸籍を移していた。海外勤務もあったようで、いつでも戸籍謄本を取りやすくしておきたかったんだろう。
(普通の戸籍謄本=見本)
 今書いたように「戸籍を移せる」(転籍)ことを知らない人がいるかもしれない。実は簡単に「転籍」出来る。今の住所に移せば、戸籍謄本などを取る時に簡単になる。また移す先は現住所でなくても可能で、日本国内ならどこでも良い。だから「東京都千代田区千代田一番地」に移す人もいるらしい。皇居である。他にも富士山頂とか、北方領土の国後島なんかにも移せる。日本国の法制上は「国内」だから。だけど、そんなことをしても、謄本を取るとき面倒くさいだけだろう。また、結婚や養子縁組などがなくても、自分ひとりだけ家族の戸籍から分かれる「分籍」という制度もある。
(昔の戸籍=見本)
 ところで、「16歳以後」となると、もうこれは「どこにあるか」の探索から始めなくてはならない。もちろんマイナンバーカードでは取れない。上記見本のように、そもそも読めないような字でビッシリ書かれた大昔の戸籍なのである。これは「除籍謄本」となり、手数料は750円もする。(自分の戸籍謄本を取る際は450円。)まず、生前の戸籍を取って、そこからさかのぼるしかない。普通は結婚前の母親の戸籍のことなど、気にしたことはないだろう。日本では夫婦同姓で、事実上多くの場合は夫の姓を名乗る。だから、母の戸籍は父の戸籍に入っている。そういうことが多く、わが家の場合も同様で、まず筆頭者が父親(故人)の戸籍を取った。

 そこから少し迷走したのだが、父親の戸籍を見ると、結婚相手である母親の情報が書かれていた。そこにまず「福島県」とあった。だから僕は母の戸籍は福島県にあるのかと思ってしまった。母には結婚前の「旧姓」がある。ほとんどの人はそれを知ってるだろう。母親に連れられて、母の実家に住む(母方の)祖父母に会いに行ったことがあるはずだ。その母親の実家に戸籍があるんだろうと思ったわけである。母親からは福島県の浜通りに子どもの頃よく行ったと聞いていた。一度は福島県某市に請求を送ったのだが、そこにはないと電話があった。そこは「母の実家」ではなく、「母の母の実家」だったのである。僕の勘違いである。

 女性が子どもを産む時に、自分の実家に戻って出産することがよくある。それは一般常識として誰でも知ってるだろう。母の出生地が福島県という戸籍の記載を見て、僕はうっかり母の実家がそこにあったのかと思ったのである。しかし、よくよく考えてみれば「母の母」(祖母)が実家に戻って、子ども(僕の母親)を産んだのである。そこは(僕からすれば)祖母の実家だった。この母方の祖母は僕が生まれる前に死んでいるので、今回まで名前も知らなかった。ちょっと細かい話になってるけど、要するに僕の母方の祖父の戸籍がどこにあるかという問題だったのである。

 それは父親の戸籍をじっくり見つめていると(昔の字体で詰めて書かれているので読みにくいが)、そこの最後の方に小さく書いてあった。何でこの話を書いたかというと、これから相続がある人に、親の情報だけでなく祖父母の情報も聞いておかないと困ると伝えたいのである。なお、なんで「16歳以後」なのか。2023年4月1日に変更されるまで「女性の結婚可能年齢は16歳」だったからだろう。別の結婚があって、他に相続対象となる子どもがいないかを確認するわけである。15歳未満で出産してたらどうなる? その場合は結婚出来ないので、父親(僕からすれば祖父)の戸籍に記載されるから、除籍謄本で判明するわけだ。

 現代では離婚・再婚も多くなり、国際結婚、国外移住も増えているから、今後はどんどん相続のための書類集めが大変になるだろう。僕の母親の世代は、戦争や結核で多くの犠牲を出したが、それを乗り切った人には戦後の「解放」が待っていた。そして、高度成長と壮年期が重なり、それなりの財産を残せた人が多いのではないか。自分の家の場合、「父は終身雇用の会社員、母は専業主婦、子どもは二人」というちょっと前までの日本政府が考えていた「標準モデル世帯」そのものだった。だから、相続事務は世の中では簡単な方だと思う。それでも大変だなあと思うわけだから、「終活」は大事である。
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世界では戸籍のない国が圧倒的ー戸籍制度考②

2023年08月20日 22時05分43秒 | 社会(世の中の出来事)
 世の中には「夫婦別姓」を認めると、最終的に「戸籍制度」が廃止されて「共産主義」になるかのように言ってる人がいる。いや、ウソじゃなくて本当にいるらしいから驚きだ。じゃあ、そのような「極右」勢力は何故「マイナンバー制度」に大反対しないのだろうか。僕には全く不可解である。

 世界では「戸籍制度」がある国はほとんどないのが実態である。「戸籍」がないと困るだろうと思うかもしれない。だが、それでやっていけているんだから、工夫すれば何とでもなる。調べてみると、欧米の主要国は「個人番号」を使っているのである。(そして、写真付きの個人番号カードなどほぼない。)個人番号とは、「国家が国民を個人として認識する」ということだ。「戸籍」というのは、「国家が国民を家族の集合体として認識する」ということである。両者は反対概念で、だから「マイナンバー」を導入した以上、戸籍をなくすのが正しい方向のはずだ。

 実際にそういう主張をしている人が存在する。カードをどうするかの問題と別に、すべての国民に識別番号を付けているのだから、家族戸籍は要らないはずなのである。もちろん「住民登録」(または「外国人登録」)は必要だ。国民として選挙権を行使したり、教育や福祉などの住民サービスを受けるためには、居住自治体に登録する必要がある。問題は「家族関係」をどう確認するかである。だが、現実にいま児童手当を新たに申請するときに戸籍謄本は要らないようだ。「住民票」で事足りるのである。(子ども自らは申請できないので、同居する親が申請するわけだから当然だろう。)

 世界では東アジアの数カ国にしか戸籍制度(のようなもの)はないらしい。日本以外では、中国台湾には似たようなものがある。韓国にもあったが、2007年末で廃止された。廃止された理由は、憲法裁判所で「両性の平等を定めた憲法に違反する」という判決があったかららしい。戸籍の代わりに「家族関係登録」が新たに作られた。日本の「戸籍」は戦前には「戸主」のもとにすべての家族が登録されていた。戦後はそのような家族制度はなくなったが、それでも誰か「戸籍筆頭者」が必要だ。また親が結婚していない子どもは「子」と記載されるなど、現行の日本の戸籍制度も「法の下の平等」に反しているのではないか。

 どうして東アジアに「戸籍」があるかというと、もともと上記画像のように古代中国で始まったからである。前漢王朝頃から作られたらしい。これは人民把握を「共同体単位」ではなく「戸」(家族)単位で行うわけで、一定の歴史発展を反映したものだろう。もちろん徴税や徴兵などを行いやすくするための制度である。日本でも同じような目的で、古代王朝で作られ始めたが、日本の現実を反映したものではなかった。律令制度のタテマエで作られたという性格があり、やがて絶えてしまった。それが近代になって、再び徴税、徴兵のため戸籍が作られたのである。

 僕は戸籍は不要だと思う。先に述べたような「両性の平等」という観点もあるが、それ以上に現実に不便なのである。子どもが生まれたときは、親の戸籍に入る。親も誰かの子どもだから、生まれた時は祖父(または祖母)の戸籍に入っていたわけだ。それの繰り返しで、結婚した時点で親の戸籍から除籍されるが、同じ住所に新戸籍が作られる。この間、同じ住所に何代も住み続けている家族などいないだろう。特に60年代以後の高度成長で、日本では農村から都市へ大きな人口移動が起こった。でも住民票は移しても、戸籍はそのままという人が多いだろう。その結果、全然住んだことがない自治体に戸籍がある人も多いだろう。

 人口減の中で、住民でもない人間の戸籍を管理する自治体も大変だ。いざという時、取る方も大変である。高齢化が進み、子ども世代からすれば、親の親にさかのぼるが、祖父母になると名前もよく知らないかもしれない。未婚や子どもがいない場合も多いし、子どもがいても海外に住んでいるケースもこれから増えてくるに違いない。それ以上に、親が100歳まで生きていたりすると子どもが先に亡くなる場合も多くなる。長寿でめでたいとばかりは言えなくなってくる現代である。「相続」のための事務手続きを可能な限り簡単にしておく必要があるのである。もう一回実践編を書きたい。
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「入籍」と「婚姻」の違いー戸籍制度考①

2023年08月18日 22時35分58秒 | 社会(世の中の出来事)
 「マイナンバーカード」及び'「マイナ保険証」を考えていく中で、「戸籍制度」を考えてみたい。本来、「マイナンバー」と「戸籍」は重大な関係にあるはずだが、日本ではそういう認識さえほとんどないのが現状だ。そして、まさにいま自分にとっても大問題。「相続」では、どうしても「戸籍謄本」を何通か取らざるを得ない。そのことについては次回に書きたい。

 まずは「羽生結弦選手の入籍」に関して。「プロ・フィギュアスケーター」というか、「元フィギュアスケート選手」というべきか、とにかく冬季五輪で2回連続して金メダルを獲得した「羽生結弦」選手(本来なら難読人名だが、誰でも読めるだろう)が「結婚」したと報道された。それが8月4日で、何でもその日はおめでたい日だそうだ。藤田ニコルもその日に結婚した。

 その日は「一粒万倍日」にして「天赦日」、かつ「大安」なんだという。「大安」というのは、確かに昔から聞いていた。しかし、「一粒万倍日」なんて最近になるまで聞かなかった。「天赦日」に至っては、今回初めて聞いた。昔は「大安」「仏滅」「友引」などの「六曜」は「迷信」だと多くの人が言っていた。こういう迷信は近代化した日本では無くすべきだと言われていたが、結局無くならなかったのである。これも「僕らの敗北」かもしれない。

 さて、そういう「おめでたい日」の発表なんだから、羽生結弦選手はこの日に「結婚」したのだろう。しかし、羽生選手の発表では「入籍」としか書かれていない。普通は「結婚式」をするとか、「結婚記者会見」を行うものだ。あるいは、相手に関して報告するか、または「相手は一般人なので、名前などは発表しない」旨の断りをするか。それら一切の発表が何もないから、いろんな憶測もないではないようだ。当日発表のコメントを以下に添付するが、確かにこれでは「結婚」なのかどうかも不明である。

 昔はよく「結婚」のことを「入籍」と表現していた。その後、事実として「入籍」は間違いなので、近年はあまり使わないようになってきたと思う。結婚した場合、親の戸籍を脱して自分(たち)独自の戸籍が作成される。だから、結婚の場合はどちらかと言えば「出籍」という方が正しいだろう。というか、「出籍」したあとに「創籍」するのである。それまでの戸籍には、○○と婚姻届提出のため「除籍」と書かれる。名前の欄には大きく「×」印が書かれるのである。
(結婚した場合の戸籍)
 じゃあ「入籍」というのは何だろうか。それは「養子」に入った時である。それはいわゆる「婿養子」ではない。法的に家族制度は無くなっているので、「婿」も「嫁」も今はない。結婚した夫と妻は同じ姓を名乗る決まりで、それは新しい姓ではダメなので「夫または妻の姓」にすることになる。それはともかく、本当の意味で誰かの「養子」になる場合、「養親」の戸籍に入ることになる。自分より年少者の養子になることは出来ないが、1歳でも上回っていたら家族間でも(兄や姉の養子でも)可能である。

 結婚相手と同じ戸籍になることを、「同じ戸籍に入る」と表現して「入籍」と呼ぶ風習がいつの頃からか出来たのだろう。それは「同じ戸籍に入れない」場合、つまり「同性愛者」などを排除することになる。だから、僕は「結婚」を「入籍」と表現するのは、もう止めた方が良いと思っている。「婚姻届を提出した」と言えば良いのではないか。なお、羽生選手の事情について、僕は特に知りたいわけじゃない。普通なら、相手は誰だとワイドショーなんかで大騒ぎになるだろうが、世界中にファンが多い羽生選手の場合、安易に騒ぐと「炎上」しかねないので放置されているらしい。

 誰にもプライバシーの権利があるから、本人が秘しておきたいなら探す必要もないだろう。そういう有名人も増えてきたと思う。子どもの有無、性別等も公表しない人が多くなってきた。逆に子どもの写真などをたくさんSNSに挙げていると、こっちの方が心配になったりする。そういう時代が良いか悪いか。もう僕にどうしようもないけれど、羽生選手のケースを取り上げて「入籍」と「結婚」の問題を書いてみた次第。
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映画『君たちはどう生きるか』をどう見るか

2023年08月16日 22時55分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 宮崎駿監督(1941~)の10年ぶりの新作アニメーション映画『君たちはどう生きるか』が7月14日に公開された。これは「事件」であり、映画ファンなら見ないという選択肢はない。だが事前の宣伝が全くなされず、どんな映画かよく判らないまま見たわけである。当初はパンフレットも発売されず、作者側の情報発信は極めて少なかった。当初の評価も「よく判らない」「もう一回見ないと」という感想が多いようだった。実は自分も同様で、最近ようやく2度目を見直したのである。(なお、以下では内容に触れる部分があり、全く白紙で見たいと思う人は、見てから読んで欲しい。)

 いま「よく判らない」という表現があったが、ファンタジー映画なんだから設定が謎めいているのは当然だ。リアリズムの実写映画だろうが、あるいは映画以外の様々なジャンルであろうが、作品のテーマが完全に観客に伝わるわけではない。そんな映画があったら、それはつまらない映画だろう。宮崎映画を思い出せば、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のストーリーを説明せよと言われても、僕にはうまく言えない。だけど、その2本の映画(明らかに宮崎映画の頂点)を見ている間、この映画は判るとか判らないなどと誰も思わないだろう。「うまく説明出来ないけれど、今すごいものを見ている」と皆が思っていたからだ。

 だから、「よく判らない」なんて議論をしている段階で、やはりこの映画は宮崎監督の大傑作ではないのである。世の中には、100歳で作った『一枚のハガキ』が最高傑作レベルだった新藤兼人みたいな監督もいる。だけど、黒澤明フェデリコ・フェリーニのように、壮年期の大傑作に比べると晩年の作品には不満が残る方が普通だろう。近年の山田洋次監督も同じ道をたどっている気がするが、それでももちろん見る意味はある。『君たちはどう生きるか』が宮崎駿最後の映画になる可能性は高いだろうが、黒澤最後の『まあだだよ』やフェリーニ最後の『ボイス・オブ・ムーン』より良く出来ていると思う。
(宮崎駿)
 映画の冒頭で、サイレンが鳴り響き「母さんの病院が家事だ」と「」が飛び出していく。僕はこれを「空襲」だと思い込んでしまったのだが、それは戦時中の話だという程度の事前情報は持っていたからだ。しかし、その後、「戦争3年目に母が死に、4年目に東京を離れた」といったナレーションが入る。どうも時間が合わない。(東京が本格的空襲にあうのは1944年11月以後。)パンフでは「母を火事で失った11歳の少年」とある。ところで、冒頭に出て来た「」はどうなったのだろう。徴兵、徴用されたか、または遠くの大学へ進学したか。それとも母を救おうとして、兄も火事で亡くなったのか。

 この映画がどうもよく判らない感じがするのは、ストーリーの細部にうまくつながらない箇所が散見されるからだと思う。異世界に紛れ込んだ後はどういう進行をしても構わないわけだが、2度見たらストーリー的なつながりに疑問な展開がかなりあった。もう一つ、ファンタジーの構造として少し弱い点がある。ファンタジーには「異世界のルールのみで進行するもの」と「現世から異世界へ行って、再び現世に戻るもの」の2タイプがある。『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)や『ハリー・ポッター』シリーズなどは前者、エンデ『果てしない物語』(映画『ネバーエンディング・ストーリー』)などが後者だ。

 宮崎映画では『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』が前者で、『千と千尋の神隠し』が後者である。後者の場合、あるミッションを果たすため異世界に赴いて、いくつかの通過儀礼をこなして現世に戻って来る。『千と千尋』の場合、両親がブタに変えられてしまい、千尋は家に戻るためにも救出のミッションを果たさざるを得ない。ブタ変身もなるほどと思わせる描写がある。一方、今回の映画では義理の母(実母の妹)夏子が「青鷺屋敷」に行くのを見るが、何故向かわざるを得ないかが判らない。そして、異世界で囚われるた義母を主人公、眞人(まひと)が救い出す。

 義母を救出に向かうのは当然と言えば当然だが、やはり実の両親を救うのに比べれば弱いだろう。眞人はどこか新しい母になじめなかったが、ラストでは「夏子母さん」と呼ぶようになっている。謎めいた異世界で、若き日の母であるらしき少女ヒミや世界のバランスを取り続ける青鷺屋敷の塔に住んでいた大叔父に出会って、眞人は変わってゆくのである。だけど、新しい母を「母さん」と呼べるようになるというのは、本人には大事だろうが世界全体には大きな意味はない。だから、眞人のこのミッション自体に切実さが低くないかと思ってしまう。

 さらに「大叔父」は自分も年を取ったので後継者が欲しいという。それは自分の血を引いた者に限られるという。それが何故なのかが説明されないが、世界を救う役は「血筋」で決まるのか。それじゃ「身分制度」である。そこで冒頭に戻るのだが、血筋で言うなら「」が継いでも良いはずだ。もし「兄」が死んでいたら、この謎世界で出会うのではないか。(母は「あっち」にいるのだから。)では兄は元気なのか。その説明は不可欠ではないか。この問題は『風の谷のナウシカ』から続く「宮崎駿と天皇制認識」として慎重に検討すべき問題だ。

 さて、別の観点から考えると、宮崎駿映画の最大の魅力は「飛翔」にある。今度の映画には鳥がいっぱい出て来る。だがアオサギは別にして、ペリカンもインコも飛ばずに歩いている。主人公も飛べないから、飛行機の世界を描いて「飛翔感」にあふれていた前作『風立ちぬ』に比べ、どこかこの映画に違和感を感じてしまう。むしろ「地下世界」を描いているように思う。その意味では、村上春樹の小説のような感触がある。「ミッション」の濃度が薄まっている感じがするのも、村上春樹と近いかもしれない。

 ただ、今度は「建物映画」としての魅力が増している。『千と千尋の神隠し』や『魔女の宅急便』と並ぶような、洋館、和館に魅せられる映画である。それを見るためだけでも、もう一回ぐらい見てもいい気がする。「戦時下の疎開=いじめ」映画にも出来るし、「義母と子の和解まで」をじっくり描く方向もある。そういうリアリズム映画は他にあるけれど、宮崎映画は異世界ファンタジーになるのである。

 題名の『君たちはどう生きるか』は言うまでもなく、吉野源三郎・山本有三名義で出された「児童小説」から取られている。映画では母の贈り物として出て来る。僕は前作『風立ちぬ』が堀辰雄の映画じゃないように、今度の映画もまあ「名義借り」に近いと考える。吉野源三郎の原作に思い入れし過ぎて「深読み」するのは間違いだろう。僕も若い頃に叔父さんから貰ったことがある。ある時期には、ちゃんと本を読める時期になった子どもへの定番ギフトだったのだろう。その時は僕には何だか古い話に思えて、あまり影響されなかった。そんなことを思い出した。なお、パンフは820円したが、情報的には少ない。(絵は多い。)誰が誰の声か知りたい人は、Wikipediaに出ている。
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『卒業生には向かない真実』、ピップ最大の危機、苦い完結編

2023年08月15日 22時14分32秒 | 〃 (ミステリー)
 ホリー・ジャクソンのピップ・シリーズの3作目『卒業生には向かない真実』(服部京子訳、創元推理文庫)が刊行された。670ページもあるシリーズ最長の問題作で、完結編になるのだろう。正義感にあふれた女子高生ピップが活躍する溌剌たる青春ミステリーとして始まったシリーズも、次第に苦みが増していって、今回はほとんど「イヤミス」レベルじゃなかろうか。第1作『大収穫、「自由研究には向かない殺人」』、第2作『『優等生は探偵に向かない』、ピップ大いに悩むの巻』と内容的に連続していて、続けて読む必要がある。一話完結のシリーズではなく、ピップが登場する連作と言うべきだろう。

 第1作を簡単に振り返っておくと、17歳の女子高生ピッパ(ピップ)・フィッツ=アモービは学校の「自由研究」として、町の未解決事件に取り組んだ。5年前に高校生のアンディ・ベルが行方不明となり、付き合っていたサリル(サル)・シンの死体が発見された。警察はサルがアンディを殺害して自殺したとみなしたが、未だにアンディの死体は発見されていない。ピップにはもちろん強制捜査権がないから、公開されているSNSを探ったり、関係者に接触したりして真相を探っていく。この小説は英米に多い「スモールタウン・ミステリー」に、「学園ミステリー」、そして「デジタル捜査小説」の味わいを加えた傑作だった。

 第1作は5年前の事件の真相を探る中で、町の暗部をあからさまにした。何人かの登場人物が逮捕、起訴されることになったが、小説内の現在では誰も死なない。それもあり、真相を探る主人公ピップのひらめきや人権感覚が印象的だった。ピップは小説内でも評価されて、ケンブリッジ大学への進学が決まっている。母親からは「探偵ごっこ」はもう止めて欲しいと強く言われたが、第2作では行方不明者の発見に協力を求められ、再び自主的な捜査を始めてしまう。警察は若者が数日どこかへ行っただけと相手にしてくれなかったからだ。その事件の真相は驚くべきもので、何が正しいのか、ピップも人間性の深淵におののく思いをする。

 その事件は悲劇的な結末を迎え、ピップは第3作冒頭では「壊れて」しまっている。明らかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。そんなピップにはさらに憂慮すべきことがある。どうやら誰かに後を付けられたり、悪意を持たれているらしい。家の前に謎の記号が書かれていたり、鳩の死体が置かれたり。警察に相談しても、イタズラだろうと相手にされない。ネットで検索してみたところ、同じような前兆があったケースが見つかる。それは連続殺人事件で、「DTキラー」と呼ばれている。ただし、犯人はすでに逮捕されていて、有罪を認めて服役中。その後、事件は起きていない。事件は冤罪で真犯人は別にいるのか?

 やがて真相が明らかになるが、ミステリー通ならばある程度予想通りだろう。だが、この小説の読みどころはそこではない。その「真相判明」は小説の前半にしか過ぎない。ピップの恐怖、そして驚くべき計画。こんな展開はあっても良いのか。これ以上詳細を書くわけにはいかないが、第1作から思えば遠くへ来たもんだ。高校を卒業して、まだ大学は始まってない。そんな18歳の少女は、すでに人生を見終わってしまったかの感がある。原題は“AS GOOD AS DEAD”で、これは調べてみると「死んだも同然」という意味らしい。それはピップの心理状態を指すだけではないだろう。

 むしろ作者はイングランドの警察や司法制度を批判する意味合いで言っているのかもしれない。後書きには作者も警察に信用して貰えなかった経験があると書かれている。確かに第1作から、警察は「無能」である。それは作品成立の条件としてそうなっているのかと思っていた。(警察が有能で、何でも解決出来ていれば、素人探偵は不要である。)しかし、どうもそれだけでもないらしい。作中で出て来る冤罪主張者の供述は日本と非常に似ているではないか。この小説をどう評価するべきか、なかなか決めがたい。驚くべき問題作であると言うだけ。だが着地点を目指してドキドキしながら読むのは間違いない。
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『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』(池上彰、佐藤優)を読む

2023年08月14日 22時48分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 講談社現代新書の池上彰・佐藤優氏の対談『日本左翼史』シリーズは3冊で終わりかと思ったら、2023年7月になって戦前編が出た。『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』と題され、対象の時代は「1867ー1945」となっている。戦後を扱った3冊は先に読んで、3回ほど感想を書いた。『「左翼」は復活するのか』『「講座派」「労農派」論争を越えて』『「清張史観」の克服を』である。僕は先の三部作を面白く読んだので、4冊目の今度の本も早速読んでみた。

 今度出た4冊目になる完結編は、相変わらず該博な知識を披露しながら独自の近代左翼史を展開している。歴史の流れに関しては、ほぼ定説が出来ているので、それほど新しい感じはしない。だが、大きな見通しや個別の人物論はなかなか読ませる。近代史に関心がある人は興味深く読めると思う。前3冊を読んでない人は、むしろこの4巻から読み始めて時代順に読んでいく方が良いかもしれない。まず、明治初期には左翼、右翼は未分化で、新宗教」という方向性もあったと鋭い指摘をしている。

 幕末から明治初期の時代は、後に「教派神道」とまとめられる天理教金光教大本教などが一斉に登場した時期として知られる。そのことは70年代に「民衆史」が注目された時代に多くの人が関心を寄せていた。「左翼」は「文明開化」で入ってきた欧米の新思想を日本でも実現しようとした。「右翼」は「富国強兵」で可能になった強大な武力で近隣諸国を侵略する方向に進んだ。どちらも「明治維新」による「近代化」を前提として、新しい国家を建設しようとする点では共通している。しかし、民衆の中には「近代化」そのものへの拒否感も強かった。それらの人々の拠り所となったのが、新しい宗教だったのである。

 その後「松方デフレ」によって階級分化が進んで、それが近代化と左翼運動をもたらす。佐藤優氏の特徴は「自由民権運動」を「負け組による権力闘争」として、日本左翼の源流とは言えないとみることである。僕はそれは言い過ぎで、やはり「自由民権運動」は左派系民衆運動の初期形態として良いと考える。「左翼」は社会主義や労働運動を意味する政治用語ではない。いずれ国会を開設することは共通していても、時期をめぐって対立がある場合、早期開設派を左派として問題ないだろう。士族層が中心とは言え、全国に広がった反政府運動である。中江兆民を通して、初期社会主義につながるという通説通りで良いと思う。

 その後は、明治末の初期社会主義と「大逆事件」による「冬の時代」、ロシア革命と「アナ・ボル論争」日本共産党の結成と「転向」の問題と順を追って、快刀乱麻を断つごとく日本左翼史の問題点が解明されていく。戦後編ですでに展開されているように、「基調報告」担当である佐藤氏は「労農派中心史観」である。講座派=日本共産党は、「コミンテルン日本支部」であり、日本事情を詳しく知らない担当者が作った方針を掲げていた。そのため、当時では無謀な「天皇制廃止」を全面に押し立てて、大衆組織を引き回した上に壊滅していった。まあ、そういう指摘は事実だから、労農派をより高く評価するのは当然か。

 全部書いてても長くなるだけだから後は簡単にするが、人物としては高畠素之(たかばたけ・もとゆき、1886~1928)の評価が興味深かった。初期社会主義に関わった後、得意のドイツ語を駆使して『資本論』の全訳を初めて行った人物として知られている。次第に国家社会主義に近づき、むしろ右翼思想家になったことでも知られる。早世したこともあり、僕はあまり関心を持たなかったが、この人はソ連を国家社会主義として評価したんだという。高畠が長生きしていたら、五・一五事件や二・二六事件はもっと凄惨なものになっていただろうとまで言っている。通説的には過大評価だろうが。
(高畠素之)
 もう一つは「転向」の問題で、この問題はある時期まで非常に大きな意味を持っていた。思想の科学研究会の共同研究「転向」が刊行されたのは、1959年から1962年のことだった。この「転向」というのは、1933年に獄中にいた日本共産党の最高指導者だった佐野学鍋山貞親が、それまでの党の路線を批判して天皇制の下での社会主義革命を目指すと声明を出したことに始まる。その後、続々と獄中で「転向」が相次ぎ、ほぼ8割ほどが従来の路線を離れた。一方、徳田球一志賀義雄ら「非転向」を貫いた党員もいて、戦後になると「獄中十八年」を生き抜いた英雄として迎えられた。
(佐野、鍋山の転向声明を報じる新聞)
 この「転向」をどう考えるべきだろうか。天皇の下の社会主義革命をその後も追求した人などいないだろう。戦後まで生き延びた鍋山貞親三田村四郎田中清玄などは、政財界の黒幕的な右翼として生きることになる。一方、非転向なら良いわけでもなく、「転向」が突きつけた「外国盲従的な党体質」は戦後の共産党に引き継がれてしまった。獄中を生き抜いた徳田も志賀も、結局は除名されている。結局、自由な思想競争のない中で、権力に強いられた「思想変更」には問題がある。

 戦後になると、今度は右から左への「転向」が起きる。そして、高度成長の中で再び左翼陣営から自民党支持者に変わる人々が出て来る。若い時に全学連指導者だった人が、やがて政界、財界、学界で右寄りのリーダーになるのは、むしろ通常のコースになった。90年代以後は、特に湾岸戦争以後に左派から右派に軸を移した人がかなりいる。(教育学者の藤岡信勝などは典型的である。)教員組合のリーダーだった人が管理職になったら、文科省・教育委員会の言いなりになることなど見慣れた風景である。「転向」は戦前だけの問題ではなく、「権力」行使がソフトになった現代にあっても、問い直すべき論点として続いていると思う。
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映画『658km、陽子の旅』、菊地凛子の「再生」まで

2023年08月12日 22時25分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 熊切和嘉監督『658km、陽子の旅』は、出色のロードムーヴィーでいろいろなことを思う映画だった。陽子菊地凛子)は、一応テレワークで働いているが、ほとんど引きこもりみたいな暮らしをしている。後で判ってくるが、家を飛び出て20年以上も家に帰っていない。夢を持って上京したのに、夢破れたまま過ごしてきたらしい。そんな時、突然いとこ(竹原ピストル)が訪ねてきて、陽子の父が突然死んでしまって明日出棺、車で来ているから一緒に行こうという。陽子の兄から連絡が付かないから、見に行ってくれと頼まれたというのである。故郷は青森県の弘前市。突然始まった青森までの旅である。

 現代では皆がスマホを持っているから、連絡が付かない「行方不明」という設定は難しい。陽子の場合、たまたまスマホが壊れてしまったばかりで、そのまま連れて行かれたのである。だけど、普通は銀行のカードぐらい持ってるから、多少の金は何とかなるものである。ところが、この映画では陽子がお金もないままヒッチハイクせざるを得なくなる。つまり、いとこの車に置いていかれるのだが、そんなバカな。それをバカなと思わせずに、なるほどと思わせる設定が上手い。なるほど、こういう手があったか。それで陽子は高速道路のサービスエリアで金もなく一人ぼっちである。
(車に出てくる死んだ父)
 車には時々死んだ父(オダギリジョー)が出て来て、陽子は昔の恨みをつぶやく。その時はともかく、現実の人間と話す時は陽子の声はほとんど聞こえない。というか、何も言えなくなってしまう。長いこと人と接してなくて、声も出なくなってしまったのか。それとも乗せてもらった男に言われるように「コミュ障」(コミュニケーション障害)なのかもしれない。そんな陽子はヒッチハイクするにも、ほとんど声を掛けられない。やっと乗せて貰った車の女性ドライバー(黒沢あすか)からは、ほとんど車も来ない小さなパーキングエリアで下ろされてしまう。
(菊地凛子)
 そしてそのPAには怖がり屋の女の子が転がり込んで来るが、夜になっても車は全然見つからない。ようやく「くず男」に拾われるが…。中には親切な人もいるし、いろんな人に少しずつ乗せて貰うのだが、果たして青森まで行けるのか? それが見どころではあるが、僕はもうどうでもいいかもしれないと思った。ようやく陽子は自分の境遇をちゃんと話せるようになってきたからだ。家を出た時、父は42歳だったが、今は自分が42歳。まさに「就職氷河期世代」を生きてきたのだった。そんな「陽子」が声を取り戻すまでの「658㎞の旅」だったのである。
(上海国際映画祭で)
 菊地凛子はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(2006)で聾唖の少女を演じて、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされ脚光を浴びた。その後、内外の映画、テレビに出ているが、これが初の単独主演だという。上海国際映画祭で、最優秀作品賞、女優賞、脚本賞を受賞した。熊切和嘉監督は大阪芸大を卒業後、映画監督としてコンスタントに活躍してきた。代表作は『私の男』『海炭市叙景』などで、前作は『マンホール』。脚本は室井孝介のオリジナルで、ツタヤの賞に応募して審査員特別賞を受賞したものだという。音楽のジム・オルークも素晴らしかった。
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「金大中事件」から50年、歴史の中で考える

2023年08月11日 21時52分50秒 |  〃  (国際問題)
 ちょっと時間が経ってしまったが、2023年8月8日は「金大中事件」(金大中氏拉致事件)が起きてから50年になる日だった。当時金大中(以下敬称略)は東京のホテルグランドパレスに滞在していて、1973年8月8日午後1時19分頃に2212号室を出たところで、6、7人の男たちに取り囲まれて拉致された。今ではこれは韓国中央情報部(KCIA)による作戦だったことが確認されている。金大中はそのまま行方不明になったが、拉致から5日後にソウルの自宅近くで解放され、自力で自宅に戻った。
(解放直後に自宅で記者会見する金大中)
 金大中は1971年4月27日に行われた韓国大統領選挙で、現職の朴正熙大統領に対抗して野党「新民党」から立候補して大善戦した。最終的に公表された結果は、朴正熙が634万票(53.2%)、金大中が539万票(45.3%)だったが、金大中は自由な選挙運動が出来なかったと言われる。首都ソウルでは金大中が6割近くを得票して、朴大統領に衝撃を与えた。朴正熙は61年に軍事クーデタで権力を得た後に大統領になったが、3選禁止の憲法を改正して権力維持を図ったことに批判が強かったのである。
(今は解体されたホテルグランドパレス)
 選挙当時45歳だった金大中は「韓国のケネディ」と呼ばれて、国際的に知られるようになった。選挙戦中にトラックが車に突っ込んで運動員が死亡する事故が起きて、金大中も腰や股関節に傷害を負った。(これはKCIAによる暗殺未遂事件だったことが判っている。)選挙後は政権側の攻撃を避けるため、ケガ治療を目的として日本やアメリカに滞在していた。そして、そのまま事実上の亡命生活を続け、海外から韓国の民主化運動を続けていた。日本では金大中を支持する韓国人らがガードしていたし、宇都宮徳馬(自民党左派の政治家)ら支持する政治家らがサポートしていた。

 この事件に関しては、今も多くの謎が残されている。拉致そのものの経過も不思議なことが多いが、韓国への連行途中にヘリコプターが警告の照明弾を投下したという経緯は解明されていない。日韓両国は海で隔てられているから、船で連れて行くしかない。関西まで車で行って、神戸港から密出国したと言われている。その後、どのような経過によるものか、日本の海上保安庁(ウィキペディアにはそう出ている)のヘリに警告されたという。単に「不審船」ということではなく、事件を危惧していたアメリカ政府筋の連絡という観測が事件直後からある。何にせよ、この警告で金大中を殺害せずに韓国に連行したと言われている。
(ノーベル平和賞を受賞した金大中)
 金大中はその後の何度もの弾圧を生き延び、韓国が民主化された後に1998年から2003年まで大統領を務めた。初の南北首脳会談や日本との関係改善などが評価され、2000年にノーベル平和賞を受賞している。(現時点で韓国唯一のノーベル賞。)歴史の中で、そのようないわば「ハッピーエンド」を迎えたため、73年に起きた拉致事件は忘れられたかもしれない。金大中本人も、政権獲得後に関係者の個人的な責任追及を行わなかった。この事件は独裁政権下で独裁者が本気で不機嫌になった時、「下位の者」がどういう作戦を計画・実施するのかをよく示している。その意味で今もなお普遍的な教訓を残している事件だ。

 ところで、当時の日本政府の対応は大きな禍根を残したと思う。田中角栄首相は結局「政治解決」を2回にわたって行ってしまった。当時の警察捜査で、現場から韓国の金東雲一等書記官(これは情報関係者の仮名だったが)の指紋が発見された。警察は金書記官に出頭を求めたが、外交特権により拒否され、そのまま出国してしまった。この人はその後どういう人生を送ったのだろうかと僕は時々思い出す。最低限、この金東雲一等書記官を日本側で刑事立件することが必要だったと思う。

 何故なら、「日本政府は拉致事件に甘い対応をする」という「教訓」を「北朝鮮」に与えたと思われるからだ。日本で最初に起きた公然たる外国公権力機関による拉致事件は金大中事件だったのである。いつもなら「国家主権」を大声で叫ぶ自民党保守派も黙っていた。そもそも有名無名を問わず、日本から拉致され外国へ連行されるのは許されない人権侵害である。もっとも後に判ったことでは、ロッキード事件で丸紅からの賄賂を最初に受領したのが、1973年8月10日だった。(この認定には疑問を持つ人もある。)田中首相には他のことに関心を向ける余裕がなかったのかもしれない。
(映画『KT』)
 最後にいくつか。この事件は2002年に阪本順治監督によって『KT』という映画になった。ベストテン3位になっている。機会があったら、どこかで見て欲しい。日本側の謎、監視する元自衛官なども描かれていたと記憶する。事件の年は高校3年で、受験勉強のため奥日光の小さな宿に10日位行っていた。新聞が置いてなかったので、近くにある大きなホテルに毎日行って新聞を読んでいた記憶がある。国際問題に関心が強かったから金大中の名前はよく知っていて、事件の行方を追わずにいられなかった。

 朴大統領は大統領選後、選挙で国民の支持を取り付ける大変さから、72年10月に非常戒厳令を発して国会を解散した。その後に独裁的な「維新憲法」を公布して「維新体制」を発足させた。その中で多くの「在日韓国人」らの冤罪政治犯が生まれた。金大中事件も、このような朴正熙独裁の中で生まれたものだった。もう多くの人は忘れてしまったかもしれないが、僕は「維新」と聞くと、まずこの恐怖の独裁体制を思い出すのである。(事件の時間などはWikipediaの記載によった。)
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