尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ちはやふる」

2016年05月29日 23時28分46秒 | 映画 (新作日本映画)
 数日前に見て書いてない映画「ちはやふる」の話。僕はこういう若い人向け大ヒット映画を見ない方だと思うが、見ないと決めているわけではない。むしろ、「時々見るけど、記事には書いてない」ということが多い。まあ、僕が書く必要もないし、くさす内容をわざわざ書きたくない。「ちはやふる」を何で見たのかというと、「家族はつらいよ」を見た時にちょうど「上の句」をピタリでやってたのが大きい。「部活映画」は展開が予想できるが、「競技かるた」は見たこともないし、イメージがわかない。たまたま新文芸座で(「恋人たち」と一緒に)「海街diary」を見直して広瀬すずの本格主演を見てみたいなとも思ったし。だけど「下の句」はなかなか見るチャンスがなかった。
 
 で、どうだったかというと、「上の句」は面白かったが、「下の句」は期待外れ。まあ、大長編マンガのごく一部を映画化しただけだから、(2作合わせて、高校1年の夏休みまでしか進まない)、「上の句」でちりばめた伏線が回収されるどころか、さらに拡散したまま終わってしまうのも仕方ない。今後どうなっていくかは、ウィキペディアに詳しく載っていたが、なるほど映画というメディアも不自由なものだと思った。マンガで読めば、同じ時間でもっと進めるところを、人物をしぼって単純化しないと映像化できない。それでも実写化で得るものも大きい。

 筋書きはここでは書かないが、「競技かるた」の世界を舞台に、「宿命的な人間関係」を幾重にも散りばめたストーリーが誇張的な表現で描かれていく。ヒロインである綾瀬千早(広瀬すず)は、もともと周囲が目に入らない人物設定になっているが、「下の句」になるとエキセントリックぶりがついていけない感じもする。それもこれも「高校生クイーン」である若宮詩暢の登場による。それまで知らなかったというのも不自然だけど、それはともかくどんどん「思い込み」の世界を深めていくのは、見ていて「痛い」感じがしてしまう。同級生で部長の真島太一野村周平)や、「運命の人」の綿谷新真剣祐=アメリカ生まれの千葉真一の長男である)との関わりも気になるが、それよりも何か社会生活が大丈夫かなあと思わせる描き方である。

 ところで、「千早振る」という落語がある。小遊三なんかがよくやる噺で、僕も何度か聞いたことがある。百人一首の珍解釈で笑わせる展開だが、どうもこの歌はそっちを思い出してしまう。もとは在原業平の歌だけど、「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」というのは、訳がわからんと言えばその通りである。(現代語訳を探してみると、「(川面に紅葉が流れていますが)神代の時代にさえこんなことは聞いたことがありません。竜田川一面に紅葉が散りしいて、流れる水を鮮やかな紅の色に染めあげるなどということは。」とある。これでもわからん。)

 もうちょっと調べると、歌は皇太子妃の藤原高子の宴で屏風を見ながら歌ったものとある。屏風に描かれた竜田川の紅葉(竜田川は生駒、斑鳩=いかるがを流れる川で、古来より紅葉の名所)を「神代にも聞いたことがないほどの、水をくくり染にするほど美しいですね」と新鮮な表現で、おおげさにほめたたえたところに興趣があるということらしい。ちなみに在原業平は桓武天皇のひ孫だが、桓武天皇の子である平城(へいぜい)天皇の子、阿保親王の子となる。祖父の平城天皇は薬子の変で権力を失ってしまったから、王権から遠く生まれて臣籍に降下した。ものすごい「イケメン貴公子」で知られ、何人もと浮名を流し、その一人が皇太子妃、高子である。そういう「政治的背景」のある「危険なラブロマンス」に関わる宮廷遊戯歌なんだろうと思う。

 ところで、こういった高校生(役)がいっぱい出ている映画を見る場合、僕には映画と別の問題がある。それは教員生活の中で、多分千人を大きく超える中高生の顔を見てきたから、高校生映画を見ると「誰かと似ている」と思うのである。思い出せる人ばかりではなく、中には多分教えてもいないような生徒の顔もあるんじゃないかと思う。誰だろう、似てるなあとつい考え込んでしまうのである。もちろん本人が出ているはずもないわけだが。人間が認識する「顔のタイプ」というのがあり、それが頭の中に蓄えられているんだろうと思う。で、今度の場合、千早も結構いるタイプの顔なんだけど、新や大江奏(同級生の部員)なんかが誰かに似てそうで、そんなことをつい考えながら見てしまった。

 映像で勝負する映画ではないから仕方ないのかもしれないが、僕はもう少し映像に凝ってほしい気がした。高校や神社は栃木県足利市でロケされたというが、非常に魅力的な場所だと思う。誇張表現にも飽きてくるが、「競技かるた」そのものが、最初は興味深いがだんだん見ていて関心がなくなってくる気がした。物語的に「どっちが勝つか」が大体わかっていて、意外性がないからである。それでもスポーツ映画なら見せてしまうし、合唱や吹奏楽、演劇なんかでも、それ自体が見たり聞いたりする価値があるから、見栄えする部活映画にできる。案外「かるた」は映像化が難しいのではないかとも思った次第。まあ、大ヒットを受けて、続編が作られるそうだから、期待しておこう。
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ジャ・ジャンクー監督「山河ノスタルジア」

2016年05月28日 22時51分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 今の中国で一番注目すべき映画監督だと思うジャ・ジャンクー(賈樟柯、1970~)の「山河ノスタルジア」(原題「山河故人」)。(渋谷の東急文化村で、6月10日まで上映。)中国社会を考えるために重要な作品だから、関心のある人は見逃してはならない。僕はジャ・ジャンクーの最高傑作(という人もいるようだが)とは思わなかったが、何度も使われる楽曲とともに、妙に心に残り続ける作品である。
 
 この映画は3つのパートに分かれている。最初は「1999年」で、春節を祝う人々の中で小学校の女教師タオ(チャオ・タオ、ジャ監督作品のミューズで、監督夫人)が踊り歌っている。タオが幼なじみのリャンズー(リャン・ジンドン)と話していると、そこに同じく幼なじみのジンジェン(チャン・イー、「最愛の子」で誘拐児童の親の会の会長役で助演賞を受けた)が話に入ってくる。大学を辞め起業して買った外国車を見せたいのである。ということで、冒頭の場面で映画の構図が見えてくる。一人の女に二人の男、「三角関係」になるしかない。20世紀末、中国は成長を続ける時期。女は経済力のあるジンジェンの求婚を受け入れる。監督が描き続けてきた山西省汾陽(フェンヤン)市の出来事である。黄河を背景にして、歴史的な建造物の残る中国の風景が心に染み入る。

 続くは「2014年」で映画制作時の現在である。タオの結婚に傷つき、故郷を捨て遠くに去ったリャンズー。今は妻と幼い子がいるが、長年の坑夫生活の影響か、せきが絶えず大病院で見てもらうように言われる。結局一家で故郷に帰るが、そこでタオが離婚して、子供を上海の夫のもとに残して帰ってきていることを知る。タオは見舞いに訪れ多額の金を置いていく。そのころ、タオの父が急死して葬儀が行われる。息子のダオラー(アメリカ・ドルにちなんで父親がつけた名前)は一人で飛行機に乗って母のもとにやってくる。しかし、なかなか口を開かず、「お母さん」と呼んでと言うと「マミー」と答える。上海の国際学校に通って英語教育を受けているのである。そして、父親は再婚して一家でオーストラリアに移住しようとしていることを知る。タオは子供のためにはそれがいいだろうと思いつつ、二度と子供に会えないかもと各駅停車の列車で空港まで送っていく。

 ということで、普通の映画なら「これで終わり」というか、現在まで描けばそれ以上やりようがないんだけど、なんとそのあとに「2025年」のパートがある。「2014年」を見ていると、この子ダオラーは大丈夫かなあ、「根を持てない子供」になるんじゃないかなあと他人事ながら心配になったのだが、案の定オーストラリアでアイデンティティに悩む若者になっている。父と話し合いたいが、父は英語を理解せず、ダオラーは中国語が判らない。そこに中国語教師のミア(シルビア・チャン)が登場し、通訳するうちに二人は親しくなっていく。ミアが教室で母親の名を聞くが、ダオラーは母はいない、自分は試験管ベビーだと答える心に響くシーンがある。

 中国は経済は発展したが、金銭第一になり腐敗したと、まあそういうことがよく言われる。そして国を離れた人もたくさんいる。未来はどうなるか判らないが、この映画の描き方はかなり「図式的」なように僕は思う。それは監督なりの「憂国」かもしれないが、移住した国に適応して生きていく人の方が多いのではないか。だけど、ダオラーの場合は、「父母と一緒に移住した」のではなかった。実母とは離別し(義母がどうなったかは不明)、幼い頃も中国語教育を受けていないから、いわば「母語」がないのである。そして、それをもたらした父親の生き方、金銭優先の中国社会を批判している。

 この映画の不思議なところは、以上の3つのパートの画面の大きさがすべて違うのである。スクリーンに空きがあるから、最初は予告編の後で小さくするのを忘れたのかと思ったが、やがて広い画面のシーンになった。1999年は「1:1.33」、2014年は「1:1.85」、2025年は「1:2.39」だそうである。こういうのは珍しく、何の意図かと思うと「偶然」であるらしい。折々にどうやって再現したのかと思うシーンがあるのだが、再現ではなくて監督が実際に昔撮っていた映像があり、それを利用したのだという。そして、その時のカメラが違っていて、だから画面サイズが違っているという。しかし、それは「タテマエ」だろうと思う。未来のシーンなんか、どのサイズでもいいわけだが、オーストラリアだけは横に長い画面で海や草原を広く撮っている。それを見てしまうと、中国の「過去」の社会が、いかに「四角四面」であるかが視覚的に判断できる。まあ、そういうこともあるのかなと思う。

 それと楽曲の使い方。まずはサリー・イップ(1961~)の「珍重」という歌。サリー・イップは台湾生まれの歌手、女優で、1980年代後半には香港で広東語で歌いトップ歌手となった人。1999年に、タオの父がやっている電器屋に来た客のテープで初めて聞く。広東語が判らないながら、いい曲だというと、ジンジェンは追いかけて行ってその客からテープを買ってプレゼントする。その曲が2014年にも、2025年にもうまく使われている。「たとえ時代が変わっても、ずっとあなたを思い続ける」といった歌詞が映画のテーマと重なり、観客の思いに届く。

 また、冒頭とラストは、ペットショップ・ボーイズの「Go West」というディスコ曲で踊るシーン。元はアメリカの曲だというが、1993年にイギリスのデュオ、ペットショップ・ボーイズがカヴァーしたのが流行ったという。いろいろと使われる曲なので、聞けば判ると思う。懐かしい感じが確かにする。ソ連崩壊への皮肉がこの曲の背景にはあるという。「Go West」という題名も、中国を捨て「西側諸国」に移ったダオラーたちを暗示しているのかもしれない。だけど、そういう説明は一切ないから、単にディスコで流行っていた曲という扱いである。だからこそ、中国でも公開されたんだろうが。

 ジャ・ジャンクーは当初は「面白いけど、よく判らない」感じが付きまとった。ヴェネツィアでグランプリを撮った「長江哀歌」が大傑作。次のカンヌ脚本賞「罪の手ざわり」も良かった。しかし、それは中国で上映禁止となった。今度は許可され、中国でも大ヒットしたというが、それは「感情」に焦点を当てた映画だからだという。まあ、そういうより、展開が図式的で判りやすく、しかも「未来」パートを撮るという発想とその内容が面白いからかと思う。映像は魅惑的だが、僕はこんなに予想通りの展開でいいのかなと思ったのも確かである。他の映画より取っつきやすいから、入門編にはいいかもしれない。中国は好き嫌いを超越して、日本にとって「考えなければいけない問題」であり続ける。中国社会の移り変わりを、特に地方都市で展開するジャ・ジャンクーの映画は、見続けていかなければならない。いつものように、この映画も北野オフィスも出資して作られている。音楽は日本の半野喜弘
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「Windows 10 」、電話、Eメールアドレス問題

2016年05月26日 21時17分00秒 | 自分の話&日記
 今日は簡単に。先日、パソコンが「自動的」に「Windows 10」に更新されてしまった。実は「自動的」ではないんだとも言えるらしいけど、とにかく「今すぐ更新する」というクリックなんかはしていない。どうしてそうなるんだとネット界では大問題になっているようで、検索に「うぃ」と入れるだけで、「Windows 10 戻す」という項目が上がってくる状態になっている。

 さて、その問題は後でまた書くとして、その前に通信機器の諸問題続発でめんどくさいったらない。まずは「電話」である。「固定電話」の方である。これはこれで、もちろんまだ必要。かつては「電電公社」に申し込んで「電話加入権」なるものが必要だった。民営化されNTTとなり、「通信自由化」がなされ新電電各社に電話回線が開放された。まあ、独占はよくないよねと考えて、僕は実家に帰った後で別の会社のプランに変えてみた。ところで、自分の家の電話はかなり特殊な状態にあり、1階と2階で別の電話番号だけど、どっちも受け取れる電話機を使用している。

 さて、契約電話会社が従来のプランを廃止するという。新しいプランに変えないといけないのだという。申し込みと工事がいる。それは地元の系列携帯電話店でも可能だという話。やむを得ないから、去年の夏ケータイショップへ行って、申し込んだ。そして、しばらくして工事をしたら、今度は電話回線ではなく、無線を使うとのことで、その無線がうまくつながらなかった。というか、雑音が消えない状態なんだという。僕は工事に立ち会ってないからよく判らないが。そこでやむを得ず、「元へ戻す」という。

 「元へ戻す」のはいいが、それでは今年6月をもって電話が使用できなくなる。で、残された方法は「NTTと契約する」ということである。そのNTTへの引継ぎは今の会社でもできるというから、申し込んだところ混んでいるという。待つこと数カ月、ようやく順番が来て、今度は「昔の電話権を使用する」とか「新たに電話権を買う」とかいう申込書が来た。まだ、電話権なんてものがあったのである

 先に書いたように、1階と2階の電話が同時に使える電話機が今はもう珍しいらしい。だから、両者の回線が両方うまく機能するようにするのが、結構大変らしいのである。ようやくNTTへ申込書を送り、会社を切り替えるとの連絡がきたのが今月中旬。そして、20日に変わったらしい。特に関係ないけど。いや、NTTだと「電話帳」がまだあるので、「掲載しない」に丸をしたり、いろいろあるのである。

 次は「電子メールアドレス」である。僕は地元のケーブルテレビ会社のケーブル回線でインターネットをしている。昔はケーブルテレビ本体も見ていて、衛星放送もそれで見ていたし、時にはCNNやBBCも見ていた。映画のチャンネルや様々の選択肢があるわけだが、でもお金を払ったほど見てないと気付いて、解約してしまった。まあ、地上波デジタルでニュースが見られれば、テレビはそれでいいかという感じである。で、ネットだけケーブルテレビで見ているが、その会社がなくなった。というか、「JCOM」に統合されてしまった。よって、今までのアドレスは使用できなくなる。

 それは今月末が期限で、これも仕方ないから、連休ごろに変えた。というか、正確に言えば、新しいアドレス設定をした。今月末まで前のアドレスも使えるから、まだ「アドレス変更」通知をほとんどしていない。その前に、どうしても必要な「変更処理」が多いので、ゲンナリ。つまり、今はEメールは「知人との連絡」手段としては第一ではなく、それはケータイやSNSなんだと思う。ではEメールは何に使うかというと、「各会社との連絡手段」である。このブログもそうだし、Facebookもそう。それにパソコンウィルスの会社も真っ先に必要。そして銀行、カード、証券会社。チケットぴあやTOHOシネマズ、様々なメールマガジン。旅行会社やら何やら。これがすぐ変えられるところばかりではないから、まだ完了していない。パスワードは忘れているし、新しく登録した方が早いものもあるだろう。

 とにかくこれが一番面倒で、ホントは「Windows 10」問題の前に長くなってしまったではないか。で、とにかくマイクロソフトは基本的に全部10に変えてほしいようで、7月末頃の無償アップデート期限が迫る中で、どんどん変えている。通知が毎日何度も画面に出る。×で画面を消しても、それはMS側の予定を取り消したことにはならないという。ある日、夕食前にパソコンをつけ、ブログを少し書き、そこで食事に行って数十分後に戻ってきたら、勝手にアップデート中だった。(すべてのアプリは自動的に終わり、書きかけブログも消えたが、「復元する」で戻せた。何よりもまず、ウィルスソフトを10用に変えないと、何もできない。何とか新しいウィルスソフトに更新したら、拡張子も自動的に10用になった。だから、10にするとワードが使えないなどと聞いたことがあるが、そういうことは経験しなかった。

 それまでは「7」だったけど、この間に「スタートボタンがない」という仕様になってたらしいが、それは元に戻った。案外普通に使えるが、どうでもいいようなことだが「ゲームがない」という違いがある。ソリティアもフリーセルもない。いやあ、それぐらいあってもいいのでは。いや、無料でインストールできるということになっている。だけど、マイクロソフトのアカウントにログインできないから買えない。大体、マイクロソフトのアカウントなんか作った覚えもないから、新たに作ろうとすると失敗する。まあ、とりあえずどうでもいいや状態。その結果、「つい最初にフリーセルで時間を使う」といった愚挙がなくなり、今は9時でもうブログは書きあがりそうである。だけど、ソリティアやフリーセルは単なるゲームというより、最初にパソコンに慣れる手段でもあったから、なんだかあった方がいいかとも思うが。(ちなみに、ウィンドウズ7でなくなってしまったが、XPに入っていた「3D ピンボール」が好きだった。僕はもともとピンボールが好きで、だから「1973年のピンボール」も好きなのである。)とにかく一時に全部これらをやったから、もう面倒。ホントは続いて、ケータイも変え、プロバイダーも変え、いずれ全部まとめたプランにしたいものだ。そうなっていたのだが、グチャグチャになってしまった。
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「春だ ドリフだ 全員集合!!」

2016年05月23日 22時38分19秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターで21日に見た映画の話。「春だ ドリフだ 全員集合!!」は、1971年12月29日に松竹で封切られた松竹映画で、16本作られた松竹のザ・ドリフターズ映画「全員集合」シリーズの第8作目。(題名に「全員集合」が入らない松竹ドリフ映画も含めると13作目。)この映画から寅さんシリーズの併映作となり、1975年までシリーズが続いた。「全員集合」シリーズは全部、渡邊祐介監督。

 なんでこの映画が見たかったかというと、フィルムセンターの案内文に以下のようにあったからである。「本作では、いかりや長介が落語家いかり亭に扮し、彼の師匠役に三遊亭円生。いかり亭の善意からの行動は思いがけぬ大騒動となり、彼の真打昇進の件も絡んで、師匠(円生)は協会の有力者(柳家小さん)に重大宣言をするに至ってしまう。」

 ドリフターズというより、この円生小さん、この名前に驚いた。それに「重大発言」って何だ。円生と小さんが衝突するんだったら。ほとんど後の「落語協会分裂の予見映画」ではないか。後でウィキペディアを見たら、そこにも「落語界が舞台だが、7年後の落語協会分裂騒動を予見するような内容になった。」と記述されているではないか。

 さて、では見た結果どうだったかというと…。いかりや長介演じる二つ目の落語家(最初は「なまづ家源五郎」、その後改名して「いかり亭長楽」)が伊賀上野で小柳ルミ子の知り合いだと大ぼらを吹いて、ルミ子の巡業を請け負って金までもらってくる。もちろん相手にされず、師匠にも説教され改名させられる。腐って飲んでいると、地方から出てきた加藤茶と知り合い強引に弟子にする。師弟は長屋の2階で極貧生活。長楽は隣家の長山藍子に惚れているが、藍子は芸者をしながらヤクザな兄(荒井注)や妹を養っている。その藍子に危機が訪れ、メンバーはそろって箱根へ押しかける。そこでのハチャメチャが、真打昇進を決めるため同じ箱根の旅館にきていた円生師匠と小さん師匠に見つかってしまい…。せっかくの昇進話はチャラになり、かえって弟子だった茶楽(加藤茶)が先に売れ始めてしまう…。もちろん、他のメンバー、高木ブー、仲本工事の役もあって、五人が「全員集合」である。(まだ志村けんはメンバーではない時期。)

 円生師匠は怒ってしまって、「お前の真打昇進は取り消しだ」と宣告するのだから、もちろん怒って協会を飛び出したりしない。だから、全然「予見映画」ではなかったけど、円生と小さんが出てくるという意味では貴重なフィルムだろう。ドリフの映画は実は初めて。というか、男はつらいよシリーズも松竹の劇場で見たことがない。東宝や東映も似たようなもので、日本映画の新作は池袋の文芸地下や銀座の並木座で見ていた。ドリフ映画は作品的には評価されず、ほとんど名画座には下りていないはず。東宝は60年代初めからクレージーキャッツの映画シリーズ(「日本一」シリーズなど)を営々と作り続けていた。それに対して、ドリフターズ映画は松竹がほとんど作っている。(東宝にも5本ある。)

 しかし、こういうシリーズはグループ全員に役を割り当てなければならず、ストーリイ展開に無理が出てくる。東宝クレージーシリーズは、そのアナーキーなまでの能天気ぶりが後に評価されていくが、ドリフ映画はなんだかちょっと設定が暗く、展開も(この映画を見る限り)ちょっとまだるっこしい。その意味では、やはり今となっては面白さはあまり感じられない。ドリフターズは長い間テレビで大人気だったから、公開当時はスクリーンに出てきただけで大喝采だったのだと思う。「男はつらいよ」シリーズの渥美清や、テレビで絶頂期の「コント55号」(萩本欣一、坂上二郎)なども、ほんとに出てくるだけでおかしかった。そういう時期が終わると、これはどうもというシーンが多くなるのはやむを得ない。

 なお、落語協会分裂騒動というのは、五代目柳家小さん会長の真打ち量産に対して、前会長の6代目三遊亭圓生が反対して、その問題が尾を引いていて、1978年に圓生一門が協会を脱退した事件である。一時は立川談志、古今亭志ん朝も含めて大問題となったが、結局席亭の賛成が得られず、圓生一門が「落語三遊協会」を結成した。その後、圓生の没後も弟子の5代目三遊亭圓楽をリーダーにして協会に復帰せず、圓楽没後も「円楽一門会」として活動している。その後、立川談志も協会を脱退、「落語立川流」を立ちあげ、東京では「落語芸術協会」を合わせて4派体制となっている。(円楽一門と立川流は寄席の定席には出られない状態が続いている。)
(中央=圓生、右=小さん)
 「昭和の名人」が出てくる劇映画としては、桂文楽(8代目)が千葉泰樹監督「羽織の大将」(1960)に出ている。落語家を目指すフランキー堺の師匠役で、桂文楽の高座姿もたっぷり出てくる。一方、並び称される古今亭志ん生(5代目)は島耕二監督「銀座カンカン娘」(1949)に落語家新笑役で出ている。落語家の家に、高峰秀子と笠置シヅ子が下宿するという設定で、志ん生の落語も出てくる。一方、落語家役ではなく一般映画に出ていることも結構あり、有名漫画の映画化「博多っ子純情」(1978、曽根中生監督)には桂歌丸桂米丸が出ている。また、市川崑監督版「細雪」には、四女の恋人(の一人)役で桂小米朝(現・5代目桂米團治)が出ている。直接の落語映画以外にもかなり出ている。

 ところで、フィルムセンターの特集は、「生誕百年 木下忠司の映画音楽」である。木下恵介監督の実弟で、兄の作品「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」などの音楽を担当している。同じ姓だから関係あるのかなと思っていて、いつの時からか兄弟だと知った。兄の関係から松竹映画が多いが、その後見ていると東映映画も結構担当していることを知った。藤純子引退映画である「関東緋桜一家」などで、へえと思った記憶がある。今回「生誕百年」ということだが、まだ存命で先にフィルムセンターを訪れた時のことが、共同通信の立花珠樹さんの記事で紹介されてビックリした。
 今回紹介した「春だ ドリフだ 全員集合!!」は、6月10日(金)夜7時にもう一回上映がある。
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「日本文学100年の名作」を読む③

2016年05月22日 22時01分30秒 | 本 (日本文学)
 新潮文庫の日本文学名作シリーズ最後の3回目。今回は1巻目から5巻目まで全部扱いたい。対象が長いから簡単に。時期で言えば、1914年から1963年になり、日本がまだ戦争や貧困と向き合っていた時代になる。それを反映してか、個人による強烈な争いの話が結構ある。社会のあり方が大きく違い、今では理解しにくい話もあるが、巻末の解説が役に立つ。また、有名な作品もかなり収録されていて、昔読んだものも多い。第2巻など、15編中7編を読んでいた。まあ、二度読んでもいじゃないかと思って、思い切って全部読んだわけである。
    
 第1巻、表題作「夢見る部屋」は宇野浩二だが、長くてよく判らない。一番最初は荒畑寒村「父親」。社会主義運動家として知られた寒村だが、小説を書いていたとは珍しい。東京がまだまだ開けていなかった時代の感覚が興味深い。次が森鴎外「寒山拾得」だが、最後が江戸川乱歩「二銭銅貨」で、鴎外と乱歩は作品で言えば同世代に入るのかと驚いた。一番すごいのは谷崎潤一郎「小さな王国」か。子供の世界の「権力構造」を描いて、今も生々しい。さすがに大谷崎だと感服する。でも収穫は長谷川如是閑「象やの粂さん」で、ジャーナリストとして知られる如是閑が小説を書いていたのかと新鮮だった。しかも、なかなか面白く、それも下町感覚で「華族」の世界を描いているから、大正時代の小説という感じ。「象や」って何だろうと思うと、ホントに「象屋」の話でビックリ。稲垣足穂「黄漠奇聞」は知ってると案外つまらなかった。他に内田百、佐藤春夫、宮地嘉六、芥川龍之介。

 第2巻、表題作「幸福の持参者」加能作次郎(1885~1941)という人の作品。名前も知らなかった作家だが、貧しい若夫婦が妻の買ってきたコオロギをきっかけに心揺れるという、小さな話が心に沁みる。知らないことは多い。梶井基次郎「Kの昇天」林芙美子「風琴と魚の町」堀辰雄「麦藁帽子」は定評ある名編だから読んでる人も多いだろう。しかし、二度読んで、まったく古びていないのには感心した。島崎藤村「食堂」水上瀧太郎「遺産」は関東大震災後の東京を舞台にしていて、世相史として忘れがたい。でも、今回の収穫は広津和郎「訓練されたる人情」という風俗小説。東京中野区の新井薬師周辺という「場末」の風俗模様を丁寧に描いて感銘を呼ぶ。戦後の松川裁判批判や初期の「神経症時代」などを読んでいるが、広津がこれほどうまい小説家だったとは知らなかった。他に中勘助、岡本綺堂、黒島伝治、夢野久作、龍胆寺雄(初めて読んで今も新鮮でビックリ)、尾崎翠、上林暁、大佛次郎を収録。(尾崎翠は何度読んでもよく判らん。)

 第3巻、表題作「三月の第四日曜」は宮本百合子の作で、日中戦争の時代に地方出身の姉弟を見事に描き出した好編。中山義秀「厚物咲」は前に読んでいるが、強烈な争いを描く芥川賞受賞作。こういう作品は今はないのではないか。驚きは石川淳「マルスの歌」で、初めて読んだんだけど、こういう「前衛的反戦小説」があったのか。初めてといえば、私小説作家川崎長太郎「裸木」は小田原の花柳界を描いているが、出てくる映画監督のモデルが小津安二郎だというから驚きである。岡本かの子「鮨」は、同名作が阿川弘之にもあり比較すると面白い。尾崎一雄「玄関風呂」のとぼけもおかしく、萩原朔太郎「猫町」も何度読んでも不可思議な魅力でいっぱい。他に武田麟太郎、菊池寛、幸田露伴、海音寺潮五郎、矢田津世子、中島敦を収録。

 第4巻、表題作「木の都」は織田作之助の作品で、だから題名からは意外だが大阪の話。川島雄三監督のデビュー作「還って来た男」の原作である。坂口安吾「白痴」太宰治「トカトントン」のような戦後文学史に名高い作品もあるが、今回読んだら「知ってると意外感がない」と正直思った。知っててもすごいのは、島尾敏雄「島の果て」長谷川四郎「鶴」の方。この巻は15作中、なんと9作を読んでいたので新鮮さに乏しい。そんな中で、戦後すぐというのに戦争ではなく「老人問題」を扱った永井龍男「朝霧」の先見性が興味深い。こういうのを読むと、日本文学は奥が深いと思う。最近再評価の声がある獅子文六「塩百姓」も庶民の実像を描いて驚くような小説。他に豊島与志雄、永井荷風、大岡昇平、井伏鱒二、松本清張、小山清、五味康祐、室生犀星を収録。

 さて、ようやく最後の第5巻、表題の「百万円煎餅」三島由紀夫作。浅草での若夫婦の様子を描いていくが、最後にアッというオチがある。まあ、本格的小説というよりコント的作品。ここで一番の収穫は、芝木好子「洲崎パラダイス」で、これも川島雄三監督の名作の原作。読んでみると筋書きはほぼ映画と同じなのに、かえって驚いた。芝木好子は東京の下町を描いて定評があるが(府立第一高女の卒業)、実に丁寧な描写に小説を読んでいるという感銘を受ける。梅崎春生「突堤にて」佐多稲子「水」などは前に読んでるけど名編。初めて読んだ作品では、吉田健一「マクナマス氏行状記」有吉佐和子「江口の里」森茉莉「贅沢貧乏」河野多恵子「幼児狩り」など、様々な小説世界があることにちょっと驚く。社会全体の変化があるのだろう。山本周五郎「その木戸を通って」も前に読んでいるが、こんな小説だったのかとあらためて思った。記憶喪失を時代小説に生かした話で、桐野夏生「柔らかな頬」、村上春樹「スプートニクの恋人」など、「解決がない小説」に僕も違和感がなくなったからか、非常な感銘を受けた。他に、邱永漢、星新一、井上靖、山川方夫、長谷川伸、瀬戸内寂聴を収録。

 さて、最後の山川方夫「待っている女」という小説で、若夫婦が妻が出て行って、夫の方が食べるものにも困るというシーンがある。村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭で、平日の昼間に男がパスタを茹でているシーンがあり、ある批評家がリアリティがないと言ったけど、まさに自分の日常と村上春樹が書いている。山川方夫は都会的な小説家と言われているが、その作品に出てくる男は女がいないと食事も作れない。半世紀前の男はなんとも情けない。まあ、コンビニもスーパーもないとはいえ、一食ぐらい自分で作れないもんかと思う。時代を感じるというのは、そういうところなのである。作家が意図していたことではない、「細部」に時代が反映する。そういうところを発見するのも、読む楽しみだろう。とにかく、日本文学の100年、戦争と貧困から、様々な技法の冒険もはさみ、人間の「心の闇」、人間関係の「奇妙な悩み」に焦点が移ってくる。読んでいて、日本社会の変遷を思いながらも、同時に「人間の不可思議」が最後に残る。
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「日本文学100年の名作」を読む②

2016年05月21日 23時00分49秒 | 本 (日本文学)
 新潮文庫の近代日本の短編アンソロジーを読む話、2回目。今回は第6巻の「ベトナム姐ちゃん」、第7巻「公然の秘密」、第8巻「薄情くじら」を取り上げる。小説が発表された時代は、1964年から1993年になる。「高度成長」と呼ばれ、日本社会を大きく変えた時代だが、作家の心は必ずしもその時代に生きているわけではない。生活が安定すればむしろ戦争や極貧の時代を思い出すのが人間の心なんだろう。表題作は、「ベトナム姐ちゃん」は(読んでなかったけど)多分野坂昭如だろうと思ったけど、残り二つは判らない。「公然の秘密」は安部公房、「薄情くじら」は田辺聖子だった。
  
 第6巻は川端康成「片腕」大江健三郎「空の怪物アグイー」司馬遼太郎「倉敷の若旦那」の3作が冒頭に並んでいる。前の二つは読んでるけど、何十年も前だからどんな話だったかなあ。この3つで172頁もある。ズシリと重いものを読んだ感じがした。川端、大江、司馬の名前を知らない人は多分いないと思う。少しぐらい読んでる人が多いかとも思う。でも、ちゃんと読んでるかと言われると、いやあと答える人の方が多いんじゃないか。川端は「伊豆の踊子」なんかしか読んでない人だと、この「片腕」のシュールぶり、ほとんどホラーかSFかというファンタジー。それも「老い」に関してまったく古びてない小説にはビックリするしかないだろう。いやあ、川端康成をもう一回ちゃんと読み直したくなった。

 すごいといえば大江「空の怪物アグイー」も。大江健三郎って、ノーベル賞だけどなんだか小難しそうな小説だし、反原発とか護憲とか集会に出てくる作家っていうイメージの人が多いかも。でも、この瑞々しいファンタジー、というかSF? あるいは「心の闇」を見つめる青春文学?は今も力を失っていない。都会の学生のフシギ体験を描くこの小説は、村上春樹と言われても通じそうな現代性を持っている。一方、司馬遼太郎って竜馬とか新撰組、あるいは戦国大名など大河ドラマみたいな小説を書いた人と思ってる人も多いだろう。でも「倉敷の若旦那」は、地方に生まれ時代に翻弄され、利用されるだけ利用されてポイされた男を描く中編で、今に通じるすごい話。初めて読んで、その現代性に驚いた。ここまで読むだけでモトをとれた気がするが、次が軽い軽い和田誠「おさる日記」で、よくこんな小説知ってたなあと思う、超フシギ小説が入っているのが、このシリーズのすごさなのである。

 木山捷平「軽石」に続いて、野坂昭如「ベトナム姐ちゃん」はベトナム戦争で米兵がいっぱいいた時代を舞台の、実に強烈な「娼婦小説」で、これが小説というもの。小松左京「くだんのはは」は、第一巻収録の内田百「件」(くだん)を受けていることが最後にわかる。「九段の母」かと思うと、うっちゃり。陳舜臣、池波正太郎などをはさみ、古山高麗雄「蟻の自由」安岡章太郎「球の行方」と戦争世代の話。そして最後に、野呂邦暢「鳥たちの河口」。1980年に42歳で急逝した芥川賞作家で僕は大好きだった。長崎県にずっと住み、これもうっくつをかかえて故郷諫早湾で鳥の写真を撮っているカメラマンの話。この中で一番「現代」を感じさせる傑作である。とここだけで長くなってしまったけど、実に読みごたえがある一巻だと思う。

 第7巻は筒井康隆「五郎八航空」から始まる。筒井康隆がちゃんと選ばれているのが、このシリーズの特徴でもある。柴田錬三郎、藤沢周平、井上ひさしなど直木賞作家の作品も入っている。でも、僕が一番驚いたのが、円地文子「花の下もと」。一つも読んでない作家だが、この歌舞伎界の裏面を描く小説のすごみには正直ビックリした。富岡多恵子「動物の葬禮」という大阪の庶民を描く小説もぶっ飛んでいる。在日朝鮮人の生活を描いた李恢成「哭」と比べると面白い。僕の大好きな田中小実昌「ポロポロ」というすごい小説もお忘れなく。表題の安部公房も不思議系。他に三浦哲郎、神吉拓郎、色川武大、阿刀田高、遠藤周作、黒井千次、向田邦子、竹西寛子を収録。

 第8巻。「薄情くじら」って何だろうと思うと、昔はよく食べていた鯨は今いずこという話で案外期待外れ。それよりこの巻には、とんでもない小説が入っている。近代日本文学史上、あるいは近代とか日本とかいう限定はいらないかもしれないぐらい、ぶっ飛んでいる。尾辻克彦(赤瀬川原平)の「出口」である。えっ、こんなのありかと思うけど、捧腹絶倒。「出口」の話である、確かに。それ以上はここで書かないけど、単なるアイディア勝ちという以上の確かな筆力も認めるべきだろう。もう一つすごいのは、大城立裕「夏草」。沖縄返還以前に芥川賞を受けた作家だが、読んでない人のほうが多いと思う。沖縄戦が悲惨な戦争であったことは、歴史事実としては誰でも知っているだろうが、1993年のこの作品は半世紀近く時間がたって初めて書ける話ではないか。これが小説だ、人生だ、戦争だという感銘が静かに心に満ちてくる。それに比べると阿川弘之「鮨」って何だろ。嫌な話だなあ。

 冒頭に深沢七郎「極楽まくらおとし図」が掲載されている。発表当時に読んでいるが、愕然というか、これは何だろうと思う。小説を超えた「何か」。近代を超えた「何か」。ストーリイとかテーマとか、そういう分析をバカらしく思わせる、とんでもない場所から発せられた声であると思う。開高健「掌の中の海」は、早い晩年の「珠玉」から取られているが、戦後の最も重要な作家のひとりだと思うから、初期短編や長編、ベトナム戦争ものなども読んでほしいと思う。最近も60年代東京のルポなどが再発見されている。他に、最近映画化が続く函館出身の作家佐藤泰志、高井有一、隆慶一郎、宮本輝、山田詠美、中島らも、宮部みゆき、北村薫の作品を収録。

 こうしてみると、日本の小説は日本の現実から発しているけど、実にさまざまの言語表現があると思わせられる。いや、その豊かさにビックリとも言える。これらの作家を読んで、気に入った作家があればほかの作品も読めばいい。皆で読みあってもいいし、このぐらい読んで得した気分になるシリーズはめったにないと思う。そして、それが日本のこの100年に書かれているわけだから、興味がないなんて言わずに、このぐらいの作家はお互いに論じ合えるような「教養」になるといいなと思う。この前の巻になると、かなり時代だなあという気がする。最新の巻だと逆に知らない作家も多い。60年代から90年代の3巻は、自分が生きてきた時代だなあと思って、それも灌漑深かった。
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「日本文学100年の名作」を読む①

2016年05月20日 23時25分37秒 | 本 (日本文学)
 本の話。新潮文庫「日本文学100年の名作」全10巻。読んだのは断続的に数カ月かけて、だいぶ前に終わった。いずれ書きたいとパソコンの近くに置いてあるが、緊急性がないので放ってしまった。もうそろそろ書いて、片づけたいと思う。とにかく一冊が500頁を超えるような本だから、そんなに早く読めないし、時々飽きてくる。だけど、このシリーズは時間をかけて全部読む価値がある。

 新潮文庫は1914年に創刊された。あ、岩波文庫が最初じゃないのか。調べてみると、ギヨオテ『ヱルテルの悲み』とか、ダスタエーフスキイ『白痴【一】』とかが第一回刊行作品。なんとも時代がかった表記が面白い。ということで、2014年が創刊100年である。それを記念して、池内紀、川本三郎、松田哲夫という「読み巧者」3人がセレクトして、100年の名作を10年ごとに集めて、全10巻に収めたものがこれである。岩波文庫「日本近代短編小説選」全6巻があるが、対象とする時代が違う。岩波版は明治から1960年代まで。作家でいえば、坪内逍遥に始まり三島由紀夫で終わる。

 新潮版は当然明治は全然入らず、岩波が終わった後の時代が半分ぐらいある。その他に大きく二つの違いがある。岩波版は「純文学」のみを対象にしているが、新潮版は「大衆文学」も入っている。江戸川乱歩、岡本綺堂、夢野久作、海音寺潮五郎などが戦前の巻に入っている。戦後の巻になると、もっと有名な作家が様々にセレクトされていて、純文学系と一緒に読むと、なかなか興味深い。

 以上は内容の問題だが、それ以上に大きな違いは、何しろ新潮版は字が大きいのである。岩波文庫より格段に大きく、これなら今はもちろん、もう少し歳がいっても楽しめそうである。選者も岩波版に配慮して、同じ作品は選ばれていない。だから両方買っても損にはならない。僕は岩波も持っているけど、第一巻の明治中頃が面倒そうで、まだ読んでない。新潮文庫を先に読んだわけ。

 選ばれた作品は発表年代順に並んでいる。初期作品が選ばれた作家もあれば、晩年の作品が選ばれた作家もいる。川端康成で言えば、岩波は「葬式の名人」(1923)を選んで大正の巻、新潮は晩年の「片腕」(1964)を選んで第6巻に収録、と時代が大きく違う。永井荷風も岩波は「深川の唄」(1909)で「明治篇2」に、新潮は「羊羹」(1947)で戦後の作品。佐多稲子も岩波がデビュー作「キャラメル工場から」(1928)、新潮は「水」(1962)と書かれた年代が大きく違う。こういう風に、両方を読み比べると、近代日本文学をより深く感じられるという気がする。

 もう一つ、これは偶然でもあるが、新潮文庫の時代区分が日本社会の変遷をうまく映し出しているのである。1914年から数えるのだから、第一巻は1914~1923年である。この1923年は関東大震災の年だから、第2巻には震災の東京を描く作品が多い。第3巻は1934年~1943年だから、日中戦争から太平洋戦争の時期にほぼ重なる。第4巻は1944年~1953年と、敗戦から占領時代にほぼ同じ。第6巻の1964年~1973年というのも、東京五輪の年から石油ショックの年に見事に重なり、「高度成長の光と影」の時代。もちろん選ばれた作品は世相を描くものばかりではないが、何となく時代を反映しているのも間違いない。そして、第9巻は1994年~2003年になるわけで、阪神大震災とオウム真理教事件で、日本社会が大きく変わった「現代日本の始まり」にぴったり重なる。実際に読んでみると判るだろうけど、それまでの巻と違い「バブル崩壊後」の現代日本を読んでるなあ、これは同時代だなあという感じが身に迫ってくる。この時代区分が予期せざる効果を上げている。

 そういうことを踏まえて、僕はこの長大なアンソロジー(選集)は3つの読み方があるように思った。僕は第1巻から順番に読んだけど、近代史にそんなに詳しくない人は、むしろ後ろ半分、つまり第6巻から読むというのもありではないか。なぜならば、現代日本の社会生活は「高度成長以後」のスタイルであり、まさに現代小説という感じがする時代を読むのがいいのではないか。もう一つは第9巻、10巻を最初に読むやり方。つまり、「現在を読む」ということである。最近だからこそ、多くの人には読んでない作家が一番多いかもしれない。最初の方が教科書に出ているような有名作家が多く、最近になるとまだ定評がない作家が並んでいるとも言える。逆に言えば、「発見」がある時代でもある。

 ということで、ここでは最後の2巻をまず取り上げる。第9巻「アイロンのある風景」、第10巻「バタフライ和文タイプ事務所」。題名だけではわからない人がほとんどだと思うが、前者は村上春樹、後者は小川洋子の短編である。村上春樹の作品は、阪神大震災に何らかの関係のある作品を集めた「神の子供たちはみな踊る」に入っている。2回読んでいるんだけど、名前を見ただけでは忘れていた。非常にうまい作品。重松清「セッちゃん」も直木賞作品「ビタミンF」に入ってるから読んでるんだけど、細かいことは忘れていて、ものすごくドキドキしながら読んだ。「いじめ」を正面から描いた作品で、日本はどうなってしまったのかと思う。
 
 一方、この巻にたまたま老作家夫妻の作品が選ばれている。吉村昭「梅の蕾」津村節子「初天神」である。この両作品は時代色で言えば、少し昔の感じが残っている。「初天神」もいいけど、僕は吉村昭「梅の蕾」は今回読んで一番の感動作だった。吉村作品は歴史ものを中心にたくさん読んでいるけど、これは初めて。へき地の村長が無医村解消に奔走する話だけど、読み終わって涙を流さない人はいないのではないだろうか。電車で読んでいて困ってしまった。こんな小説、というかこんな話が、現代日本にありえたのか。有名な浅田次郎「ラブ・レター」のうまさにも確かに感動するけれど、僕は「梅の蕾」に素直に心動かされた。辻原登「塩山再訪」川上弘美「さやさや」と僕の好きな作家の不思議な作品もあるが、それより堀江俊幸「ピラニア」は、それを含む短編集「雪沼とその周辺」という大傑作にある名品で、まだ読んでない人はぜひ味わってほしい名品。

 他に林真理子「年賀状」、村田喜代子「望潮」、新津きよみ「ホーム・パーティ」、吉本ばなな「田所さん」、山本文緒「庭」、小池真理子「一角獣」、江國香織「清水夫妻」、乙川優三郎「散り花」という作品を収録。気になっててるけど読んだことがない作家、あるいは名前も知らない作家も入っているかな。

 長くなったので、最後の10巻は簡単に。まず表題になった「バタフライ和文タイプ事務所」がすごい作品で、久しぶりに小川洋子を読んではまってしまった。こんな小説を書いていたのかという感じ。「言葉の官能性」を突き詰めた作品。まったくタイプは違うけど、桐野夏生「アンボス・ムンドス」はものすごく怖い。平常心で読めない。別にホラーじゃないですよ。教師をめぐる「ある設定」が凄すぎるのである。前にも読んでたけど、あらためて驚愕する作品。初読作品では、恩田陸「かたつむり注意報」の不思議な世界、角田光代「くまちゃん」の恋愛小説の書き方、ほっこり感がとてもいい。

 この巻が一番「エンタメ系」が多く、まだ評価が定まっていない時代だからこそ、「うまさ」で現代を切り取る小説が多いように思う。作家名だけ書いておくが、吉田修一、伊集院静、三浦しをん、森見登美彦、木内昇、道尾秀介、桜木柴乃、高樹のぶ子、山白朝子、辻村深月、伊坂幸太郎、絲山秋子の作品を収録。これらの作家を全部読んだという人は多分いないのではないか。大体、山白朝子って人、知らないし。一番近年の作品集は、実は全部面白いとは思わなかった巻である。でもそれを含めて、こういう小説が今書かれているのかということが判る。小説の世界は深いなあと思うわけである。この2巻でまず、現代日本を感じるのもいいか。続いて昔にさかのぼって書きたい。
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映画「スポットライト」その他

2016年05月19日 21時31分56秒 |  〃  (新作外国映画)
 ちょっと体調を崩していたが、ようやく新作映画をいくつか見た。最近は落合散歩記を書いていたが、これは連休ごろに歩いたところを、家にいるから最近まとめていたもの。まずは今年のアカデミー作品賞スポットライト 世紀のスクープ」。作品賞と脚本賞を取り、監督、編集、男女助演賞にもノミネートされた。これはなるほどと納得できる結果で、編集リズムの冴え、演出の魅力を存分に味わうことができるが、やはり一番の功績は素晴らしい脚本にある。ジョシュア・シンガーと監督を務めたトム・マッカーシーの共同脚本。ジョシュア・シンガーはテレビで活躍してきたらしく映画は2本目だが、複雑な内容を巧みにつないでいく作法はシナリオのお手本を見る感じがする。(撮影をアメリカで活躍するマサノブ・タカヤナギが担当している。「ブラック・スキャンダル」などを撮った人。)

 内容は割と知られていると思うが、ボストンの地元紙「ボストン・グローヴ」にユダヤ人の上司が赴任してくる。そして、特報担当部門「スポットライト」担当の記者4人に、ボストンのカトリック教会で児童虐待が相次いでいる問題を取り上げてはと提案する。ボストンは圧倒的にカトリックが多く、教会は不可侵の存在と思われていた。今までも個々には取り上げたことがあるが、どの事件も大事にならず示談になっていた。問題神父は「病気休職」などとして教会を離れ、少しすると別の教会に転任して再び事件を起こす。これは個別の神父の問題ではなく、カトリック教会の「隠蔽の構造」こそ調査報道するべきではないのか。かくして、被害者の証言を集め、被害者側や教会側の様々な弁護士に会い、情報公開を求め、事実が「点」から「面」になりかかるころ、2001年9月11日が訪れる…。

 この大スクープは世界に反響を呼び、カトリック教会も対策をとらざるを得なくなった。そのことは当時日本でもかなり報道された。「ボストン・グローヴ」なんて新聞名は覚えてないけど、この問題は記憶している。大体、成功したスクープだから映画化されるわけで、なんだか「プロジェクトX」みたいな感じがしてくる。そこがこの映画の弱点だと思うけど、昔から結構はずれが多いアカデミー作品賞の中では、かなり納得できる出来だと思った。とにかく複数の関係者の人間的葛藤をうまくつないでいく脚本の冴えが圧倒的に面白かった。(英語のセリフが案外判りやすく、なるほどこういう言い回しをするのかといった勉強にもなる。)

 ボストンも村上春樹のエッセイで読むとすごくいい町なんだけど、「ミスティック・リバー」やこの映画を見ると、どの町にも暗部があるんだなあと思う。アメリカの宗教や人種の機微もよく描かれている。アルメニア系の弁護士が孤独を訴えたり、ユダヤ人だからカトリックの暗部を追求できるんだとか、21世紀になっても「人種」が影響を与えていることが判る。児童虐待というか、要するに性犯罪なわけだが、サヴァイヴァーの様々な人生も感銘深く描かれている。アメリカは今でも珍しいほど宗教的な社会だが、日本のような基本的には世俗的な社会だとこのテーマは多少わかりにくい。だけど、「隠蔽の構造」という意味では、日本でも、あるいはどこの国でも共通のものがあるだろう。

 カトリックの聖職者は独身を義務付けられているが、映画の中で出てくる研究者はそれが問題の根源だと言っていた。そうすると、日本では親鸞が妻帯して以来、僧も妻子があることが常識化していったのは、どう考えるべきなんだろうか。「家」構造の形成以来、寺も後継者としての子供がいないと困るということになる。だけど、禅宗などには修行のために「女色を断つ」ことを評価するタテマエがあったようだ。そこから生じる偽善を寺で見ていたのが、作家の水上勉。水上原作、川島雄三監督の映画「雁の寺」では破戒僧を三島雅夫が演じ、その愛人を若尾文子が演じて圧倒的だった。また水上原作、久松静児監督の「沙羅の門」という映画では、森繁久彌が内妻と子供まで持ちながら、正式な結婚をしなかったというだけで、「独身を通した」と宗門から評価されるという偽善の極みを描いている。ちょっと違うけど、世界で「宗教者と性」という問題は存在するのかもしれない。

 イタリアのパオロ・ソレンティーノが英語で作った「グランド・フィナーレ」。マイケル・ケイン、レイチェル・ワイズ、ハーヴェイ・カイテルなど世界的なキャストで作られているが、映画全体としては物足りない。だけど、この映画ほど美しい映像美を堪能できる映画も珍しい。ソレンティーノの前作「グレート・ビューティ」も僕は好きで、美しい映画だった。スイスのリゾートホテルに住む老齢の世界的音楽家の物語。そのホテルはトーマス・マンが「魔の山」を執筆したところで、往時のまま変わっていないという。そのクラシカルな趣とアルプスの山々がほんとに素敵で、行けないだろうから映画でまた見たい。

 夢枕獏が書いた山岳小説の大傑作「神々の山嶺(いただき)」が「エヴェレスト 神々の山嶺」として映画化された。原作は刊行当時に読んだけど、もう忘れてしまった。山岳映画というのは時々あるけど、これは日本で作られた山岳映画の最高傑作ではないか。ただし「山岳映画」というジャンル映画として。木村大作の「剱岳 点の記」などより僕はいいと思う。だけど、それは阿部寛演じる羽生(はぶ)という強烈なキャラクターの故である。これほど独特で個性が強い人物は日本映画でほとんど記憶がない。どうやって撮ったのだろうと思うシーンの連続だが、ヒマラヤの映像は圧倒的迫力。ただし、映画全体としては、まとまりのよい娯楽映画に仕上げてしまってあるのが残念。平山秀幸監督。

 山岳映画というジャンルは、ドイツのアーノルド・ファンク(日本で「新しき土」を作った人)以来、時々現れる。最近では「運命を分けたザイル」とか「アイガー北壁」などが出色だった。日本では新田次郎原作の「八甲田山」「剱岳 点の記」「などが思い浮かぶが、谷口千吉「銀嶺の果て」が良い。山の雄大で神秘的な映像は、映画の大スクリーンで見るにふさわしく、山に賭けた男たちの情熱を映し出す。また犯罪者が逃げ込んだり、遭難に巻き込まれたりとドラマを作りやすい。「妻は告白する」とか「氷壁」とか「黒い画集 ある遭難」とか。篠田正浩「山の讃歌 燃ゆる若者たち」という隠れた名作もある。後藤久美子主演「ラブストーリーを君に」というのもあったな。でもまあ、山は実際にナマで見るほうがもちろん感動的である。月山頂上小屋で泊まった時に見た、東北のあちこちの山が雲海に浮かぶさまなど今も思い浮かべる。大雪山黒岳からトムラウシへの縦走とか忘れがたい山行も多い。

 松田龍平と前田敦子のとぼけ演技が楽しい「モヒカン故郷に帰る」。案外面白かった。前田敦子はこの手の役は、相当うまい。沖田修一監督は、若いのにオリジナル脚本を何本も作るのはえらい。でも、やっぱりまだパンチが不足しているかも。
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公園・寺社・坂のある町-落合散歩③

2016年05月18日 21時42分24秒 | 東京関東散歩
 東京は「東京砂漠」で、緑に恵まれない、潤いのない町だと昔はよく言われていた。確かに一人当たりの公園面積は、ロンドンやニューヨークに比べて非常に少ない。でも、人口密度が濃密なアジアの都市は事情が少しばかり違う。それに東京にも案外寺社が多く、そこに緑もあれば休息できる環境もあって、散歩していると適度な間隔でのんびり休める。捨てたもんじゃないなと思うようになった。特にこの落合近辺は公園や寺社が多い。新宿からごく近いのに、ちょっと遠出した感じになれる。 

 西武新宿線下落合駅から北へ、川と道路を超え奥へ行っていくと、なんだか緑の多い場所が現れる。都会の中にこんな場所があるのかと思うのが、薬王院というお寺。長谷寺から譲り受けた牡丹の花が有名だというが、訪ねた時にはもう終わっていた。(写真の最初2枚。)薬王院のすぐ隣に「落合野鳥の森」があり、そこからもう少し歩くと「おとめ山公園」。その近くに「氷川神社」がある。明治までは薬王院が別当寺だった。旧下落合村の鎮守社だったという。(写真3枚目)
  
 さて、そのあたりは北へ向かって目白台地が広がり、いくつもの坂道がある。少し登ると「おとめ山公園」。この名前は「乙女」じゃなくて「御留」が由来。各地によくあるけど、江戸時代に樹木の伐採や鳥獣の捕獲が禁じられていたという意味である。ここは将軍の狩猟地で、明治以後は相馬家の庭園になっていた。戦後になって近隣住民の要望を受けて新宿区が整備し、1969年に開園した。自然湧水もあるということで、これが「武蔵野の面影」かと思うほど自然が残っている。近くの住民も子供連れでたくさん訪れていた。山手線のすぐそばにこれほどの自然が残されていたのか。穴場的な場所。
   
 他にも公園としては、中村彝アトリエ記念館の隣に「下落合公園」、聖母坂の西には「西坂公園」や「かば公園」があり、今回歩いていない西武線の南側には「せせらぎの里」や「落合中央公園」という広い公園もある。そして、その合間合間に、坂道の角に小さな神社が置かれていたりする。いかにも古い町らしく、歩いていて楽しい。電車で一区間ほどだから、それほど広い地域ではない。そこに1回目、2回目で書いた施設などもある。結構濃密。まずは「下落合公園」と「かば公園」。
  
 次は神社編。下の写真の最初から、目白駅そばの「豊坂稲荷神社」、そのすぐ下にある小さな神社「市来嶋神社」、下落合公園から聖母坂に向かう途中にある「大六天」、そして薬王院に向かう途中にある「下落合弁財天」。どれも小さく、永井荷風が喜びそうな社ばかりである。
   
 それにしても坂道が多い。目白から高田馬場方向へ、ぐっと落ち込んでいる。その合間に住宅街が広がり、なんだか面白い建物がある。記念館や寺社ではない、人が住んでいる建物はなかなか撮りにくいし、撮っても後で見ると案外面白くない。でも、下の写真のマンションは載せておきたい。コロセウムみたいな、あるいは新国立競技場がこんな感じだったかも。でも、多くのところは2枚目の写真のような住宅街である。そして、歩いていると、坂道に出る。「下落合野鳥の森」周辺の坂はこんな感じ。
   
 最後にあちこちの坂の写真をずらっと。最初から、「聖母坂通り」、「霞坂」、「西坂」、「七曲り坂」。西坂や七曲り坂はかなり長くて、この上に行くとずいぶん急傾斜になる。そういうところに坂の名前は付いてない。道の下にある坂の名を入れて写真を撮らないと、何しろ多いからどこを撮ったか忘れてしまう。坂はこの3倍ぐらいあるし、もっと小さな名も付いてない坂もある。暮らすほうも大変だと思う。撮った写真を全部載せても仕方ないだろうから、この辺で落合散歩はおしまい。 
   
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目白文化村と近衛町-落合散歩②

2016年05月17日 23時02分33秒 | 東京関東散歩
 落合のあたりは、アパート地帯のようなイメージがあったのだけど、実は高級住宅街である。ただし、落合じゃなくて「目白」を付けることが多い。確かに山手線目白駅の近辺ではある。でも、地名としての「目白」は豊島区にある。またよく混同される「目白台」(田中角栄邸があった)は文京区。もとは「目白不動」から来る地名である。ここで言う「目白文化村」とは、大正末期から昭和初期にかけて、西武鉄道グループを築いた堤康次郎が中落合一帯に開発した高級住宅街のことである。

 この地域は、東京大空襲で大きな被害を受け、また道路建設で寸断された。今は東西に目白通り、新目白通りが通り、南北には山手通り(環状6号)が通っている。長年の間には世代交代が進み、広い邸宅を維持することが難しくなる。だけど、いまでもかなり広い家があるし、また再開発された場所も高級マンションや企業の寮などが多いようだ。そんな中で僕が見つけたかった家がある。

 それは石橋湛山邸である。石橋湛山(1884~1973」は戦後に短期間総理大臣を務めた人物である。しかし、病気で2か月で退陣した。今ではむしろ戦前のリベラルな言論活動で記憶されている。「東洋経済新報」に拠り、大正から日米戦争前まで戦争反対、植民地放棄を訴え続けた。それも左翼思想や情緒的な反戦論ではなく、一貫して「経済合理主義」に基づいて軍部を批判した。そういう人がこのような新興の住宅街に居を構えたというのも興味深い。

 さて、その石橋邸の場所だが、中落合二丁目の交差点からほど近いところにある。西側にある「坂上通り」を上がって何回か曲がると、割と大きな家が並ぶ一角がある。別に資料館などになっているわけではなく、現に石橋家が住んでいる住宅なので、それ以上細かいことは書かない。中も見られないが、数年前の東京新聞「政地訪問」という企画記事で取り上げられ、その時に湛山の使っていた部屋の写真が掲載されていた。通りから撮った写真を3枚ほど載せておく。
  
 石橋邸の周りには大邸宅が今も多い。写真では壁しか映りそうもない家が。だから、そのあたりは通り過ぎ、さほど遠くない場所にある「延寿東流庭園」へ。区のガイドには「目白文化村の面影が残る」とあるけど、読み方もわからない。行ってみたら、すごく小さなお庭で、住んでいた住民が家を新宿区に寄贈して庭園として残した場所らしい。園内のある案内を見ると、島峰徹という人の家で、東京高等歯科医学校(今の東京医科歯科大学の前身)を創立し初代校長になった人だという。東流(とおる)は雅号で、「延寿」(えんじゅ)は菊のこと。徹の嗣子、東大名誉教授島峰徹郎の「目白文化村の面影を残したい」という遺志を汲み、夫人が寄贈したという話が書かれている。
  
 この一帯には多くの文化人も住んでいたが、今に残すあとが少ない。作家舟橋聖一の家が学生寮になって目白駅近くにある、また歌人、美術史家の会津八一がこの一帯に住んでいた。今は坂の途中の壁に案内板が残るだけ。中落合の落合第一小の下あたり。下の写真の右の壁に案内がある。
 
 ところで、堤康次郎がこの地を買い占める前は、近衛家、相馬家、早稲田大学などが土地を所有していたという。目白通りの北側の豊島区目白には、尾張徳川家の「徳川黎明会」があり、この一帯は華族の所有地だったのである。そのうち、近衛家の名残りは目白駅に近いところに残っている。目白駅から目白通りを少し歩き、目白3丁目で左折する。少し歩くと、道のど真ん中に大きなケヤキの木が見えてくる。これが「旧近衛邸車寄せのケヤキ」で、道をふさいでいるけど保存されたものである。近くには近衛篤麿(1863~1904)の記念碑が残っている。五摂家筆頭の近衛家に生まれ、3代目の貴族院議長だった人だが、40歳で急逝した。子供の文麿(元総理大臣)や秀麿(指揮者、作曲家)の親として知られているが、生前はアジア主義者として有名な人物だった。(4枚目は碑の裏側)
   
 この一帯は、正式地名ではないが今でも「近衛町」と呼ばれて、高級マンションの名前に使われている。その近くには見ごたえがある建物も多い。ケヤキの木の突き当りにある瀟洒な建物は、今は「日立目白クラブ」と出ている。招待者しか入れないので、外から見るだけ。ここは旧学習院昭和寮で、昭和3年に建設された。東京都選定の歴史的建造物になっている。またすぐ近くにある「目白が丘教会」も見栄えする。1950年建築のバプテストの教会。遠藤新というフランク・ロイド・ライトの弟子の設計である。遠藤は自由学園明日館をライトと共同設計した他、旧甲子園ホテルなどを設計した人。
 
 最後に「近衛町」あたりの高級マンションをいくつか。
   
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佐伯祐三と中村彝-落合散歩①

2016年05月16日 23時01分21秒 | 東京関東散歩
 東京都新宿区に落合という場所がある。山手線で目白や高田馬場の西側に広がる地域である。何で落合かというと、「妙正寺川」と「神田川」が落ち合う場所だからだという。(今は暗渠になって合流地点は判らない。)山手線の目白と高田馬場を右辺に取り、地下鉄大江戸線の落合南長崎駅と地下鉄東西線落合駅を結ぶ線を左辺に取る方形が、大体今回歩いた落合という地域になる。

 その地域の真ん中を妙正寺川西武新宿線が通っている。南の方に神田川が流れる。妙正寺川は杉並区の妙正寺池から、神田川は武蔵野市の井の頭池から流れる川である。妙正寺川の南北で地形が大きく異なり、北側の台地地帯が川に向って下っている。だから、坂道だらけの町で、東京東部に住む自分には珍しい風景だが、これもまあ東京らしい風景ということになる。

 ということで、地形の説明から始めてしまったけど、この地域は案外文化的に重要な地域だと知った。緑も多く、新宿や池袋からすぐ近くなのに(10分程度)、公園や寺社も多い。まだ散歩コースとしては、それほど知られていないと思うから、歩いてみたいと思う。まずは近代日本の有名な画家、佐伯祐三と中村彝のアトリエ記念館を訪ねてみたい。

 佐伯祐三アトリエ記念館は、佐伯祐三と夫人の佐伯米子が使っていた場所を新宿区が整備して2010年に開館した。(入場無料)実物ではないけれど、佐伯が設計したというアトリエが再建されている。奥の建物は佐伯の頃のままだという。中には佐伯の絵の複製などが展示されている。
     
 西武新宿線下落合駅を降りて、妙正寺川と新目白通りを渡ると、聖母坂通りがある。ずっと登っていくと、カトリック系の「聖母病院」と関連の福祉施設などが並んでいる。聖母病院は建物も面白いんだけど、病院を通り過ぎて少しいくと、佐伯祐三アトリエ記念館の案内が出てくる。狭い道に家が建ち並んでいる地域で、聖母坂通りから行かないと行きつくのは難しい。 

 佐伯祐三(1898~1928)はパリに学び、パリを描き、パリで客死した。パリの画家という印象が強いが、短い日本での活動はここ下落合でなされた。1921年に佐伯は池田米子と結婚し、1922年に下落合にアトリエを構えた。まだ豊多摩郡落合村と言っていた時代である。しかし、1923年にパリへ向かった。1926年に一時帰国し、1927年には再び渡仏する。そして1928年に死んだ。だから、佐伯祐三がここで創作に励んだ時間は短い。ここで書かれた落合村の風景を見ると、今と違って郊外の風景である。その時代の絵を少し載せておく。こんな感じ。
   
 何となく、パリの郊外を思わせないでもない。アトリエ一帯は公園になっていて、今は新緑も深い。緑の中に埋まっている感じの小さな施設である。土日を除けば訪れる人も少ない感じ。こんな場所があったのか。絵の好きな人はもちろん、格好の散歩コースではないかと思う。(下の写真の3枚目は聖母病院。2枚目のアトリエ内部は他のサイトから引用したもの。)
  
 もう一つ、下落合に新宿区立のアトリエ記念館がある。「中村彝アトリエ記念館」(入場無料)。中村彝(つね)は1887年に茨城県に生まれ、陸軍軍人を目指したものの結核のため断念し、画家を志した。1911年に新宿中村屋の裏に身を寄せ、いわゆる「中村屋サロン」の一員となった。しかし、相馬愛蔵、黒光夫妻の長女俊子との恋愛を反対され中村屋を去った。俊子はのちにインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと結婚したことで有名である。そして、1916年に下落合にアトリエを新築したのである。悪化する肺結核と闘いながら作品制作を続けたものの、1924年に37歳で没した。
   
 写真で見ると、郊外にある洋風の一軒家という感じだが、実は住宅街のど真ん中。日常的な風景の中を歩いていると、突然記念館が出てくるのでビックリする。昔の映画に出てくるような、郊外の瀟洒な小さな家という感じである。佐伯祐三は聖母坂の西だが、中村彝は東である。場所は目白駅から行く方が近い。目白通りを歩いて、下落合三丁目の信号で左折し、少し歩いていくと案内が出てくる。そのあたり一帯を「アートの小路」と称しているが、まあそこまでの感じではない。

 家の中はアトリエの再現になっているが、他に展示室もある。佐伯祐三より広い感じ。中村彝はずいぶん昔に亡くなっているわけだが、この場所はその後もアトリエとして使われてきたという。近年になって新宿区が中村彝の時代を再現した施設を復元し、2013年に開館した。どちらも新しい施設なので、知らない人も多いだろう。僕も最近になるまで知らなかった。中には中村彝の代表作「エロシェンコ像」(重要文化財)などの複製がある。写真の1枚目は「エロシェンコ像」。2枚目は「少女」で相馬俊子をモデルにしている。また記念館の真ん前に落合に住んだ文化人の地図が出ていた。画家では安井曽太郎松本竣介などの名も見られる。近代美術史に残る地域だったのである。
  
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家庭訪問や遠足は不要なのか

2016年05月15日 23時02分49秒 |  〃 (教育問題一般)
 教育に関する問題を続けて。朝日新聞5月10日付に、「家庭訪問や遠足いらないの?」と題する投書が掲載されている。投稿者は静岡県に住み、小学生の子どもがいる母親。その子供が通う小学校で、今年から家庭訪問や遠足がなくなったというのである。学校側の理由は「新年度を迎えた時期は、先生方が忙しく、家庭訪問の準備や遠足の下見に時間を取られると、子どもたちとじっくり話をする時間が取れなくなるからだそうだ」とある。学校側がそうした理由で説明しているのだろう。

 家庭訪問と遠足は違う問題だが、各学校で「行事の精選」が叫ばれているのは、多分日本中で共通していると思う。「授業確保」が求められ、授業も大きく変わる中で、学校の負担は非常に増大してきた。「行事」しか「とりあえず削減できるもの」がないのが実情だろう。だけど、小学校の家庭訪問や遠足は、確かにとても大きな意味を持ってきた行事だ。「子どもが主体であるべき学校において、大人の都合で物事が決まることに疑問を感じてしまう」と投稿者は指摘している。

 僕は小学校の事情はよく知らないし、静岡県の事情も判らない。だけど、この投書は現在の日本の学校のあり方を象徴しているように思われるので、ここで考えてみたい。学校、特に小学校は日本社会で長い歴史を持っている。そういうところでは、大体「恒例」で行事も決められることが多い。この変更は、どこで決まったのだろうか。どこかからの指示ではないようだから、校内で昨年来議論してきて、決められたのだろう。そこに見えるのは、「そこまでしないといけないほど、学校現場は追いつめられている」ということである。例年通りにする方が普通はずっと簡単だろう。

 学年当初の出来事として、非常に大きな意味を持つのは「全国学力テスト」である。小学校6年と中学3年で実施されている。4月半ばに行われるが、単に「学力を測る」だけでなく、事実上「学校の競争」の場になっている。静岡では知事の意向で結果の公表することを求められ、もめにもめたあげく「平均を超えた学校の校長名を発表する」となったはずである。これは現場に対する非常に強いプレッシャーで、各学校は「過去問」対策などに忙殺されるのではないかと推測できる。学年当初におちおち遠足を企画できるような状況ではなくなりつつあるのかもしれない。

 しかし、5月頃に実施される遠足だと、前の学年で企画し、下見(東京では「実踏」(じっとう)と呼ばれる)は春休みに行うことも多い。春休み自体がなくなりつつあるのかもしれないが。事故対策が大変になってきたこと、家庭の負担金を減らしたいことなどの理由が大きいのかもしれない。遠足自体も、子どもにとって昔ほど楽しい行事ではないのかもしれない。遊園地などは家族で行く方が楽しいし、勉強的な遠足では後で書く作文などが面倒。班を作って活動したりするのも嫌で、人間関係が面倒。友だち同士だけならいいけど、いい子にしてると、先生からクラスの中で孤立している子を仲間に入れてあげてと頼まれたりする。親がその日のためにと一生懸命豪華弁当を作ってくれる時代でもない。

 全体的に、教師も親も「面倒感」が高くなっているのだと思う。だが、僕は遠足は実施した方がいいと思う。子どもが皆楽しみにしているとは限らない。バスに弱い子供など、雨で中止になるのを望んでいたりする。(僕もそんな感じだった。)だけど、そういうことも含めて、教室だけでは判らない子どもの様子は、行事をやってみないと把握できない。担任が変わった場合などもあるわけで、「遠足の班作り」をやることでクラスの人間関係を見ることができる。担任にとって結構うっとうしいものだけど、PTAの役員選びと違い、まさに教員の仕事なんだからやるべきだろう。学校は一日で帰る遠足だけでなく、宿泊行事が必ずあるはず。遠足をやらずに宿泊行事を行う方が、僕は不安である。

 遠足などの行事は確かに大変。やり方を考える必要はあるだろう。毎年行く場所を決めて、学年ごとに引き継いでいく。それなら行く場所から議論せずに済み、下見もいらない。事前学習なども極力簡単にして、楽しむ(親睦を図る)ことがメインでいいのではないか。新学年になって、勉強も大変だけど、連休中に勉強してもどれだけ効果があるだろう。授業日数を曜日ごとに調べると、祝日が多い月曜が少ない。平均化を図るために、授業が多い曜日に、連休前後の季節もよく、新年度の疲れも出てきた頃に遠足を入れる意味はある。お互いを知りあう(教師も生徒も)ということで、どこかへ行く。やった方がいいような気がするけどなあ。

 一方、家庭訪問の方はどうか。その学校では、家庭訪問の代わりに「月1回の教育相談日」を設けるという。保護者との連絡、相談だけなら、学校の外へ行かずとも、保護者の方から学校に来てもらっても同じという発想か。だけど、真に問題を抱える家庭は保護者会には来ない。この「教育相談日」にも相談には来ないだろう。多分、それは判っていて、「授業確保を優先する」ということではないか。何しろ家庭訪問となると、一週間も午前中だけの短縮授業にしないといけない。

 さらに保護者の方からも「なくして欲しい」という要望があったのかもしれない。プライベートな空間に、学級担任といえども入って欲しくないという「ホンネ」はあるだろう。片付けなくちゃいけないし。オートロック式のマンションなども多くなり、生徒が不登校になって家庭訪問してもマンション自体の中へさえ入れないということも多くなった。母親が主婦だという家庭の方が少ないし、中には夜しか会えないという家もある。教師としては近い家をまとめて訪問するのがいいわけだけど、各家庭の希望を聞いていたら調整がつかないことが多い。東京では「学校選択制」を行っているから、そもそも学区外の生徒もかなりいるだろう。それでは訪問することも大変だ。

 僕も中学担任時代は毎年行っていたわけだが、確かに面倒なんだけど、家庭訪問も是非実施した方がいい。世間話をしてくるだけみたいなことも多いが、それでも「教師の研修」としては多分一番役に立つ。保護者会に来ない家とは、家庭訪問の機会しか親と話せない。家庭が抱える事情をかいま見る意味は大きい。教師という集団は、勉強が(まあ)好きで、大学へ行けるお金があった家庭の出身者が多い。もっと勉強ができて、もっと金持ちなら、教師をしてないかもしれないが、でも生徒の平均よりは学力も経済力もあるだろう。実際に社会のさまざまな職業の家を訪ねる機会は少なかったはずだ。地域のさまざまな家を訪ねると、「自己認識」「社会認識」に大きな変化があると思う。

 教師が地域を知る手段としても、家庭訪問の意義は大きい。特に小中は地域に密着している。東京もそうだし、静岡も大きな地震が予測されている地域ではないか。生徒が住んでいる地域を見ておくこと。また、いざとなれば「避難所」の経営に当たらなくてはいけないという立場としても、地域を知っておくことは大切だと思う。ということで、僕は授業以上の価値を遠足や家庭訪問に認めるのだけど、それは判っていて削減せざるを得ないという現状があるのか。そういう段階に追い込まれているのかもとさえ思った次第。
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部活と行事は「うさぎ跳び」なのだろうか

2016年05月14日 00時05分23秒 |  〃 (教育問題一般)
 本当はもっと「教育」や「学校」を論じるつもりだった。でも何を言っても仕方ないような情勢、そしていつ書いてもいいようなテーマということで、つい後回しになってしまう。今回もちょっと時間が経ってしまったのだが、4月の朝日新聞「論壇時評」を読んで、これは書いておかないといけないなと思ったのである。筆者は小熊英二氏(歴史社会学者)。(3月までは作家の高橋源一郎氏だった。)

 僕は朝日の「論壇時評」はもう40年以上読んでいると思う。いろいろな人が書いてきたが、何と言っても見田宗介さんが印象深い。また高畠通敏さんも記憶にある。僕は小熊氏の本もかなり読んできたので、今回も期待している。だけど、その一回目、4月28日付「『うさぎ跳び』から卒業を」の冒頭部分には違和感があった。まず、冒頭部分を引用してみたい。(以下引用)

 かつて、「うさぎ跳び」というトレーニングがあった。現在では、ほんとど行われていない。効果が薄いうえ、関節や筋肉を傷める可能性が高いからだ。
 しかし日本では、それに類する見当違いの努力が、随所で行われている。そして、社会の活力を奪っている。
 たとえば教育。大内裕和はこう指摘する()。日本の中学教員の労働時間は、OECD諸国で最も長い。しかし、教員が時間を取られているのは、部活動や行事である。そのため、長時間働いても、教育的効果が上がらない。まさに、「うさぎ跳び」に類する、見当違いの努力である。

 以上が引用部分。は注で、大内裕和、内田樹(対談)「『教育の病』から見えるブラック化した学校現場」(現代思想4月号)を指す。この「見当違いの努力」のたとえとしての「うさぎ跳び」というのは非常に判りやすい。日本には、あるいはどこの社会にも、数多くの「うさぎ跳び」が存在するだろう。

 それはいいんだけど、以上の文章を普通に読むと、中学教員は部活や行事に時間を取られて、長時間働いてるのに教育効果が上がっていないと読める。教員は「授業が重要」なのに、部活や行事に時間を取られるから教育効果が上がらないという趣旨と読める。しかし、それは本当なのだろうか。いや、長時間労働を強いられていること部活や行事に時間を取られていること、それ自体はまさに事実である。だけど、それは「教育的効果」がないのだろうかと思うのである。

 それに、部活や行事に時間を取られるのは、かなり昔からずっとそうである。だけど、教育現場の疲弊感が特にいま語られるのはなぜだろうか。そこにこそ、僕はこの問題の本質があるように思う。

 僕が思うに、日本の公立学校で学んだ多くの人にとって、学校の思い出は行事や部活なのではないだろうか。同級生との「初恋」とか、友人と行っていた塾とか、そっちの方が思い出という人も多いだろうが、対象を「学校」にしぼれば、授業はつまらなかったけど、行事や部活が楽しみだったという方が多いと思う。自分でも、生徒としても教師としても、学校の一番の思い出は授業ではない。そして、行事や部活を通してこそ、協力や努力といったものを学んだのではないだろうか。それが多くの人の思い出だと思うが、違うだろうか。それを「教育的効果がない」とは言えないだろう。

 ところで、朝日新聞5月12日付紙面に、「教員悲鳴 忙しすぎる」という記事が掲載されている。北海道教育大、愛知教育大、東京学芸大、大阪学芸大の共同調査結果だという。それによると、教員の主な悩みとして、「授業準備の時間が足りない」が、小=94,5%、中=84.4%、高=77,8%となっている。また「部活動・クラブ活動の指導が負担」は、小=35.4%、中=69.5%、高=59.9%となっている。この調査を見れば、まさに(少なくとも中学教員は)部活が大変で、授業準備ができないという指摘は当たっているではないかと言われるかもしれない。

 もちろん、僕も部活に時間を取られた時期もある。(五月の連休が毎日試合の引率では正直ウンザリしたことがあるのも事実である。)それに、授業の準備には限りがなく、もっと余裕があればいい授業を出来ていたかもしれないと毎日のように思ってもいた。だけど、いまの調査に対する僕の読み方は、「部活や行事に時間を取られて、教育効果が上がらない」というものではない。

 「授業」そのもののありかたが、昔と比べて変わってきた。また、教員の評価や身分のありかたも昔と大きく変えられてきた。例えば、小学校に英語教育が導入された。その検証もないままに、今度は教科化されるという。先の調査で小学校教員の授業準備の大変さが際立っているのは、やはり英語教育が原因と言っていいのだろうと思う。また小中で「道徳の教科化」が進められている。学校全体で取り組まなければならない「総合的な学習の時間」は、(「ゆとり教育」から脱却すると明言されているのに)まだ存置されている。自分が専門的に勉強してきた分野以外のことで、授業をしていかないといけない。さらに、「デジタル教材」の開発、使用が行政から推奨されるようになってきた。それにも取り組まないといけないんだから、準備時間がいくらあっても足りないだろう。
 
 そして昔と違って、教員同士が競わせられて、授業は校長が評価(見学?監視?)に来る。校長は行かないといけない。教員は自己申告書を提出し、校長が評価して給与に連動していく。生徒や保護者による「学校評価」も行わないといけない。(生徒の側が授業などについて評価するのである。)そして、「全国学力テスト」が定着し、学校ごとの結果も公表される。進学高校は大学進学指導に「数値目標」を作る。(例えば、東京の日比谷高校では、進路指導の数値目標が6項目あるが、その一番だけ挙げておくと「難関4国立大学及び国公立医学部医学科の現役合格者 60人以上」というのである。)そして、中学でも学区を超えた「学校選択制度」が導入される。大都市圏が中心かも知れないが、現在の教育はこのようながんじがらめの競争教育になっているのである。

 だからこそ、教員は「授業準備の時間がない」と悲鳴を上げるし、本当だったら「生徒の連帯を作り出す」はずの行事などを厄介もの扱いしていくのである。そして、近年の特徴は、昔は教育行政を批判し、現場を応援したようなマスコミや学者たちも、なぜか教育行政を問わず、「授業」にしぼって議論をすることである。多分、考え方に多少の違いがあっても、教育官僚や政治家と、学者や記者などは「勉強が苦にならなかった」ことで共通するのだと思う。

 さて、こうしてみると、「教育界のうさぎ跳び」とは何だろうか
 それは、小学校からの英語教育道徳の教科化であり、全国学力テストであり、競争的な教員人事政策であり、教員免許更新制度であり…21世紀になって進められてきた教育政策の方ではないのか。学校現場はここ10年以上ずっとほとんど「日本劣化計画」としか思えないような政策に振り回されてきた。部活や行事指導の問題はもっと奥が深い問題なので、またにしたい。なぜ「授業」の改善がこれほど叫ばれるのか、大学入試の新方針とともに、今後考えていきたいと思う。
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追悼・蜷川幸雄

2016年05月12日 21時34分06秒 | 演劇
 12日の夕方、突然蜷川幸雄の訃報が飛び込んできた。(1935~2016)80歳。今日は午後から免許の更新に行ってから、フィルムセンターで「喜劇・団体列車」という飛びきり面白い喜劇を見た。そのまま帰って、大相撲の終わり数番を見ていたら、突然「ニュース速報」が流れた。そんなに見たわけでもないし、まとめて来月書けばいいような気もしたが、考えてみれば「ニュース速報」で報じられるような演出家が他にいるだろうか。演劇界に止まらず、文化全般を通しても数少ないだろう。そういう人の場合、自分で書くことが少なくても書いておくべきだろうと考えを変えたわけである。

 蜷川幸雄は1935年(昭和10年)10月15日に生まれた。同年生まれに、大江健三郎小澤征爾寺山修司がいる。あるいは美輪明宏や赤塚不二夫が。(はたまたエルヴィス・プレスリーも。「世界で一番貧しい大統領」のホセ・ムヒカやウッディ・アレンも。)これらの顔ぶれをみると、若くして文化の各分野で世界的に認められたり、革新者として世代の代表となった人がいる。蜷川幸雄もそういう世代の一員だったと言える。音楽、美術、映画、文学などと違い、日本の現代演劇が世界で認められるには時間がかかった。当然だろう。「持ち運び」が一番難しい。だからこそ、「ニナガワ」の功績は限りなく大きい。シェークスピアを日本風に演出して英本国で認められるなど、もう誰にもできないのではないか。

 最初は俳優だった。劇団青俳に所属したが、1967年に現代人劇場を結成した。1969年の清水邦夫作「真情あふるる軽薄さ」が最初の演出である。どこでやったかというと、新宿文化である。(今の角川シネマ新宿、シネマート新宿の入ったビルの場所にあった映画館。)ATG系映画館だった新宿文化は、上映後に演劇上映を行っていた。支配人だった葛井喜四郎の「遺言」(2008、河出書房)という抜群に面白い本があるが、その資料にあるリストを見ると、1969年9月10日から22日に上演されている。出演者は岡田英次、真山知子、蟹江敬三、石橋蓮司など。真山知子という人は、蜷川夫人になった人。何と豪華な顔ぶれだろうと思うが、御代は400円なんだから驚く。そして、以後続々と清水作品を手がけ、騒然たる若者反乱の季節に大評判となった。1970年の「想い出の日本一萬年」、1971年の「鴉よ、おれたちは弾丸のこめる」、1972年の「僕らが非情の大河をくだる時」、1973年の「泣かないのか? 泣かないのか一九七三年のために?」と続き、そしてそこで一つの季節が終わった。

 僕はもちろん、これらの舞台を見てはいない。中学生、高校生だったのだから、新宿のレイト公演に行くのは無理である。ATG映画のゴダールや大島、寺山映画は見ていたが、それは有楽町の日劇文化で見たのである。新宿文化そのものに一度も行ったことがない。でも、「そういう方面」に関心がある高校生には、蜷川幸雄の名前はもう届いていたということが言いたいのである。

 俳優時代の蜷川はいくつかの映画、あるいはテレビに出ている。大河ドラマにも何本か出ている。「暗殺」(篠田正浩)や「とべない沈黙」(黒木和雄)など映画史に残る作品にも出ているが、端役が多い。僕の記憶にあるのは、吉田喜重監督が北海道を舞台に撮影した「樹氷のよろめき」という映画。主演の岡田茉莉子の愛人役で、夫役の木村功に続いて、三番目にクレジットされている。吉田監督は僕の好きな監督で、監督特集で見た時に、ずっと出ているこの人はどこかで見たと思い、よく考えたら蜷川幸雄の若い顔だった。また「Wの悲劇」(澤井信一郎)という、薬師丸ひろ子主演の傑作映画の「劇中劇」の演出家で出ているのは有名。劇中劇の演出もしている。この映画は面白く、今でも劇場上映される機会が多い。何度も見る価値がある映画。

 清水邦夫作品を卒業してどうなるかと思ったら、「商業演劇」に進出した。思った以上に大成功し、シェークスピアやギリシャ悲劇を初め、ものすごくたくさんの作品を手がけた。それらの多くは、新聞の劇評で読んだり、NHKの中継で見たけれど、ナマでは見ていない。いくつかは見ているが、本格的に論評するほどのことは書けない。何で見てないかというと、学生には高く、仕事に就くと多忙だったからである。そして、近年になると本拠が「彩の国さいたま芸術劇場」となり、ここはちょっと僕には遠い。週末はすぐ売り切れるし、是非見たいと思った「海辺のカフカ」も見逃してしまった。昨年、一昨年になっても、10本近い作品を演出している。何という驚異のエネルギーだろうと思い続けていた。

 蜷川の生涯をもとに藤田貴大が書いた作品が上演予定とされながら、体調不良で延期されていた。そのことに何か不吉なものを感じないではなかったが、それは「もう舞台に戻って来れないのではないか」ということで、まさか突然の訃報に接するとは思っていなかった。今多くの人が「演出家」として知っているのは、蜷川幸雄だけではないだろうか。(鵜山仁や栗山民也や宮田慶子などの名前を知っている人は決して多くはないだろう。)僕らは演劇を見る時に、「これは井上ひさしの劇だ」などと劇作家の作品のように思うことが多い。映画の場合は逆に、脚本家の名前は知らないのに、映画監督の名前の方が知られている。そこに舞台芸術と映像表現の違いがあるのだろうが、ここで書く余裕はない。これほど破格の人物の評価は僕の手に余るが、今後多くの人がさまざまなことを語るだろう。ゆっくりと思い返してみたいと思う。
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米大統領選の仕組み

2016年05月11日 22時06分16秒 |  〃  (国際問題)
 やっぱり米大統領選の事を書いてしまおう。ただし、大統領選挙の仕組みを中心に。自分が知っていることでも、知らない人もいるわけだから、時には丁寧に書いておく方がいいだろう。直前に書いた「ペテロの葬列」に出てきた豊田商事事件の話を読んで、ちゃんと伝えていかないといけないなあと思った。さて、2016年米大統領選挙(United States presidential election)は、共和党が事実上ドナルド・トランプが候補になると確定した。民主党はヒラリー・クリントンがほぼ決定だが、まだバーニー・サンダースが善戦している。

 民主党が長引いているように見えるが、2008年にヒラリー・クリントンが下りて、バラク・オバマが候補になると確定したのは、6月3日である。確かに当初はサンダースは「泡沫」扱いされていたのだから、予想を超えて善戦しているのは間違いない。その理由は今後じっくり考える必要があるが、とりあえず民主党が長引く理由がある。それは代議員の「総取り方式」を取っていないからである。

 今やっている「予備選」(あるいは「党員集会」)というのは、それぞれの党大会の代議員選出である。そして、昔はその州の代議員を、予備選で1位になった候補が「総取り」していた。今も共和党は大部分の州で「総取り」方式で行っている。もっとも当初は比例代表で分けていた。3月1日の「スーパーチューズデイ」の段階では比例なので、例えばヴァージニア州では49人の代議員を、トランプ(17)、ルビオ(16)、クルーズ(8)、ケーシック(5)、カーソン(3)と分け合っている。トランプは1位だが、過半数にはほど遠い。しかし、3月15日のフロリダ州は99人の代議員を1位のトランプが全部取った。こうしてトランプ陣営が勝利して行ったわけである。だけど、民主党は全ての州で比例で分ける。ニュースではどっちが勝ったしか報じないけど、実は両陣営とも代議員を獲得しているのである。

 さて、この「勝者総取り方式」、これが大統領選の本選のキーポイントである。そもそも世界では珍しく、アメリカ大統領選は「直接投票」ではない。州ごとに「大統領選挙人」を選んで、その大統領選挙人が集まって大統領を選ぶのである。有権者が選ぶのは、あくまでも「選挙人」の方である。こういう「間接選挙」を大統領選挙で行っている国は珍しい。そして、各州の選挙人はその州の勝者が総取りする。(もっとも、今回初めて知ったのだが、メイン州とネブラスカ州では選挙人を比例配分する。)だから、直接の投票数では上回っているのだが、結果は敗北ということもある。2000年の選挙ではアル・ゴア(民主)がジョージ・ブッシュ(共和)より得票しているのだが、獲得選挙人数では下だった。。

 その「大統領選挙人」は全部で538人。過半数は270人である。50州とワシントンDC(特別区)から選ばれる。プエルトリコやグアムなどは投票権がない。(代わりに連邦税もかからない。採決権のない代表を連邦議会に送っている。しかし、予備選は行われている。)大統領選挙人は基本的には人口比で各州に割り当てられている。多い順に見ておくと、以下の通り。(2012年)

①カリフォルニア(55人)
②テキサス(38人)
③ニューヨーク、フロリダ(29人)
⑤ペンシルベニア、イリノイ(20人)
⑦オハイオ(18)
⑧ミシガン、ジョージア(16)
⑩ノースカロライナ(15)     ここまでで240人
 10人以上の州を挙げておく。
⑪ニュージャージー(14)
⑫ヴァージニア(13)
⑬ワシントン(12)        ここまでで279人。過半数を超える。
⑭マサチューセッツ、インディアナ、ケンタッキー、アリゾナ(11)
⑱メリーランド、ウィスコンシン、ミネソタ、ミズーリ(10)

 ただし、各回ごとに人口をもとに調整されるらしく、今の数字は2012年のもので、他の年は違う。以上の重要21州で、前回ロムニー(共和党)が獲得したところは、テキサス、ジョージア、ノースカロライナ、ケンタッキー、インディアナ、アリゾナの6州だけである。10位までの州だけで見ると、オバマ189、ロムニー69となる。カリフォルニアや東部各州は民主党が強く、今回も候補が誰でも民主党が勝利するように思われる。カリフォルニアはともかく、フロリダやオハイオ(どっちも2004年はブッシュが勝利)を取り返さないとトランプは大敗するしかない。しかし、フロリダはオバマのキューバ政策が支持されるのではないだろうか。フロリダが地元のルビオや知事を務めたジェブ・ブッシュが候補なら、共和党が勝つかもしれないが。フロリダの予備選ではトランプが勝利したが、それはあくまでも共和党支持者内だけの選挙である。前回の共和党票をまとめた上に民主党から相当の票を奪わない限り、トランプ勝利はない。相当に難しいように思う。

 最後に、ここ10回の選挙の選挙人数と得票率の結果を示しておきたい。1976年に共和党のフォード大統領を、民主党のジミー・カーターが破った選挙以後である。先に書いておくと、ロナルド・レーガンの大衆的人気は圧倒的だったことが今さら思い知らされる。その「国民的人気」を共和党は湾岸戦争とイラク戦争で失って行ってしまう。今回のトランプはアイゼンハワー以来の「シロウト候補」だが、国民統合力は段違いだろう。トランプじゃなくても厳しいのに、共和党がどこまで一体的に選挙を戦えるのかは注目せざるを得ない。なお、党名の次の数字が選挙人数。カッコ内は獲得州と得票率。獲得州は50+ワシントンDCで計51となる。

1976 カーター(民)297(24、50.1%)  フォード(共)240(27、48.0%)
1980 レーガン(共)489(44、50.7%)  カーター(民)49(7、41.0%)
1984 レーガン(共)525(49、58.5%)  モンデール(民)13(2、40.6%)
1988 ブッシュ(共)426(39、53.4%)  テュカキス(民)111(12、45.6%)
1992 クリントン(民)370(33、43.0%) ブッシュ(共)168(18、37.5%)
1996 クリントン(民)379(31、49.2%)   ドール(共)159(20、40.7%)
2000 ブッシュ(共)271(30、47.9%)  ゴア(民)266(21、48.4%)
2004 ブッシュ(共)286(31、50.7%)  ケリー(民)251(20、48.3%)
2008 オバマ(民)365(29、52.9%)   マケイン(共)173(22、45.7%)
2012 オバマ(民)332(27、50.5%)   ロムニー(共)206(24、47.9%)

 最近は両党が獲得する州が固定化されてきている。民主党は青共和党が赤がシンボルカラーなので、それぞれブルー・ステイト、レッド・ステイトという。最近は南部、中西部が赤一色となり、カリフォルニアや東部の青がそれをはさむようになる。そのことを直近4回の図表で示しておきたい。表はウィキペディアから取ったもの。それぞれ左から、2012,2008、2004、2000とだんだん昔にさかのぼる。
    
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