尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『八代目正蔵戦中日記』を読むー戦時下の寄席と東京

2022年12月31日 22時49分55秒 | 〃 (さまざまな本)
 そうそう家にいるだけも退屈するので、ちょっと前にスカイツリータウンにある三省堂書店に行った。そこで文庫本の棚を何気なく見ていたら、中公文庫の『八代目正蔵戦中日記』という本が目に飛び込んできた。そういう本があることは知っていたけど、中公文庫に入っているのは気付かなかった。もともとは2014年に青蛙房から出た本で、2022年7月に文庫化された。毎月チェックしているはずなのに頭の中をスルーしちゃうこともあるのだな。

 内容的には要するに、1941年から1945年にかけての日記である。その間の東京の寄席の様子、戦局が次第に厳しさをまし暮らしも行き詰まってゆく状況が率直に綴られている。台東区(当時は下谷区)の稲荷町(現・東上野)の長屋に住んで、地区の防空団などの雑務も丹念に担当している。変な話だが、「汲み取り」も自分でするようになった。トイレは当時水洗ではなく「汲み取り式」で、肥料として貴重な資源だったが、人手不足で来ないから自分でやっている。そんなことは書き残されてないと判らない。
(八代目正蔵)
 八代目林家正蔵(1895~1982)は昭和の大名人の一人だが、当時は5代目蝶花楼馬楽(ちょうかろう・ばらく)だった。1950年に一代限りで8代目林家正蔵を襲名したが、1980年に林家三平(7代目林家正蔵の息子)が亡くなった後で名跡を返還した。最晩年は林家彦六を名乗って2年間活動した。従って「八代目正蔵」は「戦中」にはいなかったわけだが、まあ「林家正蔵」が一番通りが良いのも違いない。新宿末廣亭や人形町末廣(1970年閉館)などに良く出てるが、何故か上野鈴本に呼ばれないことが多く日記に憤懣を書いている。東宝名人会にもよく出ていた他、四谷の「喜よし」というところに度々出演している。

 しかし、だんだん慰問が多くなり中国へも行っているが、その間は日記がないので詳細は判らない。群馬や新潟などの大工場にも呼ばれて出掛けている。客の人数や収入なども記録されているので貴重だ。戦時下の貴重な娯楽として客も入っているが、空襲警報が頻発され実際に爆撃されるようになると、とてもじゃないが寄席はやっていられない。そして東京大空襲になるが、何故か下町一帯が焼けた中で馬楽の家は焼けずに残っている。その空襲で6代目一竜斎貞山が亡くなり、隅田川で見つかった遺体を馬楽などで日暮里の火葬場に運んでいく。そんなことがあったのか。

 8代目林家正蔵はすぐカッとなる気質だったらしい。落語研究家正岡容(まさおか・いるる)の巣鴨の家に良く出掛けているが、時に大げんかする。正岡が多忙あるいは病気で会えなかったりすると、桂文楽なら会うのに自分は軽視されていると思う。何度も不和になるが、誰かが仲を取り持ってくれる。そんな様子が率直に書かれているのも芸能史的に貴重だろう。文楽や志ん生、円生など大名人が出て来るが、悪口も書いてある。皆亡くなっているが、唯一原本刊行時(2014年)に三遊亭金馬(後金翁、2022年8月死去)が存命で、本を届けたところ大変喜ばれたという。

 晩年には共産党の支持者として知られていたから、もしかして戦時中には「抵抗」の気持ちがあったのかと思ったら、そんなものは感じられなかった。普通の庶民であり、皇軍勝利を信じ、祈っているだけ。子どもが徴用に取られ、やがて下の子は疎開に行く。そんな様子に一喜一憂している。誤報として有名な「台湾沖海戦の大勝利」も素直に大本営発表を信じて喜んでいる。どんどん物資不足になり、本土空襲も行われるようになるが、戦局に疑問を持つ様子は見られない。まあ、内心思っていても書けないだろうが、そういう感じでもない。そこら辺が「庶民の歴史」というものなんだろう。

 僕は若い頃は寄席に行ってなかったから、この人をナマで聞いたことはない。昔真木悠介(見田宗介)さんの講座に出たとき、若き日の宮城聰君が林家正蔵の追っかけをしてると自己紹介したのを聞いて驚いた思い出があるぐらい。なお、八代目正蔵の一番弟子が春風亭柳朝を名乗り、その弟子が春風亭小朝である。春風亭ぴっかり☆が蝶花楼桃花を襲名したのは、小朝が大師匠の旧名を継がせたのである。「蝶花亭」という亭号は3年ぶりに復活という。
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世界映画ベスト100、2022年版の結果はどうなったか

2022年12月29日 20時22分14秒 |  〃  (旧作外国映画)
 イギリスの映画雑誌「サイト&サウンド」が選ぶ世界映画ベストテン2022年版はどうなっただろうか。この間に映画界では多くの変化があった。アメリカのアカデミー賞を選ぶ会員が白人男性に偏っていると批判され、人種や性別の多様化が進んだ。また「#MeToo運動」を通し、セクシャル・ハラスメントの告発を越えて映画史の見直しが進行中だ。そのような動きがどのように反映しただろうか。今回は批評家版のベスト100を紹介してみたい。日本映画もかなり選ばれているので、それも要注目。

 では、まずベスト10を紹介する。
ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(シャンタル・アケルマン、1975)
めまい(アルフレッド・ヒッチコック、1958)
市民ケーン(オーソン・ウェルズ、1941)
東京物語(小津安二郎、1953)
花様年華(ウォン・カーウァイ、2000)
2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック、1968)
⑦「美しき仕事」(クレール・ドゥニ、2001、日本未公開、特別上映のみ)
マルホランド・ドライブ(デヴィッド・リンチ、2001)
カメラを持った男(ジガ・ヴェルトフ、1929)
雨に唄えば(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー、1951)
(『ジャンヌ・ディエルマン』)
 いや、これは驚きの選出になった。『ジャンヌ・ディエルマン』は日本では2022年に公開されたばかりである。「フェミニズム映画」の金字塔ではあるけれど、今まで全然出て来なくて突然トップというのは選出投票者を見直した影響があるのではないか。7位のクレール・ドゥニも女性監督である。ところで『花様年華』や『マルホランド・ドライブ』は同時代に見たわけだが、確かに良い映画だったが世界映画史上のトップテンに入る映画とは思わなかった。僕は『ブエノスアイレス』や『ブルー・ベルベット』の方が好きなんだけどなあ。さて、1952年から2012年まで連続で選ばれていた唯一の作品『ゲームの規則』はどうなった?
 
 以下は10本ごとにまとめて紹介したい。日本未公開作品はカギカッコで示す。
サンライズ(ムルナウ)⑫ゴッドファーザー(コッポラ)⑬ゲームの規則(ルノワール)⑭5時から7時までのクレオ(アニエス・ヴァルダ)⑮捜索者(ジョン・フォード)⑯午後の網目(マヤ・デレン、アレクサンドル・ハッケンシュミード)⑰クローズ・アップ(アッバス・キアロスタミ)⑱ペルソナ(ベルイマン)⑲地獄の黙示録(コッポラ)⑳七人の侍(黒澤明)
寸評 今までの定番だった『ゲームの規則』や『捜索者』『サンライズ』などが女性監督作品に押し出された感じ。『午後の網目』は女性監督マヤ・デレンが1943年に作った14分の実験映画で、日本では2019年に一部で上映された。
(マヤ・デレン)
裁かるるジャンヌ(ドライヤー)㉒晩春(小津)㉓プレイタイム(ジャック・タチ)㉔ドゥ・ザ・ライト・シング(スパイク・リー)㉕バルタザールどこへ行く(ブレッソン)㉖狩人の夜(チャールズ・ロートン)㉗ショア(クロード・ランズマン)㉘ひなぎく(ヒティロヴァー)㉙タクシー・ドライバー(スコセッシ)㉚燃ゆる女の肖像(セリーヌ・シアマ)
寸評 28位、30位が女性監督。『燃ゆる女の肖像』は2019年作品である。小津は2本が入選。

(フェリーニ)㉜(タルコフスキー)㉝サイコ(ヒッチコック)㉞アタラント号(ジャン・ヴィゴ)㉟大地のうた(サタジット・レイ)㊱街の灯(チャップリン)㊲M(フリッツ・ラング)㊳勝手にしやがれ(ゴダール)㊴お熱いのがお好き(ワイルダー)㊵裏窓(ヒッチコック)

自転車泥棒(デ・シーカ)㊶羅生門(黒澤明)㊸ストーカー(タルコフスキー)㊹「キラー・オブ・シープ(羊の殺し屋)」(チャールズ・バーネット)㊺バリー・リンドン(キューブリック)㊺アルジェの戦い(ポンテコルヴォ)㊼北北西に進路を取れ(ヒッチコック)㊽奇跡(ドライヤー)㊾ワンダ(バーバラ・ローデン)㊿大人は判ってくれない(トリュフォー)㊿ピアノ・レッスン(カンピオン)
★寸評 44位はアメリカの黒人監督作品で日本未公開。「キラー・オブ・シープ」の題名で自主上映された。49位は1970年の女性監督作品で、日本では2022年に初めて公開された。それにしてもヒッチコックは4本目である。
(『ワンダ』)

52.「不安と魂」(ファスビンダー)52.「家からの手紙」(シャンタル・アケルマン)54.軽蔑(ゴダール)54.ブレードランナー(リドリー・スコット)54.戦艦ポチョムキン(エイゼンシュテイン)54.アパートの鍵貸します(ワイルダー)54.キートンの探偵学入門(バスター・キートン)59.サン・ソレイユ(クリス・マルケル)60.甘い生活(フェリーニ)60.ムーンライト(バリー・ジェンキンズ)60.「自由への旅立ち」(ジュリー・ダッシュ)
寸評未公開作品が増えてきて、僕も知らない映画が多い。60位は黒人女性監督として初の長編映画で1991年作品。日本ではこの題名でテレビで放送されたようである。52位はアケルマン映画祭でも未公開の作品。

63.グッド・フェローズ(スコセッシ)63.第三の男(キャロル・リード)63.カサブランカ(カーティス)66.「トゥキ・ブゥキ/ハイエナの旅」(ジブリル・ジオップ・マンベティ)67.アンドレイ・ルブリョフ(タルコフスキー)67.ラ・ジュテ(クリス・マルケル)67.赤い靴(パウエル、プレスバーガー)67.落穂拾い(ヴァルダ)67.メトロポリス(ラング)
寸評 66位はセネガル映画だが、この監督は日本では全く紹介されていない。60位台になると、『第三の男』や『カサブランカ』『赤い靴』など昔の名作が登場してくる。

72.情事(アントニオーニ)72.イタリア旅行(ロッセリーニ)72.となりのトトロ(宮崎駿)75.千と千尋の神隠し(宮崎駿)75.悲しみは空の彼方へ(ダグラス・サーク)75.山椒大夫(溝口健二)78.サンセット大通り(ワイルダー)78.サタンタンゴ(タル・ベーラ)78.牯嶺街少年殺人事件(エドワード・ヤン)78.モダンタイムス(チャップリン)78.天国への階段(パウエル、プレスバーガー)78.セリーヌとジュリーは舟で行く(ジャック・リヴェット)
寸評 宮崎駿作品が連続しているのは、投票が真っ二つに分かれたということだろう。確かに一つを選ぶなら難しいところだろう。タル・ベーラとエドワード・ヤンの超大作が同じ順位というのも偶然とは言え良く出来ている。

84.ブルー・ベルベット(リンチ)84.ミツバチのささやき(ヴィクトル・エリセ)84.気狂いピエロ(ゴダール)84.映画史(ゴダール)88.シャイニング(キューブリック)88.恋する惑星(ウォン・カーウァイ)90、パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)90.ヤンヤン 夏の想い出(エドワード・ヤン)90.雨月物語(溝口健二)90.山猫(ヴィスコンティ)90.たそがれの女心(マックス・オフュルス)
(『ミツバチのささやき』)
寸評 早くも『パラサイト』が登場。『ブルー・ベルベット』や『恋する惑星』『ヤンヤン 夏の想い出』など同時代に見た記憶が蘇る映画が入っていて感慨深い。特に『ミツバチのささやき』が入っているのが嬉しい。

95.抵抗(ブレッソン)95.ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト(セルジオ・レオーネ)95.トロピカル・マラディ(アピチャッポン・ウィーラセタクン)95.「黒人少女」(ウスマン・センベーヌ)95.キートン将軍(バスター・キートン)95.ゲット・アウト(ジョーダン・ピール) 

 この2022年版の選出をどのように考えるべきだろうか。これは「映画批評家選定」で、同時に「映画監督選定」もある。そちらはもう少し知っている映画が多いような気がする。今回の映画批評家選定はところどころに知らない映画があって、全部見ている人は多分日本にはいないのではないか。少なくとも「単なる映画ファン」には未公開作品、DVDでも出てない作品を見る機会はない。

 それにしても、『ジャンヌ・ディエルマン』がベストワンという選出は、少し「イデオロギー偏重」なのではないか。この映画は映画史の欠落を鋭く突く重要な作品だと思うが、ではベストワンかというとそれも疑問だ。ストーリー性、ドラマ性をここまで排した映画は観客を選んでしまう。それに思想性重視の観点から選出するのだったら、中国のワン・ビン(王兵)やボリビアのウカマウ集団の映画なども選ばれないとおかしくないだろうか。

 では抜けているのは何か。一つは案外製作国の多様性が少ないこと。ポーランドのアンジェイ・ワイダやギリシャのテオ・アンゲロプロス、スペインのペドロ・アルモドバルなどが一つも入っていない。95位に入った『ゲット・アウト』や『トロピカル・マラディ』より上だと思うけど。また娯楽性の高い作品は、ヒッチコックと宮崎駿を除きほぼ無視である。スピルバーグ作品が一作もないのはどうなのか。まあ、こういうものに絶対はなく、ある傾向を示す「お遊び」と受け取っておくべきものだ。僕も15本ほど見てない映画がある。今後の機会を待ちたい。
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「世界映画ベストテン」の変遷ー「サイト&サウンド」1952~2012

2022年12月28日 16時23分43秒 |  〃  (旧作外国映画)
 世界映画史上最高の映画は何だろうか。それは人それぞれ違う考え方、感じ方があると思うけど、一応の目安というものがあるのだろうか。世界各国で映画賞やベストテン選出などが行われている。ある程度、映画の完成度には共通の感覚があるということだろう。それでも「世界映画」全体となると、そもそも世界各国の映画を見られる地域が限られている。世界には自由に映画を見られない地域はかなり多い。自由に映画を見て論じられる環境がある社会だけが「世界映画」を論じられる。

 実はイギリス映画協会の「サイト&サウンド」という雑誌が、1952年に始まって10年ごとに「世界映画ベストテン」を選出する試みを続けている。それは偏った部分もあると思うけれど、そこも含めて「世界で映画がどのように見られて来たか」を示すものとなっている。10年ごとというと、つまり2022年が最新の選出年である。今年の結果はある意味で当然、ある意味で衝撃的なものだった。それを紹介する前に、まず1952年から2012年までを振り返ってみたい。(批評家選出部門を見る。)

 以下、題名と監督名を示す。最初に出て来たときだけ太字にしてある。つまり、1952年は全部太字だが、それ以後は新たに入選した作品だけが太字。当然ながら、その年以後に作られた映画は入らない。しかし、それ以前の映画でも新たに評価が高くなった映画、逆に評価が落ちた作品が存在する。例えば1962年から2002年まで1位に選ばれたオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)は1952年には選ばれていない。その後に、この映画の革新性と完成度の高さが世界で認められて行ったのである。
(『市民ケーン』)
1952年
自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)②街の灯(チャーリー・チャップリン)③チャップリンの黄金狂時代(チャーリー・チャップリン)④戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン)⑤イントレランス(D・W・グリフィス)⑤ルイジアナ物語(ロバート・フラハティ)⑦グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)⑦陽は昇る(マルセル・カルネ)⑦裁かるるジャンヌ(カール・ドライヤー)⑩逢びき(デヴィッド・リーン)⑩ル・ミリオン(ルネ・クレール)⑩ゲームの規則(ジャン・ルノワール)
寸評 イタリアの「ネオ・レアリズモ」の代表作『自転車泥棒』がこの時だけベストワン。チャップリンの古典が高く評価されているのも時代を感じさせる。無声映画が半数ほどを占めるのも古い感じがする。

1962年
市民ケーン(オーソン・ウェルズ)②情事(ミケランジェロ・アントニオーニ)③ゲームの規則(ジャン・ルノワール)④グリード④雨月物語(溝口健二)⑥戦艦ポチョムキン⑥自転車泥棒⑥イワン雷帝(セルゲイ・エイゼンシュテイン)⑨大地のうた(サタジット・レイ)⑩アタラント号(ジャン・ヴィゴ)
寸評 初めてオーソン・ウェルズ『市民ケーン』がベストワンに選ばれた。またアントニオーニ『情事』が1960年の映画にもかかわらず2位に選ばれている。日本映画で溝口健二『雨月物語』が4位入選。以後、毎回日本映画が選出されている。

1972年
①市民ケーン②ゲームの規則③戦艦ポチョムキン④8 1/2(フェデリコ・フェリーニ)⑤情事⑥ペルソナ(イングマル・ベルイマン)⑦裁かるるジャンヌ⑧偉大なるアンバースン家の人々(オーソン・ウェルズ)⑧キートン将軍(バスター・キートン)⑩雨月物語⑩野いちご(イングマル・ベルイマン)
寸評 『市民ケーン』が1位、『ゲームの規則』が2位というのがこの後しばらく定着する。『ゲームの規則』は日本では岩波ホールで1982年公開と遅れたが、フィルムセンターで見ることが可能だった。確かにジャン・ルノワール監督の最高傑作だと思う。ベルイマン作品が2本入選しているのも70年代を思わせる。
(『ゲームの規則』)
1982年
①市民ケーン②ゲームの規則③七人の侍(黒澤明)③雨に唄えば(スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー)⑤8 1/2⑥戦艦ポチョムキン⑦アタラント⑦偉大なるアンバースン家の人々⑦めまい(アルフレッド・ヒッチコック)⑩キートン将軍⑩捜索者(ジョン・フォード)
寸評『雨月物語』に代わって、日本映画では『七人の侍』が選ばれた。またヒッチコック『めまい』、ジョン・フォード『捜索者』が初選出。二人ともたくさんの娯楽映画を作った監督だが、この頃からこの2作がそれぞれの代表作と見なされるようになった。公開当時はどちらも不評で失敗作と見なされていた。
(『めまい』)
1992年
①市民ケーン②ゲームの規則③東京物語(小津安二郎)④めまい⑤捜索者⑥アタラント号⑥戦艦ポチョムキン⑥裁かるるジャンヌ⑥大地のうた⑩2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
寸評  欧米への紹介が遅れた小津安二郎だが、80年代に「発見」され『東京物語』が上位選出の常連となった。またキューブリック『2001年宇宙の旅』が公開20年以上経ってベストテンに入り、以後常連となる。
(『東京物語』)
2002年
①市民ケーン②めまい③ゲームの規則④ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ)⑤東京物語⑥2001年宇宙の旅⑦戦艦ポチョムキン⑦サンライズ(F・W・ムルナウ)⑨8 1/2⑩雨に唄えば
寸評 公開30年目で『ゴッドファーザー』が入選した。一方で1927年製作の無声映画『サンライズ』が初めて入選。『戦艦ポチョムキン』とともに無声映画が2本となった。

2012年
①めまい②市民ケーン③東京物語④ゲームの規則⑤サンライズ⑥2001年宇宙の旅⑦捜索者⑧カメラを持った男(ジガ・ヴェルトフ)⑨裁かるるジャンヌ⑩8 1/2
寸評 ヒッチコック『めまい』が7位、4位、2位と上昇してきて、ついに2012年にベストワンになった。5回トップの『市民ケーン』が2位、『東京物語』が3位である。またソ連のジガ・ヴェルトフが1929年に作った実験的ドキュメンタリー映画『カメラを持った男』が選ばれたのも特徴的。

 この順位が絶対の基準だとは僕は全く思わない。ヒッチコックの『めまい』が世界映画史上のトップなのだろうか。ヒッチコックの中でも他に素晴らしい映画があるのではないか。『市民ケーン』や「東京物語』『ゲームの規則』の方が社会性を考えて評価するとずっと上だと思う。それよりもフェリーニなら『甘い生活』、ゴダールの『気狂いピエロ』などもっと好きな映画はいっぱいある。それでも一応の目安として、映画を見るときの参考にはなるかもしれない。(ところで、『カメラを持った男』は未だに見てないんだけど。)今回は資料編で、続いて2022年版を紹介したい。
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「戦争」と「結核」、父の場合

2022年12月26日 22時53分01秒 | 自分の話&日記
 先に「戦争」と「結核」が親の世代には、非常に大きな影響を与えたことを書いた。その時には父以上に母親の出来事を思い出していたのだが、その後父が自ら書いた文章を発見した。そう言えば、生前に読んだ記憶があったことを思いだした。今回は母がファイルに入れて保存していたのを見つけたのである。父にとっても戦争のみならず、結核が人生上の大問題だった。身近なところから見えてくる「現代史」という意味で紹介しておきたい。

 前に書いたように父は関東大震災の年(1923年)に生まれた。神田神保町に家にいたとき、「寝ていた私を母が抱き取った直後タンスが倒れたそうで、誕生早々生命拾いをした訳です。」その後、小石川から神田に移り、小学校2年から出征するまで14年間を「下町情緒の中で成長しました。」そのことは今まで意識したことはなく意外だった。今では東京都心部に住むことはなかなか大変だが、そう言えば昔の小説なんかでも都心部に家を借りたり建てたりしている。

 「私の学生時代は、小学校当時に始まった満州事変以来ずっと戦時一色」で、「日支事変中は「遠い戦争」という感覚から多寡をくくっていた私どもも、第二次世界大戦の進展にともない容易ならざる事態を見聞するにつれ、いずれは兵役に就くことを覚悟しながら、人生論、社会論、戦争論などを友人たちで論議することも多く」という青春を送っていた。ちなみに旧制武蔵中学(7年制)に進学し、卒業後に東京帝大経済学部に進んだ。
(学徒出陣壮行式)
 そして徴兵猶予がなくなり、「昭和十九年十二月一日に市川国府台の部隊に入隊するように召集令状が来た」。若き日の父は「私が護るべき国土を見おさめ、且つ東北大や京大に進んだ友人たちとも語り合っておきたいを考え旅に出ました。」「仙台、平泉、十和田、京都、奈良、長野等、約三週間、当時の金で二、三十円の旅行でしたが、久しぶりに友人達と会い、素朴で落ち着いた日本の風土に身を浸し、この国を護るために軍隊に行くのだと納得できたのは、この旅行の賜でした。」

 入隊後は牽引車で引く野砲中隊から、航空隊を志願して三重県の気象連隊、さらに東部軍管区司令部へと転属、「東京下町の大空襲は、竹橋にあった防空司令室の大金庫のような扉の傍で、遙かに眺めておりました。」そして召集解除となって、父母が疎開していた館林(群馬県)に戻ったのである。これは多くの学徒兵の証言と比べて見ると、非常に恵まれていたと言えるだろう。少なくとも兄はシベリアで抑留され戻らなかったわけだから。このように軍隊経験では死ぬことなく戦後を迎えられたのだった。

 その後「父の勧めにより正田貞一郎翁のご紹介を得て、東武鉄道に入社でき、館林駅務掛の辞令をいだだいて社会人としての第一歩を踏み出したのは、復員して一か月足らずの昭和二十一年一月十六日でした。」正田貞一郎日清製粉の創業者で、当時は会長だった。館林出身で今も館林駅西口の製粉ミュージアムに、当時使っていた机などが残されている。祖父は日清製粉で社長秘書をしていた時期があり、それで紹介したということだろう。なお、正田貞一郎は現上皇后の祖父としても、後に知られることになった。ここでも父は非常に恵まれて戦後を歩み出したと言える。
(正田貞一郎)
 ところが「やがて車掌区に移り満員電車の尻押しをしている中に、帰宅後、異常な疲労感に襲われるようになりました。診療所で「肺が真っ白だ。すぐ入院しなければ大変だ。」と谷田貝先生に一喝されました。当時まだ結核は不治の病という時代でしたので、私はがく然としました。」三重の気象連隊で常時そばにいた見習士官が結核に感染し死亡したので、その時に感染したのではないかと思ったとある。「このショックと療養体験は、それまで比較的幸運に推移してきた私の人生に深い谷間をつくり、人生観を根底から揺り動かすものとなりました。」

 「病棟の前に大きな貯水池を隔てて火葬場があり、そこでは毎日、煙の立ち上らぬ日はありませんでした。戦争では幸いに前線には行かずにしまった私が、皮肉なことに平和の戻った今になって、死を見つめざるを得なくなったのです。将来への希望、憧憬は微塵に砕かれ、絶望、屈辱、悔恨、悲哀がいっとき心の底に鉛のように重く沈殿しました。」「しかし、やがてそれが諦めに変わり、そして生の尊さ、価値観、意義を考えるようになり、よりよく生きる、するだけのことをする、生きることの感謝と喜び、人の恩など、様ざまな感情の移り変わりを経て心境が変化してきた頃は、既に三か月を過ぎていました。」

 幸いにも気胸療法が成功し、半年後に職場復帰できた。そして館林教習所に配転させてもらって、リハビリを兼ねて勤務することになった。この時代のことは確かに父はよく語っていたと思い出す。僕が生まれたのは父が32歳の時なので、当時としては少し結婚が遅かったのだろう。それは22歳で復員しながら、少しして結核で療養せざる得なかったことが大きいはずだ。僕の幼い時にも、確か結核で休職していた時期があったように思う。ほとんど意識しなくなったのは、60年代に入った頃からではないか。

 「人生においては、何が災であり何が幸であるかということが、その時点だけでは分らないということ。誠心誠意ただ最善を尽くすべし、自分の人生に対しては謙虚でなくてはならない」という信念を持つに至ったと書かれて、長い文章は終わっている。東武鉄道の新聞「交通東武」1981年9月30日号に掲載された「私の青春時代 よりよく生きる」という回想から引用したものである。あえて内容の評価には踏み込まない。ある時代を生きた青春には「戦争」と「結核」が暗い影を投げかけていたのである。父の名は尾形健次郎。当時の肩書きは常務取締役で、その後、副社長在任中の1991年3月2日に急逝した。享年68歳。
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戦争と結核ー父母の世代に見る「一家の中の現代史」

2022年12月23日 22時57分12秒 | 自分の話&日記
 朝日新聞12月21日朝刊に川本三郎さんの寄稿が載っていた。「思い出して生きること」と題された文章には、妻に先立たれてからの14年間の感慨が記されていて心に沁みる。今年で78歳だそうである。映画化もされた『マイ・バック・ページ』に描かれた事件で朝日新聞を去ってから、ちょうど50年になる。本人の言葉によれば「私がある公安事件で逮捕され、勤務していた朝日新聞を辞めさせられたのも1972年の1月」と書かれている。

 全面を使った長い文章の最後の方に、このように書かれている。「昭和19年に生まれた。大仰にいえば最後の戦中派である。戦後の平和な時代に育った。近代日本の歴史のなかでも幸せな世代だと思う。われわれの世代は幸いに徴兵を知らない。もう一つ、結核が死病にでなくなったことも大きい。「二つの大きな死」と無縁だったことは幸運だった。」

 「昭和19年」は西暦では1944年。敗戦の前年である。僕は昔から小説をよく読んでいたので、作家の生年で世代を考える癖がある。三島由紀夫が1925年、大江健三郎が1935年の生まれで、その間に石原慎太郎(1932年)や井上ひさし(1934年)がいる。そして、僕の父親は1923年母親は1927年の生まれになる。元号でいえば、大正12年昭和2年である。元号で見ると、ずいぶん離れているように見えるが4年違いだったのか。

 1923年生まれの父親は1991年に亡くなっているが、生きていれば来年で100歳になるわけである。この父母の世代になると、川本さんから20歳ぐらい上になるから、「戦争」と「結核」は避けて通れなかった。父方の曾祖父は元群馬県館林藩の下級武士だったらしく、秋元氏が山形藩から移封されたときに付いてきたんだと聞いたことがある。調べてみると、1845年のことになる。しかし、祖父の代に東京に出て、同郷の正田家が設立した日清製粉に勤めた。

 従って父親は東京で生まれて、0歳の時に(当時は数え年だから1歳だが)関東大震災にあった。母親が幼児を抱えて上野公園に逃げたんだという。そして、文科系大学生の徴兵猶予がなくなった時に、繰り上げ卒業となって召集された。戦争に関する映像でよく目にする神宮外苑競技場で行われた「出陣学徒壮行会」の中に父の姿もあったはずである。幸いにして内地の気象部隊に配属され、外地に出ることはなかった。しかし、父の兄(伯父)は関東軍だったためシベリア抑留で亡くなることになった。

 一方、母方の方は栃木、福島から東京に出てきたらしい。福島では浜通り、原発事故で大きな影響を受けた富岡である。母方の祖父は最初の妻、そして生まれた長男、次男をともに結核で失った。今回整理していて、その兄(長男か次男か判らない)から父に充てたハガキがまとまって出て来た。それを見ると、徴兵されて三重県鈴鹿市にいる間に結核が見つかり入院して亡くなったらしい。祖父は先妻の死後に再婚し、生まれたのが母とその弟だった。その母方の祖母も戦後少しして結核で亡くなったという。それは結婚前のことで、従って僕は祖父母の中で母方の祖母だけ全く知らない。

 この世代はかくも戦争結核に痛めつけられたのである。母も幼時は病弱だったようで、祖父は心配だっただろう。今の住所と近い足立区北部に住んでいたのだが、勉強は出来たので本当は第七高女に行きたかったらしい。今の小松川高校である。ここは中学教員時代にずいぶん生徒を送ったところだが、江戸川区だから足立区からはちょっと離れている。そこで東武線一本で行ける「東京都立浅草高等実践女学校」商業科に進学した。今回同窓会名簿を見つけたが、昭和19年(1944年)に卒業している。東京都制は1943年からだから、入学したときは「東京市立浅草高等実践女学校」だったのだと思う。

 ここは戦後になって他の学校とともに都立台東商業高校になった。以前勤務していた墨田川高校定時課程などと統廃合されて、現在は「都立浅草高校」という三部制高校になっている。僕はその立ち上げに少し関与したのだが、由来を調べると母の通った学校につながるので驚いた。このように自分の教員人生もところどころで親の世代とクロスしていきたのである。ところで、戦時中の女学校のことだから、当然のごとく学業よりも勤労動員である。下町の学校として、動員された工場は鐘淵紡績だった。21世紀になって破綻し、今では化粧品母ランドとして花王グループになったカネボウの前身である。
(昔の鐘紡工場)
 1945年3月10日未明、東京東部地区は米空軍の絨毯爆撃を受けた。鐘紡工場も焼失した。もちろん真夜中のことだから、家に帰っていた母親は無事である。しかし、下町一帯に住む友人の中には犠牲になった人もいた。空襲後に手紙が届いたという「死者からの手紙」もあったらしい。東京大空襲の恐怖と悲劇の記憶は何度も聞かされた。僕の世代も、川本さんの世代も経験しなかった「戦争と結核」はかくも母の人生に影響してきたのである。

 詩人茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた」とうたった。1926年生まれと母より一つ年上である。しかし、母親に関してはむしろ「敗北を抱きしめて」(byジョン・ダワー)戦後を生きたのではないか。もともと文学少女的気質だったので、気兼ねなく外国文学を読めて、外国映画(特にフランス映画)を見られるというのは「解放」だったと思う。そして地元の東武鉄道に勤めるようになって、組合の同僚と一緒に新劇を見に行ったり、ハイキングに行ったりした。そういうことが可能な戦後になったわけである。
(結核死者の移り変わり)
 川本さんの文を読んで、病床にある母の世代のことを書いておきたいと思った。関東大震災から福島第一原発事故まで、一家の中に日本の近現代史が見え隠れする。その中でも特に母の一家における「結核」の恐ろしさはちょっと言葉にならない。戦争は時々まだマスコミで報道されるが、結核がこれほど恐ろしい死病だったことは、今の若い人は知らないのではないか。僕が戦争に関して考える最初のきっかけも、このような両親の体験とは無関係ではなさそうである。そして出来るだけ次の世代にもこの記憶をつなげて行ければと思うのである。
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『現代社会の比較社会学』ー見田宗介著作集を読む⑥

2022年12月21日 22時23分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介著作集を毎月読んでいくシリーズ、6回目は第Ⅱ巻『現代社会の比較社会学』を読んだ。しかしながら、前回の第5巻『現代化日本の精神構造』と同じく、一体自分は何しているんだろうと思う読書だった。一般的には読まなくていいと思うし、見田宗介研究を志す人以外は今ではあまり意味がないと思う。まあ僕は全巻読むと決めたので順番に読んでいくけど。

 この巻には5つの文章と対談が入っている。85頁から173頁までが小阪修平との対談「現代社会批判」なので、論文は半分以下。最初にある「鏡の中の現代社会」「〈魔のない世界〉ー「近代社会」の比較社会学」は岩波新書『社会学入門』(2006)の第1章、第2章として発表されたもの。どちらも大学の社会学講義で初心者向けに語られていて、特に前者は「雑談」なので短いながら味わい深い。「現代」の中で生きる我々は、自分たちの「自明性」に囚われている。見田さんはインド、メキシコ、ブラジルなどが好きで、雑談風に読む(聞く)ものの「自明性」を突き崩していく。後者も柳田国男を手がかりにして、我々の「自明性」を揺さぶる。この2つの文章は今でも生きていて、いろんなところで使えると思う。旅が好きで「比較社会学」に進んだと書いてあった。

 次の「孤独の地層学ー石牟礼道子『天の魚』覚書」は1980年に講談社文庫に収録された石牟礼道子『天の魚』の解説として書かれたもの。最初は水俣病を書くノンフィクション作家と認識されていた石牟礼道子をきちんと評価した最初期の文章だろう。でも今ではちょっと判りにくいのではないか。続いて「時の水平線。あるいは豊穣なる静止ー現代アートのトポロジー:杉本博司『海景』覚書-」は著作集刊行当時(2011年12月)には未発表で、現代アート作家の杉本博司(1948~)の代表的シリーズ『海景』を論じたものである。僕は杉本博司の名前も知らなかったが、2017年に文化功労者に選ばれている。若き日にニューヨークで出会った杉本氏のアートを簡潔に論じた論文は非常に面白い。
(杉本博司『海景』シリーズ)
 5つ目の「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」は、はっきり言って全く判らない。岩波講座「現代社会学」第1巻(1997年)に発表されたものだというが、フーコーを全体としては評価しながらも「性の歴史」の叙述には問題があるという指摘をしている。フーコー自体が難しいが、それを批判的に検討している文章が僕には全く判らない。別にどうでもいいんじゃないのとしか思えない。ただ若いうちはこういう難解な論文にも接した方が良い。
 
 そして最後に対談「現代社会批判」である。対談相手の小阪修平(1947~2007)は東大全共闘で活動した人で、有名な三島由紀夫と東大全共闘の討論にも出ていた。東大中退後、駿台予備校で教えながら、現代哲学を判りやすく論じる本を80年代から何冊も出していた。1986年に出た『現代社会批判 - 〈市民社会〉の彼方へ』という対談を圧縮して収録したと書いてある。見田氏とは16年ぶりで、東大時代に若手教員対全共闘として激論を闘わせた間柄だという。
(小阪修平、三島由紀夫と全共闘の討論)
 原本の副題にあるように、「市民社会」の歴史を縦横に論じているが、難しくて全然判らない。今では僕はヘーゲルやマルクスやスピノザに全然関心がなく、というか理論的な問題設定には昔から関心が薄いけど、それでも85年という対談した時代は昔だったなあと思う。「第三世界」という言葉が頻繁に使われているが、実際には80年代後半にソ連のペレストロイカが始まり、「第二世界」がなくなってしまった。アメリカや西欧が第一、ソ連圏が第二、「発展途上国」が第三ということだった。中国は自ら「第三世界」の代表を任じていたが、今じゃどうなんだろう。中国が「第二世界」の代表になって、もっと下位の最貧困国が第三だろうか。でも、今では「第三世界への思い入れ」を持つ若者などどこにもいないだろう。
(予備校で教える小阪修平)
 「圧縮」したことの関係もあるのか、この対談は非常に判りにくい。こういうのを昔は皆が読んでいたのかと思うと驚きである。たった40年ほど昔だが、「論壇考古学」の対象とでも言いたくなる感じ。まあ、読む人は限られているだろうけど、見田宗介氏の多彩な仕事ぶりが判る本でもある。しかし、次はもっと今でも生きている本を読みたいなと思った。
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2022年ワールドカップ・カタール大会

2022年12月20日 23時05分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 ワールドカップ・カタール大会アルゼンチンの優勝で終わった。正直、今回のワールドカップは見てるような、見流しているような感覚だった。決勝戦は前半だけ見て寝てしまった。前日の3位決定戦、クロアチア・モロッコ戦を見ていて、もう十分満足というか、翌日も深夜に全部見るのは無理だった。前半だけなら、アルゼンチンの完勝である。2点入ったというだけでなく、シュートもコーナーキックもフランスはゼロだった。日本代表もそうだったように、フランスもこのままでは終わらないとは思ったけれど、PK戦までもつれるとは予測出来なかったのである。
(優勝したアルゼンチン)
 アルゼンチンは何しろリーグ戦初戦で、サウジアラビアに負けるという大波乱スタートだった。その後、メキシコとポーランドに勝ってCグループを1位で突破したものの、優勝まで行けるのかは疑問もあった。今回リーグ戦を3戦全勝、勝点9で突破したチームは一つもなかった。だが、2勝1分けの勝点7で突破したチームは2つあった。オランダイングランドである。またフランスブラジルも好調そうに見えた。それが終わってみれば、結局はメッシのための大会のような終わり方になった。メッシのPKを見ると、やはりものすごい技能だと感嘆するしかない。

 今回は日本時間で深夜の試合が多かった。グループリーグ最終戦の日本・スペイン戦は、朝4時から。あるいは準決勝アルゼンチン・クロアチア戦フランス・モロッコ戦も朝4時からで、これではとても見てられない。しかし、今は基本的には外出を控えて、病院からの電話に備えているので、深夜12時からの試合なら頑張って見られないこともない。だから3位決定戦と決勝戦は見ようかなと思ったわけである。今回は日本チームがドイツ、スペインを破ってグループ1位で突破したことで、日本国内では大きく盛り上がった。ここでは日本代表のことは書かない。監督の選手選出や起用法には、基本的には口を出す気はないし。

 見ていてやはり凄いなと思うのは、フランスのエムバペ。フランス語表記はMbappéだから、「ムバペ」で良いと思うのだが、昔のカメルーン出身の「エムボマ」(Mboma)以来、発音しやすいように「エ」を入れる慣習になってしまった。それぞれの国に独自の表記法があって構わないと思うけど、これだけ国際化した時代にアフリカではよくある「ン」「ム」で始まる名前を日本人も発音できた方がいいんじゃないか。それはともかく、前回10代で初出場して4得点をあげてヤング・プレーヤー賞を獲得したのは僕の記憶に鮮烈に残っている。今回は決勝戦で何とハットトリック、全部で8得点で得点王となった。PK戦敗退の準優勝では不満だろうけど、まだまだ次や次の次でも大活躍しそうである。
(エムバペのシュート)
 チームとしてはモロッコが素晴らしかった。アフリカ代表初のベスト4。(アジア代表では2002年日韓大会の韓国がベスト4に進んだ。)しかし、「ブラック・アフリカ」のチーム、今回はセネガル、ガーナ、カメルーン(今までに出たナイジェリアやコートジボワール)などとはかなり趣が違う気がする。フランスなど海外生まれのモロッコ選手を集め、ヨーロッパのチームと遜色のないような試合運びに見えた。元日本代表監督のハリルホジッチを直前に解任して、ヨーロッパで活躍した元選手のレグラギ(モロッコ、フランスの二重国籍)に変えたのが、どう出るかと言われていたが、完全に功を奏した。
(モロッコ代表)
 モロッコはリーグ戦では最終カナダ戦の1失点、トーナメントでもスペイン、ポルトガルにも得点を許さなかった堅守が凄い。ゴールキーパーのブヌは名前を覚えた。さすがに疲れたか、準決勝のフランス、3位決定戦のクロアチアにはそれぞれ2失点をしたけど、7試合で5失点だから立派なものである。(アルゼンチンは7試合で8失点。フランスも7試合で8失点である。)ウィキペディアを見ると、モロッコは女子チームにも力を入れていて、2部まであるプロ女子リーグがあるのは、世界でモロッコだけだと出ている。イスラム圏では珍しいことで、2023年の女子ワールドカップ(オーストラリア、ニュージーランド共催)でも、アフリカの2位で出場する。注目しておきたい。
(ブラジルのリシャルリソン)
 なお、一番凄かったシュートはブラジルのリシャルリソンだったと思う。特にセルビア戦の最初の得点、オーバーヘッドシュートを打てるのがやはりブラジルということだ。開催国カタールは地元の利と、じっくり自国リーグ所属選手で練習したことから、台風の目になるかと思った。何しろ前回のアジアチャンピオンなのである。しかし、日本、韓国、オーストラリアが16強進出という中で、カタール代表はわずか1得点で3連敗。歯が立たなかったわけだが、やはりヨーロッパの本場で活躍する経験がないとダメなんだろう。それが現実というものだ。

 なお、前回「ワールドカップ16強、死刑があるのは日本だけ」という記事を書いたけど、今回は日本アメリカだけである。モロッコは制度としてあるけど執行停止中。韓国も同様で、「事実上の廃止国」扱いされる。セネガルは死刑廃止国。ヨーロッパ、南米は全部廃止国で、カナダ、メキシコも廃止している。ところで前回はロシア開催だった。カタール開催でイスラム圏が変わるきっかけになればなどという甘い予測をすることは不可能だ。ロシアでさえ、多くの観客を世界から受け入れながら、今ではあんな感じになってしまったのだから。
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四万温泉・積善館、日本一の温泉宿ー日本の温泉㉔

2022年12月18日 22時40分58秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 2年間書いてきた「日本の温泉」シリーズ。今回で終わりにして、次からは新しいシリーズを考えている。最後は四万(しま)温泉で、これは早くから決めていた。僕が何度も行ってるのは日光湯元別所四万温泉である。中でも四万こそ僕は日本のベスト温泉だと思っている。群馬県の北西部、中之条町にあって、草津伊香保と並んで「上州三名湯」と呼ばれている。でもテレビの旅番組には圧倒的に草津、伊香保ばかり出て来るのが残念だ。
(積善館の元禄風呂)
 四万温泉には30近くの宿があって、今もレトロな温泉街が残っている。いい宿がいっぱいあるけど、何といっても積善館が素晴らしい。特に「元禄風呂」が本当に日本一満足出来るお風呂だと思っている。もちろん元禄時代に作られたわけじゃなく、1930年建造。元禄というのは、宿が開設された時代なのである。1691年に、四万村の名主を務めていた関善兵衛が湯宿を開いたと伝えられる。この当主の名前(代々受け継がれている)が、旅館名の由来。『千と千尋の神隠し』の湯屋のモデルとも言われる(公式的には触れられていないというが)本館は1897年、1898年に建てられたもの。
 (積善館本館)
 これらの古い建物が現役で使われているのが気持ちいい。だが決して「古びた宿」ではない。高級旅館の「佳松亭」、趣のある「山荘」、今も湯治宿風の「本館」と3つのタイプがあり、どこに泊まっても元禄風呂を利用出来る。もちろん他にも風呂はあるし、貸切風呂もあるけど、やっぱりトンネルを歩いて元禄風呂に行きたくなってしまう。(山荘に泊まった時の話。元禄風呂は本館の真上にある。)広々した空間に湯船が5つ。並々とお湯を湛えていて、入ると湯が溢れていく。至福だなあと思う瞬間だ。もちろん源泉掛け流し。四万温泉はどこに泊まってもすべて掛け流しである。

 積善館はまた料理の美味しさでも際立っている。今は大体どこでも一定レベルの美味しさの料理が出て来るが、積善館の料理は抜けていると思う。もっとも泊まったのは大分前だけど、レベルは落ちてないと思う。ということで、あらゆる点から積善館は文句なしで一番だと思っているが、他の宿も素晴らしい。一番最初に泊まったのは、まだ若い頃「四万やまぐち館」に泊まって、若女将のアイディアに感心した。高級な方では「四万たむら」も泊まって、お湯も料理も良かったけれど、温泉を利用した暖房が温かすぎて真冬に行ったのに暑くて寝られなかった。「四万グランドホテル」は「たむら」の系列で、どっちの風呂にも入れた。夕食がバイキングで、その分安いからコスパ的に四万入門的な宿かもしれない。「鍾寿館」はお湯がいっぱい出ていて大満足。
(レトロな温泉街)
 四万温泉の宿は4つの地区に分かれていて、案外遠い。川に沿った細長く温泉が何カ所か出ている。町をブラブラ歩くと、古い土産物店、娯楽場などが残っていて、実にムードたっぷり。飲泉所があちこちにあって、源泉を飲ませてくれる。ここは「三大胃腸病の名湯」と呼ばれるほど効能が高い。泉質はナトリウム・カルシウム 塩化物硫酸塩温泉(積善館の場合)で、無色透明な湯である。だから一見すると特に効能もない気がするんだけど、「四万」とは「四万の病に効く」というぐらいの名湯なのである。
(河原の湯)
 共同浴場も4つあって利用しやすい。特に「たむら」近くにある「河原の湯」は川の合流点にあって形も面白い。だけど、僕はやっぱり四万温泉は泊まってじっくり浸かるお湯だと思う。若い頃は自分も四万温泉の泉質の良さに気付かなかった。普通っぽく思っていた。一浴、これは凄いと思う温泉は日本にかなりある。白濁していたり、泥や湯ノ花がすごいお湯など、確かにオッと思う。昔から「草津の仕上げ湯」と言われていた四万温泉は泉質が穏やかである。草津は強酸性で肌にピリッと来るぐらい。それだけ効き目もありそうだが、年を取ってくると強すぎる感じがする。僕も四万温泉がいいなあと思って、あちこち旅館をハシゴし始めたのは50を過ぎてから。体の内から外から、ゆったりと出来る感じでとてもいい。
(奥四万湖)
 四万温泉は歓楽的な要素はほぼない。大旅館もあるからカラオケぐらいはあるかもしれないが、あまり団体で来て騒ぐ雰囲気ではない。草津の湯畑、伊香保の石段のような超有名観光スポットもない。温泉に行く手前に「甌穴」(おうけつ)という天然記念物があるのと、日向見薬師(ひなたみやくし)という重要文化財の茅葺きのお堂があるぐらい。実に地味なところである。最近一番奥にあるダム湖(奥四万湖)がコバルトブルーで美しいと評判で、カヌーをやる人が増えてきた。でも、まあそれぐらいで、確かに温泉初心者の若い人なら、伊香保や草津にまず行くべきだろう。友人、恋人と行って面白いのはそっちである。でも、段々体の不具合が実感できる年になれば、四万温泉の良さが身に沁みると思う。(なお若山牧水新編みなかみ紀行』(岩波文庫)を読むと、明治時代の四万温泉が出て来て非常に興味深い。)
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小泉悠『ウクライナ戦争』、年末必読の書き下ろし新書

2022年12月17日 22時39分46秒 |  〃  (国際問題)
 2022年も残り少なくなってきたが、今年最大のニュースは間違いなく「ウクライナ戦争」だ。世界のあり方を大きく変えてしまい、その影響は今後も長く続くだろう。年末の日本で起こった「防衛政策の歴史的大転換」もその一つの表れと言える。その問題はいずれじっくり書きたいが、取りあえず「ウクライナ戦争はなぜ起こり、どのように推移してきたのか」を振り返っておくことは大切だ。そのために役立つ本が年末に出された。小泉悠ウクライナ戦争』(ちくま新書)である。
(『ウクライナ戦争』)
 この本の帯には「戦場でいま何が起きているのか?」「核兵器使用の可能性は?」「いつ、どうしたら終わるのか?」「全貌を読み解く待望の書き下ろし」と出ている。早速読んで、とても役に立つ本だった。先の問いを中心に、今までの経過をていねいに追っていく。そのことではっきりと見えてくることがある。僕はこの戦争が起こるまで、小泉悠という人を知らなかったが、2021年5月に出た『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)を読んで、ここで紹介した。(「小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』ープーチン政権の危険を暴く」)その後、文春新書から9月に出た『ウクライナ戦争の200日』も読んだので、一年間で3冊も読んでしまった。自分のほとんど知らなかったロシアの軍事思想を細かく研究している人がいるのに驚いた。
(『現代ロシアの軍事戦略』)(『ウクライナ戦争の200日』)
 12月上旬刊行ということで、脱稿は9月だと出ている。だから1年間すべてを書いているわけではないけれど、晩秋からは少し情勢が停滞している感じがある。ロシアのミサイル攻撃は続いているし、ウクライナ側と目されるロシア軍事基地へのドローン攻撃もあった。だが、恐らくは季節的要因(秋以後に湿地が広がり戦車の進軍などが難しいと言われる)や戦備上の要因などで大きな変化はないようだ。それに一番重要なのは、開戦へ至る経緯と直後の問題、およびプーチン大統領が述べる戦争の原因が正しいのかという問題である。それを具体的な資料に基づいて検討している。年末に是非読んでおくべき本だ。
(小泉悠氏)
 2014年の「マイダン革命」(親ロ政権の崩壊)後のクリミア半島併合ドンバス侵攻を、著者は「第一次ウクライナ戦争」と呼ぶ。しかし、本書ではそれは詳しくは触れられない。この本では2021年春の軍事的危機から論じられている。この時点でアメリカでバイデン政権が誕生し、あからさまにロシア寄りだったトランプ大統領が退陣する。ウクライナ国内でも親ロ派政治家が活動し始めて、ゼレンスキー政権には焦燥の色が見え始めた。ゼレンスキーは親欧米派のポロシェンコ大統領のもとで対ロ交渉が進まないことを批判して大統領に当選した。だから当初はプーチン政権と交渉しようとするが、プーチンに相手にされない。

 この開戦前夜に至る分析こそ、他書にはない貴重な部分だと思う。日本では結構「ロシア派」が存在している。もともと「大国主義的価値観」を持つ人々(森喜朗元首相など)、自国の過去の過ちをきちんと清算出来ない人々がロシアの侵略戦争に宥和的なのはある意味当然である。しかし、何故かヴェトナム戦争では小国の抵抗を熱く支援していた人、「左派・リベラル」と呼ばれる層の中にも、「どっちもどっち」とか「すぐに停戦を」とか「侵略責任」をあいまいにする主張がある。そういう人たちはゼレンスキー政権の対応がロシアの侵攻をもたらしたかの主張をするのだが、実際はプーチンの方が着々と侵攻作戦を計画していたことは明らかだ。

 それでも何故「2月24日」だったかは、現時点では判らないとする。遠い将来ロシア側の資料が公開されるまでは確定できないが、プーチンの頭の中で起こったことである。当初は明らかに「電撃作戦」でキーウを陥落させ、ゼレンスキー政権を崩壊させることを考えていた。そのためにウクライナ国内で「内通者」を確保していたという。それらの「スリーパー」は実際には全く役に立たなかった。軍事施設ではない市民の居住地域にもミサイルを撃ち込むロシアに対する怒りが全土で燃えあがる中で、とてもゼレンスキー政権に取って代わるような動きは出来なかっただろう。(小泉氏はそもそも「内通者」グループは、ロシアから金を巻き上げるペーパー・カンパニーだったのではないかと推察している。)

 戦争はロシアの攻勢から、次第に膠着状態に陥り、やがてウクライナ側の反撃も始まった。反撃をもたらしたのは欧米の武器支援が大きい。小型ミサイルの「ジャヴェリン」を抱く聖女が描かれて大ブームになったのは、その典型例である。ただ、それだけではなくロシアの戦争指導の問題も指摘している。プーチンの「マイクロ・マネジメント」がロシア軍を悩ませているのではという指摘もある。つまり、何事もプーチンの決定がないと進まない、プーチンが現場に口を出しすぎるというか、誰もプーチンに反対できないことから「上ばかり気にする」状態になっているという。
(アパートに描かれた「聖ジャヴェリン」)
 今後どうなるかは予測出来ないが、ロシアは「まだ本気を出してないだけ」ということも言える。だが大々的な動員を掛けて大軍を送り込むことは、現在ではヴェトナム戦争のアメリカ軍のように「反戦運動」として跳ね返る可能性もある。核兵器を使用するとか、大規模な都市空爆をするというのも、リスクが大きすぎると著者は考えている。僕も同じだが、それを言えばこのような大規模侵攻作戦も難しいと著者も考えていた。結局、プーチンの頭の中をのぞけない以上、誰も確定的なことは言えない。

 最後に未だに「マイダン革命はアメリカによるクーデタだった」とか「ウクライナ政府はネオ・ナチだった」「ドンバスではウクライナ軍による親ロ派住民の虐殺が起こっていた」など、極度に偏ったロシア(というかプーチン大統領)の主張を日本でも主張する人は、本書の最後にある「プーチンの主張を検証する」を熟読玩味するべきだろう。本書の中にはロシアの軍事思想など難しい部分もある。しかし、おおむね判りやすく、公平な叙述になっていると思う。ウクライナ、あるいはゼレンスキー大統領側の問題点も指摘している。だが本質はロシアの侵略戦争なのである。
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田中甲と村越祐民ー二人の市川市長をめぐって

2022年12月15日 22時37分56秒 | 政治
 2022年12月4日に東京都品川区長選の再選挙が行われた。10月2日の最初の選挙でいずれの候補者も法定得票(有効得票総数の25%)を獲得できなかったのである。そういう場合、日本の選挙法では「再選挙」が行われることになっている。これは「決選投票」(一度目の上位2人による選挙)ではないので、1回目に出た全ての候補者だけでなく、新たな候補者も含めて誰もが立候補出来る。これは不自然な制度だと思うけど、今はそのことを論じたいわけではないので、これ以上触れない。品川区長選では「再々選挙」になるのではとも言われたが、1回目でトップだった候補に票が集まって当選となった。

 今まで「再選挙」は7回あって、最初が1979年の千葉県富津市長選。さすがに昔のことで覚えていない。僕が覚えているのは、2003年の札幌市長選2017年、18年の千葉県市川市長選の2回である。市川と同じ2017年に鹿児島県(奄美大島)の西之表市長選も再選挙になっているが、そっちは全く覚えていない。何で市川を覚えているかというと、昔住んでいたからである。僕は人生の大部分を東京都足立区に住んでいるが、1985年から91年にかけて千葉県市川市の一軒家に住んでいたのである。

 その市川市長選の再選挙(2018年4月22日)で当選したのは、村越佑民(むらこし・ひろたみ)だった。次点は田中甲(たなか・こう)。そして4年後の市長選(2022年3月27日)では現職の村越が落選し、今度は田中が当選した。村越は市長時代にいろいろと「話題」になったので、覚えている人もいるかもしれない。それは後で触れるが、結局その問題が「命取り」になったようである。全国的には、この2人の名を知っている人は少ないと思う。実はどちらもかつて民主党衆議院議員だったのである。そして、僕はこの二人に関しては、小さな縁があってずっと注目してきた。市長選をめぐって、そこには深い人間ドラマがあった。
(田中甲現市川市長のポスター)
 まず、現市川市長の田中甲(1957~)から書きたい。画像を検索したら、今回の市長選のポスターが出て来た。「こう!と決めたら田中甲」とある。懐かしいな、まだこのキャッチフレーズでやってるんだ。この言葉が書かれた選挙ハガキが僕の家に送られてきたのは、1987年のはずだ。その年、田中甲は新人として市川市議会議員選挙に立候補して当選した。まだ30歳という若手だった。なんで僕の所にハガキが来たのかと言えば、大学が同窓だということ以外考えられない。学年は一つ違うようだが、ほぼ同年代である。同窓会名簿を見て、市川在住者に軒並み送ったんだろう。自民党所属だったから、投票はしてないはず。

 その新人議員はあっという間に「出世」していった。まず、1990年に任期途中ながら、県議選補欠選挙に出馬して当選。続いて、1993年の衆院選に、またも任期途中で出馬。この時は自民党を離党して「新党さきがけ」から出て、旧千葉4区がこの時から定数が5人に増員されていたおかげで、最下位の5位で当選した。同じ選挙には日本新党から長浜博行(現参議院副議長、立憲民主党)が当選している。僕はその時はもう市川市民ではなかったので、入れるも入れないもないのだが、市議から県議、国会へとホップ、ステップ、ジャンプで転身した田中甲という人には注目していた。

 その後、1996年の「民主党」結成に参加し、小選挙区(千葉県第5区)で千葉県唯一の民主党当選者となった。2000年にも当選したが、2001年に労働組合の支援を受ける民主党に反発して、離党の動きを見せた。現在の立憲民主党、国民民主党を見ても、労働組合と政党の関係は昔から揉めてきたのである。民主党は旧社会党、旧民社党、保守系グループが合体して発足したから、複雑な内情があったのだろう。しかし、僕は「今は自重して、まずは政権交代を目指すべき」と考え、まだ使い始めて間もなかったインターネットでメールした覚えがある。だが結局田中は離党して、「政党・尊命(たける)」という政党を立ち上げた。

 2003年の衆院選には、現職田中がその一人政党から出たが、自民と民主はもっと若い候補を立てた。それが自民党の薗浦健太郎(31歳)と民主党の村越祐民(29)だった。田中も立つから自民有利かと予想していたら、村越が1万2千票差で薗浦に勝ち、田中は4万票余りで第3位で落選した。以後、村越、薗浦が交互に当選することになる。05年は薗浦、09年は村越、12年は薗浦という具合である。そして、お互いに落選したときは比例区でも当選出来なかった。9回の選挙すべて、比例当選者がいない珍しい選挙区である。なお、12年以後の総選挙はすべて薗浦が勝って4連勝中だが、現在、政治資金の過小報告疑惑で東京地検の捜査を受けている。
(村越祐民のポスター)
 村越は青山学院大卒業後、外資系企業に1年勤めて早稲田大学大学院に入った。在学中に民主党の公募に応じて、千葉県議選に立候補。半年後に田中離党後の衆院議員候補に選ばれ、29歳で国会議員となった。結局、03年と09年の2回しか当選しなかったのだが、それでも僕が村越の名をよく記憶しているのは、死刑廃止議連の事務局長をしていたからである。死刑廃止を目指す議員連盟は、長く亀井静香会長、保坂展人事務局長で活動していたが、保坂が落選したため村越に代わったのである。僕は死刑廃止の集会で何回か村越のあいさつを聞いたが、余り一般向けしないテーマに取り組む姿勢に好感を覚えていた。

 この間、田中甲は2009年には「みんなの党」から、12年には「日本維新の会」から比例単独で出たが、いずれも落選した。以後は国政選挙は出ていないようである。村越は12年に落選後、14年も出馬したが落選し、17年は民進党から出馬を予定していたものの「希望の党」をめぐるゴタゴタで公認が取れず出馬しなかった。この二人が再び相まみえたのが、2017年11月26日に投開票された市川市長選だった。その時は野党統一の村越が2万8109票で首位に立ったものの、得票率23.61%で法定得票に達しなかった。2位は自民推薦の坂下茂で2万7725票、3位が田中で2万6128票、4位が元市議の高橋亮平2万0338票、5位が元県議の小泉文人の1万6778票という僅差だった。1万2千票ほどの間に5人の候補がいる稀に見る大接戦である。

 そこですぐに再選挙になるはずが、選挙の異議申立てがなされたため選挙が出来なかった。その間に現職の大久保市長が12月4日で任期満了。再選挙は4月22日投開票となった。市長が4ヶ月以上も不在だったのである。再選挙には村越、田中、坂下の3人が立候補、結局は1回目1位の村越が4万6141票と2万近く伸ばして当選し、田中甲が4万2931票で次点になった。再々選挙になると、首長不在が長くなる上に選挙予算がかかる。再選挙では前回1位候補に票が集中して、再々選挙を避けようという有権者の意向が働くようである。それを考えると、法定得票の基準を下げて「20%で当選」などとする変更も考えるべきではないか。

 さて、それで終われば良かったのだが、この村越市政が非常に評判が悪かった。いや、子育て政策など一生懸命やっていたと評価する声もあったようだが、一般的には失敗と受けとめられた。2019年7月、公用車にテスラの電気自動車を選んだ。地球温暖化を考慮したというが、それまでの公用車に比べてリース代が月14万円も高くなったという。国産の電気自動車でも良かったのではと批判された。さらに2021年4月に市長室のトイレにシャワーを取り付けていたことが判明した。すでに市役所には3つのシャワーがあり、工事費が360万円したとか。それ自体の問題もあるが、僕はそれ以上に「説明責任」がうまく果たせなかったことが大きいと思う。市長が専断して議会に批判されることになった。
(当時使われたテスラ)
 ということで、2022年3月27日に行われた市川市長選では現職の村越市長が惨敗した。もともとの支持層である野党系も別の女性候補を立て、田中甲は今度は自民党に復党申請して保守系をまとめた。その結果、田中甲が6万5567票で完勝。次点は守屋貴子の4万6253票で、村越は1万5159票しか取れず、有効投票の9.9%なので供託金没収になってしまった。田中甲は2001年に民主党を離党して以来、出る選挙すべてで負けてきたが、22年ぶりに選挙で当選したのである。かつての若手議員も今や65歳。このように田中甲と村越祐民という二人の政治家は、不思議な運命で絡み合ってきた。全国的には知られていないかもしれないが、どこか人生上の教訓のようなものもあるかもしれない。
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地方自治体の首長に転じた「民主党」議員

2022年12月13日 23時07分52秒 | 政治
 映画を見てないし、政治、国際情勢もちゃんと考えて書く余裕がないと書いたばかりだが、他にも書ける問題があると気付いた。それは「選挙制度」や「国会議員トリビア」である。そのテーマなら、テクニカルな部分も多く、自分の考えもまとまっているので、すぐに書ける。さらに衆参両院の選挙制度は、今重要な議論のまとになっている問題だ。ちょっと前に「2009年に大量に当選した民主党議員はその後どうなったのか」を書いた。そのテーマは実は続きがあったので、まずそれから書きたい。

 それは「民主党議員から自治体首長に転じた議員」を考えるというものである。2012年以後、落選を繰り返すうちに地方自治体の首長選挙に出馬した人が多いのである。また、落選したわけではないが、請われて転身した人もかなりいる。そもそも自民党が強い中で、「民主党」から出た人はどういう人だろうか。小選挙区が世襲の政治家で占められ、若手が出る余地がないので「民主党」から出たという人がかなりいる。だから「清新さ」「庶民性」をウリに出来て、保守勢力が分裂したりすると当選しやすい。

 しかし、当選しても議会は圧倒的に自民党が多く、議案を通すためには結局「妥協」が進んで行く。あるいは「ポピュリズム」的な政策で失敗する。あるいは地方自治が「大統領」型なので、「お殿様」になってしまうなど「個人的資質が問われる」人もいる。地方自治を経験することで、また国政に戻って大きな変革をもたらすような可能性はあるのだろうか。

 まず、2009年「政権交代」選挙以前に、政令指定都市の市長に当選していた人がいる。例えば名古屋市長の河村たかしである。2009年4月、つまり政権交代直前に市長選に立候補して当選、以来市長を5回やっている。もともと民社党、自民党にいたが、1993年に日本新党から衆議院に当選。新進党、自由党を経て、民主党と5回続けて衆議院で当選していた。また2007年には北橋健治北九州市長に当選している。民社党議員から新進党を経て、民主党衆議員議員となり、北九州市長も4回当選。また同じ2007年に鈴木康友浜松市長に当選して4期当選。民主党から衆議院に2回当選し、05年の「郵政選挙」で落選していた。(北橋、鈴木ともに、23年引退予定。)これらはもともと民主党内でも「保守」系で、自民党にも接近して長期政権を築いた。

 さて、2009年に民主党から当選した議員では、現在知事になっている人が3人いる。玉城デニー沖縄県知事と三日月大造滋賀県知事、そして国民民主党だったもののつい最近和歌山県知事に当選した岸本周平である。また2015年に山梨県知事に当選した後藤斎(ひとし)もいる。後藤は2019年に長崎幸太郎に敗れて知事は1期で終わった。2022年の参院選では「日本維新の会」から比例区から出馬して落選した。これら4人はすべて落選して鞍替えしたわけではない。玉城は翁長雄志知事の死去に伴い、三日月は嘉田由紀子知事(現参議院議員)の引退に伴い、それぞれ請われて転身した。やはり知事ともなると落選後の転身は難しいのかもしれない。
(玉城デニー沖縄県知事)(三日月大造滋賀県知事)
 同じく政令指定都市の市長も、2012年以後も当選していた人が多い。代表格が郡和子仙台市長である。東北放送アナウンサーから、2005年に衆議院に当選して4回当選した。2017年に野党統一候補として仙台市長選に立候補して当選、2021年に再選された。しかし、次第に自民党にも接近し、各党と「等距離」を強調しているようである。議会との関係がやはり難しいのである。
(郡和子仙台市長)
 2019年に相模原市長に当選した本村賢太郎も2012年には落選したものの、2014,17には比例で復活当選していた。一方、岐阜市長に3回当選している柴橋正直は2012年に落選後、14年に市長選に出馬、18年、22年と再選されている。国会議員は1期だけだから、むしろ地方政治家として重要な仕事をしている。いちいち細かく書くのも面倒だから、後は名前だけ挙げておくと、中根康浩(愛知県岡崎市長)、石井登志郎(兵庫県西宮市長)、岡田康裕(兵庫県加古川市長)、楠田大蔵(福岡県太宰府市長)、打越明司(鹿児島県指宿市長)、橋本博明(広島県安芸太田町長)などがいる。(一度当選したものの落選した人は他にもいる。)

 非常に複雑な経路をたどったのが、太田和美である。2006年に千葉7区から衆院補選に当選。まだ26歳だったことで評判となった。2009年には福島2区に転じて当選、「小沢ガールズ」と呼ばれた一人だった。2012年には小沢に従って離党して「日本未来の党」から出馬して落選。2013年参院選に「生活の党」から千葉県で立候補して落選。2014年衆院選で「維新の党」から出馬(千葉8区)して比例で当選。2017年には「希望の党」から出馬(千葉8区)から出て落選。その後「れいわ新選組」から衆院選候補者になったものの、2021年に千葉県柏市長選に立候補を表明して離党。衆院選と同時に行われた市長選で柏市長に当選した。このように野党系の複雑な離合集散に翻弄されながら、ようやく生まれ育った地元の市長に当選したわけである。
(太田和美柏市長)
 もうひとり独自の政治人生を送っているのが、徳島県の高井美穂である。もともとダイエー社員から民主党の公募に応じて、2000年衆院選に出馬して落選。その後結婚、出産をしながら、2003年(比例)、2005年(比例、繰り上げ当選)、2009年(徳島2区)と3回衆議院に当選した。その間、国会議員として産休を取るなど、若手女性議員として注目された。2012年に落選後、当初は国政復帰を目指していたが、2014年に県議選の立候補を明らかにした。地元の勧めの他、育児の苦労(東京への往復)などもあった。そして、県議を2期務めた後、2021年に徳島県三好市長に当選した。徳島県最西部、旧池田町や祖谷(いや)のあたり。
(高井美穂三好市長)
 これら女性首長がかなり登場していることは注目するべきだと思う。太田、高井らは地方の現場で2期程度務めたら、是非国政に戻ってきて欲しい。こういう人の中から、日本最初の女性首相が出るかもしれない。
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『白い病』と『マクロプロスの処方箋』ーチャペックの2つの戯曲

2022年12月11日 22時34分09秒 | 〃 (外国文学)
 いま映画を見に行けないし、政治や国際情勢の話をきちんと考える余裕もないけれど、本を読む時間はあるので本の話を書くことにする。いつもなら年末にはミステリーを読みふけるのだが、今年はそうもいかないから短い本を読むことにしている。ここでよく書いているカレル・チャペックの戯曲が2つ、阿部賢一訳で岩波文庫から出ている。それをこの機会に読んでみた。
(『白い病』)
 まず『白い病』(1937)。何というかあまりにも現在の世界に適合した内容で怖くなってくる。2020年に翻訳が出版されて、ちょうどコロナ禍ということで注目された。それから2年後、世界はウクライナ戦争で一変してしまった。この戯曲は中国から始まった恐るべき「チェン氏病」のパンデミックに襲われた世界を描いている。白い斑点が皮膚に出来るので、ハンセン病と見なされたが、50歳以上の人間が罹りやすく致死率が高い。そこへ有力者の枢密顧問官ジーゲリアス博士を貧しい医者が訪れる。

 貧民街で働くガレーン博士が特効薬を発明したというのである。当初は無視されたが、何とか大学病院の一棟だけで治療を許される。そして、どうやらその薬は本当に効くらしいのである。ただガレーン博士はこの薬の作り方を公開しなかった。彼の診療所を訪れる貧しい患者には与えるが、金持ちは診察しない。金持ちには権力があるので、戦争をなくすために力を尽くして欲しいというのである。戦争を止めない限り、恐るべき病の特効薬は世界に公開しないというのである。折しも同国では独裁者がパンデミックを利用して隣国に攻め入る。当初は優勢を伝えられたが、実は苦戦しているらしい。

 1937年という年代を考えると、これは基本的には反ファシズム文学だと言える。実際に初演時には登場人物の名前がドイツ名を連想させるとして、名前を変えるようにドイツ大使から要求されたという。それはクリューク男爵という名前で、当時のドイツ大使クリュッペに近かった。公演ではスウェーデン語のオラフ・クローグに変えられたという。僕はこの名前にドイツのクルップ財閥を想起したが、ガレーン博士は「白い病」を発病したクリューク男爵に対して武器の製造を止めるように求め、聞き入れるまで治療はしないというのである。果たして究極の問いに直面した人々はどう行動するだろうか。

 「白い病」は「ペスト」(黒死病)と対比されている。世界にはびこる戦争、ファシズムの恐怖を象徴するものでもあるだろう。しかし、そのような政治的暗喩からではなく、「病の文学」として読んだのはスーザン・ソンタグだったという。アメリカのラディカルな批評家だったソンタグは、長くガンをわずらい闘病の中で『隠喩としての病い』を書いた人である。翻訳刊行の2020年には思いも寄らなかったが、現在のウクライナ戦争を思うと独裁者はプーチンをも思わせる。一方で、医者が貧乏人のみ治療して、金持ちには戦争を止めない限り治療薬を与えないというガレーン博士の奇策は「医の倫理」に反しないのだろうか。

 いろんな読み方が出来る戯曲で、残念なことにと言うべきだろうが、時代遅れの古典になっていない。設定はもちろんずいぶん古いけれど、突きつける問いの重さは現在も生きている。亡命中のトーマス・マンが称賛の手紙をチャペックに送ったという。余りにも皮肉なラストも衝撃的。少しセリフを変えて、どこかで上演して欲しい気がする。
(『マクロプロスの処方箋』)
 『マクロプロスの処方箋』(1922)は、有名な最初の戯曲『ロボット』(1920)に続くものである。1918年に独立を達成したばかりの新生チェコスロヴァキア共和国の文化的リーダーとして、チャペックが大活躍していた時代である。自分たちの劇場で、自分たちの言語による創作劇を上演するというのは、重要な文化的意義を持っていただろう。しかし、チャペックの戯曲はナショナリズムを煽るようなものではなく、一貫して全人類的課題を追求している。最初の『ロボット』など、これでロボットという言葉が世界で定着してしまったぐらいである。

 『マクロプロスの処方箋』のテーマは「不老不死」である。100年続く裁判がどう転ぶか、その最終段階で現れた謎のオペラ歌手は一体何者か。時代を越えて多くの男を虜にしてきた300歳の美女、というトンデモ設定を上手に生かして、果たして不老不死は幸福なのかという問いを発する。『ロボット』『白い病』に比べると、僕は少しストーリーに混乱があると思ったが、ちょうど100年前に「人生100年時代」を問いかける戯曲を書いていたチャペックの恐るべき先見性に驚いてしまう。この戯曲の公演を見た有名な作曲家ヤナーチェクが1925年に『マクロプロス事件』というオペラにしている。その意味でも注目すべき作品である。
 (カレル・チャペック)
 カレル・チャペックという人は恐ろしいほど引き出しが多い人である。テーマ的にも、手法的にも実に多彩な作品を残している。小説、戯曲、評論、エッセイ、紀行、時事コラムなど多くの分野に渡って後世に残る仕事をなしとげた。劇作家としての活躍も非常に重大なものがあったと、この2作を読んで改めて認識した次第である。
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吉田喜重監督の逝去を悼む-『エロス+虐殺』『秋津温泉』の思い出

2022年12月09日 23時39分26秒 | 追悼
 映画監督であり、批評や小説でも活躍した吉田喜重(よしだ・よししげ)が12月8日に亡くなった。89歳。最近になく没後すぐに公表された。いま、名前を「よししげ」と書いたが、それが本名である。しかし、一般的には「きじゅう」と呼ぶことが多かった。最近特集上映などがなかったので、ここで書くことはなかったと思う。しかし、僕は非常に好きな監督で、日本映画史上でも重要な監督の一人と評価している。シネマヴェーラ渋谷で2008年6月21日から7月11日にかけて行われた「吉田喜重レトロスペクティブー熱狂ポンピドゥセンターよりの帰還ー」には頑張って通い、トークの後にサインを貰って握手した思い出がある。
(妻の岡田茉莉子とともに「徹子の部屋」で)
 最近映画監督の訃報を続けて書いているが、吉田喜重は89歳と高齢なので思わぬことだったという感じはしない。もっとも妻である女優の岡田茉莉子によれば、直前まで元気だったという。2020年には『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』という長大な小説を発表していて、映画は作らずとも近年まで厳しい問題意識を持ち続けていたのである。吉田喜重は福井県に生まれたが、戦後に家族とともに東京に移り、都立城南高校を経て東大仏文科を卒業した。城南高校というのは、現在では僕の最後の勤務校、六本木高校である。大学卒業後に松竹に入社した。東大卒が映画会社に入る時代になったのである。
(岡田茉莉子との結婚式で)
 映画史的には吉田喜重は「松竹ヌーベルバーグ」の一員として出発した。テレビが台頭して映画観客が漸減する中で、松竹は大島渚青春残酷物語』のヒットに味を占めて、若手助監督をどんどん監督に昇格させた。大島、吉田の他に篠田正浩、後の直木賞作家高橋治、大島映画の脚本家として知られる田村孟などである。1960年の『ろくでなし』でデビュー、続いて『血は渇いている』『甘い夜の果て』と作った。今見るとそんなに悪くもないと思うが、あまり印象に残らないのも確か。転機になったのは1962年の『秋津温泉』だった。スター女優岡田茉莉子の100本記念作品で、岡田自身がプロデューサーを務め、吉田に監督を依頼した。これをきっかけに二人は親密になり、1964年に結婚することになる。
(『秋津温泉』)
 『秋津温泉』は藤原審爾の原作を吉田が自由に脚色したもので、原作も読んでみたが映画の方がずっと面白かった。岡山県北部の「美作三湯」の一つ、奥津温泉が舞台となっている。戦時中に結核で死に場所を求めていた青年が、旅館の娘と知り合って生きる希望を取り戻す。その後の男と女の戦後史を描きながら、理想を失っていく男と変わらぬ愛に生きる女の姿を抒情的に描き出す。林光の音楽が素晴らしく、何でこうなっていくのかという理想と幻滅に寄り添っている。戦後の理想主義が破綻していくという寓意を愛の神話として定着させた。この映画が非常に好きなのは、僕はグズグズ煮え切らない「腐れ縁」映画が好きなのである。成瀬巳喜男の『浮雲』、ポーランドの『COLD WAR あの歌2つの心』、ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』などである。結局この映画は脚本が素晴らしい。それにもちろん、輝くばかりの岡田茉莉子の美しさ。

 1964年に岡田茉莉子との結婚式でヨーロッパに滞在中、『日本脱出』を無断で会社がラストシーンをカットしたことに抗議して退社。その後は独立プロ「現代映画社」で活動した。『水で書かれた物語』『女のみづうみ』『情炎』『炎と女』『樹氷のよろめき』『さらば夏の光』だが、最初の『水で書かれた物語』を除いて成功していない。多くの批評でも観念的に判りにくいという評価だと思う。僕もそうは思うけれど、露出過多の白っぽい画面の中に繰り広げられる運命のドラマは魅力がある。美的な感覚は満足出来るんだけど、ストーリー性がないと厳しいということか。

 その後はATG(アートシアターギルド)の映画が中心となる。第1弾が『エロス+虐殺』(1970)で、これは驚くべき大傑作だと思う。大正時代の大杉栄伊藤野枝神近市子らの有名な「自由恋愛」の破綻(神近市子が大杉を刺した日蔭茶屋事件)を現代の「フリーセックス」と絡めて描いている。当時はまだ神近市子(戦後に社会党から衆議院議員に当選)が存命で、公開中止の裁判を起こして問題となった。先頃亡くなった一柳慧の音楽が素晴らしく、長谷川元吉の撮影も見事。大杉役の細川俊之も忘れがたい。映画は傷害場面を何度も描くが、内容が違っている。「事実」と「真実」、さらに「歴史はこうあるべきだった」という痛切な歴史認識が見るものに刺さる。難しいけれど、これぞ「前衛」という作風で、よく判らないけど傑作を見てるんだという思いが湧き上がってくる。若い頃から何度か見ているが、何度も見ても心に響いてくる。
(『エロス+虐殺』)
 好きな2作で長くなったので、後は簡単に。その後、ATGで3本作ったが『煉獄エロイカ』(1970)は確かに難解すぎてよく判らない。『告白的女優論』(1971)も成功とは言えないが、岡田茉莉子、有馬稲子、浅丘ルリ子の3人をアート映画で並べたのは見応えがある。二・二六事件を描く『戒厳令』(1973)は別役実が脚本を書き、三國連太郎の北一輝が凄かった。政治的テーマだが、それまでと同じように「前衛」風に作っている。完全には納得出来ないのだが、問題作に間違いない。
(『告白的女優論』)
 その後長く映画を作らず、テレビの美術番組『美の美』を作り続けた。これは非常に評価が高かったけれど、僕はほとんど見てない。そうしたら、突然1986年になって西友(当時はセゾン系のスーパーだった)が出資して『人間の約束』を作った。これは佐江衆一原作の「老人問題」映画で、すさまじい迫力があった。僕はその迫力に打たれて、その年のベストワンだと思った。ここでも主人公の三國連太郎が素晴らしかった。凄い役者だと思う。興行的にも成功し、続けて『嵐が丘』(1988)を作ったが、こっちは意余って力足らずだったと思う。
(『人間の約束』)
 その後、1998年に『小津安二郎の反映画』を刊行し、鋭い小津論を展開した。もともと松竹時代に有名な「新年会事件」があり、吉田の小津批判に小津が怒ったとされる。もう映画は作らないのかと思ったら、2003年に『鏡の女たち』が公開された。これは原爆をテーマにした重厚な映画で、完全には納得出来なかったが問題意識の重要性には感動した。最後の著書もナチスの戦犯だったヘスをめぐるもので、ずっと戦争と責任の問題を考え続けた人だった。長いこと映画を作ってないし、作った映画はアート系の公開が多かった。よほどの映画ファン以外は見てない人が多いと思うけれど、このような大監督がいたと知って欲しいと思う。フランス政府は勲章を贈ったが、日本では何もない。まあそんなものは要らなかっただろうけど。
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江沢民、鮑彤、エンツェンスベルガー他ー2022年11月の訃報②

2022年12月07日 20時50分33秒 | 追悼
 2022年11月の訃報外国人編。時々同じ月に関連のある人が亡くなることがある。2021年11月に落語家の三遊亭円丈川柳川柳が亡くなったが、ともに6代目三遊亭圓生の弟子として「落語協会脱退騒動」を生き抜いた因縁の人である。一年後の11月は、1989年の「天安門事件」を境に人生行路が異なった二人の元中国共産党幹部が亡くなった。江沢民鮑彤である。

 元中国共産党総書記(第3代)、元中華人民共和国国家主席(第5代)の江沢民(チャン・ツェーミン、こう・たくみん)が11月30日に死去、96歳。もともとは機械技術者としてソ連に留学したテクノクラートで、82年に中央委員に昇格し、83年に電子工業相となった。1985年に上海市長、87年に中央政治局委員兼上海市党委員会書記に就任した。天安門事件当時は改革派と保守派の中間的立場にあったが、党中央に従って胡耀邦追悼座談会を報じた雑誌に停刊を命じ、それが中央の目に止まったとされる。そして、1989年6月の天安門事件後にすべての役職を解任された趙紫陽に代わって、党総書記、中央政治局常務委員に就任した。

 それまで政治局員ではあるもの常務委員じゃなかったんだから、これは紛れもなく「抜擢」である。誰が決めたかと言えば、それは鄧小平である。従って、現在の習近平のような「皇帝」ではなく、その下で働く「宰相」だったと言える。その後は詳しく書くまでもないと思う。一党独裁体制を維持しながら経済発展を進め、その点だけを取れば評価する声もある。習近平は「社会主義を守った」と追悼集会で述べたが、どこが「社会主義」なのか。単に言論の自由のない独裁政権を作り上げた。ただ、2002年に(2005年まで保持した国家軍事委員会主席を除き)中央の役職を退任したのは、今の習近平体制と違うところだった。
(江沢民)
 中国の改革派として知られ、趙紫陽元総書記の秘書を務めた鮑彤(パオ・トン、ほう・とう)が11月9日に死去、90歳。1980年に趙紫陽の秘書となり、国家経済体制改革委員会副主任、党組副書記を兼任した。87年には中央委員に昇格したが、89年の天安門事件で失脚。さらに中央委員としてただ一人逮捕され、国家機密漏洩罪で懲役7年の実刑を受けた。1996年に刑期を終えたものの、その後も当局の厳しい監視下に置かれていた。しかし、最後まで中国共産党のあり方を批判し続けた。「今の共産党は庶民を信用していないのだと思う。信用していないから、その口をふさごうとする」と2015年に朝日新聞記者の取材に語っていた。この二人は1989年に人生の明暗が分かれたが、100年後にはその評価が逆転していると僕は確信している。
(鮑彤=パオトン)
 ドイツの作家、詩人、評論家のハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーが11月24日に亡くなった。93歳。西ドイツを批判的に論評して、60年代、70年代には多くの翻訳がなされていた。現代ドイツの非常に重要な詩人、批評家と見なされているが、日本では訃報が報じられなかった。『何よりだめなドイツ』『政治と犯罪』『ハバナの審問』『スペインの短い夏』『ヨーロッパ半島』などが日本でも翻訳され、大きな反響を呼んだ。ドイツ統一後も発言を続けていたようだが、その後は『数の悪魔』のような数学を楽しみながら紹介する本が多く紹介されている。
(エンツェンスベルガー)
 映画監督のジャンマリー・ストローブが11月19日に死去、89歳。2006年に亡くなった妻のダニエル・ユイレとともに、商業的妥協を一切排した映画製作を続けた。フランス生まれだが、アルジェリア戦争への徴兵を拒否して西ドイツに亡命して映画を作り始めた。『妥協せざる人々』(1965)、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1967)などで世界的評価を得た。後者は大分遅れて日本でも公開されヒットした。他に『階級関係 カフカ「アメリカ」より』(1984)『シチリア!』(1999)など多数。アテネ・フランセ文化センターでたびたび特集上映が行われている。あまりにも厳格に娯楽性を排除しているので、見るのはなかなか大変だが、非常に重要なヨーロッパの映像作家だと思う。
(ジャンマリー・ストローブ)
 インドの弁護士、人権運動家のエラ・バットが2日死去、89歳。ガンディー主義に基づき、女性労働者の地位上昇のために力を尽くした。労働組合やマイクロ・クレジット銀行設立を進め、「自営女性労働者協会 (SEWA)」を設立した。これはインドだけでなく南アジア一帯で活動している。それらの活動は世界的に評価され、フィリピンのマグサイサイ賞、スウェーデンのライト・ライブリフッド賞、インドのインディラ・ガンディー賞、日本の庭野平和賞などを受賞した。日本ではほとんど知られず、マスコミの訃報もなかったと思う。今回調べていて初めて知った名前である。
(エラ・バット)
 アメリカの歌手、アイリーン・キャラが11月25日死去、63歳。1980年の映画『フェーム』に出演、主題歌も歌ってアカデミー歌曲賞を受賞。1983年の『フラッシュ・ダンス』の主題歌「フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング」も大ヒットし、2度目のアカデミー歌曲賞、グラミー賞を受けた。その後はレコード会社ともめてあまり活躍出来なかったという。
(アイリーン・キャラ)
エドワード・プレスコット、6日死去、81歳。2004年ノーベル経済学賞受賞者。
ガル・コスタ、9日死去、77歳。ブラジルの国民的歌手。カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらとブラジルの黒人音楽とロックなどが混交した「トロピカリズモ」を主導した。軍事政権による音楽検閲に反対し軍事政権と対立したことでも知られる。
マーハン・カリミ・ナセリ、イラン出身の難民。12日死去、72歳または75歳。1988年からパリのシャルル・ド・ゴール空港の片隅で暮らしていたことで知られる。自伝が映画『ターミナル』として映画化された。フランスの難民認定を受け、2007年にホームレス施設に収容されて19年間の空港生活はいったん終わったが、数週間前に空港に戻って第2ターミナルで心臓マヒのため死亡した。
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村田兆治、普久原恒勇、渡辺徹他ー2022年11月の訃報①

2022年12月06日 22時13分03秒 | 追悼
 2022年11月の訃報特集。映画監督の大森一樹崔洋一を別に書いたので、他の日本人の訃報を1回目に書きたい。最初に元プロ野球投手の村田兆治。11日に自宅の火災で亡くなったというニュースに驚いた。72歳。「マサカリ投法」と呼ばれた独自の投球フォームで知られ、通算勝利数217勝をあげた。1967年にドラフト1位で、東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。最優秀防御率3回(75、76、89)、最多勝利1回(1989)、最多奪三振4回などのタイトルを取った。もっとも通算勝利数は17位で、最多の金田正一の400勝どころか、同僚だった小山正明の320勝(3位)などには全く及ばない。
(マサカリ投法)
 それは1982年に肘を痛めて活躍出来ない年が続いたからである。82年4勝、83、84年は0勝だったが、当時の日本人投手には珍しくアメリカに渡って「トミー・ジョン手術」を受け、85年になって17勝5敗という鮮烈な復帰を成し遂げた。(カムバック賞受賞。)それ以後は日曜日ごとに登板し、「サンデー兆治」と呼ばれ、1990年まで22年間に渡って選手を続けた。なお、148暴投というプロ野球記録を持っている。引退後は子どもたちへの野球教室を続けていた。特に試合の機会が少ない離島の子どもたちのために「離島甲子園」を開催したことで知られる。
(晩年の村田兆治)
 猛練習、「人生は先発完投」というモットーで知られ、無骨な男として有名だった。1990年には「昭和生まれの明治男」が新語・流行語大賞の特別部門で妻とともに表彰されたぐらいだ。それだけに訃報のちょっと前に、飛行機に乗る際に暴行容疑で逮捕されたというニュースにはビックリした。新聞切り抜き用のナイフを持っていたと語っていたが、野球教室や講演に急いでいたんだろう。自分が曲がったことをするはずがない、俺のことを知らないかと思ったりもしたと思うが、それは通じなかったということか。火事で亡くなるとは痛ましいことだった。

 沖縄を代表する作曲家、普久原恒勇(ふくはら・つねお)が11月1日に死去、89歳。1965年に作曲した「芭蕉布」は「民衆の琉球国歌」などと呼ばれるほど有名になった。大阪で生まれ、レコード会社を経営していた伯父の養子になった。実父母の住む沖縄に戻って沖縄戦を体験し、戦後大阪に戻って西洋音楽を学んだ。60年代以降、多くの曲を作曲して全国的に親しまれた。「海の青さに 空の青」で始まる「芭蕉布」は多くの歌手にカバーされている。芭蕉布を戦後に復興させた平良敏子も9月13日に亡くなった。
(普久原恒勇)
 俳優の渡辺徹が11月28日に死去、61歳。1980年に文学座演劇研究所に入ったが、81年にテレビ「太陽にほえろ!」に出たことで知られるようになった。その後も大河ドラマ(『秀吉』の前田利家、『徳川慶喜』の西郷隆盛など)やバラエティ馬組にも出演し人気者となった。1987年には榊原郁恵と結婚して、明るいおしどり夫婦として知られた。最後まで多くの舞台に出ていた演劇人で、2001年菊田一夫演劇賞受賞。文学座の他、多くの商業演劇で活躍していた。30歳の時に糖尿病を発症し、以後も体重管理など大変だったようである。死因は敗血症だった。
(渡辺徹)
 俳優の白木みのるが2020年12月16日に亡くなっていたことが明らかになった。86歳没。1960年代のテレビ番組『てなもんや三度笠』で、藤田まこと、財津一郎らと掛け合いをして人気者になった。身長140㎝と非常に背が低かったので、子役に見えたけど実は大人で「そういう病気」みたいなものだと子どもながらに理解していた。吉本新喜劇などでも活躍していたというが、東京のテレビにはほとんど出なくなっていたので、訃報を聞いて思いだした。
(白木みのる)
 ノンフィクション作家のドウス昌代が11月18日に死去。1977年に『東京ローズ』を発表してデビュー。太平洋戦争下に米軍向け宣伝放送に携わった日系2世の女性を描き大きな話題となった。他に『ブリエアの解放者たち』、『日本の陰謀 ハワイ・オアフ島大ストライキの光と影』(大宅賞)や『イサム・ノグチ 宿命の越境者』(講談社ノンフィクション賞)など多数。夫のスタンフォード大名誉教授ピーター・ドウス(歴史学)もちょっと前の11月5日に亡くなっている。
(ドウス昌代)
 福音館書店の編集者(後、社長、会長)として多くの絵本、児童文学を送り出した松居直(まつい・ただし)が11月2日死去、96歳。絵の素養を生かして、いわさきちひろ、田島征三、安野光雅らを送り出すとともに、朝倉摂、丸木俊、堀文子らを児童書に起用した。また、寺村輝夫「ぼくは王さま」や中川里枝「ぐりとぐら」など多くのロングセラーを生み出した。自らも絵本を書くとともに、絵本に関する多くの研究書を残している。
(松居直)
 経済学者の小宮隆太郎が10月31日に死去、93歳。戦後を代表する近代経済学者で、東大で多くの教え子を持つと同時に、各種審議会などを通して政府の経済政策にも大きな影響を与えた。2002年に文化勲章。50年代にアメリカに留学し、ハーバードでレオンチェフの下で産業連関分析などを学んだ。スタンフォード大各員教授を経て、1969年から東大経済学部教授、定年後は青山学院教授を勤めた。日本の高度成長の基本には、異例に高い資本蓄積率と個人貯蓄率があったと説明した。1073年の「狂乱物価」や80年代の日米貿易摩擦などにも独自の主張を行っている。
(小宮隆太郎)
 外交評論家の加瀬英明が11月15日に死去、85歳。外交官加瀬俊一(初代国連大使)の子で、若い頃から保守政治家と親しく交わっていた。アメリカ留学後にブリタニカ百科事典の編集長を経て、言論活動を展開した。ものすごく多くの著書、翻訳があるが、当初の昭和天皇秘話みたいな路線から、次第に韓国批判や「ユダヤ人の知恵」的な本が多くなった印象がある。記録映画「主戦場」で右翼の首魁のように印象付けられていたが、多くの右派系団体に担がれていただけということだと思う。
(加瀬英明)

松原千明、10月8日死去、64歳。俳優。カネボウ化粧品のキャンペーンガールに選ばれ80年代にタレントとして活躍した。石田純一と結婚し、長女がタレントのすみれ。
松本一起(いっき)、4日死去、73歳。作詞家。中森明菜「ジプシー・クイーン」など80年代アイドル全盛期を支えた。
山本進、4日死去、91歳。芸能史研究家。6代目三遊亭圓生、8代目林家正蔵らの聞き書きなど落語関係の本が多い。
早野透、5日死去、77歳。ジャーナリスト。朝日新聞記者として、田中角栄の番記者を務め、田中派を初めとする自民党政治家に関する多くの本を残した。『田中角栄と「戦後」の精神』、『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』など。
村上芳正、6日死去、画家、100歳。三島由紀夫、澁澤龍彦、沼正一『家畜人ヤフー』などの装飾を手掛けた。
斑目春樹、22日死去、74歳。福島第一原発事故当時の原子力安全委員会委員長だった。
佐川一政、24日死去、73歳。「パリ人肉事件」犯人で、不起訴後に帰国し『霧の中』などの著作を執筆した。
中村邦夫、28日死去、83歳。元松下電器社長。「ナショナル」ブランドを廃止し、「家族的経営」の社風に抗して希望退職を断行した。その結果、落ち込んでいた業績が「V字回復」して注目された。
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