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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「孤独」の大切さ-若き人へ①

2012年09月28日 23時51分15秒 | 若い人へのメッセージ
 いろいろ個別の話を書くのも大事だけど、僕の場合卒業生など若い人で読んでくれている人がいるので、そういう人へ。個別の本や映画の話の前に、「本を読むこと」「映画を見ること」の意味を書いておきたくなった。僕の昔の卒業生は仕事や育児で忙しいようだ。割と最近の卒業生は、大学生になってるけど、早くも卒業に近づいている。学生の間に読んでほしいことを書いておきたいと思ったのである。主に、文科系の大学にいて、福祉、教育、社会的活動などに関心がある人。歴史、社会学、心理学、国際情報、比較文化、宗教学なんかを専攻してる…などと言う人をとりあえず想定して…。でも、老若男女に関係あるし、特に「若い教師」にも読んで欲しい。

 しかし、最初は読書の勧めではなく、「孤独」について。今の若い人を見てると、本当に大変だなあと思うことが多い。いろいろ社会が整備されシステム化されていく。悪いとはなかなか言えないけど、そうなるとシステムにそって生きて行かないとうまくいかない。大学3年から「就活」になる。何だ、それ。卒論書きあげる前に、大学院の試験である。仕事を見つけたら、今度は「婚活」しないと結婚もできなくなってきたらしい。中学の段階から、将来何になるかかなり具体的に考えさせられる。高校になると「進路活動」が本格化する。学力不足だ、授業を増やせとあれだけキャンペーンされて、学校の授業が増えているけど、それなら大学なんか試験オンリーで取ればいいではないか。でも少子化の中、半分くらいは「広い意味での推薦」である。生徒は学力とともに、人間力なんて言われて、「自己プレゼン」なんてものを求められる。大体、高校生の頃なんか、そんなに将来何かなりたいなんて思ってたか。大人が振り返れば、「人生は縁と成り行き」。一番大切なものは「運と健康」ではないか。

 それもあるけど、やっぱり「携帯電話」と「インターネット」である。携帯電話というものは確かにうらやましい。1996年頃から使う人が増えてきた。95年に高校生の就職指導をしてた時は、生徒の個人的呼び出しは「ポケベル」だった。そんなもん、知らないか。僕は97年にハンセン病関係の集会をやるときに持ち始めた。今は時計代わり。携帯電話がなかった頃は、家に電話するしかなかった。下宿してる女子大生に連絡しようと思ったら、9時まで大家さんが取り次いでくれた。9時だと捕まらないことも多かった。女性の家に電話すると、時々は親が出た。何時間も待ちぼうけだった時もあるし、個人どうしで直接連絡できる「ケータイ」は確かにうらやましい。でも、これができたために、いつでも捕まえることができる社会になってしまった。もちろん切ってればいいんだけど、営業のサラリーマンが切るわけにもいかない。若い人も切ることができない。大人がいても平気で携帯を確認する人もいる。それでも切ってる人や話の間は見ない人の方が多いだろうと思う。でも、常に気にしている。

 テレビで毎日百人くらいからメールが来て、すぐ返さないと大変という中学生が出ていた。食事の間もケータイ見てる。これでは「ケータイ依存症」である。ケータイは人間を自由にするものではなく、かえって束縛を強めている。さらに、i Pad、スマートフォンなどもできて、いつでもインターネットができる。だからメールチェックばかりしてる人がいる。電車で本を読んでる人がめっきり減って、ゲームかメール。こうしてると、「常にだれかとつながってる」。いいことのように思うけど、「いつでも現在」で、「常在戦場」である。実際就活では、一瞬で説明会の人数が埋まってしまい、常にチェックしないといけないという場合もあるという。時間が途切れない。今までなら、「今日」という日、授業や仕事があったその日が終わると、家族と自分だけの時間があって、次の日までは「ひとり」(または家族)だった。今日という日が明日になるまでの過程があり、そして今日は過去になり、未来が始まる。でも、深夜まで友人からメールが来ると、「いつでも現在」である。いいですよね、昔はそれが夢だった。でも、思うんだけど、これでは「孤独」がなくなってしまうんではないか

 僕は「孤独」というものは、人生でとても大切なものだと思う。先生も親も、子供が独りぼっちだと困るから、そういうことはなかなか言わない。言わないというより、「孤独が要らない人」もいるのかもしれない。いつでも人の輪の中にいて苦にならないような人もいるみたいだから。でもほとんどの人は、人ごみの中にばかりいたら、他の人間に自家中毒してしまい、ひとりになる時間が欲しくなるはずだ。これはとても大事なことで、これを判ってないと、「友達がいない」ということが過大な意味を持ってしまい、すごく悲しくなってしまうだろう。ここで友達というのは、「クラスで一緒に行動するメンバー」程度の意味である。でも、本当はそれは友達ではない。本当の友達だったら、返信が遅れたくらいで関係が悪化するわけはないから、そういう関係は友達とは言えない。「桐島、部活やめるってよ」の映画で、付き合ってる彼氏のことを彼に止められて友達にも言えないという女の子が出てきた。一番大事なことを相談できないなんて、友人と言えるのか。そういう意味で言うと、友達の定義にもよるけど、本当の友達というのは人生で10人もいない、ひとケタの存在ではないかと思う。

 僕が「孤独」という言葉で表現してるのは、むしろ「自己客観化」「内省」「瞑想」の重要性という方がいいのかもしれない。でも、パーティ、同窓会、カラオケ、コンパなんかでも、盛り上がるときもあるけど、ふっと覚めているときもある方が普通だろう。初めから自分を閉ざすつもりではなく(そうだったら参加しない)、誰かと話すことを求めて参加するのだが、そしてそれを楽しんだけど、ちょっと引いてる状態も自分で意識して楽しめる、みたいな。それは僕の言葉では、「孤独を大切にする時間」というのが合っているような気がする。

 若いときは、「自分が何者でもない時間」だから、むしろ「孤独」の方がベースで、「誰か本当に自分を判ってくれる彼(彼女)」を求めている。だから早く孤独じゃなくなりたいと思ってるかもしれない。でも、仕事が多忙になり、結婚し子どもが生まれ親が倒れ、人生を多忙で過ごしているときも、そういう時こそ「孤独」が大切になる。そこから間違った道を選択してしまう人もいる。「孤独とうまく付き合う」ことを学んでいなかったのである。言っておくけど、人生が長くなるといつのまにか解決してしまう問題もあるけれど、本質の部分は何も変わらないのである。

 こういう問題は人間存在の本質に由来していると思う。人間は親がいなければ生まれないし、誰かが育ててくれないと大きくなれない。「家族」や「社会」があってこそ生きていられるので、本質的に「絆」を求めている。しかし、人間一人ひとりは常に一人で生まれ、生き、死んでいく。生まれたときは知らないけど、必ず一人で死んで行かなくてはいけない。本質的に独りぼっちである。「絆」と「孤独」の両方を生きるのである。ところが最近は「絆の大切さ」「家族や友人は大切だ」ということが言われ過ぎるのではないか。「友達がいない」というのは、「社会から外れている」ということではない。コンビニを使ったことがある人は、コンビニという業態を成立させている社会関係を利用したわけである。一人で住んでコンビニで何も話さずに食べ物を買ったとしても、それは「社会の中で生きている」ということだ。友達は学校でだけできるものではない。中学、高校、大学…ではないところで作った関係の方がずっと役立つことも方が多いだろう。

 で、本当に忙しくて追いまくられる、心労が絶えない日々も人生にはある。そういう時に頼れるのは、友達でもあるけれど、もう一つ「孤独な時間に培った自分という存在」の確かさがある。だから、本を読む、音楽を聴く、ひとり旅をする、動植物と向き合う、座禅をする、瞑想をする、ジョギングをする、なんでもいいけど若いときに自分なりの「ひとりで自分と向き合う自分なりの方法」をカラダで覚えておくことが必要だ。

 パソコンもケータイも切って、テレビも見ず、何かゆっくり考えるという時を持つ。たまには必要。これを自覚的にやらないと、「中毒」しかねない。そして、常にだれかといないと不安だし、友達がいないと思われると嫌だなんて思ってたら、それは大間違い。たまには「きょうはちょっと一人になりたいかな」と言えるような関係でないなら、友人ではない。そして、付き合ってる間柄でも、それは言ってもいいことである。これが困った問題で、つい悪いと思ってお互い言い出せないままに、関係そのものがまずくなることもある。たまに「ひとりであること」をお互いに作らないと人間関係はかえってうまく行かない。まあ、結婚すればいやでも判ることだけど。カップルであることの素晴らしさは、このひとりであることを自覚した場合の方が増すだろうと思う。まず、「孤独」を自覚的に作る必要性「ひとりになりたい」と言える成熟した関係を作れるようになるために
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映画「カルロス」

2012年09月27日 23時34分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ジョルダーニ家の人々」という長い映画の話をこの前書いたけれど、今日は5時間半の「カルロス」という映画。3部構成で長いけど、時間は感じない。フランスのオリヴィエ・アサイヤス監督。「クリーン」(カンヌでマギー・チャンが女優賞)、「夏時間の庭」などを作った中堅の監督である。

 「カルロス」っていうのは、あの「伝説的テロリスト」である。と言っても若い人は知らないだろうけど、テロが「極左集団」によるものだった時代の話である。今はテロと言えば、宗教的背景(オウム真理教とかキリスト教とかイスラーム教など)がある場合がほとんどになってしまった。70年代には、「日本赤軍」という世界革命を目指す組織もあって、いろいろな事件が起こった。(ハーグとかクアラルンプールとかダッカとかで。)第1部はハーグ事件から始まるようなもんで、ちゃんと日本語をしゃべっている。西欧、東欧、中東諸国を股に掛けた内容で、きちんとロケして現地俳優を使おうと努力して作られた「カルロス一代記」である。

 21世紀になって70年代の極左テロ集団をふり返る映画が各国で作られた。日本の若松孝二監督「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008)、ドイツの「バーダー・マインホフ 理想の果てに」(2008、ウーリ・エーデル監督)、イタリアの「夜よ、こんにちは」(2006、マルコ・ベロッキオ監督)などである。「夜よ、こんにちは」はモロ元首相誘拐殺害事件を起こした「赤い旅団」を描いた。これらの映画は、正直言って見るのがしんどい。どんどん過激化し仲間同士で争い自滅していく。陰々滅々たる映画で、画面も暗い。

 それに比べると、「カルロス」は割と暗くない。最後は捕まって(94年に捕まった時はビックリ)、今はフランスで無期懲役で服役中である。フランス人監督が作ったが、カルロスはフランス人ではないし、フランスの組織でもない。インタ―ナショナルな革命を目指した「テロリスト」のてん末を、ある種客観的にアクション映画的に伝記を作った。ウィーンのOPEC総会襲撃事件がほぼ第2部だけど、アクション映画として見ることができる。それが面白いわけだが、日本では連合赤軍や日本赤軍、あるいは日航機ハイジャック事件を起こした赤軍派、それらをただ「面白く描く」ことはできない。今でも倫理的判断を抜きに語ることができないテーマである。
(指名手配のカルロスの写真)
 カルロスこと、イリイッチ・ラミレス・サンチェスは1949年生まれのベネズエラ人である。イリイッチという名前で判る人がどれだけいるだろうか。親が左翼で、子供3人にイリイッチ、ウラジミール、レーニンという名前を付けたのである。で、モスクワのルムンバ友好大学に留学。それからパレスティナに飛んで、左翼のPFLP(パレスティナ解放人民戦線)に関係した。そこらは描かれてなくて、ロンドンやパリで事件を起こす段階から描かれている。

 つまりそれまでの左翼革命運動(労働者や学生を組織してストなどで蜂起して権力を握る)がうまく行かなくて、「テロしかない」という方向性(日本だったら「爆弾闘争」)で悩みながら「武装化」していく段階は飛んでる。映画の中では初めから「テロリスト」である。ラテンアメリカで生まれ、パレスティナに行ったという経歴から、暴力やテロにためらいが少なかったのではないか。それにソ連に留学すると普通「反ソ」になるんだけど、この人はそうならなかった。思想的ではない。

 75年にフランスでアジトに来た警官2人を射殺して逃亡、12月にPFLPの指令でOPEC(石油輸出国機構)襲撃事件を起こした。これで世界に名を売り、カルロスという伝説的テロリストが誕生した。その後は何か事件があるとカルロスだという話が日本の新聞にも載るぐらい有名だった。でもこの映画で見ると、OPEC襲撃はイラクの秘密警察長官だったサダム・フセインがクルド人とその背後にいるイラン(王政時代)をたたくため、石油価格を上げようとしてサウジのヤマニ石油相イランの石油相を殺害する目的があった。

 タテマエ上は「パレスティナの大義」を掲げつつ、PFLPもスポンサーのサダムの手駒だったのだ。ところがリビア人警備役をカルロスが射殺してカダフィが怒り、カルロス一派は襲撃に成功したが行先がない。アルジェリアが受け入れるが、イラクまでは遠くて行けない。リビアに強行着陸するが、カダフィの意向で引き返すしかない。結局、カルロスはサウジとイランの石油相殺害をあきらめ、カネで収める。これが「兵士は命令を守ればいい」というPFLPの激怒を招き、カルロスは追放されてしまう。

 以後は伝説的テロリストと言いつつ、その名声をアラブの左翼政権に買ってもらって生きる「傭兵」になった。イラクのサダムと対立するシリアのバース党アサド政権(今のアサドの父)にかくまわれた時代が一番長い。エジプトのサダトがイスラエルと平和条約を結ぶと、激怒したソ連KGBのアンドロポフが直接シリアに来て、サダト暗殺を依頼する。そして、東欧に拠点を作ることを認められ、東ベルリン、プラハ、ブダペストなんかに拠点を作る。これらも西側に知られ、やがて冷戦終結とともにシリアからも追放される。そこで94年までスーダンにかくまわれていた。最後の頃は「太った逃亡者」でしかない。PFLPを批判したが、結局カルロスも中東のスポンサー国家の言いなりに生きるしかない「国家の持ち駒」でしかなかった。
(有罪判決時のカルロス)
 カルロスの女性関係なんかも描かれ、モテぶりが印象的。でも最後は腹も出て、かつての兵士が中年太りしてしまった。その場面のため3週間撮影を中断して、カルロス役の俳優が太ったんだという。3週間であんなに腹が出るのか。逆に言えば、若い頃を演じるために相当しぼっていたらしいのだが。主演はエドガー・ラミレスという俳優。「ドミノ」「チェ 28歳の革命」なんかに出てたらしいけど、本人自身がカルロスと同郷のベネズエラ人で、数か国語をあやつるという。カルロスを演じるために生まれたような俳優である。僕はこういう歴史絵解きのような映画は嫌いではない。面白く見た。カルロスは色男の「武闘派」で、自己への懐疑がないから革命思想映画としては刺激がない。現代史アクションという映画。(2021.5.8一部改稿)
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フィルム映画を守りたい…

2012年09月24日 23時15分20秒 | 社会(世の中の出来事)
 富士フィルムが映画用フィルムの販売を中止するという。富士フィルムのホームページに、「当社の映画事業の取り組みについて」が掲載されている。「富士フイルムはこれまで撮影用フィルムや上映用フィルムの生産工程のコストダウンなどに取り組み、供給を継続してまいりました。しかしながら、ここ2、3年の急激な需要の減少は、企業努力の範囲を超えるものとなり、撮影用/上映用フィルムについては平成25年3月を目途に販売を終了いたします。」
 
 世界の映画フィルムは、コダック富士がほぼすべてを占めていた。ドイツのアグファも戦前のヨーロッパの名画に使われてきた。この3社が中心だったけど、アグファはすでに撤退し、一部で継続されているようだけど、ほぼフィルム映画は先の2社を使って来た。しかし、今年コダックが破産し、富士も撤退すると、他に小さな会社があるのかもしれないけど、すべての映画がデジタルになってしまうのか!

 写真用フィルムもコニカが撤退し危機的状態だけど、映画が全部デジタルでいいんだろうか。と言いつつ、製造会社の判断で仕方ないと言えば仕方ない…。税金で支えて残すというものでもないだろうし…。その前に上映がほとんどデジタルになってきた。デジタル素材しかない新作も増えてきて、シネコンではない昔からの名画座なんかでは、デジタル映写機を入れられずに廃業するところが多い。もう映写機自体を作っている機械メーカーがないらしい。機械もやがて磨滅して壊れてしまう。部品がないから直せない。ボランティア的に、やめる映画館から映写機を集めている映写技師がいるそうだ。部品交換のために機械を残しておこうという試みである。

 デジタル映画の技術水準は大幅にアップしてると思うけど、僕は場合によってはまだまだフィルムの方がいいのではないかと思っている。最近見た「そして友よ、静かに死ね」というフランスの「ノワール」。こういうのは全体的に「暗い場面」が多くなる。その暗いシーンは技術アップで高感度フィルムに負けないとは思うけど、そうすると明るい場面でなんかチラチラする気がした。背景の光が気になるわけ。フィルムだと前景にフォーカスして背景をぼかせるけど、デジタルだとかえって全部映ってしまうのかな。技術的な面はよく判らないが、ノワール映画なんかはフィルムで見たいかも。

 それと他にもまだ大きな問題が。保存の問題である。9月19日付東京新聞にフィルムセンターの主任研究員の話が載っていた。フィルムは温度と湿度管理をしっかりすれば500年以上保存できるという。一方、デジタル素材は30年ほどで劣化するんだという。意外な感じである。デジタル素材こそ半永久的に残るかと思っていた。家庭用のCDやDVDも同じなんだろうか?

 また、フィルム撮影ができなくなると、撮影、照明等の技術の蓄積が途絶えてしまう。さらに、デジタル化されてない映画会社、図書館などが持っているぼう大なフィルム映画も、映写機がなくなると上映そのものが難しくなる。僕は最近ずっと古い映画を見続けているが、こうした昔の映画をフィルムで見るということが、もう少しするとできなくなるかもと思うと、一つの文化の滅びゆく様を見つめていきたいと思うのである。

 またデジタル問題だけでなく再開発などもあって、東京では小さな映画館の閉館が相次いでいる。もうすぐなくなるのが、銀座シネパトス、シアターN渋谷、銀座テアトルシネマ、浅草中映はじめ浅草に残った映画館5館(ピンク映画館を含む)がビル再開発で来月に閉館して浅草の映画館がなくなる。この数年間になくなった映画館は、シネセゾン渋谷、テアトルタイムズスクエア、テアトルダイヤ(2館)、シネアミューズ渋谷(2館)、シブヤ・シネマ・ソサエティなどがある。特に渋谷のミニ・シアターが少なくなってしまった。こうして東京でもアート・シネマ市場が細ってしまった。

 映画の世界は「光と影」である。ものを認識するということ自体が「光」なくしてできない。その光をどう処理するか。白黒映画の時代の方が技術が高かったのではないか。イギリスの映画雑誌「サイト・アンド・サウンド」が10年ごとに発表する「世界映画ベストテン」をブログで紹介しておいたが、今年の批評家選定ベストテンでは、市民ケーン、東京物語、ゲームの規則、サンライズ、カメラを持った男、裁かるるジャンヌ、8 1/2と7本が白黒。さらに言えばそのうち3本は無声映画だった。映画芸術の技術は白黒時代に確立してしまっていたのである。

 「光と影」なのは、世界そのものとも言える。光当たる世界とその影になる世界。一人の人間の中にも、光と影がある。そういう人間世界を写し撮るにはフィルムはまだまだ捨てがたいと思う。どうかすればという案もないんだけど、これは大変なことではないかと思うんだけど。
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「北方領土」も考えておこう

2012年09月23日 23時32分13秒 |  〃  (国際問題)
 せっかくだから「北方領土」の問題もここで書いておきたい。本当はこれが一番大事で、何しろ解決しない限りロシアとの平和条約が結ばれない。「法律的な戦争状態」が終わっていない。なんだかそういう状態に慣れてしまって、永遠に解決しない感じもしてしまうけれども、北方領土問題こそまず解決しないといけない。問題としては、「サンフランシスコ平和条約における千島列島の範囲」の問題ということになる。しかし、そのためには近代の日ロ関係史を振り返る必要がある。

 ちなみに1956年の「日ソ共同宣言」では、平和条約締結後に「色丹島」「歯舞諸島」は日本に引き渡すと決められている。ソ連は崩壊したが、条約上の義務はロシア連邦が継承している。条約ではないが、共同宣言も法的に有効な文書である。僕は「平和条約締結前にも、まず歯舞諸島に関しては無条件に返還する」という「ロシア国民の好意」「ロシア指導者の勇断」があると、両国民の友好的気運が大きく進展すると思うんだけど…。絶対無理でしょうか?

 1855年、日露和親条約が結ばれた。1853年6月、ペリーが浦賀に来航した。突然来たように思ってる人が多いと思うけど、江戸幕府はオランダから教えられて事前にペリー来航を知っていた。このペリー艦隊遠征の報を聞いて、ロシアも使節を送ってくる。全権使節はプチャーチン。長崎に到着したのは1853年8月だった。2カ月遅れを取ってしまった。そして1855年に結ばれた日露和親条約で、「千島列島はエトロフ島以南が日本領、ウルップ島以北がロシア領、樺太(サハリン)はそれまで通り(日露混住)」となった。

 1875年、明治政府は榎本武揚(戊辰戦争で五稜郭に立てこもって敗北したのち、許されて明治政府に出仕していた)を全権使節としてサンクト・ペテルブルクに派遣し、「樺太・千島交換条約」を結んだ。樺太全島をロシア領とする代わり、ウルップ島以北の千島列島を日本領とするという内容である。面積的に言えば何だか損な感じもするが、日本は北海道の開発でさえ大変な時代で、漁業のためには千島を取り、樺太は思い切って放棄してもいいということになったらしい。これで平和的に北方の国境は確定した。その後、日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で、日本が南樺太を獲得したわけである。

 第二次世界大戦で負けた日本は「明治以来の戦争で獲得した領土を放棄」することになる。1943年のカイロ宣言、1945年のポツダム宣言の原則で、日本は受諾し、サンフランシスコ平和条約でも承認した。だから南樺太に関しては日本が領有権を放棄したことは間違いない。ところでそのサンフランシスコ平和条約では、「千島列島の放棄」も決めている。その千島列島の範囲は書いていない。日本政府は「日本が放棄したのはウルップ島以北」と主張するが、「地理的に見れば国後島から北すべてが千島列島」というのがロシア側の主張。地図をみれば、そう見えないこともない。というか、国後、択捉(エトロフ)も千島列島と言う方が自然だという感じである。だけど、僕は「千島列島」とは歴史的な概念で、日露、日ソの関係史をたどってみれば、「択捉島までが日本領」というのが素直な見方だと思う

 どうしてかと言うと、第二次世界大戦をどう考えるかに関係してくる。戦争を法的に終わらせたサンフランシスコ平和条約を今問題にしたが、ソ連はこの条約に署名していない。当時は朝鮮戦争下の冷戦が一番厳しい時代で、中国革命の直後。サンフランシスコ平和会議には、中国は(北京の人民共和国と台湾の中華民国のどっちも)招かれていない。ソ連はポーランド、チェコスロヴァキアとともに、中華人民共和国が招かれていないことに反発して、条約に署名しなかった。ソ連(ロシア)は自分が署名しなかった条約に基づいて「全千島がロシア領」というのはおかしい

 戦争自体は、いろいろな見方、側面があるが、日本に責任があるのは間違いない。植民地を放棄するのは当然。戦争に勝って植民地を支配したという近代日本のあり方が間違っていた。第二次世界大戦は日独伊三国同盟を結び米英と戦った。だから「ナチス・ドイツ」と「大日本帝国」が無謀な戦争を始め、「米英は連合して民主主義を守った。」これが基本的には今も「世界の通念」である。インドなど世界中に植民地を所有していた大英帝国、黒人の公民権がなかったアメリカが「どうして民主主義なんだ?」という部分はあるが。で、1941年6月の独ソ戦開始以後、ソ連が米英側に加わることになる。当時のソ連はスターリン書記長の独裁下で、「粛清」で数百万とも言われる犠牲者が出ていた。どこにも「民主主義」などないではないか。1939年8月23日、スターリンはナチス・ドイツのヒトラーと手を結び、独ソ不可侵条約を結んだ。これには秘密条項があり、ポーランドは独ソで分割、バルト三国をソ連に編入してしまう。9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、3日、英仏がドイツに宣戦布告。こうして第二次世界大戦が始まった。

 1941年4月、日ソ中立条約が成立した5年間。延長しない場合は1年前に通告。これを見ると、ある時期まで、ソ連はドイツ、日本の側ではないのか。実際に当時の日本の中には、日独伊+ソ連で同盟する意見もあった。しかし、イギリス侵攻に成功しないドイツは、不可侵条約を無視して1941年6月にソ連に侵攻した。その時、日本軍の中にはドイツと一緒になってソ連を攻めようという意見(北進論)もあったし、現に「満州国」に100万の大軍を大動員して「関東軍特種演習」を行い、いつでもソ連に攻め込める態勢を作った。だから日本にソ連を責める権利はないと言えば、その通りである。しかし、それはそれとして、ソ連が日本に宣戦布告した1945年8月8日は間違いなく「中立条約」の期間内だった。(延長しないことは通告済み。)

 ではどうして日本を攻撃したのか。1945年3月のヤルタ会談に米英ソの三首脳が集まった時、アメリカが求めたのである。そして「ヤルタ協定の秘密条項」で、米軍の損害を少なくするために、「ドイツ降伏後3か月以内に対日参戦する」。その代りに「千島列島をソ連に引き渡す」「モンゴルの現状維持」(モンゴルはソ連の衛星国で、中国は独立を認めていなかった。)「満州の港湾と鉄道利権を渡す」などを勝手に決めた。公表されていない勝手な取り決めは法的に無効である。(その後の米政府の立場は、この秘密協定はルーズヴェルト大統領の私的文書だというものである。)敵国になる日本から奪うのはまだしも、同盟国の中国の権利も勝手に侵害している。ヤルタ会談の時はアメリカはまだ原爆実験に成功していなかった。7月のポツダム会談中に原爆実験が成功すると、今度はアメリカはソ連軍を必要としなくなる。そこでソ連侵攻期限前の8月6日に広島に原爆を投下した

 ソ連軍は「満州国」になだれを打ったように攻め込み、多くの悲劇が生まれた。しかも、実は「北方領土」にソ連軍が侵攻してきたのは、8月15日以後のことである。千島の一番北の占守島(シュムシュ島)では、アメリカの攻撃に備えて日本軍が存在していたが、8月18日にソ連が侵攻、23日まで戦闘が続いた。日本側にもソ連側にも1000人を超える死傷者が出た。停戦に応じた日本軍は捕虜となりシベリアに連行された。ソ連軍が連合軍として日本軍の武装解除をするのなら問題ないが、そういう了解が米ソの中にない間に、ソ連は実力で千島支配をねらったのである。(スターリンの要求で、米国も後にソ連軍の千島占領を認めるが、ソ連の要求した北海道東部占領は認めなかった。)歯舞諸島の占領が9月初めに終わり、以後「北方領土」はソ連の支配下にあるわけである。8月15日以降に、日本軍が正規の戦闘に巻き込まれ悲惨な犠牲者が多数出たという歴史は知らない人がまだ多いのではないかと思う。

 そういう問題はひとまず置くとしても、日本から言えば「中立条約の有効期間内の攻撃自体が不法」である。最後の最後の頃の戦争で、ソ連が対日戦勝国として、連合国内の秘密協定に基づく千島列島領有を主張できるのか。しかし、まあ、それもいいとする。ソ連は対ドイツ戦で死者2千万とも言われる大被害を受けた。中国を超え世界で一番被害を受けた国で、民族の総力をあげてドイツに勝利した。戦勝国意識が強いのは当然で、ナチスと同盟を組んだ日本を信用せず、第二次大戦後の処理に関しては、敗戦国の主張など認めるつもりがなかったということだと思う。ドイツは戦後、大きく国境を西に動かされた。ソ連(ウクライナ)が西へ動き、それに連れポーランドの国境が西へ動いた。国境線となった川の名から「オーデル・ナイセ線」と呼ばれる。ドイツでは最終的にそのラインを受け入れ、「欧州統合」を進めるという政策を取ってきた。日本も「負けた側」であり、サンフランシスコ条約で認めた「千島列島の放棄」はやむを得ないだろう。

 本来は平和的に日露間で取り決めた条約で言えば、「千島列島はすべて日本領」である。だが戦争で負け、平和条約で放棄した「千島」はもうロシア領だと認めるしかない。「日本のオーデル・ナイセ線」は「エトロフ島とウルップ島の間」であると思う。千島列島の地理的問題、あるいは条約上の解釈の問題などは重要ではない。日本はソ連に対して、完全に無罪ではないが、ソ連の行った非道に比べれば、ソ連が戦勝国としての権利を主張できるのか。ロシアに対しても、ロシア国民に対してもそのことは言っていかなくてはいけない。幕末に平和の中に解決した「エトロフ島までが日本領」というのが、歴史的に正しい。「樺太・千島交換条約」によって「交換」した地域(ウルップ島以北の千島)が、日本が放棄する「歴史的な意味としての千島列島」である。歴史的な文脈と「正しさ」の感覚から、そのように思っている。

 ただし、今書いたのは「原則論」である。国後島は知床岬と納沙布岬を結ぶ線内に南部4分の1程度が入る。ほとんど「北海道に付属した島」と言える。一方、エトロフ島は他の地域を全部合計したより大きな面積を持っている。エトロフ島に何か妥協策があっても、僕は反対する気はない。例えば「エトロフ島は南北を日ロで分ける」とか。でも途中に何か意味のある違いがあるわけではなく、真ん中に線を引くというのも問題だろう。「エトロフ島を特区に指定し、日本国民には自由地区とする」とか。主権はロシアに認めるが、日本人は往来だけでなく、居住、経済活動などはすべて自由とする。これは可能か。それで解決になるのか。よく判らないが、ロシアがまず無条件に歯舞諸島を返還するという行動を取れば、全体として解決する方向が出てくるのではないか

 歴史的に言えば、この地域はアイヌ民族の土地である。そこに和人(大和民族=日本人)とロシア人が勢力を伸ばしてきた。だから「アイヌモシリ」(「人間の土地」)に戻すべきだなどと言う人もいるが、そんなアメリカ先住民の「保留地」みたいなものを作るのはかえって差別だろう。今では「ロシアも日本も手を引いて、大自然の中で生きるアイヌ民族に返そう」などと言うのは、ロマンティックな理想論である。しかし、問題を歴史的に正しく認識することは大切である。司馬遼太郎「菜の花の沖」船戸与一「蝦夷地別件」などの小説は長いけど、まずは読んでおく必要がある。それとプチャーチンと交渉を行った幕臣・川路 聖謨(かわじ としあきら)を描いた吉村昭「落日の宴」を政府は金だけ出して映画化して世界で公開するというのもいいのではないか。
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「尖閣」と「竹島」④

2012年09月21日 23時30分53秒 |  〃  (国際問題)
 長くなったけど「竹島」について書いてしまいたい。この問題の背景には、2011年8月30日に韓国憲法裁判所が下した判決がある。去年そのニュースを聞いた時、僕はすごいなと思いながらも何だか違和感を感じないでもなかった。その判決は「従軍慰安婦」の賠償権について、賠償請求権の有無ではなくて、韓国政府が賠償請求権に関して日本政府に対して解決しようとするための手続きをきちんとやってないことが「憲法違反」で「請求人の憲法上の基本権を侵害」しているというものだった。こんな「政府の不作為」に対して国民が裁判できるということが驚きだった。日本国憲法ではそういう裁判はできない。「政府が○○問題に関して何もしてくれないのは違憲」という裁判ができるんだったら、どんなにいいだろう?と同時に、「政府の行為を止める」のならともかく、「政府の不作為」を違憲とするという判決はあまりにも政治的だという気もしないでもなかった。「原発をゼロにしないのは生存権に反して違反」「原発を再稼働しないのは電力会社の経済の自由に反し違憲」。どっちだって裁判できてしまうと思うけど、それを裁判所が決めていいのかな。

 何にせよ、その後韓国政府は日本政府に対し、「従軍慰安婦」問題に対しアクションを取らないわけにはいかなくなった。リクツ上は「アクションさえ取ればいい」のかもしれないけど、一国の政府が乗り出して何の成果も得られないというのでも困る。何とか知恵を絞って欲しいという考えを野田政権に伝え続けたのは事実である。しかし、野田政権は基本的には「解決済み」で押し通していた感じがした。水面下で何か対策を考えていたのかもしれないが。こうして韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は対日不信を強めていったと思われる。一方、国内政局的には韓国大統領は一期5年間しかできない。今まで任期終了後に親族の不正などが問われることが多かった。今回はまだ任期中だと言うのに、大統領の実兄が逮捕(銀行からの不正資金授受疑惑)されてしまった。逮捕が7月10日、起訴が27日である。この李相得氏は前国会議員で、韓日議員連盟会長だった。「竹島上陸」は8月10日なので、「疑惑そらしのために領土問題を利用した」と言われてしまうのも仕方ないだろう。また日韓の議員外交チャンネルも機能しないはずである。

 そして翌8月11日に「天皇に謝罪を求める発言」があった。「痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」「韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪せよ」などと報じられた。この発言は教師の研修会に出席した時の質疑応答だという話で、そういう会合に大統領が出席するというのもビックリだが、「真意が伝わっていない」とも述べているようだ。日本では、竹島訪問以上にこの天皇謝罪要求が決定的な悪影響を与えたと思う。はっきり言って「この人の任期中はもうダメだ」というムードである。どの国でもきわめて神経を使わなければいけない問題と言うものがある。大分前だが中曽根首相がアメリカの人種問題を無神経に発言したことがあった。国を問わず、民族問題や王室などを他国の指導者が批判的に語るのはタブーだろう。

 そういう「元首のふるまいとしての問題」もあるが、それ以上に深刻なのは「日本政治への無知」である。天皇は政治の実権を持っていない。外国を訪問し正式の晩さん会であいさつするというのは、紛れもない「国事行為」で「内閣の助言と承認」によって行われる。「痛惜の念」という言葉(1990年の盧泰愚韓国大統領の来日時の晩餐会)も天皇が自分で書いているわけではなく、内閣の承認のもとに発せられるので、批判があるなら内閣を批判するべきものだ。(なお、92年の中国訪問時は「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。」という表現になっている。)それを「天皇個人の発言」のようにとらえて批判(または称賛)することは「天皇の政治利用」である。それは右からすれば「おそれ多い」、左からすれば「戦前に戻すのか」ということで、立場を超えて「戦後の日本ではしてはならない」ことである。そういう憲法的に制約がある立場は、即位時に「皆さんとともに日本国憲法を守り」と発言したように、自覚的に守られてきた。(だからこそ、東京都教育委員の米長邦雄が園遊会に招かれた際(2004年)、「日本中の学校に国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが私の仕事」と述べたのに対し、「強制になるということでないことが望ましいですね」と発言したわけである。なお、ついでに書いておくと、2005年の戦後60年に際しサイパン島を訪問した際、当初の予定にはなかった韓国・朝鮮人慰霊碑にあえて立ち寄ったという印象的な出来事があった。天皇個人の意向だったという話である。)

 2007年以来開かれていない「6か国協議」も当面開かれないだろう。中国共産党党大会、米国大統領選挙が終わり、北の新指導部もある程度時間が経たないと事態の進展は期待できない。韓国も選挙だが日本も総選挙が近いと思われるから、どっちも次期政権に本格的な関係改善は先送り。望ましくはないけどやむを得ないかなという情勢である。で、僕は「竹島訪問」「天皇謝罪要求発言」で冷え込んだ政府間関係の改善は長引くだろうと思っている。問題はそれを通商や文化交流、地方の交流や個人の旅行などに広めてしまわないことである。それが「成熟した関係」というものだろう。そして、一番最初に書いた「従軍慰安婦問題」も日本側で何かアクションを考えないといけないと思う

 「従軍慰安婦」問題に関しては、ここで本格的に書く余裕がない。今まで「南京大虐殺」などに関して「トンデモ発言」がなされた時も、このブログには書いてこなかった。知らないわけでも関心がないわけでもなく、逆に「自分では判っている問題」なので調べて書く楽しみが少ないテーマなのである。今回の「竹島問題」などは自分でネットで調べたことはなかったので調べてみたわけである。「従軍慰安婦」に関しては、その呼び方からして議論があるが、今は立ち入らない。今回ここでも書かないのは、いわゆる「アジア女性基金」(女性のためのアジア平和国民基金)に関する考え方が自分で確定していないからである。この財団法人は1995年に設立され2007年にすでに解散している。しかし、「デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金」がWEB上に残されている。ここで必要な情報を(日本語と英語で)収集することができる。設立当時は村山政権で、国家補償はできないという中で「国民から償い金を集め、財団法人の運営は国費で行う」という方式で活動を行った。この活動は「当時として精一杯のもの」と考え協力する人も多くいたが、「日本国家の補償を否定する間違ったやり方」として反対する人も多かった。そういう「分断工作」だと言えるし、「原則派」「現実派」に分裂してしまうという社会運動の弊害だったとも言える。(ちょうど「オウム事件」と時期的に重なったこともあったか、90年代に盛り上がった戦後補償の支援運動がこのあたりで急激にしぼんでしまったと思う。最近の反原発運動に行く末も何だか心配である。)

 僕は当時は「アジア女性基金」には反対の気持ちが強かった。当時は韓国の従軍慰安婦を初め、中国の強制連行、日本のシベリア抑留などの補償を求める裁判が継続中だった。従軍慰安婦裁判は僕は集会に行く程度だったが、中には支援の会に参加したり傍聴した裁判もある。(「穴に隠れて14年」として有名な劉連仁強制連行裁判の2001年東京地裁一審勝訴判決を傍聴した時の感激は今もよく覚えている。判決後に法廷で拍手が沸き起こった。)日本の法廷の論理の中でも勝訴は全く不可能ではないのではないか、国家補償こそが重要なのではないかという気持ちだったのである。しかし、最高裁ですべて賠償請求は却下された。特に中国人原告の訴訟は1972年の日中共同宣言を理由に却下という全く予想もできない結末だった。そういう経過が判明している今となっては、「当時としてはアジア女性基金しかなかったのか」という気持ちが正直言うと起こってきたわけである。

 僕は「従軍慰安婦問題」でどうすればいいという案は持っていない。でも民主党は野党時代に解決法案を出していた。政権についてしまうと、従来からの法解釈に縛られてしまう。当時、アジア女性基金が日本の「償い金」と首相の「お詫びの手紙」を届けようとしたら、韓国側は拒否した。そういう間違った金は受け取れないとし、韓国で受け取った慰安婦女性は強い非難にさらされた。韓国側は日本が補償しないなら韓国が金を出すと独自措置を取ったと記憶する。それなのに今さら新しい措置を求めるのかという思いも関係者にあるだろうが、当時の首相の手紙が届かないままなのも問題だろう。なんとか韓国側も受け入れ可能なアイディアを考え出さないといけない。これは「竹島問題」とは別個に、日本がやらなければいけない問題ではないか。領土問題は先延ばしできるが、「戦後補償問題」はあと数年内に解決しないと「恨」(ハン)が残り続けてしまうだろうと思う

 中国が尖閣の領有権主張を放棄することは当面考えられない。そうすると日本も韓国に対して「領有権を放棄」することはできない。では日本は武力で取り戻すのか、というとそういうことはない。憲法で禁止されているし、国民の平和志向という問題もあるが、それより「アメリカの意向」である。アメリカというボスが「お前ら、内輪もめしてる場合じゃねえだろ」と止めに入るに決まってる。それが判ってるから、日韓ともに譲らず領有権主張ができるのである。だからこそこの問題はしばらく解決不可能である。

 ところで「どちらとも言えない」と書いたけれども、あえて前近代からさかのぼって判定の旗を上げれば、「55対45」くらいで韓国有利かもしれないなという気もしている。地理的に鬱陵島に近くて、見えるときもあるという条件が若干有利ではないかと思うのである。だから、もしあるとすればという遠い将来のことだが、僕はいつかあるだろう「南北統一」の日に、統一なった統一韓国に対する「日本国民の祝意と友好の表現として、竹島に対する領有権主張を放棄する」という「太っ腹」はどうかなと思ったりする。その時には東アジアの冷戦状況も大きく変わっているわけで、中国や日本国内の情勢も変化があるはずだ。そういう時には「譲歩もあり」ではないか。と思ったりするのが、竹島問題に関する当面の考え方である。(こう思ったのは昨日のことで、この問題を考えていったらそういうこともありかなと思いついた次第である。)
 (ここまで来たら、初めの予定になかった北方領土も次回に書いておきたい。ただし、これは改めて調べるまでもなく、結論ははっきりしている。日本政府の主張が全面的に正しいのである。だからあまり新しい論点はないのだが、まあそれほど詳しくは事情を知らない人もいるでしょうから…。)
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「尖閣」と「竹島」③

2012年09月20日 23時42分02秒 |  〃  (国際問題)
 「尖閣」1回、「竹島」1回で終わるつもりで書き始めたけど、竹島問題も2回が必要な感じ。いろいろ調べたり考えたりすると、僕はどうも「竹島問題」の方がやっかいな問題ではないかという気がしてきた。少なくとも「北方領土」が解決する前に「竹島」が先に解決することはないような気がする。「尖閣」「北方領土」は単純な2国間問題ではなく、国際的にリンクしている問題である。一方、「竹島問題」は純粋に2国間の問題で、両国は政治体制も同じなのだから、話し合って解決策を見出せばいいわけだけど、だからこそ難しい。今までの主張を変えれば国内問題になってしまう。それを乗り越えるだけの強力な政治体制は、少なくとも日本では今後しばらく出て来そうもない。

 日本にとって国境の小さな島は死活的な重要性を持っていない。しかし、韓国との政治・経済・文化的関係は日本にとって死活的に重要である。それは基本的には韓国にとっても同じだろう。領土問題では対立も抱えながら、それで重要な関係を全部損なってはならない。だから日本側からあえて挑発的な行動に出ないことが大切だと思うけど、「実効支配」している方の韓国の側が大統領が訪問したり「天皇謝罪発言」をして問題を大きくしている。自分たちで支配してるのに、オリンピックで「独島は我らのもの」などというスローガンを掲げたりする。他の国からすれば、「その独島っていうのは、きっと日本に不当支配されてるんだろうな、だから韓国人は怒ってるんだろうな」と思うだろう。事実は逆で、今は韓国が支配しているんだから、なんで韓国は自分で問題を難しくしているんだろうか?「やっぱり「不法支配」しているという「負い目」があるのかも?」と日本側の文脈では思われてしまう。そのことに日韓の歴史的、文化的な「誤解の構造」があるのではないかと思う。

 「竹島問題」で考えるべき問題には次のようなものがあるだろう。
「竹島」そのものの領有権の歴史的な検討
近代の日韓関係、日本の韓国植民地支配の歴史をどう考えるか
戦争と戦後の問題。条約の理解、「李承晩ライン」による「不法占拠」等の問題
今回の発言の原因ともなったといわれる「従軍慰安婦問題」をどう考えるか
大統領発言の国内的背景、及び「天皇謝罪発言」の問題

 これを全部きちんと調べて正確に書こうと思えば、ものすごい時間と量を必要とする。はっきり言うと僕にはそこまでの関心は持てない。そこでそれぞれについて簡単に触れながら、僕の理解の及ぶ範囲で書いてみたい。長く書いて最後に結論を書くと読んでもらえない。そこで最初に結論を書いてしまう結論は「どちらとも言えない」である。僕には日本側の説明が完全に領有権を証明しているとは思えない。しかし同時に完全に韓国の「固有の領土」であるという考え方も無理があると思う。

 僕が思うに、前近代の「近代国家の領土概念」のない時代に、誰が行ったとか見つけたとかの古文書を双方で挙げていっても、それが決定的な証明になるのだろうか。ホームページを見ると、かなり複雑な今までの古文書の存在を知ることができる。いろいろなサイトがあるが、基本的なものとして日本の外務省のものを挙げておく。(日本語で読める韓国のものとしては、慶尚北道による「韓国の島、独島」がある。)それらを簡単に見て思うことは、前近代においては「どちらも有効な支配はしていない」という事実である。それは当たり前で、どっちかの国の住民が定住して貢租を負担していれば、それこそ「支配」ということになるが、どっちも定住していない。しかし、日本(江戸幕府または各藩)も韓国(朝鮮王朝)もそれぞれ出かけていったり利用したりした事実はある。その頃の日本側古文書では、「鬱陵島」(うつりょうとう=ウルルンド)(リンク先は韓国観光公社)(人口1万ほどの有人島)の方を日本側文献では「竹島」と呼び、「竹島」の方は「松島」と呼ばれていた時代があると書いてある。日本は鬱陵島の領有を主張したことはなく、江戸幕府は渡航を禁止したりしている。つまり「竹島への渡航禁止」であるが、日本はこれを「鬱陵島への渡航禁止」と解釈するわけである。そこらへんはかなり面倒で、「歴史大好き人間」の僕でも面倒だなあと思ってしまう。ここらへんはもう「学術的な領域」で、それで韓国領、日本領の最終決着が着くわけでもないだろうと思う。

 結局は近代における「竹島の島根県編入」を日韓関係史の中でどう位置付けるかという問題になる。日本にとっては「国境の領土問題」であるが、韓国は「日本はまず独島を奪い、その後にウリナラ(我が国)全体を奪った」と考えて、そのように主張している。それが正しいなら、これは確かに「死活的な重大問題」であり、竹島領有に韓国がこだわるのも当然ということになる。日本が竹島を領土に編入すると閣議で決定したのは1905年1月28日、島根県が登記を終了したのは5月17日である。日露戦争の開始は1904年2月8月に第一次日韓協約が結ばれ、保護国化へ進んでいる。この時は事実上、日本の軍事占領下にあると言ってよく、1905年5月27日に竹島から遠くない海域で日本海海戦が起こる。韓国の外交権を奪い統監を置くとする第2次日韓協約は11月17日。だから「竹島編入」時は韓国(当時の国名は大韓帝国)は形式的には外交権があった。だけど「韓国は当時抗議していない」などと言う人もいるが、こうした流れを見ると、明らかにそういう言い方は不当だろう。韓国は事実上抗議できるような状況ではない

 しかし「独島を奪った」というけど、韓国人住民を追い出して支配権を確立したというようなものではない。韓国も正式には領有権を主張はしていなかった無人島を領土としたわけである。ここを「日本が日露戦争下に強奪した」ととらえると、第二次世界大戦中のカイロ宣言による「日本が戦争で獲得した領土の放棄」に引っかかってくる可能性がある。しかし、戦争またはそれに類する条約で日本の領土となった地域とは、形式上は違っている。日本が降伏し占領軍の支配下にあった時代は、朝鮮半島は米ソで南北に分けられ(南半部は米軍の軍事統治)、日本本土は米軍を中心とする占領軍による間接統治にあった。その時「竹島」は島根県だから、日本本土の占領軍の支配下にあったということになるだろう。だけど、1952年1月、前年のサンフランシスコ平和条約の発効直前に、当時の韓国大統領、李承晩(り・しょうばん=イ・スンマン)による一方的な海上の線引きがなされた。(当時は朝鮮戦争中。)これを「李ライン」と呼び、日本人漁民がたくさん韓国に拿捕(だほ)される事態が相次ぎ、当時は大問題だった。(韓国側の発砲により多数の死傷者も出ている。)この「李ライン」はアメリカ当局が認めたものではない。その後も米軍は竹島で爆撃訓練をしようとするなどの動きもあり、米国は当時「竹島は韓国領」と認めてはいないようである。この韓国による「実効支配過程」は、確かに法的根拠があるわけではなく「不法支配」と言えばそう言えるかもしれない。韓国側主張の弱い点は、「自国の主権が制限されていた時に勝手に奪われた」と言いながら、自国側も「日本の主権が制限されていた時に、武力で奪い返した」という戦後の経緯にあるのではないかと思う。

 しかしながら、このような経緯を振り返って思うのは、「竹島には住民はいなかった」という点である。日本の朝鮮半島支配、日本の中国侵略戦争、アメリカによる原爆投下や沖縄支配、ソ連による「ポツダム宣言後」の千島攻撃や「シベリア抑留」、台湾の国民党による「二・二八事件」(1947年)、韓国済州島の「四・三事件」(1948年)、朝鮮戦争、中国の文化大革命、北朝鮮による大韓航空機爆破事件や日本人拉致事件…、東アジアの20世紀現代史の血まみれの悲しい非道の歴史を数々思い出すとき、住民のいない辺境の一孤島が、どうでもいいとは言わないけれど、一番大切なものと言えるだろうか。僕は「竹島」領有権を昔にさかのぼって調べても、どちらかに決定的に有利な根拠があるとは思えない。まさに「政治決着」がいつの時点かで、両国民の叡智で必要となると思う。(その問題はまた次に書く中で考えたい。)
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「尖閣」と「竹島」②

2012年09月18日 23時50分47秒 |  〃  (国際問題)
 昨日に続いて尖閣問題。昨日書いたことに多少書き足すことから始めて、今日は主に中国側の問題と「歴史問題」を考えたい。まず「書き足し」。中国側は「国有化は大きな約束違反で、今までとは次元の違う段階だ」などと考えているのではないかという気がするのだけど、それは「明白な誤解」であるとまず確認しないといけないと思う。今までも「私有地を借り上げて国家で管理していた」のであって、それを地方自治体が取得しようと乗り出したから、それを阻止するために賃貸料をまとめて払って所有権を書類上移すだけのことである。国内の商取引に過ぎない。中国側は「島を返せ」などと言うが、「私有地では返しようがない」のであって、むしろ「中国側に有利な措置だ」くらいに構える度量があってもいいではないかと思う。

 一方、野田政権が尖閣国有化を急いだのは、国内政局だけでなく「オスプレイ対応」もあるのではないかという仮説がありうると気付いた。オスプレイは米軍の正式装備なので日本政府が永久に拒絶することは難しいと考えられる。日米安保により米軍基地があるという前提そのものを否定するなら別だが。そうするとオスプレイの配備への反対を少なくする方策があるとすれば、日本国内、あるいはマスコミと言ってもいいが、「日米安保はやっぱり大事だなあ」と思わせるような状況が必要であるということにならないか。尖閣をめぐり中国と対立が深まるというのは、逆に言えば「日米同盟の重要性が高まる」という流れになる可能性はかなりある。あまり考えたくもないが、そういうこともあり得なくはないかもしれない。

 さて、今日は「9・18」で、マスコミ報道では「満州事変の発端となった柳条湖事件の起こった日」と言っていた。もちろんその通りだけど、「日中戦争、太平洋戦争へと続く昭和の戦争が始まった日」、少なくとも「満州事変の始まった日」でいいのではないか。これを知らなかったという日系企業の従業員の話が新聞に載っていた。そういう話があると、よく「歴史教育が不十分である」などと左右を超えていう人がいる。しかし、満州事変まで行かない歴史の授業なんていくらなんでもあるはずがない。大人は自分の時の感覚で考えるから、「第二次世界大戦は教科書の一番最後だから授業が終わらなくて飛ばされる」なんて思いがち。いまや20世紀の終わりごろまでは歴史教科書に出てるんだから、満州事変の後にも数十ページがある。要するに数学の公式なんかと同じく、習ったけど忘れてしまったのだ。それは「戦争に無関心で忘れさせてしまう日本社会の仕組み」があるからだ。僕はこの数年、「8・15」ではなく「9・18」に政府主催の催しが必要ではないかと思ってきた。「日本が始めた戦争」だからだが、8・15は暑すぎてそこまで政府、国会が毎年やるのはやめて日本中バカンスにしてはと思うようになったわけ。まあ、9・18も暑いですけどね。

 また「満州事変」あるいは「柳条湖事件」の解説も新聞に載っていたが、間違いではないけど不十分な感じがする。満鉄線爆破が日本軍の仕業である点は書いてあるが、「自作自演」という言葉では不足である。「関東軍の一部参謀による謀略」というくらいの表現は最低必要だろう。さらに言えばそれでも不十分であって、「軍部による中国侵略をめざすクーデタ」であり、政党内閣(当時は民政党の第二次若槻礼次郎内閣)に対する倒閣運動でもある。謀略の中心にいた石原莞爾からすれば、さらに大規模な戦略(米英の世界秩序を倒す世界最終戦争の始まり)であったかもしれない。重大なことは、軍部中央が本当に知らなかったのか疑問は残るが、とりあえず「出先の一部軍人」が先走って謀略を起こしていることである。出先が暴走することを、今でも「関東軍」に例えるくらいである。「昔は帝国主義時代で強い国が戦争をした時代だ」などと言う人がいるが、それは19世紀の話。第一次世界大戦後は国際協調が主流で、日本も中国の領土保全を確認する「9か国条約」や戦争に訴えないことを誓う「パリ不戦条約」に加盟していた。明らかな国際条約違反だが、そういう情勢を一応認識していたからこそ、「満鉄爆破は中国のしわざ」で「自衛だから不戦条約に反しない」、「満州国は日本の植民地ではなく、満州民族の独立運動により成立した国」などという「仮装」をほどこすしかなかったわけである。事実上は日本陸軍の植民地と言ってよかった。(ちなみに「満州国」で青年連盟を作って活動していた小沢開作の子供が指揮者の小沢征爾である。その名前は、柳条湖事件を起こした関東軍高級参謀、板垣征四郎(東京裁判で死刑)と石原莞爾の名前から一字ずつ取って付けられた。)

 だから「9・18」は日本人にとって忘れてはならない「300万人以上が亡くなった戦争の始まり」であり、中国人が「国恥」の日として重大視するのも当然である。日本軍国主義を忘れないというのは、中国や韓国ばかりではなく、日本人自らにこそ必要なことである

 ところでこの日本の侵略戦争に対して、中国側で一番原則的に「正しい立場」で対応したのは中国共産党であって、抗日戦争の中で共産党への期待が増大していった。日本軍は共産革命を支援してしまったみたいなものである。だから共産党政府にとって、抗日戦争は自らの統治の根拠である。そのあたりのことは日本人もしっかり認識していないといけない。中国に進出する企業は、当然「自主研修」しておかなければいけない。

 それはともかく、「愛国無罪」というスローガンが最近は中国でよく目につく。これはもともと抗日戦争に消極的な国民党を批判した「七君子事件」(1936年)に際して使われた言葉であるということだ。「愛国無罪」が「反日スローガン」であると思っている人が多いと思うが、よく考えればわかるように、これは「反日」の言葉ではなく「反政府」の言葉である。「愛国的動機」による犯罪であれば罪に問うなと中国司法当局に要求する言葉である。従って、中国の状況はなかなか複雑なものがあるのは間違いないだろう。中国当局は「尖閣」や「9・18」を掲げる反日デモは許容せざるを得ない。そういう意味では「官許」の性格はあったはずだが、中国各地で最近多く起こっていると伝えられる「暴動」に一部で発展してしまった。日系企業の焼打ちなどは明らかに行き過ぎで、政府・警備当局のコントロールできない状況があるということである

 共産党政権は「銃によって成立した」わけで、本来は社会主義から共産主義に移行し「国家は廃絶」されるはずだった。しかし、世界の共産党革命がすべてそうであるように、「武力による統治」になってしまった。今や共産主義革命と言うのは「開発独裁の一つのタイプ」だったのではないかという感じである。共産党政府が国内の経済発展を無視すれば、「統治の根拠」を失ってしまう。選挙で選ばれたわけではないから、「経済発展の実績」を見せないと人民の支持を失う。しかし、経済が発展するほど国内の格差は大きくなり、国内の価値観は多様化する。そこで「国民の愛国心」を強調して、革命政権がいつのまにか「国家主義的保守政権」に堕してしまうというのは、ソ連でもそうだったし、「歴史の法則」に近い。そういう基本状況の中で、デモを許したり厳しく規制したり、いろいろ考えているのだろうけど、いずれ限界に立ちいたるときが来るはずだ。

 日本の報道では、「中国のインターネットでは」とか「中国版ツイッターでは」というのが多い。日本で同じことをやれば、極端な反中言論が実情より大きくなってしまう。中国でもそれは同じだろうが、自由な言論、自由な報道、自由に調べた公正な世論調査というものがない。社会の各層を代表する自由な結社(政党やNPOなど)がほとんどない。だからネット言論が大きく取り上げられるわけだろう。しかし、それがいつまで続くのか。様々な民衆運動がやがて「政治改革」を求めるときもあると思う。だが、今回のデモを見ていると、若い層が毛沢東の写真を掲げている。毛沢東時代だったら、下放されてへき地で重労働させされていたに違いない若い失業者などが、「みんなで貧しかった毛沢東時代」を求めている。日本でも新自由主義的経済政策を、それで一番被害を受けるはずの若い世代が支持したりすることが多い。世界中、「自分で自分の首を絞める」という状況は同じなのである。

 ところで、こういう状況でこそ、文化交流が必要だと思う。経済も大事だし、これだけ世界が緊密に結びついている現在では、「日貨排斥」もかえって自分の経済も悪くしかねない。だが、これだけ襲われたりすれば、今回は「政冷経熱」とはしばらく行かないのではないか。投資意欲はかなり萎えるだろうし、家族も危ないから行かない方がいいのではと言うだろう。でも、隣国であるという事実は変わらないし、文化交流の長い長い歴史がある。本当は中国の地方中堅リーダー層や学生を招いて、日本の各地方、東北の被災地、広島や長崎、沖縄なども含めて、中小企業や伝統文化などを訪ねる、そんな試みが今こそ必要なのではないか。日中関係は経済で語られ過ぎたと思う。「平和」を維持することこそがまずは最大の前提であって、どんなときにも民衆の友好運動の火を絶やしてはいけない。今はともかく、時間が経ったら各地方の姉妹都市などの出番だろうと思う。(なお、本来は日中国交回復40周年記念として計画された「中国映画の全貌2012」という特集が新宿ケイズ・シネマで行われる。「阿片戦争」(1997)や「宗家の三姉妹」などの必見歴史もの、「紅いコーリャン」「さらば、わが愛 覇王別姫」「長江哀歌」「青い凧」などの極め付きの名作が上映される。今こそ見るべき映画。)
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「尖閣」と「竹島」①

2012年09月17日 23時36分49秒 |  〃  (国際問題)
 今日は2002年の「日朝ピョンヤン宣言」10年目だが、「拉致」は依然として進展の兆しはない。ロシアとは北方領土問題があり、アメリカとは「普天間」「オスプレイ」がある上に「原発ゼロ」に「関心」が示された。やはりアメリカの了解なしには何もできないのか。そして韓国とは「竹島」が、中国とは「尖閣」がある上、アジア諸国とは「歴史問題」を抱えている。これでは「四面楚歌」だとも言えるが、イスラエルやらキューバの気持ちがわかるというほどの緊張感はない。インドとパキスタン(通常の「隣国」と言っていいかは問題だが)とか、同じNATO加盟国なのに対立を続けるギリシャとトルコとか、世界にはもっと大変な関係の隣国はいくらもあるだろう。

 僕は国境の住民のいない孤島の帰属にこだわって重要な日韓関係、日中関係を悪化させてしまうのは本末転倒だと思うけど、解決の妙案があるわけではない。だからあまり書く気はしなかったのだけど、一応僕の考えていることを記録しておきたいと思う。

 まず「尖閣国有化」についてだが、「時期の配慮が足りなかったのではないか」と言う気がしないでもないが、「国有化そのものには反対ではない」というか、反対する理由がない。前に石原都知事が東京都が購入すると発言したときに、「『原野商法』すすめる石原都知事は『背任』」という記事を書いたが、それは「都民の税金で尖閣を買う」というのが都税の使い方として間違っているからだ。今月初めに調査船を出しているけれど、本当は監査請求したいところである。でもその後寄付を募ることにして、またそれが14億円ほども集まったのにも心底ビックリしたが、それも都でやる仕事ではない。自民党総裁選で石原伸晃候補が「クールダウンする必要」なんて言ってるけど、「オヤジに言ってくれ」という感じ。すべては石原都知事が余計なことを始めたから起こったことで、日系企業の損害を見てどう思うのだろうか。

 これらの問題を見ていると、日本と他のアジア諸国では「見方、考え方が違う」ことが多いのではないかと思う。そういう「相互誤解」を認識しないと「相互理解」は進まない。尖閣については「領有権については相互に棚上げする」ことで「暗黙の了解」があったというのが前提だろう。日本の右派議員が上陸したり、中国(香港)の活動家が上陸したりしても、国民の中にはいろいろいて政府が完全にコントロールはできないことをお互いに何となく了解し、日本も裁判したりせずに送還する。日本側は施設を建設したりしない。そういう状態が続くことを前提に、日本が実効支配を続ける。こういうのが「暗黙の了解」としてあったのではないかと思う。

 それに対して日本が国有化した。日本側の約束違反であるという考えも成り立ちうる。そのように中国指導部は考えていると思うし、仮に国有化するとしても、できれば「党大会後」、せめて「9・18後」にするというくらいの配慮もないのかと思っているだろう。表立っては言わないけど、APEC直後の「胡錦濤のメンツつぶし」みたいなやり方に怒っていることも確かだろう。

 日本側から言うと、「東京都が買って漁業や観光施設をどんどん作るよりいいでしょう」「日本が実効支配する中で、書類上登記を移すだけで、実際は何も変わらない。むしろ今後の静かな対応のためにも国家が所有している方がいいでしょう」という考えだろう。党大会後まで待ってると、もう野田政権は存在していない。「9・18後」と言っても、民主党、自民党の選挙中で「国内問題化」してしまう。民主党は野田氏が優勢と伝えられるが、選挙だから万一のことが絶対ないとは言えない。野田氏が代表選で落ちたりしたら、「4人目の民主政権」は特例公債法案をあげて解散するのが精一杯で独自の政策を進める政治力はないだろう。中国の最高責任者は年末には習近平になっているから、日本も年末の次期政権(野田氏の当初の考えでは、恐らく自民党内リベラル派、親中派の谷垣政権)が日中関係好転に取り組めるように、野田政権で決められる間に決めてしまっておきたいという考えだったんだろうと思う。

 しかし民主や自民の党内選挙は「国内政局」に過ぎない。せめて「9・18後」であれば、少なくとも「歴史問題に一定の配慮はしたつもり」のメッセージになったかもしれない。そもそも、日本では「都が持つくらいなら国有化の方がいい」と思う人が多いと思うけど、土地がすべて国有である社会主義体制の中国では、また感覚が違うのではないか。「地方政権」がやってるのと「中央政府」がやるのでは全然違うと思っているかもしれない。たまたま「右翼の頭目」が権力を持っている地方政府がやるなら、それは日本政府や日本人民は別と言えるけど、日本政府が国有化してしまえば「中国政府が中国人民に説明してきた論理」が成り立たなくなる。都がどんどん開発するなどと言えば、中央政府が禁止すればいいではないか、と思っているのではないか。しかし、日本の法理で言えば、都が所有すること自体は違法ではなく、開発を進めるとしても違法ではない。地方自治体に違法行為もないのに「中央政府が中止命令」をするわけにもいかない。尖閣は右派の人物が所有していたようだが、誰に売られるか判らない私有や、独自の施策を進めると豪語する地方自治体より、日本の立場では誰も住んでない国境の島は国有の方がマシだろう。「国有化」は何ら今までの政策を変更するものではなく、かえって尖閣を平穏な環境に置くための方策なのだ、ということを直接、間接に伝達していくことが大切だと思う。

 日本政府は尖閣は「日本固有の領土」だというけど、「国家の論理」ではそういうしかないと思うけど、僕個人は尖閣諸島が「固有の領土」だと思ってはいない。「固有の領土」とは本来は「近代国家成立以前から民族の文化が栄えた場所」であると思う。従って、日本では北海道と沖縄は「固有の領土」とは言えない。近代化の過程で日本の領土として世界から認められたという場所である。同じように「清国の固有の領土」とはどこかと言えば、いわゆる「中華世界」が中心で、チベット、ウィグルどころか台湾も「固有の領土」と言えるかは検証が必要だろう。しかし、そういう近代国家以前の「領土」という概念のない時代の東アジアを前提にして領土問題を論じることは不毛だと思う。

 
 琉球王国時代も清国時代も尖閣に人が住んで開発していたわけではない。中国のデモ隊は「島を返せ」というスローガンを掲げるが、ではいつ尖閣が中国領だった時代があるのか。確かに日本は近代になって中国に侵略したが、尖閣諸島自体は戦争で獲得したわけではない。戦争で奪ったわけではないから「返せ」はおかしい。ただし、「琉球処分」に反対する清国に対し、1880年に先島諸島(宮古、八重山)を清国に割譲する(代わりに最恵国待遇を認めさせる)という提案をした事実はある。清国はそれに反対したまま日清戦争で敗北して台湾を割譲することになって、沖縄県の帰属も確定した。これを見ても「固有の領土」と主張するのはちょっときつい。(それは別として、当時の日本の「琉球処分」が法的、倫理的に問題なのは事実である。)戦争もあった近代の関係の中の話だけど、それでも尖閣諸島が中国の領土であるという積極的な論拠は僕にはないように思う。戦後沖縄は米軍統治下にあり、中国も戦勝国なんだから、その時点で中国(中華民国)がアメリカに尖閣の領有を訴えてでもいたら、展開は変わっていたのかもしれない。しかし、尖閣も含めて米軍が統治し、施政権の返還ととともに日本の統治下にあるというのが僕の理解である。

 中国の主張を突き詰めれば、南シナ海なんかほとんど全部の島が中国領になってしまう。フィリピン、マレーシア、ベトナム、ブルネイなどとすべて争いがある。そういう「大陸棚」理論みたいな海洋法理解は、認められるものではない。海洋資源であれ、漁業であれ、資源開発会社も漁民も陸地に住んでいる。人が住めない海の底の大陸棚が大陸からずっと続いているから、はるか離れた島でも大陸国家の領土であるというような考えは、大陸国家に都合がいいだけの「ヘリクツ」ではないか。経済水域の決め方は「中間線」だというのが、大陸国にも島国にも公平な決め方である。そういう海洋法の作り方の問題が大きな問題になるのも不幸なことだと思うが、日本としては譲れないのではないかと思う。

 ところで「尖閣」はどこに所属すると中国では考えているのか。それが実は「台湾省」に帰属すると言っている。そうすると、中国人は「返せ」と言うが、日本国はどういう風にして誰に返せばいいのですかと聞き返してみたいところでもある。台湾省の「解放」までは人民共和国が直轄管理するとでも言うのだろうか。香港の活動家は、尖閣上陸時に、中国の「五星紅旗」とともに、台湾(「中華民国」)の「青天白日旗」を掲げたが、中国の新聞は台湾の旗は塗りつぶして報道した。中国側の矛盾も大きいのだなと思う。中国の「反日デモ」の問題も考えたいけれど、長くなってしまったので今日はここまで。
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「反いじめ文化」を育てる②

2012年09月17日 00時42分37秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 つい他のことを書いてしまって、書き切ると言った「いじめ問題」が終わらない。まあ前回の続きを書いてしまいたい。
 
 一体学校で「いじめ」が起きたら何が悪いのだろうか?いじめは防げないが、学校や教育行政が「隠蔽するのが怪しからん」という人もいるようだ。「生徒がルールを守らないのに、学校がきちんと指導できていないのがおかしい」という人もいる。そういう考え方によれば、学校がもっと毅然と対応すべきだし、また毅然と対応する教員の給料を上げて教師を競わせればいじめがなくなるという意見もある。もっと極端になると「いじめを犯罪にして警察が解決すればいい」という人までいる。僕からすれば、あまりにもナイーブな人間観に驚いてしまう。きっと「いい家庭」「いい学校」で育った「二世議員タイプ」で、実際にルール違反をする生徒や女子グループの複雑な人間関係のもつれなんかと格闘したことがないんだろう。だから、そんな「厳しくすればいじめは防げる」みたいなバカみたいなことが言えるんだろうと思う。

 もっとも僕も「深刻ないじめ事件」を緊急に止める必要があるときは、教師の強制力で指導したり、警察力を導入することも大切だと思う。でも、大人になっても職場や家庭で人間関係がもつれることはつきまとう。未成熟な生徒がいっぱいる学校内で、人間関係でトラブルを起こさせないことだけが学校の目標ではダメだろう。教師の力で学校にいる間だけは守られていても、卒業して「狼の群れ」の中に放されたら何もできない人間であることを暴露してしまうことはけっこう多い。学校時代に、基本的な「反いじめ文化」が育てられていないということで、それが一番問題なのではないかと思う。

 「いじめ」のニュースを見聞きすれば、「かわいそう」な事例が一杯ある。教科書を隠されたり、虫の死骸を入れられたり、誰も話しかけてくれなかったり、カネを持ってくるように強要されたり、そんな行為を受けている生徒を「かわいそう」と思う。それは自然である。かわいそうだから「同情」するというのは、確かに「何かを考え行動するときの最初の一歩」になることが多い。戦争で子どもが死んだり、飢餓が広がり難民になったり、津波で家族や家を失ったり、原発事故で突然村ごと住めなくなったりするのは、まさに「かわいそう」。子どもも大人もそういうニュースを聞けば皆「同情心」が高まる。それを否定する必要はないし、最初は同情からでもいいだろうと思う。でも、「同情」には明らかに限界がある。「緊急の時期」を過ぎてしまえば、どんなところに住む人間にも「日常生活」がある。被災地にもある。いじめ事件が起こった教室にもある。「忘れてはいけない」とマスコミは言ったりするけど、「だんだん忘れていく」ことは避けられない。そして「同情される側」も「同情だったらもういらない」と普通は思うようになる。非日常の緊急時期には同情も大切だったけど、「かわいそうだから助けてあげる」という発想では、「同情する側が上」で、同情される側の自立が阻害される

 それと「同情」から発する行動は、「義務感」と結びついてしまうことが多い。「経済が発展した我々は、飢えと戦争に苦しむ発展途上国を助けなければいけない」「被災地の人々を支援するのは国民の義務である」などなど。まあ、そういう「義務」もあるかもしれないけど、義務感だけでやっていると、楽しくないし疲れてくる。皆の熱が下がってくると、義務だと思って頑張る人だけ負担が多くなり、冷めてきて手伝ってくれない人を批判する気持ちが起こる。そうして気持ちがバラバラになって終わってしまうと言うのが、多くのボランティア活動や社会運動のてん末である。「いじめ問題」も似ていて、同情と義務感だけでやっている学校だと、「いじめ防止ポスター」なんかを作らされる生徒会役員や学級委員なんかだけ負担感を感じてしまい、結局試験勉強と部活動の日常に呑み込まれてしまう。

 人間は楽しくなければ続かない。これが大原則であって、いじめがいけないのは「かわいそう」だし「ルール違反」だからでもあるけれど、一番は「いじめがあるクラスはつまらない」からである。そのことを教師はもっと発信していかないと行けないと思う。そうでないと何だかマジメ主義になってしまい、みんながいじめはないかと見張っているようなムードになってしまう。「いじめはないけど、つまらない学校」は、いじめ問題のニュースが報じられなくなった数年後にいじめ事件が起きてしまうかもしれない。いや、いじめが起きないにしても、それでは「反いじめ文化」を育てたことにならない。では、「楽しい学校」をどうしたら作れるのか。教員処遇の問題は別に書くとして、「大胆に外部の風を入れる」ことと「マイノリティの文化を学ぶ」ことかなあと思う。

 「マイノリティの文化」と書くのは、やはり差別や偏見をなくすと言うのが、いじめを学校から減らしていくことと結びついていると思うからだ。差別について学ぶということは、「差別がかわいそう」ということではない。「差別の中でも差別に負けない生き方を作ってきた人から学ぶ」ということである。「差別や偏見はありません」という人が、実は「出身者だからと言って差別する気はない」と自分で思っているだけで、「学歴がない人はダメ」という理由で「被差別や外国人や経済的に大変だった人」を排除している、そしてそれを「合理的な理由だから差別ではない」と思い込んでいるということはかなり多い。実際にマイノリティで素晴らしい生き方をしてきた人を具体的に知らないから、「偏見はない」と思い込んでるだけで、「マイノリティへの敬意」もない。「敬意」がなければ「無関心」なだけで、「無関心であることを差別してないことと思っている」のである。それでは「反いじめ文化」は育たない。これは大切な点で、無関心であるということ自体が偏見を持っていることだと判らないと、「いじめを傍観する」=友達ではないから無関心だっただけでいじめてはいない、という子供たちの多くの心を動かすことができない。
 
 また「楽しい学校」と言うのは「遊びがある学校」という意味ではないわけで、もちろんレクリエーション大会をいっぱいやるというようなことではない。「生徒にも教師にも、深い知的、身体的刺激があって、人間や社会について新しい考え方、生き方を学ぶこと」である。学校なんだから「学ぶ楽しさ」を教えられなければいけない。「身体的」とわざわざ入れたのは、人間関係作りのゲームや演劇のワークショップ、伝統芸能や伝統工芸の体験授業などを想定しているからだが、基本は講演で「話しを聞かせる」ことが多くなると思う。聞かせるだけでは生徒は飽きるので、テーマ設定と講師の選定はよく考えなければいけない。今は「総合学習」もあるし、外部の講師を呼ぶことも昔より難しくない。仮に予算措置がなくても、僕の体験では「学校で生徒に話してほしい」と頼めば、日時さえあえば断られることはほとんどないと思う。

 「マイノリティ」と僕が書いたのは、いわゆる「差別問題」だけを指しているのではない。大企業に対しては中小企業が「少数派」であって、地域の中で「技術で頑張っている中小企業」を見つけて話してもらう。地域の中で「有機農業」を続けてきた農家、厳しい環境の中で頑張っている伝統工芸家、そういう人々も広い意味で「マイノリティ」と考えて、頑張ってきた姿に学ぶところが大きい。また、もちろん地域の中の外国人文化との触れ合いも大事だし、自分の地域ではない問題(アイヌ民族や沖縄の文化など)を特別に呼ぶことも考えられる。(特に高校の修学旅行で、北海道や沖縄へ行く場合。)ただ学校としてどうしても考えておかなくてはいけない問題もある。教員も一般社会の差別の中で生きてきたのであって、もちろん差別や女性差別、障害者差別などについては勉強したことはあっても、一般社会でまだ認知度が低いような問題については特に意識が高いというわけではない。今イメージしているのは、性的マイノリティホームレス刑余者(前科のある人、刑務所から出所した人)、難病を比喩に使う問題実験動物や毛皮などの問題などである。

 難病を比喩に使うというのは、例えばいつも掃除をさぼりがちな生徒を「お前はこの班のガンだな」と教師が言ってしまい、身内にがん闘病中の家族がいるマジメな女子が傷つくと言った場合である。「そんなに勉強しないと、お前の将来はホームレスだ」とか「そんなことをしたら刑務所行きだぞ。二度と誰も雇ってくれないぞ」などと教師が言ってしまうこともあるかもしれない。生徒の中に親が刑余者である場合がいないとは言えない。教師がホームレスの差別意識を持っていると、生徒が襲撃事件に関わらないとも言えない。(これは都市部では緊急に教員全員に対する研修が必要である。)そして何より深刻なのは性的マイノリティの問題で、教師が一生懸命制服の指導をすればするだけ、性同一性障害の生徒を傷つけてしまうことが現に起きている。なんとか全日制の高校に入っても制服でつまづき、制服のない定時制高校へ変わるという例も多い。中学段階では学校側にカミングアウトできず、高校段階で自分の「性自認」をはっきりさせたということである。それもできないで悩んでいる生徒がいるということを中学や全日制高校の教員は一応頭の中に入れておかないといけないだろう。この性的マイノリティ(いわゆるLGBT)の問題がいじめに直結していることもあるので、問題自体を意識するとともに、「性的マイノリティの人々の豊かな文化」を紹介することは重要である。

 そういう問題を一度にできるものではないだろうが、学校の特色を生かしながら、特別授業(人権や健康の講演会)、進路指導、行事(文化祭の講演会など)、道徳、総合学習、各教科の授業などで試みていく。問題は生徒に教え込むのではなく、生徒の心と触れ合う授業を作って、「大変だけど教師も楽しむ授業」を探っていくこと。そのためには「教師の感度を高めること」が必要である。学校自体が差別やいじめを生み出す場合も多いので、「自分を見直す」ことも求められる。従って、自分を見直すことができない教育委員会が開く「官製の人権研修」には全く期待はできない。人権研修会と言いながら都教委の反人権的施策を自己批判できない。そういう人しか講師に呼ばれない。そういう中で、現場で教員一人ひとりが自分の感度を上げて、できることをやっていくしかないだろう。でも、義務でやらなければいけないのではない。自分がもっと納得して働ける学校を作っていくということである
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昭和からやってる4人の力士

2012年09月14日 23時45分19秒 | 自分の話&日記
 今日も暑い。行きたいところがあっちこっちあるけれど、なんだか朝の体調がいま一つだな。勤務があったら休まない程度だと思うけど、今はフリーだから今日は家で休むかなあ。昼過ぎには元気になったので、パソコンとテレビを見ようか、と思ってテレビを付けたら安倍晋三の顔が…自民党総裁選の告示である。少ししたら大相撲になってこれを見る。大関3人休場か…。

 男子サッカーのワールドカップ予選、イラク戦はお芝居を見ていたから見れなかった。サッカーは今、見る競技としてプロ野球より僕には面白い。ただ、サッカーは点が入らない競技だから、しばらくこう着状態だとその間パソコン画面なんかをよそ見してしまう。そういう時に大体ゴールか、でなくてもシュートになるのである。テレビの歓声を聞いてから見ても決まってもう遅い。これは「マーフィーの法則」とでも言うか。でもちゃんと見ると(五輪女子のカナダ戦とか)、とても面白い。相撲は、仕切りの時はよそ見していて制限時間になってから見ることが可能である。それじゃいけないのかもしれないけど。だからその点を利用して、今日知った事実を報告。

 旭国という大関が昔いて僕は好きだった。北の湖全盛期にあたってしまい優勝できなかったけど。引退して大島部屋を開いて横綱旭富士を育てた。そしてモンゴル力士を最初に入れたことで有名である。現役力士から96年衆院選に出た旭道山(新進党)という人もいたね。大島親方はもう定年で、力士は旭富士の伊勢ヶ浜部屋に移っている。さて、その最初に来たモンゴル力士が旭鷲山旭天鵬であるわけだが、この旭天鵬が元気で先々場所は何と優勝、今場所も6連勝している。まあ、先場所は13連敗したけれど。この旭天鵬の通算勝星がいくつなのか、相撲協会のHPでは見つけられない。そこで仕切り中に探してみると、「昭和以降の大相撲の記録」というサイトを見つけた。720項目の記録を載せているという。およそ考えられるあらゆる記録が載せられている。奇特な人がいるものである。

 それで見ると、通算勝利1位は魁皇の1047で、それは知ってるけど、旭天鵬は10位以内の唯一の現役力士で、先場所段階で10位の804。9位だった水戸泉(807)を6勝したから抜いて、今日現在810で9位ある。上に高見山(812)、安芸乃島(822)、寺尾(860)といる。寺尾が7位でこれを抜くのは大変ですね。今まで書いたのは前置きで、僕は別に旭天鵬のファンでもなんでもなく、ただデータを知りたかっただけである。そして調べていて、いやあ、ビックリすような事実を見つけてしまった。もう平成も24年だというのに、昭和から相撲を取っている力士が4人もいるではないか

 通算在位という記録である。この1位は栃天晃(とちてんこう)という力士で、175場所だと言う。年6場所だから10年で60場所。ほとんど30年もいたのか。最高位は十両4枚目で、ついに幕内には届かなかった。昭和57年夏場所から始まって、去年の5月場所で引退。えっ、去年の話か。1967年生まれというから、44歳まで現役で取っていた。野球やサッカーと違い、相撲は会社と契約を交わすわけではなく、クビになったり定年はない。いや相撲協会の定年は65歳だけど、還暦過ぎた現役力士は考えられない。というか、十両になる前は「丁稚奉公」みたいなもんであって、給料も出ない。食住は保証されるんだろうけど、出世を目指して稽古にはげむ若い時期である。40にもなって、下の方で取り続けるというのは、偉大なのか、修行というべきか、辞め際を間違えたのか、僕には判らない。この栃天晃という力士は、蔵前にあった旧国技館の土俵を知る最後の力士だったという。

 そして、在位2位が何と3人もいて、158場所で「昭和61年3月~」とある。「~」とあるから現役なのである。1986年から取りつづけているのか。その3人は、というと…。
 華吹(はなかぜ)42歳 立浪部屋 最高位三段目18 今場所は序二段45
 北斗龍(ほくとりゅう)41歳 北の湖部屋 最高位三段目53 今場所は序二段52
 笠力(かさちから)42歳 二所ノ関部屋 最高位序二段67 今場所は序の口11

 いやあ、誰も知らないですよねえ、こういう人が世の中にいたなんて。笠力さんなんか、最高位が序二段で、それは何と去年の7月場所である。40超えて最高位で、それが序二段で、その後また落ちて序の口で取っている…哀愁ある人生ですなあ。北斗龍という人の最高位は、平成7年だからもう17年も前になる。華吹という人は、最高位が平成15年。足立区出身とある。相撲は序の口、序二段、三段目、幕下、十両、前頭という風に出世していくわけだが、20年以上もやっていて幕下にもなれないんだから、まあ親戚にいたらもう辞めたらという感じなんだけど。

 続いて、出羽の郷(でわのさと)という力士が、同い年なんだけど一場所遅い5月デビューでまだやっている。この人は十両14枚目まで行って、今は三段目46。そう言えば、「一ノ矢」という、琉球大を出て昭和58年から平成19年11月までやってた力士もいた。なんと引退時46歳だった。最高位は三段目6。いつまで元気のようでも、金本も引退するし、皆辞めていく。(松井秀喜はどうするんだろう?野球は雇ってくれないと始まらないからねえ。)辞め際はむずかしいですね。40過ぎて下の方で相撲取ってるのは、どうなんだろうと思わないではないけど、偉大と言えば偉大。1970年度の学年で、同い年で4人が中卒で入って158場所目と156場所目。
 
 C'est la vie(セ・ラ・ヴィ)
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「反いじめ文化」を育てる①

2012年09月13日 19時48分34秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題を書いてしまいたい。この何十年か、何度か時々「いじめ」問題が大きく取り上げられる。そのたびに「いじめ対策」とか「いじめ調査」とか「強い対応」とかが言われる。そして、数年後にまたいじめが大きな問題となってしまう。それは「学校の対応が問題」だとして捉えられ、特に「公立学校バッシング」と結びついて取り上げられることが多かった。その言説の構造こそが、いじめ問題を大きくしてきたのではないか。

 「いじめが根絶できない理由」は前に書いたけど、学校外部の負の影響を受けるだけでなく、「評価」を避けられない「学校そのもの」の中に「いじめの芽」が存在する。だから、いじめを根絶するという目標を作ると、かえって「いじめ隠ぺい」を招くと考えられる。「いじめ事件」を仮に防止できたとしても、「いじめ的言動」のすべてを学校からなくすことはできない。学校だけでなく、すべて人間の住むところどこでも、差別や偏見を完全になくすことはできない。

 では何をすればいいのか。事件になるような大きな問題さえ起こらなければ、それでいいのか。そうではないだろう。本当は生徒を取り巻く「差別社会」の中で、それに巻き込まれず立ち向かっていけるような「反いじめ文化」を育てていくことが学校の目標ではないかと思う。しかし、それはなかなか難しい。生徒を取り巻く「現実社会」の影響力は強い。生徒は教師の言葉よりも、テレビやインターネットの伝える「怪しい話」の方を信じている場合が多い。テレビのヴァラエティ番組などは、出演者の中に「差違」を見つけて、からかったりバカにしたりする趣向がとても多い。そういう番組を見て育つ生徒が、「普通と違う」生徒をバカにしたり偏見を持つようになるのは当然だ。

 最近は偏見を持つ段階から進んで、今回の大津市の場合のように「教育長を襲う」というような暴力的直接行動(テロ)をもてはやす段階まで来てしまった。いじめに反対するように見えて、実は自分がいじめを行っている。それをまたネット空間で持ち上げる。このような「匿名空間」ではなんでも可能になる。「教室」(クラス)も、そのような「匿名空間」化してしまうと、皆が無関心になる中で「いじめ」が起きても誰も止められなくなってしまう。だから、クラスが「学習集団」として機能するような、行事の盛り上がりや生活規律作りが必要なのである。そしてそれを作るのが、学年担任団の仕事であることも前に書いた。

 このように生徒の世の中は、差別や偏見に満ちているのだが、それを今「差別社会」と表現すると誤解されるかもしれない。日本社会にあった歴史的な社会的差別(差別や性別差別など)は、学校では否定されているし人権教育を通して理解が進んでいることになっている。もちろん完全ではないが、数十年前よりは「あからさま差別事件」が起きることは少ないだろう。「いわれなき差別」については、確かに量的には減っているのではないかと思う。しかし人間集団である以上、一人ひとりは「差違」を抱えており、学校と言う「能力によって評価される社会」では、「いわれある違い」は大きな問題になってしまう場合がある。「行事」を通してクラスのまとまりを作ると言っても、球技大会をやれば優勝もあればビリもできる。優勝したクラスはいいけど、ビリになったクラスで「戦犯さがし」が始まれば「いじめ」のきっかけを作ってしまう。「クラスでまとまる」「みんなで決めて、みんなで頑張る」などと言うクラス目標だけでは、うまく行ったときはいいけど、条件の違いで他の仲間と同一のペースで頑張れない生徒はかえって排除されてしまうこともある

 ではどうすればいいか。「マイノリティへの配慮」がすべての活動の前提に必要なのではないか。「誰も悲しい思いをしないクラス」というようなスローガンである。学校では勉強やスポーツをするが、勉強もスポーツもできる方がいいに決まってる。そして少しの努力や協力で、みんなで試験を頑張ったり、スポーツ大会でいい成績をあげたりできることが多い。その「少しの努力や協力」をしない生徒に対しては、教師が努力や強力を求めるのは当然である。だけどその時の加減が難しいのだが、十分努力してるけど結果が付いてこない生徒や、努力自体が大変な生徒(障がいや病気を抱える生徒など)もいるわけである。そういう生徒のプライドにも配慮しつつ、どうやってクラスのまとまりを作っていけばいいのか。それは難しい。うまく行ってるクラスを見て、「技を盗む」ことを繰り返して教師も成長していくんだと思うけど、今のように「教師どうしを競争させれば、教育がうまくいく」みたいな競争政策の下ではそれも難しい。それぞれの教師が孤立しながら悩んでしまうのが今の学校ではないか。

 多くの場合、「いじめ事件」の前に「いじめ言動」があり、その前に「いじめ的な言葉が飛びかう教室空間」がある。「言葉」が重要だと思う。人を馬鹿にするような言葉遣いを生徒がするようになるときがある。強い者へのへつらいか、テレビなどの影響か。例えば、本当に友達同士の間で、「こんな問題もできないのか」「うるせえな、チビのくせに」などなど。この「くせに」がいけない。友達同士だからいじめではなくても、いけない。こういう言葉が教室で当たり前になると、皆が自分の偏見(ホンネ)を出しやすくなってしまう。今は「キモイ」というような言葉が一番問題だ。「テレビを見てたら、タレントの誰それがキモイこと言ってんの」と誰かが言う。別にこの学校の生徒や教師を言ってるわけではない。だけど、この言葉は使わない方がいいと教師が言う方がいい。これは難しいと思うけど。「反いじめ文化」を育てるには、「言葉」に敏感になることから始まると思う。

 その時に生徒は「なんで使ってはいけないの」と聞くだろう。言葉で説得するのも大切だけど、最後の最後は「先生はその言葉が嫌いだから、このクラスでは禁止だ!」と決めてしまう方がいい。そうでないと、うまく説得に応じない生徒がヘリクツを述べたてて(「言論の自由」とか)、問題がこじれてしまうことがある。「賢い生徒」の方が問題で、自分が傷つかない立場にいて教師をやり込めることを喜びとしがちなのである。「キモイ」は人を不快に思う時の言葉だから、教室で使う必要はない、と言い切ってしまう方が問題は少ない。それで問題が見えなくなるようでは困るんだけど、「うちの担任は誰かが不快な思いをする言動を許さない人だ」と思ってもらう必要がある。しかし、このような「担任権限で禁止」がうまく行くためには、それ以前の前提として「学校と担任教師への信頼」が存在してなければならない。そうでないと「何か、うちの担任、変なこと言ってたよ」になってしまうだろう。だから、今はなかなか難しいだろう。「学校バッシング」「教師バッシング」こそが学校の体力を擦り減らしてしまい、いじめを防げない「内向きの学校」を作ってしまったのではないかと思う

 以上は主に中学を念頭に、「原論」として書いた。もう少し具体的な話、あるいは高校段階での話は次回に書きたい。
 なお、中学と高校の違いは以下の通り。現在、日本社会では大きく学歴の三層差が存在する。(橘木俊詔「日本の教育格差」、2010、岩波新書)「有名大学卒」「大学卒」「高卒」である。専門学校や短大は中身に応じて、大卒(それほど有名でない大学)や高卒のカテゴリーに入れる。「高校中退」は「アウトカースト」である。この三層はおおむね、入った高校で決まる。どこの大学を受けるかは受験料さえ払えば自由だが、いわゆる有名大学に入るには進学高校(普通科上位校)へ進む場合が多い。普通科中位校では「それほど有名ではない大学」または専門学校、職業高校では就職というコースが多くなる。いじめなど多くの問題が中学で起こるのは、発達段階もあるが、一番大きいのはこの「人生の大選抜」に直面しているからである。しかし、まだ選抜前なので、できることはかなり多いとも言える。高校は「選抜後」の生徒たちに直面するので、有名大学へ向けてスルーしていくだけの生徒か、選抜に敗れてしまい教師の役割をもう必要としない生徒が多い。この基本的な現実を踏まえない教育論議はすべて意味がない。
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映画「女の学校」と宝塚の女優たち

2012年09月12日 18時41分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、宝塚出身の女優が出た映画を特集上映している。そこで宝塚映画「女の学校」(1955、佐伯幸三監督)という映画を見た。映画としてそれほど傑作ということではないけれど、珍しい映画なので簡単に書いておきたい。

 宝塚の女優を高校生役にキャスティングして作った娯楽映画である。大林清という直木賞候補になった娯楽作家の原作。撮影が岡崎宏三。宝塚映画は、1951年に阪急が全面的に資本を出して作った映画会社である。東宝争議の影響で東宝作品が少なかったために作られたが、1968年に製作中止。小津の「小早川家の秋」や成瀬の「放浪記」はここの作品である。だから、現役タカラジェンヌがたくさん出ているわけだ。脇役に水谷八重子(初代)、細川ちか子藤原釜足(「きよしこの夜」を歌うシーンがある)など芸達者が出ている。

 主演は寿美花代(1932~)。1963年に高島忠夫と結婚して退団するまでずっと宝塚にいたから、現代映画の主役はあまりないと思う。実に美しく、若い女教師役を生き生きと演じている。神戸の女学校桜台女学園に、東京の音大を出た寿美が赴任する。同僚の鶴田浩二(理科担当で、実験動物がのモルモットの飼い方を研究している)が迎えに出たはずが…。鶴田浩二は後に東映のヤクザ映画で記憶されるようになるが、若いときは大アイドルスターだった。松竹でデビュー後、東宝など各社で主役をやっている。寿美は音楽の授業と同時に舎監も頼まれ、寮に住み込み生徒の面倒を見る。

 この学校は宝塚音楽学校ではないが、音楽や劇の場面が多い。最初の授業で寿美が皆の実力が知りたいというくらいだから、「音楽科」なのか。最初に呼ばれた相沢雪子が流麗なピアノ演奏(ショパン)を披露する。これが扇千景(1934~)で、中村扇雀(現坂田藤十郎)と結婚して57年に退団する。後の参議院議長の貴重な映像である。続いて、志賀富子が呼ばれて歌を歌うと言う。では伴奏は私がと寿美がピアノに向かい、ジャズも巧みに弾く。この富子役が雪村いづみ(1937~)。宝塚ではないが当時若き人気スターで、魅力全開で若さが弾けている。寿美先生は人気の鶴田浩二先生と親しそうなので、女子生徒はちょっと複雑だった感じだが、この伴奏で生徒の心をつかんでしまう。

 生徒の姉役で淀かほる鳳八千代、生徒役で浦路洋子環三千世らの現役タカラジェンヌが出ている。環三千世が演じる生島弥生子という生徒は鶴田に憧れていたので、寿美が来てから何だかつまらない。姉(鳳八千代)が洋裁店の店で後援者の男に迫られケガして入院してしまい、学校に来なくなって姉の友人の勤めるキャバレーに勤め始める。これを聞きつけた雪村が先生に相談し、寿美、藤原、鶴田の教師と雪村がキャバレーに乗り込む。乱闘になってしまい、新聞カメラマンが鶴田を撮影し新聞に載ってしまう。理事会で鶴田を首にせよと迫る後援会長が、生島の姉に言い寄ってケガをさせた当人である。その辺りが一番のドラマになっている。

 一方、芸大を目指す生徒が2人、相沢雪子(扇千景)と大友宗子(浦路洋子)。宗子の不得意なベートーヴェンが課題曲となり、二人の間にすきま風が…。そこを取り持つ富子(雪村)。雪子は先生の特訓を受け芸大に臨むが、健康に問題があり試験終了後に倒れてしまう。盲目の姉がいて妹の合格を待ち望んでいたが…。と展開は全く通俗そのものなんだけど、実際に歌や演奏ができる若い美女が演じているので、かなり気持ちよく見ることができる。

 そして最後に卒業式。芸大にトップで合格しながら亡くなった雪子に代わり、宗子が答辞を読む。雪子には卒業証書が出され、富子に手を引かれた盲目の姉が受け取る。問題生徒はいないし、多少の葛藤はあるけど、皆うまく行く。だからこれは「学校のリアル」を描いている映画ではない。なんと恵まれた女子高生かと思うが、「太陽族」と同時代でもある。見ていて気持ちがいいのは、生徒のリーダーとしての雪村いづみの魅力。皆を心配し、いろいろ手配し、手をつくす。明るくて能力もあり、人望が篤い。こういう明るい女子生徒のリーダーが一人いると、クラスは全然違ってくる。新任の寿美花代のクラス運営がうまく行くのは、(教師の権威が確立していた時代の「良い学校」の話であるが)雪村いづみ(富子)がクラスにいて協力してくれるからである。

 亡くなっている生徒に卒業証書を出すという卒業式シーンも良かった。それに近い出来事にぶつかることも教員人生にはあるだろう。ほんものの卒業証書は渡せないので、たぶん「公印を押していない」ものを渡すことになるのだろう。家族からすれば「墓前に捧げる」ものが欲しい。寿美花代の魅力と雪村いづみ、扇千景の若き日の姿が印象的。その後の3人の実人生を想いながら、見るわけである。
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ウェスカー連続上演を観る

2012年09月12日 00時43分43秒 | 演劇
 東京演劇アンサンブルで、イギリスの劇作家、アーノルド・ウェスカーの「大麦入りのチキンスープ」と「ぼくはエルサレムのことを話しているのだ」を連続上演中。10、11がチケットが安い日なので続けて観劇。(17日まで、2作品を交互に上演。)公演があった「ブレヒトの芝居小屋」は東京演劇アンサンブルの本拠だが、遠いので実は初めて。西武新宿線の武蔵関と言う駅である。

 アーノルド・ウェスカー(1932~)は50年代後半から続々と作品を発表してきて、政治的というか思想的というか、そういう趣が強い家族劇が多い。50年代後半のイギリスでは、オズボーン「怒りをこめてふり返れ」と言う劇が評判を呼んで、アラン・シリトーの小説などを含めて「怒れる若者たち」と呼ばれた。ウェスカーはそこに入るのかどうかよく判らないが、日本では60年代、70年代にたくさん上演されたはずである。特に今回の2作も木村光一訳だけれど、文学座、地人会で木村光一が手掛けたことが多いと思う。数年前には蜷川幸雄も「キッチン」をシアター・コクーンで上演していた。そういう風に日本ではけっこう知られている作家だけど、僕は初めて見る。時代が少し違って掛け違ってきた作家と言える。

 「なんとかしなければ、あんたは死ぬだけよ。」(大麦入りのチキンスープ)
 「絶対に泣いたりしちゃけないんだ、ぼくたちは!」(ぼくはエルサレムのことを話しているのだ)

 チラシに載せられている、それぞれのラストのセリフ。何だか今の日本で、震災後の状況を語っているようなセリフである。だからこそ今の時点で再演されたのではないかと思う。しかし、戯曲としての知名度が高い「大麦入りのチキンスープ」(1958)はユダヤ人共産党員の家族の話なので、今では少し古い。50年代という時点を知らないと、よく判らない人もいるだろう。話は1936年、イギリスのファシストが行進をするのを、左翼ユダヤ人が阻止しようとする「ケーブル・ストリートの戦い」の日の場面から始まる。意外かもしれないが、イギリスにもモズレーらのファシスト一派がいたし、少数派なのだがソ連派の共産党も存在した。「党」と言えば「共産党」を意味する知的風土は日本でも、ある時期まで知識人や労働運動の中にあった。この一家、ハリイ・カーンとサラ・カーンの夫婦は強固な党員として生きてきた。しかし、ハリイは性格的に弱く、仕事が長続きしない。一家を支えるのがサラで、「大麦入りのチキンスープ」(ユダヤのペニシリンと言われるくらい、ユダヤ人の健康を支えた伝統料理なのだそうだ)がその象徴である。娘のアダも党を信じ、婚約者のデイヴはスペインに義勇軍として参加する。そういう一家なんだけど、戦時下、戦後と話が進むにつれ、アダや弟のロニイは党への不信を強めていく。父親ハリイは何度か脳梗塞で倒れ、一家のこころは離れていってしまう。時代は労働党政権となるが、わずかな成果を得た労働者は満足して革命を目指さない。しかし、サラの党への信頼は揺るがない。最後に1956年のハンガリー事件で、子ども世代の不信感は頂点に達する…。

 という話だから、50年代には切実な「スターリン批判」、党の無謬性への批判という主題が家族の争いの中に描かれるが、今では古い感じ。ユダヤ的な風習、イギリスの下町の貧困地区の様子などは興味深いけれど。全体としては、「共産党一家に育った子供たちの苦悩」(日本で言えば米原万里みたいな)という主題が大きいような気がする。一方、「根っこ」(1959)をはさんで書かれた「僕はエルサレムのことを話しているのだ」(1960)は、娘のアダとロニイの夫婦が中心人物として描かれる。二人はロンドンを離れ田舎に住み、家具職人として生きて行こうとする。ウィリアム・モリス風の社会主義を目指すのである。親世代はソ連的共産主義を信じていたわけだが、娘世代は「生活に根ざした社会主義」を目指す。母のサラには理解できない敗北主義と映るのだが。そしてその試みも、産業社会の進展の中、結局手仕事の仕事は認められず、ロンドンに戻っていかざるを得ない。「エルサレム」というのはユダヤ人のとっての「理想の地」という意味なんだと思う。この「敗北」の方は、今でもかなり意味があるだろう。社会制度を変える革命なしに、生活のあり方に美を求める生き方だけでいいのか。反原発、自然エネルギー論議もそうだけど、60年代以後の様々な試み、コミューン、身体の解放、自然食なんかにも関わってくるテーマである。でも60年に書かれているので、テーマとして早すぎたのかもしれない。

 全体に家族で論争し続けるところが、日本の家族と違う。日本でこんな会話をしている家族はいないだろう。「かぞくのくに」の在日の一家でも、こんな論争は家ではしていない。親が「党」を信じ、娘が「芸術」を求めると言う構図は似ているのだが。一方、これだけ政治的、思想的な話が立て続けに出てくる劇なのに、インド独立や朝鮮戦争が一言も出てこない。全くアジアが出てこない。イギリス共産党員の世界でも、ヨーロッパ中心主義だったわけである。日本で同じような劇を書けば、ハンガリー事件やサルトルなども出てくるが、同時にアジアの政治情勢が大きなウェイトを持つだろう。そういう意味では、面白い戯曲なんだけど、少し時代が古くなった感じもした。
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吉村公三郎監督「一粒の麦」と集団就職

2012年09月11日 00時36分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷吉村公三郎監督、新藤兼人脚本の特集で、1958年作品「一粒の麦」を見た。昨年フィルムセンターで吉村監督特集があったけれど、その時は震災直後にあたっていて、見逃していた。当時のキネマ旬報ベストテン13位。

 この映画が見たかったのは、福島県の集団就職を扱った映画だからである。冒頭が福島駅の集団就職列車の場面。仙台方面から中卒就職者を乗せてやってくる。車両の半分は二本松から乗ってくる生徒のために空けておく。菅原健二演じる中学教師が夜行列車に付き添っている。「職安」(今のハローワーク)の担当者も付き添っている。「東北の生徒は粘り強い」ので、「金の卵」と言われて高度成長の始まる頃の東京で重宝された。まだ高校への進学率が半分にもならない時代の話である。

 上野に着くと、全員を引率して近くの広場に連れて行く。そこに座らせて、各区ごとに並べて会社側の迎えに引き渡すのである。一方、教師はさらに浜松の紡績工場に勤める女子生徒を引率していく。就職担当教員の仕事ぶりを丹念な取材で再現して、貴重なドキュメント的価値がある。中学と職安の献身的な努力で、中卒就職者が大都市に出て働けるようになるのである。この過酷な仕事ぶりに菅原は不満で、校長にまた次の年もやってくれと言われてすぐには引き受けない。自分が勉強する時間が持てないと言うのである。結局いろいろの経験を積んで、最後は自分から引き受けるところで終わるが、この教師の仕事を「一粒の麦」と表現しているのである。

 生徒の行先は様々で、「三丁目の夕日」のような牧歌的な「神話化」された集団就職ではない。同時代の東京の映像を背景に様々な職場の悩みを描いている。(千住の「お化け煙突」も出てくる。)自動車整備会社に勤めた生徒は、まず「オート三輪」の運転が必要となり練習をしている。自動車免許の中に「自動三輪」という区分があり、16歳から取得できたのである。(今調べて知った。)「オート三輪」という車は若い人には全然判らないかもしれない。僕の子供の頃は町を走り回っていた。こんなに「オート三輪」が出てくる映画も初めてである。
(オート三輪)
 しかし、その整備会社は整備不良車が事故を起こして経営不振におちいる。おりしも同級生三人が勤めていた工場で一人が病気で帰らなくてはいけなくなる。その空いた口を回してもらえるのだが、ちょうどその日に母親の訃報の電報が届く。忌引きを申し出る勇気がなく、母親の葬儀にも帰れない。一方、ガラス工場に勤めた二人は、休暇もない、夜学にも行けない、給料も約束より低い、そんな会社から逃げ出す。(ちなみに「尾形ガラス」という会社である。)行くところがなく、上野から故郷に帰ろうと思っていて、警察の「愚連隊狩り」につかまってしまう。その報を受けた菅原は早速東京に出てくる。

 こういう底辺労働者を生きる生徒と、地方で支える中学教師が描かれていく。ところで、菅原は同僚の若尾文子と恋愛中で、いよいよ結婚する。その式の夜に二人の生徒が捕まるという話が飛び込んできたのだ。結局、若尾も「新婚旅行代わり」に同行することになってしまう。若尾文子の花嫁衣裳姿が見られるという映画でもある。ところで若尾の父は校長の東野英治郎である。いくら当時でも同じ学校に親子で勤務していたとは。若尾はしばらくして妊娠する。「結婚すれば妊娠すると判っているけど、早すぎたかな」と夫は言う。そんな時代だったのか。

 話はいつ辞めるかという問題になる。まだ「産休」という権利が認められていなかった時代である。また先の死んでしまう生徒の母であるが、心臓が悪いと言うことで菅原が見舞いに行く場面がある。そこで枕元でやおら先生はタバコを取りだし一服する。いやあ心臓が悪いという病人の近くでタバコ吸うか、いくらなんでも。と今では思うけど、それが当たり前だったということなんだろう。

 このような集団就職は60年代後半の永山則夫あたりまで続いていくが、ニュース映像ではかなり見たことがある。大体東北から上野に着く列車ばかりである。それ以外の列車もあったのだろうか。山陰から大阪方面へ行く特別列車なんかもあったのだろうか。このように大量の「農家の次三男」が故郷を離れて大都市に出ていかなければならなかった。何とか故郷に産業を誘致することはできないのか。それが「福島第一原子力発電所」だった。歴史的に貴重な映画なのである。リアリズム映画としての出来は、まずまずというところだと思うが。
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岩波文庫と岩波新書の一冊

2012年09月09日 21時37分21秒 | 〃 (さまざまな本)
 岩波ホールで映画を見たら、「図書」(岩波書店の宣伝誌)が置いてあって、「読者が選ぶこの一冊」アンケートのハガキが付いていた。そう言えば、そういうのをやってると言う話は聞いていた。岩波書店のWEBサイトからも投票できる。各文庫、新書の目録もホームページで見ることができる。それでいろいろ思い出しながら、5つの分野で自分の一冊を選んでみた。本選びの参考にもなるかと思い、書いておく次第。

 「選考の原則」は、①岩波文庫で読んだものに限りたい。②現在の目録にあるものを選びたい。(文庫や新書目録には品切れが載っていないので。)③岩波でしか読めないものを優先する。

 もちろん「自分が読んでるもの」から選ぶ。僕は「長いもの」をあまり読んでないので、例えば「戦争と平和」は入らない。しかし、「戦争と平和」は新潮文庫や他の全集で読めるから③によりもともと入らない。「モンテ・クリスト伯」や「ファーブル昆虫記」(林達夫、山田吉彦訳)や「文学に現はれたる我が国民思想の発展」(津田左右吉)や「青年の環」(野間宏)なんかは入らないわけである。ほんと超大作みたいなものは弱くて、持ってても読んでないものが多い。(岩波ではないけど、「大菩薩峠」などは、20冊中ちょうど半分の10冊読んだところで挫折してしまった。)また③により、「坊ちゃん」「人間失格」「銀河鉄道の夜」なんかも選ばない。岩波は買い取り制度だから、近所の書店にはほとんど置いてない。だから漱石や太宰は他の文庫で読むでしょ、普通。(荷風や子規は岩波のラインラップが充実しているけど。)結局大学生以後に大型書店で買った日本や世界の思想、歴史関係の本が多くなる。もっともそれらも中公の「世界の名著」「日本の名著」シリーズで読んだものが多いので、岩波では読んでなかったりするわけである。

★選んだものを最初に書いてしまうと以下の通り。
岩波文庫 中江兆民「三酔人経綸問答」
岩波現代文庫 徳永進「隔離」
岩波新書 丸山真男「日本の思想」
岩波ジュニア新書 石川逸子「『従軍慰安婦』にされた少女たち」
岩波少年文庫 フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」

①「岩波現代文庫」
 新書、文庫は後にして、他のシリーズから選んでしまおう。それで現代文庫の目録を見る。「大杉榮 自由への疾走」「終わりなき旅」など単行本で読んだ名著はどうしようか。あれれ、種村季弘「山師カリオストロの大冒険」山口定「ファシズム」は現代文庫に収録されているのか。他社の単行本で刊行当時に読んだ名著である。見田宗介先生の「時間の比較社会学」「宮沢賢治」もある。高杉一郎「わたしのスターリン体験」「征きて還りし兵の記憶」は、現代文庫オリジナルだから有力候補である。現代文庫は岩波や他社から刊行された本が中心だから、単行本で読んだ本をどうするか。

 岩波の新刊は毎月見ているはずだが、読んでる本が現代文庫に入っても記憶をスルーしてしまうことになる。今回目録を見ていて、色川大吉「明治精神史」が今はここにあるのかと知った。そして「明治の文化」も入っているではないか。僕が歴史学を専攻した最大のきっかけは、「明治の文化」を読んだことである。思い出の本だからこれにしようかな。でも、実は初めから僕の頭には候補があった。でもそれは目録では品切れになっている。どうしようかなあと思い、「明治の文化」かかなあと思いながら、ハガキに向かったら最後の最後に変えてしまった。

 その本は徳永進さんの「隔離」である。鳥取県で医者をしながら(現在はホスピスを開いている)徳永さんが若い頃から通った長島愛生園のハンセン病元患者の人々の声を聞きとった記録である。この分野の本は、当事者の記録が沢山出る時代になったけれど、1982年に書かれたこの本は歴史に残る名著だと思う。この本を埋もれさせないためにも「隔離」を僕の選ぶ一冊にしよう。

②「岩波ジュニア新書」
 このシリーズの性格上、中高生向けの入門書が多いのであまり読んでいない。有力候補の「戦争遺跡から学ぶ」「祖母・母・娘の時代」は品切れである。川北稔「砂糖の世界史」は大変面白かった。しかし茨木のり子「詩のこころを読む」かなあ。とほとんど決めてハガキに向かったら、今度も最後に変えてしまった。石川逸子「『従軍慰安婦』にされた少女たち」である。元中学教師の詩人である石川さんが書いたこの本は、今こそ多くの人に読まれるべき本ではないか。石川さんの詩は授業で使い、生徒が感動した経験を何度もした。

③岩波少年文庫
 これは「モモ」かなあと思って目録を見たのだが、初めから他のものがないかなあと思っていた。「モモ」は単行本で読んだので。長いので、ナルニア国もゲド戦記も読んでないないし。内藤濯の名訳中の名訳「星の王子様」もいいんだけど、これは著作権切れであちこちから翻訳が出ている。僕も単行本で読んだということもある。「飛ぶ教室」や「冒険者たち」も他の文庫で読んだんだし。もちろんリンドグレーンやドリトル先生でもいいんだけど…。と思ったらロングセラーリストを見て、フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」にしたいと思った。名作であることはもちろんだけど、ここで「あのころはフリードリヒがいた」にすると社会派ばかりになってしまう。また訳者の高杉一郎氏を岩波文庫(「極光のかげに」)でも現代文庫でも選べないので、翻訳で選んでシベリア体験を伝え続けた人生に敬意を表したいという、もう一つの動機もあるわけ。

④岩波文庫
 さて、いよいよ文庫である。自分の頭の中には初めから二つの有力候補があった。中江兆民の「三酔人経綸問答」宮本常一「忘れられた日本人」である。ちょっと考えたんだけど、学生時代に読んだということと近代日本を見据えた構想の大きさで中江兆民を選びたい。この「三酔人」の対立構造は今も有効な見立てではないか。是非多くの学生に読んでおいてもらいたい本。しかし理論編ではあるから、「忘れられた日本人」から読んだ方がいいかもしれない。本当は大杉榮「自叙伝・日本脱出記」を選びたいけど、品切れ中である。残念。

 以下、品切れでないものに限って、10位まで選んでみた。①三酔人経綸問答②忘れられた日本人③知里幸恵「アイヌ神謡集」ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」九鬼周造「『いき』の構造」石橋湛山評論集若山牧水「新編 みなかみ紀行」ローデンバック「死都ブリュージュ」フランク・オコナー短編集キャサリン・サンソム「東京で暮らす」

 最近サマセット・モームの新訳がいっぱい出て、僕は好きだから読んでいるけど他でも読んできたので落とす。ラテンアメリカ文学なども他で翻訳されたものが多いので…。西洋の古典は中公版で読んだものが多いのが選びにくい点である。ウィルキー・コリンズ「白衣の女」全三冊は素晴らしいミステリで本邦初訳、他で読めないけど、まあ全員が読む本でもなかろう。ヴィットリーニ「シチリアでの会話」も貴重な文庫化で解説がすごいけど、まあ全員が読む本でもない。でも「死都ブリュージュ」やフランク・オコナー短編集(アイルランドの作家)は読んでもいいのでは。「みなかみ紀行」は群馬の温泉を旅するときの必携書で、昔の温泉を知ることができるので貴重。「アイヌ神謡集」や「『いき』の構造」は有名だが、それよりラス・カサスの短い報告は全人類必読の本である。10位は「ルバイヤート」や「朝鮮詩集」も考えたんだけど、戦前の東京で暮らした外交官夫人の名著を入れておきたい。「きけわだつみの声」や「山びこ学校」などは今では史料的性格が強くなってしまったと思うので選ばないことにした。

⑤岩波新書
 さていよいよ岩波新書。これは全部新書オリジナルだと思うけど、「古典」と新刊の扱いが難しい。湯浅誠「反貧困」橘木俊詔「格差社会」など、もうすでに21世紀の古典になっているかもしれない。しかし、データはすぐ古くなるし、今後生き残っていく本なのかは判別が難しい。でも「今読むべき本」なら入ってくるだろう。古典として生き残っていく本、例えば「自動車の社会的費用」(宇沢弘文)、「水俣病」(原田正純)なんかもある。「バナナと日本人」(鶴見良行)なども。

 でも僕はもっとリクツ的な本を選んでみたいと思った。どうしても丸山真男「日本の思想」E・H・カー「歴史とはなにか」が頭の中にあるのである。若いときに読んで、それが考えるときのベースを作っていく本というジャンルの本。具体的な社会分析の前にそういう理論的なものも読んでおく必要がある。特にE・H・カーは名作で、歴史に関心がある人は読んで置かないといけない。

 こちらも10作を選んでみると、①日本の思想②歴史とはなにか③バナナと日本人④大塚久雄「社会科学における人間大平健「豊かさの精神病理」内田義彦「社会認識の歩み」暉峻淑子「豊かさとは何か」鹿野政直「日本の近代思想」石橋克彦「大地動乱の時代」海部宣男「カラー版 すばる望遠鏡の宇宙」

 岩波新書の理系の本はかなり難しい。逆に僕には難しくないが、こんなに細かい歴史叙述が一般向けの新書に必要かなと思う歴史の本も多い。⑨⑩はそんな中で選んだ。⑨は阪神淡路大震災以後、「大地動乱の時代」に入ったという地震学者の本で、読んだ当時ビックリした。著者はその後原発に警鐘を鳴らし、過去の史料にあたり地震の歴史も調べてきた。今からすると内容が古いかもしれないが、石橋克彦という地震学者を世に出したという意味で、歴史的な意味がある。石橋氏に耳を傾けなかったことで原発事故を防げなかった。そう言う意味を含めて、高木仁三郎「プルトニウム」「市民科学者として生きる」ではなくこちらを選んでみた。⑩は素晴らしい本であるし、カラー版からも一冊をという意味。

 歴史の本、藤木久志先生の「刀狩り」などは敢えてはずした。個別の本ではないものを選ぼうかと思ったので。各分野に読んでおくべき本は多いけど、他の新書もあるし…。最後に竹内敏晴「からだ・演劇・教育」をあげておきたい。
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