いろいろ個別の話を書くのも大事だけど、僕の場合卒業生など若い人で読んでくれている人がいるので、そういう人へ。個別の本や映画の話の前に、「本を読むこと」「映画を見ること」の意味を書いておきたくなった。僕の昔の卒業生は仕事や育児で忙しいようだ。割と最近の卒業生は、大学生になってるけど、早くも卒業に近づいている。学生の間に読んでほしいことを書いておきたいと思ったのである。主に、文科系の大学にいて、福祉、教育、社会的活動などに関心がある人。歴史、社会学、心理学、国際情報、比較文化、宗教学なんかを専攻してる…などと言う人をとりあえず想定して…。でも、老若男女に関係あるし、特に「若い教師」にも読んで欲しい。
しかし、最初は読書の勧めではなく、「孤独」について。今の若い人を見てると、本当に大変だなあと思うことが多い。いろいろ社会が整備されシステム化されていく。悪いとはなかなか言えないけど、そうなるとシステムにそって生きて行かないとうまくいかない。大学3年から「就活」になる。何だ、それ。卒論書きあげる前に、大学院の試験である。仕事を見つけたら、今度は「婚活」しないと結婚もできなくなってきたらしい。中学の段階から、将来何になるかかなり具体的に考えさせられる。高校になると「進路活動」が本格化する。学力不足だ、授業を増やせとあれだけキャンペーンされて、学校の授業が増えているけど、それなら大学なんか試験オンリーで取ればいいではないか。でも少子化の中、半分くらいは「広い意味での推薦」である。生徒は学力とともに、人間力なんて言われて、「自己プレゼン」なんてものを求められる。大体、高校生の頃なんか、そんなに将来何かなりたいなんて思ってたか。大人が振り返れば、「人生は縁と成り行き」。一番大切なものは「運と健康」ではないか。
それもあるけど、やっぱり「携帯電話」と「インターネット」である。携帯電話というものは確かにうらやましい。1996年頃から使う人が増えてきた。95年に高校生の就職指導をしてた時は、生徒の個人的呼び出しは「ポケベル」だった。そんなもん、知らないか。僕は97年にハンセン病関係の集会をやるときに持ち始めた。今は時計代わり。携帯電話がなかった頃は、家に電話するしかなかった。下宿してる女子大生に連絡しようと思ったら、9時まで大家さんが取り次いでくれた。9時だと捕まらないことも多かった。女性の家に電話すると、時々は親が出た。何時間も待ちぼうけだった時もあるし、個人どうしで直接連絡できる「ケータイ」は確かにうらやましい。でも、これができたために、いつでも捕まえることができる社会になってしまった。もちろん切ってればいいんだけど、営業のサラリーマンが切るわけにもいかない。若い人も切ることができない。大人がいても平気で携帯を確認する人もいる。それでも切ってる人や話の間は見ない人の方が多いだろうと思う。でも、常に気にしている。
テレビで毎日百人くらいからメールが来て、すぐ返さないと大変という中学生が出ていた。食事の間もケータイ見てる。これでは「ケータイ依存症」である。ケータイは人間を自由にするものではなく、かえって束縛を強めている。さらに、i Pad、スマートフォンなどもできて、いつでもインターネットができる。だからメールチェックばかりしてる人がいる。電車で本を読んでる人がめっきり減って、ゲームかメール。こうしてると、「常にだれかとつながってる」。いいことのように思うけど、「いつでも現在」で、「常在戦場」である。実際就活では、一瞬で説明会の人数が埋まってしまい、常にチェックしないといけないという場合もあるという。時間が途切れない。今までなら、「今日」という日、授業や仕事があったその日が終わると、家族と自分だけの時間があって、次の日までは「ひとり」(または家族)だった。今日という日が明日になるまでの過程があり、そして今日は過去になり、未来が始まる。でも、深夜まで友人からメールが来ると、「いつでも現在」である。いいですよね、昔はそれが夢だった。でも、思うんだけど、これでは「孤独」がなくなってしまうんではないか。
僕は「孤独」というものは、人生でとても大切なものだと思う。先生も親も、子供が独りぼっちだと困るから、そういうことはなかなか言わない。言わないというより、「孤独が要らない人」もいるのかもしれない。いつでも人の輪の中にいて苦にならないような人もいるみたいだから。でもほとんどの人は、人ごみの中にばかりいたら、他の人間に自家中毒してしまい、ひとりになる時間が欲しくなるはずだ。これはとても大事なことで、これを判ってないと、「友達がいない」ということが過大な意味を持ってしまい、すごく悲しくなってしまうだろう。ここで友達というのは、「クラスで一緒に行動するメンバー」程度の意味である。でも、本当はそれは友達ではない。本当の友達だったら、返信が遅れたくらいで関係が悪化するわけはないから、そういう関係は友達とは言えない。「桐島、部活やめるってよ」の映画で、付き合ってる彼氏のことを彼に止められて友達にも言えないという女の子が出てきた。一番大事なことを相談できないなんて、友人と言えるのか。そういう意味で言うと、友達の定義にもよるけど、本当の友達というのは人生で10人もいない、ひとケタの存在ではないかと思う。
僕が「孤独」という言葉で表現してるのは、むしろ「自己客観化」「内省」「瞑想」の重要性という方がいいのかもしれない。でも、パーティ、同窓会、カラオケ、コンパなんかでも、盛り上がるときもあるけど、ふっと覚めているときもある方が普通だろう。初めから自分を閉ざすつもりではなく(そうだったら参加しない)、誰かと話すことを求めて参加するのだが、そしてそれを楽しんだけど、ちょっと引いてる状態も自分で意識して楽しめる、みたいな。それは僕の言葉では、「孤独を大切にする時間」というのが合っているような気がする。
若いときは、「自分が何者でもない時間」だから、むしろ「孤独」の方がベースで、「誰か本当に自分を判ってくれる彼(彼女)」を求めている。だから早く孤独じゃなくなりたいと思ってるかもしれない。でも、仕事が多忙になり、結婚し子どもが生まれ親が倒れ、人生を多忙で過ごしているときも、そういう時こそ「孤独」が大切になる。そこから間違った道を選択してしまう人もいる。「孤独とうまく付き合う」ことを学んでいなかったのである。言っておくけど、人生が長くなるといつのまにか解決してしまう問題もあるけれど、本質の部分は何も変わらないのである。
こういう問題は人間存在の本質に由来していると思う。人間は親がいなければ生まれないし、誰かが育ててくれないと大きくなれない。「家族」や「社会」があってこそ生きていられるので、本質的に「絆」を求めている。しかし、人間一人ひとりは常に一人で生まれ、生き、死んでいく。生まれたときは知らないけど、必ず一人で死んで行かなくてはいけない。本質的に独りぼっちである。「絆」と「孤独」の両方を生きるのである。ところが最近は「絆の大切さ」「家族や友人は大切だ」ということが言われ過ぎるのではないか。「友達がいない」というのは、「社会から外れている」ということではない。コンビニを使ったことがある人は、コンビニという業態を成立させている社会関係を利用したわけである。一人で住んでコンビニで何も話さずに食べ物を買ったとしても、それは「社会の中で生きている」ということだ。友達は学校でだけできるものではない。中学、高校、大学…ではないところで作った関係の方がずっと役立つことも方が多いだろう。
で、本当に忙しくて追いまくられる、心労が絶えない日々も人生にはある。そういう時に頼れるのは、友達でもあるけれど、もう一つ「孤独な時間に培った自分という存在」の確かさがある。だから、本を読む、音楽を聴く、ひとり旅をする、動植物と向き合う、座禅をする、瞑想をする、ジョギングをする、なんでもいいけど若いときに自分なりの「ひとりで自分と向き合う自分なりの方法」をカラダで覚えておくことが必要だ。
パソコンもケータイも切って、テレビも見ず、何かゆっくり考えるという時を持つ。たまには必要。これを自覚的にやらないと、「中毒」しかねない。そして、常にだれかといないと不安だし、友達がいないと思われると嫌だなんて思ってたら、それは大間違い。たまには「きょうはちょっと一人になりたいかな」と言えるような関係でないなら、友人ではない。そして、付き合ってる間柄でも、それは言ってもいいことである。これが困った問題で、つい悪いと思ってお互い言い出せないままに、関係そのものがまずくなることもある。たまに「ひとりであること」をお互いに作らないと人間関係はかえってうまく行かない。まあ、結婚すればいやでも判ることだけど。カップルであることの素晴らしさは、このひとりであることを自覚した場合の方が増すだろうと思う。まず、「孤独」を自覚的に作る必要性。「ひとりになりたい」と言える成熟した関係を作れるようになるために。
しかし、最初は読書の勧めではなく、「孤独」について。今の若い人を見てると、本当に大変だなあと思うことが多い。いろいろ社会が整備されシステム化されていく。悪いとはなかなか言えないけど、そうなるとシステムにそって生きて行かないとうまくいかない。大学3年から「就活」になる。何だ、それ。卒論書きあげる前に、大学院の試験である。仕事を見つけたら、今度は「婚活」しないと結婚もできなくなってきたらしい。中学の段階から、将来何になるかかなり具体的に考えさせられる。高校になると「進路活動」が本格化する。学力不足だ、授業を増やせとあれだけキャンペーンされて、学校の授業が増えているけど、それなら大学なんか試験オンリーで取ればいいではないか。でも少子化の中、半分くらいは「広い意味での推薦」である。生徒は学力とともに、人間力なんて言われて、「自己プレゼン」なんてものを求められる。大体、高校生の頃なんか、そんなに将来何かなりたいなんて思ってたか。大人が振り返れば、「人生は縁と成り行き」。一番大切なものは「運と健康」ではないか。
それもあるけど、やっぱり「携帯電話」と「インターネット」である。携帯電話というものは確かにうらやましい。1996年頃から使う人が増えてきた。95年に高校生の就職指導をしてた時は、生徒の個人的呼び出しは「ポケベル」だった。そんなもん、知らないか。僕は97年にハンセン病関係の集会をやるときに持ち始めた。今は時計代わり。携帯電話がなかった頃は、家に電話するしかなかった。下宿してる女子大生に連絡しようと思ったら、9時まで大家さんが取り次いでくれた。9時だと捕まらないことも多かった。女性の家に電話すると、時々は親が出た。何時間も待ちぼうけだった時もあるし、個人どうしで直接連絡できる「ケータイ」は確かにうらやましい。でも、これができたために、いつでも捕まえることができる社会になってしまった。もちろん切ってればいいんだけど、営業のサラリーマンが切るわけにもいかない。若い人も切ることができない。大人がいても平気で携帯を確認する人もいる。それでも切ってる人や話の間は見ない人の方が多いだろうと思う。でも、常に気にしている。
テレビで毎日百人くらいからメールが来て、すぐ返さないと大変という中学生が出ていた。食事の間もケータイ見てる。これでは「ケータイ依存症」である。ケータイは人間を自由にするものではなく、かえって束縛を強めている。さらに、i Pad、スマートフォンなどもできて、いつでもインターネットができる。だからメールチェックばかりしてる人がいる。電車で本を読んでる人がめっきり減って、ゲームかメール。こうしてると、「常にだれかとつながってる」。いいことのように思うけど、「いつでも現在」で、「常在戦場」である。実際就活では、一瞬で説明会の人数が埋まってしまい、常にチェックしないといけないという場合もあるという。時間が途切れない。今までなら、「今日」という日、授業や仕事があったその日が終わると、家族と自分だけの時間があって、次の日までは「ひとり」(または家族)だった。今日という日が明日になるまでの過程があり、そして今日は過去になり、未来が始まる。でも、深夜まで友人からメールが来ると、「いつでも現在」である。いいですよね、昔はそれが夢だった。でも、思うんだけど、これでは「孤独」がなくなってしまうんではないか。
僕は「孤独」というものは、人生でとても大切なものだと思う。先生も親も、子供が独りぼっちだと困るから、そういうことはなかなか言わない。言わないというより、「孤独が要らない人」もいるのかもしれない。いつでも人の輪の中にいて苦にならないような人もいるみたいだから。でもほとんどの人は、人ごみの中にばかりいたら、他の人間に自家中毒してしまい、ひとりになる時間が欲しくなるはずだ。これはとても大事なことで、これを判ってないと、「友達がいない」ということが過大な意味を持ってしまい、すごく悲しくなってしまうだろう。ここで友達というのは、「クラスで一緒に行動するメンバー」程度の意味である。でも、本当はそれは友達ではない。本当の友達だったら、返信が遅れたくらいで関係が悪化するわけはないから、そういう関係は友達とは言えない。「桐島、部活やめるってよ」の映画で、付き合ってる彼氏のことを彼に止められて友達にも言えないという女の子が出てきた。一番大事なことを相談できないなんて、友人と言えるのか。そういう意味で言うと、友達の定義にもよるけど、本当の友達というのは人生で10人もいない、ひとケタの存在ではないかと思う。
僕が「孤独」という言葉で表現してるのは、むしろ「自己客観化」「内省」「瞑想」の重要性という方がいいのかもしれない。でも、パーティ、同窓会、カラオケ、コンパなんかでも、盛り上がるときもあるけど、ふっと覚めているときもある方が普通だろう。初めから自分を閉ざすつもりではなく(そうだったら参加しない)、誰かと話すことを求めて参加するのだが、そしてそれを楽しんだけど、ちょっと引いてる状態も自分で意識して楽しめる、みたいな。それは僕の言葉では、「孤独を大切にする時間」というのが合っているような気がする。
若いときは、「自分が何者でもない時間」だから、むしろ「孤独」の方がベースで、「誰か本当に自分を判ってくれる彼(彼女)」を求めている。だから早く孤独じゃなくなりたいと思ってるかもしれない。でも、仕事が多忙になり、結婚し子どもが生まれ親が倒れ、人生を多忙で過ごしているときも、そういう時こそ「孤独」が大切になる。そこから間違った道を選択してしまう人もいる。「孤独とうまく付き合う」ことを学んでいなかったのである。言っておくけど、人生が長くなるといつのまにか解決してしまう問題もあるけれど、本質の部分は何も変わらないのである。
こういう問題は人間存在の本質に由来していると思う。人間は親がいなければ生まれないし、誰かが育ててくれないと大きくなれない。「家族」や「社会」があってこそ生きていられるので、本質的に「絆」を求めている。しかし、人間一人ひとりは常に一人で生まれ、生き、死んでいく。生まれたときは知らないけど、必ず一人で死んで行かなくてはいけない。本質的に独りぼっちである。「絆」と「孤独」の両方を生きるのである。ところが最近は「絆の大切さ」「家族や友人は大切だ」ということが言われ過ぎるのではないか。「友達がいない」というのは、「社会から外れている」ということではない。コンビニを使ったことがある人は、コンビニという業態を成立させている社会関係を利用したわけである。一人で住んでコンビニで何も話さずに食べ物を買ったとしても、それは「社会の中で生きている」ということだ。友達は学校でだけできるものではない。中学、高校、大学…ではないところで作った関係の方がずっと役立つことも方が多いだろう。
で、本当に忙しくて追いまくられる、心労が絶えない日々も人生にはある。そういう時に頼れるのは、友達でもあるけれど、もう一つ「孤独な時間に培った自分という存在」の確かさがある。だから、本を読む、音楽を聴く、ひとり旅をする、動植物と向き合う、座禅をする、瞑想をする、ジョギングをする、なんでもいいけど若いときに自分なりの「ひとりで自分と向き合う自分なりの方法」をカラダで覚えておくことが必要だ。
パソコンもケータイも切って、テレビも見ず、何かゆっくり考えるという時を持つ。たまには必要。これを自覚的にやらないと、「中毒」しかねない。そして、常にだれかといないと不安だし、友達がいないと思われると嫌だなんて思ってたら、それは大間違い。たまには「きょうはちょっと一人になりたいかな」と言えるような関係でないなら、友人ではない。そして、付き合ってる間柄でも、それは言ってもいいことである。これが困った問題で、つい悪いと思ってお互い言い出せないままに、関係そのものがまずくなることもある。たまに「ひとりであること」をお互いに作らないと人間関係はかえってうまく行かない。まあ、結婚すればいやでも判ることだけど。カップルであることの素晴らしさは、このひとりであることを自覚した場合の方が増すだろうと思う。まず、「孤独」を自覚的に作る必要性。「ひとりになりたい」と言える成熟した関係を作れるようになるために。