台湾で作られ大ヒットしたという「セデック・バレ」という映画を見た。2部構成で計4時間半にもなる歴史超大作で、1930年に起きた「霧社(むしゃ)事件」をほぼ基本的に踏まえた作品である。監督はウェイ・ダーション(魏徳聖)で、「海角七号 君想う、国境の南」という大ヒット映画を作った人。続いて、戦前に甲子園で準優勝した嘉義農林高校を描いた映画をすでに完成させている。こうしてみると、日本統治時代に関係した映画ばかりであるが、政治的、歴史的意味があるというより娯楽映画の背景装置として使っている感じもする。
前作はストーリイが錯綜して、特に現在のゴタゴタがつまらないが、「セデック・バレ」は娯楽アクション映画としてはかなり完成度があがっている。僕がこの映画を見てまず思ったのは、撮影や音楽などに通俗的な受けをねらった部分が多く、基本的には歴史に材を取った娯楽超大作であるという点である。ただし、見て面白くないと超大作は製作費を回収できないので、その点は自覚的な戦略だろう。ただ「霧社事件」を現在の時点でどう考えるべきかという点で、様々に思うことがあった。
「霧社事件」を解説していると長くなってしまうが、1895年以来の台湾統治時代の最大の「抗日反乱事件」である、と一応いえる。この事件で台湾総督は交代している。台湾は先住民(原住民)が山地に住み、平野部には17世紀以後に主に福建省から移住した漢人が多い。霧社は山地の原住民地帯にあって、当時「生蕃」(せいばん)と呼んでいた先住民支配の「模範地域」とされていた。学校へ行き学歴を積んで警官になった原住民も二人いて、日本の支配は安定していると日本当局は認識していたのである。1930年10月27日、原住民の男300人あまりが、毎年行われる連合運動会を襲い、日本人警官を初め女性、子どもも含めて日本人140人が殺害された。二人の警官も日本側には立たなかった。漢人は間違って殺された2人を除き、すべて無事だったので、明確な「反日」暴動と言える。しかし、独立運動とか革命運動とかではない。敢えて言えば文化の衝突であり、アメリカの先住民とヨーロッパ系米人の戦闘にも似ているかもしれない。
映画は、セデック族マヘボ社「頭目」のモーナ・ルダオの若き時代から始まる。まだ日本統治が始まる前、山地では狩猟文化が続き、各部族で狩場をめぐって相争い、「出草」と言われる「首狩り」が行われている。「首狩り」はそれなりに呪術的な意味があるんだろうし、日本だって戦国時代は「首級をあげる」と言って敵の大将の首を切り取ってくるのが英雄の証だった。だから判らないというわけではなく、その当時も「戦国時代」なんだろうと思うんだけど、20世紀になって「首狩り」が「独自の民族文化」と認められるんだろうか。確かに日本人警官は無配慮な言動が多いが、殺されるだけでなく首を狩られるのである。このあたりが単に反植民地闘争とは言えない部分である。
モーナ・ルダオは日本に帰順して以降、日本統治に従ってきた。若者の軽挙妄動も押さえてきた。日本に連れてこられたこともあり(これは実話)、日本の圧倒的な軍事力を知っている。だから植民地統治に反抗することは民族の滅亡につながると判っている。しかもかつて相争った過去を持つ原住民は、相互不信が強く、「抗日統一戦線」が出来ているわけではない。しかし狩猟民族として生きてきた過去を否定され木材伐採の仕事をさせられる。自分たちの文化を継承できないことから、「生きていても死んでいる」という思いの中にいる。一方、日本側をみると、植民地そのものが人を腐敗させるが、その中でも台湾の奥地の奥地、原住民相手の仕事であるから、日本人の中でも人物として劣悪なものが集まってくる。原住民の不満はたまりにたまっているが、日本側は「首狩りの遅れた時代から文明をもたらした」と思っているから、不満が爆発寸前であるとは全く思うことができない。
そういう中で、ほんのちょっとした出来事がきっかけとなり、原住民の蜂起という事態に至るのである。マヘボ社の他数社が参加し、300名ほどとなる。第一部「太陽旗」は蜂起に至るまでを丁寧に描く。第二部「虹の橋」は蜂起が鎮圧される過程。ここは基本は史実通りだが、2カ月にわたる鎮圧作戦を圧縮しているし、日本軍兵士、警官の犠牲は28人程度なのに映画を見ているともっと多いような描き方である。そこに映画的な誇張があり、楠正成の千早城の戦いのような奇抜なゲリラ戦を展開する原住民の立場に立って、巧みなアクション映画を作っている。この時日本軍は映画にあるように毒ガス攻撃をしている。イタリアもまずエチオピア侵略戦争で使ったけれど、同じように「野蛮な勢力」には実験的に使用しやすいということだろう。男が総蜂起した後の女性はほぼ自殺した。また日本の警官になっていた二人も自殺した。「後顧の憂いなく」というような女たちの自害も、なんだか戦国時代の歴史劇のようである。また、日本軍はマヘボ社と対立するタウツア社を味方に引き込み鎮圧に協力させている。
こうして最後は鎮圧されていくわけであるが、映画の後がある。「第二次霧社事件」と呼ばれる事件である。1932年4月、「保護」されていた生き残りのマヘボ社をタウツア社が襲い、200名以上が死亡したという事件である。(ちなみにタウツア社を「味方蕃」と言った。)このような事件が起こるのを見ても、山地原住民の「民族的」な意識が覚醒して起きた事件ではない。原住民の文化的アイデンティティを守るために、死を賭けた戦い、つまりは「民族総自殺」に至るような事件だったのではないか。アマゾンのインディオの中でも、自殺してしまう民族がいるというが、そういう事例にむしろ近いかもしれない。日本でも戦国時代には、名誉のために死を選ぶという話はいくらもある。西南戦争の西郷隆盛も死を覚悟しながら蜂起の戦闘に立ったんだろう。モーナ・ルダオも同じような心境ではないか。日本統治が終わり、国民党統治が始まると「抗日反乱」として扱われたというが、漢人と山地原住民も複雑な関係があるだろうし、原住民どうしも複雑である。日本の植民地統治が劣悪であったということは言えるが。
世界のいろいろなところで、今も「文明」と「野蛮」の相克がある。民族的なアインデンティティの否定がある。一応「各民族の文化は相対的に同じ価値がある」というのが今の大体の了解点ではないかと思う。だけど、今でも「敵とみなすものは首を切り落とす」というグループがある。それは野蛮なテロリストの仕業であるとして「無人爆撃機」でどんどん爆弾を落とす国もある。どっちがより「野蛮」なんだか判らないが。台湾では霧社事件も「教科書に数行あるだけ」と監督はいう。日本でも高校教科書にはあるけれども、注に出てくる程度で授業で大きく取り扱う時間はないだろう。そんな中で、この事件をどう扱うか。とりあえずアクション映画として面白いのは間違いない。でも事実自体の重みをどう理解していいのかは今一つしっくりこない部分もある。とりあえず、その程度しか言えないのだが。
前作はストーリイが錯綜して、特に現在のゴタゴタがつまらないが、「セデック・バレ」は娯楽アクション映画としてはかなり完成度があがっている。僕がこの映画を見てまず思ったのは、撮影や音楽などに通俗的な受けをねらった部分が多く、基本的には歴史に材を取った娯楽超大作であるという点である。ただし、見て面白くないと超大作は製作費を回収できないので、その点は自覚的な戦略だろう。ただ「霧社事件」を現在の時点でどう考えるべきかという点で、様々に思うことがあった。
「霧社事件」を解説していると長くなってしまうが、1895年以来の台湾統治時代の最大の「抗日反乱事件」である、と一応いえる。この事件で台湾総督は交代している。台湾は先住民(原住民)が山地に住み、平野部には17世紀以後に主に福建省から移住した漢人が多い。霧社は山地の原住民地帯にあって、当時「生蕃」(せいばん)と呼んでいた先住民支配の「模範地域」とされていた。学校へ行き学歴を積んで警官になった原住民も二人いて、日本の支配は安定していると日本当局は認識していたのである。1930年10月27日、原住民の男300人あまりが、毎年行われる連合運動会を襲い、日本人警官を初め女性、子どもも含めて日本人140人が殺害された。二人の警官も日本側には立たなかった。漢人は間違って殺された2人を除き、すべて無事だったので、明確な「反日」暴動と言える。しかし、独立運動とか革命運動とかではない。敢えて言えば文化の衝突であり、アメリカの先住民とヨーロッパ系米人の戦闘にも似ているかもしれない。
映画は、セデック族マヘボ社「頭目」のモーナ・ルダオの若き時代から始まる。まだ日本統治が始まる前、山地では狩猟文化が続き、各部族で狩場をめぐって相争い、「出草」と言われる「首狩り」が行われている。「首狩り」はそれなりに呪術的な意味があるんだろうし、日本だって戦国時代は「首級をあげる」と言って敵の大将の首を切り取ってくるのが英雄の証だった。だから判らないというわけではなく、その当時も「戦国時代」なんだろうと思うんだけど、20世紀になって「首狩り」が「独自の民族文化」と認められるんだろうか。確かに日本人警官は無配慮な言動が多いが、殺されるだけでなく首を狩られるのである。このあたりが単に反植民地闘争とは言えない部分である。
モーナ・ルダオは日本に帰順して以降、日本統治に従ってきた。若者の軽挙妄動も押さえてきた。日本に連れてこられたこともあり(これは実話)、日本の圧倒的な軍事力を知っている。だから植民地統治に反抗することは民族の滅亡につながると判っている。しかもかつて相争った過去を持つ原住民は、相互不信が強く、「抗日統一戦線」が出来ているわけではない。しかし狩猟民族として生きてきた過去を否定され木材伐採の仕事をさせられる。自分たちの文化を継承できないことから、「生きていても死んでいる」という思いの中にいる。一方、日本側をみると、植民地そのものが人を腐敗させるが、その中でも台湾の奥地の奥地、原住民相手の仕事であるから、日本人の中でも人物として劣悪なものが集まってくる。原住民の不満はたまりにたまっているが、日本側は「首狩りの遅れた時代から文明をもたらした」と思っているから、不満が爆発寸前であるとは全く思うことができない。
そういう中で、ほんのちょっとした出来事がきっかけとなり、原住民の蜂起という事態に至るのである。マヘボ社の他数社が参加し、300名ほどとなる。第一部「太陽旗」は蜂起に至るまでを丁寧に描く。第二部「虹の橋」は蜂起が鎮圧される過程。ここは基本は史実通りだが、2カ月にわたる鎮圧作戦を圧縮しているし、日本軍兵士、警官の犠牲は28人程度なのに映画を見ているともっと多いような描き方である。そこに映画的な誇張があり、楠正成の千早城の戦いのような奇抜なゲリラ戦を展開する原住民の立場に立って、巧みなアクション映画を作っている。この時日本軍は映画にあるように毒ガス攻撃をしている。イタリアもまずエチオピア侵略戦争で使ったけれど、同じように「野蛮な勢力」には実験的に使用しやすいということだろう。男が総蜂起した後の女性はほぼ自殺した。また日本の警官になっていた二人も自殺した。「後顧の憂いなく」というような女たちの自害も、なんだか戦国時代の歴史劇のようである。また、日本軍はマヘボ社と対立するタウツア社を味方に引き込み鎮圧に協力させている。
こうして最後は鎮圧されていくわけであるが、映画の後がある。「第二次霧社事件」と呼ばれる事件である。1932年4月、「保護」されていた生き残りのマヘボ社をタウツア社が襲い、200名以上が死亡したという事件である。(ちなみにタウツア社を「味方蕃」と言った。)このような事件が起こるのを見ても、山地原住民の「民族的」な意識が覚醒して起きた事件ではない。原住民の文化的アイデンティティを守るために、死を賭けた戦い、つまりは「民族総自殺」に至るような事件だったのではないか。アマゾンのインディオの中でも、自殺してしまう民族がいるというが、そういう事例にむしろ近いかもしれない。日本でも戦国時代には、名誉のために死を選ぶという話はいくらもある。西南戦争の西郷隆盛も死を覚悟しながら蜂起の戦闘に立ったんだろう。モーナ・ルダオも同じような心境ではないか。日本統治が終わり、国民党統治が始まると「抗日反乱」として扱われたというが、漢人と山地原住民も複雑な関係があるだろうし、原住民どうしも複雑である。日本の植民地統治が劣悪であったということは言えるが。
世界のいろいろなところで、今も「文明」と「野蛮」の相克がある。民族的なアインデンティティの否定がある。一応「各民族の文化は相対的に同じ価値がある」というのが今の大体の了解点ではないかと思う。だけど、今でも「敵とみなすものは首を切り落とす」というグループがある。それは野蛮なテロリストの仕業であるとして「無人爆撃機」でどんどん爆弾を落とす国もある。どっちがより「野蛮」なんだか判らないが。台湾では霧社事件も「教科書に数行あるだけ」と監督はいう。日本でも高校教科書にはあるけれども、注に出てくる程度で授業で大きく取り扱う時間はないだろう。そんな中で、この事件をどう扱うか。とりあえずアクション映画として面白いのは間違いない。でも事実自体の重みをどう理解していいのかは今一つしっくりこない部分もある。とりあえず、その程度しか言えないのだが。