尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大林宣彦「転校生」を35年ぶりに見る

2017年06月29日 21時22分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターで35年ぶりに見た大林宣彦監督の「転校生」(1982)があまりに面白く、つい書いておきたいと思った。この映画は、大林監督の「尾道三部作」の第1作で、当時から大評判だった。映画ファンなら一度は見ているような現代のスタンダードだろう。ところで、画像検索してみると小林聡美じゃない画像が多く出てくる。なんだと思ったら、2007年に大林自身で「転校生-さよならあなたー」という映画がリメイクされているではないか。主演は蓮佛美沙子と森田直幸。長野で撮影され、後半の話はオリジナルだというけど、その映画知らんがな。

 やっぱり「転校生」と言えば、1982年に作られた小林聡美尾美としのり版につきる。でも、当時は僕はこの映画をそんなに好きではなかった。それは大林監督のそれまで作ってきた個人映画や商業映画第一作「HOUSE」が好きだったからだと思う。大林監督はCMディレクターとして有名で、同時に個人で本格的な自主映画を作っていた。「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)、「CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅」(1968)など独特な長い名前の映画である。郷愁を誘う映像美の世界が素晴らしく、池袋の文芸地下でよく上映されていた。

 いま見ると、もちろん「尾道三部作」もベースにノスタルジーがあると判るけど、特に「転校生」の段階ではちょっと今までの映画のムードが変わった感じもした。もともと山中恒の児童文学が原作だし、現代に生きる子どもたちを等身大に描いている映画だと思った。でも、この映画は男の子と女の子の心が入れ替わってしまうという、つまりは「君の名は。」と同じ設定の「奇想天外」を楽しむ映画だ。

 小林聡美尾美としのりの頑張りが、とにかく素晴らしい。あえて裸のシーンも入れて、それをやり切ったのはすごい。(今なら撮れないんじゃないだろうか。)原作の設定を中学生に変え、「思春期の性のめざめ」の危ういドキドキと真正面から向き合っている。メインの設定は覚えているものの、その後の具体的な展開はほとんど忘れていた。特にラスト近く、瀬戸田島にフェリーで「家出」してしまう展開は全然予想していなかった。「思春期」映画の面白さが満載の場面である。

 女なんだけど実は男の心を持つという役の「斉藤一美」(小林聡美)は、でも「本当は男の子」なんだから、何かにつけ男のような口をきき、女の子になった「斉藤一夫」(尾美としのり)を心配する。その意味で小林聡美の方が「女性の身体を持つ男の子」という難役だろう。もう素晴らしいというしかない。その後の「恋する女たち」(1986)や「かもめ食堂」(2006)、「紙の月」(2014)など、名演熱演というか、ほとんど「怪演」が記憶に残る小林聡美だけど、もう「転校生」に怪演ぶりが表れている。

 今回はATGの2代目社長を務めた佐々木史朗プロデューサーの特集である。大島渚、吉田喜重、寺山修司らの映画で記憶される初期のATG映画だが、佐々木時代になると次の若い世代を積極的に登用した。今回は各監督一作限りだけど、根岸吉太郎「遠雷」、森田芳光「家族ゲーム」、大森一樹「ヒポクラテスたち」、高橋伴明「TATTOO[刺青]あり」、井筒和幸「ガキ帝国」などが上映される。

 「転校生」もサンリオが手を引いて資金難になるところ、佐々木プロデューサーが完成に尽力したということで、大林監督のみならず日本映画の進路にも大きな影響を与えた。尾道と言えば大林映画というイメージもここから作られる。ベストテン3位に選ばれ、大林監督の飛躍をもたらした。(1位は「蒲田行進曲」、2位は「さらば愛しき大地」。僕のベストは小川紳介の「ニッポン国 古屋敷村」。)
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アメリカ映画「ジーサンズ はじめての強盗」

2017年06月28日 23時00分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカ映画「ジーサンズ はじめての強盗」という映画を見た。「ジーサンズ」というのは、「爺さんたち」なんだろう。原題は〝Going in Style”なんだから。これは次の映画を見るまでのつなぎで見たんだけど、観客も「ジーサンズ」(少数のバーサンズもいたけど)だったなあ。まあ自分もだけど。

 ニューヨークの風景が美しい。ブルックリンあたりの話。もう高齢の仲良し3人組がいる。一人が銀行のローンが払えなくなり相談に行ったら、そこに銀行強盗が入って鮮やかな手並みでカネを奪っていった。その後、企業が買収されて年金がストップ。怒った彼らは、人生最後の日々に「初めての強盗」をやっちゃおうと計画する。奪われた自分の金を取り戻すんだと…。

 まあ映画の出来としては中レベルのコメディ。もっと重たい日本の新作とか、もっと面白い昔の映画も見てるんだけど、「ジーサンズ」のことを書きたいな。それは主演の3人が見ごたえがあるのと、老人というテーマ、それに日米の違いなんかを考えてしまうからである。日本でも老人が出てくる映画、テレビドラマがあるけれど、どうしても「老人問題」という感じになってしまうことが多い。こんなにカラッと描かれる老人映画を作れば日本でもヒットするんじゃないだろうか。

 3人組はすべてアカデミー助演男優賞受賞者で、懐かしい顔ぶれなんだけど皆80歳を超えているではないか。銀行強盗体験をするのは、マイケル・ケイン。1933年生まれの84歳。「アルフィー」「探偵スルース」「リタと大学教授」「愛の落日」と4回も主演男優賞にノミネートされたけど、結局は「ハンナとその姉妹」「サイダーハウス・ルール」と2回助演男優賞を受けた。

 誘われる友人の一人は、モーガン・フリーマン。1937年生まれの80歳。「ドライビング・Missデイジー」「ショーシャンクの空に」で主演賞ノミネートも、結局は「ミリオンダラー・ベイビー」で助演賞。最後の一人はアラン・アーキン。1934年生まれの83歳。「アメリカ上陸作戦」「愛すれど心さびしく」で主演賞ノミネートも、結局「リトル・ミス・サンシャイン」で助演賞。
   (左からケイン、フリーマン、アーキン)
 こういう似たような芸達者が競演してるんだから、それも時々はヨタヨタしながら強盗しようというんだから、つい応援しようかという気になっちゃうわけだ。そして予行演習でスーパーの万引きに挑む。やっぱりプロのアドバイスがいると、ドラッグに手を出して離婚したケインの元娘婿に会いに行く。そんなこんなで、実施になるけど…。うまいのは計画を時系列で描かず、警察に捜査されてからアリバイ工作を見せていること。そこで今までの伏線が生きてくる。もう終わりかと思うと、最後までトリッキーな仕掛けをしていて、そこがウェルメイドな「洋画」という感じ。

 これはなんと「お達者コメディ/シルバー・ギャング」という1979年公開の映画のリメイクだという。そんな映画あったっけ。それに原作映画はラストがちょっと悲惨らしいけど、今度の映画はハッピーに終わる。それはいいことでもないだろうが、見てる方も高齢化してるんだから悲惨な結末を直視せよと言われてもヒットしないだろう。ところで、この映画では30年勤めた会社が合併して、年金を負債整理に使わないといけないと言う。そんなことがあるのだろうか。

 僕が調べたところでは、アメリカにも社会保障番号が付いた社会保障庁管理の公的年金がある。それはさすがになくならないうだろう。でも、それだけでなく「企業年金」がある。そういう上乗せ分の年金は日本でもあるし、資金運用の失敗とか、担当者の個人的流用なんかで年金が消えてしまう事件は日本でも起こった。だけど、さすがに日本ではその年金の積立金を企業が負債整理に使えるということはないだろう。アメリカでそういうことがあるんだったら、明らかに法制度がおかしい

 それと同時に、「銃が身近にある」ということが自明の前提になっている。だから銀行強盗もできるわけで、日本じゃそういう犯罪は普通できない。高齢で強盗しようかと思うと、やっぱり銃がないとできないなと思う。そこはこの映画は疑問は全然持ってない。3人組の中にモーガン・フリーマンというアフリカ系が入っているけど、これは会社で長年の同僚ということで、わざわざ黒人俳優を入れているという感じもしない。ニューヨークという風土もあるだろうけど、ごく普通という感じ。アメリカ社会を見るためには、むしろ普通レベルの娯楽映画の方が面白い。ザック・ブラフ監督。
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川本三郎「『男はつらいよ』を旅する」を読む

2017年06月27日 23時02分27秒 | 〃 (さまざまな本)
 川本三郎さんの「『男はつらいよ』を旅する」(新潮選書)を読んだ。昨日はこの本を読みふけっていた。こういう本は読み始めたら止められない。だから5月に出た後、買わずにいたんだけど、日曜日にうっかり本を持たずに外出してしまった。神保町で映画を見たから、どうしても帰りがけに本を買いたくなる。ということで、川本さんの映画関係の本は買えばすぐ読んでしまうわけである。

 「男はつらいよ」シリーズと言えば、特に半ばころから全国各地でロケ誘致運動もあり、全48作で日本各地を回っている。さすがに全県というわけにはいかないけど、北海道から沖縄まで全国を旅した。車寅次郎の仕事は「テキヤ」なんだから、全国を回るし、飛行機や車は使わずに鉄道の旅になる。この本を読むと、山田洋次監督が相当の鉄道ファンだと判る。川本氏も鉄道ファンだから、今は亡き廃線路線が映像に残されていることを「動態保存」と呼んで喜んでいる。

 川本さんの寅さん紀行は今までも読んだような記憶があるけど、今回改めて「新潮45」の編集部が提案した。確かにこれはあるようでなかった企画で、21世紀も15年以上たって何十年か前の日本を振り返ってみるのは意味がある。廃線になった路線、なくなった旅館なども多いけど、どこへ行ってもロケの記憶が大切に残されている。そのことも読んでいてうれしくなる。

 川本氏は「男はつらいよ」に非常に早くからひかれていた。「マイ・バック・ページ」に出てくる事件の前、朝日新聞に勤務していたわけだけど、週刊朝日で寅さんと柴又を取り上げていた。これは一般週刊誌が寅さんを取り上げた早い例だと書いている。しかし、「『男はつらいよ』が好きだと言うのは、実は評論家として勇気がいる。『あんな、なまぬるい映画のどこがいい』と批判する評論家がいまだに多いから。」と書いている。今もそう言う人が多いかどうかは僕はよく判らない。

 でも、70年代、80年代には僕もそう思っていた。見ていることは見ていたけど、ものすごく好きだったわけではない。それは同時代に東映実録映画日活ロマンポルノもあり、そっちの方が威勢が良かったのである。ATG映画もまだ健在だったし、76年になれば角川映画の大作も作られる。他にも面白い映画がいっぱいあったのである。そして「男はつらいよ」を評価する評論家は、「暴力」や「低俗」、あるいは「難解」や「商業主義」を否定し、家族が皆で見られる「健全な娯楽」としての映画は、今や「男はつらいよ」だけであるなどと論陣を張っていたのである。

 まあ、その裏には「党派的」な問題があったんだろうけど、そのことはここでは触れない。僕としては面白い映画を見たいだけだったわけだが、寅さんシリーズの平均作より面白い映画は当時いっぱいあったと思う。だけど、僕も今となってみると、どんどん再評価しつつある。安定した技量、つまり落語通の山田洋次によるツボを押さえた脚本、常連出演者の演技のアンサンブルの素晴らしさ、撮影の高羽哲夫などの技術の高さなどがいつ見ても素晴らしい。

 そしてテーマ音楽を聞いただけで懐かしくなる「男はつらいよ」の世界。毎回同じパターンと言えば、若いころはもういいやと思ったもんだけど、年齢を重ねると懐かしくて良いと思うわけである。それは映画にとどまらず、温泉なんかも若いころは一度行ったところは行かないなどと宣言していたけれど、今は同じ宿に何度泊ってもいいなあと思うのである。やっぱりそうなるのである。

 最初が初めての沖縄旅行。戦争映画を今も見られない川本氏は、今回が初の沖縄行きなのである。それから葛飾柴又。そして北海道、会津、北陸、木曽、京都大阪、山陰の温泉津(ゆのつ)温泉、岡山の高梁(たかはし、さくらの夫博の父の実家がある)、播州龍野(キネ旬ベストテン2位の「寅次郎夕焼け小焼け」の舞台)、五島列島、大分の湯平温泉、福岡の秋月、愛媛の大洲など各地を訪ね歩き、最後はもちろん最終作、寅がリリーと暮らす(?)奄美の加計呂麻(かけろま)島。

 もっと行っているけど、これほど多くを旅するというのは、川本さんがいかに旅が好きかが伝わってくる。どこへ行っても「過疎化」というか、「シャッター通り」が増えている。でも、同時に寅さんが来たという思い出を大切にしながら地道に日々を生きてきた人々もいる。日本の風土的、文化的な多様性、豊かさを感じる。どっちも日本の現実なんだろう。

 48作あるシリーズ作品の中でも、僕はやはり浅丘ルリ子が旅の女歌手リリーを演じた作品「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」(1973)と「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」(1975)、特に後者が最高傑作だと思う。後者は「蒸発」したサラリーマン、船越英二が素晴らしく、小樽が出てくる多くの映画の中でも最高レベルだと思う。有名な「メロン騒動」もシリーズ最笑級のギャグである。それもあるけど、2作目になる寅とリリーの掛け合いが素晴らしく、何度見ても飽きない。

 作品レベルで言えば、僕は75年の「相合い傘」、76年の17作目「夕焼け小焼け」が素晴らしいと思うけど、違う考え方もあり得る。「おいちゃん」を森川信が演じていた8作目の「寅次郎恋歌」までの初期作品こそ最高だという考えも当然あるだろう。特に北海道の大地を蒸気機関車を追う「望郷篇」(5作)、青森の鰺ヶ沢近くから出てきた、ちょっと知恵遅れ気味少女榊原るみが「寅ちゃんのお嫁さんになる」と言う「奮闘篇」(7作」なんかも忘れがたい。もちろん第1作と第2作もいいんだけど。(ちなみに戦前の森川信に関して、坂口安吾「青春論」に書かれているという。)

 そこらへんの映画を見ているなら、今ロケ地がどうなっているか。映画に出てきた鉄道や駅は今もあるのか。とても知りたいだろう。この本はそういうファンに十分に応えているけど、多分見てない人にも楽しめると思う。鉄道ファン、歴史や文学ファンはもちろん、日本社会に関心を寄せる人は読んで損はない。そしてここに出てくる多くの場所に行ってみたいと思う。(でも無くなった場所も多い。北海道・中標津の養老牛温泉「藤や」がないという。93年に友人の平野夫婦と僕ら夫婦で泊まった旅館。)

 渥美清の俳句も出ているが、これがなかなかいい。(俳号は「凬天」だという。)
   好きだからつよくぶつけた雪合戦
   お遍路が一列に行く虹の中
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尾崎一雄の小説を読む

2017年06月25日 22時39分41秒 | 本 (日本文学)
 昨日はパソコンそのものを開かずに、ずっと本を読んでいた。(その前に陸上の日本選手権を見たけど。)読んでたのは、尾崎一雄(1899~1983)の「暢気眼鏡・虫のいろいろ」(岩波文庫)という本である。戦前に「暢気眼鏡」で第5回芥川賞を受けた私小説作家で、今はもう知らない人の方が多いんじゃないか。でも存命中は芸術院会員で文化勲賞も受け、各種文学全集に入っていた。
 
 時代離れしたくなって時々古い本を読むけど、「暢気眼鏡・虫のいろいろ」という文庫本を今読んでいる人は、きっといないんじゃないかなどと思いながら読んでいる。「騎士団長殺し」だったら「今この本を読んでる人は日本中に何人もいるんだろうなあ」と思うわけだけど。この文庫本も今は品切れだと思うが、2012年に重版されたときに買ってあった。何で今読んだかというと、新文芸座の「司葉子特集」で「愛妻記」(1959、久松静児監督)という映画を見たからである。

 これは戦前に尾崎一雄が妻を描いた「芳兵衛もの」(芳兵衛は妻の愛称)をアレンジして映画化した作品で、主人公(尾崎役)はフランキー堺、妻が司葉子である。そういえば、同じような映画を見たことがあったなと思う。それは「もぐら横丁」という1953年、清水宏監督の映画で、近年フィルムセンターで復元され見られるようになった。主演は佐野周二、妻は島崎雪子。(他に1940年に島耕二監督「暢気眼鏡」という映画もあるようだけど、それは見たことがない。)

 主人公は作家をめざして修行中だけど、お金もなく貧乏が染みついている。下宿でも家賃滞納で食事も出してもらえない。なじみの古本屋に行って金を借りてくるしかない。そんな暮らしの主人公のところへ、なぜか14も年が離れた芳子という妻がやってくる。貧乏だけど、明るくつましい二人の日々…。というような話がユーモラスに展開されるけど、そんな夢のような女性がホントにいるのか。いたんだから間違いないけど、映画では司葉子の清潔な明るさがうまく生かされていたように思う。

 原作を読んでみると、もっと苦い感じもあるし、そう簡単ではない諸事情もあった。小田原辺の神主の息子で、父が神宮皇學館にいた当時に伊勢で生まれた。だけど長じて文学に目覚めて親と不和になる。そういう話はよくあるけど、父が病気になって若死にし、尾崎一雄は20歳で家長になってしまった。家の財産の土地を売り払って、東京で飲み暮らして「文学修行」に費やしてしまった。(まあ、それだけでなく子弟にも高等教育を受けさせ、関東大震災や恐慌による経済混乱もあったと本人は書いているけど。)その結果、親兄弟と絶縁していたのである。

 一時は文壇デビューするものの、プロレタリア文学の隆盛や前妻とのいざこざで書けない時期が続いた。それでは「破滅的私小説」になるところ、天衣無縫の若き妻を得て新しく文学的な出発をする。「玄関風呂」なんか、ちょっと他では読めない貧乏ユーモア小説になってる。1934年8月初出とある「灯火管制」もいい。防空大演習の灯火管制を前に、電気代未納で電気を停められ、自然と「灯火管制」になってしまう日々。これは信濃毎日新聞の桐生悠々が批判した1933年8月の「関東防空大演習」を描いているのではないかと思う。市井の人々の様子が伝わってくる。

 戦争中に病気になり、郷里の小田原・宗我神社の近くに疎開し、そのままずっとそこで暮らした。そうなると、病気や田舎暮らしの描写が多くなる。そんな中で家族もだんだん年を取り、母親も死ぬ。一方、3人の子どもも大きくなる。そういう様子を読んでいくのも、私小説の楽しみだろう。この本は全生涯から少しづつ代表作を選んでいるから、読み進むに連れて老境に至ってくる。「蜜蜂が降る」(1975)は自宅にある樹に蜜蜂の大群が分封してやってくる様子を描いて興味深い。

 「松風」(1979)という短編になると、マツクイムシなどの被害で神社の松も伐られることになる。そういう時に著者は松の害虫を詳しく調べて描写している。私小説という形で、時代の移り変わりも描かれる。また、この短編では映画化以後も清水宏監督の交友が続いていることが書かれている。戦災孤児を引き取った「蜂の巣の子供たち」という映画で有名な監督だけど、実際に伊豆で子どもたちと暮らしていた。その場所にあった松が枯れて、そこに「蜂の巣窯」を開くという。その窯開きに招かれたのである。招待者には志賀直哉夫妻、広津和郎夫妻、小津安二郎、野田高梧、尾崎一雄夫妻だとある。そういう交友関係があったのかと驚いた。

 最後の短編「日の沈む場所」(1982)になると、太陽が季節ごとに沈む場所が変わるさまを自宅の2階から眺め続けている。私小説の中には、自己の行為を露悪的に描くようなものも多いけど、この尾崎一雄という人はちょっと違う。ユーモラスかつ自然や哲学への洞察がかなり出ている。もともと歴史ある神官の家に生まれ、結局は無信仰のような、自然信仰のように生きた。それも近代日本人の一つの典型だったかと思う。読みやすいから、これからももう少し読んでみたいような作家である。
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サウジアラビアの皇太子交代問題

2017年06月23日 23時13分12秒 |  〃  (国際問題)
 サウジアラビアサルマン国王(1935~)が、6月21日に王位継承順位第1位の皇太子を変更した。それまでのムハンマド・ナエフ(1959~、内務相)を解任し、自身の子どもである国防相ムハンマド・サルマン(1985~)を皇太子に昇格させた。これは中東の将来に大きな影響を与えると思われる事件である。欧米と違い詳しくない人も多いだろうから、ここで簡単に考えておきたい。。
  (左が新皇太子、右がサルマン国王)
 サウジアラビア(英語国名 Kingdom of Saudi Arabia)は、非常に重要な国である。何しろイスラム教の聖地メッカを支配する国であり、原油埋蔵量世界一という国なのだから。本来アラブの大国と言えばエジプトだが、経済的には低迷が続いている。「G20」にアラブ諸国を代表して参加しているのはサウジアラビアである。

 経済的にも重要だし、政治的にも重要。スンナ派イスラム教国の精神的支柱の役割を自負し、シーア派のイランとの対立が目立っている。最近起こったカタールとの断交も、ムハンマド・サルマン新皇太子(国防相)が主導していると言われる。だけど、世界中でこれほど不思議な国はない。いまだに議会もない絶対王政の国で、コーランを憲法と定めた政教一致の国。国会にあたる諮問評議会というものが出来ているが、選挙ではなく議員は国王の任命。ちょっとすごい国である。

 2017年にサルマン国王が来日した時のことを覚えている人も多いだろう。御付きの男性陣がそろって来日し、銀座あたりで高級品を買いまくる「特需」があったとか、期待ほどでもなかったとか…。とにかく、今もそんな国があるのが不思議。これは永遠に続くのだろうか。アラビアにおいては続くのかもしれないが、世界史的な常識ではやがてアラビア半島にも議会制民主主義に移行するのではないだろうか。そういう未来も遠望するとき、皇太子交代問題はどういう意味を持つのか。
 
 サウジアラビア王国という国は、まだ若い国である。初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード(1876~1953)が、1932年に建国した。日本の元号で言えば昭和7年。五・一五事件が起きた年である。サウード家は一時は非常に衰微して、20世紀初頭には映画「アラビアのロレンス」に出てくるハシーム家の方が有力だった。だけど、その後イブン・サウードのもとで勢力を伸ばしていく。そしてほぼ半島全域を支配して王国を建国したわけである。日本の戦国時代みたいである。

 この初代イブン・サウード国王はとにかく凄い人物で、身長は2メートル、奴隷もいた時代で子どもの数は数えきれないという。記録が明確な「正妻」にあたるのは4人で、その他の女性が産んだ子供を含めて、男子52人、女子37人がいたという。このうち36人の男子が王位継承権を持っていた。2代サウード、3代ファイサル、4代ハリド、5代ファハド、6代アブドラと、すべて初代イブン・サウードの子どもである。そして、今の国王サルマンもまたイブン・サウードの子ども。まだ残っていたのかという感じだけど、計算すれば59歳の時の子だから驚くほどではない。まだ下の子もいる。

 制度が整う前の、国王に統治能力が厳しく要求される時期の王国では、「兄弟相続」になることはよくある。日本の天皇家系図を見ても、大昔は兄弟相続の時代が長かった。実質的に新王朝の創始者にあたる桓武天皇の場合、自身の弟の皇太子を死に追いやり(その弟は「怨霊」となり桓武天皇を苦しめることになる)、自分の子どもを皇太子に立てた。しかし、桓武天皇の子どもも相次いで兄弟で皇位についている。サウジアラビアもそのような王国初期段階にあると言える。

 ところで、5代国王ファハドと現国王サルマンは、母が同じである。スデイリ族の族長の娘で、8人の子ども(7人の男子)を産んだ。この7人は「スデイリ・セブン」と呼ばれ、80年代以後のサウジ政界の中心となってきた。サルマン国王の兄、スルタン(1928~2011)、ナーイフ(1934~2012)はスデイリ・セブンの一員で、サルマン以前に皇太子になっていた。しかし、アブドラ国王が2015年まで存命だったので、王位継承以前に亡くなってしまったのである。

 そのため弟のサルマンが即位したわけだが、1935年生まれだから、2017年現在82歳である。もう初代国王の子ども世代で王位を継ぐ時代ではないだろう。そこで、サルマン国王の前皇太子だったムハンマド・ナーイフは、孫世代から選ばれた。サルマン国王の兄、サルマン以前の皇太子ナーイフの子どもである。つまり、サルマンは兄が即位前に死亡したので王位につけたが、その兄の子を皇太子に立てたわけである。そして、即位して4年後に自身の子どもに交代させた。

 なんだか大昔の王位をめぐる物語を見ているような感じがする。だけど、これは果たしてサウジ王家内で反発を生まないだろうか。王族34人でつくる「忠誠委員会」では、31人が交代に賛成したという。つまり満場一致ではない。年齢も59歳の皇太子から、32歳の若手になるというのは急速な若返りが過ぎると受け取る人もいるのではないだろうか。常識で考えて、王族内部で隠微な嫉妬のようなものがあると思う方が自然だろう

 その新皇太子が主導しているイラン強硬策。そのもとで、サウジ・イランの代理戦争の様相を呈し始めているのが、イエメン内戦である。もう細かく書く余裕がないが、日本ではほとんど報道されないイエメン内戦は泥沼化している。サウジアラビアはイエメンを実質的に支配するフーシ派(シーア派に近いとされる)を排除するために、公然たる介入を行っている。しかし、それはうまく行かず、すでに民間人死者が1万人を超えたとも言う。このイエメン内戦のゆくえは、アメリカのベトナム戦争ソ連のアフガン戦争のような重大な影響を持つ可能性がある。

 国内で絶対的支持がなく、力量のほどを示して見せる必要がある若い新皇太子が、外交・軍事を統括する。当然、強硬策を取る誘惑にかられると思う。そこに落とし穴があるかもしれない。その時、サウジ王政に大きな変化が起きる可能性もないとは言えない。また、オマーン、バーレーン、クウェート、カタールなど他の王族支配の国への影響も大きい。サウジアラビアの皇太子交代問題は、今後の中東情勢に小さくない影響を与えていく可能性が高いだろう。
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小池都政をどう見るか

2017年06月22日 22時53分15秒 | 政治
 先に都議選をめぐる話題を書いたけど、その時には小池百合子知事の都政に関して書く余裕がなかった。明日から都議選が始まるので、その前に小池知事をどう評価するべきか、考えておきたい。ところで、昨年の舛添問題がヒートアップしていた時に、僕は「舛添保存論」を書いた。

 舛添は石原に比べて、特に悪くない。だから、せめて秋まで舛添でいいじゃないかという意見である。何で秋かというと、2016年参院選前に辞めさせたことで、東京五輪をやるという2020年7月に、次の都知事選挙があることになってしまった。都議会主要政党は、どこも五輪返上を唱えていないのだから、この選挙は馬鹿げていた。まあ、五輪反対論者の僕には関係ないようなもんだけど…。

 実際に当選した小池知事の都政運営は、事前に心配したよりはうまくやって来たのかと思う。僕は鈴木、石原知事以後しか知らない。だから、はっきり言って知事に対する期待値が低い。小池知事は、工業高校に行って生徒を励ましたり、ハンセン病療養所多磨全生園を訪れて入所者と面会したりした。その程度のことをした知事さえ今まで全然いなかった。まあ、石原のように障がい者施設に行って暴言を吐かれては困るから、都庁官僚もセッティングしなくなったのかもしれない。

 そういう意味では、「都民の声を聞く」などという当たり前のことをするだけで、なんだか新鮮な感じがするのである。そういう風に都民をしてしまった今までの都知事の責任は大きいだろう。だけど、小池知事のもとで、石原知事以来の「権力的教育行政」には変化が見られない。まあ知事が変わって急に変わるのもおかしいけど、だけど何らかの発信も特にない。むしろ都立看護学校の卒業式で「国歌斉唱」を行うなどの変化がある。小池知事を「忖度」したかなどと言われるが、「都民ファースト」と言いつつ、「国家」を強烈に意識しているようだ。(ちなみに東京には「東京都歌」もあるらしい。)

 小池都政に関しては、ほとんど「政治家小池百合子をどう評価するか」で決まってくると思う。小池氏の知事になってからの「活躍」を見ると、近年の小池氏は「役不足」だったんだなあと思う。(よく「力不足」と「役不足」が混同されるが、言葉の真の意味での「役不足」である。)力を持て余していたんだろう。小池氏と言えば、自民党総裁選に出たこともある有力政治家である。なんで自民党都連は小池氏ではダメだったんだろうか。自民が最初から小池擁立でまとまれば、大差で当選して決まりである。ただ、それで小池知事がおとなしく都連の操り人形に留まり続けたとは思えない

 かつて石原知事は高い知名度で自民党に頼らず当選した。しかし、あまり登庁せず細かいことは都議会多数党の自民の意向に任されたという。次の猪瀬知事も、副知事に登用され事実上の後継ということで当選した。ノンフィクション作家として無所属で出馬しても当選しなかっただろう。舛添知事は知名度は高かったけど、民主党政権下で自民を離党したものの支持は広がらず、2013年の参院選には出馬せず浪人中だった。だから自民党には「離党者を拾ってもらった」恩義がある。

 そういう経緯から石原、猪瀬、舛添と、自民党東京都連は知事に対して強い影響力を持った。2009年には都議選で民主党に大敗し、続く夏の総選挙で民主党政権ができた。その時は東京の小選挙区も民主が圧勝したが、小選挙区で石原伸晃、下村博文、平沢勝栄等は当選した。小池百合子も小選挙区では敗れて、比例区で当選している。小池は2005年の郵政選挙で東京に「刺客」としてやってきた「外様」である。その後、2012年、2014年の総選挙では若い自民候補が大挙して当選し、すっかり若返っている。東京都連は石原伸晃や下村が主導権を持っていて小池の勢力が弱い。

 自民党内で小池百合子はどのように思われてきたのか。それは一言で言えば「裏切者」ということになる。もともと細川護熙に誘われて日本新党から参院、衆院に出馬した。その後、新進党結成に参加したが、新進党解党の際は、小沢一郎の自由党に参加した。自由党は自民党との連立に参加し、その後2000年に連立を離脱する。その時は自由党を離党して、保守党を結成して自公との連立に留まった。その後、保守党解党で自民党に入党する。

 2003年9月、第一次小泉内閣で環境大臣に就任。以後、第2次、第3次小泉内閣で留任し続け、「クールビズ」などで知られ、「初の女性首相候補」などと言われるようになった。第一次安倍内閣では、首相補佐官に就任し、久間防衛相の辞任後に女性初の防衛相に抜てきされた。このように、細川、小沢、小泉、安倍と、なかなかうまく権力者に付き従ってきたのである。

 そして2008年、福田康夫首相の辞任後の自民党総裁選に立候補した。これは自民党史上最初の女性総裁候補である。その時は、麻生太郎が351票で当選した。次が与謝野馨66、小池百合子46、石原伸晃37、石破茂25という結果になった。特に支持基盤もない小池が、石原、石破をこの時点では上回っていたのである。ところが、2012年の総裁選では自身は出馬せず、石破を支持したとされる。

 もう忘れている人が多いと思うけど、2009年の下野後の総裁選で谷垣禎一が総裁になり、石原伸晃を幹事長とした。ところが、2012年の総裁選(その時点では野党)では、内心再選を期待していたと言われる谷垣を無視して、幹事長の石原が出馬を表明。党内基盤の弱い谷垣は出馬辞退に追い込まれた。石破茂は野党時代に全国を回って支持を広げていて、総裁選は石原・石破の一騎打ちと思われていた。2007年の参院選で敗北し、その後病気を理由に退陣した安倍晋三が再び復活するとは、誰も思っていなかったのである。しかし、石原の支持が広がらず、1位が石破、2位が安倍で決選投票になった。こうして安倍総裁が誕生するが、これは小池にとって見込み違いだっただろう。

 この経過が安倍陣営から見ると、かつて小泉、安倍内閣で小池百合子は重用されたのに裏切ったと見えているのではないだろうか。だから、与党に復帰したというのに、小池百合子の出番がない。安倍が使うのは、稲田朋美、高市早苗などの自分に近い女性ばかりである。この経過を見て、安倍内閣が続く限り自分の出番は来ないと思ったのが、都知事に転じた最大の理由だと思う。

 ところで、この「裏切者」という評価は、客観的に見てどうなんだろうか。ある意味ではまさに正しいとも言えるだろう。細川、小沢に付いていって政治的に活躍できたか。小泉から安倍には付いていくが、安倍内閣退陣で安倍を見切るというのも、決して間違いとは言えない。現に党員投票では石破が1位になっている。こうして先行きを読んで行動を変えていくのが、小池百合子という政治家の根本的生き方だと思う。

 となると、もともと自民党に支持されて知事に当選したとしても、高い人気を背景に党に対して強い態度に出たと思う。それはかつて大阪府知事になった橋下徹が自民を離れて「維新」を立ち上げたのと同様である。だから、そういうことを心配して、小池には国政で活躍を、知事には地方自治の専門家を、などと画策した当時の自民党都連も、あながち間違っていたわけではないと思う。小池という政治家は、こういうこと(自民を離れて批判する)をやりそうだと直感していたのだろう。

 小池百合子という政治家の行動パターンを僕は以上のように思っているのだが、それは今後どのようになるのだろうか。現在は自民党を批判して自派を増やさないといけない。その意味では、戦略的に融通無碍に行動する。築地市場の移転問題でも、一時は豊洲移転を凍結したものの、結局は豊洲移転、築地も活用などとよく判らない方針を打ち出した。当面はこのような、どっちつかずで支持層の期待をつなぎとめる政策が多くなると思う。

 今の時点では「都民を味方に付けて、自民党都連を批判する」という構図である。だけど、それは今後の情勢の推移で変わってくる。変わって生き延びてきたのが小池百合子である。何度でも変わるだろう。五輪を名目にして安倍政権とベッタリになるかもしれないし、安倍政権に対して今よりもずっと厳しいことを言うかもしれない。僕はいろんなことがあり得ると思うけど、それを期待もしないし、驚きもしない。しかし、評価できるときは応分の評価はする。小池百合子の本質は「風を読む政治家」だと思うから、ちょっとした言動にいちいち反応する気はしない。まあ石原知事よりはいいだろう。
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四万温泉ふたたび-牧水像、重伝建、水沢うどん

2017年06月21日 22時49分49秒 |  〃 (温泉)
 20日から一泊で群馬県北部の四万(しま)温泉に旅行。去年12月にも行ったばかりだけど、他の宿の優待券が今月いっぱいなので、まあ梅雨時に行くことになった。天候的にはちょっと記憶にないぐらいの大外れで、20日は山奥の方だというのに30度。暑くて外を歩く気にならない。そして21日は全国的に大雨大風で、トイレと食事以外は車の外に出たくない。

 ということで、あまり書くことがないんだけど、四万温泉水沢うどん(両日ともに昼食に食べた)のことは後に回して、まず1日目のドライブの話。今回は最近話題になることが多い「チャツボミゴケ公園」に2日目に行こうと思っていた。だけど、二日目は大雨らしく、行けるかどうかわからない。1日目に近くまで行ってみようかなと思った。今回はレンタカーの旅行である。

 伊香保周辺から長野原方面をめざし、「道の駅 八ッ場ふるさと館」で休憩。ここは初めて。例の「八ッ場(やんば)ダム」を作るということで、付け替えられた道にできた新施設である。できてないダムを見下ろす場所で、足湯もある。ダムに沈む前の川原湯温泉には3回泊まっていて、ダムをめぐる様々の出来事を思い返すと複雑な思いもあるけど、道の駅としてはキレイでお土産も多い。あまりに暑い日でボケていたか、カメラを車に置いたままだったので、八ッ場ダムの現状写真は無し。

 その後、道の駅六合(くに)を目指す。「六合」というのは付近の旧村名だけど、難読中の難読だろう。そこへ行く前に、大きな看板で「重伝建」とある。これは一体何だろう。通り過ぎた後でも説明板があり、なんか見どころがあるらしい。「赤岩地区」とある。これは「重要伝統的建造物群保存地区」の略だった。知らなかったのである。中身は読めばわかる通りの趣旨で、赤岩地区は「山村・養蚕集落」として選ばれた。ということで、車でざっと流してみたけど、暑いから外へ出たくない。まあ、今度ということで。近くには「長英の隠れ湯」という温泉施設もある。高野長英である。

 道の駅六合で、やはりこれ以上奥へ進むのは無理という感じの時間になり、暮坂峠沢渡温泉経由で四万を目指すことにする。ここは昔若山牧水が歩いて通った道で、「新編みなかみ紀行」(岩波文庫)は明治の温泉事情が判る面白い本。ここには以前来ていて、そこに立つ牧水の碑も見ている。牧水の詩の一部が書かれているが、「名も寂し 暮坂峠」とあるのが忘れがたい。上州の北の方へ来るたびに思い出すフレーズである。今回はまあ写真を撮らなくてもいいかなと思った。

 ところが妻が「肖像があったよね」という。マントを羽織った像があったという。もう覚えていない。ここにあったんだっけ。他じゃないの? と言いつつ車を出したら、妻が「トーナンにあったって出てる」という。僕は碑の「東南」に牧水の像があるのかと思い、それなら写真を撮ってもいいかなと思ってUターンした。何しろ牧水像なんか全然覚えてないのである。と思って車を戻したら、何と「盗難にあった」という看板があったのである。2016年7月10日、牧水像を盗んでいったヤツがいるのである。いや、トーナンが盗難だったとは…。だけど、どうしてそんなことをするんだろうか?
   (2枚目が像のない詩碑)
 今回の宿は「鐘壽館」(しょうじゅかん)である。有名な「やまぐち館」の近くにある宿で、何しろお湯がよく出ている。お風呂がいっぱいすぎて、入りきれない。エレベーターもなくて、足が悪いとちょっと大変かなと思うけど、実にぜいたくにお風呂巡りをできる宿。食事も美味しかった。繁忙期を避ける旅行をしていると、他の客に会わない時もある。お風呂独り占めで、うれしいんだけど、なんだか申し訳ない感じもする。カワイイ猫が2匹いる宿で、猫と思えないほど寄ってくる。特にラッキーちゃんがひと懐こい。猫好きの人にお勧めの温泉宿。(猫写真はうまく撮れなかった。)
   
 お風呂はいっぱいあり過ぎて、どこから入ろうかと思うけど、裏山に特別の露天風呂「山里之湯」があるという。ここは鍵がかかっていて、旅館の人に案内をしてもらわないといけない。結構な急坂で、なるほどこれは大変。そして3つの風呂がある。晴れてないと行けないと思うけど、もちろんかけ流しの名湯がぜいたくにあふれる。これだけで時間が過ぎてしまうけど、館内にもっとある。
   
 上の最初の写真が「男風呂」で、そんなに大きくないし、作りは結構古いんだけど、誰もいないから快適。それよりもっとすごいのは、露天風呂だった。ただ夕方4時から6時までは女性専用で、ここの写真は2日目の朝のもの。滝のように源泉があふれていて(打たせ湯ではないと断りがある)、その広さは迫力一杯。どこから出ているかと思うと、案内に旅館の下から出ているとある。さらに無料の家族風呂が3つもあるので、全部は入ってない。飲泉所も館内にあるから、何度も飲んでしまう。

 四万温泉はあたりが柔らかく、若い時にはちょっと物足りない感じもあった。でも「4万の病を治す」というだけあって、この癖のないお湯が年齢とともにありがたくなってくる。自然、文化体験が草津や伊香保より弱いけど、それに勝るほどの良泉だと思う。どの旅館もそれぞれ面白いと思うけど、できれば全館制覇したい温泉。あらためて四万温泉(それに近くの沢渡温泉)を大宣伝しておく次第。

 ところで、伊香保近くの水沢うどんは、讃岐、稲庭とならび「日本3大うどん」と称している。10年ぐらい行ってないので、一日目に食べに行く。ちょっと昼食には遠いので、敬遠してしまうのである。今回は地図をよく見て、「駒寄スマートIC」(パーキングエリアからETCで出る)を使えば、案外行きやすいと調べて行った。これが大正解。「大沢屋」とか「山本屋」なんかの有名どころは行ってるので、どこにしようかと「山源」というところ。ゴマダレしかないけど、また案外麺が細いけど、美味しかった。二日目も水沢でいいかなと今度は「松嶋屋」に行く。大雨で写真を撮る気にならなかった。こうなると、大沢屋なんかにもまた行ってみたくなるなあ。他の地区にはないほど、うどん屋が並んでる地帯である。
 
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金沢文庫と称名寺

2017年06月19日 21時39分27秒 | 東京関東散歩
 18日になるけど、神奈川県横浜市にある金沢文庫に行ってきた。梅雨時は日が長いから案外散歩日和だけど、この日は夕方から雨の予報が出ていた。まあ3時過ぎころまで持てばいいかと出かけたら、1時過ぎには降り始めてしまった。海の方まで歩いて野島公園まで行こうと思っていたけど、けっこう大雨なので帰ることにした。まあまたいずれ歩きたいと思う。

 金沢文庫というのは、中世武士の作った図書館だけど、その後も残り続けて貴重な文書が残った。今は神奈川県立の歴史博物館になっている。名前はもちろん昔から知っているけど、今は県立博物館になってるということは数年前まで知らなかった。残り続けた「金沢文庫文書」が2016年に一括して国宝に指定され、その記念の展示を18日までやっていたので見に行ったわけ。

 金沢文庫を作ったのは、北条実時(ほうじょう・さねとき 1224~1276)という人。北条義時の孫で、第5代執権の時頼、元寇時の第8代執権時宗などの側近として鎌倉幕府を支えた。金沢流北条氏と言われ、文化人として知られる。かつては野卑と思われた東国武士の中にも、教養を身に付ける人々が出てきたわけである。この文庫が北条氏滅亡以後もずっと続いたのは、実時が開基の称名寺があったからである。ここの境内にある浄土庭園は素晴らしく、国の史跡になっている。

 京浜急行の金沢文庫駅も初めてで(その次の金沢八景駅も行ったことがない)、京急の「快特」に乗ると案外近いのに驚いた。歩いて10分ちょっとで称名寺に出る。金沢文庫への近道もあったけど、まあお寺を見てから。池を中心にした庭園が素晴らしく、関東ではあまりないなあと思う。雨が降り始めていたので、それもいい情景なんだけど、だんだん激しくなった。
   
 その前に撮った門の写真。そこもなかなかいい感じ。
  
 金沢文庫は、昔は境内にあったらしい。1897年に伊藤博文らの力で再建されたものが、関東大震災で焼失。1930年に神奈川県立図書館、その後博物館になり、1990年に新築された。境内の隣にあって、トンネルで山を越えていく。トンネルの彼方に博物館が見えてくるのも面白い。
  
 そこでやってた展示を見ても、はっきり言って昔の仏典を見ても価値は判らない。古文書も読めない。実時をはじめとする金沢北条氏の肖像なんかの絵しか判らない感じなんだけど、まあほとんどが国宝という展示だった。ずいぶん貴重なものが、ここにしか残っていなかったという話。道元の漢文の「正法眼蔵」とか。日蓮の若いころの文書とか。世界にもここにしか残らなかったものがある。トンネルの近くに、中世から残る隧道が残っていた。
  
 さて、お寺に戻るが雨は止まない。鐘楼に猫がずっといるけど、僕はもういいやと思い、門から道路に出ると駅までのバスがちょうど来たので乗ってしまった。まあ海まで行くのは無理だなということで、快特に乗って都営地下鉄宝町で降りてフィルムセンターでフィンランド映画「オリ・マキの人生で一番幸せな日」というのを見た。これはなかなか面白かった。上映前にフィンランド大使館が作った公式ツイッターアカウントのマスコット「フィンたん」のアニメ動画をやった。これもなかなか面白い。
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「抗夫」-漱石を読む④B

2017年06月18日 21時23分40秒 | 本 (日本文学)
 「虞美人草」に続いて、漱石全集第4巻後半にある「抗夫」を読んだ。1908年1月から4月にかけて、朝日新聞に連載された。漱石作品中、一番の異色作と言われるが、普通「失敗作」と思われている。確かに間違いない失敗作で、はっきり言って全然面白くない。でも無視もできない作品ではある。漱石を全部読もうと願を立てた人以外は、「虞美人草」と「抗夫」は飛ばして先へ進むのが賢明。

 この小説は一種のルポルタージュ文学で、女性問題のいざこざに巻き込まれた19歳の青年が、家出して放浪しているところを「ポン引き」に捕まって抗夫になろうと思う話である。実際にそういう体験をした青年が、漱石のもとに体験談を小説化して欲しいと持ち込んだという。漱石は断ったけど、朝日で予定していた藤村の作品が遅れて、穴埋めに書かざるを得なくなったという。

 漱石の小説は、そのほとんどが東京のインテリ階級を主人公にしている。舞台もほぼ東京である。地方を描いているのは、「坊っちゃん」「草枕」「抗夫」だけだろう。(イギリスものは除いて。)この中でも、下層階級の実態を描いているのは「抗夫」だけ。その意味で異色作に間違いないけど、読んで見るとあまり抗夫が出てこない。というか、実は主人公は抗夫にならない。アレレ。

 舞台になる鉱山は足尾銅山だということだけど、文庫本230頁ぐらいの中で100頁ほど読んでやっと鉱山に到着する。それまでは、連れられてヤマへ行くまでの記録。裕福な家の御曹司だったらしい「自分」は、いちいち下層社会に堕ちた驚きで話が進まないのである。ハエがたかった饅頭に驚き、抗夫にならんかと言われてビックリする。何するという考えもなしに、ただ家を飛び出た主人公は、ひたすら悪の手先のような男に連れられて「魔界」に足を踏み入れる。

 そこで他の抗夫の生態に触れて、下層民衆の卑しい生活になじめない思いを面々と訴える。その後、試しにヤマに入ってみることになるが、そこは確かに迫力はある。そこで働けば面白い文学になったかもしれないが、身体検査を受けたら気管支炎と診断されて、鉱山内労働不可となる。なんだという感じ。一種の「冥界めぐり」の異文化体験だけど、面白くなりそうなところで終わってしまう。

 この作品の一番つまらないところは、抗夫の生態が一面的にしか描かれていないことだろう。彼らは儲けた金をバクチと娼婦に使ってしまう。だから金がたまらない。だから、いい加減に生きているやつらはダメなんだというような感じである。そりゃあ、バクチや女にカネも使おうが、それ以前に会社によって、あるいは親方制度によって、搾取されているはずだろう。労働者自身も複雑に身分差が作られている。それに対する抗議運動もあったわけで、史上有名な軍隊まで出動した足尾銅山争議は1907年のことである。この小説が書かれる前年のことではないか。

 いくら19歳のうぶな青年の経験をもとに書いていると言っても、同時代を揺るがした足尾大争議(暴動)や、足尾銅山鉱毒事件(1901年に田中庄造の天皇直訴事件、1906年に谷中村の強制廃村)の影も形も見えないとなれば、それは作家の想像力が及ばなかったんだろう。漱石の思想性の限界ではなかろうか。モデルの人物が、せっかく鉱山まで行きながら、そういう社会的矛盾をとらえる目がなかったということなんだろうけど、それがこの作品を弱いものにしているのは間違いない。

 ルポルタージュ文学としても、明治東京の下層社会を描いた松原岩五郎「最暗黒の東京」(1893)、横山源之助「日本の下層社会」(1899)などの迫力に遠く及ばない。何しろ漱石が自分で見もしないで書いているのだからやむを得ない。作者が自ら潜入して迫真的な告白ルポを書いた、鎌田慧「自動車絶望工場」や堀江邦夫「原発ジプシー」のような迫力がないのも当然。

 その後、プロレタリア文学、戦争文学がいくつも書かれ、主人公がもっとすごい境遇に置かれて絶望的な体験をしている。そういうことを知っている今の目で言えば、ほとんどお坊ちゃんのお遊び的な体験記というしかない。だけど、それ以後の漱石作品が都市の知識人世界に限られるようになったのも、いわば「抗夫」の失敗体験ゆえなんだろう。その意味では重要だし、富裕層の青年が下層社会をどう見るかという社会学的な意味はある。ただ、文学的な意味での感興には乏しい作品だ。
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加計学園問題と「動物の権利」

2017年06月17日 23時03分49秒 | 政治
 2017年度の通常国会は事実上の閉会となり、政府側は「もりそば」「かけそば」を「手打ちそば」にしたいということのようだ。だけど、この二つの「スキャンダル」は非常に奥が深いと思うので、これからも考えたいと思う。日本の社会と文化のあり方をよく表しているのではないかと思うのだ。

 加計学園問題に関しては、高村副総裁が「加計学園の問題は岩盤規制に政治主導で穴を開けた立派な決定だというのが本質だ。しっかり説明し、野党の一部が言い張るゲスの勘ぐりを払拭(ふっしょく)してほしい」と16日に語っている。もしそれが本当なんだったら、最初から内閣府の文書をどんどん公開すればいいのに。文科省の文書を「怪文書」などと言い放って、もう調査しないと言い続けてきた。それは何故なのか? やっぱり何か怪しいことがあるんじゃないか

 そう思うのが普通の感性だろう。違うだろうか?少なくとも、「怪文書」と言い続けた菅官房長官の信用性は地に堕ちたというべきだ。第2次、第3次安倍政権で、連続して官房長官を続ける記録を更新している菅氏だが、もう交代の時期ではないか。僕なんか、前々から「菅語」が嫌いだから、「何の問題もないと思いますよ」と言うと「問題あるな」、「それ以上でも以下でもない」と言うと「それ以上だな」と思ってしまう。都議選後にあると思われる夏の内閣改造で交代させた方がいい。

 ところで、加計学園問題は二つの段階に分けられる。一つは「獣医学部の新設を認めるべきかどうか」の問題。もう一つは「新設するとして、どこに作るべきか」の問題。高村氏の言う「岩盤規制」とは、長いこと獣医学部の新設を認めて来なかったことを指す。その規制を撤廃するべきだと考えたとしても、別に岡山の加計学園が海を渡って愛媛県の今治市で作らなくてもいいだろう。だから高村副総裁の「ゲスの勘ぐり」発言は説明になっていないのである。

 なんでも京都産業大学が京都府綾部市に新設するという計画もあったという。別にどっちが作ってもいいじゃないか。両者を比べて加計学園の方がいい計画だから選ばれたのではない。「広域的に獣医学部がない」という条件が作られたから、京都側は引いてしまった。大阪に別の獣医学部があるから無理だと悟ったわけである。応募が一つしかないから加計学園になった。それで「国家戦略」として考えた時に、どっちがよりよい計画なのか比較して考察するという機会は失われた。

 さて、話を第一の問題に戻したい。「獣医学部の新設を認めるべきか」という話である。調べてみると、獣医系大学は全国で16大学あり、確かに東日本の方が多い。少ないから全部書いておくと、北海道に北大、帯広畜産大、酪農学園大、青森に北里大、次いで岩手大、東京に東大、東京農工大、日大日本獣医生命科学大、神奈川に麻布大、後は岐阜大、大阪府立大、鳥取大、山口大、宮崎大、鹿児島大の16大学である。(下線が私立大学で、5つある。)

 中国地方は鳥取と山口があるから岡山には無理なんだろう。畜産の盛んな九州の宮崎、鹿児島にもある。四国にはないけど、元々の人口が少ないし、畜産が特に盛んというわけでもないから、獣医学部がなかったというだけの話だと思う。愛媛県の加戸守行前知事(元文部官僚)は、産経新聞に「四国になくて今まで困った。長年の悲願だ」というようなことを書いているけど、鳥インフルエンザやBSE対策などが常時求められるわけでもないだろう。困った時もあるだろうけど、愛媛県に新設しても、卒業生を愛媛では引き受けられない全国最多の160人定員だそうだから。

 そう、何でも全国の獣医学系大学で一番多数の人数を募集するというのだ。全国すべてで千人ぐらいしかいない獣医大学卒業生を一挙に1割も増やしてしまう。これじゃ、獣医師会や文科省から疑問があがるのも当然だと思う。法学部とか経済学部なんかの、卒業したら普通の民間企業で働く学生が主な学部と違う。獣医学部を出たら、獣医師になるしかない。獣医師の必要数が突然そんなに増えるわけがない。そう言われてみれば確かにその通りだろうと思う。

 でも町中に昔より動物病院を見かける気がする。昔は犬や猫なんか、それほど病院に連れて行かなかったと思うけど、ペットは家族同様に大切にされるようになった。だから、動物病院なんかはこれからもっと増えるのかなあなどとも思ったけど、実はペットは減っているんだという。本当かなと思って調べてみると、確かにそのとおりである。厚生労働省とペットフード協会の統計があるけど、どっちでも確かに減っている。厚労省の統計を見ると、犬の登録数、予防注射数を見ても、2009年(平成21年)を最高に減り続けている。(2017年段階で注射数468万頭、最高時511万頭。)

 まあ、それもそうだろうと思う。ペットを飼いたくても飼えないようなマンション、アパートばかり増えている。子どもは少なくなる一方だから、子どもが犬や猫を飼いたいと親にせがむケースも減る。高齢者はペットが癒しになるとしても、犬は散歩が大変だし、餌代もかかる。じゃあ、金魚や熱帯魚を飼おうという人はいるだろうけど、さすがに動物病院には行かないだろう。ということで、今後高齢化がさらに進行するにつれて、ペット数もどんどん減少することが予測できる。

 ということで、政府が切り札のように出してくるのが、「ライフサイエンス」である。「先端ライフサイエンス研究や地域における感染症対策など、新たなニーズに対応する 獣医学部の設置・ 人獣共通感染症」というのが、国家戦略特区で獣医学部を作っちゃおうという時の最大の根拠となっている。では「ライフサイエンス」とは何だろう。検索してみると、「遺伝子の研究などをはじめとした、生命そのものを科学的観点から捉える学問のこと。」だそうである。

 遺伝子分野の研究は確かにものすごい発展をとげている。日本が国家的に研究を推進しようというのも理解できる。それはそれでいいんだけど、じゃあ、なぜそれが獣医学部新設につながるんだろう。それは「動物実験を扱う有資格者が必要である」ということなんだろうと思う。

 さて、長々と書いてきたけど、加計学園問題であまり触れられてない疑問点。今後もどんどん動物実験をしていくのか、ニッポンは? 世界的には「動物の権利」という概念もあって、動物実験はできるだけ控えるような研究になっていくのではないか。動物実験を増やす、だから獣医師がいる、だから獣医学部を新設するという論理展開でいいのか。いや、人間の権利(人権)さえないがしろにするような人々が、動物の権利などということを考えるはずもない。だから言っても聞き流されるだけのリクツだろうけど、僕はそういうことも書いておきたいと思ったわけである。
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民主か独裁か-57年目の「6・15」

2017年06月17日 00時03分40秒 | 政治
 2017年6月15日、翌朝まで続いた国会で「共謀罪」(組織的犯罪処罰法=組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律の「改正案」)が強引に成立させられた。参議院法務委員会の採決を省略し、突然本会議で「中間報告」を行い採決するという「奇策」が使われた。

 本会議では賛成が165、反対が70。というんだけど、東京新聞によると「締め切りを告げると、社民党の又市征治氏と福島瑞穂氏、自由党の森裕子氏が慌てて反対票を参院職員に渡したが、時間切れを理由に「投票しなかった」(参院事務局)という扱いになった。3人の「反対」の意思表示は公式記録に残らない。」いくら何でも横暴が過ぎるというもんだろう。

 ニュースなどでは「奇策」だけど「国会法にある規定」などと言うけど、これは「だまし討ち」以外の何物でもない。法相不信任案の提出が早すぎたという民進党への批判もある。戦術的な批判はあるだろうけど、基本的には「あり得ない手法」を取った与党側への批判がなくてはおかしい。法務委員会で審議してきて、「もう十分審議した」から「採決」するわけで、委員会採決なしで本会議を開くこと自体が「審議が不十分」という証である。本来は議長がたしなめないといけない。

 「共謀罪」について今まできちんと書いてない。「テロ等準備罪」などと政府が言い出して、それを使うマスコミもある。これは大間違いである。まるで今まではテロ準備をしても罪にならないかのような誤解を与える。もちろん、そんなことはなかった。殺人やハイジャック等の重要な犯罪には「準備罪」があり、準備段階で罪に問われる。「条約(パレルモ条約=国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約)に入らないと五輪を開催できない」などと言うのも悪質なプロパガンダである。

 この条約自体テロ防止条約ではないし、組織的犯罪対策を進めてきた日本は多分それまでのままで条約に加盟できたと思う。加盟を申請してダメと言われたなら、それから考えてもいいはずだが、共謀罪がないと加盟できないと政府が言い続けてきた。しかし、言っちゃなんだけど、マスコミの半分が政府の宣伝に乗って「テロ等準備罪」と書いている日本の現状では、客観情勢的に成立を防ぐ手立ては思いつかない。

 2015年の安保法制の時に、「何も説明しない」安倍政権に内閣支持率は不支持の方が上回った。「今後もていねいに説明していく」と言いつつ、その後も何も説明しない。それは一人首相に限らず、小渕優子や甘利明なども、金銭スキャンダルで辞任した時は「調査してから説明する」などというが、その後もちゃんと説明はしない。そんな安倍内閣に国民はいつの間にか、再び高い支持率を与えてしまった。もう安倍内閣だったら「共謀罪」に関して、ちゃんと説明しないまま強引に成立させるという成り行きをたどるのは、誰にでも判ることである。

 与党にも野党にも問題はあるけれど、国民自身が一番責任が大きい。だが、僕が思うに、このような「絶望」のような時間の方が今まで長かったではないか。共謀罪ができる前から、国策に異を唱える人々に警察は「事実上の共謀罪」を適用して監視を続けてきた。もう何十年も前からそうじゃないか。それでも未来への責任のために、異を唱えるべき時には恐れずに声を挙げないといけない。

 「6・15」と言えば、60年安保闘争で国会前で樺美智子が殺された日ではないか。ある時期まで、6月15日と言えば皆がそのことを思い出したものだが、今回はマスコミもどこも触れてないと思う。1960年、安倍首相の「母方の祖父」である岸信介が首相を務めていた。(天皇に関しては「女系」が嫌いな安倍首相が、なぜか自分に関しては「総理の女系の孫」であることを誇りにしているらしい。)

 60年安保闘争では、5月19日に衆議院で強行採決されたことで大きく広がっていく。条約だから、憲法の規定により参議院で議決しなくても、「30日以内に議決しない時は衆議院の議決を国会の議決とする」。このため参議院で審議する意味がなくなってしまう。この状況は、今の日本の国会と似ているのではないか。加計学園問題の調査結果も、共謀罪成立後に出してきた。森友学園問題の資料も出てこない。ちゃんと情報公開しようという気がない。まともな審議が国会でできないのだ。

 60年安保の時は、中国文学者の竹内好(よしみ)は「民主か独裁か」という文章を発表した。一種の非常事態下で書かれた緊迫感あふれたマニフェストである。僕が思い出すのは、その「民主か独裁か」という問題設定である。もちろん現代の「独裁」は昔のような軍事独裁、一党独裁ではない。もっとソフトな独裁で、選挙もあるし、一見言論の自由も保証されている。国会でも少数の議席を持つことができる。だけど、いくら審議しても「決めるときは決める」と言われる。

 選挙を何度やってもまた与党が勝つ。国民が支持する「ソフトな独裁」。世界では結構そういう国が多い。ロシアとかシンガポールとか。日本もそういう国に近づいてきたのか。「民主か独裁か」、問われるのは国民自身である。
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堀切菖蒲園を見る

2017年06月15日 21時28分35秒 | 東京関東散歩
 梅雨の晴れ間の暑い日に、堀切菖蒲園に行ってみた。家からそんなに遠くないけど、実は初めて。京成線の堀切菖蒲園駅から歩いて10分ほど。ここも初めて降りた駅だけど、今よく言われる「下町」的なムードの街だった。「堀切菖蒲園」というのは、今では周辺一帯の地名みたいになっている。

 方向がよく判らないけど、案内がいっぱいあるので誰でも迷わず行けると思う。18日まで菖蒲まつりをやっている。案外小さな場所で、すぐに一周できてしまう。周囲を高速道路やマンションに囲まれて、もう街のど真ん中という感じだ。ちょうど今真っ盛りで、さまざまな色合いの菖蒲が咲き誇っていた。
   
 堀切菖蒲園は江戸時代から有名だったという。江戸名所とされ、広重の浮世絵にも出ている。この一帯は綾瀬川の東の低湿地で、菖蒲に向いていたんだろう。明治時代にはいくつもの菖蒲園が作られ有名になった。でも戦時下に次々と閉園していき、残った「堀切園」を1959年に東京都が買い取って都立公園となった。1975年に地元の葛飾区に移管され、今は無料で公開されている。
   
 上の最後の写真は、昨年株分けした菖蒲がある場所で、やっぱりそういうところではあまり花がない。菖蒲にも様々な品種がいっぱいあると判ったけど、今日は暑いしちゃんと見る気にはならない。それにしても、バラのように多くの品種があるんだなと思った次第。

 菖蒲園から歩いて5分ほど、高速道路下を通り、綾瀬川と荒川の狭間に「堀切水辺公園」がある。大雨じゃない日はこっちにも足を伸ば酢と言い。川を見て心も解放されるし、なんといってもスカイツリーが見られる。今は菖蒲の向こうにスカイツリーという構図を撮れる。高速道路を背景にするのも面白い。雲はもう夏の風情。菖蒲の数はそんなに多くはないけど、こっちもいい。
  
 ところで、ある明治時代を舞台にした小説に、「荒川の東にある堀切菖蒲園」とあったんだけど、これは今の人の勘違いである。東京東部に育ったある年代以上の人なら、「荒川放水路」という言葉を覚えていると思う。今の荒川は大正から明治にかけて人工的に掘られた川である。綾瀬川というのは、埼玉県桶川市から流れる川で、この前見た草加松原に流れていたのも綾瀬川。放水路以前は隅田川に流れ込んでいたというが、今は中川に合流するという。
 (高速道路下の綾瀬川)
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「虞美人草」-漱石を読む④A

2017年06月14日 23時24分02秒 | 本 (日本文学)
 ニュースもいろいろある日々だが、思い出すように月に一回読んでいる夏目漱石。今回はちくま文庫版全集第4巻だけど、「虞美人草」と「抗夫」と長いのが二つ入っている。一回にまとめると長くなりそうだし、最初に読んだ「虞美人草」を忘れてしまいそう。そこで、二回に分けて書くことにする。
 (読んだ本とは違う画像だけど)
 夏目漱石は1900年に英国に留学、帰国後は東京帝大や一高で講師をしながら、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を書いていた。しかし、1907年に教職をすべて辞職して朝日新聞社に入社し、専業作家として生きることを決意したわけである。そして最初に書いた長編が「虞美人草」で、1907年の6月から10月にかけて新聞に連載された。ちょうど110年前の小説

 「虞美人草」は昔から一般的には「失敗作」と言われることが多いと思う。その割に長いので、敬遠されがちだ。「猫」や「草枕」を読んだら、次は「三四郎」や「それから」に飛んでしまう人も多いだろう。僕も初めて読んだけど、やっぱり失敗作に間違いない。途中でちょっと面白くなるけど、最後の最後に大混乱になる。ちょっと救い難い展開で、困ってしまった。問題は単なる失敗作というにとどまらず、漱石の思想、あるいは文学観そのものに問題があることだ。

 物語のヒロインは、藤尾という。そのことは昔からいろんな漱石関連本で知ってたけど、藤尾という名字かと思っていた。(昔、藤尾正行というウルトラ右翼の自民党政治家もいたので。)そうしたら、「甲野藤尾」という名前だった。僕だって「藤緒」とでもなってたら女性の名前かと思っただろうが、これでは間違う。そもそもヒロインを名前だけで表すというのが、一種の性差別である。藤尾の兄、甲野欣吾は主に「甲野」と書かれているのだから。

 この「藤尾」という女性は、日本文学史上に名高い「悪女」というか、「驕慢」な女性とされている。文庫の裏の紹介では、「我執と虚栄心のみ強く、他人を愛することのできない紫色の似合う女・藤尾」とひどいことが書いてある。ところが読んでみると、そこまで「我執」の人とは全然思えない。まあ、美人を鼻に掛けているタイプではあるだろうけど、そんな人は世の中にいっぱいいて、特に「悪女」と糾弾されるほどのことでもないだろう。現代の小説では珍しくもない。

 藤尾が特に糾弾されるのは、多分「結婚相手を自分で変えたいと望んだ」ためだろう。彼女には親どうしで何となく決めたような関係の男性がいる。兄欽吾の友人、宗近一である。さらに彼の妹、宗近糸子は欽吾と結婚を考えている。だけど、宗近一はなかなか外交官試験に合格しないのに、とかくノンビリ構えている。藤尾はそれが不満で、むしろ英語の家庭教師に来てもらっている小野にひかれていく。彼は「恩賜の銀時計」を貰ったほどの秀才なのである。

 欽吾の父は外国で死亡し、今の母は後妻に来た人である。つまり、欽吾と藤尾は異母兄弟。欽吾は哲学専攻で病弱のため、自分は家を出るなどと言う。そうなると、甲野家は藤尾に婿を取る方がいいわけで、その点でも係累のない小野の方が適当だと、藤尾の母は思う。母は「なさぬ仲」の欽吾ではなく、藤尾に老後を見てもらいたい。そういう非常によく理解できる俗なる動機で、母と娘は宗近ではなく小野を婿にしたいと望むわけである。

 一方、小野は故郷で世話を受けた井上孤堂なる「恩師」がいて、彼のおかげで大学にまで進めた。その娘・小夜子とはこれも「いずれは結婚」と黙約のような状態にあった。しかし、正式な婚約でもなく、小野も将来を考えて財産も美貌もある藤尾の方が自分の相手にふさわしいと思う。これも道徳的には少し問題かもしれないが、「よくある話」である。そんなこととは知らない井上一家は、京都で窮迫して小野を頼りに東京に出てくる。そして当然、小野が小夜子を嫁に迎えると信じて待っている。

 まあ、そういう「欲得の絡んだ三角関係」が起こるわけだけど、むろん現実の男女関係は何もない。こんな話は腐るほどあって、昔から小説では「親の決めた相手と結婚せざるを得ず、泣く泣く心の恋人を諦める」というストーリイが山ほど書かれた。ところは、「虞美人草」はそれと反対で、親の決めた相手と結婚しないとはなんという不徳義漢かと非難するのである。

 これは今では全く通じない話である。今じゃ親が結婚相手をいつの間にか決めちゃうという方が「不道徳」な話である。特に美人の藤尾が自分を慕ってくれる秀才を、欲得も絡んで選ぼうとするというのは、当然の展開というしかない。小野にしてみても、貞節な田舎娘とマジメな結婚をするのもいいけれど、ともにシェークスピアを論じあえる藤尾のような女にひかれるのも当然の成り行きである。

 むろん、現実の結婚というのは、そうそう思い通りにはいかない。藤尾と結婚しても自我の衝突に苦しみ、小夜子を捨てた過去を悔いるかもしれない。一方、小夜子と結婚しても索漠たる結婚生活に耐えがたい思いを抱き続けるかもしれない。どっちがいいとか事前に判るわけがないけど、何にせよ、俗世で苦しみ続ける人間を冷徹に見つめるというのが、「文学」というものだろう。

 ところが最後の最後に、宗近が外交官試験に合格し、それと同時に「小野」を正気に戻す工作を一家で開始する。作者が小説内に出てきて解説してしまって、あれこれと人物をコマのように動かす。そうすると、宗近に説得されて、小野はがぜん自己の非を悟り、反省して小夜子と結婚すると約束する。中の人物が寄ってたかって藤尾とその母を非難し、秩序が再生される。哀れ藤尾は皆の攻撃を一身に受け、ついには謎の死を遂げてしまう。(ウィキペディアは自殺と書くが、吉田精一の解説は「ショック死か自殺か判らない」と書く。読む限りでは明示はされてない。)

 こういう一種のトンデモ小説だとは思いもよらなかった。もう最後のころには「ブンガクの香り」がまったくなくなる。代わりに立ち込めるのは「説教臭」である。作者が一定の道徳観を持つのは当然だけど、それが小説内で絵解きされてはいけない。登場人物が作者の与えた性格付けをまったくはみ出ていかない。名作と言われる小説では、作家の思惑を超えて登場人物が独自の存在感をどんどん発揮してしまうものだ。そういう面白さに全く欠けるのが、「虞美人草」の最大の欠陥だろう。

 そういう点もあって、会話が恐ろしくつまらない。恐らく当時の日本社会全体で、ウィットに富む会話を交わしあうと言った社会空間が存在しなかったんだと思う。漱石の「猫」では、一部の知識階級だけがサロン的に集まり、高踏的な会話を交わしあうのが醍醐味になっている。でも、現実にはそんな場所はなかっただろう。「猫」でも現実の社会や政治は出てこない。

 やはり小説は現実の社会に規定されている部分が大きい。女子大学もなく、女が勉強すること自体がおかしなことだった時代に、藤尾が評価されるはずがない。24歳で「行き遅れ」と評されている。平均寿命も違うけど、学生にも「職業婦人」にもなりえない女性が、そう何年も嫁に行かないというのは、当時の観念ではおかしいのである。だけど、それも父親が亡くなり、甲野家を誰が継ぐかという問題が背景にある。家制度のあった時代で、それを無視できない。欽吾がはっきりしないのを非難せず、藤尾の行動だけを非難するというのは、漱石の思想が保守的だったのである。
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映画「ローマ法王になる日まで」

2017年06月12日 21時37分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画「ローマ法王になる日まで」が公開されている。これは題名の通り、第266代目のローマ教皇、フランシスコ教皇の人生を描く映画である。だから当然カトリック的な映画ではあるんだけど、これはけっして「偉人伝」ではない。むしろ「非道な権力にどう抵抗するか」「貧しく無力な人々とともにあるとはどういうことか」といったことをテーマにしている。まさに現在を生きる人のための映画だし、毎年ノーベル平和賞の有力候補に挙がる人物を通して世界を深く考える映画だ。

 2013年3月、前任のベネディクト16世が高齢を理由に引退を表明し、アルゼンチン出身ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が後任に選出された。1960年、映画の冒頭ではまだ若いホルヘは皆の人気者で女性にもモテているが、一生を神に仕えることを決意してイエズス会に入る。彼は実は有名なイエズス会出身として初めての教皇だという。若い時はザビエルゆかりの日本への赴任を希望していたが、退けられるシーンが印象深い。(教皇として訪れる日も遠くないだろう。)

 当時のラテンアメリカでは、多くの国で軍事政権による強権政治が行われていた。アルゼンチンではポピュリズム的政策で労働者に人気があったペロンをめぐって、ペロニスタ(ペロン派)と軍部の対立が長く続いた。1974年にペロンが亡くなり、妻のイザベルが後継になったが経済混乱を招いた。そこで1976年に陸軍総司令官のビデラを中心にした軍事クーデタが起きた。1983年まで続いた軍事独裁政権は、「汚い戦争」と呼ばれた大々的な国家テロを行い、数千名に及ぶ(今も完全には解決されていない)行方不明者を出した。(1983年にフォークランド島戦争に敗れて崩壊した。)

 軍事政権の当時、ホルヘは管区長として神学校の院長をしていた。軍部は教会も聖域視せず、神父の中にも捕えられ殺されたり、暗殺されるものもあった。軍部寄りの上層部のもとで、彼は疑われたものを匿い逃がしたりする。反政権運動には加わらないけど、教会上層部や政権とも話ができる位置にいたホルヘは裏で尽力を続ける。それでも長年の友人だった女性判事エステルも犠牲になり自らの心にも大きな傷が残ったのである。

 この頃ラテンアメリカの国々では、貧しい農民や先住民とともに時には武器を持って闘うことも辞さない「解放の神学」が大きな影響力を持っていた。ホルヘはその立場とは違うが、軍部による弾圧には批判する。この立場をどう考えるかはなかなか難しいけど、彼はイエズス会を選んだ時点で、貧しい民の中に入り直接運動をするタイプじゃなかったんだろう。「前衛」がいないと点を取れないけど、これ以上の失点を防ぐために「後衛」に努める人も運動には必要だ。

 だけど、彼には「汚い戦争」に対する自分の関わり方に悩みもあったんだろう。軍事政権崩壊後、ドイツに留学中に彼に「回心」が訪れる。ベネズエラから来ていた女性がスペイン語で祈っている教会にふと足を踏み入れる。そこで彼女から「結び目をほどく聖マリア」を教えられたのである。こんがらかったヒモを手にして、結び目をほどこうとしているマリア像。悩み苦しみにとらわれた人々の「結び目」をもほどいてくれる、苦しむ人々ともにある神。以後、アルゼンチンに帰っても、農村の教会に暮らし、教皇の指令で首都に戻っても立ち退きにおびえる貧民街に赴く。

 この映画の監督はダニエーレ・ルケッティで、イタリアでは有名らしいが日本では映画祭公開だけなので、僕は初めて見た。主演はロドリゴ・デ・ラ・セルナという人で、「モーターサイクル・ダイアリーズ」でゲバラの友人を演じていた人。まあ監督でも俳優でも客は呼べない映画だが、テーマそのものにひかれる人のための映画だろう。映画の出来は「佳作」かなと思うが、内容が重要で考えさせることが多い。ぜひ多くの人に見てもらいたい映画。

 アルゼンチンの軍事政権による人権問題は、もうほとんどの人が忘れているのではないか。「行方不明者の母の会」が軍事政権の闇を暴き続けた姿は、映画「オフィシャル・ストーリー」(1985)で描かれアカデミー賞外国語映画賞を受けた。また軍事政権中はパリに亡命していた映画監督のフェルナンド・ソラナスは「タンゴ -ガルデルの亡命-」(1986、ベネツィア映画祭審査員特別大賞)、「スール/その先は……愛」(1988、カンヌ映画祭監督賞)などの映画を製作し、ピアソラの音楽に乗せて自由への憧れと望郷の思いを切々と描いていた。このように、80年代後半にはアルゼンチンの「汚い戦争」をテーマにした映画がかなり日本でも公開されたのである。ぜひもう一回見てみたい。

 なお、日本のカトリック教会の中央団体である日本カトリック中央協議会は、「法王」ではなく「教皇」と表記して欲しいと要望し続けてきた。教科書などはずっと前から「教皇」と書いているのに、マスコミは「法王」といつまでも書く。この映画も「教皇」とするべきだったと思う。
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文世光(ムン・セグァン)事件の長い影

2017年06月09日 20時57分53秒 |  〃  (国際問題)
 連続企業爆破事件のことを書いたので、昨年来一度書いておこうかと思っていた「文世光事件」についてこの機会に書いておきたい。「文世光事件」と言っても、もう若い人は聞いたこともないんじゃないかと思う。1974年8月15日に、在日韓国人の文世光(ムン・セグァン 1951~1974)が、韓国大統領朴正熙(パク・チョンヒ)を狙撃した事件のことである。銃弾は大統領夫人の陸英修に当たり死亡した。(また、警備員が撃った流れ弾が合唱団員の女子高生に当たって死亡した。)
 (拘束される文世光)
 この事件は日本の警察史上最悪レベルの大事件である。南北朝鮮も忘れてしまいたい事件かもしれないし、「思い出したくない人」が多いから忘却されているのだろうか。だけど、これほど長い影響を与え続けている事件もないように思う。それが「文世光事件の影響」かどうかを知らないだけだろう。今、日本の警察史上最悪と書いたけど、なんで日本の警察が関係するのかと言えば、犯行に使われた拳銃が、大阪市にあった派出所から盗まれたものだったからである。

 警察から拳銃が盗まれただけでも大事件だが、それが実際に使われ、隣国の大統領夫人を死亡させたのだから、不祥事中の不祥事である。「過激派」の武器奪取事件が70年代初期にはかなり起こっていた。警察は国内の「過激派」を疑っていたのだろう。まさか外国に持ち出されて使用されるとは想定していなかったに違いない。どうして国外への持ち出しと韓国への持ち込みが可能だったのか。そして一番重大なのは、なぜ「光復節」の会場に入れたのか。

 当時の韓国は、朴正熙大統領の強権政治のもと、経済成長が続いていた。1972年7月には「南北共同声明」が発表され、南北は平和裏に連邦制で統一するとされた。だが実際には北は南の経済成長に、南は北の一党独裁に警戒感を持ったと言われる。その後、朴政権では反対派への弾圧を強め、金大中氏拉致事件が起きた。1971年の大統領選で朴大統領に肉薄した野党指導者金大中が、1973年8月8日、東京のホテルグランドパレスから拉致されたのである。米国が介入し何とか殺害だけは食い止められたとされる。この事件以後、日韓関係はギクシャクしていた。

 そういう中で、文世光事件が起きた。彼が疑われずに韓国に入国できたのは、協力する日本人名義のパスポートを使ったからである。(協力者は事件後に日本で逮捕された。)そして、警戒が厳しいはずの会場にも、高級車で乗り付けて日本人招待客を装ったとされる。それにしても、拳銃を持った一般人をチェックできなかったのだから、韓国警備当局の大失態である。文世光は現行犯逮捕され、死刑判決が下された。年末に執行されたが、そのときまだ22歳だった。 

 この事件は「朝鮮総連の指令」とされている。文は韓国系の民団に所属していたが、朝鮮総連が接触したのである。当時の韓国は独裁政治だったから、北朝鮮の方が良い国家だと思う人々もかなりいた時代である。南北朝鮮は厳しい対立が続き、どちらも国連に加盟していなかった。今から見れば「テロ」になるけど、文にすれば「愛国的決起」ということになるだろう。朝鮮総連だけで事件を起こせるはずはなく「本国の指示」があったんだろうと思うが、それは解明されていない。文は死刑執行時に犠牲者に謝罪するとともに、「朝鮮総連にだまされた」と述べたとされる。

 この事件の「長い影」とは何だろうか。その最大のものは、朴大統領の子どもたちから母親が奪われたことだろう。1979年には朴正熙大統領も金載圭KCIA部長に暗殺される。母亡きあとファーストレディ的に活動していた次女(後妻の陸英修との最初の子)の朴槿恵(パク・クネ)は両親を失った。その朴槿恵に接近したのが、キリスト教系新興宗教の指導者・崔太敏と崔順実(チェ・スンシル)だった。韓国大統領朴槿恵が罷免されたスキャンダルは、文世光事件に遠因がある。

 日本では「在日青年の決起」に衝撃を受けた「東アジア反日武装戦線」による連続爆破事件が始まる。もともと「虹作戦」は昭和天皇が戦没者追悼式典に参列するため那須御用邸から戻ってくる8月14日に決行するはずだった。8月15日は、日本では「終戦記念日」と言われるが、韓国では日本から解放された「光復節」である。大道寺らは、自分たちが出来なかったことを文世光が決行したと感じただろう。だけど、今から振り返れば、この連続爆破事件こそが60年代末からの「反乱の季節の終わり」をもたらした。一つの節目になったのは間違いない。

 それ以上に重大な問題は、この事件が「日本人拉致事件」につながった可能性が高いことである。「北」からすれば、同族である「在日僑胞」をリクルートして「南」の解放戦士に仕立てる方が簡単なはずである。だが、文世光事件以後は「在日韓国人」の韓国滞在への監視が厳しくなる。在日韓国人留学生などの「冤罪スパイ事件」は当時100件以上起こった。その後の韓国民主化で再審無罪になった人が多いが、当時は重大な人権問題として日本でも救援運動が起こった。

 そこで文世光が成功させた「日本人成りすまし」作戦が対南工作の中心になったと思われる。大韓航空機爆破事件のキム・ヒョンヒ(金賢姫)の例で判るように。そのためには「日本語教師」を務める日本人が必要になり、「では連れて来よう」となったろうと推定できる。拉致事件が頻発した70年代末期には、まだ金大中事件、文世光事件で切れた情報協力が再構築されていなかったと言われる。こう見ると、文世光事件が拉致事件のきっかけになったと考えていいのではないか。

 このように、1974年の文世光事件は単なるテロ事件と見るわけにはいかない。歴史的に様々な影響を与え続けた事件だ。もう一つ、当時は北朝鮮ではまだ金日成の後継は決まっていなかった。まさか金正日金正恩と一族で「革命の血」を受け継いでいくとは、「社会主義」を掲げる国で起こるはずがないと大方が思っていた。そんな「北朝鮮」でなぜ金正日が権力を握ることができたのか。金正日にとってもこの事件は非常に大きな意味を持っていたのではないか。
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