「世界初のコスプレ小説ー「ドン・キホーテ」を読む①」を2月12日に書いた。その後も「ドン・キホーテ後編」を読み続けていて、先頃ようやく読み終わった。何しろ長いのである。文庫とは言え、2冊合わせると千頁を越える。北京五輪のカーリングの試合があると夜でも見ていたんだけど、要するに読み飽きてしまって進まないのだ。数日前、ブログを休んで思い切って頑張って残りを読み終えた。「ドン・キホーテ」前後編を全部読んだ人は少ないと思うが、忍耐力という意味では自慢になるかもしれないが、文学的な意味で全部を読む意味は今では少なくなっているかもしれない。
訳者の会田由氏は後編こそが近代文学史上に大きな意味があるのだという。前編は1605年に出て大評判になったが、後編が出たのは1613年である。待ち望まれた続編がなかなか出ないので、1614年にアベジャネーダという人による続編が先に出てしまった。これは「贋作ドン・キホーテ」としてちくま文庫に入っていた(品切れ)。それに怒ったセルバンテスの筆も進んで、翌年に本当の後編が刊行された。その続編では何と前編を皆が読んでいて、出会う人出会う人「あの有名なドン・キホーテ様ですか」と反応する。贋作の方を読んだ人も出てきて、そんな本は全くの偽物じゃとドン・キホーテご本人が保証する。このような「小説の中に小説的世界が出現する」という「メタ小説」は確かに新しい感じである。
(「ドン・キホーテ」後編Ⅰ)
大昔の小説の大部分は「説話集」みたいなものである。物語とは立場や性格が異なる人物同士の葛藤だというのは、近代になって「個人」というものが確立する中で作られた考えである。シェークスピアの劇には「個性を持った登場人物」の萌芽があるが、ベースは「運命を生きる人々」である。「ドン・キホーテ」前編はドン・キホーテというトンデモ主人公を創造したが、その狂気の行動だけでは持たなくなってくる。だから前編の後ろ半分は道中で出会った人々の不思議な運命のもつれ合いを語っている。三遊亭圓朝の怪談を読むと、語り口調は言文一致で新しいが、内容は奇縁で絡まり合った因果の物語である。ドン・キホーテ前編の終わり頃も、そういう感じだ。内容は怪談ではなく、ラブ・ストーリーだけど。
(「ドン・キホーテ」後編Ⅱ)
それに対しては批判も多かったようで、セルバンテスも後編を書くときには考えたようだ。だから、最後までドン・キホーテが中心になる物語になっている。しかし、ドン・キホーテの「冒険」(実は傍迷惑な思い違い)をそう何度も繰り返しても読者も飽きてくる。前編最後で故郷に連れ戻されたドン・キホーテだが、周囲の人々に騎士道小説を焼き払われて、一時は「狂気」が癒えたかと思われた。しかし、それでは続編にならない。今度は「得業士」サンソン・カラスコという村出身の人物が現れる。得業士が判らなかったが、要するに「学士」など大学で得た資格を持つ人のことだという。やはり騎士であると思い込んでいるドン・キホーテは再び遍歴の旅に出ようとする。それをカラスコが中心になって、今度は許容する。
旅に出て少しすると、「鏡の騎士」が待っていて戦いを挑まれる。これは「ラ・マンチャの男」にも印象的に出て来て、幻想的な戦闘シーンになる。この戦いは鏡の騎士の馬が弱くて、ドン・キホーテが勝ってしまう。敗れた騎士の兜を取ってみれば、それは実はカラスコだった。彼は村の住職らと話し合って、ドン・キホーテの「迷夢」を打ち破るために、同じく「騎士」に扮して戦いに勝つことでドン・キホーテを屈服させるという計略をめぐらしたのだが、無惨に失敗したのである。その後は謎の洞窟に潜り込んだり、ライオンと戦おうとするなど新冒険を繰り広げる。
(ピカソ「ドン・キホーテ」1955年)
さらに後編の相当部分を占めるのは「公爵夫妻」との出会いである。公爵はホンモノの大貴族で大領主である。好奇心も旺盛で、もちろん大ベストセラー「ドン・キホーテ」も読んでいる。その当人と狩場で出会って、大喜びでホンモノのお城に連れてくる。そして臣下に言い含めて、みんなドン・キホーテが偉大な騎士であると信じている振りをさせるのである。小説の中で自己パロディを繰り広げるのである。お城の人々は皆ドン・キホーテとサンチョ・パンサを偉大な人物として遇する。遠国からの救いを求める使者までやって来るが、もちろん大公の従者が演じているのである。そして巨大木馬に乗って彼方まで遠征する(と信じ込ませる)。
(ドレの挿絵)
さらに凄いのは、今までサンチョ・パンサに「島の太守にする」とドン・キホーテが約束していたのを知っていた公爵は、自分の領地を「島」と偽ってサンチョ・パンサを太守に任命してしまったことである。冗談もここまで来れば立派というしかない。そしてサンチョはエラい目にあいながらも、案外名判決を連発して笑わせる。この辺は「大岡政談」みたいだが、名君(迷君)がワケあり事件の関係者を前にズバッと解決策を言い渡すという物語は全世界にあるんだろう。それにしても、ことわざを連発しながら案外真実を突く名言を吐くのがただの農民なんだから、当時の人々は大いに笑ったことだろう。
サンチョ・パンサは「ラ・マンチャの男」では「主君」が大好きで、いつも付いてくる好ましい人物という感じで出て来る。しかし、前編においては、「島の太守にしてやる」というドン・キホーテの口約束を信じ込んで、報奨目当てに付いてくる人間として描かれている。思えば大航海時代には、スペインでは大した家柄ではなかったピサロやコルテスが新大陸に行って征服者になることが出来た。多くのスペイン人が新大陸でぼろ儲けした時代も終わりつつあっただろうが、そのような社会では底辺でも欲深な民衆がたくさんいたに違いない。サンチョはそういう欲深な民衆をからかうためのキャラだったと思うが、人気が出て後編ではことわざ連発を得意技にして大活躍する。ドン・キホーテも「わが友サンチョ」などと呼んで、道中は「弥次喜多」化していく。
(ドレの挿絵)
ということで、後編は自分たちが大人気だと言うことを知っている二人組の珍道中だが、周りは一貫してドン・キホーテを「狂人」として遇している。自分を有名な騎士と思い込む「妄想」だが、本人は別に困っていない。セルバンテスは精神医学に基づいて書いているわけじゃなく、頭の中で作り上げた架空の存在である。だから、あまり考えても仕方ないのだが、今も「自分は宇宙人だ」とか思い込んでいる人は一定数いるだろう。普段は一般人だけど、いざとなったら街を救うヒーローに変身するんだという設定は映画や漫画の常道である。ドン・キホーテを病気ととらえれば「統合失調症」に近いかなと思うが、それよりも「変身型コスプレヒーロー」の走りと見るのが相応しいかなと思う。
訳者の会田由氏は後編こそが近代文学史上に大きな意味があるのだという。前編は1605年に出て大評判になったが、後編が出たのは1613年である。待ち望まれた続編がなかなか出ないので、1614年にアベジャネーダという人による続編が先に出てしまった。これは「贋作ドン・キホーテ」としてちくま文庫に入っていた(品切れ)。それに怒ったセルバンテスの筆も進んで、翌年に本当の後編が刊行された。その続編では何と前編を皆が読んでいて、出会う人出会う人「あの有名なドン・キホーテ様ですか」と反応する。贋作の方を読んだ人も出てきて、そんな本は全くの偽物じゃとドン・キホーテご本人が保証する。このような「小説の中に小説的世界が出現する」という「メタ小説」は確かに新しい感じである。

大昔の小説の大部分は「説話集」みたいなものである。物語とは立場や性格が異なる人物同士の葛藤だというのは、近代になって「個人」というものが確立する中で作られた考えである。シェークスピアの劇には「個性を持った登場人物」の萌芽があるが、ベースは「運命を生きる人々」である。「ドン・キホーテ」前編はドン・キホーテというトンデモ主人公を創造したが、その狂気の行動だけでは持たなくなってくる。だから前編の後ろ半分は道中で出会った人々の不思議な運命のもつれ合いを語っている。三遊亭圓朝の怪談を読むと、語り口調は言文一致で新しいが、内容は奇縁で絡まり合った因果の物語である。ドン・キホーテ前編の終わり頃も、そういう感じだ。内容は怪談ではなく、ラブ・ストーリーだけど。

それに対しては批判も多かったようで、セルバンテスも後編を書くときには考えたようだ。だから、最後までドン・キホーテが中心になる物語になっている。しかし、ドン・キホーテの「冒険」(実は傍迷惑な思い違い)をそう何度も繰り返しても読者も飽きてくる。前編最後で故郷に連れ戻されたドン・キホーテだが、周囲の人々に騎士道小説を焼き払われて、一時は「狂気」が癒えたかと思われた。しかし、それでは続編にならない。今度は「得業士」サンソン・カラスコという村出身の人物が現れる。得業士が判らなかったが、要するに「学士」など大学で得た資格を持つ人のことだという。やはり騎士であると思い込んでいるドン・キホーテは再び遍歴の旅に出ようとする。それをカラスコが中心になって、今度は許容する。
旅に出て少しすると、「鏡の騎士」が待っていて戦いを挑まれる。これは「ラ・マンチャの男」にも印象的に出て来て、幻想的な戦闘シーンになる。この戦いは鏡の騎士の馬が弱くて、ドン・キホーテが勝ってしまう。敗れた騎士の兜を取ってみれば、それは実はカラスコだった。彼は村の住職らと話し合って、ドン・キホーテの「迷夢」を打ち破るために、同じく「騎士」に扮して戦いに勝つことでドン・キホーテを屈服させるという計略をめぐらしたのだが、無惨に失敗したのである。その後は謎の洞窟に潜り込んだり、ライオンと戦おうとするなど新冒険を繰り広げる。

さらに後編の相当部分を占めるのは「公爵夫妻」との出会いである。公爵はホンモノの大貴族で大領主である。好奇心も旺盛で、もちろん大ベストセラー「ドン・キホーテ」も読んでいる。その当人と狩場で出会って、大喜びでホンモノのお城に連れてくる。そして臣下に言い含めて、みんなドン・キホーテが偉大な騎士であると信じている振りをさせるのである。小説の中で自己パロディを繰り広げるのである。お城の人々は皆ドン・キホーテとサンチョ・パンサを偉大な人物として遇する。遠国からの救いを求める使者までやって来るが、もちろん大公の従者が演じているのである。そして巨大木馬に乗って彼方まで遠征する(と信じ込ませる)。

さらに凄いのは、今までサンチョ・パンサに「島の太守にする」とドン・キホーテが約束していたのを知っていた公爵は、自分の領地を「島」と偽ってサンチョ・パンサを太守に任命してしまったことである。冗談もここまで来れば立派というしかない。そしてサンチョはエラい目にあいながらも、案外名判決を連発して笑わせる。この辺は「大岡政談」みたいだが、名君(迷君)がワケあり事件の関係者を前にズバッと解決策を言い渡すという物語は全世界にあるんだろう。それにしても、ことわざを連発しながら案外真実を突く名言を吐くのがただの農民なんだから、当時の人々は大いに笑ったことだろう。
サンチョ・パンサは「ラ・マンチャの男」では「主君」が大好きで、いつも付いてくる好ましい人物という感じで出て来る。しかし、前編においては、「島の太守にしてやる」というドン・キホーテの口約束を信じ込んで、報奨目当てに付いてくる人間として描かれている。思えば大航海時代には、スペインでは大した家柄ではなかったピサロやコルテスが新大陸に行って征服者になることが出来た。多くのスペイン人が新大陸でぼろ儲けした時代も終わりつつあっただろうが、そのような社会では底辺でも欲深な民衆がたくさんいたに違いない。サンチョはそういう欲深な民衆をからかうためのキャラだったと思うが、人気が出て後編ではことわざ連発を得意技にして大活躍する。ドン・キホーテも「わが友サンチョ」などと呼んで、道中は「弥次喜多」化していく。

ということで、後編は自分たちが大人気だと言うことを知っている二人組の珍道中だが、周りは一貫してドン・キホーテを「狂人」として遇している。自分を有名な騎士と思い込む「妄想」だが、本人は別に困っていない。セルバンテスは精神医学に基づいて書いているわけじゃなく、頭の中で作り上げた架空の存在である。だから、あまり考えても仕方ないのだが、今も「自分は宇宙人だ」とか思い込んでいる人は一定数いるだろう。普段は一般人だけど、いざとなったら街を救うヒーローに変身するんだという設定は映画や漫画の常道である。ドン・キホーテを病気ととらえれば「統合失調症」に近いかなと思うが、それよりも「変身型コスプレヒーロー」の走りと見るのが相応しいかなと思う。