生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。
学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。
そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。
教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。
世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。
今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。
若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。
そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。
教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。
世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。
今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。
若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。