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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

スーパーティーチャー志向を排すー私の教師論②

2015年05月31日 22時48分03秒 |  〃 (教師論)
 生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。

 学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。

 そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。

 教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。

 世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。

 今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。

 若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
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「生徒と言う異文化」を前に-私の教師論①

2015年05月31日 00時12分02秒 |  〃 (教師論)
 「安保法制」について、あるいは「選挙制度改革」についてなど書きたいテーマは多いんだけど、それを始めると長くなるに決まってる。自分としては、6月は「教育」に関して書いてしまいたいと思う。それもまた、「教員免許」「アクティブ・ラーニング」「小学校の英語教育」(これは去年からの書き残し)など、いろいろ書きたいテーマは多い。都教委のさまざまの問題もあるし、そのうちまとめて書きたいと思う「中学の社会科教科書問題」もある。だけど、前から予告している「教師論」、特に自分の経験からくる「教師という存在」についての話を先に書いておきたい。そうしないと、書くときがないまま時間が経って、自分でも忘れてしまいそうだ。(なお、ここで言う「教師」とは、ほぼ地方公務員として小中高等に勤務する教員を指して言っている。)

 「教師論」というか、「教師のあり方」、それを大上段から論じる本や新人教員向けのマニュアル的な本はかなり存在する。でも、僕はそういう本を(ある程度は役立つ時もあるとは思うけど)、あんまり納得できたことがないし、役に立たないと思ってる。また、もちろん教育行政が繰り返し行う「初任者研修」など、ほとんど役に立たない。当たり前だろう。「目の前の生徒」は一人ひとり違い、学校ごと、学年ごと、クラスごとに課題は違う。それらの違いを理解して、少しづつ「自分なり」のやり方を見つけるには、自分で考えて、自分で工夫して、自分で「失敗」することを繰り返すしかない。だけど、「自分では考えない」教員作りを行政は進めるし、「失敗」こそ「成功の母」だからと言って、目の前にいる生徒を教えるのは「一回きり」なんだから、失敗しては申し訳ない。苦情も来るかもしれない。そう考えると、「うまく失敗する」ことができない。これが若い時の非常に大きい苦労だと僕は思う。

 教師といっても、もちろん「ベースとしてはただの人」である。だけど、世の中全体からすると、けっこう「不思議な集団」である。例えば、教師は全員大学卒である。だから、学校というところは、多少の例外はあるにせよ、ほぼ大卒者が占めている。これは当たり前だが、世の中にあまりない職場だと思う。では、職員室には「知的ムード」があふれているかというと、普通そういう学校はまずないだろう。忙し過ぎて、ニュースについて語り合う時間もない。大学を出てるからと言って「研究者」じゃないんだし、「ただの人」なんだから。でも、はっきりしているのは、ほとんどすべての教師は「勉強のできる生徒」だっただろうということである。もちろん「ものすごく勉強ができる生徒」だったら、医者や弁護士や中央官僚になっているのかもしれない。あるいは、母校に残って大学の教員になるとか。だけども、勉強が好きでないなら、基本的に毎日授業すると判ってる職業に就くわけがない。採用試験に受かるわけもない。

 何が言いたいかというと、教師は「勉強ができない生徒」が判らないということである。頑張れとか、自分で考えろとか、やればできるとか、教師はよく言う。言われると言われた方も何となくそんな気になってしまう。でも、ホントにできなくて苦労している生徒の事が理解できているんだろうか。目標が持てなくて頑張れないのか、学習障害などが潜んでいるのか、家庭環境が大変なのか。もちろんそういうことはある程度判ってくるもんだけど、最後の最後のところでよく判らない部分が残る。少なくとも僕にはそういうことが多かったと思う。もちろん、教師が生徒一人ひとりの事を完全に理解できるなんて思っているわけではない。「ただの人」がやってる「ただの仕事」であるわけで、教師は「千手観音」ではない。全ての生徒を自分が救えるなどと思うのは「思い上がり」である。でも、ここで言いたいのはそういうことではなく、自分が担当する「生徒という異文化」に立ちすくむ時があるということである。

 家庭環境も違うし、文化的背景も違う。生徒と教師は初めから、かなり大きな違いがある場合が多い。年齢も違うわけだが、これはどんどん違っていく。最初は親や管理職より、生徒との年齢差の方が近い。それだけで、生徒から評価される時期がある。だんだん親の年齢の方が近くなり、やがて何十年もすれば親の年齢も追い越してしまう。そういう「生徒」をどう理解するか、できるか。それが教師のベースだと僕は思う。そして、「要するに人間どうし」であって、「問題生徒」であれ「外国人生徒」(日本語で意思疎通ができにくい「ニューカマー」の事を指している)であれ、通じるものは通じる。卒業して何年、何十年と連絡がある生徒も出来てくる。そういう生徒だけピックアップすれば、「素晴らしい教師人生」のように語れることも多いだろう。でも、僕にとっては、最後までよく判らない部分が残って卒業させた(あるいは高校では中途退学していった)何人もの生徒像こそ、僕にとって「教師という仕事」を語る時に最初に思い浮かべるものなのである。
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勝小吉の「夢酔独言」という本

2015年05月27日 23時17分00秒 | 〃 (さまざまな本)
 「海舟散歩」の中で書き切れなかったので、勝小吉「夢酔独言」(むすいどくげん)という不思議な本のことを書いておきたい。この本は昔読んだことがある。角川文庫に入っていたような気がするが、平凡社の東洋文庫版で読んだのかもしれない。日本人が書いた「自伝」というジャンルの中でも、破格に面白く、不可思議極まる本だと思う。今回、中公クラシックスというシリーズに、実子の勝海舟「氷川清話」と一緒に入っているのを知って、改めて読み直してみた。

 再読してみると、面白いには面白い、抜群に面白い本ではあるが、どうもここまではた迷惑でいいのかという気がしてしまった。「自伝」には違いないが、普通思っている「自伝」は「自我の発達史」だけど、この本はそうではない。「自我」にとらわれない前近代人の「すごさ」を思い知らされる「小吉バカ一代」であり、落語や歌舞伎の登場人物の前近代人ぶりを理解できる気がした。

 そもそも勝小吉の実家は、代々続いた武士ではない。祖父の代は、越後の盲人だった。盲人に許された高利貸しを江戸で始めて巨利を得て、その金で朝廷から盲人の最高権威である「検校」(けんぎょう)の位を買い「米山検校」と名乗ったのである。そして、その金で旗本、男谷(おだに)家の株を買って、長男の忠之丞を武士にした。男谷家は検校の三男、男谷平蔵忠恕がつぎ、その三男亀松が旗本の勝家に養子に行ったのが、勝小吉ということになる。勝家の方は微禄ながら譜代の家臣らしいが、勝小吉、そして子の海舟は実家の男谷家と関係を持ち続けた。男谷家は剣道がすぐれ、剣術家として有名になっていた。二人が武士っぽくなくて、町人とも平気で付き合い、前例にとらわれない生き方ができたのも、こういう背景があったのである。江戸時代の身分制度は、ガチガチの窮屈なものだと思っている人が多いだろうが、実はこのように「身分の上昇」をカネで買える可能性もあったのである。

 ところで、勝海舟は幕末を扱う小説やドラマには必ず出てくるが、一番書いたのは子母澤寛(しもさわ・かん)という人。新撰組を本格的に取り上げた「新撰組始末記」を書いた人だが、海舟も「勝海舟」という大シリーズ他、いくつも書いた。その「勝海舟」全6巻は新潮文庫で生き残っているが、長いからまだ読んでいない。小吉が出てくる「父子鷹」(おやこだか)はもう文庫に入っていない。この小説の映画化「父子鷹」は最近見た。1956年の東映作品。時代劇の名手、松田定次監督。13歳の北大路欣也が麟太郎役で映画デビューし、実父である市川右太衛門と親子共演した作品である。この右太衛門は片岡千恵蔵とともに、「重役俳優」と言われた人で、実際に東映の取締役だった。だからか、勝小吉もちょっと実物より偉そうな気がする。確かに、大いにバカをやってるんだけど、江戸時代の制度に当てはまらない「大人物」で「正義派」だから、浮世の苦労ができないといった感じに描かれている。この映画は結構面白く出来ているが、スターシステムの限界があったということだろう。

 で、「夢酔独言」だが、勝小吉42歳のときの著述で、家督はもう21歳の麟太郎に譲って隠居の身である。「夢酔」は号。「勝海舟の父の自伝」とよく言われるが、1843年に書いた時点では息子がそんなに偉くなるとは判っていない。単に子孫に「オレのようなバカになるな」と書き残した書物で、一種の「ピカレスク・ロマン」(悪漢小説)っぽいが、主人公が最後まで成功しない。世はまだペリー来航以前、天保の改革のさなかであって、ひたすらケンカに明け暮れ「大江戸けんかえれじい」と言いたくなる無茶ぶりである。それもこれも、勝家は基本的に無役で、決まった仕事がない。永遠の「自宅待機」命令が出ているようなもので、それではたまらんと、何とか取り立ててもらおうと上司に日参したり、ワイロを送ったりする輩もいる。それが江戸時代の下級武士の暮らしで、これでは「不良旗本」が出てくるのも道理。時代劇によく出てくる「不良旗本」だが、実在していたわけである。

 「おれほどの馬鹿なものは世の中にもあんまり有るまいとおもう」というのが本文の書きだし。こういう風な文体で、ほぼ「言文一致」で、そういう意味でも興味深い。最後の「生涯をかえりみて」から。
「其の外にも、いろいろさまざまの事があったが、久しくなるから思い出されぬ。
 おれは、一生の内に、無法の馬鹿なことをして年月をおくったけれども、いまだ天道の罪もあたらぬと見えて、何事もなく四十二年こうしているが、身内にきず壱ツも受けたことがない。
 其の外の者は、或はぶちころされ、又は行衛がしれず、いろいろの身になった物が数しれぬが、おれは高(幸)運だと見えて、我儘のしたいほどして、小高の者は、おれのように金を遣ったものもなし、いつもりきんで配下を多くつかった。
 衣類は、大がいの人のきぬ唐物(舶来品)其の外の結構の物を来て、甘(うま)いものは食い次第にして、一生、女郎は好きに買って、十分のことをしてきたが、この頃になって、漸々人間らしくなって、昔の事をおもうと身の毛が立つようだ。
 男たるものは、決而(けっして)おれが真似をばしないほうがいい。」 

 まだ半分くらいだが、もういいだろう。ずっとこの調子で、反省しているようだが、それは形の上のことで、実際は「バカ自慢」である。何と言っても凄いのは、13歳の時の江戸出奔。特に理由もなく、上方を目指すと家出するのである。泥棒にカネと着物を盗まれ、乞食をしながらまず伊勢参り。野宿していて崖から落ちて、睾丸を打ちつけてつぶれてしまい寝込んでしまう。これが今の中学生のすることなんだから、驚きである。こういう放浪癖が身についているらしく、勝家を継いで世帯を持ってからも、また出奔している。余りの事に、親は帰った小吉を座敷牢に閉じ込めた。ケンカは幼少時より「しまくり」で、今の墨田区あたりで知らぬ者のない番長という感じ。武士も町人、職人、ヤクザもなく、みなやっつけて子分にしてしまう。不行跡の連続の人生である。

 無役だが、剣の目利きで稼ぎ、また借金等の取り立て、つまりヤクザのような「交渉人」をしている。大ボスなのである。だから小吉が中心になって、「無尽」を組織したりしてカネが集まる。だけど、ほとんど吉原などで使い果たしてしまう。そういう人だから、いったん病気などでおとなしくなると、人が去っていく。大阪の領地にカネを取りに行くときの領民とのかけひきなどは実に面白い。日本社会の実像を見る思いがする。法的支配が成り立ってない社会では、暴力をベースにしながら、「顔」と「かけひき」によって、「強いもの」が我を押し通していくのである。そういう点は、現代世界を見る時の役にも立つ。今もそういう社会は多いのだから。現代語訳をしなくても、スラスラ読めるけど、現代人には理解できないシチュエーションも多い。そんな本で、やはり「奇書」というべきだろう。世の全員が読むべき本でもなく、福澤諭吉「福翁自伝」などをまず読むべきだと思うけど、こんな「トンデモ本」を書いたヤツもいたということである。
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洗足池と勝海舟の墓所-海舟散歩③

2015年05月26日 23時37分12秒 | 東京関東散歩
 勝海舟の墓所は、大田区の洗足池(せんぞくいけ)というところにある。この付近に大田区が勝海舟の記念館を作るという計画があるらしく、最近の新聞でこの池のことを知った。その時まで全く知らなかったのである。僕の周辺で聞いてみても、東京の北や東の方に住んでいる人は、ほとんど聞いたことがないようだ。存在そのものを知らないのである。東京人は他区の事情にうとい。自分の住まいから、山手線を超えて反対側の方へ行くことは、普通は全くないのである。特に東急電鉄の路線は複雑で、地元以外では判らないだろう。山手線の五反田駅から、東急池上線で6つ目に洗足池という駅がある。乗り換えすればいろいろ行き方があるが、これが一番簡単だろう。駅の出口は一つしかなくて、改札を出て歩道橋に上ると、もう向こう側に池とボート乗り場が見えてくるではないか。
  
 あまり素晴らしいので、ビックリした。こんないいところがあったのか。池では多くの人がボートに興じ、池の周りの公園では子どもたちが遊びまわっている。海舟の墓を載せる前に、洗足池そのものの写真を載せておきたい。ぐるっと周回できて、海舟の墓所を見ながら歩いて回って1時間強。真夏は暑いだろうが、春秋には東京有数の散歩コースではないか。もっと知られていい場所。洗足池そのものは、湧水池で今も水量豊富である。大田区の自然公園になっていて、桜の名所でもあるという。
   
 写真をクリックして大きくして見てくれると、素晴らしさが判るかと思う。最初の3枚は池の西側で、後の写真は東側、海舟の墓の近くである。さて、勝海舟の墓だが、まず駅を出て歩道橋を渡ってボート乗り場を見て中原街道を右の方に行く。洗足池図書館の方に左折し、少し行くと左に御松庵妙福寺というお寺がある。ここは日蓮上人が身延山から常陸に赴くときに袈裟をかけたという「袈裟掛けの松」がある。この地域は「千束」(せんぞく)という地名だが、日蓮が足を洗ったという伝説で「洗足池」と言うという説もあるらしい。日蓮像もある。では、そのお寺にちょっと寄り道。
    
 そのまま道を進むと、大森六中になっているが、そこが海舟の別邸「洗足軒」の跡地であると示す案内板がある。戊申戦争当時、西郷は近くの池上本門寺にまで来て、談判する途中で洗足池に立ち寄り気に入った。明治になって、津田仙(農学者、キリスト者として著名、津田梅子の父)の紹介で、池の周りの土地を買って別邸にしたという。当時としては、郊外の別天地である。中学の敷地を見ると、木々に覆われた起伏のある土地になっていて、うらやましいような環境である。(下の写真3枚目)
  
 そこを過ぎて少し行くと、右に行く道があり、今は使われていない建物が残っている。「鳳凰閣」という建物で、国登録有形文化財。1933年に作られた「清明文庫」があったところで、海舟の精神を生かして人材育成を行う「清明会」のあった場所。裏まで見にいくと面白い。整備される日が待ち遠しい。
   
 ようやく池の近くに戻ると、もう勝海舟の墓という案内が出てくる。非常によく整備された墓所で、後に妻も合葬されて一緒に葬られている。場所も風情もなかなかいい墓。
    
 墓に隣り合って、いくつかの碑が並んでいる。入口は別に作られているが、墓所からも行ける。そこが「西郷隆盛留魂祀」である。西南戦争後、勝が自費で立て南葛飾郡の薬妙寺にあったが、荒川放水路の掘削に伴い1913年に移転されたという。とにかく、勝海舟が賊軍であった時も西郷を顕彰して活動していたという証明である。
    
 碑がいっぱいあって何が何だか判らないが、隣に西郷の留魂詩碑というのもある。(下1枚目)また徳富蘇峰が西郷、勝の会談をたたえた詩の碑もある。(下2枚目)何だか判らないが、もう一つ字の読めない碑もあった。これで海舟散歩はオシマイ。ここまでで池の3分の1ぐらい。
  
 そこから戻ってもいいが、一周しようと思うと、弁天島を見て、墓の対岸あたりには洗足八幡神社がある。頼朝軍がこの地で野生馬をとらえ、それが宇治川先陣争いを演じた「池月」という名馬だということで、碑が作られている。行った当日は、その場でどこかのスポーツ少年団がバーベキューをやってて、うまく写真が撮れなかった。ぐるっと回ってボート乗り場に戻り、歩道橋を渡ると駅。「海舟散歩」は、下町から山の手、そして風光の地となかなか味があった。最後に写真の拾遺集。
    
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西郷・勝の会談場所は…海舟散歩②

2015年05月26日 00時30分45秒 | 東京関東散歩
 「海舟散歩」第1回は、スカイツリー直下の「下町」散歩だったけど、2回目は「都心」というか、「山の手」の方になる。勝海舟は江戸の人だが、案外海舟の史跡が少ない。海舟が一番活躍した幕末は、事実上、京・大坂が日本の首都であって、海舟も上方へ行っている時期が多い。咸臨丸でアメリカに向かったのは、浦賀(神奈川県)からだし。それに江戸で活躍しても、震災、空襲、五輪、バブルでほとんど昔のものは今の東京にない。だから、碑があるだけ。それがつまらなかったんだけど、逆に考えれば、碑で構わないなら東京には山ほどあると思うようになった。そこで碑めぐり。

 勝海舟の人生のハイライトは、西郷隆盛との会談ということになるだろう。薩長新政府軍の江戸総攻撃を前に、勝と西郷が腹蔵なく会談し、江戸城の無血開城が実現した。その結果、100万都市とも言われる江戸でぼう大な犠牲者が出ることを免れた。という一種の「神話化」がなされている。西郷はやはり大人物、海舟もよく西郷の懐に飛び込み、江戸市民と江戸の町と徳川家を救った…というわけである。そう言われているというより、勝海舟自身が盛んに自己神話化を推進していった。その談話集「氷川清話」にはそういう話がいっぱい載っている。でも西郷との友情はホンモノだろう。それ以前の第一次「長州征伐」時から付き合いがあり、西郷の死後も顕彰活動を続けた。次回に載せるが、海舟の墓のそばに西郷追悼の「留魂祀」があるぐらいである。さて、ではその会談はどこで行われたか。それは田町の薩摩藩江戸藩邸で行われたのである。
   
 その碑は山手線田町駅、というか都営地下鉄三田駅(浅草線、三田線)を出てすぐのところにある。第一田町ビルという大きなビルの真ん前にあって、地下から地上に出るとすぐのところにある。第一京浜国道に面していて、今は東京の繁華街。ここは慶應義塾大学の最寄駅で、海舟とはさまざまの因縁のあった福澤諭吉にゆかりの地として覚えている人の方が多いだろう。ここにこの会談の碑があるのも知らない人が多いのではないか。ところで、海舟は東京に都が移ったのも西郷のおかげと語っている。西郷・勝会談で、江戸が救われただけでなく、首都東京も生まれたのだと。これは過大評価というか、むしろ駄法螺に近いだろう。そもそも無血開城自体も、イギリスを初め列強の働きかけもあった。薩長政府側の「冷徹な政治判断」があってこその無血開城、首都移転(「東京奠都」=てんと)であるのはもちろんだ。彰義隊や函館戦争まで抵抗する勢力もいたけれど、まあ、江戸っ子も何となく新政府に取り込まれ、「帝都」の民として生きていった。会津やアメリカの南部では、今だに「恨み」が残り続けている。江戸を焼き払っていたなら、京・大坂の新政権が版籍奉還・廃藩置県など実現できただろうか。

 さて、明治になって勝海舟は東京・赤坂氷川町に住んだ。この「氷川町」は今はない地名で、赤坂6丁目になっている。晩年に海舟を訪ねて談話をまとめた本が「氷川清話」と題されたのは、そのためである。この本は読んだことがないので、今回読んでみた。やはり非常に面白い本だったけど、中味は結構いい加減である。まあ、自信満々のインタビューは大体そうだけど。でも初めて知ったことも多い。久能山東照宮に、家康だけでなく、信長、秀吉も祀ってあるなんてホントかという感じだが、調べたら本当なのである。それと、いくら機会があっても、外国からの援助を受けて幕府支配を続けることを考えなかったのは、やはりエライ。講談社学術文庫に入っている。また、中公クラシックスという新書大の名著集成シリーズが出ていて、それに父親の勝小吉「夢酔独言」と一緒に入っている。この「夢酔独言」について書くヒマが無くなったから、別に書くことにしたい。

 赤坂の屋敷跡地は、地下鉄千代田線赤坂駅の5aまたは5b出口を出て、真っ直ぐ。氷川公園を横に見て、ずっと坂を登ったところにある。屋敷の跡地は氷川小学校となり、廃校後は特養と中高生プラザになっている。その南東角に碑が作られている。施設内で屋敷からの出土品を展示しているが、まあ大したものはなかった。近くに「勝海舟邸跡地」という小さな別の碑(下の三番目の写真、真ん中に見える)があるが、場所を説明するのは難しいので、関心がある人は検索して探してください。
   
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勝海舟の生誕地-海舟散歩①

2015年05月24日 23時05分48秒 | 東京関東散歩
 勝海舟(かつ・かいしゅう 1823~1899)という人への関心が深くなってきた。海舟は「肩書き」なんていらない有名人だろうが、書くとしたらどうなるだろう。「幕末・明治の政治家」というべきか。「江戸の町を救った人」、「日本海軍の創始者」とも言われ、咸臨丸で太平洋を渡り、幕末の政局にも幕臣として活躍した。明治新政府でも参議、海軍卿などを歴任した人物である。幼名・通称は麟太郎(りんたろう)、諱は義邦(よしくに)、後に安芳(やすよし)と改名した。幕臣時代の官位は安房守(あわのかみ)、号が海舟で、佐久間象山の書から取ったという。昔の人だから、呼び方はいくつもある。

 海舟の銅像で有名なのが、墨田区役所の前にあるもの。墨田区は海舟の生地である。「勝海舟の銅像を建てる会」が全国から寄付を募って区役所前の広場に2003年に建てられた。その経過は「勝海舟を顕彰する会」のホームページにある。若い感じの顔かたちだが、アーネスト・サトウが撮ったという海舟の写真に似ている。その墨田区役所は、浅草から行った方が早い。吾妻橋を渡った川の向こう側のすぐそば。上の最後の写真が橋の上から撮ったもの。よく見ると、向こう側の真ん中に小さく見えている。ほとんど判らないと思うが。(写真を2回クリック。)
    
 ところで、海舟の銅像はもう一つある。墨田区の能勢妙見堂(のせみょうけんどう)で、両国と錦糸町の間の大横川親水公園を北(スカイツリー方面に)に歩いて、紅葉橋のあたりを左に見る。割と小さなお寺が、信号の向こうに見えている。ちょうど両国、錦糸町、スカイツリーの3地点の真ん中、案外行きにくい。能勢妙見堂というのは、大阪北部にある有名な能勢妙見山の東京別院。何でここに海舟の銅像があるかというと、海舟9歳の時に、犬に睾丸を噛まれた。父の勝小吉はここで水をかぶって回復を祈ったという場所である。父の小吉の話は次回に書くが、親子ともに睾丸で寝込んでいる。
    
 海舟が気にかかるようになったのはわりと最近のこと。若い時は「尊王攘夷派」が「革命家集団」に見え、そうなると幕府側は「反革命」として否定的に見ていた。でも、だんだん薩長討幕派のやり方、特に「討幕の密勅」なるニセの文書は合法性がないから問題だと思うようになった。「明治維新」の結果として作られた「大日本帝国」は、果たして人々を幸せにしたのか。特に最近、「長州藩閥政府」を見るたびに、むしろ徳川家が中心になった(徳川慶喜が当初はもくろんでいたような)有力藩の連合政権のようなものができた方が良かったのではないかと思う時もある。「長州藩閥政府」とは、現在の安倍政権のことだが、総裁、副総裁ともに山口県出身で、「集団的自衛権」を合憲とする解釈する強行しようとしている。また薩長討幕派の死者のみ祀る靖国神社を参拝し、長州藩の松下村塾などを「近代化遺産」として世界遺産登録をもくろんでいる。もはや「藩閥政府」ではないかと思うのである。

 さて、勝海舟が生まれたところは、JR(または都営地下鉄大江戸線)両国駅からほど近いところにある。北側に国技館や江戸東京博物館があるが、その反対側へ歩いて京葉道路を渡る。ちょうど近くに「吉良邸跡地」の松坂町公園があり、こっちの方が面白いんだけど、この付近は史蹟の多いところで、また別に歩いてみたい。(というか、ブログ開始前に個人的に行ってた場所が多いので、ここではまだ取り上げていないだけだが。)付近に案内表示が多いので、少し迷っても行く着くだろう。今は「両国公園」となっていて、子どもたちがいっぱい遊んでいた。その隅に海舟生地の碑がある。歴史散歩の名所だから、この付近を回っている人は多い。芥川龍之介の碑もあるし、江戸時代に相撲をやっていた回向院も近い。もとは旗本の男谷(おだに)家の屋敷で、父小吉の実家である。本所亀沢町といったあたりで、この父小吉と男谷家の話は、海舟以上に面白すぎるようなエピソードがいっぱいある。
   
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「ヒューマン・ステイン」と「ダイング・アニマル」-フィリップ・ロスを読む③

2015年05月22日 23時44分48秒 | 〃 (外国文学)
 フィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」(The Human Stain、2000)という小説を読んでる人は少ないんじゃないかと思う。フィリップ・ロスの「父の遺産」「プロット・アゲンスト・アメリカ」を読んで以来、ロスの旧作を読んでいる。デビュー作の有名な「さようならコロンバス」も再読してみた。その話はまた別に書きたいが、日本で21世紀になって翻訳が出た小説は少ない。でも、先の本の解説などを読むと、生涯の代表作は90年代後半に書かれた何冊かの本であるらしい。ということで、近くの図書館に行って、「ヒューマン・ステイン」と「ダイング・アニマル」という2冊を借りてきたのである。そして、その「ヒューマン・ステイン」という小説は、ものすごい傑作だった。
 
 「ダイング・アニマル」の話は最後に書くけど、こっちも読み始めると止められない面白さである。ただし、150頁ほどの中編と言ってもいい小説で、ほぼ「人間と性」(あるいはさらに「老いと病」もあるけれど)の話である。一方、「ヒューマン・ステイン」(上岡伸雄訳、2004年、集英社)の方は450頁を超える大長編で、登場人物もたくさんいる本格的な社会小説である。読み応えたっぷりで、つまりなかなか終わらない。でも、難しいところはどこにもない。「白いカラス」という映画にもなり、日本でも公開された。だから、この小説はもっと知られてもいいはずだし、文庫にも入ってしかるべきなんだけど、日本では受けにくい要素もある。「アメリカ社会」、特に東部の大学社会を舞台にし、「ポリティカル・コレクティネス」(PC)、あの「政治的公正さ」をめぐる問題がテーマなのである。

 それだけならともかく、ここにはロスの多くの小説と同じく、「セックスをめぐる話題」もたっぷりとあって、それも「71歳の元大学教授」(男性)と「34歳の文字の読めない清掃員」(女性)という、どっちもシングルなんだから本人同士がいいんならどうでもいいではないかと思いつつ、公になればスキャンダルっぽい関係である。そして、ヴェトナム戦争のPTSDを抱える元兵士、フランスからやってきた若き美人研究者といった脇役を配し、アメリカ現代史数十年、あるいは建国以来のアメリカ史にまで絡んでくる壮大な物語に仕上げている。そして「人は歴史的な関係の中で生まれてくるが、自分の人生を設計し直すことはできるのだろうか」という非常に重大なテーマが浮かび上がってくる。

 と同時に、一種の「知的世界」の寓話でもあって、そういうところが読者を選ぶ点でもある。例えば、29歳の美人フランス人女性学者は、しかしアメリカで孤独である。ある日、ニューヨークの図書館で原語でジュリア・クリスティヴァを読んでいたら、隣にフランス語でフィリップ・ソレルスを読んでいる男が座る。この二人は夫婦でもあるので、これは運命かと一瞬考えてしまうのだが…という場面が出てくる。僕はこの二人を読んだことがないし、夫婦だというのも初めて知ったけど(日本語のウィキペディアには出ていない)、名前ぐらいは知っている。その程度には有名な作家、学者であるのは間違いないと思うが、全然知らない人にはこの場面が楽しめないだろう。これは知的なサービスだが、アメリカ現代史の話だからアメリカ人でないとよく判らないような場面も多い。だけど、これほど重要な小説も少ないと思う。

 この小説の語り手は、ネイサン・ザッカーマンという高齢の作家で、フィリップ・ロスの分身としてよく小説に使われる人物。主人公と言えるのは、コールマン・シルクという元大学教授で、2年前までマサチューセッツの小さな大学、アシーナ大学で「古典文学」を教えてきた。「古典」とは主にギリシャ古代文学のことで、「イリアス」とかである。単に教えるだけでなく、学部長として大学の改革にまい進してきて学長以上に重要人物とみなされてきた。だけど、2年前に授業に一度も出てこない学生を「幽霊」かなと出席点呼時に語った。その時に使った“spook”(スプーク)という単語は、今検索してみると、「幽霊」以外には、「スパイ」とか「(特に馬が)神経質な」という意味しか出ていないが、この単語にはかつて黒人に対する差別語として使われたという。そこで、学生が差別発言だと申し立てることになるのだが、コールマンとしては一度も出てきていない学生が黒人かどうかさえ判らなかったのである。

 やり手の彼には敵も多く、特に24で採用してから5年、今は学科長にまでなった若きフランス人女性研究者、デルフィーヌ・ルーがその急先鋒となる。ところが闘う気満々の最中に妻が急死し、「理不尽に妻が殺された」と怒りにかられて、大学に辞表をだし、以後はほとんど隠遁生活を送っている。このてん末を本にして欲しいと近所に住むザッカーマンを訪れたのが、両者が知り合ったきっかけである。大学退職後、彼はふとしたことから、大学や郵便局で清掃をしているファーニア・ファーリーという34歳の女性と知り合い、性的関係を結ぶ。ファーニアは14歳の時に継父にいたずらされ家出、以後は教育とは縁遠い底辺生活を送り、文字も読めないらしい。ヴェトナム帰還兵と結婚して、二人の子どもが出来たが、夫の暴力で離婚し、子どもは二人とも火事で焼死してしまった。

 この二人のかかわりを中心に、元ヴェトナム帰還兵の驚くべき世界、執筆当時話題になっていたビル・クリントンのセックス・スキャンダルなどをはさみながら、コールマン・シルクという人物の人生に秘められた驚くべき秘密が語られていく。その秘密は「訳者あとがき」に書かれているが、これは先に読まない方がいい。叙述がけっこう入り組んでいて、最初はあっと驚くけど、それを知った時に判ってくる驚きがもたらすもの、その複雑な感慨を味わってもらうためには。アメリカという社会の実相、そして「差別」をどう考えるかをよく考えてみるためには。そうだったのか、と深く理解できた時に、コールマンとファーニアという二人の関係も新しく見えてくるものがあるはずである。“stain" という単語は、「しみ」「よごれ」「汚点」といった意味らしい。だが、ファーニーがカラスに会いに行く場面、人間に育てられ野生を失ったカラスを見にいく印象的な場面で、「人間の穢れ」と訳されている。物語の展開にはこれ以上触れないことにする。非常に力強く、小説の楽しみを満喫させられるとともに、アメリカという社会の複雑さを痛感させられた。

 なお、この小説でかなり戯画化されているデルフィーヌ・ルーというフランス人学者は、アメリカ人学生を「彼らは黒澤明の映画も観たことがない」と心の中で非難している。(236頁)続いて「彼女が彼らの年頃には、黒澤の映画をすべて観ていたし、タルコフスキーもフェリーニもアントニオーニもファスビンダーもヴェルトミューラーもサタジット・レイもルネ・クレールもヴィム・ヴェンダースもトリュフォーもゴダールもシャブロールもレネもロメールもルノワールもすべて観ていた。それなのにここの若者たちが観ているのは『スター・ウォーズ』だけだ。」と書いている。これはよく判る。「われわれ」が今の日本の若者に言いたいことでもあるが、ここで出てくる人名もある程度は判らないと楽しめないだろう。もっとも「アメリカ人作家が考えた、フランス人女性が選びそうな映画監督リスト」という感じもするけれど。10年以上前の話だが、黒澤より小津でしょう、クリスティヴァを読む若い学者ならと言いたい気もするが、これは黒澤にした理由があると僕は考える。この小説の構成に関する問題である。

 さて、「ダイング・アニマル」だが、これも同じ訳者で2005年に出て、「エレジー」という映画になった作品である。これはロスが主にセックスをテーマにするときに使うデイヴィッド・ケペシュというテレビに出ている文化批評家が主人公である。そして老年を迎えたケペシュがキューバ系の24歳の美女、コンスエラ・カスティリョと秘密の関係を持つ。そのことだけをめぐって、えんえんと語りつくされる。この語りが読みやすくて、実に面白い。なんと不道徳なと怒りだす人には不向きだけど、まあ、源氏だって谷崎だって、同じではないかと思えれば、これほど面白い本もない。特にアメリカの60年代、セックス革命の時代を語り論じているのが、興味深いのである。題名はイエーツの詩から。「死にゆく獣」の物語。

 55頁にジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスを語っている場面がある。「あの時代」の女子学生の「文化的叛乱」ぶりを語るところである。やはりジャニスとジミ・ヘンなのだ。ジャニスは「白い顔をした彼女たちのベッシー・スミス、彼女たちのシャウター、ホンキートンク、ラリったジュディ・ガーランド」である。ジミ・ヘンは「彼女らのギター版チャーリー・パーカー」というのである。いや、よく判る傑作な表現ではないか。
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ペ・ドゥナ主演の「私の少女」

2015年05月20日 20時36分15秒 |  〃  (新作外国映画)
 昨日は新宿武蔵野館で新作映画を3本連続。思ったよりずっと良かったのが、チェチェン戦争を舞台にしたミシェル・アザナヴィシウス監督の「あの日の声を探して」。ロシア軍の残虐行為を正面から描き、「アーティスト」や「ある過去の行方」のベレニス・ベジョがEU人権員会の職員を演じている。思ったよりつまらなかったのが、テリー・ギリアム監督の「ゼロの未来」。こういうSF映画の、お金をかけて判り切った命題を壮大に描くというやり口には飽きてしまった感じがする。

 ここでは1980年生まれの韓国の若き女性監督、チョン・ジュリのデビュー作「私の少女」を書いておきたい。イ・チャンドンがプロデュ―サーを務めた堂々たる社会派映画で、非常に新鮮な感覚で作られた「作家の映画」でもある。でも、とりあえずはペ・ドゥナが主演だから見なくては。ペ・ドゥナが韓国の「普通の映画」、つまりSFなどではない日常のリアリズム映画に出たのは、ずいぶん久しぶりという気がする。いつまでたっても年齢不詳のペ・ドゥナは何歳なんだろうと思うと、1979年10月11日生まれで、もう35歳なのである。何度も日本に来ていることで知られるが、お忍びで新宿武蔵野館に現れ、自身の看板に囲まれた写真を撮っていった由。2枚目はペ・ドゥナの写真。
 
 ペ・ドゥナに女性警官の制服を着せてみる。そんな動機で作ったわけではないだろうけど、これは結構いける。冒頭、女性警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)がソウルから海辺の派出所に左遷されてくる。運転しているときに、14歳のソン・ドヒ(キム・セロン)という少女に水がかかってしまう。このドヒという少女が映画のポイントになってくる。大体、ペ・ドゥナが「所長さん」と呼ばれるのはおかしいのだけど、どうも日本でいうキャリア官僚らしい。しかし、「私生活上の問題」がとがめられ左遷された。その問題を書かないと先に進めないし、映画でも途中で判るから書いておくが、「同性愛者」であることが警察内で問題視されたのである。表立っての規定はないらしいが、やはり差別があるということらしい。
 
 赴任した漁村は、若者が町に出てしまい、老人しかいないような過疎の村。そこでパク・ヨンハという男だけが、外国人労働者を使って養殖などを営んでいる。このパク・ヨンハが先に出会った少女ドヒの継父。実母が逃げてしまった後で、ドヒは継父と継祖母から日常的に虐待を受けている。村人は祖母や父の暴言、暴虐を知っているが、有力者パク・ヨンハをはばかって「見ぬふり」をしている。ヨンナムは警官として見過ごせず、ドヒをかばってヨンハに厳しく警告する。そうして、いつのまにかドヒはヨンナムに懐くようになり、夏休み中はドヒを預かるようにもなる。そして、いつもバイクに乗っている祖母の死、ソウルからの恋人訪問(ヨンハに見られてしまう)、外国人労働者をめぐるトラブルなどが立て続けに起こって、ラスト近くの驚くような展開につながっていく。韓国の農漁村の風景は実に美しく撮られているが、そこはやはり「世界」につながっていたのだ。牧歌的な終結は迎えられない。

 という風に、セクシャル・マイノリティ、児童虐待、外国人労働者と今の世界で重大視されるような問題がズラッと出てくるのだが…。そういう展開を予想していると、だんだんドヒという少女の存在感が大きくなっていき、この少女は一体何なんだろうと思うようになってくる。(それはラスト近くの若い警官の言葉によって、映画内でも表現される。)ドヒをやっているのはキム・セロンで、「冬の小鳥」のあの女の子である。もう中学生で、いじめられ服も乱れた最初の方のシーンでは幼い感じなのだが、ヨンナムが服を買ってやり、美容院で髪も切って見ると、ずいぶん美少女になっている。数年後には大美人女優に大成しているかもしれないと思わせるものを持っている。ラストに至って、この映画はずいぶん多義的な様相を呈してくるのだが、それもこれもキム・セロンの力なのだと思う。

 ペ・ドゥナを初めて知ったのは、ポン・ジュノ監督の「ほえる犬は噛まない」(2000)で、日本公開は2003年。続いて「子猫をお願い」と、犬や猫が出てくるけど役柄は商業高校卒業の町のフツーの女の子だった。パク・チャヌクの「復讐者に憐れみを」まで、映画内でチラシ配りをしている。日本に招かれて韓国からの高校留学生役をやった山下敦弘監督の「リンダ リンダ リンダ」でも、ちゃんとチラシを配らせていたのがおかしい。本当はそういうチラシ配り時代の方が生き生きしていた感じがする。是枝裕和「空気人形」みたいに使ってはいけませんと僕は思う。日本やアメリカの映画にもオファーされるけど、こうして韓国の映画で出ている方がいい。特に、今回は役柄上、運転したり、料理を作ったり、そういうシーンも見られる。だけど、思う。あの、「水」かと思うと、どうやらお酒を飲みすぎで、それがヨンナムの心の闇を表わすんだろうけど、それで車を運転しているのは、どうなのか。まだ韓国では飲酒運転にそれほど厳しくない段階なんだろうか。日本なら、こっちの方で一発で懲戒解雇だけど。
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「独裁者」を退けた住民投票

2015年05月18日 20時52分48秒 | 政治
 いわゆる「大阪都構想」をめぐる大阪市の住民投票が終わった。周知のように、「反対」が705,585票で、「賛成」の694,844票を上回った。わずか、10,741票差である。これほど僅差になるとは思わなかった。もう少し反対が多くなるかと思ったのだが、やはり最後の追い上げがあったのだろう。橋下市長、維新側は最後には、事実上、橋下市長の「信任投票」に持ち込んでいた。例えば、「維新の党」の江田代表は、16日に大阪市内で、「橋下徹を見殺しにしないでください」と演説した。NHKの出口調査では、今でも市長の支持率は不支持を大きく上回っている。そんな「橋下人気」を当て込んで、都構想がよく判らない人も市長人気で賛成票を入れてくれということだろう。

 だけど、僕は最終的には反対が勝つと思っていた。というのも、ちょうど関西に来ていた安倍首相が大阪を素通りしていたからである。前日の土曜日(16日)、午前中は今さらの阪神大震災20年で神戸へ行き(覚えていると思うが、1月17日には、中東を訪問していたのである)、午後は大阪を通り過ぎて高野山を訪れ、白浜温泉に泊った。日曜日には熊野を訪問していた。賛成が勝つと確信していたなら、党内の反対を押し切り大阪に寄り道して、橋下支持を打ち出していたのではないかと思うのである。そういう「ハプニング」がなかったから、少なくとも賛否は拮抗しているんだろうなと思っていた。

 もともと反対が多いという世論調査はあったが、賛成は投票に行くが、反対のためには行かない人もいるだろう。何だかよく判らないという人は棄権に回る場合もあるだろうから、調査結果より僅差になるとは思っていた。数日前のブログでは「結果は予断を許さない」と書いておいた。予想通りではあるが、NHKで開票を見ていたら他のことをできなくなるくらい、緊迫した開票状況だった。「賛成」「反対」だけだから、さすがにどんどん開票が進み、見ているうちに票数が変っていく。それがどの段階でも一万票も差がないのである。どちらかというと、賛成票が多い時間が続いていたら、何分だか覚えていないが、画面では賛成が多いのに「反対が上回ることが確実になりました」と報道した。そして、いつの間にか確定結果が出て、確かに1万票差で反対票が多かった。

 テレビで各区の開票を報じていたのを見て、これは「大阪の南北問題」だったのだなと思った。地区ごとに賛否を色分けした地図が産経新聞に掲載されているが、東北部の旭区というところが反対票が多いが、後は北の方にある区は軒並み「賛成多数」、南の区(あるいは西の区)が軒並み「反対多数」なのである。大阪は余り土地勘がないのだが、都心に当たる地区は賛成が多く、周辺地域が反対が多い。アメリカ大統領選の民主党州と共和党州のように地域がくっきり分かれている。まったく「南北問題」とでもいうしかない状況なのである。

 今思うと、もともとこのテーマは無理筋だったのだと思う。マジメに調べれば、とんでもない発想だと判ってくる。今まで橋下市政は「弱者に厳しく」「強者にやさしく」の行政を進めてきた。だから、「大阪都」を強行しようとする発想の裏に、「福祉切り捨て」を心配する人々がたくさん出てくる。(そして、実際その通りだろうと思う。)財政力が豊かな、東京で言えば千代田区に当たるような区では賛成票も出るが、そういう地帯は人口が少ない。財政力が弱い区では、自分たちが不利になると考えるのは当然である。もともと、「都構想」などは手段であって、それ自体が目的ではないはずである。それなのに、橋下市長は「都構想実現」=「大阪市廃止、特別区設置」で、それだけで「二重行政廃止」で「大阪が発展する」ようなこと、つまり手段と目的を取り違えるような発言を繰り返してきた。そんなテーマだけで数年間を空費して、本来の大阪発展に向けた議論が出来なかった。

 今回、賛否拮抗ながら「反対多数」で本当に良かったと思う。いくつか理由があるが、こういう問題は、賛成が圧倒的に多いというのでなければ結果に正当性がないと思う。一票差で賛成多数でも大阪市廃止だが、やって見てダメでも引き返せない。反対=現状維持だから、とりあえず現行システムを改良するというイメージができる。反対派が仕方ないと納得できる票差が付かなければ、納得感が出てこない。大阪市にとって、考えうる最高の「重要事項」なんだから、本来は投票総数の三分の二の賛成が必要でもおかしくない。そう考えると、そもそもこのテーマが住民投票に不向きだったんだと思う。

 もう一つ、この間、橋下大阪市長(あるいは橋下大阪府知事)は、自ら「独裁が必要」と言い放ち、極めて独断的に市政、府政を行ってきた。そのあまりにも不当な処分、不当労働行為のほとんどは、裁判で敗訴が続いている。その間、「慰安婦問題」の「暴言」など、さまざまなパワー・ハラスメント的な言動を繰り返してきた。そういう人物が推し進める「大阪都構想」が勝利してしまえば、日本の民主主義に禍根を残すところだった。「独裁」を志向する政治家でも、住民が「NO」を突き付けて退場させることができた。ここを間違えてはいけない。「大阪都」の是非、中央政界への影響なども大切だけど、一番大きな意味は、代表的なポピュリズム政治家を、民主的なシステムの中で敗北させたということである。

 さて、橋下氏はどうするんだろうか。本人は「政治家引退」を公言した。一種の「やるだけやった」「やりきった」「燃えつき」感があるのではないかと思う。運動期間中に言ってきた以上、今翻すわけにも行かないだろう。記者会見でも「サバサバ」と評される感じを僕も感じた。だけど、だから今後ずっと弁護士で生きていくだろうと思ってしまうのは早計だろう。「君子は豹変する」のである。そして、そのこと自体は僕はあっていいと思う。「豹変」の理由をきちんと説明できるかどうかだけの問題である。この人は「いくさを仕掛けて」だの「おおいくさ」だの、そういう言葉が大好き。世の中を「争いごと」「勝ち負け」で考える世界観の持ち主である。そういう人は、いずれ敗北への怒りが心中に湧き上がってくるだろうと思う。今のところは「自分の説得力がなかった」と殊勝なことを言ってるけど、やがて「官邸は支持しているのに、市議団が反対した自民党」「自分を裏切って反対に回った公明党」「自民と結託してまで反対に狂奔した共産党」などへの怒りが沸き起こってくるのではないか。

 市長任期の間はおとなしくしているかもしれないが、来年以後は「橋下前市長、大阪都挫折の裏を激白」などという週刊誌広告が出るだろう。それまでに「橋下惜別」、「これほどのエネルギッシュな政治家を失うのは日本の損失」だというムードをあおる人が多数出てくる。後はテーマだけ。僕はそれは「憲法改正」、それも「道州制」を掲げた改憲論ではないかと予想している。大阪都は実現できなかったが、それに続く「道州制」を実現することが大阪を発展させる道。それは改憲しかない。そういう改憲を実現するには自分がやるしかない。と思えば、何でもありになる。例えば、地方政党「大阪維新の会」を解党して、自民党から参議院選挙に出るとか。そのぐらいのことは想定の範囲内だろう。
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伊藤隆「歴史と私」を読む

2015年05月15日 00時30分35秒 |  〃 (歴史・地理)
 伊藤隆東大名誉教授が自身の研究を振り返った回想録、「歴史と私」(中公新書)を非常に面白く読んだ。どうしようかなあと思ったんだけど、一応「面白く読みました」と記録を残しておくことにした。以下に記すように、伊藤氏とは立場が異なるところが多いのだが、「どうしようか」というのはその意味ではない。あまりに細かい人名が多く出てきて、これを面白い、面白いと読み進めるのは少数の人ではないかと思うのである。でも、歴史好き(特に近現代日本政治史)なら、こういう本がスラスラ読める。

 伊藤隆氏は「日本教育再生機構」の理事で、「育鵬社」の歴史教科書の著者代表である。以前は「新しい歴史教科書をつくる会」の理事をしていたが、藤岡信勝氏を批判して、八木秀次氏らと新グループに移った。しかし、扶桑社(産経新聞社の子会社)の子会社である育鵬社も、もちろん右派的な教科書作りを目的としている。自分は都立中高一貫校に扶桑社、育鵬社(および藤岡氏らが継続して作っている自由社)の教科書を採択することに反対する運動を続けてきた。

 だから歴史に対する考え方、立場は全く異なるし、読んでいて「カチンとくるところ」もかなり多い。しかし、左派・マルクス主義だけでなく、様々な人々をあけすけに批判していて、そこが興味深い。伊藤氏が近現代日本史を研究し始めたころは、史料ほとんど整備されていなかった。伊藤氏を中心に、膨大な近現代の政治家等の史料、オーラル・ヒストリーが発掘、整備されてきた。そのことはちょっと真剣に日本の近現代を調べた人なら、大体知っているだろう。政治的立場に関わらず、近現代日本を考えようと思う人は伊藤隆氏に大きな学恩を受けている。

 僕が面白いと思ったのは、多くの「史料の問題」が語られていることだ。「集めた史料をどうするか」ということである。近現代には「紙の史料」、つまり日記や手紙などが残されている。亡くなっても、それなりの政治家の場合など、遺族が箱にまとめたりして残していることが多い。だが、震災と戦災があって消失したものも多いし、遺族の引っ越し、家の改築などをきっかけに無くなっていく。日記には遺族や周辺の人物のプライバシーがいっぱい語られているから、遺族が公開を拒否する場合もある。「史料」の問題に関して網野善彦氏の「古文書返却の旅」(中公新書)と共に必読である。

 伊藤氏の史料探索法は、人事興信録をもとに、本人あるいは遺族の住所を調べて手紙を出すことである。100通出すと20通ぐらい返事が来て、そのうち半数の10通に史料があるという返事が来るという。例えば、若い時(東大社研時代)の小川平吉文書を挙げている。小川平吉は昭和戦前期の政党政治家で、宮沢喜一の祖父にあたる。長男の小川一平氏は終戦時の内閣書記官で、接触当時は後楽園副社長。史料はあると言われたが、長野県の別荘の蔵にある。見たくてたまらず、雪の中を押しかけて開けてもらったら、書簡や日記がたくさん出てきた。でも、読めない。近代文書は個性が強く、変体仮名も多くて読みにくい。昔は日記を書いてた人が多いが、大体はなぐり書きで読みにくいのである。
(小川平吉)
 小泉策太郎(三申)の文書を求めて家族を訪れたら、近くに由緒ありげな家があり「真崎」と出ている。ここが真崎甚三郎の家だったのである。そこから、今はよく使われている「真崎甚三郎日記」が出てきた。あるいは有馬頼寧の史料を求めに、直木賞作家の息子、有馬頼義に依頼する。こうした話が続々出てきて、木戸幸一伊藤博文徳富蘇峰重光葵等の史料が公刊された。もっと現代に近い人では、佐藤栄作日記の公刊がある。朝日から出た時のゴタゴタも興味深い。なお、佐藤日記は岸内閣期が抜けているが、その理由の推測にはビックリさせられる。
(真崎甚三郎)
 その後、著者はオーラル・ヒストリーに傾注する。岸信介中曽根康弘後藤田正晴渡邉恒雄竹下登など。有名な人の名前だけ挙げたが、実に多数の人々のインタビューを行っている。松野頼三海原治氏の話は特に面白かった。ここで挙げた名前で判るが、インタビューの対象はほとんど自民党の有力政治家か中央官僚で、社会運動家や民衆そのものは少ない。首相を務めた政治家の研究や史料発掘が重要なのは間違いないが、社会の底辺を生き抜いた人々のオーラル・ヒストリーはもっと面白いと思う。まあ、そういうものは、違う人がやればいいのだろうが。

 ちょっとビックリしたのが、「昭和天皇独白録」(「独白」ではないから、このネーミングはおかしいというのは同感)の英訳版の評価。「英訳はない」という立場に今も立っているのである。戦前の日本のあり方を「ファシズム」と呼ぶべきかどうかは、1970年代半ばに論争が起きた。そのきっかけが伊藤氏が雑誌「思想」に掲載した一文だった。昭和天皇の死後に、大江志乃夫氏と対談して「責任」をめぐって激論になったという話も出てくる。まあ、伊藤・大江の対談は成立が難しいだろうが、その時に「歴史研究において、責任という視点はありえない」と述べている。僕には全く理解できない。歴史学であれ、社会科学、人文科学、自然科学を問わず「研究には責任という視点が不可欠」と思うからである。

 最後に、60年代後半に中公から出て大ヒットした「日本の歴史」シリーズ(これは鉄道作家として後に著名となる宮脇俊三氏の手になる)の一巻、林茂「太平洋戦争」は本人が一行も書いていないとある。仕方ないから、伊藤隆坂野潤治古屋哲夫氏らで分担して書いたという。僕はこのシリーズを小学生時代に読んだ。もちろん全部は理解できなかったが、井上光貞、直木孝次郎氏と続く古代史に魅せられてしまった。色川大吉氏の明治期なども読んだが、とりわけ古代が面白かったのだ。樺美智子合同慰霊祭を行った話が冒頭に出てくるが、これも貴重な証言だ。
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「自治」を「自治的」に廃止できるかー「大阪都構想」もう一度

2015年05月13日 21時34分46秒 | 政治
 民主主義には「民主主義を民主的に廃止できるか」という難問がある。ナチスだって、過半数ではないにせよ、選挙で国会の第一党になったことによりヒトラー内閣を実現したわけである。さて、「大阪都構想」なるものをもう一回書いておきたいんだけど、今回は「自治を自治的に廃止できるのか」という問題を突き付けている気がする。まあ、都構想で賛成が上回ったとしても、大阪府も、新設される5つの特別区も、民選首長と民選議会を持つのだから、「自治を廃止する」というのは間違いだと言われるかと思う。その通りだけど、「大阪市」という「政令指定都市」は解体されてしまえば、今の法体系の下では二度と復活できない。現行の地方行政で、地方都市が一番大きな権限を持つのは「政令指定都市」だから、それを自分たちで放棄してしまおうというのは、やはり一種の「自治の廃止」に近い。

 僕がこの問題を何回か書くのは、「維新」という特殊な政治勢力の盛衰が日本全体に大きな影響を与えること、また、この間「維新」が進めてきた大阪の「教育破壊政策」に大きな危機感を持ったことなどもある。しかし、最大の理由は、自分が東京の「特別区」制度に問題意識を持ち続けてきたからである。もし、東京で「東京市廃止」の住民投票が行われていたならば、「反対」の票を入れただろう。だけど、戦時中の強権体制下に実施された「都制」=「東京市廃止」は、住民投票もなければ、全市民の議論もろくになかったと思う。自分が生まれた時には、もう動かしがたい制度になっていて、区長も選挙ではなかった。(1975年から区長公選は実施されている。)

 その意味では大阪市民がうらやましい感じもする。賛否の投票を自分でできるのだから。基本的には、大阪市民は都構想を否定するべきだと思うのだが、僕にはどこか「大阪も東京と同じになってみればいい」という考えもある。大阪都構想など単なる思い付きで、住民には何の得もなかったとはっきりすれば…。もう一回「大阪市に戻れる制度」を作れと言う声が上がることだろう。今、200万以上の政令指定都市(周辺地域を含めた人口でも可)は、市を廃止して特別区を置けると言う特例法が出来ている。「維新」の要望で、国会で出来たのである。大阪だけではなんだから、他の都市でも同じことができる制度になっている。だから、その法律の中に、逆に「特別区を廃止して政令指定都市になる」規定を新設すればいい。その場合も、大阪だけではなんだから、もっと一般的な規定になるだろう。それこそ、「東京都を廃止できる絶好期」ではないか。という風に、大阪市民の犠牲のもとに、東京都民にも適用可能な新制度を求めたい気持ちも起きてしまうのである。

 各新聞の世論調査では、各紙とも「反対が上回っている」ようである。実際にどのようになるかは、当日までに実際にどのくらいの人が投票に行くかということにかかっている。実際に行くと答える人の中では、賛否がより拮抗するらしいから、結果は予断を許さない。橋下市長のことだから、自民や公明の支持者に、投票に行かないように働きかけているのではないかと思う。今回の結果に関わらず、将来的に橋下氏が国政、特に衆議院選挙に出馬する可能性は高い。上西小百合の選挙区が空いたとはいえ、まあやはり「維新の候補が今までにいない選挙区」=「公明党が当選している小選挙区」から出るぞという「脅し」、つまり反対なら反対でいいけど、反対投票に行けと言う運動は積極的にするなという「裏取引」をすれば、大分反対票が減るだろう。

 もう一つの「ウルトラC」(これは死語かも知れないが)、安倍首相または菅官房長官が投票直前に「都構想」賛成を打ち出すという可能性もある。明言はしないけど、今後の国会審議で安保法案に「維新」が賛成するというシナリオである。ただし、それにも関わらず反対票が勝利すれば、意味がなくなる。世論調査の結果などを慎重に検討しているのではないかと思うが、反対票が勝つ可能性を高いと見込めば、官邸は結局関わらないことになるだろう。最後に何か仕掛けられる可能性は考えておいたほうがいい。

 橋下氏は「反対」が多ければ、政界引退などと言っている。ただし、大阪市長の人気は全うするようだが。そうすれば「維新」なる勢力は雲散霧消するかもしれない。だけど、僕はそんなことは信用していない。必ず、衆議院選挙に出てくる。衆院選の前に、2016年7月の参院選に出る可能性もあると踏んでいる。本人がどう思おうと、「大阪の同志」は橋下氏の出馬を待ち望むだろう。出てこないわけにはいかなくなる。かつての大阪府知事選の時と同じく、前言を翻して立候補である。そして、「自民と共産が野合して、都構想をつぶされた」「大阪を救うには、中央政治から変えないといけない」「だから、自分は中央政界を大掃除して、大阪を救うんです」などと吹きまくる。そういう事態が起きると予想できるだろう。

 「二重行政」と言い募っているが、松井知事も、橋下市長もそろって、都構想賛成に向けて協力しているではないか。松井知事と橋下市長のコンビでも、必ず二重行政が起きるのだろうか。現に、両者は相協力してやってきたのではないか。今後も、知事と市長が協力してやってけばいいだけのことではないのか。一体、何のための議論なのか、僕には不可思議だが、ともかく大阪はこの問題で数年間振り回されてきた。東京新聞(5月1日付)には、自民党市議団幹事長・柳本顕氏のインタビューが掲載されている。そこでは「共産党などとの共闘が維新側に批判されているが。」と問われて、「共産など他党との協力にはわれわれ自身も違和感があるが、維新、橋下さんという大きな敵がいるから仕方ない。宇宙人が攻めてきたら、地球での戦いを中断して地球防衛軍にならないといけないのと同じだ」と語っている。この、宇宙人が攻めてきたら地球防衛軍を作らねばという言葉に、納得感があるのである。それはよく判ると僕は思う。大阪市の行政をどうするかでは意見が違っても、大阪市そのものをなくすのは反対という点では一致できる人が多いのではないか。そして、今までの維新の議論の進め方が乱暴なのではと思う人も。
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映画「Mommy」byグザヴィエ・ドラン

2015年05月12日 23時34分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 カナダのフランス語映画の俊英、グザヴィエ・ドラン監督の「Mommy(マミー)」を見た。弱冠25歳にして、2014年のカンヌ映画祭審査員特別賞を、ゴダールの「さらば愛の言葉よ」と共に受賞した映画である。138分とけっこう長い。グザヴィエ・ドランについては、昨年公開された「トム・アット・ザ・ファーム」の記事で触れている。セクシャル・マイノリティをテーマにすることが多いゲイの作家だが、今回はセクシャル・マイノリティではないテーマで、子どもだけでなく親の視点も取り入れている。
   
 今4つの画像を載せたが、これはこの映画のチラシ。普通、映画のチラシはなぜかB5の大きさになっていて、演劇やコンサートのチラシがA4なのに比べて、一回り小さい。しかし、今回はそのB5のチラシがなくて、もっと小さな正方形のチラシが何種類も置いてある。一応、4種類集めたが、もっとあるのかもしれない。何でこういうことをするのか疑問だったが、映画を見てすぐ判った。画面の多きさが「正方形」(1:1)なのである。画面サイズはいくつかあるが、どの映画でも多少は横長の画面になっている。目が横に二つ並んでいる以上、その方が世界を豊かに描けると思うのが通常。だけど、この映画は左右両端をカットして、1:1の画面というかつて見たことがない描き方をしている。人物が多かったり、風景描写が重要な場合はそれでは不自由だと思うが、この映画は母と子、それに隣人というおもに3人しか出てこない。人物どうしの関係を凝縮して見せるには、適切だったかもしれない。

 冒頭の字幕でで、2015年のカナダに新政権が出来て、公共医療政策が変えられ、特にS14という「問題を抱える子どもの親が、経済的困窮または身体的、精神的危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し施設に入院させる権利」を保障した法が可決されたとでてくる。そういう設定の映画だと、一種の「近未来SF」あるいは「歴史改編もの」になる場合が多いが、この映画はひたすらある青年とその母の事例に密着する。冒頭で、スティーヴが施設内で放火するなど、手に負えないとして母のダイアンに引き取りが求められる。仕方なく連れ帰るダイアンだが、同時に失業し、とても面倒を見られる感じではない。ちょっとしたことでスティーヴは声を荒げ、暴力も振るって、とても社会に適応できそうもない。そんな時、向かいに住む休職中の教師カイラ(発語に障害が生じて勤められる状態にない)が関わるようになり…。

 物語は全然難しい展開はしないのだが、この映画はよく判らない。一つには、父親がすでに死んでいるらしく、過去の状況が全く出てこないので、この母子を理解するためのカギが隠されているのである。映画では母の言葉で、基本的にはスティーヴはADHD(注意欠陥多動性障害)だと言われ、また「性格傷害」「愛着障害」だとも言われ、いろいろ言われて判らないと母も言っている。スティーヴは才能はないわけではないらしいが、映画で見る限り社会に適応する、例えば学校に通って、クラスで勉強するとかクラスメートと人間関係を作れるという感じがしない。それは今までの「成育歴」を丹念に見ていく以外に判りようがないと思うのだが、映画は現在しか描かない。僕には、ADHDという理解では不十分な感じがしたのだが、精神疾患の判断は非常に難しく、映画で描かれた部分だけで判断することは避けたい。施設を退所させられた「放火事件」のようすが全く出てこないのも、理解を妨げている。

 だけど、多分グザヴィエ・ドランはそういうことに関心がない。この親子を見つめて、鮮烈な映像を重ねて、音楽を流す。その映像体験の創造に一生懸命である。それは素晴らしい成果を挙げたとも言えるが、やはり「若い」という感じもしてしまう。この監督は、まだ25歳でこれほどの作品を作ってしまう。今までの孤独の中で磨かれた才能の大きさを感じるが、どうも表現が若い。カナダのフランス語圏で、ゲイの若者として育つ。そういうことばかり語られてしまうが、基本的には僕と一番違うのは、どうやら年齢ではないかと思う。この映画を若い世代がどう評価するのか、そしてこのさき、グザヴィエ・ドランがどのような変貌を遂げていくのか、興味深い。
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映画「パプーシャの黒い瞳」

2015年05月12日 00時23分05秒 |  〃  (新作外国映画)
 本の話、時事問題、教育に関する記事などを書きたいと思っているのだが、なかなかヒマがない。そこで書きそびれていた新作映画「パプーシャの黒い瞳」を紹介しておくことにする。東京では岩波ホールで公開中。(22日まで。)岩波ホールはちょっと前まで全部見ることにしていたのだが、最近はまあいいかという気持ちになってしまった。今回は予告編が美しく、しかもポーランドの「ジプシー」の「女性詩人」の話だと言うので、前売券を買っておいた。連休中に見たのだが、どこも(映画に限らず)混んでいるのが嫌なのだが、多分岩波ホールはそれほどでもないだろうと踏んで、案の定かなり空いていたのが、納得できるような残念なような。ここは若い観客が非常に少ないのがネック。

 映画は非常に美しいモノクロで、ここまで美しい風景の白黒映画は宮川一夫撮影の溝口健二映画以来かもしれない。陶然となるが、美しすぎかもしれない。「滅び行く」というイメージを喚起するような美しさであることに、違和感を感じないわけではない。で、あるにせよ、ポーランドの自然の美しさ。設定は20世紀前半から半ばにかけての話だが、映画製作は現代なんだから、これほど美しく撮れる自然が残されているのか。そこが見所の一つなのは間違いない。

 映画ではすべて「ジプシー」と自称、他称されている。現在は「ロマ民族」と書くべきなのだろうが、映画に従って書くことにする。これはポーランドで初めて、ジプシー詩人として詩集を出したパプーシャという女性の数奇な人生を描いた映画である。ジプシーは放浪生活を送り、子どもは学校に行かせない。文字も知らず、自分たちの心情を書き残すこともしない。それを伝統としている。それに対し、パプーシャは小さい時から、文字に憧れ、読み方を教えてもらい、自分で詩を書いたりしていたのである。そこにイェジ・フィツォフスキという実在人物が登場する。政府に追われて放浪のジプシー集団に2年間匿われた経験を持ち、パプーシャと知り合ったのである。この人物がパプーシャの詩を出版した。

 で、パプーシャは有名になって名声を得るという物語かと思っていたのだが、展開は全く違った。ジプシーの秘密をよそ者に明かしたとして、パプーシャは孤立し、孤独の後半生を送るのである。こういう「伝統的非知性主義」みたいなものは、伝統社会には根強いものがある。どんな社会にも「農民(商人…)には学問はいらない」などと言われて高等教育を諦めさせられた人がいるはずである。でも、日本の場合、文字が読めない人は非常に少ない。パプーシャは新聞を読んで、ドイツとの戦争が始まったと大人に知らせるが、皆信用しない。そして、ナチスドイツによって、大規模なジェノサイドの対象にされたわけである。それでも、戦後になっても、「文字」に強い不信を持っている。社会主義政権によって、定住化政策が進められ、パプーシャはそういう政策に乗った人物と非難されたという面もあったらしい。少数民族の中で、「同化」に協力した人物とみなされたわけである。

 そのあたりに関する現時点での判断は難しい。「上からの同化」を批判するのは簡単だが、同時に「伝統集団における女性差別」あるいは「伝統集団における権威的な反知性主義」を支持することもできない。その意味で、イスラム教の伝統的地域における女性の地位などと同じような構図がここにもある。監督はヨアンナ・コス=クラウゼクシシュトフ・クラウゼという夫婦。「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」を撮った人たちである。その映画は見た覚えがある。ポーランドのナイーヴ画家の歩みを描いた映画で、まあ「ピロスマニ」の現代ポーランド版のような映画だった。今回も似たような感じがあって、中央詩壇で活躍した人ではない「民衆詩人」を発掘して映画にしている。映画としては、素朴で物足りない感じも否めないが、内容及び画面の美しさは一見の価値があると思う。
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「父の遺産」-フィリップ・ロスを読む②

2015年05月08日 23時33分54秒 | 〃 (外国文学)
 フィリップ・ロスの「父の遺産」(柴田元幸訳)は、1991年に刊行され、1993年に日本で翻訳された。ずっとそのままだったけど、なぜか2009年に集英社文庫に入った。僕が買ったのはそれで、そのままになっていたけれど、数回前に書いた「プロット・アゲンスト・アメリカ」を読む前に、こっちから読んでみた。非常に感動的な本で、一応「ノンフィクション・ノヴェル」といったカテゴリーになるかと思う。自分及び自分の家族が出てくる話で、小説ではなくて「すべて事実」の記録なのかもしれないが、そう断ってあるわけではない。書いてあることがすべて事実かどうかは検証できない。まあ、読む方は「世界的に有名な作家」の父親をめぐる回想記だと思って読むだろうし、それでいいと思う。でも、後に(2004年)「プロット・アゲンスト・アメリカ」が書かれた今となっては、「同じ登場人物の実際の後日譚」ということになる。「プロット・アゲンスト・アメリカ」ではリンドバーグが大統領に当選するなど明らかな歴史改編があるわけだが、著者の両親の暮らしぶり、考え方などは事実だと思われるから、「父の遺産」に出てきたあの両親は、このように生きていたのか。若き日はこんな様子だったのかと、「前日譚」なのである。

 著者の両親は、母親が先に亡くなった。小津「東京物語」のように、家族の想定外というか、どっちかというとアメリカでも「やっぱりそれで大丈夫だろうか」と思われる事態になったのである。母の死が1981年で、その後10年近く、父親のハーマンは「驚異的に元気」に生きてきた。他の女性からのアプローチもあって、結局は「同じ建物の上の階」に住んでいるリル(リリアン)という女性とパートナーになる。結婚という形は取らず、フロリダに冬に行くときは一緒に行って暮らすといった間柄らしい。「プロット…」に出てくる大手生命保険会社メトロポリタン生命で、高校も出ていないユダヤ人という立場ながら、重要な営業所を任されるまでの活躍をして、年金などは一応恵まれている。もっとも、会社にも複雑な思いもあり、ユダヤ人差別がないわけではないらしい。またユダヤ人が多かったニューアーク(ニュージャージー州だが、ニューヨークのすぐそばの衛星都市)に住み、転勤は断ってきた。大学を出た息子たちと違い、現実と格闘しながら生きてきた「移民二世」である。その親子関係も興味深く書かれている。

 そんな父親が86歳になり、フロリダで顔面麻痺に襲われる。検査の結果、脳しゅようが見つかり、手術を勧められるが…。父は高齢で、10時間近い手術に耐えられるだろうか。成功率は高いようだが、その結果として「しゅようという原因」は取り除かれたとしても、全体的な体力低下を乗り切れるんだろうか。といった問題が父親と著者に訪れるわけである。こういう経過が延々とつづられた「親の病気」もので、日本にもそういう小説、手記、映画などは山のようにあるわけだが、アメリカ在住のユダヤ人という立場ではどうなるか。と言っても、当たり前だが、洋の東西を問わず、「老い」をめぐるあれこれの悩みは共通なんだなあとつくづく実感させられる。様々な登場人物の点描も印象的で、「プロット・アゲンスト・アメリカ」とは違う意味で、読後の満足感がある本だった。柴田元幸訳だから、もちろん非常に判りやすい名訳。文学というか、やはり親の介護、看護などに悩む人に読まれるべき本かなと思う。

 なお、当時のフィリップはクレア・ブルームと結婚していて、英国女優のクレアとはロンドンとニューヨークを行ったり来たりの生活。クレアとは後に離婚するが、この本では所々で「クレア」が出てくる。一体どんな人かというと、チャップリンの「ライムライト」でチャップリン演じる道化師に助けられ、チャップリンを愛するようになってしまう、あの女の子なのである。「英国王のスピーチ」ではジョージ6世の母親だった。いやあ、フィリップ・ロスと結婚していた時があるのかという感じ。
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ギュンター・グラス、マノエル・ド・オリヴェイラ等ー2015年4月の訃報

2015年05月07日 21時55分26秒 | 追悼
 4月の追悼記事は、愛川欣也船戸与一を別に書いた。先月のまとめは外国から始めたい。ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラス(4.13没、87歳)が亡くなった。ほとんどデビュー作の「ブリキの太鼓」のみが取り上げられる人で、そういうノーベル賞作家も珍しい。僕は余りにも大部なので、まだ読んでいない。フォルカー・シュレンドルフが監督した映画「ブリキの太鼓」は2回見たが。カンヌ映画祭大賞、アカデミー賞外国語作品賞を取り、日本でもベストワンになった。近年になって見なおしたが、確かに非常によく出来た映画だ。
(ギュンター・グラス)
 グラスは小説も書いたが平和運動や政治活動への関わりが強く、一昔前に日本で言われた「進歩的知識人」のような位置にあった。だから、晩年の自伝でナチスの親衛隊体験を告白した時には、大問題になった。様々なタブーを怖れず直言した人だが、「ブリキの太鼓」一作で戦後日本とは違うドイツの歩みを象徴するような人物だったと思う。どうもドイツ文学は全般的にあまり読んでなくて、これ以上詳しくは語れない。

 ポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラ(4.2没、106歳)が亡くなった。やはり人間に不死はない。この106歳というのは、ただ長生きしたというのにとどまらず、100歳を超えて新作を撮ったという、新藤兼人をも超える映画史上の空前絶後の記録になるだろう。それはいいんだけど、では100歳で撮った「ブロンド少女は過激に美しく」は果たして面白いのか。長らく日本では見られず、初めて正式公開された「アブラハム渓谷」(1993)は「ボヴァリー夫人」を脚色した大作で、なんと「二人一役」の驚くべき作品だと言われたが、果たして面白いのか。そういうことは有名人が書いた追悼文には記されていない。ほんとに面白かったのですか?
(マノエル・ド・オリヴェイラ)
 ジョン・レノンの先妻シンシア・レノン(4.1没、75歳)の訃報も載っていた。この人は音楽、芸能活動をした人ではなく、幼なじみである。ビートルズ初期の曲はすごく好きで、そのころの下積み時代の話も読んでる。いわば「糟糠の妻」なんだけど、知らない人が多いだろう。まあ、愛川欣也の訃報でも、先妻のことは全然触れられていなかった。

 日本では芸能界関連の訃報が多かった。ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦(4.21没、74歳)が亡くなった。自殺だという。この頃の「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」とかの活躍を「グループサウンズ」(GS)と当時呼んでいた。曲は知ってるけど、時代的には自分の年齢が小さくて、よく判らない。慶応高校時代に茅ヶ崎に住んで加山雄三と親しくなり、グループの名付け親も加山雄三だという話。そういうことは訃報で知ったのである。でも、「想い出の渚」は素晴らしい名曲だと思う。
(加瀬邦彦)
 萩原流行(はぎわら・ながれ 4.22没、62歳)の死因は結局どういうことになっているのだろうか?まあ、何にしても「事故」であるらしい。つかこうへい事務所から出てきた人とは知らなかった。あまり知らないのである。女優の三條美紀(4.9没。86歳)は戦後の大映映画で活躍した女優である。黒澤映画に出たと訃報にあるが、東宝の黒澤が大映で撮った「静かなる決闘」に出ただけである。「母もの」と言われた映画にたくさん出ている。データを見ると、結構見ているんだけどあまり印象はない。80年代には東宝映画で脇役をずいぶん務めているし、テレビや舞台もあるようだけど、あまり知らないのである。見ていてもあまり記憶に残らないタイプなんだろう。
(三條美紀)
 戦後を代表するバレリーナ、谷桃子(4.26没、94歳)は名前は知っているが、見たことはない。「白鳥の湖」の舞台を千回務めたとある。そりゃ、すごい。奥村土牛の「踊り子」のモデルとあった。最高齢の女形、歌舞伎俳優の中村小山三(なかむら・こさんざ 4.6没、94歳)は、すいません、知りませんと言うしかない。
(谷桃子)
 漫画家の小島功(4.14没、87歳)は、清酒「黄桜」のカッパのキャラクターを清水崑を継いで書いた人、「11PM」にレギュラー出演と言う、それを読んで思い出した。ずいぶん昔の人と思うと、「週刊アサヒ芸能」の「仙人」は昨年まで続いたとある。日本漫画家協会会長を務めた人である。安野モヨコは姪。考古学者の樋口隆康1(4.2没、95歳)は、いろいろ考古学の本に出てきたと思うけど、詳しく業績を語るほど知らない。京大教授で、橿原考古学研究所長だった。京大でシルクロード調査を行い、バーミヤンの石窟群を調べた。タリバン政権が爆破した遺跡である。
(小島功)
 作家の白川道(しらかわ・とおる、4.16没、69歳)は、バブル華やかなりし時代の投資顧問会社での行為がインサイダー取引などで実刑判決を受けた人。その経験をもとに「流星たちの宴」でデビューした。これは確かに時代の証言でもあるハードボイルドで、面白いことは抜群。まあ代表作は「天国への階段」か。
(白川道)
 ラーメン「大勝軒」でつけ麺を広めた山岸一雄(4.1没、80歳)は、東京では相当の有名人、特に池袋近辺では皆知っている。元最高裁長官町田顕(まちだ・あきら、4.5没、78歳)と言っても、ほとんど知らないだろう。三権の長である最高裁長官は皆知らない。最高裁事務総局の経験が長いような人ばかりがなるからである。国民が名判決だと思うような裁判をした人は最高裁入りはしないのである。
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