尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大災厄の年に、「公的な失業対策事業」を求める

2020年12月31日 22時52分13秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 2020年は年頭には思いもよらなかった「大災厄」の年になってしまった。単に新型コロナウイルスが世界でパンデミックを起こして、多くの人が感染して亡くなったということだけではない。誰も思いもかけなかった形で,ウイルスが人々の暮らしを変えてしまった。日本に止まらず、アメリカも中国もヨーロッパ諸国も大きく変わってしまった。「当面」という言葉で数年間を表すとすれば、アメリカ国内の「分断」中国の強権政治や香港の弾圧体制が変化することはないだろう。

 大みそかの東京では、ついに新規感染者が1300人を超えた。いずれ千人を超えると皆が言っていたが、大台を一気に300人も超えてしまった。どこで感染が続いているのか、僕には今ひとつ理解出来ないが、病院や福祉施設での「院内感染」ばかりでなく、思わぬところでも感染が起こっている。しかし、東京の重症者数は(東京は「独自基準」らしいが)、12月31日現在で89人である。日本全体では約700人となっている。
(31日の東京の感染者を伝えるテレビ)
 新型コロナウイルスは無症状でも感染力が強いから、医療的対応は確かに大変だろう。でも、これだけの数で「医療崩壊が近い」のかとも思う。それは「医療体制が弱い」ということなのではないか。日本だけでなく、アメリカでもヨーロッパ諸国でも、「先進国」と言われる国は、多かれ少なかれ「新自由主義」というか、効率優先の社会を作り続けてきた。新型インフルエンザなど新たな感染症はいつか必ず襲ってくると言われていたと思う。「いつか起こるはずだったこと」が現実化したということなのではないか。

 この「大災厄」で本当に困っているのは誰だろうか。2008年秋に「リーマンショック」が起こったときには、世界中で突然経済活動が大きくダウンしてしまった。日本の輸出産業では「派遣切り」が起こり、宿舎からも追い出された人が相次いだ。日比谷公園では「派遣村」が開かれた。今回も各地で「相談会」は開かれている。無料の食料配布なども行われている。しかし、そこでも「」を避けるということで、大きな社会運動になりにくい。今回は特に飲食業に従事していた女性や若年層が多いようで、そのことも問題を見えにくくしている。
(日比谷で行われた相談会)
 「ホームレス」の人々は「特定給付金」の10万円が届いていない人が多いらしい。「住所」宛てに送られた書類に「振込先の銀行口座」を書いて返送することで、給付金が振り込まれた。その方法だと「ホームレス」には届かない。全員に受給資格があったわけなのに、これで年を越えてしまって良いのだろうか。また「外国人労働者」も大変な状況に置かれている。

 「下宿学生」の多くも大変だと思う。本人が多額の奨学金を背負っていて、飲食業のアルバイトをしていたがバイト先がつぶれてしまった。親の仕事も大変で子どもを支えられない。大学もオンライン授業帰省もするなみたいな感じの学生も多いに違いない。学生街の飲食店も大変らしい。多くの飲食店は自営業で、もともと後継者難の店が多かった。行く末に見切りを付けて自ら店をたたむところも多いだろうが、それは「倒産」「失業」にカウントされない

 ハローワークに求職していない部門で「事実上の失業」が数字以上に多いのではないだろうか。親や配偶者に取りあえず「扶養」して貰える、あるいはコロナ終息まで貯金で食いつなぐという人は「失業」にならない。それに対して、寄りかかるものが少ない「シングルマザー」などが大変なのではないか。今でも倒産が多くなっているが、失業者数に入ってこないデータがあることを考えないといけない。しかし、コロナ禍で逆に仕事量が増えて大変になっている部門も多い。

 病院福祉施設学校などでは、毎日のアルコール消毒などに追われている。医療や看護行為は資格がないと出来ないけれど、消毒作業はトレーニングすれば誰でも可能なはずである。だから仕事が無くなって困っている人を,行政が直接非常勤職員として雇用すればいいのではないか。地方自治体は多くの医療、福祉、教育施設を抱えているから、そういう場所に派遣して消毒、清掃、あるいは可能な事務作業などをやって貰うことは出来ないのだろうか。

 いや、菅首相も病院の清掃などの下請けに補助を出すなどを検討すると言っていた。でも、それは多分こういうことだ。消毒を行う民間企業もある。そういうところに依頼するときに「補助金」を出す。そういう会社は直接雇わずに、増えた仕事を担当する人員は「派遣会社」に依頼する。だから、結局「派遣会社」の「ピンハネ」分が税金から支出される。病院も補助金申請の書類作業でかえって多忙になる。そういうことが予測されるのである。

 労働者が派遣会社に登録するには、当然「住所」と「連絡先」(携帯電話)が必要になる。今は何の問題もないと思っていても、家賃が払えなくなって家を追い出される、あるいは電気代が払えなくなってスマホの充電が出来なくなる、という事態に陥る人がもうすぐ急増するのではないか。そうなると、派遣で働く以前に、働こうと動くこと自体が難しくなってしまう。

 「民間活力」に行き着く「現代資本主義」そのものに欠陥がある。今こそ大恐慌時代の「ニューディール政策」が世界に必要だ。「自助」ばかり言ってる首相ではなく、しっかり「公助」の「失業対策」を考えるべきだ。仕事がなくなって困っている人を、仕事が大変過ぎて困ってる部署に、地方行政が直接雇用して回す。いろんな仕組みを工夫して「補助金」などを作るよりも、ずっと簡単で安上がりでさえあると思うけれど…。
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映画「私をくいとめて」と「佐々木、ィン、マイマイン」

2020年12月30日 22時13分43秒 | 映画 (新作日本映画)
 年末に見た面白い日本映画2本の紹介。大九明子監督「私をくいとめて」は綿矢りさ原作をのん主演で映画化した作品で、面白く見られる青春映画。大九(おおく)監督は、同じく綿矢りさ原作の「勝手にふるえてろ」が抜群に面白かった。その後、「美人が婚活してみたら」「甘いお酒でうがい」(どっちも未見)など最近コンスタントに映画を作っている女性監督である。

 「勝手にふるえてろ」では主演の松岡茉優が脳内で自分と対話していたが、「私をくいとめて」ではのんの脳内に「A」という「アンサー」を返す別人格が住み着いている。それも男声で、最終盤に「実体」として現れるからビックリ。松岡茉優は脳内で「イチ」と名付けた同級生に片思いを続けていたが、今回のん演じる「黒田みつ子」は「31歳おひとりさま生活」をそれなりにエンジョイしている。冒頭では河童橋で食品サンプル作り体験に参加して海老天を作ってるけど…。

 ところがある日、地元で営業マンの多田林遣都)と出会って、一人暮らしで食事も作れないという多田くんが時々おかずを持って行くようになる。だんだん恋心を感じるが、告白もできないし。年末には結婚してローマに住む皐月橋本愛)に会いにイタリアへ。極度の飛行機嫌いのみつ子は、何とか帰ってきた。親友の皐月は一歩踏み出し、もうすぐ母になる。みつ子も果たして一歩を踏み出せるか。東京タワーの外周階段を上るイベントに同僚と参加することになって。
(のんと林遣都)
 2時間を超える映画だが、軽快なリズムで飽きさせない。「勝手にふるえてろ」はほぼ松岡茉優の脳内独り相撲で、それがイタいほどにおかしかった。今回はのんとA(実体=前野朋哉、声=中村倫也)の掛け合いなので、のんの「声優」的な才能が生き生きと輝く。似たような感じは否めないし、どっちが良い悪いもない出来だが、見ていて歯がゆいから応援したくなる。若き世代の東京生活を面白く描いていて、見応えがあった。のんがやはり素晴らしい。テーマ曲として使われる大滝詠一君は天然色」も良かった。

 1992年生まれの内山拓也監督が作った「佐々木、ィン、マイマイン」は見逃さなくて良かった。大体題名がよく判らないけれど、「マイマイン」は「my mind」である。「わが心の佐々木」。佐々木は高校の同級生で、みんなが「佐々木、佐々木、佐々木」とはやし立てると、教室内で服を脱いでしまって真っ裸になってしまう。そんなとんでもないヤツだが、親がいつもいない佐々木の家でたむろっていた仲間だった。佐々木が俳優になったらというから、山梨から上京して今も芝居を続けている石井悠二、27歳。ずっと佐々木のことも忘れていたけれど。

 私生活もうまく行ってない悠二だが、バイト先で同級生に会って久しぶりに佐々木を思い出す。卒業後一回だけ会った佐々木は、学校も行かずにパチンコで暮らしていた。映画は悠二の生活と佐々木をを時間をずらせて交互に描くが、この映画もほぼ2時間あるが全然退屈しない。それは佐々木の設定がぶっ飛んでいることもあるが、悠二が「別れた相手とまだ一緒に住んでいる」という状況にあることも大きい。佐々木には彼なりの家庭事情があったが、ここまで外れてると生きづらいだろう。実際に幸せではない人生を歩んでいく。
(悠二と彼女)
 「佐々木、青春に似た男」というのがキャッチコピーだが、これは何だか心の奥に響く。誰しもが「青春」と呼ばれる時代を遠く離れて、いつのまにか若き日の友人とも疎遠になっていく。そんな「日常」に突き刺さるのが、心の中の「佐々木」である。そう言えば誰しもの心に「佐々木」がいるんじゃないだろうか。佐々木を演じた細川岳と監督の内山拓也が共同で脚本にクレジットされている。技法としての「省略」が生かされている脚本だ。しかし、僕の周りにはここまでの「バカ者」はいなかったなあ。いろいろ思い出してしまう映画だった。
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秘書を「誘導尋問」した前首相の責任ー「桜を見る会」前夜祭

2020年12月29日 22時38分21秒 | 政治
 「桜を見る会」前夜祭をめぐる政治資金規正法違反事件は、安倍前首相の配川秘書略式起訴されて罰金100万円が科される一方で、安倍前首相は不起訴となった。安倍前首相は12月24日に記者会見を行い、翌25日に衆参両院の議院運営委員会で「国民の信頼を傷つけた」と謝罪した。この問題については、11月30日付で「「桜を見る会」問題、安倍前首相の議員辞職が必要」という記事を書いた。その時点では臨時国会も開かれていて、野党は国会招致を要求していた。その時は何ら応えずに、突然コロナ禍の年末に急に国会で「謝罪」を行った。
(国会で「謝罪」する安倍前首相)
 その記者会見も、まだ首相のつもりなのか、長谷川栄一氏(元首相秘書官)が司会して、記者数も質問数も制限するというものだった。国会でも基本的な「証明資料」である「領収書」「明細書」を提出することなく、野党議員の質問に対しては「通告がなかった」などと答えないことが多かった。国会での発言というのは、「官僚が用意してくれた文章を読み上げること」と心底思い込んでいるのかもしれない。だけど、もう首相ではない一議員だから、政府機関は発言を準備してくれない。自分の言葉で自分の認識を語る必要がある。

 この問題をどう考えるべきだろうか。僕は何より「政治的責任の取り方」が最大の問題だと思っている。だから改めて「議員辞職が必要」と書いておきたい。しかし、それは前にも書いたわけで、今回は「事件の構図」について考えたい。安倍前首相が不起訴になったことに不満を持つ人も多いようだ。しかし、事件の構図がこのままだったら、今回の検察の処置は概ね正しいのではないだろうか。「安倍氏が知らなかったはずがない」などという思い込みで起訴したら、数々の「冤罪事件」と同じである。明白な証拠があるかどうかだけが、刑事責任判断の基準である。

 今回の「前夜祭」が「安倍晋三後援会」の主催行事であるとするならば、後援会を担当する配川秘書に記載責任があるだろう。下の写真を見ると、確かに「安倍晋三後援会」の主催行事であると思われる。しかし「領収書」は安倍晋三議員の政治資金管理団体として届け出られている「晋和会」宛てになっているという話がある。その場合は、また別の問題になるのではないかと思う。「晋和会」の代表は安倍晋三氏本人だからである。何にしても「領収書」を見れば全部判るわけで、なんで領収書を国会に提出しないのだろうか
(桜を見る会前夜祭のようす)
 出したくても安倍氏側には領収書がないという話もある。国会でもそう説明している。野党はホテル側に再発行を求めるべきだと言っている。そもそも何で安倍事務所に領収書がないのか。捜査当局に押収されているわけではなく、探してもなかったということらしい。「紛失」ということになっているが、数百万円になる領収書をなくす事務所があるだろうか。むしろ常識的に考えれば「証拠隠滅」ではないのか。証拠隠滅は刑法犯で、最高刑は懲役3年。最高刑懲役5年未満の罪なので時効は3年間になる。最近のものは時効になっていないから、安倍氏の関係先に対する「強制捜査」(家宅捜索)が必要だったのではないだろうか。

 安倍前首相の記者会見・国会での説明にもおかしな部分は多い。「結果として間違っていた」というが、領収書などを見ればすぐに判ることだ。それを確認しないで、野党側が間違っていると強弁し続けた。その「強弁」に対して人間としての責任を取らなければいけない。それはともかく、「秘書が正しく報告していなかった」とすべて秘書の責任にしている。しかし、秘書に対して「何回も確認している」ということだが、「5千円で総てまかなっている」という認識を前提にして秘書に聞いている。それは「質問」ではなく、「誘導尋問」である。

 「領収書を見せてくれ」と言えばすぐに判ることを、なんで「誘導尋問」するのだろうか。秘書と議員の関係では、「こういう風に答えて欲しいんだな」と読み取って対応するに決まっている。もっとも安倍氏は歴史認識問題などでも、「史料」をきちんと調べることなく「思い込み」で語ることが多い。客観的に資料を見るというトレーニングをしてこなかったのだろう。「客観的証拠」を何一つ提出せずに、「結果として間違っていた」と言い張るのではなく、提出を求められているものを国会に出して、証人喚問に応じるべきだ。年末に急いでやったこと自体がどうもおかしい。
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八ヶ岳と蓼科山ー日本の山㉔

2020年12月28日 22時28分02秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 「日本の山」と名付けて2年間書いてきたけど、これで一端終わりにすると決めた。じゃあ最後にどこを取り上げるか、いろいろ考えて八ヶ岳とその周辺を書くことにした。自分で山のことを思い出すときは、東北北海道の山が多い。あるいは北アルプス南アルプス。だから八ヶ岳周辺の山や高原はつい忘れていた。八ヶ岳周辺に行っていたのは、30年以上昔のことだ。つまり国鉄総武線(民営化前である)沿線に住んでいた時で、山梨方面に行きやすかった。
(八ヶ岳全景)
 八ヶ岳(やつがたけ)は広大な山域で、写真のように多くの山頂が連なっている。山名の由来は、高い山が八つあるからと言われるが、単に「たくさん」という意味の「八」だとも。そもそも北西方にある蓼科山(たてしなやま)まで入れる時もあるし、別扱いするときもある。深田久弥の日本百名山では、それぞれ別個に選ばれている。「八ヶ岳」は最高峰の赤岳2899m)を擁する「南八ヶ岳」と比較的なだらかで樹林帯や湖の景観が見事な「北八ヶ岳」に分かれている。
(赤岳山頂=最高峰)
 ある年の夏、東の稲子湯から登り始めてしらびそ小屋に泊まった。次の日に夏沢峠(ここで八ヶ岳が南北に分かれる)を通って、延々と赤岳まで尾根歩きで登った。どこに泊まったか覚えてないんだけど、多分赤岳頂上小屋まで行ったんだと思う。その頃はそのぐらい歩けたはずだから。赤岳は日本アルプス以外ではすごく高い山だ。富士山と御岳を除けば、白山や浅間山より頭一つ抜けている。もう森林限界を超えてガレている山頂は、本当に見えてからが遠かった。疲れてるし、足は滑るし、でも登るしかないから、ゆっくり登っていけば山頂に着く。頂上は覚えてない。
(北八ヶ岳)
 北八ヶ岳も行ったし、霧ヶ峰入笠山(にゅうがさやま)なんかも行ってる。北八ヶ岳では、渋ノ湯から登って黒百合ヒュッテに泊まるという山のファン憧れの定番コースが思い出深い。八ヶ岳は火山だから、周辺に温泉がいっぱいある。登山基地になってるけど、僕は泊まったことがない。朝早く出て、バスで温泉に着いたら歩き出す。登山道のコケと翌日の霧がすごかった。北八ヶ岳は夢幻的な風景に出会うことが多い。ハイキングレベルなら、まだ楽しめそう。
(黒百合ヒュッテ)
 黒百合ヒュッテは様々なイベントなどを行う有名な山小屋で、一度行ってみようと思った。五月頃だったと思うが、夜はまだまだ寒くてそれしか覚えてない。翌日登ったのかな。近くなら天狗岳などがあるが、全く覚えてないのである。八ヶ岳を最後に書こうと思ったのはいいけど、後でゆっくり考えてみれば忘れていることが多い。登山靴が重かったなんてことの方を覚えている。登山用具はその後どんどん進化していくが、昔の靴はとにかく重くて大変だった。リュックも服装も食事もみんな重かったが、そんなもんだと思っていた時代だ。
 (蓼科山全景)
 蓼科山(2530m)は八ヶ岳西北方に綺麗なピラミッド型にそびえている。蓼科は高原リゾートになっているが、白樺高原と呼んでいる蓼科牧場から「ゴンドラリフト」がある。これは今もあるようだが、詳しく調べずに出掛けて、こんなのがあったのかと利用したら、一気に7合目付近まで行けた。そこから案外近くて、そこから2時間ぐらいで山頂に着いた。アレレ、案外楽だったと思った記憶があるが、頂上が石だらけですごかった。こんな山頂は他にはなかった。山頂に泊まったが、雲海が素晴らしく周囲の山々を一気に見渡せたのが思い出にある。
(蓼科山山頂)
 その後、車を買って温泉と登山を組み合わせるようになった。そうなると、東北方面に行くことばかりが多くなった。東北道はすぐに乗れるが、八ヶ岳方面だと首都高を延々と乗らないといけない。特に帰りが渋滞して、疲れてしまう。だから都心を避けて東北方面へ。登山じゃなくても日光など良く行くのも同じ理由だ。東北でも吾妻山蔵王山など書いてない山がある。どっちも温泉目当て。西日本でも四国の剣山、九州の霧島山阿蘇山など書いてない。

 富士山は見る山だと思って行ってない。思い出してみれば、21世紀になって夜間定時制勤務が続いた時に、日曜の早起きが出来なくなって登山から遠ざかった気がする。それと定期テストの監督を授業者本人がやる学校だったので、テスト中に休暇を取れなくなってしまった。夏休みの休暇も取りにくくなるし、自分も膝を痛めたりして山から遠ざかった。年を取ったらまた行くつもりだったが、やっぱりそういうわけにもいかないものだ。山中心に書くと、北海道や東北の素晴らしい温泉を書けなかったので、来年からは「日本の温泉」を書いてみようかと思っている。
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柳美里「JR上野駅公園口」を読む

2020年12月27日 22時05分04秒 | 本 (日本文学)
 柳美里(ユ・ミリ、1968~)の「JR上野駅公園口」(2014、河出文庫)が翻訳されて、全米図書賞の翻訳部門を受賞したことが大きく報道された。英語の題名は『Tokyo Ueno Station』になっている。候補になっているというニュースを聞いたときには、そんな本があったのかと驚いた。そう言えばずいぶんユ・ミリの本も読んでなかった。直後には売り切れていたが、今では帯に受賞とうたった文庫本が本屋に並んでいる。さっそく読んでみたので、その感想。

 柳美里はまず劇作家として知られ、1993年に最年少で岸田戯曲賞を受賞。その後、小説を書き始めて、1997年に「家族シネマ」で芥川賞を受賞した。僕も1999年の「ゴールドラッシュ」ぐらいまでは読んでいた。その後、子どもが生まれて「」4部作を書いた。「3・11」以後は東北に通ってラジオ放送を担当し、2015年には福島県南相馬市に転居し、2018年には書店を開業した。それらの話はマスコミを通して知ってたけれど、なんだか「作家」としては忘れていた感じだ。

 ということで、久しぶりに手に取って満を持して読み始めたが、そんなに長くない割には大変だった。それは「物語」ではなく、本質的には「民族誌」(エスノグラフィー)のような作品だからだ。資料も多く取り込まれていて、戦後を生き抜いた「出稼ぎ労働者」の「聞き書き」的な小説だった。だが、一人の人物ではなく多くの人の声を合わさって「小説化」されているんだと思う。

 福島県の「浜通り」、やがて原子力発電所が作られる前の時代、事実上の「国内植民地」に生まれたある男性が、ほぼ全生涯を「出稼ぎ」で暮らしてきたライフヒストリーが事細かに記録される。彼に対して祖母が述べたような「不運」の人生を歩み、最後は東京で「ホームレス」となって上野公園に住むことになる。上野駅は東北本線、上越本線の終点駅で、東日本の貧しい労働者が最初に東京に降りる駅だ。そこで「ホームレス」となるという人生最終盤の「アイロニー」(皮肉)がこの小説全体を象徴している。それは翻訳では解説があっても伝わるだろうか。
(ユ・ミリ)
 「」は昭和8年1933年)に生まれた。この主人公の名字はあるところで出てくるが、名前は最後まで書かれない。他の「ホームレス」と話すときも、自分のことは語らない。生年は現在の「上皇」(昭仁)と同じである。そして彼の長男が生まれたのは1960年2月23日で、「皇太子の長男」(今の天皇)と同じだった。彼は「浩宮」から一字取って長男を「浩一」と名付けた。

 もっと前、幼少期に「彼」は昭和天皇の戦後巡幸を見ていた。そして人生の終期になって、上野公園に住むことになると、皇族がよく博物館や美術館に来るから、そのたびごとに「山狩り」に合う。つまり警察によって、一時的に「ホームレス追放」がなされるのである。このように「彼」の人生は、「戦後天皇制」とリンクしていた。そこで「JR上野駅公園口」という小説のテーマを「天皇制」と考える人も出てくる。もっと言うと「反天皇制小説」だから日本では評価されなかったとする見方もある。だが、それはちょっと違うのかなと僕は思った。

 そういう読み方を否定するわけではないが、むしろ僕には「移民労働者」の「生活誌」のように感じた。そもそも彼の一家も福島には江戸時代後期に加賀から開拓者として移民した人々だった。加賀での信仰である「浄土真宗」を持ち続けた少数派だった。葬儀の様子も細かく記述される。真の地元民じゃないから、有名な「相馬野馬追」でも重要な役は果たせない。地元に大家族を養う産業はなく、弟妹のため、やがては妻子のため、地元を離れて働き続けた。

 そして「不運」が彼を襲うのである。しかし、「ホームレス」になったのは、書いてしまえば「孫」に迷惑をかけないようにと考えて、自ら家を捨てた。しかし、家にいたならば「3・11」で大津波と原発事故にあっていたのだから、ここでも彼の人生は「皮肉」というしかない。そういう彼の人生を描くときの「補助線」として「天皇制」が使われているが、それが最大のテーマではないように思う。アメリカでどこが評価されたのかはよく判らないが、「移民労働者」や「ホームレス」のライフヒストリーとして共感されたのではないかと思う。

 日本ではそれほど評価されなかったのは、柳美里がちょっと読まれなくなっていたのもあると思うが、端的に言えばあまり成功していないからではないか。資料的な部分が多く、小説としては「生煮え」感がある。「ホームレス」になった事情が納得しにくいし、「上野公園」にいる意味も判らない。歴史に詳しい「ホームレス」がいて、折々に「解説」が入ることにより、「彰義隊」「西郷像」の「歴史的意味づけ」が語られる。でもまあ知ってる話だし、日本人には新鮮な感じはない。

 このような「下層労働者」、もう家族に送金するだけのために生きている「移民労働者」に近いだろうが、細かなライフヒストリーを書いた小説は珍しい。小説じゃない本ではあると思うけど、読むのは大変だから、若い人にはまずはこの本を手に取って現代史を考える材料にして欲しい。小説的感興を求めるというより、日本を考えるときの基本という本じゃないかと思う。
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追悼・斉藤龍一郎君の思い出

2020年12月25日 23時26分08秒 | 追悼
 AJFアフリカ日本協議会)の事務局長などを務めた斉藤龍一郎さんが12月19日に亡くなった。65歳。最近病気がちだったのは知っていたけど、年齢が同じだったのでショックも大きかった。訃報については「AJF」のホームページで告知されている。そんなに深い関係でもないけれど、ずっと関わりが続いていたので、ここに自分なりに気持ちをまとめておきたい。彼はいつも「尾形君」と呼んでいたから、僕もタイトルは「斉藤君」と書いたが、文の中では「さん」と書きたい。
(AJFホームページ上から借用)
 「アフリカ日本協議会」と斉藤さんの関わりについては、AJFのホームページに「AJFの2000年から2016年 人とつながる歩み」として回想がまとめられている。2020年10月30日にAJF事務局でインタビューが行われたものである。また個人のホームページとして「斉藤龍一郎の近況です」が20世紀から継続して書かれている。自己紹介も書かれている。もともとの関心は「障害学」の領域だったのだと思うが、そのあたりのことは僕はほとんど知らない。いろんな分野で様々な活動に関わった人なので、Facebook上で多くの追悼を呼んで改めて驚いたりしている。

 僕と斉藤さんにはいくつかのつながりがある。ちょっとまとめてみれば、①市民運動圏のつながり ②Facebookの「お友だち」 が大きい。特に最近はほぼFacebook上でのつながりだった。しかし、それだけではなかった。③偶然に会う知り合い ④授業で困ったときの助っ人 がある。そして⑤として「人生の中ですれ違っていた人」というのがある。

 知り合ったのは、1993年に「731部隊展」の東京東部展実行委員会に参加した時である。僕は東京23区東北部の足立区に長く住んでいたが、1983年に結婚して墨田区、千葉県市川市に転居した。1991年に父が死んで、夏に足立区に再び戻った。勤務先も高校に変わり新しい活動を考えていた時期だった。独身時代はずいぶんいろんな運動に関わっていたが、中学勤務時は忙しくて他のことはほとんど出来なかった。そんな時に「731部隊展」のお誘いがあって、現代史を専攻した日本史教員としてはやるしかないと思ったのである。

 夏に「731部隊展」をやって、その後で映画「免田栄 獄中の生」の足立上映会につながった。冤罪は自分が一番関わった問題だから、僕が代表を引き受けた。その実行委員会でも斉藤さんと一緒だったはずだ。12月初めに免田栄さんが亡くなって、僕はその頃のことを思い出したのだが、じゃあと言われても斉藤さんとどういう風に知り合って、どんな話をしたかは詳しくは覚えてない。実行委員会が終わると「打ち上げ」に行くから飲んで忘れてしまったのである。

 斉藤さんはその頃は台東区の「解放書店」に務めていた。そこには何度か会いに行った。それは僕が関わった「らい予防法廃止一周年記念集会」とか、都立中高一貫校への「つくる会」教科書採択反対運動(特に2004年に浅草でやった「石川文洋講演会」)への協力要請の時が多い。「つくる会」問題では、台東区に作られる白鴎附属中に採択させるなという署名運動にも協力して貰った。そういう「市民運動圏」のつながりがベースにあった。

 しかし、そういう「公的」な付き合いの他に、「時々ばったり会う」ことが多かった。家が近いから、電車などで偶然会うのである。知り合いに偶然会うことは、そう何度もあるわけじゃない。でも斉藤さんには、多分10回以上は会っている。ヴァージニア・ウルフ原作の「オルランド」という映画が上映された時には岩波ホールで会った。調べてみると1993年の上映だから、知り合った直後だったことになる。授業で役立つ資料、視聴覚教材を求めて、解放書店やAJFに行ったこともある。そういう風にして斉藤さんとの関係が続いていった。

 21世紀になってから、僕は知人に「電子メール通信」を出していた時代がある。(「緑の五月通信」という名前だった。)それはもちろん斉藤さんにも送っていた。僕が教員を退職するとき(2011年)には「教員免許更新制」について何度も書くことになった。ほとんど反応もないわけだが、その時に最も鋭く本質を突いた反応を返してくれたのも斉藤さんだった。それにはずいぶん力づけられた。僕が今書いているのは、その時の「恩」を覚えていたいという意味が大きい。

 さて、「人生の中ですれ違っていた人」とはどういう意味か。人はいろんなところへ出掛けて、多くの人とすれ違う。何年か後に知り合いになったら、実は同じロックフェスティバルやクラシックコンサートに行ってたと判ることがある。僕は斉藤さんが深く関わっていた「金井康治君就学闘争」の集会に行っていた。保坂展人さんの「内申書裁判」や反アパルトヘイトの集会、多くの冤罪救援集会などに行っていた。だから1993年に出会うまでに、必ず何回かはすれ違っていたのだと思う。そして、実際に知り合う場が出来て良かったなあと思うのである。

 ここ数年はFacebookの投稿やホームページでも、闘病記が多くなっていた。それでも、このブログをFacebookにリンクさせると、一番たくさん「シェア」をしてくれた。調べてみると、12月13日が最後のシェアになっている。ちゃんと読んでくれて、引用されてることもあるから、僕も気が抜けない。でも斉藤さんが読んでくれてると思うのは間違いなく励みになっていた。斉藤さんのホームページを読むと、最後の頃まで彼は理論的関心を持ち続けていた。僕は最近は小説か歴史だけだから、そこが違う。でもお互いに本や映画の紹介を役立てていたと思う。

 政治や社会運動に関して、様々な立場や見解があったはずで、細かく言い始めれば僕とも違う点があったかもしれない。「運動圏」には時々「他人を裁く」人があるが、斉藤さんはそういうことがないから、気が置けずに何でもしゃべれたと思う。そういう人との交流は細くなっても長く残る。だんだんこうして、僕の同世代の知人もいなくなっていくのかと思うと寂しい。だけど「冥福を祈る」とか「安らかに眠ってください」とか、全然信じてない言葉は書かない。死んだら物質的には終わりだが、残って生きていく人の魂の中に生きると思う。そう思って忘れないでいたい。
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再審に光が見えたー袴田事件最高裁決定

2020年12月24日 22時14分10秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2020年12月22日付で「袴田事件」に関する最高裁決定が出された。一審東京地裁の再審開始決定を取り消した二審東京高裁決定を、さらに取り消して東京高裁に差し戻すという決定だった。しかもこれは、第三小法廷5人の裁判官のうち3人による決定で、他の裁判官2人は「再審を開始するべきだ」という少数意見を書いた。最高裁決定に「少数意見」が付いたのは、再審の歴史の中でかつて聞いたことがない出来事である。
(決定を聞いて記者会見する姉の袴田秀子さん)
 2019年に最高裁第一小法廷は、大崎事件の再審開始を取り消す決定を出した。鹿児島地裁、福岡高裁宮崎支部が再審開始の決定を出していたから、この決定には本当に驚いた。そういう人権無視の決定を平然と下せるのが最高裁なんだと改めて認識させられた。だから「袴田事件」の最高裁決定にも心配は消えなかった。(袴田巌さんは「無実」なんだから、「袴田事件」という呼称はおかしいことになる。弁護団は「清水事件」と呼んでいるが、マスコミは大体「袴田事件」と呼んでいるから、ここではそれに従いたい。)

 この決定により、さらに再審開始が遠のいたとも言える。裁判官がもう一人開始に賛成していたら、今すぐ再審になっていたわけだ。しかし、東京高裁決定を追認して袴田さんの「再収監」さえ心配していたわけだから、とりあえず再審に光が差したと見ておきたい。何しろ5人の中で、誰ひとりとして「再審取り消し」に与しなかった。裁判長を務めた林道義氏と、もう一人戸倉三郎氏は、いずれも裁判官出身で直前は東京高裁所長だった。だからどうだと言うことはないが、東京高裁所長経験者が下したことは東京高裁の現役裁判官にも影響を与えるのではないか。
(袴田巌さん)
 少数意見(再審開始)を書いたのは、林景一宇賀克也の両氏である。林裁判官は駐イギリス大使を務めた行政官出身、宇賀裁判官は東大大学院教授を務めた行政法学者である。どちらも最高裁入りするまで裁判官の経験はない。多数意見の3人は裁判官出身の林道義、戸倉三郎両氏と弁護士出身の宮崎裕子氏である。一方で大崎事件で一発取り消し決定を出した第一小法廷は、裁判官出身2人、弁護士出身2人、検察官出身1人だった。(もっとも弁護士出身とされている山口厚氏は弁護士登録1年未満で、刑法学者だった人物だが。)袴田事件が第一小法廷に係属されなくて良かった。最高裁裁判官はもっと法曹界以外からの人物が加わるべきだろう。
 
 さて事件そのものだが、一審裁判中に発見された「血染めの衣類」5点をめぐる判断に絞られてきた。実際は他にも謎の問題がいくつもあり、原裁判中も再審請求でも弁護側が指摘してきた。それらを「新証拠と総合評価」すれば、もっともっと早くから再審が開始されただろう。しかし、やはり弁護側も再審請求で最重要視してきた「血染めの衣類」が問題となる。再審開始を導いた血液型のDNA鑑定は最高裁でも否定された。しかし「味噌漬け実験」に関して「原審はメイラード反応について審理を尽くさず、その影響を小さいと評価したのは誤り」とする。
(2014年の再審開始決定)
 「メイラード反応」というのは、醸造中の味噌の中で糖とアミノ酸が反応して褐色物質が生じるというものだという。大豆も血液もタンパク質を含むから、血液にもメイラード反応が生じて褐色になるのではないかということだ。事件が起こったのは1966年6月30日、「血染めの衣類」が味噌タンク内から発見されたのは1967年8月31日。一年以上経過しているから、真犯人によって犯行直後にタンクに隠されたのだったら、メイラード反応により衣類は褐色になっているのではないか。ところが赤色のまま発見されたのは不合理だということになる。

 もっとはっきり書けば、「血染めの衣類」は発見直前に捜査側の何者かによってタンク内に仕込まれたのではないか。「ねつ造証拠」ではないかという恐るべき可能性を最高裁裁判官5人が全員考えているのである。これは大変なことだ。袴田さんは味噌会社に勤務していて、殺人放火事件が起きた夜にパジャマ姿で消火活動に参加した姿を確認されている。そのパジャマから発見された微量の血液が被害者のものと一致したというのが、袴田さんの逮捕理由だった。そして恐るべき長時間の取り調べを受けて「自白」調書にサインをさせられた。(どのくらい恐るべき長時間だったかは、ウィキペディアの「袴田事件」の項に書かれている。)

 1966年9月9日に起訴され、11月15日に静岡地裁で公判が開始され袴田さんは無実を主張した。そして裁判で長時間の取り調べが明らかとなる中で、突如として翌年夏に「血染めの衣類」が発見されたのだった。検察側は「これこそ真犯人袴田の衣類」と主張を変えたのだが、じゃあ、そもそもの逮捕理由はなんだったのか。「自白」に「タンクに衣類を隠した」と全然出て来ないのは何故。なんで「犯行」後に消火に参加したりせず逃げないのか。不思議なことが多すぎるが、裁判所はこの「血染めの衣類」を証拠と認めて袴田さんに死刑を言い渡したのである。

 弁護側も最初のうちは、この新発見の「血染めの衣類」は真犯人のものと考え、それは袴田さんのものではないと主張してきた。実際に法廷でズボンがはけるか実験したが、袴田さんには小さすぎてはけなかった。検察側は味噌タンクに浸かっているうちに縮んだなどと無理な解釈をしていた。そのうち、どうも真犯人のものとしてはおかしいという声が弁護側から主張されるようになった。しかし、「捜査側のねつ造」などと言っても本気にされるだろうかと当初は心配されたのである。だが、今では最高裁でも「証拠ねつ造」を疑っている。この重大性、捜査側は証拠を作ってでも無実の人を死刑にしようとする。そんなことがあるということを多くの人が真剣に考えて欲しい。
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辻真先88歳の傑作「たかが殺人じゃないか」

2020年12月23日 22時59分23秒 | 〃 (ミステリー)
 「このミステリーがすごい!」など年末のミステリーベストテンで、圧倒的に支持されているのが辻真先たかが殺人じゃないか」(東京創元社)である。祝3冠、1位と大きく書かれた帯を付けて売られている。ちなみに海外ベストワンは先に書いたアンソニー・ホロヴィッツその裁きは死」だった。この二人には共通点がある。それはテレビ界、そして子ども向けミステリーで有名になりながら、「本格ミステリー」への志を持ち続けたのである。そして大きな成果を挙げた。

 辻真先(1932~)は生年を見れば判るように、今年米寿の作家である。しかし、この若々しさはどうだろう。今まで「迷犬ルパン」シリーズなどで人気があることは知っていたが、読んだのは2009年に牧薩次名義(辻真先のアナグラム)で発表された「完全恋愛」だけだ。もっともそれはミステリーに限ったことで、実は辻真先には「温泉ガイド」が何冊かあってそっちは読んでいる。紹介されている旅館に行ったこともある。それが今回の作品にも生きているのである。

 今回の作品は「昭和24年の推理小説」と銘打たれている。2018年に出た「深夜の博覧会 昭和12年の探偵小説」から続く小説だという。(その作品は未読だが、2021年1月に文庫化されると案内がある。)昭和24年、つまり1949年と言えば、敗戦から4年経って少しは復興も進んでいるが、焼け跡・闇市ももちろんまだ残っている。著者の出身地、名古屋を舞台にした青春小説としても読み応えがある。名古屋は有名な「100メートル道路」建設中で、語り手と言える高校3年生風早勝利の家は焼け残った料亭だが、そこも道路計画に含まれて立ち退きを迫られている。

 今「高校3年生」と書いた。ほとんどの人は、何の抵抗感もなくイメージできる。1960年代初期の舟木一夫高校三年生」の時代には、もう独特の語感を与える言葉として定着していた。しかし、著者にとっては違うのだ。「旧制中学」から突然「新制高校」に制度が変わって、突然「高校3年生」になってしまったのである。1年生、2年生を経ずに、突然「最終学年」で、翌年に大学受験である。しかも、名古屋では男女共学になったようで、突然に男子と女子がともに同じ学び舎に集うことになった。それは不道徳の温床だとみなす教員もいた時代だった。
(辻真先氏)
 私立高校に転学した風早勝利と友人の大杉日出夫は、映画とミステリーが大好き。「映研」と「推研」(推理小説研究会)を作るが、そこにも女子がいる。薬師寺弥生神北礼子である。そこに事情を抱えた転入生、崎原鏡子が入部してくる。彼女は上海からの帰国者だった。そして両部の顧問は「男装の麗人」風の国語科代用教員、これも訳ありで武道の達人、別宮操(べっく・みさお)である。修学旅行も風紀上問題ありと中止になったので、別宮先生は知り合いの宿がある愛知県東北部の湯谷(ゆや)温泉で夏合宿をしようという。

 そして、その合宿中に「密室殺人事件」が起きる。それは果たして可能なのか、それとも密室ではないのか。映研、推研は合同で文化祭で映画を作ろうとしていた。もちろんホントの映画を若者が作れる時代じゃない。映画のシーンを写真に撮って並べるという趣向である。その撮影は学園が買い取った軍の廃墟施設で行われた。夏休みの終わり、キティ台風来襲の夜、撮影終了後に今度は「バラバラ殺人事件」が起きた。今度は時間的に不可能な犯罪だ。犠牲者となったのは、戦時中に羽振りがよかった右翼評論家と湯谷温泉の地域ボスだった。

 その間に謎を秘めた美少女鏡子の人生をめぐる謎鏡子の親友だった少女の失踪などいくつものストーリーが語られる。映画やミステリーに関する議論、男女をめぐる校内のゴタゴタ、教員間のあつれきなどなどを含めて、ユーモア青春ミステリーとしても上出来。だが著者のねらいは、「戦後風俗」を事細かに語ることにより、「反戦のメッセージ」を伝えていくことにある。いかに戦争中がバカげた時代だったか。自由に批判できることの大切さ。もちろん、密室や時間の謎も完璧に解明される。いくつもの密室が書かれてきたが、この設定は初めてだと思う。しかし、問題は「動機の謎」の方だ。僕も方向性は当てられたが、真相は見抜けなかった。

 ところで作中では「GHQの命令で男女共学になった」とされるが、東日本では男女別学がずっと続いた地域がたくさんあった。栃木・群馬・埼玉では今も男女別学の公立高校が残っている。だから全国一斉の命令なんかなかった。愛知県に駐留した連合軍は男女共学を求めたのかも知れないが、詳しいことは知らない。もちろん、いわゆる「六三制」と言われる新教育制度、中学校まで義務化されたのは全国一斉である。それに伴って、新制高校が設立されたわけである。だから、この本で書かれている戦後事情も、名古屋独自のものもあると思って読んだ方がいい。

 ところで辻真先がアニメの脚本を多数手掛けているのは知っていたが、何を書いていたかは特に調べたことはなかった。今回ウィキペディアを見たら、あまりにもすごいので驚いた。「エイトマン」「鉄腕アトム」に始まり、「オバケのQ太郎」「魔法使いサリー」「ジャングル大帝」「巨人の星」「ゲゲゲの鬼太郎」「サザエさん」。もっともっとあって、それが60年代。70年代になって「天才バカボン」「海のトリトン」「ドラえもん」…ちょっと面倒になったので止めるけど、21世紀の「名探偵コナン」まで書いてるので、日本人のほぼ全員が辻真先脚本のアニメを見ていたのである。
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映画「アンダードッグ」、森山未來、北村匠海のボクシング映画

2020年12月22日 22時31分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 「ホテル・ローヤル」を見たばかりの武正晴監督「アンダードッグ」前後編が上映されている。前編131分、後編145分と合わせて4時間半超の巨編である。しかし、本当はこれで終わりではなく、1月から配信されて続くらしい。森山未來北村匠海のダブル主演で、壮絶なボクシングシーンが見どころだ。2017年の「あゝ、荒野」の菅田将暉も凄かったが、これも負けていない。

 今まで前後編に分かれた作品は別々に公開されることが多かった。しかし、「アンダードッグ」は同時上映である。続けて見ようと思うと、「朝早くから」か「夜遅くまで」になって見るのも大変だ。しかし、じっくり時間表を見たら、丸の内TOEIでお昼過ぎに前編を見て、別の日に渋谷のシネクイントホワイトでお昼過ぎから後編を見るという手があった。どっちもガラガラだったが、長いからでもコロナだからでもないと思う。内容的に暗すぎるのかなと思った。

 「アンダードッグ」というのは、闘犬用語で「かませ犬」。強い犬に自信をつけさせるため、噛ませるためにあてがわれる弱い犬のことだ。末永晃森山未來)は一度はライト級1位となり、海藤との伝説のチャンピオン戦でも優勢に進めていたが、最後にノックダウンされた。以後は浮かび上がれず、妻(水川あさみ)は長男太郎と出ていき、引退する決心も付かない。今はデリヘルの運転手で、事情ありそうな子連れの明美瀧内公美)などを送り迎えをしている。

 前編ではそんな末永に持ち込まれたお笑い芸人・宮木瞬勝地涼)とのエキシビションマッチ。大物タレントの2世で、何不自由なく暮らしてきたが芸人として鳴かず飛ばずの宮木。芸人がボクサーを目指すという企画で、プロテストを受けて合格する。宮木はプロをなめるなと言われながら、自己証明のためにトレーニングを続ける。末永は勝って当然だが、手心を加えるように「演出」が持ち込まれる。果たしてどんな試合になるのだろうか。

 後編では、前編から何故かウロウロしていた新進ボクサー、木村龍太北村匠海)との因縁が物語の中心となる。生育の事情を抱えた龍太は、ある事情から末永を意識して生きてきた。だから前編から、末永のジムに夜中に現れたりする。龍太はデビュー戦以後、破竹の勢いで勝ち続けチャンピオン戦も間近と言われるまでになる。しかし、いつも明美を呼んでいた男と因縁があった。ボクサーを止めざるを得なくなった龍太は、最後の一戦としてよりによって引退を決意していた末永との試合を希望する。再び壮絶な闘いが始まるが…。

 脚本足立紳、監督武正晴、撮影西村博光、音楽海田庄吾というのは、「百円の恋」のスタッフと同じ。あの映画も出色のボクシング映画だったが、「アンダードッグ」はもっと大きなスケールで人間模様を描く。都会の下積みの世界ばかりが描かれ、虐待、暴力に囚われて「愛」を失いつつある人々。ボクシングに命をかけたが「かませ犬」に落ちてしまった末永は浮かび上がれるのか。

 森山未來はやり過ぎなぐらいにトレーニングを積み、プロテストを受けてみたというぐらいだ。今までのボクシング映画は、「ロッキー」が典型だがチャンピオン戦が山場になることが多い。それに対して「アンダードッグ」ではチャンピオン戦は過去の伝説で、「その後のくすぶった日々」を描く。出てくる試合は壮絶だが、それはエキシビションマッチに過ぎない。勝とうが負けようが、所詮は前座だ。こういうボクシング映画は今までにないと思う。

 数年前にフランス映画「負け犬の美学」という45歳のボクサーの映画があった。森山未來はもちろんもっと若いけれど、下層ぶりはもっとすごい。何しろ昔の知り合いの性風俗店で働いてるぐらいだ。そんな中で「明美」とその娘をめぐる忘れがたいエピソードも出てくる。盛りだくさんすぎて大変だが、「貧困」をめぐる映画でもあった。脇役が充実していて一気に見られるが、どうも暗いなあとも思う。末永も喫煙している時点で、どうかと思う。(龍太にも言われてる。)後編のラストの試合シーンは、後楽園ホールを借り切って2020年2月17日、18日に行われたという。ちょっと遅れていたら、コロナ禍に引っ掛かっていた奇跡の撮影だった。
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「アジア太平洋戦争」ー「戦争と文学」を読む⑦

2020年12月20日 22時37分24秒 | 本 (日本文学)
 毎月一冊ずつ読んできた集英社文庫の「セレクション 戦争と文学」もついに7冊目。後一冊を残すのみ。12月は「アジア太平洋戦争」だが、これは水木しげるの巻末インタビューを入れると、全部で750頁を超える一番の大冊だ。持ち歩くのも重くて大変である。しかも、読んでる短編小説が一番多い。中でも大城立裕亀甲墓」なんか、ついこの間読んだばかりだ。よっぽど飛ばそうかと思ったが、折角だから全部読むことにした。そのため予定より時間が掛かってしまった。
(カバー画=橋本関雪「曙光」)
 日本時間の1941年12月8日に、米英との戦争が始まった。今でも一応マスコミでは触れているが、僕の若い頃よりはずっと少なくなった。戦争は「真珠湾攻撃」で始まったのではなく、「マレー作戦」の方が早かった。そのこともずいぶん言ってきたのだが、一向に定着しないようだ。大日本帝国はこの戦争を「支那事変」(日中戦争)を含めて「大東亜戦争」と呼ぶとした。アメリカはこの戦争を「太平洋戦争」と呼んだが、戦争はインド洋方面にも及んでいた。歴史学界から「アジア太平洋戦争」という呼称が提案されたが、これも一般には定着したと言えない。

 長くて最初の頃に読んだものは忘れかけている。戦時中に書かれた太宰治上林暁高村光太郎の3作は「資料的価値」というべきだろう。北原武夫嘔気」はインドネシアに徴用された作家の無為な日々を描く。名前は知っていたけど初めて読んだ作家である。宇野千代の夫だった人物で、ずいぶん達者な筆力だ。何も出来ぬ無力感が印象的。

 庄野英二船幽霊」は貴重な作品だ。「タースデー・アイラン」にいた日本人がオーストラリアに抑留される。どこだと思うと、北部にある小島「木曜島」のことだった。アコヤ貝採取のため、南紀串本の漁民が戦前は大挙して出掛けていたという話は聞いたことがある。彼らが全員「捕虜」として抑留されていたとは知らなかった。演芸会を行ったり、毎月8日に「大詔奉戴日」をやってるなど、やはりという感じ。戦中にあった不思議な日本人集団の歴史である。

 火野葦平異民族」は、インパール作戦中のビルマ(ミャンマー)で「異民族統治」にあたる日本兵の様子を描いている。厳格を重んじる上官に人々は恐れを抱き従っているように見えたが…。火野葦平の戦後作品で、読みやすくて考えさせる。中山義秀テニヤンの末日」は前に読んでるけどすっかり内容を忘れてた。サイパン島近くのテニヤン島に赴いた二人の若き軍医の話で、やはりよく出来ている。やはりというのは、僕はこの作家が好きでずいぶん読んでいるから。戦前に芥川賞を受けた「厚物咲」は強烈な作品である。発表当時評判になった作品だが、今になっては戦争文学としては時間が立ちすぎた感じもした。
(中山義秀)
 全部書いてると大変なので、三浦朱門礁湖」、梅崎春生ルネタの市民兵」などは名前を挙げるだけで。負けていく日本兵を描く小説は大体パターン化していく。若い時に読んだら衝撃を受けたろうが、案外似ているのが多くて飽きてくる。そんな中で、大城立裕亀甲墓」は、沖縄の伝統的習俗と圧倒的な米軍の攻撃力の交錯する場を描き尽くしていて見事だ。

 それに対して若い時に読んで感銘を受けた吉田満戦艦大和の最期」は読みにくさが先に立った。戦艦大和から辛くも生還し、戦後は日銀監事まで務めたが1979年に56歳で亡くなった人物である。戦後になって「書き残す」ために書かれた記録なので、戦艦大和そのものを問い直す視点はない。空母も残ってなくて制空権を持たない中をただ撃沈されるだけの「特攻出撃」だった。もともと帰りの燃料を積んでなかった。これだけ読むと荘重な史劇を読む感を受けるが、今から見ると恐るべき愚挙に驚きが先に立つのである。

 文学として一番評価したいのは島尾敏雄出発は遂に訪れず」だ。島尾敏雄も若い頃に大体読んでいて、ずいぶん久しぶり。読みやすいとは言えないが、最後まで気が抜けない名作だ。奄美の加計呂麻島に配属された大学出身の若い海軍士官。ひたすら特攻訓練に明け暮れ、ついに8月13日に出撃命令が下るも、結局最後に延期される。そのまま次の日も命令がなく、15日には司令部に集まるように伝達される。彼は島の娘と恋仲になり彼女は毎日心配で見に来る。これは有名な話で、結局出撃前に「8・15」を迎え、二人は戦後になって結婚するがそこでも壮絶な話が起きる。それはともかく「極限における心の揺れ」を見事に文章化した傑作だ。
(若い頃の島尾敏雄)
 三島由紀夫英霊の声」が入っていて初めて読んだ。二・二六事件で死刑となった反乱兵と特攻で死んだ兵の霊魂が呼び下ろされる。そこで天皇(昭和天皇)の「裏切り」に痛烈かつ痛切な告発をなすという「問題作」として有名だ。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」と「人間宣言」を批判する。解説の浅田次郎は美しい文章と評するが、僕には空疎な観念的文章としか思えなかった。本当に「二・二六」の霊魂ならば、まずは陸軍刑法に反して私兵を動かしたこと、多くの人の生命を奪ったことへの謝罪が最初にない限り信用出来ない。何も戦後になって裏切って「人間」になったのではなく、もともと天皇は人間である。こんな程度の認識では「昭和維新」なんかできない。結果的に依り代となった盲目の青年まで死んでしまった。罪深い作品だ。

 吉村昭「手首の記憶」は樺太でのソ連軍侵攻時の悲劇、蓮見圭一「夜光虫」は潜水艦に乗務していた祖父の思い出。ともに貴重な作品で、特に吉村作品は何だか最後に重大な問題が残っていたなあという感じを持った。
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陽気に行こうー高石ともや「年忘れコンサート」2020年

2020年12月19日 22時35分47秒 | 自分の話&日記
 毎年行ってる「高石ともや年忘れコンサート」に今年も夫婦で出掛けてきた。1982年からずっと行ってるはずだから、もう40年近くなる。ここまで来たら客と一緒に年を取っていくだけで、最後まで付き合おうかと思ってる。前に書いた年もあるけれど、基本は毎年同じようなもんだから書いてない年の方が多いと思う。だけど、今年はちょっと特殊だったから記録しておきたい。

 会場はここ10何年か、江東区亀戸の「カメリアホール」だが、今年は一日2回公演になった。午後2時から3時半午後5時から6時半の2回である。その代わり、席が半分になっている。つまり「密」を避けるため、一席ずつ離れて座ることになる。昼間の回に行ったが、5割で満員のところの9割ぐらいの入りだった。全席からすると45%ぐらい。いつもは主催の労音のチラシが渡されるけど、今年はそれがなかった。ネットで調べてみたら、やはりどんどん中止になっている。出来ただけでも奇跡のようなコンサートだ。

 チケット発売は10月だったが、発送はいつもと違って11月下旬だった。高石ともやは60年代末の「フォークソング」ブームで登場したんだから、基本的にはギター一本で歌える。だから何とか開催できないかと思っていたら、毎年出ているバンジョーの坂本健他、ベースとハーモニーを加えて4人の公演が行われた。久しぶりなのか、本人も乗っていたのか、3時半で終わるはずが4時10分頃までやってた。アンコールはやらなかったけど、十分満足。

 プログラムが配布されているのに、最初から全然違っていた。ラストの締めが「想い出の赤いヤッケ」となってるのに、一番最初に歌ったぐらいだ。若い頃の思い出から始まって、「」「さすらい」の歌が多い。「フレイト・トレイン」(貨物列車)というアメリカの歌をやったが、これはピート・シーガーの家にハウスキーパーとして働いていたエリザベス・コットンという黒人女性が作った歌だという。貨物列車に飛び乗って全米を渡り歩く「ホーボー」の世界、下層労働者の「渡り」がアメリカのフォークソングだった。今年が「ステイホーム」の年だったからこそ、フォークソングのベースである「旅」への回帰である。

 日本では北山修作詞の「さすらい人の子守歌」(はしだのりひことシューベルツ)なども懐かしい。さらに昔語りのついでに、大阪で屋台の蕎麦屋をしながら歌ってた「浪曲子守歌」(逃げた女房に未練は無いが…)まで披露。その流れでプログラムにない「友よ」まで久しぶりに。「友よ 夜明け前の闇の中で 友よ 闘いの炎を燃やせ」、「夜明けは近い」なんて歌ったが、結局夜明けなんか来なかった。若い頃には予想もしなかった世界を生きているが、「友よ 君の涙君の汗が 友よ 報われるその日が来る」という「その日」は本当の意味では来なかった。
(CD「陽気に行こう」)
 岐阜の民謡「音頭与三郎」(おんどよさぶら)は古くから歌ってるレパートリーだが、これが「はやりやまい」の歌だったとは今まで気付かなかった。そして、やっぱり前半でも歌い、ラストでも歌ったのが「陽気に行こう」だった。アメリカのカーター・ファミリーが歌った曲で、原題は「Keep on the Sunny Side」である。「喜びの朝もある 涙の朝もある 長い人生なら さあ陽気に行こう 苦しいことはわかってるのさ さあ陽気に行こう」と訳詞を付けたのが高石ともやさん。コロナ禍の歌はやはりこれしかない。「嵐吹き荒れても 望み奪われても 悲しみは通り過ぎゆく 陽も輝くだろう」…検索すれば「YouTube」で若い頃の「ナターシャ・セブン」時代のものなど出てきます。
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羽子板市の浅草に落語を聞きに行く

2020年12月18日 22時47分45秒 | 落語(講談・浪曲)
 今年はついに旅行や演劇には行かずに終わりそうだ。コロナの影響というだけではない。家に年寄りがいるので、泊りで出掛けにくい。演劇は面白そうなのは、高くて遠い。秋からは見たい公演がいくつか出てきたが、歯医者が始まってしまって余裕がなかった。(来年早々の二兎社は取ってある。)ということで、何とか落語だけは行きたいなと思う。もっとも夜は避けたくなってしまう。どこかで食べないといけないから。そこで羽子板市の浅草に落語を聞きに行った。
 
 羽子板市も初めてではないと思うけど、ガラガラでビックリ。大体、こんな羽子板を何故買う人がいるのか、僕には判らない。浅草自体も人が少なくなっている。まあ、それでもいるとも言えるが、ちょっと前よりも減っていると思う。正月間近の仲見世はこんな感じ。
 
 TOHOシネマズで映画を見ると、山崎紘菜が「映画館っていいですよね」と言ってるけど、それは昔の映画館だろう。指定席なんかほとんどなく、いつ入っても良かった。ヒット映画は立ち見で見た。ナマ(ライブ)という意味で、演劇やコンサートには独自の緊張した匂いがある。そこが好きだが、でもずいぶん前からチケットを買ってないと、今では行くのも難しい。

 それを考えると、僕は一番寄席が落ち着くと思う。まあ椅子が悪くて疲れるが、いつ入っても構わないし、途中で出ていく人はいっぱいいる。そして時には12時前から夜9時頃までいられる。眠くなったら寝てしまっても、演者が変わるから筋が判らなくなることはない。

 12月中席は上野・鈴本演芸場浅草演芸ホールは出演者がかなり被っている。近いから時間を変えれば、両方に出られる。それを浅草に行ったのは、落語協会会長の柳亭市馬会長をしばらく聞いてないので、ずっと聞きたかったから。上野にも出ているが、浅草はトリである。たっぷり「掛け取り」をやって聞き応えがあった。

 「掛け取り」というのは、大晦日の借金取り攻勢を如何にしのぐかという話だ。去年は「死んだふり」で逃れた。今年はどうするか。相手の好きなジャンル(狂歌や芝居)に話を引きつけて、うまく撃退してしまう。市馬師匠の「掛け取り」は三波春夫ファンの借金取りに対して、歌ってごまかしてしまう。必ず歌入りになる市馬らしい工夫で、最後は東京五輪音頭でコロナ退散だった。

 今日は他でトリを取る五街道雲助三遊亭圓歌、最近人気沸騰の春風亭一之輔桃月庵白酒、大御所の林家木久扇鈴々舎馬風、さらに古今亭文菊三遊亭白鳥三遊亭歌武蔵など人気者が勢揃い。これで3千円は安い。若手の柳家わさびの「パーリー・ピーポー」もおかしかった。笑いで言えば漫才のロケット団がいつものようにバカウケしていた。「今年ももうすぐおわりです、か?」と何でも疑問文にするのが笑えた。

 白酒師匠が「時々メモ帳を開いて採点してる人がいるけど、これは困る」と言ってたけど、僕も同感。ぼうっと聞いてればいいと思うので、演題も忘れてしまう。しかし、その桃月庵白酒師匠の「粗忽長屋」のとことんバカバカしいけど、突き抜けた感じのぼけ具合が良かった。行き倒れの死体を「隣に住んでる熊だ」と言い張り、今朝本人に会ったから連れてくるという訳の判らない男を絶妙に演じている。何度も聞いてる話だが、印象的だった。この人はあまり聞く機会が無かったけれど、すごく面白くてハマりそうである。まあ、備忘のために書いておく次第。
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アゼルバイジャンが勝利した「ナゴルノ・カラバフ戦争」

2020年12月18日 21時01分34秒 |  〃  (国際問題)
 2020年9月27日に再燃した「ナゴルノ・カラバフ戦争」に関しては、10月3日に「再燃したナゴルノ・カラバフ戦争」を書いた。その後の続報。前回記事では「アゼルバイジャン側から紛争を再燃させた可能性が高い」と書いた。ロシアが中心になった停戦の試みは何度か挫折し、結局は事実上アゼルバイジャンの勝利で終わった。12月10日には支援したトルコのエルドアン大統領を迎えて、アゼルバイジャンの首都バクーで「戦勝パレード」が行われた。
 (右=エルドアン大統領、左=アゼルバイジャンのアリエフ大統領)
 エルドアン大統領は自ら出掛けていって、アゼルバイジャン兵を閲兵しているんだから、ナゴルノ・カラバフ戦争へのトルコの介入を公然と認めたと考えていい。パレードではトルコ製の無人攻撃機アルメニア軍から奪った装甲車両などが披露されたという。軍事衝突の細かい経緯はウィキペディアに「2020年ナゴルノ・カラバフ紛争」という項目があり詳しく知ることが出来る。今回の戦争で双方に数千人の死者が出たとされるが、確実な死者数は判らない。

 1990年代に起こった戦争で、アルメニアとアゼルバイジャン内の「ナゴルノ・カラバフ自治州」は事実上つながった。その状況で停戦していたので、当初はアメリカロシアフランスの和平協議議長国は即時停戦を求めた。しかし、アルメニアに対しては国連安保理の撤退決議があり、トルコはそもそものアルメニア軍の占領地撤退を要求した。結局、44日間戦闘が続き、トルコの支援を受けたアゼルバイジャンが南部を制圧した。アルメニアは占領地撤退を受け入れざるを得なくなったのである。ただし、本国とナゴルノ・カラバフとの「回廊」が一部残された。

 紛争の絶えない地域だが、今回の戦争をめぐる関係各国の対応は複雑怪奇。アゼルバイジャンはイスラム教のシーア派が圧倒的だが、スンナ派のトルコやパキスタンが支援した。しかし、シーア派の大国イランはアルメニアを支援している。(イラン北部にはアゼリー人の独立運動があり、アゼルバイジャンとは対立関係にある。)イスラエルがアゼルバイジャンを支援し、サウジアラビアはアルメニア支持らしく、宗教や宗派とは無関係にどの国も「敵の敵は味方」の論理で行動していることが判る。大国ではフランスがアルメニアを支持している。

 今後はアルメニアがこのままで済むかが焦点になる。パシニャン首相は停戦協定受け入れをめぐって「私にとっても国民にとっても筆舌に尽くしがたい苦痛」と述べたが受け入れざるを得なかった。戦争中は首相夫人が前線を慰問に訪れ銃を撃つ写真が国際的に話題となった。しかし、戦局を挽回すること出来なかった。20年間に及ぶ占領地から引き上げざるを得なかったアルメニア人が多数いたという。パシニャン首相への批判が起きるのは避けられない。もともと首相の政治的地盤は弱く、反政府運動も起こっている。
(アルメニアのパシニャン首相夫人)
 アルメニアとトルコは歴史的に対立関係にある。第一次大戦末期のアスマン帝国による「アルメニア人大虐殺」が背景にある。今後「反トルコ」を掲げる右翼政党が勢力を伸ばして、アゼルバイジャンへの「復讐」を求める可能性は否定できない。今回のままで決着するとは考えられない。しかし、アルメニアを支持する欧米各国でも、トルコのように武器や傭兵を送るほどの支援には踏み切れないだろう。もともと、この地域は「旧ソ連」だから、ロシアの影響力が強い。キリスト教国のロシアがアルメニアの後ろ盾だったはずが、今回は全然役立たなかった。

 じゃあ、トルコとロシアは対立しているかと言えば、これも複雑。シリア内戦への対応で協力する場面もあり、トルコはロシアから武器を輸入した。トルコはNATO加盟国なので、アメリカはそのことに不快感を示して制裁を決めた。今回のナゴルノ・カラバフ戦争の国際的影響としては、一番は間違いなく「ロシアの影響力低下」だろう。ベラルーシ情勢もあって、プーチン政権に影響を与える可能性もある。一方、確実にポイントを稼いだのがトルコのエルドアン大統領。秘かに「オスマン帝国再興」を目指すとも言われるが、アラブ諸国に問題が多発する中で「イスラムの盟主」的な振る舞いが多くなるのではないか。何にせよ、今後も注目していくべき地域だ。
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コロナ「第三波」をどう考えたらいいのか

2020年12月17日 22時56分32秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスの感染者増が止まらない。12月17日には、東京で「822人」という「過去最多」を大幅に更新する人数となった。日本各地で毎日のように「過去最多」を更新し続けている。一体この事態をどう考えればいいのだろうか。ここしばらく「新型コロナウイルス問題」については何も書かなかった。政府の政策について書いたことはあるが、ウイルス感染の広がりそのものに関しては書いていない。僕には全然判らないので書くことがないからだ。しかし、ここまでの事態になったので、判らないなりにそのことを書いておきたい。
(東京で822人)
 この事態は「第三波」とみなされている。夏に「第二波」があったということを前提にしている。確かに感染者数のグラフを見れば、山が3つあるというのが確認できる。しかし、一番重要な「死者数」に関しては、第一波の方が多かった。この死者数が第二波で激増しなかったことが、ある種の「油断」につながったのは間違いない。

 この1ヶ月でどのくらい増えたかを確認しておきたい。11月15日付の新聞を見ると、国内での確認感染者数は「11万7145人」となっている。前日から1731人が増加していて、3日連続で最多となったと書いてある。死者数は「1888人」である。今度は12月15日付の新聞を見てみると、感染者数は「18万2230人」になっている。「6万5085人」の増加である。死者数は「2649人」である。増加数は「761人」になる。この死者数は現時点で「2754人」で、2日で100人以上増えている。
(11月までの感染者数グラフ)
 感染、発症、重症化、死亡と段階が進むにはタイムラグ(時間差)がある。今後死者数の激増が強く懸念される。それにしても、感染者がたった1ヶ月で5割も増えたことには驚いてしまう。年末年始にかけて、重症化する患者が増えて「医療崩壊」に近い状況が起きる可能性が高い。
(重症者数の推移、10月から12月)
 日本だけでなく、規模はそれぞれ異なるものの、アメリカ、ヨーロッパ諸国、韓国などでも同じく感染者増が報告されている。その意味では「季節要因」、つまり冬になって気候が寒冷になって「風邪を引きやすい季節」になったことが背景にあるのは間違いないだろう。東京では雨がほとんど降らず乾燥が進み、紫外線も弱くなっているので、それらもウイルス蔓延の原因だろう。

 また「ウイルスの変異」も恐らくあるだろう。コロナウイルスは特に変異が激しく、ダイヤモンド・プリンセス号の中でさえ変異が起こったというのだから、今後もどんどん変容していくだろう。日本でどのような変異があったか、なかったかは判らないけれど、より感染しやすいウイルスが登場したのかもしれない。特に感染が広がっている欧米との行き来はほとんど無いのだから、最近近隣アジア諸国との往来が少し緩和されたが今回は「外国からの感染」は考えにくい。

 「PCR検査」の数が春頃に比べて大きく増えているから、その結果陽性患者が増えているという指摘もあるがそれは本質的な原因ではないだろう。そうなると、やはり「社会的要因」が大きいと思う。特に「若年層に緩みがある」という声が高い。ただし、若年層には重症化リスクがほとんどないということが判っている。ゼロとは言えないものの、死亡に至るケースは他の疾患がある場合を除けば、ほぼ考えられないと思う。それを考えると、若い層がコロナを恐れず会食や旅行をしたとしても、病気に関するエビデンスから「問題ない」とも考えられる。

 過去にはインフルエンザ流行が報道されていても、多くの人はマスクもせずに忘年会に出掛けたり、ライブハウスに行ったりしていた。12月にはベートーヴェンの「第九」で合唱していた人も多いだろう。インフルエンザで毎年数千人が亡くなっていたことを考えれば、「新型コロナウイルスもそれほど恐れるべきではない」というのも一理あると思う。だがインフルエンザは検査もすぐ出来るし、治療法も確立されている。今度の新型コロナウイルスは未だに治療法が確立していない。急激に悪化して死亡する事態も起こっている。じゃあ、どうすればいいのか。

 僕は何より「会食」が問題ではないかと思う。医者が会食してクラスターが発生したりしている。やはり「やる人はやる」のである。夜の飲み会でも、風俗産業でも、開いていれば「行く人は行く」のである。そしてやがて若年層の感染は高齢層にも広がってしまう。無症状の段階でも感染力があるというウイルスなんだから、たちが悪い。完全に止めてしまうと「倒産」や「失業」が激増してしまう。だが税金を使って「会食を奨励する」政策を冬が来る直前に始めたことは間違っていたのではないだろうか。「Go To イート」は飲食業支援という以上に「デジタル化推進策」だったのではないだろうか。
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ブラジル映画「バクラウ 地図から消された村」

2020年12月16日 22時18分08秒 |  〃  (新作外国映画)
 渋谷のシアター・イメージフォーラムで「凱歌」というドキュメンタリー映画を上映している。(18日まで。)11時10分から一回上映なので、朝早く家を出たら途中で電車が停まってしまった。でも11時上映開始と思い込んでいて、スマホを見直したら11時10分開始だった。この10分間の余裕で何とか間に合った。坂口香津美監督がハンセン病療養所多磨全生園に10年間通って撮影した映画である。ハンセン病における「断種」の問題に深く迫った映像記録である。

 「凱歌」は機会があったらどこかで見て欲しい映画だけど、ハンセン病をめぐる問題点は今までに書いているので、ここでは別の映画を書いておきたい。シアター・イメージフォーラムは何とシニア料金が1300円なので、最近はあまり行かなくなっている。でも「凱歌」に続けて上映されているブラジル映画「バクラウ 名前を消された村」は見たかった。そんな映画は知らないという人が多いと思うけど、自分も実は同じだった。先に「燃ゆる女の肖像」を書いた時に2019年のカンヌ映画祭を調べていて、「バクラウ」が審査員賞を受賞していたことに気付いたのである。

 ブラジル映画では「ぶあいそうな手紙」というのを今年見たけど、あれは南部の都市ポルトアレグレの物語だった。この「バクラウ」というのは、それと全く別で、どことも知れぬ荒涼たる奥地の村である。昔ブラジルに「シネマ・ノーヴォ」という運動があって、グラウベル・ローシャアントニオ・ダス・モルテス」という荒れた奥地の映画があった。この映画に出てくる土地も、本当に荒れている感じで「何か」が起こりそうだ。この地に暴力が吹き荒れる様はまるで「西部劇」。

 村の長老格の祖母が死んで、テレサは久しぶりにバクラウに帰って来た。しかし、途中で一本道の道路で事故が起きていて不吉な感じを与える。案の定、その後村には不思議な出来事が相次ぐ。チラシには「謎の飛行物体」「殺人部隊」「不吉な訪問者」「狙われた水」などとおどろおどろしく書かれている。しかし、謎の飛行物体は「空飛ぶ円盤」型をしているドローンである。誰がドローンを飛ばしているのか。そして給水車が銃撃され、観光客などいない村に謎めいたバイクの男女二人組が現れる。一体この村で何が起こっているのだろうか。

 誰かに殺害された村人の死体が発見される。携帯電話がある日から通じなくなり、グーグルアースで村を探しても名前が載っていない。「名前を消された村」である。古典的な物語では「孤立した村」は、「孤島」だったり「災害」だったりで生じる。しかし、現代では「最新IT技術」が必要なのである。映画の半ば頃になって、謎の事態は「襲撃部隊」が引き起こしていることが判る。だが目的が不明で、何を狙っているのかが判らない。そして「明日は電気が停まる」という。

 最後は襲撃部隊と村人の戦いを描く。「七人の侍」以来の定番的展開だが、この映画では村人が隠れてしまって「沈黙の村」となる。一体どうなって行くのか、強い緊張感がみなぎる。ラストになって真相が明らかになるが、そこで政治によって「消された」ことが判る。確かに「権力」が関与しない限り、携帯電話や電気が停まるはずはない。監督はクレベール・メンドンサ・フィリオジュリアノ・ドネルスの二人がクレジットされている。前者のフィリオ監督は「アクエリアス」(2016)という映画が東京国際映画祭で上映されている。

 ソニア・ブラガ(蜘蛛女のキス)やウド・キアーが出ているが、まあ俳優で見る映画ではない。どっちかと言えば「ジャンル映画」的な作りだなと思うし、暴力的な描写も多い。しかし、ブラジル奥地の「西部劇」にも「世界」は現れる。ほとんど何でもありの暴力に突然さらされた人々はどうすればいいのか。荒涼たるブラジル奥地の風景を見るだけでも、心の中に熱い風が吹きすさぶ感じがする。この暴力的な世界が世界の現住地なのだろうか。不審なドローンにはご注意を。
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