尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「突然炎のごとく」の頃-トリュフォー全映画②

2014年10月30日 22時38分22秒 |  〃 (世界の映画監督)
 トリュフォー映画の3作目から6作目まで。できれば簡単に。
ピアニストを撃て(1960) ☆☆☆★
 トリュフォーの第2作は、アメリカのミステリー作家、デイビッド・グーディスの映画化「ピアニストを撃て」である。キネ旬ベストテン63年度9位。本国ではほとんど認められなかった作家だが、フランスで人気があり「狼は天使の匂い」など映画化が多い。ヌーベルヴァーグの映画作家が大好きだったアメリカの犯罪小説をフランスに舞台を移して映画にした。冒頭は二人組に追われる男を通りがかりの男が助けて、二人で結婚に関する世間話をしている。一体どうなるかと思うと、これは筋には関係ない。男はとある場末のバーに逃げ込んで、そこでピアノを弾いているシャルリに助けを求める。逃げてきた男はピアニストの兄らしい。兄弟があったのは4年ぶり。冒頭からパリの暗い夜の映画で、ところどころ昼間のシーンもあるものの、まさに「フィルム・ノワール」。
 
 このシャルリは実はかつての名ピアニスト、エドゥアール・サローヤンの世を忍ぶ仮の姿だった。過去に妻を亡くした辛い事情があり、以後ピアノは捨てたはずが、場末のバーの掃除夫をしていた時にピアノを弾いてしまった。今は彼のピアノで踊る客でいっぱいである。名前で判るようにサローヤンはアルメニア系で、実際にアルメニア人である有名なシャンソン歌手、シャルル・アズナブール(1924~)が演じている。このような、「暗い過去を背負う男」、「そんな男に尽くす女たち」、「男が捨てきれない家族の絆」が絡み合うストーリイがかなり自由に展開される。ミステリー的な感興はあまりないが、クローズアップを多用してB級映画っぽく撮り、その中でセリフとナレーションでグッと心に刺さるシーンを入れてある。お遊び的シーンも多く、何度か見るたびに面白くなる「スルメ映画」の典型だと思う。映画的興趣と彼に惚れているマリー・デュボワの魅力で★ひとつアップ。撮影にラウル・クタール、音楽にジョルジュ・ドルリュ-と、いわばトリュフォー組がそろった作品。撮影の魅力も大きい。

突然炎のごとく(1961) ☆☆☆☆☆
 1964年キネ旬ベストテン2位。何度見ても素晴らしい映画で、非常に強く胸を打たれる。クタールの撮影、ドルリュ―の音楽も最高だけど、ジャンヌ・モローのとらえどころのない、自由で神秘的な女性像が素晴らしい。生涯に2つの小説を残したジャン=ピエール・ロシェの原作「ジュールとジム」の映画化。第一次世界大戦直前、パリが世界の芸術の首都だった時代。ドイツから来たジュールはジムと友だちになり、思想や芸術を語りあい、女たちと恋をする。何人かの女性を遍歴した後、彼らはアドリア海の彫像にそっくりの女、カトリーヌと出会い夢中になる。この「ジュールとジムとカトリーヌ」の何年も続く、恋と別れの物語がこの映画である。ジュールが求婚し、カトリーヌは受け入れ一緒にドイツに戻った後に大戦が勃発する。大戦終了後、ジムはドイツに子どもと暮らす2人に会いに行く。そこで出会ったカトリーヌは情緒不安定で、ジムの恋は再燃しジュールもカトリーヌをジムの手にゆだねることにする。という、カトリーヌの恋の遍歴を書いても、この映画の魅力はほとんど伝わらないだろう。
  
 では何が魅力かと言われても、うまく表現できない部分もあるが、「自由な精神」が現実の中で摩耗していく、あの切ない想いを映像と音楽の魅力でフィルムの中に封じ込めた感じの映画だと思う。海辺で語り合う、自転車で田舎道を駆け抜ける、あの素晴らしい奇跡の一瞬。それは僕らの人生の中にもないではなかった青春の思い出であるが、一瞬で過ぎ去ることを僕たちは知っている。そして現実世界は、戦争に象徴される「死」に占領されている。だんだん「エラン・ヴィタル」(生命の躍動)の季節が終わり、心が死に囚われていく。その時の不安、どうしようもない思い、結ばれては離れていく心の絆、そういった生きる喜びと苦しさがこの映画には封じ込められているのだと思う。ゴダールの「気狂いピエロ」と並んで、「映画の青春」を葬った映画ではないか。以後の僕たちは、もう二度とこんなに切ない映画は作れない。ラストは衝撃的。「詩的な解釈」もできるけれど、このように不安定で破滅に向かう心とも接した経験があるので、非常に重く受け止めたい。僕にも何もできないと思う。

アントワーヌとコレット ☆☆☆
 「二十歳の恋」という仏独伊ポーランド、日本の青春を描くオムニバス映画のフランス編。(ちなみに日本編は石原慎太郎が監督している。)「大人は判ってくれない」のアントワーヌ・ドワネルが17歳になった時の後日譚。レコード会社(フィリップスでレコード製造をしている)に勤め、夜はクラシックのコンサートによく行く。青年音楽同盟とかのメンバーなのである。(これは労音みたいなものだろうか。)そこで年上のコレットを見染めて、何とか近づこうとし、友だちになる。両親にも気に入られ、もっと会いたいと彼女の真向いに引っ越したり…。でも、彼女はアントワーヌではなく、もっと年上の男が好きみたいで…。初々しい青春の恋の一こまを描いた短編(29分)。パリの風景が美しく、★ひとつサービス。アントワーヌの部屋に野口久光氏のポスターがあることでも有名。
 
柔らかい肌(1964) ☆☆☆☆
 65年のキネ旬ベストテン4位。ベストテン入選映画ではこの映画だけ長いこと見れなくて、10年位前に初めて見たが、その時にはあまり面白くなかった。今回見て劇的に評価が好転した2作の一つ。(もう一つは「野生の少年」。)テレビでも有名な文芸評論家ピエール・ラシュネーは、バルザックの本を出して好評を博し、ポルトガルのリスボンでの講演会に招かれる。行きの飛行機で、スチュワーデスのニコルと知り合い、リスボンのホテルで結ばれる。帰ってからパリでも関係を持ち続ける二人…。これだけ書くと、普通の「不倫」物語で、というか実際に「ありふれた三角関係の物語」そのものなんだけど、その描き方の真実味、細かな描写の積み重ねがとてもうまい。疲れて眠い時に見ると、「単なる不倫モノ」に感じてしまうかもしれないが、何度か見ると描写のうまさ、真実味が身に迫ってくると思う。

 ピエールと妻のフランカを演じているのは、ジャン・ドサイ、ネリー・ベネデッティという全然知らない俳優で、男の容姿もまあ「普通の中年男」である。ニコルだけが、フランソワーズ・ドルレアックという美女が演じているので、男から見れば「やむを得ないかなあ」「これは一目ぼれしてしまうよ」と思わないでもないのだが、それを「妻の目」でみるとどうなるか。そこで衝撃的なラストがあるが、これだけは僕は今でも納得できない部分がある。途中、講演会でランスに行くときにニコルを連れていくシーンが秀逸。特にルームサービスの朝食を外に出すと、猫がミルクを飲みに来るシーンは後に2回(「アメリカの夜」「恋愛日記」で)再現された。クタールの撮影するオール・ロケのパリやリスボンが美しい。何気ない冬の景色などが心に残る。(画像の2枚目はドルレアック、3枚目は姉妹共演の「ロシュフォールの恋人たち」)
  
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「大人は判ってくれない」の頃-トリュフォー全映画①

2014年10月29日 23時05分15秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランソワ・トリュフォー監督(1932~1984)映画蔡のまとめ。今まで書いた鈴木清順、蔵原惟繕、タルコフスキー、相米慎二など同じく、トリュフォーを見るのは素晴らしい体験だった。何度でも見られる映画である。やはりトリュフォーは「物語作家」で、物語の「語りのうまさ」が映画の出来を左右していると思った。各作品は参考のため、☆★で採点してみる。☆=20点、★=10点

あこがれ(1957) ☆☆☆☆
 非常に素晴らしい短編映画。自然描写の素晴らしさはルノワール「ピクニック」、悪童ものではジャン・ヴィゴ「操行ゼロ」があるけれど、同じように素晴らしい短編映画である。日本では「真夏の夜のジャズ」の併映で公開された。冒頭にベルナデット・ラフォンが自転車に乗って現れるところから、画面に眼を奪われてしまう。田舎道を自転車で駆け抜ける爽快感は、画面から風が吹いてくるかのよう。そのシーンは「突然炎のごとく」「恋のエチュード」で再現される。風でベルナデットのスカートがまくれ上がるシーンを見ると、「七年目の浮気」のマリリン・モンローの魅力も褪せてくる。

 トリュフォーの思い出ではなく、ちゃんと原作があるようだ。「悪童」たちが「年上の美女」にあこがれるあまり、かえって悪さをしてしまう。男なら誰でも思い出すような「男の子の胸キュン映画」。ロバート・マリガン「おもいでの夏」という忘れがたい映画があったけど、この映画はそういう感傷ではなく、もっと乾いた目で描いている。ベルナデットはよそ者の体育教師ジェラールと付き合って、婚約している。悪童たちはそれが気に食わなくて、いろいろいたずらするが、ジェラールはある日登山に出かけて死んでしまう。少年たちの心に忘れがたい傷が残る。ラストに黒服で歩くベルナデットを見かけるのだった。
 
 トリュフォーは、1954年に「ある訪問」という自主製作映画を作っているが、それは僕も見ていない。その後、ロッセリーニの助監督をしたりした後で、自分で会社を作って製作した。トリュフォーは映画会社や映画学校の出身ではない。映画ファンが映画批評を書くようになり、映画の実作に進んで行ったのである。批評家としては、当時のフランス映画を痛烈に批判して「フランス映画の墓堀人」とまで言われた。「あこがれ」の中でジャン・ドラノワ「首輪のない犬」のポスターを破るシーンがある。

大人は判ってくれない(1959) ☆☆☆☆
 長編第1作で、カンヌ映画祭で監督賞を受賞して、一躍有名になった。キネマ旬報ベストテン(60年)の第5位。(ちなみに1位は「チャップリンの独裁者」、2位は「甘い生活」、8位に「勝手にしやがれ」が入っている。)ゴダールの「勝手にしやがれ」という邦題も凄いが、この映画も、直訳すれば「400回の殴打」、慣用句で「無分別」という意味らしい。それを「大人は判ってくれない」としたセンスも大したものである。日本では、野口久光氏によるポスターが作られ、トリュフォーも大のお気に入りになった。後に「アントワーヌとコレット」の中で、アントワーヌ・ドワネルの部屋にこのポスターが貼ってある。

 映画は名カメラマン、アンリ・ドカエの撮影によるパリの美しい夜景から始まる。「死刑台のエレベーター」や「いとこ同士」を撮った人。「太陽がいっぱい」「シベールの日曜日」もドカエ。この「巴里風景」やポスター、題名により日本では少し内容が誤解されて受容されたのではないか。何というか、「パリの空の下セーヌは流れる」+「にんじん」といった、「おフランスの可哀そうな少年」もののように。

 今回で4回目ではないかと思うが、僕も若い時に初めて見た時は、「親に捨てられた子どもの青春の反抗」ととらえていた。当時は世界的に「若い世代の反抗」が描かれた時代で、アメリカのジェームズ・ディーン、ポーランドのズビグニエフ・チブルスキー、日本の石原裕次郎、そしてゴダール「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドと続く「新世代」の若者がいた。でもアントワーヌ・ドワネル(ジャン・ピエール・レオが名演)は12歳で、やることなすこと幼い。幼すぎて「反抗」とまで言えない。

 トリュフォーの自伝的「ドワネル」もの5部作の最初の作品。アントワーヌは学校で厳しい先生に叱られる。授業中に写真が回ってきて、何人目かのドワネルがいたずら書きしていると先生に見つかり立たされる。教室の前の掛図の裏に入ったドワネルは、自分は無実の罪で迫害されたなどと詩を書きつけて、それもきつく叱られる。授業中に関係ないものを回したのはドワネルではないと観客は知っているので、「先生はひどい」と思うような演出である。しかし、そこから映画を始めるからそう見えるけれど、多分今までにも似たようなことがあり、教室で「問題児」扱いされていたのではなかろうか。だから「またか」という目で見られるのと思う。親からも同じで、バルザック崇拝の神棚を作ってロウソクに火をつけたままにして、燃え上がって火事に一歩手前になるシーンを見ても、家でも似たようなことが多かったことを推測させる。

 その後の「タイプライター」を窃盗するも売りさばけずに会社に戻して捕まるシーンなど、一体何をやっているんだろうか。どうしようもない感じである。結局、大人(社会)との付き合い方があまりよく判っていない少年なのである。「謝る」ということが出来ず、一回の失敗が次の失敗につながり、結局親からも見捨てられる。感化院にいるときに母親が会いに来て、「父親にあんなひどい手紙を送るなんて」と言う。そしてもう帰るなと言われてしまうが、その手紙が出てこないから、アントワーヌが可哀想に見える。でも「頼るべきところ」を自分から切ってしまったのである。才能はあると思われるのに、どうして「自分から不幸になっていくのだろうか」と思う。一種の「軽い発達障害」により「人の心が読めない」ということか。後々のアントワーヌの恋愛失敗談を見ると、そういう理解もありかもしれない。

 でも、それ以上に「虐待」という育ち方が大きな影響を与えたように思う。母親は未婚で妊娠した相手とは結婚できず、他の男が結婚してくれて子どもを産んだのである。祖母に預けられた時もあるが、祖母も老いて母に返された。その経緯を自分でも知ってしまったアントワーヌは、父にはなじめず、夫に配慮する母親にも辛く当たられる。だから「無条件で可愛がってくれる」とか「頑張るとほめてもらえる」といった体験を知らずに育ってきたのである。しかし、感受性豊かな少年で、やがて映画や音楽が彼を支えることになる。こういう見方が正しいかどうかはともかく、「児童心理の教科書」のような映画である。教育や福祉を志す若い人たちに見せて、皆で話し合いさせてみたい映画。若い人は是非見て欲しい

 ラストでは脱走して走りに走って海へ至るが、その時のジャン=ピエール・レオの顔は忘れられない。この時の懸命な走りも「長距離ランナーの孤独」ような走る映画を別にすれば、「フレンチ・コネクション」か「陸軍」(木下恵介)を思わせる一生懸命さだった。トリュフォーのように映画会社での下積み経験がない若者が本格的長編映画を作ることは、当時はほとんどなかった。松竹ヌーベルバーグは会社員だし、タルコフスキーやポランスキーは映画学校の卒業制作が認められた。この経歴が「映画万年筆論」(アストリュック)を実証するような「新しい波」(ヌーヴェルヴァーグ)に思えて、世界的に大反響を呼ぶわけである。しかし、アメリカのフィルム・ノワールに熱中したトリュフォーの映画文法そのものは案外伝統的なものだったのだと思う。
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トリュフォー映画の美しき女優たち

2014年10月28日 23時56分32秒 |  〃 (世界の映画監督)
 彼は女たちを愛していましたが、もっと愛していたのは女優たちだったのです。     カトリーヌ・ドヌーヴ

 映画を愛し、多くの女性を愛したフランソワ・トリュフォ-。彼の遺した映画の中から、僕の個人的な選定で、多くの美しき女優たちを紹介してみようと思う。
①「あこがれ」のベルナデット・ラフォン(1938~2013)
 第1位が「あこがれ」のベルナデットでは意外すぎるかもしれない。いっぱい美女スターの出る傑作を撮ったというのに、最初の短編映画から選ぶとは。「あこがれ」はたった17分の短編だが、年少の悪童連中の眼から描いた「美しい年上の女」を生き生きと描いた傑作である。この映画が永遠の生命力を持つのも、ベルナデット・ラフォンの魅力ゆえだと思う。その後、女優として「なまいきシャルロット」などに出ている。トリュフォー映画では「私のように美しい娘」(1972)で主演。男を虜にするタイトル・ロールの悪女を演じてコメディエンヌぶりを発揮しているが、僕は「あこがれ」の清楚な美しさが忘れられない。
 (最初の画像が「あこがれ」、次が「…美しい娘」のベルナデット・ラフォン)
②「アデルの恋の物語」のイザベル・アジャーニ(1955~)
 文豪ヴィクトル・ユゴーの娘アデルの狂気の愛を描いた映画で、19歳でタイトル・ロールを演じて鮮烈な印象を残し、世界的な評価を得た。一度見たら永遠に忘れられない映画であり、主人公だと思う。この映画でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。この映画以後も順調に主演女優として活躍し、「カミーユ・クローデル」「王妃マルゴ」など5作品でセザール賞主演女優賞を獲得し、これは記録となっている。(セザール賞はフランス最高の賞とされるが、1976年に始まったのでシモーヌ・シニョレやジャンヌ・モローは一回しか受賞していないという問題はある。)私生活では、カメラマン・監督のブルーノ・ニュイッテン、「リンカーン」などでアカデミー主演男優賞を3回受けたダニエル・デイ=ルイスとの間に子どもがいる。
(イザベル・アジャーニ)
③「柔らかい肌」のフランソワーズ・ドルレアック(1942~1967)
 この名前では思い出せない人も多いかもしれない。カトリーヌ・ドヌーヴの姉なんだけど、残念なことに25歳で交通事故で亡くなってしまった。妹の方が美人かもしれないが、僕はフランソワーズの方が好みだなあと思う。というか、カトリーヌは美女すぎる。ジャック・ドゥミ「ロシュフォールの恋人たち」では姉妹共演、トリュフォーとポランスキーが姉妹を共に撮っている。「柔らかい肌」では文芸評論家と不倫関係になるスチュワーデス役を繊細に演じていて、実に素晴らしい。地方都市の講演会に一緒に行くシーンなど、心に響く。こんな男と付き合っていていいのかとアドバイスしたくはなるが。
(フランソワーズ・ドルレアック)
④「恋のエチュード」のキカ・マーカム(1940~)
 姉妹で同じ男を愛した「二人の英国女」の姉の方を演じた人。イギリスの俳優で、ヴァネッサの弟のコリン・レッドグローヴと結婚していた。(コリンは2010年に死去。)他の映画はあまり知られていないが、「キリング・ミー・ソフトリー」というチェン・カイコーがアメリカで撮った映画などに出演している。俳優としては余り大成しなかったが。このトリュフォー映画の奔放にして繊細、姉妹で惑う役柄を生き生きと演じ、僕は昔から気になっている女優である。画像の右の方の人。
(右=キカ・マーカム、左=ステーシー・テンデター)
⑤「緑色の部屋」のナタリー・バイ(1948~)
 「アメリカの夜」「恋愛日記」にも脇役で出ているが、「緑色の部屋」では死者に心を寄せるトリュフォー(自演)を思慕する役でしっとりした演技を披露している。この暗い映画が昔から好きで、昨年ナタリー・バイ特集がアンスティチュ・フランセ東京で開かれた時に、本人のトークを聞きに行った。この目で見た唯一のトリュフォー女優である。今でも美しかった。セザール賞を主演で2回、助演で2回取っている大女優だけど、助演で取っているように演技派である。僕はこの人の清楚な感じが大好き。「アメリカの夜」ではトリュフォーの近くで助手をしている役だが、そういうのも好ましい。私生活ではジョニー・アリディとの間に女優をしている子どもがいるという。
(ナタリー・バイ)
⑥「暗くなるまでこの恋を」「終電車」のカトリーヌ・ドヌーヴ(1943~)
 いくら何でもそろそろ挙げておかないと怒られそう。「暗くなるまでこの恋を」(1969)は陶然とする美女を演じていて、相手役のジャン=ポール・ベルモンドが「君は美しすぎる」を連発している。二人して破滅に向かうのも当然。「終電車」(1980)はフランスで評価が高く、セザール賞で10部門で受賞した。もちろんカトリーヌも主演女優賞。私生活ではロジェ・ヴァディム、マルチェロ・マストロヤンニとの間に子どもがいるのも有名な話。この2作のどちらのカトリーヌがいいかは決めがたい。20代と30代、それぞれ美しいけど、やっぱり美人過ぎるなあという感じもしてしまうのであった。あまり美人だと付き合いづらい。まあ、付き合う訳じゃないから関係ないけど。
 (先が「暗くなるまで…」、後が「終電車」)
⑦「突然炎のごとく」のジャンヌ・モロー(1928~)
 ジャンヌ・モローも2作品の主演、「黒衣の花嫁」もある。でも、やっぱり「突然炎のごとく」に限る。作中でも「美人ではない」と言われている。「ユニークで神秘的な顔」とかなんとか。その通りで、いわゆる美人という感じではない。でも忘れがたいという意味では、すごい女優だし、ほれぼれと画面に見入ってしまうという点では、カトリーヌ・ドヌーヴと双璧といってもいい。もっともジャンヌ・モローと言えば、ルイ・マルの映画の方が重要だろう。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」「鬼火」などで、その他ブニュエル、アントニオーニ、ゴダール、オーソン・ウェルズ、アンゲロプロス、マルグリット・デュラス、ピーター・ブルックなどそうそうたる監督作品に出ている大女優だから、トリュフォー映画の女優という扱いは失礼な感じがしてしまうのであった。
(ジャンヌ・モロー)
⑧「逃げ去る恋」のドロテ(1953~)
 「逃げ去る恋」という映画は、アントワーヌ・ドワネルものの最後の映画で今までのシーンが挿入されるほか、過去の女性たちが登場するという不思議な映画である。その中で初恋のコレット、結婚していたクリスチーヌに続き、今夢中になっているレコード店員サビーヌを演じているのがドロテという人である。とってもかわいい。他の二人より僕は好きだな。まあ、妻ならクリスチーヌなのかもしれないが。ドロテという人は、歌手やテレビのパーソナリティで知られた人のようで、子供向け番組長く持ってその中で日本のアニメを多数紹介したという。
(ドロテ)
⑨「アメリカの夜」のジャクリーン・ビセット(1944~)
 イギリスの女優で、母がフランス人なのでフランス語が流暢だという。70年前後にはハリウッド映画で活躍していて、すごく人気があった。そういう映画はもうあまり見られなくなり、「アメリカの夜」の劇中映画で主演女優を演じた(ということはつまり「アメリカの夜」の主演ということだが)ことが一番の輝きではなかろうか。その後もコンスタントに出てはいるが、最近はテレビで評価されているらしい。
(ジャクリーン・ビセット)
⑩「隣の女」のファニー・アルダン(1949~)
 この人は僕は苦手である。「永遠のマリア・カラス」などは良かったけど、それはカラスに向いているということで、美人だと思ったわけではない。「ピアニストを撃て」のマリー・デュボワという人にしようかと思ったんだけど、知名度の問題もあるし、一応トリュフォーが最後に愛したという事実に敬意を表するのも大事だろうと思うわけである。何しろ1983年に子どもまで作ってしまった。恋多きトリュフォーといえど、主演女優との間に子どもを作ってしまったのはファニー・アルダンだけである。遺作となる「日曜日が待ち遠しい!」もアルダンの主演だが完全に彼女と、というかファニー・アルダンの足を見せる映画になっている。どうも苦手なんだけど、とにかく10人目ということで。
(ファニー・アルダン)
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追悼・赤瀬川原平

2014年10月28日 01時08分57秒 | 追悼
 赤瀬川原平が亡くなった。10月26日。77歳。そう言えば最近は消息を聞かなかった。1937年生まれで、50年代から60年代に青春を迎えた世代である。僕は非常にたくさん読んできて、いろいろな影響を受けた。現代の芸術を考えるとき、ものすごく重要な意味を持っていた人だと思う。もっと高齢でも元気な人がたくさんいるので、とても残念。

 昔、「必修クラブ」というのが学校の正課内に置かれていた時代がある。僕が中学に勤務していた時はまだあったので、ずいぶん様々なことをやってみた。「ボランティアクラブ」を作ったのは、教育界にボランティアだの奉仕だのといった言葉が流行するはるか前である。「太極拳」というのもやった。その中に「路上観察クラブ」をやった年もあって、正課の時間内に生徒を外に連れ出して、「超芸術トマソン」探しを行ったりしたものである。「超芸術トマソン」というのは、その当時巨人の外国人選手として鳴り物入りで入団しながら、パッとしなかったトマソンという野球選手から取った言葉で、要するに「役に立ちそうだけど、役に立たない」という意味である。町を歩いて、登って下りるだけの階段とか、扉があるのに開けられないとか、そういった「物件」を見つけて行くわけである。その前後に「路上観察」という言葉を作って流行らせたのも赤瀬川原平の仕事である。
 
 僕はずっと前から好きで、1995年に大規模な回顧展が名古屋で開かれた時には、ちょうど近江旅行を計画していたので、わざわざ寄り道して見に行ったほどである。1960年代を振り返る展覧会が開かれる時に、赤瀬川原平らの仕事が顧みられることが多い。その当時の赤瀬川原平は「前衛美術家」という存在だった。50年代、60年代の前衛芸術運動では、「芸術そのものを問い直す」試みがなされた。美術で言えば、なんでそんなものが「美術」なのかという、トイレを置くとか壊れた椅子を置くとか、そんなことである。あるいはウォーホルのキャンベル・スープ缶の模写とか。

 赤瀬川原平は、高松次郎、中西夏之と「ハイレッド・センター」という、それぞれの名前を付けたグループを結成して、美術という枠を超えたパフォーマンスを行う。それは非常に面白くて、「東京ミキサー計画」という本になっている。その前から、赤瀬川は読売アンデパンダン展に出展を始めている。これは日展などの「監査」がある展覧会と違って、無鑑査で全部展示される展覧会である。アンデパンダンはフランス語で、英語ならインディペンデントだから、要するに美術のインディーズ運動である。これまた「反芸術アンパン」という傑作ノンフィクションがある。
 
 そういう活動の果てに、「千円札模写事件」が起きる。千円札を模写した「作品」が「通貨偽造罪」に問われたのである。こうして「闘う前衛芸術家」的イメージが70年代頃にはあった。朝日ジャーナル誌上に連載されていた「櫻画報事件」というのもあった。戦前の国定教科書にあった「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」をパロディというかパスティーシュしたもので、これはもちろん「右からの朝日批判」ではなく、新左翼的論陣を張ることが多かった朝日ジャーナルへの「批判的オマージュ」のようなものだと思うが、朝日上層部の逆鱗に触れ、ジャーナル編集部の大弾圧につながった。朝日新聞の訃報では、この件は触れられていない。僕は高校生の頃に、「現代の眼」という雑誌に年末特別付録として作られていた「画報」が大好きで、それで赤瀬川の名前を知ったと思う。千円札裁判や朝日ジャーナル問題は年齢的に直接の記憶はないけど、最初にこの人の名前を知った時には、「前衛美術家」だったのである。

 その後、小説を書かないかという編集者がいて「純文学」に進出、「父が死んだ」で芥川賞を受賞した。それらのポップな感覚も面白く、現代文学の文体に影響を与えているのではないか。その頃は離婚して幼女と二人暮らしだったこともあり、そういう設定の小説がたくさんある。そうした「生活の重み」の中で、だんだん「前衛臭」が無くなっていく。それがいいか悪いかは別にして、「芸術とは何か」という突き詰めた問いの代わりに、「役に立つとか立たないとかを超えたもの」に目が向くようになる。「無用の用」である。そうして千利休に関心を持つようになり(岩波新書にある)、映画「利休」の脚本にも加わる。「超芸術トマソン」もその流れで、要するに「意味のないものを面白がる」という精神である。

 そうなるのは何故だろうか。自分でも言っているが、これは一種の「日本回帰」である。政治的な前衛から権力の強制により「転向」したわけではないが、現代にも「芸術的な前衛から、日本の風土に回帰する」という現象が起きるのである。その意味を真に理解するのはもっと時間がいるのではないか。一つ大きいのは「肉体的な老化」である。60年代は「肉体の復権」などと言われたが、それを担ったのは20代、30代の若い芸術家であって、よほど鍛えた少数の人を除けば、50を超えるころからは趣味や嗜好も変わっていくのである。赤瀬川原平はもともと腸が弱くて体は頑健ではなかった。だから、年を取ると油っぽい洋食が苦手となり、ご飯に味噌汁という食事に戻っていくとどこかで書いていた。若い時の「無理」が効かなくなると、思想も食生活も「日本の風土」にあった「現実生活」にならざるを得ないのである。これはどんな人にも、どんな文化でも起こることではないかと思う。

 でも、面白いのは、赤瀬川原平はそういう自分を面白がる精神をずっと持ち続けたことだ。だから単純な「日本回帰」にはならない。「老人力」というベストセラーがその良い例である。これを「元気な老人」と誤解している人がいるが、もちろんその正反対。「記憶力が衰えた」という現象を「老人力が付いた」とありがたがろうという、一種のパロディである。1998年の本で、61歳のものだから、その程度の年の人しか面白がれないのではないか。本当に衰弱したら、「老人力」と言いようがなく、「生命力の危機」である。

 21世紀になって、古典的な絵の解説や美術館案内をいっぱい出しているが、最後は「絵が好き」という原点に戻ったのである。自分でも油絵を書くのが楽しいと書いていた。もともと絵が好きで美術大学に行った、その原点に戻ったわけである。日本画などという「つくられた伝統」ではなく、今の美術家は前衛から油絵に戻るのである。それが、戦後を代表する前衛美術家にして、屈指のエッセイストだった人の人生で、僕は学ぶべきことが山のようにあると思う。特に、「無用の用」を見つけて面白がる精神は忘れてはいけないと思う。ずいぶん多くの本が出たが、今は絶版が多い。古書や図書館ではいっぱいあるけど、そういう本を何冊か載せておいた。とにかく面白く、ぜったい損にならない本をいっぱい書いた人である。感謝。 
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「こころの時代」のトリュフォー映画

2014年10月25日 23時45分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランソワ・トリュフォー(1932~1984)の没後30年ということで、トリュフォー映画祭をやっている。もともと好きで、ほぼ全作品を見ているのだが、未見の「黒衣の花嫁」、劇場未見の「華氏451」だけでなく、この機会に出来れば全部見直そうかなと思っている。自分の家から行きやすいということも大きく、会期内のフリーパスを買ってしまった。だから最近見たばかりの作品ももう一回見に行っている。これほどまとめてトリュフォーを見る機会はもうないだろうから。今後各地に巡回する予定もあるので、ぜっかくいっぱい見たトリュフォーの映画をまとめて書いておきたい。

 もう30年も経ってしまったのかというのが率直な感想である。僕は70年の「野生の少年」から以後は、日本公開直後に見てきた。しかし、当時は僕にとってそれほど大きな存在だったわけではない。フェリーニヴィスコンティの新作が公開されていた時代だったし、大島渚ゴダールの方が僕にとっては大きな存在だったのである。私的な世界の恋愛映画ばかり作るトリュフォーが、いくらか疎遠に思えたものである。もちろん、映画史的知識として、「ヌーヴェルヴァーグの旗手」としてのトリュフォーの位置は知っていたが、その時代の作品には同時代的に接していない。僕は「恋のエチュード」や「緑色の部屋」の暗い熱情を愛していたが、世評はあまり高くなく、フランスでも日本でもそれほど大きく評価されなかった。

 僕が本当に入れ込んだのは「突然炎のごとく」を見てからで、とても惹かれるものを感じて、その後も折に触れて再見している。多分、今回で劇場で5回目になるのではないか。(ビデオも持ってて、それでも見ている。)今回初めて自分で気付いたのだが、このように何度も見ている日本映画として吉田喜重「秋津温泉」がある。撮影や音楽の素晴らしさも共通している。同じく何度も見ている成瀬巳喜男「浮雲」を思い出すと、やはりトリュフォー映画で好きな「恋のエチュード」も考え合わせ、すべて「男と女がくっついたり離れたりする年代記」ではないかと気付いた。自分はそういう映画が好きなんだろうか。たまたまなんだろうか。

 それはともかく、こうしてトリュフォーをまとめてみるという体験は、素晴らしいことだったけれど、思ったより疲れる体験でもあった。短編2、長編21の全21プログラムだけど、上映回数や上映時間が見やすくそろっているわけではない。時間が不規則になってしまうこともあるんだけど、トリュフォーの映画自体が今見るとかなり大変なのである。トリュフォー映画を昔見ていた時は、「傷つきやすい詩人の魂で、青年の恋愛や映画への愛をうたいあげる」といったイメージがあり、「反抗者」として出発しながらだんだん「フランス映画の頂点」になっていった「成功者」のように思っていた。その繊細な魂、傷つきやすい愛は多くの映画ファンの心の糧になり、「映画詩人」として多くの映画ファンをつかんだ。ヌーヴェルヴァーグの同僚だったゴダールが政治化して、商業映画から遠ざかり、復帰した後も「難解」な映画ばかり作っていたのと対照的に、映画ファンに愛されるトリュフォーという印象があったわけである。

 ところで題名にした「こころの時代」というのは、現代日本の「自分探し」「新型うつ」などといった言葉が「流行」する社会というような意味で使っている。自分の居場所が社会の中に見つけられず、引きこもり、自殺、ストーカー、児童虐待、「こころの闇」などに人々がとらわれるような社会。現代の日本をそういう文脈でとらえることが適切かどうかは別問題だが、そういった現象が昔より注目され問題視されているのは間違いないと思う。その時代に生きる目でトリュフォー映画を見てみれば…。改めて、暗いビョーキ系の人々ばかりが出てくることに驚くしかない。いや、ほんと。

 実際に心を病んで精神病院に入院するのは、「アデルの恋の物語」のアデル、「隣の女」の主人公女性(ファニー・アルダン)で、また「アメリカの夜」の劇中映画のヒロイン、ジャクリーン・ビセットが演じる女優も入院歴があり、担当医と結婚して復帰第一作という設定である。「隣の女」がそういう展開だったかとはビックリで、後に具体的な各作品評で触れるが、これは「こころを病む」ことをめぐる物語だったのである。初めからミステリーとして作られた映画が犯罪を扱うのは当然だけど、やはりその描き方は偏執的だったり、異常性が強く見られる。「突然炎のごとく」と「恋のエチュード」の2作は同じ原作者の映画化だが、やはり引きこもりや神経衰弱などの展開が悲劇につながる。「緑色の部屋」も現実世界に生きられず死者の世界に「引きこもり」していく男の映画。

 要するに、まともに社会適応している主人公はほぼ出てこない。冒頭ではそんな感じでも、だんだん逸脱してくる。もっとも社会の中で成功している人は小説や映画の中で主人公になることは少ないし、現実に成功している人はアートを必要としない(ことが多い)。主人公の死や自殺、そうではないとしても永遠の別れで終わる映画ばかりで、ラストにハッピーなのは数本しかない。そもそも、トリュフォー自身をモデルにした「アントワーヌ・ドワネル」もの(短編を含め5つある)そのものが、現実世界に居場所を求められない少年、青年の「自分探し」の物語だった。「大人は判ってくれない」も細かく見ていくと、発達障害や「自分から不幸になりたがる少年」の物語という構造を持っている。それは「虐待」の与えた傷だと僕は思う。そのようなトリュフォーのさすらいの青年期が、「カイエ・デュ・シネマ」のアンドレ・バザンという「代理の父」を得て、一応の居場所(映画作り)を見つけたのが、トリュフォーの人生だった。トリュフォー映画というのは、つまりは壮大なる「シネマ・セラピー」の記念碑なのだと思う。だから、今見ても物語が古びずに、魂に直接届いてくるのだ。
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佐分利信監督の「広場の孤独」

2014年10月23日 23時12分44秒 |  〃  (旧作日本映画)
 佐分利信監督の映画「広場の孤独」について書いておきたい。シネマヴェーラ渋谷で行われている「日本のオジサマⅡ 佐分利信の世界」という特集上映で、佐分利信が監督した作品が数本上映されている。「広場の孤独」はもう終わっているが、なかなか見る機会が少ないので見ておきたかった。

 この映画は傑作とか秀作と評価できる作品ではない。映画としては明らかに失敗作だと思うが、「問題作」というジャンルがあれば、そこに入れるべき映画だ。しかも、上映素材が非常に悪い。デジタル上映だが、事前に上映開始15分程度は画面と音声が合わないので了解の上で見て欲しいという。実際は覚悟した以上に状態が悪く、ほぼ全編にわたってノイズがひどい。昔のフィルム上映だとそういう場合もあるが、デジタルでこれほど悪いのは非常に残念である。しかし、逆に考えれば、「上映素材が残っていただけで貴重」とも言える。佐分利信監督には、今は失われて見ることができないと言われている作品がある。本当はフィルムセンターでデジタル修復して、大々的な佐分利信特集を行って欲しい。

 佐分利信(さぶり・しん 1909~1982)は戦前の松竹で活躍したが、僕には晩年の貫録ある大物役が懐かしい。山本薩夫監督の「華麗なる一族」の銀行頭取や小林正樹監督の「化石」の会社社長だけでなく、東映に招かれて中島貞夫監督の「やくざ戦争 日本の首領」にまで出演して驚かれた。もっとも中島監督は、これを日本の「ゴッドファーザー」として撮ったというから、つまりは日本のマーロン・ブランドだ。特集名は「オジサマⅡ」だが、これは先に「日本のオジサマ 山村聰」という特集があったからである。山村聰は日本で一番総理大臣役を演じた俳優だというが、晩年には政界、財界有力者を何度も演じた。二人とも戦後20年ほどぐらいの時期には、文芸メロドラマに多く出演して何人もの美人女優と「不倫」に陥っている。佐分利信の上映作品では、例えば「誘惑」では原節子、「わが愛」では有馬稲子…。

 ところで、この二人、佐分利信と山村聰は、いずれも1950年代には映画監督に進出し、共に社会派映画作家として大きく評価された共通点がある。そして、二人とも映画監督としてはほとんど忘れられ、オジサマ俳優として記憶されたわけである。二人とも小津安二郎映画で有名だが、佐分利信は戦前の「戸田家の兄妹」、戦後の「お茶漬けの味」「彼岸花」「秋日和」などで特に強い印象を残す。特に最後の2本などは、古い世代の父親が若い世代の結婚問題であたふたする様を演じていて、ほとんどセクハラまがいの言動をしている。そんな佐分利信がどのような映画を監督していたのか。当初は社会派路線だったのである。それは「蟹工船」「黒い潮」を撮った山村聰も同様である。

 佐分利信は、1950年に「女性対男性」で監督に進出、同年の「執行猶予」はベストテンで4位に選出された。(5位が黒澤の「羅生門」だから、それより上位だった。)翌1951年には「あゝ青春」(8位)、「風雪二十年」(6位)と2本がベストテン入選。1952年の「慟哭」(10位)と相次いで高い評価を受けたのである。高い知名度のあった俳優が監督に進出して、これほど高く評価されたのは、何十年か後の伊丹十三と北野武しかいないだろう。

 次に「人生劇場」2部作を撮り、次が「広場の孤独」。1954年に直木賞作品で二・二六事件を扱う「叛乱」を撮影中に病気で倒れ、阿部豊が引き継いで製作された。この後も50年代の間は毎年1本ほど監督しているが、それほど評価は高くない。(自分の出演したメロドラマが多い。)こうして完全に1950年代の映画監督だったわけだが、代表作と言われる「執行猶予」と「風雪二十年」が上映素材がない。松竹を支えた俳優だったけど、監督作品は独立プロや新東宝、東映などの製作が多いのがその理由だろう。残念なことである。

 「広場の孤独」だが、今では題名を見ただけで判る人がどれだけいるだろうか。これは堀田義衛(ほった・よしえ 1918~1998)の芥川賞受賞作品の映画化である。原作は1951年の話だが、それを製作された1953年に移し、新聞社に「スターリン危篤」の外電が入ってきたところから始まっている。主人公は有楽町にある新聞社、日産新報の外信部副部長の原口で、佐分利が演じている。しかし、原口は混乱する50年代日本を見つめる狂言回しであり、周辺には妻や部下の他、組合運動家や怪しげな外国人などがいろいろ登場する。原口は上海から引き揚げた過去があり、帰国後に子どもを失った。上海で非常に屈辱的な体験をしたらしいが、その時の関係者の外国人、オーストリアの元貴族であるらしいティルピッツなる人物も来日して暗躍し始める。原口はその動向を追うことにするが…。結ばれるべき人物が結ばれず、人心は乱れ、対立すべきではない人物が対立する…そういった50年代初頭、主権回復直後の日本の言論空間が描出されている。

 それが判りやすく面白いかと言えば、いまではほとんど理解不能な面も多い。「50年代」という時代、つまり日本の高度成長以前の社会は、今では非常に理解しにくくなっている。そのことを実感するような映画である。原作は2回読んでいるが細部は忘れた。原作発表時点ではまだ占領下であり、スターリンも存命だったわけだが、映画は製作時点の現実に合わせている。それが功を奏したのかどうか、判断は難しいが、全体としては後の熊井啓「日本列島」につながるような、日本はアメリカに占領されたままであるというような悲痛な思い、それがベースになり、そこに国際派知識人の国内に理解者を見つけにくい「孤独」が描かれているように思われる。

 堀田義衛は上海で敗戦を迎え、国民党に徴用された経験を経て、1947年に帰国した。その体験をもとに、日本と中国と知識人といったテーマでたくさんの小説を書いた。50年代は中国現代史関係の本が多い。70年代以後は、「ゴヤ」4部作や「方丈記私記」「定家明月記私抄」など日本やヨーロッパの古典を題材にした作品を書いた。晩年はスペインに住んでエッセイを書いた国際派知識人としての印象が強い。宮崎駿監督に大きな影響を与えたことでも知られている。

 「広場の孤独」も、今では題名だけでは感じ取れないかもしれないが、「広場」が「歴史への参加」、つまりはサルトルのいうアンガージュマン、「孤独」が「知識人の自意識」を指す。そういう「左翼同伴者」としての「知識人」を描いたことが非常に評価されたのである。それを映画化するというのは、非常な冒険だし、やはり人物がよく判らないままに右往左往する感じが強く、どう見ても成功作ではないと思う。でも、妻がだんだんと「転落」していき、秘密カジノに通うようになり、そこが警察に摘発されるといった、まさに暗い映画としての「フィルム・ノワール」調が時代を照らし出していると思う。

 「怪しげな外国人」のことを作中では「動乱利権屋」と表現している。情報を求めて右にも左にも食い込み、日本国内の対立を助長する。こういう人物が実際にいたかどうかは知らないが、「利権」と「情報」をめぐって怪しげな人物がうごめいていたことは間違いない。後のロッキード事件やグラマン事件などが発覚した時に、その一部の人物が浮上した。東西対立の最前線が朝鮮半島だから、日本はまさに「最大の補給基地」だった。日本共産党は分裂して武装闘争を掲げていた時代だから、左右対立をあおれば、右派勢力の再軍備主張も強まる。アメリカの軍事産業としては、日本情勢が安定しては困るという思惑だったと思う。実際にアメリカの大企業は、戦時中につながる右派勢力をエージェントとして使っていたわけである。

 ラストに外国人特派員が、もう朝鮮は終わり(スターリン死後に休戦になる)、今度はインドシナだと言ってベトナムへ向かう。その時に「その次が日本じゃないといいね」と言い残して。そういう危機感がリアルに伝わらなくなった時代には、映画の危機感が判りにくい。「動乱利権屋」と知らずに外国人の秘書となる津島恵子(原口の会社で印刷をしている組合役員の妹)が各人物をつなぎ合わせる役割をになっている。しかし、米軍関係で働く女性に、米側が「健診」を行おうとすることを「失礼しちゃう、パンパン扱いして。そういうのと闘って行かないと」などと言っているのは違和感を禁じ得ない。

 それは「性病検査」をするということではないだろう。雇用者側が労働者の健康状態を把握するのは、当然のことで義務でもある。でも、医療や福祉の体制が整わない社会では、病気が発見されれば解雇されて生活が成り立たない。「善意」で健康を検査することが「悪魔的所業」であり、かえって病気をうつして回っているなどと「誤解」されることが多い。当時の日本も、そういった「後進国」段階にあり、「革命か、内戦か」といった表現がある程度リアルな実感があった時代だ。そういう社会では「怪しい外国人」がいて、「知識人」は苦悩しつつ「現実と格闘するしかない」という認識の時代…それが「広場の孤独」の時代のリアルなのである。今から見るとずれた面があるとしても、この映画は貴重であり、修復される必要がある。
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ノーベル地学賞はないのだろうか-ノーベル賞番外

2014年10月22日 21時07分17秒 | 社会(世の中の出来事)
 ノーベル賞問題の最後というか番外編。憲法9条問題や村上春樹などを書きたいのだと思われたかもしれないが、それは前々から考えていたのでいつでも書ける。最近はトリュフォー映画祭をずっと見ていて時間がないから書きやすい問題を書いていたのである。(青色発光ダイオードの問題だけは、調べないと書けないから、書いていて一番面白かった。)もともと「地学教育の振興」という問題意識を持っていて、ちょうどいい機会だからノーベル賞と絡めて書いておきたい。

 10月初めの週末は連続で大型台風が襲来した。その前の週末には、木曽の御嶽山が突然噴火して多数の犠牲者が出た。そのひと月前には広島市で大規模な土砂災害が起こり、やはり多数の犠牲者が出た。一年前には伊豆大島で同じく大規模な土砂災害が起きた。そして3年半前には、三陸海岸沖でマグニチュード9の巨大地震が起きた。日本で生きている以上、地震、津波、火山噴火、台風、土砂災害などが起きることは避けられない。それが判っている以上、大地と気候のシステムを研究し、防災体制を整えることが重要だろう。でも、こういう問題が起きると、いつも地震や火山の研究者が少ないとか、恵まれていないという話を聞く。

 ノーベル賞になぜ地学賞がないのだろうか。それを言っても仕方ないけれど、もし「ノーベル地学賞」があったならば、世界中で、そして日本各地で、地震や火山、あるいは気候変動などの研究がもっと盛んになっていたのではないだろうか。ノーベル賞はノーベルの遺言で設立されたが、その中に「地学」分野に賞を作ることは入っていなかった。それはスウェーデンには地震や津波、火山噴火、台風などの被害がないからに違いない。医学賞や平和賞を設けたノーベルなんだから、もし大地震や巨大台風に襲われる国に生きていたら、そういう研究にも賞を設けて少しでも災害を少なくする研究を奨励していただろう。
  
 もっとも日本の理科教育では「地学」に含まれる「天文学」は、今や物理学賞の重要な一部門である。地球科学そのものも物理現象で起きているわけだから、一応は物理学賞で対応できないわけではない。(たまに地学分野に近い受賞がないわけではない。)しかし、ノーベル賞の自然科学3賞が、日本の理科教育の3科目、物理、化学、生物にほぼ対応するとすれば、もう一つの地学のみがノーベル賞がないという印象が強い。日本では、政府がノーベル賞受賞者を「50年間に30人」という数値目標を掲げているらしい。研究業績を数値目標で測るバカバカしさはともかく、そう決めてしまえば、ますますノーベル賞のない地学分野に進もうと考える若い研究者が減ってしまうのではないか。また研究費でも恵まれないということにならないだろうか。

 ないものは仕方ないのでノーベル賞は諦めるとして、それに匹敵する権威ある賞を日本が設立すればいいわけである。というか、似たような賞がすでにある。それは松下幸之助氏が寄付をして発足した「日本国際賞」で、ノーベル賞並みの賞をという発想で作られ、1985年以来2014年で30回を迎える自然科学分野の賞である。自然科学の様々な分野に贈られていて、プレートテクトニクス理論を確立した学者も対象になっている。毎年ではないけれど、地学分野にも贈られている。でも受賞者一覧をみた印象としては、医学賞、化学賞、あるいは情報科学のような分野が多い感じがする。この30年ほどの間にもっとも進んだ分野だから、当然と言えば当然だろうけど。だから、この賞の中でもいいし、別に作るでもいいけど、日本が中心になって地球に関する研究、あるいは防災技術の研究開発に対する世界的な賞を作るべきではないだろうか。

 僕がここでいくら書いても仕方ないけど、では高校教育の中で「地学」はどのくらい学ばれているのかを最後に確認しておきたい。と言っても、どうやって調べればいいのか。日本全体で各科目をどのくらいの高校生が履修しているかの統計は多分ないと思う。正規の科目として授業を行う時には、「教科用図書」を使用しなければならない。だから、教科書採択数(あるいは出版部数)が判ればいいのだが、それもよく判らない。だから、東京都で来年度にどのくらいの学校が地学の教科書を使用するかで考えることにする。高校といっても、大規模な全日制高校もあれば、小規模な定時制高校もある。どっちも一校ではおかしいが、それ以上は判らないので仕方ない。

 東京には、全日制高校175定時制高校55(定時制単独校=三部制高校もあるが、大部分は全定併置校)があり、通信制高校3、都立中等教育学校5がある。合計すれば、238校となる。多分すべての高校で来年度に使用するはずの保健体育の教科書は、245校で採択されている。(保健体育は2社、3点の教科書しかない。)どうしてこの数になるのか判らないけど、まあ、全部の学校で使うと、そのくらいの数になるわけだ。

 新教育課程では理科が非常に複雑で、一応書かないわけに行かないが、関係ない人はスルーして欲しい。「科学と人間生活」という2単位科目が新設され、他に「物理基礎」「物理」、「化学基礎」「化学」、「生物基礎」「生物」、「地学基礎」「地学」がある。「基礎」は2単位科目で、基礎じゃないのは4単位科目。さらに「理科課題研究」という1単位科目がある。必履修科目は「『科学と人間生活』を含む2科目又は基礎を付した科目を3科目」という、よく読まないと理解できない決まりになっている。それはともかく、来年の理科の教科書採択数は以下のようになる。

 科学と人間生活=105校、
 物理基礎=213校、物理=158校
 化学基礎=233校、化学=163校
 生物基礎=228校、生物=170校
 地学基礎=92校、地学=20校

 これを見る限り、「基礎を付した科目を3科目」、つまり物理、化学、生物の基礎を置いて必履修をクリアーする高校が圧倒的に多いのではないかと思う。多分全国的にそうではないか。大学受験や専門教員数の問題など様々な問題があるわけだが、以上の数を見る限り、地学を置かない高校が非常に多い。また、今まであった「理科総合B」という科目がなくなったので、高校で地学分野に触れないで卒業することが多くなるのではないか。また地理歴史でも、地理が冷遇される傾向にあり、地球的規模で発想できる人材育成が難しくなるのではないか。

 僕は歴史が専門だけど、地理や地学にも関心があり、世界地図を見るのが大好きだった。今も史跡を訪ねるのと同じくらい、ジオパークを訪ねるのが楽しい。糸魚川・静岡構造線やヒスイで有名な糸魚川を旅行したりしたのも思い出である。地質、地形、化石などに関心がある若い人はいっぱいいると思う。「地学教育」をもっと広める必要があるのではないか。
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「9条にノーベル賞」問題③-ノーベル賞⑥

2014年10月20日 23時16分45秒 | 社会(世の中の出来事)
 「9条を保持する日本国民」にノーベル平和賞をという問題の3回目。平和賞や9条に関する僕の考えは大体書いたので、最後に「この運動が見過ごしていると思う論点」を指摘して終わりにしたい。そもそも「日本国憲法(の一部の条文)に平和賞を」という発想そのものが、何か大きな勘違いをしているのではないだろうかと僕には思えるのである。それは、「日本国憲法に見られる国民主義的性格」に対する無批判である。

 憲法というものは、市民革命以後の「国民国家」のあり方を規定するものだから、国家の政体(三権分立の仕組みなど)を決めている条項では、確かに「国民条項」を設けているのが普通である。例えば、アメリカ合衆国憲法は、大統領に就任できる人間を以下のように決めている。(出生により合衆国市民である者、または、この憲法の成立時に合衆国市民である者でなけれ ば、大統領の職に就くことはできない。年齢満35 歳に達していない者、および合衆国内に住所を得て14 年を経過していない者は、大統領の職に就くことはできない。)従って、カリフォルニア州知事にはなれたアーノルド・シュワルツネッガー(オーストリア出生)は、合衆国大統領にはなれないのである。

 しかし、基本的人権の保障に関しては、もともと「天賦人権論」に基づく考え方がベースにあるから、単に「国民」だけではなく、「すべての人」に認めるという規定があるのが現在では普通である。ちょっと比べてみると、すぐにわかる。
日本国憲法14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
世界人権宣言第2条(1948年12月10日、国連総会で採択) 
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
国際人権規約第2条(1966年、国連総会で採択)
この規約の各締約国は、その領域内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。

 日本国憲法は世界で最高の憲法だなどという人が昔は結構いたものである。今も相変わらずそんなことを言ってる人がいるかもしれないが、世界の人権に対する考え方は日本国憲法制定後にどんどん進歩している。日本の憲法には不足していることがいっぱいあると思うのだが、特に大きな問題は「外国人の権利」が規定されていないということである。これは「無意識的に落としてしまった」ものではなく、憲法草案を日本側で「国民」に直していたり、旧植民地出身者の日本国籍を無条件で奪うなどの経過をみれば、かなり「意識的に外国人を排除した」可能性が高いのではないかと思う。(ちなみに、植民地を保有していた国は、植民地の独立に当たっては、本国の市民権を保有するかどうかの権利を与えるのが一般的である。一律に国籍を奪った日本の例は、ちょっと考えられないほどの非人道的な措置ではないかと思う。)

 そういう憲法だから、2014年7月29日には最高裁によって、「定住外国人が生活保護を受給する権利は憲法では保障されていない」という驚くべき判決が出されている。(憲法は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めているから、日本も国際人権規約を締結している以上、この最高裁の判断は間違っているのではなだろうか。)昨今の日本での大きな問題に、「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)という問題がある。定住外国人に対する排外的主張が非常に多くなっているのは間違いない。そんな時代に、なぜ「日本国民にノーベル賞」という運動が起きるのだろうか。僕には不思議でならないのだが、これは戦後日本の「護憲リベラル」が「国民主義」(ナショナリズム)をきちんと向き合っていないということではないだろうか。

 国連自由権規約委員会では、加盟国の人権状況を定期的に審査し報告を発表している。8月に発表された最終見解は、慰安婦問題やヘイトスピーチ規制に関して報道されたが、もっともっとたくさんの問題を指摘している。前回(2008年)に比べ、非嫡出子の相続に関する差別規定がなくなったなどの「肯定的側面」も挙げている。その中には「同性カップルがもはや公営住宅制度から排除されないという旨の,2012年の公営住宅法の改正」というほとんど報道されていないと思う問題もある。

 しかし、全体としては日本社会には様々な問題が山積しているということをこの見解から見て取ることができる。男女平等、性的マイノリティ、非自発的入院(精神病者に対する問題)、死刑、人身取引、技能実習制度、福島原子力災害、難民保護、体罰、先住民の権利など実に様々な問題が取り上げられている。是非、先のサイト(外務省のサイトである)を見て欲しい。特に、毎回毎回指摘されているのは、「代用監獄」の問題である。代用監獄というのは、警察の留置場のことだが、捜査当局が取調べ対象者を自ら留置するなどという国は「先進国」にはないものである。「憲法9条を保持する日本国民」は、同時に「代用監獄を保持する日本国民」なのである。そうしたら、ノーベル平和賞には全くふさわしくない。イグノーベル賞に平和部門でもあれば対象になるかもしれないが。

 僕が思うに、「護憲リベラル」という立場の人には、「死刑制度」の問題をきちんと考えて欲しいと思う。「悪い犯罪者は日本国家が殺すことをができる」という権限を日本国家がもつのであれば、「日本を侵略する悪い外国勢力を殺すことができる」という「戦争」を肯定する権限につながるのではないか。ドイツもイタリアも、つまり先の大戦で日本の同盟国だった国々では、戦後直後に死刑を廃止する決定を行っている。これは「戦争への反省」が死刑廃止に結びついたと理解できるのである。日本の「憲法9条護憲派」も、きちんと死刑廃止に取り組むべきではないかと思うのだが。ノーベル平和賞はその後でいいと思う。
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「9条にノーベル賞」問題②-ノーベル賞⑤

2014年10月18日 23時45分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 前回に続き、「憲法9条」にノーベル賞をと言う問題。今回は「憲法9条の歴史的意味」を考えてみたい。もし、憲法9条がなかったとしたら、戦後の歴史はどうなっていただろうか。日本はアメリカの参加する戦争にもっともっと深く関わっていたことは間違いないだろう。イラク戦争など中東の戦争の場合は、砂漠気候に慣れず、英語理解力が低い「日本軍」が戦闘に直接参加することはなかったかもしれない。しかし、ベトナム戦争の場合は、韓国やタイの軍隊もベトナムに派兵したわけだから、当然「日本軍」もアメリカの派兵要請を拒むことはできなかっただろう。戦闘に参加して、多くの戦死者を出していた可能性が高いのではないか。そう言う意味では、「憲法9条があって良かった」と僕は考えている人間である。なんだかんだ言っても、安倍首相であってさえ、集団的自衛権を「限定的に容認する」と言い、無限定にすべて認めるとは言えないのである。

 それではアメリカを中心とする占領軍は、どうして憲法9条を憲法草案に入れたのだろうか。初めから違った条文にしておけば、もっと日本に積極的な軍事的貢献を求められただろうに。しかし、それは「後知恵」というものである。9条制定の頃の問題意識は全然違ったところにあったからである。日本国憲法、特に9条には昔から「アメリカの押し付け」だという根強い批判があった。そういう人たちは、アメリカは「日本の国力を低くする」目的で9条を押し付けたと昔は言っていたものである。しかし、アメリカと言っても、本当の最高権力者であるトルーマン大統領には関わらないところで憲法草案が作られた。だから、「アメリカの陰謀」とするのは無理だろう。

 そもそもGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が憲法を作ってそのまま公布したというならともかく、当時は占領軍が憲法の案を作成したことは公表されておらず、あくまでも政府が作った案が帝国議会に提出された。憲法9条に「芦田修正」(「前項の目的を達するため」を9条2項の冒頭に加える)を施すことができたのだから、議会でもきちんと審議できた。(他の条文にも重要な修正があった。)その結果、議会を通過した案を、大日本帝国憲法の改正ということで、天皇の名で公布した。「議会で審議し、修正できた」ものを「押し付け」と言うのは言い過ぎだろう。慰安婦問題で、あれだけ「強制はなかった」などと言ってる人間が、ちゃんと議会審議できたものを「押し付け」呼ばわりはできないはずである。

 ところで、今は細かい説明は書かないが、古関彰一「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫)などの研究によれば、「憲法9条」は「天皇制存置」と深い関係があった。そもそも連合国はナチス・ドイツ解体を優先していたため、大日本帝国降伏後の日本(および日本の植民地)のあり方をきちんと決める前に日本が先に降伏してしまった。日本軍は「皇軍」と呼ばれ、天皇が大元帥として君臨していたわけだから、日本との戦争で大きな犠牲を払った連合国の諸国民は、天皇制に対して厳しい世論が存在した。戦争では圧倒的に米軍の力が大きく、占領軍の最高司令官も米陸軍のマッカーサー元帥が務めていたわけだが、タテマエ上は「連合国」である。本来はアメリカ以外の国々も占領政策に関与できるはずである。そこで「対日理事会」が作られることになったが、それはようやく1945年12月27日に決定され、翌1946年4月5日に初めての会合が持たれた。なお、参加国は米英ソ中の他、オーストラリア、ニュージーランド、インドである。

 憲法の案を占領軍が日本政府に提示したのは間違いないが、その日付の1946年2月12日という時期は、今見た「対日理事会」が開かれる直前に当たる。マッカーサーは天皇制を残して占領政策の協力者にすることを考えていたわけだが、ソ連やオーストラリアなどが加わる対日理事会がマッカーサーの頭上に出来てしまえば、「天皇制の廃止」が議論されかねない。そこで対日理事会発足直前に、「日本政府が自発的に作成した」として「戦争放棄」と「象徴天皇制」を決めたことにしたわけである。「押し付け」というなら、憲法9条の方ではなく「象徴天皇制」の方だったのである。

 憲法9条は「非武装国家」を志向していると読めると言えば、確かにそうも言える。政府自体も最初の頃は、個別的自衛権さえ放棄したと解釈していた時期もある。しかし、1950年に朝鮮戦争が始まると、GHQは日本に「警察予備隊」の創設を指令した。これが後に、保安隊、自衛隊となっていく「再軍備」の始まりである。そして、憲法9条があるがために、日本は「侵略の危機」に自力で対処することが難しいとされ、講和条約締結とともにアメリカとの間に「日米安全保障条約」が結ばれた。(安保条約の制定に関しては、昭和天皇が吉田首相の頭越しに米軍の存在を求めたという研究がある。)「9条があるのに、安保条約で米軍が居座るのはおかしい」とも言えるが、歴代政府の公式見解は「憲法9条があるから、日米安保が必要となる」というものである。しかも、9条と日米安保が出来た時代は、沖縄県は米軍の軍事統治下におかれ、大量の米軍基地が作られていた。昭和天皇はそれに対し、「沖縄の長期占領継続を求める」という「沖縄メッセージ」を米国側に伝達している。

 こうして考えてくると、「憲法9条」=「象徴天皇制」=「日米安保条約」=「沖縄の軍事基地化」は「4点セット」で戦後の日本を規定してきたというべきではないか。日本の置かれた歴史的位置からして、戦後の日本が「中立化」したり、ましてや「社会主義革命が起きる」可能性はほとんどなかったと思う。それが良かったかどうかの評価の問題とは別に。そして、「象徴天皇制」はほとんど定着している。(ある意味では、日本の歴史の大部分の時代が同じような体制だったからだろう。確かに「押し付け」ではあろうが、戦前と同じ絶対天皇制、国民主権下の象徴天皇制、天皇制廃止の三択で国民投票が行われていたとしても、象徴天皇制が圧倒的に支持されただろう。)「日米安保条約」も、今や東アジアの既存の枠組みとなっているのは事実であり、中長期的に考えるのは別として、短期的には数年内に安保条約をなくすという見通しは誰も持てないだろう。

 しかしながら、「沖縄の軍事基地化」は可能な限り早く、基地負担の軽減がなされなければならない。憲法9条をもっと理想的に解釈しようと、自衛隊や在日米軍や日本政府による自衛隊の海外派遣などは「違憲」であるとして、いくつもの裁判闘争が行われてきた。一部は原告側勝訴の判決もあったけれど、結局のところ、最高裁では認められていない。憲法9条を血肉化する試み、単に9条だけでなく平和的生存権、幸福追求権などとの関わりで、非軍事の領域を広げようとする試みがなされてきた。そのような広い意味での「護憲運動」を僕は貴重だと評価するが、結果として沖縄返還以後も沖縄の基地を劇的に削減することは出来なかった。そのことを考えれば、われわれは「憲法9条にノーベル賞を」ではなく、「沖縄県民の反軍事基地運動にノーベル賞を」と言うべきではないだろうか。もちろん、前回書いたように「沖縄県民」とか「運動」では授賞対象にはならないので、「誰か」を選んで推薦するべきだと思うが。(この問題はもっと書くべきことがあるので、あと一回続く。)
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「9条にノーベル賞」問題①-ノーベル賞④

2014年10月16日 21時40分02秒 | 社会(世の中の出来事)
 「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を」という運動の話を初めて聞いた時、これは「無理筋だな」と思い、ここでも何も書かなかった。やってる人は善意でやってるんだろうから、わざわざ批判するつもりもなくて、「どうせ受賞できないんだから、スルーすればいい」と思っていたんだけど、最後の最後の頃に「有力候補にあがっている」かのような報道がなされたので、「もしかしたら受賞するかも」「来年以降に期待したい」などと言う声を見聞きするようになった。そこでやっぱり、この機会に自分の考えを書いておきたいと思うようになったのである。

 最初に「どうして受賞できないと考えたか」を書き、次回に「憲法9条そのものの評価」を書きたいと思う。ノーベル賞というものは、あるいは一般に賞というものは、個人に贈られる。ノーベル平和賞に限っては、「団体」も対象になるが、それは当然のことだろう。どちらにせよ、目的をもって自発的に行われた活動(研究、創作等)に贈られる。最初にこの話を言い出した人は、「憲法9条にノーベル賞を」という発想だった。しかし、これはノーベル賞の規約上、無理である。だから「9条を保持する日本国民」を対象に推薦したわけである。しかし、常識で考えれば、それでも無理だろうとしか僕には思えない。憲法9条の評価以前の問題として、平和賞の選考対象にならないだろう。もしかしたら、対象になるかならないか検討されたのかもしれないが、難しいということになったと僕は思う。

 そう思う理由は、「国民を認めてしまえば、対象が広がりすぎる」「国民という存在は、自発的に形成されているものではない」ということである。僕も日本国民であるが、日本国民であることを選択したわけではない。ごく少数、例えばドナルド・キーンさんのように、日本国民であることを自ら選択した人もいる。しかし、多くの人は「たまたま日本国民の父母の間に生まれた」ために、自我に目覚めた時には自動的に日本国民だったはずである。そのような僕が憲法9条にどういう考えをもっているかに関係なく、受賞者の一員に自動的になってしまうのはおかしいではないか。ジャン・ポール・サルトルがノーベル文学賞を辞退したように、「憲法9条は改正すべきだ」と考えている日本国民ならば、ノーベル平和賞を辞退できるのだろうか。

 この受賞を認めてしまえば、対象はものすごく広がる。「ナチスに迫害されたユダヤ人」「イスラエルに追われたパレスティナ難民」「アパルトヘイトを廃止した南アフリ国民」…といった具合である。今ならば「民主的な選挙制度を求める香港市民」こそ最有力な候補ではないのか。しかし、これは不適当であろう。「中国を刺激する」からではなく、報道によれば香港市民の中にも(経済的打撃を避けるため)民主運動に賛成でない市民がそれなりにいることを知っているからである。同じように、日本国民の中にも憲法9条を変えるべきだという意見の人も相当数いる。その意見を支持するかどうかは別にして、「国民」という一括りにして「授賞対象」に認めるのは無理と言うもんだと僕は思う。

 ではどうすればいいのだろうか。アパルトヘイト制度を廃止したという場合なら、それを先導した指導者がいるはずである。その指導者に授賞するわけである。ということで、アパルトヘイト問題ならばネルソン・マンデラとデクラーク元大統領にノーベル平和賞が贈られた。今までの受賞者を見れば判るように、具体的な個人・団体の選定には問題を感じることもある。例えば佐藤栄作元首相が選ばれているように。その場合も、「非核三原則」ではなく、日本の首相を務めていた佐藤を選んだのである。そのような「今までの例」「国際的常識」をもってすれば、日本が憲法9条を有していることがノーベル賞に値するのだとするならば、積極的に憲法9条を保持しようと努力してきた政治家がいるはずであるから、その人に授与すればいいのである。えっ、そんな政治家はいないではないかって? そうだとするならば、誰も思い浮かばないとするならば、そもそも「日本国民が憲法9条を保持してきた」という賞推薦の前提が怪しいのではないか。

 実際のところ、日本においては占領終了後の大部分の時期は、「憲法改正」(9条を変えること)を「党是」とする政党が政権を担ってきた。選挙制度の問題はあるにせよ、不正投票や不正開票が横行したわけではあるまい。日本の有権者は「憲法改正を主張する政党に過半数を与えてきた」(時期がほとんど)のであるが、同時に「憲法改正を主張する政党に国会の3分の2の議席は与えなかった」わけである。そのために憲法改正は一回も発議されなかった。だから「保持」されてきたわけであるが、この経緯は「国民がノーベル平和賞を受けるに値する」ほどのものだろうか。これでは、憲法9条ではなく、憲法96条にノーベル賞を与えるようなものではないかと僕には思える。

 では、憲法9条には全く意味はなかったのか。そうは思わないし、「憲法9条を血肉化しようと努めてきた人々」はたくさんいて、その努力の上に戦後日本はある。だから、もっとストレートに、「日本の護憲運動にノーベル賞を」と言えばいいではないか。例えば、「九条の会」(がふさわしいかどうかの問題はさておき)を推薦するというなら、それはそれでリクツが通るというものである。さらに言えば、世界の中で最も軍事基地が集中している地域の一つである沖縄の地で、粘り強く反基地、平和運動を継続してきた人々にノーベル賞をというのもいいのではないか。具体的な人名をあげにくいが、大田昌秀元知事とか、糸数慶子参議院議員など。あるいは、第二次大戦後70年を迎える2015年という年を考えると、戦後50年に際しての談話を発表した村山富市元首相を推薦することも考えられる。こういう話になると、党派性の問題が出てくるし、政治家には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきもである。僕だって村山首相時代の政治を全部支持するわけではない。しかし、「村山談話」20年という象徴的意味を込めて考えるなら、「それもあり」ではないか。(もっと地道に様々な活動を行ってきた運動団体や市民運動家がいっぱいいると判っているけれど、もっとまとまりがつかなくなるから、「一応の知名度と象徴性のある人」として上記の人々の名を書いた。僕が推薦運動をする気はないので、念のため。)

 ところで、「もし本当に受賞したら、誰が受け取るんだろうか」などという声があった。そんなことも決まってないのに推薦していたわけである。だから初めから「九条の会」とかにしておけばいいのである。「日本国民」が受けるということなら、それは「内閣総理大臣」が受け取るしかないだろうと僕は思う。これに反対できる人はいないはずである。自民党の憲法改正案が通ってない以上、天皇が国家元首とは言えないだろう。天皇は「国事行為」として「栄典を授与すること」を行うと定められている。だから、国内で勲章を授与する方ではあるが、国民を代表して賞を受け取ることはできない。(と理解するのが自然な憲法解釈だと思うが、拡大解釈したい人もいるだろうと思う。)

 
 憲法前文にあるように、わが国は「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するので、ノーベル賞を受け取るという行政行為は、国会で指名された内閣総理大臣が行うのが自然な解釈だろう。または、国権の最高機関である国会の議長が代表するとも考えられるが、衆参二人いるし、なによりノーベル賞授与式に参列するというのは、立法や司法ではなく、行政の担当であると考えられるから、内閣総理大臣が出席するべきだろう。もともとが護憲運動なんだから、憲法に則って首相に受け取ってもらうしかないのである。そんなバカな。何で改憲派の首魁である安倍晋三が、ノーベル平和賞を受け取るんだと思う人が多いだろう。というか、僕もそう思うけど、「護憲」を掲げる以上、誰も他の出席者を示せないはずだと思う。では、安倍首相はどうするか。自分の政見と違うから辞退すると言うか。言わないだろう。そんなことをするより、ノルウェイまで行って、「憲法9条は集団的自衛権を限定的に認めている、これからも積極的平和主義の日本外交を進めていく、では、ありがとう」と言うに決まってると僕は思う。これでは集団的自衛権反対運動はすべてパーではないか。今年受賞しなくて良かったなあと僕は思うわけである。
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村上春樹は受賞するのか-ノーベル賞③

2014年10月15日 22時59分47秒 | 社会(世の中の出来事)
 毎年のように、村上春樹(1949~)がノーベル文学賞の有力候補だと報じられるようになって、もう何年も経つ。文学賞発表日に村上春樹ファン(今は「ハルキスト」と言うらしい)が集まるカフェがあり、7時のNHKニュースがそこに集う人々を報じるのも、今や「秋の風物詩」である。一体、村上春樹がノーベル賞を受賞する日は来るのだろうか?この問題を今回は考えてみたい。

 ところで、最初に書いてしまうけど、結論的には「わからない」としか言いようがない。そもそも候補に上っているのかも明らかではない。これは他の候補の場合も同じで、選考はすべて秘密である。しかし、自然科学系の場合は業績評価がある程度はっきりしているのに対し、文学賞はその性格からしても「誰が受賞するかは判らない」。自然科学系の場合はほんの少しの間違いはあったとしても、おおむね「受賞した人は受賞するべき人だった」と言えるだろう。でも、文学賞の場合は、何十年も経つうちに忘れられてしまい、今や全く読まれない人が多数いる。半分が正当な受賞者で、残りの半分は「疑問付き受賞者」と言っても過言ではない。大体、第一回受賞者は誰かと調べると、当時まだ存命だったトルストイが有力視されながら、その思想が忌避されてフランスの詩人シュリ・プリュドムという詩人が選ばれた。誰だ、それ?

 ということで、プルーストジョイスナボコフボルヘスも、フォースターリルケD・H・ロレンスモームモラヴィアも受賞していない。サマセット・モーム、グレアム・グリーン、アルベルト・モラヴィアなどは、有名過ぎて世界中で売れているからノーベル賞が通り過ぎて行ったと言われている。そのことを考えると、世界中で大人気作家になっている村上春樹は、そのことが授賞には不利に働くのではないかと思われる。何も今さらノーベル賞をあげなくても、すでにみんな読んでいるじゃないかと選考委員は考えるんだろうか。文学史的に言えば、ノーベル賞は名誉は名誉だけど、特に文学者にとって最高の目標であるとは誰も思っていないだろう。

 「地域的な配慮」はあるのだろうか?ノーベル文学賞の受賞者を見てみれば一目瞭然、英仏独のヨーロッパの強国言語の作家が圧倒的に多い。ラテンアメリカの受賞が多くなったので、スペイン語も多い。地元のスウェーデン語の作家・詩人もかなり多い。ワールドカップの大陸回り持ちのような決まった法則はないけれど、言語的に見てみると、創作言語が英仏独西以外の人は10年間に3人程度ではないか。そのうち一人はヨーロッパの少数言語。非欧米系言語は10年に一人か二人。と見てくると、2006年のオルハン・パムク(トルコ)と2012年の莫言(中国)とすでに二人の受賞者がいることも不利に働く可能性がある。しかし、村上春樹は民族的伝統で売る作家ではないので、別に関係ないのかもしれない。その辺は選考委員会の情報が公開される何十年か先にならないと判らない。

 と言うことで、まとめてみると、少なくとも来年、再来年の受賞は可能性が低いのではないだろうか。そして、それでいいのだろうと僕は思う。この10年ほどで、選考委員会はドリス・レッシング、ル=クレジオ、バルガス=リョサら、もうすでにノーベル賞は回ってこないのではないと思われていた作家に授与するという決定を行った。そのことを考えると、村上春樹より先に授賞させるべき重要な作家はもっといるのではないか。僕が思うに、重要性と知名度、影響力からいって、ケニアのグギ・ワ・ジオンゴ(アメリカ在住)とチェコ(フランス在住で、近年は仏語で創作)のミラン・クンデラは落とすすべきではないと思う。

 僕は村上春樹を1980年の「1973年のピンボール」以来、主要作品はずっと同時代的に読んできた。そして、2001年の「海辺のカフカ」を読んだときに、村上春樹はいつかノーベル賞を取るのではないかと感じた。そう言う意味では、僕は村上春樹ファンでもあるし、村上春樹がノーベル賞を取るべきではないかと考えている人間である。でも、本人はそれほど気にしてはいないのではないか。候補と言われてからも、ノーベル賞狙い的な作品は特に書いていない。むしろ、恋愛短編集やジャズの本、チャンドラーの翻訳なんかばかりしているような感じである。マラソンと同じく、精神の平衡を維持するためでもあるんだろうけど、社会的な発言を行う「大作家」みたいな風貌はほとんど見せていない。(時に片鱗を感じることはあるが。)村上春樹が営々として訳してきた作家たちも、フィツジェラルド、チャンドラー、カポーティ、サリンジャー、ティム・オブライエン、ジョン・アーヴィングなど、非ノーベル賞の作家ばかりである。(レイモンド・カーヴァーはもしかして長命だったら、短編作家としてノーベル賞ということもないではなかったかもしれないけれど。)

 それより僕が気になるのは、日本の報道に見る村上春樹文学のとらえ方である。中には、「ポップ」で「軽い文体」で「都市風俗の中の孤独」を描いて世界的人気を得たとして、その代表として「風の歌を聴け」を挙げたりする。しかし、選考委員は日本語を読めない。基本的には英語、または仏語に訳されていない限り、検討の対象にはならないはずである。村上春樹は初期の2作の外国語への翻訳を許可していないから、「村上春樹ノーベル賞問題」を話題にするときには、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」は外さないとおかしい。村上春樹を論じるならば、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」を中心に考える必要がある。そして、オウム真理教のテロ事件をめぐるノンフィクション「アンダーグラウンド」「約束された場所で」を経たうえで「1Q84」が書かれる。現代社会を生きる人間の底の底に降りていく深い精神の穴(村上春樹の本では、よく「井戸」とされるが)と、そこからの脱出を描くのが村上春樹文学である。

 そのように考えると、宗教的背景のあるテロ事件が起き、「イスラム国」に欧米からも参加する若者がいるというような現代世界では、正気を保つためにハルキが必要だという人が多くいるのではないか。村上春樹にノーベル賞を取って欲しいと思う人は、まだまだ個人的な追憶の趣が強い「ノルウェイの森」などではなく、「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」、「1Q84」などの大小説を戦争と宗教テロを経験した日本という場で書く意味をこそ語っていくべきだと思う。
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青色LEDの受賞に思う-ノーベル賞②

2014年10月14日 00時28分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2014年のノーベル物理学賞が、赤崎勇天野浩中村修二の三氏に贈られることとなった。日本人の物理学賞受賞者は、米国籍の南部陽一郎氏を加えて10名となる。日本人初のノーベル賞、1949年の湯川秀樹氏も物理学。二人目の朝永振一郎氏(1965年)も物理学。僕はこの時から記憶があって、小学校で先生が新聞を手にして解説してくれたのを覚えている。まあ、解説と言っても、日本人ですごい賞を取った人がいるんだよ程度だったんだろうけど。自然科学分野で僕に書けることは限られているんだけど、ちょっと考えたことがあるので書いておきたい。

 僕は中村氏などの受賞は今年はないのではないか、むしろ化学賞で受賞可能性があるのではないかと思っていた。物理学賞ではむしろ十倉好紀さんという人の前評判が結構高かったと思う。自然科学分野では、それぞれが幅広い学術分野を有していて、そのどこから選ばれるかは判らない。今年の受賞者の誰かが言っていたと思うけど、物理学賞は理論面の授賞が多く、実際にモノを作った技術的成果に与えられることは少ない。昨年(2013年)の物理学賞は、ヒッグス粒子を予言したヒッグス氏の受賞がほぼ確実視されていた。2012年の医学・生理学賞を受けた山中伸弥氏なども、その年でなくても数年の間に受賞することはほぼ確実と言われていた。そういう業績もあるけど、多くの場合は今年はどの分野が対象になるか判らず、しかも授賞までには数十年かかることが多いので、どうしても運次第という面がある。受賞に値する業績があっても亡くなっていたらダメ。

 青色発光ダイオードが発明された時から、「これはノーベル賞級」と皆が言っていたと思う。中村氏の名前も毎年のように候補に挙げられていた。その意味では不思議ではなく、多くの日本人はやっとめぐってきたかと思ったことだろう。僕は今まで、確かにすごい業績なんだろうけど、本当にノーベル賞に値するのかと思わないでもなかった。今回の受賞をきっかけに、いろいろ調べてみると、やはり非常に重要な業績なんだなあと再認識した。しかし、授賞に至る評価に関しては、さまざまな議論もあると思う。「青色」ができたことで、「光の三原色」がそろい、すべての色が出せるようになり、世界に広がる画期となったという話は皆知っている。この「青の発明」は20世紀中は無理だと言われていたという話もいつも出てくる。その話は、青色LEDの発明当時からずっと聞いている。

 でも、そういう話は、つまり「青が難しい」(青色は波長が短いから)ということだけど、それは「赤」や「黄」などに比べ難しいという話である。他の色が先に出来ている。他の色がすでにあるから、残った青を何とか作りたいという話になる。それでは、そもそも最初に「発光ダイオード」を作った人の業績はどうなるのだろうか。最後の青も偉いけど、そもそも最初に発光ダイオードを作った人がいるからこそではないのか。では、その最初の人は誰かと調べてみると、1962年に赤色発光ダイオードを発明したアメリカのニック・ホロニアック・ジュニアという人である。1928年生まれで、今も存命。ウィキペディアで調べると、様々な研究を行っていて、発明当時はGEのエンジニア。現在もイリノイ大学教授である。1963年段階で、やがて電灯が発光ダイオードに代わるだろうと予言したという。この人も有力なノーベル賞候補と言われ続けてきたし、日本国際賞なども受けている。だから、大学院生として関わった天野氏ではなく、ホロニアック氏が受賞したとしても全くおかしくなかったと僕は思う。

 でも、ノーベル賞を選考するスウェーデン王立アカデミーは、特に青色の発明を決定的に重視したわけである。これはどうしてだろうか。青を作る難しさに加え、青の完成により初めて発光ダイオードの普及が進み、そのことで「省エネ」「地球温暖化防止」、さらに携帯電話、パソコンなどに使われ発展途上国の情報環境が大きく変わったこと。貧しい国でも長い送電網を作らずとも、「照明」を行き渡らせることができること。そのような「世界を照らす発明」「世界を明るくする発明」だという側面を重視したのだと僕は思うのである。貧しい国、貧しい家では、文字通り社会が暗い。女性(母親)や子どもの部屋は家の中で暗い側にあり、照明や換気の面で恵まれないという社会は世界に多いと思う。家が明るくなるということは、それだけで教育や女性進出に好影響を与えるはずである。つまり「全人類的に有益な業績」なのである。これこそノーベルが本来望んでいたことではないか。単に物理学的業績に止まらず、平和賞や経済学賞的な観点も加えてみると、大変な業績だと判るように思う。

 さて、青色LEDを調べていて、興味深いことを知った。赤崎教授の話が最初にいろいろ出てきて、窒化ガリウムという物質は使わない人が多かったけど、ずっと信じて研究し続けたと語っていた。だから、そこがエライと思ってしまったんだけど、このガリウム(GA 原子番号31)という物質は単体では自然界に存在せず、ボーキサイトや亜鉛の副産物として作られるレアメタルだという。日本は世界最大の輸入国で、リサイクルされたアメリカからの輸入が多いが、そもそもの生産国は中国、カザフスタン、ウクライナなどであるらしい。しかも、高価である。ところが、もっと安い酸化亜鉛で青色発光ダイオードを作ることがすでに可能になっているのである。それは東北大の川崎雅司氏らの業績で、「青色LEDの再発明」とも言われているとのこと。そんな話は聞いたことなかったけど。

 ところで、3氏の受賞に関して「日本人は優秀だ」とか、そういう発想で持ち上げている人がいる。でも、赤崎氏の記者会見で「好きなことを追求してきただけ」と語っているのを聞き、こういう話は前にも聞いたなあと思った。30年前の大学ではそういうことが可能だったのである。今の日本の大学で可能なのか。「大学の自治」をどんどん壊し、大学を競わせる、そのための書類作りばかり大変な「改革」を進めてきた人には、この受賞を喜んで欲しくないと僕は正直言って思ってしまう。教育の場から、自由と創造性を奪うような政策を進めてきていて、何が「ノーベル賞受賞おめでとう」だと思う。大学教育も今信じられないほど変えられようとしている。武器輸出禁止の緩和に伴い、自然科学分野では「軍事技術」の開発も大学に入り込もうと狙っているらしい。そんな中で、全くの平和的な技術で世界に評価されるということは素晴らしいではないか。

 また中村氏の業績をめぐっては、会社と裁判したことは有名だが、今政府は「社員の発明はすべて会社に帰属する」という法改正を進めようとしている。何だろう、これは。安倍内閣発足以後、会社ばかり有利な政治をしている感じがするけど、これは余りにも露骨なんではないか。優秀な技術者は日本を捨てて外国で活躍してくださいということなのか。だから、エリートには英語、英語という教育改革を進めているのか。残った優秀でない日本の若者は戦争に行きなさいということか…とどんどん「怒りの邪推」がエスカレートしていくんですけど。中村さんもアメリカで仕事して、日本には長期滞在して温泉和食を楽しむのがいいと言っていた。そう、温泉と日本の食のバラエティは捨てがたいものだ。でも、日本はもっと冒険と勇気を貴ぶ社会にならないといけない。ちなみに、中村修二氏のお兄さんという人がテレビに登場して「弟より喜んでいる」と語っていた姿を覚えている人も多いだろう。この中村康則さんという人は、受賞ニュースの翌日に幕張メッセの「シーテック」で取材に応じていた。IT・エレクトロニクスの展示会で、中村康則氏は松山市にある「エフエーエスシステム・エンジニアリング」という中小企業の社長さんなのである。3Dプリンターなどを開発し出展していたのである。お兄さんは兄弟とも中学時代にバレーボール部で活動し、その経験が「青色LED発明の原動力」だと言っていたのが印象的だった。そういうことも大事なんだなあ。
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マララさんの受賞を喜びつつも-ノーベル賞①

2014年10月12日 00時43分08秒 | 社会(世の中の出来事)
 ノーベル賞授賞者の発表が一段落した。(経済学賞はまだだが、スウェーデン中央銀行によって賞金が出されている経済学賞は性格が少し違う。)この機会に少し考えていたことをまとめて書きたいと思う。なお、「日本人の受賞を期待する」という観点からは、「今年は少し残念だった」と思っている。今年は「複数の賞の受賞」がありうるのではないかと思っていたのである。次回以降に、化学賞や医学・生理学賞の受賞も期待したいところである。(それだけの研究成果はいっぱいあるようなので。)

 まず、最新の平和賞から。周知のように、パキスタン出身のマララ・ユスフザイさん(17)が最年少で受賞した。同時にインドの人権運動家カイラシュ・サトヤルティさん(60)が同時受賞。この共同授賞はなかなかよく考えられている感じがして、とても良かったんじゃないかと思う。マララさんは昨年も有力候補と言われたが、「最年少」が重荷になるのではないか、かえってパキスタン国内で反発を買うのではないか、再度の襲撃を呼ぶのではないか…といった懸念材料があると思われた。今回は、インドの児童労働反対運動と共同の受賞なので、「子どもの人権」「インド・パキスタンの平和」「宗教を超える」という面が強く出ている。だから「イスラーム過激派」だけを批判するということではなく、全世界で「教育を受けられない子供たち」への励ましとして、ノーベル平和賞が贈られたと誰でも判る。

 ノーベル平和賞は、スウェーデンではなくノルウェイのノーベル賞委員会により決定される。その性格から「政治的な授賞」があることは避けられない。2010年の中国の劉暁波は授賞式に出られなかった。1991年に受賞したアウンサン・スーチーが実際に賞を受けたのは、2012年のことだった。ノーベル平和賞受賞者が集まって行う会議があるが、今年は昨年亡くなったネルソン・マンデラを追悼して南アフリカで開催する予定になっていた。しかし、南アフリカ政府がダライ・ラマのビザを発給せず、今年の会議は開催を取りやめたというニュースが最近あった。このように、当該政府から認められない受賞者が時にいるわけだが、それは「平和賞の名誉」でこそあれ、「平和賞が偏った選考をしている」ということではないだろう。昨年が化学兵器禁止機関(OPCW)、一昨年がEU(ヨーロッパ連合)という決定も、シリアの化学兵器問題や欧州経済危機などに反応した決定だと思われる。

 日本では事前に「憲法9条」が有力候補などというニュースが流れ、案外と思う人まで喜んでいたりしたけど、僕は「悪い冗談」としか思っていなかった。「憲法9条を保持している日本国民」などという決定にならなくて良かったと思うのだが、その問題は数回後に書きたい。とりあえず、ここ数年の授賞決定を見れば、「世界で今一番平和と人権の危機を呼んでいる(とされている)問題は何か」が授賞の鍵になっている。そう考えてくれば、それは「イスラム国」や「ポコ・ハラム」だろうとすぐ判る。安倍首相が「日中関係は百年前の英独関係に似ている」かのような不用意な発言をして世界に衝撃を与えたが、それでも「日中の軍事衝突」とか「日本の軍事国家化」が世界の最大の焦点になっているわけではないとノルウェイのノーベル賞関係者は判断している。喜ぶべきことではないか。

 ということで、宗教的な過激派(あるいは過激なナショナリストも同様だけど)が伸長していることに対して「寛容の精神」を呼びかける意味がこの決定にはあると思う。だけど、それだけでは「政治的な決定」とだけパキスタン国内やイスラム諸国で受け取られる危険性が高い。われわれも、そういう文脈でよりも、日本でも大きな問題となっている「子どもの人権」という問題意識で受け取るべきだと思う。その方が生産的だろうし、日本の子どもが考えていくきっかけにもなるだろう。でも、その「解決」ははるか遠くにあり、というかむしろ悪化する可能性の方が強い。「喜びつつも、道遠し」という思いしかない。まあ、どんな問題でもそうなんだろうけど。それは本人も判っている。「これは始まり」だと。

 ところでマララさんの国連での演説は多くのニュースで取り上げていた。最後の部分。
One child, one teacher, one pen and one book can change the world.
Education is the only solution. Education First


 これぐらいなら聞いてても判るよね。というか、英語を使うと言っても、伝えるべき中身さえあれば、このように簡単な単語で伝えられるのだということがよく判る。でもこれはキング牧師のあの演説に並ぶ、歴史的な演説になっていくのではないだろうか。多くの中高の教科書(英語、社会など)に取り入れられていくんでしょう。英語の原文は検索すればすぐ見つかる。翻訳されたものは、11日付の東京新聞に載っていたので初めて読んだ。「ペンと本こそ最強の武器 マララさん国連演説全文」でネット上に公開されているので、是非一読を。(国連広報センターのホームページから引用と書いてある。)なお、三つの見出しを書いておくと、「すべてのテロリストの子どもに教育を」「女性が自ら立ち上がり闘うことが大事」「全世界の無償の義務教育与えて」である。

 この演説には多くの人名が出てくる。パン・ギムン事務総長とか、ムハンマドなどを除き、個々に出てくる近現代の人名を紹介してみる。マーチン・ルーサー・キングネルソン・マンデラムハンマド・アリ・ジンナーガンジーバシャ・カーンマザー・テレサである。前者の3人は「変革の伝統」、後者の3人は「非暴力の伝統」とされている。バシャ・カーンだけ知らなかったので、今調べてみたが、ガンジーの「塩の行進」をペシャワールで行ったガンジーの弟子のイスラム教徒だという。ペシャワール空港はバシャ・カーン空港と名付けられているそうである。
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都立高入選ミス問題、その後-続報集②

2014年10月10日 23時16分00秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 2014年2月実施の都立高の入選で多くのミスがあったという問題が発覚、都教委が点検して改めて合格者が出るなど大問題となった。このブログでは、6月に8回にわたって東京都の高校入試に潜む問題を書いた。「都立高入選ミス問題①」以下、順番に見てもらえば僕の考えは判ると思う。(ちょっと長くなってしまったけれど。)「カテゴリー」の「東京の教育」をクリックして見てもらえば、投稿の新しい記事から見ることができる。その問題のその後の展開を報告。

 夏休みが終わるころまでには最終点検を終えると言っていたが、その結果は9月11日に発表されている。都教委のサイトにある「都立高等学校入学者選抜学力検査の採点の誤りに係る答案の点検結果について」がそれである。今さら細かいことをいろいろ書いても面倒なので、一番重要な追加合格者だけ書いておく。今年が13校16人、昨年分が6校6人、計18校22人となっている。

 一方、改善策については、都立高校入試の採点誤りに関する再発防止・改善策についてという文書が同じ9月11日付で発表されている。まあ、都教委のことだから対して期待できないのは判り切っているが、案の定これを見ると「犯罪的な欺瞞」がある。「採点・点検に専念できる十分な時間と環境を確保する」などと言って、「学力検査翌日から合格発表日の前日までの日数を現行の3日間から4日間とする」などと恩着せがましく言っているのである。「現行の3日間」などというものが虚構の産物である。2014年だけが「3日間」であり、それ以前はどのようなものだったかは「昔はもっと余裕があった」で書いている。例えば2013年は、2月23日(土)実施、28日(木)発表、確かに日曜を除けば「3日間」ではある。2012年も同じだが、2011年以前は「4日間」の年の方が多い。その間の「法則性」の如きものは前記の記事に書いている。

 本来、都教委は2005年度から入選の日程を2月23日に固定していた。土日に当たろうがやるんだと言い、現に土曜実施が2回ある。だから、本来は2014年は2月23日(日)にするのが本当である。それを24日(月)にした。日曜ではおかしいというなら、初めからそう言えばいいし、その場合は発表を延ばせばいい。当然のそういう配慮をすることなく、押し切ったのである。その経過の理由の究明こそ最も大切な問題であった。東京マラソンと重なるため、(五輪招致に躍起になっていた)東京都はマラソンの方を優先したという話だけど。もちろんその経緯は全くはっきりしていないし、責任追及もなされていない。

 そのほか、検査後2日間は生徒を登校させず採点、点検に専念するという。これは一見合理的だけど、学校ごとに事情が違い機械的に運用してはならないだろう。また、マークシート方式を一部で導入し試行してみるということで、試行校20校が決定している。それはそれでいいとも言えるけど、高いカネに見合うのかどうか。それなら各校にマークシート・リーダーを買うのではなく、どこかに集約することもできるのではないか。また、マークシート方式が不利な生徒(身体的、精神的な障がいを持っている生徒)への対応をどうするのかという問題がある。

 ところで、この問題に関して「処分」が発令されている。「都立高等学校入学者選抜学力検査における採点の誤りに係る学校職員及び事務局職員の処分等について」である。追加合格者があった学校の(当時の)校長は戒告、副校長は文書訓告、ミスがあった学校の校長は文書訓告、副校長は口頭注意。「採点を担当した教員(165校、3,170名)については、校長から指導を行う」とのことである。まあ、行政機関として「行政責任」を問うのは致し方ないのかもしれない。しかし、これが僕の言う「外形的事実」だけで「処分」していくという「小権力者」特有の世界になっていることは明らかだと思う。具体的にどうすれば良かったのか。ただ偶然にミスをして、たまたまボーダーライン上の生徒にそのミスが起こった場合だけ、重い処分となる。それは本質からすればおかしい。行政には結果責任があると言えばそうかもしれないが。

 そのあたりはもう書かないが、「何でこのように間違いが多いのか」という感想が結構聞かれるので、ちょっと考えておきたい。まず第一に「ミスがあってはならない」のではなく、「採点ミスは誰がやっても必ず起こる」ということである。当然、もっと日程が詰まっている私立学校などはもっと多いだろう。疑う人は「数百人の答案をコピーして採点してみる」という実験をしてみれば判る。だから、点検に手間を掛けるしかないが、その手間を掛ける日程が確保されていなかった原因こそが大事ということである。もう一つは「入力ミス」は点検しているのだろうかということである。当然しているだろう。しかし、その報告がない以上、「入力ミスによる合格決定ミスはなかった」のだろうと判断できる。これはすごいことではないだろうか。マニュアルの細かく規定されていた入力ミスの点検はうまく行ったということではないか。

 ところで、「都教委の点検」それ自体に問題はないのだろうか。それは点検しないので誰にもわからない。後から「ミスを見つけるぞ」意識で見れば、間違いに見えてくるということはないだろうか。僕の経験では、「アイウエから選べ」などという問題で、受検生の書く文字は非常にわかりづらい。特に「ア」と「イ」は判別が難しい場合がある。最初に見た人が「そのように見えた」のなら、それを「採点ミス」と言えるのだろうか。僕はこの点検そのものを点検してみたい気もする。
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素晴らしい「ジャージー・ボーイズ」

2014年10月07日 23時30分11秒 |  〃  (新作外国映画)
 台湾のツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の引退作という「郊遊(ピクニック)」を見た。素晴らしい映像の中に驚くべき現代人の孤独が描かれている。ツァイ監督はまだ50代で、「引退」と言っても劇場向け長編映画から「ビデオアート」(今はビデオじゃないけど)のようなアート活動に移っていくということらしい。今までの「愛情萬歳」「河」「Hole」など有名映画祭で受賞しながらも、劇映画というよりも現代人の孤独を突き詰める「詩的表現」のような趣があった。今回の「郊遊」になると、もはやストーリイはほとんどなく、ひたすら孤独な人々を見つめることで時が過ぎていく。驚くべき長回しと印象的な映像で、映画ファンなら一度は見ていいと思うけど、まあ全然一般向けではない。 

 その後に、クリント・イーストウッド監督の「ジャージー・ボーイズ」を見た。やはり、こっちの方が一般的だ。イーストウッド監督作の中でも珍しいミュージカル映画で、軽快な面白さでは抜群の作品ではないか。その面白さの理由を少し考えてみたい。まず、この映画はアメリカで60年代に大ヒット曲を連発したフォー・シーズンズという4人組グループをモデルにしている。「シェリー」とか「君の瞳に恋している」とか、誰でも一度はどこかで耳にした曲だと思う。そのグループの歴史が「ジャージー・ボーイズ」というブロードウェイ・ミュージカルになり、大ヒット。トニー賞を受賞したというけど、日本での公演はなく僕は知らなかった。大体、フォー・シーズンズに関しても全然知らない。

 面白さの理由の最大のものは、原作ミュージカルがよく出来ていて、50年代~60年代アメリカンポップスの底抜けに懐かしい陽気さに浸れることにあるだろう。でもそれだけなら、「マンマ・ミーア」のように曲を聞いてる分にはいいけど、話が面白くないことになる。黒人女性グループを題材にした「ドリーム・ガールズ」ならドラマはいっぱいあるだろうと予測できるが。(実際、ビヨンセが主演した「ドリーム・ガールズ」の方が僕は好きだし、面白いと思う。)一方、白人男性のフォー・シーズンズでは大してドラマもないだろうと思うと、実はイタリア系の貧困少年が音楽界でのし上がっていくのにどれほど苦労があったか。大体先輩たちは地元の不良でもあって、刑務所に出たり入ったりしていたのである。そして、才能と努力と運、ヒットすると仲間割れ、借金、家族の争い…その辺りは大衆映画の定番のように展開し、判っているけど飽きさせない。マフィアとのかかわりなど、イタリア系に不可欠の問題もきちんと出てくる。

 だから、映画化に当たりイーストウッドは実際の舞台版に出ていた俳優を主に使っている。映画的には無名だけど、本番の歌唱場面をそのまま録音するという珍しい撮り方をしたと言うし、その選択は不可欠だっただろう。(メンバー4人のうち、一人だけ舞台と違う俳優になっている。)しかし、それだけでなく、映画版には映画ならではの工夫がある。それは「画面から観客に語りかける手法」である。ドラマが進行しているときに登場人物が語りかけてくるわけで、これはまた昔っぽい手法だけど、これが50年代、60年代には向いている。何だか懐かしいのである。主人公たちの心情に入り込む、「昔のハリウッド」みたいな感じがある。

 クリント・イーストウッドは、何でこの映画の監督を引き受けたのだろうか。もう何でも撮れるのは判っているので、元気なら依頼はいっぱいあるだろう。実は音楽ファンで、音楽映画もある。でも一番の理由は、「自分の青春と重なる」からではないだろうか。映画内にちょっと昔のイーストウッドの姿がテレビに出てくる遊びがあるけど、フォー・シーズンズが上に向かって駆け上がっていく頃に、イーストウッドも「ローハイド」からマカロニ・ウェスタンで苦労しながらスターになっていった。イーストウッドは軍隊に行き、長く端役を務め決して恵まれた青春ではなかった。そういう思いがこもっているのではないか。まあ、そういうこともあるだろうけど、イーストウッドは「センチメンタル・アドベンチャー」とか「バード」とか、音楽映画に向いてるんじゃないか。好きで撮ってる感じが見ていてうれしい。

 それにしても、「あのころ」のアメリカのヒット曲はどうしてあんなに軽快で陽気に恋をうたいあげ、今も懐かしいのだろうか。いちいち名前は挙げないけど、大好きな曲がいっぱいある。アメリカが「本気で世界の警察官だった時代」で、後のベトナム戦争の頃の「自分たちは間違ったのではないか」という内省はまだほとんどない。一部ですでにビートニク世代が登場していたわけだけど、大衆文化の主流はただひたすら能天気だったように思える。だから、当時それを聞いていれば、「なんといい気な」と反発していたのではないか。でも、時間が経ってみれば、その能天気さこそが懐かしく、人が皆持っていた「幼年期」のように思えるのかもしれない。その伝で言えば、日本の60年代、70年代の音楽シーンにも今ドラマ化すれば素晴らしく面白い話がいっぱいあるだろう。是非誰かどんどん挑戦して欲しいと思う。
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