尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

陰謀論の仕組みー呉座勇一「陰謀の日本中世史」

2018年03月31日 10時29分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 「応仁の乱」がベストセラーになった中世史家・呉座勇一氏の新著「陰謀の日本中世史」(角川新書)が抜群に面白い。まさに「俗説一蹴!」と帯にある通り。「陰謀」はもちろん洋の東西、時代を問わず存在する。だから古代史にもあるし、近世史、近現代史にもいっぱいあるわけだけど、著者は中世の専門家だから中世を書いている。だけど、それだけではない。

 近現代の「陰謀史観」、例えば「日米戦争はコミンテルンの陰謀だった」といった「トンデモ史観」にも触れている。ここで今細かいことは書かないけれど、現代世界には多くの「フェイク・ニュース」が流通している。だけど、それらはイデオロギーの争いとなっているので、歴史学的に反証しても聞き入れない人が多い。それなら、むしろ今となっては大昔の出来事を取り上げて、「陰謀史観への耐性」を付ける方がいいんじゃないかというのである。

 なるほど。そして非常に面白くて読みやすいから、スラスラ読んでいくうちに、そうか「陰謀史観」とはこうして成り立っているのかと納得する。中世の政治史に関しては、近年新しい研究がどんどん出ている。一般向けの本も多く、僕もここで取り上げられた本の半分近くは読んでいると思う。歴史の授業では、やっぱりまず政治史を教えることになる。だから有名な武将や戦乱に関する最新情報はチェックしてきた。その意味でも、この本の中身はとても興味深かった。

 この本は、中世の「武士の時代」の幕開けとなる保元の乱(1156年)、平治の乱(1159)から始まる。続いて源平の戦乱、鎌倉幕府の北条氏をめぐる争い後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の陰謀応仁の乱本能寺の変関ケ原の戦いが主に取り上げられている。平清盛、源頼朝、足利尊氏、徳川家康など、結果的に「大出世」したような人物は、大体成功からさかのぼって、すべては陰謀が成功してのし上がったなどと言われることがある。

 例えば、純朴なる源義経は、冷酷な兄頼朝と、乱世をしぶとく生き抜く後白河法皇、双方の壮絶な謀略合戦に引っかかって、悲劇の英雄になったといったイメージを、何となく多くの人が持っているんじゃないか。中世は史料が少なく、代わりに「平家物語」「太平記」といった有名な軍記ものが多いので、歴史学でも最近まで軍記のエピソードに影響されていた。この本を読むと、源頼朝もすべてを見通した天才的政治家とまでは言えず、義経との関わりも誤算があったらしい。

 全部書いてるわけにもいかないので、ここでは「ケネディ大統領暗殺事件型」に触れておきたい。1963年の米国ケネディ大統領暗殺は、犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが直後に逮捕されたが、オズワルドもすぐにジャック・ルビーという人物に殺されてしまった。ダラス警察の地下駐車場で、刑務所への移送車に乗る際に銃撃された。まあ銃が身近な米国ではあり得ることだけど、いかにも「オズワルドには黒幕がいて、暗殺が成功したら口封じに消された」とでも思いたくなる展開ではないか。こういう展開をした事件は日本史にも存在する。

 一番典型的なのが、1219年に起こった鎌倉幕府3代将軍の源実朝暗殺事件。兄の2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺された。しかし、直後に公暁も殺されたから、まったくケネディ型事件である。公暁は「父の仇」と語ったとされる。頼家は確かに1204年に殺されたが、その時点で実朝は12歳、公暁は4歳で、事情を知るはずがない。だから誰かガセネタを吹き込んだ黒幕がいたはずで、北条氏だ、三浦氏だと諸説あるが、決定打はないと思う。

 織田信長が1582年に明智光秀に殺された本能寺の変も一種のケネディ型。光秀が10日ほどで滅亡したので、光秀関係の史料が少ない。証拠隠滅されたわけである。ミステリーでは「事件から最大の利益をあげたものが怪しい」というのが定番の推理だから、結果的に天下を取った豊臣秀吉徳川家康が黒幕じゃないか的なことを言う人が昔からいる。朝廷黒幕説足利義昭説、果てはイエズス会黒幕説まである。

 足利義昭説を取る藤田達生氏の「謎とき本能寺の変」(講談社現代新書、2003)が出た時、僕もなるほどそういう見方も不可能でもないと思ったけど、完全には説得されなかった。歴史の大学教授が、大手の新書に書いてNHKの番組に取り上げられて驚いた。また在野ながら注目すべき新説を実証的に書いていた立花京子氏の「信長と十字架」(集英社新書、2004)にはビックリした。まったく実証されてない妄想レベルの本が大手の新書で出たからである。

 本能寺の変は、完全に「謀略」である。味方は多い方がいいに決まってるけど、皆を誘いまくったらすぐにばれる。光秀と関係が深かった細川氏でさえ、信長死後に光秀軍に味方しなかったぐらいで、事前に誰かと共謀したら、信長に通報されたに決まってる。その時点で柴田勝家は北陸で上杉氏と、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と、滝川一益は関東で北条氏と戦争中ですぐには動けない(はず)。しかし、信雄、信孝ら信長の子は残っていた。(信長長男の信忠は一緒に殺されたが。)常識的に考えれば、誰か信長の子をトップに立て光秀と決戦になる可能性が高い。
 
 だから、光秀と近かった武将でも様子見になるのは仕方ない。光秀が畿内を抑えたら従う人も出ただろう。明智光秀も戦国大名だから、一世一代の好機を見逃さなかった。同時に動いた大名が史料的に誰も確認できないんだから、光秀の「単独犯」と考えるのが素直な見方だろう。山口の大内氏を重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が滅ぼし、陶氏を毛利元就が破った。光秀の運命はこれと同じ。相手が信長だから、今も光秀の知名度が高いだけだろう。

 光秀がとんでもないことをしたというより、毛利氏と講和して直ちに引き返して光秀を討った秀吉の「中国大返し」、こっちがとんでもなかったのである。このような歴史上誰もできないようなことを秀吉がやるとは、誰も想定できなかった。だから天下を秀吉に持っていかれたということだ。要するに「史料に基づき、素直に解釈する」という基本が大事だという当たり前のことがよく判る。
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「おもいでの夏」と「避暑地の出来事」

2018年03月28日 21時15分09秒 |  〃  (旧作外国映画)
 お正月に「もう一度見たい映画・外国編」というのを書いたんだけど、その時に二番目に見たい映画に挙げたのが「おもいでの夏」という映画だった。そうしたら、キネカ大森でやってるワーナーブラザースの映画特集に入っているではないか。今回やる映画の中には最近見直した映画が多いけど、「おもいでの夏」と「避暑地の出来事」は見てないから、この機会に見に行った。

 1971年に作られた「おもいでの夏」(Summer of '42)は、アカデミー作曲賞を得たミシェル・ルグランの甘美で哀切なメロディが忘れられない。だから思い出の中で、ずいぶんロマンティックな映画になってたんだけど、見直してみたら「10代少年のセックス妄想おバカ映画」でもあった。ほとんど足立紳監督の「14の夜」じゃないか。まあ15歳という年齢は確かに「性のめざめ」だろうが、今の時点で見ると多少セクハラ的に問題なんじゃないか。世の中甘美なだけの世界はない。

 この映画は脚本家の思い出がもとになってるが、原題にある「42年の夏」、つまり真珠湾攻撃後半年ほどという時点を描いている。映画製作当時はベトナム戦争真っ最中で、第二次世界大戦を経験した人も数多くいた。そのような「戦争の影」が映画を成立させていて、だからこそ「海辺の家に住む出征兵士の若き妻」という存在が神話的な輝きになる。この「若き人妻」役のジェニファー・オニールは結局あまり大成しなかったけど、この映画一本で永遠に記憶されるだろう。
 (ジェニファー・オニール)
 僕にとって「おもいでの夏」は、ジェニファー・オニールとミシェル・ルグランの映画だったんだけど、今回見たら撮影監督のロバート・サーティーズの映画でもあると思った。「ベン・ハー」などで3回もアカデミー賞を得ているが、活動期間が長く「卒業」も「ラスト・ショー」も「スティング」もこの人。いかにも思い出の中を映像化するかのように、海辺の砂浜や太陽を背景にして、はかない幻のような世界を現出させている。「アラバマ物語」で知られるロバート・マリガン監督の佳作。

 デルマー・デイヴィス監督「避暑地の出来事」(1959)は初めて見た。マックス・スタイナー(「風と共に去りぬ」)作曲のテーマ曲「夏の日の恋」がパーシー・フェイス・オーケストラで大ヒットして、僕も曲だけは昔からよく知っている。美しいテーマ曲だけ有名で、大した映画じゃないというのは映画史的知識として知ってたけど、確かに今では古すぎる青春映画だった。

 もちろん「避暑地の出来事」で「夏の日の恋」の映画ではあるが、内容的には全然ロマンティックではない。ボーイ・ミーツ・ガール映画だけど、ボーイもガールも親の夫婦関係がメチャクチャ。メイン州の島の避暑地パイン・アイランドのホテルに、島で昔ライフガードだった若者が大富豪になってやってくる。ホテルの方が今では閑古鳥が鳴いて、オーナーは酒浸り。ホテルの息子と富豪の娘が出会ってすぐに恋に落ちるが、ある日ヨットが転覆して帰りが翌朝になると…。

 この映画のテーマは、「愛し合う若者はどこまでなら許されるか」である。キスまでならいいのか。愛し合っていれば結ばれてもいいのか。しかしセックスすれば妊娠の可能性もあるわけだから、生計のない若者がセックスするのはどうなんだ。世間体もあれば、財産問題、進学先の問題など様々な問題も起きてくる。こういうテーマは昔はけっこうたくさんあって、「純潔」を守らないとこんなに不幸になるというような映画もある。同じころに書かれたフィリップ・ロスの「さようならコロンバス」でも、若者の意識は変わりつつあるが、親の世代の意識が固いことが描かれた。

 今もこの問題そのものはあるだろうが、いちいち悩んでいく様子を映画にするというのは、アメリカや日本ではもうないだろう。そういう意味で「50年代」の最後の映画という感じがする。主演の若者たちはトロイ・ドナヒューサンドラ・ディー。トロイ・ドナヒューは本人のセリフにあるように勉強に向かないタイプで、まあカッコよいだけみたいな感じ。だから青春スターで売れなくなると、B級映画で殺人鬼みたいな役をやった。サンドラ・ディーは翌1960年に18歳で歌手のボビー・ダーリンと結婚してしまい、子どもを産むがやがて結婚は破たんした。実人生と映画は関係ないけど、なんかなるほどというようなカップルではある。
  (トロイ・ドナヒューとサンドラ・ディー)
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淡谷のり子と「Sing a Song」

2018年03月26日 21時35分42秒 | 演劇
 戦前から戦後にかけての大人気歌手だった淡谷のり子の戦時中を描く「Sing a Song」という劇を25日に見た。トム・プロジェクトのプロデュースで、もともと2月に本多劇場で公演された。その後全国を周った後で、葛飾区のかめありリリオホールで最終公演があった。そっちの方が家に近いから、そこで見ることにした。劇では「三上あい子」となってるけど、「ブルースの女王」と呼ばれ「別れのブルース」が大ヒットしたというんだから、淡谷のり子そのものである。

 もっとも淡谷のり子と言っても、僕の世代でも名前ぐらいしか知らない。1907年に生まれて、1999年に亡くなるが、晩年になってもテレビで毒舌が有名だった。そういう「元気なおばあちゃん」キャラでは知ってるけど、戦時中のことなどほとんど知らない。反戦平和の意識を強く持っていたことは有名だったけど、戦時中にしぼってドラマ化したのがこの劇である。
 (淡谷のり子)
 日中戦争が激しくなり、「ぜいたくは敵だ」の時代になってくる。ジャズやシャンソンなど外国の歌も歌うなと言われる。そんな時代に三谷あい子は、化粧をしてドレスを着て舞台に立ち続ける。ドレスが私の戦闘服であり、モンペで歌っても客が喜ばないと言い放つ。禁止された「別れのブルース」も歌ってしまい、憲兵隊に呼びつけられる。そこでお国のために活動せよと言われ、戦地慰問を命じられるが、三谷あい子は無償で(軍からお金を受け取らずに)行うと主張した。

 そんなあい子が戦地をめぐりながら何を見て、何を感じたか。はるばるとセレベス島のマカッサルまで行くと、豪快な長内司令官は兵隊のために何でも歌ってくれという。付き添う憲兵は反対するが…。そして昭和20年、もう戦局が悪化した中で、どうしてもまた行って欲しいと頼まれる。長内のたっての望みで訪れたのは、鹿児島の特攻基地だった。ここはどうしても、泣けてしまう。あんな愚劣な作戦を命じられた若者たちを前に三谷は何を歌うのか。

 三谷あい子のあり方はほぼ淡谷のり子の実話らしい。ウィキペディアを見ると、英米の捕虜がいるところに行ったときは日本兵に背を向けて、英語で歌ったと書いてあるから、並の人にはできないことだろう。始末書で済めばそれでいい。そう割り切って、自分の歌を歌い続けた。人を死に追いやる歌は歌じゃない。私は軍歌は歌わない。堂々とそう言い切って、恋愛の歌を歌った。こういう「骨のある人物」がいまこそ必要なんじゃないか。

 三上あい子役は戸田恵子。声量豊かでいいんだけど、再演の機会があればもっと淡谷のり子っぽくなるかもしれない。マネージャー役が大和田獏、長内司令官役の鳥山昌克が熱演だった。作は劇団チョコレートケーキの古川健、演出は日澤雄介。さらに練り上げた再演を期待。
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日本史のツボって何だろう-日本史本の世界②

2018年03月25日 22時41分35秒 |  〃 (歴史・地理)
 本郷和人「日本史のツボ」(文春新書)は、読みやすさから言えば抜群である。本郷氏は東大史料編纂所教授で、日本中世史が専門。一般向けの本もいっぱい書いてるが、マスコミにもよく出てくる。クイズ番組の解説や大河ドラマの考証などで活躍している。顔も名前も知られている珍しい日本史学者だ。ところで、この本は題名と内容に少し違いがある。二つの意味で、ちょっと残念な感じがした。一つは「議論が荒い」感じ、もう一つは「ツボって何だろう」である。

 この本は「テーマ別日本通史」というべき本。通史、つまり古代から現代までずっと述べるのは、研究が細分化した今ではとても難しい。この本も中世や近世が中心になっている。それはいいんだけど、やっぱり通史は難しいなと思う。読者の要望としては、簡単に流れが判る本は大歓迎だろう。でも、歴史は深い森で、奥深くどこに通じているか判らない細道がたくさんある。バッサリと切り捨てていくと、今度は教科書で読んだなあという感じの本になる。

 たとえば「武士の登場」、これは日本史上でもっとも重大な問題の一つだろう。「ツボ」80頁には「中央があてにならないとなると、地方の在地領主たちはどうするか。とりあえず土地を奪いに来た相手を、実力で撃退するほかない。自ら武装して土地を守る。これが武士の誕生です。」とある。一方、「やりなおし」121頁には「地方豪族や有力農民は、勢力を維持・拡大するために武装するようになりました。これが武士の始まり…ではありません。武士とはあくまで公権力から武装を認められた者です。」と書かれている。(後半のゴチックは原文。)

 これは今の理解では「やりなおし」の叙述が正しいだろう。武士をどう理解するかは非常に大きな問題になってきた。本郷氏ももちろん知っていて、判りやすく書いてるんだと思うけど、そういうところが「荒い」感じがするわけである。多くの政治家・知識人が高校日本史レベルの知識さえ持っていない日本では、ある程度緻密な叙述をしていかないとまずいと思う。日本史の授業で一番難しいかもしれない「荘園」の説明も「やりなおし」の方が判りやすいんじゃないか。

 そういう風にいちいち比較していても仕方ないから、次に「ツボ」の問題。ツボって何だろうというと、普通の語感では「中心的なもの」じゃなくて、「中心につながる端っこ」なんじゃないか。中国医学で(それが正しいかどうかとは別に)肌のどこかを押すと、内蔵につながってて病気が良くなるとか。その「どこか」が「ツボ」(経穴)。だけど、この本では「7つのツボ」として、天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済が挙がっている。これは日本史の中心テーマそのものじゃないか。

 「天皇を知れば日本史がわかる」「経済を知れば日本史がわかる」って、当たり前すぎるんじゃないだろうか。人体で言えば、「脳を知れば人体がわかる」「心臓を知れば人体がわかる」という感じで、人体の中心的臓器ばかりが論じられている。それはそれでいいとも言えるけど、「日本史のツボ」っていう題名で僕が事前に想像した中身とは違ったということである。まあ、それでも「川中島の戦い、勝ったのはどっち?」「貴族と武士の収入は一桁違う」などネタはいっぱいだから、読む価値はある。(「天下分け目の関ヶ原」の話など、すでにもう一つの新書になってる。)

 ついでに、じゃあ僕の語感による「日本史のツボ」を挙げておくことにする。最初は「猶子・養子」という問題。前近代は身分制度だから、親子で「家」を継いでいく。でも後継ぎの男児がいないことはあるわけだから、権力者の「養子制度」がないと困るケースも起きる。江戸時代初期には大名が後継ぎなく死去すると、取りつぶしになっていた。それでは浪人が増え社会が乱れるということで、「末期養子」、つまり死ぬ直前に養子をとることを認めるようになった。今と違って、昔は医学が発展していないから若くして死ぬ人が多かったから、これは大問題だった。

 「血のつながり」を重視する国もあるが、日本の商家ではむしろ優秀な番頭を娘の婿にして後継ぎにする慣習のようなものさえあった。それに対し、「猶子」(ゆうし)は「なお子の如し」で養子という関係というより、一時的な「仮親」みたいなケースに使われる。身分の低い娘が見初められて身分が高い家に嫁入りするようなとき、親戚などの「猶子」になったりする。豊臣秀吉も低い身分から出世したわけだが、最初に関白になるときは元関白・近衛前久の「猶子」となって、藤原氏として任命された。これじゃ何でもありみたいな感じだが、天皇家には認められないのは何故だろう。日本史の大問題だと思う。

 次は「沖縄とアイヌ」である。「やりなおし」も「ツボ」も、沖縄やアイヌの歴史がまったく触れられない。「中央史観」というか、「日本王朝」内部の問題に終始している。僕は単に「周縁部」や「マイノリティ」も見ておくべきだという意味で、沖縄やアイヌというのではない。ハワイ王国に500年も先がけて王権を確立した「琉球王朝」、一方最後まで王権確立を見なかった「蝦夷地」。両方を「日本」(天皇を中心とする王朝)と比較する視点が大切じゃないかと思うのである。

 日本を考えるときに重要なものとして「和食」(明治以後に成立する「日本式洋食」や「日本式中華料理」も含めて)がある。だが、それを支えたものは「蝦夷地」から北前船で関西に運ばれた昆布である。あるいは薩摩藩が琉球を支配して独占販売した「砂糖」なくして、和菓子はなく茶道もない。日本文化の洗練には、沖縄やアイヌとの関わりを考えることが欠かせない。もちろん近代になってからの苦難も考えないといけない。沖縄戦の中に「大日本帝国の本質」が現れている。前近代の沖縄やアイヌに関する知識は、一般にとても少ないだろう。是非そのような視点が必要だ。

 もう長くなるので後はテーマだけ示しておきたい。「差別とけがれ」「地震や台風」「温泉と観光」「選挙と入れ札」などが思う浮かぶ。他にもあるだろうけど、どれも僕が「日本史のツボ」と思うような観点である。差別はもちろん、災害や観光を社会史から考えるのは大切だろう。日本は欧米以外の国で人が死なない自由選挙をやってる珍しい国である。アジアで初の議会が成立した社会はどこに理由があるのか。もっと古い時期からの「選挙的な仕組み」を振り返る必要があると思う。
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内幕とやりなおしー日本史本の世界①

2018年03月23日 23時54分32秒 |  〃 (歴史・地理)
 磯田道史「日本史の内幕」(中公新書)は人気の著者らしく新書部門のベストセラーになっているらしい。同じく本郷和人「日本史のツボ」(文春新書)も人気を呼んでいる。正直言って、そういう本はあまり読まないんだけど、野澤道生「やりなおし高校日本史」(ちくま新書)という本もあるから、まとめて読んでみた。個別テーマの歴史本と違って、一般向け概説みたいな本は敬遠することが多いけれど。

 磯田道史さんの「日本史の内幕」は、この中では一番読みやすくて面白い。磯田氏は映画になった「武士の家計簿」「殿、利息でござる」(原作「無私の日本人」)の原作者である。歴史ノンフィクションが映画化されるだけで珍しい。ほとんどが読売新聞に連載されたエッセイで、読みやすいのはそういう事情もある。この本を読むと、磯田氏がほんとに古文書が好きなんだなあとよく判る。

 歴史、特に日本史に関しては何かしら人に語りたいと思う人は多いだろう。今も司馬遼太郎で済ませている社長も多いだろうが、実はもうだいぶ古くなっている。でも新書レベルでも、今はずいぶん難しい。やさしくて面白くて、「訓話」とか「授業」にすぐ使えるエピソードがいっぱい。そういう需要に答えたような本だが、題名は期待外れ。「日本史の内幕」というほどの秘密情報はあまりなくて「秀吉は秀頼の実父か」の章ぐらい。それより「磯田道史の内幕」の方が多いし、ずっと面白い。

 この本は「古文書の楽しみ」あたりが正しい書名だろう。本当に古文書オタクみたいな話が満載だ。必然的に「近世」が多く、ちょっと広く取って戦国から明治初期ぐらいの話が多い。だから古代史や近代史の重要な話がない。それはもうやむを得ないので、エッセイ集なんだから「話のタネ」と思って読むのが正しい。もう少し日本の歴史を系統的に考えたいという人には、「やりなおし高校日本史」がお勧め。著者の野澤氏は愛媛県の日本史教師で、教科書やセンター入試なども使いながらいくつかのポイントを語っている。僕はこの本が一番面白かった。

 「やりなおし高校日本史」というけど、「日本史B」が対象だろう。Bというのは、週4時間を基本とする科目で、大学入試は大体こっち。職業高校や定時制高校は大体「日本史A」だと思う。ペリー来航以後の近現代を中心に扱うが、「やりなおし高校日本史」では最後の方の2章、明治14年の政変と昭和初期の2大政党の話である。それだけ。昔から「歴史の授業が戦争の前で終わってしまったから、戦争を知らない」なんて言われる。やってないから「やりなおし」の対象にならないのかと言いたくなる。高校日本史をやりなおそうというんだったら、今じゃ入試にもよく出る戦後史まで扱わないといけない。

 それはともかく、この本では桓武天皇じゃなくて嵯峨天皇、源頼朝じゃなくて後白河法皇など、人物の選び方に工夫している。さらに執権北条氏は将軍になれなかったの?ならなかったの?とか、生類憐みの令の評価など、この本に書かれている「日本史の内幕」が面白い。最初の方は判っている話ばかりだなあなんて思ったけど、だんだん語り口のうまさを楽しめるようになった。話自体は日本史に関心がある人には、珍しくはない。でも教材やエピソードなどの取り上げ方に工夫があって、読みごたえがある。ちょっと難しいかなという感じもするけど、イマドキちくま新書を読んでみようという人なら、このレベルでいいのかなと思う。

 ところで著者の野澤氏は愛媛県の中高一貫校で教えているとある。ということは育鵬社を使ってる(使わせられている)ということだ。愛媛と言えば、加計学園問題で出てきた加戸知事がいたとこで、石原都知事がいた東京と並んで、一番最初に扶桑社の中学歴史教科書を採択したところ。「歴史修正主義先進県」である。著者はさりげなく「アジア太平洋戦争」なんて書いているけど、「大東亜戦争」と書かれている教科書を使うことをどう考えているのか。書けない、書かないのかもしれないけど、僕は「今の日本人にとって歴史を学ぶとはどういうことか」こそ語って欲しいと思ったりもした。まあ、とにかく日本史をちゃんと考えるためには読んでみる価値がある。(「日本史のツボ」は次回に。)
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「素敵なダイナマイトスキャンダル」が面白い

2018年03月23日 21時21分28秒 | 映画 (新作日本映画)
 富永昌敬(まさのり、1975~)監督の「素敵なダイナマイトスキャンダル」はとても面白かった。これは伝説的編集者の末井昭の自伝の映画化で、60年代末から80年代にかけての「昭和」が持っていた熱とやるせなさが存分に表されている。この題名は「母親が隣家の若い男とダイナマイト心中! という、まるで噓のような実体験をもつ稀代の雑誌編集者」という末井昭の書いた書名。

 1947年生まれの末井の時代は、まだ貧困や結核という前時代の影を背負って生きていた。都会の工場に憧れるが、大阪の工場は軍隊並み。川崎の父のもとに逃げ込むが、うっとうしい父を逃れて下宿し、そこで「出会い」があった。それからキャバレーなど底辺労働を続けながら、やがて小出版社でエロ雑誌を手掛け、写真家の荒木経惟とコラボしながら、「NEW self」「ウイークエンド・スーパー」「写真時代」と警察の摘発とイタチごっこながら、新感覚の雑誌を作ってゆく。

 これらの雑誌では、エロ写真さえあればいいだろうという感じで、南伸坊、赤瀬川原平、嵐山光三郎、田中小実昌、秋山祐徳太子、平岡正明らが執筆していた。そういうところが「伝説」でもあるんだろうが、でも僕はこれらの雑誌を読んでたわけじゃない。ほとんど知らないと言った方がいい。70年代にはいろんな面白い雑誌があったけど、「エロ写真雑誌」は買う範囲に入ってなかった。だから、面白いのである。知らない世界を知るというか、へえ、そうなんだという面白さである。

 編集長・末井の私生活もバクロされるが、「糟糠の妻」(前田敦子が好演)はほったらかしで、不倫相手と泥沼になってゆく。奥さん大事にしなよと思っちゃうけど、それでも奈落に落ち込むのが人間の性(さが)ではある。母親(尾野真千子)が不倫相手と爆発しちゃったという過去が、当然そこにも影響しているだろう。誰にも信用されないほどの出来事だが、母の事件は新聞にも載ったらしい。事実だと知ると、今度は周りの人間は「死んだ母親を利用している」と非難する。
  
 末井の人生を一言で表すと、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」という卓抜過ぎるキャッチコピーとなる。とにかく度はずれた人物たちが繰り広げたムチャクチャの日々。30数年ほど前の話だが、ちょっと前の時代がこんなだったか。ケータイもスマホもなく、人は雑誌を買っていた。「コンプライアンス」なんて言葉はまだ知らず、ずいぶんいい加減が許されていた。それはセクハラ、パワハラが今よりももっと多かった時代でもあるだろうが、好き勝手に生きられる隙間が今より広かった感じもする。

 末井を演じるのは、柄本祐で素晴らしい存在感だった。もちろん安藤サクラの夫、というか柄本明と角筈和枝の子ども。脚本、監督の富永昌敬はけっこう見ている。2017年末の「南瓜とマヨネーズ」、太宰治原作の「パンドラの匣」(川上未映子が良かった)、ベストテン10位に入ったダメ教師もの「ローリング」など、それぞれ面白かったんだけど、いずれも今一つパンチに欠けた感がした。今度の作品が一番いいと思う。若手監督作品を多数手がけている月永雄太の撮影も良かった。
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映画「しあわせの絵の具」、カナダのナイーブ派画家モード・ルイス

2018年03月22日 21時37分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 カナダにナイーブ派(素朴派)の画家モード・ルイス(1903~1970)という人がいた。映画「しあわせの絵の具」で描かれていて初めて知った。ウィキペディアを見ると「フォーク・アート」と書かれていて、日本で初めて紹介されたのは「なんでも鑑定団」じゃないかと書いてある。故・大橋巨泉が彼女のコレクターで、2007年の番組に持ってきたんだとある。色彩豊かなホント素朴な自然が描かれていて、心ひかれる絵だなと思う。どんな絵かというと、こんな感じ。
 
 「しあわせな絵の具」はとても面白い映画だった。カナダの一番東、ノバスコシアの港町で生まれたモード・ルイスは豊かな自然の中で育った。映画ではスタジオじゃ感じが出ないので、ニューファンドランド島にオープンセットを作ったという。ホントは彼女が住んで絵で飾り立てた小さな住まいがあるんだけど、それは今は博物館に移築されている。

 モードは小さい時から家族からも疎んじられてきたようだが、それはリウマチで歩くことも大変だったかららしい。途中で判るけど、一度は(結婚せずに)子どもも生まれた過去もあるらしい。(家族から死産だったと言われた。)そんな彼女を借金まみれの兄は面倒見きれず、おばに預ける。何とか自活したいモードは、店に貼ってあった住み込み家政婦を求めるエベレットを訪ねる。孤児院育ちの彼は、魚の行商などをしながら、精一杯生きていた。そんな二人はうまくやっていけるのか。

 モードは何より絵を描くことが好きだった。やがて住み込みの小さな家の壁などに絵を描き始める。孤独な二人は少しづつ理解しあってゆくんだけど…。いさかいを重ねつつも、次第に売れて評判になる彼女をエベレットも認めていくようになる。ちゃんと結婚した二人だったけど…という話。無骨な男と無垢な女という取り合わせは、フェリーニの「道」を思い出すが、この映画は二人の住む家を動かない。この家を取り巻く自然が素晴らしく、画面を見ていても飽きることがない。

 なんだか人生に何が必要なのか、改めてしみじみ感じさせてくれる映画。主人公モードは、「シェイプ・オブ・ウォーター」で大評判のサリー・ホーキンス。なりきり演技が素晴らしい。エベレットはイーサン・ホーク。ほとんどこの二人が出ずっぱりで、印象的な演技。監督はアイルランド出身のアシェリング・ウォルシュという人。
(モード・ルイス本人の写真)
 画家の映画は割と多い。有名画家を扱う映画も多いが、ナイーブ派の映画も多い。グルジア(ジョージア)の「ピロスマニ」、ポーランドの「ニキフォル」、フランスの「セラフィーヌの庭」など忘れられない。日本の「裸の大将」(山下清)などもある。男は放浪出来るが、女性画家は家で描くことが多い。
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「読解力」はいつでも伸びる-冤罪事件をめぐって

2018年03月21日 23時11分19秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 先に紹介した新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」の中に興味深い記述があった。その本の後半では、日本の子どもたちの「読解能力」がおぼつかないという話が様々なデータで語られる。そして、その「読解能力の不足」は何に関連するのかも探られる。つまり、本を読んでない子ども、スマホの時間が多い子ども…などとの関連性を見つけていくわけである。そして得られた結果は、読書やスマホは関係ないというのである。へえ、そうなんだ。

 ただ一つ、有意な関連性があったのは、学校の就学補助率だったという。つまり、生活保護ではないけれど、一定水準以下の家庭には教科書や給食などの援助がある。それを「就学援助」というわけだが、自書した申請書類を提出しないとダメだから受けない人もいる。(なお、本書では「就学補助」と書いてあるが、文科省はじめ教育行政用語では「就学援助」である。)これは生徒自身は判ってないから、まとめて受けた学校の協力でデータを得たという。つまり、貧困と読解力(不足)は関連性があるのである。

 と同時に、新井氏はとても興味深いことを書いている。しかし、読解力はいつでも伸びるというのである。そしてそのことは冤罪事件の被告を話を聞いたから判ったというのである。新井氏は一橋大学法学部だったので(その後、数学に関心を持っていくが)、恐らく冤罪事件に関する講演などを聞く機会があったんだと思う。事件名は書いてないけど、ヒントが書いてあるから事件と元被告の名はすぐ判る。とても論理的な説明をすることにビックリするが、冤罪事件の被告の話をその後も聞いてみると、同じように論理力の高さを感じた。

 事件までの育ちはむしろ貧困や学習環境が悪いケースも多いから、この論理性は冤罪事件に関わって鍛えられたのだろうと考える。そりゃあ、そうだ。自分が無実であることは自分が一番知っているけど、それだけを語っても裁判官は同調してくれない。論理の力で裁判官を論破する必要がある。裁判官はそれでも理解しないこともあるが、支援運動はそのような被告の頑張りなくして広がらない。だから、「読解力」は厳しい環境の中で伸びていく。冤罪に巻き込まれないと伸びないというんじゃ困るけど、そういうことではなく、人間はいつでも変わっていけるということである。

 僕が接してきた中でも同じように感じる。免田栄さんは戦後まもなく冤罪で死刑判決を受け、その当時は全く誰の支援もなかった。弁護人もいなくて、自分で再審請求を繰り返した。全然かえりみられずに2回却下されるが、自分で始めた三回目の請求で一度は認めてくれる裁判官が現れた。もっともそれは上級審で再び却下され、釈放されるまでにはまだ何十年もかかったわけだが。また布川事件の桜井昌司さんも自分は「不良少年」だったと過去を語り、「刑務所大学」で学んだと語る。だけど、冤罪に巻き込まれた人がすべて「冤罪救援運動家」になるわけじゃない。やはり人間のタイプというものがあるんだと思う。

 宮崎県の大崎事件の再審開始決定に対し、検察側は最高裁に特別抗告した。そもそも再審で検察が上訴できる規定がおかしいと前に書いたけど、検察庁という役所の非論理性も恐ろしい。事件ごとにあくまでも抵抗していく。冤罪事件だったかもなどと思うことはないのか。きちんと開始決定を分析できているのだろうか。確定判決を守ることだけを使命と勘違いしているのか。冤罪事件も社会問題として「パターン化」ができる。

 大崎事件の場合は、「事件性のないものを無理やり事件にする」「知的障害があって迎合性の高い被告人の調書に依存する」ということである。高裁決定も満点ではないけど、再審開始には十分である。請求人は高齢で早い決定が望まれる。検察が反論したいなら、再審公判で行えばいいじゃないか。ここで判るのは、検察官という司法試験に合格した日本の最高レベルの知性であっても、官僚的な前例の方が優先して「論理的思考」ができないということである。国会議員レベルではもっとトンデモナイ状態だ。どうすりゃいいんだろう。
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「ドリーム」と「20センチュリー・ウーマン」

2018年03月21日 21時20分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 新作というか、去年の公開だけど、見逃していた「ドリーム」と「20センチュリー・ウーマン」をキネカ大盛りで見た。東京だと、まだ名画座的な二番館があるから、映画館で後追いできる。「ドリーム」はアカデミー作品賞にノミネートされ、日本でも大ヒットした。評判になったから当然見るつもりでいて、ずっとやっているから後回しにしていたら突然終わっていた。最近は新作が金曜公開で、木曜に終わってしまう映画が多い。金曜に見るつもりだったら、もうやってなかった。

 この映画はもう知ってる人が多いと思うけど、宇宙ロケット計画を進めていた60年代初期のNASA(米航空宇宙局)で「計算係」として働いていた黒人女性3人の「活躍」を描いている。原題は「Hidden Figures」、ヒドゥン・フィギュアズというのは「隠された人々」、まあ「知られざる人たち」といった感じだと思う。フィギュアというのは、フィギュアスケートやアニメなんかも模型のフィギュアと同じ。とてもよく出来た「快作」で、この映画の欠点を挙げれば破綻がないことだろう。

 「有色人種」と「女性」という「二重のマイノリティ」である人々が、困難を乗り越えて「国のために尽くす」。実にアメリカ人好みの構図で、政治的な配慮が行き届いている。NASAがこんなに差別的だったのかと思うと、映画は脚色されていて本当はここまでひどくなかった。その情報はウィキペディアで見たが、なるほどこの映画の「ウェルメイド感」(出来過ぎ的な既視感)は作られたものだったのか。それでもこの映画が面白いのは、先に「二重のマイノリティ」と書いたけど、実はもう一つ大きな問題を描いているからだと思う。それは「勉強できる女子」問題である。

 数学バリバリ、数式をチョーク一本でどんどん書いていける「天才」。それが男であったとしても、周りからは「がり勉」などと言われかねない。それが女性の場合、普通は「数学者」という進路は考えられない。勉強ができすぎる「メガネの女」は、人種を問わず同性にも異性にも敬遠される。だけど、数学の才能は人種や性別を問わないから、同じような苦しい思いを共有してきた黒人女性が一定程度存在したわけだろう。そのような人々が「国難」にあたって呼び集められたが、それは「知られざる歴史」だった。という「秘話」の持つ迫力である。

 一番出てくるキャサリンはタラジ・P・ヘンソン。ドロシーがオクタヴィア・スペンサー。「シェイプ・オブ・ウォーター」で清掃員をやってた彼女である。もう一人のメアリーはジャネール・モネイ。責任者がケヴィン・コスナー。女性管理職はキルスティン・ダンスト。キャサリンの再婚相手にマハーシャラ・アリ。「ムーンライト」でアカデミー賞助演男優賞を得た人である。脚本・監督はセオドア・メルフィ。去年ここでも書いた「ジーサンズ はじめての強盗」の脚本を書いた人。

 作品として同じぐらい面白かったのが、ジョン・ミルズ監督の「20センチュリー・ウーマン」。1924年生まれのシングルマザー、ドロシーに育てられている少年ジェイミーの15歳の日々を描く。1979年の話である。「ドリーム」の女性たちは1926年に生まれていて、ドロシーとほぼ同世代の「大恐慌世代」である。「ドリーム」で描かれた宇宙計画の時代、1964年にドロシーは当時としては非常に遅い40歳で子どもを産んだ。かなり監督の実体験を反映した物語になってるらしい。

 カリフォルニア州サンタ・バーバラで、母は働きながら子育てをしてきたが、思春期を迎えたジェレミーは今一つ判らない。幼なじみで2歳年上の女性ジュリーや、自宅の部屋を借りているアビーに助けを求めるけど、二人ともちょっとはずれている。同じくドロシーの家で部屋を借りてる大工のウィリアムを含めて、男2人と女3人の関わりが当時の風俗や性的な会話を含めて巧みに描かれていく。まあ思春期青春映画なんだけど、アメリカ映画によくある「セックスと暴力」映画ではない。

 母親がアカデミー主演女優賞に2回ノミネートのアネット・ベニング。実にうまい。そしてアビーがグレタ・ガーウィグ。「フランシス・ハ」や「マギーズ・プラン」のあの人で、監督に進出した「レディ・バード」も大評判になった。普通の意味での美人じゃなくて、どこか外れた個性派というムードを全身で出している。そして幼なじみのジュリーは、大活躍中のエル・ファニング。ここでも素晴らしく魅力的なんだけど、性的に進んでいるのにジェレミーには「幼なじみすぎて、その気にならない」なんて酷なことを言って何もさせない。夜に家を抜けてきて、同じベッドに寝てても何もない。そりゃ、ムチャだよと思うが、さすがにジュリーは架空の設定だという。

 そんな一風変わった女たちの中で大人になるということ。ジェレミーのそんな悩みがこの映画のテーマだろう。アビーはフェミニズムの本をジェレミーに与え、彼は頭でっかちに女性理解をしてしまうのがおかしい。カーター大統領時代の映像も交えて、70年代末の時代相を再現している。いつの時代も親と子、男と女は難しいものだが、こういう描き方もあったかと感じる。とても興味深い映画で、やはりアメリカというのは面白い国だなあと思った。出来は佳作だが、俳優を見る楽しみもあり、見逃せない。
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安倍首相夫妻に見る「夫は妻を代表できるか」問題

2018年03月20日 21時20分13秒 |  〃  (安倍政権論)
 森友学園をめぐる国有地払下げや文書書き換えの問題は、いまだよく判らない点が多すぎる。そういう問題も大事だけど、この問題をめぐる安倍首相、あるいは安倍昭恵夫人の「ふるまい方」に大きな問題を感じ取ることがたくさんある。安倍首相の国会答弁にこういうものがあった。「削除された文書を見ても、忖度したとは書かれていない」。うーん、困ったな。これって何なんだ?

 単に言葉を知らないだけなのかもしれないけど…。公務員が文書に「首相夫人に忖度した」と書くわけがない。もし公文書に書いてあったら、それはもう「忖度」じゃないでしょ。自分は知らない、命じていないと何度も言ってるけど、首相が知らないところで、首相夫人の名前を公文書から消してしまう。そういう「部下」を持っていることに、何の恐れも感じないのかも。自分は知らないんだから、何の問題もないじゃんと心の奥底から本気で思ってるのかも。 

 ところで、皆が知るように首相夫人安倍昭恵氏は、森友学園問題が発覚してからこの問題で何の発言もしていない。外国訪問に同行したりはしているので、公的活動をすべて止めたわけではない。今回も「妻に確認したところ、そのような発言はしていないということだ」などと国会で答弁している。森友学園の籠池夫妻はすでに逮捕・起訴され、近畿財務局も背任で告発されている。刑事事件になっている問題で、「伝聞証拠」を出してくるとは国会をないがしろにするものだ。

 そもそも「妻の行動を夫がどこまで代弁できるのだろうか」と思う。私的領域の出来事は構わないだろう。芸能人の結婚記者会見で、なれそめはなんて質問に、夫だけが代表して答えたってとやかく言うわけにもいかない。でも、「公的領域」の場合は代表できないはずだ。日本の民法では、夫婦の共有財産などは認めていない。夫の物は夫の物、妻の物は妻の物。(限度額以上の)贈与すれば贈与税がかかる。今回の「名誉校長」は無給の名誉職なんだろうが、妻の公的活動なんだから、夫はすべてを代表できない

 もっとも籠池氏がどこまで信用できる人物か、きわめて怪しいと思う。首相夫人がこう言った、ああ言ったと勝手にふくらませて大きなことを言ってる感じもする。全部じゃないかもしれないが、そういうホラ話をあったんじゃないか。だが、その場合でも「名誉校長になった」という公的責任があるのだから、公的な場でちゃんと語る必要がある。だまされていたと主張するなら、自分でちゃんと言わないといけない。一度も記者会見さえしないんだから、国会に証人として呼ぶ必要がある。

 しかし、僕が言いたいのはそういうことじゃない。この安倍首相のふるまいを見ていると、「女性活躍社会」というのが、やっぱりウソだと判るのである。妻を公的な役目を持った人間として認めていない。自分の足を引っ張る存在としかとらえていない。それがホンネなんだろう。間違いなく「名誉校長」だったんだから、「妻にも自分の言葉で説明するように言っておきます」というのが、「対等な関係の夫婦」というもんじゃないだろうか。

 森友問題以上に、そっちの方が重大かもしれないと思う。安倍首相は、妻がやってた名誉職はほとんど辞めることにしたと語っている。全部と言わないけど、今後もやるのは何だろう。今回の問題を見ると、安倍首相夫人に「公的な名誉職」を務める意味が判っているのか心配だ。僕が思うに、首相夫人が様々な名誉職的な仕事をするのは、一向にかまわないと思う。しかし、「森友学園の小学校名誉校長」は実は名誉職ではない。福祉とか芸術などの応援活動ではない。それは「イデオロギー活動」だった。だから、もともと首相夫人がやるべきものではなかった。それが判っていて、だから出てこないのだろうが、この夫婦は判らないことばかりである。
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必読の書、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」

2018年03月19日 22時36分34秒 | 〃 (さまざまな本)
 新井紀子著「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済新報社)は、いまベストセラーになっている本だ。あまりそういうのは読まないんだけど、ラジオで面白いと言ってたと妻が買ってきた。まあせっかくだからと読んでみて、これはAI(人工知能)の本というより、教育の本だと思った。教師も親も全員必読の本だと思う。すごく大事なことが書いてある。

 新井紀子さんという人は、AIで東大入試に挑むという「東ロボ君」プロジェクトをやってた人である。この本も帯では「人工知能はすでにMAECH合格レベル」と大きくうたってる。そう言われると数年後には東大も合格か、何しろ将棋じゃ名人にも勝ったらしいし、なんて思いかねない。でもこれはとんでもないミスリーディングで、知ってる人も多いだろうが東大合格プロジェクトは中止になった。「MARCH合格レベル」で頭打ちだとはっきりしたからである。

 センター試験だけならいいのである。数学や日本史は何とかなる。でも東大を目指すとなると、英語や国語の二次試験の筆記試験が難問となる。東大は日本最難関大学だから、受験層はもともと学力が一番高い。その中から選抜する問題を作って出題している。MARCHレベルと言っても、AIが問題文の意味を理解して解いているのではない。ぼう大な情報を集めて合理的に推測しているだけで、それが大学受験者全員の中で半分より上にはなったということである。

 どんな大学であれ、今の日本の入試では「多数の受験生から学力を判定する」必要がある。早大、明大など数万人が受ける入試で全員に記述式の論文入試をするわけにはいかない。だから「AIにも解ける問題」が私立大学には出題される。それでも記述式問題もあるから100点は難しいけど、合格ラインには達するということだ。「AIには限界がある」ということだ。人工知能(AI=artificial intelligence)というけど、要するにコンピュータである。「電子計算機」である。もうパソコンが「電算」だった時代を知らないかもしれないけど。

 計算機だから計算しかできない。ワードで文章が作れるし、絵も描ける、曲も作れるというかもしれないけど、それも「計算」である。数式に置き換えられる仕組みを考えて、それで「文字」を作っている。文字を書くのは「人間」しかできない。いや翻訳ソフトだってあるじゃないかと言っても、それはどういう風に作られているかが懇切丁寧に説明されていく。なるほどなあ。とにかく「教師役」が教えていかないと、翻訳はできない。例文を億兆レベルで覚え込む「超絶暗記勉強法」がAIというものである。将棋はルールある競技だから勝てるが、ルールなき世界では戦えない。

 ここでこの本の中身は転調する。ここまでだったら、AIも大したことないじゃんである。それは違うと新井氏は言う。日本人全員が東大に合格するわけじゃない。AIがある程度の段階まで達したなら、それ以下の大卒の仕事はAIに代替可能かもしれない。「AI大恐慌」がやってくるんじゃないか。歴史上何回か起こった「技術革新に伴う仕事の消滅」が半数の労働者に起こりうる。発声映画の登場で無声映画時代の「弁士」が失業した事態が、もっと大規模に起こるかもしれない。

 どういう仕事は無くなりそうで、どんな仕事は残るのか。その予測も載ってるから見てみる価値がある。それはともかく、Aiには出来なくて、人間しかできないことはある。だから人間にしかできない仕事を行う能力を育てるしかない。じゃあ、日本の子どもたちには「Aiにはできない能力」、つまり「意味」を読み取る能力があるんだろうか。調べてみよう。そして調査を積み重ねた結果、日本の子どもたちの大半は「教科書が読めない」ということが判った!

 ここが僕には一番面白かったところだが、「教科書を読めない」は少し正しくないだろう。「論理的な理解力が欠けている」ということだと思う。どんな問題だったのかはとても面白いけれど、問題自体も勝手に引用するのは著作権に触れそうだ。ぜひ直接読んで、自分でやってみて欲しい。確かに急いでやると間違いそうな、ちょっと面倒な文章もある。でも、基本的に理解可能である。その分析はものすごく面白かったけど、ここで書いてると終わらないからやめる。

 それより、むしろ僕が驚いたのは、「この程度のことで新井氏が驚いている」ということである。教科書理解力のレベルは、僕が見るところ、近年急速に落ちているのではなく、多分ずっとそんなものだったのだと思う。それを何とかかんとか、現場の力で持ちこたえてきた。最近見た「野球部員、演劇の舞台に立つ」でも野球部員は読めない漢字を抜かして読んでいた。昔からずっと、半分の生徒は「教科書が読めない」(という言い方をすれば)状態だった。それでもやって行けるような工夫を学校がしていたのである。

 文科省は小学校から英語を、中高ではプログラミング学習をなどと言ってるけど、それは「絵に描いた餅」だと新井さんは言う。その通りだが、「現場の実態を知らない」と言っている。そうじゃないと思う。もうずっと「学校の現場力を損なう」政策を進めてきた。だから、現場では感覚的に判ると思う。文科省の目的は、学力差を広げることなんだと思う。それがどういう意味か、もうここで書くのはやめる。ただ一つ書いておくと、国会の安倍首相の答弁を聞いてみて欲しい。「論理的な能力」が日本社会には必要ないことが判るだろう。
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トランスジェンダーの苦難、「ナチュラル・ウーマン」

2018年03月18日 20時54分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したチリ映画、「ナチュラル・ウーマン」。トランスジェンダーの人生を、自らがトランスジェンダーの女優が演じて評判を呼んでいる。アカデミー賞外国語映画賞はけっこう要注意で、案外な作品が選ばれたりする。この映画もちょっと期待外れの出来かもしれないが、テーマ的に重要だしチリ映画は珍しいので取り上げておくことにする。

 冒頭にイグアスの滝が出てきて、「彼」は「彼女」にイグアスの滝への旅行をプレゼントする。(それも南米らしい。)その前にサウナのシーンと、「彼」が紙袋をなく捨て探すシーンがある。それも一種の伏線なんだろうが、その時点ではよく判らない。「彼」は会社社長オルランド、「彼女」はナイトクラブの歌手マリーナ。歌手なのかと思えば、後で判るがウェートレスが本職で、歌手はアルバイト。今日はマリーナの誕生日で、二人は仲よくお食事である。

 事前情報でトランスジェンダーの映画だと知らずに見れば、この二人はただの中年男女である。仲良く家に帰るが、深夜に運命が暗転する。彼が突然体調不良を訴え、なんとか病院へ運ぶけど、もうマリーナの存在は迷惑そのもの。それどころか、警察に疑われて付きまとわれる。彼の兄弟、離婚した妻などが現れ、葬儀にも来るなと言われる。やはりセクシャル・マイノリティの権利は認められず、苦しい思いをしながら「彼」を思い出していく。遺品のカギがサウナのものと知り、サウナに「潜入」したりもする。そんな様子を通して、強く生きて行こうとするマリーナの姿を描く。

 このマリーナを演じるのは、トランスジェンダーの歌手であるダニエラ・ヴェガ。歌手としては、映画の中で「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデル)が流れる。他のものはいらないから、二人で飼ってた犬のディアブラだけは手元に置きたいと奮闘するのも何だかよく判る。ダニエラ・ヴぇガは自らの体験も映画に注ぎ込んだようで、非常に難しい立場をよく演じている。監督はセバスチャン・レリオで、ベルリン映画祭銀熊賞(女優賞)受賞の「グロリアの青春」が日本でも公開されている。どっちもチリという感じはしなくて、普遍的なテーマを扱っている。

 トランスジェンダー(Transgender)は、LGBTという時のTに当たるが、いわゆる「性同一性障害」のことである。「性自認」と「性別」が一致せず、性別を「超える、向う側へ行く」(ラテン語でトランス)状態の人々である。同性愛者のような「性的指向」とは違う。一見すると、同性愛者のように見えてしまうが、そうじゃなくて「心は違う性」なのである。(トランスジェンダーとしての「異性愛」だけじゃなく、トランスジェンダーの「同性愛」もあり得る。)チリでもやはり多くの誤解や反発に囲まれていることが判る。最近は性的少数者の映画が多いけど、その中でも注目の秀作だった。
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ヨルゴス・ランティモス「聖なる鹿殺し」、再びの不条理劇

2018年03月17日 20時53分45秒 |  〃  (新作外国映画)
 ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモスと言えば、あまりにもぶっ飛んだ「ロブスター」の監督である。独身が罪となり、限られた時間内に結婚しないと動物に変えられる。一体何なんだと思う筋書きだけど、映画そのものは確かに傑作だった。今回の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」は、2017年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞。相も変わらず現実界を超えた不条理が身に迫る映画で、ヨルゴス・ランティモスの頭の中は一体どうなっているんだ?

 スティーブンとアナの医師夫婦をコリン・ファレルニコール・キッドマンが演じる英語映画。広角ぎみの処理された映像で、冒頭から何やら不穏なムードが漂う。音楽も不穏そのもの。広い家に二人の子どもたちと暮らす心臓外科医スティーブンに、なんだかよく判らないマーティンという16歳の少年が付きまとう。どういう関係か、なかなかつかめないが、どうやらマーティンの父はかつてスティーブンによる手術中に死亡したらしい。

 それが何らかの医療事故、あるいは事件だったとしても、責任は医師にしかない。ところが、下の男の子が突然足が不自由になり歩けなくなる。つまり「家族に呪いがかかる」わけだが、マーティンには不可思議な力があるのか、それとも予知できるのか。全然判らないが、とにかく不条理そのものの条件を突き付けられて、彼らの家族は翻弄されてゆく。そして究極の選択を迫れるラストが…。これはエウリピデスのギリシャ悲劇にインスパイアされているというけど、どうしてこんな嫌な話を思いつけるのかという感じの映画である。

 映画そのものはホントによく出来ていて、これは傑作じゃないか。でも多くの人が見て楽しめるという映画じゃない。意味を求めても仕方ないけど、そう言えば世界は不条理に満ちている。何の罪科がなくても、戦火やテロで生命を奪われるというニュースが毎日のように報じられる。戦争だからと言って、全員が死ぬわけではない。戦火のシリアであっても、「ある人の頭上に爆弾が落ち、ある人は助かる」のである。それがどうしてそうなったかの理由は見つけられない。

 だから人生は、あるいは世界は、存在した当初から不条理の中にある。この映画はそれを可視化したのだと言われれば、そういうことになるかもしれない。主人公が医師であることからも、アンドレ・カイヤット「眼には眼を」(1957)を思い出した。しかし、あれは医師が翻弄されるのであって、医師の家族の話ではない。その意味で「聖なる鹿殺し」の不条理性はもっと大きい。一体どうなるんだろうと画面から目が離せない。コリン・ファレル、ニコール・キッドマンともに、「ビガイルド」で見たばかり。ニコール・キッドマンは1967年生まれで、もう50歳。でも年齢を感じさせない、素晴らしい存在感。選ばれた出演映画はみな素晴らしく、大女優になったなあと思う。
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原尞14年ぶりの新作、「それまでの明日」

2018年03月15日 21時15分02秒 | 〃 (ミステリー)
 「私が殺した少女」で直木賞を受賞したハードボイルド作家の原尞。超寡作で有名で、作家デビュー以後に長編4冊と短編集1冊、それにエッセイ集1冊(文庫は2分冊)しか刊行されていない。2004年に発表された「愚か者死すべし」からもう10年以上経った。1946年12月18日生まれだから、もう事実上引退なのかと思わないでもなかった。それが2018年1月1日、元旦恒例、早川書房の新刊広告を見たら、新作が出ると予告しているではないか。

 うっかり「御乱心」を先に読んでしまったけど、3月1日に出た「それまでの明日」も早速読まなくては。まあ、ミステリーの記事は反応が悪いので、簡単にしたいは思うけど、原尞の新作を待ち望まない読書ファンはいないだろう。西新宿・渡辺探偵事務所探偵沢崎。なんで沢崎が渡辺探偵事務所なのか、渡辺とは何者かということは、今まで読んでいた人には解決済みなので、ここでは省略する。日本にも私立探偵小説は数多いが、沢崎シリーズは間違いなく頂点にある。

 全部書いたら面白くないから、最小限のことを。西新宿のぼろいビル(いつもの懐かしいぼろビルがどうなるかも、一応読みどころなので注意)にある探偵事務所に、似合わぬ風体の紳士が訪れる。いつもの依頼者っぽくないけど、ミレニアム・ファイナンス新宿支店長の望月と名乗り、赤坂の料亭の女将の調査を依頼する。ちょっと調べ始めると、アレレ?っていう事情が出てきて、沢崎は直接ミレニアム・ファイナンス(まあサラ金らしい)に出かけることにする。

 ということで話しが始まるが、ミレニアム・ファイナンスで何と!という出来事が起きる。そして訪ねた目的の望月支店長はどこに行ったの?もう筋書きは書かないことにするが、あれよあれよの展開で沢崎も事件に巻き込まれるが、それは仕組まれたものだったのか。因縁の刑事やヤクザも登場し、いくつもの謎が交錯する。そして、そもそものきっかけの赤坂の料亭は、どう関係するのか? 一応ラストに大体解決するんだけど、何が本筋なのかにもよるが、小説内で一番大きな事件はスッキリしない。だが、それは沢崎の事件じゃないからいいんだろう。

 この小説はどうも犯罪をめぐる謎解きよりも、関係する人物たちの人生をていねいに描くことがテーマなんじゃないかと思う。特に就職氷河期に自分たちの求人ネット会社を立ち上げた海津一樹という若者。今まで読んだことのないような新鮮な人物で、沢崎さんはもしかして僕の父親じゃないですかなんて衝撃的セリフまで口にする。また赤坂の料亭にある肖像画にまつわるエピソードも哀切で心に残る。女優に似てると思ったら、案の定、山田五十鈴、田中絹代、原節子、高峰秀子の4人の想像肖像画しか描かなかった画家。評判を呼んで、4人の女優は実際に料亭に見に来たという。その時の高峰秀子の感想というのが、実にうまく出来てる。

 謎をめぐって一気読みだが、最後まで油断ができない。この小説は中に出てくるニュースから、民主党政権下の2010年秋と時期が特定できる。そうすると、次の年に何が起こった? それを思うと、これは次の物語が書かれなくてはならないと思う。正直言って、原寮は「私が殺した少女」と「さらば長き眠り」が最高じゃないかと思う。「さらば長き眠り」なんて題名、チャンドラーの名作3冊の「いいとこどり」(「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」「大いなる眠り」)みたいで、読む前は何だそれと思ったんだけど、読めば全くその題名しかないと得心した。

 ハードボイルドは都市の時代性を反映する。バブル崩壊後20年、就職氷河期時代の東京が活写されている。その後「3・11」と「東京五輪」で東京は大きく変わってゆく。その前の東京を描いたという意味でも興味深い。
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鄭義信「赤道の下のマクベス」を見る

2018年03月14日 23時17分04秒 | 演劇
 新国立劇場でやっている鄭義信(チョン・ウィシン)作・演出の「赤道の下のマクベス」を見た。25日まで。最近冬の間は前売券を買わないので(数年前にチケットがあるからと具合悪いのに無理して見に行って長引かせてしまった)、お芝居を見るのも久しぶり。一番の感想は、シネコンの座席に比べて、新国立の座席はお尻が痛くなるなあということだ。

 この作品は、朝鮮人戦犯問題を扱っている。はっきり言って、僕はテーマへの関心で見た。シンガポールのチャンギー刑務所に、6人の戦犯が収容されている。3人が日本人3人が朝鮮人で皆死刑判決を受けている。他に看守の英国人が3人いて、合計9人の男だけが舞台に出ている。奥に死刑台があり、左右に3つづつの独房がある舞台美術は見事だ。演技も素晴らしいんだけど、長くなるから以下ではテーマに関する問題にしぼって書くことにしたい。

 この問題は非常に重たい。舞台ではバカ騒ぎ的なシーンもあるが、そこにも当然死の影が射している。テーマ的にやむを得ないが、死刑執行のシーンまであって、さすがにどうかと思った。僕は暗くて重いストーリイは嫌いじゃないんだけど、前半を見終わった時は、この劇を紹介するのはやめようかなとも思ってしまった。多くの人に問題を知ってもらいたいけれど、それにしてもと思ったぐらいだ。でも終了後に若い観客の感想をたまたま聞いてしまった。春休みに入ったからか、大学生ぐらいの観客も多かった。それはいいんだけど、「6人いるんだから、3人の看守を襲っちゃうのかと思ってた」と大声でしゃべっている。いくら何でも、そりゃあないだろ。

 BC級戦犯とよく言われるが、日本の場合C級(人道犯罪)の訴追はなかったから、この劇でも全員B級戦犯(通常の戦争犯罪)である。ちょうど同じ時期に(2.24~3.10)に劇団民藝が木下順二「夏、南方のローマンス」を上演していた。この劇は2013年4月に上演されたときに見ているので今回は見なかった。その時に『「夏、南方のローマンス」とBC級戦犯問題』を書いた。BC級戦犯問題に関してはそこでも書いているが、植民地出身者の戦犯問題はそこでは取り上げていない。

 植民地(台湾、朝鮮)の出身者は、戦争末期になるまで「徴兵」がなかった。(志願兵制度は日中戦争初期に設けられた。当然のことだが、中国との戦争に朝鮮、台湾の青年を動員して兵器の訓練を施すことは、「逆効果の危険性」があった。)しかし、日本で人出不足が深刻化すると、「軍属」として捕虜収容所の下級職員などにたくさんの植民地出身者を使った。連合国は捕虜の虐待を重視したので、多くの朝鮮人、台湾人が戦犯として裁かれた。ウィキペディアの記述を見ると、朝鮮人148人、台湾人173人だった。その中には死刑となった者も多かった。

 BC級戦犯裁判では、通訳の不備、日本軍上官の偽証、連合国軍人や現地民衆の復讐心による不確実な証言など問題が多かった。捕虜虐待や民衆の虐殺などは現実にあったわけで、日本兵なら「日本の責任」としてやむを得ないと考えて自分で納得したものが多い。でも、なんで朝鮮人が日本の戦争犯罪を背負わなければならないのか。その不条理に耐えがたい思いをしただろうが、さらに戦後の朝鮮では「対日協力者」として家族も白眼視されることもあった。

 この劇では、「若くて泣いている李文平」「一度は釈放されたものの再び死刑判決を受けた金春吉」、そして「獄中で「マクベス」を読んでいる朴南星」と3人の朝鮮人が描かれる。題名にあるように、朴南星が劇の中心で、演劇が好きで獄中でも余興の芝居をしている。軍属の朝鮮人が文庫のシェイクスピアを読んでいるというのは、ちょっと無理がある。だが、マクベスを「補助線」に使って考えるというのが、この演劇の眼目だ。

 マクベスは夫人にそそのかされて、王を暗殺して自分が王になる。だけど、マクベス本人には責任がないのか。マクベスも自分なりに権力を握りたかったわけだろう。マクベスにも責任がある。自分らも、日本軍に使われて裁かれたが、自分でも死刑台への道を歩んでしまった。独立軍に入る道だってあったじゃないかというのは、当時の戦犯には無理がある。現時点での思考が当時のセリフとして語られるのには疑問があるが、非常に大事な問いだと思う。

 だけど「日本軍の責任をなぜ朝鮮人が負うのか」という大問題の前に、僕は目の前で展開される彼らを見ているともっと違う問題もあると思う。それは「冤罪」と「死刑」という問題である。戦争で多くの人が殺された。被害者側が敵国軍人の死刑を望むだろうことは理解できる。だから、死刑の前に戦争をなくさないといけない。でも戦争の後に、同じように国家が生命を奪う死刑を再考しないといけなかったじゃないか。演劇を離れて内容に関する話ばかり書いたけど、どうしてもテーマ的に楽しんでみるということができない。だけど、日本人として考えなければいけない問題だ。

 なお、この朝鮮人戦犯問題は今も続いている。有期刑で釈放された人に対しても、日本国家は軍人恩給などを一切払っていない。戦犯裁判では日本人として裁かれ、その後は外国人として排除された。そのような対応はヨーロッパ諸国ではなかった。とても恥ずかしいことだと思う。この問題を研究した本には、林博史「BC級戦犯」(岩波新書、2005)や内海愛子「朝鮮人BC級戦犯の記録」(1982、岩波現代文庫2015)などがある。どっちも読んだはずだが見つからなかった。
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