「応仁の乱」がベストセラーになった中世史家・呉座勇一氏の新著「陰謀の日本中世史」(角川新書)が抜群に面白い。まさに「俗説一蹴!」と帯にある通り。「陰謀」はもちろん洋の東西、時代を問わず存在する。だから古代史にもあるし、近世史、近現代史にもいっぱいあるわけだけど、著者は中世の専門家だから中世を書いている。だけど、それだけではない。
近現代の「陰謀史観」、例えば「日米戦争はコミンテルンの陰謀だった」といった「トンデモ史観」にも触れている。ここで今細かいことは書かないけれど、現代世界には多くの「フェイク・ニュース」が流通している。だけど、それらはイデオロギーの争いとなっているので、歴史学的に反証しても聞き入れない人が多い。それなら、むしろ今となっては大昔の出来事を取り上げて、「陰謀史観への耐性」を付ける方がいいんじゃないかというのである。
なるほど。そして非常に面白くて読みやすいから、スラスラ読んでいくうちに、そうか「陰謀史観」とはこうして成り立っているのかと納得する。中世の政治史に関しては、近年新しい研究がどんどん出ている。一般向けの本も多く、僕もここで取り上げられた本の半分近くは読んでいると思う。歴史の授業では、やっぱりまず政治史を教えることになる。だから有名な武将や戦乱に関する最新情報はチェックしてきた。その意味でも、この本の中身はとても興味深かった。
この本は、中世の「武士の時代」の幕開けとなる保元の乱(1156年)、平治の乱(1159)から始まる。続いて源平の戦乱、鎌倉幕府の北条氏をめぐる争い、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の陰謀、応仁の乱、本能寺の変、関ケ原の戦いが主に取り上げられている。平清盛、源頼朝、足利尊氏、徳川家康など、結果的に「大出世」したような人物は、大体成功からさかのぼって、すべては陰謀が成功してのし上がったなどと言われることがある。
例えば、純朴なる源義経は、冷酷な兄頼朝と、乱世をしぶとく生き抜く後白河法皇、双方の壮絶な謀略合戦に引っかかって、悲劇の英雄になったといったイメージを、何となく多くの人が持っているんじゃないか。中世は史料が少なく、代わりに「平家物語」「太平記」といった有名な軍記ものが多いので、歴史学でも最近まで軍記のエピソードに影響されていた。この本を読むと、源頼朝もすべてを見通した天才的政治家とまでは言えず、義経との関わりも誤算があったらしい。
全部書いてるわけにもいかないので、ここでは「ケネディ大統領暗殺事件型」に触れておきたい。1963年の米国ケネディ大統領暗殺は、犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが直後に逮捕されたが、オズワルドもすぐにジャック・ルビーという人物に殺されてしまった。ダラス警察の地下駐車場で、刑務所への移送車に乗る際に銃撃された。まあ銃が身近な米国ではあり得ることだけど、いかにも「オズワルドには黒幕がいて、暗殺が成功したら口封じに消された」とでも思いたくなる展開ではないか。こういう展開をした事件は日本史にも存在する。
一番典型的なのが、1219年に起こった鎌倉幕府3代将軍の源実朝暗殺事件。兄の2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺された。しかし、直後に公暁も殺されたから、まったくケネディ型事件である。公暁は「父の仇」と語ったとされる。頼家は確かに1204年に殺されたが、その時点で実朝は12歳、公暁は4歳で、事情を知るはずがない。だから誰かガセネタを吹き込んだ黒幕がいたはずで、北条氏だ、三浦氏だと諸説あるが、決定打はないと思う。
織田信長が1582年に明智光秀に殺された本能寺の変も一種のケネディ型。光秀が10日ほどで滅亡したので、光秀関係の史料が少ない。証拠隠滅されたわけである。ミステリーでは「事件から最大の利益をあげたものが怪しい」というのが定番の推理だから、結果的に天下を取った豊臣秀吉や徳川家康が黒幕じゃないか的なことを言う人が昔からいる。朝廷黒幕説、足利義昭説、果てはイエズス会黒幕説まである。
足利義昭説を取る藤田達生氏の「謎とき本能寺の変」(講談社現代新書、2003)が出た時、僕もなるほどそういう見方も不可能でもないと思ったけど、完全には説得されなかった。歴史の大学教授が、大手の新書に書いてNHKの番組に取り上げられて驚いた。また在野ながら注目すべき新説を実証的に書いていた立花京子氏の「信長と十字架」(集英社新書、2004)にはビックリした。まったく実証されてない妄想レベルの本が大手の新書で出たからである。
本能寺の変は、完全に「謀略」である。味方は多い方がいいに決まってるけど、皆を誘いまくったらすぐにばれる。光秀と関係が深かった細川氏でさえ、信長死後に光秀軍に味方しなかったぐらいで、事前に誰かと共謀したら、信長に通報されたに決まってる。その時点で柴田勝家は北陸で上杉氏と、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と、滝川一益は関東で北条氏と戦争中ですぐには動けない(はず)。しかし、信雄、信孝ら信長の子は残っていた。(信長長男の信忠は一緒に殺されたが。)常識的に考えれば、誰か信長の子をトップに立て光秀と決戦になる可能性が高い。
だから、光秀と近かった武将でも様子見になるのは仕方ない。光秀が畿内を抑えたら従う人も出ただろう。明智光秀も戦国大名だから、一世一代の好機を見逃さなかった。同時に動いた大名が史料的に誰も確認できないんだから、光秀の「単独犯」と考えるのが素直な見方だろう。山口の大内氏を重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が滅ぼし、陶氏を毛利元就が破った。光秀の運命はこれと同じ。相手が信長だから、今も光秀の知名度が高いだけだろう。
光秀がとんでもないことをしたというより、毛利氏と講和して直ちに引き返して光秀を討った秀吉の「中国大返し」、こっちがとんでもなかったのである。このような歴史上誰もできないようなことを秀吉がやるとは、誰も想定できなかった。だから天下を秀吉に持っていかれたということだ。要するに「史料に基づき、素直に解釈する」という基本が大事だという当たり前のことがよく判る。
近現代の「陰謀史観」、例えば「日米戦争はコミンテルンの陰謀だった」といった「トンデモ史観」にも触れている。ここで今細かいことは書かないけれど、現代世界には多くの「フェイク・ニュース」が流通している。だけど、それらはイデオロギーの争いとなっているので、歴史学的に反証しても聞き入れない人が多い。それなら、むしろ今となっては大昔の出来事を取り上げて、「陰謀史観への耐性」を付ける方がいいんじゃないかというのである。
なるほど。そして非常に面白くて読みやすいから、スラスラ読んでいくうちに、そうか「陰謀史観」とはこうして成り立っているのかと納得する。中世の政治史に関しては、近年新しい研究がどんどん出ている。一般向けの本も多く、僕もここで取り上げられた本の半分近くは読んでいると思う。歴史の授業では、やっぱりまず政治史を教えることになる。だから有名な武将や戦乱に関する最新情報はチェックしてきた。その意味でも、この本の中身はとても興味深かった。
この本は、中世の「武士の時代」の幕開けとなる保元の乱(1156年)、平治の乱(1159)から始まる。続いて源平の戦乱、鎌倉幕府の北条氏をめぐる争い、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の陰謀、応仁の乱、本能寺の変、関ケ原の戦いが主に取り上げられている。平清盛、源頼朝、足利尊氏、徳川家康など、結果的に「大出世」したような人物は、大体成功からさかのぼって、すべては陰謀が成功してのし上がったなどと言われることがある。
例えば、純朴なる源義経は、冷酷な兄頼朝と、乱世をしぶとく生き抜く後白河法皇、双方の壮絶な謀略合戦に引っかかって、悲劇の英雄になったといったイメージを、何となく多くの人が持っているんじゃないか。中世は史料が少なく、代わりに「平家物語」「太平記」といった有名な軍記ものが多いので、歴史学でも最近まで軍記のエピソードに影響されていた。この本を読むと、源頼朝もすべてを見通した天才的政治家とまでは言えず、義経との関わりも誤算があったらしい。
全部書いてるわけにもいかないので、ここでは「ケネディ大統領暗殺事件型」に触れておきたい。1963年の米国ケネディ大統領暗殺は、犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが直後に逮捕されたが、オズワルドもすぐにジャック・ルビーという人物に殺されてしまった。ダラス警察の地下駐車場で、刑務所への移送車に乗る際に銃撃された。まあ銃が身近な米国ではあり得ることだけど、いかにも「オズワルドには黒幕がいて、暗殺が成功したら口封じに消された」とでも思いたくなる展開ではないか。こういう展開をした事件は日本史にも存在する。
一番典型的なのが、1219年に起こった鎌倉幕府3代将軍の源実朝暗殺事件。兄の2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺された。しかし、直後に公暁も殺されたから、まったくケネディ型事件である。公暁は「父の仇」と語ったとされる。頼家は確かに1204年に殺されたが、その時点で実朝は12歳、公暁は4歳で、事情を知るはずがない。だから誰かガセネタを吹き込んだ黒幕がいたはずで、北条氏だ、三浦氏だと諸説あるが、決定打はないと思う。
織田信長が1582年に明智光秀に殺された本能寺の変も一種のケネディ型。光秀が10日ほどで滅亡したので、光秀関係の史料が少ない。証拠隠滅されたわけである。ミステリーでは「事件から最大の利益をあげたものが怪しい」というのが定番の推理だから、結果的に天下を取った豊臣秀吉や徳川家康が黒幕じゃないか的なことを言う人が昔からいる。朝廷黒幕説、足利義昭説、果てはイエズス会黒幕説まである。
足利義昭説を取る藤田達生氏の「謎とき本能寺の変」(講談社現代新書、2003)が出た時、僕もなるほどそういう見方も不可能でもないと思ったけど、完全には説得されなかった。歴史の大学教授が、大手の新書に書いてNHKの番組に取り上げられて驚いた。また在野ながら注目すべき新説を実証的に書いていた立花京子氏の「信長と十字架」(集英社新書、2004)にはビックリした。まったく実証されてない妄想レベルの本が大手の新書で出たからである。
本能寺の変は、完全に「謀略」である。味方は多い方がいいに決まってるけど、皆を誘いまくったらすぐにばれる。光秀と関係が深かった細川氏でさえ、信長死後に光秀軍に味方しなかったぐらいで、事前に誰かと共謀したら、信長に通報されたに決まってる。その時点で柴田勝家は北陸で上杉氏と、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と、滝川一益は関東で北条氏と戦争中ですぐには動けない(はず)。しかし、信雄、信孝ら信長の子は残っていた。(信長長男の信忠は一緒に殺されたが。)常識的に考えれば、誰か信長の子をトップに立て光秀と決戦になる可能性が高い。
だから、光秀と近かった武将でも様子見になるのは仕方ない。光秀が畿内を抑えたら従う人も出ただろう。明智光秀も戦国大名だから、一世一代の好機を見逃さなかった。同時に動いた大名が史料的に誰も確認できないんだから、光秀の「単独犯」と考えるのが素直な見方だろう。山口の大内氏を重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が滅ぼし、陶氏を毛利元就が破った。光秀の運命はこれと同じ。相手が信長だから、今も光秀の知名度が高いだけだろう。
光秀がとんでもないことをしたというより、毛利氏と講和して直ちに引き返して光秀を討った秀吉の「中国大返し」、こっちがとんでもなかったのである。このような歴史上誰もできないようなことを秀吉がやるとは、誰も想定できなかった。だから天下を秀吉に持っていかれたということだ。要するに「史料に基づき、素直に解釈する」という基本が大事だという当たり前のことがよく判る。