尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

部活「道」か、部活「動」か-部活を考える⑥

2018年01月31日 23時04分47秒 |  〃 (教育問題一般)
 論点が多いのでなかなか進まないけど、部活論はもう少し続ける。まずは、日本の部活動のあり方そのものの問題。あるいは学校や企業全体というべきかもしれないが。日本では、本来は好きでやってる課外活動なのに、「部活動」というよりも「部活道」になってはいないか。体罰や勝利至上主義も、嫌なこと辛いことでもガマンして「道を究める」ような活動だからじゃないだろうか。日本の学校で、「学年途中で部活を変える」ことはまずない。「進路にマイナスになる」と教師も止めるのではないか。部活が嫌になったら(あるいは怪我したら)「辞める」しかない。

 このような「部活道」は企業も理解し評価している。高卒や大卒の就職では、特に運動部をずっと続けたことが評価される。企業は「体力があって、つらくてもガマンして、とにかく長く続ける」社員を求めている。まあ簡単に言っちゃえば、おとなしくサービス残業をしてくれる人を求めている。将来のトップ候補のようなエリートは別にして、「自ら考える力」なんか一般社員に求めてないだろう。そういう企業風土が変わらない限り、学校の授業も部活も変わらない。

 僕は「部活道」を「部活・動」に変えていくのが今後の学校の仕事だと思う。この「動」にはいろんな意味が含まれている。一つは、部活の中身が一年中同じでいいのかということだ。日本も南北東西でかなり気候が違うから、一年中野球やサッカーをやってる方が本来不思議だ。夏は校庭で野球、冬は体育館でバレーボール。例えば、そういう風に変わる方が自然なんじゃないだろうか。試合もそれに応じて日程を変える必要があるが、「夏のスポーツ」「冬のスポーツ」を分けることも考えられる。

 また、卓球やバドミントンなどは合同で基礎練習をし、顧問も複数が担当するという部活合同も考えられる。部の活動内容も、運動部と文化部をまたいでもいいだろう。月曜日は体育館で卓球、水曜日は調理室で料理を作る、金曜日は視聴覚室でDVDを見る…と言った「なんでも部」はダメだろうか。生徒も一つの部に限らず、複数に所属したり、時々部分的に他部に参加するというのはダメか。本格的な選手育成を地域に移管すれば、学校はむしろ生徒の親睦を中心にした部活になっていける。

 さらに、学校の外部で活動する部活動がもっと盛んになると思う。中学では地元の清掃活動商店街等での社会体験地元の伝統芸能などに参加する。それを「部活動」として認定していく。単に一時的な「職場体験」「ボランティア体験」ではなく、もっと日常的な活動にするため、外部の協力を求めながら新しい部活動として推進していく。高校では特に職業高校を中心に、勉強と地元産業を連携させた「起業部」のような活動が考えられる。

 こうして考えていくと、「課外活動」とは何だろうかという問題にもなってくる。学校の教員は基本的には授業が本職である。英語や数学が悩みの種だった人は多いだろうが、教えている教師が学校にいるんだから、本来は塾や予備校に行く前に、教師に質問に行ったり、学校で補習を行う方が大切だろう。英語や数学の教員も当然、部活顧問になっている。今まで僕も英語や数学の先生が、熱心にサッカーやテニスを指導している姿を見ている。でも数学なんか、普通の学部じゃ免許も取れない。スポーツの方が好きなら体育系に行ってもいいわけだが、あえて数学教師になるんだから、やっぱり数学を教える方が得意なんだろうと思う。

 そうなると、社会全体の人材配置という観点からすると、例えばテニスを指導できる人材は地域にいると思うけど、数学教師には数学の補習を担当してもらう方が良くはないだろうか。なんかそんな気もしてくる。僕はこれからの学校でもっと必要になるのは、「勉強系部活」じゃないかと思う。部活は運動部や文化部に分けるのが普通だ。ボランティアや勉強系は文化部に入れてしまうだろうが、本来は別に考えた方がいいんじゃないか。

 今後は特に英語がさらに重要視される。もうそれは間違いないので、あれこれ言ってもまずは英語の諸能力を高める工夫が必要だ。日常的には英語の検定の勉強をしながら、時々地域の外国人との交流活動、地域の飲食店の英語メニュー作成、観光客の案内などもやる、文化祭では英語劇を上演する。そんな「英語部」は大人気になるのではないか。同じように「漢字検定部」「科学研究部」「郷土史研究部」など、学校にはそんな部活も必要じゃないか。生徒のニーズはあるだろう。それは教員が担当するしかないし、やりがいもあるんじゃないか。
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黒沢清監督「散歩する侵略者」

2018年01月30日 23時16分02秒 | 映画 (新作日本映画)
 2017年9月に公開された黒沢清監督の「散歩する侵略者」を今頃見たんだけど、とても面白かった。黒沢清監督のことは何度か書いてるが、クリストファー・ノーランなんかと並んで相性が良くない監督だ。見ないつもりじゃなかったんだけど、「宇宙人もの」こともあってつい見逃した。今後あちこちの名画座で上映されるだろうが、是非見ておいて欲しい映画だと思う。

 劇団イキウメの主宰である前川知大の舞台を映画化したものだが、僕はその舞台も見てない。身近な人が宇宙人だったというような設定は、教員時代の経験から敬遠したくなってしまう。なぜか日本に宇宙人が地球侵略の「先遣隊」のようなものを送ってくる。(いや、地球のあちこちにも来たのかもしれないが。)3人の人間の身体に侵入し、人類を「研究」する。この設定は地球侵略が真顔で語られるとはいえ、むしろ「人類」とは何なんだろうという思いを見ているものにもたらす。

 そこが物語としての面白さで、非常によく出来た脚本だと思う。夫の加瀬(松田龍平)が宇宙人になってしまった妻(長澤まさみ)が、次第に夫が宇宙人であろうがなかろうがつながりを求めてしまう設定が興味深い。週刊誌記者の桜井(長谷川博巳)は若者に宇宙人と名乗られ、つい「ガイド」として一緒に行動してしまうようになる。この人間側の二人がうまく、訳が分からなくて信じていいんだかどうだか判らない状況に観客も同調して見ることになる。

 その結果、こちらも「人間ってなんだ」と考えてしまう。人間の持っている「概念」を奪ってしまえる力を持ち、概念を取られた人間はもう元に戻れない。そういう設定になっていて、宇宙人は人間を理解するためにどんどん「概念泥棒」を続ける。その結果、おかしな行動を取る人間が多発する。「仕事」という概念が判らず、イラストレーターの妻の仕事先の社長(光石研)から「仕事」概念を奪ってしまう。そうすると、彼はもう仕事が出来なくなり「奇行」を繰り返す。

 そんな中で、宇宙人が判らないのは「」という概念。教会に行って牧師に聞くと、パウロの手紙で説明されるが、理解できないから奪えない。長澤まさみは「愛が判らないと人類は理解できない」とか言うんだが。そんな宇宙人を国家権力が追い詰めていって、果たしてどうなるか。黒沢清は昨年の「クリーピー 偽りの隣人」「ダゲレオタイプの女」のどっちも出来が良かった。好きか嫌いかという問題はあるが、ここまで安定した力作を連発している映画監督は少ない。笹野高史や東出昌大(牧師役)、長澤まさみの妹役の前田敦子、最後に出てくる小泉今日子など、豪華なチョイ役も楽しい。
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これからの部活はどうなるかー部活を考える⑤

2018年01月29日 23時24分01秒 |  〃 (教育問題一般)
 先に行われた卓球の全日本選手権で、男子の張本智和選手が14歳で優勝した。これは最年少記録で、今までの記録は前年の女子、平野美宇選手の16歳だった。ところで、この二人の「所属」は「エリート・アカデミー」になっている。これは何だというと、JOCが全国から選抜した小中学生を集めてトレーニングするシステムである。東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンターを拠点にして、生活を共にする。学校は北区立稲付中学校に通うが、学校の部活には参加しない。卓球だけでなく、レスリング、フェンシング、飛込、ライフル射撃でも行っている。

 義務教育段階の子どもを親元から離してトレーニングすることはどうなんだろうと思わないでもないけど、このような「世界的実績」がある以上、一応「スポーツ振興」としては「成功」なんだろう。ここまで来た生徒は、学校では全く指導できない。だから彼らは「全日本」には出るけど、中学や高校の大会には出ない。代わりに世界の大会に出る。それは他の競技、フィギュアスケートなど10代の選手が活躍している競技でも同じである。問題はこのような生徒にふさわしい高校がほとんどなく、通信制や高卒認定試験などを選択する生徒も多いことだろう。(その問題は別に書きたい。)

 話変わって、2018年春の選抜高校野球の出場校が決まった。全36校のうち、公立校は富山県立富山商(6回目)、静岡県立静岡(17回目)、滋賀県立彦根東(4回目)、京都府立乙訓(初)、福岡県立東筑(3回目)、宮崎県立富島(初)の6校と「21世紀枠」の秋田県立由利工(初)、滋賀県立膳所(4回目)、佐賀県立伊万里(初)の3校、合わせて9校である。案外多いなという気もするが、「21世枠」という特別選考を除けばほとんどが私立高。毎回おなじみの大阪桐蔭、日大三、明徳義塾、星稜、駒大苫小牧、花巻東、東海大相模…出身のプロ選手も思い浮かぶような私立高ばかりである。

 これらの私立高は有力選手を全国から集めている。もう地域対抗とは言えなくなっている。一方で、夏の予選に「合同チーム」で参加する高校が増えている。一校では選手が少ないので、そういう学校が集まって参加する。そういうやり方がいつから認められたか覚えてないけど、各地で増えているのは間違いない。結局のところ、もはや公立の中学、高校が部活動を担って行くことが無理になって来ているということではないだろうか。多くの教員が部活が大変すぎると声を挙げているのも、少子化で生徒も減る、教員数も減る、学校への要求だけは増えるという中で、部活動まで面倒が見られなくなりつつあるということだ。

 しかし、生徒の課外活動は大事だ。多くの若い世代にスポーツや芸術活動の機会を提供するのは「地域おこし」にもつながるし、ある意味産業的な意味も大きい。スポーツ用品や楽器は、それを使う人がいないければ誰も買わない。世界でも評価されている日本企業があるのも、プロだけでなく、それを使う幅広い裾野需要があるからだろう。学校で引き受けられない「高度の部活指導」は、地域で行う以外にやり方がない。私立に行ける生徒ばかりではない。通学する中学にない部活でも、地域ごとにまとまれば、他の学校や地域のスポーツセンターなどで実施できる可能性が出てくる。

 考えてみれば、野球やサッカーなどは小学校時代は大体地域で活動している。中学に入ったら突然、学校の部活動が中心になってしまう現状の方がおかしい。まあ、それも判らないではない。すぐそばにいる生徒で部活をやる方が簡単だ。世界レベルを目指す生徒じゃないなら、学校単位で参加する地区大会を突破して、都道府県大会に出るのが目標でいいわけだ。その代わり、各種目は「団体戦」になる。陸上競技の中距離走なんかでも、個人競技よりも「駅伝」が最大の目標になってしまう。もとは個人種目なのに、数人で組んで団体戦をやったりする。

 むしろ、その団体戦で養う(とされる)「団結力」、あるいは目標に向けて頑張る「努力」、仲間同士の「信頼感」や「友情」のドラマこそが、部活をやる意味のように思われているのではないか。それがまた「進路活動」で役に立つ。「部活体験」を評価する上級学校や企業が多いのは事実だろう。でも、それでいいのだろうか。そのような日本の教育の「集団主義」はもうダメで、「自ら考える力を養う」のがこれからの日本のためには大事なんだと言われているじゃないか。

 学校の部活を中心にする限り、野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、あるいは吹奏楽などの「団体競技」が中心になってくる。だけど、生徒も様々だろう。リオ五輪で銅メダルを取ったカヌーの羽根田卓也選手は、高校卒業後にスロバキアに渡った。強豪国で成長したいと思ったわけである。日本の学校ではあまり行われていない競技は、地域で取り組まないと外国へ行くしかない。陸上でも投てき種目など、は危険性もあって学校ではやりにくい。個人で取り組む方が好きだという生徒はいっぱいいるはずだ。文化部でも文芸、写真、囲碁、将棋などは地域で取り組んだ方がいい。

 今書いてきたことのイメージは、部活を学校から完全に切り離すということではない。指導者もいて、活動場所もある場合、地域のスポーツチームを作る。あるいは地域の楽団、合唱団、劇団などを作る。しかし、それに参加するには、一定の技量を見る選抜テスト、オーディションがあることになると思う。だから高い技量を持つ生徒は地域チームに参加し、それは非常に名誉なことだと周りも思う。参加できない生徒は、大会優勝などを目標としない、学校にある「同好会」で「楽しむ」を中心にした活動を行ってもいい。それは生徒の自主性を大切にし、教員も出来る範囲で参加し一緒に楽しむ。

 部活はそういう風になっていくしかないと思う。取り組める地域から動き始めるのがいい。必ずそうなると思う。小さな学校で部活を行い、大会では合同チームで参加するなんていうよりずっといい。地方でもスポーツや文化施設は整っている。指導者は退職教員を中心に、「元気な高齢者」が多いから、必ず見つかる。出来るところから始めて、政策的にも国家的な支援を行って欲しいと思っている。
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部活動のどこをどう変えるか-部活を考える④

2018年01月27日 23時18分01秒 |  〃 (教育問題一般)
 部活動のあり方をどう変えたらいいのか。どこをどう変えるのか、さまざまな発想で考えてみないといけない。理想を考えることも大事だし、現実にできることを考えることも大事。地域ごとにできることを試行してみることも必要だろう。論理的に整理して考えると、①部活動の時間の方を変える ②教員の勤務時間の方を変える ③学校と部活動の関係の方を変える という三つの方向性がある。

 極端に言えば、部活動そのものをなくしてしまえば「部活動による長時間労働」はなくなる。だけど、それはできない。生徒や保護者の要望もあるだろうし、部活をやりたい教員もいる。しかし、そういう問題ではない。学校の課外活動をすべて止めてしまえば、授業が終わったら生徒はすぐに下校することになる。家でおとなしく勉強する生徒ばかりじゃないだろう。コンビニで万引きしたり、たむろして喫煙するようなケースが激増しないか心配な教員が多いに違いない。今は「やんちゃなお子さん」の多くも部活に所属し、問題行動を起こすと部員全員が試合に参加できなくなる。そのような「歯止め」が無くなれば、問題行動が増えると思う教員が大多数だと思われる。

 そういう風に「生活指導の手段」にすることがいいとは思えない。だが、80年代の全国的な「校内暴力」の後で、特に中学では生活指導の一環として部活が奨励されてきた。原則的には、校門を出れば生徒も社会の一員で、問題行動があれば警察に任せるべきだ。でも、そういういわば「貴乃花方式」は、多くの学校では実行が難しい。電話一本で生活指導担当が自転車で駆け付けるのが、日本の学校だ。じゃあ、生徒が外へ出られないように宿題をいっぱい出すか。そうしたら、その点検で大変だ。「部活をなくすと、かえって仕事が増える」と多くの中学教員は思うはずである。

 じゃあ、部活動の時間を1時間程度に抑えだらどうか。部活を含めて全生徒が5時には下校するようにすれば、教師の勤務時間内に業務は終わることになる。だけど、これも難しい。すぐにできるスポーツはいいけど、ある程度長時間を掛けて仕上げていく団体競技はもっと多くの活動時間が欲しいだろう。音楽系やダンス、演劇なども、少なくとも大会に向けての期間は無理だ。それなら、土日の部活動は全面的にやめにして、部活は放課後だけにする。これも大会が土日に行われるわけだし、他校との練習試合、音楽・演劇等の通し練習は大会前の土日を使わないといけないはずだ。

 中学生の場合、スポーツ庁でも「部活のやり過ぎ」はよくないという見解を示している。週内は3日程度、土日は半日程度の活動を目安とすることは考えられる。だが、そうなっても、それだけでは教員の負担感はあまり減らないだろう。つまり、部活動の時間を減らすという方向性はかなり難しいように思う。それなら、教員の勤務時間の方を変えるしかないのだろうか。「部活を担当する教師だけ勤務時間を10時間とする」というような明らかに違法なことはできない。じゃあ、どうするか?

 一つは、「勤務時間を後ろにずらす」ということだ。担任は朝からいないといけないから、その年に学級担任ではない教員(これが最近は実働人員が少ないと思うが)で、部活に熱心な人に関して「部活動軽減」制度を作って、授業数を減らす。その分、1・2時間目の授業を外せるので、勤務時間をずらせる。他の部活も含めて、後始末や下校指導はそのような教員が中心に行う。あるいは、丸一日授業がない日を作って、土日の一日を部活のための勤務とする。実績のある教員を中心に、各校で3人ぐらい「部活軽減」を認められれば、ずいぶん楽なシステムが作れるだろう。

 もう一つ、「勤務時間の縛りのない教員」を作ってしまうというやり方も考えられる。教員人生の中で、ある時期になると選択を迫られてくる。管理職になるとか、授業や生徒指導にどこまで取り組むかなどである。そんな中に「部活指導教員」制度を作って、年間総労働時間のみを決め、年俸制とする。異動も他の教員と別に、部活ごとに行う。その代り、時間管理や翌年の報酬などの交渉はそれぞれで行う。そんな仕組みである。まあ、難しいだろうな。

 そうすると、やはり「部活と学校の関わり方を変える」ことを試みない限り、この問題は変わらないということになる。そもそも公務員には「職務専念義務」があるんだから、勤務時間内に「ボランティア的業務」があること自体がおかしい。それは勤務なのか、勤務外なのか、はっきりして欲しいというのは当然だ。だから、部活動を正規の教育課程と位置付けるべきだという意見もかなりある。しかし、それも相当難しい。そうすると正規の業務だけで労基法の規定を超えてしまう。

 正規の業務なら、部活指導の資格はどうなるのかということも出てくる。部活が正規の課程になるなら、生徒全員の履修が必要なのか。年間指導計画もいるのか。職員会議中に部活をやっていいのだろうか。生徒の自主的な活動というものは一切認めないのか。問題が続出することになる。かえって面倒くさい。こうして考えてみると、部活動のあり方は「こちら立てれば、あちら立たず」「あちら立てれば、こちら立たず」ばかりである。そうするとどうすればいいのか。ここで話を社会教育やスポーツのあり方に移してみたい。そもそも理想的な課外活動のあり方とは、一体どんなものだろうか。校内の教員の事情ばかり考えていると、結局何も変えられないじゃないか、で終わってしまう。
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避けられない「部活動改革」-部活を考える③

2018年01月26日 22時45分39秒 |  〃 (教育問題一般)
 2017年の暮れに、部活動に関して3つの記事を書いた。「2冊の部活本ーこれからの部活動のために」、「『好きの搾取』の部活動-部活を考える①」、「部活はそもそも残業なのだろうか-部活を考える②」である。その時に、新年になって続けて書くと書いたが、それを書きたいと思う。

 先に書いたのは、部活動の時間に教員が「時間的束縛」を受けるのなら、それはまさに「勤務時間」そのものであって、「残業」というのとは違うだろうということだ。正規に定められた勤務時間を超えて拘束されているのだから、まさに違法状態というしかない。部活は教育課程外のボランティア的な業務だというのなら、部活動をしている生徒を置いて帰宅していいのか。もちろん、本当にどうしても用事で帰らざるを得ない時は、副顧問や他の部の顧問に下校指導を頼んで帰ることもある。それにしても誰かはいないといけないのであって、教師全員が帰ることはできない。

 こういう現実はもう続けていけないと思う。続けてはいけないと強く思うようになった。少子化が今後も続き、さまざまの「教育改革」「授業改革」が進められている。(それが正しい方向のものとはとても思えないことが多いが。)日本全体がダウンサイジングしていく中、学校も教師も今までと同じような事を続けてはいけない。仮に続けたいと思っても、できない。変えるなら今しかない。現在は部活のあり方を変えるための、百年に一度の機会だと思う。

 そう思う理由はいくつもあるが、①政府が率先して「働き方改革」を呼びかけている。②電通事件などを機に、「過労死」問題への関心がかつてなく高まっている。③中学での部活のやり過ぎに関して、スポーツ庁でもガイドラインを作って制限を設ける動きが進んでいる。④教育学者や教員などによる「教員の長時間労働見直し」ネット署名が50万名以上も集まり、文科省に提出された。⑤文科省でも「教員の働き方のガイドライン」を作ろうとしている。こんなに様々な動きがいくつも重なることは珍しい。今を逃せば部活のあり方は変わらないだろう。

 主な論点になるのは、次のような観点だと思う。
①教師の長時間勤務をいかに変えていくか。「教員の働き方改革」の観点。
②教師の時間外労働はどう処遇するべきか。「給特法」と「職場のあり方」の観点
③学校の課外活動のあり方や社会教育との連携。自主的なスポーツ、文化活動推進の観点
④部活動の「指導」や指導者の資格はどうあるべきか。「指導者育成」の観点。
⑤特に「エリート」スポーツ選手(音楽、ダンス、将棋等を含む)の育成、高校・大学教育はどうあるべきか。
 順番通りというわけでもないけど、これらの論点を考えていきたいと思っている。

 僕が今思っているのは、教師の働き方が多くの子どもに対して「悪いロールモデル」となってきたのではないかということだ。教員労働運動は「教え子を再び戦場に送らない」を掲げて戦後の平和運動を支えてきた。それはそれで大事なことだと思うが、ちゃんと労働法も教えないまま卒業生を「違法残業」が横行する職場に送り込んできたのではないかということだ。それどころか、教師は自分の労働のあり方にさえ無関心だった。それでは生徒に労働法を教えることもできない。

 部活動で活躍して進学していった生徒も何人もいる。だが特にスポーツ系の場合、ケガで部活を続けられなくなり、そのまま高校生活も続かなくなって、定時制高校に転校する生徒も多い。長時間の部活動が、生徒自身の人生を壊してしまうケースも多い。私立高校で活躍してプロになるような生徒もいるが、一生スポーツ選手をするわけではない。引退後のことを考えると、ちゃんとした一般常識を身に付けていないような場合もあるんじゃないか。そういうことも含めて、日本の部活動のあり方は根本的に考えなければいけない時期だと思う。
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伊豆北川温泉で「ダイヤモンド大島」を見る

2018年01月24日 23時50分35秒 |  〃 (温泉)
 事情があって家を離れられず、半年以上ぶりにやっと温泉旅行に行った。漱石「明暗」を読んだから湯河原はどうかな、あるいは箱根と思ったんだけど、もっと暖かいところの方がいいという連れ合いの要望で伊豆を探すことにした。補助金みたいなのがあって、大手の会社で取れる宿に限られる。一生懸命探して、今まで行ったことがない「北川(ほっかわ)温泉」に、お風呂がいっぱいあって源泉かけ流しの宿を見つけた。それが「つるや吉祥亭」でロケーションも食事も大満足だった。

 ビックリしたのは、真ん前に伊豆大島が見えること。北川というのは、東海岸で伊東と熱川の間。熱川や稲取に泊ったことがないので、この大島のロケーションに驚いた。朝は快晴だったから、太陽が三原山から昇るではないか。まあ山頂より少しずれてるけど、「ダイヤモンド大島」と呼びたい感じ。まず、下の最初の写真がちょうど日が昇るころ。次が日の出前で、次第に日が出る様子。
   
 22日が大雪で、23日朝は交通が乱れた。今回は珍しく行きも帰りも電車の指定席を買ってあった。それが「最後の大ポカ」につながるのだが、それは後で。行きは一度は乗りたい「スーパービュー踊り子」で、帰りは小田原から「東京メトロ乗り入れのロマンスカー」。雪で遅れるのを心配して早く出たから東京駅に早く着いた。でも肝心の列車が来ない。線路が詰まって車庫から回送するのが遅れているとのこと。結果的に35分の遅延だったが、その間の吹きさらしの東京駅の寒いこと。

 せっかくの「スーパービュー」だけど、寒くて眠い印象のまま、さらに遅れて伊豆熱川に。もうまっすぐ宿へ向かうことにして待っている送迎バスに乗る。宿で一番最初の「貸切露天風呂」を予約。4つあって、到着後に先着順で一つ入れる。「大島」という風呂に入ったけど、実に素晴らしい。ロケーションが抜群で、小さいけど塩化物泉が体を温めてくれる。もうここで体も洗ってしまおう。湯の向こうに大島がよく見えてるけど、写真にすると見えなくなる。窓の合間から写すとかすかに見える。
  
 それより北川温泉には名物の「黒根岩風呂」がある。600円するが宿泊客は無料。前から入りたかったが、車だと停めるのが難しい。風があって寒いが何とか夕方行ってみよう。これもとてもいい感じだったなあ。でも、寒いからすぐに退散。岩に「アメリカを見な  入る 野天風呂」と刻まれていた。(空白箇所は削れてるけど、多分「がら」とあったんだろう。)でも、僕には伊豆大島しか見えなかった。伊豆大島はアメリカなのか?!と突っ込みながらさっさと帰って来た。
   
 この宿の特色にはいくつかの特色があった。お風呂に行くときタオルを持って行く必要がない。お風呂に沢山置いてある。「つるや横丁」という休み処があって、射的など「昭和30年代風」のおもてなし。甘酒やビールが無料。夕食では天ぷらが注文制。注文票が置いてあって、海老とか桜海老かき揚げ、明日葉、ナス、カボチャなど書いてある。数を書いて渡せばいくつでも持ってくるという趣向。朝はこれが干物の焼き魚になる。こっちは自分で取りに行く必要があるが。エレベーターがないので足が不自由だとけっこうきついが、食事もとても良かった。こんな感じの宿。

 送迎バスで熱川に戻って「リゾート号」で熱海へ。伊豆急リゾート号は普通料金だけで「スーパービュー」が楽しめる。座席が外を向いてるので、こっちの方がいいじゃないか。熱海が混んでるから小田原に直行。箱根ベーカリーでピザを食べて、小田原文学館へ向かった。お城を歩くには寒風がすごく、一度行きたかった文学館へタクシーで行ってみた。その建物が国登録有形文化財の洋館なのである。1937年建築で、田中光顕(たなか・みつあき)の別荘だった。
   
 その人は誰だと言われるだろうが、明治期の政治家で宮内大臣などを務めた伯爵である。土佐藩出身の「維新の功臣」だが、1937年まで生きてたの? 1939年(昭和14年)に97歳で死んだと出てるから、幕末志士の中でも極め付けの長命だ。もう相当に明治史に関心がある人しか知らないだろう。昔は政治家たちが温暖な小田原に別荘を作ったのである。小田原は北村透谷、牧野信一、川崎長太郎らが生まれ、北原白秋、谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾、岸田國士らが住んだ。館内の展示を見てその名前に驚くしかなかった。各階にあるテラスも面白い。この前読んだ私小説作家尾崎一雄の書斎がちょっと離れた場所にあった。小さい家だったが、これも縁で面白い。

 そこから歩いて戻るが、小田原名物「ういろう」本店はお休み。お堀端が寒く、駅ビルの富士屋ホテルの店でアップルパイの小憩。ここまでは言うことなしの旅行だったのだが、最後の最後で大きなミスをした。帰りの特急の時間を完全に勘違い。悠々間に合うつもりで改札を通ったら、もうずいぶん前に出ちゃってるではないか。そんなことがあるんだ。ちゃんと確認をせずに思い込んでいてはダメだな。多少のお金と時間が余分にかかったが、帰れないわけじゃないんだから、諦めるしかない。
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政治とコラムーチャペックを読む④

2018年01月21日 22時44分53秒 | 〃 (外国文学)
 平凡社ライブラリーでカレル・チャペックが何冊か出ている。「いろいろな人たち」と「未来からの手紙」というのを持っていたので読んでみた。買ってたのも忘れてたけど、チャペックには昔から関心があったのだ。この2冊は「チャペック・エッセイ集」と題されているけど、新聞の連載されたコラムを集めたものだった。中身も身辺雑記というよりも、社会的・政治的な感想が多い。
 
 チャペックを知ってる人は趣味の本や童話を読んだ場合が日本では多いだろう。僕も最初に読んだのは児童文学全集かなんかに入っていた童話だった。その後も「園芸家十二か月」や愛犬飼育記の「ダーシェンカ」などを知った。SF戯曲の「ロボット」もあったが、それも含めて現実の政治や社会を語った人ではない印象がある。でも、それは大間違いだった。チャペックは新生国家チェコスロヴァキアを代表する新聞人であり、小国の文化を守ろうと新聞に健筆をふるい続けた。

 その一環として国際ペンクラブ活動もあり、イギリス大会に招かれた旅行記が「イギリスだより」となった。旅行記もまた自ら関わる新聞にイラスト入りで連載したものだ。自分の家で「金曜会」を主宰し、そこには哲人大統領と言われたマサリクも参加することがあった。国際的に高い知名度があったが、だんだん国内的には複雑な立場に追いやられる。あくまでも「平和」を希求し、国際連帯に希望を賭けるチャペックは、ナチスが台頭する時代に左右から攻撃されるようになって行った。

 そんなチャペックの立場は今読んでも示唆に富む発言が多い。日本も出てくる。1923年の関東大震災に際しては「ゆれ動く世界」と題するコラムを書き、同情と連帯を表明している。「トーキョウを破壊し、ヨコハマを水浸しにし、フカガワとセンジュとヨコスカを火の海にし、アサクサを粉砕し、カンダとゴテンバとシタヤをめちゃくちゃにし、ハコネを崩して平らにし、エノシマを呑み込んでしまったこの震動…」と書かれている。遠く離れたチェコのプラハでも、浅草だの箱根だのの地名が語られていたのだ。

 だが一番最後にある「世界の頭上の爆弾」(1938年)では、「朝新聞を読む時には、もうほとんど、次のような記事がまた載っているだろうと期待している。-どこそこの町(それはファシスト政権に抵抗するスペインのどこかの町か、日本軍に抵抗する中国のどこかの町である)は敵軍機の爆撃を受けた。その攻撃で八十人または三百人または一千人に民間人が死んだ。空襲はわずか数分続いただけである-。」北欧旅行の途中でスペイン内戦を知ったチャペックは、ヨーロッパの終わりを予感した。そしてナチスの攻勢は続き、チェコスロヴァキアという国家はまさに解体の危機に直面する。

 そんな中でナチスドイツと日独防共協定を結んだ日本は、ドイツとともにチャペックが警戒する国となったことが判る。もともとチャペックは日本にも関心を抱き、浮世絵をいくつか買って飾っていたという。14の浮世絵が確認できると平凡社新書「カレル・チャペック」に出ている。国際連盟による平和維持に期待を寄せたチャペックとしては、日本にも関心があったのだろう。またチャペック兄弟はもともと美術に関心が深く、そんなことからも浮世絵をどこかで買い求めたのだと思う。

 「未来からの手紙」(1930)は、SF風政治コラムで大変興味深い。国際連盟50年(1970年)を期して、チャペックが世界を旅行して近況を報告するという「未来からの手紙」なのである。当然1930年の現実を反映して語られている。第二次大戦があり、チャペックが予言した原子爆弾が実際に使われ、チェコスロヴァキアはソ連陣営に組み込まれているなどとは想像も出来なかっただろう。

 イタリアではムッソリーニ総統一族が権力を相続し、アメリカではギャングが国政を握っている。そして日本では「相当にがっかりさせられた」。古いものもなく、真に新しいものもない。「ただ、すべてがちょっぴり新しく見えただけである。」実際には日本に来たことはないのだが、この辛らつな批評はずいぶん的を射ているような気がする。そして天皇制のあり方も書かれている。一種の象徴天皇制が予言されているように読めるが、同時に「微笑のうちに」有色人種の盟主として行動すると書かれている。しかし、日本と中国、それにトルコしかアジアの国は出てこない。

 そういう意味ではヨーロッパ中心だし、その他端々にも女性への書き方など現在では問題があるようなことも見られる。完全に時代を超越することは誰にも不可能だけど、やはりチャペックも80年前に亡くなった人だからやむを得ない。そんなチャペックの言論活動の中心をなすのは、ナチスドイツへの批判コミュニズムへの警戒である。当時のソ連のスターリン体制がやがてチェコを支配するとは思ってなかったようだが、「わたしはなぜコミュニストではないのか」(1924)を書いて、その「陰気くさい非人間性」を指摘している。チャペックは社会改良家で人道主義者だったけど、ドイツとロシアにはさまれたチェコスロヴァキアの文化と民族を守るという意味でのナショナリストだった。

 そんなチャペックが書いた「言葉の批評」というコラム集が「未来からの手紙」の後半に入っている。政治や文化の批評でよく使われる言葉を取り上げて、辛らつかつユーモラスに批評していく。「われわれ」対「わたし」、「あまりにも」、「原則」など、言葉を大げさに扱ってごまかす手法を解き明かしている。例えば「視点」という言葉。もとは「光学上の発明」だけど、「視点の特殊な魅力は、そこに立って見るなら、はるかに容易にすべてのものを非難できるという点にある。」

 「人類という視点に立てばナショナリズムを非難できるし、ナショナリズムの視点からは、社会主義を、社会主義の視点からは資産を、資産の視点からは理想を、理想の視点からは現実を等々、そしてまた順々に逆にして非難できる。」なんていうのは思わず笑ってしまう。「相対的」という言葉も取り上げられるが、チャペックは相対主義の意義も語っている。チャペックの現代性は、この相対主義に現れている。そこにイギリス文化やアメリカのプラグマティズムの影響を見ることもできる。

 チャペックがその病弱な身体をおして文筆活動を続けたのは、まさに平和なくしてチェコという国家はありえないという「現実」があったからだろう。その文筆活動の苦労を癒すために、庭を作って花を育て、犬や猫を飼って心を慰めたんだろうが、それを面白おかしく書き残したから、チャペックは一見趣味の人のようにも見える。だけど、チャペックの本質は「平和の闘士」である。知人だったトーマス・マンは彼に亡命を勧めたが、チャペックはチェコを離れないと言った。ナチスの暴虐の前に、もう未来への希望がなくなってしまっていた。1938年のクリスマスに肺炎になった彼には、もう生きる気力がなかった。チャペックを読めば、ものを言える時代に国際連帯と平和を語ることの大切さを実感する。
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「新聞・映画・芝居をつくる」-チャペックを読む③

2018年01月19日 21時18分33秒 | 〃 (外国文学)
 カレル・チャペックに「新聞・映画・芝居をつくる」という著書がある。知ってる人は少ないと思うが、ものすごく面白い本だ。チャペックには一体どのぐらい本があるのか。飯島周「カレル・チャペック」(平凡社新書、2015)という新書もあるが、それによると日本はチェコを除いて一番チャペックを読んでいる国だという。大きな本屋や図書館に行けば、こんな本もあるのかと思うぐらいチャペックの翻訳が並んでいる。そんなに多いと思わず読み始めたのだが、これじゃいつまで続くか判らない。この本は地元の図書館にあったので、タイトルにひかれてさっそく読んでみた。

 この本の内容はもう題名そのままである。チャペックはずいぶん様々な顔を持っていたが、ベースにジャーナリストとしての活動があった。大学では優秀だったが、研究者としては採用されず、新聞社に職を求めた。そのかたわら作家・劇作家としても活動した。先に見た旅行記も、自分が関わる新聞に連載したものが多い。新聞や映画・演劇の「作り方」にしぼったユーモラスな本を書いたのも、ジャーナリスト的な活動と言える。20年代、30年代の話だから、もうずいぶん古い。新聞や映画の作り方は今とはずいぶん違っている。でも関わっている人間の姿は案外変わってないのではないか。

 「新聞をつくる」では、編集部門は自分たちが新聞を作っていると思ってるけど、営業部門は自分たちこそ新聞を支えていると思い、印刷部門は自分たちがいなけりゃ新聞にならないのに、記事はいつも遅れると思ってるなどと書かれている。今も大体似たようなもんじゃないか。編集部の話でも、国内政治部は多くの議員、大臣と「おれ、おまえ」でつき合い、「熱に浮かされたように、内密で個人的な情報を求める。それらはもちろん、新聞に載せることは不可能なのだが、それなしには寝入ることもできないというように、あちこちを嗅ぎまわっている」なんて、昔のチェコも日本の政治部と同じだったか。文化部や運動部、司法担当や地方版記者など様々な部門の気風の違いなども日本と似ている。

 「映画をつくる」では、原作がどんどん改変され、シリアスな原作がズタズタにされてセンチメンタルな物語になっていく様が面白おかしく語られる。そうやって脚本が出来たら、次にセットをつくる。今はカメラが進歩して手持ちのデジタルカメラで簡単にロケ出来るけど、その頃はロケが難しい。天気が重要なのに、準備が終わった途端に限って曇ってくるとか、どこでも同じ。そして映画の撮影は「バラバラのピース」である。いくつものカットで構成される映画では、短い演技を撮影していく。何を撮ったか判らなくなるから、スクリプター(記録)がちゃんと管理している。今では割と常識化しているようなそんなことも、当時は知られていなかっただろう。昔の映画撮影技術が描かれていて貴重だ。

 「芝居をつくる」は全体の半分ぐらいを占め、チェコの代表的な劇作家だったチャペックならではの記述が楽しい。劇作家は演出家や俳優や舞台監督などに比べて、けいこが本格化すれば不要な人間になってしまうと嘆いている。劇場で「余計もの」になってしまう劇作家の立場が判る。今では自分で書いて自分で演出する(時には自分で主演も)する作家主体の劇団が多くなった。でも商業演劇の多くでは今も同じかもしれない。本ができたら次は配役だが、これにも難問が待ち受ける。なんとか配役が決まると、本読み、稽古、総稽古と進むが、必ず何か障害が起きる。誰かがいなくなり、大道具は直さないといけない、とかとか。これじゃ初演を延期するしかないというところに追い詰められる。

 しかし時間は過ぎてゆき、容赦なく初演を迎える。案の定、俳優はセリフを飛ばしてしまうが、何とか周りの俳優がアドリブで対応し、元の台本を知らない観客はそれも演出だと思って、終わった後には拍手して大成功をたたえる。最後に、演劇に不可欠の裏役、プロンプターや照明、幕引き、衣装などを簡単に紹介して終わる。この本は多くの人が知らない新聞、映画、芝居に関する「内幕本」として書かれたエッセイである。ユーモアたっぷりに語られ、時代は経ったけれども、新聞、映画、芝居に関わる人々を活写していく。こんな本を書いた人、書ける人は他にいないように思う。実際に新聞、映画、演劇に自ら関わった貴重な経験を語りつくした、とても面白い本だった。
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ヒッチコック映画の快楽

2018年01月18日 23時19分58秒 |  〃 (世界の映画監督)
 僕は昔から「初詣」というものをしたことがない。文化財としてお寺や神社に行くことはあるが、信仰心がないから、わざわざ混んでいるときに行きたくない。代わりというわけでもないけど、去年から新年にかけては、シネマヴェーラ渋谷でやっていたアルフレッド・ヒッチコック(1899~1980)監督特集に通っていた。元日は休館だけど、2日からやっていたから、新作映画や展覧会、寄席なんかを犠牲にして通った。全部見るつもりが疲れて一番組をパスしてしまったが、全部で20本見た。

 今ではサスペンス映画の技法を確立した偉大な監督だと誰もが認識しているが、現役当時はそこまでの高い評価は受けていなかった。なんとアカデミー賞監督賞も一回も受賞していない。それどころかノミネートさえ、「レベッカ」「救命艇」「白い恐怖」「裏窓」「サイコ」の5回しかない。この間、ウィリアム・ワイラーやビリー・ワイルダーが何度もノミネートされていることを思えば(ワイラーは3回受賞9回ノミネート、ワイルダーは2回受賞6回ノミネート)、余りにも不当な評価だったと言える。

 ヒッチコックが英国生まれだからとも言われるが、ワイラーもワイルダーもドイツ系(ワイラーは当時ドイツ領のアルザス、ワイルダーは現ポーランド、当時オーストリア帝国に生まれた。どちらもユダヤ系)なんだから、やはりサスペンス映画が低い評価を受けていたということだと思う。テレビの「ヒッチコック劇場」という番組で知名度が高く、とにかく面白いから映画もヒットすることが多かった。でも、日本でのベストテンにもあまり入っていない。(「断崖」が1位、「疑惑の影」が3位、「鳥」が4位。)

 フランソワ・トリュフォーなどヨーロッパで高い評価を受けて、映画技術の高さが認識されるようになった。今ではヒッチコックと言えば、優れた技術で映画を作ったイメージもある。だけど、今回改めて思ったけど、ヒッチコック映画を見てもテクニックのことなど何も考えない。テクニックを感じさせないのが、最高のテクニックだと思うが、ヒッチコックはその域に達している。ヒッチコックは自分の映画にチラッと顔を出すことで知られているが、監督の姿が気になるような映画は面白くない。よく出来た作品ではどこに出てたか全く気にならずに、いつのまにかエンドマークが出ている。

 全部の映画を細かく書いても仕方ないから、簡単に。今回はイギリス時代の作品がいっぱい入っていて、逆に後期の作品はない。1953年の「私は告白する」が最後で、1954年の「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」に始まり、「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「」と続く傑作群は一本もないけど、それらは他の映画館でも時々上映されるし、映画ファンなら見てるだろうということだろう。

 イギリス時代の映画は25本あるが、そのうち無声3本、発声8本をやった。うち2本が見逃し。最初に評価された「下宿人」(1927)は金髪女性連続殺人犯をめぐる捜査と謎の下宿人。古いけど面白い。「暗殺者の家」「三十九夜」「間諜最後の日」「サボタージュ」と趣向は違っても、いずれもスパイ映画。「間諜最後の日」はサマセット・モーム「アシェンデン」の映画化である。

 そして、「バルカン超特急」(1938)という大傑作。今回は同じスタッフで作られたキャロル・リード監督の「ミュンヘンへの夜行列車」と一緒に上映された。小さな映画館ながら場内は超満員で、この番組構成の妙が評価されたのだろう。「バルカン超特急」はヒッチコック全体を通しても最高傑作レベルだと思う。見るのは多分3度目だと思うが、何回見ても飽きずに楽しめる。鉄道ミステリーとしても最高だと思う。これもまあスパイ映画だが、老女をいかに列車で消すか。そのアイディアを「東欧」を走る国際列車という設定でムードを高める。「ミュンヘンへの夜行列車」もスパイ映画だが、ドイツに入ってからの怒涛の展開が面白い。この2本立てはまたやってくれることと期待したい。

 イギリスの田舎を舞台にした「第3逃亡者」も、とぼけた描写が楽しい。スパイ映画じゃないけど、「巻き込まれ型」であることは共通。「バルカン超特急」などが評価されハリウッドに招かれ、第二次大戦直後にたくさんの「反ナチス映画」を作ってアメリカ世論に訴えている。「海外特派員」(1940)は中でも有名で、最高傑作レベル。当然同時代には日本未公開で、確か70年代に初公開された。面白くて2回見てると思う。オランダの風車での対決が有名だし、その直前の雨の中の暗殺も素晴らしい。アメリカが参戦した後の「逃走迷路」(1942)も面白い。典型的な「巻き込まれ型」スパイ映画で、西海岸からニューヨークへ、そしてラストの「自由の女神」のスリル。

 アメリカ映画第一作は、デュ=モーリア原作のゴシックロマン「レベッカ」(1940)。これでいきなりアカデミー賞作品賞を取った。以前見た時に面白かったが細部は忘れてしまったので、今回もドキドキしながら見てしまった。イギリス旧家のお屋敷にまつわるドロドロの人間模様がスリルたっぷりに描かれる。「疑惑の影」(1943)も少女が叔父を疑いはじめて行く様を丹念に描く。これも前に見てるけど、面白かった。「スミス夫妻」(1941)はヒッチコックらしからぬコメディ。「救命艇」(1944)はスタインベック原作だというが、ドイツ軍の魚雷で沈没して生き残って漂流する話。両方ともに案外面白くない。

 イングリッド・バーグマンが出た「汚名」(1946)はラブシーンばかり有名で、スパイ映画としての興趣は弱い。「山羊座のもとに」(1949)はほとんど知られていないと思うが僕も初めて見た。19世紀のオーストラリアが舞台という異色作で、殺人罪で流刑された恋人を追って令嬢のバーグマンがやって来たが、今は関係が冷えている。「疑惑の影」のおじさん、ジョセフ・コットンがバーグマンの夫で、現地社会から爪はじきされる夫の苦悩を演じている。大ロマンではあるが、成功はしてないだろう。

 面白くないのは「パラダイン夫人の恋」(1947)も同じで、イタリア出身のアリダ・ヴァリが素晴らしく美しい「犯人」で、弁護士のグレゴリー・ペックもいかれてしまう。真相はいかにというけど、法廷ものとしては少し異色すぎる設定だろう。もひとつ有名な「ロープ」(1948)は「技術」が前面に出すぎた失敗作だろう。全編を「ワンシーン・ワンカット」で撮ったわけだが、もちろん今のデジタル時代じゃないから、フィルム一巻分以上を続けて撮れるわけがない。そこをどう解決したかは、見てればすぐ判る。なんだという感じで、そこまでしてワンカット風に撮影する意味があるか。それより「時間」を限定したためにどうしても物語に問題が出てくる。まあ異色作ということだろう。

 こうしてみると、前から知ってる映画はやはり面白く、初めて見る映画はそれほどではない。ヒッチコックは50年代以後は大体同時代に公開されているが、特に40年代に未公開が多かった。70年代以後のミニシアターブームで、けっこう昔の映画がたくさん公開され、主要なヒッチコック映画は大体見てしまった。傑作と言える作品はすごく面白いけど、スパイ映画としての設定はかなり変だ。「海外特派員」ではオランダの平和団体が戦争を防げるかどうかのカギを握っている。どうして? 「バルカン超特急」の情報伝達法も理解不能。「汚名」もおかしいし、「逃走迷路」でもどうしてこんなに謎の組織が大きくてテロができるのか判らない。

 話が変なんだけど、その後の「北北西に進路を取れ」などでも、市井の善人がスパイ事件に巻き込まれる。大昔ならあり得ないないが、「総力戦」時代になり、軍需産業が戦場以上に大事になり「銃後の護り」が重大な意味を持つようになった。そしてナチスや共産主義という「イデオロギー」との戦いの時代になったから、「敵」はどこにいるか判らない。逆にポーランドのイエジー・カワレロウィッチの「」でも、同じような不安が「西側のスパイ」として描かれる。日本でも山本薩夫「スパイ」や熊井啓「日本列島」のように、どこで何が起きるか判らないという冷戦体制の恐怖が描かれた。ヒッチコックの映画も、そのような時代に「巻き込まれた」人間の不安を形象化したということだろう。
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松岡茉優が素晴らしい、映画「勝手にふるえてろ」

2018年01月17日 22時34分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 綿矢りさ原作を大九明子(おおく・あきこ)脚本、監督で映画化した「勝手にふるえてろ」は評判通りに面白かった。もともとミニシアター向け公開だったけど、面白いと評判を呼んでシネコンでも上映された。何しろ主演の松岡茉優が圧倒的に素晴らしく、面白いことこの上ない。松岡茉優のコメディエンヌとしての才能を十分に発揮させたスタッフの力と企画が素晴らしい。

 24歳、某会社の経理で働く雪国育ちの江藤良香(ヨシカ=松岡茉優)は中学2年生の時から「脳内交際」(つまり勝手な片思い)を一途に続けている。彼の名前が一宮だから、それが「」。ところが、ところが、人間関係に不器用で、「彼氏いない歴人生全部」のうら若きエトウヨシカを「発見」した男が同じ会社に表れた。「人生初告られ」に舞い上がりつつも、やっぱり私は「イチ」が好きと思い、その霧島クンは「」と命名してスマホに登録することにする。

 一人暮らしのアパートで、ネットを見ながら「絶滅した生物たち」を検索するヨシカ。絶滅になぜかひかれ、ついにはアンモナイトの化石を買ってしまう。しかし、現実に出現した「二」は現実にお誘いを掛けてくるのに対し、脳内に生息するだけの「一」はどこにいるのか? この深刻な疑問に直面して、ついには正月の帰省時に何としても「一」に会えるような「秘密工作」を開始するのだが、果たして「一」には会えるのか? 会ったとしても新展開はあるのか???

 喜劇というのは、主人公が常識離れした設定になってることが多い。チャップリンの映画でもやり過ぎ的設定が多いし、寅さんが何度も何度も美人に惚れては「反省」を重ねながら、また同じことを繰り返す設定も変である。だが、そういう日常を乗り越えているような主人公がいるからこそ、われわれの拠って立つ世界を相対化できる。この映画のヨシカも、最後の頃の行動はやり過ぎだし、見てて「イタイ」という域を飛び越えて、ちょっとあんたどうすんのよと思わず突っ込みたくなる。

 全体的に「脳内独り言」に周りの人も乗ってくるなど、ノリノリ的演出が面白い。オカリナを吹く謎の隣人、片桐はいりも例によっておかしい。中学時代に「視野見」(視野の端っこで見てないように見るヨシカ独特の見方」をしていた「一」とは、絶滅生物をめぐって話をすることができたけど…。一方、「二」もけっこう変なお誘いが多い。クリスマスのお誘いなんだったら、遊園地とか水族館、あるいはせめてヒットしている映画とかじゃあないですか、普通。普通じゃないとこ誘っちゃいけないことはないけど…。と「一」と「二」をめぐって揺れ動くヨシカだったが。
 (前が「一」で、後ろが「二」)
 松岡茉優は意外な感じだが、初の主演。「二」は渡辺大知、「一」は北村匠海。監督・脚本の大九明子(1968~)は初めて見たけど、「恋するマドリ」「東京無印女子物語」「モンスター」「でーれーガールズ」などを作ってきた人。とても元気がいい映画だけど、ヒロインに共感できるか、できないか。ちょっとやり過ぎなとこも多いと思ったけど、映画としてはよく作られている。スマホ(「ライン」)時代の恋愛模様を描いて必見の映画。だけど、こういう時代も大変だなあと思う。
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チャペックの旅行記-チャペックを読む②

2018年01月16日 23時43分05秒 | 〃 (外国文学)
 年末に犬猫の本を書いてから時間が経ったけど、その後もチェコの作家カレル・チャペックを読み続けている。その幅広い作家活動、ユーモアあふれる文章にますますひかれている。そして、小国チェコと世界平和を守るために奮闘し続けた姿にも、敬愛の念が増すばかり。そのチャペックがヨーロッパ各国を訪ねた時の旅行記が残されている。ちくま文庫に5冊入っていて、そのうち「チェコスロヴァキアめぐり」は品切れのようだけど、残りの4冊は今も大きな書店には並んでいる。

 戦後まで活躍出来ていたら、多分飛行機に乗って世界各地をめぐったことだろうと思う。1920年代、30年代だから、飛行機ではなく鉄道で回るしかない。それでもヨーロッパ各地の様子をこれほど書いた人も少ないのではないだろうか。どれもそんなに長くないうえに、チャペック本人のたくさんの絵が付いている。短いのはチャペックが関わっていた新聞に連載されたからであり、チャペックのジャーナリストとしての才能を存分に味わうことができる。

 チャペックは戯曲「ロボット」を書いて、高い評判を得た。そのためイギリスで開かれた1924年の国際ペン大会に招待された。それをきっかけとして、ロンドンやイングランド各地、スコットランドなどを訪ねた記録が「イギリスだより」。旅行記の最初で、イギリス作家の有名人にも会っている。でも、それよりロンドンの公園や博物館を訪ねた話が面白い。田舎を周ると、落ち着いた古い家で人々が暮らしていてイギリスの本質をそこに見ている。そして、スコットランドの美しさ。イングランド北部の湖水地方の絵も素晴らしい。当時世界一の国はイギリスだから、チャペックも一生懸命見て回っている。

 次の「スペイン旅行記」もとても面白い。闘牛を見たり、ベラスケス、エル・グレコ、ゴヤの絵に関する話。アンダルシアやセビリアのムード。フラメンコも。だけど、僕が一番面白いと思ったのは、ハプスブルグ家が支配した証である「双頭の鷲」の紋章を見つけて感慨にふけるところ。もちろんチェコスロヴァキアも、ついちょっと前までハプスブルグ家のオーストリア帝国に支配されていた。同じ歴史を発見しているわけだ。これは「オランダ紀行」でも出てくる。オランダもハプスブルグ帝国だった。

 僕が一番面白いと思ったのは、「北欧の旅」。これは1936年に旅した記録で、遅い結婚をした妻のオリガを伴って一種の新婚旅行でもあった。チェコからドイツに入り、北上してデンマークへ。デンマークがいかに素晴らしいかがよく判るが、あっという間に通り過ぎてスウェーデンへ。ストックホルムを見た後で、ベルゲン鉄道でノルウェーへ。ここで小さな船で北上し、フィヨルドを見て回りながらどこまでも北へ行ってみるのだ。恐るべき大自然を見てみたい。北極圏に行きたいのである。だから、北欧と言いながら7割ぐらいはノルウェー紀行。でもフィヨルドを自分も見たかの感じになる。

 「オランダ絵図」は再びペン大会に参加したのをきっかけにオランダを旅した記録。これを読んでちょっと驚いたのは、今オランダと言えばゴッホフェルメール目当ての人も多いと思うけど、チャペックも同じだったこと。ただし、フェルメールは「フェルメール・ファン・デルフト」と書かれている。フェルメールにこの頃からこんなに注目していたとは、やはりチャペックならでは。田園や運河を見て回り「オランダの光」の独自な素晴らしさをたたえる。

 「オランダ絵図」には最後にペンクラブに関する文章が載っている。それを読むと、彼がいかにペンクラブ活動に尽力したかが判る。彼も一度は他の人に代わってもらいたかったらしいが、チェコで最も有名な作家として代わりはいなかった。そして祖国がナチスドイツに狙われていた時代に、国境を越えて民族の友好を進めることに大きな意義を感じている。チャペックらの活動にもかかわらず、ヨーロッパは再び戦火に見舞われた。それを考えても、いわゆる「戦間期」にヨーロッパ各国を訪れユーモラスに理解を深めたチャペックの本は素晴らしいと思う。

 今「カレル・チャペック」と打ち込むと、最初に出てくるのは「カレルチャペック紅茶店」なんだけど、その会社を主宰する絵本作家、山田詩子さんのイラストマップが載っているのも楽しい。なお「チェコスロヴァキアめぐり」は地元の図書館にあったので借りて読んだが、これは死後にまとめられたもので、まとまったチェコ旅行記ではない。そりゃ、自分の国だから当然だろう。生まれ故郷や首都プラハ、そしてスロヴァキア旅行などの文章が集められている。
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映画「ブリムストーン」、壮大な復讐の西部劇

2018年01月16日 22時38分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 限定公開で19日までなのだが、「ブリムストーン」(BRIMSTONE)という映画が公開されている。(東京は新宿武蔵野館のみ。)19世紀アメリカの西部を舞台にした壮大な復讐劇で、2時間28分もあるけど時間を感じさせない面白さだった。記録の意味で簡単に書いておきたい。

 西部の寒村に住むリズは、年の離れた夫と二人で暮らすが、なぜか言葉を話せない。耳で聴きとることはできるようだが。そこの教会に牧師がやってきて、罪の恐ろしさを説くがリズは彼を見て恐怖にとらわれる。その後、リズは難産の女性を助けようとするが、母と子を共に救うことはできないとして母の命を優先することにした。その措置を「神に背く」とした牧師はリズを迫害する。

 この段階ではキリスト教をめぐる争いかと思うが、やがてもっと複雑で長い確執があることが判ってくる。第2章になると、砂漠を彷徨っていた少女が中国人に救われるが、鉱夫相手の娼館に売られる。やがて少女は娼婦として働かされるようになり、さまざまな苦労を重ねる。これが実はリズの前身。なぜ口が利けなくなったかが判る。さらに第3章では、オランダから来た母子が牧師と暮らす日々が描かれる。これがリズの子ども時代で、豚を飼いながら暮らしていたが、牧師と母の関係は悪く、牧師は少女こそ自分のために神が遣わした女性だと思うようになった。

 とにかく、どこまでも追ってくる牧師が恐ろしく、それにリズが多くの犠牲を払いながら立ち向かう。一応「西部劇」とも言えようが、オランダや多くの国の合作でヴェネツィア映画祭のコンペティションに出品された作品。監督はオランダのマルティンコールホーヴェンという人である。主演のリズは、ダコタ・ファニングで圧倒的に素晴らしい。最近は「ネオン・デーモン」などに出た妹のエル・ファニングの活躍が目立つが、姉も大活躍。もともと姉妹とも子役で「アイ・アム・サム」などで活躍した。役者としての度胸も十分で、今後大きく伸びそうな美女姉妹として要チェック。牧師はガイ・ピアース
 (ダコタ・ファニング)
 信仰の名のもとに、いかに支配欲が暴走していくか。男性中心社会で女性がいかに苦しめられてきたか。非常に恐ろしい物語なんだけど、アメリカ西部の自然描写が美しく、人間と自然を対比してしまう。特にラスト近くの雪中の襲撃シーンがすごい。ラストもビターな結末で、最後まで長さを感じさせずに物語に没頭してしまった。
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冤罪は裁判官の責任&今市事件驚きの新展開

2018年01月15日 22時23分27秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 冤罪や死刑の問題を書いていて、そろそろ他の問題を書きたい気もするけれど、逆にまだまだ書き足りない気もする。延々と書き続けられるテーマだけど、今は本質的な問題には深入りしないことにする。だが、どうしても簡単に書いておきたいことがある。それは「冤罪の最大の責任者は裁判官だ」ということである。これをちゃんと判ってない人が多いように思う。

 森友学園の前理事長、籠池氏夫妻が逮捕されたまま接見禁止になって長い。その不当性を年末に訴えている人がかなりいた。もちろん不当だけど、何もそういうことは籠池氏のケースばかりの問題ではない。日本では「微罪」でも逮捕されて、長いこと勾留される。事実上の「自白強要」で、裁判開始まで「証拠隠滅の恐れ」を理由に拘束され続けることがほとんどである。(本来は「逮捕」され「勾留」されるのは、「逃亡」または「証拠隠滅」のそれがある場合に限られる。)

 社会運動に関心がある人なら大体知っていると思うけど、これを「人質司法」と呼んで批判されているが一向に改善されない。この状態を招いているのは、検察官にも大きな責任があるが、裁判官の責任が大きい。なぜなら、逮捕状の請求を認めるのも、勾留を認めるのも、保釈を認める(認めない)のもすべて裁判官だからだ。裁判官の人権意識が高ければ、今のような事態はない。

 冤罪事件は警察の誤った見込み捜査から起ることが多い。だけど、最初に逮捕状を発行するのは裁判官である。検察官が起訴しなければ裁判にはならないけど、裁判官が有罪判決を下さなければ懲役刑や時には死刑などにはならない。警察も検察も大きな責任があるが、裁判官がしっかりしていれば冤罪は起きない。裁判官が「自白」(とされる警察官や検察官が作文した供述調書)にとらわれ事件の真相を見抜けないから、無実の人間を長年にわたって苦しめる。

 僕が特に裁判官の責任を言うのは、裁判官は憲法で特別な身分保障をされているからである。特別な身分保障が憲法で定められているのは、国会議員と裁判官だけだ。主権者である国民に選ばれた国会議員はやはり一番上になるけど、裁判官はその国会議員による「弾劾」以外では辞めさせられない。そして「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされる。裁判官が良心に従って裁判を行うことは憲法上の義務である。

 ところが現在の日本では「官僚裁判官」のようになってしまった。最高裁の意向に沿った判決を出さないと「出世」できない。社会のあらゆる問題が裁判所に持ち込まれる。しかし、行政権に遠慮するのか、内閣に都合の悪い判決をなかなか出さない。そういう風に長いこと指摘されている。これをどうすればいいのか、ここで全面的に書くのは荷が重い。憲法改正も必要になってくる。今は問題点だけ書いておくが、最高裁裁判官の任命方法憲法裁判所の設置などは検討しないといけない。

 ところで憲法では「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」(38条の3)と明確に書かれている。それなのになぜ「自白」をもとにした冤罪事件が絶えないのか。ここでごく最近「今市事件」(栃木女児殺害事件)の控訴審で起こった驚くべき新展開について書いておきたい。今市事件については、一審の有罪判決が出た時に「『今市事件』有罪判決への疑問」を書いている。

 控訴審では弁護側からDNA型判定など新証拠が多数提出され、検察側との攻防が続いていた。裁判所も自白以外に殺害場所や日時の立証がされていないとして追加証拠の提出を求めていた。それに対して、検察側は殺害場所を従来の「遺体の発見現場の林道」から「栃木県か茨城県内とその周辺」に「訴因変更」するのだという。殺害時刻もこれまでの主張から13時間以上も拡大したという。ほとんど「自白」しかないような事件である。しかし、「栃木県か茨城県のどこかで殺した」と言って有罪にすることはできないだろう。「自白」は完全に崩れたと言える。検察側の主張がこれほど崩壊した事件も珍しいのではないか。この裁判の様子はもっと注目されるべきだ。
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死刑囚の恩赦問題②

2018年01月14日 22時49分34秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「死刑囚の恩赦問題」一回目では、天皇退位、皇太子の即位が予定されている以上、2019年には必ず一定規模の恩赦が行われるに違いない。その機に際して、あまりにも長い間を死刑囚として処遇されてきた人には恩赦を検討するべきだという提起を書いた。大方の広い賛同は得にくい論題だとは思うけれど、さらに具体的に検討して書いてみたい。

 まず最初に「恩赦」という制度について。日本では大規模な恩赦が実施されて来なかったため、なんとなく「行政権による司法権侵害」のように思う人がいるんじゃないかと思うが、それは違う。司法権は「裁判で事実を認定し、有罪者には量刑を決定する」という役割を持つ。だが、裁判で決まった刑罰を実際に執行する権限は「行政権」にある。それは刑務所や少年院などが法務省管轄の行政機関であることで判る。恩赦も憲法で内閣の権限と明記されている。

 外国では(特に大統領制度の国)、幅広い恩赦が実施されている。アメリカではオバマ前大統領が、退任間近の時期にプエルトリコの独立運動家、オスカル・ロペス・ リベラの恩赦を決定した。もともとシカゴで人権派弁護士として頭角を現したオバマ前大統領は、在任中に非常に多くの恩赦令を出している。一方、トランプ大統領もアリゾナ州マリコパ郡のジョー・アルパイオ元保安官に恩赦を行っている。この人は裁判所の命令に反して差別的な不法難民取り締まりを行ったとして法廷侮辱罪で有罪になっていた。良し悪しは別にして大統領には恩赦の権限があるわけである。

 日本でも「事実上の政治犯」はいっぱいいる。デモや座り込み、あるいは労働組合の団体交渉、街宣活動などで「微罪逮捕」されている人はたくさんいる。裁判では無罪を求めて活発な支援運動が行われたりするが、形式的に有罪を構成していると、裁判所も有罪判決を下すことが多い。(量刑では配慮する場合もあるが。)こういう場合、「恩赦による免訴」があっても良いと思う。裁判が社会を分断するよりも、行政権の判断で「裁判をやめてしまう」のもありなんじゃないか。

 問題を「死刑囚の恩赦」にしぼりたい。1960年代末に「死刑囚の恩赦」が政治的に取り上げられたことがある。当時は帝銀事件の死刑囚・平沢貞通など何人かの死刑囚が無実ではないかと大きな問題となっていた。一度50年代に再審開始決定が出た(後に取り消された)免田栄さんもその一人である。また同情すべき事情があると思われた死刑囚もあった。それらの事件は占領下の裁判であり、また憲法や刑事訴訟法が変わって間もない時期だった。

 そこで「占領下」ということに着目して、再審の要件を緩和してはどうかという「再審特例法案」が野党側から提出されたのである。提案者は社会党の神近市子議員(大正時代に恋愛のもつれから大杉栄を刺した日影茶屋事件の当事者)である。それに対し、法務省は死刑囚の再審に抵抗し、対象とされた7人の死刑囚には西郷吉之助法相が「恩赦を検討する」と国会で答弁したのである。(西郷は参議院議員で、西郷隆盛の長男寅太郎の三男。)しかし、帝銀事件の平沢の恩赦は最終段階で中央更生保護審査会で却下された。免田事件、財田川事件は再審を求めて恩赦を申請せず、80年代になってようやく再審で無罪となった。

 結局、この時に恩赦で無期懲役に減刑されたのは、今は忘れられている二つの事件の二人の死刑囚(一人は戦後初の女性死刑囚)とこれから詳しく書く福岡事件の一人だけだった。その事件は1947年という戦後の混乱時代に、中国人との間で起こったやみ物資をめぐる殺人事件である。旧日本軍の拳銃が使われるなど、いかにも戦後の混乱期という感じだ。その事件では7人が起訴されたが、「主犯」とされた西武雄は立ち会っただけで共謀していないと否認した。一方、実行犯の石井健二郎は拳銃発射を認めたが偶発事件と主張した。この二人には死刑判決が下された。当時は占領下で、中国は戦勝国だから裁判にバイアスがかかったという指摘もある。

 冤罪を訴える西と面会していた教誨師の僧侶、古川泰龍は無実を確信し、全国的に支援運動を行った。(そのため古川は知られるようになり、連続殺人犯として有名な西口彰が古川宅を訪れ、それが逮捕のきっかけとなった。西口は佐木隆三「復讐するは我にあり」のモデル。)このような事件ではなかなか「明白性」のある新証拠を見つけにくい。再審請求がはかどらない中で、結局法相の答弁を信じて再審をあきらめ恩赦一本にしぼることになった。しかし、1975年6月17日に、中央更生保護審査会は実行犯の石井には恩赦を認めながら、「否認」していた西の恩赦を却下した。そして全く不可思議なことに、同日直ちに西の死刑執行が行われた。法相の答弁を信じて再審を取り下げたことによって、だまし討ち的に殺されてしまったのである。

 この時の石井健二郎に対する減刑が、今のところ最後の死刑囚恩赦である。(なお石井は無期懲役囚として14年を過ごし、1989年12月に仮出所が認められ、2008年11月に死去した。)このように恩赦を申請しても認められるとは限らず、認められなかった場合には何の猶予もなく即時に死刑が執行されてしまう前例ができたわけである。本来は一回恩赦が却下されても、その後再び恩赦を申請したり、再審を請求することは出来るはずだが、そういう余裕を与えないために即時処刑が行われたと思われる。(その後遺族が死後の再審を請求している。)

 福岡事件のケースを見てしまうと、死刑囚が恩赦を申請しなくなるのも当然だろう。多くの死刑囚、弁護士が恩赦請求ではなく再審請求を行うのは、そういう理由があるからだ。「恩赦」というものは、本来「反省しているものに恩典を与える」ことだから、再審請求をしていては通らない。だから、今後も「個別恩赦」を求める死刑囚はいないのではないか。僕が今言っているのは、個別に審査するのではなく、政府の方針として一括的に減刑を行うという方向である。本来、「大赦」は本人が希望するかどうかにかかわらず、国家の側で一方的に減刑、免訴にするものである。

 現在、「昭和時代に確定した死刑囚」は袴田巌さんを含めて5人いる。一番古いのは「マルヨ無線事件」と呼ばれる尾田信夫死刑囚で、1970年11月に確定した。(事件は1966年12月。)強盗傷害は認めているが、放火は否定し再審請求を続けている。犠牲者は一人で焼死だった。再審は日弁連が支援していて、ストーブを足で蹴って倒したという「自白」対し、足で蹴っても倒れず仮に倒れても鎮火することが証明されたが、再審は棄却された。強盗傷害の最高刑は死刑ではないから、執行できないままになっている。再審制度が機能しない以上、恩赦で対応するべきだ。

 他にも渡辺清死刑囚など、一審は無期懲役だった人もいる。1988年に確定しているが、認定事実は4人殺害だから、それが確かなら死刑は免れない。だが、一審では4件中2件は無実と主張して認められた。最高裁でも調査官は無実の心証だったと言われている。部分冤罪で、殺害2人でも死刑になることは多いが、複雑な経緯をたどり再審請求が続いている。あるいは本人が控訴を取り下げたピアノ騒音殺人事件の大濱松三死刑囚は恐らくは精神的に執行できないような状態が長く続いているのではないか。他に連続企業爆破事件の益永利明死刑囚もいる。(共犯の大道寺将司死刑囚は昨年5月に死去。)ちょっと事情が違うけど、確定は87年である。

 他にも「平成初期」の確定死刑囚にも冤罪可能性が高い人が何人か見受けられる。再審が認められるほど「明白」な「新証拠」は、なかなか見つけられないものだ。血液が残っていれば、DNA型鑑定で真犯人かどうかが判明するケースがあるが、そういう事件ばかりではない。冤罪可能性ばかりではなく、獄内の状況、事件内容など様々な問題を考えないといけない。今は被害者感情がまだ厳しいケースもあるだろう。だが30年以上も死刑執行ができない事件というのは(今のところ、2012年確定の死刑囚まで執行されている)、「死刑」という刑罰を超えている。何かの特別事情があると思わざるを得ない。それは「行政権」による「恩赦」で対応して然るべきではないだろうか。
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死刑囚の恩赦問題①

2018年01月13日 23時14分41秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 このブログに書いてない問題はいっぱいある。もちろん世界のあらゆる問題について一人で独自の見解を述べるのは不可能だ。関心があまりない問題(SMAPの解散とか安室奈美恵の引退とか)もあれば、勉強してから書こうと思っているとなかなか大変で書けない問題もある。いろんな人があちこちで書いているから、まあいいかと思う問題もある。(僕が政治的な見解を書いても実現可能性はないけれど、映画や本を紹介すれば見たり読んだりする人もいるかも…。)

 ということで天皇の退位問題が表面化した時も特に書かなかった。以上の理由の複合みたいな感じで、基本的には関心がない。実際の成り行きも事前にこうなるだろうと考えたのと大体同じあたりで決着した。ただ、退位・即位の時期に関しては、僕も含めて予想外だったのではないか。5月の連休に合わせてしまって「10連休」になるだろうという話。それはいいと思う人ばかりではない。病院や福祉施設などがどうなるか、今から心配な人も多いに違いない。

 天皇退位問題を聞いたときに、僕がまず思ったのは「昭和天皇の時のような死刑囚の悲劇を繰り返してはならない」ということだった。そりゃあ一体何のことだと言われるだろう。その説明は後に回して、要するに新天皇の即位があれば、それを「国家的慶事」と考えて「恩赦」が行われるだろうということだ。戦後に行われた「政令恩赦」は12回に及ぶというが、大規模なもの(「大赦」)が行われた例として、日本国憲法公布講和条約締結国連加盟昭和天皇大喪の礼がある。

 そこまで大掛かりではないが、皇太子結婚(2回)や明治百年、沖縄返還、天皇即位などに際しても恩赦として復権令が出された。復権というと、選挙違反等で公民権停止になっていた政治家が復帰できたりするので評判がよくない。前回は昭和天皇の葬儀に際して大規模な大赦があったので、天皇即位時は小規模だった。2018年は「明治150年」式典があるらしいが、百年ならともかく恩赦を行うほどの盛り上がりにはならないだろう。翌年に新天皇の即位が予定されているわけだから、恐らくは2019年にある程度の規模の恩赦が行われる可能性が高いと思う。

 天皇は日本国の「象徴」だが、政治的な権能は持たない。日本国の主権は国民にあるのだから、国民が選んだ国会議員が選出する内閣総理大臣が交代する方が重大事である。そう考えると、天皇の交代で「恩赦」を行うこと自体がおかしいと考えられる。天皇が交代することは、果たして国家的慶事なんだろうか。天皇が死去し、新天皇が即位する。前天皇や新天皇の温情をあまねく国民に知らしめる一環として、罪あるものにさえ天皇の仁慈が与えられる。要するにそういうことなんだろうけれど、天皇に主権があった時代の名残りというべき慣習ではないか。

 僕はそう考えるが、だけど恩赦反対運動を行っても、恩赦は実施されるだろう。官僚は前例を踏襲するものだから。今から前例を調べて、該当者のリストアップを始めているのではないか。この問題は関係する人が少ないから、ほとんどまだ論じられていない。そして、僕が思うに、恩赦が行われるのであれば、死刑囚に一括して恩赦を与え無期懲役に減刑して死刑廃止国にしてはどうか。まあ、そういう主張もできるのではないか。僕も実現可能性を考えて書いているのではなく、やはりそれは無理なやり方なんだろうと思う。

 日本では戦前戦後を通して、何人かの死刑囚に恩赦が与えられてきた。1911年、大逆事件の死刑囚24人のうち半数の12人が「明治天皇の仁慈」で無期懲役に減刑されたケースが有名。戦後も何件かあるが、最近は絶えてしまったので知らない人が多いだろう。死刑を宣告された人は、執行されるか獄死するか、はたまた無実が証明され再審が開かれるか。とにかく生きてシャバに出るには再審以外はないと思っている人が多いと思う。しかし本来は死刑囚にも「恩赦のご仁慈」が与えられなければおかしい。(そういう恩赦という制度がある以上は。)

 ところで先に書いた昭和天皇死去に際しての「死刑囚の悲劇」とは何だろうか。あの「昭和最後の日々」を覚えている人も少なくなってきただろう。昭和天皇の病気が1988年秋に公表され、全国で運動会などの学校行事をどうするか大騒ぎになった。実際に死去したのが翌1989年1月7日。かなり長い時間があったのである。「昭和」は戦争と高度成長を含んで64年(実質は62年と2週間)続いたから、多くの人に「天皇交代」のイメージがなかった。そんな中で、獄中では天皇の死去、新天皇即位に際して大規模な恩赦が死刑囚にも行われると噂が飛んでいたのだ。

 どんな大規模な恩赦があっても、「恩恵を施して赦す」ためには、本人が「罪を認めて反省する」必要がある。だから、無実を主張している人には意味がない。本当に無実で一刻も早い人権回復が必要な人ほど、恩赦の恩恵には浴せない。そして、もちろん刑が確定していなければ恩赦の対象にならない。(罪になる対象そのものを一括して免訴にするようなケースでは、裁判の途中であっても、あるいは無罪を主張する人でも、裁判打ち切りという形で「恩赦」になることはある。)

 裁判途中の死刑囚(一審あるいは二審で死刑判決を受け、高裁に控訴、最高裁に上告している人)は、噂を信じれば控訴、上告を自ら取り下げて、死刑を確定させた方が「有利」かもしれない。そう思う人が出てきた。自分は犯情が悪いから絶対に恩赦はないと思う人(殺害人数が特に多いなど)は、もともと関係ない。自分は事件への関わりが少ない(と自分で思う)死刑囚ほど恩赦に期待してしまう。しかし、そういう人は元々控訴審などで減刑される可能性だってあったわけである。3回は裁判を受けられるというのに、自らその権利を放棄してしまい、噂に減刑可能性を賭ける。実際に上訴を放棄してしまい、その後死刑が執行された人もいるのだ

 そのような事例を指して、僕は「悲劇」と書いたのである。そんなおかしなことが起こったのも、天皇の重体報道が長く続き、どうなるのかが判らなかったからだ。今回は事前に判っているんだから、そのような噂が飛ぶこともないだろう。そして、前回は死刑囚の恩赦がなかったわけだが、今回は限定的に死刑囚の恩赦を実施してはどうかと思うのである。

 ここ何十年か死刑囚の恩赦がなかったのは「もう一つの悲劇」があったことが大きい。(詳しくは次回。)今回は事前に改元が判っている。昭和から平成へ、そして次の元号へ。元号制度の問題はさておき、昭和の時代から死刑囚だった人が何人もいるのである。再審もならず、執行もされず…。自民党内閣は積極的に死刑を存置し、執行しようとしてきた。それでも執行されないのは、なんらかの「執行できない理由」があるのである。それならば、「獄中死」を待つような死刑囚には、今や国家の恩典として無期懲役へと減刑する措置があってもいいのではないだろうか。
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