尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『小学校~それは小さな社会~』ー東京の公立小学校から見えるもの

2024年12月19日 21時57分51秒 | 映画 (新作日本映画)

 山崎エマ監督『小学校~それは小さな社会~』という映画が評判になっている。まだ東京の一部映画館などに上映が限られているが、これから各地で上映が進んで行く予定である。この映画は東京都世田谷区の公立小学校に密着取材して、「日本の初等教育」を見つめた映画だ。700時間の撮影を行い、監督自身は4000時間も現場の学校に滞在したという。そこから99分の映画に凝縮したわけだが、その結果感動的で興味深い子どもたちの様子が見えてくる。また2021年度という「コロナ禍の学校」、先生たちが毎朝消毒し、子どもたちは「黙食」し、宿泊行事が中止になるという苦難を永遠に記憶する映画にもなった。

 山崎エマ監督は、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、大阪の公立小学校を卒業した。その後、中高はインターナショナル・スクールに通って、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づいたという。そこで公立小学校を長期取材しようと試み、世田谷区の学校で可能になった。小学1年生を撮影するために、事前に入学前から子どもたちや家族を取材している。その結果、「入学式から卒業式まで」、桜に始まり雪で終わる「日本の四季」を背景にした日本の教育を「物語」として見事に編集している。実に見事で、面白くて、考えさせられることが多い。「映画」「教育」という枠を越えて多くの人に見て欲しい。

 この映画の特徴は「特活」を日本の教育の特徴としてとらえていることだ。ホームページには「本作には、掃除や給食の配膳などを子どもたち自身が行う日本式教育「TOKKATSU(特活)」──いま、海外で注目が高まっている──の様子もふんだんに収められている。日本人である私たちが当たり前にやっていることも、海外から見ると驚きでいっぱいなのだ」とある。掃除や給食もあるけれど、それ以上に「行事」や「児童会活動」が取り上げられている。例えば「放送委員」の活動。まるで一組の男女児童が毎日やってるように見えるけど、実は毎日違った5組の児童が担当しているという。全員撮ったけど、結果的にある一組だけになったのは、運動会の縄跳びが不得意な子どもがどうなるかという「絵になる」シーンが撮れたからである。

 特活というのは「特別活動」の略で、小学校学習指導要領では「学級活動」「児童会活動」「クラブ活動」「学校行事」に分れている。中高ではクラブ活動がなく、残りの3つだけ。(「学級活動」は高校では「ホームルーム活動」、「児童会活動」は中高では「生徒会活動」。)ちなみに「学校行事」は「儀式的行事」「文化的行事」「健康安全・体育的行事」「遠足・集団宿泊的行事」「勤労生産・奉仕的行事」に分れている。清掃や給食当番は「学級活動」の中に明記されている。学校で掃除をするのは、何も「日本人の勤勉さ」「日本文化の特色」ではなく、法的拘束力がある指導要領に書かれているからである。

 僕も特別活動は非常に大切だと思って教師時代に仕事をしていた。僕の場合、自分の関心と経験から「旅行行事」を担当することが多く、自分でも面白かった。映画を見てれば判るが、行事の面白さは子どもたちの日常とは違った顔を見られるところにある。思った以上の頑張りや思いやり、連帯感などが発露され、教師も感動する瞬間があるのである。この映画を見て、「教師の大変さ」だけでなく「教師の魅力」も感じ取って欲しいと思う。しかし、この映画には出て来ない部分もある。

 僕は最後に夜間定時制高校や三部制高校に勤務して、「特活」以前に「学校に来て授業を受ける」ことの重大性を痛感した。やはり学校の中心は「授業」であり、「進路」なのである。公立小の生徒はかつてはほとんどが地域の中学に進学するものだった。しかし、都立中高一貫校設置以後、公私の中高一貫校を受験する小学生が多くなった。世田谷区は地域的にも私立学校が多く、かなりの児童が私立受験をするんじゃないかと思う。しかし、6年生を撮影しながら「進路活動」が全く出て来ない。日本人観客からすれば、むしろ進路をめぐって葛藤する様子こそ知りたいことなんじゃないか。

(山崎エマ監督)

 また小学校教育としては、2020年から英語が必修教科となったという大変化があった。学校として英語にどのように取り組むか、試行錯誤していたはずである。もちろん小学1年生にはまだ関係ないけれど、6年生にとっては非常に大きな問題だろう。その問題も全く出て来ない。もちろん映画は作る側が自由に課題を設定して編集するわけだが、あえて描かなかった面がたくさんあることも忘れてはいけない。そして中学や高校になると、果たしてこういう取材を受けてくれる学校が見つかるか。中高教員からすれば、小学校がうらやましい感じもするんじゃないか。それはともかく自分は私立に行ってたのに「公立学校はおかしい」などと平気で語る政治家にこそ、この映画を見て欲しいものだと思う。

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映画『雨の中の慾情』、つげ義春の大胆映画化に驚き

2024年11月30日 21時54分03秒 | 映画 (新作日本映画)

 片山慎三監督『雨の中の慾情』を公開初日に見に行った。公開直後に見ることは少ないが、まあ時間がちょうど良かったのと、そう大ヒットしそうもないから1週目に見ておく方が良いかという判断もある。見る前に、この映画に関する情報はほとんどなかった。普通ならチラシを見れば大体予想できるけど、この映画のチラシには主演者しか書いてない。東京国際映画祭で上映され、つげ義春原作だと出ていたが、ほとんどそれだけ。片山監督は『岬の兄妹』や『さがす』を作った人。『さがす』は2022年のキネ旬ベストテンで7位に入ったが、どこか「過剰」な描写が気になってここには書かなかった。

 つげ義春原作の映画はかなりあるが、竹中直人監督『無能の人』(大傑作!)を除けば、短編をオムニバス的に映像化したものが多い。最近石井輝男監督の『ねじ式』を再見したが、それもいくつかの短編が基になっていた。同じ石井監督『ゲンセンカン主人』は最初からオムニバス映画として作られている。今回の『雨の中の慾情』も同様で、1950年代に書かれた初期作品幾つかを組み合わせている。ただし、それで終わらずに、イメージがどんどん暴走していき、時間の迷宮に入り込む。場所も年代も判らぬ幾つものイメージが重なり合いながら、作者を思わせる義男成田凌)と福子中村映里子)の関係が変奏されていく。

(左から福子、義男、伊守)

 映画館の紹介では「貧しい北町に住む売れない漫画家・義男。アパート経営の他に怪しい商売をしているらしい大家の尾弥次から自称小説家の伊守とともに引っ越しの手伝いに駆り出され、離婚したばかりの福子と出会う。艶めかしい魅力をたたえた福子に心奪われた義男だが、どうやら福子にはすでに付き合っている人がいるらしい。伊守は自作の小説を掲載するため、怪しげな出版社員とともに富める南町で流行っているPR誌を真似て北町のPR誌を企画する。その広告営業を手伝わされる義男。ほどなく、福子と伊守が義男の家に転がり込んできて、義男は福子への潰えぬ想いを抱えたたま、三人の奇妙な共同生活が始まる……。」

(PR誌の営業)

 冒頭が『雨の中の慾情』のシーンで、すぐに売れない漫画家義男の現実になる。その後伊守森田剛)とともに、『池袋百店会』が基になったPR誌のエピソード。だが、どうも変なのである。「北町」と「南町」の間には検問所があるという。町は「分断」されているらしい。そして三人の共同生活になるが、実はこれで話の半分にもならない。怪しい病院で子どもの「脳髄」から液を取り出し、薬として南町に売りに行く。検問を越え、初めて海を見る。そこでは中国語が支配言語になっている。何だか全然判らないけど、今度は突然戦闘シーンになる。負傷した義男は慰安婦(福子)から貰った毛を握りしめている。

(「南」で海を見る)

 全編に漂う不思議ムードは、この映画が台湾でロケ撮影されたことにもよる(台湾との合作)。南国風の「空気感」があって、突然時間が逆転してもおかしくない気がしてしまう。慰安所や野戦病院も出て来るのはどうなのかと思うが、つげと関係が深かった水木しげるの世界にワープしたような印象。時間が132分と長く、時空を飛び越えたイメージの連鎖が少しやりすぎというか、やはり今回も「過剰」な感じを受ける。そこも含めて、つげ原作映画の中でもとりわけ「変」な映画に仕上がっていて、そこが魅力。(「変」は褒め言葉である。)今年のベストとは思わないけど、妙に忘れがたいイメージが残り続ける。

(片山慎三監督)

 片山慎三監督(1981~)は、ポン・ジュノ監督『母なる証明』や山下淳弘監督『苦役列車』などの助監督を務めたあと、『岬の兄妹』(2019)で監督デビューした。今回の『雨の中の慾情』では福子の中村映里子が素晴らしかった。森田剛や成田凌が惹かれているのも納得。また大家や野戦病院の医師などをやってる竹中直人は、出て来るだけでムードが高まる。ロケは当初金門島でやりたかったというが、結局嘉義市で撮影された。多少茨城県などで撮られたシーンもあるようだが、基本は嘉義ロケ。その懐古的なムードが、つげ作品に似合っている。不思議な「怪作」であり、また「快作」。

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映画『八犬伝』(2024)と『里見八犬伝』(1983)、比べてみたら

2024年11月15日 22時33分47秒 | 映画 (新作日本映画)

 真田広之が『将軍』でエミー賞を取ったのを記念して、新文芸坐で「世界の真田広之へ、その軌跡」という特集上映をやっている。日本時代の代表作『たそがれ清兵衛』がないのは残念だし、来年の大河ドラマに関連する『写楽』もやって欲しかった。それはともかく、深作欣二監督『里見八犬伝』(1983)を見てなかったので、この機会に見てみた。角川映画の大作で、1983年末の正月映画だったらしい。まったく記憶にないのだが、就職、結婚した年なので、人生上一番多忙だったのである。

 2024年のいま、曽利文彦監督『八犬伝』という映画もやっている。じゃあ、合わせて見比べて見ようと思った。「八犬伝」なんだから、八犬士が珠を持っているのは同じで、その表現もほぼ同じように光っていた。しかし、感触的には全然違っていて、『八犬伝』は作者である曲亭(滝沢)馬琴が登場して、物語を創作する現実世界と物語内の虚構世界を交互に描き分けている。一方、『里見八犬伝』は虚の世界だけを描いている。しかも内容的には「勧善懲悪」よりも、薬師丸ひろ子と真田広之のラブストーリーになっていくのでビックリした。19歳の薬師丸ひろ子を見たい観客もいるだろうが、新作の『八犬伝』の方が傑作だろう。

 両者が違うのも当然で、原作が別なのである。『里見八犬伝』は鎌田敏夫新・里見八犬伝』、『八犬伝』は山田風太郎八犬伝』である。長大かつ近代以前の物語である曲亭馬琴南総里見八犬伝』は、もう著作権も関係ないので自由に翻案できるわけだ。新作『八犬伝』は、馬琴が役所広司、妻お百が寺島しのぶ、息子宗伯が磯村勇斗、その妻お路が黒木華と一家が豪華キャスト。さらに葛飾北斎が内野聖陽、鶴屋南北が立川談春、中で演じられる歌舞伎を中村獅童尾上右近がやってる。北斎と馬琴は実際に知人だったということだが、こんなにひんぱんに訪ねていたわけじゃないだろう。

(馬琴と北斎)

 南北の『東海道四谷怪談』が評判になって、二人が見に行くシーンがある。その歌舞伎シーンは香川県琴平町にある現存最古の芝居小屋金丸座で撮影され、実際の「奈落」が出て来る。そこに作者の南北が現れ、馬琴と虚実論争を交わすシーンが、実はクライマックスでもある。何が虚で、何が実か。この映画も「虚」に賭けて後半生を「八犬伝」完成に費やした馬琴、失明後は嫁のお路との関わりが一番丹念に描かれている。お路が代筆して完成したことは有名な史実で、僕も見る前から知ってたが、いくらでも熱演できる黒木華の抑えた演技が心に残る。馬琴とその家族を描いたシーンこそ、この映画の見どころだろう。

(八犬士)

 一方、その分「虚」の伝奇物語の方は、あまり有名俳優も出ていない。伏姫が土屋太鳳、玉梓が栗山千明、浜路が河合優美と女優はそれなりなんだけど、肝心の八犬士は僕は知らない人ばかり。だが筋書き自体は原作にほぼ沿っているらしい。僕は原作は現代語訳でも読んでないけど、ネットで調べると妖刀村雨を古河公方に献上しようとして、疑われるシーンなど原作通り。そこの特撮アクションはとても面白く出来ている。だけど、面白くなってきたところで、現実の馬琴の悩みになっちゃうんで、アクション、ファンタジー映画という意味では、中途半端な感じもする。馬琴の「実」生活の方が面白いのである。

(『里見八犬伝』)

 一方、深作欣二監督『里見八犬伝』は一大冒険ファンタジー映画としては面白い。八犬士も千葉真一、寺田農、志穂美悦子、それに最後に加わる真田広之など、豪華な面々。ただし、村雨を献上するとか原作由来のシーンはほとんどない。里見家には静姫薬師丸ひろ子)がいて、ひたすら逃げまくる。つまり黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』みたいな話なのである。まあ玉梓夏木マリ)は悪の統領として出て来て、薬師丸ひろ子と戦う。その城は戦国時代だというのに、中世ヨーロッパの古城かなんかみたい。主題歌が英語のロック調ということもあって、昔のハリウッド製冒険映画っぽい感触である。

 どうも不思議なところの多い映画だったが、実は当時の深作欣二監督の大作映画には似たようなものが多い。ハリウッドを越えると意気込んで、結果的に怪作になったような作品群である。深作監督の大作だから見なかったのかも知れない。そして最後は薬師丸ひろ子、真田広之が手に手を取って馬で去って行く。(薬師丸ひろ子は実際に乗馬していると思う。)大ラブロマンス映画になっちゃって、二人はキスシーンまであるのである。

 『南総里見八犬伝』は1814年から1842年にかけて刊行された。これはフランスでアレクサンドル・デュマが『三銃士』(1844)や『モンテクリスト伯』(1842~1846)を書いたのとほぼ同年代である。「近代文学」以前の「勧善懲悪」文学なのである。ところで、里見家は房総半島に土着の一族ではない。新田氏につらなる源氏の一門だが、安房で戦国大名になった経緯はまだよく判ってないらしい。古河公方、堀越公方に続く第三の関東公方(自称)の「小弓公方」を支持して関東の独自勢力となった。関東は本来「公方」と「管領」という体制で、そっちの方が正統のはず。物語世界で里見氏が勝つと「勧善」なのも不思議だが、300年前の話だから江戸の人々もどうでも良いんだろう。里見家も断絶して、馬琴の時代には大名としては存在しなかった。

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映画『拳と祈り 袴田巌の生涯』、袴田事件を追い続けて

2024年11月12日 20時39分25秒 | 映画 (新作日本映画)

 『拳(けん)と祈り 袴田巌の生涯』というドキュメンタリー映画を見た。ホントはどうしようかなと悩んだんだけど、やっぱり見ようかと思った。見たら非常に「面白い」映画で、見逃さなくて良かった袴田事件については今まで何度も書いてきたから、やはり見ておきたい。だけど、なんで悩んだかというと、すごく長いのである。159分もあって、2時間半を越える。最近長い映画を見ると、途中でトイレに行きたくなるし、腰も痛くなる。もちろん袴田事件が進行中なら支援の意味で見なければならない。でも周知のように、長い再審が終わって無罪が確定したのである。もう見なくても良くないか?

 多分そう思う人も多いかなと思って最初に書いたけど、冤罪事件を扱う「社会派」映画であるだけでなく、「袴田巌」という人間の不思議に迫る人間追求映画だった。映画は再審段階で開示された「録音テープ」を流して、冤罪を作り出す取り調べを告発している。だがそれ以上に袴田さんに密着する映像が多い。それが非常に興味深くて、見ていて退屈しない。「袴田巌」という人物を、我々は名前としては知っている。でも実際に一緒に暮らしているわけではないし、身近に接してきたわけでもない。映画は再審請求が認められ、「著しく正義に反する」として、死刑囚から突然釈放された2014年時点から、ずっと密接取材をしている。

(笠井千晶監督)

 監督の笠井千晶氏は大学卒業後に静岡テレビに入社し、2002年から姉の袴田秀子さんの取材を続けてきた。その後、退社、留学、中京テレビ勤務、フリーになったという経歴だが、その間もずっと取材してきたようだ。特に釈放当日の車に秀子さんや小川秀世弁護士などと同乗している。東京のホテルに泊まった様子も記録されている。袴田巌さんは獄中で「拘禁反応」により心を病んで、一時は姉の面会も拒否する状態だった。釈放直後も能面のように現実と遮断されたような様子をしている。秀子さんの長年の苦労には本当に頭が下がる。90歳前後の日々なのである。(もう一人の姉も出て来る。)

(姉と弟)

 袴田巌さんは結局今に至るも正常に戻っていないが、その間に次第に「冤罪」と語るようになり、「死刑は良くない」と語る。ボクシングのことも語るようになっていく。当初は一日中部屋を歩き回っていたが、その後姉と同居した浜松市で町を歩き回るようになった。健康にための散歩というよりも、もう「巡察」と呼んだ方が良いぐらいである。カトリックでありながら、目につく寺社には賽銭を投げて祈る。小銭を子どもにあげたり、花の根本に置く。パンが大好きで、何個も買い込んだりする。

 実に不思議なんだけど、その合間に再審の進展、事件内容、そして本人の生涯が振り返られる。この過去の写真(国体のボクシングに出た時など)に初めて見るものが多く貴重。特にプロボクサー時代の話が興味深い。当時を覚えている人がまだいて、タフなファイターだったことが語られる。アメリカのボクサーでやはり冤罪に巻き込まれたハリケーン・カーターとの交流は心に残る。先に冤罪を晴らし、その後ガンの闘病を続けたハリケーンは、2014年に袴田さんの釈放の報を聞いてから亡くなった。

(ボクシングを語る)

 袴田事件そのものは、再審無罪判決、検察側の控訴断念、無罪確定によって、1966年の事件発生58年経ってようやく終わった。しかし、袴田巌さんの精神は破壊されたままである。何とか日常生活を送っているものの、やはり「フシギ感」は残っている。それは冤罪そのものにもよるけれど、何と言っても「死刑制度」がもたらしたものだと思う。近くの房にいた死刑囚が執行されるのを知れば、次は自分かと恐怖に駆られるのも当然だ。次に死刑制度も問わないといけない。

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映画『ゼンブ・オブ・トーキョー』と『侍タイムスリッパー』

2024年10月31日 22時16分15秒 | 映画 (新作日本映画)

 最近はずっと衆議院選挙の話ばかり書いていたが、この間もアメリカや日本の野球中継を見たり、映画を見たりする「日常」があるわけである。最近ようやく涼しくなってきたので、散歩をすることが多く、映画もあまり行ってないが、その中で見たものを。どっちもテーマ性や芸術性でどうこうというわけじゃない。ま、楽しい映画だったかなという感じで紹介する。

 熊切和嘉監督の『ゼンブ・オブ・トーキョー』という映画をやってる。何でも「日向坂46の四期生全員!アイドルデビューから約2年で演技初挑戦の11人がメインキャストとして大抜擢」というアイドル映画だそうだけど、僕には関係ない。熊切監督は『海炭市叙景』『私の男』『658㎞、陽子の旅』など割合とお気に入りの監督だが、それも一応チェックしただけ。東京国際映画祭で『グランド・ブダペスト・ホテル』を見るので、その前に見られる映画を探していて、珍しい「修学旅行映画」を見ようと思ったわけ。

 「部活映画」「文化祭映画」はかなりあるのに、「修学旅行映画」はそう言えばあまり記憶にない。(和泉聖治監督『この胸のときめきを』という京都の修学旅行を描く1988年の映画があったぐらい。)それはそうだろう。ロケが大変だし、時間が限られていて物語を深めるのも大変。文化祭のような「最後の盛り上がり」も作りにくい。だけど、教員時代は一番「旅行行事」に思い入れがあったので、なんか懐かしいのである。もっとも当然「東京修学旅行」は経験してない(東京都の教員なんだから)。東京に行くと、こういうところを巡るのかと興味深かった。浅草、スカイツリーに始まり、諸事情から上野、新宿、渋谷、池袋、下北沢、月島、お台場なんかが出て来る。50年後に「2020年代の東京を記録した貴重な映画」として再発見されるかもしれない。

 班長を務める池園さんが頑張って「東京の全部」を楽しめる緻密な計画を作る。しかし、お昼に予定していた店が満員で長蛇の列。自由昼食にして時間を決めて集合する予定が、皆バラバラに。何これ、マルチバースに迷い込んだのか。実は班長以外のメンバーは、他に行きたいところがあって勝手に自由行動にしてしまったのだ。東京から転校してきてクールぶっていた人、実はアイドルのオーディションを受けに来た人、好きな同級生を追っかけている人…。まあいろいろあって、最後に皆がまた集まるまでを軽快に描くコメディ女子高生映画。「旅行」という行事でお互いに知らなかった姿を見て、一歩成長できるハートウォーミング映画。

 次は『侍タイムスリッパー』。単館上映から始まった独立プロ作品が、面白いと評判になって全国で拡大上映中である。安田淳一監督・脚本、撮影、山口馬木也主演って、誰ですか? 安田監督はビデオ撮影の傍ら自主映画『拳銃と目玉焼』『ごはん』を作った人で、2023年に父が亡くなった後は実家の米作りを継いだ。そして製作したのがこの映画だというのである。脚本が面白いと東映京都撮影所が全面的に協力して作られているので、自主映画的な感じはせず本格的エンタメ映画になっている。で、確かになかなか面白いのである。展開は予想通りなんだけど、それもまた良しというタイプの映画である。

 幕末の京都、会津藩士二人が長州藩士を暗殺する命を受ける。今やまさに斬り合うという瞬間に、雷が落ちるのである。気付いたときには高坂新左衛門は現代の東映撮影所にいた。まあ確かに近い場所にいたかもしれない。そこではテレビ時代劇を撮影していたが、セリフで「江戸」と出て来る。浪人が女に狼藉しようとしていると、高坂は助けに行こうと出ていく。ま、そんなバカなという設定をあれこれ言っても仕方ない。結局周りからは、記憶喪失の変なオジサンと思われて(言葉遣いが昔のままなので、役に成りきったまま記憶を失ったとみなされた)、切られ役専門の俳優として撮影所で生きていくことになっていく。

 そこへある大物俳優が時代劇に復帰することになり、その相手役に高坂を指名してきたのである。なんとまあ、そいうことで後は書かないけれど、あれよあれよの展開でクライマックスに突入する。その大物俳優は冨家ノリマサ、何くれとなく面倒を見てくれる助監督を沙倉ゆうの(下画像)と言われても初めて見る顔ばかり。この沙倉さんは安田監督の前2作でも重要な役で出ているらしい。この助監督役あっての映画で、ウソの話をホントらしくする脚本の妙である。そして「時代劇」とは何か。変革の時代に残すべきものは何かと熱く語られる。なお、幕府滅亡から140年と出ているから、これは2020年代の話ではなく2008年頃の設定らしい。

 修学旅行の映画を探そうとして「修学旅行 映画」と検索したら、「修学旅行 映画村」がいっぱい出て来た。僕も修学旅行で太秦映画村を企画したことがあるが、まさにそこで撮影された映画。テレビドラマや映画のメイキング、映画を作る過程を描く映画という趣もあって、それが一番面白いところかも知れない。どっちの映画も「頑張っていると報われる」という映画でもある。

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映画『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイス』、ますます面白い3作目

2024年10月10日 22時18分20秒 | 映画 (新作日本映画)
 阪元裕吾監督・脚本の『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』が公開中。今まで書いてないが、同名の長編シリーズ映画の第3作である。高石あかり伊澤彩織の若い女性2人が何と殺し屋をやってる奇想天外な設定である。まだ28歳の阪元裕吾(1996~)が作っていて、第1作『ベイビーわるきゅーれ』(2021)、第2作『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』(2023)に続く第3作。前2作は小さな上映から始まって評判になったが、まだ自分たちで楽しく作ってます感が強かった。第3作は池松壮亮前田敦子をゲストに迎えるまでになり、娯楽アクション映画として見逃せない出来映えになっている。

 杉本ちさと高石あかり、2002~)と深川まひろ伊澤彩織、1994~)は、シリーズ当初は卒業間近の女子高生だった。しかし、社会に適合できない二人は「殺し屋」という裏の顔を持っていた。「殺し屋協会」に所属して、依頼に応じてプロの手腕で殺しを行う。しかし、この2人は社会性に乏しく、公共料金の振込みとかそういうことが出来ないのである。高石あかりの方が8歳も年下だが、映画では伊澤彩織の方が年下でコミュニケーション障害という設定になっている。だから「ちさと」が対外的に対応するが、伊澤彩織は本業がスタントなので「まひろ」が最終盤にアクションを披露することが多い。
(右=高石、左=伊澤)
 今回は初の「出張」で、宮崎にやってくる。「依頼案件」はさっさと片付けて、宮崎牛を食べたいな。いけない、「まひろ」はちょうど二十歳になるのに、「ちさと」はお祝いを忘れてた。なんてノンビリムードが一変するのが、「依頼」をこなすために宮崎県庁舎に行った時だった。この県庁舎が効果的で、ちょうど日曜で人がいないことになっている。ターゲットを探していくと、別人が殺そうとしていた。それが協会に所属せずフリーで活動する殺し屋、冬村かえで池松壮亮)だった。いつもジャマになる冬村は協会から抹殺指令が出て、協会に所属する地元の入鹿みなみ前田敦子)と七瀬大谷主水)も加わる。みなみはいちいち2人に突っかかり、険悪ムードの中4人はターゲットと冬村を探し回る。
(冬村かえで=池松壮亮)
 この宮崎という設定で、シーガイアなども効果的に出て来る。宮崎県庁舎本館は1932年建設で、国の登録有形文化財に指定されている。観光地としても知られているらしい。あらすじを細かく書く必要はないだろう。ただ冬村は今までで一番の強敵で、4人で当たっているのになかなか倒せない。最後はまひろと一騎打ちになるが、見事なアクションにしびれる。「ちさと」「まひろ」コンビがボソボソとガールズトークするのも、ますます磨きが掛かってきた。ただ単に面白く見られる映画だが、たまにはこういうのも見ないと。人気俳優が客演するだけのシリーズに育って、今後の展開も楽しみだ。
(宮崎県庁舎本館)
 最近公開されたアメリカ映画『ヒットマン』はニセ殺し屋映画だが、その中に日活映画『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(1967)が引用されていてビックリした。同年には『殺しの烙印』(鈴木清順監督)も作られている。日本は伝説的「殺し屋映画」を作ってきた伝統がある。「殺し屋ランキング」とか「殺し屋協会」とか奇想天外な設定が出来るのは、日本には銃が少ないからだろう。日本は世界的に「殺人事件発生率」が非常に低い社会だが、だからこそあり得ない設定を楽しむファンタジーが可能なんだろう。今後もこのシリーズがますますハチャメチャに発展していくことを期待したい。
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映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』『ぼくのお日さま』

2024年10月05日 22時11分38秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近見た日本映画2作を紹介。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』と『ぼくのお日さま』。どっちも題名に「ぼく」が付いてるのは偶然だけど、映画の中身を表わすとも言える。どちらもなかなか良かったが、少し淡彩の佳作。株主優待券を残しても仕方ないから、頑張って2本続けて見てきた。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、吉沢亮が「コーダ」、つまり「Children of Deaf Adults」、耳の聞こえない親に生まれたこどもを演じている。それが見どころだが、もう一つ僕にとっては呉美保(オ・ミポ)監督)9年ぶりの復帰作ということも大きい。
(『ぼくが生きてる、ふたつの世界』)
 冒頭で父親が漁船に塗装をしている無音の映像が、音が入る世界に変わるのが印象的。これが「ふたつの世界」なのである。続いて、一族郎党が集まって子どものお祝いをしている。祖父(でんでん)がうるさいが、今どきこんなに集まって飲み食いする地域があるのか。母親(忍足亜希子=おしたり・あきこ)と父親(今井彰人)は、二人とも耳が聞こえない。それは事前にそういう話だと知っていたが、両親役の二人はともに「ろう者」の俳優である。子どもが泣いていても親は気づけない。そんな様子を丹念に映しながら、子どもはどんどん大きくなる。場所は宮城県の石巻、時代は20世紀末から21世紀頃と次第にわかってくる。
(父と子は釣りに行く)
 子どものうちは自然に手話を覚えて、周囲にも教えて得意になる。だが次第に「授業参観には来ないで」と言うようになって、中学生になると進路相談に乗れない親を疎ましく思い出す。何で自分だけ「親が違う」んだろうか。そうして、高校を卒業後に東京へ出る道を選ぶ。パチンコ屋で働きながら、やがて採用された編集の仕事。ろう者とのつながりも出来て、「コーダ」という言葉も知る。この映画は五十嵐大という人のエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』が原作になっている。そのことは知らずに見たのだが、親への反発から親との和解、運命の受容への歩みを自然に描いている。そこには「コーダ」の悩みもあるが、普遍的な青春でもある。そこが感動的。
(大人になった大と母親)
 監督の呉美保(1977~)は『そこにみにて光輝く』(2014)、『きみはいい子』(2015)で注目された。9年ぶりの長編映画だが、出産を経て映画界に復帰したことが嬉しい。前作を見て、いずれ再び映画を作ることをずっと期待していたので。一方『ぼくのお日さま』の監督は、若手の奥山大史(1996~)。『僕はイエス様が嫌い』(2019)でサンセバスチャン映画祭で最優秀新人監督賞を受けた。北海道を舞台に、フィギュアスケートのコーチをしている荒川(池松壮亮)と二人の教え子を描く。さくら(中西希亜良)、タクヤ(越山敬達)のスケートシーンが長いが、当然二人ともフィギュアスケートをやってる。
(『ぼくのお日さま』)
 吃音のタクヤは運動も苦手。アイスホッケーのチームに入っているが、失点を繰り返すゴールキーパー。そんな彼がさくらのフィギュアスケートを見て、憧れるようになる。その様子を見た荒川がタクヤも誘って、二人でアイスダンスをしてはどうかと提案する。タクヤがどんどん上手になるのが、ちょっと不自然だと思うけど、そういう子どもたちの様子を描く映画かと思うと実は違った。その事を書くと、見たときに面白くないので止めておく。そうか、そういう映画だったのかと、美しい映像に魅惑されていたらシビアな現実に突如触れることになる。
(さくらとタクヤ)
 自然光を生かした撮影が素晴らしいが、監督の奥山が脚本、撮影、編集を兼ねている。さくらや荒川の視線をとらえた映像を見て、観客の心の中にドラマが生まれる。そのようなタイプの映画で、ここに書けないのが残念。見ている間は「どこか小さな町」のように感じられるが、札幌周辺のあちこちで撮影してつないでいる。かつて有力な選手だった荒川がなぜ小さな町でコーチをしているのか。それは全く説明されないが、人間は奥が深い。池松壮亮はもちろんフィギュアスケートが出来ないから、相当練習したという。もちろんジャンプなんかしてみせないが、スケート自体はそこそこ不自然さなくやっている。
(カンヌ映画祭で。右端=奥山監督)
 雪に覆われた風景が多いが、夏の映像もある。時間をかけて撮影したことが効果を上げている。海を見下ろす町のシーンは明らかに小樽。小樽を舞台にした忘れがたい映画がまた一本現れた。
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映画『Mommy マミー』、和歌山カレー事件に迫る問題作

2024年09月18日 21時43分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 二村真弘監督のドキュメンタリー映画『Mommy マミー』をようやく見た。この映画は和歌山カレー事件を現時点で検証し直す映画である。8月3日に公開されて評判になったのは知っていたが、東京で上映しているシアター・イメージフォーラムが駅から遠く猛暑の時期は避けたくなる。今日は駅直結の柏・キネマ旬報シアターでやってるので見に行くことにした。

 1998年に起きた和歌山カレー事件は、よく覚えてない(または年齢的に知らない)という人もいるだろう。ホームページからコピーすると「1998年7月25日、和歌山市園部地区の夏祭りで提供されたカレーを食べた67人が急性ヒ素中毒を発症、そのうち4人が死亡。同年12月、和歌山県警はカレーへのヒ素混入による殺人と殺人未遂容疑で林眞須美を逮捕。1999年5月、初公判。林眞須美は、過去の保険金詐欺は認めるものの、カレー事件をはじめとするヒ素関連事件については否認。続く二審からは無実を訴えた。2009年5月、最高裁で死刑が確定。戦後日本で11人目の女性死刑囚となる。2024年2月、弁護団が3回目の再審請求を和歌山地裁に申し立てる。林眞須美は現在も大阪拘置所に収容されている。」と出ている。
(林眞須美夫妻)
 林眞須美死刑囚は一切の供述をしなかったので、動機は不明とされたたまま状況証拠の積み重ねで確定した死刑判決だった。発生当初の大報道は今も鮮明に覚えている人が多いだろう。事件発生現場付近に「怪しい夫婦」がいると報道され始め、その林夫婦は保険金詐欺で暮らしているなどと大報道がなされた。今回はもちろん死刑囚本人には取材できないが、息子が案内して今は施設で暮らしているらしい夫はよく語っている。また同居していた男性がいて、その家にも直撃取材を行っている。

 そこら辺は非常に興味深いシーンなのだが、全体的には「冤罪映画」としては飯塚事件を扱った『真実の行方』の方が「面白い」だろう。面白さで比べちゃいけないだろうが。両者の違いはこの映画では捜査員が全く取材に応じないことである。検察官や裁判官(故人であると判明する)まで直撃しているが、もちろん何も語らない。(守秘義務があるから本来語る方がおかしい。)飯塚事件は死刑執行後に再審請求している事件だから、捜査当局側も「適正な捜査だった」と広報したいんだろう。一方、和歌山カレー事件は再審請求しているが、一般的には「もう終わった事件」である。今さら取り上げられたくないと思う。

 一番の問題は「鑑定」ということになる。裁判を支えた捜査段階の鑑定人が出て来て説明する。そしてそれに反対意見を述べる有力な学者が登場する。問題は「ヒ素が同一かどうか」である。林宅にはヒ素が存在したが(当時はシロアリ駆除などのためヒ素を所有する家庭も多かったという)、そのヒ素と事件当時のカレーやカレーに入れた時に使用したとされる紙コップから検出されたヒ素が同一物質かどうか。ヒ素は皆同じかと思うと、産地ごとに「亜ヒ酸」の化学的組成がかなり異なっているという。

 兵庫県にある大型放射光施設「SPring-8」で行われた鑑定の結果、ヒ素は同一由来とされた。それはおかしいと批判されるが、僕には判定が難しい。「パッと見」で同一パターンと見るのは危険と批判されているが、「パッと見」なら同じに見えるとは僕も思った。再審過程でもう一回再鑑定をするべきだろうが、日本の裁判所はそれを認めていない。「ヒ素が違うと新たに証明された」と断言出来るほど原審での鑑定が揺らぐのかどうか。僕にはそこまで判らない。再審請求で鑑定が問題になっていることは知識として持っていたが、その内容は難しくて(現時点では)判断出来ない。
(二村監督)
 僕は死刑廃止論者なので、この事件が冤罪かどうかに関わらず死刑制度は無くすべきだと思っている。では「冤罪なのか」と「有罪判決が正しいのか」はまた別の問題だ。再審請求が行われても裁判官の裁量範囲が大きすぎる。原審段階の未提出証拠もあるだろうし、鑑定は疑問が出されたらやり直してみるべきだ。関係者は口を開かない中で、二村監督はラスト近くで、関係者の車にGPS発信器を取り付けようとして「不法侵入」で警察の取り調べを受ける。(示談が成立して不起訴と出る。)監督の暴走で終わる映画で、監督は「無実」を信じているのだろう。そういうタイプの映画で、そこが面白くもあり、大丈夫かなとも思う。

 二村真弘監督は1978年生まれで、日本映画学校卒業後多くのテレビドキュメンタリーを作ってきたという。「見る当事者研究」(2015)、「情熱大陸/松之丞改め神田伯山」(2020)、「不登校がやってきた」シリーズ(21~/NHK BS1)などがあると出ている。今回が映画初監督作品。東京では忘れられ、現地では「タブー」とされている事件を追う情熱は見事。製作陣の勇気を称えて、見ておくべきだと思う。
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映画『あんのこと』、この凄まじい現実を変えられるのか?

2024年06月16日 20時32分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画は見ていて楽しくなるものばかりではない。むしろ厳しい現実に見る方がひるんでしまうような映画も必要だ。最近では吉田恵輔監督の『ミッシング』が代表。吉田監督は2021年の『空白』で娘が事故で死んだ父親を描いた。それに対し、今度の映画は娘が行方不明になった母親を描く。この石原さとみが凄まじく、一見の価値がある。ただ途中から報道のあり方などに焦点が移っていき、肝心の行方不明(事故または事件)は解決を見ないまま終わる。沼津のロケが効果を上げていたが、この映画はここまで。

 ここでは主に入江悠監督の『あんのこと』を取り上げたい。河井優美主演で、内容のすごさもあって評判になっている。普通は「この映画はフィクションです」と出るのに、この映画は「実際に起きた事件に基づく」と最初に出るのである。新聞記事にインスパイアされて脚本が書かれたという。たった数年前のことなのに、忘れかけている「コロナ禍」の人々に与えた影響を伝える映画としても貴重。それにしても凄まじい現実に言葉を失う映画だ。

 紹介をコピーすると、「21歳の香川杏河合優実)は、ホステスの母(河井青葉)、足の不自由な祖母と、東京・赤羽の団地で暮らしている。杏は幼い頃から酔った母親に暴力を振るわれ、小学4年生時より不登校となり、十代半ばから売春を強いられるなど過酷な人生を送ってきた。」それが変わっていくきっかけは、「ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた杏は、多々羅佐藤二朗)という妙な人懐こさを感じさせる刑事と出会う。多々羅は杏に薬物更生者の自助グループを紹介し、なんの見返りも求めず就職を支援する。大人を信用したことのない杏だったが、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。」
(刑事役佐藤二朗と)
 警官としては異色すぎる「多々羅」には様々な知り合いがいるようだ。施設ではヨガを指導したりしている。そこに週刊誌記者の桐野稲垣吾郎)も訪れ、杏は大人に導かれて新しい自分を見つけられた。高齢者施設で働けるようになり、なじみの利用者もできる。小学校から行ってないというから、僕は夜間中学へ行ったらと思ったらやはり夜間中学を訪ねている。そこには外国人も多いが、一緒に数学を勉強している。杏は周りの助けを得て、立ち直れるのか。そこへ「週刊誌記者の桐野稲垣吾郎)は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、慎重に取材を進めていた-。」
(佐藤二朗、河井優美、稲垣吾郎)
 こうして、「大人の世界」が揺らいでいくときに、世界で新型コロナウイルスのパンデミックが始まった。夜間中学も突然休校し、高齢者施設では非正規職員は自宅待機となった。今まで居場所だった飲食店も入れない。DV向けの避難施設にいた杏は、そこに閉じこもっていたら突然ノックされる。隣室の女性が子どもを押しつけて、どこかに消えてしまった。杏はなんとか子どもと遊び、食べるものを作る。しかし、今までそうだったように、いつも大事なときに母親が現れてすべてを壊すのである。河井青葉が演じる母親の壊れっぷりはものすごい。大体父親はどうなっているんだか。散らかりきった部屋もひどい。
(高齢者施設で働く)
 こうしてすべてを失った(と思った)杏には、生きていく力がもう残っていない。悲劇までを一直線に描く作品だが、完成度的には問題もあると思う。「現実」に規定され、想像力で羽ばたく展開じゃない。「虐待」と「コロナ禍」でどうしようもない現実を描くため、どうしてもこの凄まじい現実を変えられたとしたら何だったのかを考えてしまう。「行政」や「学校」は子どもを抱えた母親と接触する機会が多いが、家庭内部に介入するのが難しい。「強制力」を持った警察が登場するまで、杏を動かすことが出来なかった。しかし、その「強制力」は良いばかりではない。裏に暗い部分を秘めている。映画はそのことを示している。
(入江悠監督)
 入江悠(1979~)は2009年の『SR サイタマノラッパー』が注目され、『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』(2010)、『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』(2011)、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)と作ってきた。これらは大手作品ではないが、後で見たら非常に面白かった。その後、大手で『ジョーカー・ゲーム』(2015)、『22年目の告白 -私が殺人犯です-』(2017)、『ビジランテ』(2017)、『AI崩壊』(2020)など、何でもこなす器用さが持ち味。しかし、ここまで「社会派」的な作品は今までにはない。今回は自ら脚本も書き、力強い作品になっている。なかなか見るのが辛い映画だが、日本の現実を考える時に見ておくべき映画だ。
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映画『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』、♪あの素晴らしい愛をもう一度

2024年06月12日 22時36分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 (6月11日の)夜に落語に行く前に映画を2本見たのだが、これは今では「暴挙」だったかも。でもどちらも内容に満足できたから後悔はしてない。最初が『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』という映画。やってるのを知らない人もいるかも知れないけど、これぞ「待ってました」と声を掛けたいような映画だ。中に出て来る高橋幸宏坂本龍一はすでに亡くなっている。作るにはギリギリの時期だったのである。と言っても加藤和彦って誰だという人もいるだろう。

 2009年10月17日、加藤和彦が軽井沢のホテルで自ら命を絶ったというニュースの衝撃は今も忘れてない。62歳だった。僕はちょっと前の8月28日に(今は無き)新宿厚生年金ホールで開かれた「イムジン河コンサート」で加藤和彦を見たばかりだったのである。変幻自在に音楽活動を行った加藤和彦に一体何があったのだろうか? 

 しかし、この映画はそれを追求する映画ではない。デビューから80年代までの音楽活動を証言やアーカイブ映像で振り返る映画である。外国にはこのような音楽ドキュメンタリー映画が多いのに、日本には何故ないのかと常々思っていた。日本では社会問題や「障害者」に長年密着取材したような記録映画が多い。それも大切だけど、こういう音楽映画ももっと見たい。相原裕美監督。題名の「トノバン」は加藤和彦の愛称で、イギリスの歌手ドノヴァンから来たという。
(加藤和彦)
 加藤和彦(1947~2009)の名前を知ったのはいつだか覚えてない。でもフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』(1967)はよく覚えている。小学生だったけど、この奇想のコミックソングはレコード化されてよく売れた。日本初のミリオンセラー、つまり100万枚以上売れたという。ラジオでもいっぱい掛かった。小学生でも誰もが知ってたし、真似していた。

 その「フォークル」が、加藤和彦北山修(1946~)、はしだのりひこ(端田宣彦、1945~2017)の3人だと名前を覚えたのはいつなのか、今では思い出せないことである。一年限定でプロ活動をしたフォークルの、2枚目のシングルレコードが発売中止になった『イムジン河』、3枚目が『悲しくてやりきれない』、4枚目が『青年は荒野をめざす』。そして1968年10月17日にフォークル解散コンサートが行われた。(今気付いたけど、41年後の同じ日に加藤和彦の遺体が発見された。)
(フォーク・クルセダーズ)
 その後、多くの歌手に楽曲を提供しながら、自らも歌い続けた。その中で最大のヒットが1971年に北山修と歌った『あの素晴らしい愛をもう一度』だ。僕が中学教員になった80年代半ばには、生徒たちはこの歌を合唱コンクール用の歌と思っていた。普通に大ヒットした曲だったんだけど。そして1971年11月にサディスティック・ミカ・バンドを結成した。このバンドはイギリスで評価され、大きな反響を呼んだ。しかし、今までのようなシングルレコードのヒット曲と違って、内容的にも複雑で僕も今までよく知らなかった。バンド名の「ミカ」は加藤の妻だが、どういう人かよく知らない。存命だが映画には出て来ない。それなりの複雑な経過があることが示されるが、このミカ・バンドの時代の映像は凄く楽しいし、今見ても興味深い。
(サディスティック・ミカ・バンド)
 1975年にミカと破綻した後で、8歳年上の安井かずみ(1939~1994)と結婚した。70年代を代表する伝説的な作詞家である。小柳ルミ子の「わたしの城下町」や沢田研二の「危険なふたり」などの他、僕にとってはアグネス・チャンの「草原の輝き」や天地真理の「ちいさな恋」を作詞した人。竹内まりやの「不思議なピーチパイ」は二人が作詞、作曲している。二人による『ヨーロッパ三部作』は今映画で聞いても驚くほど魅力的だ。二人は時代を象徴するファッショナブルなカップルとして有名にもなった。加藤は美食家で自ら料理も作った。それらの様子は生き生きとして楽しい。

 だが安井かずみはガンに冒され、1994年に55歳で早世したのである。Wikipediaを見ると、1995年にはオペラ歌手の中丸三千繪と結婚した。そのことは覚えていなかったが、2000年に離婚している。中丸は存命だが映画には出て来ない。加藤はその後も様々な分野で活動していた。フォークルやサディスティック・ミカ・バンド(ミカじゃなく木村カエラだけど)を期間限定で再結成したり、スーパー歌舞伎も『ヤマトタケル』など何作も手掛けた。映画音楽でも『探偵物語』など何本も担当し、中でも井筒和幸『パッチギ!』(2005)は評判になった。この映画で「イムジン河」に再び脚光が当たったのである。2009年に開かれたコンサートでは、「イムジン河」はアジアの「イマジン」と言っていた。
(証言する北山修)
 多くの人が映画内で証言を寄せているが、中でも北山修は何度も出て来る。北山修は当初からのフォークルメンバーである。精神科医になるため学業に専念するのが、フォークル解散の理由でもあった。そして実際に日本を代表する精神科医となり、特にカウンセリング論の大家である。「あの素晴らしい愛をもう一度」の他、「」「戦争を知らない子供たち」「白い色は恋人の色」などの忘れられない歌詞も書いた。エッセイ『戦争を知らない子供たち』は時代を象徴するベストセラーになった。

 その後もつかず離れず、時には音楽活動を共にしてきた友人が「自死」したのである。精神科医としても、友人としても、痛恨という言葉では語りきれないだろう。幾つか追悼文を書いているが、加藤和彦を語る時に北山修を抜かすことはできない。だから何度も出て来るわけだが、それでも語り切れた感じはしない。人間の生と死は、そうそう簡単にまとめきれるものではない。僕も書いているうちに、何だか「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」、「広い荒野にぽつんといるようで 涙が知らずにあふれてくるのさ」と口ずさんで悲しくなってきた。

 ところでこの前書いた代島治彦監督の『ゲバルトの杜』、その前作『きみが死んだあとに』が扱う60年代後半から70年代初頭は、ちょうど加藤和彦のフォークル、サディスティック・ミカ・バンド時代と重なっている。どっちがA面で、どっちがB面かはともかく、その両面を合わせ見ないとあの時代を理解出来ない。新左翼運動が高揚した同じ時に、「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたというのは、日本の大衆文化の健全さを示すものじゃないだろうか。(なお、大島渚監督の怪作映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルの若き三人の姿が留められている。)
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映画『ゲバルトの杜』、「内ゲバ」をいま振り返る意味

2024年06月10日 21時43分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 代島治彦(だいしま・はるひこ)監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ~』を見た。代島監督は『きみが死んだあとで』で60年代末の新左翼運動を取り上げた。その次に作ったのがこの作品で、題名を見れば判る人も多いと思うが、樋田毅彼は早稲田で死んだ』が扱った1972年の「川口君リンチ殺人事件」の映画である。これは「革マル派」の拠点校だった早稲田大学で、中核派活動家と疑われた学生・川口大三郎が学内でリンチされ死亡した事件である。事件経過や党派の説明は先の記事に譲り、映画を見て考えたことに絞りたい。

 ドキュメンタリー映画というと、対象人物(あるいは地域等)に長く密着取材して作られた映画が多い。今年の映画では『かづゑ的』(熊谷博子監督)や『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督)などが典型。しかし、代島監督の前作が扱った「山崎博昭君事件」もそうだが、もう半世紀以上も前の出来事である。探せば当時の映像もかなりあり、証言可能な関係者も多いのだが、昔の事件という根本的な問題がある。特に今回のテーマ「内ゲバ」(新左翼党派間の暴力)は、それを知らない世代にはなかなか通じないのではないか。そこで今回の映画では早稲田大学出身の鴻上尚史が演出した「再現ドラマ」が冒頭で出てくる。
(再現ドラマ)
 NHKの番組「チコチャンに叱られる」の「多分こうだったんじゃないか劇場」みたいなものである。いや、もちろん内容が内容だけにもっと大真面目に作られている。それは見ていて辛いものではあるが、若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)という超弩級の映画ほどではない。その映画は上映中に出て行ってしまう客が異様に多かったが、今回はそんな人はいなかった。(実際当時を生きていた自分にとっても、連合赤軍によるリンチ殺人事件の衝撃の方が大きかった。)

 当時の事件関係者は逮捕・起訴され有罪になっているし、監禁・リンチの実態もおおよそ判っているんだろう。そう思いつつも、この再現ドラマという手法には幾分かの違和感を覚えた。現在の若者に当時の状況を説明するために、池上彰氏が招かれて講義している。またオーディションの様子や「メイキング映像」も出て来て、盛りだくさんの134分である。(前作は200分とさらに長いが。)だが若い役者たちが何を感じたのか、この映画に出て何か変容があったのかは語られない。若者からの「当時と比べて何が変わったか」という質問に、池上氏は「教室の椅子や机が固定された」と答えている。しかし、本当にそれしか言わなかったのだろうか。『日本左翼史』シリーズではもっと触れていたと思う。深く考えるための「題材」を外した感もするのである。

 僕はこの映画は長すぎると思ったけど、多くの若い世代に見て欲しいとは思う。テーマからして、そんなに大ヒットする映画じゃないだろうが、樋田氏の本を読む人よりは、映画を見る人の方が多いだろう。それでは今「内ゲバ」を振り返る意味は何だろうか。僕は2つあると思っている。一つは「非暴力抵抗は可能か」という問題である。例えばウクライナに対して、ロシアとの全面戦争は犠牲が多くなりすぎるから、武装抵抗はするべきではないと主張する人もいる。そこから類推すると、もし中国が台湾に侵攻した場合も、台湾民衆は「非暴力抵抗」に徹するべきだと言う人も出て来ると思われる。それをどう考えたら良いのか?

 当時の早稲田大学では革マル派の暴力支配への反発が強まり、新しい自治会が結成された。しかし、大学は新自治会を公認せず、やがて革マル派は暴力的対抗策を取ってくる。他大学の革マル派勢力も動員して、新自治会派学生を狙い撃ちしたのである。それに対し、新自治会に結集した学生たちの中にも「武装」は避けられないと判断する人が多くなっていった。そして、他大学も巻き込む内ゲバの本格化の中で、非暴力抵抗は挫折するに至る。単に半世紀前の一大学のキャンパスで起きたことだが、現実の国際環境の中で本当に戦争が始まった場合も、「非暴力など夢のまた夢」となって軍拡競争になってしまうのだろうか。
(当時の運動)
 もう一つは「組織の恐ろしさ」である。こんな政治運動(左右を問わず)に参加しなければ、暴力事件を起こすことはない。そう思う人もいるだろうし、現実に多くの若者が政治から遠ざかってしまった。しかし、それでは済まなかった。企業の中にも、学校の中にも、「暴力の芽」はあった。思い込みによって組織が暴走するとき、「個人の良心」で抵抗できる人は少ない。「暴力」を単に政治党派間に問題に留めるのではなく、また「肉体的暴力」に限定するのではなく、人間が生きる時にどこでもぶつかる問題ととらえる必要がある。そう考えた時、この映画で本当に再現ドラマにすべきだったのは「教授会」の方ではないか。

 それは題材的に難しいのかもしれないが。それでも大学構内で起きた刑事事件なんだから、大学当局に責任がある。先に見た『正義の行方』(飯塚事件を扱った映画で、今もユーロスペースで上映中)に、一番肝心な裁判官や法務大臣(死刑執行を命じた)の証言が出て来ないように、この映画でも当時の革マル派関係者や大学関係者は出て来ない。まあ学生は二十歳前後だから存命だが、教授には存命の人がいないかもしれない。それにしても、当時は刑事裁判にはなったが、民事裁判にはならなかった。今ならほぼ確実に、遺族が大学当局の責任を問う裁判を超したのではないだろうか。あるいは革マル派に「組織責任」を問うこともあったかもしれない。多くの人もまだ「被害者支援」の大切さを実感していなかった時代だった。
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映画『碁盤斬り』、格調高い運命ドラマ、草彅剛が名演

2024年06月01日 21時58分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 『凶悪』『孤狼の血』などで知られる白石和彌監督の新作『碁盤斬り』は、最近の日本映画の中でも出色の出来だった。古典落語「柳田格之進」を基に話を発展させた白石監督初の時代劇。2時間を越えるが、常に緊張感が漂う画面が素晴らしい。草彅剛が演じる主人公柳田格之進に対し、敵役柴田兵庫斎藤工)が登場すると、人間を見つめるテーマ性がくっきりと浮かび上がってくる。このラスト近くの展開は落語にない部分らしい。脚本の加藤正人は自ら小説化(文春文庫)もしていて、貢献が大きい。

 柳田格之進はかつて彦根藩に仕えていたが、身に覚えのない罪を着せられ藩を追われた。妻も失い、今は江戸の裏長屋に娘お絹清原果耶)と暮らしている。その事情は後半になって明らかになるが、とにかく「冤罪被害者」でありながら卑屈にならず清廉潔白に生きている。碁が得意だが、碁を打つ時も真っ直ぐに碁を打つことを心がけ、賭け碁などはしない。草彅剛はこの主人公をまさに彷彿とさせる名演で、最初に見た時はその見事な生き方に敬愛の念を抱くだろう。同じように彼を敬愛したのが、質屋を営む萬屋源兵衛國村隼)だった。碁会所でふとしたことから知り合い、その高潔な碁風にひかれていったのである。
(格之進とお絹)
 裏長屋に浪人が娘とひっそり暮らすというのは、例えば2023年の『せかいのおきく』(阪本順治監督)と同じで、多くの時代劇に共通する定番設定だ。それなりの武士がそこまで落ちぶれるには、秘められた過去がある。そこは普通あまり突っ込んでは描かれないが、この映画では後半になってその部分に合ってくる。さて、格之進と源兵衛はよき碁友となり、月見の会に招かれることになる。この時萬屋で五十両が紛失するという事態が起き、格之進は部外者として疑いを掛けられる。武士に向かってあらぬ疑いを掛けるとは言語道断。同じ頃かつての冤罪の真相も判明し、父と娘は悲愴な決意をするのだが…。
(格之進と源兵衛)
 ところがこの辺りから、清廉な人格者と思っていた格之進の「もう一つの面」が見えてくる。あまりにも狷介(けんかい=頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと)で融通が効かない。もちろん支配階級である武士が「正しさ」を貫くのは当然ではあるが、柴田兵庫は後に格之進に向かって言う。「賄(まいない)は世の習い」で、収入の低い下級武士にはやむを得ぬ習慣だった。格之進がそれをいちいち取り上げて上訴したために、何人もの武士の妻子が苦しむことになったと。
(柴田兵庫)
 「柴田兵庫」という人物を創ったことで、運命ドラマは格段に深くなったと思う。ここではラストには触れないことにする。実はこの落語は名前を知ってはいたが、聞いたことがない。長い話なので、演目が公表されるホール落語じゃないと演じる機会が少ない。だから僕はラストは知らずに見たわけだが、知ってても同じように見入ったと思う。一応想定通りに落ち着くのだが、格之進はまだ腑に落ちなかったようだ。映画を見ていて「こういう人」は時々いるなあと僕は思った。格之進のように「正しい人」「義を貫ける人」である。間違ってはいないが周囲にあつれきを生むのである。どう対応すれば良いのだろう。
(白石和彌監督)
 白石和彌監督は2018、2019年など一年に3作品も監督していた。コロナ禍でペースが落ちたようだが、何だか久しぶりに見た気がする。初めての時代劇はどこにも破綻なく一気に見られる。当時の碁盤などは日本棋院が全面的に協力して古風を再現しているという。それも見事。碁を打つシーンが多いが、碁のルールを知らなくても見られる。それは和田誠監督『麻雀放浪記』(阿佐田徹也原作)と同様だ。(そう言えば、怪作『麻雀放浪記2020』の監督は白石和彌だった。)なんと言っても草彅剛が『ミッドナイトスワン』を越える名演だった。「狷介」ぶりを見事に演じていて見ごたえがある。
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映画『マイスモールランド』と『遠いところ』、これが日本という国

2024年05月27日 21時52分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 キネカ大森という映画館で「名画座」をやっている。3スクリーンある映画館の1つを「二本立て・自由席」にしているのである。今どき東京にもほとんどなくなったシステムである。そこで『遠いところ』(工藤将亮監督、2023、キネ旬29位)と『マイスモールランド』(川和田恵真監督、2022、キネ旬13位)をやっている(30日まで)。現時点でロードショー公開している映画じゃないけど、作られてから日が浅く内容的にも「新作」と考えて紹介しておきたい。

 どっちも見たいと思いつつ見逃した映画だった。キネマ旬報のベストテン号を見直したら、上記のような順位。つまりベストテンに入るほどの評価ではなかった。僕もその評価は大体同じで、弱いところもあると思った。しかし、社会的に貴重なテーマの「良心作」であり、「佳作」である。『マイスモールランド』から書くが、これは最近思わぬ形で一部で取り上げられている埼玉県川口市在住のクルド人をテーマにしている。父と3人の子で暮らしている(母は母国で死没)一家。主人公のチョーラク・サーリャ嵐莉菜)は、日本の高校に通う17歳の高校3年生。大学進学を目指していて、学校には友だちもいる。
(学校で)
 嵐莉菜(2004~)は優しい仕草に時々見せる鋭い眼差しが印象的。父はイラク、ロシアにルーツを持つ元イラン人(日本国籍)、母親は日本とドイツのハーフいう。本名はリナ・カーフィザデーだが、父親のアラシ・カーフィザデーから嵐という芸名にしてモデル活動をしている。この映画には実の父と妹、弟が同じ役で出演している。つまり出自的にはクルド人ではないわけだが、自分のアインデンティティに悩む生育歴を持つことは共通している。「ワールドカップでどこを応援するのと聞かれ、ホントは日本と答えたかったけど、いけないのかと思ってドイツって答えた」というセリフがあるが、実体験をセリフに取り入れたという。
(一家でラーメンを食べに行く)
 サーリャは小学校の教員が親切に対応してくれて、日本語も早く使えるようになった。一番年長だからクルド語も使えて、周囲の大人の通訳として重宝がられている。学校でも地域でも家庭でも良い子で、頑張ってきた。大学へ行きたいとコンビニでアルバイトを始めたが、それは川を渡った東京の店だった。そこで崎山聡太奥平大兼)というボーイフレンドも出来て充実した日々は突然暗転する。父親の難民申請が却下され、「仮放免」となったのである。働くことは出来ず、埼玉県以外に出るには許可がいる。ビザが不安定なので、大学への推薦もダメになる。それでも秘かに働いていた父親は、見つかって入管に収容されてしまう。
(難民申請が却下される)
 父親がいなくなり家賃を払うお金にも困ってくる。「パパ活」している同級生もいて、つい心も揺れる。そんな中、父親はある決断をするのだが…。映画は最後まで描かないけど、この一家は一体どうなったんだろう? 楽観的な見通しを安易に語ることは出来ない。クルド人の文化、あるいはムスリムの風習などがきめ細かく描かれ興味深い。川和田恵真監督(1991~)はイギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、主人公のような悩みを抱いてきたという。2017年から企画された映画で、自ら小説化もしている。主人公がちょっと出来過ぎという気もするが、嵐莉菜の魅力を引き出す設定だ。

 もう一本の『遠いところ』は、沖縄の貧困問題を描いている。ホームページから引用すると、「一人当たりの県民所得が全国で最下位。子ども(17歳以下)の相対的貧困率は28.9%であり、非正規労働者の割合や、ひとり親世帯(母子・父子世帯)の比率でも全国1位(2022年5月公表「沖縄子ども調査」)。さらに、若年層(19歳以下)の出産率でも全国1位」という沖縄県。コザに住む新垣あおい花瀬琴音)は17歳ですでに2歳の子がいる。夫は働きたがらず、暴力も振るう。キャバクラで働いて生計を立てているが、未成年を雇っているとして警察に摘発されてしまう。自分の父は頼れず、母もいない。時々子どもを預ける祖母もいい顔をしない。
(「夜の街」で生きる)
 そうなると、さらに直接「フーゾク」で身を売る以外に道はあるのだろうか。そうして子どもを一人で放っていると、匿名で通報されてしまう。これでもか、これでもかと負の連鎖にはまるあおい。二人の出会いが描かれないが、どうしてこんな男と一緒にいるんだろう。定番的設定だが、「妻子」がいるのに働く気がない男。親になるには早すぎたのか。工藤将亮監督(1983~)は多くの監督の下で助監督を務め、『アイム・クレージー』『未曾有』に続く長編第3作だという。現実を提示するだけで、解決の方向性が見えないドラマだが、それが現実の日本ということだろう。

 『遠いところ』の花瀬心音は2002年生まれなので、撮影時20歳を越えていただろう。飲酒喫煙シーンもあるし、あからさまなセックスシーンもあるから、今は20歳以下では難しい。そのため学校で見せるわけにはいかない映画だが、『マイスモールランド』は学校で鑑賞するのに相応しい。もっとも「何でサーリャがこんな目に合うのか」と質問されても教員が困ってしまうだろうが。それに両作とも、「世の中はお金」であり「手っ取り早くお金を得るのはフーゾク」という「日本社会の現実」が描かれている。これが日本という国なのだ。
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濱口竜介監督『悪は存在しない』、ヴェネツィア銀獅子賞の評価は…

2024年05月14日 21時42分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 『ドライブ・マイ・カー』で世界的に評価された濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』(Evil Does Not Exist)。2023年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品である。この受賞で濱口監督は世界三大映画祭と米国アカデミー賞すべてで受賞したことになった。『ハッピーアワー』(317分)、『ドライブ・マイ・カー』(179分)など長大な映画を作ることで知られる濱口監督だが、今度の映画は106分とずいぶん短い。長い映画が多くなってしまった現在では、むしろ少し長い中編の味わいである。だけど正直言えば、ラストの着地点の解釈が難しい。全く理解不能と言っても良い。

 この映画は非常に魅力的だと思う。退屈だという評もあるようだが、僕は退屈さは感じなかった。自然描写の美しさに圧倒された思いがする。だけど、どこか変だなとも思う。環境映像じゃなくて一応劇映画なんだから、自然描写的なシーンが余りにも長すぎてはおかしい。映画で人物同士の絡み合うドラマティックなシーンばかりでは見る者の緊張がほぐれない。小津の映画では銀座(だ思うけど)のバーの看板などをただ映すシーンが合間合間に挟まれて、絶妙なリズムを作っている。だけど『悪は存在しない』の風景シーンは異様に長い。しかも真下から木々を見上げた映像など抽象美の映像である。何だろう、これは?
(巧と花親子)
 一応ストーリーらしきものをコピーして紹介しておく。「長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」「水挽町」は架空で、おおよそ長野県の富士見町、原村などでロケされたという。長野県の自然を背景に、「グランピング場」をめぐる地域の葛藤が一応主筋。
(芸能事務所のメンバーと巧)
 いろんな人が出て来るけど、結局村で「便利屋」をしているという安村巧と花という親子が中心になってくる。知っている俳優は一人も出て来ない。監督恒例の「棒読み」なのか、シロウトを使っているのか、それこそ村人のリアルなのか判らないけど、ところどころ聞き取れないぐらいの小声で人間関係も良く理解できない。そして巧はよく忘れる。花を迎えに行く時間を失念していることが多いし、グランピング場説明会に対し地元で事前に相談する日も忘れている。『ハッピーアワー』のワークショップ、『ドライブ・マイ・カー』の下読みの場面が面白かったように、今回の映画でもグランピング場建設説明会の場面が非常に面白い。
(ヴェネツィア国際映画祭で)
 その説明会終了後に建設企画会社の内部事情が描かれる。このようにして、グランピング場建設をめぐる「自然保護」という社会問題を描く映画なのだろうか。そんな展開になりそうな最終盤に、映画は突然不吉な方向に向かって転回し、何が起こっているのか判らないラストを迎える。果たして「悪は存在しない」という題名の意味は何だろう? ラストは「自然」の「悪意」ということか。いや、それでは「悪が存在する」ことになってしまう。あるいは人間同士には「悪は存在しない」が、「自然」はただ存在するだけということか。ラストを細かく書くことは控えたいが、ラストが理解不能で評価するのが難しい。それでも十分美しく、見る価値がある魅力的な映画だと思う。
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映画『正義の行方』、飯塚事件の真実を探る迫真作

2024年05月09日 22時02分40秒 | 映画 (新作日本映画)
 『死刑台のメロディ』を見たから、次に見るべきは『正義の行方』だ。渋谷のユーロスペースで上映している記録映画。もともとはNHKのBS1スペシャルで2022年に放映された「正義の行方~飯塚事件30年後の迷宮~」である。(文化庁芸術祭大賞ギャラクシー賞選奨受賞。)監督の木寺一孝(1965~)は、劇場公開された『“樹木希林”を生きる』(2019)の監督だった人。2023年にNHKを退職し、満を持して放つ超問題作。158分もある長い映画だが、全く時間を感じさせない。

 この映画は1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された事件飯塚事件)を扱っている。2年後に久間三千年(くま・みちとし)が逮捕され、一切の供述を拒んだが「状況証拠」の積み重ねで起訴された。被告・弁護側は無実を主張したが、1995年に福岡地裁で死刑判決が出され、福岡高裁でも維持、2006年9月に最高裁で確定した。そして2008年10月28日に死刑を執行された。その後、DNA鑑定や目撃証言の証拠価値を否定する新証拠をもとに再審請求を行った。再審請求は2014年3月に棄却され、2021年に最高裁で確定した。この棄却決定はDNA鑑定の価値を否定しながら、それ以外の証拠で有罪が維持出来るとしたものだった。
(木寺一孝監督)
 この映画は「冤罪」を扱う記録映画として、かつてなく深い取材を積み重ねている。ちょっと信じられないぐらい、捜査に加わった元警察官が取材に応じている。再審請求中の事件をテーマにした取材に捜査側が応じることは珍しい。それはNHKの力もあるかもしれないが、恐らく「死刑執行後の再審請求」は絶対に認められないとする当局の意向があるのではないか。いつもなら公務員の守秘義務をタテに沈黙する元捜査官たちが、皆一生懸命になって捜査の正しさ、有罪判決の正しさを力説している。これは本気でそう思い込んでいるんだろう。死刑判決を聞いて日本の司法に正義が生きていたと感動しているぐらいだ。
(取材に応じる元捜査官)
 事件捜査が時系列に沿って描かれているため、前半は捜査官や新聞記者の証言が多い。そのため有罪寄りの心証になるかもしれないが、後半は再審弁護団に密着することが多く疑問だらけの捜査だった印象になる。実は警官の中には直接証拠や自白は得られなかったが、「4つの状況証拠」(DNA型鑑定、目撃証言、血痕鑑定、繊維鑑定)が合わさって有罪の証拠価値は十分だと力説した人がいた。しかし、再審棄却決定ではDNA型鑑定の価値が否定された。だから、本来有罪の証拠は瓦解するはずだが、今度はDNA抜きでも有罪は揺るがないとなる。車の目撃証言も誘導の疑いが濃い。

 また地元紙の西日本新聞の記者が語っていることも非常に興味深い。同紙の記者は早くから久間氏が容疑者として目を付けられていることをつかみ、地元紙として他紙に抜かれたくないと積極的に有罪方向の記事を書いた。そのため取材の中心にいた記者は、死刑判決や再審棄却決定に対して「正直ホッとした」という感想を抱くまでになった。それは正直とも言えるけど、マスコミの対応として間違いだろう。DNA型鑑定を「有力証拠」と書いた記事を他紙に先んじて書いたが、その記事を取り消したのだろうか。後になって西日本新聞は飯塚事件の再検証を行い、それに携わった記者が最後に語ることが僕には納得出来るものだった。
(遺体発見現場近くの山道) 
 実は同じ地域で2年前にも女児行方不明事件が起こり、久間氏は「最後に見た人物」(自分の子どもの遊び友だちの妹だった)として疑われた過去があった。それだけで疑うのもどうかと思うが、捜査官によれば「(久間は)ジキルとハイド」だという。そう決めつければ、どんな人でも恐るべき少女殺害犯になり得る。その時は逮捕出来なかったが、2年後の事件で当初から警察は「見込み捜査」を行ったと考えられる。警察は久間氏の車を知ってから、車の目撃証言を調書にした。逮捕後には庭を掘り返したが、それは2年前の少女の遺体が見つかると踏んだのである。しかし出なかったので、ポリグラフの結果として捜索を行い「2年前の女児の服を見つけた」。(しかし、それは数年間雨風にさらされたとは思えないものだったという。)

 この映画の中で何人かの人々が「真実を知りたい」という。僕もまあ知れるなら知りたいとは思うけど、実は裁判は真実を知るための制度ではない。もう時間も経って新しいDNA鑑定も(足利事件や東電OL事件などのように)実施出来ない。そのことを誰もが知っていて、「真実が知りたい」というのはおかしい。刑事裁判の原則(再審でも同様)は「疑わしきは被告人の利益に」である。「状況証拠」が怪しげな物だと判明した現時点で、有罪の原判決を維持するのは正義に反する。そう僕は思うけれど、元警察官は「その後事件が起きてないのは久間が真犯人の証明」と語る。こういう発想は冤罪を作るものだ。

 もう一点、この事件は死刑制度の恐ろしさをまざまざと示している。「有罪か無罪か判断出来ない」では困る。100%の確率で検察側が有罪を立証出来なかったら、その事件は無罪にならなくてはならない。「51対49」ではマズいのだ。しかも死刑判決である。執行されてしまって、取り返しが付かない。布川事件、足利事件、東電OL事件、東大阪事件などの冤罪も恐ろしいが、無期懲役だったから再審で無罪になって自由の身となれた。世界にはイギリスのように「死刑執行の冤罪」発覚が死刑廃止のきっかけになった国もある。(逆に考えれば、死刑制度廃止の声が高まらないために、どんな新証拠があっても日本の裁判所は再審請求を棄却する可能性がある。)この映画は非常に多くの人に取材しているが、もう一人死刑執行を命じた森英介元法相の考えも聞きたいと思った。
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