アントン・チェーホフ(1860~1904)のいわゆる「4大戯曲」をまとめて読み直した。「かもめ」(1896)、「ワーニャおじさん」(1899)、「三人姉妹」(1901)、「桜の園」(1904)である。読んだのは松下裕が個人で全訳したちくま文庫版全集である。僕はこの全集12巻を全部持っているが、ずっと読んでなかった。奥付を見ると、1993年に出ている。もう30年近く経っているのかと我ながらビックリした。もう読まずに死ぬのかと思っていたぐらいである。
今度読んだのは、渋谷のBunkamuraシアターコクーンで、4月に「桜の園」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本、演出)が上演されるからだ。もっとも僕はそのチケットを持ってない。チケットぴあで事前に買うとシステム利用料が高いから、一般向け前売り券を買うつもりだったが1時間で完売していた。さすがに大竹しのぶ、宮沢りえ、黒木華、杉咲花の超豪華キャストを甘く見てしまった。コクーンは何度か当日券で見てるが、なんと当日券取りやめで、客も皆マスク着用なんだという。果たして上演できるんだろうか。(「非常事態宣言」発令とともに、結局全公演の中止が発表された。)
それはともかく、僕は昔からチェーホフが大好きで、講談社の世界文学全集で2巻もあるのを昔読んだ。だから主要短編も読んでるわけだが、大分忘れてしまった。中でも「桜の園」が好きだった。多分中学生の時に学校で販売した旺文社文庫に入ってたのが最初だと思うが、若い時にはよく判らなかった。いわゆる「劇的」じゃないので、シェークスピアに比べて面白さが判らない。舞台を見ても同じで、裏で起こってるドラマがなかなか身近に感じ取れなかった。しかし、旧ソ連で作られたチェーホフ原作の映画を何本か見るうちに、何となく伝わってきたのである。
(チェーホフ)
帝政ロシア末期の絶望が、現代ソ連社会の閉塞に通じていることが気分で伝わってくる。それはつまり「現代日本の閉塞状況」を通して僕はチェーホフを読むということである。もがいても何も変わらなかったロシア、理想を求めても何も成し遂げられなかった我が人生。この気分は全くよく判る。自分の気持ちを書いてくれているとさえ思う。しかし、それは「悲劇」でない。チェーホフは一見悲劇としか思えない「かもめ」と「桜の園」に「四幕の喜劇」と名付けた。(「ワーニャおじさん」は「四幕の、田舎住まいの劇」、「三人姉妹」は「四幕のドラマ」とされている。)
それが僕はなかなか判らなかった。僕だけでなく、ロシアでも演出家のスタニスラフスキーは「真面目な劇」ととらえたという。「かもめ」を再演し、残りの3つの劇を初演した「モスクワ芸術座」でも、代々長らく「悲劇」として演じられてきたと思う。70年代以後、チェーホフは「桜の園」を「喜劇」と書いてるじゃないかと新しい演出が出てきた。その意味がようやく僕にも感じ取れてきた。それはただ面白く可笑しいというだけの「喜劇」ではない。ある意味で「神の目」で見た時の人間コメディである。人生、思ったようにはいかない。皆がジタバタしている。誰かが誰かを好きになるが、その相手は別の誰かが好きだったり。その人には「悲劇」だが、世界全体からすれば「喜劇」じゃないかという乾いた認識。
そして「人生は度しがたい」、「自分の一生はムダだった」と苦い思いを飲み込みながら、「それでも生き抜いて行くのだ」と前を向いて生きる。それが「ワーニャおじさん」や「三人姉妹」だ。年取ってから読んだ方がずっと深みを感じられる。「かもめ」は若いなという感じがして、それが魅力。そして最後の「桜の園」は「おかしさに彩られた悲しみのバラード」(原将人監督が18歳で作った自主映画の題名)として完成されている。やっぱり大竹しのぶのラネーフスカヤ夫人は見てみたいな。
それぞれの戯曲の筋書きなどは書かない。すぐに調べられるし翻訳も文庫ですぐ買える。それぞれを論じる必要はない。ウイルス禍を生きる我々にも、どんな時代のどんな世界の人々にも、読んで意味があると思う作品だ。ところで、改めて思ったのは、「桜の園」以外の三作品はいずれも「銃弾」が重大な役割を果たしていることだ。確かにプーシキンやレールモントフを決闘で失ったロシアだけのことはあるが、男がそれほど銃を持っている社会だったことに驚く。またト書きに「手にキス」という指定が多くて、それも驚いた。普段なら読み過ごすと思うが、今ではこれじゃヨーロッパで感染が広がるなと思ってしまった。頑張って、今後も月一冊ぐらいは続けてチェーホフを読んでみようと思う。
今度読んだのは、渋谷のBunkamuraシアターコクーンで、4月に「桜の園」(ケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本、演出)が上演されるからだ。もっとも僕はそのチケットを持ってない。チケットぴあで事前に買うとシステム利用料が高いから、一般向け前売り券を買うつもりだったが1時間で完売していた。さすがに大竹しのぶ、宮沢りえ、黒木華、杉咲花の超豪華キャストを甘く見てしまった。コクーンは何度か当日券で見てるが、なんと当日券取りやめで、客も皆マスク着用なんだという。果たして上演できるんだろうか。(「非常事態宣言」発令とともに、結局全公演の中止が発表された。)
それはともかく、僕は昔からチェーホフが大好きで、講談社の世界文学全集で2巻もあるのを昔読んだ。だから主要短編も読んでるわけだが、大分忘れてしまった。中でも「桜の園」が好きだった。多分中学生の時に学校で販売した旺文社文庫に入ってたのが最初だと思うが、若い時にはよく判らなかった。いわゆる「劇的」じゃないので、シェークスピアに比べて面白さが判らない。舞台を見ても同じで、裏で起こってるドラマがなかなか身近に感じ取れなかった。しかし、旧ソ連で作られたチェーホフ原作の映画を何本か見るうちに、何となく伝わってきたのである。
(チェーホフ)
帝政ロシア末期の絶望が、現代ソ連社会の閉塞に通じていることが気分で伝わってくる。それはつまり「現代日本の閉塞状況」を通して僕はチェーホフを読むということである。もがいても何も変わらなかったロシア、理想を求めても何も成し遂げられなかった我が人生。この気分は全くよく判る。自分の気持ちを書いてくれているとさえ思う。しかし、それは「悲劇」でない。チェーホフは一見悲劇としか思えない「かもめ」と「桜の園」に「四幕の喜劇」と名付けた。(「ワーニャおじさん」は「四幕の、田舎住まいの劇」、「三人姉妹」は「四幕のドラマ」とされている。)
それが僕はなかなか判らなかった。僕だけでなく、ロシアでも演出家のスタニスラフスキーは「真面目な劇」ととらえたという。「かもめ」を再演し、残りの3つの劇を初演した「モスクワ芸術座」でも、代々長らく「悲劇」として演じられてきたと思う。70年代以後、チェーホフは「桜の園」を「喜劇」と書いてるじゃないかと新しい演出が出てきた。その意味がようやく僕にも感じ取れてきた。それはただ面白く可笑しいというだけの「喜劇」ではない。ある意味で「神の目」で見た時の人間コメディである。人生、思ったようにはいかない。皆がジタバタしている。誰かが誰かを好きになるが、その相手は別の誰かが好きだったり。その人には「悲劇」だが、世界全体からすれば「喜劇」じゃないかという乾いた認識。
そして「人生は度しがたい」、「自分の一生はムダだった」と苦い思いを飲み込みながら、「それでも生き抜いて行くのだ」と前を向いて生きる。それが「ワーニャおじさん」や「三人姉妹」だ。年取ってから読んだ方がずっと深みを感じられる。「かもめ」は若いなという感じがして、それが魅力。そして最後の「桜の園」は「おかしさに彩られた悲しみのバラード」(原将人監督が18歳で作った自主映画の題名)として完成されている。やっぱり大竹しのぶのラネーフスカヤ夫人は見てみたいな。
それぞれの戯曲の筋書きなどは書かない。すぐに調べられるし翻訳も文庫ですぐ買える。それぞれを論じる必要はない。ウイルス禍を生きる我々にも、どんな時代のどんな世界の人々にも、読んで意味があると思う作品だ。ところで、改めて思ったのは、「桜の園」以外の三作品はいずれも「銃弾」が重大な役割を果たしていることだ。確かにプーシキンやレールモントフを決闘で失ったロシアだけのことはあるが、男がそれほど銃を持っている社会だったことに驚く。またト書きに「手にキス」という指定が多くて、それも驚いた。普段なら読み過ごすと思うが、今ではこれじゃヨーロッパで感染が広がるなと思ってしまった。頑張って、今後も月一冊ぐらいは続けてチェーホフを読んでみようと思う。