間が飛んだけど、「ライブ」を見て欲しいという話で、特に「演劇」の話。演劇といっても幅広いけど、伝統演劇でも新劇でも宝塚でもミュージカルでも、とりあえずはなんでもいい。「生の舞台で人間がドラマを演じる」というのを、若いときから一年に何度か経験しておいて欲しいなあという希望である。いや、大人になっても芝居や映画に行くというのはとてもいいと思う。そういう文化体験が日本の大人の世界に少なすぎる。まあ、長時間労働と遠すぎる遠距離通勤では、とても演劇やコンサートに行けない。フランス映画なんか見てると、夜になってからみんなで劇場へ行ってオペラを見て、そのあと食べて飲んだりしてるけど、どうしてそんなことができるのか。職住接近だということだろう。でもこのままでは日本の政治や経済もさらに貧しくなってしまうだろう。
僕が生の演劇を特に見て欲しいと思うのは、教育や福祉に関心がある若い人。人間は正しいことを言ってれば必ず相手に伝わるということはない。もちろん正しいことを言って伝わる場合もある。その方が多い。一般的には、「いじめはいけない。いじめがあったら先生に相談しなさい」で通じる。でも肝心のいじめられている生徒、いじめている生徒に向かって、そういう「正論」を言っても通じないだろうということはわかると思う。「正しいことを言ってるのに通じない」のではなく、「正しいことを言ってるから通じない」ということも多い。そういう時に押してもダメだから、引いたり、いなしたりして態勢を立て直さないといけない。人間相手の仕事は毎日がドラマ。だから、生のドラマを見て感覚をつかんでおくのが大切なんだろうと思う。「ドラマ感覚」を感じられる身体。これが第一。
次にコンサートや演劇を見ると、「皆の心をつかむ力」がすごい。まあ、こっちも金払ってるんだから値段分の芸は見せてもらおうというつもりで見てる。教室の生徒は「放っといて寝かせておいてくれ」とか思って教室にいたりする。そういう時は歌手や俳優でも難しいだろう。いや歌ではなく、その歌手が授業をしたらどうかという話だけど。だけど、皆の心をつかんで、圧倒的な感動に盛り上げていくそのテクニック、自分にも欲しいなあと思わないではいられない。別に見てるだけでテクニックが向上するわけではないので、変な期待はせずにただ楽しんでいる方がいい。受けたギャグや小話を自分で披露しても、そういうのは大体すべるに決まってる。でもそういう「ライブ体験」を重ねると、何となく「場のつかみ方」がうまくなるのではないか。少なくともマイナスにはならない。これが第二。
「人間を見る目を深くする」という意味では、小説でも映画でもいいから、いろいろな人間ドラマに触れることが役立つと思う。自分と違う境遇の人間、例えば難病で学ぶことも困難な生活を送っている10代の少年、あるいはアフリカで内戦に巻き込まれ兵士にされた少年…、そういう人も世界にはいるわけだけど、そのことを知ってるだけで力になる。でも目の前にいる生身の人間を理解するのは大変。そのためには「生身の人間の演じるドラマ」を見てる方が役立つ。テレビや映画でもいいとは思うけど、実際に生身の人間が演じる迫力の方がすごいのは当然である。その意味では、歌舞伎やミュージカルより、人間ドラマを見ておくことが大事だろう。これが第三。
そして最後に、発声や「立つこと」そのものを意識する必要性のために。時には生徒に声が届かない教師というのがいるものだが、はっきり言って困ったもんだ。教職課程に「ヴォイス・トレーニング」や「演劇レッスン」を取り入れていく必要がある。そして人類は「立つ」ことで人類となった。動物が重力に逆らって立つという難しい作業を意識していないといけない。そういう人間の「所作」はなかなか自分で意識できないが、ダンス、日本舞踊などを見たり(自分でもやったり)、演劇を見ることで意識が格段に高まる。それが教育、福祉、医療などの対象の「身体のゆがみ」を見えやすくする。そういう身体性への意識を高め、自分のゆがみを自覚できるようにする。これが第四。
僕が考える「演劇を見ておいた方がいい理由」は大体以上である。要するに「楽しいから見ればいい」わけだけど、「人間相手の仕事」なら「人間が演じるドラマを見た体験」が多いほど深い所で役に立つに決まってる。大事なのは、その人の表面ではなく、身体の深い所が発しているメッセージを感じ取れるかどうかである。
僕は元々小説や映画が好きだった。元々というのは、高校生までの間にという意味。演劇を見たのはひまとカネの問題で、大学生になってから。(自分のカネを出してプロを見たという意味。)最初に見た場所は新宿紀伊國屋書店4階の「紀伊國屋ホール」ではなかろうか、と。もう覚えていないんだけど。下北沢の本多劇場や池袋の東京芸術劇場なんかなかったし、当然紀伊國屋サザンシアターや新国立劇場、世田谷パブリックシアターなんかはない。だから紀伊國屋しかありえないんだけど、まあどこかのテントが最初だったかもしれない。一番感動したのは、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」という宮沢賢治の評伝ドラマである。評伝ドラマの第一作「しみじみ日本・乃木大将」も見てるけど、宮沢賢治が好きだからかもしれないけど、「イーハトーボの劇列車」の感動は大きかった。この劇には「思い残し切符」というものが出てきて、早く死んだ人の「切符」が受け継がれていく。この発想は今でも僕の深い所に残っている。以後、亡くなるまで井上ひさしの新作を何度見たことか。多作だし、全部は行ってないけど、相当見た。なんという豊饒で深い世界だったことだろう。
そういう劇作家、あるいは映画監督や小説家がいるだけで、ずいぶん自分の世界は広がった感じがする。日本の多くの人が、同時代の知的な共有物として演劇の世界があるといいなあと思う。きっかけは何でもいいけど、口コミか新聞の劇評。でも評判になった時点でチケット売り切れのことが最近は多い。WEBサイトで見ると、当日券があるか、あるいは「チケットぴあ」なんかは売り切れでも劇団に残っていることもある。そういう情報をつかむことも大事だろう。一度行って良かったら、アンケートに今後のチラシ希望と書いてくれば、以後の案内が送られてくる。それで見たいものがあったら、事前に入手できる。しかし、値段が高い。いいところは特に高い。映画は大人一般1,800円。1日4回か5回はやるから、一つの席で8,000円くらいになる。一日1回の公演の演劇では、映画数回分の値段を取らないととてもやってられない。すごい舞台装置を見たりすると、この値段では大変だろうという演劇が圧倒的に多い。公的支援がもっとないとやっていけないだろう。だから高いのは仕方ないけど、安いチケットの公演日もあるし、いろいろ工夫しながら見るわけ。でも去年玉三郎の舞踊公演を劇場の一番上で見たら、小さくて(双眼鏡は持って行ったけど)何だかわからなかった。
ま、それはともかく、歌舞伎や文楽を一回も見ずに教師になっていいのか、ぐらいは言ってもいいかなと思うんだけど。東京都なんか「日本の伝統」なんて言うんだから、夏休みに教師向け研修で歌舞伎を見せてもいいくらいだ。判るとか判らないではなく、経験しておくということ。それはプロ野球やJリーグや大相撲なんかでも同じかもしれないが、伝統演劇こそある程度強く言わないと見ないで終わる可能性が高い。で、「ドラマ体験」を若い人には是非しておいて欲しいという次第。
僕が生の演劇を特に見て欲しいと思うのは、教育や福祉に関心がある若い人。人間は正しいことを言ってれば必ず相手に伝わるということはない。もちろん正しいことを言って伝わる場合もある。その方が多い。一般的には、「いじめはいけない。いじめがあったら先生に相談しなさい」で通じる。でも肝心のいじめられている生徒、いじめている生徒に向かって、そういう「正論」を言っても通じないだろうということはわかると思う。「正しいことを言ってるのに通じない」のではなく、「正しいことを言ってるから通じない」ということも多い。そういう時に押してもダメだから、引いたり、いなしたりして態勢を立て直さないといけない。人間相手の仕事は毎日がドラマ。だから、生のドラマを見て感覚をつかんでおくのが大切なんだろうと思う。「ドラマ感覚」を感じられる身体。これが第一。
次にコンサートや演劇を見ると、「皆の心をつかむ力」がすごい。まあ、こっちも金払ってるんだから値段分の芸は見せてもらおうというつもりで見てる。教室の生徒は「放っといて寝かせておいてくれ」とか思って教室にいたりする。そういう時は歌手や俳優でも難しいだろう。いや歌ではなく、その歌手が授業をしたらどうかという話だけど。だけど、皆の心をつかんで、圧倒的な感動に盛り上げていくそのテクニック、自分にも欲しいなあと思わないではいられない。別に見てるだけでテクニックが向上するわけではないので、変な期待はせずにただ楽しんでいる方がいい。受けたギャグや小話を自分で披露しても、そういうのは大体すべるに決まってる。でもそういう「ライブ体験」を重ねると、何となく「場のつかみ方」がうまくなるのではないか。少なくともマイナスにはならない。これが第二。
「人間を見る目を深くする」という意味では、小説でも映画でもいいから、いろいろな人間ドラマに触れることが役立つと思う。自分と違う境遇の人間、例えば難病で学ぶことも困難な生活を送っている10代の少年、あるいはアフリカで内戦に巻き込まれ兵士にされた少年…、そういう人も世界にはいるわけだけど、そのことを知ってるだけで力になる。でも目の前にいる生身の人間を理解するのは大変。そのためには「生身の人間の演じるドラマ」を見てる方が役立つ。テレビや映画でもいいとは思うけど、実際に生身の人間が演じる迫力の方がすごいのは当然である。その意味では、歌舞伎やミュージカルより、人間ドラマを見ておくことが大事だろう。これが第三。
そして最後に、発声や「立つこと」そのものを意識する必要性のために。時には生徒に声が届かない教師というのがいるものだが、はっきり言って困ったもんだ。教職課程に「ヴォイス・トレーニング」や「演劇レッスン」を取り入れていく必要がある。そして人類は「立つ」ことで人類となった。動物が重力に逆らって立つという難しい作業を意識していないといけない。そういう人間の「所作」はなかなか自分で意識できないが、ダンス、日本舞踊などを見たり(自分でもやったり)、演劇を見ることで意識が格段に高まる。それが教育、福祉、医療などの対象の「身体のゆがみ」を見えやすくする。そういう身体性への意識を高め、自分のゆがみを自覚できるようにする。これが第四。
僕が考える「演劇を見ておいた方がいい理由」は大体以上である。要するに「楽しいから見ればいい」わけだけど、「人間相手の仕事」なら「人間が演じるドラマを見た体験」が多いほど深い所で役に立つに決まってる。大事なのは、その人の表面ではなく、身体の深い所が発しているメッセージを感じ取れるかどうかである。
僕は元々小説や映画が好きだった。元々というのは、高校生までの間にという意味。演劇を見たのはひまとカネの問題で、大学生になってから。(自分のカネを出してプロを見たという意味。)最初に見た場所は新宿紀伊國屋書店4階の「紀伊國屋ホール」ではなかろうか、と。もう覚えていないんだけど。下北沢の本多劇場や池袋の東京芸術劇場なんかなかったし、当然紀伊國屋サザンシアターや新国立劇場、世田谷パブリックシアターなんかはない。だから紀伊國屋しかありえないんだけど、まあどこかのテントが最初だったかもしれない。一番感動したのは、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」という宮沢賢治の評伝ドラマである。評伝ドラマの第一作「しみじみ日本・乃木大将」も見てるけど、宮沢賢治が好きだからかもしれないけど、「イーハトーボの劇列車」の感動は大きかった。この劇には「思い残し切符」というものが出てきて、早く死んだ人の「切符」が受け継がれていく。この発想は今でも僕の深い所に残っている。以後、亡くなるまで井上ひさしの新作を何度見たことか。多作だし、全部は行ってないけど、相当見た。なんという豊饒で深い世界だったことだろう。
そういう劇作家、あるいは映画監督や小説家がいるだけで、ずいぶん自分の世界は広がった感じがする。日本の多くの人が、同時代の知的な共有物として演劇の世界があるといいなあと思う。きっかけは何でもいいけど、口コミか新聞の劇評。でも評判になった時点でチケット売り切れのことが最近は多い。WEBサイトで見ると、当日券があるか、あるいは「チケットぴあ」なんかは売り切れでも劇団に残っていることもある。そういう情報をつかむことも大事だろう。一度行って良かったら、アンケートに今後のチラシ希望と書いてくれば、以後の案内が送られてくる。それで見たいものがあったら、事前に入手できる。しかし、値段が高い。いいところは特に高い。映画は大人一般1,800円。1日4回か5回はやるから、一つの席で8,000円くらいになる。一日1回の公演の演劇では、映画数回分の値段を取らないととてもやってられない。すごい舞台装置を見たりすると、この値段では大変だろうという演劇が圧倒的に多い。公的支援がもっとないとやっていけないだろう。だから高いのは仕方ないけど、安いチケットの公演日もあるし、いろいろ工夫しながら見るわけ。でも去年玉三郎の舞踊公演を劇場の一番上で見たら、小さくて(双眼鏡は持って行ったけど)何だかわからなかった。
ま、それはともかく、歌舞伎や文楽を一回も見ずに教師になっていいのか、ぐらいは言ってもいいかなと思うんだけど。東京都なんか「日本の伝統」なんて言うんだから、夏休みに教師向け研修で歌舞伎を見せてもいいくらいだ。判るとか判らないではなく、経験しておくということ。それはプロ野球やJリーグや大相撲なんかでも同じかもしれないが、伝統演劇こそある程度強く言わないと見ないで終わる可能性が高い。で、「ドラマ体験」を若い人には是非しておいて欲しいという次第。