尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アスガー・ファルハディの映画-現代アジアの監督③

2015年02月28日 00時24分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画の監督シリーズ、3人目はイランアスガ-・ファルハディ監督(1972~)である。今回上映される7人の監督の中で、以前に見てるのは3人。香港のアン・ホイ、インドのマニラトラムと今回書くファルハディ。名前が覚えにくいかもしれないが、アカデミー賞外国語映画賞、ベルリン映画祭金熊賞を取り、2012年のキネマ旬報ベストテン2位に選ばれた「別離」(2011)の監督だと言えば、思い出す人もあるだろう。その前の「彼女が消えた浜辺」(2009)もベルリン映画祭銀熊賞を取り、最新の「ある過去の行方」(2013)はカンヌ映画祭で女優賞(「アーティスト」のベレニス・ベジョが演じた)と、近年世界でもっとも活躍が目立つ監督のひとりである。「ある過去の行方」はパリで撮影されているが、他の作品はイランの首都テヘランが舞台。

 イラン映画と言えば、90年代以後ずいぶん日本でも公開された。巨匠アッバス・キアロスタミモフセン・マフバルドフを中心に、クルド系のバフマン・ゴバディや映画撮影禁止処分を受けながらも今年のベルリン映画祭金熊賞作品を作ったジャファル・パナヒなど何人もの監督が思い浮かぶ。初めは「子ども映画」が多く、イスラム体制の厳しい検閲を逃れるため児童映画の枠組みで作っていると言われていた。キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」やマジッド・マジディ「運動靴と赤い金魚」などキネ旬ベストテンに入選している。その後、女性の不自由な境遇や辺境の人々を描く映画も公開された。でも、ファルハディの映画を見ると、今までのイラン映画受容って、ジブリと大島渚だけ見て日本を論じていたような感じがしてくる。

 では彼の映画が好きかと言われると、それはちょっと…。「ある過去の行方」はイラン人も関係はしてるけど、外国で撮ってるから、人間関係の大変さを普遍的に描いている。でも「別離」は脚本や演技の卓抜さは認めないわけにはいかないけど、物語を観賞する前にイランの法体系の不条理さにいらだってしまって、どうも心穏やかに見ることができないのである。今回はデビュー作の「砂塵にさまよう」(2003)、第2作「美しい都市(まち)」(2004)、第3作の「火祭り」(2006)が上映されたが、いずれも「別離」と同様に、テヘランで生きる庶民の不条理な生活が描かれている。

 「砂塵にさまよう」は、親が結婚に反対したために一目ぼれした結婚相手と別れなければならない男の話。カネもないのに慰謝料を払うと裁判で約束し、砂漠で毒蛇を取る危険な仕事につく。蛇取りの男の車に乗り込んで、教えてもらおうとするが、男は彼を拒否し…と話はどんどんおかしくなり、ついに彼は毒蛇にかまれてしまう。大体なんで別れなければならないかが全く納得できない。(理解はできる。)主人公ナザルは直情径行すぎるし、声が馬鹿でかい。映画内でも妻にバスでは静かに話してと言われてる。とにかく一方的にまくしたて続けるナザルを見てるだけで、こっちもウンザリ。

 第2作を後にして、3作目「火祭り」。夫婦のいさかいを描く心理ドラマで、非常に完成度が高い。ポランスキーが映画化した「おとなのけんか」という映画があるが、その原作の舞台劇と同じぐらい迫力がある。若いルーヒは職業案内所で紹介された家政婦の仕事でマンションに行くと、夫婦げんかでめちゃくちゃな家庭の片付け依頼。妻は夫の浮気を疑い、その相手と疑う向かいの部屋の美容サロン(もぐり)に「偵察」に行かされたり、子どもの出迎えに小学校に行かされたり…。もうすぐ結婚を控えた彼女は、夫婦に振り回された一日をどう思っただろう。

 演出の冴えが印象的で、その才気は並々ならぬものがある。主演のタラネ・アリデュスティという女優(薬師丸ひろ子っぽい)が魅力的で目を奪われる。題名はイランの新年にならされる爆竹の祭りからで、ロケだと思うが中国の春節を超えるのではないかと思うすごさ。男の方は映像関係の仕事で、正月には家族でドバイに行く予定にしている。しかし大みそかにも仕事で呼び出され、映像に「毛が映ってる」と処理のお仕事。もちろん、「スカーフの下に頭髪が見えてる」という問題である。

 さて、中味的に「トンデモ」なのが「美しい都市(まち)」で、脚本、演出、演技はずいぶん洗練されて来ているが、とにかくイスラム法の不可思議な世界に頭クラクラである。まず「美しい都市」というのは少年院の名前で、盗みで入っていたアーラはもうすぐ収容期間が終わる。担当官が期間が延びてるのは懲罰によるものだから、もう出してもいいだろうと判断して釈放される。ここでもう不思議。現場裁量でできるのか。アーラはシャバでやりたいことがあった。それは中で知り合った友人のアフマドが18歳になったので、死刑にされるかもしれない、そのために被害者の許しをもらいたいのである。

 アフマドは16歳の時に恋人が出来たが、相手の親が認めず、悩んで心中しようと思い相手の娘を殺して自分は生き残る。相手の親が許してくれずに死刑判決になったらしい。内容的に死刑になる事件ではないが、被害者が求めると死刑なのである。さらに、国連人権規約は18歳未満の死刑を禁止し、日本の刑法も18歳未満の場合は死刑に当たる罪を無期懲役とすると定めている。当たり前のことだが、これは「犯行当時、18歳未満」の事例である。イランでは、犯行当時18歳未満でも、捕まえといて18歳になれば死刑にできるのか。ありえないでしょ、それは。

 さらにすごいのは、その後。アーラがアフマドの姉フィルゼー(「火祭り」の家政婦役のタラネ・アリデュスティ)とともに被害者を訪れても、父親は絶対に許さないと言う。ではすぐに死刑執行となるかというと、被害者側が賠償金を払わないと死刑執行ができない被害者が加害者に払うのである。なぜなら、女の価値は男の半分だから、女が1人死に、男を死刑にすると、1人分男側の家族が損をすることになる。賠償金を女側が男側に払わないといけないのである。通常の日本人は理解できないだろう。というか、絶対にそんなことはあってはいけないと思うだろう。それを父親側が許すと言えば、アフマド少年は釈放されるのだが、今度は加害者側が被害者側に賠償金を払う必要があるのである。両家とも貧乏で、執行も釈放も出来ない状況となり…。父親の妻は死んでいるのだが、後添えを貰っていてもうひとり女の子がいる。その子は足が悪い障害者で、器量も悪いので、このままでは結婚の相手も見つからないと思った後妻は、許しを求めに来るアーラが真面目そうなので、娘と結婚してくれたら父親に許しを出させるという策略をめぐらす。(ちなみに義母が許すだけでは、娘と血のつながりがないので、死刑判決を取り消す効力がない。)

 この筋の進み具合のトンデモぶりは実に凄まじい。アーラはアフマドの姉フィルゼーに子どもがいるので結婚していると思っていたが、離婚して独身と知り、思慕の念を募らせる。フィルゼーとしては、子のいる自分が年下の男と結ばれるより、弟の命を救うためにも障害者の娘と結婚して欲しいし。一体どうなっていくんじゃ、というところで映画は終わってしまう。結婚はともかく、死刑というか、刑罰というものは国家の刑罰権の問題である。被害者が許すとか許さないとか、ましてや賠償金を払うとか払えないとか、そういう問題は情状酌量の点では意味があるが、それですべてが決まるという構造自体がおかしい(近代的な法概念では)。でも、イスラム法では刑事と民事に本質的な区別がない。裁くのは神にしかできないことだから、被害者が許せばそれで終わりでいい。モスクでは、許せば神の国に行きやすくなるから、許せと指導される。父親は「神の方がおかしい」と冒涜的な言葉さえ発するが、でも元はと言えばこの父が男女交際を許していれば、すべてはなかったではないか。

 特に、男女の差から被害者側が賠償金を求められるという超トンデモがホントにあるのかと疑う人もあるだろうが、それはある。2003年にノーベル平和賞を授与されたイランの女性弁護士、人権活動家、シリン・エバディ「私は逃げない」という著書にくわしく出ている。この本は2007年に出た本だが、今でも入手可能だし、図書館等でも比較的見つかると思う。イランを知るためには必須の本で、とにかく凄まじい状況に驚くが、エバディの不屈の闘士ぶりにも敬意を抱かざるを得ない。

 中でも一番すごいのは、以下の事件である。農村地帯で、ある11歳の少女が3人の男に強姦され崖の上から落とされ殺された。3人の男は逮捕されたが主犯は自殺、2人の男に死刑判決が下った。イスラーム法においては(というかイランのイスラーム体制における解釈では)「殺人の被害者は、法的処罰か金銭的補償かを選べる」。そして「女は男の権利の半分の価値がある。」そこで、少女の命を1ポイントとすると、男2人が死刑となるので男側のポイントは2×2の4ポイントとなる。被害者家族は、「レイプ被害者の家族という汚名」を晴らすため、死刑を求めるしかない。(イランの農村部の家父長的価値観の中では。)そのため、死刑となる男の家族の側に、少女の家族に対して「3ポイント分の補償」を求める権利が生じる。裁判所は少女の父親に処刑費用を含む多額の金額を払うように命じる判決を出した。家族は財産を投げ出したが足りないので、腎臓を売ろうとするが、父は薬物乱用の過去があり、兄は小児麻痺のため腎臓摘出ができなかった。なぜ家族で臓器を売るのか不思議に思った医者が事実を知り、司法省のトップに手紙を書き、問題を訴えたというのである。これはイランでも問題化したらしいし、そこからエバディが担当し、犯人が脱走したり、再審になったり複雑な経過をたどったらしい。とにかくこれが「イスラム法」体制であり、そういうのが理想だと思ってる人々が権力を握るとどうなるかの実例である。
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リリ・リザの映画②

2015年02月27日 00時28分05秒 |  〃 (世界の映画監督)
 インドネシアリリ・リザ監督の話が途中で終わってしまったので、続き。(ちなみに、リリ・リザは男か女かと聞いてる人がいたけど、男性監督。)2008年の「虹の兵士たち」とその続編である2009年の「夢追いかけて」である。どちらも非常に感動的な映画で、映画的な感興と「異文化理解」的な興味をともに満足させてくれるが、同時に「世界どこでも、子どもたちの世界は共通」という当たり前の事実を実感させてくれる映画でもある。この映画もなぜ公開されないのかが不思議で、これからでも是非正式に公開して欲しいと強く思う映画。

 「虹の兵士たち」は、インドネシアのブリトゥン島のイスラム学校に通う10人の子どもたちの物語で、新任の女性教師ムスリマと「二十の瞳」とでも呼びたくなる映画。1974年に始まり、1979年頃を中心に小学校卒業までを描く。インドネシアも経済的に成長していく頃で、今見て懐かしくなるんだと思うけど、その年最大のヒット作となったリリ・リザの代表作。イスラム学校の話は後で取り上げるが、まず「ブリトゥン島」とはどこか。字幕ではブりトン島とあるが、ウィキペディアでは「ブリトゥン」とある。知っている人はほとんどいないと思うが、ちょうどスマトラ島とカリマンタン島の中間あたりにある島である。2000年まで南スマトラ州に属していたが、現在は隣のバンカ島とともに、バンカ=ブリトゥン州になっている。人口は16万ほどで、西にあるバンカ島が60万を超えているので、それに比べるとずっと小さい。映画でも重要な背景となっているが、錫が産出する。

 まず、冒頭で学校が成立する条件の10人の生徒が集まるかどうかで、ドキドキさせられる。成立した後で、5年後に飛び、子どもたちは小学校高学年になっているが、その後新入生はなく、生徒数は同じ。高齢の校長とムスリマ、それと若い男性教師がいるが、若い二人には他の学校から転勤の勧誘がある。ムスリマは子どもたちに責任があると残るが、男性教師は去る。高齢の校長もだんだん病気となり、亡くなってしまう。給料も遅配という環境で、ムスリマも裁縫で収入を得ながら教師をしている。そんな環境でも、子どもたちは頑張り、独立記念日のパレードに初参加し、錫公社の学校に負けないように創意工夫でダンスを仕上げる。主人公で語り手であるイカルは、その頃先生に頼まれて近くの村のお店に、学校のチョークを買いに行く。そこでチョークを出してくれた女の子の爪の美しさに一目ぼれ。思春期のときめきを経験する。タイトルの「虹の兵士たち」は校外学習で訪れた海辺で見た虹の素晴らしさに、ムスリマが子どもたち皆を「虹の兵士たち」と呼んだことから。そんな美しい自然の中の学校で、設備は恵まれないながら、そこには「心の教育」があった…。

 というのも、それが校長の方針で、子どもたちには「道徳」を重視した「宗教教育」を行わないといけないという考えなのである。そこでちょっと心配がある。イスラム学校とはどんなものなのか。いわゆる「学力の保障」は出来ているのだろうか。最後に、島の学校対抗のクイズ大会があり、それにも出場しようと頑張ることになり、社会科や算数の問題も出るのである。そこで算数が得意な子がいて、その生徒ランタンが間に合うかどうか、ハラハラさせる。というのも彼の住所は海辺の漁村で、そこから自転車で来るときに道に大きなワニが出ると「通行止め」なのである。いつもはすぐ動くワニなのに、この日に限って道にずっと立ち止まってしまう…。でも間にあって、彼の活躍で同点になるが、でも最後の「時速」と「時間」の問題で彼が答えた問題が誤答とされ…。しかし、とまあ定番的な展開ではあるものの、この学校の生徒たちは二つのカップを獲得したのである。

 この島最初の学校である「イスラム学校」とは何か。その国の人には自明の制度は説明されないから、どうも判らない。以下は僕の推測で間違っているかもしれないが、こんな感じではないか。近代的な学校制度ができるまでは、日本で言えば「寺子屋」のような存在で、イスラム教に基づく学校があっただろうと思う。やがて近代的な学校制度が整備され多くの生徒がそっちに通うようになっても、イスラム学校は昔からの伝統ということで、つぶされないで残る。ホントは義務教育制度があれば、すべての子どもはどこかに通う必要があるが、この島の場合貧しい家の女の子などは通ってないから、まだ義務教育ではないのである。ブリトゥン島では錫公社が従業員の子弟のための付属小学校を作っている。島の多くの家庭はそこに通わせるが、制服等があり貧しい家庭は通わせられない。そういう家庭が「イスラム学校」に通わせるが、10人という基準があるということは、一応その程度が集まれば、不十分ながら公費の補助があるということだろう。そういう公設民営のようなシステムであるまいか。貧しい家庭の子が集まる場で、「イスラム教をガチで教える学校」という存在ではない。だから、日本で言えばフリースクールとか、夜間中学などに近い感じで、山田洋次の「学校」のように教師と生徒の濃密なドラマが展開されるような場なんだと思う。校長先生は、生徒が校庭で遊んでいてなかなか教室に来ないと、「大きな舟を造ったヌーの話をするよ」という。皆目を輝かせて話を聞くが、これはノアの方舟の話なのである。イスラム教は旧約聖書を受けて成立しているから、ノア(ヌー)は共通の教材なのである。

 「虹の兵士たち」のラストで、イカルは大人になっていて久しぶりに島を訪ねる感動的な場面がある。そこでイカルはソルボンヌに留学すると話すが、そこまでの経緯を語るのが「夢追いかけて」である。ブリトゥン島に高校はないので、島を出ないといけない。小学校卒業後に親が死んで引き取られたいとこのアライともうひとりジンブロンの三人はいつもつるむ友だちとなる。高校時代のバカ騒ぎ(成人映画を見に行くとか)は、青春映画定番の「三バカ大将」もので、どこの青春も同じだなあと思う。誰かを好きになり、進路を考えて悩み…。そんなドタバタも終わり、ジャワに出て受験勉強。めでたく合格し、卒業したものの、就職先はなく、イカルは郵便局で働く。そしてアライは行方不明。夢を追いかけて、島を出て大学まで来た彼らの行く末は…。というどこの国でも多分感情移入できる青春の彷徨を、ヒット曲などを散りばめながら快調に描いて行く。前作と合わせて、カット割りやカメラの移動が実にうまく、映画のリズムの快適さが伝わる。特に「虹の兵士たち」は風景が広いので、パン(カメラの横移動)が多かったように思うが、それも気持ち良いのである。

 インドネシア映画「ビューティフル・デイズ」という作品があるが、それに出てくる高校では、なんと創作詩のコンクールがあってビックリした。日本の学校では考えられない。「夢追いかけて」では、先生が「好きな言葉を言え」という時間がある。「『目には目を』では、世界は盲目となる マハトマ・ガンディー」とか。これはいいなと思ったけど、日本では言えるだろうか。大人でも。この映画では、生徒が皆、スカルノ、ハッタなどの独立運動家の言葉や世界の政治家の言葉を憶えている。こういう映画を見て、発見することは、青春の世界共通性とともに、どんな国の学校にも学ぶことが多いということだと思う。

 特にインドネシアは重要な国である。位置的にも、資源的にもそうだけど、ASEANNの盟主的存在として「G20」にも参加している。世界最大のムスリム人口の国でもある。中東で興ったイスラム教だが、南アジア、東南アジアに広がり、もともと人口が多いところだから、インド亜大陸からマレー半島、インドネシア一帯が世界で一番イスラム教徒が多いわけである。インドネシアでは、2002年と2005年にバリ島で爆弾テロを起こした過激派勢力もあることはあるが、その大部分は穏健なイスラム教であるのはもちろん。戒律も中東に比べれば緩やかではないか。スカルノらの作ったパンチャシラ(建国五原則)の第一は「唯一神への信仰」となっているが、イスラム教は国教ではなく、世俗国家である。唯一神信仰はキリスト教も同じである。公式に無神論を言うのはできないのではないかと思うが、そういうインドネシアの社会を理解することは、非常に大切ではないかと思う。「ごく普通のイスラム教徒」がどんな暮らしをしているか、それを知るという意味でも大事な映画である。それとともに、こういう映画を見ると(あるいは音楽などでもいいが)、その国に親しみを感じるということである。頭で考えるだけでなく、自然に親しみを感じる文化交流がベースにないと、世界との友好は成り立たない。そういう意味でも、是非公開されて欲しい映画だなと思う。
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リリ・リザの映画①-現代アジアの監督②

2015年02月26日 00時14分04秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画特集の第2弾。インドネシアリリ・リザ監督である。リリ・リザ(1970~)は、東京国際映画祭で特集上映があったから名前は知ってたけど、見るのは初めてである。映画として非常に面白かったけど、インドネシアを知るという意味でもとてもためになった。と同時に、そこに出てくるインドネシアの風土、映像に流れる風のようなものが、とても心地よいのである。タイやマレーシアなどに長期滞在する日本人も多いというけど、僕も昔行った時から大好きで、モンスーン・アジアの共通性を感じて心休まる気がする。イタリアや東欧(チェコやハンガリー等)の映画も、言葉の響きや風景が気持ち良いのだが、僕にとって東南アジアの映画もそんな感じ。

 今回は4作が上映されたが、第4作という「GIE」(2005)は非常な問題作だった。ヴェトナムのダン・ニャット・ミンが抒情詩人とすれば、リリ・リザは大叙事詩を描く。ある華人系(カトリック)の青年が真実を求めて生きて挫折していく様子を年代記として描く大作である。その青年は、スー・ホッ・ギーと言い、題名はその「ギー」から取る。実在の青年運動家で、チラシには「共産主義活動を行い」と書いてあるが、これは間違い。主人公は幼友達が共産党に加わると、早く抜けないと大変なことになると忠告する。大学では、イスラム系でも共産党系でもなく、文化運動を中心にしたグループを立ちあげる。活動の内容は腐敗したスカルノ政権に対する批判である。スカルノの支持を受けて勢力を伸ばしていたのがインドネシア共産党(PKI)で、つまり共産党は体制側だったのである。主人公たちは建国の英雄スカルノに迫って共産党解党を求めるという立場である。1965年9月30日の「9・30事件」の実情はまだ不明のところがあるが、この事件をきっかけにスカルノは権力基盤を陸軍のスハルトに奪われていく。後に長期独裁政権となるスハルトだが、この時点の学生運動から見るとスカルノ政権に対する批判の受け皿として一定の支持があったように描かれている。

 この「9・30事件」の後、インドネシア各地で100万人を超えるとも言われる共産党員の大虐殺事件が起きた。その様子は2014年に公開された記録映画「アクト・オブ・キリング」で描かれ衝撃を与えた。この映画の主人公ギーは、学生新聞に自分のコーナーを持っていて、そこで社会批判記事を書いていた。そこでこの虐殺に触れる記事を書いたのである。それは1969年という時期を考えると非常に勇気ある行為だった。だけど、記事は黙殺され、友人や恋人は去っていく。失望したギーは趣味の登山に出かけ、ジャワ島最高峰スメル山(3,676m)に登り有毒ガスで死亡した。「政治犯」だったのかと思ったら、そういう人物ではなかった。幼い時から批判意識、正義感が強く、それを貫いて生きた清廉な学生運動家で、死後に日記が発見され、それが映画化された。ちょうど同時代の、高野悦子「二十歳の原点」みたいなものである。同時代の歌が流れ(女友達が「ドナ・ドナ」を歌うシーンがあり、インドネシアでも歌われていたんだなと感慨深かった)、全体のムードはイタリアのマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督「ペッピーノの百歩」を思い出した。誠実に生きることで反マフィア運動家になっていった実在人物を描いた映画だが、当時の音楽などで時代の空気を映しだすことが似ている。

 今もなおタブー視される共産党員の虐殺事件に触れた勇気ある企画で、非常に興味深く見た。インドネシア現代史を考える時、つい「9・30事件」で一挙にスカルノからスハルトへ権力移譲が進んだように思ってしまうのだが、映画を見てそれが数年にわたる権力のドラマだったことが理解できた。主人公は共産党に入った幼友達を心配し、事件後に母親を訪ねたりしている。母も逮捕されていて、しばらく後に釈放されたという。友人の方は戻ってこなかった。殺されたか、流刑にされたかである。しかし、主人公は一貫して、主義主張以前に「共産党対陸軍」の対立が衝突寸前になっているので、それを考えて冷静に行動しないといけないと考えていると思われる。しかし、友人の方はすっかり「革命だ」と舞い上がっている感じに描かれている。この映画は、非共産党系の学生運動家から見たインドネシア現代史として興味深い。映画としては、友人や恋人関係などがどうなるか、政治の激動が絡んで、ドキドキしながら見る現代史サスペンスであり、画面から目が離せない優れた出来だと思う。

 次が「永遠探しの三日間」(2006)で、素晴らしいロード・ムービー。ロード・ムービーには、美しい景色やしっとりした人間関係などを中心に描く映画が多いが、この映画は徹底した青春映画で、男女二人(いとこどうし)の会話などで現代インドネシアを描き出す。ユスフはインドネシア大学建築科の大学生。いとこの姉妹の姉の方が結婚することになり、由緒ある食器をジョクジャカルタまで車で運ぶように頼まれる。いとこの妹の方、アンバル(高校を出てイギリスに留学するかどうか迷っている)は飛行機で行くはずだったが、前夜にユスフと飲みに行って寝過ごしてしまい、結局一緒に車で向かうことになる。ユスフは慎重でマジメなタイプ、一方アンバルは奔放な「発展家」で、その対照的な生き方がぶつかったり共感したり、いろいろある。迷ったり寄り道したり、たかがジャカルタからジョクジャに行くだけで3日もかかるのかと思うが、地図も持たずに出ているので仕方ない。

 バンドンに寄りたいというアンバルの都合で一日がつぶれる。そこではロック音楽のグループと雑魚寝。途中で起きて出発するも、次の日は暑かったり、海辺の祭り(?)に気を取られたりして、民泊する。この家がトンデモで、アンバルは怒ってしまい、ユスフはもういいだろうという。二人はケンカになるが、交通事故を目撃したり、カトリックの遺跡を見にいき、そこで人生について考え語り合う。ユスフは、まだまだ自分たちは若いという。「27歳が人生の分起点だ」。ジミ・ヘン、ジャニス、ジム・モリソン、カート・コバーンは皆27で死んだ。スカルノは27歳で最初の政党を作った。いや、スカルノはともかく、インドネシアの若者もこう考えるのである。アンバルは「いまどき、婚前交渉は当然でしょ」と吹聴するほど「進んで」いる。インドネシアだから、もちろんムスリム(イスラム教信者)であるが、スカーフは被らない。(正式な場では被ることもあるらしい。)そういう現代若者の「世俗派ムスリム」のようすがうかがえて、この映画も興味深い。やはり若者の関心は、愛と性と進路なのである。大きな事件が起きるわけではなく、美しい風景もあまり出てこない。ただドライブしているだけのような映画なんだけど、とても面白い。なかなか着かないゆったりしたリズムが快く、忘れがたい青春映画の一つだと思う。ジョクジャカルタは2006年に地震の被害を受け、その様子も少し出てくる。アンバル役のアディニア・ウィラスティという女優は、特に美人というわけではないんだけど、見てるうちになんだか気になってくる。昔の日本映画だと桃井かおりとか秋吉久美子みたいな感じ。ところで、マリファナをやってるのにビックリ、運転しながらやってる(という設定)は日本では許されないだろう。ユスフもタバコ吸い過ぎ。長くなったので、ここで切る。
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ダン・ニャット・ミンの映画-現代アジアの監督①

2015年02月23日 23時37分51秒 |  〃 (世界の映画監督)
 国立近代美術館フィルムセンターで、「現代アジア映画の作家たち」という特集を行っている。福岡市総合図書館のアジア映画コレクションから選ばれた映画の特集。2004年にもフィルムセンターで特集を行っているが、フィルムセンターのサイトで過去企画を確認すると、2カ月にわたって54本もの映画を上映している。今回は7人の監督に絞り、東京ではなかなか見られない映画を集めている。

 まずはヴェトナムダン・ニャット・ミン監督の5本の映画を見たので、そのまとめ。見たのは初めてで、名前も知らなかった。しかし、その抒情的な世界は非常に感銘深かった。デビュー作の「射程内の街」(1982)は、1979年の中越戦争を描いている。中越戦争というのは、カンボジアに侵攻したヴェトナムに対し、中国が「懲罰」と称して仕掛けた限定戦争。量で圧倒する中国軍がヴェトナム北辺部を一時占領し、勝利したとして一か月で撤退した。しかし実際は現代戦経験を積んだヴェトナム軍に中国軍は大被害を受け、衝撃を受けたとされる。戦争で廃墟になった国境の町ランソンが出てくるが、どこまでがロケか判らなかった。中国への配慮から長く外国での上映が禁止されていた作品。

 主人公は新聞カメラマンで、軍に掛け合って激戦の続くランソンを取材する。地雷を警戒しながら、戦闘で破壊された街をめぐっていく。その合間に、男の過去がインサートされる。彼は昔、ランソンに来たことがあった。学生時代に愛を誓った女子学生がランソン出身だったのだ。二人は世界の出来事を語り合う。(中国の文化大革命の写真集を見て、女はどうして文化財を破壊するの?と問う。男は世界の国はそれぞれのやり方があるんだと答える。)しかし、死んだとされていた彼女の父は生きていた。母を捨て、他の女と南ヴェトナムへ逃亡したのである。この事実を党が確認し女性は「問題あり」となり、男は去った。男がランソン入りを強く希望したのは、この「私が棄てた女」を探したかったのである。

 そこに、同じくランソン取材を希望する日本人が現れる。「赤旗」の特派員で、「同じ共産主義者として」世界に知らせたいと言う。軍とともに一緒に街を回り歩くが、中国軍の残置スナイパーにより、赤旗特派員は銃撃されて死亡する。これは実話である。この日本人を監督自身が演じている。予定していた日本人留学生が無理になって、一番日本人らしいのは監督だと言われたらしい。

 残留していた漢方薬局の華人が見つかる。中国軍に志願した息子に置いて行かれたという。この老人はかつてランソンを訪れた時に、彼女の家に薬を届けた人だった。薬屋は文革礼賛の本を無料で渡した。つまり、華人の中には中国のプロパガンダを広める「中国の手先」がいた。(恐らく事実だろう。)老人を捕まえた若いヴェトナム兵は、殺してしまえと激高する。しかし、上官が叱り飛ばして、捕虜として後方に連行する。このように「指導者の冷静な判断」が戦争犯罪を防いだという宣伝だろうが、重要な描写だと思う。昔の女友達の境遇は最後に明かされるが、主人公にはほろ苦く、観客にはほっとする結末。全体に「反中国の愛国映画」の限界の中で、戦時においても人間性を失わない人々を描いてヒューマニスティックな感銘を呼ぶ。監督はなかなか自分の撮りたい映画を撮れず、これがダメなら監督を辞める決意で撮ったという。素朴な平和主義と愛国心がベースになっていて、昔のソ連で作られた「雪どけ」時代の「新感覚」映画を思わせる佳作。80年代の映画だけどモノクロだし。

 2作目の「十月になれば」(1984)は、戦時中の「銃後」の農村を描いた作品で、心に沁みる名作。戦争に行った夫を待つズエンは、息子の帰還を心待ちにする義父の体調が悪いのを案じて、夫の戦死の報を隠す。小学校の教師は知ってしまうが、頼まれて夫の手紙を代筆することを承知する。こうした「美談」がベースになるが、教師の書いた手紙が流出し「スキャンダル」視され、教師は他の任地に飛ばされる。そんな中、老父の容体が悪化し、幼い孫は父に電報を打つんだと飛び出してしまう。「美しい心」から発した心遣いが思わぬ波紋を呼んで行く…。人々は共同体の秩序の中でゆったりと暮らしていて、その稲作農村のようす男尊女卑的な農村共同体などは日本を見ている感じがする。稲作と儒教で共通する世界である。子どもと義父を抱えて苦労する若い妻を演じる女優が実に素晴らしい。

 次の「河の女」(1987)は、ヴェトナム戦争さなか、古都フエで「河の女」(水上の売春婦)をしている主人公を描く。彼女は戦争中に追われていたゲリラ指導者を匿って、船で川をさかのぼって逃がした経験がある。彼女はその思い出を大切にしてひそかに憧れてきた。戦争終結後は「再教育キャンプ」に送られ、帰還後は「土方」として暮らしてきた。ある日、「彼」と思われる人物を見かけて追っていくと、ある役所に入る。面会を求めるが、官僚的対応をされて会ってもらえない。帰りに交通事故にあって入院し、病院で女性新聞記者に取材を受けた。だが彼女の書いた記事は発表禁止になある。誰も読んでいない段階なのになぜ? それは党幹部の夫が家で読んでいたのだ。実は彼が「その男」だったのだが、「今大切なことは人民が党に寄せる信頼を疑わせないようにすることだ」と言い放つ。党内の官僚主義と言論統制を正面から扱った勇気ある映画。川の風景も美しく、薄幸な女性の運命に心を奪われる。思い出すのは、小栗康平「泥の河」だろう。ともに船上で生きる娼婦を描くが、ムードも似ている。(下の左)
 
 4作目が「グァバの季節」(2000)。(上の右)これも実にしみじみとした名作だった。主人公は、子どもの時に庭のグァバの樹から落ちた事故で発達が止まってしまった。今は美術学校でモデルをしているが、時々グァバの樹を見に行く。当時の家は今は党幹部の家になっていて、それが判らない彼はついに庭に入ってしまう。警察に捕まり、姉が呼ばれて釈放されるが、その家には行かないように言われる。幹部はホーチミン市に派遣された間、家には大学生の娘が残っていて彼を理解して家に来ていいと言う。こうして世代を超えた交流が生まれるが、ここでもうひとり、市場で働く若い女性モデルも絡み、邪心のない主人公と、彼を危険視して「心の結びつき」をなくした人々のドラマが進行する。経済発展の中で「心」を失っていく人々というテーマも、かつての日本映画でたくさん見た。監督自身の原作を映画化したというが、その繊細な描写、ハノイの町の雑踏の魅力、女優の美しさ、日本でも公開されて欲しい映画。

 そして最後に「きのう、平和の夢を見た」(2009)。非常に心打たれる傑作で、今からでも是非正式に公開されて欲しい。日本でも翻訳されている「トゥーイの日記」の映画化で実話。女医として南ヴェトナムの激戦地区に派遣されているダン・トゥイ・チャムは、野戦病院の激務の中で日記をつけていた。戦死した後に、病院にあった日記をアメリカ兵が持ち帰る。翻訳して中の記述を知った米兵は、その中にある「炎」と冷静で知的な世界に圧倒され、生涯忘れられなくなる。21世紀になって遺族を探し求め、日記は母に伝わった。戦場の厳しさと主人公の知的な魅力が印象的。

 これほど人間性を失わない相手を敵として米軍は闘っていたのである。そのことを知り、受け入れる米側のようすもフェアに描写され、戦争の悲劇を訴える。今は経済的にも発展したヴェトナムだが、戦争時の辛い体験を静かに訴えている。ナショナリズムに訴えるというより、戦争はどちら側にも心の傷を残すというヒューマニズムの色合いが濃い。この監督の持ち味だろうが、静かな世界に心打つ物語が進行するというスタイルは共通している。野戦病院もの」は、「ひめゆりの塔」や増村保造「赤い天使」、アルトマン「M★A★S★H」などけっこう思い浮かぶが、この映画が一番リアルで感動的ではないか。ヴェトナム戦争を同時代に知っている世代には、非常に心打たれる映画ばかりだった。主題も勇気ある世界を描き、小津安二郎、木下恵介、黒澤明、今井正などを思わせる作風に共感を覚えた。
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1979、中東現代史の起点-IS問題④

2015年02月20日 23時09分17秒 |  〃  (国際問題)
 現在の中東情勢を考えるためには、どの程度さかのぼって歴史を振り返る必要があるだろうか。よく「イスラム国」はアメリカが開始したイラク戦争のもたらしたものだと説く人がいる。それは正しいのだが、もう少し長い期間の検討も必要だと思う。しかし、イスラム教成立やイスラム帝国までさかのぼるのも大変だし、第一次世界大戦後の終戦処理も問題ではあるが100年近い昔の話である。もう少し最近の時点を挙げるとなると、「1979年」という年こそ、「中東現代史の起点」だということになる。36年前で、今年と同じひつじ年。年頭に書いたように、「ひつじ年は中東大乱の年」なのである。

 それより前の話から始めるが、第二次世界大戦以後の世界は、基本的には「米ソ冷戦」である。アメリカ合衆国とソヴィエト連邦を「盟主」とするイデオロギー対立の時代。「ベルリンの壁」が知られるヨーロッパの東西分断、あるいは「熱戦」になってしまった朝鮮半島やヴェトナムなどの東アジア。冷戦時代の焦点はその地帯だけど、中東一帯も第三の焦点と言える地帯だったのである。この地域に一番権益を持つ列強はイギリスで、その象徴はスエズ運河だった。アラブ諸国の高まる民族主義の波の中、エジプトのナセル大統領は1956年にスエズ運河国有化を宣言。それをきっかけにして英仏イスラエルは軍事行動を起こし第二次中東戦争が起こった。

 この時にアメリカは参戦しなかったが、その前にエジプトがソ連に近づいたため、米英がアスワンダム建設援助をほごにしたことが国有化宣言につながった。こうしてアラブの民族主義的政権はソ連よりが明確になっていったわけである。それはアラブ諸国の「明白な敵」であるイスラエルをアメリカが支援する以上、当然のこととも言える。ソ連崩壊で独立したグルジア(ジョージア)やアルメニア、アゼルバイジャンなどはソ連の構成国だったし、ブルガリアまでの「東欧」がソ連圏だったわけだから、トルコやイランは対ソ連最前線だったし、ペルシャ湾岸の原油が開発されると、経済的にも重要性を増した。そのため、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン、イラク王国が、1955年にイラクの首都バグダードでバグダード条約に調印し、中央条約機構(CENTO)が成立したのである。(アメリカはオブザーバー参加。)NATO(北大西洋条約機構)は今もあって知られているだろうが、この「セントー」というのは今や知る人もない。大体、イラク王国と何か。イラクはヨルダンと同じハシム家による王政が敷かれていたのだが、1958年に青年将校がクーデタを起こして王政は廃止されたのである。イラクはCENTOを脱退し、ソ連寄りに変わり、バース党政権が成立する。細かい転変は省略し、焦点の1979年にサダム・フセインが大統領に就任することになる。

 イラク王国崩壊後、CENTOはトルコの首都アンカラに本部を移して存続したが、ほとんど機能しなかった。完全に解体されたのは、1979年である。何故この年かというと、中東最大の親米国だったイラン帝国が、1979年1月に崩壊したからである。いわゆる「イラン・イスラム革命」である。それ以前はイランが親米、中東の盟主エジプトが親ソという構図だったのが、ここで完全にひっくり返る。エジプトはナセル死後に後継となったアンワル・サダトが徐々に米国よりに姿勢を転換させていたが、1978年にアメリカの仲介で「キャンプ・デイヴィッド合意」を結んでイスラエルと和平した。1979年3月にはエジプト・イスラエル平和条約が締結され、正式な外交関係を結んだ。イスラエルとの和平は「イスラム教への裏切り」だと考えるイスラム勢力によって、サダト大統領は1981年に暗殺された。イスラム過激派によるテロがアラブ諸国内の指導者を暗殺する段階に至ったのである。

 イランのイスラム革命は1979年1月に帝政が崩壊し、パリに亡命していたイスラム法学者の最高権威ホメイニが帰国し、いろいろあったが結局、「イスラム共和国」が樹立された。1979年11月には、アメリカ大使館人質事件が発生し、1981年1月まで大使館は占拠された。それ以来、アメリカとイランは国交断絶状態になっている。イランはイスラム教の少数派シーア派を国教としている。アラブ民族はほとんどスンナ派だが、イラク南部から湾岸一帯にかけてはシーア派が大勢力となっている。この地帯に対し、イランは「革命の輸出」政策を進め、それに反発する湾岸の王政国はアメリカの軍事支援を受けるようになっていく。「イスラム法に基づく統治」が現実に成立したことは、スンナ派の過激勢力にも激しい衝撃を与えたと思われる。イラン・イスラム体制の成立という大事件が、1979年以後の中東情勢を規定している。
(ホメイニ師)
 そして最後に、1979年12月24日、ソ連がアフガニスタンに侵攻するという大事件が起こったのである。全く1979年という年は、1月から12月まで中東を揺るがす超大事件が起こり続けた年だった。アフガニスタン情勢は複雑な経緯があり簡単には書けないが、とにかく社会主義的政権が成立していて、その内紛にソ連が軍事介入したのである。そのことに冷戦末期のアメリカは激しく反発した。(例えば、1980年のモスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。ソ連軍に対して国内外のイスラム勢力は抵抗を続け、アメリカやパキスタンの支援を受け、1989年にソ連軍が撤退するまで激しい内戦が戦われた。この過程でタリバンやアル・カイダなどの勢力がアフガニスタンに勢力を伸ばすことになる。

 一方、イランと隣国のイラクはもともと国境紛争があったが、イスラム革命がイラク南部のシーア派に及ぶことを危惧したフセイン政権は反イランの姿勢を強めていった。その結果、1980年9月にイラクはイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。この戦争は1988年まで続いた。こうして、1980年代の中東では、(それまでのイスラエルとの戦争ではなく)、アフガニスタンやイラン・イラクで長い戦闘が続けられたのである。この時期には、アメリカとサダム・フセインとオサマ・ビン=ラディン(アフガニスタンのイスラム勢力支援の義勇軍に参加した)は、「同じ陣営」にいたのである。それが崩れて、また中東の構図が一変するのは、1990年のイラクによるクウェート侵攻と1991年のいわゆる湾岸戦争だった。ここでフセインとアル・カイダとアメリカは、それ以後の違う道への分岐路を歩み始めることになる。今回は中東現代史概説なので、次回に「イスラム過激派思想」というのはどういうものなのかということを考えたいと思う。
(サダム・フセイン)
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なぜ「裁判」をしないのか-IS問題③

2015年02月18日 23時03分03秒 |  〃  (国際問題)
 「イスラム国」は、どうして「裁判」をしないのだろうか。いや、支配地区の中では「イスラム法による裁判」を行っているのかもしれない。しかし、外国人拘束者を無慈悲に殺害しているのに、その「裁判」を行ったという報道がない。もちろん、「罪なき者」に裁判をして死刑を言い渡すのが認められるわけではない。罪のないものに、裁判をしようにもできないかもしれないが、例えばアメリカのメディア関係者には「スパイ罪」を、ヨルダン軍のパイロットには「殺人罪」をなすりつけるのは簡単だろう。一応「裁判をした形」を取って、その断罪を行ったとして、「正義が果された」と大々的に報道するというのが、多くの独裁国家のやり方である。スターリン時代の粛清も、文化大革命の時の迫害もそうだったし、最近の事例では「北朝鮮」の張成沢氏は「国家反逆罪」に当たると裁判で断罪された。

 最初に確認しておきたいが、もちろん「拘束すること」そのものが不当な場合がほとんどであって、「裁判をしていれば認められる」などいうことはない。だけど、「捕虜」として「拘束そのもの」はやむを得ないヨルダン軍のムアーズ・カサースベ中尉の場合など、「公開のイスラム法廷」を開いたことにした方が、宣伝効果は高いはずである。「捕虜」は戦時国際法にそって人道的な扱いをおこなわなければならないわけだが、「イスラム国」はそのことをなんら主張しない。自分たちが「敵」に残虐な扱いをするのは、自明の理とでもいいたいのか、全く「捕虜」という概念を持ち出さない。しかし、やっていることは「戦争犯罪」である。(従って、ボスニア紛争などと同じく、いくら時間がかかっても「戦争犯罪人裁判」を実施しなければならない。)捕虜に対して「裁判抜きの処刑」を行うことは国際法違反で、カサースベ中尉は「虐殺」されたと認定できる。(従って、「南京大虐殺はなかった」などと主張する輩は、「イスラム国」を批判できないはずである。)

 そのような「イスラム国」なる存在は、一体どんな存在なのだろうかというのが、今回のテーマである。ひとつ、よくある考え方は、「イスラム国」というのは「要するにならず者」であって、犯罪者集団、殺人集団と考えるというものである。これは判りやすいので、そういう風に簡単に決めつける人も多いようである。しかし、宣伝やかけひきの様子を見ると、「単なる犯罪集団」というのは過小評価ではないだろうか。とにもかくにもアラブ諸国などから多くの志願兵を集めているのである。それに「殺人者集団」だと言っては、殺人者集団が人殺しをするのは当たり前で、トートロジー(同義反復)になってしまう。

 もう一つの考え方は、「戦時体制」と考えるというものである。「戦時体制」には、普通の日常的行政を行う余裕がないから、指導者に一任して判断を仰ぎ、時には残虐な行為も行わざるを得ない(ことがある。戦争に負けては元も子もないので、戦時中は「裁判」などを行う余裕がないという事情もあるのかもしれない。しかし、あれほど画像等には工夫できるんだから、「裁判をやった」と取り繕うことぐらいは大した手間でもないだろう。もし拷問により「スパイ」を自白させられたら、(ソ連や東欧の政治裁判では、おおむね「スパイ自白」を取られている)非常に宣伝効果もあるはずである。まともな人は信じないだろうが、中東世界では信じてしまう人が出てくるだろう。だから、その「戦時体制」説だけでは僕は納得できない部分がある。

 では、何だろうかというと、「近代的な法概念としての裁判を認めない」という「イスラム国」の政治思想の現れなのではないか。裁判をする以上、告発するもの(検察官)と弁護するもの(弁護士)という存在が必要である。両者の言い分を聞き、裁判官が判断するというのが、近代的な裁判のかたちである。今、裁判をするといったら、やはりそういう構造を持たせざるを得ない。でも、時代劇を見れば判るけど、大岡越前とか遠山の金さん(遠山金四郎)は、自分で究明して自分で判断して自分で言い渡す。日本だって、前近代では「検察官」「弁護人」という役割はなかったのである。「イスラム国」は近代を全否定して、「イスラム帝国」を再現しようという存在である。本気で実現できると考えているかは別にして、カリフが(神の言葉に基づき)すべてを決定するという、そういう裁判しか行えないはずである。僕が思うに、「裁判という形を取り繕った方がいい」という発想そのものが、もう「イスラム国」幹部にはないのではないか。現代に現れた「邪悪」としか思えないが、それがこの集団の本質と思うのである。

 なお、ヨルダン軍のムアーズ・カサースベ中尉がいつ殺害されたかは僕には判らないが、明らかに拷問はされていたとみられる。中尉は一回も生存を報じる映像が流されなかった。「イスラム国」側はヨルダン王政打倒が目標だから、本来はこの機会に「ヨルダンが有志連合から脱退するように、アブドラ国王に要求して欲しい。もし王が決断しないと、私は殺されてしまう。国王に私を殺させないように、ヨルダン国民は国王に要求して欲しい」と言わせたかったはずである。しかし、一回もそのようなビデオ映像が流されなかった。拷問に屈しなかったのである。「さすがに軍人」というべきなのかもしれないが、見あげたもんだと思う。そのような「不屈」に対して、「火刑」という信じがたい残虐を行ったのである。
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ゴダールの「さらば愛の言葉よ」

2015年02月18日 20時54分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 もはや「老」とか「翁」とか呼びたいジャン=リュック・ゴダール が、なんと3Dの新作を作って昨年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞してしまった。その「さらば愛の言葉よ」(Adieu au Langage)が公開されている。(東京ではシネスイッチ銀座のみ。)こういうのは名画座では(少なくとも3Dでは)見られないと思い、見に行ってきた。1930生まれのゴダールだが、クリント・イーストウッドも同年で、元気なことでは負けていない。ゴダールは判らない映画ばかりになってしまったけれど、実は21世紀に作られた「愛の世紀」「アワー・ミュージック」「ゴダール・ソシアリズム」も見ている。やはり気になる。
 
 さて、では判ったかというと、今回も全然判らん感を抱いて映画館を出ることになる。3D用メガネを持参しないと400円追加されるにもかかわらず、上映時間は69分しかない。一分あたりのコスト・パフォーマンスがはなはだよろしくない。だけど、映像は凝縮されていて、けっこう長く感じる。なんだ映画はこのくらいの時間でいいではないかと思ったりもする。

 物語性が乏しい(多少ないこともない)のは最近のゴダール作品と同じ。だから判りにくいんだけど、3Dの映像は極めて鮮烈で、なんだか世界を再発見する感じもある。わざわざ3Dにするというと、宇宙空間を駆け抜けるとか特撮に偏しているけれど、ゴダールは日常世界の人間と自然しか撮らない。わざわざ3Dにしなくてもと普通思うような素材なんだけど、新鮮で発見に満ちている。大体、3Dというのは立体感をだすためのはずなのに、なんだか判らない目くるめく映像体験のために使っている。わざわざ左右をずらせているのである。そういう使い方があるわけだと3Dアートの世界を切り拓いた。

 男と女がいて、その関係をたどる中に、犬が出てきて「犬の目」で世界を示す。この犬はゴダールの愛犬だそうで、カンヌ映画祭の「パルムドッグ賞」受賞。(これは「アーティスト」で危機を知らせた犬などに授賞するシャレ。)人間は「言葉」に囚われているが、犬は「自由」に世界を生きる。ついに、人間界をも相対化する映画に行きついたのか。ゴダールは、やはり只者ならず。でも、全然判らないな。

 今では判る「勝手にしやがれ」だって、公開当時は判りにくいと思われた。「気狂いピエロ」だって判りやすくはないだろう。だけど、初期作品は「物語」が詰まっていたのは確かだった。「東風」などの政治映画を作った時が、ある意味では一番判りやすい映画だったのかもしれない。詰まらないだけで。当時の映画は、言語によるプロパガンダに映像が従属していた。今回はついに「Adieu au Langage」だから、「愛の言葉」は邦題であって、言葉そのものにサラバと告げているのか。しかし、実は書物からの引用が相変わらず多く、それは日本語字幕で追わなければならないので、3D映像に耽溺するジャマになる。やっぱり、けっこう「言葉の映画」なのである。今でもゴダールに、あるいは映像表現の可能性に関心を持つ少数の人は見ておいた方がいいかもしれない。大方の人には勧めないけど、まあ、こういう映画もあるという話。どんなもんかと見てみたい人はどうぞ。
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「イスラム国」をどう呼ぶか-IS問題②

2015年02月16日 23時27分19秒 |  〃  (国際問題)
 「イスラム国」をどう呼んだらよいのだろうか。アラビア語で書いても誰も判らないから、英語表記をもとに日本語訳を考えるか、アルファベットの略称を使うしかない。英語表記は、「Islamic State」だから、「イスラム国」で間違いないではないと言えば、その通りだと思う。しかし、それは「自称」であり、「イスラム教」を誹謗するものだという主張も正しい。イスラム世界で、スンナ派もシーア派も、イスラム教を国教とするすべての国々も、一切「イスラム国」を国家としても、組織としても認めていない。NHKも「過激派組織IS・イスラミック・ステート」と呼ぶようになった。

 しかし、それで果していいのだろうかという疑問もある。今回の「日本人人質事件」をきっかけに、様々な人が様々なことを発言したわけだが、確かに「イスラム国への無知」がこんなに多いのかと僕もビックリした。「イスラム国とは外交関係がないので、日本政府は交渉できないでいる」と書いていた人がいるのには、驚いてしまった。自民党が途中から、「『イスラム国』と呼ぶと、国と誤認する人がいる」からと「I S I L」と呼び方を変えたのも理解できなくはない。ニュースでも、必ず「テロ組織」とか「過激派組織」とつけるようになってきた。それはそれでいいだろう。僕も「過激派組織」というのは、そう書くしかないのかなと思う。だけど、「イスラム国」が真に脅威であるのは、その「過激派組織」が「国家」を樹立したと称し、実際に一部地域を「統治」して「徴税」もしているという点にある。「イスラム国」と呼ばないようにすると、今後は「単なるテロ組織に過ぎない」という「過小評価」をもたらすのではないか。

 実際、「有志連合」を形成する各国は、正規軍を動員して空爆を行っている。「テロ組織」であるなら、イスラエルの諜報機関モサドが様々なパレスティナ解放組織に暗殺作戦を行ってきたように、あるいはオサマ・ビン=ラディン暗殺作戦を米軍特殊部隊が行ったように、(それぞれの作戦内容の是非ではなく)正規軍ではなく「特殊部隊」で対応する方がいいはずである。「テロ組織」は、面的な支配領域があるわけではないから、どこかに隠れ潜む組織の中枢を「無力化」すれば、組織の力は大きくダウンするだろう。しかし、「国家」として支配領域を広げてしまうと、まずその領域に部隊を送り込むことが難しい。今はまだ地上軍を派遣する国はないけれど、空から爆撃を加える作戦が成り立つということは、単なる「テロ組織」を超えてしまった現状になっているのは間違いない。呼称はどうあれ、そういう現状認識が必要であると思う。

 以上の論点は、「イスラム国」の「国」の部分の問題だが、では「イスラム」の方はどう考えるべきだろうか。これも、「イスラム国」「イスラム国」と毎日ニュースで出てきて、「殺害」「テロ」「脅迫」などと報道されるのだから、「イスラムというだけで危険なイメージが作られかねない」のは間違いない。でも「イスラミック・ステート」では同じではないのか。判りにくさを増して、少しごまかすということか。ましてや、「IS」とか「ISIL」ではニュースをちゃんと読んでる人しか判らないだろう。それでいいということなのかもしれないが。ただ、「テロ組織イスラム国」と表記すると、イスラム教そのものが危険な宗教だと誤認する人が(少数だろうけど)でてきやすくなる。(なお、アラビア語の略称「ダーイシュ」という言葉もあるが、これでは誰も判らない。)

 では、どうすべきか。僕には、今のところこれという答えはない。どう書いても、きちんとニュースを読まない人、読んでも理解が行き届かない人は出てくるし、それを完全に止められる手立ては誰にもない。おかしなことを言う人がいたら、一つずつ正確な理解を求めていくしかない。だから、呼称問題にそれほどこだわる気持ちはない。自分は報道機関ではないのだから、適当に読み飛ばす人のためには書いていない。自分なりに考えたこと、知っていることをきちんと書けばいいと思っている。「イスラム国」と言うと問題があるとは、だから思わないけど、書くときに配慮はいるんだろう。それより、僕が思うのは、「事件が起きると報道する」のがニュースの特性だから仕方ないとは思うけど、「イスラム過激派がらみの事件」がこう起こると、どうしても中東が危険な地域というイメージが膨らんでしまうということである。こういう時こそ、地道な文化交流(映画とか音楽とか)が大切である。

 なお、僕が「止めて欲しい用語」は別にあって、それは「アラーの神」である。これは「馬から落ちて落馬する」のたぐいで、「アラー」はアラビア語の「神」だから、意味が二重になってしまう。「アラーの神」などという人が今もいる(ニュースで何度も聞いた)から、キリスト教の神とイスラム教の神が違うなどと思い込む人が出てくる。これは心すべきことだと思う。イスラム教の理解については、2012年にイラン情勢が緊迫化した時に2回書いているので、参考にしてください。
イスラム教の基礎理解①」 「イスラム教の基礎理解②
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「イスラム国」と「アル・カイダ」-IS問題①

2015年02月15日 23時33分14秒 |  〃  (国際問題)
 いわゆる「イスラム国」をどう考えるべきなのか。これは大問題だから、書いておきたいと思うけど、細かいことを書きだすとキリがない。「中東」の歴史、宗教と政治と人間の問題など、非常に大きなことは後に回して、とりあえず時事的な関心で数回書いておきたい。むろん、僕はアラビア語を理解できない。だから、直接の資料分析はできないわけで、日本人研究者が書いた日本語の本、あるいは日本の新聞やインターネットの日本語サイトで得た「二次的資料」をもとに考えた「三次的」なものしか書けない。しかし、現代世界は公表された資料によって、かなりの程度理解ができると考えている。(また、そうでなければ、本や新聞を読む意味がなくなる。)

 その意味では、まずは大きな本屋に行けば積んである2冊の新書本を読むべき。池内恵「イスラーム国の衝撃」(文春新書)と国枝昌樹「イスラム国の正体」(朝日新書)である。(池内氏は1973年生まれで、東大先端科学技術センター准教授。国枝氏は1946年生まれで、シリア大使等を務めた元外交官。退職後に書いた「シリア」(平凡社新書)は前に紹介したことがある。)どちらも、とりあえず「読んで損はない」本だと思う。当然のこととして、同じことも書かれているけど、視点が少し違うので、両方読んでもいい。事実を知るという意味で、国際問題に関心がある人はまずこの本あたりから。
 
 ところで、最近になって「イスラム国」や「アル・カイダ」が関係するとされるテロ事件が頻発している。「イスラム国」という呼称をどうするべきかという問題もあるんだけど、それは後に回して、まず現在の情勢を検討しておきたい。フランスの「シャルリ―・エブド」襲撃事件が起こったのは、1月7日だけど、昨年の12月15日にはオーストラリアのシドニーで、人質立てこもり事件事件が起きて、人質2人が死亡している。(犯人は「イスラム国」への共感があったという。)1月16日には、ベルギーでテロ組織と警察側が銃撃戦となり、テロ組織側に2人の死者が出た。また、1月29日に、リビアの首都トリポリでホテル近くで爆弾が爆発し、外国人5人を含む8人が死亡した。これは「イスラム国」系の組織が犯行声明を出している。最新のところでは、2月14日から15日にかけて、デンマークで「言論の自由」集会とシナゴーグ(ユダヤ教の教会)が襲われ、2人が死亡した。ナイジェリア北部の過激派組織「ボコ・ハラム」は相変わらず住民虐殺を続け、隣国チェドにも越境攻撃を行った。ナイジェリアでは大統領選の投票が延期される事態となっている。一体、世界はどうなってしまったんだろうか。

 この事態には、「アル・カイダ」と「イスラム国」の関係というか、正確に言えば「関係断絶」が影響しているのではないだろうか。「イスラム国」は、2014年6月29日にアブー・バクル・アル=バグダーディーが「カリフ」を名乗り、国家を樹立したと宣言した。この組織のもとをたどっていけば、「イラクのアル・カイダ」(メソポタミアのアル・カイダ)に行く着く。日本人の人質虐殺事件を起こしたザルカウィ(アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー)の指導した組織だが、ザルカウィは2006年に米軍の空爆で死亡した。その後、「イラク・イスラム国」と名乗ったりする時期があるが、2013年ごろからシリアのアル・カイダ系組織ヌスラ戦線を下部組織と主張して、イラク、シリアを合わせた「イラクとシャームのイスラーム国」を名乗った。この「シャーム」という地名はシリアからレバノン一帯を指すとされ、「大シリア」と日本では書いたりするが、欧米では「レバント」と言われる地域である。そのため、この組織を「イラクとレバントのイスラム国」とも呼び、この英語での略称がI S I Lとなるわけである。

 イラク戦争やシリア内戦の問題は別に書くが、このようにイラクやシリアの内戦が続く間に「アル・カイダ」系の過激派組織が勢力を伸ばしてきたのである。それはともかく、ではイラクとシリアの組織は完全に合体したのかというと、それは違っている。「イスラム国」はイラクからシリアのかけての国境を「廃止」して「独自の国家」と称しているが、ヌスラ戦線の中にはシリアの反体制組織としてアサド政権打倒を優先させる考えが強い。「イラクはイラク」「シリアはシリア」とそれぞれで活動するべきだという考えである。アル・カイダは「ネットワーク型組織」でピラミッド構造ではないが、オサマ・ビンラディンが殺害された後にはエジプト人のザワヒリが指導者の地位を引き継ぎ、「イスラム過激派世界」では今も権威を持っている。ところで、ザワヒリらは「イラクの組織はイラクに専念し、シリアには介入しないように」という「裁定」を行ったらしい。ところが、「イスラム国」が樹立されたため、「イスラム国」と「ヌスラ戦線」は「内戦内内戦」の状態となった。アサド政権軍に対しては共闘する場合もあるらしいが、相互の関係は断絶したのである。

 この状態を見てみれば、「アル・カイダ」は今まで「中央本部」として中東各地に「フランチャイズ」組織を作り、運営は下部に任せるというやり方で「権威のよりどころ」となってきた。しかし、「イスラム国」がネットを使った宣伝などで注目を集め、志願兵も集まるようになると、「カリフ」を承認して「イスラム国」組織として名乗りを挙げるという選択が増えてきた。この両者の競合関係は、「敵により大きな打撃を与える」=「欧米を対象に大規模なテロを計画する」ことを競い合う状態ではないかと思われるのである。この見方が正しければ、今後も重大なテロ事件がどこで起きても不思議ではないと思わないといけない。インド、パキスタン、インドネシア、中国などの可能性もあるが、西アフリカ、東アフリカなどの危険性も高い。フランスが標的にされるのは、「近代的人権概念の祖国」であることもあるが、西アフリカでイスラム過激派に対抗して武力介入を行っていることも大きいだろう。

 「アル・カイダ」の意味付けはまた別に書きたいと思うが、いわば「純粋な国際テロ組織」として存在してきた。「破壊だけ」である。イスラム世界内で指導者を暗殺し、自分たちが「理想的なイスラム国家」を作ろうという「建設的な発想」は持たなかった。日本の右翼テロの歴史では、「一人一殺」を掲げた戦前の「血盟団」(井上準之助前蔵相、団琢磨らを暗殺した)を思わせる。一応まがりなりにも「日本改造法案」をもとに「国家改造」を唱えた北一輝らとは違うわけである。左翼革命の歴史では、トロツキーとスターリンとも言えるし、あるいはキューバ革命で工業相の地位をなげうちラテンアメリカの革命にいのちを賭けたチェ・ゲバラみたいなのが、「アル・カイダ」だと言ったら、イスラム世界での若き世代にどういう影響を与えたのかが判ると思う。しかし、そこに「イスラム国」が現れ、イスラム世界をカリフ制により統一すると宣言したのである。もっと「現実的な理想的イスラム国家」と思い込んで、こっちにひかれる人が出てくるわけだ。こういう見方でとらえれば、「イスラム国」が実際にすぐ組織を急成長させることは考えがたいとは思うけれど、とにかく「大変な事態」ということは言える。全てのイスラム世界のみならず、近代的国家概念、あるいは人権の概念を一切否定する「国家」が名乗りを挙げたということは、今後も底知れない影響を与え続け、世界の(イスラム世界に止まらない)反体制組織に影響していく恐れが強いと思う。
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北欧ミステリーの魅惑-映画と小説

2015年02月13日 23時22分16秒 |  〃  (旧作外国映画)
 渋谷のユーロスペースで開かれていた「ノーザンライツ・フェスティバル2015」(北欧映画祭)で、北欧ミステリーの映画を2本見た。それを中心に北欧ミステリーの魅惑について書いておきたい。ミステリーと言えば、英米のものが圧倒的に読まれてきたし、その映像化もなされてきた。イギリスのシャーロック・ホームズやアガサ・クリスティのポアロもの、アメリカのハードボイルドや法廷ミステリー。そういう映像で、英米社会の様々な側面を知ってきたところも大きい。フランス、スペインなど大陸ヨーロッパの作品も最近は紹介されるようになったけど、特に近年北欧諸国のミステリーが世界的にブレイクしている。映画にもなっている。その歴史の流れは少しおいて、まず「湿地」から。

 近年ビックリさせられたのが、アイスランドのミステリー作家、アーナルデュル・イングリダソンである。「このミステリーがすごい」で、2012年の4位に「湿地」が選出され、翌年には「緑衣の女」が10位にランクインした。後者は英国推理作家協会のゴールドダガー賞を受賞している。大体、アイスランドといったら、北欧には入るけどずっと北の方の小さな島国で、人口30万強という小さな国である。音楽(ビョークなど)や映画(「春にして君を想う」とか「コールド・フィーバー」などが日本公開)で活躍していることも不思議なんだけど、ミステリーはアーナルデュル以前は誰も書いてなかったらしい。イギリスやスウェーデンが近いということもあるけど、そもそも犯罪が少ないので猟奇的連続殺人とか銀行強盗のカーチェイスとかを書けないんだと著者は言う。そこで著者が取り上げるのは、「家族の秘密にまつわる悲劇」なのである。だから謎解きやアクションの醍醐味はない。でも、犯罪と言えば世界中で家族内で起きることが一番多いわけで、「家族の秘密」ならどこにもあるのである。そこで寒風吹きすさぶ風土の中で、ことさら寒々しいような重たい犯罪悲劇がじっくり展開する。最近両作を地元の図書館で借りて読んだのだが、圧倒される物語だった。確かに警察捜査小説なんだけど、ミステリーというより一般小説。

 その「湿地」が2006年に映画化されていて、今回が初上映。バルタザール・コルマウクル監督という人で、この人は「ザ・ディープ」とか「2ガンズ」といった作品が公開されている。僕は見てないので、この「湿地」が初めて。アイスランドの風土を生かして、原作をうまく映像化している。原作とは少し違うが、一番大きいのは、「犯人」と「犯罪そのもの」がけっこう早く映像で出てくること。だから、謎解き的興味は原作以上に薄いが、映像で見せられるという特徴を生かしている。原作でイメージできなかった「アイスランドの家庭料理」のヒツジの頭の煮つけとかもわかる。マグロのカマみたいな感じもするけど、見て美味しそうな感じはあんまりしないなあ。原作の持つ悲劇性がうまく映像化されていて、これは是非正式に公開されて欲しい作品。

 今回の映画祭では、他にスウェーデンの2作が上映された。昨秋に訪日した人気女性作家、カミラ・レックバリ原作の「エリカ&パトリックの事件簿 説教師」は上映が一回で見ていない。このシリーズは集英社文庫で7冊まで刊行されている。本国だけでなく世界的な人気シリーズだというが、まだ読んだことはない。スウェーデンのミステリーと言えば、まずは60年代にベストセラーになった刑事マルティン・ベックのシリーズから始まると言ってもいい。ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァル夫妻の共作により10作がかかれ、特に「笑う警官」が有名になった。すべて角川文庫に入っていたが、最近新訳が出ている。その「唾棄すべき男」という作品の映画化、「刑事マルティン・ベック」が今回のラインナップにあった。1976年の作品で、本国から英語字幕の入ったフィルムを取り寄せて日本語訳を付けた上映で、また見ることはできないかもしれない。1978年に日本公開されているらしいが、知らなかった。監督はボー・ウィーデルベリで、「みじかくも美しく燃え」「愛とさすらいの青春 ジョー・ヒル」などが有名。「刑事マルティン・ベック」は病院で殺された刑事の過去を追いながら、過酷な人生を歩む男が突然ビルの屋上から銃の乱射に至る。ここがヘリまで出てきてすごい。マルティン・ベックは太った中年刑事だけど、屋上に登ろうとするなど頑張っている。「笑う警官」がアメリカで「マシンガン・パニック」という題で映画化された時は、ウォルター・マッソーがマーティンをやっていた。

 一方、「未体験ゾーンの映画たち」という特集上映の中に、デンマークの特捜部Qシリーズの「特捜部Q 檻の中の女」が入っていた。もう上映は終わっている。ごく小規模な公開だったので、ほとんど見た人はいないのではないかと思う。ユッシ・エーズラ・オールスンの原作をミケル・ノガール監督が映画化。映画は原作よりだいぶ短い。だから、どんどん進むので筋は判りやすいが、真相にたどり着くまでの紆余曲折が簡単すぎる感じはする。まあ、原作を読んでなければ、これで十分かもしれない。美人政治家が惹かれた男性はというと、女も男も僕は少し期待外れなんだけど、まあ面白く出来ていた。捜査で同僚を失いケガした主人公は、未解決事件捜査の特捜部に回される。そこにシリア難民(原作は2007年刊行だから、今の内戦とは関係ない)の「アサド」なる不思議な人物が登場するが、その辺りの掛け合いも原作を知ってれば楽しめると思う。
 
 この北欧ミステリーの隆盛は、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム」の世界的大ヒットがきっかけになったと言える。とにかくあの原作シリーズは超絶的に面白く、スウェーデンのみならずアメリカでも映画になって日本でも公開された。どれも見てるけど、はっきり言って、映画は原作のダイジェストに過ぎない。面白さは10分の1ぐらいだろう。スウェーデンのミステリーは、先に挙げたマルティン・ベックシリーズや、僕の大好きなヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーシリーズなどの長い伝統がある。調べてみると、ずいぶん翻訳されているので驚くぐらいである。しかし、最近はデンマーク、アイスランドに続き、ノルウェーやフィンランドの作品も翻訳されている。北欧5カ国のミステリーが好まれているのは、「北欧」そのものの魅力も大きいだろう。

 北欧諸国と言えば、福祉が発達し、教育政策も進んでいるし、女性の社会進出では世界の最先進国というイメージがある。人口が全然違うので単純に比較しても仕方ないが、日本のモデル的な国々と思っている人も多いだろう。でも、ミステリーを読むと、女性への暴力、福祉の貧困ばかりが印象に残る。一体、なぜ? でも、それは当然だろう。世界のどこの社会にも「暗部」がある。だからこそ、北欧で福祉が発達するわけで、もともと問題がなければ福祉を発達させる必要もない。北欧の多くの国では、国政政党が女性議員のクオータ制(割り当て制)を取り入れ、その結果、国会議員の3割から4割が女性議員である。しかし、こういう制度も「作る前は男性議員がほとんど」だったから作ったはずで、北欧社会も理想的な社会だったわけではないということだろう。北欧諸国では「現実を変えていく政策」が取られ、変って行ったけれど、だからこそ今も根絶できない性差別、性犯罪、あるいは汚職、経済犯罪、銃や麻薬、移民差別などが重い問題と意識される。重く暗い現実を突きつけるような社会派ミステリーが書かれるほど、実は社会は開かれているという面もあると思う。

 もう一つ、僕は「ミステリーは冬が似合う」と思っているように、北欧の厳しい気候風土がミステリー向きだということもあると思う。風景が美しければ美しいほど、そこで苦しむ人間の苦悩も深い。アメリカに多いコメディタッチのミステリーは北欧に向かない。カリフォルニアの乾いた風土に似あう私立探偵のハードボイルドも北欧には向かない。人口も少ないし、そんな職業は難しい。だから「警察捜査小説」ばかりである。警官の目を通して、社会の矛盾を追う。日本と違い、警官も自由にふるまっているので、警察内部の暗闘ばかり出てくるような日本の警察小説とも違う。ともあれ、北欧ミステリーは今熱い。
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「野性の証明」「南極物語」のころー高倉健の映画①

2015年02月13日 00時11分44秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸坐高倉健の追悼特集を行っている。第一部ははすでに終わり、第二部が18日から30日までとなっている。第二部では東映時代初期のレアな映画も上映される。第一部をほとんど見たので、第二部の紹介もかねてまとめたおきたい。第二部のチラシは新文芸坐のホームページで簡単にみられるが、時間と作品紹介を最後にアップしておく。
 
 「万年太郎と姐御社員」「東京丸の内」はサラリーマンもので、そんなのもやってたんだという映画。「悪魔の手鞠唄」「恋と太陽とギャング」も珍しい。前者は高倉健が金田一耕助を演じている。「ならず者」「いれずみ特攻隊」も数年前に新文芸坐で見たが、石井輝男の確かな技量を楽しめる佳作だった。若き高倉健の魅力を確認することができる。今回は東映時代ということで「任侠映画」が多い。ちょっと前まで、新宿昭和館や浅草などで毎日のようにやっていたものだが、今では映画館で見る機会が少なくなった。全部見ているわけではないが、「昭和残侠伝 死んで貰います」や「網走場番外地 望郷扁」は傑作。任侠路線の先駆け「人生劇場 飛車角」なんかも好きである。でも、深作欣二「狼と豚と人間」「ジャコ萬と鉄」などの非任侠映画、組織ではなく「自己」を賭けた戦いの方が好きだという人も多いだろう。現在では、テレビやシネコンなどでは上映不可だと思われる「山口組三代目」もある。

 第1部作品中、「八甲田山」は前に見てるから、冬に見直しても寒そうなので敬遠した。それを言えば「南極物語」も寒かったけど、これは初めてだから見ることにした。他の映画は「野生の証明」(初めて)、「ブラックレイン」、「遙かなる山の呼び声」、「君よ憤怒の河を渉れ」が2回目、「幸福の黄色いハンカチ」は3回目。まとめて言えば、「思ったより面白く見られた」。公開当時に見た時は、ほとんどが好きな映画ではなかったからである。

 高倉健の役どころは、「サブリーダー」が多い。「中間管理職」と言ってもいい。東映任侠映画時代も、年齢的にも当然だけど、親分(組長)ではなく「代貸」(だいがし)や「若頭」を演じていた。だから上と下の狭間で苦しむことが多い。東映から離れても似たような役で、「ブラック・レイン」も「八甲田山」も上と下の間で苦しむ。「南極物語」も全く同じで、面倒見の対象が犬に代わっただけ。構造的には「任侠映画」なのである。何度か上訴して犬のために死地に赴こうとして止められ、ようやく第二次隊員として南極に「殴り込み」をかける。ずっと、そういう「こらえにこらえたあげく」「思いを果たすために最後に無謀に乗り込む」役柄を演じ続けた。これは日本民衆の心を映し出している。最後に殴りこみたいけど、現実の観衆はこらえているわけだが。年齢とともに、役柄もえらくなる俳優も多いが、高倉健は最後まで「出世」しなかった。総理大臣の役などは似合わない。

 「野生の証明」(78)、「君よ憤怒の河を渉れ」(78)は、どちらも佐藤純彌監督のアクション大作で、今見ても十分面白かった。「野生の証明」は薬師丸ひろ子のデビュー作だけど、当時は角川の大宣伝にウンザリして見なかった。三國連太郎、夏木(夏八木)勲など近年亡くなった俳優も多く、追悼のムードで見た。自衛隊の陰謀的なストーリイだから、自衛隊の協力は得られず外国で撮影したが、なかなか迫力がある。しかし後に中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」の方が面白かった。当時は原田芳雄を高倉健よりカッコよく思ったが、今見ると違和感がある。陰謀により追われることになる高倉健の検事が、逃げに逃げて反撃に向かう。北海道から飛行機で戻ったり、新宿で馬が大暴走したり、確かに迫力。まあ、日本映画としてはごく普通の娯楽大作だけど、楽しめる。
(「野性の証明」)
 「ブラック・レイン」(89)はリドリー・スコット監督がやたらに面白かった時期の映画。(「テルマ&ルイーズ」までがその時期。)「エイリアン」「ブレードランナー」の監督が日本を舞台にアクション映画を作ったと期待して見て、実は期待外れだった。今回見ても、どうも外してる感は強い。まあ、あんまりうるさいこと言わなければ面白かった。ただし、高倉健ではなく、やはり松田優作の怪演ばかりが印象に残る。だから高倉健のことは忘れてしまっていて、アンディ・ガルシアと一緒にレイ・チャールズを歌っていたのに驚いた。英語を話せる刑事という役である。大阪が戦前の上海かと思う「魔都」として描かれるリアリティ皆無のオリエンタリズム映画で、高倉健映画としては中程度か。

 「南極物語」(83)は犬の「演技」と「南極」(撮影場所の多くはカナダ北極圏)の自然ドキュメントとしては面白いが、劇映画としては非常につまらない。結末を知っているということもあるけど、うーん困ったなという映画。犬好きだから犬の姿を見てると泣けるんだけど、それだけでは映画としては弱い。83年度のキネ旬ベストテン号を探したら21位にランクされていた。「南極物語」を1位にしている人がいて、誰かと思えば小森のおばちゃま(小森和子)。
(「南極物語」)
 選評に「(前略)奇異に思われるでしょうが、人間ならぬ犬の、あれほど自然な演技を画面にとらえた点です。しかも、洋画に出演する犬とちがって、これらエスキモー犬は演技訓練などまったくされていない。だから実際にその状態に彼らを追いこんで、その反応をとらえたもの。その人間の役者と使ってする以上に苦労、苦心した点と、それに応えた犬たちの健気さに感動。」とある。確かに、そういう言い方をすれば、ベストワンになるかもしれないけど…。

 山田洋次監督作品に出て、高倉健は「国民的俳優」への道を歩き始めた。しかし僕は「幸福の黄色いハンカチ」(77)があまり好きではなかった。武田鉄矢のセリフが好きになれないのと、結果が判っている(ピート・ハミルのコラムというか、当時ドーンが歌ってアメリカでヒットした「幸せの黄色いリボン」の映画化だから)のも大きいが、高倉健の設定に感情移入できない。倍賞千恵子の妻が、前夫との間に妊娠(流産)歴があることを夫に言ってなく、それを知って隠し事をする女は好かんと切れてしまい、飲んで外出してケンカを吹っかけて相手を殺してしまったというのである。どこに同情できるのか。

 これは「殺された側」から見たドラマも成立すると思う。バカップルと暴力男のロード・ムーヴィーで、見た当時は楽しめなかった。10数年前に見直したが、その時も「犯罪被害者」を無視した映画のように思えて納得できなかった。しかし、今回見ると、シナリオのうまさと演出の巧みさは認めざるを得ないと脱帽した。ある意味、時間が経って、映画の成り立ちだけで評価できるようになってきたことが大きい。20年ぐらい前に毎年夏に北海道をドライブしていた時期があり、この映画の道をほとんど運転しているので、懐かしい思い出である。ただし、佐藤勝の音楽が僕にはうるさい時があった。(また、阿寒湖温泉は透明のはずではないかと思うが。)

 山田洋次監督のもう一本、「遙かなる山の呼び声」(80)は昔から割と好きな映画で、無理は多いと思うが、ラストで感涙を呼ぶ。健さん映画で一番泣けるかも。明らかに「シェーン」なんだけど、北海道の牧場で小さな吉岡秀隆を馬に乗せるシーン、高倉健が乗馬するシーンは名場面。高倉健はこっちでも「犯罪者」だけど、この映画では同情できる。(だから逃げる必要が判らない。)どっちの映画にも渥美清が特別出演しているが、昔は渥美清が出てきただけで、観客は笑ったものだ。今は無論そんなことはないんだけど、それが寂しい気もした。特に、この映画では「牛の人工授精師」という役柄だから笑わせる。ハナ肇も出ていて、高倉健と張り合った結果、子分になってしまう。この映画は、大傑作ではないと思うけど、好きな映画で、少なくとも「幸福の黄色いハンカチ」よりは納得できる。
 
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海老原喜之助展を見にいく

2015年02月11日 21時37分45秒 | アート
 横須賀美術館で4月5日まで開かれている海老原喜之助(えびはら・きのすけ 1904~1970)の展覧会を見に行ってきた。遠いので、車で行ったんだけど、話は逆で車で行きたい場所に行ってきたのである。(その話は最後に。)横須賀美術館というのは初めて行ったけど、横須賀も先端の方、観音崎に近い当たりで観音崎京急ホテルの真ん前あたりにあった。ここは昔泊まったことがある。その時は、翌日に浦賀のペリー碑などを見て回った。幕末の土地勘を得るために、一度は行きたい場所。
 
 海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。

 その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。

 戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
  
 さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。

 小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。
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映画「さよなら歌舞伎町」

2015年02月10日 23時46分48秒 | 映画 (新作日本映画)
 廣木隆一監督「さよなら歌舞伎町」は、荒井晴彦、中野大のオリジナル脚本で、現代日本の世相を巧みに切り取った佳作だった。いろいろな設定で多くの俳優が様々なドラマを演じていて、少し偶然が過ぎる感じはあるけれど、まずは興味深く見られる作品。新宿の歌舞伎町周辺がロケされていて、時間が経つと貴重な記録性が出てくるかもしれない。新大久保周辺の在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチの様子も映されている。(現実のもの。)また、セリフの中に震災に関した設定があり、2013年冬に撮影されたと思われるが、時代を刻印した映画になっている。
 
 主演というか、一番最初にクレジットされているのは、染谷将太前田敦子。二人はカップルで同棲しているが、今までの経緯は出てこないし名前も出てこない。ホームページを見ると、染谷は高橋徹というらしい。前田敦子(だいぶ存在感のある女優になった感じ)は、ミュージシャンとしてメジャーデヴューを目指しているようだが、途中でメールの発信人として飯島沙耶という名前と判る。染谷はお台場のホテル勤務と家族にも恋人にも言っているらしいが、実際は新宿歌舞伎町の「ラブホテル」の店長である。「オレはこんなところにいるべき人間ではない」と思いながら、やる気のなさそうな同僚と仕事している。

 この映画は、そこで働く人々、また訪れる人々を描き分けていく、いわゆる「グランドホテル形式」の映画である。「ラブホテル」の映画だから、「訳あり」ばかりである。どんな訳かは、詳しく書き過ぎると見る楽しみを損なうだろうが、大体の設定はホームページにも出ている。内緒で「デリヘル」している韓国人女性ヘナとその恋人のカップル、従業員鈴木里美と一日中家にこもっている「逃亡中」の相棒、家出娘と風俗スカウトマン…。ヘナを指名する「客」も3組出てくるし、ホテルでAV撮影もある。不倫刑事も出てくる。店長の妹や恋人まで、ホテルで出会ってしまうのは、歌舞伎町の奥にはホテル街が広がっている中で「偶然過ぎる」感じが強いが、まあこのくらいしないとシナリオが映画化されないかもしれないので、まあ許容範囲か。その結果、ずいぶん様々なドラマが展開されるわけである。

 監督の廣木隆一は、脚本の荒井晴彦とは「ヴァイブレータ」「やわらかい生活」に続く3作目。94年の青春映画「800 TWO LAP RUNNERS」の印象も強いが、やはり圧倒的に「ヴァイブレータ」が突出した傑作だろう。今度の「さよなら歌舞伎町」は、登場人物が多いため、あれほどの凝縮性は求めようがない。しかし、逆に様々な断片の面白さは際立っていて、その生き生きとした描き分けはさすがのベテランぶりを発揮している。冒頭近くに、染谷・前田が自転車で新大久保のあたりを2人乗りしていて、ラストはその自転車を借り受けた従業員鈴木里美(南果歩)と同棲相手の松重豊の二人乗り。街を自転車の速度で駆け抜ける、歩くよりは速く、車よりは遅いスピードが、この映画の基本ペースという感じ。

 韓国人デリヘル嬢役のイ・ウンウ(イ・ウヌ)は、韓国映画「メビウス」に出ていた人だというが見てないので初めて。実際の韓国女優が「風俗嬢」役を見事に演じている。その恋人役はロイという韓国のアイドルグループの人だというが、この二人のカップルは非常に印象深い。南果歩の従業員役も印象的で、まあこういうのは難しいようでいて実はやりやすい役ではないかとも思うが、さすがにうまい。この映画には、様々なタイプの、様々な役柄が描かれているが、ほんのちょっとした出番で人の本質を描こうというんだから、シナリオも俳優も大変である。でも、どんな「現場」にも、「人間性」が表れ、「一隅を照らす」ということがあるらしいと信じさせる。そこが見所だと思う。

 歌舞伎町という場所は、JR新宿駅からは少し遠いが、映画館や飲食街が立ち並ぶ一大歓楽街として有名なところ。しかし、巨大映画館として知られた新宿ミラノが2014年末で閉館し、今は一つも映画館が無くなってしまった。(TOHOシネマズ新宿がもう少しすると開館する予定だが。)空襲で焼け野原になったところに、地元では歌舞伎の劇場を作ろうと構想して歌舞伎町という地名が生まれた。しかし、歌舞伎はやって来ず、風俗街的な印象が強くなってしまった。昔は映画を見に時々行ったことがあるが、最近はずいぶん行ったことがない。コリアンタウンとして有名になり(その結果、「韓流」とか「ヘイトスピーチ」などでも有名になってしまった)大久保(JR山手線の駅名は新大久保)はすぐ隣の町。ラブホテル街は大久保に近い。そんな歌舞伎町界隈の現在をとらえた映画でもある。ラブホテルの裏側(というか、内部。ホテルのフロントの奥)のようすが判る。外観は実際に新宿にある「ホテルアトラス」で撮影しているという。室内のシーンは、千葉県柏にある高級ラブホテル「ホテルブルージュ」というところで撮影されたとホームページに出ている。
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裁判員裁判と死刑問題

2015年02月09日 23時19分28秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 映画の話をはさみながら、「イスラム国」問題を書いておきたいと思うのだが、その前に「裁判員裁判と死刑」の問題を書いておきたい。1審の裁判員裁判で「死刑」の判決だった事件が、2審の控訴審で無期懲役に減刑されたという2つのケースがあった。検察側が上告していたが、それに対して最高裁は2月3日付で上告を退ける決定を行い、2審の無期懲役判決が確定した。この問題に対して、新聞の社説でも各紙が取り上げているが、それよりも僕はラジオ番組で聞いた「解説」にたまげてしまった。その番組では「もう一回、裁判員裁判をやって、また死刑だったらどうするんでしょうか」なんて言ってた。三鷹のストーカー事件(ちなみに1審判決は懲役22年)の2審判決(地裁に差し戻し)と混同しているのである。また、「国民が仕事を休んで、重い決断をした判決を官僚裁判官が変えていいのか」などと非難していた。ちょっとビックリである。

 最高裁の判断そのものを批判することは自由だけど、そもそも「裁判員制度で出た判決は、変えてはいけない」とでもいうような議論は、間違いとしか言えない。被告人は、1審判決に納得できなければ、控訴、上告する権利を持っている。何だか「裁判員裁判に関しては、1審だけにするべきだ」とでも思い込んでいる人がいるのかもしれない。でも、もちろん控訴、上告できるわけで、上級審で審査した結果として、判決が変更されることもありうる。そういう制度に、日本の裁判はなっているのだから。

 また最高裁の役割は、「憲法の判断」と「判例の統一」である。だから、「憲法違反」か「判例違反」がないと最高裁に上告できない。(そのことは案外知らない人がいる。)単なる「量刑不当」は、そもそも上告理由にならない。「量刑はどうするか」は、被告人を前にして事実の取り調べをする、1審、2審で基本的には決めるべきことである。もっとも、量刑不当、あるいは事実誤認を最高裁が認めることもある。最高裁は、「職権で事実調べ」ができるし、事実認定をやり直し新しい判決を出すこともできる。しかし、それは例外中の例外で、基本的には最高裁は法律問題を議論する場であって、だから最高裁で行われる弁論や判決には、刑事事件の被告人は出廷しない。(そのこと知らないのか、例えば秋葉原事件などで、「最高裁判決に被告は出廷しなかった」などと書くマスコミもある。)

 国民は「法の下に平等」であるはずだが、同じような性格の事件を起こした被告が、ある裁判員裁判では死刑になり、また他の裁判員裁判では無期懲役となるというのでは、裁判としてはおかしいと思う方が普通だと思う。量刑の基準というのは難しいものである。というか、「ルールの境目」は何にしても難しい。サッカーの試合で、ある行為にファウルを宣告するかしないか。相撲の取り組みで物言いがついて取り直しにするかしないか。そういう境目は難しいわけだけど、特に死刑制度がある国では、死刑とそれ以下の刑の境目を、ある程度は示すことが出来ても、事件ごとに事情が微妙に違うから、その判断は難しい。どうするかと言えば、最高裁まで争ってそこで決着させるしかない。

 ところで、刑事裁判というものは、「二重構造」になっている。まず、第一段階として「検察側の証拠で有罪が立証できたか」を判断し、第二段階として「有罪を認定した場合は、量刑をどの程度にすべきか」を判断するわけである。言うまでもなく、今回の最高裁決定は、この「第二段階」に関わるものである。しかし、裁判員制度の問題を考えるのならば、「第一段階の判断」をめぐる問題こそ重大なものではないか。つまり、裁判員裁判で無罪判決だったものが、2審で有罪となり、最高裁で確定した。さらに、裁判員制度で有罪判決だったものが、2審で無罪となり、最高裁で確定した。そういうケースはあるかと言えば、検索すればすぐ判ることなので敢えて細かいことは書かないが、どっちの事例も存在する。そっちの方が問題ではないか。有罪判決を受けた被告が上訴する権利は奪えないと思うが、国民が無罪と判断した裁判では、検察側は上訴できないという制度の国は多い

 裁判員裁判で、特に死刑判決を出すというのは、非常に「重い判断」が求められるのは間違いない。しかし、それは裁判員制度の問題ではなく、死刑制度の方の問題である。世界に裁判員、あるいは陪審員を国民が務める国は多い。というか、世界の主要国ではほとんど行っている。だから、日本国民だって、司法に関与するということ、それ自体は当然のことだと思う。だけど、多分、国民が選ばれて裁判に参加して死刑判決を出す国は、日本だけではないだろうか。ヨーロッパ諸国では、裁判員または参審員という制度がある国が多いが、もとよりすべての国で死刑は廃止されている。アメリカ合衆国では死刑制度がある州とない州が混在しているが、いずれにせよ陪審裁判なので、国民は有罪か無罪かだけを判断する。日本もその方がいい。

 死刑制度そのものも廃止するべきだと思っているのだが、それは別にして、国民は有罪か無罪かを判断するという制度の方がいいと思う。量刑は、今までの基準を知っているプロの裁判官が判断すればいいのではないだろうか。有罪か、無罪かは、検察側・弁護側の主張を聞いて常識で判断すればいいわけで、普通の一般常識がある国民ならできるはずだ。もし、単なる常識では判断が難しいようなケースがあれば、それは「疑わしきは被告人の利益に」とするしかないと思う。有罪か無罪かを争う裁判は、数は少ないから、被告・弁護側が有罪を認め、裁判員裁判を望まない場合は、敢えて裁判員裁判をする必要も無くなる。こうなれば、国民の「負担感」もかなり解消されるだろう。

 その結果、刑事事件の裁判員裁判が減少すると見込まれるので、民事裁判にも裁判員裁判を導入することを考慮すべきだと思う。民事裁判こそ、国民の考えを反映して行われるべき裁判ではないか。というのが、僕の裁判員制度に関する考えで、前にも少し書いたことがあるように思うけど、改めてまとめて書いた。裁判員の経験を他に漏らしてはいけないというのも、日本では異常に厳しい法規制となっている。教育をめぐる議論でも、「考える授業」への転換というのが求められている。裁判員制度というのも、本来は国民どうしが丁々発止と議論を飼わせるというのが前提となっている。しかし、日本社会はむしろ強い意見、多数の意見を見極め、その「流れ」に乗っていく、「空気」を読むというのが、生きる知恵のように思われている。そういう社会を変えていくためにも、国民同士の争いである民事裁判に、国民が関与できる仕組みが必要なのではないか。
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宮尾登美子、ワイツゼッカー、フランチェスコ・ロージ他ー2015年1月の訃報

2015年02月08日 21時55分31秒 | 追悼
 前回、昨年の12月の訃報をまとめた時には、まだ宮尾登美子(12.30没、88歳)の逝去は公表されていなかった。最近は家族だけで密葬を行い、一週間から10日ぐらい経ってから(時には何カ月も経ってから)世に知らせるというケースが結構ある。僕は直木賞受賞作家は、受賞作程度は読むようにしてるんだけど、数が多いから例外もある。その一人が宮尾登美子で、何しろ長そう、重そうな本で、つい敬遠してしまったままなのである。大体映画化されているけど、映画でも2本しか見てない。
(宮尾登美子)
 月末に亡くなった芥川賞作家の河野多恵子(1.29没、88歳)も読んでない。芥川賞受賞作を収めた「蟹・幼児狩り」という文庫を読み始めたこともあるんだけど、珍しく途中で挫折したままになっている。文化勲章まで取ってしまったけど、作風からするとへェと思った。作家では直木賞作家(をはるかに越えた学識の人だが)陳舜臣氏も亡くなり、追悼を書いた。また、直木賞作家では赤瀬川隼(1.26没、83歳)も亡くなった。赤瀬川原平の実兄で、「白球残映」という野球小説で受賞している。これは読んでる。
(河野多恵子)
 1月は寒いからか、例月にも増して訃報が多かった感じだ。吉行あぐり(1.5没、107歳)が亡くなった。晩年には朝ドラにもなった伝説の美容師だが、何と15歳で人気作家、吉行エイスケと結婚。エイスケは1940年に死んで、作家としては忘れられた。子どもが3人、吉行淳之介、和子、理恵だが、女優の吉行和子だけが生きている。淳之介と理恵は芥川賞を受けた。長生きするのはめでたいが、子どもが先に逝くことにもなる。吉行和子さんは僕の好きな女優なんだけど、母親のあぐりさんに負けないほど元気に活躍して頂きたいものだ。
(吉行あぐり)
 長命女性では、園田天光光(11.29没、96歳)も亡くなった。戦後初の(最初に女性参政権が認められた時の)総選挙で当選した39人の一人である。その時は社会党所属で松谷姓だったが、1949年になって党派を超えて園田直(民主党)と「白亜の恋」を実らせた。とまあよく言われるが、園田には妻子があり、未婚のまま妊娠して結婚に至ったという経緯は当時は非難されることが多く、それまで3回当選していたが、以後は何度か立候補するものの当選できなかった。その時の前妻の子が園田博之で、園田直の死後にはともに自民党の公認を求めて争った。
(園田天光光)
 まだ若い年齢では、ロス、ソウルで金メダルを取った柔道の斉藤仁(1.20没、54歳)、台湾出身で中日で活躍した野球の大豊泰昭(1.18没、51歳)とスポーツ関係者が多い。

 脚本家の白坂依志夫(1.2没、82歳)は、昨年フィルムセンターで行われた増村保造特集で見た映画のかなりの脚本を書いた人である。同時代的には「大地の子守唄」などに感銘を受けたが、50年代末の熱気を反映した開高健原作の脚色「巨人と玩具」が一番好きかもしれない。追悼文を書こうかとも思ったんだけど、書いても増村映画論みたいになってしまうし、それは昨年書いたので書かなかった。

 SF作家の平井和正(1.17没、76歳)は「幻魔大戦」を書いた人だが、「8(エイト)マン」の原作者だと訃報で知った。これは「鉄腕アトム」より好きだったTVアニメだが、その頃は幼すぎて細かいことを覚えていない。その後も調べたことがなかった。でもテーマ曲は歌える。憲法学者の奥平康弘(1.26没、85歳)は、今まさに問題化する「表現の自由」「知る権利」の専門家であり、九条の会の呼びかけ人だった人。新聞等ではいろいろ読んでいると思うんだけど、専門が違うので、本格的な研究書などは読んでいないので、業績を論じるほど詳しくない。

 社会党を離党して社民連で長く活動した阿部昭吾(1.4没、86歳)が亡くなった。かつての「中選挙区」だから当選を続けられたわけだが、山形3区で10回連続当選である。「社会党」を知ってる人がどんどんいなくなる。ここらまでが知ってた人。知らなかった人では邦楽作曲の第一人者、唯是震一(ゆいぜ・しんいち 1.5没、91歳)、バレエダンサーで振付家、小川亜矢子(1.7没、81歳)、音楽写真の第一人者、木之下晃(1.12没、78歳)、能楽観世流の人間国宝、片山幽雪(1.13没、84歳)などの諸氏は訃報で知った方々。

 外国では、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー(1.31没、94歳)が亡くなった。西ドイツの大統領として、戦後40年にあたる1985年に「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と歴史を直視する勇気を求めた国会演説で、日本でも非常に有名になった。統一ドイツの初代大統領でもある。(ただし、ドイツでは大統領には、直接の政治的権限はない。日本と同じく議院内閣制である。)元々はキリスト教民主同盟の議員で、保守系の人だということもあって、日本では大きく取り上げられることが多い。僕も使ったこともあるが、演説から30年も経ったのかという感慨がある。
(ワイツゼッカー)
 ドイツでは、社会学者のウルリヒ・ベック(1.1没、70歳)も亡くなった。「危険社会」と訳された本で、「リスク社会論」を唱えて世界的に有名となった。脱原発論にも影響を与えているが、非常に重要な考え方で会って、現代社会を考える時に落とせない。もっとも僕もその代表作は読んでない。だけど、いろんな人が触れているのを読んできた。

 イタリアの映画監督、フランチェスコ・ロージ(1.10没、92歳)も本当は追悼を個別に書こうかと思ったんだけど、今では知る人も少なかろうと止めてしまった。戦後イタリアの「社会派」を代表する映画監督で、「シシリーの黒い霧」(62年)でベルリン監督賞、「黒い砂漠」(72年)でカンヌのパルム・ドールなどを得ている。だけど、僕が一番好きだったのは「エボリ」という映画で、これは「キリストはエボリで止まりぬ」という有名な小説の映画化。ムッソリーニ時代に南部の寒村に流刑になった男の話で、いわば文革の「下放」みたいなもんなんだけど、「キリストの恩寵もやって来なかった」(近くのエボリという町で止まってしまった)という意味の原題だから、本来は日本語題名はおかしい。まあ、それはともかく、ファシズムとマフィアというイタリアの暗部を見つめ続けた映画作家で、その社会派ぶりは好きだった。
(フランチェスコ・ロージ)
 イタリア映画では、フェリーニの「甘い生活」に出たアニタ・エグバーグ(1.11没、83歳)の訃報もあった。正直、まあ生きていたのかという感もあったが、スウェーデンの女優で、「甘い生活」のトレビの泉シーンが圧倒的で、記事でも他の映画には触れていない。調べると、ミスユニバースになって渡米、ハリウッド版の「戦争と平和」何化にも出ている。フェリーニの「道化師」や「インテルビスタ」にも出ているというけど、忘れている。他に、サウジアラビアのアブドラ国王(1.23没。90歳)やノーベル賞学者の訃報もあるけど、まあこの程度で。
(「甘い生活」のアニタ・エグバーグ)
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