尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

年末に読んだ本-「孤狼の血」「流」など

2015年12月31日 21時58分13秒 | 〃 (ミステリー)
 昨日書くつもりが、読んでいた「孤狼の血」が面白くて、ブログ書くより本読みたいと思って止めることにした。ホントは最後に政治の書き残しをまとめるつもりだったけど、まあ来年にしたい。どうせ選挙の話をいっぱい書くことになるんだし。政治や国際問題の話は、自分で自分の考えをまとめておく必要があるから、時々書きたくなるんだけど、最近書く気がグッと失せたのが「教育」問題。もうここまで来たら、現場の頑張りでどうなるという段階を超えているので、書きたい気持ちが失せる。でも、まあそれでも一つの役割かと割り切って、来年は書き続けたいと思う。

 年末は恒例でミステリー系が多いけど、その前に。11月から12月にかけ、新潮文庫から出ている「日本文学100年の名作」という年代別短編集を4巻まで読んだ。全10巻あるので、まだ6冊残っている。岩波文庫でも近代日本の短編集が出ているが、それは明治から戦後まで全6巻。明治の初めの頃は面倒な感じで、まだ読んでない。今さら「舞姫」や「武蔵野」を再読するのもエネルギーがいりそう。新潮文庫は1914年の新潮文庫創刊100年を記念して、10年ごとに一巻。池内紀、川本三郎、松田哲夫三氏が岩波とかぶらないように選んだアンソロジーである。

 こっちはエンタメ系もいっぱい入ってるし、字が大きいから読みやすい。村上春樹や吉本ばなな、小川洋子なんかはもちろん、森見登美彦、道尾秀介、桜木柴乃、辻村深月、伊坂幸太郎なんかまで入ってる。ここまで新しいと、全部読んでますという人は少ないだろうから、作家ガイドに役立ちそう。どの巻にもいくつか読んでる作品があるから、そもそも買ってなかったんだけど、思い切って買って読み始めた。それは大正から現代までの日本の作家をザッと一覧したい気分になったから。例えば、第一巻には1914年から1923年までの作品が入っている。そうすると、森鷗外「寒山拾得」江戸川乱歩「二銭銅貨」が両方載っているのである。この2作を読んでる人は多いだろうけど、荒畑寒村「父親」とか長谷川如是閑「象やの粂さん」なんてのを読んでる人は少ないだろう。でも如是閑の小説が面白いんだな。

 震災があり、戦争が始まりという時代の移り変わりもよく判る。大体名前ぐらいは知ってるもんだが、2巻には加能作次郎という全然知らない作家がいる。いや、それが面白い。川崎長太郎なんて読んだことはなかったんだけど、花柳小説の「裸木」に出てくる映画監督のモデルが小津だというからおかしい。梶井基次郎「Kの昇天」林芙美子「風琴と魚の町」は読んでたけど、久しぶりに読んでも、ものすごい完成度である。一方、戦後に評判の安吾「白痴」太宰「トカトントン」を再再読して、案外面白くない。認知症を扱う永井龍雄「朝霧」が時代に先駆けていた感じがするのが、発見だった。

 このシリーズは読み続けて、また書きたいと思う。その後、折々に村上春樹の最近の本を読んでるけど、これもそのうちまとめて書きたい。その後、夏に直木賞を取った東山彰良「流」を読んだ。単行本で読んだ直木賞作品は桜木柴乃「ホテル・ローヤル」以来。数年すれば文庫になるわけだけど、つい待ちきれない気になった。(文庫では、最近姫野カオルコ「昭和の犬」を読んだけど、かなり不思議な構成の話だった。)知ってる人も多いと思うけど、台湾の青春の話。1975年に蒋介石が死亡し、祖父が殺される。この祖父は山東省出身で、国共内戦に敗れて台湾に逃れた。(いわゆる「外省人」である。)そして、複雑な歴史が絡んで、その祖父の死の謎について書かれる。でも、ミステリーというよりも、青春ケンカ小説であり、恋愛小説。ちょっと前の韓国映画にも多かったけど、最近の日本では「青春ケンカもの」が成立しなくなってしまった。非常に面白いのは間違いないし、東アジアの複雑な現代史を知らない日本の若者には読んで欲しい本。

 柚月裕子「孤狼の血」は今回の直木賞候補。1968年生まれの山形県在住とある女性作家が、「圧巻の警察小説」を書いて評判を呼んだ。広島市の南の方にある「呉原市」で、警察と暴力団同士の抗争を描く。何でよりによって、また「呉原」なんだろう。「仁義なき戦い」のような話と評する人がいるけど、これは深作欣二の「県警対組織暴力」の世界である。要するに、ヤクザ組織と密着する警官の生きざまを強烈に描く作品。展開を追うのに忙しいけど、案外フツーっぽく読んでしまったのは、この手の映画を昔いっぱい見た気がするからか。どうもラストは甘い気がするんだけど、まあいいか。読み始めると、先の展開を知りたくなる「ジェットコースター本」である。でも、女がらみがなく、ドロドロ度が低い。

 それより僕が好きなのは、若竹七海「さよならの手口」(文春文庫)。女探偵・葉村晶のシリーズ。もっとも10数年ぶりの登場で、探偵は40過ぎて、独身、探偵事務所はなくなり、ミステリー書店でバイト中。古書あさりから事故、事件に巻き込まれ入院中に、同室に老女(後で、伝説の映画女優とわかる)がいた。この人から失踪中の娘の調査を依頼されると…。周辺に行方不明人物が多数いることが判り、政界がらみか、ホラー映画がらみか。謎が謎を呼ぶが、そこに別の事件も絡んできて、いやはや。途中のミステリー談義も楽しいけど、ラストのビターな感じがいい。日本では私立探偵小説が成立しにくいけど、こういう構想なら無理がない。若竹七海さんは、1963年生まれで、立教大学卒の女性ミステリー作家。何冊か読んでるけど、これが一番面白い。読んでない本も読んでみたくなる。
  
 とにかく僕は本を読んでない時期はない。結局、小説が一番読みたいんだなと思う。もちろん、歴史や思想の本を読まないわけではないんだけど。映画や演劇や音楽は僕の場合、本の次なんだと思う。漫画や絵ではなく、字で想像しながら読む方が好きで、それも「紙の本」でなければならない。データではなく、紙という質感にこそ、読書があるわけだから。いつまで紙の本があるかなどと考える必要もなく、僕が生きている間ぐらいはちゃんとあるだろう。死んだ後のことはもういいよ。新刊ミステリーなんか読んでると、ドストエフスキーやプルースト、バルザックなんかを読まずに死んでしまいそう。いや、まだ死なないと思うけど、目が悪くなって本を読むスピードが落ちる気はする。読めるうちに頑張りたい。なお、今年僕が読んで良かったのは、フィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」で、人間の生き方についても、あるいは小説の構成という意味でも、時々思い返す。ブログで書いたけど、読んだ人はほとんどいないと思うから、あえて書いておく次第。
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年末に見た映画-「友だちのパパが好き」など

2015年12月29日 22時48分30秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画を見るときにいいなと思うのは、その日の気分で見る映画を変えられること。演劇やコンサートでは、大体事前に前売りを買っておかないといけない。でも、最近は具合が悪いとか、なんか疲れてるなという時もあるので、なんだかあまり前売りを買いたくないのである。映画だって、最近はネットで席まで取れるから、ヒット映画を見るときは予約していくけど、僕がよく行く名画座やフィルムセンターなんかは当日行けばいい。その日しかやってない映画は、まあ無理してみることもあるけど、ヒット映画なんかはどこかで見られるだろうと思い、かえって見逃すことになる。

 今日は、昨日まではシネマヴェーラ渋谷というところで、古いアメリカの映画、ビリー・ワイルダーの「第十七捕虜収容所」などを見るつもりだった。でも、起きて見たら、なんだかあまり気乗りしないので、神保町シアターへ行って、斉藤由貴映画祭の「恋する女たち」を見てから、新宿へいって若尾文子映画祭で「雪の喪章」を見た。これは自分の中では「金沢映画二本立て」というつもり。「雪の喪章」はフィルムセンターの三隅研次監督特集でもうすぐやるけど、時間的に難しいので、今見てしまうことにした。あまり金沢のロケはなかったけど、金箔の老舗の話が金沢らしい。いろいろドロドロがあるメロドラマだけど、さすがに三隅演出は冴えている。一人生き残る若尾文子もいいけど、若旦那のお手が付く女中をやってる中村玉緒がすごく良かった。戦争はホント大変だった。

 「恋する女たち」は、氷室冴子原作を大森一樹監督で映画化した「正統アイドル映画」という感じの映画。1986年のキネ旬6位に選出されているけど、長いこと見てなかった。当時は就職、結婚の後で、非常に忙しくお金もないし、見逃しが多い時期。何度か見逃した後で、今年春にフィルムセンターの追悼特集でやっと見た。つまり、見たばかりなんだけど、非常に面白かったので、また見たかった。斎藤由貴はまあ頑張ってますという感じなんだけど、友人役の高井麻巳子相楽ハル子がすごくいい。高井麻巳子って誰だっけと検索したら、今は秋元康夫人だった。相楽晴子(ハル子)も、もちろん最高は「どついたるねん」だけど、こっちもいい。いやあ、すごくいい。僕の好きなタイプ。今どうしてるんだろうと思ったら、ハワイで外国人と結婚しているとのこと。それ以上にすごいのは、小林聡美。「快演」というより「怪演」に近いけど。あのころの大林作品よりいんじゃない。事故死した菅原文太の息子とか、今見ると貴重な顔ぶれがそろっている映画だけど、金沢の街並み、武家屋敷、県立美術館から香林坊の109まで、さらに温泉や鉄道などロケも貴重。相米の「翔んだカップル」もいいけど、80年代ころのアイドル映画の最高峰はこっちだと思う。自主映画時代から見ている大森映画でも、一番面白いかな。「ヒポクラテスたち」や「風の歌を聴け」よりも。また見てもいいな。

 一昨日も新宿で見たい映画に時間的に間に合わず、角川シネマ新宿へ行って若尾文子映画祭を見た。「最高殊勲夫人」は若尾文子のトーク付。その後「東京おにぎり娘」というのも見て、その後に見た「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」は記事を書いた。それはともかく、昔のよく出来た日本映画、プログラム・ピクチャーは実に肩がこらず、見ていて楽しいな。昔の風景を見るのも楽しいし。今日、神保町シアターに行ったら、1月末から「芦川いづみ特集」のアンコール上映があると出ていた。これはまた見たいなあと思う。どうも、それでいいのかとも思うけど、古い日本映画はいい。

 ということで、12月は途中で疲れてしまって、行くつもりだった「書を捨てよ町へ出よう」(演劇)や上野鈴本の「年末に芝浜を聞く」(落語)も行かなかった。映画はそれよりは見ているけど、新作が少ない。「スター・ウォーズ」も見てもいいけど、まあ見なくてもいいかな。僕だって外国のエンターテインメント映画を見ないわけではないけど、案外疲れるうえ、思ったより面白くないことが最近は多い。見逃し映画も多いけど、好きでない映画は見ても書かないので、もう少し見ている。(例えば、見逃していた「セッション」を新文芸坐で見たけど、これはねえ、好きになれないな。敢えて書くけど。)また犬が好きだから「ベル&セバスチャン」とか「シーヴァス」とかを見たんだけど、まあ、映画として満足できなかった。

 そんな中で、昨日は見逃していた「お盆の弟」という映画を渋谷アップリンクでレイトでやってるというので、見に行った。その前にユーロスペースで「禁じられた歌声」と「友だちのパパが好き」を見た。「禁じられた歌声」はイスラーム過激派に支配されたアフリカのマリ共和国の古都、ティンブクトゥを描く。そういう意味では、「今こそ見るべき映画」なので、独立した記事を書くべきだとも思うんだけど、難しい映画ではないけど、よく理解できない点もあった。確かに音楽もサッカーも禁じられた世界を描くんだけど、一番描かれているのは、どこにでも起こるような事件である。監督も言ってるけど、アフリカのサハラ南部地帯にイスラーム過激派が広がったのはリビア内戦にある。カダフィ政権打倒のために、欧米諸国が安易に反体制派に武器を「援助」したのが問題だった。

 面白いのは「友だちのパパが好き」で、今年の岸田戯曲賞を受賞した山内ケンジの脚本、監督。ここまで凶暴なヘンタイ映画も滅多にない。父親が「不倫」しても、あるいは女子高生が教師を好きになっても、倫理的にどうかという問題はあるけど、ドラマ的には「ありそうな展開」になってしまう。でも、高校時代の友人が「あなたのパパが好き」といって暴走を始めたらどうなるか。確かにこれは今までにない展開ではないか。年上の先生に憧れるのと、友だちのパパを好きになるのは、やっぱり違うよね。同じ「中年、妻子あり」だったとしても、同年代の友人の父親とホテルに行きたいって言ったら、なんだかすごくヘンタイな感じがするではないか。いやあ、アイディア勝ちだなあ。あまりに出来過ぎな怒涛の展開のコメディだけど、間違いなく面白い。もう少し映像には凝って欲しいなあと思うけど。クローズアップも多すぎ。でも「直視」した方がいいのかも。「お盆の弟」はもういいや。いまどきの白黒映画で群馬県で撮った話。悪くはないけど…。といった感じで、ちょっと元気が出たので、映画が見たいかな。他の話を置いて、年末書き残しの映画や本やニュースの話を書いてしまって、2015年も終わりとしたい。
 
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「事実婚」と「戸籍制度」-夫婦別姓問題⑤

2015年12月27日 23時38分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 夫婦別姓問題は考えるべきことがまだ残っているので、もう少し。夫婦別姓制度が認められていない現在では、同姓にする不便が大きい人の中には「婚姻届をあえて出さない」という人もいる。そういう場合、現在では「事実婚」ということが多い。昔の言い方では「内縁関係」である。70年代には「同棲時代」というマンガ(上村一夫)が流行って、「同棲」という言葉がよく使われた。だけど、そういう場合は「一人暮らしをしていた未婚男女が一緒に住む」というケースを指すことが多く、子どもができると「できちゃった婚」に移行する事が多い。「内縁」は「婚姻届を出さないという主張」というよりも「愛人関係」などのイメージもあり、「事実婚」という言葉が使われるようになったのだろう。

 では、そのまま「事実婚」を続けるのではダメなのだろうか。一つは「社会的な認知」というか、家族や友人知人に「周知」するという意味があるだろう。けれど、それ以上に重大なのは、「税制」や「福祉」、あるいは保険金の受け取りなど、特に子どもがいる場合、正式な婚姻届をしておかないと不利なことがいっぱいあるということである。また、会社(福利厚生団体)から出る「お祝い金」なんかも、婚姻届を出したことが証明される書類(戸籍抄本など)の提出が条件になることが多いだろう。

 「事実婚」にも多くのケースがある。片方の離婚が成立しないうちに「同棲」を始めてしまい、婚姻届を出そうにも出しようがないという場合も多いだろう。そういう場合は、確かに「事実婚」を優遇するのもおかしいとも言える。だけど、「主張として」婚姻届を出さない場合もある。その場合は「愛し合う二人が家計を共にする」ということでは同じである。片方では税制などで優遇され、片方は「独身」扱いされるというのは、憲法上の平等権に反するのではないかという考え方もできるだろう。

 別姓婚の議論も大事だけど、僕は「事実婚カップル」への差別禁止という裁判もできるのではないかと思う。どうしてかというと、「事実婚」から進んで「同性婚」の可能性、さらに「性的な関係を超えたコミュニティ形成」へと広げていけるのではないかと思うからだ。もし、政府が「出生率の上昇」を本気で考えているのなら、別姓婚はもちろんだが、「カップルになることのハードルを下げる」という政策が求められていると思う。

 それと同時に、「結婚と性」という問題は、本来は戸籍制度の問題であるはずである。「事実婚」、つまり「内縁」では、子どもの相続に差別があった。2013年に最高裁で違憲判決が出て、今は親の結婚に関係なく、子どもは親の財産を平等に相続するようになった。そうすると、同姓、別姓を問わず、そもそも「結婚」しているかどうかを国家が家単位で把握する必要も薄れたはずである。「婚姻届」を出すと、生まれた子どもは「嫡出子」と言われ、婚姻外の子どもは「非嫡出子」となる。昔はそういう子どもは「私生児」と言われて差別された。「結婚」という制度に基づく差別である。

 日本の女性運動の草分けである平塚雷鳥は、5歳年下の奥村博史と暮らし始めた時に、国家の結婚制度、家制度に反対する意味で、婚姻届を提出しなかった。子どもを二人産んだけれど、それらの子は平塚姓の「私生児」として育てた。ところが、戦時中に婚姻届を出し、奥村姓となったのである。男児に召集令状が届き、軍隊で「私生児差別」にさらされることを避けるため、やむを得ず「国家の結婚制度」を認めざるを得なかったのである。戦前の日本では、軍隊に子どもを人質に取られていたのである。この事例を考えると、家制度を守るための「結婚」というものが、要するに「国家秩序を守る」という意味があったことが判る。

 「家制度」がなくなった戦後日本では、同姓、別姓に関わらず、本来、差別にしか使われない「戸籍制度」そのものがいらないのではないか。世界でもほぼ大日本帝国が統治した東アジア諸国、つまり日本、韓国、台湾などしか戸籍制度はないらしい。「住民票」があればいいのである。そうであれば、人が一緒に住みたければ、一緒の住民票にすればいいだけである。同姓を名乗りたい人は、通称として名乗ればいい。逆にそうなれば、それでいいと思うのだが。要するに、国民の「姓」を国家管理する必要をそもそも問うべきではないか。同姓婚を含めて、「事実婚」カップルも制度上で同じ扱いにすれば、「同姓か別姓か」といった議論もする必要がなくなるだろう。そうなれば、ずいぶん自由な感じがすると思うけど。
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映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」

2015年12月27日 20時22分28秒 |  〃  (新作外国映画)
 10月からやっているアメリカの長編ドキュメント映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」(Finding Vivian Maier)をやっと見た。渋谷のシアター・イメージフォーラムで、今は19時10分から一回の上映。恐らく1月8日までの上映で、大みそかの上映はないから、もう残り少ない。でも、結構いっぱい入っていて、僕ももう一回見たいような面白さだった。アート系記録映画は今はかなり公開されているけど、つい見逃すことが多い。だけど、この映画は是非見て欲しい。
 
 最初に書いておくけど、この映画は今年のアカデミー賞長編記録映画賞にノミネートされた。調べてみると、ヴィム・ヴェンダースの「セバスチャン・サルガド」もノミネート。この強力な2本をおさえて受賞したのは「CitizenFour」という作品である。これは何だろうと思って検索すると、米国の違法な諜報活動を暴露したエドワード・スノーデンのドキュメントだという。いやあ、この映画こそぜひ見たい!

 さて、「ヴィヴィアン・マイヤー」だけど、この人は一体誰なんだ。数年前まで、ほとんど誰も知らなかった人物である。シカゴ在住のジョン・マルーフという青年がいて、2007年に大量のネガフィルムをオークションで入手した。シカゴ周辺の人々の歴史を、古い写真をもとに研究するためにいっぱいネガフィルムを集めていた。この時のフィルムを現像したけれど研究には使えなかった。だが、写真としての魅力があり、数百枚を選んでネット上にアップしたら、それが大反響を読んだのである。その写真の撮影者が「ヴィヴィアン・マイヤー」とあったのだが、検索しても何もヒットしなかった。

 評判を呼んでから、改めて検索したところ、今度は一件の訃報がヒットした。2009年に亡くなっていたヴィヴィアン・マイヤーという人物がいたのである。知っている人を探し回ってみると、この人物は「乳母」として多くの家庭に雇われていた。どの家でも、いつも写真を撮っていて、多くのネガや書類をためた箱をものすごくいっぱい持っていた。(雇った家の車庫が彼女の持ち物でいっぱいになった。)家族も友人もいないらしく、数年ごとにいくつもの家庭を渡り歩いていた。

 それ自体ちょっと現代では信じがたいことだけど、この「乳母」が素晴らしい写真を撮っていたとは。誰も見た人はいなかったのである。彼女も見せなかった。だけど、かつての雇い主には老後の家や貸し倉庫の代金を負担していた人もいた。そして、もう廃棄されようとしていた倉庫から、彼女の人生の様々な書類が出てきたのである。要するに、何でもかんでもレシートなどを残しておくタイプだったのである。そして、そこから見えてきた驚くような彼女の人生。フランスに縁があり、フレンチアルプスの美しい村に2回も訪れていた。そこでも写真を撮っていた。8ミリや16ミリの映画も残していた。そして、現像されていない大量のフィルム。全く謎が多い人物である。

 自分を撮った写真もいっぱいあるが、170㎝と当時の女性としては大柄だけど、見た目の障がいなどは見られない。でも、なぜか男性との交際などの話が出てこない。若い時に性犯罪の被害を受けていた感じもある。あるいは性同一性障害とか発達障害などがあったのか。生涯にわたる「孤独」の影はそれでも完全には理解できない。本人は写真を撮るときは社交性もあるようだし、社会的な関心もあった。(スラム街を撮ったりしている。)一体、何のためにこれほど多くの写真を撮ったのか。それも、非常に素晴らしい写真を。構図的にも、テーマ的にも、写真の歴史に残るような素晴らしいものである。皆が「変人」だと思っていた「乳母」に、こうした面が隠されていたとは。人生の不可思議という以外にない。グーグルの画像検索で見てみると、たくさん出てくるが、以下にその中の数枚を載せておく。これからの調査研究を待っている、素晴らしい写真家だった孤独な女性の姿を心に留めたい。
    
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「子どもの姓」問題-夫婦別姓問題④

2015年12月24日 21時04分25秒 | 社会(世の中の出来事)
 さて、「夫婦別姓」論議の4回目は「子どもの姓」をめぐる問題である。「夫婦別姓」を選択すれば、子どもがいる場合は必ず「親と別姓の子ども」が出てくる。それがどうしたという感じだけど、反対派によれば「家族の一体感」が損なわれてしまうというのだろう。ここで問題なのは、「夫婦別姓制度を導入すれば、その結果として、新たに別姓の子どもという問題が起きる」と理解しているらしいことである。何を言ってるんだろうか?そういう子どもは常に一定数いるという現実を知らないのだろうか?

 夫婦が離婚すれば、結婚にあたって姓を変えた方は、結婚後の姓を使い続けることもできるけれど、原則的には元の姓に戻る。まあ、夫の姓を名乗っていた女性も、関係悪化で離婚するわけだから、元の姓に戻りたい人が多いだろう。でも、その際「子どもの姓」はどうなるのか。母親が親権者であっても、自動的に子どもも母の姓になるわけではない。家庭裁判所に変更手続きを行わなければ、子どもの戸籍は母と一緒にはならないのである。それに、「学校の途中で姓が変わったら何か言われるかもしれない」と心配して、子どもの姓はそのままにするケースが多い。だから、保護者である母と子どもの姓が違っているというケースなど、学校現場では珍しくもなんともないのである。

 どうしても「親子はすべて同姓であるべきだ」と主張するんだったら、例えば「子どもが成人するまでは、子のある夫婦は離婚を禁じる」とでもいった規定を作らないといけない。もちろん、そんなことは不可能である。現実の世界では、子どもがいても、父親が浮気をしたりするし、虐待したり暴力を振るったりするのである。それどころか、妻の方だって、子どもを置いて家出することだってある。それは良くないとここでいくら書いたって、防げるわけではない。もちろん、そういう夫婦は数は少ないに違いないが、「さっさと離婚しなさい」というような夫婦だっていっぱいある。子どもが成人するまでは「仮面夫婦」でいるというケースもあるが、離婚しちゃうのとどっちがいいのか、誰にもよく判らないだろう。

 だから、今だって「親子で姓が違う」子どもはいっぱいいる。そういう子どもは何か問題があるか、いじめられるかといえば、今は「保護者名簿」なんかないし、特に関係ないだろう。昔は「PTA会員名簿」なんかで判る場合もあったと思うが、地域ではお互いに知ってるんだから、特に問題になった記憶もない。でも、単親家庭であることは経済的にも大変だから、子どもの積極性な学びを奪ったりするケースはあったかもしれない。一人ひとりによって、人さまざまなのだから、何とも言えないが。

 「単親家庭」には、死別、離別や「未婚の母」の場合など、さまざまなケースがあるだろう。「父子家庭」も今はかなりある。それらの家庭は、三者面談の時間など、教員側も対応に配慮が必要だから、学級担任は把握はしているが、踏み込んで事情までは聞けない。両親がいても事情は様々で、単親家庭だからどうだこうだと言うほどの問題はないと思うが。でも、もし「夫婦別姓」が導入されて、親子の姓は違っても当たり前なんだという理解が進んだら、その方が生徒指導がやりやすくなるのは間違いないと思うのだが、どうだろうか。

 ところで、「子どもの姓」の問題はもっと大きな問題を持っていると思う。今までは、子どもは「父と母が結婚する時に決めた同じ姓」になる。(大部分は父の姓。)一方、夫婦別姓が導入されれば、子どもは「父の姓か、母の姓」になる。決め方の詳細は、さまざまなやり方があると思うが。でも、どっちにしたって「親の姓」だし、「親が決めたルールで名乗る姓」である。子どもが決めてはいけないのか。もちろん、出生時は親が決めるしかない。だけど、成人したら、父の姓でも母の姓でも、本人が自由に選べるというやり方はどうなんだろうか。それでも、「親の姓」に違いない。虐待等で、親の姓を継ぎたくないという人はどうしたらいいんだろうか。

 現実的には、「結婚して結婚相手の姓に変える」というのが、最も簡単な方法である。強権的な父親とぶつかりながら、自分の力で高等教育を勝ち取ったという女性も昔は多かったと思うが、結構「意識の高い」女性でも、夫の姓を名乗った場合も多いと思う。それは、社会通念に従ったのかもしれないが、それ以上に「さっさと父の姓から脱出したい」という願望があったという人も多いのではないだろうか。さらに、離婚して、また別人と結婚して相手の姓を名乗り…を繰り返せば、姓は変えられるわけである。だけど、「ペーパー結婚」は、詐欺や借金逃れに使われやすく、おススメできない生き方だ。

 だから、成人以上の子どもに「姓の決定権」を与えるというやり方をここでは提唱しておきたい。父または母の姓(同姓結婚の場合は、旧姓)から選ぶことを原則とし、それ以外の姓にしたいときは家庭裁判所に申し立てることとするといったことにすればどうだろう。それでは親子が全部違う姓になってしまうかもしれないが、今はウェブ上でさまざまな名前を登録して活動している人などいっぱいいる。本名にしたって、そんなに困るだろうか。それこそ「個人識別番号」(いわゆる「マイナンバー」)があるんだから、納税や社会保障では継続して本人確認できるはずだろう。

 結婚に際しても、外国では「複合姓」が認められている国がある。そう言えば、ニュースやなんかで、ハイフンでくっ付いたやたら長い名前がある。日本では、漢字3字ぐらいまででないと「姓」というイメージが湧かない。だから、田中さんと佐藤さんが結婚して「田中佐藤」さんにするというのは、無理無理感が強い。でも、例えば「中村」さんと「山田」さんが結婚した場合、「中村「山田」だけでなく、「中山」とか「村田」、あるいは「中田」や「山村」という姓を作ってはダメなんだろうか。この場合、字の順番を入れ替えても、日本人の姓として違和感がない。(まあ、そういうケースを一生懸命考えたわけだが。)

 結婚する時に「入籍」というのは、今は正しい使い方ではないとよく言われる。戦前は確かに結婚相手の戸籍に入ったから「入籍」だった。戦後の民法では、結婚までは親の戸籍にあるが、婚姻届を提出すると、両者ともに親の戸籍から抜けて、夫と妻の戸籍を作ることになっている。いわば、「創籍」である。そこで新たに戸籍が作られるのだったら、そこで本人たちが選んだ新しい姓になったっていいんじゃないだろうか。結婚、離婚を繰り返して、自分の痕跡を消してしまおうなんていう人より、ずっと健全ではないかと思うが。(ところで、ここで「戸籍」というものが出てきたが、それはどう考えればいいんだろうかということは次回に。)
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「少子高齢化」の問題-夫婦別姓問題③

2015年12月23日 21時47分06秒 | 社会(世の中の出来事)
 前回は「女性の進出」という視角から考えたが、これはつまり「主張する女」ということになる。今も大方の人は、この問題を女性の主張だと思っているのではないだろうか。だからこそ、そういう「変化を求める女性」に対する「対抗言論」が出て来て、「夫婦別姓」を単に夫婦関係だけでなく、国家・社会の統一を損なう事を目的とする陰謀だなどと主張する人もいるらしい。だけど、多分夫婦別姓制度ができた時に、一番利用する人は、「高度な専門職女性」ではなく、「地方に住む一人っ子の女性」なのではないだろうか。ということで、夫婦別姓問題を「少子高齢化」から考えてみる。

 さて、大法廷判決は「夫婦同姓」が「社会に定着」していると判断した。確かに今までの日本社会を大筋でとらえると、そういう判断もできるだろう。だけど、今後も国民の多くがこの制度(夫婦同姓)に納得して続いていくのだろうか。常識で考えれば判るけど、「夫婦同姓」が国民の納得を得るためには、「多くの家庭に男子が一人以上いる」ということが必要である。そうじゃないと、女子しかいない家庭では、結婚に伴う改姓(男性の姓に変えることが圧倒的に多い)により、長年続いていた「自分たちの姓」を受け継ぐ人がいなくなってしまう。あるいは、その家の墓所の管理は誰が受け継いでいくのかという問題も起きる。これが今、日本の各地で起こっている問題で、一番「夫婦別姓」を待ち望んでいるのは、そういう立場の人ではないかと思う。

 後になってそんなことを言うんだったら、もうひとり子どもを作っておけばいいではないか、などと言ってももちろん仕方ない。作ろうとしてもできないこともあるし、経済的な事情や仕事の状況(単身赴任とか)もある。というか、もうひとり子どもを作っても、その子の性が男になるとは決まっていない。常に半々の確率である。もちろん、延々と子どもを作れば、いつかは男女双方の子どもに恵まれるだろうが、自分の家や収入を考えると、そんなことはとてもできない。第一、晩婚化が進み、30過ぎで結婚するような女性が、戦前のように10人も子どもを産むなどは不可能である。

 大昔には確かに子どもの数が多かった。だけど、それは経済状況や避妊方法などの問題ではない。幼児死亡率が高く、戦争で死ぬこともあり、結核などの死病がはびこっていた。たくさん産んでも、半分ぐらいは大人になれないかもしれない。確実に「家の継承」を図るには、ある程度たくさんの子どもを産んでおかないと心配だったのである。それに義務教育は小学校だけだったから、10年ちょっと面倒を見ればいいし、農村では子どもの労働力もあてにできる。しかし、今は幼児死亡率がグッと下がったから、(事件、事故、自殺、難病等で子どもの死という悲しい出来事がなくなることはないわけだけれど)まずは大人になるわけだ。半数は大学まで行くし、高校は義務に近い。アルバイトは出来たとしても、就職難が続いて、いつまでも親がかりというケースもある。とても子どもを10人も作れないわけだ。

 子どもがいる世帯では、「子どもは2人」が一番多い。自分の子ども時代もそうだし、教員になってみた生徒の家庭もそうだった。その間、何十年か経っているけど、その点は同じである。家の大きさや経済力からしても、大体多くの家庭ではそういうことになるんだろう。もちろん、「子ども1人」や「子ども3人」もかなりある。珍しくはない。4人以上になると、かなり少なくなるだろう。そうすると、確率的に考えて、「子どもが2人」だと25%は女子だけとなる。もう一人産めばいいのかもしれないが、その場合、確かに「子ども3人家庭」では「男3人」「女3人」はそれぞれ「8分の1」となるから、両方の性の子どもが産まれる可能性はある。だけど、次の子どもを作った時に、その子が男か女かは、あくまでも半々の確率でしかない。自分の見てきた範囲でも、女子だけの家庭がたくさんあるのである。

 「家制度」なんかないわけだし、継がせるほどの財産もない多くの家では、もう男子の子どもがいるかどうかにはこだわっていないということだろう。それに「高齢化」の今となっては、仕事が忙しくて老親の介護や入院にも付き添えない男子よりは、結果的に女子が複数いてくれる方が「むしろ良かった」と思っているのがホンネだろう。死んだ後の墓の心配よりは、まずは介護の助けになる方がずっといい。それが「高齢化社会」の実情である。

 法的に「家」制度はないわけだし、財産も実子の間で均等に分ける。(遺言などで指定がない場合。)高度成長の過程で、そこそこの財産を形成した家庭が多いと思うが、長男の「ヨメ」が一生懸命義父母の介護をしても、(遺言があるとか、養子縁組をしたなどの特段の事情がない限り)、相続財産は長男分しかない。一方、実家の父母の介護の方は、何と言っても実子であるし、相続財産もあるわけだから、「嫁したら他家の人間」という時代ではない。親も80、90になるわけで、子どもも定年を過ぎた「老老介護」となれば、実の親子関係でもなければなかなか親身にもなれないだろう。そういう事情が重なり合って、「実父母と女子」の関係は昔よりずっと深くなっていると言える。

 というか、特に実の親子関係が深くなったというよりも、「家制度」は弱まり、「個の確立」も未だという現代では、相対的に「親子関係」がアップしたというべきかもしれない。「離別すればそれまで」の配偶者に比べて、親子関係は切れない。それに、さまざまの葛藤や迷惑もあったとしても、まあ親子関係は何とかなっている家が多いのではないか。だからこそ、親の方も女子だからと言って、家の姓を継いでくれなくてもいいという親が多いだろう。「婿を取れ」などと言い張っていたら、娘は未婚のまま歳を取ってしまうかもしれない。相手の家だって、男子は1人しかいないというケースが確率的には多いわけだから。「男の姓を名乗るという社会通念」がある中では、妻の姓を名乗ってくれとも言いにくいわけである。だから、一抹の寂しさを感じつつも、自分の娘の幸福を優先する。

 世の中に多い姓もあるが、全国的に珍しいという姓もある。そういう姓の人は、いつも珍しいと言われ続けてきて、早く田中とか鈴木などの姓の持ち主と結婚したいという人もいるだろう。でも、自分の姓に愛着を持ち、できればその姓を名乗り続けたい、一種の文化だと思っている人も多いと思う。実は「夫婦別姓」を一番待ち望んでいるのは、そういう女性、あるいはそういう家の親ではないか。

 世の中には、結婚しない人も多いし、結婚しても子どもがいない人も多い。それに加えて、女子しかいない家がかなりあるのである。それに男子が複数生まれても、その男子がまた結婚しなかったり、子どもがいなかったり、いても女子ばかりだったりすることがある。老親から孫世代まで考えると、男子がいない家というのは、たぶん、全国民の半分に近いのではないだろうか。そうすると、墓はどうなる。いや、死後の世界なんかないし、墓もいらないと言える人もいるだろう。でも、そこまでは言えないけど…と悩んでいる人が多くいるはずである。

 「選択的夫婦別姓」という制度は、結婚を否定するわけではなく、今まで「事実婚」だった人も「婚姻制度」に誘引するわけだから、反体制的というよりは、「結婚制度」という体制を補完する制度というべきだろう。しかも、女子しかいない家庭では、「別姓」により、「妻方の姓の保存」と「妻方の墓所の管理者」を確保できるかもしれない。革命的というよりは、実に保守的に機能するような制度だと思うけど、それを望む「潜在的世論」はかなり大きいのではないか。「主張する女性」の後ろに、少子高齢化社会のさまざまな問題が潜んでいるのである。
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「女性の進出」問題-夫婦別姓問題②

2015年12月22日 23時24分26秒 | 社会(世の中の出来事)
 この問題、ちゃんと書いていくと結構長くなりそうなので、サクサクと進めていきたい。まず、「夫婦は夫または妻の姓を名乗る」と規定されているのに、「なぜ夫の姓を名乗ることが圧倒的に多いのか」という問題がある。しかし、その問題は後で考えることにして、先に「何でこの問題が近年大きく取り上げられているのか」を書いておきたい。僕の見るところ、「女性の進出」(及び社会の変化)という問題と「少子高齢化」という二つの問題があると思う。順番に見ていきたい。

 「夫婦は同姓」という規定があるために、現実には多くの女性が改姓しているわけである。これは「性差別」なのかというと、今回の大法廷判決はそうとは言えないという。しかし、「性差別」という観点から考えるのが適当なんだろうか。この問題は「夫の姓を名乗る人」と「妻の姓を名乗る人」が半々になればいいのだろうか。でも、女性が改姓して不都合があるというのなら、男性が改姓しても不都合があるわけである。つまり、婚姻届を提出することによって、夫か妻かのどちらかが不都合をこうむる。もちろん、同姓論者が言うように、片方に不都合があるとしても、それを上回る「家族の一体感」とかもあるという考えもある。だけど、人によっては不都合の方が大きいという人だっているはずである。

 一般に「結婚することに伴う面倒」というものがある。それまでは実家で、あるいは一人で暮らしていたのが、(多くの場合は)住む部屋を探し、家具や家電商品などをそろえ、結婚式や新婚旅行の準備を進め、諸手続きや多くの打ち合わせを行い、(離職、遠方への引っ越しがある場合には)送別会などがある。それらを仕事をしながら進めていくのだが、しかしまあ、それらは苦労とは感じないわけである。その後には愛する人との結婚生活が待っているわけだから。そのための苦労なら、いとわないのが普通だろう。今までは片方の側の改姓の「不都合」も、それらの「結婚することに伴う面倒」の一部と多くの人が思い込んでいたのだと思う。

 ところが、憲法制定時には想定できなかったほどの「女性の進出」が進んできた。むろん、憲法制定時にも、活躍している女性はたくさんいた。だけど、それらの人々はペンネームや芸名を使う職業の場合が多かった。(例えば、「原節子」は「会田昌江」が本名だった。作家の中條百合子は、結婚、離婚を経て、共産党指導者の文芸評論家、宮本顕治と結ばれ、顕治の逮捕後に正式に結婚して、作家名も変えた。この場合は、宮本顕治側に「妻の改姓」という問題意識がなかったのだと思うが、「連帯の表明」ということなのだと思う。)昔は女性の大学教員や女性の高級官僚などという存在は考えられなかった。ましてや、女性の最高裁裁判官などは。(最初は1994年に任命された高橋久子で、今まで170人の最高裁裁判官の中で、女性は全部で5人しかいない。)

 結婚以前に築いた「キャリアの継続」という問題意識は、ここ20~30年の間のものだろう。(女性学者が、学術論文の「自己同一性」を失うというのは、特に理科系で大きな問題だと思う。)また、一般の場合でも「本人確認の徹底」が進んできた。詐欺や資金洗浄などの防止目的で、何でもかんでも「本人確認書類」の提出が求められる。それがまた、日本の場合は、今でも「姓による識別」と「姓を刻印した印鑑」で行うことが多い。印鑑なんかこそ、誰でも作れるんだから、旧姓のサインのほうがずっと役立つと思うけど。だから、「改姓するこの面倒」はどんどん大きくなっている。

 何も女性が最近になって働くようになったわけではない。大金持ちを除けば、いつでも男女を問わず働いてきた。だけど、昔は農業や自営の商店など、一家総出で働く場合が多かった。もちろん、小学校の教師やバスの車掌など、女性が多い職場もあったけど、そういう職場でも「出世」して管理職になるというようなことはほとんど考えられなかった。また、学校の教師なんかでも、ある時期までは給与も現金支給だった。僕が教員になった80年代初期でも、まだ現金でもらっていたのである。若い人にはもう考えられないと思うけど、現金を積んだ車が各学校を回り、事務職員が手分けして一人ひとり給料袋に一円単位で詰めていったのである。(よくそんなことができたもんだと今では恐ろしくなるけど。)そのうち、「銀行振り込みも可」となり、やがて「現金振り込み以外は不可」と変わった。いつごろだかよく覚えていないが。通称使用を認められている教員でも、銀行振り込みには「戸籍名」となる。銀行口座の名義の方が優先されるのである。

 今では、申込時に本人確認書類が必要な銀行や有価証券の口座を多くの人が複数持っている。そして、その口座から引き落とすことになっているカード類も複数持っている人が多いだろう。そして、そのカードで決済するウェブ上の取引も数件は登録しているはずである。全部変えなくちゃいけないのは、面倒だなあ。こうして、姓を変えることによる面倒が、以前の社会よりものすごく増大したのである。そして、それを逃れる方法が簡単にある。諸外国で多く実施されているような、「結婚に際しては、同姓か別姓を選択できる」という制度を日本でも導入するということである。と主張する人が多くなるのは、理の当然だろう。「必ずどちらかが改姓しなくてはいけないという制度は不平等」という観点、つまり性別に関わらず不平等を強いる制度であるという観点はこれまであまり主張されていない。だけど、今の指摘は、要するに「夫または妻の都合」であるから、「子どもの姓はどうするんだ」という反論が出てくる。そういう問題はまた次回以後に。
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「夫婦別姓」問題①-最高裁判決の読み方

2015年12月21日 22時54分36秒 | 社会(世の中の出来事)
 いわゆる「選択的夫婦別姓」をめぐる違憲訴訟で、12月6日に最高裁大法廷判決があった。判決は「現行制度は合憲」というものだった。また、同時に女性だけに離婚後の再婚禁止期間6カ月があることに対する違憲訴訟の最高裁大法廷判決も同日にあり、これは「離婚禁止期間が100日を超える部分に関しては違憲」という判断だった。この問題をどう見るかに関しては、書きだすと長くなるのでどうしようかなと思っていたのだが、翌日の新聞の見出しを見たら書いておきたいと思った。

 翌日の新聞は大体一面トップでこの問題を報じた。(いわゆる「在京6紙」では日経だけが一面の左横上。)その見出しを並べてみると、以下のようになる。
 朝日 夫婦同姓規定 合憲
 毎日 夫婦同姓は合憲
 読売 夫婦同姓規定 合憲
 産経 夫婦同姓「合憲」
 日経 夫婦同姓規定は合憲
 これはきわめて問題の多い「ミスリード」ではないか。一方、東京新聞だけは違う
 東京 夫婦別姓認めぬ規定 合憲

 これだけが「正しい見出し」だと思う。そもそも、「夫婦同姓」が「合憲」なのは当たり前である。誰も夫婦同姓規定そのものが違憲だという訴えはしていないのだから。この見出しだけ見た人は、「夫婦同姓そのものが憲法違反で、夫婦はすべて別姓とするべきだと主張した裁判」だと理解するのではないか。だけど、もちろんそうではない。「夫婦同姓だけ認め、夫婦別姓は認めない現行の規定」が憲法違反であると主張をした裁判である。合憲という意味では、法制審議会が1996年に答申している「選択的夫婦別姓」制度も合憲である。(法制審が違憲立法の制定を答申するはずがない。)

 この判決に関しては、意外だとか期待外れだという声も強い。しかし、僕が見るところ、これは「予想通り」の判決だった。(じゃあ、先に予想を書いとけと言われてしまうかもしれないが。)例えば、直近の大法廷判決である11月25日の「衆院選一票の格差訴訟」の判決は、「違憲状態」というものだった。近年の最高裁の傾向は、大昔よりは「憲法判断」に積極的だけど、「違憲判断は抑制的に行い、立法府の裁量に配慮する」といった感じを受ける。今回の判断も似たような文脈で理解できる。

 今回も、「女性の離婚禁止期間)に関しては、違憲判決を出した。これは法律が違憲だと判断したわけで、戦後10例目である。一票の格差問題を除き、最近の例では、2008年の「国籍法」(婚外子国籍取得制限規定)、2012年の「民法」(婚外子の相続格差)といずれも家族関係をめぐる判断だった。最高裁は憲法判断と判例の統一を主な任務とする。15名の裁判官が3つの小法廷に分かれて審理するが、新たな違憲判断は15名全員が参加する「大法廷」に送付する。だから、今回の訴訟を大法廷に回した時に、違憲判断が出るのではないかと期待(反対派からいえば「心配」?)する声が聞かれたのも当然だろう。だけど、結果的に「100日超の離婚禁止のみ違憲」という「最小限の違憲判決」だった。

 僕には、この「女性に100日の再婚禁止期間」というのも、違憲ではないのかと思える。だけど、今その問題は起き、「夫婦別姓」の問題だけを考えたい。この判決をどう思うかだが、僕は「配慮に欠ける判決」という側面は否定できないと思う。だけど、日本の法制度からみて、「ある制度を設けないことが憲法違反」であるという判決は非常に難しいのも確かだと思う。(いいか悪いかの問題ではなく。)そのためには、96年の法制審答申による「法が改正されるとの強い期待」が、一定程度経過しても何の判断も国会でなされていないことを理由とするしかないだろう。だけど、国会は「国権の最高機関」であり、非常に幅広い裁量権を持っているとされるから、この訴えは難しいのである。(違憲の定数で選ばれた国会、憲法を顧みない安倍政権といえど、国民が選んだ国会議員であるのは間違いない。)

 この判決(多数派)は、結婚に際しては「夫または妻」の姓を名乗るということで、当事者の決定に任されているから「性差別には当たらない」。現実には妻が改姓することで、不利益があることも事実だが、「通称使用が広まることで一定程度は緩和できる」としている。これは「配慮に欠ける」ものだと思う。というか、「偽善」以外の何物でもない。こういうことを言えるためには、「最高裁では通称使用が認められていますよ」という事実が必要だろう。だけど、実際は「最高裁裁判官は通称使用が認められていない」。違憲の少数意見(5人)の一人である櫻井龍子裁判官は、労働省の官僚時代、および大阪大学、九州大学の教員時代は、「藤井龍子」の旧姓で活躍していた。(藤井名義の著書もあるが、櫻井名義の著書はない。)ところが、最高裁判事に任命された時から、「戸籍名」を使用しているのである。そういう実態が足元にあるというのに、「通称使用の拡大」で対応できるとは、よくも言えたもんだ。しかし、それが最高裁裁判官というもんであって、「少数派の痛み」は判らないのである。(まあ、それは櫻井龍子裁判官の過去の判決にだって、言えることだと思うが。)

 僕はこの問題は「国会にボールを投げ返した」ということだろうと思う。多数派の判断であっても、「このままでいい」ということではない。だから、このまま国会が何もしないならば、やがて「違憲判決」に代わる日が訪れるのではないか。今後、女性判事の数はもっと増えるはずだし、その時はさらに違憲判断は増えるだろう。「一票の格差」訴訟でも、「婚外子相続格差」訴訟でも、何度も何度も門前払いをされながら、ついには違憲判決を勝ち取ったわけである。今回の「合憲対違憲」が「10対5」という判断の分かれ具合は、来るべき違憲判決を予告している数字だ。「合憲判決だから、このまま何もしなくてもいい」という人がいたら、それは大間違いだということである。(今後数回続く予定。)
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小栗康平監督の「FOUJITA」

2015年12月20日 00時07分23秒 | 映画 (新作日本映画)
 小栗康平監督の10年ぶりの新作「FOUJITA」(フジタ)をようやく見たんだけど、どこか「判らん感」というか、「これでいいんか感」がつきまとい、もう一回見てしまった。最初に見た時は疲れていたので、途中で少し寝てしまったかと思ったんだけど、二回見たら大体寝ずに見ていたようだ。そうすると、多少残る違和感はどこから来るのだろうか。いうまでもなく、この映画は画家の藤田嗣治(レオナール・フジタ)を描いている。画面は美しく、研ぎ澄まされていて、絵画のようである。説明は少なく、画面は常にかなり暗く、ストーリーの語りで見せる映画ではない。だけど、アート映画として非常に完成度が高く、僕は傑作だと思う。見ていて、なんだかまた見たいような気にさせるのである。
 
 小栗康平が藤田の映画を作っていて、オダギリジョーが主演して、フランスでも撮影した映画が作られたという話は、かなり話題となった。東京国立美術館では、藤田嗣治の全所蔵作品展(9.19~12.13)も開かれ、藤田を今どう見るかが問われている。藤田嗣治(1886~1966)という画家は、20年代のパリでは「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人として大評判を取った。40年代には日本に帰国して、今度は「戦争画」の大家となった。戦後は「戦争協力者」として指弾され、再びフランスに渡り、フランス国籍を取り彼の地で亡くなった。この程度のことは、絵に詳しくない人でも聞いたことがあると思う。「藤田」という画家は、いつも一種スキャンダラスな存在で、そこに何があったのか知りたいと思う人も多いだろう。そういう「藤田の人生」を知るための伝記映画を期待する人は、その期待が全く裏切られて、何か難解な「アート」を見せられて、憮然とした思いで映画館を出るだろう。

 この映画は、前半はパリで、後半は日本の場面となっている。だけど、年代や場所は明示されない。その意味では、「フジタ」について観客がある程度は知っていることが求められている。どこで日本の場面に切り替わるのかも、説明されない。普通は映画では「字幕」で説明するのだが。だけど、僕は場面が日本に変わったことはすぐ判った。多くの人は判るのではないか。そのくらい、確かに「空気」が違うのである。この映画では、ほとんど説明がない。ただ、パリ時代の藤田の狂騒と女性たちを、そして戦時下日本のこわばりと物資不足の日常を静かに提示するだけである。だから、フジタの人生に潜む謎を解明して欲しいと望んでも、小栗の「解釈」は見えにくい。

 前半では夜の狂騒、特に「フジタの夜」の花魁道中の再現などが、そのバカバカしさの壮大さで忘れがたい。フジタはパリで売り出すために、意識的に「浮世絵の国から来たフジタ」を演じている。だけど、冒頭はデッサンするフジタの様子。(オダギリジョーはフランス語を練習しただけでなく、絵の練習もしたという。)その後日本での会話で「一日14時間仕事をした」と語っているが、とにかく「絵を描くことが好き」なのである。そして、有名なモデル「キキ」を始め、「ユキ」と名付けられ妻ともなったモデルなど、たくさんの女たちが出てくる。キキが「モンパリ」を歌う場面など、名場面と言っていい。

 日本に帰ると、すぐに「聖戦美術展」の巡回で「アッツ島の玉砕」を展示する姿が出てくる。これこそ、その壮大なる悲愴美で有名な「藤田の戦争画」の代表作。「玉砕」(全滅)しているんだから、取材もできないし、写真もない。その意味では、想像で描いた「歴史画」である。実際、ヨーロッパの画家の戦争場面などが参考にされている。藤田は大家として、日本人画家として、陸軍の協力する以外の道はなかっただろうが、同時にそれは当然だと考えていただろう。この戦争画は戦後アメリカに接収され、その後返還されたが、なかなかまとまって見る機会がない。今回の展示は見てみたが、今となると、僕は「倫理的側面」を抜きにした「絵としての面白さ」があることを認めざるを得ないと思った。

 何でこのような戦争画を書いたのか。映画を見ても何も判らない、説明されていないと思う人もいるだろう。だけど、僕が感じたのは、要するに「パリで描いた裸婦」と「戦争画」は同じだということである。「内面の葛藤」などなかっただろうから、そういうものをフジタの映画に期待する方がムダなのだと思う。どっちも、今画家に求められている「受ける絵」を描いた。それは今見ても素晴らしく、見応えがある。だけど、戦争画に関しては、その戦争の目的や結果について、それを抜きにした判断は今はできない。70年以上経ったけれど、今でも「戦争責任」は切れば血の出るテーマである。だけど、これらの戦争画も数百年経ってしまえばどうなんだろうか。もしかしたら、違った感覚で見る日が来るのかもしれない。今の人には判らないことだけど。

 小栗康平は1945年生まれだから、戦後70年の今年はまさに70歳、もう古稀である。1981年に「泥の河」を自主製作してベストワンとなった。この映画の鮮烈な抒情と映像美を覚えている人は、いつも似たような「判りやすい物語」を求めてしまう。宮本輝原作のこの映画は、国内の映画賞をほぼ独占した他、モスクワ映画祭銀賞を得た。次が李恢成原作の「伽倻子のために」(1984)でフランスのジョルジュ・サドゥール賞。3作目の島尾敏雄の代表作「死の棘」(1990)では、ついにカンヌ映画祭グランプリ。と、ここまでは知られた原作の映像化で、世界でも評価された。でも、だんだん「静かな語り口」で語られる映画世界に不満を覚える人も多くなっていたのではないだろうか。

 1996年の「眠る男」では、ついに眠り続ける男を韓国の名優、アン・ソンギに演じさせて、ひたすら見つめるような映画。これも判らないと言われたが、僕はものすごい傑作だと思った。「世界」の中で生きている人間という存在をこれほど見つめた映画も滅多にないと思う。2005年の「埋もれ木」だけは公開当初に見逃し、評価もそれほど高くなかった。僕も明らかに失敗作だと思うが、ファンタジックな美しさはあった。でも、あまりにも安易な幻想に途中で付いていく気が失せた。だから、原作とか実在人物という「しばり」があった方がいいんだろうと思う。だけど、安易な解釈はせず、ただ見つめるように「世界」を多義的に語る事が得意なんだろう。この「FOUJITA」も、初めからフジタの伝記だなどと思わず、パリで活躍したある日本人画家の神話を提示するアート映画と思えば、非常に満足できる出来映えだ。

 映像の絵画的な美しさは快感で、ロングショットで人物を捉える画面も素晴らしい。最近はデジタル技術の発展で、手持ちカメラで動いている画像が多く、臨場感はあるけど、僕にはわずらわしいところもある。こういう静かな映画で語られる世界の方が、僕には映像世界に浸れる喜びがある。小栗康平という人も、やはり大した監督だと思った次第。一度はどこかで見ておいた方がいいと思うけど、アート映画に慣れていないとつまらないかも。もう公開期間も少なくなってきたが、劇場の大スクリーンで見て欲しい映画だ。
コメント (3)
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やっぱりすごい「チェルノブイリの祈り」

2015年12月18日 23時41分49秒 | 〃 (外国文学)
 スベトラーナ・アレクシエービッチチェルノブイリの祈り」(岩波現代文庫)を読んだ。判りますか?今年のノーベル文学賞受賞者の、いまのところ日本語で読めるただ一つの本。(報道されている通り、版権切れとなっていた何冊かの本は、来年に岩波現代文庫で刊行されるとのことだが。)「チェルノブイリ」とは、もちろん1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故のことを指す。チェルノブイリはウクライナ北端にあったが、被害はむしろ北方のベラルーシに多かった。

 これはやっぱりすごい本だった。というか、あまりにも凄まじい状況に言葉を失うような本である。だから、ここではあまり長く書かずに、とにかく読んでみましょうと言うことにしたい。著者は「ノンフィクション作家」として初の受賞と言われるが、普通の意味での「ノンフィクション」ではない。自分の見たこと、考えたことを書くのではなく、多くの人々の声を聴き、再構成して、「語り」の集成として提出するのである。しかし、これは紛れもない「文学」である。かつて読んだことがないような「多声的」(ポリフォニック)な世界であり、「チェルノブイリ交響曲」というか、「受難曲」になっていると思う。

 読みにくいということはない。ほとんどは現地に住む人々の体験であり、難しいことはないんだけど、ではスラスラ読めるかというと、多くの人は読み留まるところがある本だと思う。本の厚さに比べれば、思ったより読み通すのに日数がかかったなと振り返る本だと思う。いやあ、ここまで大変な中身があると、そうそう簡単には読めないですよ。そして、その体験の多くは「ベラルーシ」と「ソ連」に関わる。

 著者は「ソ連崩壊」に関する本をいくつも書いているが、今では若い人は「ソ連」(ソヴィエト社会主義共和国連邦)を知らないわけである。この本を読むと、多くの人は原発事故を「西側工作員の破壊工作」と信じた。ホントかよと思うけど、この本にはそういう証言がかなり出てくる。当局の宣伝というより、とにかくそういう発想を受け入れる人々をソ連は育てていたということなのである。そして、消防士たちは「愛国的情熱」で、何の防備もせず(与えられず)に原発事故に向かい合った。素手で黒鉛を処理したり。だから、すぐに死んでしまった。これは「英雄的な犠牲」ではなくて、「殺人事件」であると思う。だけど、人々の多くは怒りではなく、愛国的献身で事故に対したのである。

 さらに「ベラルーシ」(著者の祖国)では、これはウクライナの事故で、ベラルーシでは安全だというような宣伝がなされたらしい。この本は事故後10年たって1997年に刊行されたが、ベラルーシではまともな情報がなされていないように書かれている。ベラルーシは1994年以来、ルカシェンコ大統領の独裁的統治が続いていて、「ヨーロッパの北朝鮮」などと呼ばれる国だから、恐らくその後もきちんした情報は開示されていないのではないだろうか。「フクシマ」もひどかったけど、あるいは「ボパール」(インドの化学工場事故)などひどい「事故」は世界にたくさんあるが、チェルノブイリは度外れている。

 スベトラーナ・アレクシエービッチ(1948~)は、1984年に「戦争は女の顔をしていない」という第二次世界大戦(「大祖国戦争」)に従軍した女性の証言をまとめ、舞台や映画になって評判を取った。1985年の「ボタン穴から見た戦争」は同じく第二次大戦中に子どもだった人の証言。この最初の2冊が来年刊行される本。1991年にはアフガン戦争の帰還兵の証言「亜鉛の少年たち」(邦訳名「アフガン帰還兵の証言」)、1994年には「死に魅入られた人びと―ソ連崩壊と自殺者の記録」という副題通りの本が出た。この2冊の本は邦訳もあるが、今は書店では入手できない。そして1997年に本書「チェルノブイリの祈り」。最後に2013年に新作「セカンドハンドの時代」があり、来年岩波書店から刊行されるとのこと。松本妙子氏の訳はとても読みやすい。「アレクシエービッチ」と「ヴィッチ」にしないのは訳者の考え。

 読んでいて思ったのだが、日本で書かれた多くのドキュメント的作品、例えば荒畑寒村「谷中村滅亡史」を思い出したのである。広島、長崎を描く多くの文学、例えば長崎の林京子、あるいは水俣を舞台にした石牟礼道子なども、ノーベル賞級の作家と言っていいのではないか。
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韓国大統領選挙のフシギ-韓国民主化問題③

2015年12月17日 00時40分59秒 |  〃  (国際問題)
 韓国の民主化の歴史について3回も書く予定ではなかった。書きだすと長くなってしまうのだが、本来は「最近の韓国の状況」にはおかしいことが多いという話につなげて、「韓国的なるもの」を考えたいと思っていた。しかし、他に書きたいことが多いので、今、全面的に書くのは止めることにしたい。

 例えば「ミャンマーの民主化運動とアウン・サン・スー・チー」と言えば、今なら多くの人が知っているだろう。「南アフリカの民主化とネルソン・マンデラ」というのも、マンデラが亡くなって間もないし、映画にもなっているから知っている人が多いだろう。それに対して、時間が経ったことにより、韓国やフィリピンの民主革命をよく理解していない人が多くなっているのではないか。逆に言えば、民主化に成功し、以後は選挙で指導者が選ばれているが、それだけでは問題は解決ではなかったということだ。日本の事を考えれば当たり前だけど。でも、それでは現代アジアを理解できない。

 さて、1987年6月の民主化宣言は、韓国民衆の長年の血と汗の結晶と言えるものだった。その結果として、1987年12月に、1971年以来16年ぶりの直接選挙による大統領選挙が行われたわけである。ところがその行く末はどうにも納得しがたいものとなった。まず、全斗煥大統領の後継者である軍部出身の慮泰愚(ノ・テウ)が与党の民主正義党から出馬した。また、保守系から朴大統領時代の首相として知名度のある金鍾泌(キム・ジョンピル)が「新民主共和党」を結成して出馬した。一方の旧新民党系からは、一本化の声も届かず、「統一民主党」から金泳三(キム・ヨンサム)、「平和民主党」から金大中(キム・デヂュン)が立候補したのである。

 どうしてこうなるのか。よく判らないが、もともと「ライバルは並び立てない」という歴史的な政治法則というべきかもしれない。(日本で言えば、竹下派の後継をめぐって、橋下竜太郎系(小渕派)と小沢一郎系(羽田派)に分裂した。また、池田勇人、大平正芳、宮沢喜一と続いた宏池会も、加藤紘一系と河野洋平系とそれ以外に分裂して、かつて自民党の中央にいた「保守本流」は影響力を失って行った。)韓国的に考えれば、金大中に対する全羅道金泳三に対する慶尚南道の支持が際立っていて、それぞれ引くに引けないものがあったと言える。また、独裁を終わらせた闘いでそれぞれが果した役割についても、自負するところが双方にあったのだろう。また、与党側も野党分裂を見越して、当時政治活動が禁止されていた金大中の活動を解禁した。(まあ、原則的には誰も反対できないが。)

 結局、投票結果は次の通り。(主要4候補のみ。)
   慮泰愚  民主正義党 8,282,738  (得票率 36.6%)
   金泳三 統一民主党 6,337,581  (得票率 28.0%)
   金大中 平和民主党 6,113,375  (得票率 27.0%)
   金鍾泌 新民主共和党 1,823,067 (得票率 8.1%)
 
 金という姓の有力候補が3人いたので「三金」と当時言われたが、三金の分裂があって、軍人出身のノ・テウが勝利することとなったわけである。金泳三と金大中の票はほぼ拮抗しているので、確かにこれではなかなかお互いに譲れないところかもしれない。ところで、これなら、例えばフランスやブラジル等世界の多くの国では、慮泰愚と金泳三の決選投票になるはずである。しかし、韓国大統領選では決選投票がない。さらに、任期が5年で、再選は禁止である。これも他にない。これでは、任期終盤になると「レームダック」(足の悪いアヒル。政治的な影響力を失った状態のこと。)になるのは当然だ。

 こうして、88年のソウル五輪は慮泰愚大統領の下で行われ、そして慮泰愚の再選はない。そこで、慮大統領は金泳三、金大中、金鐘泌の三人と相次いで会談。その結果、民主正義党、統一民主党、新民主主義共和党の三党が合同することになった。それが1990年1月に発足した「民主自由党」である。当時、1988年に行われた国会議員選挙で、平和民主党が野党第一党になり、金泳三の政治基盤が弱くなっていた。そこで金泳三は軍部勢力と妥協して、「保守大合同」に踏み切ったわけである。韓国の政治風土は「北」と対立している以上、共産党はもとより、社会民主主義政党も(当時は)なかった。金泳三も金大中も、「親米自由主義」の「保守政治家」である。だから、不思議ではないわけだが、金泳三の「奇手」とも言えた。そして、民主自由党は92年大統領選の候補として金泳三を選出した。

 92年12月の大統領選挙の結果は以下の通り。(主要3候補のみ。)
 金泳三 民主自由党  9,977,332  42.0%
 金大中 民主党     8,041,284  33.8%
 鄭周永 統一国民党   3,880,067  16.3%
 3位の鄭周永(チョン・ジュヨン)は現代財閥の総帥で、統一国民党を結成して立候補した。今回は合同効果で1000万票近く得票し、200万票の差を付けたが、それでも過半数は獲得していない。

 ところで、金泳三政権になると、初の本格的文民政権の成立ということで、「歴史問題」などで独自の立場を打ち出すことが多かった。例えば、日本統治時代の旧朝鮮総督府(国立博物館)の取り壊しを決めたのは、金泳三大統領だった。また、前任の慮泰愚に「不正資金」疑惑が持ち上がったこともあって、結局軍政時代の再評価に踏み込んだのである。全斗煥、慮泰愚は逮捕され、過去の「粛軍クーデター」などが断罪された。一時は全斗煥元大統領に死刑判決が下った。(次の金大中大統領により特赦された。)全、慮政権の不正資金問題は近年まで続いた問題で、全元大統領はようやく最近になって完済したという。金泳三時代は、「北」の核疑惑(NPTからの脱退宣言)や慰安婦問題(「河野談話」当時の大統領で、「慰安婦問題では日本に補償を求めない」と宣言した)などの重大な時期に最高責任者を務めていた。今、時間を経て改めて金泳三時代を再検討する必要があるだろう。

 さて、韓国民主化以後の大統領選は、全部で6回しかないから、簡単に見ておきたい。92年大統領選に敗れた金大中は、直後に政界引退を発表したが、95年に政界復帰を決めた。複雑な離合集散を経て、97年当時は「新政治国民会議」総裁として大統領選挙に立候補した。金鐘泌元首相は、民自党を離党して「自由民主連合」を結成していたが、当選を見込めないことから、議院内閣制への改憲を条件に金大中支持に回った。(DJP連合。金大中政権の首相を2000まで務めた。)一方、金泳三の与党・民主自由党は、新韓国党と改名し、さらに民主党と合同し「ハンナラ党」となり、大統領候補に李会昌(イ・フェチャン)元首相が選ばれた。敗れた李仁済(イ・インチェ)京畿道知事は離党して出馬した。

 97年大統領選の主要3候補の結果は以下の通り。
 金大中 新政治国民会議  10,326,275 40.3%
 李会昌  ハンナラ党    9,935,718  38.7%
 李仁済  国民新党     4,925,591  19.2%

 同じことの繰り返しで、今度は金大中が当選した。21世紀になると、ようやく「三金時代」は終わり、新しい候補者の時代となる。以下は数字だけ簡単に提示する。

2002年大統領選挙 金大中系政党の慮武鉉(ノ・ムヒョン)が当選。
盧武鉉 新千年民主党 12,014,277 48.91%
李会昌 ハンナラ党  11,443,297 46.59%
権永吉 民主労働党    957,148 3.9%

2007年大統領選挙 上位3人のみ。ハンナラ党が政権獲得。
李明博 ハンナラ党 11,492,389 48.7%
鄭東泳 大統合民主新党 6,174,681 26.1%
李会昌 無所属 3,559,963 15.1%
 
2012年大統領選挙 史上初の女性大統領が当選。
朴槿恵 セヌリ党 15,770,910 51.55%
文在寅 民主統合党 14,689,975 48.02%
 この選挙では、李大統領系の与党が朴槿恵(パク・クネ)、金大中、慮武鉉系の野党が文在寅(ムン・ジェイン)に統一され、分裂・離党して出馬する候補がいなかった。他に無所属候補が数人いたが、1%をはるかに下回る得票で、全体に影響しない。その結果、初めて「過半数を超える得票で当選」となった。しかし、差は僅かであり、与野党の勢力は拮抗している。韓国も他国に劣らず政争の激しいところだが、王朝時代の「伝統」とも言えるような「党争」が続いているとも言える。しかし、今も続く「地域対立」はむしろ現代の産物と言える。(2012年選挙でも、光州広域市では文候補が9割以上、全羅南北道では9割以上を獲得した。一方、朴候補は地盤の慶尚北道や大邱広域市では8割以上を獲得した。)ところで、韓国が「決選投票制」を過去の選挙結果はどうなっていたのだろうかとも思う。何にせよ、現代韓国を理解するためには、朴正煕独裁や金大中、金泳三などに代表される民主化闘争を知っていないといけない。人間は「近過去」ほど知らないものである。
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金大中と金泳三-韓国民主化運動②

2015年12月14日 23時56分28秒 |  〃  (国際問題)
 金泳三(キム・ヨンサム)韓国元大統領の逝去をきっかけに、この記事を書いているが、今回は金大中(キム・デヂュン)元大統領の名前を先に出した。韓国の民主化運動、さらに日本での日韓連帯運動を書くときには、金大中の役割が大きいからである。

 金大中の名前は、もちろん国際問題に関心がある人には早くから知られていたが、多くの日本人には1973年8月の「拉致事件」を通して印象付けられた。現場から韓国外交官の指紋が検出され、警察当局は出頭を求めたが本人はすでに帰国していた。(情報部出身の外交官だったとされる。)大きな外交問題になったけれど、11月に金鐘泌(キム・ジョンピル)首相が来日して、田中角栄首相との間で「政治決着」を図った。これが日韓関係に刺さる「棘」となってしまった。本来は、拉致された国への帰還(原状回復)が必要なのに、日本はそれを求めずに関係修復を図ったからである。作曲家のユン・イサン(尹伊桑)が西ドイツ(当時)からKCIAによって拉致された時に、西独は強く原状回復を求めて実現させたのと対照的だった。(ちなみに、この経緯を通して、「北朝鮮」は日本は「原状回復を強く求めない国」と認識したという説がある。その認識が後の日本人拉致事件につながるというのだ。)

 一方、この頃から韓国での政治犯問題が大きな焦点となってきた。独裁に反対する韓国の学生や知識人、宗教人が逮捕、起訴される事態が起こったのである。特に、1974年4月に起こった「民青学連事件」では、独裁を厳しく批判してきた詩人・金芝河(キム・ジハ)にいったん死刑判決が下されたり、日本人ジャーナリストも起訴された。また尹潽善前大統領(朴大統領のクーデタ以前の大統領)や池学淳主教など著名人も起訴された。また、この頃、在日韓国人が留学や仕事等で韓国に滞在中に「スパイ罪」で摘発される事件が相次いでいた。このような事態を前にして、日本国内でも救援運動が盛り上がりを見せた。金大中事件の「政治決着」に見られるように、日本政府が人権よりも独裁政権を大事にしていると思ったのである。また、隣国の事態であること、歴史的な経過などもある。しかし、一番大きな点は、日本が戦争の犠牲によって手に入れた「民主主義」を、自らの犠牲的活動により獲得しようとしている人々への敬意や感動があったのだと思う。

 僕が人生で最初に参加した「集会」も、この民青学連事件の救援集会だった。それは有楽町駅前の「そごう」、つまり今のビックカメラの上にある「読売ホール」で行われた。劇団民藝の俳優たちが金芝河はじめ民主運動家の文章を読んだように覚えている。また、それ以後も徐兄弟事件の救援運動など多くの集会に参加した。しかし、日本で一番大きな盛り上がりを見せたのは、1980年の金大中救援運動なのは間違いない。今、これらの日韓連帯運動、あるいは韓国政治犯救援運動はほとんど忘れられている。(ウィキペディアにもほとんど出てこない。)解決した運動は忘れられるのである。しかし、僕の実感では、60年代のベトナム反戦運動に代わって、70年代の民衆運動を代表するものは、日韓連帯、韓国政治犯救援の運動ではないかと思うのである。

 さて、一回目の最後に書いたように、1979年10月に朴大統領暗殺事件が起こり、突然に独裁が終わった。それをもたらしたのは韓国民衆の反独裁運動だった。その後は、首相だった崔圭夏(チェ・ギュハ)が昇格したが、事実上は自由な民主主義の時代がやってくると思われた。1980年の春は「ソウルの春」と呼ばれ、金大中や金泳三も政治活動を活発化させた。しかし、1979年12月12日に、軍内では「粛軍クーデタ」を起こして全斗煥(チョン・ドファン)少将が実権を把握していた。そして、1980年5月17日に、全斗煥らは非常戒厳令の全国拡大措置を取り、民主運動を抑え込み国政の実権を握ったのである。これに対して、特に光州市(金大中の地盤の全羅南道にある)で市民の反発が強まり、反独裁デモが起こった。全斗煥らは軍を派遣して、残虐な弾圧を行った。(光州事件。2007年に作られた映画「光州5.18」があり、韓国で大ヒットし、日本でも公開された。DVDも出ている。)

 全斗煥は9月になって正式に大統領に就任した。そして全政権は、ソウルにいた金大中を光州事件の「黒幕」として「内乱罪」で起訴した。裁判では一審で死刑判決が出て、世界各地で批判が高まった。日本でも国民的な救援運動が起こったし、政府も懸念を表明せざるを得なかった。その後、アメリカを訪問した全斗煥大統領は、無期懲役への減刑を発表、1982年にはアメリカへの「病気療養」を名目にした出国を認めた。その後、全政権時代には、ラングーン事件や大韓航空機爆破事件などの「北朝鮮」によるテロが続いたが、1981年にソウル五輪(1988)の招致に成功した。反独裁運動はその後も続き、全斗煥大統領は1期7年での退任を決めて、後任に軍内で長く同志だった慮泰愚(ノ・テウ)を指名した。国民の直接選挙で大統領を決める制度を求める国民は、1987年6月に大規模な反独裁運動を起こした。(「六月民衆抗争」と呼ばれる。)ソウルの学生を初めとして、全国各地で100万人もの大規模な参加者があったと言われる。

 この事態を前にして、後継者だった慮泰愚は大統領直選制の受け入れを始め、広範な民主化を認める「6・29民主化宣言」を発表し、事態を収拾した。もはやソウル五輪を控えて大規模な弾圧は不可能だった。韓国は経済的にも発展して、中間層が大きな力を持つようになり、今までの強権政治では抑えようがなくなっていたのである。また、モントリオール五輪(アパルトヘイトに反対してアフリカ諸国がボイコット)、モスクワ五輪(ソ連のアフガン出兵に対して西側諸国がボイコット)、ロサンゼルス五輪(モスクワ五輪ボイコットに対抗して東側諸国がボイコット)と、当時3回連続して五輪が政治の影響を受けていた。そのため、韓国政府は当時まだ国交がなかったソ連や中国の参加も含めた全世界の五輪参加を目指していて、国民の声を無視して独裁政治を続けることは出来なかったのである。

 ということで、大統領選が実現するのだが、ここで長くなってしまったので、もう一回。関心がない人もいるだろうけど、同時代的には多くの人が知っていたことである。70年代のアジア各国では、韓国だけでなく、フィリピン、インドネシア、タイなど多くの国で独裁政治が行われていた。80年代半ば以後、フィリピンの民衆革命などで少しづつ民主化が進んできた。同時代の日本では、それらが大きく報道され、国民の関心が高かった。民主化を求める人々への同情、連帯の動きも強かったと思う。88年のミャンマーの運動は、長い時間がかかり、2015年に選挙により民主化が実現したと言えるだろう。1989年の中国の天安門事件に象徴される民主化運動だけは、その後の行く末が見えないけれど。日本での韓国政治犯救援運動は、非常に大きな長い運動でもあり、是非語り継いで行かないといけないと思うけれど、今ではあまり関心がもたれていないようなのは残念だと思う。
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金泳三(キム・ヨンサム)と韓国民主化運動①

2015年12月13日 23時28分41秒 |  〃  (国際問題)
 先月の11月22日に亡くなった、元韓国大統領金泳三(キム・ヨンサム、1927~2015)の話を別に書くと書いたので、その話。亡くなった時は書かなくてもいいかなと思ったのだが、長年のライバルだった金大中(キム・デヂュン)はすでに亡くなっているわけだから、韓国の民主化運動の話も書く機会がもうないかなと思った。時間がかなり経つので、知らない人も多くいるのかなと思ったわけである。書き出したら長くなってきたので、2回に分けることにする。

 金泳三は大統領経験者としては、まあ韓国としては退任後に訴追されなかっただけでもいいのかもしれないが、一種「忘れられた人」になっていた。1998年1月に退任したが、その間際の1997年秋に「アジア通貨危機」が起こり、韓国経済はIMFの管理下に置かれた。起亜自動車(韓国第二の自動車会社)の倒産(その後現代グループ傘下で再建)など大きな犠牲を払い、これで過去の業績が吹き飛んでしまった感がある。また、90年代半ばの「北朝鮮」の核危機の時には、金日成主席との首脳会談開催が決定されていた。ところが、金日成が急死して、後継の金正日は「服喪」に入って会談は実現しなかった。後に金大中が初の南北首脳会談を実現し、それがノーベル平和賞受賞につながるが、この終生のライバルに対しては最後まで複雑な思いを抱いていたようである。

 さて、韓国の民主化運動の歴史を振り返ってみたい。本当は日本の植民地統治、その後の「南北分断」、「朝鮮戦争」から書かないといけないんだけど、長くなり過ぎるので今は省略。韓国(大韓民国)は1948年8月15日に、独立運動家の李承晩(イ・スンマン)を大統領として建国を宣言した。1950年6月25日に、朝鮮戦争が起こり、同族で戦う悲劇となった。その後、李政権は独裁化していき、それに対する反発が強くなった。選挙の不正をきっかけに、1960年4月19日、いわゆる「学生革命」が起こって、李大統領は国外に逃亡した。その後、議院内閣制となり、張勉首相のもとで民主化が進んだが、南北統一運動の進展に危機感を抱いた軍がクーデタを起こした。その結果、1961年5月16日に朴正煕(パク・チョンヒ)少将が実権を掌握、憲法を改正して、1963年に大統領に就任した。

 朴大統領の時代は、日本と国交を結び経済発展を進め、「漢江の奇跡」と言われた。また、ベトナム戦争に参戦し、出身の慶尚道を優遇するなどして地域対立が激しくなった。1969年、朴大統領は憲法の「3選禁止」規定を強引に変更し、1971年の大統領選挙に出馬した。野党の新民党は若手の金大中(1925~2009)を擁立して、ブームを呼び起こし、猛烈に追い上げた。結局は朴=643万票(53%)、金=539万票(45%)で、朴大統領が当選したが、不正があったとも言われる。選挙後に不審な交通事故で、金大中が負傷したりしている。以後、朴政権は金大中を最大の政敵として狙うことになる。金大中は朴政権で冷遇された全羅道(韓国南西部)の出身で、地域対立感情もあった。

 当時はベトナム戦争末期で、中ソ対立を背景にして、新たに米中が手を握ろうとしていた。この情勢を背景にして、南北朝鮮も「対話」をかかげ、72年には相互に有力者が訪問して、7月4日に「南北共同宣言」が出された。しかし、この宣言をきっかけに対話が進むことはなかった。朴大統領は「北」の独裁体制の実情を知り、南でも対応しなくてはならないと考えたと言われる。一方、金日成主席も「南」の経済発展を知り、金日成を中心とする「主体」(チュチェ)思想による党内締め付けを進めた。

 朴大統領は72年10月に特別宣言、非常戒厳令を発し、国会を解散して政党活動を禁止した。その後、大統領の権限を強化した新憲法を制定し、「維新憲法」と呼んだ。(ちなみに、この「維新体制」という言葉が頭に沁み込んでいるので、僕は日本で「維新の会」などと名乗る政党が全然信用できないのである。)この「維新体制」で金大中は政治活動ができなくなり、「健康問題もあって日本や米国を訪問して反独裁運動を続けた。ところが、日本滞在中の1973年8月8日、東京のホテルグランドパレスから拉致される事件が起こった。(金大中氏拉致事件)これは韓国中央情報部(KCIA)の犯行だった。金大中は九死に一生を得て、数日後にソウルに姿を現す。その後、自宅軟禁されるなど、議会内の活動ができなくなり、在野で民主化運動を進めた。その間、野党の新民党は政権寄りか、反政権かをめぐって揺れ動いたが、1974年に反政権、憲法改正を掲げる金泳三が総裁に選ばれた。

 こうして、金大中、金泳三という二人が反独裁の政治家として登場したのである。金泳三の民主化運動家としての最大の役割は、1979年の朴大統領暗殺事件の引き金となる、プサン(釜山)、マサン(馬山)の民主化運動(釜馬民衆抗争)の直接のきっかけとなったことだろう。新民党内部には様々な派閥があり、金泳三総裁も一時その座を追われている。しかし、1978年の総選挙では新民党の支持率が与党を上回るようになっていた。この国民の反独裁感情の高まりを反映して、金泳三は総裁に復帰した。その後、ニューヨークタイムズ記者と会見し、朴政権を厳しく批判し、これに政権側は反発して、無理やりに金泳三議員除名を強行した。これに反発した金泳三の出身地、釜山、馬山のが学生らが大規模なデモを挙行。政権側は軍を派遣して弾圧したが、政権内部で対応をめぐって対立が激しくなり、1979年10月26日、KCIA部長の金載圭(キム・チェギュ)が朴大統領と車智(チャ・チジョル)大統領警護室長を射殺する事件を起こしたのである。
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「イスラーム映画祭」で「神に誓って」を見るべし(再掲)

2015年12月12日 21時47分30秒 |  〃  (旧作外国映画)
 11月23日に書いた記事だけど、イスラーム映画祭が始まったので、改めて載せておきたい。本当は全部見て感想を書く気でいたし、さっそく初日に見に行くつもりだったんだけど、疲れてしまった。まあ、時間が合えば何本かは見たいと思うけど、フィルムセンターの韓国映画特集も興味深い映画が続いている。「神に誓って」は僕は見直すつもりはない。それは多忙や疲れなどの理由ではない。見てくれれば判ると思うけど、これは「一度は見るべき」重大な映画だと思うが、一年間に2回見るエネルギーは湧いてこない。この映画が突きつける現実から目をそむけてはいけないけど、もう少し時間がたたないともう一回見ようとは思えない。そういうタイプの映画である。(以下は最初のママ。)

 言葉の問題もまだ書く用意はあるんだけど、書き忘れないように早めの告知。東京・渋谷のユーロスペースで、12月12日から18日にかけて「イスラーム映画祭2015」が行われる。まさに今見るべき映画がたくさん集まっているが、中でも今年3月に書いたパキスタンのショエーブ・マンスール監督の「神に誓って」が3回上映される。これは必見中の必見だから、是非見て欲しいと思うので、今から告知。
 
 この特集の最初に、フランス=モーリタニア合作の「禁じられた歌声」が上映されるが、これはその後、12月26日よりユーロスペースで公開される。原題が「ティンブクトゥ」で、マリの古都ティンブクトゥ(トンブクトゥ)に遠くない町がイスラム過激派に占拠された様子を描いている。昨年のカンヌ映画祭コンペ部門に出品され、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。アブデラマン・シサコ監督はモーリタニアを代表する国際的にも知られた人である。この映画の予告編を見たが、突然過激派に占拠され音楽もサッカーも禁止される恐るべき実態が描かれていた。マリの首都バマコでホテル襲撃事件が起きたわけだが、まさに今必見の映画というべきだろう。

 パキスタンの「神に誓って」(2007)に関しては、フィルムセンターの現代アジア映画特集で見た時の感想「ショエーブ・マンスールの映画」を見て欲しい。人気ロックバンドの兄弟とイギリスに住む美しい従妹の運命を「9・11」前後で壮大に描く映画である。パキスタンだけでなく、イギリスやアメリカ、そして紛争のアフガニスタンへと舞台が広がり(まあ、ロケはどこだか判らないが)、イスラーム教のあり方にも、またアメリカ社会のあり方にも、強い疑問を投げかける衝撃の映画。タブーに挑戦した勇気ある映画だが、作り方はある家族の移り変わりを描く大メロドラマ。ただ、扱われているテーマがあまりにも衝撃的で、簡単に言葉を見つけられない。こういう映画は珍しく、是非多くの人に見て欲しい映画。
 上映は、12月13日(日) 15:00~
       12月15日(火) 17:55~
       12月17日(木) 13:00~ 
 以上の3回が予定されている。なお、168分と非常に長い映画なので時間に注意。

 他にもイスラーム圏の各国の映画が上映される。僕が見ているのは、マレーシアの女性監督故ヤスミン・アフマドの「ムアラフ 改心」だけだが、これは宗教討論映画とも言うべき非常に珍しい映画である。父親の虐待を逃れてきたムスリムの姉妹が、カトリックの華人教師と知り合う。多民族、多宗教国家のマレーシアという社会でなければ作り得なかった重要な映画だ。東南アジアではインドネシアの「カリファーの決断」という映画も上映される。

 他に、イランの「法の書」、トルコの「二つのロザリオ」、パレスチナに関してはフランス=ベルギー合作の「ガザを飛ぶブタ」、モロッコ=フランスからは「長い旅」という、フランス生まれのモロッコ人が父に頼まれてメッカまでの巡礼に運転手として同行するという映画。そして最後に、「トンブクトゥのウッドストック」というマリで行われた音楽祭のドキュメンタリー映画。映画の出来は判らないが、出来るだけ見てみたいなあという映画が集まっている。映画一本で実情は判らないが、風景の一端、また人々の感情の一端は知ることができるはずである。
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追悼・野坂昭如

2015年12月10日 22時59分34秒 | 追悼
 野坂昭如が亡くなった。12月9日没、85歳。長く闘病中だったから驚きは少ないけれど、この数年だけで、小沢昭一菅原文太愛川欣也などが続々と亡くなってしまった。「ある世代」が消え去りつつあるのだ。「ある世代」とは、つまり「焼け跡闇市世代」である。そして、野坂昭如という人も、「火垂るの墓」の「反戦作家」として語られてしまう。選挙に立候補という話題も、1983年衆院選で田中角栄の選挙区から出たことが主に語られる。間違いではないけど、野坂昭如が突然立候補を表明して大きな話題となったのは、1974年の参院選東京地方区である。この時の野坂の選挙運動は大きな話題となり、選挙戦最後の日の新宿の演説は「辻説法」というLPレコードにもなった。僕はこれを持っているのである。そして今、何十年ぶりに聞いてみた。先に挙げた小沢、菅原、愛川などは皆、この日の新宿に駆けつけた面々である。そのレコードの写真には小沢昭一が映っている。
 
 野坂昭如という人は、「中年御三家」と言われた(まあ、自分たちで勝手に言った)歌手でもあった。他の二人は、小沢昭一と永六輔。(念のために書いておくと、徳川御三家をもじって最初に御三家と言われたのは、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦で、70年代になって野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹を「新御三家」と呼んだ。「中年御三家」はそれのパロディ。)これらの人々も「中年」だったんだと感慨深い。今の人は、「黒の舟唄」は長谷川きよしの、「バージンブルース」は戸川純の歌だと思っているかもしれないが、これは野坂昭如の歌だったのである。(選挙演説最後には、「黒の舟唄」を大合唱している。)だけど、やっぱり「マリリン・モンロー・ノーリターン」こそ、野坂昭如のいちばんの持ち歌なんだろう。「このようはもうじきオシマイだ…」である。さらに「ジンジンジンジン、血がジンジン…」「男と女の間には…」などと、訃報を聞いた時から頭の中でリフレインしてしまっている。

 野坂昭如という人は、20代からテレビ界で活動し始めたが、当初は非常に怪しげな人物だった。大体、黒いサングラスなんか、当時は怪しいイメージ。出した本は「プレイボーイ入門」(1962)で、怪しげな人物としてマスコミに登場した。最初に書いた本も「エロ事師たち」(1966)というブルーフィルムを作っている男の話。これは同年に今村昌平監督の「人類学入門」として映画化され主演の小沢昭一の代表作となるが、小説も傑作で今も新潮文庫に生き残っている。そして、1968年1月に「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞。新人賞である直木賞作品がいつまでも代表作と言われるのは不本意だろうけど、後にたくさん書いた小説は、多忙の故か、関心の広さの故か、あまり大評判になった小説が少ない。読んでないものが多いが、当時の時事的な興味が薄れた現時点でどう評価すべきか。

 僕は高校時代に新潮文庫の「火垂るの墓・アメリカひじき」を読んだ。その本には6編の小説が収録されていたが、中で「焼土層」という小説が気に入って、シナリオ化しようとしたことがある。まあ中途で挫折したが、なんだか映画向きで映像が頭の中で見えるような気がしたのである。「エロ事師たち」も思い切って読んでみて、とても面白いし、単なる「エロ小説」ではなかったことに驚いた。当時文庫に入った「真夜中のマリア」などという小説も読んだ。このパロディも面白かったけど、まあスラスラ読めるだけだったかもしれない。これらを読み始めて判ったのは、この人は怪しげなイメージ、セックスやプレイボーイで売ってきたけど、サングラスは照れ隠しのようなもので、本質は戦争を心から憎み、「国家権力」に警戒感を持つ人物だということである。

 1974年という年は、前年の秋に第3次中東戦争が起き「石油戦略」が発動され「オイルショック」が起きた翌年である。物価は3割ぐらいあがってしまい、後の首相・福田赳夫が「狂乱物価」と呼んだ。当時、自民党内では田中角栄首相に対し、福田赳夫や三木武夫の反主流派が対抗していた。そして、74年夏の参院選では田中首相による「金権選挙」が繰り広げられた。そういう参院選に野坂昭如が立候補したのは、まさに「時宜を得た」というか、僕には至極当然のわかりやすい行動だった。じゃあ、僕も選挙を手伝ったのか、投票したのか。いやいや、僕は選挙権がまだない浪人生でありました。

 最初に評価されたのは作詞家として。「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞家賞を取っている。伊豆の伊東温泉「ハトヤ」のコマーシャルも野坂の作詞。これは関東圏では誰でも知っている曲である。父・野坂相如(すけゆき)は内務官僚で、新潟県副知事をした。新潟県知事選や参院選に出たこともある。(いずれも落選。)妻と二人の娘はそろって「宝塚」で、実はそういう環境の人だったけど、だからこそ反俗を貫いたと言えるんだろう。
 
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