尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

見えてくる「王権」の構造ー『特別展はにわ』を見る②

2024年11月22日 22時18分31秒 |  〃 (歴史・地理)

 東京国立博物館の『特別展/はにわ』の話2回目。第1会場に入ると、最初に「踊る人々」が展示されている。埼玉県熊谷市の野原古墳出土のもの。これは祭祀の場面で踊っていると思われてきたが、馬の手綱をひく姿と見る異説も有力だという。古墳時代末期の6世紀のもので、技法的には表現の省略が進んだものと言えるらしい。そこからくる「ゆるさ」が埴輪っぽいと言われる。いずれにしても、「王」(地方政権の権力者)の権威を誉め称えるためのものだろう。

(踊る人々)

 はにわ展なんだから、もちろん埴輪(はにわ)がいっぱい展示されている。しかし、それだけでなく、江田船山古墳(熊本県和水町)や綿貫観音山古墳(高崎市)などの豪華な副葬品も展示されている。埴輪は「王墓」周囲から発掘されるものだから、「王権」全体の理解が欠かせない。特に下の金銅製の帯は黄金の鈴が付いていて、実に見事なもの。驚くしかない見事な副葬品だ。大陸製の豪華な装飾品が関東地方まで渡っていたのである。当然、畿内の大王墓からは、どんな素晴らしいものが出て来るだろう。しかし、「天皇陵」に指定されているものは発掘調査が出来ないし、仮に出来てもほとんどは盗掘されていると思われる。

(金銅製鈴付大帯=綿貫観音山古墳出土)

 大和に本格的な王権が成立すると、巨大な王墓が建設された。その周囲に置かれたのが「埴輪」である。「殉死を禁止した代わりに埴輪を作るようになった」と「日本書紀」垂仁天皇(11代)の条に出ているが、これは考古学的研究の結果と矛盾するので、今は土器製造を職掌とする土師(はじ)氏の伝承とされている。じゃあ、なんで埴輪を作ったかというと、「結界」だと思われる。王墓に悪霊が侵入しないように、周囲に祈祷施設を作るのである。それが「円筒埴輪」で、円筒の上に捧げ物を乗せて祈るのである。これがベースになる埴輪で、動物や家などの埴輪は東国で発展した異質なものである。

 (円筒埴輪、左のものは2.2mもある巨大なもの)

 大王墓は発掘出来ないと書いたが、例外が一つだけある。宮内庁管理の天皇陵は発掘出来ないが、天皇陵の治定(ちじょう)には疑わしいものが多い。26代継体天皇の真の墓は大阪府高槻市の今城塚古墳だというのは、ほぼ学界の通説となっている。今城塚古墳は発掘調査が行われ、史跡公園、歴史館が作られている。そこで出土したのが下の家形埴輪で、実に豪壮な姿が大王にふさわしい。(もっとも北陸から発した征服王朝である継体天皇は、それまでの王権中心地の大和に入れず、大阪府高槻市に墓が作られたわけだが。)しかし、こういう家に住んでいたかどうかは判らない。むしろ霊の依り代としての「家」かもしれない。

(今城塚古墳の家形埴輪)

 高崎市の綿貫観音山古墳から出た人間の埴輪はとても興味深い。下の二つは向かい合って発掘されたもので、対になると思われている。あぐらをしている左の男性は、「王」と思われている。一方、右の女性は正座をしていて王に仕える女性らしい。王権に仕える巫女的なものか、それとも食事を提供する役か。ともかくすでに性差が現れている。武人埴輪があるように、権力のベースは武力にあるが、倭国の王権は宗教的な「権威」で統一された要素が大きい。その経緯の中で、男の武人と侍女というジェンダーによる役割が成立していったものだろうか。権威と権力、武力と宗教性。王権の二重性がうかがえる埴輪だ。

 (王と仕える女性)

 動物埴輪も興味深い。いっぱい並んだ部屋があって、面白い。しかし、これも当然「かわいらしさ」などを感じるのは現代人の勝手だけど、やはり被葬者の力を寿ぐために置かれているんだろう。もっとも東国で独自に発展していく動物埴輪は、ある程度は埴輪工人の趣味というか、違う動物も作ってみたいというような「遊び心」もあったような気もする。ヴァリエーションがありすぎるし、「美」的な創造性は感じないとしても、動物を再現したいという初期的な作家性も多少あるような気がする。力士埴輪も面白い。土俵入りみたいに四股を踏んでいる。これは王墓を霊的に踏み固める「地鎮」の役だろう。

(馬)(鹿)(力士埴輪)

 埴輪は前方後円墳の周囲に置くものだから、当然ながら古墳時代が終わると作られなくなる。継体天皇の子である欽明天皇時代に「仏教渡来」があり、次第に葬送儀礼も変わってゆく。普通は「古墳時代」は3世紀中頃から6世紀後半頃を指す。地方ごとに多少違うとしても、7世紀半ばには古墳は(中央では)完全に作られなくなる。野見宿禰(のみのすくね)を祖とする土師(はじ)氏は葬送儀礼や土木技術を担当する一族で、埴輪を発明したと伝承される。しかし、次第に直接の役割がなくなっていって、学問に生きるようになる。菅原氏や大江氏は土師から改姓したもので、菅原道真を出すことになる。

  (東京国立博物館)

 当日は晴れ渡った一日で、トーハクも黄葉が始まっていた。真ん中の写真を見ると、表慶館の上に「キティちゃん」がいる。

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『特別展はにわ』を見る①ー「挂甲(けいこう)の武人」勢揃いの迫力

2024年11月21日 21時56分20秒 |  〃 (歴史・地理)

 『オン・ザ・ロード』を見る前に、東京国立博物館の『特別展/はにわ』に行った。12月8日までなので、そろそろ行かないと。「はにわ」には今までそんなに関心がなかったのだが、たまたま本屋で雑誌『時空旅人』11月号「はにわの世界」を見て、名前も知らなかった雑誌だけど買ってしまった。読んで勉強すると、なんだか興味が増してきたわけ。

 トーハクも高くなって、最近はあまり行かなくなった。久しぶりに行ってみると、チケット売り場が大混雑。ほとんどが外国人客である。表慶館では「Hello Kitty展」なんかやっててビックリ。しかし、そのチケットは博物館では売ってない。並んでる外国人客は「はにわ展」を見るわけじゃなく、ほとんど全員平常展(総合文化展)のチケットを買っている。はにわ展を見たい人は事前にネットで買っていく方が賢いようだ。平日なので、はにわ展そのものはそんなに混んでたわけじゃなかった。

 日本史の教員だったけど、僕はほとんど埴輪(はにわ)に詳しくない。「古墳」そのものには関心があったが、専門外なので副葬品の埴輪には関心がなかった。だから「挂甲の武人」なんて言われても、意味も読み方も知らなかった。これは「けいこうのぶじん」と読む。群馬県太田市で発掘された埴輪「挂甲の武人」の国宝指定50年というのが今回の展覧会の趣旨で、同型の埴輪5点が勢揃いしている。まるで秦・始皇帝陵の「兵馬俑」を見た時を思い出すというと大げさだが、まあ壮観ではある。

(国宝「挂甲の武人」)

 「挂甲」と言われても意味不明だが、この言葉はWikipediaに出ていた。「」は「ケイ」「カイ」で、訓読みでは「かける」。つるすとか引っかけるという意味である。本来は奈良・平安時代の甲(鎧=よろい)の一種で、鉄製や革製の甲に小さい穴をあけて引っかけて、腰から下まで覆う。今では古墳時代のものは「小礼甲」(こざねよろい)と呼ぶべきだと言われているらしいが、僕にはよく判らない。写真で見れば、確かに下半身まで覆うような甲をまとっている。そして刀と弓を持っている。この展覧会では一部を除き写真撮影可なんだけど、「挂甲の武人」の部屋は暗くてよく撮れていなかった。そこでHPから取ってみる。

(「挂甲の武人」5体勢揃い)

 所蔵先を見てみると、左から順に「東博(国宝)」「相川考古館(重文)」「シアトル美術館」「歴博」「天理参考館(重文)」である。外国所蔵のものもあるから、二度と見られない勢揃いだろう。こんな風に並んでるわけではないが、一つの部屋に集まってるから迫力である。埴輪は古墳の周囲から出土する副葬品だが、これら武人たちは何のために存在するのか。それは被葬者の霊を来世でも守り続ける「呪術的役割」だろう。武人だからもちろん戦争にも行ったんだろうが、ここでは王に対して死後も供奉している。院政期に「北面の武士」が置かれたが、「武士」の第一の役割は権力者の周囲を悪霊などから守ることだったと思う。

 そして驚くべし、本来の「挂甲の武人」は装飾されていたというのである。解体修理時に細かな調査を行い、彩色を施したレプリカが作られた。それが上にあるもので、もともとは白いものだった。意味があるのかどうか知らないが、やはり「破邪」の色としての白なんだろうか。埴輪は美術品として見ても良いが、本来は「作品」ではない。中にはカワイイものもあるけど、それも含めて僕は埴輪に「史料」としての価値を見るのである。このような多種多様な埴輪はほとんど群馬県など関東から出土する。

 古墳時代後期になると、ヤマト王権は大陸から「仏教」を受け入れ、大規模古墳を作る文化がすたれていった。中央の文化的規制が緩くなり、東国独自の発展をした。それがこれほど多彩な埴輪が作られた理由らしい。東国だから、巨大古墳があっても「大王墓」ではない。地方の王権とは言えるかもしれないが、統一政権の「大王」(オオキミ)ではない。しかし、前方後円墳を作っている以上、東国文化も中央と無関係ではない。埴輪を通して「王権の構造が見えてくる」のである。「挂甲の武人」は第2会場に展示されていて、そこまでにも興味深い埴輪がいっぱいあった。長くなったので2回に分けることにしたい。

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中公新書『アメリカ革命』(上村剛著)を読むー世界初の憲法制定

2024年09月23日 21時46分28秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書の上村剛(うえむら・つよし)著『アメリカ革命』を読んだので、その感想。書評を見て読みたくなったのだが、たまには歴史の本も読まないと。アメリカ史は詳しくないが、やはりきちんと知っておく必要がある。著者の上村剛氏は1988年生まれの若い研究者で、東大大学院博士課程を修了して現在関西学院大法学部准教授。『権力分立論の誕生ーブリテン帝国の「法の精神」受容』(岩波書店)という本で、2021年サントリー学芸賞を受賞したと出ている。

 書名のアメリカ革命って何だと思う人もいるだろう。歴史の教科書には「フランス革命」や「ロシア革命」は出て来るが、普通は「アメリカ革命」とは出てない。「アメリカの独立」と書いてあることが多いだろう。「アメリカ独立革命」と呼ぶこともある。代表的な「市民革命」として必ず教科書に出て来るが、これが生徒には理解しにくい。なるほど市民革命なき国に住んでるんだとそのたびに実感したものだ。しかし、この本を読んでも「独裁からの自由」を求めて起ち上がった英雄的人物はほとんど出て来ない。

 人物史ではなく制度形成史だという点もあるが、そもそもワシントンとかジェファーソンなどという有名人も今から見れば「限界」だらけで、その限界を見極めることが本書の目的だからでもある。有名な「独立宣言」(1776年7月4日)は「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と格調高く宣言したが、もちろんその後も黒人奴隷を認めていたし、女性の参政権もなかった。そこら辺は当時も議論した人がいるが、そもそも先住民の土地を奪って「建国」したことなど意識さえしていなかっただろう。
(上村剛氏)
 この本で重視されているのは、「憲法制定会議」である。独立戦争は一進一退で決してアメリカ独立軍が圧勝したわけではなかった。しかし、1781年にイギリス軍が降伏し1783年のパリ条約でイギリスも独立を認めた。しかし、その後のことは何も決まっていなかったのである。1787年にフィラデルフィアで連邦憲法制定会議が開かれ、4ヶ月の激論の後に憲法がまとまり、その後建国各州の批准を経て発効した。僕たちはアメリカには大統領がいて、上下両院最高裁もあると「常識」で知っている。しかし、同時代にはそういう国は世界のどこにもなかったんだから、「アメリカ合衆国」は「発明」だったのである。
(アメリカ独立宣言=ジョン・トランブル作1818年)
 それも妥協に次ぐ妥協の末に作られたのが合衆国憲法だった。そもそも会議に代表を送ってこない州(ロングアイランド)もあれば、すぐに帰ってしまった州(ニューヨーク)もあった。イギリス国王から離脱したのに、「大統領」という独裁者を作るのは大反対という人も結構いた。議会制度ももめたあげく、上院は各州から2名ずつ、下院は人口比でと決まった。これも大きな州(ペンシルバニアやヴァージニア)と小さな州との対立の末の妥協だった。今では「巧みな知恵」に思われて誰も疑わないシステムも、妥協で作られていった。「人口比」も「黒人どれいのカウント」をめぐって揉めた。奴隷も「一人の人間」としてカウントすると、南部の代表が多くなってしまう。参政権は有産階級の男性だけが持つのが自明だったから、奴隷賛成派の勢力が増えてしまうのである。
(建国13州から西部へ)
 そして19世紀になって、ヨーロッパ列強(イギリス、フランス、スペインなど)と戦争、交渉などを経て、西部へ勢力を広げていく、先住民を虐殺、追放しながら、太平洋岸にまで至る「帝国」を築いていった。そして現在の民主、共和両党につながる「党派」が成立していく。そういう19世紀半ばまでを扱っている。長いスパンで見ると、植民地時代から19世紀半ばまでを「アメリカ革命」ととらえている。これは「明治維新」だったら、江戸時代中期から日清日露戦争まで長くとらえるというようなものだろう。

 本書は歴史の中で「小さな発明」として作られた「アメリカ建国」がいかにして「超大国」になっていったか、その「種」を建国当初にさかのぼって検証した本だ。その当時は女性、どれい、先住民を排除して作られた国だった。そういうアメリカが世界的超大国になって、大統領選挙は全世界が見つめる関心事になっている。いま「大統領」がいる共和国は世界にいくつもあるが、もとは18世紀末のアメリカが「発明」したものだった。なお、人物史にはほとんど触れられないが、『コモンセンス』で独立を主張したトマス・ペインが後にフランスで言論活動を行い、革命中に囚われるなど波瀾万丈の人生を送ったことが興味深かった。
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清水透『ラテンアメリカ五○○年 歴史のトルソー』を読む

2024年08月06日 22時24分20秒 |  〃 (歴史・地理)
 清水透ラテンアメリカ五○○年 歴史のトルソー』(岩波現代文庫)という本を読んだ。存在も知らなかったが、ラテンアメリカの歴史に関心を持ったら本屋で目に飛び込んできた。もともとは2015年に立教大学ラテンアメリカ研究所から出た本で、2017年に岩波現代文庫収録。トルソーというのは「人間の頭部・両腕・両脚を除いた胴体部分のこと」で、洋服売り場で服を着せてある上半身を意味する。要するに歴史の基底部というような意味だろうか。いわゆる「通史」ではなく、ラテンアメリカ史に見られる特質を分析した本になる。叙述は「ですます」体で理解しやすいけど、知らないことばかりでなかなか大変だった。

 著者の清水透氏(1943~)も知らなかったが、非常に興味深い人である。東京外語大スペイン語学科を卒業し、大学院を経てメキシコに留学。その後、母校に勤務していたが、50歳の時に管理職的な仕事ではなくメキシコに通い続けたいと思って退職。獨協大学、フェリス女学院大学を経て、2009年に慶應義塾大学を定年退職。この間、1979年から断続的にメキシコ南部チアパス州チャムーラという村に通い続けた。この本はその「成果」をまとめた本と言える。一時通えなかった時期もありその理由は「娘の闘病・他界」と書かれている。Wikipediaをみると病気は白血病で、著者は骨髄バンクの普及啓発活動に取り組んでいた。
(清水徹氏)
 実は『戦争ミュージアム』より前に読んでた本だが、書きにくいので順番が逆になった。この本は要するに、「チャムーラ体験」がベースにある。著者のラテンアメリカ認識を「下から」作ったのが長年の現地体験である。そこはメキシコ最南部の貧困地域で、一見すると今も昔も「インディオの村」だという。ところが、40年前は天然繊維だった服が今は化学繊維に変わっているという。村は一応「カトリック」だが、子どもが生まれたら近くの町サンクリストバルから司祭を呼んで洗礼を施すぐらいの関わり。それじゃいけないと教会が改革運動を始めたことがあったが、あるとき村人が新しい施設を破壊して司祭を追放してしまったという。日本人が「一応仏教徒」であるのと似たように「一応カトリック」と言うべきか。
(チアパス州の位置)
 「新世界」においてカトリック教会の影響は大きい。(しかし、近年のメキシコでは隣国アメリカの福音派プロテスタントの布教が広まっているとのこと。)単に「暴力」だけでは支配出来ないところ、「精神的征服」を担ったのがカトリック教会だった。もちろん先住民や黒人奴隷の抵抗は頻発したが、著者によれば「抵抗」にも二つある。暴力的抵抗ばかりでなく、「逃亡」も多かった。アフリカの村人をまるごと奴隷として連行した事例もあり、それらの人々が集団で逃亡して一帯に「黒人王国」を築いた例もあったという。そして度々スペイン側を攻撃するので、何と植民地当局が奴隷王国に「朝貢」していたのだという。ただし和平条件に「教会を置く」という条項があり、結局いつの間にか普通の村になってしまったという。
(サンクリストバル)
 19世紀初頭の「ラテンアメリカ独立」は、結局植民地の大地主層の支配をもたらした。そして20世紀になると、アメリカ資本による「バナナ共和国化」が進む。そして中南米は「軍事独裁」ばかりとなった。この本はテーマ別に書かれているが、最後の方は近現代史となって人物名も多く出て来る。特にメキシコは20世紀初頭の「メキシコ革命」を経てラテンアメリカでは独自の存在となった。(例えばキューバ革命後に、キューバと国交を断絶しなかった唯一の国。)その影響はチャムーラ村にも及んでいる。しかし、近年は「液状化」とされ、チャムーラ村でいつも宿泊していた家からも、アメリカに移民に行ってしまった人がいるという。刺激的な論考が判りやすく展開されていて、ラテンアメリカに関心が深い人だけでなく読まれるべき本だ。
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梯久美子『戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』を読む

2024年08月04日 22時10分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の7月新刊、梯久美子戦争ミュージアムー記憶の回路をつなぐ』は重いテーマを取り扱いながらも、とても読みやすい。題名通り日本各地にある戦争ミュージアムを訪れて紹介する本だが、「通販生活」に連載されたという成り立ちから一編が長くない。簡潔にまとまっていて、すぐに読めるのである。どこから読んでも良いし、旅行のガイドにもなる。14箇所の施設が紹介されているが、多分全部行ってる人はほとんどいないだろう。北は稚内から、南は石垣島まであって、近年に出来た施設も多いからだ。まずは読んでみて、夏休みに近くにあるところに足を運んでみては? 「自由研究」や「研修」にも役立つ本だろう。

 梯久美子(かけはし・くみこ、1961~)はノンフィクション作家で、『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(2006)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。その後、大著『狂うひと─「死の棘」の妻・島尾ミホ』(2016)が高く評価され、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受けた(文庫版を持ってるけど、あまりに分厚くてまだ読んでない)。戦争に関する本が多いようだが、近代文学に関する本もある。また『廃線紀行―もうひとつの鉄道旅』(2015)という本もある。
(梯久美子氏)
 この本に出ている14箇所の施設の中で、行ってるところは5箇所しかなかった。結構行ってるつもりだったが、長崎、舞鶴などその町に行ったことがないんだからやむを得ない。行ってるのは(掲載順で)、予科練平和記念館戦没画学生慰霊美術館 無言館東京大空襲・戦災資料センター原爆の図丸木美術館都立第五福竜丸展示館である。それらは東京、または関東近辺にあり訪れやすい。無言館や丸木美術館などは何度か行っている。単なる「戦争ミュージアム」というより、ある種「聖地」みたいな重みがある場所になっている。これらは名前を挙げるだけにしておきたい。
(回天記念館)
 この本には恐らく日本でもっとも知られた戦争ミュージアムが出てない。「広島平和記念資料館」「ひめゆり平和祈念資料館」「沖縄平和祈念資料館」である。広島に関しては関連書籍も多く、ホームページも充実しているからあえて取り上げていないと「あとがき」にある。沖縄も恐らく同じような事情だろう。これらは僕も行ったことがあるが、確かに本書を読む人なら、行ってなくても名前は知ってるだろう。それよりあまり知られていない施設を取り上げるのが、この本の特徴だ。例えば、山口県周南市にある「回天記念館」は、生還を全く想定しない恐るべき「特攻魚雷」である「回天」基地があった島にある施設である。1968年に出来ているが、フェリーで行くしかない瀬戸内海の島にあるので、なかなか行きにくい。
(満蒙開拓平和記念館)
 長野県南部の阿智村に2013年に出来たのが「満蒙開拓平和記念館」である。開館時には報道されたので、僕も存在は知っていた。長野県はかつて「満州国」に多くの移民を送り出した県で、ソ連軍の侵攻、引き揚げ時に大きな犠牲を出した。「満蒙開拓」は当時の国策だが、実は「開拓」ではなく中国農民の土地を奪って与えられたものだった。そのような「加害」と「被害」をともに記憶して伝えようというのが、この施設の特徴だ。僕も一度行ってみたいと思いながら、信州の観光ルートから外れる場所にあってなかなか行くチャンスがない。非常に大切な記念館だと思う。
(舞鶴引揚記念館)
 その外地からの引き揚げに関しては、多くの人の帰還港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」が1988年に作られた。この地域(若狭湾沿岸一帯)には行ったことがなく、日本三景の天橋立も見てない。正直言うと、こういう施設があることもこの本で知った。何でもシベリア抑留に関する収蔵品は、2015年に世界記憶遺産に登録されたという。ここも元気なら一度は訪れたい場所である。また石垣島にある「八重山平和記念館」はいわゆる「戦争マラリヤ」を記憶する施設である。戦争マラリヤが軍命令に基づき「有病地帯」へ住民が移動させられた「国策」によるものだったことを僕はこの本を読むまで知らなかった。
(八重山平和記念館)
 沖縄に関しては、撃沈された疎開船である「対馬丸記念館」(2004年開館)も掲載されている。冒頭にあるのは「大久野島毒ガス資料館」で、広島県の瀬戸内海にある大久野島に作られた毒ガス製造工場の資料館である。ここも前から一度行きたいと思っているのだが、東京からはなかなか遠い。今では「休暇村大久野島」が作られウサギの島として世界に知られている。他にも「象山地下壕(松代大本営地下壕)」「長崎原爆資料館」「稚内樺太記念館」が載っている。日本の北から南まで、それぞれの地で異なった戦争の記憶が継承されていることがよく判る。ここで取り上げた場所に他意はないが、自分もあまり知らなかった場所を中心にした。

 最後にここで取り上げられていない施設を紹介しておきたい。最初は「しょうけい館 戦傷病者史料館」である。ここは地下鉄九段下駅近くにあったが、再開発にともない近くに移転して2023年10月にリニューアルオープンした。厚生労働省が設置した施設で無料で観覧できる。戦傷病者という今では忘れられている(少なくとも取り上げられることが少ない)テーマに特化して、戦争に関して重大な視点を提示している。今でも世界に戦争が絶えない中で、決して忘れてはいけない重みがある施設だ。

 もう一つが「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(wam)で、いわゆる「日本軍慰安婦」に関する展示と活動を行っている。西早稲田のビル内にあって金土日月の週4日しか開館していない。しかし、今もつぶれずに存続していることが貴重だ。こっちは有料だが、是非一度は訪れて欲しい施設である。ここも是非紹介して欲しかった場所だ。
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君はハイチ革命を知っているか?ー『ハイチ革命の世界史』を読む

2024年07月29日 22時46分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 君はハイチ革命を知っているか? 「ハイチ革命」とは、18世紀末に中米カリブ海にある小国ハイチ(当時はフランス領サン=ドマング)で起きた黒人奴隷による革命である。1804年に独立を達成し、「世界初の黒人共和国」を樹立した。ハイチはその後苦難の道のりを歩み、今でも西半球最貧国と呼ばれる。現時点では政府がほとんど機能せず、国土の大部分をギャング組織が支配していると言われている。余りにも先駆的な「反植民地革命」だったため長く世界から認められず、世界史上でも「忘れられた革命」になってきた。しかし、今ではアメリカ独立革命フランス革命と並び「18世紀の三大革命」とされている。

 最近岩波新書の浜忠雄ハイチ革命の世界史』を読んで、この記事を書いている。2023年8月に出た本だから、ほぼ一年前に出た本だが、「積ん読」だったわけではない。新書といえど税込で千円を超えるから、もう世界史の新書はいいかなと思って買わなかったのである。今回読んだのは、きちんと中南米カリブ海地域の歴史を知りたいと思ったからだ。ガルシア=マルケスの小説はずっとコロンビアのカリブ海沿岸地域を描いていた。さらに、ちょっと前に『MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?』(2024.6.23)を書いたので、「コロンブスが『発見』した島」で何があったのかをきちんと考えたいのである。

 その島はイスパニョーラ島と名付けられたが、後に聖ドミニコ(13世紀初頭にドミニコ会を創設したスペインの修道士)にちなんで「サントドミンゴ」と呼ばれるようになった。現在島の東3分の2が「ドミニカ共和国」となり、首都がサントドミンゴなのも、この聖ドミニコから来ている。17世紀になってスペインが衰えフランスが強大になり、次第に島の西部を占領するようになった。スペインには撃退する力がなく1697年にフランス領と認められ、フランス語読みで「サン=ドマング」と呼ばれた。
(ハイチの場所)
 スペイン領時代から原住民タイノ族は鉱山などで酷使され、また白人の持ち込んだ病原菌によって原住民はほぼ絶滅するか逃亡した。人口は十万人から百万人いたとされる。(なおスペイン人が新しい作物などを得てアメリカ先住民に病原菌が流入したことを、今は歴史学用語で「コロンブス交換」と言うらしい。)そこでスペイン人はアフリカから黒人奴隷を導入し、奴隷制プランテーション農業が盛んになった。18世紀フランス経済はサン=ドマングの砂糖貿易に支えられ、砂糖きび栽培はぼうだいな黒人奴隷に頼っていた。表が掲載されているが、18世紀末には黒人奴隷が40万以上にもいて、白人3万人を大きく越えていたのである。

 過酷な環境にたえかねて、1791年8月21日に黒人奴隷の一斉蜂起が始まった。蜂起はあっという間に広がり、北部の大部分を解放した。サン=ドマングでは解放奴隷のトゥサン・ルヴェルチュール(1743?~1803)がリーダーとなり、奴隷解放を宣言した。その時本国フランスは大革命のさなかで、1789年に採択された「人権宣言」は「人は、自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ」と格調高く述べている。ならばフランス領内に奴隷の存在は認められないはずだ。根強い抵抗を排して、やがてフランス議会が奴隷廃止を決定する過程は興味深い。結局「恩恵」として解放を認めたのは、革命後の周辺諸国との戦争の影響が大きかった。
(トゥサン・ルヴェルチュール)
 しかし、ナポレオン政権になって情勢が暗転する。ナポレオンは1801年にトゥサンを罠にかけて逮捕し、フランスまで連行して投獄した。(トゥサンは1803年に獄死した。)その後ナポレオンは秘密指令で奴隷制復活を指示し、大軍をサン=ドマングに派遣した。しかし、サン=ドマングの人々は団結してフランス軍を打ち破り、1803年末には全土を解放した。そして1804年1月1日に「ハイチ独立宣言」を発したのである。国名をハイチとした理由は不明だが、これは先住タイノ族の言葉で「山の多いところ」を意味するという。絶滅した先住民の尊厳の回復も込められた国名だったと思われる。

 この本を読んで驚いたのは「世界史の偉人」とされてきた人々の実像である。今書いたようにナポレオンは奴隷制復活をもくろんだ。「独裁者」であり「解放者」でもある二面性が指摘されるナポレオンだが、それはヨーロッパ内の視点に過ぎず、植民地から見れば抑圧者だった。ガルシア=マルケス『迷宮の将軍』が描いた「ラテンアメリカ解放者」シモン・ボリーバルも不利になるとハイチに援助を求めるのに、結局は奴隷の反乱を恐れていた。さらにアメリカの奴隷解放令を出したリンカーンの実像は衝撃。彼は確かに奴隷を「解放」したが、黒人を社会をともに担う存在とは考えずアフリカやハイチへの「黒人植民」を考えていたのだ。

 ハイチを承認する国はなかなか現れず、結局は1825年にフランスに巨額の賠償金を支払うことと引き換えに、独立が承認された。フランスが払うのではなく、フランス人植民者の利益分の賠償をハイチが負わされたのである。あまりにも巨額のため支払いは度々遅延し、なんと支払いが終わったのは1922年だったが、それもアメリカからの借款による返済だった。この重い賠償金がハイチの国力を奪ったのは間違いない。「独立」したものの世界から無視されて「忘れられた革命」となったハイチ革命。それはあまりにも先駆的な革命だったために、世界史から忘れられたのだ。しかし、アフリカ諸国が次々と独立したものの、政治的、経済的に苦難が続くのを見ると、今こそハイチの先駆性の教訓をくみ取る必要がある。

 この本は世界史認識がひっくり返る本である。僕は若い頃に児童文学者乙骨淑子(おつこつ・よしこ、1929~1980)の『八月の太陽を』(1966、愛蔵版1978)という本を読んでいる。ハイチ革命とトゥサンの生涯を1960年代に児童文学として描いた恐るべき先見性に満ちた作品である。この本ぐらいしか若い頃にハイチ革命の本はなかったと思う。一応世界史の教科書には小さく載ってるし、歴史教員だったんだから(日本史が専門だが)、僕はハイチ革命の存在を知っていた。しかし、世界史的意義について、この本を読むまできちんと考えてこなかった。多くの人がそんなものだろう。これは「世界」を認識するために必読の本だ。
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日本の都道府県、人口の多い県少ない県ランキング

2024年05月23日 21時46分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年10月1日現在の人口推計が、4月12日に総務省から発表された。ちょっと前のニュースになるが、そこから見られる日本の姿を考えておきたい。まず、日本の総人口は(外国人も含めて)、1億2435万2千人ほどとなっている。日本人だけなら、1億2119万3千人である。これは前年より83万7千人減少で、過去最大。(外国人が24万3千人増なので、総人口の減少幅は2021年に次ぐ過去2番目となる。)まあ日本人の総人口が今後どんどん減っていくのは、大分前から常識だろう。2008年がピークで、2050年頃に1億人を割る見込みになっている。今さらどう変更しようもない既定事実である。
(日本の人口推移)
 今回はそういう大状況を置いといて、各都道府県の人口ランキングを調べてみる。それを見て、何かを考えたいということはない。まあクイズ番組対策みたいなもので、箸休め。人は大体「トップ」は知ってるものだが、「2番目は何だか答えよ」と言われると困ることがある。「日本で2番目に高い山」「日本で二番目に長い川」「日本で二番目に大きな湖」などなど。答えは書かないから、判らない人は自分で調べてください。人口の場合はどうだろうか。

★まず、人口の多い都道府県上位5つ
東京都 1408万 ②神奈川県 923万 ③大阪府 876万 ④愛知県 747万 ⑤埼玉県 733万
 これは比較的当てやすいランキングだろう。常識で推測すれば、おおよそこの5つが上がってくる。ただ「神奈川県」と「大阪府」の順番で迷う人がいるかも知れない。それぞれの県庁(府庁)所在地である横浜市(377万)と大阪市の人口(277万人)は、ずいぶん前の1978年に逆転した。(だから「市」としては横浜が最大である。)一方、神奈川県が大阪府の人口を抜いたのは、2005年ということだ。21世紀になるまで、府県レベルの人口では大阪府の方が多かった。大阪府は面積が小さいこともあって(香川県についで下から二番目)、都市圏としてはどうしても弱い面がある。

★続いて、人口が6~10位の都道府県
千葉県 625万 ⑦兵庫県 537万 ⑧福岡県 510万 ⑨北海道 509万 ⑩静岡県 355万
 これはなかなか難しい。京都府(253万)を入れる人が多いのではないか。京都府は13位で、11位は茨城県(282万)、12位は広島県(273万)である。14位が宮城県(226万)、15位が新潟県(212万)、16位が長野県(200万)。ここまでが人口200万以上となる。順番はかなり難しく、クイズでも出ないだろう。面積がある程度ないと人口も少ないが、同時に一つの県に複数の政令指定都市があるかどうかが鍵になる。福岡県は福岡と北九州、静岡県は静岡と浜松があり、産業の中心となっている。
(都道府県人口ランキング=2009年)
人口の少ない県5つ
鳥取県 54万 ㊻島根県 65万 ㊺高知県 66万 ㊹徳島県 69万 ㊸福井県 74万
 こっちの方が難しいかもしれない。一番少なそうなのが鳥取県というのは知ってる人も多いかも知れない。しかし、その後の順位は難しい。実際に差はそれほどない。ただ、鳥取・島根高知・徳島が参議院選挙で「合区」されているのを知っていれば推測は可能だ。面積的にも小さな県が多いが、高知は面積18位、島根は19位で半分より上の方。山間地が多いのと、そもそも四国地方山陰地方北陸地方は人口が少ない地帯なのである。

人口が下から6~10位の県
佐賀県 79.5万 ㊶山梨県 79.6万 ㊵和歌山県 89万 ㊴秋田県 91万 ㊳香川県 92万
 人口が100万人以下の県は以上の10である。その次が富山県(100.7万)、山形県(102万)、宮崎県(104万)、大分県(109万)、石川県(111万)という順番。人口200万以上の16都道府県、人口100万未満の10県ということは、残りの21県が100万人台ということになる。21世紀になって、人口が200万を割ったのが、栃木、群馬、岐阜、三重など。今回の調査結果では、東京都以外のすべての県で人口が減少した。また75歳以上の人口が2000万人を越えた。このような「過疎化」や「高齢化」「少子化」は散々言われていることで、今回は特にあれこれ考えないことにする。
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『北条五代』(火坂雅史、伊東潤)を読むー北条氏の関東戦国史

2024年04月14日 22時35分29秒 |  〃 (歴史・地理)
 相変わらず新書を読んでるけど、その合間に歴史小説を読んだ。火坂雅志伊東潤氏の『北条五代』上下(朝日文庫)で、2020年に出た本が2023年10月に文庫化された。これは戦国時代の関東に覇を唱えた北条氏(後北条氏)の五代に及ぶ全歴史を書いた大河歴史小説である。何で共作になってるかというと、火坂雅志氏(1956~2015)が書き進めていたが、途中で惜しくも亡くなってしまった。そこで遺族の同意を得て伊東潤氏が書き継いだのである。火坂氏の担当分は、2代目の北条氏綱の嫡男、北条氏康の若い時期で終わっている。その後の関東制覇から豊臣秀吉に滅ぼされるまでを伊東氏が担当した。

 両者の共作は全く違和感がない。ただ火坂氏には伝奇的な描写もある一方、伊東氏部分は戦国大名同士の厳しいパワー・ポリティックスの印象が強い。火坂雅志氏は2009年の大河ドラマの原作となった『天地人』で知られる。上杉景勝の参謀格だった直江兼続を描く小説である。北条氏は上杉氏と何度も戦って、また時に同盟した。景勝は北条氏から謙信の養子となった景虎を破って家督を継いだ。今度は逆に北条氏を描いたわけである。(その時代の執筆は伊東氏だが。)上巻はほぼ勃興期に当たり、親会社(今川氏)から独立した子会社がどんどん発展していく時代を描いて、あっという間に読めてしまう。
(火坂雅志氏)
 関東戦国史に関しては、前に何度か書いたが、北条氏初期時代は『伊勢宗瑞を知ってるか』(2018.4.18)に書いた。伊勢宗瑞は初代の「北条早雲」である。北条を名乗ったのは2代目氏綱からだから、北条早雲という表現はおかしいが普通「北条早雲」で通している。大昔は独力で大名に成り上がったと思われていたが、今は室町幕府の被官だった伊勢氏出身と判明した。姉が今川家当主に嫁いでいて、御家騒動を収めるために伊勢盛時(早雲庵宗瑞)が駿河国に下向した。そのまま今川に仕えながら、半独立的立場で伊豆の堀越公方を滅ぼして戦国大名に名乗りを上げた。続いて隣国相模の小田原を乗っ取り本拠地とした。
(伊勢宗瑞=北条早雲)
 戦国時代を描いた歴史小説は無数にあるが、中央の「天下」をめぐる争いを描くことが多い。または信玄、謙信である。他の大名を描く小説は数は少ない。だから皆関東の戦国時代をよく知らない。関東の歴史ファンは本能寺の変の黒幕はいたかなどは熱く語れても、河越合戦とか国府台合戦のような関東の重大な戦いを知らないことが多い。下巻になると、氏康を中心に関東を席巻していく様子が描かれる。離合集散が複雑なので、どうしても判りにくくなる。それを伊東氏は人間関係を整理して判りやすく書いている。ただ北条氏の本だから、どうしても「北条中心史観」になるのはやむを得ない。

 北条氏から見れば、室町幕府の旧体制、鎌倉公方(分裂して古河公方と堀越公方)と関東管領上杉氏の対立は、旧時代の支配者間の争いである。その旧勢力間の無益な争いで関東の領民は苦労させられている。そこを北条氏が関東を支配し「善政」を布くことにより平和と繁栄がもたらされる。そう思って関東統一に励んでいると書かれているが、昔からの在地領主からすれば北条氏も侵略者でしかないだろう。上野(群馬県)の領主は山内上杉氏が没落した後に北条、武田、上杉が入り乱れ、迷惑でしかなかっただろう。この本だけ読んでると北条中心に見てしまうが、真田氏や結城氏などから見ればまた違って見えてくるはずだ。
(伊東潤氏)
 さて東国が武田、上杉、北条などが複雑に合従連衡を繰り返す間に、中央では織田信長の勢力が強くなり、ついには武田氏が滅亡するに至る。北条は織田信長、続く豊臣秀吉にどのように対応すれば良かったのか。もう結果を知っている我々からすれば、読む意味もない感じがするかもしれない。だが当事者は時代の行く末を知らない。それは現代を生きる我々が米中関係がどうなるかなど判らないままあれこれ考えるのと同じだ。その時代に巡り合ってしまった四代氏政五代氏直の悩みは深い。彼らの苦悩は小説を越えて、「リーダーはいかにあるべきか」を現代人にも問う。上に立つ立場の人は是非読んで欲しい小説だ。
(北条氏康)
 九州には島津、大友、龍造寺などの戦国争乱があったが、僕はあまり知らない。四国や東北も興味深いけどあまり知らない。そういう地域の戦国を研究する人もいて、その大名を描く小説もあるだろう。だが自分は関東地方に住んでいて、江戸時代には日本全体の中心地になるというのに、ちょっと前の時代のことを知らないのはおかしい。そう思って関東の戦国に関する本を読んでるわけ。今後、後北条氏を簡単に知るには最適の本になるだろう。ただ最近注目されている北条氏の在地支配の仕組みなどは出て来ない。その意味ではやはり研究書も読む必要があるんだろう。
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笠原十九司『憲法九条論争』を読むー九条の幣原提唱説を「証明」

2024年04月12日 22時56分53秒 |  〃 (歴史・地理)
 積んであった新書本を片付けている。「新書」は専門外の最新知識を学べて重宝するけど、つい読み忘れて長年放ってしまった「古新書」がいっぱいある。その幾つかの感想を書きたい。最初に書く笠原十九司憲法九条論争』(平凡社新書、2023)は、去年の4月に出た本だからまだ「新」の範囲かなと思う。笠原氏は大著『日中戦争全史』(2017年12月に2回にわたって感想を書いた)など、ずいぶん読んできたから買ってみた。1年読まなかったのは、450頁という新書と思えない厚さに理由がある。読み出したら案外スラスラ読める本だったが、史料がいっぱいあって現代史に詳しくない人には取っつきにくいかもしれない。

 「憲法九条論争」と言えば、普通は「護憲か改憲か」の論争である。あるいは「安保法制」のような「集団的自衛権の一部解禁」が解釈上認められるかどうかという論争もある。しかし、この本で「証明」しようとするのは、そういう「九条をどう考えるか」じゃない。そもそも条文を発案したのは誰かという問題である。そこに特化した大著なのである。簡単に言えば、「幣原喜重郎(首相)説」と「マッカーサー(連合国軍最高司令官)説」のどっちが正しいのかである。影響を与えたとか、容認したというレベルでは他にもあり得るが、重大問題だから発案はトップに限られるだろう。
(笠原十九司氏)
 副題が「幣原喜重郎発案の証明」とあるように、本書は最近ちょっと影が薄かった「幣原説」を全面展開している。一応解説しておくと、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951)は1945年10月に東久邇宮王内閣が崩壊した後、1946年5月まで半年ちょっと総理大臣を務めた。大日本帝国憲法下で最後から二人目の首相である。外交官出身で、1924年~27年、29年~31年に外務大臣を務めたことで知られる。その時は英米と協調的な外交を展開し、軍部・右翼からは「軟弱外交」と攻撃され、戦時中は事実上の引退に追い込まれていた。幣原は高齢(73歳)のため固辞したが、昭和天皇から直接説得され引き受けることとなった。
(幣原喜重郎)
 当時の情勢を細かく説明していると終わらないので省略する。今までは「永遠の謎」などとも言われていた。これまでの論争史は、この本の後半で数多くの研究書を批判しているので大体理解できる。もう80年近い昔の話になって、今になるとどっちでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。だが戦後史では「マッカーサーの押しつけだから改正するべきだ」という右派の主張をめぐって、「平和憲法」は「押しつけ」だったのかが大きな政治問題になってきた経過がある。
(マッカーサー)
 マッカーサー(1880~1964)の回想記では、幣原首相が言い出したことになっている。それを信じれば論争は即終了だが、そうもいかない事情が多い。そもそも回想記は死の直前の1964年にアメリカで刊行されたもので、80歳を越えた老人の「回想」である。回想記は長年経ってからの記憶で書かれるため、直接史料が示されない場合は厳密な史料批判が欠かせない。マッカーサーは大言壮語で知られた人物だし、日本占領は成功したと評価されたい動機がある。自分が日本に押しつけたと本人が言うわけもないから、史料価値は低くなる。当時の直接史料がないので信憑性に疑問が付くわけだ。

 幣原喜重郎は首相退任後、1949年2月から51年3月10日に死亡するまで、衆議院議長を務めていた。52年4月まで占領が続いていたので、役目上からも憲法制定の「秘話」は封印したまま亡くなった。直接史料はだから日本側にもないのである。しかし、笠原氏は「傍証」を積み重ねることで真相に迫れるとして、今まで史料価値が低いとされてきた(らしい)「平野文書」の価値を高く評価している。一方で史料価値が高く評価されてきた「芦田均日記」には問題があるとしている。

 細かな論点になるけれど、芦田日記には幣原本人も九条に疑問を持っていたような記述がある。しかし、「日記」は同時代の記録という優れた史料価値があるものの、要するに記録者の主観を書くものだから史料批判が必要だとする。幣原がマッカーサーの言葉を紹介した言辞を、芦田本人が九条条文に疑問を持っていたために、幣原本人が反対意見を述べたように聞いてしまったというのである。これは一般論としてはあり得る話で、今まで芦田は衆議院で「芦田修正」(今は説明を省略)をした人物だから日記の記述も信じた人が多いが、再検討する必要があると思った。

 ところで本書で高い評価を与えられた「平野文書」とは何か。それは衆議院議員で幣原の側近だった平野三郎(1912~1994)が、衆議院落選中の1963年に国会の憲法調査会に提出した報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」のことである。平野は1949年から1960年まで衆議院議員に5回当選した。一期生の時に幣原議長の「秘書」になったと言うが、議員が正式の秘書になるわけもなく、要するに幣原に私淑して秘書のように仕事をしていたということらしい。直接は事情を公に語らなかった幣原も、自宅が近く折々に話を聞きに行った平野には心許して真相を語ったというのである。
(平野文書)
 平野三郎という人物は、片山内閣の農相を務めた(罷免された)平野力三の甥だという。平野力三は戦前の農民運動家として知られるが、無産運動の中の最右派というべき人だった。戦前戦後で衆院議員を8期務め、近代史ではある程度知名度がある人物である。甥の平野三郎は1966年に岐阜県知事選に立候補して現職を破って当選、3期務めた。ただ笠原著では部下の汚職の責任を取って辞任したとあるが、実は本人が1976年に収賄罪で逮捕、起訴され、裁判でも有罪が確定している。1976年には福島県の木村守江知事も収賄で起訴され、当時は両事件が大問題になった。(平野は議会で不信任決議が可決され、これは公選知事初だった。)
(平野知事当選の新聞記事)
 「平野文書」の史料価値には直接関わらないけど、平野三郎という人物の人生最大の汚点に触れないのは疑問だ。この本で読む限り、「平野文書」には一定の史料価値を認めても良い感じだが、自分には最終的な判断は付かない。それより、「昭和天皇実録」の公刊によって、問題の時期に昭和天皇と幣原首相が長時間会っていることが確認された。帝国憲法下だから当然のことだが、時間的には不自然なぐらい長い。幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を行き来しながら、「天皇制を存続させるためには如何なる方策を取るべきか」を模索していたことが推測される。その「解」が「憲法九条」であると理解すべきではないかと思う。

 問題が問題だけに、端折りつつも長くなってしまった。この本の核心は「幣原首相は本心を閣僚たちにも隠しながら芝居をしていた」という理解にある。芝居に気付かなかった吉田茂や芦田均の史料を探っても真相に達することは出来ないという。そう言われてしまっては身もふたもない気がする。要するに「憲法九条」を占領軍に「押しつけて貰う」ことなしに、象徴天皇制という形で天皇を存置することは難しいと幣原は考えた。幣原には戦前の「不戦条約」的な理想主義的平和主義があったのも間違いないだろうが、結局は「象徴天皇制」を「押しつけて貰う」のが幣原の目論みではないか。

 ただ「傍証」を積み重ねて事実認定するのは最高裁も認めた手法だと論じるのは疑問がある。直接証拠がないのに有罪認定され、冤罪を主張して再審請求を行う事件も数多い。それは別にしても、「傍証」しかなければ「謎」でも良いのではないか。
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『辻政信の真実』(前田啓介著)、「神か悪魔か」伝説の参謀の生涯

2024年03月18日 22時02分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回書いた『おかしゅうて、やがてかなしき』では、著者の前田啓介氏について触れる余裕がなかった。名前を知らなかったが、よく調べて書いてる。高齢の人かなと思ったら、1981年生まれの読売新聞記者だった。滋賀県出身、上智大大学院卒業後、2008年に入社して、長野支局、松本支局、社会部、文化部、金沢支局を経て、文化部で歴史、論壇を担当と出ている。岡本喜八の本を書く前に、2冊の本を書いていて、最初の本が『辻政信の真実』(小学館新書)だった。(次が講談社現代新書の『昭和の参謀』。)そう言えば、そんな本が出てたなと思い出した。持ってなかったが、辻政信の本を読もうと買ってみた。

 400頁を越える新書にしては厚い本だが、非常に読みやすい。それも当然、これは金沢支局勤務中に地元出身の有名人を調べて、地方版に連載したものなのである。「辻政信」と言われても、今では誰か判らない人が多いだろう。近現代史に詳しい人なら、この人の名を悪魔のように(または神のように)、良くも悪くも強烈な存在感を発揮した人物として知っていると思う。副題が「失踪60年ー伝説の作戦参謀の謎を追う」とある。この本が出たのは2021年で、それは参議院議員だった辻政信が東南アジア視察に出掛けたまま「謎の失踪」をしてから、ちょうど60年目の年だった。
(前田啓介氏)
 辻の前半生はドラマチックだが、この最期もすごい。参議員議員が海外で失踪したまま未だに真相が不明なんだから、好き嫌いはともかく強烈にドラマチックである。僕も陸軍参謀時代のことはおおよそ知っていたが、生い立ちなどは知らなかったので驚くことが多かった。辻政信は1902年(明治35年)に、石川県の東谷奥村(現・加賀市山中温泉)という山奥の小村で、4人兄弟の3男に生まれた。家は貧しく、他の兄弟は皆小学校のみだが、勉強の出来た政信だけが高等小学校に進んだ。そこで終わるのが貧しい「田舎の秀才」の人生だが、彼はその後、陸軍の名古屋幼年学校に合格した。
(辻政信)
 僕は知らなかったのだが、高小卒にも幼年学校の受験資格があったという。もちろんほとんどは中学に進んでから受けるのである。補欠合格と言われることもあるが、それは間違いだと前田氏は証明した。官報に合格者が成績順に掲載されていて、合格50名中の24位だったという。そこから頑張って首席で卒業した。幼年学校は無料ではない。家族は政信に賭けて、支援を惜しまなかったのである。そして、続いて進んだ陸軍士官学校でも首席卒業である。高小卒として異例中の異例だろう。支えた家族もすごいが、政信も勉学にすべてを注ぎ「堅物」と言われてもひるまなかった。その様子はちょっと「異常」かもしれない。

 陸軍で「活躍」した時のことは詳しくは書かない。本書では知らない人にも判るように書かれている。昭和史を彩る様々な戦争の裏に、かならず辻がいた。第一次上海事変、陸軍士官学校事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、マレー作戦、フィリピン戦線、ガダルカナル、ビルマ戦線…。戦場にあっては、勇猛かつ果断、自ら先頭に立ち最前線に赴く。「不死身」と言われたのも無理はない。

 だがノモンハン事件(満州・モンゴルの国境紛争で、日本軍とソ連軍が激突した)を拡大させ、多くの犠牲者を出したのは辻の無謀な作戦だと言われる。英領マレー半島を一気に南下しシンガポールを占領したマレー作戦は稀に見る大勝利と言われるが、占領後のシンガポールで華僑の大虐殺を辻が命じたと言われる。誉める人は神のごとく、貶す人は悪魔のごとく辻政信を語る。辻ほど毀誉褒貶の激しい人物は歴史上にも珍しい。この本を読んで初めて辻政信を知る人は、彼の人生をどう感じるだろう。
(『潜行三千里』)
 敗戦にともない、戦犯に問われると思った辻は「潜行」することにした。初めは僧に扮して脱出しようとしたが、その後中国の蒋介石政権を頼り、さらに帰国して各地を転々と隠れ住んだ。戦犯解除後に当時の様子を『潜行三千里』という本にまとめて大ベストセラーになった。最近復刊されて、新聞にも大きな広告が載っている。他に何冊も本を書き、全国を講演して回った。この本には兼六園での講演会に3万人が集まった写真が載っている。ホントに立錐の余地もなく多数の男性が集まっている。
(故郷に立つ銅像)
 そういう人気を背景にして、1952年衆院選に立候補してトップ当選した。当初は無所属だったが、その後(鳩山一郎系の)「日本民主党」に入党し、保守合同で自由民主党に所属して4回連続当選した。ところが当時の岸信介首相を厳しく批判し、そのため何と自民党を除名されてしまう。そこで衆議院議員を辞任して、1959年の参議院選挙の全国区に出馬して第3位で当選したのである。つまり同時代の日本人には人気があったのだ。そして1961年4月4日(家族は4が続く日は不吉だと止めたと言うが)、戦乱のラオス和平を探るとして東南アジアへ出掛けた。本書ではその後公開された外務省文書を初めて使ってラオス入国まで確認している。

 戦後の政界人生ではほとんど一匹狼だったようで、仲間もなく出世もしなかった。陸軍時代も問題を数多く起こしながら、危機になると使い勝手が良いので呼び戻される。上に立つものが「無責任」なのが日本の組織の特徴で、声が大きい者を排除出来ないのである。それに部下には慕われたようである。全力で取り組み、上官でありながら第一線に立つ。それが「組織人」としてどうなのかと言われても気にしなかった。その意味では真の大物とは言えず、上司のために「過激」なことを言う役目を果たしていた。

 この本の冒頭で半藤一利氏が辻を「絶対悪」と評したと出ている。自分も今までどこかそんな風に思っていた。ノモンハンで、シンガポールで「問題」を起こした辻を、その後もガダルカナルやビルマで重用するなど、日本軍の根本的欠陥を象徴するようなケースだと思う。この本を読んで、辻その人は魅力もあると思ったが、こういう人は困るなあと思った。「本気の人は怖い」のである。軍隊はタテマエ社会なので、全く遊ぶことなき「堅物」が堂々とタテマエを主張すると誰も議論で勝てない。

 こういう人は時々いると思う。以前「指導力不足教員」より、「指導力過剰教員」の方が困ると書いたことがある。辻はまさにそういうタイプの軍人で、マジメで体力抜群、頭脳明晰だから、普通の人はかなわない。神のごとくに崇めて信奉する。教員でもそのような「指導力過剰」な人が時々いて、付いていく生徒がたくさんいて「熱心な良い先生」と言う。だけど、その裏に少数の「付いていけない」生徒を生み出してしまう。辻政信という人もそういうタイプの人間だったんじゃないかなと思った。
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長篠合戦、決定版ー中公新書『長篠合戦』を読む

2024年02月04日 22時27分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 しばらく小説を読んでいたので歴史系の本が読みたくなって、中公新書12月新刊の『長篠合戦』を読んだ。著者の金子拓氏は東大史料編纂所教授で、『大日本史料』の信長時代担当として「長篠合戦」の巻を2021年に公刊したばかりだという。『大日本史料』は明治時代から延々と続く史料公刊事業で、平安時代初期で途絶えたままの日本の史料をまとめるという壮大な企画である。ずいぶんたくさん出ているがまだまだ未刊が多い。一応幕末まで作られることになっているが、いつ完結するかは誰にも判らない。その担当だった金子氏は長篠合戦について、もっとも多くの史料、論文を読んできた人に違いない。

 「長篠合戦」(長篠の戦い)は必ず教科書に出て来るので、細かいことは忘れていても名前ぐらいは覚えてる人が多いだろう。1575年に三河国東部の長篠城をめぐって、織田・徳川軍武田勝頼軍が激突した戦いである。武田軍は敗北し、そこから織田信長の天下統一が加速することになったと言われることが多い。織田軍は鉄砲を大胆に使用し、鉄砲隊を三段に配置し連射することで武田氏の騎馬軍団を打ち破ったとされる。そういう話を自分も授業でしたことがある。教科書にもそのように出て来るし、日本史の概説書や歴史小説にもそう書いてあった。しかし、20世紀末以来、この通説に疑問が投げかけられてきた。

 僕もそっちが正しいような感じがして、21世紀になってからの授業では「最近は疑われている」と教えたと思う。ある時代までは「天才信長の軍事革命」とまで高評価されていた。しかし、そもそも当時の火縄銃は手込め式で、練達した兵でも同じ時間で弾を込めるのは難しいという。また耳元で銃を発射すると、次の「撃て」という命令が聞き取れないほどの騒音がするらしい。現実的に「三段撃ち」など不可能だというのである。そして信頼出来る(時間的に近い参加者などの)直接史料にあたると、銃の話は出て来るが「三段撃ち」などとは書かれていないらしい。「鉄砲隊を三組に分けた」程度のことらしいのである。
(長篠の場所)
 またそもそも武田氏に騎馬軍団などなかったという説も現れた。滅亡した武田氏の研究は遅れていて、勝ち残った徳川氏や部下の「伝説的勝利」が伝えられてきた。江戸時代に伝説化した戦いを、近代になって日本軍の公刊戦史がさらに誇張して定着させた。そして、それを吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎などの時代小説が見て来たような描写で人々に印象付けたのである。著者はその間の経過を映画やマンガにまで目配りして、細かく分析している。それは面白いんだけど、話が詳しくなりすぎるので省略する。(著者は「ラピュタ阿佐ヶ谷」まで昔の映画を見に行っている。)

 結局どうだったのかを細かく分析するのが本書で、最近の歴史系新書と同じく相当に面倒くさい。皆がそこまで詳しく知らなくても良いだろうが、世に数多い歴史ファンは頑張って欲しい。著者が言うには、要するに長篠合戦だけを見ていてもダメで、その前提としての両軍の戦略を押える必要があるという。信長にとって最大の課題は、その年の秋に予定していた「石山本願寺攻略」だった。そのために一兵も損耗したくなかったのである。勝頼軍が侵攻してきたのも、本願寺などと組んだ織田包囲網の一環として大坂攻撃の「後詰め」をするためだった。その時に徳川の旧本拠地岡崎で大岡弥四郎の内通事件が発覚した。

 近年注目されている事件で、家康嫡男信康の側近も絡んでいたとか、正室築山殿も加担していたなどと言われる。つまり徳川内部では御家存続のため織田と手切れして武田に鞍替えするしかないというムードまであった。家康もなかなか援軍に来ない信長に対して、このままでは武田に遠江を譲り和睦するしかないなどと訴えていたという。(それが信頼出来る史料かどうか疑問もあるが。)徳川が武田に内通した場合、祖地尾張が直接危機にさらされ、本願寺や毛利攻めどころではなくなる。そこで信長も大軍を派遣することにし自ら出馬したが、同時に兵の損耗を防ぐために「馬防柵」を築く「事実上の籠城戦」を行った。
(合戦の両軍配置図)
 その上で家康配下の酒井忠次率いる別動隊に武田軍の一部がいた鳶巣山(とびのすやま)を攻撃させた。両軍とも城に籠らない野戦のはずが、山がちで大軍同士のぶつかり合いにならず、織田軍は柵に籠って近づく武田軍を銃撃した。この柵は今まで「騎馬隊を防ぐ」などと言われてきたが、要するに事実上の城として機能したのである。武田軍にも鉄砲はあったし、時には柵を越えて進撃し織田・徳川軍に迫ることもあった。しかし、徳川内部の内通をあてにして侵攻してきた武田軍は、本来の戦略目標じゃない長篠城に固執してしまった。籠城戦は数でまさる方が有利で、その鉄則通り武田方が敗北したのである。
(長篠合戦図屏風)
 別動隊を率いた酒井家は、転封を繰り返した末に出羽鶴岡藩、つまり藤沢周平が描く海坂藩のモデル庄内藩として幕末まで続いた。長篠城に篭城して耐え抜いた奥平家はこれも豊前中津藩として幕末まで続き、福沢諭吉を輩出した。これらの藩では祖先の英雄物語として長篠合戦を顕彰し、やがて合戦図屏風が作られるようになった。これらも幾つか系譜があるそうで、細かく分析されている。このように、「事実」はやがて関係者によって「伝説」となり、それがさらに小説などで一般のイメージとなる。その過程までていねいに解き明かした本で、歴史ファンならじっくり読むに値する。結局、三段撃ちの鉄砲革命などなかったのである。
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「旧国名」(令制国)を知れば日本がわかるー「能登」と「加賀」は別の国

2024年01月25日 23時10分30秒 |  〃 (歴史・地理)
 最近「旧国名」が大事だなと思っている。ミャンマーは「ビルマ」だったとか、ソ連ユーゴスラビアが解体して幾つの国になったのかということではない。それらも関心はあるけれど、ここで扱うのは日本の「旧国名」である。日本には明治になるまで長く続いた「昔の国名」がある。それをちゃんと知っているのは、歴史ファン(特に戦国時代)と鉄道ファンだろう。

 なんで鉄道かというと、駅の名前に昔の国名が付くことが多いのである。同じ駅名を避けるため、後から出来た駅の方が「武蔵小杉」とか「下総中山」など昔の国名を頭に付けるルールなのである。(ちなみに、ただの小杉駅は富山県、中山駅は横浜市にある。自分も今まで知らなかった。)そのルールがいつ決まったのか知らないけど、鉄道マニアは知らず知らずに昔の国名を知っていることが多いと思う。

 日本には「47都道府県」がある。1都1道2府43県である。その位置と名前、県庁所在地は多分学校で習うはずだが、案外知らない人が多い。だからテレビのクイズ番組なんかでは、県の形のシルエットを見て何県か当てるみたいな問題がよく出る。学校の先生でも、鳥取県と島根県がどっちだか判ってない人がいる。それどころか東京の教員なのに、栃木県と群馬県の区別が付かない人もいて驚いたことがある。(もちろん社会科以外の教師である。)

 そういう現状から考えて、日常的にはあまり使わない「旧国名」を全部学校で教えてテストするなんてのはやり過ぎだろう。それは記憶力テストにしかならない。だから、ここで僕が書こうと思うのは、今も旧国名は大事なものであり、「自分で調べてみる」ことに意味があるということだ。それを最近痛感したのは、能登半島地震に伴って、「被災地には(今のところ)行かないで」というメッセージと「石川県に観光に来て」というメッセージがどっちも発信されて、それを「混乱」と思った人がいるらしいからだ。
(加賀と能登)
 現在は行政的には都道府県で把握するから、死亡者数とか倒壊家屋数が発表されると、圧倒的に石川県が被害を受けたということになる。それはもちろん間違いないことだけど、これを旧国名で見てみると今回の地震は「能登国で大きな被害を出した」ということが判る。加賀国(石川県南部)あるいは、越中国(富山県)、越後国(新潟県)でも被害はあるけれど、人的な被害は能登に集中している。一方で、石川県南部(加賀)の金沢市加賀市の宿泊施設はほぼ利用可能である。

 能登地域の和倉温泉(七尾市)は有名な加賀屋があるところだが(能登だけど、加賀屋である)、今は全旅館が休業しているとのことだ。一方、加賀温泉郷と言われる山中温泉山代温泉片山津温泉などはやっていて、被災者の二次避難所になっているところも多い。一般客も受け付けているがキャンセルも多いらしく、このままでは石川県の税収が大幅に落ち込んで復興に使う財源が少なくなる。(特に冬場は日本海の蟹を食べる高級プランが多く、キャンセルの影響は他の季節より大きいだろう。)

 そこで「加賀国」には来てくださいというメッセージになるわけである。この旧国名は大昔に決められたもので、今のような新幹線や高速道路がある時代からすると、細かく分かれすぎている。しかし、人間が足(または船)で移動するしかなかった古代に決められた「国」は、日本の自然地理の特徴を反映している。例えば、「能登」だけではなく、半島地域だけ別の国になっている地域は他にもある。「伊豆」(静岡県)がそうだし、「志摩」(三重県)もそう。千葉県なんか、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)の三つに分かれているぐらいだ。(だから「房総半島」である。)
(日本の旧国名一覧)
 この旧国名は律令制で定められたと言われている。「」は刑法で、「」(りょう)は行政法、及び民法である。従って「令」で決められたわけで、最近の歴史用語では昔の国を「令制国」(りょうせいこく)と言うことが多いらしい。僕も今回調べて知った言葉である。それはともかく、そこではまず「国」の前に全国を「畿内」(首都圏)の5国と「七道」(地方)に分けた。東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道である。

 これを見ると、東海道とか北陸、山陰、山陽など、現在でも使われている用語がある。令制国は遅くとも701年の大宝律令では決まっていたと思われる。全部で68に分かれている。北海道と沖縄(琉球)はまだ支配下になく、入ってない。よく「六十六か国」と呼ばれるが、その場合は壱岐(いき)、対馬(つしま)を国境の島として外すらしい。島が一国になっていることも多く、淡路、佐渡、隠岐はそれだけで一国である。また「前中後」「上中下」が付く国名も多いが、これは畿内から見て近い方が前、上になる。福井県が越前、富山県が越中、新潟県が越後なのは、そういうことである。
(関東地方の旧国名)
 しかし、上記関東地方の旧国名を見ると、千葉県の北部が下総(しもうさ)、中部が上総(かずさ)である。奈良・京都から行く時は(東京からでも同じだが)鉄道も高速道路も房総半島を北から訪れる。都に近い方が「上」だという原則からするとおかしい気がするが、これは古代には相模(さがみ、神奈川県中南部)から船で房総半島に渡っていた名ごりなのである。今の東京地域は低湿地で交通事情が悪く、源頼朝が当初敗れたときに房総半島に船で渡って再起したように海路でつながっていたのである。

 全国を見ていると終わらないがもう少し。関東地方を見ると、「上野」(こうずけ)「下野」(しもつけ)がある。これは知らない限り読めない難読地名の代表格である。一方、群馬県と栃木県を結ぶ鉄道に「両毛線」がある。その地域に住む人、あるいは歴史ファンには周知のことながら、要するにこの地域は「毛野」(けの)という名前だったのである。それを二つに分けて、「上毛野」(かみつけの)「下毛野」(しもつけの)と名付けたわけである。そして「かみつけの」が「こうずけ」と読まれるようになった。ちなみに上野は親王が国司に任じられる慣例があり、臣下としては「介」(すけ=次官)が最高位となる。そこで吉良上野介という人物名になる。

 最後にもう一つ。それは「近江」(おうみ、滋賀県)と「遠江」(とおとうみ、静岡県西部)である。これも難読の極みだろう。滋賀県と言えば「琵琶湖」、つまり日本最大の湖である。湖は淡水の海ということで「淡海」(あわうみ)と呼ばれた。東海道を下れば、もう一つ浜名湖もある。昔は日本2位だった秋田の八郎潟(今は干拓で消滅)や茨城の霞ヶ浦も大きいけど、当時の道筋から外れている。そこで二つの大きな湖を「近い淡海」「遠い淡海」と呼ぶようになり、やがて「海」の字が「」に変わった。「あわうみ」が「おうみ」となり、「とおいあわうみ」が「とおとうみ」と読まれるようになったわけである。

 その他、旧国名には話題がいっぱいあるけれど、そこまで書いていては終わらない。調べてみると、今もよく使う言葉(讃岐うどんなど)があるし、戦国時代、江戸時代の大名を考える時は必須の知識である。観光でもよく使われるし、日本を深く知ろうと思うなら知っていた方が良い知識だ。単なる知識としてじゃなく、地方の特性を理解する方法として有効だろう。
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『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読む

2024年01月03日 22時20分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波ブックレットの『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著、岩波書店、820円+税)を読んだ。2023年7月に出たもので、評判になっていることは知っていたが、なかなか本屋で見なかった。ネットで買えばいいわけだが、できるだけ本屋で買うようにしている。高い本じゃないからわざわざネットで取り寄せるまでもない。授業で使うわけでもないから緊急に読む必要もない。偶然にある書店で新書コーナーの近くに置いてあったので、早速買ってきて読んだ紹介。

 この手の歴史評論みたいなのを読んでない人には、多少取っつきにくいところもあるかもしれない。でも同じような新書などに比べても、抜群に読みやすくて判りやすいと思う。もっとも上下2段組、115ページもあるので、結構分厚い。その代わり構成が工夫されていて、まず「ナチズムとは?」「ヒトラーはいかにして権力を握ったか?」「ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?」と最初の三章で前提を押える。続いて「経済回復はナチスのおかげ?」「ナチスは労働者に味方だったのか?」「手厚い家族支援?」「先進的な環境保護政策?」「健康帝国ナチス?」と5つの具体的テーマを深掘りしていく。

 とても理解しやすく、「歴史を調べるとはこういうこと」のお手本みたいである。中で著者も言及しているが、高校の授業に教科「探求」が設置されるようになった。そこでネットを「駆使」して、一方的な主張ばかりを見つけてきて「探求学習の成果」と称する生徒がいっぱい出て来ると思われる。それに対して「歴史的文脈」をしっかりとふまえて議論することの大切さを、この本(ブックレット)ほど教えてくれるものも少ない。ナチスやヒトラーにあまり関心がない人でも、政治や経済について考える意味「学問」とはどういうものかを教えてくれるので、是非読んでみる価値がある。

 ところで、個別論に入る前に「ナチス」ではなく「ナチ」、「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と表記するべきだと書いている。前者はナチスは複数形なので、集団じゃなく思想や運動を呼ぶときは「ナチ」がふさわしいという。また、後者は昔の教科書には「ナチ党」の訳として「国家社会主義ドイツ労働者党」とあったが、近年は「国民社会主義ドイツ労働者党」と書くことが多いという。これは自分の経験でも確かだけど、変更の理由までは考えたことがなかった。詳しくは著者の一人小野寺拓也氏の「なぜナチズムは「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と訳すべきなのか」(現代ビジネス)がネット上にある。

 簡単に書けば、ナチはそれまでにあった「国家社会主義」じゃなく、あくまでも「民族共同体」ファーストであり、「国家」よりも「民族」なのである。だからこそ、「優れたアーリア人」の共同体たるドイツでは「劣ったユダヤ人」を排除しなければならない。国家経済的観点からは損になる場合であっても、民族共同体の純化の方が優先するわけである。そういう思想は「国民社会主義」と呼ぶべきで、そうじゃないと「ソ連とナチは同じ国家社会主義」などと粗雑な議論になりやすいというのである。
(アウトバーン)
 個別的議論を全部書いてると終わらないし、この本を読む楽しみを奪うことにもなる。いくつかだけ触れると、イタリアのムッソリーニ政権も同様だが、ヒトラー政権が経済を立て直したという議論はよくある。特に高速道路網(アウトバーン)を建設することで景気回復につながったという話を聞いたことがある人も多いと思う。そのナチ経済のからくりをこれほど簡潔に説明してくれるものはない。そもそもが借金頼りの経済運営で、さらにユダヤ人や女性労働力を奪う(女性は家庭にいるべきだとした)ことにより、失業率が改善したように見えた。例の「フォルクスワーゲン」に至っては、何十万の労働者が積立金を払ったにもかかわらず、開戦後にすべて軍用車生産に変更され一台も納車されなかったというから驚き。
(「健康大国ナチス」という本)
 近年注目されているのが、ナチの環境政策健康政策だという。僕も詳しく知らなかったので、非常に勉強になったところが多かった。そもそもナチ党の政策にはオリジナルなものがほとんどないらしい。それでも「動物保護」や「禁煙」をこれほどうたっていたとは知らなかった。ただし、である。「動物保護」を言い出しても、それは結局「反ユダヤ」なのである。目的は「ユダヤ人排撃」と「戦時体制確立」なのであって、個別的には今見てもオッと思う政策があったとしても、全体的文脈で見れば「不健全」であり、かつ戦争激化で結果を残さずに終わったことばかり。

 最後にそもそも「ナチスは良いこともした」と言う主張をする背景も検討される。それはネット内にある「反PC」(政治的公正さ)的なムードである。学者が反論しても「マウント」と批判されてしまう。だが、このブックレットを読むと、「きちんと学ぶこと」の大切さを痛感するのではないか。何もシロウトは口を出すなということではない。ネット上にはいろんな情報があるが、マジメに調べれば極端な主張をぶち上げるなんて出来ないはず。何でもマジメがベースにないとまずいという話である。
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『紫式部と藤原道長』(倉本一宏著)を読む

2023年12月01日 21時55分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 コーマック・マッカーシー『平原の町』が残っているけど、飽きてきたので歴史系新書を先に読んだ。2023年の大河ドラマは徳川家康だったので、新書本を何冊かここでも紹介した。2024年は紫式部なので、本屋に行くともう関連本が並んでいる。歴史学者には特需景気となるが、中でも一番置いてあるのが倉本一宏氏(国際日本文化研究センター教授)の本である。9月に講談社現代新書から出た『紫式部と藤原道長』をまず読んでみた。大河ドラマでは吉高由里子が紫式部、柄本佑が藤原道長である。

 日本で教育を受けた人なら、藤原道長紫式部の名前は皆が知っているだろう。だけど歴史ファンには戦国時代や幕末が人気で、平安時代の貴族社会は今ひとつイメージ出来ない人が多いと思う。僕は一応通史レベルではある程度読んでいるから、史料的な問題にも付いてはいける。だが案外知らないこと、うっかり気付かなかったことがずいぶんあった。この本ではのっけから「紫式部は実在した」と出て来て驚く。紫式部は藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』(しょうゆうき)という確実な史料に出て来るのである。一方、清少納言は確実な史料には出て来なくて、その意味では実在が証明出来ないのだという。
(倉本一宏氏)
 平安時代には女性の文学者が活躍したが、当時の女性の正式な名前は伝わっていない。古代日本には『日本書紀』に始まる六国史と総称される国家の正式な歴史書があった。でも平安時代中頃になると、もう作られなくなってしまった。じゃあ、その時代のことはどうして研究するのかと言えば、当時の貴族の日記が残っているのである。例えば藤原道長の日記『御堂関白記』(みどうかんぱくき)はなんと自筆本が遺されていて、世界記憶遺産に登録されている。しかし、そういう男性貴族の日記では官位を持つ有力者の消息は伝わるが、女性は誰それの母とか娘としか出て来ないのである。

 「紫式部」は『小右記』に「藤原為時の女(むすめ)」として出て来る。そこで実在は判明するが、生没年ともに不明である。当時の宮中では「藤式部」と呼ばれていたらしい。藤原道長になると、966年出生、1028年没と判っている。ただもともとは出世するとは思われていなかった。父藤原兼家の五男だったからである。しかし兄の道隆、道兼が早く亡くなるなど「幸運」が続いて出世した。しかし、より若いために娘も幼い。当時は藤原氏が天皇に娘を嫁がせて、その間に生まれた男児が皇位を継ぐ、つまり藤原氏当主が天皇の祖父であることで、幼少の天皇に代わって摂政となり権限を振るった。
(御堂関白記)
 紫式部や清少納言が活躍したのは、一条天皇(980~1011、在位986~1011)の時代である。ちなみに一条天皇は円融天皇と藤原兼家の娘詮子の間の子で、つまり道長の甥になる。皇后は藤原道隆の娘定子(977~1000)で、二人の間には3人の子があった。一方、道長の娘彰子(988~1074)は定子より11歳年少で、入内したのも999年である。数え年12歳で、まだまだ子どもを産める年じゃない。天皇は定子を寵愛していたが、1000年に次女を産んだときに亡くなってしまった。悲しみにくれる天皇は彰子のもとを訪れる気にならない。(なお、定子=ていし、彰子=しょうしと音読みするのが普通である。)

 今までなんとなく清少納言のいた「定子サロン」と紫式部のいた「彰子サロン」が併存して、競い合っていたと思い込んでいた。そうじゃなく、時間差があったのだ。新書の帯に「『源氏物語』がなければ、道長の栄華もなかった!」とあるのは、どういうことか。彰子のもとへ天皇が訪れるための「お土産」が紫式部の物語だったのである。一条天皇も『源氏物語』を楽しみにしていたらしい。今書かれている最中の、つまり連続ドラマ放送中なので、次の展開を知りたいのである。そうやって彰子サロンに通ううちに次第になじんでいったわけである。それでもなかなか子どもは出来ず、最初の皇子誕生は1008年、彰子19歳のことだった。
(2024年大河ドラマ『光る君へ』)
 一方、紫式部の方でも、道長なくして『源氏物語』が完成しない事情があった。それは当時は紙が超貴重品だったからである。それを道長が国家に集まった紙を紫式部に回していたらしい。紫式部は国家プロジェクトとして、物語完成を目指したのである。しかし、道長自筆の『御堂関白記』は伝来したが、紫式部自筆の『源氏物語』は存在しない。多くの人に書写されて伝わるが、やはり「物語」は軽視されていた。応仁の乱の時、九条家は貴重品を疎開させた。そこに『御堂関白記』はあったが、『源氏物語』は入っていなかった。そして、九条家の屋敷は乱で焼けてしまった。この本は史料的に確実なことしか書かれていない。まさに「歴史学」の本。それだけに案外手強くて、史料も豊富。世界文学史に輝く『源氏物語』の歴史的背景がよく理解できる。
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『源頼朝と木曽義仲』、「対決の東国史」を読む③

2023年10月17日 22時35分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉川弘文館から出ている「対決の東国史」というシリーズは、去年『足利氏と新田氏』『山内上杉氏と扇谷上杉氏』を紹介した。全7巻はまだ完結していないが、どんどん刊行されている。8月に出たばかりの『源頼朝と木曽義仲』を読んでみた。著者は富山大学講師の長村祥知氏である。1982年生まれの若手研究者で、もちろん僕は名前を知らなかった。

 このシリーズは5巻が「○○氏対○○氏」と題されている。先の2冊も同様で、もう一冊は『鎌倉公方と関東管領』という役職名。つまり個人名が本の題になっているのは、この巻だけである。だけど、源頼朝と木曽義仲は「対決」したのか。もちろん本人どうしは全く面識がない。そもそも「木曽義仲」じゃなくて、「源義仲」である。歴史に詳しい人なら周知のように、この二人はいとこ同士だった。義仲の父・源義賢が、源頼朝の父・源義朝の異母弟にあたる。しかし、義賢を滅ぼしたのは、義朝の長男・義平だった。それが1155年に起こった大蔵合戦である。大蔵というのは、現在の埼玉県嵐山町になる。
(木曽義仲像=富山県小矢部市)
 嵐山町には鎌倉時代の武士畠山重忠の本拠地とされる「菅谷館」があり、その近くの木曽義仲生誕地には顕彰碑も立っている。前に行ったことがあり、『菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩』で書いた。木曽義仲というけど、生まれたのは東国・武蔵だったのである。幼くして(2歳)で父を亡くした駒王丸は命を救われ、木曽の豪族・中原兼遠に預けられた。これが後の木曽義仲となる。ただ義仲は庶子で、京都にいた嫡男・仲家源頼政の養子となって、八条院の蔵人を務めていたが、1180年の以仁王(もちひとおう)の乱に養父源三位(げんざんみ)頼政とともに参加し敗死した。

 いま「八条院」という言葉が出て来たが、これが実は反平家運動のキーワードとも言える。鳥羽上皇美福門院(鳥羽がもっとも寵愛したと言われる)の間に生まれた暲子(しょうしorあきこ)内親王のことで、生涯未婚で皇后に就いていないのに「女院」の称号を受けた。両親から全国200数十箇所にもなる莫大な荘園を受け継ぎ、「八条院領」と呼ばれた。八条院は多くの子女を養育し、後白河法皇の子である以仁王もその一人だった。そのため、源頼政など反平家に蜂起した人が周囲に多かった。以仁王の令旨を頼朝に伝えた源行家(義朝の弟、頼朝の叔父)も八条院の蔵人だったのである。

 ちょっと細かなことを書いたが、様々なつながりを探る中で研究は深化してきている。八条院本人が何も反平家だったわけじゃないだろう。金持ちには芸術家など多くの人が寄ってくる。また警備のために多くのガードマンを雇うことになり、その中に反政府分子が紛れ込んでいたわけである。源平の争いから「武士の時代」などと教えるけど、実際は荘園制のトップに君臨する天皇家や摂関家に仕えたのが武士たちだった。その中には源氏や平氏がいるが、どちらも元は天皇家にさかのぼるけれど、皇族の末裔は無数にいる。貴族の最上位にある藤原氏も同様で、「北家」の中でもさらに道長流の「摂関家」でなければ出世は見込めない。
(伝・源頼朝像)
 そんな中で、いかに武士が上り詰めていったかをたどるのがこの本である。それは絶えざる源氏内部の争闘史である。頼朝は後に異母弟の源義経や源範頼と対立していくが、それは何も頼朝だけじゃない。父親の義朝、祖父の為義の時代も同様というか、もっと陰惨である。そもそも為義は子の義朝と対立し、保元の乱では対立陣営に属した。その結果、義朝は父や兄弟を処刑することになった。残酷な処置だが、同時に当時の慣習法では一族内の問題は一族で処理し、その代わり一族の領地は保証されるというものだったともされる。母親が違えば育ちも違い、むしろ同じ領地を誰が継ぐかという問題が起こりやすく、内部争いが絶えない。
(長村祥知氏)
 そういう厳しい中を、なぜ頼朝が生き延びられたか。ひとつは父義朝が保元の乱で勝者となり、高い官位を得たことにより、子どもの頼朝もわずか12歳(数え年)で皇后宮少進に、翌年には右近衛将監などの官位を得ていた。当時は親の地位で、子どもの官位が決まる「蔭位」(おんい)という制度があった。頼朝は母の死に伴い喪に服すため辞任して、そのまま平治の乱で父が敗死して伊豆に流された。しかし、京都に上った段階で「無位無冠」だった木曽義仲に対して、「元の官位」を持っていた頼朝は貴族世界に認知されやすかったのである。そのような意外な理由が案外歴史を決めて行くのかもしれない。

 この本で見ると、義仲は単なる乱暴者ではなかったと思うが、やはり歴史は敗者に厳しい。そして勝ちきるまで京都に上らず、鎌倉に居続けた頼朝が勝利した。そこが大事なところだった。頼朝が「征夷大将軍」の官位を得た理由も興味深い。「制東大将軍」など別の可能性もあった。なかなか細かい話が多く、『平家物語』などとは実際は相当違うのである。
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