岩波新書10月新刊の原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』を読んだ。原武史氏の昭和天皇研究は今までも読んできたので、まあこれも読んでおこうという気持ち。『昭和天皇拝謁記』というのは、初代宮内庁長官だった田島道治という人が残した記録である。職務上、天皇に接するのが仕事だったわけだが、単なるメモを越えて肉声が伝わるように記録していた。近年になって「発見」され、岩波書店から2021年~2023年にかけ全7巻で公刊された。今さら原史料に当たる気持ちはないけれど、新書ぐらいなら読んでおこうかなということである。
昭和天皇(1901~1989)、つまり迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)が亡くなって、もう35年になるのかと今さら書いていて気付いた。当然ながら35歳以下の人は同時代の記憶が全くないわけである。幼児も無理だろうが、10歳ぐらいなら何か大ニュースになっていたのを覚えているかも知れない。それにしても、もう社会の中堅になっている人々には、昭和天皇は歴史的人物以外の何者でもないんだろう。自分の若い頃は、「昭和」がいずれ終わるということはもちろん理解していたが、ほとんど想像不能なことだった。何しろ「昭和」しか知らずに30年以上生きていたのである。
田島道治(1885~1968)を知らなかったので、調べてみるともともとは銀行家だった。東京帝大時代には新渡戸稲造門下で、無教会派クリスチャンだった。金融恐慌後に設立された「昭和銀行」の頭取などをしているが、実業家としてはそんな有名な人ではない。戦後になってから貴族院議員を務めていたが(1947年5月に貴族院廃止)、1948年6月に最後の宮内府長官に任命され、宮中改革を担当した。天皇は難色を示したらしいが、芦田均首相が押し切ったという。そして1949年の宮内庁発足とともに初代長官となった(1953年まで)。芦田内閣はすぐつぶれたが、その後の吉田茂首相と協力して戦後皇室制度の基礎を築いた。
この本は全巻を通読して、「天皇観」「政治・軍事観」「戦前・戦中観」「国土観」「外国観」「人物観」「神道・宗教観」「空間認識」に分けて分析している。人物観はさらに「1」が皇太后節子、「2」が他の皇族や天皇、「3」が政治家、学者などと分れている。そして終章で「「拝謁記」から浮かび上がる天皇と宮中」としてまとめが書かれている。
印象的にはあまり新しいことが出て来るわけじゃない。従来から知られていたように、戦後も「大元帥」感覚を持ちつづけて、新憲法の「象徴」の意味は理解していなかった。天皇家永続を絶対視し強烈な反共、反ソ連意識を持ち、憲法9条「改憲」を願い、それまではアメリカとの防衛協力を望んでいた。皇祖皇宗(天皇家の祖先)への責任は感じていたが、「臣民」への戦争責任は全く感じていなかった。(そのように教育されて育ったまま、「国民主権」を理解できなかった。)
原武史が従来から指摘してきたように、昭和天皇は実母の貞明皇太后(1884~1951)との折り合いが悪かった。幼い頃から別居して育った生育歴もあるが、それより大正天皇の早世以来「宮中祭祀」絶対になった母親が苦手だったのである。昭和天皇が学問・スポーツが好きだったことも、母からすれば気に入らず、弟・秩父宮の方を愛していたらしい。戦後も母親の怒りに触れないようにしていることを田島には率直にもらしていた。宮中の「地雷」だった皇太后が66歳で急逝したことは戦後皇室に影響を与えただろう。年齢的にあと10年ぐらい生きていてもおかしくなく、その場合は皇太子妃選考が変わっていたのではないか。
今回驚かされたのは、学者の動向にまで気を配っていたことである。それは皇太子(現上皇)が大学で「悪影響」を受けるのが心配だったかららしい。東大は「全面講和」を主張する南原繁が学長をしているからもっての外。皇族を主に受け容れてきた学習院大学にも清水幾太郎がいるから、皇太子を通わせて影響を受けたら大変だと思ったらしい。皇太子はエリザベス女王の戴冠式に参列して、結果的に出席不足で留年しで学習院を退学した背景にはそんな事情もあったらしい。
清水幾太郎(1907~1988)は確かに当時有名だったけれど、マルクス主義者でもなく、天皇が気にするほどでもないと思うが。60年安保闘争では「今こそ国会へ」という檄文を書いたが、60年代半ばに右旋回して「ニューライト」と呼ばれた。僕はそっちのイメージが強いので、天皇が警戒心を抱くほど「戦後論壇」の左傾を気にしていたのかと感慨深い。もう知らない人の方が多いと思うけど、E・H・カー『歴史とは何か』の最初の訳者である。大学に左派的な学者がいたら学生が全員左翼になるなら、日本は社会主義国家になっていてもおかしくない。自分が教えられた通りに信じる真面目タイプだったからかもしれない。
ところで、原氏は最後に極めて重大な指摘をしている。戦前の価値観を引きずったままの昭和天皇には、原爆被害者や沖縄戦被害者などの「なぜもっと早く終戦の決断をしてくれなかったのか」という「声なき声」は届かなかった。近隣諸外国への配慮も欠けていた。そのため後継者である現上皇にとって、沖縄を繰り返し訪問したり、中国を公式訪問するなどの「配慮」を欠かせなかった。それが右派には不満を残したという。そこで代替わりした現天皇には、軍事化が進む現代日本において「自衛隊のシンボル」になって欲しいのではないか。それが右派があくまで「女性天皇」に反対する深層の理由ではないかというのである。
戦争が起きたとするなら、「男性天皇」には軍人を鼓舞する役目、「女性皇后」には戦死傷者を慰撫する役目が求められると考えて、「女性天皇は望ましくない」と思うのか。もっとも1983年のイギリス・アルゼンチンの「フォークランド戦争」では、エリザベス女王、サッチャー首相と王室も内閣も女性がトップだった例もあるわけだが。