東京国立博物館の『特別展/はにわ』の話2回目。第1会場に入ると、最初に「踊る人々」が展示されている。埼玉県熊谷市の野原古墳出土のもの。これは祭祀の場面で踊っていると思われてきたが、馬の手綱をひく姿と見る異説も有力だという。古墳時代末期の6世紀のもので、技法的には表現の省略が進んだものと言えるらしい。そこからくる「ゆるさ」が埴輪っぽいと言われる。いずれにしても、「王」(地方政権の権力者)の権威を誉め称えるためのものだろう。
はにわ展なんだから、もちろん埴輪(はにわ)がいっぱい展示されている。しかし、それだけでなく、江田船山古墳(熊本県和水町)や綿貫観音山古墳(高崎市)などの豪華な副葬品も展示されている。埴輪は「王墓」周囲から発掘されるものだから、「王権」全体の理解が欠かせない。特に下の金銅製の帯は黄金の鈴が付いていて、実に見事なもの。驚くしかない見事な副葬品だ。大陸製の豪華な装飾品が関東地方まで渡っていたのである。当然、畿内の大王墓からは、どんな素晴らしいものが出て来るだろう。しかし、「天皇陵」に指定されているものは発掘調査が出来ないし、仮に出来てもほとんどは盗掘されていると思われる。
大和に本格的な王権が成立すると、巨大な王墓が建設された。その周囲に置かれたのが「埴輪」である。「殉死を禁止した代わりに埴輪を作るようになった」と「日本書紀」垂仁天皇(11代)の条に出ているが、これは考古学的研究の結果と矛盾するので、今は土器製造を職掌とする土師(はじ)氏の伝承とされている。じゃあ、なんで埴輪を作ったかというと、「結界」だと思われる。王墓に悪霊が侵入しないように、周囲に祈祷施設を作るのである。それが「円筒埴輪」で、円筒の上に捧げ物を乗せて祈るのである。これがベースになる埴輪で、動物や家などの埴輪は東国で発展した異質なものである。
大王墓は発掘出来ないと書いたが、例外が一つだけある。宮内庁管理の天皇陵は発掘出来ないが、天皇陵の治定(ちじょう)には疑わしいものが多い。26代継体天皇の真の墓は大阪府高槻市の今城塚古墳だというのは、ほぼ学界の通説となっている。今城塚古墳は発掘調査が行われ、史跡公園、歴史館が作られている。そこで出土したのが下の家形埴輪で、実に豪壮な姿が大王にふさわしい。(もっとも北陸から発した征服王朝である継体天皇は、それまでの王権中心地の大和に入れず、大阪府高槻市に墓が作られたわけだが。)しかし、こういう家に住んでいたかどうかは判らない。むしろ霊の依り代としての「家」かもしれない。
高崎市の綿貫観音山古墳から出た人間の埴輪はとても興味深い。下の二つは向かい合って発掘されたもので、対になると思われている。あぐらをしている左の男性は、「王」と思われている。一方、右の女性は正座をしていて王に仕える女性らしい。王権に仕える巫女的なものか、それとも食事を提供する役か。ともかくすでに性差が現れている。武人埴輪があるように、権力のベースは武力にあるが、倭国の王権は宗教的な「権威」で統一された要素が大きい。その経緯の中で、男の武人と侍女というジェンダーによる役割が成立していったものだろうか。権威と権力、武力と宗教性。王権の二重性がうかがえる埴輪だ。
動物埴輪も興味深い。いっぱい並んだ部屋があって、面白い。しかし、これも当然「かわいらしさ」などを感じるのは現代人の勝手だけど、やはり被葬者の力を寿ぐために置かれているんだろう。もっとも東国で独自に発展していく動物埴輪は、ある程度は埴輪工人の趣味というか、違う動物も作ってみたいというような「遊び心」もあったような気もする。ヴァリエーションがありすぎるし、「美」的な創造性は感じないとしても、動物を再現したいという初期的な作家性も多少あるような気がする。力士埴輪も面白い。土俵入りみたいに四股を踏んでいる。これは王墓を霊的に踏み固める「地鎮」の役だろう。
埴輪は前方後円墳の周囲に置くものだから、当然ながら古墳時代が終わると作られなくなる。継体天皇の子である欽明天皇時代に「仏教渡来」があり、次第に葬送儀礼も変わってゆく。普通は「古墳時代」は3世紀中頃から6世紀後半頃を指す。地方ごとに多少違うとしても、7世紀半ばには古墳は(中央では)完全に作られなくなる。野見宿禰(のみのすくね)を祖とする土師(はじ)氏は葬送儀礼や土木技術を担当する一族で、埴輪を発明したと伝承される。しかし、次第に直接の役割がなくなっていって、学問に生きるようになる。菅原氏や大江氏は土師から改姓したもので、菅原道真を出すことになる。
当日は晴れ渡った一日で、トーハクも黄葉が始まっていた。真ん中の写真を見ると、表慶館の上に「キティちゃん」がいる。