オウム真理教事件の死刑執行があり、これで「真相解明されず」といった論調で報道するマスコミもあった。それ以前に「麻原彰晃の死刑執行の前に、治療して真相を語らせるべきだ」という呼びかけもされていた。この問題をどう考えたらいいのだろうか。
僕は「執行ではなく治療」という考え方には無理があると思っていた。だから、このブログでもそういう主張はしていない。ただ僕は麻原彰晃が「心神喪失」状態にあったのではないかという疑いは強く持っていて、だから死刑の執行ができる状態だったのか、法務省はしっかりと説明するべきだとは思っている。もともと刑事裁判の目的は「真相究明」ではなく、「刑事責任の有無」を決めることである。法務省の役割は確定判決の執行(死刑だけでなく、懲役や禁錮確定者の刑務所収容、罰金を払えないものの労役場収容など)である。しかし「裁判幻想」があって、多くの事件で「裁判で真相は究明されなかった」と報道される。もう決まり文句になっている。
死刑囚といえど、執行されるまでは病気になったら治療されなけれなならない。しかし、刑務当局の立場からすれば、それは「ちゃんと執行するために、元気でいてもらわないといけない」ということである。治療の目的が「死刑を執行するため」というのでは、医療とは本質的に相容れないのではないか。拘置所には多くの治療が必要な死刑囚がいる。連合赤軍事件の永田洋子も、連続企業爆破事件の大道寺将司も獄中で死んだ。冤罪を訴え続けた帝銀事件の平沢貞通、牟礼事件の佐藤誠、波崎事件の富山常喜、名張事件の奥西勝、三崎事件の荒井政男、みな雪冤ならず獄中で死んだ。ざっと数えてみれば、21世紀になって29人もの死刑囚が獄中で病死している。
このように「死に至る病」でさえ満足に治療されていない現状がある。どうせ死刑にするんだから、病死してくれた方が手間がかからない…と思っているかどうか、それはタテマエ上は適切な治療をしているとは言うが現実には怪しい。と同時に全体的に犯罪においても「高齢化」が進行しており、死刑囚も高齢になれば長年の拘置が心身をむしばむことも理解できる。長年にわたって執行されていない死刑囚もいるが、共犯者や再審請求だけでなく事実上執行できない精神状態になっている者もいるのではないか。死刑囚に限らない獄中の劣悪な処遇を見るとき、「麻原を治療する」ことよりも他にもっと緊急に医療が必要な人がいる可能性の方が高い。
それに精神医療の現状を見れば、仮に麻原彰晃を無条件で病院に移し丁寧な医療措置を施しても、では何か語りだすという想定は難しい。袴田さんのケースを見ればそう思う。肝臓や腎臓などの病気の多くと同様に、精神の病も一生抱えていく場合の方が多いと思う。ところで「心神喪失」という刑法、刑訴法に規定される用語も、精神医学的にはなんだかよく判らない。病状名でそういう言葉は使わない。法精神医学の中の独自概念になっている。
「自分で悪いことだと判っていて、あえて犯罪を選択した」という「近代的自我」を前提にして、だから罰するというのが近代的法制度である。だから病気で判断力が失われていた場合は、その行為の責任を問えないという論理になる。死刑執行の場合も同様で、本人が悪いことをしたと理解していなければ、死刑を執行する目的を達せられないと考えるわけだ。その論理自体を再検討する必要もあるかもしれないが、とりあえずはそういう理解になる。
ところで、麻原彰晃はいつから心を閉ざした状態なのか。一審段階では語る気ならいくらでも語れたはずだ。弟子たちが「離反」していった後で、何を思ったのか。それは宗教学的、あるいは心理学的というか、興味深いことには違いない。麻原彰晃が語らなかったことであり、語らせたかったことでもある。だけど、ただ犯罪の立証という意味では、おおよそのことは判っているのではないか。大幹部だった村井秀夫が刺殺されたことで、幾分不明なことはある。細かなことで争いもあり、再審を申し立てている者もいた。だけど、坂本弁護士、松本サリン、地下鉄サリンの三大事件の実行犯は全部明確に判明している。事実認定としては大きな問題はないと思う。
もちろん弟子たちがどんな気持ちで付いていったのか。そこにはいまだよく判らない面も多い。そういうところは今後も考えて行かないといけない。それと僕が思うのは、なぜ坂本弁護士事件の際に捜査が尽くされなかったかである。せめてその時点で終わっていれば、サリン製造ということにはならず、オウム側の人間も含めて死ななくてよかった人が多数いた。だけど安倍政権によると、「森友学園関係の公文書が改ざんされた動機ははっきりとは判らない」んだそうだ。麻生財務相は「それがわかりゃ苦労せん」とか言ってた。そんなのは誰でも判ると思うけど、そんなことさえ「真相究明」できない政府に、オウム事件の「真相究明」など出来るはずもない。
よく言われていることだけ書くことにする。1985年から86年にかけて、東京都町田市に住む日本共産党国際部長の緒方靖夫宅の電話が盗聴されていたという事件があった。後に判ったことは、これが神奈川県警警備部公安第一課による組織的な不法行為だった。ところで「オウム真理教被害者の会」を作っていた坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。この事務所は自由法曹団に属していて、左派的な立場で労働問題にも取り組んでいた。盗聴事件でも神奈川県警の不法行為を厳しく指弾していた。
横浜市磯子区に住んでいた坂本弁護士事件は、神奈川県警の担当になるが、このように県警と対立関係にある弁護士の「失踪」事件であり、だから捜査を「手抜き」したのではないか。少なくとも「逃げている」「内ゲバだ」などの風説を警察がマスコミに言っていたらしい。宗教団体がこのように残酷な犯罪を起こすとはなかなか想像できなかったかもしれないが、このような背景を考えると神奈川県警の大失態こそが一番究明されるべき問題ではないか。
なお10年後の1999年、神奈川県警で警察官による覚せい剤使用事件が起きる。問題はそこにではなく、「隠ぺい工作」があったことである。そして「不祥事隠ぺいマニュアル」が各署に配布されていたという驚くべき真相が明るみに出た。そこでは「不祥事を出来るだけ公表しない」方針が通達されていた。この事件では空前絶後の県警本部長辞任、逮捕、有罪確定という出来事が起こった。この前後神奈川県警では多くの不祥事が頻発している。80年代からの「隠さねばならないこと」の積み重ねが組織をいかに腐らせるかがよく判る。若い人だと知らない人も多いかと思い、あえて書いておく次第。
僕は「執行ではなく治療」という考え方には無理があると思っていた。だから、このブログでもそういう主張はしていない。ただ僕は麻原彰晃が「心神喪失」状態にあったのではないかという疑いは強く持っていて、だから死刑の執行ができる状態だったのか、法務省はしっかりと説明するべきだとは思っている。もともと刑事裁判の目的は「真相究明」ではなく、「刑事責任の有無」を決めることである。法務省の役割は確定判決の執行(死刑だけでなく、懲役や禁錮確定者の刑務所収容、罰金を払えないものの労役場収容など)である。しかし「裁判幻想」があって、多くの事件で「裁判で真相は究明されなかった」と報道される。もう決まり文句になっている。
死刑囚といえど、執行されるまでは病気になったら治療されなけれなならない。しかし、刑務当局の立場からすれば、それは「ちゃんと執行するために、元気でいてもらわないといけない」ということである。治療の目的が「死刑を執行するため」というのでは、医療とは本質的に相容れないのではないか。拘置所には多くの治療が必要な死刑囚がいる。連合赤軍事件の永田洋子も、連続企業爆破事件の大道寺将司も獄中で死んだ。冤罪を訴え続けた帝銀事件の平沢貞通、牟礼事件の佐藤誠、波崎事件の富山常喜、名張事件の奥西勝、三崎事件の荒井政男、みな雪冤ならず獄中で死んだ。ざっと数えてみれば、21世紀になって29人もの死刑囚が獄中で病死している。
このように「死に至る病」でさえ満足に治療されていない現状がある。どうせ死刑にするんだから、病死してくれた方が手間がかからない…と思っているかどうか、それはタテマエ上は適切な治療をしているとは言うが現実には怪しい。と同時に全体的に犯罪においても「高齢化」が進行しており、死刑囚も高齢になれば長年の拘置が心身をむしばむことも理解できる。長年にわたって執行されていない死刑囚もいるが、共犯者や再審請求だけでなく事実上執行できない精神状態になっている者もいるのではないか。死刑囚に限らない獄中の劣悪な処遇を見るとき、「麻原を治療する」ことよりも他にもっと緊急に医療が必要な人がいる可能性の方が高い。
それに精神医療の現状を見れば、仮に麻原彰晃を無条件で病院に移し丁寧な医療措置を施しても、では何か語りだすという想定は難しい。袴田さんのケースを見ればそう思う。肝臓や腎臓などの病気の多くと同様に、精神の病も一生抱えていく場合の方が多いと思う。ところで「心神喪失」という刑法、刑訴法に規定される用語も、精神医学的にはなんだかよく判らない。病状名でそういう言葉は使わない。法精神医学の中の独自概念になっている。
「自分で悪いことだと判っていて、あえて犯罪を選択した」という「近代的自我」を前提にして、だから罰するというのが近代的法制度である。だから病気で判断力が失われていた場合は、その行為の責任を問えないという論理になる。死刑執行の場合も同様で、本人が悪いことをしたと理解していなければ、死刑を執行する目的を達せられないと考えるわけだ。その論理自体を再検討する必要もあるかもしれないが、とりあえずはそういう理解になる。
ところで、麻原彰晃はいつから心を閉ざした状態なのか。一審段階では語る気ならいくらでも語れたはずだ。弟子たちが「離反」していった後で、何を思ったのか。それは宗教学的、あるいは心理学的というか、興味深いことには違いない。麻原彰晃が語らなかったことであり、語らせたかったことでもある。だけど、ただ犯罪の立証という意味では、おおよそのことは判っているのではないか。大幹部だった村井秀夫が刺殺されたことで、幾分不明なことはある。細かなことで争いもあり、再審を申し立てている者もいた。だけど、坂本弁護士、松本サリン、地下鉄サリンの三大事件の実行犯は全部明確に判明している。事実認定としては大きな問題はないと思う。
もちろん弟子たちがどんな気持ちで付いていったのか。そこにはいまだよく判らない面も多い。そういうところは今後も考えて行かないといけない。それと僕が思うのは、なぜ坂本弁護士事件の際に捜査が尽くされなかったかである。せめてその時点で終わっていれば、サリン製造ということにはならず、オウム側の人間も含めて死ななくてよかった人が多数いた。だけど安倍政権によると、「森友学園関係の公文書が改ざんされた動機ははっきりとは判らない」んだそうだ。麻生財務相は「それがわかりゃ苦労せん」とか言ってた。そんなのは誰でも判ると思うけど、そんなことさえ「真相究明」できない政府に、オウム事件の「真相究明」など出来るはずもない。
よく言われていることだけ書くことにする。1985年から86年にかけて、東京都町田市に住む日本共産党国際部長の緒方靖夫宅の電話が盗聴されていたという事件があった。後に判ったことは、これが神奈川県警警備部公安第一課による組織的な不法行為だった。ところで「オウム真理教被害者の会」を作っていた坂本弁護士は「横浜法律事務所」に所属していた。この事務所は自由法曹団に属していて、左派的な立場で労働問題にも取り組んでいた。盗聴事件でも神奈川県警の不法行為を厳しく指弾していた。
横浜市磯子区に住んでいた坂本弁護士事件は、神奈川県警の担当になるが、このように県警と対立関係にある弁護士の「失踪」事件であり、だから捜査を「手抜き」したのではないか。少なくとも「逃げている」「内ゲバだ」などの風説を警察がマスコミに言っていたらしい。宗教団体がこのように残酷な犯罪を起こすとはなかなか想像できなかったかもしれないが、このような背景を考えると神奈川県警の大失態こそが一番究明されるべき問題ではないか。
なお10年後の1999年、神奈川県警で警察官による覚せい剤使用事件が起きる。問題はそこにではなく、「隠ぺい工作」があったことである。そして「不祥事隠ぺいマニュアル」が各署に配布されていたという驚くべき真相が明るみに出た。そこでは「不祥事を出来るだけ公表しない」方針が通達されていた。この事件では空前絶後の県警本部長辞任、逮捕、有罪確定という出来事が起こった。この前後神奈川県警では多くの不祥事が頻発している。80年代からの「隠さねばならないこと」の積み重ねが組織をいかに腐らせるかがよく判る。若い人だと知らない人も多いかと思い、あえて書いておく次第。