尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「教職調整額10%」以外に多くの問題が潜む中教審「審議まとめ」

2024年05月28日 22時01分43秒 |  〃 (教育行政)
 いわゆる給特法により支給される「教職調整額」を現行の4%から10%に増額するという案が公表された。この問題に関して一度きちんと書いておきたいと思いつつ、なかなか機会がなかった。この問題については校種や教員個々にとっても状況が大きく違っていて、全員の意見がまとまるということはないだろう。僕はベストの案とは思ってないが、「やらないよりはまし」なのか、「やらない方がまし」なのかの判断が難しい。NHKニュースが「定額働かせ放題」という表現を使って報道し、文科省が抗議したというニュースもあった。この問題をどう考えれば良いのだろうか。
(ニュース報道)
 何だかもう決まったかのように書いてる人も多いけど、まだ中教審の答申にも至っていない。中教審の初等中等教育分科会の、さらに下にある「質の高い教師の確保特別部会」で検討された「「令和の日本型学校教育」を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について 」の「審議のまとめ」に過ぎない。それは文科省のサイトにある「令和の日本型学校教育」を担う 質の高い教師の確保のための環境整備に関する 総合的な方策について (審議のまとめ)というPDFファイルで見られる。
(日本教育新聞電子版)
 この10%増額案に関しては様々な意見が飛び交っているが、今回きちんと「審議まとめ」を読んでみて、教職調整額以外にも大きな問題点が幾つもあることが判った。まずは「主幹教諭と教諭の間に新たな職を創設する」という方向性が明記されている。これはすでに10年以上前に東京都で創設された「主任教諭」制度を法的に整備して全国で実施するものと見てよい。東京じゃ、多くの教員が反対していたが、作られてしまったらあっという間に「教員の階層性」が「定着」したかに見える。
 
 第二次ベビーブーム世代の成長に伴って70年代、80年代に大量採用された教員は、2010年頃から大量退職時代を迎えた。東京は全国で一番教員が多いわけだが、もう「管理職以外は全員教諭」という時代を知っている世代は少数派になっているだろう。何でも今では「主幹教諭は上司」と思っている(思わせられている)という話。先の「審議まとめ」では「チーム学校」などと言って教員間の協力体制を構築して「働き方改革」にするようなことが書いている。教育行政は「チーム学校」が大好きだが、何で逆行するようなことばかりするのか。あるいは校長の命令一下整然と働くのを「チーム学校」と思っているんだろうか。

 他に「新卒教員を教科担任にする」(学級担任にしないという意味か?)という教師を増やさないと難しいことも言っている。また学級担任に義務教育等教員特別手当を増額」とも。これは多分「現場」的には賛成が多いのではないか。感覚的には僕も納得する気持ちもあるが、本来学級担任は教科バランスを踏まえながら全員回り持ちで担当するものだ。しかし、諸条件(家庭的、健康的、役職的など)で、担任を持たない(持てない)教師もいる。役職的とは、教務主任や生活指導主任が分掌専任になる大規模校と、分掌主任と学級担任を兼務せざるを得ない小規模校の問題。「チーム学校」的観点からは課題がある。

 もう一つ、「審議まとめ」には明記されていないが、教職調整額を10%にする案が通ったとして、それを「本給扱い」している現行制度が維持されるのかどうかという大問題がある。教員以外には関係ないし、ほとんど知らないだろう。「教職調整額」は本来「残業代なしの対価」ではない。当時の平均時間外業務を調べて4%としたようだが、建前上は「教員の人材確保」が目的だった。従って教育職全員に調整手当が加算されるし、それは「本給扱い」となる。つまり「一時金」(ボーナス)に反映される。「何ヶ月分支給」というときに、(本給+教職調整額)×支給月が払われるのである。
(ぎふきょうそブログより)
 これが10%に増額されると、果たして財政の厳しい地方では同じようにボーナスに反映されるのかという問題がある。そして、さらに大問題なのは、退職金の問題。退職金の支給月数の基準も、本給+教職調整額である。これが10%に増額されても、同じように反映されるのか。上記画像にあるように、もし本給のみ反映となった場合、退職金が100万円近く減額になる可能性がある。逆に言えば、10%増額が実現して一時金、退職金に反映されるなら、これは相当の優遇策となる。だが、そんなことが起こりうるだろうか。少なくとも「退職金には4%のみ加算」などということになりかねない。そういう問題も起こりうるのである。「10%増額」問題そのものは、またいずれ改めて考えることにしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東近江市長の「フリースクール否定発言」を考える

2023年10月29日 21時37分57秒 |  〃 (教育行政)
 滋賀県東近江市小椋正清(おぐら・まさきよ)市長が10月17日に「フリースクール否定発言」をして問題になっている。10月3日には昨年度の調査結果が文科省から公表され、そこでは「いじめ」も「不登校」も過去最多になったと発表された。この「不登校増加」という問題をどう考えるべきか。小椋市長発言をもとに、少し考えてみたい。
(国家の根幹を崩すと発言)
 発言内容に入る前に、「東近江(ひがしおうみ)市」がどこにあるか見ておきたい。21世紀になって合併による新市名が多すぎて見当がつかない。調べてみると、2005年に八日市市、永源寺町、五個荘町、愛東町、湖東町が合併して誕生し、翌年には能登川町、蒲生町も編入した。その結果、琵琶湖畔から三重県境の鈴鹿山脈まで東西に広がる広大な面積になって、実に不思議な形をした自治体である。永源寺や「湖東三山」のひとつ百済寺など、昔行ったことがある名所も今はここに所在している。

 小椋市長は2013年に初当選し、その後も当選を続け現在3期目。1951年4月生まれの71歳で、八日市市の小中学校を経て彦根東高校、同志社大学を卒業した。1976年に滋賀県警に採用され、長浜警察署長などを務め、2013年に自民党、日本維新の会、公明党、みんなの党(当時)の推薦を得て立候補し、現職の西澤久夫市長を破って当選した。このように保守系の中でも特に「警察官僚」出身ということで、「国家主義」的発想が極めて強い人物なのではないかと思う。

 発言は滋賀県の首長会議で行われたもので、会議中の発言なので必ずしもまとまっていない。切り取ることになるが「文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに愕然としている」「国家の根幹を崩しかねない」「フリースクールがあるんだったらそっちの方に僕も行きたいっていうなだれ現象が起こるんじゃないか」「私はその怖さを感じています」などと発言。さらに同会議後のマスコミ取材に「不登校は大半は親の責任。財政支援を国が言うべきではない」などと発言した。

 発言に批判が集まり、保護者を傷つけたとして謝罪したものの発言そのものは撤回しないと何度も強調している。正直言って「今どきこんなことを言う行政トップがいるんだ」とある意味「感心」してしまった。「教育は国家のためにある」という信念が根強いんだと思うが、文科省がフリースクールを認めているのはそれなりの国家戦略があると理解出来ないんだろう。それとともに、市長は教育内容に介入してはならないが、教育環境整備の責任はある。行政トップが親に責任転嫁しているようでは困る。
(撤回はしないと発言)
 文科省統計によれば、小中学生の不登校は約30万人に上り、過去最多だと報道されている。(下記の画像は昨年度のグラフ)。10年連続で増えていて、特に小学生の不登校が増加していることは下記のグラフで確認出来る。それはコロナ禍の影響などとともに、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」でフリースクールや自宅でのICT機器を活用した学びなどを「公認」したことも大きいと文科省が分析している。
(不登校数の変遷。2022年発表まで。)
 だが僕からすれば、その分析は一番肝心なところを外している。一番重要なのは、小学校の新指導要領にある。僕は発表された時に『「亡国」の新指導要領ー「過積載」は事業者責任である』(2016.9.5)を書いた。広く知られているように、小学校では「英語」「プログラミング」などが必修とされ、また「道徳」も教科となった。代わりに何か減ったかといえば、何も減っていない。ゆえに僕は「過積載」と表現したのだが、現実に週にギリギリの授業を詰め込み行事なども削減しなければこなせないだろう。

 これでは「仕事だけ増えて、給料も社員も増えない会社」みたいなものである。退職したり、病気になる社員が増加するのは、当然だろう。同じように今の教育現場、特に小学校などは、教師も集まらないし生徒も不登校が増える。「教員不足」と同じく、「不登校増加」も当然予想された結果に過ぎず、国家的な「不登校増加政策」を実施しているから、その「効果」が出ているのである。それがマズいと思うなら、文科省の政策自体を批判しなければならない。
(フリースクール関係者に謝罪)
 ところが、「何が何でも親や生徒が頑張れば、学校へ通えるはずだ」などと考えてしまう「頭の古いタイプ」がまだまだ存在する。自分の頃(半世紀以上前)は、「頑張れば何とかなった」のだ。小学校で英語なんかやらなくて良かったし、勉強についていけなくなっても我慢して机に座っていれば何とか卒業出来た。しかし、今は違うのである。「自ら学ぶ」ことが求められ、「発表」が求められる。単に少々内気なだけの子どもは、思い切って「頑張る」ことも大事だろう。しかし、もっと難しい問題を抱え持った子どもは居場所が見つけにくい。自分の通った時代の学校とは時代が全然違っているのだ。

 文科省は「総合学習」を残し「アクティブラーニング」を求めながら、一方で「学力重視」「授業量増加」を求める。それでは溺れかかる子どもが増えるのは当然だ。そのことを判っているから、そういう子どもたち向けのフリースクールなどを公認するのである。それで良いと国家として判断しているのだ。それは「出来る子だけ育てれば良い」ということなのだろう。「少子高齢化」で学校に掛ける予算は今後減らさざるを得ない。国家も、学校それぞれも「出来ることだけやっていく」がホンネだろう。

 今は教員のなり手不足が深刻化し、「教員不足」が常態化しつつある。教員になりたくないような学校現場から、逃げ出す児童・生徒がいても誰が責められるだろう。「不登校が多い」ことを問題と考えるなら、その批判は親や子どもではなく教育政策に向けなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教員組合はどうなっているのかー再生への道はあるか

2023年06月01日 23時35分10秒 |  〃 (教育行政)
 「教員不足」という問題を考えてきた。どうやら教師という職は若い世代が目指すべきものではなくなっているらしい。非正規教員を増やし、いまやその「非正規」もなり手が見つからない。長時間労働のうえ、休日もつぶれてしまう。公立学校の場合、勤務時間に見合った残業代もない。となると、全国の教育現場には、怒りの声が満ち満ちていてもおかしくない。教師たちは労働組合に結集して、ストが頻発するなど騒然たる学校になっていてもおかしくないだろう。

 しかし、学校関係者には周知のように、今では教員組合は「絶滅危惧種」に近い。それは言い過ぎで、今でも組織率が高いという地域もあるだろう。だが文科省による最新の「令和4年度 教職員団体への加入状況に関する調査結果について」を見ると、右寄りや管理職の団体を含めても29.2%となって、前年までの3割台を割ってしまったのである。(2022年10月1日現在)

 内訳を見てみると、日教組(日本教職員組合)が約20万4千人で、20.1%。前年比で約7千人減である。続いて全教(全日本教職員組合)が約2万8千6百人で、2.8%。前年比で約2千3百人減。さらに日高教(右)(日本高等学校教職員組合)が7260人で、0.7%。前年度より270人減。全日教連(全日本教職員連盟)が約1万7千人で、1.7%。前年比で約1200人減。そして全管協(全国教育管理職員団体協議会)が3676人、0.4%その他が約3万6千人、3.5%である。一方、団体非加入者71万8650人、そのうち教員は58万0516人。比率で言えば70.8%(教員だけでは69.4%)になっている。

 細かいデータになって、知らない名前も出てきたと思う。全管協なんて聞いたこともないし、入っている管理職を見たこともない。いたとしても管理職なんだから、労働組合とは言えない。それを言えば、全日教連も自らを労働組合とは考えていていない。右寄りの組織で、かつて教育基本法改正を支持していたところ。栃木県で圧倒的なシェアを占めていて、他組合はほぼゼロに近い。愛媛県も日教組が非常に弱体で、県の研修組織はあるが組合参加者はほんの僅かと言われる。この両組織を除くと、23.6%ということになる。つまり4人に1人しか労働組合に入ってないわけである。
(日教組加入率の推移グラフ)
 かつて日教組は100%近い組織率を誇っていた。それが漸減していった様子は上記グラフで判るとおり。1989年に一挙に10%ぐらいポイントが下がったのは、ここで全教が分裂したからである。当時民間組合が合同して「連合」を結成し、日教組も加盟した。反対派は抜けて全教を結成したわけである。日教組は(当時)社会党支持で、全教は政党支持の自由を主張していたが事実上は共産党支持。「日高教」というのは、高校教員の組織だが(左)は全教と合同して、(右)だけが残っている。日教組と協力しているが、それなら日教組に加盟しても良いわけで、東京都ではそうなっている。
(日教組組織率のデータ)
 ここまで加盟組合員が減っても、日教組は今でも選挙の影響力は残っている。立憲民主党から参院選比例区に組織内候補を擁立し、2019年も2022年も上位で当選した。世の中的には、まだまだ「力のある組織」なのである。他の民間労組の力が落ちている中、全国どこにでもある役所と学校を基盤にする自治労と日教組が比較的「残っている」ということかもしれない。2022年は新人の古賀千景を擁立し、立民では第3位だった。票数が1万を超えたのは愛知、三重、兵庫、福岡で、他にも北海道、千葉、神奈川、大分などで7千票以上を獲得している。福岡は出身県だが、このように票が出る地域は日教組の組織率が高いのかもしれない。(都道府県別組織率は公表されていない。)
(古賀千景議員)
 公立学校教員は公務員として「団体行動権」(ストライキ権)をはく奪されているが、労働三権のうち他の「団結権」「団体交渉権」はある。そこで労働組合が結成されたわけだが、教育行政は「労働組合」ではなく「職員団体」と呼んでいるのである。かつて組織率が100%近かった時も、政府側が本気を出せば「勤評闘争」も敗北せざるを得なかった。それなのに、右派政治家たちは今も「ニッキョーソが教育を支配している」などとデマを飛ばしている。(安倍元首相は質問議員に「ニッキョーソ」とヤジを飛ばしていた。)5人に1人で支配するなんて、どうすれば可能なのだろうか

 ところが頭が昭和の右派が騒ぐためか、左派の中にも「教員組合は非常に強くて、教員の役に立っている」と思い込んでいる人がけっこう多い。現在の現場のリアルを知らないのである。教員の側も多忙すぎて、大変さを発信出来ない。すでに40年ぐらい前から、一番忙しい中学校ではほとんど日常的な組合活動は不可能になっていたと思う。校種別の組織率が出されてないのだが、小学校や高校が多いのではないかと思う。組織率が高かった時代を知っている教員はほぼ定年に達して、新採教員はなかなか加入しない。一度職場で活動が途絶えてしまえば、なかなか再建は難しい。

 今では労働条件に関して、組合で交渉して解決しようという発想自体、若い教員には存在しないだろう。何で組合組織率が低くなってしまったのか。一番簡単に言えば、「特典がないのにお金がかかる」ということだろう。芸能人のファンクラブに入るのは、特別にチケットの先行販売があったり、芸能人との交流会に参加出来るか、何か特典があるからだろう。ただ会員証を貰うだけのために、高いお金を払う人はいない。地方ごとに違うだろうが、東京や大阪のように組合敵視政策が長年続き、競争的教育政策が定着しちゃったようなところでは、組合に入っても組合費、動員、交渉などで大変なことの方がおおいのではないか。

 逆に言えば、今でも組織率がある程度高い地方では、まだある種の「特典」があるのかもしれない。教員が一番気にしている人事異動で事前に様子を聞けるとか。あるいは組合で活躍した経歴がリーダーシップとして評価され、管理職になりやすいとか。僕には判らないけど、そういう話もあるらしい。(東京では全く「特典」はないと思う。)だけど、職場で思ったことを自由に言えなければ、それはおかしな職場である。実は学校の多くはそうなっていると思う。教師も時間がない中で、「言っても仕方のないこと」を職員会議で発言して、自分でわざわざ多忙を推進したうえ校長からの評価を下げる行動は避けるだろう。

 それでも入っている4分の1の人は何が理由なんだろうか。やはり「職場の団結」を途絶えさせてはならないという思い。組合あってこそ、かつての先輩たちの頑張りで「産休」とか「病休」の時に代わりの教員が保証されるようになった。(東京都で60年代半ばに最初に獲得した権利である。)自分たちの世代も後の世代のために、組合を無くしてはいけないという思い。自分の場合は、まず第一に社会科で(歴史や現代社会などで)労働組合の歴史や権利について教えるということが大きい。昔は作れなかった労働組合が今は権利として認められていると生徒に教えておいて、自分はお金がもったいないから入らないでは通らないだろう。

 しかし、先のような発想ではもう組織率を高めることは不可能だと思う。学校できちんと世間話をする時間もないような中で、今では選挙に行かない教師さえけっこういる。そういう教師が子どもを教えるのである。だけど、どんな人でもこれで良いのかと思っている。普段は黙っているけど、何か思っているはずだ。それを従来の形の組合ではすくいきれない。政党支持を気にする若い人はほとんどいないだろう。職場で「分会」を作れというのは、今では無理な学校も多いのではないか。ネットで参加出来る個人会員を作るとか(組合ニュースは郵送だけでなく、ネット閲覧出来るようにする)。人事やパワハラも教育委員会に相談するより、組合が関わる方が良い場合も多いだろう。

 ここまで日本の教育が追い込まれているのに、教員組合の発信が少ない、というか一般社会にはほぼ聞こえないのはおかしい。最近理研で「雇い止め」が多数起こって問題化している。日本で勉強して、頑張って終身の研究者になることは無理な願いなのか。勉強しても仕方ない社会になっているから、若い世代も学校で教育に携わろうと思わない。政府は英語、英語とばかり言うが、これでは英語が出来る若い世代はカナダやオーストラリアやシンガポールなどに行ってしまうのではないか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「過積載」の教育現場ー「教員不足」問題③

2023年05月30日 22時25分00秒 |  〃 (教育行政)
 氏岡真弓『先生が足りない』という本を読んで「教員不足」問題を考えたが、事態は非常に重大な局面にあると思う。下に教員採用試験の倍率を示すが、大きな傾向として小中高すべて激減している。もっとも「倍率」は採用予定数に左右されるので、必ずしも人気具合を示すわけではないけれど、「先生」という仕事はもはや児童、生徒の憧れではなくなったのか。

 それにしても、基本的には教育学部などで養成される「小学校教員」の倍率がこれほど下がっているのは、象徴的だ。中高は一般的な学部で学びつつ、「教職課程」を履修することで免許を取得出来る。だから「念のために取った」というペーパー・ティーチャーが相当数いる。また芸術系科目、高校の情報科などは免許がない人でも適任者を見つけられるだろう。(「臨時免許」で対応可能。)しかし、小学校免許を「念のために」取っていたなんていないだろう。

 しかし、この倍率低下も無理からぬ話だと思う。現時点で民間の求人は(業種にもよるが)好調を伝えられる。公立学校は公務員なんだから、給与が民間を上回ることはない。公務員の安定性を求めるなら、一般的な地方公務員の方が良いだろう。教師の勤務条件はどんどん悪化していき、今では解決の方向性が見えない。中高は「部活動」があって、土日も試合や練習が入ることがある。しかし、小学校はそこまでのことはないはずだ。「部活動の地域移管」は重要な問題だと思うが、ここで見ている小学校にすぐ影響しない。では何が問題なのだろうか。
(働くうえで知っておきたい知識)
 ここで逆に「就活生」の側から見てみよう。上記データは2015年段階の茨城県調査だが、「働くうえで知っておきたい知識」としては、賃金や社会保険制度以上に、労働時間休日が圧倒的に多い。これは大体いまの若い世代の実情とと合っていると思う。しかし、実は土曜も授業がある学校が多いのである。公務員も「週休二日」ではないのか。その通りで、21世紀には「学校5日制」になった。だが、私立学校は土曜授業が多く、いつの間にか公立学校にも広がっているのである。

 2023年4月1日の朝日新聞(都内版)に「公立小の土曜授業 じわり復活」という記事が掲載された。都内23区の半分ほどは、年10回程度の土曜授業を行っているという。中学や高校でも土曜授業が多くなっている。進学高校は大体そうだと思うし、地元の中学(母校)もやっている。各地方でもかなり行われているようだ。もちろん、ここで言っている「土曜授業」とは、運動会や授業参観のことではない。本当に「授業」なのである。今じゃサービス業は別にして週休2日じゃない民間企業があるだろうか。結婚式は昨今大体土曜に行われているから、友人の結婚式にも出られない。それどころか、家族の結婚式とぶつかり休暇を取るのである。
 
 もともと現行学習指導要領では、特に小学校のカリキュラムが過剰になっている。かつて新カリが公表されたときに、ここで「『亡国』の新学習指導要領ー『過積載』は事業者責任である」(2016.9.5)を書いた。現行カリでは、週当り29コマの授業が必要になっている。週5日、6時間授業を行うと、30コマである。しかし、週に2回5時間授業の日がないと困るのである。職員会議もう一つの会議(学年、校務分掌、総合学習や道徳を含む教科の打ち合わせ等)を開くためである。恐らく勤務時間を越えて会議をやってるか、土曜授業をやるしかない状況だろう。まさに「過積載」の教育現場なのである。

 英語道徳を教科化せよ、プログラミングも教えろ、ICT教育だ、タブレット端末だなどと増えていくけど、総合学習もなくならない。何も減らずに、ただ増えるだけでは、なり手がなくなるのも当然だ。このような勤務条件では若い人は教師を目指さない。事情があって一度辞めた元教員も、今度は英語とかICTなんて言われるんだから、とても20世紀にやっていた人は復帰する気になれない。現場が大変だから助けたいと思う元教員は多いと思うが、自分に勤まるだろうかと心配するだろう。

 ところで小学校の英語授業、2011年度から小学5、6年生で必修化された。もう12年も経っている。大学生は皆小学校から英語をやっているのである。最初はともかく、今の高校生、中学生は劇的に英語力がアップしていなければおかしいのではないか。10年経って、どこかで検証は行われているのだろうか。僕が知っているのは、中学3年、高校3年段階の英語力の目標(求めるのは、中3で英検3級合格同等が半数、高3で英検準2級合格同等が半数)は未だ達成されたことがない。(その目標が適当なものかも疑問だが。)巨額の費用を掛けてスピーキングテストなどをやってるわけだけど。小学校からやってどのような効果があるのか。僕には現場に過剰な負担を掛けて、逆効果も大きいと思うのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小泉内閣が生んだ教員不足ー『先生が足りない』を読む②(「教員不足」問題②)

2023年05月29日 22時44分49秒 |  〃 (教育行政)
 文科省が2021年に「教員不足」を調査した結果、全国の5.8%の学校で教員不足が起こっていた。これは5月1日現在の数である。小学校が一番多いが、中学、高校、特別支援いずれも不足が生じ、全部で2557人になっている。春休みから一生懸命探し続けて、まだ見つからなかったのだから、非常に深刻な問題だ。公立学校は税金で運営され、すべての国民に適切な教育環境を提供する義務があるはずだ。それが授業時間に管理職の教員が来て自習プリントを配るだけ…。そういうことが1ヶ月も続くとなると、児童・生徒は「見捨てられた」と思うようになる。そのことが氏岡氏の本でよく判る。

 そこで原因は何かと文科省が各教委に示したアンケートを基にすると、前回書いたように「産育休の増加」「病休の増加」「特別支援学級の増加」がいわば三大要因として上がってくる。しかし、それだけなんだろうかと氏岡氏の本は論じている。そこで参考にされているのが、慶應義塾大学の佐久間亜紀教授と元小学校教員島崎直人さんが調べた研究である。そこでは「X県」の実態がつぶさに調査されている。なお、場所を特定しないことが調査に応じる条件だったということで、X県がどこかは不明だが日本のどこかには違いない。細かいデータは同書に譲り、結論だけを書くと「そもそも正教員が足りてなかった」のである。

 正規教員の数が学年当初で1200人も足りてなかったという。この「足りてない」というのは何かというと、クラス数に応じて学校ごとの本来いるべき教員数が決定される。つまり、学習指導要領で授業時間は決まっているから、クラス数が確定すると授業時間数が決まるわけである。そこで全国一律に各学校の教員数が決まっているわけで、正教員が足りないということは起こらないはずである。今も原則としてはそうなんだけど、実際は大分(良い意味でも、悪い意味でも)違っているのである。それをもたらしたのは、小泉内閣で進められた「規制緩和」と「三位一体改革」だった。
(三位一体改革のイメージ)
 「三位(さんみ)一体改革」というのは、①国から地方への補助負担金を4兆円削減する②地方交付税を抑制する(5.1兆円)③国から地方へ3兆円の税源を移譲するという3点を同時に実施するという改革だった。地方への移譲額と中央政府の削減額を比べて見れば、あまりにも地方へ厳しい「改革」だった。この時に「義務教育費国庫負担金」も削減されたのである。義務教育の水準が地方ごとにバラバラでは困るので、従来は小学校、中学校教員の人件費は国が半分を支出していた。それがこの「三位一体改革」の時に「3分の1」に減らされたのである。

 その代わりに、教員定数配置の規制緩和も進められた。そのため地方で独自の少人数教育を進めることも可能になった。都道府県ではなく、市区町村で教員を確保することも可能になった。しかし、その反対に正規教員の数を抑えて、その分で非正規教員を増やすことも可能になったのである。そうなると今後進む少子化を予測して、地方ではあっという間に正教員ではなく非正規教員を雇うようになった。公務員の定年年齢は今後65歳になっていくだろうから、正教員には40年近く給与を払い続けるのである。生徒数が3分の1ぐらい減るだろうという時に、確かにそれは抑制したいだろう。

 だから、このような「教員不足」を生んだのは明らかに国の責任である。次世代の育成は社会持続の鍵である。「教員不足」などということが起きないようにするためには、国がきちんと人件費を措置しなければならない。多くの人は「小泉改革」がこういうことを生み出すと予測していただろう。それがやっぱり実現してしまったというわけである。「郵政民営化」などに熱狂した人にきちんと考えて欲しいと思う。詳しいデータは是非氏岡氏著を参照して欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教員不足」問題①ー氏岡真弓『先生が足りない』を読む①

2023年05月28日 21時58分12秒 |  〃 (教育行政)
 「教員不足」という問題がよく聞かれるようになった。それはどういう問題なのか、原因は何なのかといったテーマで数回書きたいと思う。このテーマに関しては、最近朝日新聞編集委員の氏岡真弓氏の『先生が足りない』(岩波書店)という本が出版された。氏岡氏はこの問題を先駆的に取り上げてきたが、最初は全く反響がなかったという。最近は文科省が全国調査を行うほど重大な問題になってきたが、現場感覚と「真の原因」とは少し違っていると思われる。

 氏岡氏は4月5日付朝日新聞「教育の小径」というコラムに「新しい担任の先生がいない」という記事を書いている。「首都圏の小学6年生」が4月になって教室に行くと、そこにいたのは担任の先生ではなく教頭だった。「教頭」と書いてあるから、これは東京都ではないんだろう。担任になるはずの教員が産休に入ったが、その後の代替教員が見つからず、それまで教頭が担任を務めるとある。「3年前の春のことだった」という。そういうことが最近はあちこちで起こっているというのである。

 東京都では、今年度の公立小学校の場合、4月7日時点で「約80人」が欠員で、前年同期より30人増えているという。文科省調査では2021年度に全国で1218人の欠員があった。東京では公立中の欠員は数人、公立高・特別支援学校ではほとんどいないという。全国的にも同様なのかは不明だが、「先生が足りない」というのは、まず「小学校で起きている」のであり、さらに「非正規教員が充足出来ない」という問題なのである。だから、なかなか認識されにくかったのである。
(氏岡真弓氏)
 もっとも今は「非正規教員」の不足に止まっているが、それだけで済むかは判らない。現在小学校の一クラス35人定員が段階的に進められ、小学4年生まで進んでいる。ところが今年度になって、山口県、沖縄県が生徒数の上限を引き上げたというのである。沖縄では小1~2は30人、小3~中3は35人という独自措置を取ってきたが、教員採用試験受験者が減って少人数教育が難しいという。山口県では中学2、3年の生徒吸うの上限を35人から38人に引き上げる。教員採用試験の受験者減で教員確保が難しいからという。以上は東京新聞3月5日付記事によるものだが、このように各県独自に進めていた少人数教育が難しくなりつつある。

 それでは、このような「教員不足」はなぜ起こっているのだろうか。学校の労働条件から敬遠されているのか。そういう問題もあるだろうけど、現場的にはちょっと違った問題がある。まず、「団塊の世代」の大量退職である。ベビーブーマーは、自身の成長とともに経済も成長した世代で、20代を迎えた頃に大都市圏で学校増設が相次ぎ、第二次ベビーブーム世代が学校に行く80年代に掛けて、教員の大量採用が続いた。それらの世代が2010年前頃から60歳定年を続々と迎えたのである。

 だから2010年前後は比較的新規採用が多かったのである。小学校は半数以上が女性教員である。その頃採用された女性教員が30歳前後を迎えて、出産期を迎えているのである。そのため産休、育休の代替教員の需要が多くなったが、教員採用試験の倍率が落ちていて不足が生じる。今まではその年の採用試験に落ちて「教職浪人」している人が多く、そこから代替教員を見つけていたのだが、それが難しくなったのである。それに加えて、教員免許更新制の影響で中途退職者の復帰も難しくなった。

 この事情は了解出来るが、もう一つの指摘は僕は気付かなかった。それは「特別支援教育」である。特別支援教育の仕組みが整備され、発達障害などにも支援がなされるようになった。そのため小学校、中学校に特別支援学級が設置されるようになったのである。例えば本書の中にある例では、突然自閉症の生徒が転校してくることになって、特別支援学教が一つ増えたという。急には担当が見つからず、教務主任が一時兼任することになり、毎日午後11時退勤といった長時間労働を強いられた。この人は子ども2人を持つ女性教員である。

 ちょっと信じられないケースだが、それは兼務の大変さばかりではない。発達障害児のために、1人でも取り出し授業をしなければいけないのかということである。昔は発達障害という概念を誰も知らず、研修でも聞いたことがなかった。今思うと、明らかに発達障害の生徒が教室の中にいたが、そういうもんだとしか思わなかった。だから、「特別支援」するというのはとても良いことだと思うが、1人のために1クラス作るのは学校の負担が大きくなりすぎるのではないか。

 最近特別支援学級の話を時々聞いていたが、そういうことだったのかと初めて理解出来たように思う。この仕組みを維持するためには、もっと予算を増やして(教育予算とは別枠で)、担当者を養成していかないと学校がパンクするのではないか。同じ学校で学ぶこと、独自の支援を行うことは大変良いわけだが、従来の仕組みでは無理が重なる。さて、現場に教員不足の原因を問うと、この2つがまず出て来るというが、もちろん問題の根底はもっと深いものがある。それは次回に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教科「情報」の大学入学共通テストに反対する

2021年06月08日 23時21分14秒 |  〃 (教育行政)
 高校に「情報」という教科がある。そんな教科は知らないという人も多いだろう。21世紀になって始まった科目なのである。1998年告示の学習指導要領で初めて導入され、2003年から実施された。その時は2単位科目の「情報A」「情報B」「情報C」から1科目必修だった。(つまり普通科高校の場合、教科数は11になる。国語、地理歴史、公民、数学、理科、保健体育、芸術、外国語、家庭、情報。)2008年告示の学習指導要領では「社会と情報」「情報の科学」から1科目必修、2017年告示、2022年実施の学習指導要領で「情報Ⅰ」「情報Ⅱ」から「情報Ⅰ」が必修とされた。
(情報Ⅰの教科書)
 何だか面倒くさいことを書いたが、「情報」という教科が始まって20年ぐらい経つが、今回初めて高校生全員が「情報Ⅰ」という同じ科目を勉強することになったのである。今までも「情報」を履修しないと高校を卒業出来なかったわけだが、「情報」の中でどの科目を勉強するかは決まってなかった。(自分で選択できるわけではなく、恐らく学校ごとに決められたどちらかの科目を勉強したはずである。)ところで、この「情報Ⅰ」必修化を機に、大学入学共通テストに「情報Ⅰ」のテストを新設して受験を義務づけるという議論が起こっている。
(大学入学共通テスト変更案)
 そもそも「情報Ⅰ」とは何を学ぶのだろうか。学習指導要領を見てみると、目標は面倒なことが書いてある。次の「内容」を見ると4点が書かれている。まず(1)情報社会の問題解決、(2)コミュニケーションと情報デザイン、(3)コンピュータとプログラミング、(4)情報通信ネットワークとデータの活用となっている。(3)をさらに詳しく見てみると、「コンピュータや外部装置の仕組みや特徴,コンピュータでの情報の内部表現と計算に関する限界について理解すること」「アルゴリズムを表現する手段,プログラミングによってコンピュータや情報通信ネットワークを活用する方法について理解し技能を身に付けること」などと書いてある。

 要するにコンピュータやプログラミングの勉強であるが、こうなると僕にはもう内容を解説できない。でもまあ、これからの大学生には必須なんだろう。それは判るけれども、この「情報Ⅰ」のテストには反対しないといけないと思う。何故かというと、これは英語の民間技能審査導入と同じことになるからだ。英語は大事→4技能が大切→「話す力」は当日のテストで測定することが困難→事前に民間の検定等の結果を活用すればいい、という発想でやってきて最後の最後になって、地方や貧困家庭の志望者が不利になる、公平性は保たれるのかという反対論が噴出した。

 コンピュータ、プログラミングは重要と言われると、それ自体は反対しにくい。しかし、英語は(あるいは記述式導入が議論された国語や数学は)、どんな小さな高校、各学年1クラスの夜間定時制高校だって必ず専任の教師がいる。だから学校で質問したり、受験対策をすることが出来る。実際問題としては、定時制課程や専門高校から大学入学共通テストを受ける人はほとんどいないだろう。(大学へ進学する人はたくさんいるが、ほとんどは推薦入試だろう。)また生徒だって、大学入試を受ける生徒なら予備校や塾に通うもんだろう。

 それはそうだけれど、それでも「情報科」には専任の教師がいない高校が非常に多いという事実がある。しかし、もちろん「情報」を教えないわけにはいかない。じゃあ、どうしているのか。それは他教科の教員が教えたり、臨時免許の教員が教えているのである。難関大学進学を目指す高校だったら、情報科の免許を持つ専任教師がいると思う。でも、そういう高校の方が少ないかもしれない。ちょっと古い資料だが、他教科の教員が教えている数を見ると、下のグラフのように「情報」が圧倒的に多いことが一目瞭然だ。

 さらに下のグラフを見ると、上の円グラフは上と同じだが、下の円グラフでどの教科の教師が免許外で教えているかが判る。それは数学、理科、商業が圧倒的に多い。また他教科や臨時免許の教員が多い県として、2つ目の棒グラフを見ると、長野県、群馬県、栃木県などとなっている。この現実を解消するのが先であって、このまま大学入学共通テストで「情報Ⅰ」を導入すれば、再び不公平ではないのかという声が上がるのは確実だ。
 
 何でこんなに他教科の教員が「情報」を教えているんだろうか。それは「後から作られた教科であること」と「履修時数が少ないこと」があるだろう。「情報」は3年間の中で2単位をやればいい。選択科目でもっとやってもいいけれど、要するに「芸術」と同じ時数である。芸術の先生が音楽、美術、書道などすべている学校はいない。「情報」は1学年全員が同じ授業を受けるから「芸術」より専任教員が必要だ。しかし、それでも二人以上いるはずがない。学校規模が小さければ、非常勤講師などで対応せざるを得ない。

 そもそも最初に「情報」が始まった時はどうしたんだろう。その時は大学で免許を取得した人は誰もいないわけだから、数学、理科、商業、工業などの教員を対象に講習が行われ合格者に免許が付与されたのである。商業、工業などにはそれ以前から、情報処理、プログラミングなどの科目が置かれていた。情報処理科などが設置された高校も多かった。数学や理科の教員は専門から関連性が強く、各学校の成績処理を数学や理科の教師が担当していたことも多い。だから、これらの教科の教員に頼ったわけである。しかし全員の教員が情報免許を取得したわけではない。

 免許取得者が少ない以上、情報免許を取ってしまうと「情報」を教えないといけなくなる。本当は数学や理科を教えたいという人は情報科を敬遠することになる。異動や退職で情報免許を持っている教師がいなくなったりすれば、他教科や臨時免許の教師が教えるしかなくなる。大学で免許を取る人もそんなに多くないのかもしれない。数学や理科専攻の学生がさらに情報免許を取るのは大変だ。一方、コンピュータ、プログラミングの知識が半端ないという学生は、民間で働く方がずっと有利。わざわざ10年期限の教員免許を取る人は少ないだろう。

 ということで、今の段階で「情報Ⅰ」のテストを始めるのは無理があると思う。そもそも推薦入学がこれほど増えている中で、大学入学共通テスト科目を増やすということがどうなんだろう。テストがそんなに重要なら、全員受けさせるべきだろう。あるいは逆に全員を推薦入学にするとか。なお、最後に書いておけば、情報教育を進めるのは大事だろう。「オンライン授業」、卒業しても「テレワーク」、これは今後も進むだろう。その態勢を整えるためにも、情報教育は大切だ。そのために「情報教育環境整備担当教員」などを設置して、民間人の臨時免許も大胆に増やし各校に専任教員を複数配置出来るよう配慮するべきだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「9月入学」見送りの後にー本格的な「教育改革」議論を

2020年06月08日 22時19分39秒 |  〃 (教育行政)
 「9月入学」論について、今まで3回書いた。「「9月入学」論への4つの疑問」(2020.4.28)、「「9月入学」は「コロナ・レガシー」なのか?-「9月入学論」への疑問②」(2020.4.29)、「消費税15%が必要な「9月入学」」(2020.5.25)である。2回目の記事で「議論していけばポシャるに決まってる」と書いたけれど、案の定6月4日に安倍首相が事実上の「見送り」を決め、5日に萩生田文科相が正式に表明した。何でも自民党議員には反対意見が殺到したらしく、党内の意見を首相も無視できなかったらしい。
(自民党議員が首相に見送りを要望)
 書いた通りになったんだから、それでもういいようなものだが、最後に「まとめ」を書いておくことにした。僕が何回も書いたのは、議論をきちんと理解せずに論じている人が多いのにビックリしたからだ。この間、「9月入学」論議で1ヶ月以上をムダに費やしてしまった。その結果、「大学入試をどうするか」の全体像が未だに見えてこない。もともとセンター試験に代わって「大学入学共通テスト」になるはずだった。しかし、英語民間テストや記述式問題の導入見送りで、その共通テストのあり方が見えないままになっている。「9月入学」ではなく、そっちを先に議論するべきだったのである。

 僕が一番強調したいことは、これは「義務教育の問題」だということである。それなのに、「9月入学」が「大学教育の問題」だと思っている人が多い。見送りのニュース当日の「報道ステーション」のコメンテーターをしている朝日新聞の女性記者が「9月入学賛成」を主張していた。大学の入学時期を変えないと、国際化に遅れを取る、外国の優れた人材が日本の大学に来てくれないなどと言っていた。僕には全く理解出来ない主張だ。何故なら、大学には今でも「秋入学」制度があるから。大学だけ秋入学一本にも出来るし、「春入学」「秋入学」を選べる制度にも出来る。解決済みのテーマなのである。

 しかし、小中高を含めて「すべてを9月入学にする」ならば、何度も書いたように巨額の費用がかかる。また他の(財政など)制度と整合性がなくなり多くの不都合が生じる。(例えば、会計年度ごとの契約になっている非常勤講師の雇用など。)また、入試が2年続きにならないように子どもを作ったはずが、突然連続になって「学資」に苦労する人が出る。開始学年だけ、子どもの数が膨らんで学校整備や教員採用の計画も大きく狂う。そんなことが判らないで論じる教育関係者がいたのには驚いた。

 ところで、せっかく今回の議論があったので、この際「次の議論」をしておきたいと思う。まず、「4月入学は世界で少数派」という言説の問題。これ自体は正しい。しかし、「9月入学」に変えても「世界の少数派」なのである。下の画像を見れば判るけれど、どの月にしても「少数派」になるのである。アメリカなどは、小学校の開始月も州ごとに違うらしい。英語の勉強で留学するんだって、行ってすぐに大学の授業に付いていける人は少ないだろう。半年のズレがある方がいい人も多いはず。また何も米英に留学するだけでなく、オーストラリアニュージーランドもあるし、シンガポールフィリピンで学ぶ手もある。何なら公用語が英語のインドなら、4月入学で日本と同じである。
(各国の入学月)
 「9月入学」と言われたときに、すぐに気付かないといけない問題があった。それは「9月入学」という以上、それは「3学期制を前提にしている」のである。「学年」を後ろにずらすだけで、「一斉授業」「一斉卒業」により、同じ年に同年齢集団が「一斉就職」するという「日本的システム」の延命なのである。しかし、個性化といっても、すべてバラバラに入学、卒業というわけにもいかない。効率の問題もあるから、まあ大学は3回、4回あってもいいけど、小中高は「前期」「後期」の2学期制なら可能かもしれない。

 9月といえば関東以西ではまだ残暑が厳しい時期だ。初めて学校へ通う小学1年生にとって、ふさわしい入学時期とは思えない。学校運営上だけなら、会計年度と同じ4月が一番いいと思うけど、まあ何月開始でも出来ないことはない。でも「小学1年生問題」を考慮するならば、日本では4月か10月が適当なんじゃないだろうか。ちょうど半年ずれるから、2学期制にすればいい。前期入学、後期入学を親が選ぶことも可能だ。変えるのなら、全員が一斉に入学して卒業するというシステムを変えるべきだ。
(東大で検討した4学期案)
 数年前に東大が秋入学への変更を検討したことがある。結局取りやめになった経過は細かく承知していないが、その場合も「全員を秋にする」ということだったと思う。そうじゃなくて、「春でも秋でも」にすればいいと思う。しかし、そのために「大学共通テスト」を何度も行うのも負担が大きい。そこで「大学入学資格試験」を行う必要があるかも知れない。フランスのバカロレアのようなものである。それを導入したならば、高校以下の教育をガラッと変えることになるだろう。本当に「思考力」が問われることになる。後は好きな時に好きな大学に入ればいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費税15%が必要な「9月入学」

2020年05月25日 22時15分12秒 |  〃 (教育行政)
 「9月入学」について、今まで2回書いた。「9月入学への4つの疑問」(2020.4.28)と「『9月入学』は『コロナレガシー』なのか?」(2020.4.30)である。それから一ヶ月経って、文科省は検討対象を「2つの案」に絞った。また民間から様々な財政負担の推計も出てきている。大事な論点は最初の記事で示してあるが、自分では気付かなかった論点もたくさんある。ここでもう一回論じておきたい。
(文科省提示の2案)
 恐らく最初に「9月入学」を言い出した人たちは、「今の学年をそのまま9月に移行する」ことを想定していたと思う。特に大学や大学受験を意識した進学高校関係者には、そのような発想が多い。しかし、義務教育じゃない大学は本来二次的な問題である。義務教育である(国家が責任を持つ)小学校中学校の教育のあり方をどうするかという議論が一番重要だ。そして、「そのまま学年を移行する」案はなくなった。当然だろう。それでは義務教育開始年齢が7歳5ヶ月になり、他国に比べて異常に遅れてしまう。世界ではむしろ「義務教育開始を早める」国が多い。

 はっきりしたのは、「9月段階で6歳を迎えた児童」(翌年8月末までに全員が7歳となる)を小学生にするということである。ただし、一度に受け入れる第1案では小学1年生が「1.4倍」ぐらいに膨らむ。教員も教室も不足するし、その学年は年齢差が大きくなる。後々受験も大変になる。だから、一年ごとに「4月生まれ」「5月生まれ」…と受け入れ対象を広げていき、5年掛けて移行するのが第2案である。その場合、一年ごとの財政負担は少ないけれど、結局同じ額を5年間に分割するだけだ。その間、待たされる子どもたちはどうなるのか。そこで小学校に「仮入学」させて「ゼロ年生」を作る案も出てきた。
(ゼロ年生案)
 しかし、ゼロ年生を作ったら、教室や教員(必ずしも「教員」じゃなくてもいいだろうけど)を増やす必要があることに変わりない。要するに、どのような方策を取ろうが、「9月入学」実現には莫大な財政支出が必要になるのである。それは一体、どのぐらいだろうか。日本教育学会が22日に示した提言によると、財政・家計の新たな負担額は6・5兆円にも上るという。以下で触れるように、他にも社会の負担は大きいと思われる。今はまず、新型コロナウイルスで巨額の財政支出が必要である。来年度は法人税の落ち込みも予想される。どこからこの巨額の支出をひねり出してくるんだろうか。

 6.5兆円と言っても、家計負担分が2.5兆円になるらしい。そうすると財政の新負担は4兆円になる。そのうち私立学校への補助金増が2兆円になる。私学は出願料・入学金・授業料の入金が5ヶ月遅れるが、それは国策による負担だから国が補助する必要がある。他に教員増員分教室整備分などがあるが、他に予想以上に待機児童が増える試算がある。また後で書く税収減を埋め合わせないといけない。大まかに言って「5兆円」を何とかしないといけない。それを消費税でまかなうとすれば、消費税1%がおよそ1兆円になるので、消費税を15%に上げないと捻出できない金額だ。

 もっともこの言い方は「レトリック」である。政府も消費増税はしないだろう。消費税の目的(と政府が言ってきたこと)から言ってもそれはない。そもそも義務教育段階の支出は、地方自治体の負担が大きい。それでは住民税をアップするのか。地方交付税を大幅にアップするのか。それにしても児童数が多い都市部の財政が破綻の危機に陥るのは間違いない。小泉内閣で「義務教育費国庫負担金」の2分の1から3分の1へ減額を強行されたが、それを再び2分の1に戻すとか、「ふるさと納税」を廃止するとか、抜本的な対策を取っても「焼け石に水」ではないか。

 教育であれ何であれ、「ただのもの」はない。しかし、「4月入学」なら教育費の財政負担は例年と同じである。ここで言っている膨大な負担というのは、いつもの年に上乗せして必要になる金額なのである。各マスコミの世論調査でも、9月入学の是非を聞いているが、この巨額の財政負担に触れずに、ただ一般国民の意見を聞いても仕方ない。「4月入学なら新しい負担は生じない」「9月入学にすると、消費税5%分程度の増税が必要になる」と説明をしてから、「どちらに賛成ですか?」と聞かないと正しい世論を測ることが出来ない。

 2018年には全国で高校生が322万人いた。一年間に生まれる子どもの数はだんだん減っているが、まあこの何十年の間、100万人前後になっている。定時制、通信制など高校もいろいろあるが、全部で300万超、一学年は100万前後と考えればいい。そのうち、2019年の大学進学率は55%ほどだった。「留学に便利」と言っても、45%の高校生には関係ない。むしろ、4月から就職していれば得られた給料分が、家計から失われる。大学生でも同様のことがある。その間の家計負担が2兆円に上る。それだけでなく、その給料から所得税や社会保険料が支払われているわけで、その減収分が相当額に上ることが予想される。それは僕は当初は気付かなかった。

 9月入学に伴い、第1案の場合、教員は2万8千人不足するという。(刈谷剛彦氏推計、朝日新聞5月17日)この不足人員を一挙に採用しようとすると、多くの地方で小学校の教員採用試験が1倍を割るという。教員の定年を延長するなどしても、充足は無理だろう。新規採用教員には研修も必要だし、現場が大混乱になるのは必至。では第2案で、一ヶ月ごと受け入れ児童を増やせばいいのか。確かにその場合、一度に教員を採用増する必要はなくなるが、結局5年間かけて、同じように増やすので財政負担総額は変わらない。

 さらに、この案の最大の問題は幼稚園などで形成されていた人間関係をバラバラにすることだ。4月生まれだけをピックアップして上級学年に繰り入れてしまうわけである。翌年は5月生まれだけ分断される。第2案は財政面、教員採用面では第1案よりいいけれど、肝心の児童にとっては残酷な案になってしまう。こういう風に、最初に「4つの疑問」と書いた他にも、家計への影響待機児童増教員採用の問題国の税収減など多くの問題があることが判った。もう「9月入学」議論は打ち切った方がいい。今の財政状況で出来るはずがない。それが「大人の責任」だろう。

 最後に一応書いておくが、最初から言っているように、大学が「秋入学」を実施するのは、大賛成である。というか、もうそういう仕組みはある。その分を増やしていけば良い。学生も「春入学」「秋入学」「春卒業」「秋卒業」を自分で選べばいい。企業も「通年採用」もしくは、「春秋採用」にすればいい。小中高は、会計年度に合っている方が便利だと思うが、絶対に4月入学じゃないとダメということでもないと思う。しかし、財政上出来ないことは、「今は無理」とはっきり決着を付けることが大事だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国の高校を単位制にしてみたら!

2020年05月05日 22時59分04秒 |  〃 (教育行政)
 全国で学校休校が長引くことによって、「9月入学」という議論も起こっているわけだが、あまりにも巨額の費用がかかるから義務教育での実施は難しいだろう。仮に実施したとしても、それは「日本型教育システム」をそのまま5ヶ月後ろにずらすだけである。それを「欧米に合わせる」と称しているわけだが、合っているのは「入学・卒業時期」だけである。教育制度面で「欧米に合わせる」ことを真剣に考えるなら、「義務教育における落第」や「大学入学資格試験」(フランスのバカロレアのような)、高校における「単位制」制度の導入など、もっと先にに検討するべきことがいっぱいある。
(単位制高校のシステム)
 「単位制高校」といってもいろいろある。そもそも今でも全ての高校は単位制である。しかし、ほとんどの高校は「学年」をベースにして、ごく一部の選択授業を除いて決められた「学級」(クラス)単位で学習する。クラスのメンバーは学年ごとに「クラス替え」することが多いが、その決まったメンバーでずっと授業を受けることに変わりはない。学校ごとに細かい決まりは違うが、基本的にほぼ全ての授業で「単位」を「修得」(成績が2以上)しないと卒業、進級が認められない。それを「学年制」と呼ぶ。

 今は私立の通信制高校が幾つも出来ている。通信制高校はシステム上、一斉授業は出来ないわけだから、当然単位制である。学習指導要領に決められた「必履修科目」をすべて修得し、他の科目も決められた単位数を修得すれば卒業が認定される。だから、「単位制」高校とは「通信制」だと思っている人もいるようだ。しかし、毎日登校する高校でも「単位制」はいっぱいある。ほぼ学年制のような全日制単位制高校もあるし、全日制と定時制の併置校もある。午前・午後・夜間に分かれた三部制単位制高校もある。東京都には今では30以上の単位制高校が設置されている。
(全日制、定時制、通信制の仕組み)
 世の中には「全日制」(ぜんにちせい、朝から夕方まで)の「学年制」高校が一番多い。だからそれを「普通高校」と思い込んでいる人が時々いる。これは大間違い。時々教員にも間違っている人がいる。「普通高校」とは「普通科」高校のことで、その他に「農業科」「工業科」「商業科」「水産科」「家庭科」「福祉科」などの「専門高校」が存在する。他にそれらを合わせた「総合学科」もある。

 「全日制」は一年間朝から夕方まで学習するのに対し、「定時制」は定められた時間で学習する。だから「夜間高校」という意味ではない。午前だけでもいいし、昔は農業地域に農繁期だけ休校する「季節性定時制」もあったという。このような「専門」(学習内容)や「課程」(全定通の違い)と、ここで書きたい「単位制」とは意味が全く違う。大学は同じく単位制で、必修科目は決まっているものの、他の科目は自分の関心から時間割をよく見て決めていく。同じシステムを高校でやるわけである。

 知っている人には不要の説明で長くなってしまったが、「自ら学ぶ」「アクティブラーニング」「個性化」などと本気で言うんだったら、自分で時間割を作る「単位制」にする方がいい。それに「前期」「後期」で半期ごとに単位認定すれば、半期卒業が可能になる。もっと勉強したいならば3月で卒業せずに、もう半年勉強することも出来る。卒業式が7月じゃないので、欧米留学に直結は難しいが、今よりはズレが少ない。日本の大学も春秋双方に入学、卒業する制度をもっと充実させれば、高校を半期卒業する意味も出てくる。「単位制」制度を取り入れればずいぶん違うんじゃないか。
(日本初の単位制高校、新宿山吹高校)
 それとともに、僕が一番書きたいのは「単位制」的な発想を、今年は特例で学年制の高校にも適用可にすればどうかと思うのである。具体的には高校3年の「卒業認定」の問題である。学習指導要領では卒業に必要な単位は、夜間定時制のカリキュラムに合わせて「74単位」と決めている。一方、全日制の場合は一日6時間授業が可能だから、一学年で28単位か29単位程度の授業を置いているんじゃないだろうか。だから3年になった時点で、指導要領上の卒業要件には20単位も取れば大丈夫だろう。必履修科目では、体育が必ず残っているはずだが、他には地理歴史、公民などで少しあるかもしれないが、大体は終わっているはずである。

 もちろん教育委員会の指示で休校している期間のオンライン授業、プリント学習、自宅学習などは出席にカウントされる。学校の都合なんだから当然である。だから今後休校が延びても「欠時数」によって、未履修になる可能性は少ない。(もっとも思わぬ不登校生徒増があるかもしれないが。)しかし、授業内容の理解という面ではやはり学校の授業には及ばない。すぐ出来ないかも知れないが、理科の実験、英会話などは学校でやらないと意味がないだろう。だから、今までのカリキュラムを大胆に見直し、卒業認定に必要なものを中心に実施し、他は大学受験や就職試験、資格獲得などに必要なものに整理したらどうかと思う。それ以外の科目は「減単」するしかないと思う。

 書いているうちに、なんだか高校教員以外の一般の人には意味がないようなものになってきた。だからもう止めるけれど、「単位制」には問題もある。一人一人がバラバラで、クラス内の同調圧力は低いけれど、その代わり行事などはやりにくい。クラスもあるけれど、週一回のホームルームでは生徒の状況把握が難しい。だがアメリカの高校はみな単位制だ。映画で出てくるのを見ても、学年も違う生徒たちが自由に授業を行き交っている。「欧米に合わせる」なら、まず単位制だろうと思う。それと本当に日本の教育を変えたいなら、「日本版バカロレア試験」を作ることが一番だ。合格者は「自己推薦」で各大学に出願する。個々の大学の入試はなくなる。出願料がなくなる私学の抵抗で不可能だろうが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「保健室」「図書室」の再開をー学校「休校」から「再開」へのプログラム②

2020年05月04日 23時08分06秒 |  〃 (教育行政)
 ①で書いたように、今こそ学校再開への様々なプログラムを考えていかないといけない。文科省の方針では「学年」を中心に考えている。それも大事だが、それ以上に「地域」が重要だと思う。同じ都道府県の中でも感染者の少ない地域もある。北海道は札幌を中心に「第二波」が来ているが、道内は広いから全然感染が広がってない地域もあるはずだ。もちろん離島や山間部は一部を除き感染者が少ない。教員の場合、「へき地手当」が支給されている地域は開校可能性が高いはずだ。

 また通学方法も大事だ。公立小中学校は地域から歩いて通う児童・生徒が大多数だが、高校になると、電車・バス通学が多くなる。しかし学校によっては自転車通学が多いこともある。学校ごとにきめ細かく見ていく必要がある。学校生活以上に、通学に「三密」の危険性が高いので、それを避けられるかを考えるべきだ。バス通学が多い学校では、バス会社と提携して臨時に「通学バス」を出すことを考えたらどうか。学年ごとに時間をずらして、登校・下校時に一般客と接触しないような工夫である。(教職員の自動車通勤も認めるべきだ。東京では電車通勤が出来る地域では禁止されている。)

 それと同時に学校は教科学習だけの場ではないということも重要だと思う。教科学習はオンライン授業、ホームページを通したプリント学習などである程度補える。むしろ「社会性育成機能」こそ学校でしか育てられない大事な役割だと思う。もうやっている学校もあるんじゃないかと思うが、特に「保健室」と「図書室」の先行開室は絶対に必要。小中の場合、ほぼ徒歩通学なんだから、心身の相談に応じたり、家で読むべき本を貸し出したりする必要がある。これは絶対に必要だ。
(学校での衛生面の管理対応)
 保健室を担当する養護教諭は、多分学校での感染防止マニュアル作成などで大変なんじゃないかと思う。しかし、同時に生徒の「相談対応」機能を果たしているわけで、「保健室登校」を認めないといけない。多分家にいられず保健室に来てしまう生徒がいて、今も受け入れているんじゃないだろうか。交通機関を使わないと登校できない学校では、インターネット(または電話)で予約するシステムを作ってでも対応するべきだ。パーテーションを作って、担任などとの相談も出来るといい。

 図書室も重要だ。公共図書館のほとんどが休館している中で、学校でも本が借りられないのでは読書も出来ない。図書室で本をずっと読んだり、友だち同士で会話する、受験勉強をするといったことは禁止する。(そもそもおしゃべりは禁止だろうが。)本の貸し出しや返却、新聞・雑誌を読むといった程度なら、「三密」にはならないだろう。大人じゃないんだから、ネットで電子書籍を買うわけにはいかない。特に小学校では「親子での利用」も考えてもいい。「学校図書館のコロナ対策はどうする?開館時間・閲覧席の利用・PC利用は?」という記事があった。(「学校司書のしごと」というブログ)。
(「学校司書のしごと」から)
 「部活動」も大事だ。このままでは6月にすぐ本格的に再開することも難しいと思う。そうなると、インターハイに続き、高校野球も難しいのではないか。高知で予定されている全国高文祭の実施も心配される。(連休明けにも開催について決定するとホームページに出ている。)インターハイはもともと東京五輪の影響で分散開催を余儀なくされ、予算確保もままならない状況だった。だから「ウイルス」以前に「五輪」に翻弄されていたことを指摘しないといけない。それに比べて高校野球は工夫の余地もあるだろう。(選抜大会を夏に行うなど。)高文祭もこのままの感染状況だと吹奏楽や演劇は厳しい可能性が高い。しかし美術、書道等だけでも何とか実施出来ないかと思う。

 そういう全国レベルの話はともかく、今後学校が再開されてもしばらくは放課後の部活動は行わない可能性が高いのではないか。中高ではまだ新入生も入部してないんじゃないか。そんな状況を考えると、昼間にいくつかの部活を集めて「トレーニング活動」だけを行うことは考えていい。多くのプロ選手も自宅でできるトレーニングを発信している。しかし中高生が自分でやるのはなかなか大変。特に高校ではトレーニング室がある場合も多いのではないか。競技の訓練をするんじゃないから部活顧問が全員付く必要はない。順番に誰か二人ぐらい一緒にやればいい。多分「闇活動」をしている部活が全国にいっぱいあるはず。それより学校でトレーニングした方がいい。どこかで勝手に集まると「自粛警察」に通報されてトラブルになる心配がある。

 教科学習に関しては「単位制的な発想」を考えていくべきじゃないかと思うが、長くなるので別の機会にしたい。今日書いたことは別に自分が書かなくてもいいんだけど、頭を柔軟にして目の前の課題に対応するレッスンでもあると思って書くことにした。退職して何年経っても、やはり「学校」というシステムが気になってしまうのである。それと学習の遅れが心配と言わず、まずは「全校大掃除」をしっかりやって欲しいと思う。教員や用務主事でやってるんだろうが、もう2ヶ月近く使ってないんだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校「休校」から「再開」へのプログラム①

2020年05月04日 20時05分22秒 |  〃 (教育行政)
 5月4日、安倍内閣は新型コロナウイルスに伴う緊急事態宣言を5月31日まで延長した。5月1日に「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が開かれて、「提言」を受けての決断という形を取っている。しかし、前日には自民党の二階幹事長に延長を伝えていて、野党側はやり方がおかしいと批判している。その通りだが、現実には「専門家会議」なるものは政府の追認機関でしかないのが実態だろう。

 ところでその「専門家会議」さえ開かずに、担当大臣(萩生田文科相)も納得していないのに、突然打ち出したのが2月27日の「全国の学校の一斉休校」だった。子どもの面倒をどうみるか給食業者の困惑など様々な問題が噴出したが、世論調査では支持の方が多かった。そのことが「首相の成功体験」になっているんだという。その後の「全国民マスク配布」など、側近の進言だけで突然発表していくきっかけになったらしい。ではその「全国一斉休校」は意味があったのだろうか

 専門家会議はどう評価したのか。脇田隆字国立感染症研究所長は4月2日に「(一斉休校は)国民にコロナに対する対策を呼びかけるという意味ではかなりのインパクトがあった」と述べた。これは「社会衛生的には意味はなかった」ということを婉曲に表現しているんだろう。単に「呼びかけ」でしかなかったのである。しかし、世の中には「これで子どもたちが守られた」と評価する意見もある。

 それは明らかに間違いでだ。3月初期段階では、感染者がいない地域も多かったし、特に小学生などは行動範囲が狭いから、親か教職員からしか移らない。そして、この段階では学校教職員の感染事例は起こらなかった。もう3学期も終わろうという時期だから、中高ではテストをやって、残りは学校行事が中心だ。高校ではよく「卒業遠足」として東京ディズニーランドに行ったりするが、2月末から休園したからそれは不可能。その時点ではテストなど学年末のまとめだけをやって、卒業式を除く行事は原則的に中止するよう求めれば十分だった。学校現場では誰でもそう思っていただろう。

 2月末時点で突然首相が学校休校を言い出したのは、明らかに「五輪実施」のためだっただろう。その時点では欧米のパンデミックは起こってなかったのである。その時点で取るべきだった対策は、欧米からの帰国者「一時的滞在施設」を確保にすることだった。3月末になって、日本でも急激に感染が広がったが、それは欧米由来のウイルスだったことが証明されている。その頃文科省は4月からの学校再開を目論んでいた。しかし、「緊急事態宣言」で学校は再び休校に追い込まれたわけである。

 しかし、不思議といえば不思議と言えるが、全国に緊急事態宣言が拡大された後も、全国には休校していない学校がある休校しているのが94%だというから、6%の学校は開いているのである。これは全く当然のことで、全国それぞれの地域で感染状況は異なっている。離島も山間部も一斉に休校させた2月末の要請の方がおかしかった。東京も全国で一番感染者数が多いといっても、島部(伊豆、小笠原諸島)では一人も感染者がいない。そこを休校にする意味が判らない。

 「自ら学ぶ力」と言いつつ、学校現場では「自ら考えてはいけない」のだろう。最近の新聞を見ると、新型コロナウイルスによる犯罪や自殺、倒産、失業などのニュースが目立ってきた。中には若い世代による犯罪もある。「自粛警察」などと言われる他者への攻撃も伝えられる。日本社会の中に「持ちこたえられない部署」が現れているのだ。この事態があと一月もすれば、特に子どもたちに取っては取り返しが付かないダメージになりかねない。
(文科省の学校再開方針)
 文科省でも再開方針を出した。「分散登校」として、小学校1年小学校6年中学校3年を優先するという。それは納得できるが、新しく始まる中学校1年も同様に重要だ。中高一貫校(中等教育学校)や小中一貫校(義務教育学校)も増えているが、その場合はどうするのか。高校大学には触れていないが、そっちはどうなのか。高校でも夜間定時制の場合はどうなのか。それらは細かく文科省に指示されるんじゃなくて、学校現場で知恵を出していかなければならない。
(学校再開方針を示す萩生田文科相)
 「感染者ゼロ」にならないと経済活動を再開できないとなると、多くの人の生活が破壊されてしまう。そもそも「ゼロ」を求めるのは「リスク」という概念に合致しない。仮に「感染リスクゼロ」だったとしても(それは2019年までの生活だが)、「登校中の交通事故リスク」はゼロではなかった。「いじめ」や「学校事故」のリスクがあっても学校は開いていた。そもそも人生には多くのリスクがあるものだ。4月以後、学校関係者にも何人かの感染者が出ている。しかし教員間で集団感染が発生はしなかった。その事からも学校は部分的に再開に向けて対策を講じていくべき時期だ。長くなっているのでここでは総論で切って具体論は別に書きたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「9月入学」は「コロナ・レガシー」なのか?-「9月入学論」への疑問②

2020年04月30日 16時57分59秒 |  〃 (教育行政)
 「[『9月入学』論への4つの疑問」という記事を書いた。これは「実務的」的な困難さを指摘する意味で書いたんだけど、 世の中には「9月入学、それもいいのでは」みたいな感想がけっこうあるようだ。安倍首相も国会で「前広で議論していく」なんて答弁した。「前広」(まえびろ)って何だ? 聞いたことないけど、一発変換できるから元からあるのか。ある種の「永田町用語」なんだろう。

 全国の知事の中には「コロナ・レガシー」などという言葉を使って「9月入学」を推進する人までいる。今多くの大学生が「学費を払えない」「アルバイトが無くなった」「帰省もできない」という状況に追い込まれている。一部調査によると、退学せざるを得ないと考えている人も2割に上るとか。今緊急に対策を考えるべき教育問題は、そちらじゃないのか。図書館も閉まっていて勉強も出来ないのに、大学のある都市部から故郷に帰ってくるなとまで言われているのである。
(知事たちの主張を紹介するテレビ番組)
 何でも安倍首相は「緊急事態宣言」を大幅に延長する意向とか。思い起こしてみれば、3月には緊急事態宣言は不要といい、宣言に踏み切った時も7都府県に絞って、当初は休業要請は2週間様子を見てとか言っていた。それが最終的には全国に緊急事態を宣言せざるを得なくなり、今度はそれもまた大幅に伸びるという。初めから短距離走とは思ってないけど、それにしてもハーフマラソンかと思って走っていたら、突然フルマラソンに変更すると言われ、もしかしたら100キロマラソンになるのかも…となっては安倍内閣の対策が厳しく問われるべきところだ。

 ところが突然の「9月入学」論議。今はますます大変になる自営業などへの支援策に専念するべき時期なんじゃないだろうか。大体「コロナ・レガシー」って、それは本来オリンピックだったはずだ。「人類がウイルスとの戦いに勝った証」とか言ってたじゃないか。コロナウイルスが案外長引く、年末からまた広がるといった観測も多くなり、果たしてオリンピックは実施できるのかという意見も多くなってきたように思う。僕は今回の首相の「前広発言」はうすうす五輪中止を覚悟し始めた「証」なのではないかと思う。「北朝鮮のミサイル」みたいな、議論を他にそらす論点を必要とし始めたのである。

 それはともかく、ニュースなどで見ている限り、一番重要な「義務教育開始年齢を遅らせるのか」を指摘する声がない。遅らせないんだったら、4月から8月生まれの子どもを小学校に受け入れなければならない。それが「義務教育」の意味である。幼稚園はその年だけ、特別に早期卒園させるしかない。私立幼稚園の経営にも影響しそうだが、幼稚園は義務じゃないんだからやむを得ない。そうしない限り、義務教育の開始を5ヶ月遅らせることになる。「幼稚園の義務化」という議論もあるが、それでも初等教育の開始を遅らせることには変わりない。

 議論していけばポシャるに決まってる「9月入学」だと思ってるが、世の中には倒錯した議論が横行している。学年が会計年度をまたぐことになるから、「会計年度を変える必要がある」などという意見もあった。会計年度は教育のためにあるわけじゃない。国家の制度設計全てを変更することになるから、会計年度を変えるなんてすぐに出来るはずがない。準備期間は少なく見積もっても5年必要だろう。まだ実社会に出ていない高校生だったら、実務的論点に見落としがあっても仕方ないが、世の中のリーダーである首相や知事などがすぐに出来るはずもない議論をしたがるのは困ったもんだ。
 
 そもそも「欧米の入学時期に合わせる」という発想に問題がある。「世界標準」だとか「留学しやすい」とか言っても、要するに今の大学4年生(普通の4年生大学の場合)、高校3年生(全日制高校の場合)の「卒業を4ヶ月延ばす」(卒業式を3月から7月に変更するとして)ということである。その間の授業料や生活費は誰が負担するんだろう。大学生どころか、高校生にも退学せざるを得ない人が出てくるのは予想される。「留学に都合がいい」というのは「エリートの発想」であって、現実には「早く社会に出て働かないといけない」という大学生、高校生の方がずっと多いはずだ。

 与野党ともに政治家はほぼ大学卒であって、留学経験も豊富な人が多い。官僚やマスコミ関係者も同様だと思うが、それは国民の実態を反映していない。国民の半数は大学へ行かないし、大学へ行っても大部分は留学はしないだろう。もっと留学した方がいいという議論は出来るが、国費で全額面倒を見るならともかく、経済的に無理な人が多いだろう。多額の奨学金を背負って、アルバイトしながら学費を工面している学生には、留学の都合よりも早く卒業出来る方が優先するに決まってる。

 いつもは「日本スゴイ」「日本第一」みたいに言ってる政治家たちが、突然「欧米に合わせよ」などと言い始めたのも奇怪である。その欧米も学校は休校しているわけだが、欧米では入学時期を変えるのか。変えずにやっていけるんなら、そっちのやり方を「欧米に合わせる」でもいいはずだ。入学時期だけ「欧米に合わせる」んじゃなくて、「全ての高校を単位制にする」とか「義務教育でも落第制度を設ける」とか内容面、質的な面で合わせることを議論する方がずっと有益だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「9月入学」論への4つの疑問

2020年04月28日 20時37分04秒 |  〃 (教育行政)
 全国のほとんどの学校が新型コロナウイルス休校を強いられている。最初に緊急事態宣言が出された7都府県の場合、入学式も出来ないままになっている学校が多い。そこでこの際「9月入学に移行してはどうか」という意見が出てきた。教育行政や国会議員だけでなく、教員や生徒の一部にも賛同する意見があるらしい。検討するのはいいけれど、僕はこれはなかなか難しいと考えている。

 ただし、完全に単位制である大学の場合はまた別で、前後期制の前期・後期を入れ替えれば可能だろう。欧米諸国に合わせれば留学の便がよくなるのは間違いないので、考えてもいいと思う。人によって単位取得状況によって秋卒業だけでなく、3年半または4年半かけて春卒業という選択肢も出来る。しかし、初中等教育の場合は、問題が山積していると考えている。
(「選択肢の一つ」と述べる萩生田文科相)
 9月入学が難しい理由は幾つもあるが、まずその第1は「議論が出来ない」という「形式的理由」。学校は単に学習の場というだけでなく、保護者就職先の経済界塾・予備校等の民間教育産業行事・部活等の関係業界など多くのステークホルダー(利害関係者)がある。国民全員が学校に通った経験があるから、情緒面も含めて議論百出になるだろう。本来それらの意見を丁寧に聞いて判断すべきだが、今は会議そのものが開けない。時間の関係で、中央教育審議会への諮問・答申も難しい。そんなことはどうでもいいのかも知れないが、政治主導で拙速に決めてしまっていいことなのか

 第2は「4月から8月生まれの子どもたちをどうするか」である。多分多くの人は「9月入学」と言われたら、4月入学の生徒たちがそのまま9月入学になると思うだろう。中学や高校の場合は当面そうなるわけだが、小学校の場合はどうするんだろう学校教育法には「保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」(第17条)だから、4月から8月生まれの子どもたち(細かくいえば4月2日~9月1日生まれ)は、小学校に入学させなければならない。保護者には行かせる義務がある。
(9月入学を検討する国民民主党)
 今年は特例で4月入学予定の子どもだけ受け入れたとしても、来年からは「1学期生まれの子どもたち」を小学校に受け入れる必要がある。幼稚園は義務じゃないんだし、「同年代集団」(年度末には同じ年齢になる)を維持するためにはその方がいい。子どもたちの発達は日々進んでいくわけで、初等教育を始める年齢を遅らせるという政策は疑問だ。わざわざ法改正してまですることじゃない。

 だがそうなると、ある年の小学1年生の数が4割ぐらい増大することになる。それが学年進行で上の学年に移行していく。その分、一学年のクラス増、教員増が必要だが、その膨大な予算増加は可能なんだろうか。全国ほとんどの学校で1クラス、または2クラス増えるから、その担任分の教員増になるのである。また、その学年の生徒たちは、受験・就職が難しくなるだろう。それをわざわざ望む生徒・親はいないだろうが、じゃあ、法律を改正して、小学生の定義を「満六歳五ヶ月」と変更するべきなのか。

 第3は「学校予算が学年途中で途切れる」ことである。公立学校は地方自治体が設置しているが、地方自治体は4月から3月が「会計年度」である。そっちは変わらないわけだから、学年途中で会計年度が変わることになる。これでは計画的な学校経営は難しくなってしまう。予算は年間計画に基づき執行されるわけで、例えばオンライン授業を進めるICT機器整備などは、額が大きいから事前に計画されている。(景気対策特別事業とかいって、突然予算が下りてくることもあるが。)9月入学になれば、当然学校の人事異動も9月1日付になる。誰が翌年に残るか全然判らない段階で、学年開始直後に翌年(4月から次学年の3月まで)の予算請求を書くのはとても困難だ。

 第4は「私立学校への補助金増」である。世界的に感染者増で学校が閉鎖されている。学校で集団発生が発生したことは少ない(あることはある)が、学校は自営業者と違って補償を求められないから閉めやすいんだという。生徒も保護者も学校に単なる利潤目的で行くわけではない。「学校に在籍する」ことが意味を持つんだから、授業がないだけで政府に補償を求める不利益が生じたとは言いにくい。(完全に単位制で、学費も高額な大学は別。)公立学校の教員も公務員だから、身分は保証される。

 しかし、私立学校の場合はどうだろう。私立学校にも今では多くの公費が投じられている。私立高校の学費も多くの都道府県では(全部かどうかは知らない)公費で補助されている。(所得制限はある。)しかし、来年の9月にならないと次の新入生(新学生)が入ってこない。公費の補助は「学年ごと」だろうから、来年4月から9月までの私立学校(大学から小学校まですべて)は生徒の学費分が入ってこないことになる。それでも教員の人件費や施設運営費はかかる。それを特別に公費で補填しない限り、経営的に行き詰まる私立学校も出てくるんじゃないか。

 以上が主な理由だが、財政上の困難が大きい。お金の問題だからよほのメリットがあれば何とか工夫するべきだろうが、そこまでのメリットはあるだろうか。その他、多くの問題も起こってくる。例えば、公務員が60歳定年とすると(近年定年延長も検討されている)、教員の場合は学年途中ではなく「学年末で60歳」の人が定年退職になる。だから誕生日によっては、ほとんど61歳まで勤める。しかし、9月入学に変わると、4月から8月に誕生日が来る教員は今年8月で突然定年なんだろうか。今年は特例が認められるかもしれないが、やがて変更されるのか。人生設計に大きく影響する。

 今年の学校生活はコロナウイルスにより大きな影響をうけてしまった。学習面もだが、今後夏休みも短縮され、出来なくなる学校行事も多いだろう。春の選抜野球や夏のインターハイも中止になってしまった。今後もいろんな行事が中止になるだろう。あまりにも可哀想だと誰もが思っている。9月入学に変更することで、もっと余裕を持った学校生活が可能になる。小学校入学が5ヶ月遅れたとしても、大学生にもなれば浪人、留年、社会人入学などは珍しくもないから何とかなるとも言える。

 しかし、学校の本質は単に教科学習にだけあるのではない。行事を精選しながらも、充実した共同体験を積み重ねることで、今年の学校生活も有意義なものに出来ると思う。実際に1学期が全部休校にでもなれば別だが、今のところ残された期間をいかに有意義なもののするかを考えた方がいいと思う。もちろん、入学試験、就職試験などは大胆な配慮が必要だ。(それにしても「大学入試への英語民間試験導入」を潰しておいて本当に良かった。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教職の尊厳回復への道ー教員労働問題③

2019年12月05日 23時16分46秒 |  〃 (教育行政)
 3回も書くつもりじゃなかったんだけど、「教員の超過勤務をどう考えるか」問題の本質を書ききれない。最後のいくつかのポイントを提示して一端終わりにしたい。

 上の写真は文科省前で「英語民間テスト導入」に反対運動をした高校生や大学生などの若者たちである。なんで再びこの問題の写真を載せるのか。高校生ながら自分たちの声を届けようと動いた人もいた。そのことを、大人である教員が考えないといけないと思うからだ。自分たちの労働にあり方について、「どうせ何を言っても変わらない」「何も通じない」と何十年も続く「猫の目教育行政」に振り回されて、ほとんどの教員は何も言わなくなってしまった。いつまでもそれでいいのだろうか。

 確かに「声を挙げれば目を付けられる」し、「自分の身を守るだけで精一杯」と思う人も多いだろう。だが文科省だって「アクティブラーニング」を唱える時代だ。まあ安倍首相や管官房長官の「桜を見る会」問題の国会答弁を聞けば、「ちゃんと議論はしない」「追求をはぐらかす」ことを目的とした言語の使い方をしている。ディベートだのアクティブラーニングは日本社会では不要だという強いメッセージを発している。そういう国で生きているわけである。だからといって、教師たちが自分たちの労働条件の大きな変更にも、ただ決まったことに従うということでいいわけがない。

 マスコミでは、最近は「いじめ調査」等の調査・報告が多くなって現場は忙殺されているというような報道がよくなされる。もちろんそういう報告などは実際に多くなっていると思う。教育委員会からメールで送りつけてきて、添付ファイルで報告する訳だから、昔より簡単に送ってくるんだろう。それに情報公開請求による新しい報告事項も多い。だけど、いくらそういう調査類が多くなったとしても、そんなに残業が多くなるはずがない。部活動や宿泊行事、生徒指導なども多いと思うが、これは昔もあったことだ。21世紀になって、特に超過勤務が激しくなる理由はどこにあるのか。

 それは「教職の尊厳」を失わせるような政策がずっと行われていることにこそ原因がある。「忙しい」のも間違いないが、それ以上に「無意味なことに振り回される」「仕事がつまらない」のだと思う。どんなに忙しくても(もちろん限度はあるが)、それが真に生徒の向上に役立つような仕事なんだったら、忙しくて疲れるだけでなく、社会的に意義ある仕事をしているという「使命感」「充実感」も得られるだろう。そして昔はそういう仕事は多かったし、今も「文化祭」や「修学旅行」のために努力する仕事は「疲れるだけでなく楽しい」ものでもある。

 まあ「楽しい」と言えるのは、うまく行ってるクラスや学年の場合かもしれないが。自分はすべての担当学年で旅行行事を担当したけど、それは「楽しい仕事」だった。だが(自分が所属した東京都で行われているような)「自己申告書」に基づく教員の勤務評価システムのための膨大な書類作りなんかは、ニンジンを鼻先にぶら下げて教員どうしを競争させ昇給に使うわけで、「これが教育か」と思う書類仕事だ。(都教委側では、そういう人事制度が民間では当たり前だとか言うわけである。)他にも山のように、20世紀にはなかった「書類のための書類作り」(例えばアリバイ的に情報公開で問題化しないように発言をうまくまとめた「○○委員会議事録」作成など)が多いのだ。

 生徒に関わることでも小中では「全国学力テスト」があって、その成績を学校や教員の評価に使いたいと公言する知事や市長がいる。どうなってるんだ。大変な学校で大変な苦労をしている教員こそ、評価を上げるべきだろう。そのため「過去問」特訓をやったりするらしい。それでは本末転倒だ。そういう「競争的教育政策」のために、教員の仕事も変質し、事務仕事も増えてしまう。60年代に行われた学力テストは、教員組合の大きな反対運動で数年で中止になった。今は組合がほとんど力を失ってしまって、中止に向けた運動も行われない。それどころか、「競争意識」を内面化させてしまったような若手教員もいるんじゃないか。
(全国学テを前にした大阪府枚方市の学校)
 このような「教育」の意味の変容の中で、教師にとっては「自らの尊厳のはく奪」が進行してきた。「教員免許更新制」はその代表的な例だ。「無意味な仕事」「つまらない仕事」をやらされていると、疲労感は倍増するだろう。社会のあり方も大きく変わり、教育も大きな変化を避けられない。マジメな議論は歓迎だが、今回の「英語民間テスト問題」のように、思いつき的な発想と結果的に中止といった事態は文科省の教育政策に振り回される教員に頑張る意欲を失わせる。

 部活動などは別に考えなければならない問題だが、今回の「教員の変形労働時間制」では「労働時間」という量しか問われない。しかし教育のような仕事においては、量以上に「労働の質」を問わないといけない。労働内容の無意味化を何とかしないといけない。競争的教育政策の転換に向け、どのような反転攻勢ができるだろうか。今考えるとしたら、それこそが大きなテーマだと思う。もちろん、教員に限らずどんな仕事でも「労働の尊厳」が保証されなければいけない。しかし生徒が卒業後に就職する会社などを聞いても、尊厳が守られていない会社が多い。教員が行うべきことは、自分の仕事の量と質を問うことから始まって、生徒や保護者の労働をも問い続けていくことだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする