最近映画の話が多かったけど、本当は自分のことを書きたいと思っていた。この3月31日が本来の「定年」で、ようやく「5年間生き延びた」という感じがする。もっとも「教員免許更新制」がなかったとしても、自分が定年まで勤めたとは思えないのだが。本当は4月からブログもリニューアルするつもりだったのだが、なかなか時間が取れない。とりあえず先延ばしということになりそうだ。
その前に、今日は「らい予防法」廃止から20年ということを書きたい。長くハンセン病患者の「隔離」を定めていた「らい予防法」は、1996年4月1日をもって廃止された。しかも、単に廃止されたり、別の法律ができたというのではなく、「らい予防法の廃止に関する法律」という「廃止法」を新たに作るという方法が取られた。そこに至るまでには、多くの人々の尽力があったが、ここでは書かない。
僕の時代には「らい病」(ハンセン病)は、もう身近な病ではなかった。だから、「ハンセン病差別」というものも、実体験にはない。僕は日本史を専攻していたから、自分の専門とは言えないけれど、差別や在日朝鮮人、アイヌ民族などの差別は(多かれ少なかれ)知識はあった。だが、「らい病」という問題意識はほとんどなかったと思う。意識するようになったのは、1980年に韓国のハンセン病定着村でのワーク・キャンプに参加したからである。翌年冬に韓国人学生が来日し、一緒に長島愛生園や邑久光明園を訪問した。東京都東村山市にある多磨全生園を初めて訪問したのはいつだったか忘れたが、なんにせよキャンプ関係の人脈で行ったはずである。
そんな中で療養所の存在根拠となっている「らい予防法」を知ったわけだが、最初の時から「この法律は憲法違反」だと思っていた。だったら廃止運動をすべきなのだが、時間がないとか、一人ではできないといった問題ばかりではなく、非常に難しい問題があった。それは根拠法である「らい予防法」がなくなると、同時に国家による療養所政策が維持されるのか、それを誰が保障できるのかという問題である。福祉に冷淡で、予算削減ばかり迫ってくる自民党が政権にあって、果たして従来より生活環境が悪くならないと誰が言えるか。園内の入所者にはそういう心配が多かったのだろうと思う。(廃止当時は「自民・社会・さきがけ」による橋本龍太郎首相で、厚生相は「さきがけ」から出た菅直人だった。)
しかし、世の中は変わる時には変わる。国会では全会一致で「らい予防法廃止」が成立した。療養所の体制も基本的に維持されることとなった。その後の展開は必ずしも「維持」とばかり言ってられない実情もあると思うが、ハンセン病は「国家の過ち」という認識は共有されていった。その後、熊本、岡山、東京で「国賠訴訟」(国家賠償請求訴訟)が提起され、2001年5月11日に熊本地裁で勝訴判決が下った。僕も東京地裁での公判は大体傍聴したし、草津の楽泉園での実地検証も参観した。だから、国賠訴訟の支援運動には参加したわけだが、本当は法廃止に向けての運動もするべきだった。
「予防法」廃止後に、FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が主催して、大阪で記念集会が開かれた。FIWC関東委員会で活動していた筑紫哲也さん、関西委員会で活動していた徳永進さん(医者でありエッセイスト)、多磨全生園自治会長(当時)の森元美代治さんなどが講演して感銘深い集会となった。東京からもたくさん駆けつけ、僕も車を提供したと思う。東京でも是非同じような集会をやろうと盛り上がり、自分が責任者となって1997年6月に集会を行った。(その話はそれ以上書かない。)当時、東京の主な会館を総当たりして、空いていた九段会館で行ったのだが、その日に大震災が起きなくて本当に良かったと思う。今思うのはまずそのことである。
退職して後には全国のハンセン病療養所を訪ねて行きたいと思っていたのだが、国立13療養所中で8つしか行ったことがない。それどころか、毎年最低一回は行きたいと思っていた多磨全生園にも昨年は行かなかった。自宅から2時間近い距離が、年取ると負担感が大きいのである。情けないけど。でも、それはそれとして、ずっと自分なりに関心を持ち続けたいと思っている。
廃止当時から皆言っていたが、この廃止は20年、いや30年遅かった。廃止されたからと言って、入所者の高齢化が進んでいて、今さら郷里に戻るとか、社会で働くなどできない人が多かった。それでも社会に戻った人もいるけれど、やはり住み慣れてしまい知人も多い療養所で年老いる人がたくさんいる。それを最後まで「見守る」ことが重要なんだと思う。
一方、法の字面だけ見て、1996年3月までは「絶対隔離」が続いていたかのように書く人もでてきた。国賠訴訟以後に問題を知って、関わり始める人もいるわけだから、昔はさぞ大変だったろうと思うのだろう。しかし、われわれが園内を訪れることも、また入所者が外へ出かけることも、80年代には園に断りなくできた。僕も昔から生徒を引率して訪れたことが何度もあるが、園に届け出もしないし、また学校の管理職にも断らなかった。(外部引率に校長名で起案した書類がいるんだなどと言われるようになるのはずっと後の事である。そんな面倒があるなら、誰も外部見学など企画しなくなる。)自由に入所者の家に行けたし、外部との交流もできた。だけど、やはりお互いに「心の奥底に隔離政策の影が差していた」ということである。そのことの意味、重みを正確に伝えるのは、僕には難しい。
今の時点で提起されている大問題が二つある。一つは「家族訴訟」である。20年で民事時効が成立するので、一応「らい予防法」廃止時点が起点となるとするなら、今後ハンセン病に関わる国家賠償訴訟はできない。今回提起されている「家族の被害」は非常に重大な問題だと思う。もう一つは、31日の夕刊各紙に出ているが、ハンセン病療養所での「特別法廷」の問題である。入所者の指摘を受けて、最高裁が一昨年来検証を続けてきた。昨年度にも出ると言われていた報告は、延びに延びて2015年度にも出されなかった。それだけきちんと検証しているんだと思いたいが、どうも配慮に配慮を重ねている可能性もある。憲法では「特別裁判所」は禁止されている。ハンセン病療養所入所者の関わる裁判だけが、療養所内の「特別法廷」で裁かれている。これはおかしいのではないか、事実上被告人の弁護権も制限されはしないか。そこに裁判官の先入観が入らなかったと言えるか。それが「憲法違反」だとするなら、死刑判決を受け1962年に執行された菊池事件の見直しにも直結するかもしれない。非常に重大な問題なので、今後も書いていきたいと思う。
その前に、今日は「らい予防法」廃止から20年ということを書きたい。長くハンセン病患者の「隔離」を定めていた「らい予防法」は、1996年4月1日をもって廃止された。しかも、単に廃止されたり、別の法律ができたというのではなく、「らい予防法の廃止に関する法律」という「廃止法」を新たに作るという方法が取られた。そこに至るまでには、多くの人々の尽力があったが、ここでは書かない。
僕の時代には「らい病」(ハンセン病)は、もう身近な病ではなかった。だから、「ハンセン病差別」というものも、実体験にはない。僕は日本史を専攻していたから、自分の専門とは言えないけれど、差別や在日朝鮮人、アイヌ民族などの差別は(多かれ少なかれ)知識はあった。だが、「らい病」という問題意識はほとんどなかったと思う。意識するようになったのは、1980年に韓国のハンセン病定着村でのワーク・キャンプに参加したからである。翌年冬に韓国人学生が来日し、一緒に長島愛生園や邑久光明園を訪問した。東京都東村山市にある多磨全生園を初めて訪問したのはいつだったか忘れたが、なんにせよキャンプ関係の人脈で行ったはずである。
そんな中で療養所の存在根拠となっている「らい予防法」を知ったわけだが、最初の時から「この法律は憲法違反」だと思っていた。だったら廃止運動をすべきなのだが、時間がないとか、一人ではできないといった問題ばかりではなく、非常に難しい問題があった。それは根拠法である「らい予防法」がなくなると、同時に国家による療養所政策が維持されるのか、それを誰が保障できるのかという問題である。福祉に冷淡で、予算削減ばかり迫ってくる自民党が政権にあって、果たして従来より生活環境が悪くならないと誰が言えるか。園内の入所者にはそういう心配が多かったのだろうと思う。(廃止当時は「自民・社会・さきがけ」による橋本龍太郎首相で、厚生相は「さきがけ」から出た菅直人だった。)
しかし、世の中は変わる時には変わる。国会では全会一致で「らい予防法廃止」が成立した。療養所の体制も基本的に維持されることとなった。その後の展開は必ずしも「維持」とばかり言ってられない実情もあると思うが、ハンセン病は「国家の過ち」という認識は共有されていった。その後、熊本、岡山、東京で「国賠訴訟」(国家賠償請求訴訟)が提起され、2001年5月11日に熊本地裁で勝訴判決が下った。僕も東京地裁での公判は大体傍聴したし、草津の楽泉園での実地検証も参観した。だから、国賠訴訟の支援運動には参加したわけだが、本当は法廃止に向けての運動もするべきだった。
「予防法」廃止後に、FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が主催して、大阪で記念集会が開かれた。FIWC関東委員会で活動していた筑紫哲也さん、関西委員会で活動していた徳永進さん(医者でありエッセイスト)、多磨全生園自治会長(当時)の森元美代治さんなどが講演して感銘深い集会となった。東京からもたくさん駆けつけ、僕も車を提供したと思う。東京でも是非同じような集会をやろうと盛り上がり、自分が責任者となって1997年6月に集会を行った。(その話はそれ以上書かない。)当時、東京の主な会館を総当たりして、空いていた九段会館で行ったのだが、その日に大震災が起きなくて本当に良かったと思う。今思うのはまずそのことである。
退職して後には全国のハンセン病療養所を訪ねて行きたいと思っていたのだが、国立13療養所中で8つしか行ったことがない。それどころか、毎年最低一回は行きたいと思っていた多磨全生園にも昨年は行かなかった。自宅から2時間近い距離が、年取ると負担感が大きいのである。情けないけど。でも、それはそれとして、ずっと自分なりに関心を持ち続けたいと思っている。
廃止当時から皆言っていたが、この廃止は20年、いや30年遅かった。廃止されたからと言って、入所者の高齢化が進んでいて、今さら郷里に戻るとか、社会で働くなどできない人が多かった。それでも社会に戻った人もいるけれど、やはり住み慣れてしまい知人も多い療養所で年老いる人がたくさんいる。それを最後まで「見守る」ことが重要なんだと思う。
一方、法の字面だけ見て、1996年3月までは「絶対隔離」が続いていたかのように書く人もでてきた。国賠訴訟以後に問題を知って、関わり始める人もいるわけだから、昔はさぞ大変だったろうと思うのだろう。しかし、われわれが園内を訪れることも、また入所者が外へ出かけることも、80年代には園に断りなくできた。僕も昔から生徒を引率して訪れたことが何度もあるが、園に届け出もしないし、また学校の管理職にも断らなかった。(外部引率に校長名で起案した書類がいるんだなどと言われるようになるのはずっと後の事である。そんな面倒があるなら、誰も外部見学など企画しなくなる。)自由に入所者の家に行けたし、外部との交流もできた。だけど、やはりお互いに「心の奥底に隔離政策の影が差していた」ということである。そのことの意味、重みを正確に伝えるのは、僕には難しい。
今の時点で提起されている大問題が二つある。一つは「家族訴訟」である。20年で民事時効が成立するので、一応「らい予防法」廃止時点が起点となるとするなら、今後ハンセン病に関わる国家賠償訴訟はできない。今回提起されている「家族の被害」は非常に重大な問題だと思う。もう一つは、31日の夕刊各紙に出ているが、ハンセン病療養所での「特別法廷」の問題である。入所者の指摘を受けて、最高裁が一昨年来検証を続けてきた。昨年度にも出ると言われていた報告は、延びに延びて2015年度にも出されなかった。それだけきちんと検証しているんだと思いたいが、どうも配慮に配慮を重ねている可能性もある。憲法では「特別裁判所」は禁止されている。ハンセン病療養所入所者の関わる裁判だけが、療養所内の「特別法廷」で裁かれている。これはおかしいのではないか、事実上被告人の弁護権も制限されはしないか。そこに裁判官の先入観が入らなかったと言えるか。それが「憲法違反」だとするなら、死刑判決を受け1962年に執行された菊池事件の見直しにも直結するかもしれない。非常に重大な問題なので、今後も書いていきたいと思う。