堤清二氏が亡くなった。残念である。僕は昔から関心があり、読んでも来たが、大著の代表作「父の肖像」があまりにも分厚くて、読み始めで停まっている。いずれ詳しく書きたいと思い、今手元に「叙情と闘争」(中公公論新社、2009)があるが、読んだ後に片付けずパソコンの近くに置いてある。この本は非常に面白い本で、戦後の文化、政治、経済を横断する驚くべき挿話がたくさん詰まった「辻井喬+堤清二回顧録」(副題)である。
堤清二が経営者として70年代にいかに輝いていたのか、今では当時を知らない人には絶対に判らないだろう。それは上野千鶴子と辻井喬の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)などを読めば、ある程度伝わるかもしれない。あるいはパルコにいた三浦展(「下流社会」の著者)と上野千鶴子の対談「消費社会から格差社会へ」(ちくま文庫)も参考になる。間違って「一億総中流」などという人もいた、それが一見確かな感じにも見えた70年代から80年代、経済で言えば「石油ショックからバブル崩壊まで」、思想、事件で言えば「連合赤軍からオウムまで」の時代は、「セゾン文化の時代」と言っても良かった。少なくとも東京の都市小ブルジョワ青年の多くには。
当時、西武百貨店を中心としたセゾングループは、日本最大の流通グループだった。「西武」というイメージは極めて都会的でオシャレなものと感じられていた。もともと池袋の小さな百貨店だったわけだが、やがて大きくなり、1968年に渋谷に進出した。パルコを作り、文化戦略を進め、1975年には池袋店を大幅に改装、西武美術館を開館した。それらは堤清二のイメージと共に語られ、少壮実業家として盛名をほしいままにしていた。僕はこの人を意識せざるを得なかった。なぜなら、そうやって大きくなった西武デパートがある池袋の大学に通い、美術館の隣にある「アール・ヴィヴァン」というアートショップにほとんど毎日のように行っていたからである。しかし、それだけではない。実は父親が東武であり、僕自身の買い物はほとんど東武デパートへ行っていた。(だから僕は西武デパートで買ったことは、アール・ヴィヴァン以外ではほとんどないと思う。)やがて東武デパートも大改装するときが来るが、どうしても「ファッショナブルな西武」を意識せざるを得なかったのである。そういう個人的な事情もある。
だから、見田宗介、大澤真幸の言う「虚構の時代」を象徴するような堤清二氏が亡くなり、個人的にも「ひとつの時代の終り」という感が深い。この堤清二という人は、衆議院議長を務めた堤清次郎の二男で、横暴な父に対する反発もあり、東大時代には学生運動に熱中し、共産党にも入党している。これは有名な話だが、結局「50年問題」で東大細胞そのものが解体され、だから離党も除名もなく、そのまま党を離れたのである。というか結核で闘病生活に入ることになる。そのうち、父の秘書になり、父から百貨店を任され、アメリカに行って流通業界の近代化に目覚める。それだけでもすごく面白い話がいっぱいあるわけだが、堤清二の場合そんな経営者としての生を成り立たせるために、「詩人」を続けていくしかない自我を持ち続けていたのである。
その頃の自伝的小説も結構読んだが、僕はあまり面白くなかった。やはり自分を語るのは難しい。他人を語る「評伝作家」として、この人は大成していく。芸術院会員、文化功労者になったわけだから、詩人、作家は全然余技ではない。戦後日本を代表する作家のひとりなのである。谷崎賞の「虹の岬」や「終わりなき祝祭」などが僕には忘れがたいが、読んでない本が多いので本格的な作家論は書けない。
映画をよく見てきて、やがてミニシアターブームが起こり、アートシネマを見て過ごす時代になった。そのかなりは「セゾン系映画館」で見た。そういうものがあったのである。多くはセゾングループ解体後テアトル系になり、やがて閉館してしまった。渋谷の道玄坂プライムにあった「シネセゾン渋谷」は、フェリーニの「そして船はいく」が開館公開作、六本木の「シネヴィアン六本木」(ヒルズ建設で無くなってしまった)はゴダールの「パッション」が開館公開作。演劇でも渋谷パルコに「PARCO劇場」が作られ、セゾン文化の発信拠点になった。池袋西武には「スタジオ200」という小施設も作られ、四方田犬彦氏がよく書いてるが、韓国映画連続上映はここで行われ、韓国映画の発見につながった。(僕は故谷川雁の「十代の会」がやった宮沢賢治の劇をここで見た。)僕が疑問に思ったのは、錦糸町に西武が進出し、「キネカ錦糸町」という映画館が出来、堤清二がソ連に行って文化交流協定を結んだ後に「ソビエト映画専門館」を称した時である。僕は80年代半ばに結婚して錦糸町に住んでいた時があり、このいつも空いてる映画館では結構見ているが、いくらなんでもこれは無理だろう。
やがてバブルが崩壊し、セゾングループは解体された。堤氏は私財を投げ出し、財界活動から引退した。その引き際は鮮やかとも言えたが、語れない部分が最後まで残ったのではないかと思う。西武デパートも西友も今でもあるけれど、それぞれ違う資本のもとに入って名前だけ生き延びた。セゾンが解体されただけでなく、それは80年代の「おいしい生活。」「不思議大好き」の時代の終焉でもあった。まさに「消費社会から格差社会へ」、世の中は移り変わったのである。セゾン系映画館として作られた映画館も、東京南部の大森にある「キネカ大森」だけが生き残っているだけである。
ところで、堤氏は辻井喬の名前で、近年になって社会的活動を活発化させていた。例えば「マスコミ九条の会」や「脱原発文学者の会」に参加し、教育基本法改正に反対した。いわば「最後の進歩的文化人」を意識して引き受けているのではないか、最後の最後の「戦後的価値感」を守る活動を始めたのかという印象もあった。広く評価された大平正芳の評伝を書いたように、むしろ「穏健保守の再評価」「体制内リベラル」の復権というべきかもしれない。僕はこれからこそ堤清二という人の存在が大切になるのではないかと思っていた。そういう意味で、僕にはとても残念な訃報である。
「叙情と闘争」の最後には、あとがきに替えて詩が載せられている。
もの総て/変りゆく/音もなく
思索せよ/旅に出よ/ただ一人
鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凜と
堤清二が経営者として70年代にいかに輝いていたのか、今では当時を知らない人には絶対に判らないだろう。それは上野千鶴子と辻井喬の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)などを読めば、ある程度伝わるかもしれない。あるいはパルコにいた三浦展(「下流社会」の著者)と上野千鶴子の対談「消費社会から格差社会へ」(ちくま文庫)も参考になる。間違って「一億総中流」などという人もいた、それが一見確かな感じにも見えた70年代から80年代、経済で言えば「石油ショックからバブル崩壊まで」、思想、事件で言えば「連合赤軍からオウムまで」の時代は、「セゾン文化の時代」と言っても良かった。少なくとも東京の都市小ブルジョワ青年の多くには。
当時、西武百貨店を中心としたセゾングループは、日本最大の流通グループだった。「西武」というイメージは極めて都会的でオシャレなものと感じられていた。もともと池袋の小さな百貨店だったわけだが、やがて大きくなり、1968年に渋谷に進出した。パルコを作り、文化戦略を進め、1975年には池袋店を大幅に改装、西武美術館を開館した。それらは堤清二のイメージと共に語られ、少壮実業家として盛名をほしいままにしていた。僕はこの人を意識せざるを得なかった。なぜなら、そうやって大きくなった西武デパートがある池袋の大学に通い、美術館の隣にある「アール・ヴィヴァン」というアートショップにほとんど毎日のように行っていたからである。しかし、それだけではない。実は父親が東武であり、僕自身の買い物はほとんど東武デパートへ行っていた。(だから僕は西武デパートで買ったことは、アール・ヴィヴァン以外ではほとんどないと思う。)やがて東武デパートも大改装するときが来るが、どうしても「ファッショナブルな西武」を意識せざるを得なかったのである。そういう個人的な事情もある。
だから、見田宗介、大澤真幸の言う「虚構の時代」を象徴するような堤清二氏が亡くなり、個人的にも「ひとつの時代の終り」という感が深い。この堤清二という人は、衆議院議長を務めた堤清次郎の二男で、横暴な父に対する反発もあり、東大時代には学生運動に熱中し、共産党にも入党している。これは有名な話だが、結局「50年問題」で東大細胞そのものが解体され、だから離党も除名もなく、そのまま党を離れたのである。というか結核で闘病生活に入ることになる。そのうち、父の秘書になり、父から百貨店を任され、アメリカに行って流通業界の近代化に目覚める。それだけでもすごく面白い話がいっぱいあるわけだが、堤清二の場合そんな経営者としての生を成り立たせるために、「詩人」を続けていくしかない自我を持ち続けていたのである。
その頃の自伝的小説も結構読んだが、僕はあまり面白くなかった。やはり自分を語るのは難しい。他人を語る「評伝作家」として、この人は大成していく。芸術院会員、文化功労者になったわけだから、詩人、作家は全然余技ではない。戦後日本を代表する作家のひとりなのである。谷崎賞の「虹の岬」や「終わりなき祝祭」などが僕には忘れがたいが、読んでない本が多いので本格的な作家論は書けない。
映画をよく見てきて、やがてミニシアターブームが起こり、アートシネマを見て過ごす時代になった。そのかなりは「セゾン系映画館」で見た。そういうものがあったのである。多くはセゾングループ解体後テアトル系になり、やがて閉館してしまった。渋谷の道玄坂プライムにあった「シネセゾン渋谷」は、フェリーニの「そして船はいく」が開館公開作、六本木の「シネヴィアン六本木」(ヒルズ建設で無くなってしまった)はゴダールの「パッション」が開館公開作。演劇でも渋谷パルコに「PARCO劇場」が作られ、セゾン文化の発信拠点になった。池袋西武には「スタジオ200」という小施設も作られ、四方田犬彦氏がよく書いてるが、韓国映画連続上映はここで行われ、韓国映画の発見につながった。(僕は故谷川雁の「十代の会」がやった宮沢賢治の劇をここで見た。)僕が疑問に思ったのは、錦糸町に西武が進出し、「キネカ錦糸町」という映画館が出来、堤清二がソ連に行って文化交流協定を結んだ後に「ソビエト映画専門館」を称した時である。僕は80年代半ばに結婚して錦糸町に住んでいた時があり、このいつも空いてる映画館では結構見ているが、いくらなんでもこれは無理だろう。
やがてバブルが崩壊し、セゾングループは解体された。堤氏は私財を投げ出し、財界活動から引退した。その引き際は鮮やかとも言えたが、語れない部分が最後まで残ったのではないかと思う。西武デパートも西友も今でもあるけれど、それぞれ違う資本のもとに入って名前だけ生き延びた。セゾンが解体されただけでなく、それは80年代の「おいしい生活。」「不思議大好き」の時代の終焉でもあった。まさに「消費社会から格差社会へ」、世の中は移り変わったのである。セゾン系映画館として作られた映画館も、東京南部の大森にある「キネカ大森」だけが生き残っているだけである。
ところで、堤氏は辻井喬の名前で、近年になって社会的活動を活発化させていた。例えば「マスコミ九条の会」や「脱原発文学者の会」に参加し、教育基本法改正に反対した。いわば「最後の進歩的文化人」を意識して引き受けているのではないか、最後の最後の「戦後的価値感」を守る活動を始めたのかという印象もあった。広く評価された大平正芳の評伝を書いたように、むしろ「穏健保守の再評価」「体制内リベラル」の復権というべきかもしれない。僕はこれからこそ堤清二という人の存在が大切になるのではないかと思っていた。そういう意味で、僕にはとても残念な訃報である。
「叙情と闘争」の最後には、あとがきに替えて詩が載せられている。
もの総て/変りゆく/音もなく
思索せよ/旅に出よ/ただ一人
鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凜と