尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

思索せよ、旅に出よ、ただ一人-追悼・堤清二(辻井喬)

2013年11月29日 00時18分01秒 | 追悼
 堤清二氏が亡くなった。残念である。僕は昔から関心があり、読んでも来たが、大著の代表作「父の肖像」があまりにも分厚くて、読み始めで停まっている。いずれ詳しく書きたいと思い、今手元に「叙情と闘争」(中公公論新社、2009)があるが、読んだ後に片付けずパソコンの近くに置いてある。この本は非常に面白い本で、戦後の文化、政治、経済を横断する驚くべき挿話がたくさん詰まった「辻井喬+堤清二回顧録」(副題)である。

 堤清二が経営者として70年代にいかに輝いていたのか、今では当時を知らない人には絶対に判らないだろう。それは上野千鶴子と辻井喬の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春文庫)などを読めば、ある程度伝わるかもしれない。あるいはパルコにいた三浦展(「下流社会」の著者)と上野千鶴子の対談「消費社会から格差社会へ」(ちくま文庫)も参考になる。間違って「一億総中流」などという人もいた、それが一見確かな感じにも見えた70年代から80年代、経済で言えば「石油ショックからバブル崩壊まで」、思想、事件で言えば「連合赤軍からオウムまで」の時代は、「セゾン文化の時代」と言っても良かった。少なくとも東京の都市小ブルジョワ青年の多くには。

 当時、西武百貨店を中心としたセゾングループは、日本最大の流通グループだった。「西武」というイメージは極めて都会的でオシャレなものと感じられていた。もともと池袋の小さな百貨店だったわけだが、やがて大きくなり、1968年に渋谷に進出した。パルコを作り、文化戦略を進め、1975年には池袋店を大幅に改装、西武美術館を開館した。それらは堤清二のイメージと共に語られ、少壮実業家として盛名をほしいままにしていた。僕はこの人を意識せざるを得なかった。なぜなら、そうやって大きくなった西武デパートがある池袋の大学に通い、美術館の隣にある「アール・ヴィヴァン」というアートショップにほとんど毎日のように行っていたからである。しかし、それだけではない。実は父親が東武であり、僕自身の買い物はほとんど東武デパートへ行っていた。(だから僕は西武デパートで買ったことは、アール・ヴィヴァン以外ではほとんどないと思う。)やがて東武デパートも大改装するときが来るが、どうしても「ファッショナブルな西武」を意識せざるを得なかったのである。そういう個人的な事情もある。

 だから、見田宗介、大澤真幸の言う「虚構の時代」を象徴するような堤清二氏が亡くなり、個人的にも「ひとつの時代の終り」という感が深い。この堤清二という人は、衆議院議長を務めた堤清次郎の二男で、横暴な父に対する反発もあり、東大時代には学生運動に熱中し、共産党にも入党している。これは有名な話だが、結局「50年問題」で東大細胞そのものが解体され、だから離党も除名もなく、そのまま党を離れたのである。というか結核で闘病生活に入ることになる。そのうち、父の秘書になり、父から百貨店を任され、アメリカに行って流通業界の近代化に目覚める。それだけでもすごく面白い話がいっぱいあるわけだが、堤清二の場合そんな経営者としての生を成り立たせるために、「詩人」を続けていくしかない自我を持ち続けていたのである。

 その頃の自伝的小説も結構読んだが、僕はあまり面白くなかった。やはり自分を語るのは難しい。他人を語る「評伝作家」として、この人は大成していく。芸術院会員、文化功労者になったわけだから、詩人、作家は全然余技ではない。戦後日本を代表する作家のひとりなのである。谷崎賞の「虹の岬」や「終わりなき祝祭」などが僕には忘れがたいが、読んでない本が多いので本格的な作家論は書けない。

 映画をよく見てきて、やがてミニシアターブームが起こり、アートシネマを見て過ごす時代になった。そのかなりは「セゾン系映画館」で見た。そういうものがあったのである。多くはセゾングループ解体後テアトル系になり、やがて閉館してしまった。渋谷の道玄坂プライムにあった「シネセゾン渋谷」は、フェリーニの「そして船はいく」が開館公開作、六本木の「シネヴィアン六本木」(ヒルズ建設で無くなってしまった)はゴダールの「パッション」が開館公開作。演劇でも渋谷パルコに「PARCO劇場」が作られ、セゾン文化の発信拠点になった。池袋西武には「スタジオ200」という小施設も作られ、四方田犬彦氏がよく書いてるが、韓国映画連続上映はここで行われ、韓国映画の発見につながった。(僕は故谷川雁の「十代の会」がやった宮沢賢治の劇をここで見た。)僕が疑問に思ったのは、錦糸町に西武が進出し、「キネカ錦糸町」という映画館が出来、堤清二がソ連に行って文化交流協定を結んだ後に「ソビエト映画専門館」を称した時である。僕は80年代半ばに結婚して錦糸町に住んでいた時があり、このいつも空いてる映画館では結構見ているが、いくらなんでもこれは無理だろう。

 やがてバブルが崩壊し、セゾングループは解体された。堤氏は私財を投げ出し、財界活動から引退した。その引き際は鮮やかとも言えたが、語れない部分が最後まで残ったのではないかと思う。西武デパートも西友も今でもあるけれど、それぞれ違う資本のもとに入って名前だけ生き延びた。セゾンが解体されただけでなく、それは80年代の「おいしい生活。」「不思議大好き」の時代の終焉でもあった。まさに「消費社会から格差社会へ」、世の中は移り変わったのである。セゾン系映画館として作られた映画館も、東京南部の大森にある「キネカ大森」だけが生き残っているだけである。

 ところで、堤氏は辻井喬の名前で、近年になって社会的活動を活発化させていた。例えば「マスコミ九条の会」や「脱原発文学者の会」に参加し、教育基本法改正に反対した。いわば「最後の進歩的文化人」を意識して引き受けているのではないか、最後の最後の「戦後的価値感」を守る活動を始めたのかという印象もあった。広く評価された大平正芳の評伝を書いたように、むしろ「穏健保守の再評価」「体制内リベラル」の復権というべきかもしれない。僕はこれからこそ堤清二という人の存在が大切になるのではないかと思っていた。そういう意味で、僕にはとても残念な訃報である。

 「叙情と闘争」の最後には、あとがきに替えて詩が載せられている。
 もの総て/変りゆく/音もなく
 思索せよ/旅に出よ/ただ一人
 鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凜と
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猪瀬都知事5千万円の怪

2013年11月28日 22時50分35秒 | 政治
 猪瀬都知事に徳洲会から5千万が渡っていた問題。本人が「個人的な借金」といい、返したと言って、借用証も出てきた。どうも選挙資金らしいとは思いつつ、渡した方の最高責任者は重病、猪瀬氏の妻は亡くなっていて、どうにもはっきりウソと証明するのも難しい…と思っていたのだが、さらに考えるともなく考えていたら、ちょっと違って見えてきたことがある。その話。

 この「借金」は「妻名義の貸金庫」に預けてあったが、妻のゆり子さんが7月21日に亡くなり、そのために返すのが遅くなったという説明だった。でも、ここでよく考えてみたい。うっかりそんなことも政治家にはあるのかなと思ってしまいがちだが、日本の民法には「夫婦共有の財産」という制度がない。「妻の財産は妻のもの」であり、それは「夫の財産」ではない。夫の預金と夫名義のローンで家を買って、所有権を半分ずつにしたら、夫から妻への贈与税がかかる。(僕は昔、家を買った時に持ち分を間違って登記してしまい、贈与税がかかりそうになったことがある。そういう場合は司法書士に依頼して「前の登記は間違い、理由は錯誤」という訂正をしてもらわないといけない。)

 つまり「妻名義の貸金庫」などという表現はおかしいのである。妻の名義の貸金庫に入っているものは、妻の財産である。もっともお金に名前は書いてないから、お互いに生きていて裏で出し入れしている限り、確かに誰のお金とも判らない。しかし、妻は死んでしまった。妻名義の貸金庫は手続きが済むまで開けられない。妻が亡くなり、妻名義の貸金庫を開け、そこに5千万があった。それは「妻の遺産」である。徳洲会からもらった5千万は「妻の遺産」になったはずである。しかし、借用書は猪瀬名義である。従って、この5千万円は「猪瀬氏から妻へ贈与された」ものである。しかし、もちろん贈与税は払っていないだろう。また相続税の届けもしていないだろう。これは形式的に脱税に当たると思われる。

 以上に書いたことは形式論である。問題はなぜ「妻名義の貸金庫」なるものがあるのかということである。もちろん、妻が個人的に宝石や証券類、重要書類などを保管するために借りていたのかもしれない。しかし、それなら猪瀬氏本人が利用するべきものではないだろう。僕が想像するに、前から「表に出す必要のないお金をここで保管していたのではないか」という疑いがある。本を出した場合の印税などは、今は全部振込みだからごまかしようがない。でも小さな講演会や雑誌などでは、今でも現金払いのお金もあるだろう。昔は「お車代」だって結構な金額になったはずだ。それらはまとめれば年に百万、二百万になった年もあるのではないか。バブル時代から、いろいろなメディアで活躍してきたのだから。それらを申告せずに「妻名義の貸金庫」に保管していたのではないか。僕はそういう疑問を持つのだが、間違っているだろうか。

 そしてここに「5千万」が加わった。それは「選挙資金」か「政治資金」か「わいろ」か「借金」か、いずれかはともかくとして、「妻名義の貸金庫に保管するべき性質のカネ」と認識されていたわけである。話がちょっと変わるが、猪瀬氏のことをよく「作家出身の知事」という人がいる。まあ今は「ノンフィクション作家」という言葉も使われるから、猪瀬氏も作家でいいだろう。でも「作家出身」は間違いである。都知事になる直前の職は「副知事」である。全国でたくさんいたと思うが、「副知事出身の知事」なのである。だから徳田氏は「作家が選挙に出るからお金を貸した」のではない。石原氏は衆議院議員を辞めていて、ただの民間人として都知事選に立候補した。しかし、猪瀬氏は副知事として立候補したのであり、徳田氏がお金を出したのは「副知事にお金を渡した」ということになる。

 さて、「医療法」という法律があり、以下のようになっている。「第七条  病院を開設しようとするとき、医師法の規定による登録を受けた者及び歯科医師法の規定による登録を受けた者でない者が診療所を開設しようとするとき、又は助産婦でない者が助産所を開設しようとするときは、開設地の都道府県知事(診療所又は助産所にあっては、その開設地が保健所を設置する市の区域にある場合においては、当該保健所を設置する市の市長)の許可を受けなければならない。」

 一方、地方自治法第百六十七条では、「副知事及び副市町村長は、普通地方公共団体の長を補佐し、普通地方公共団体の長の命を受け政策及び企画をつかさどり、その補助機関である職員の担任する事務を監督し、別に定めるところにより、普通地方公共団体の長の職務を代理する。」とある。

 つまり、猪瀬副知事は病院開設の許認可権限を持つ知事を「補佐」し、「政策及び企画をつかさど」っていたのである。副知事に「職務権限」があることは明らかで、都内に病院、老人福祉施設を有している徳洲会から大金を「借りる」ことは、目的が何であるにせよ、「限りなくわいろに近い」と言うべきではないか。特定の請託はないとしても、「今後もよろしく」という趣旨がないはずがないと思う。まあ都知事選に落ちたら「ただの人」だけど、猪瀬氏が最有力候補だったのは間違いない。人が一番行く衆議院選挙と同時になって、まさか400万票も獲得するとはその時は思っていなかったけれど。

 猪瀬氏の著作は大宅賞を受けた「ミカドの肖像」の他何冊か読んだこともあるが、いつも隔靴掻痒というか、一番大事な所をはずしてストライクにならない球を投げ続けてきた印象がある。政治に関与した後も同じで、いつも大事な所を外しているように見える。石原氏は外すのではなく、ねらって暴投していくわけで、少しタイプが違う。まあ「小物」とも言えるかもしれない。やはりこの程度の人物だったのかというのがまず感じたことである。選挙にいくらかかるか知らないが、誰かに世話になって金を貰ったら、当選しても頭が上がらない。そんなことが判らないわけではないだろう。それでも断らない生き方をしてきたということなんだと思う。

 僕が思い出すのは、1992年の新潟県金子清知事のケースである。1989年に当選し一期目を務めていた金子知事に、東京佐川急便から1億円が渡っていたことが明らかになり、政治資金規正法違反で在宅起訴された。知事は辞任し、知事選挙が行われたのである。今回の猪瀬氏のケースはこれに極めて近いというべきではないか。
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中棚荘と花屋旅館-東信旅行④

2013年11月24日 00時07分05秒 |  〃 (温泉)
 最後に泊った宿の話。1日目は小諸の中棚荘、2日目は別所温泉の花屋旅館。どちらも「大正ロマン」風のレトロな造りと文化の香りで全国的に有名な宿である。どちらも一度行きたいと思っていたところで、やっと初めての宿泊。助成を使えたので、久しぶりに「いい宿」に泊った。

 小諸は山の方にいい宿があり、今まで市内は通り過ぎてしまった。山へ登ると、高峰温泉という日本最高級の露天風呂がある標高2千メートルの秘湯がある。夜は天体観測ができるし、タヌキが訪れるという自然に親しむ宿。また、鉄分の色がすごい天狗温泉浅間山荘という浅間登山口の温泉がある。中棚荘は小諸城址の片隅、地名で言えば「小諸市古城」にある一軒宿。中棚温泉は、昔は鉱泉と言っていたように、温度が低く加温している。中の風呂は循環併用だが、露天は掛け流し。風呂が遠いけど、長い通路を上っていくと冬季のみリンゴを浮かべた「初恋りんご風呂」。
 
 なんで「初恋」かと言えば、ここは「藤村ゆかりの宿」なのである。島崎藤村、というより彼を小諸に招いた小諸義塾の木村熊二が見つけた鉱泉がもとで、藤村も泊った。僕が泊った部屋の真ん前が「藤村の間」だった。ロビーには藤村の本を集めたコーナーもある。藤村の詩「初恋」(まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき…)の書き出しは、読んでなくてもどこかで聞いたことがあるのではないか。ということで、「初恋」が発表された日の「10月30日」が「初恋の日」ということに、中棚荘申請で日本記念日協会が認定している。「初恋はがき大賞」なんてのもやっている。藤村などが集った「水明楼」という建物が宿のすぐ近くに現存している。木村熊二の建てたものである。次の日に訪れたが、建物が多くなり千曲川がよく見えないのが残念。
   
 僕が泊ったのは、大正館という古い所で、トイレや風呂が部屋に欲しければ平成館もある。でもレトロ感を味わえる大正館で十分。今回は2階に泊った。でも駐車場からフロントが遠く、さらに部屋までは一端建物を出て大正館へ、さらに風呂へ行くには平成館に戻って大分歩いて行く。雨や真冬だとつらいかな。今回もかなり寒かった。まあ、そういうのも込みで、文学的香気を味わう旅情と思えるかどうかで、そこが日本の温泉旅館の楽しみ方だろう。部屋や建物はかなりレトロ趣味。
   
 今はどこもいい食事を出すけど、ここは中でも美味しかった。「浅間嶽」の大吟醸がものすごく上等でうまかった。夕食は「はりこし荘」という食事処だったが、どこ行くにも移動が大変。朝食は大正館で取ったけど、山羊乳かリンゴジュースが選べるという。山羊乳にしたけど、クセもなく美味しい。昨日、車で宿に入った時、長い坂道の最初にまず山羊が目に入った。へえと思ったけど、ホントに山羊乳が出るとは。出る前に庭を散歩すると、案外奥が深く、そこに山羊の家が。池にはカモもいる。玄関近くには犬もいる。名前は「チビ」。予約すれば散歩に行けるという。そういう個性豊かな宿で、オリジナルのワインやはちみつなど自家製のお土産も多い。一度は行きたいおすすめの宿。
   
 次の日の別所温泉はいろいろ泊まり歩き、今度は花屋。この宿は完全にレトロな風情(「大正浪漫」)で売ってる。宿を歩くだけで楽しい。どこ行くにも外に面した回廊を通るから、今からの季節は寒いけど。
   
 風呂は大理石風呂若草風呂(伊豆の若草石というのを使ってる)を朝夕で男女別に。他に露天風呂。この大理石風呂(男は夜10時まで)が素晴らしい。入り口は二つあるが、脱衣所は一緒。だけど風呂はまた二部屋になる。片方は風呂が二つあり、もう片方は一つ。という不思議な造りで、昔はここだけだったんだろうなと思う。全部源泉掛け流し。露天風呂が外の廊下をかなり歩くので、遠いのが難だけど。
   
 ここは動物はいないけど、建物や庭の風情を楽しむ宿。こういうところに若い時にグループで一度行く、あるいは夫婦で少しゆとりができると行ってみる体験が日本文化には必要だと思う。日本の温泉宿は、近くにある国宝めぐりや文学散歩などに必須のセットで、日本文化そのものだと思う。自然散策や秘湯の宿もいいけど、今回は文化の旅ということで。浅間が望める風景がどこでも心に残る。最後に部屋から見た風景を少し。後の2枚は、朝になって部屋から外を、点灯、消灯で撮ってみた。
  
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塩田平をめぐる-東信旅行③

2013年11月22日 23時14分09秒 |  〃 (温泉)
 上田電鉄の上田駅と別所温泉駅を結ぶ線路の南側一帯を塩田平(しおだだいら)という。千曲川の河岸段丘が広がる一帯で、古くから多くの寺社があり、たくさんの人が訪れてきた。この地域に新しい魅力を付け加えたのは、信濃デッサン館という小さな美術館。1979年に、窪島誠一郎氏が前山寺の門前に開館した。村山槐多などの若くして亡くなった画家のデッサンが集められている。さらに1997年、窪田氏はデッサン館に近い場所に、戦没画学生の遺した絵だけを展示する「無言館」を開館して、大きな反響を呼んだ。僕も開館まもなくに訪れたけれど、とても心打たれる鎮魂の場所だった。今は第二展示館も出来、当初は「志納」だった料金も千円と決められているようだ。デッサン館は二度、無言館は三度訪れているので、今回はパス。

 寺社と美術が塩田平の魅力だったわけだけど、今回訪れたらもう一つこの地域の特色があると知った。それは「ため池」である。雨量が少なく、昔からため池がたくさん作られ、41にもなるという。農水省選定の「ため池100選」にも選ばれ、ため池マップもあった。今までこの地域に何回も来ているのに、全然気づかなかった。問題意識がないと、つまり見る気がないと見えないということである。道から遠い池、道より高くて見えない池なども多いけど、知っててドライブすると確かにどんどん見えてくる。「舌喰池」という大きな池を見たので写真を撮った。
 
 この舌喰池の真ん前が「塩田の里交流館」(とっこ館)で、ここに今書いたため池マップがあった。それよりここは旧西塩田小学校で、僕は一度見てみたかった。上田地域は昔から映画やテレビのロケによく利用され、黒澤明の「姿三四郎」、鈴木清順「けんかえれじい」などもこの地域。アニメだけど、最近の「サマーウォーズ」もこの地域を舞台にしている。その中で、小津安二郎の「一人息子」(戦前の名作)などのロケが行われたのが、その小学校だという。今は「さくら国際高等学校」になってるけど、これは通信制高校だという。レトロな感じが残る校舎で、車で来てたら寄ってみたいところ。「とっこ館」から校庭が見られる。なお、上田のロケ地マップも出来てるし、上田フィルムコミッションのサイトでは、戦前にまでさかのぼりこの地域のロケ作品を網羅している。
    
 さて、後は塩田平のお寺めぐりだけど、時間が少ないので重文指定の建築がある中禅寺前山寺に行った。中禅寺の薬師堂は長野県で一番古い木造建築だという。茅葺き建築が素晴らしい。そこから車で数分、前山寺は三重塔がある。見ると他の塔に比べてやはり小さな感じで、そこが国宝と重文の違いかなと思うけど、写真を撮るとなかなかいい。ここはガイドによく「住職夫人のつくるくるみおはぎを予約すれば食べられる」と出てるけど、食べたことはない。まあ今後もないと思う。他にも龍光院とか塩田城跡などがあるがパス。
  
 別所温泉に戻り、この日は上田市街に本店のある「おお西」の別所支店で蕎麦を食べる。「発芽そば」をウリにして、「蕎麦道」を唱えている。僕も「そば道系の店」という言葉を使っていたが、ホントに「蕎麦道」で「名人」認定をしている立川談志みたいな蕎麦店主がいるとは思わなかった。驚くべき細い蕎麦で、手打なのにここまで細く切れるのはすごい。三種盛りを頼む。左から更科、発芽、田舎。

 そこから青木村まで車で20分程度。大法寺へ行くと、昔は足が不自由な犬がいた。さすがにもういないのは死んだんだろう。10年以上前だから。階段わきでリンゴを売っているおじいさんもいたけれど、出ていない。大体寺の見学料を取る人もいない。11月の平日だからだろうか。ここもかなり登るが、上の道路まで出ると三重塔がよく見ることができる。鎌倉幕府滅亡の頃の建立で、「見返りの塔」と言われる。英語で「Lookinng for Pagoda」だと出てた。ここも快晴で陽射しのために写真が撮りにくい。
   
 その後、道の駅青木で買い物して、上田へ出て帰る。上田城は前に見てるけど、上田高校が「けんかえれじい」のロケに使われたと知り、寄ってみたかった。でも、今回は時間がない。しかし、地図に重文指定とある近代化産業遺産の「常田製糸」(ときたせいし)という工場が見つかったので、外部見学。時間が早ければ中を見られたかもしれない。予約がいるのかもしれないが。こういう産業遺産を調べれば、各地にもっともっと面白いものが残っているはずだ。2012年に重文指定というから、まだあまりガイドに出てないが、信州大学繊維学部近くにある。
   
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信州の鎌倉-東信旅行②

2013年11月21日 23時47分24秒 |  〃 (温泉)
 長野県上田市の別所温泉塩田平のあたりを「信州の鎌倉」とよく呼んでいる。文化財がたくさん集中していると共に、北条氏の一族が支配し、鎌倉時代にさかのぼる寺院が多いこともあるだろう。旅館に囲い込まれて町を歩く人が少ない温泉も多いが、ここは草津や道後のように温泉街を回る人が多い。外湯も3つあるし。僕は前から大好きで、今回で5回目の泊まり。だけど、近くの別の温泉(鹿教湯、沓掛など)に来た時も別所温泉を回ったことがある。上田駅から上田鉄道というかわいい私鉄が通っているので、電車でもすぐ来られる。それも昔行って面白かった。しばらく来てなかったけど、とてもいいところで、関東関西からは一度は行きたい温泉。

 この地域の文化財は数多いが、やっぱり一番の魅力は、国宝の二つの塔だと思う。別所温泉街の安楽寺と、少し離れた青木村の大宝寺の三重塔である。まず、その二つの塔の写真を載せておきたい。前者が安楽寺で、四重に見えるが一番下は裳階(もこし)で、さらに八角三重塔と言う実に珍しい形式。写真ではその素晴らしさが伝わらない。日本を代表する塔の一つだと思う。一方、次の大宝寺は「見返りの塔」と呼ばれる美しい塔で、見飽きない塔で、どちらも優劣つけがたい立派な国宝だと思う。
    
 車を安楽寺に停めて、まず大好きな八角三重塔を見に行く。石段を上り、寺内に入ると、鐘楼と刈り込まれたコウヤマキの巨木が目に入る。料金所を通って三重塔へ。階段を登ると次第に目に入ってくる。途中に重文指定の開山時代の和尚像をおく「傳芳堂」(太陽の具合で全く写真が撮れないが、とても立派な彫像である)、島木赤彦の碑などがある。上がるたびに塔が大きくなっていく。
   
 登り切ったら、あとは四方を回りゆっくり三重塔を見て回るだけ。実に不思議な形の塔である。建立は鎌倉末期と言われている。日本最古の禅宗様式の塔とされる。どうも快晴の日の午前中は太陽の加減で写真が撮りにくい。
   
 いつまで見てるわけにもいかないので、飽きないけど降りていく。そこから車ではなく、歩いて常楽寺へ行くのがおすすめのコースで、これは是非。浅間山、四阿山(あずまや)などの名峰がきれいに望めるし、塩田平を一望できる。また、すぐ近くに戦前に建てられた山本宣治の碑、タカクラテルの碑などがある。「山宣」は戦前の政治家、社会運動家、医師で、無産政党の代議士として治安維持法に反対を貫き、右翼に暗殺された。「山宣ひとり孤塁を守る」の言葉で有名。忘れてはならない人物である。その碑を上田自由大学の関係者が作り、戦時中を守り抜いた。
  
 10分もしないで常楽寺に着く。ここは重要文化財の石造多宝塔で知られる。まあ見てもよく判らない文化財だけど。境内には大きな松がある。奥にある多宝塔はとても暗い中にあるが、写真を撮るとけっこう明るい。実際の印象は杉木立の中で日が差さない場所。戻ってくると美術館があるが、入ったことがない。お茶とお菓子の梅楽苑というお店もあり、今回初めて入った。ここだけの梅の菓子がある。また寺を出たところに「お茶の間」という名前の店がある。この不思議な名前の店は一度入りたいと思い以前に入ったことがある。ほんとの「お茶の間」のアットホームな場所だった。
  
 別所温泉にはもう一つ有名なお寺がある。それは「北向観音」。何で北を向いているかというと、長野の善光寺と向かい合っているというのである。「愛染かつら」があることでも知られている。川口松太郎の原作が映画化され大ヒットした。主題歌も有名である。今も名前は何となく知られているだろうけど、別所温泉にモデルの桂の木があることを知らない人が多い。参道も面白い。写真の最後、鐘楼の隣が愛染かつら。別所温泉だけで長くなったので、塩田平は別に書きたい。
   
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佐久と小諸-東信旅行①

2013年11月20日 23時35分58秒 |  〃 (温泉)
 長野県東部に2泊の温泉旅行。ちょうど紅葉が終わる前で、少し寒くなりかかかっていた。今回は小諸の中棚温泉と上田の別所温泉に泊ったが、宿の話は別に書きたい。今まで別所温泉は何度も行っていて、小諸も行っている。しかし、佐久インターで下りたことがなかった。調べてみると、日本唯二の「五稜郭」(五角形の洋風城郭)、「龍岡城」が近くにあった。もう一つはもちろん函館だけど、この龍岡城は駅名にもなってるのに知られていない。また中山道の宿場が4つもある。川待ちなどに備え短い距離に宿場が置かれたという。僕の大好きな相米慎二監督の映画「台風クラブ」のロケ地もある。(ロケした中学は焼失して再建。)そういう場所があるんだけど、今回は時間の関係で残念ながら見られなかった。今回見たのは、旧中込学校貞祥寺の二カ所。まずインターから南下し、旧中込学校へ。
   
 この美しい塔を持つ「旧中込学校」は、1875年(明治8年)に建てられた。洋風の小学校の建物のもっとも古いものの一つである。塔は太鼓を吊るして時を知らせたので「太鼓楼」と言われたという。正面にはベランダがあり、廊下にはステンドグラスがはめ込まれている。中に入ると、下の写真のような感じ。大きな部屋にはオルガンがあり、自由に弾いて下さいとある。2階へあがると、やはりステンドグラスが美しい。丸岡秀子さんが卒業生だということで、その紹介もあった。「農村婦人問題」などに取り組んだ女性運動家である。(ベランダと太鼓楼には出られない。)
    
 ということで、下りてきて隣りにある資料館や鉄道公園を見たあと、裏へ見ようかなとしたところ、なんと驚きの状態を見たのだった。何人か見物客はいたけど、大体表から写真を撮って帰っていたようだけど、裏はこんな様子。
  
 一見美しいけど、2カ所剥がれているではないか。どうしちゃったんだろうか。一か所はかなり大きく剥がれ落ちている。これも展示なのか。それはないだろう、修理してないだけなんだろうけど、裏まで手が回らないのかなあ。そこから貞祥寺(ていしょうじ)へ。ここは三重塔島崎藤村旧居がある。1521年創建のかなり大きい寺で、見て回る甲斐があった。塔の上の道まで出ると、黄葉がきれいだった。写真の最後2枚が寺の入り口にある藤村旧居。夏は公開してるらしいが、今は閉めていた。ここに藤村が住んでいたのではなく、小諸の住居を買い取った人がいて、ここに移築されたのである。ここを見た後で小諸に向かうことにした。
   
 小諸の中棚温泉に泊り、懐古園入園付プランだから、翌日に懐古園(かいこえん)に。まあ小諸城址だけど、島崎藤村が1899年(明治32年)に小諸義塾の教師として赴任し、1905年まで6年間在任した。その間に「千曲川のスケッチ」が著され、小諸城址も有名になったわけで、懐古園にも記念館がある。でも、まあ基本はお城。前日まで紅葉まつりだったけど、この日も素晴らしい紅葉を見られた。最後の写真は天守閣跡。石垣も明治以後壊されて、後に再建されたものだという。
   
 素晴らしい紅葉の数々。最後の写真は落ち葉に映る自分の影。 
   
 ところで、藤村以上に小諸に貢献したのは、木村熊二(1845~1927)ではないかと思った。木村は明治女学校を作ったクリスチャンの教育者で、名前は知っていたが詳しいことは知らなかった。でも、明治女学校を2番目の妻のスキャンダルで退き、後に小諸義塾を開いて藤村などを招いた。それだけでなく、「水明楼」という家を建て近くに鉱泉の出るのを見つけた。これが中棚温泉で、水明楼は現存している。その話は別に書くが、懐古園のそばに小諸義塾記念館もある。案外近いし、共通券で入れるので是非行きたい。当時の本館の建物だという。そこで見た年表によると、木村という人はスキャンダル後に、30近く離れた三度目の妻(早大の「都の西北」の作曲者の妹)と結婚し何人も子どもを作っている。昔の人はすごいね。木村の姿が懐古園の石垣にあった。最初が記念館。最後が島崎藤村。
  
 その後、町中に出るが、うまく停められない。大手門や本陣など重要文化財指定のものがあるが、見れなかった。「そば七」で食べる。ここは美味しかった。レトロな街並みが楽しい。その後もっと面白い「昭和レトロ」の街並みもあったけど、運転してると写真を撮れない。町を入ると、「藤村の井戸」(今も水が出る。飲めないけど。)や「藤村旧居跡」なども。先ほど載せた旧居はここにあったわけ。街には不思議な装飾の骨董店もあった。そば屋の隣の紙屋には、俵万智の色紙があった。そこから高浜虚子の疎開していた家に寄る。そこらへんの「虚子の散歩道」を歩いたが、今は家が立ち並び風情はかなり変わった感じ。でも浅間山が堂々たる姿を見せていた。(写真は撮らなかった。)下に載せた写真は、順番に「そば七」、骨董屋、藤村旧居跡、虚子旧居。  
    
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チェコの映画ポスター展

2013年11月15日 22時52分43秒 | アート
 国立フィルムセンターで行われている「チェコの映画ポスター展」を12日に見た。非常に面白かったので、その日に紹介記事を書きたいと書いておいた。特定秘密保護法案の記事で遅くなったけど、12月1日までなので紹介しておきたい。
 
 僕が紹介するのは、この展覧会の面白さを多分多くの人がまだ知らないのではないかと思うからだ。8月28日からやってるけど、映画や美術、あるいはチェコ文化に関心がある人でも見てない人がほとんどだろう。その理由の一つは、場所が映画上映が中心のフィルムセンターの7階にある展示室だからだろう。そこは実質は「日本映画博物館」で、日本の映画の歴史、貴重な映画のビデオ上映、映写機材、脚本やポスターなど映画史の展示を行っている。とても面白い博物館で、映画ファンなら一度は行っておきたい場所だ。その展示室の最後に特別企画コーナーがあり、このポスター展をやっている。そこでは年間3回程度の企画展示を行い、前回はスチル写真展、次は「小津映画の図像学」である。

 入場料は200円だけど、上映がある日の映画半券を見せると100円になる。(大学生、シニアは70円のところが、40円。高校生、障害者無料。映画上映は3時と7時だが、展示室は6時で閉まるので、午後3時上映を見た場合しか意味がないが。)フィルムセンターの上映は、会場の改修で8月から10月いっぱいまで中止されていた。僕が12日に見たのは、その日の3時の回の上映を見たからなのである。常設展示は何度も見てるから、最近は大体いつも軽く通り過ぎる。チェコやチェコ映画に関心はかなりあるのだが、常設展示は見なくてもいいので、上映再開まで見に行かなかったわけである。

 それはまた、展示内容に誤解があったのである。それは「チェコ映画のポスター」展と思い込んでいたのである。チェコ映画は僕は20本くらい見てるのではないかと思う。それでもチェコの映画だけかなと思うと、見なくてもいいような気がしてしまう。チェコは戦後長くソ連圏にあり、1968年の「プラハの春」の悲劇を経て、1989年の「ビロード革命」で民主化されるまで長く苦難の時代が続いた。今国立近代美術館でやってる写真家クーデルカ、東京五輪の女子体操金メダルのチャスラフスカなどの記事を以前に書いたことがある。

 映画では、後にハリウッドに行き「アマデウス」を監督するミロス・フォアマン、チェコに居続け困難な中で映画製作をつづけたイジー・メンツェルなどの監督を生んだ。しかし、それ以上に有名なのは、チェコアニメの素晴らしさで、カレル・ゼマンイジー・トルンカなどの巨匠がいる。今回の展示ではそれらのチェコの名匠の映画ポスターもある。それらはとても興味深い。しかし、チェコ映画より興味深いポスターがいっぱいあったのである。「チェコ」の「映画ポスター展」なのである。例えば次のポスターは何の映画だと思うだろうか。
 
 何と前者は黒澤明監督の「羅生門」である。後者は羽仁進監督の1965年公開「ブワナ・トシの歌」。東アフリカに研究で赴いた日本人をドキュメンタリー的に描いた作品で、主演は渥美清。渥美清の顔と牛が発想のもとにあるイメージかと思うと、実に面白い。「羅生門」も、日本人なら三船敏郎、黒澤明、芥川龍之介などの顔がすぐに浮かんでくるので、ここまでシンプルなポスターは作らないだろう。これは日本映画にインスパイアされた「現代美術」と呼んだ方がいい。では、次。
  
 最後は画像と字から判る人もいるだろう。「ターミネーター」である。でも、前の二つは難しい。前者はフェリーニの「甘い生活」、真ん中はゴダールの「女は女である」。実に面白いポスターだと思う。そもそもこの展覧会のポスターに使われている「髪の毛に覆われた女」、これは何の映画かと言えば、ロベール・ブレッソンの「やさしい女」という作品。ドストエフスキーの原作だけど、映画や原作を超えた素晴らしい幻想画だと思う。(もっとも映画は見ていないが。)

 このように、この展覧会はチェコ映画の展示ではなく、映画を発想のもとにした素晴らしい現代美術、ポスターの展覧会なのである。日本映画ももっとたくさんある。「ゴジラ」「切腹」「怪談」など、50年代、60年代の作品がほとんど。世界映画も「シェルブールの雨傘」「イージーライダー」などあっと思うような作品である。映画に詳しい人なら、ポスターを見て映画題名を当てる一人ゲームを楽しめる。日本の60年代には、ATGの映画や寺山修司、唐十郎などの演劇のポスターに、今見ても素晴らしい熱気を感じる作品が多い。同時代のチェコでも同じような熱気があふれ、多分それは「プラハの春」につながる地下水となったのではないか。これらのポスターを作っていた人の思いを深く感じる展覧会だと思う。是非、映画にもチェコにもあまり関心がない人にも、絵やイラストが好きな人には見逃せない企画。
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国民主権に反する悪法-「秘密保護法」反対④

2013年11月14日 23時13分19秒 | 政治
 「特定秘密保護法案」に関する話も4回目なので、この法案の本質である「国民主権無視」、つまりは「知る権利」の侵害について書いておきたい。「知る権利」などというと、何だか難しい感じがしてしまって、よく判らないと思っている人も多いかと思う。この観点からの問題点は、おおよそ新聞や反対運動のサイトなどで見られるけれど、きちんと見てない人もいると思うから、ここでも書いておく。良く知ってる人には当たり前の議論だと思うけど。

 まず原則から書くと、政府の情報は本来すべて国民のものである。「国民主権」なんだから、国民が政府のすべての情報にアクセスできなければ、政府の政策の良しあしを判断できない。外交文書など、相手との交渉があることを今すぐ全部見せろなどとは最初から誰も言ってない。でも基本的には「30年」たったらすべて公開すべきである。アメリカなど諸外国で公開されている公文書を、日本政府だけが非公開にしているバカげた事例が今までいくつもある。

 それがこの法案では、行政機関の長が「特定秘密」に指定した秘密は、どこからもチェックを受けない。秘密の指定期間を何度でも更新できるから、30年どころか半永久的に秘密にできるし、そのまま誰にも判らないまま廃棄処分も出来てしまう。そんなバカなと思うかもしれないけど、そういう法案なのである。これでは民主主義の健全な社会とは言えないだろう。「国権の最高機関」である国会は、ここまで行政府にコケにされて、このまま法案を通すのか。三権分立の完全な無視である。立法府や司法府のチェックができることが、すべての前提だろう。

 さらに、情報を漏らした公務員だけでなく、「共謀し、教唆し、又は煽動した者」も未遂であっても罰則を科すと決めている。これでは誰でも引っかかる恐れがある。「テロ防止」を理由とすれば、何でも「特定秘密」にできる。自衛隊や原子力発電所を「市民が監視する」活動は、できなくなるかもしれない。もちろん一般的な原発反対だけなら、この法案が出来ても言えるだろう。でも特定の原発を監視し、核燃料の持ち込みに抗議しようという活動などは、「テロ防止」を理由にすべての情報が出なくなればできなくなるかもしれない。

 何が「特定秘密」かは国民には判らない。それは指定した方しかわからない。政府が知っていること、例えば家の近くの米軍基地、自衛隊基地にオスプレイが配備されるという、そういう情報があるとする。どのように配備され、どのような訓練を行い、いつ来るのか。「防衛機密」「テロ防止」と言えば、何もわからなくなる。しかし、様々な公開情報を組み合わせれば、かなりの程度で推測できる部分があると思うが、それを報道機関が「特定秘密」を恐れて報道しなくなる。政府側は、「もしかしたら特定秘密かも」と匂わせるだけで、政権に都合の悪いことを報道させられなくできる。「政権」と「政府」と「国民」と、本当はみな違う。本当は国民が政治の主人公なのに、「政権」の都合で出てこない情報が増える。小池百合子議員が、「首相動静は『知る権利』を超えている」と言ったのが、もうその恐れをはっきり示している。首相の行動パターンが判ってしまう可能性があるので、テロの恐れがあるとか言えば、何でも秘密にできてしまうではないか。

 ところで、今後の「情報漏えい」はどのようにして起こるのか?どうも、この法案を見ていると、「外国勢力」に通じる、または脅迫されたなどの人物が「特定秘密文書」をコピーして渡すといった「古典的なスパイ」を想定している気がする。しかし、そういうことは起こらないだろう。なぜなら、「文書情報」などというものは、もはやないからである。もちろんないこともないけれど、というか役所内では印刷されて、責任者が捺印して、厳重に保管されるというプロセスはあるんだろう。でも、その文書は間違いなく、役所のコンピュータで作成されているはずである。アメリカで起こったウィキリークスやスノーデン事件では、そういうパソコン内の文書が漏えいされたのである。

 だから、特定の政治的思惑、または正義感、あるいは私怨で、「特定秘密」を暴露すると決めた人物は、海外の匿名サイトに複雑な経路をたどって電子情報を伝える。そのサイトのアドレスが書かれた電子メールが、マスコミ各社や野党政治家に届く。そういう事態になるはずである。この「漏らした人物」は結局つかめないままに終わる。(警視庁文書漏えい事件で、現に解明できずに終わった。)しかし、その情報を報じたマスコミ各社や野党政治家の方だけが、「共謀した可能性」を理由に捜査対象になる。そういうありえないような事態が、この法律が制定されると起きるかもしれないのである。

 政治家は後世の批判にさらされるのが宿命である。後世の批判に耐えうるかと自己に問いかけて活動するというのが、政治家の務めだろう。だから、政治家は自己の関わった情報を残していく必要がある。在任中は日記などを書き、引退後は回想録などを残す。それが当然だと思うのだが、今のように携帯電話と電子メールの時代になると、具体的な政策決定過程が後世に伝わらなくなる可能性がある。「特定秘密」などは、「なぜそれが特定秘密に指定されたのか」ということ自体が、後世の歴史家の重要テーマである。それなのに、永久に秘密に指定できたり、そのまま廃棄が可能などというのは、全く歴史を恐れない所業だと思う。このような「歴史への背信」に対しては、なんらかの「反対の意思表示」を行うのが、「歴史への義務」ではないかと考える。
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本当に大事な情報とは-「秘密保護法」反対③

2013年11月13日 21時36分25秒 | 政治
 「特定秘密」とは何だろうか。「その漏えいが我が国の安全保障に著しく支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」だとされる。(日弁連のサイトから。)その「特定秘密」を保護する法律がないと、漏えい事件が起きやすくなるという。それでは、「我が国の安全保障に著しい支障」が今までに何回も起きているんだろうか?

 政府は重大な秘密漏えいは過去15年間に5回あったと説明しているという。(東京新聞11月9日付朝刊)その5件は、最高でも懲役1年、3件は起訴猶予だった。以下に列挙すると、
①2000年 ボガチョンコフ事件
     海上自衛隊三佐がロシア大使館の海軍武官に資料提供(懲役10月)
②2007年 イージスシステムの情報漏えい
     海上自衛隊三佐が別の三佐にデータを送付(懲役2年6月、執行猶予4年)
③2008年 内閣情報調査室職員の情報漏えい
     内調職員がロシア大使館書記官に情報提供(起訴猶予)
④2008年 中国潜水艦の動向の情報漏えい
     防衛庁情報本部の一佐が記者に口頭で伝達(起訴猶予)
⑤2010年 尖閣沖漁船衝突事件の情報漏えい
     海上保安官が捜査資料のビデオ映像をインターネットに流出(起訴猶予)

 このうち、⑤の尖閣沖衝突事件のビデオ流出以外を覚えている人はいるだろうか。しかも、この尖閣沖衝突事件のビデオ映像は「特定秘密」には当たらない。安倍内閣はそのように政府見解をまとめ、10月30日には菅官房長官も認めている。ロシアや中国がらみの事件が起きてはいるが、起訴猶予になる場合もある。一番重大とされるのは、2000年の①ボガチョンコフ事件だけど、だれか覚えてる人はいるか?これが流出した結果、「我が国の安全に著しい支障」があったのか。それなら国民皆が覚えていてもよさそうなもんだが。少なくとも僕はこの不思議な名前のロシア人(だろうけど)に全く記憶がない。

 しかし、この何十年かの間に「我が国の『国民』の安全保障に著しい支障」が出たケースはいくつもあった。「国」ではなく「国民」にである。それはごく最近にもあった。伊豆大島で。1995年には、大地震とカルト宗教教団により、「国民の安全」は大きく揺らいだ。2011年には、大津波と原発事故により、「国民の安全」は著しく揺らいだ。今も揺らいでいる。地震や台風はまた必ず日本を襲う。しかし、原発や宗教教団は人間が作ったものだから、人間によって危険を防止することができるはずである。今の日本では、「次の大地震」と「原発をどうするか」かこそが、「我が国の安全保障」にもっとも重大な意味を持っているのではないか。外交や防衛の秘密がどうのこうのと議論していること自体が、ことの軽重を間違えている。

 もう一つ、重大な問題がある。世界の経済は緊密な相互依存を深めていて、直接的な「外交」「防衛」が「安全保障」に占める割合が低くなっている。経済指標の大部分は公開されているので、世界情勢の相当部分は公開情報をどう読むかにかかっている。しかし、それでも重大な影響を及ぼす国の経済政策がどうなるかは、世界の最も大きな関心事である。今ならば、米国FRB(連邦準備制度理事会)が金融緩和政策を変更するかどうか、である。その他、米国の経済指標(失業率や小売売上高、鉱工業生産、住宅販売件数などなど)も重要な意味がある。それらの発表により、ウォール街の株式が上がったり下がったりする。(それは単に「良ければ上がり、悪ければ下がる」というだけのものではない。良くても「予想より低かった」として下がることもあり、悪くても「織り込み済み」として下がらないこともある。)米国の株式市場はかなりの割合で、東京市場に連動してくる。

 だから、僕なら日本や外国の外交、防衛情報よりも、もし何かスパイできて秘密を知ることができるんだったら、アメリカの経済指標を公表前に知りたい。しかし、いくらアメリカ経済が順調に回復しつつあると言っても、こんどまた来年2月に「債務不履行(デフォルト)」が本当に起こってしまったら、どうなるのか。日本や世界経済に測り知れない悪影響を与えるだろう。それには、ホワイトハウスの情報分析だけでなく、共和党内のティーパーティグループの動向を正確につかんでおくことが必要である。もし、デフォルトが本当に起きたら一時的にせよ株の暴落は避けられないだろう。だが事前に知っていれば、売ってしまうなり空売りするなりの対応を取れる。これは日本の経済政策にも同様に言えることである。日銀の金融緩和政策がどれほど証券市場に影響を与えたかを思い出せば判るだろう。今の日本にとって、経済情報を防衛することの方が、実際には大きな意味があるのではないか。

 このように、「我が国の安全保障」を考えるときに、この「特定秘密保護法」なるものが実にトンチンカンな「軍事偏重」の産物かがよく判ると思う。もう一つ、日本に関する重大な「秘密」がある。日本は2007年から2013年まで、毎年総理大臣が変わった。2007年の第一次安倍内閣の突然の総辞職からすべては始まった。これは後で説明されたところでは、「安倍首相の病気」が理由であった。その病気は実は難病指定されるようなものだったが、良い薬が入手できるようになり、今は全く心配ないということだった。去年暮れの総選挙ではそう説明され、今年になって外国訪問を繰り返しているから、確かに健康状態には今のところ問題ないのかと思う。自民党の総裁は1期3年、2回までだから、最長で安倍政権は2018年秋まで続く。今のところ安倍政権は盤石に見えるが、健康状態が崩れるということは本当にないのか。米中ロなどが一番知りたい「日本の秘密」は首相の健康問題だろう。日本に取り、真に重大な「秘密」とは、実はそういう問題なのである。
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恐るべき「適性評価」-「秘密保護法」反対②

2013年11月11日 23時54分03秒 | 政治
 「特定秘密保護法案」に反対しているマスコミ、市民運動などの一番の論点は「知る権利」をめぐってのものである。それはまあ当然なんだけど、僕にはそれと同じくらい恐ろしいことがある。あまり論じられてない気もするので、その問題を書いておきたい。それは「適性評価」の問題である。

 「特定秘密」というぐらいだから、公務員なら誰でも接するというもんではないのである。第12条において、次のように規定されている。「行政機関の長は、政令で定めるところにより、次に掲げる者について、その者が特定秘密の取扱いの業務を行った場合にこれを漏らすおそれがないことについての評価(以下「適性評価」という。)を実施するものとする。」この評価を受ける対象は、「当該行政機関の職員」だけではない。「当該行政機関との契約に基づき特定秘密を保有し、若しくは特定秘密の提供を受ける適合事業者の従業者」も含まれる。これは軍需産業に勤める人物を指しているんだろう。

 じゃあ何を調べるのかというと、特定有害活動(スパイ)やテロリズムとの関係を、本人はもちろんだけど、「評価対象者の家族(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。以下この号において同じ。)、父母子及び兄弟姉妹並びにこれらの者以外の配偶者の父母及び子をいう。以下この号において同じ。)及び同居人(家族を除く。)の氏名、生年月日、国籍(過去に有していた国籍を含む。)及び住所を含む。)」「特定秘密」を扱う省庁の高級官僚だけでなく、配偶者、父母、兄弟姉妹に加え、配偶者の父母なども対象になる。(「同居人」って特に書いてるのは、同性愛のケースを想定してるんだと書いてから気付いた。) こんな規定、信じられますか?

 今のが「一」で、以下「二」から「七」まである。それらを列挙すると、
二 犯罪及び懲戒の経歴に関する事項
三 情報の取扱いに係る非違の経歴に関する事項
四 薬物の濫用及び影響に関する事項
五 精神疾患に関する事項
六 飲酒についての節度に関する事項
七 信用状態その他の経済的な状況に関する事項

 これらは、本人のみを調査するとも読めるが、家族の状況をも同様に調査するとも読める。2~7を本人のみとする規定はない。「一」に準ずると見なすと、これらを家族にも調べることになるし、また現実的には本人がクレジット破産しそうかどうかだけでは意味がなく、「妻の信用状態」=つまり妻が夫のカードで買い物しまくり破産寸前であるかどうか、などは調べるに決まっている。そういう状況は、情報を売ることの強力な動機なんだから。しかし、犯罪や信用状況などはまだわかるとして、飲酒とか、特に精神疾患について調べる必要はあるのか。「うつ病」や「統合失調症」になりたくてなる人はいない。本人にどうしようもないし、「特定秘密」に関わるという極度の緊張感がトリガーとなって発病することだってありうる。いつ精神疾患が発病するか判らないが、外務省や防衛省に務めている人の家族は精神疾患にかかってはいけないのか。これらは個人のプライバシーのもっとも大事な物であり、特に精神疾患について調査するなどは差別以外の何物でもない。「特定秘密」に関わるからといって、こんなことを上司が調べることが許されるのか。

 この「適性評価」は、「評価対象者に対し告知した上で、その同意を得て実施する」とされている。また「その結果を評価対象者に対し通知する」。一応そう書いてあるんだけど、多分実態は違ってくるだろう。「適性評価」をしたところ「非」と出たら、上司の部下管理能力、あるいは部下の能力把握が、行き届いていないことになる。上司の勤務評定に大きなマイナスになるに違いない。だから、大丈夫そうな人を選び、大丈夫でない人(家族が借金を背負ってるとか)には辞退するように促す。だから、大丈夫な人だけ「適性評価」をするということになるに決まってる。そうして、このことが官僚の世界に大きな影響を与えるようになるだろう。もちろん今だって大変な職場だろうけど、今後はよりいっそう、家族に問題があるから出世できないなとか、これ以上飲むと適性評価に関わるかなとか思って働かざるを得なくなるだろう。

 ところで、この「適性評価」なく「特定秘密」に接することができる人がいるのである。「次に掲げる者については、次条第一項又は第十五条第一項の適性評価を受けることを要しない。」
一 行政機関の長
二 国務大臣(前号に掲げる者を除く。)
三 内閣官房副長官
四 内閣総理大臣補佐官
五 副大臣
六 大臣政務官

 大臣は「適性評価」がいらないのか。私たちは、飲酒癖のため記者会見でろれつが回らなかった大臣、様々な問題があったのだろうが在任中に自殺した大臣、奇異な言動により辞職した大臣などを何人も思い出すことができる国に住んでいるのである。はっきり言えば、官僚より政治家の方が「適性評価」が必要だとほとんどの国民は思うのではないか。もし「特定秘密」が必要で、「適性評価」も必要なんだったら、国務大臣や副大臣や政務官も受けるべきである。官僚や大会社の社員は刑罰の重さより、「懲戒免職」という重い処分を避けられないことが歯止めとなる。情報の重みを理解できずにうっかりリークしそうなのは政治家の方である。
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「特定秘密」はいらない-「秘密保護法」反対①

2013年11月10日 22時28分55秒 | 政治
 国会で審議が始まった「特定秘密保護法案」。これは危険な法律だとして、反対論、反対運動が広がっている。例えば、「STOP!秘密保護法」というサイトがあり、東京中心だが11.13(水)に超党派銀座街宣行動、14(木)に首都圏一斉キャンペーン、21(木)に大集会(日比谷野外音楽堂)などが予定されている。各マスコミを見ても、急速に反対論が広がっているように思う。この法案は様々な点で問題点が多いと思うが、そのことを何回か書いておきたい。

 僕が思うに、「特定秘密保護」の前に、「特定秘密」そのものが要らない。「特定秘密」というのは、「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるもの」とされる。具体的には、法案別表において、①防衛②外交③特定有害活動(スパイ)④テロリズムの防止の4つが例示されている。それだけ聞くと、防衛やテロに関する情報が洩れては困るではないかと思うが、もちろんそれは今でも保護されている。

 第3条に「その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの(日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法(昭和二十九年法律第百六十六号)第一条第三項に規定する特別防衛秘密に該当するものを除く。)」を「特定秘密」とするとある。日本の秘密保護は国家公務員法しかなく、違反の場合最高刑が懲役1年で軽いと主張する人がいるが、カッコ内にある「日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法」という法律で、日本の安全保障の基礎とされている日米安保に関する情報漏えいは、最高刑5年となっている。今の日本にとって一番重要と考えられる日米安保の情報に関しては、すでに保護されているではないか。

 日米安保体制そのものの問題もあるが、それはちょっと置く。今度の秘密保護法案に関する議論では、「北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の軍備増強など、日本を取り巻く情勢は厳しさを増している」(読売新聞、11.8付社説)という観点から賛成する人がいる。しかし、日本の「安全保障」の基本が日米安保だというのは変わらないはずだから、日米同盟強化のために秘密保護強化も必要だと言うなら、「日米相互防衛…」という方の秘密保護法を変えようという主張になるはずだ。だから、今回の法案は、「中国や北朝鮮情勢があるから、日米同盟を強化しようという主張ではない」のである。

 日本には情報が入らないという政権側の主張もある。例えば、アルジェリアのテロ事件に関して、日本側に情報が入って来なかったという話である。これが「特定秘密保護法」ができると情報が入ってくると言えるのか。日本版NSCが出来て、特定秘密保護法案が成立すれば、北アフリカのイスラム過激組織のテロ情報が入ってくるというわけがない。アルジェリア政府は最初から武力鎮圧方針だったから、外国政府に細かな情勢を事前に流すわけがない。日本と北アフリカのイスラム組織に接点はなく、特に日本が狙われているわけでもないのだから、日本が知ってても何ができるわけでもない。

 「日本に情報が入らない」というのは、僕はそれ自体がおかしな議論だと思っている。たとえで言えば、こうなる。学校で仲良く遊んでいるグループがある。スポーツもできるし、成績もいいから、結構クラスでも人気で、評価もされている。でも、家の都合で「日曜日は遊びには行けない」(まあ、クリスチャンで、家族で教会に行く日だとか)。だから、日曜日に皆がどこかに集まって遊んでいるらしいんだけど、集合時間や場所の連絡はその子には来ない。誘っても来ないんだから、連絡しても仕方ない。それじゃ、寂しいから、今度から連絡して欲しいというのである。その裏にあるのは、「連絡してもらっても行けないんだけど、仲間はずれは嫌だから、面倒だと思うけど連絡して欲しい」ということではないだろう。「全部は無理かもしれないけど、家族がどんなに反対しても、今度は一緒に遊びに行けるようにするから、これからは連絡して欲しい」という意味なんだと思う。

 で、僕はこの「家族」が国民で、「遊び」が戦争だと思うわけである。情報というのは、知っておく方がいいというものではない。知らなくていい情報というのはたくさんある。ネット上に流通する情報の大部分も、別に知らなくてもいいか、もしくは知らない方がいいものではないか。それはともかく、先のたとえで言えば、「遊び」だと思っていたけれど、実は皆で集まって万引きやカツアゲをしてるのかもしれない。誰かを呼び出していじめているのかも知れない。小説や映画の犯罪ものでは、知らない方がいい情報を知ってしまったものは、仲間に入るか、消されてしまうかである。(実は警官や情報機関員だが、潜入捜査をしていて、組織の犯罪計画をつかむが、仲間として一緒に犯罪に加わらなければならないハメになり、どうやって犯罪実行や殺人を防ぐか…というストーリイは山のようにある。)

 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」しているはずの日本が、戦争やテロの裏情報を知る必要があるのか。憲法解釈で、自衛隊は合憲とされてきたが、自衛隊は「専守防衛」のはず。中国や北朝鮮情勢はあるが、日米安保で対応するし、その秘密はもうすでに保護法がある。それなのに、全世界の様々な情報をもっと欲しい、情報がないなどと言ってるのは、つまりは「今度はアメリカと一緒になって、専守防衛ではない戦争にも加われるようにするから、全世界の戦争の情報ももっと集めたい」ということではないか。明文改憲の前に、解釈改憲で集団的自衛権を認めるという流れの中で、この秘密保護法を置いてみると、僕にはそういう解釈が出てくるんだが。

 警視庁のテロ捜査情報が流出した事件は、2010年に起きたが時効となってしまった。(殺人等の重大事件の時効は撤廃されたが、最高刑懲役5年までの事件は時効が3年である。)結局、これは真相が解明されていない。今は情報はコンピュータ上に集積されるから、この時効期間などは、今後もっと長くしてもいいだろうと思う。このような人権侵害を伴う情報流出でも、政府は特定秘密に当たるとは言っていない。ましてや、個人の住所などは特定秘密になど当たるわけがない。しかし、逗子市で起きたストーカー殺人事件では、被害者の住所は市役所から漏れたと言われている。このような「国民一人ひとりにとって、生死にかかわる個人的安全保障情報」をどのような保護すべきか。いま議論すべきは、そっちの方ではないか。このような「一般犯罪」に関する情報は、国家からすれば「特定」の重要な情報にはならないのである。
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映画「非行少年」ー映画に見る昔の学校⑥

2013年11月06日 23時53分17秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1964年の日活映画「非行少年」(河辺和夫監督)を見た。ラピュタ阿佐ヶ谷の「蔵出し!日活レアもの祭」という企画での上映。つまりこの映画は「レア」扱いである。しかし、公開当時は新人監督にしては非常に高い評価を得て、キネマ旬報ベストテン14位に選出された。10位以下は、鬼婆(新藤兼人)、帝銀事件・死刑囚(熊井啓)、五辨の椿(野村芳太郎)、非行少年、乾いた花(篠田正浩)、暗殺(篠田正浩)…と続く。この「非行少年」だけが忘れられた感じだ。他の映画は、有名な俳優や監督の特集で上映されるが、「非行少年」には有名俳優が一人も出ていない。河辺監督もその後に数作品があるが、記録映画が多く監督特集もできない。藤田敏八監督と作った「ニッポン零年」など、60年代末期の学生運動などを撮りまくって、当時は公開されなかったほどである(2002年公開)。

 「非行少年」は、当時の東京の中学の状況をセミ・ドキュメンタリー的なリアリズムで撮った白黒映画。ギャング映画などをたくさん書いた佐治乾が脚本を担当した劇映画だが、記録映画的な作りなので、当時の学校事情がかなり判る。今見ても非常に面白かった。「映像で見る教育社会学」という感じの映画だ。ほとんどロケで作られていて現実感が強い。教育事情が変わってしまい、現実告発の社会派映画としての意義は少なくなったけれど。

 その頃、似たような題名の映画が多く作られた。「非行少女」は1年前に日活で作られた浦山桐郎監督の2作目。「不良少年」(1961)は、羽仁進監督の劇映画第1作でベストワン。「不良少女」はないのかと調べたら、1960年の東映に小林恒夫監督作品があった。これだけ集まっているには理由があるはずである。一つは世界的な流行で、アメリカの「暴力教室」「理由なき反抗」、日本の「太陽の季節」「狂った果実」以後、たくさんの「無軌道な若者映画」が作られた。しかし、それらは20代か、10代でもハイティーンの、かなり本格的な犯罪を扱うことが多い。一方フランスで作られたトリュフォー「大人は判ってくれない」が、子どもの目で「非行」を描いて日本でも評判になった。日本でも60年代前期に、多くの「ローティーンの犯罪」が描かれた。世界的に大きな同時代性があったということだろう。

 この映画では、中学3年生がほとんど都立高校への進学を希望している。中三の生活はほぼ受験一色という感じに描かれている。落ちこぼれている各クラス数名の生徒は、授業ではほとんど無視されている。その結果、トイレとか腹痛を理由に教室を抜け出し、保健室で傍若無人にふるまったり、屋上に集まって喫煙したりしている。屋上が開放されているのは、今見ると不思議かもしれない。施錠しないと学校の責任が問われる現在と違い、70年代頃までは大体開いていたと思う。教員も見回ったりしてない感じだ。学校の「問題生徒対応」もシステム化、マニュアル化されていなかった。

 学校に居場所がない生徒たちは、街でたむろして犯罪集団の下部を構成する。「番長」が一番強い存在で、代々各学年で受け継がれる。その継承儀式も出てくる。「番長」の語源は旧軍の「当番長」から来たのではないかという見解が映画内で語られる。単にさぼっているだけでなく、カツアゲや「性非行」もあり、「縄張り」意識も強い。転校してくると、まず誰が番長かを気にしている。学校も問題が起こると、転校させている。やがて里山の中に「根拠地」の小屋を作り、そこで寝泊まりするようになったところを警察に踏み込まれ、一人は少年院に送られる。(自分たちの居場所を作るというのは、鈴木清順「素っ裸の年令」でも見られた。今と違い、まだ「空き地」などが街のあちこちに見られた時代である。)

 学校には就職担当の教師のように親身になってくれる教員もいるが、そういう教師は校内で甘いと思われている。力で押さえるというより、授業に参加しない生徒は無視するのが学校の現状だろう。他の生徒も、非行生徒の指導に時間を使わず授業を進めて欲しいと思っている。平家物語の授業で非行生徒にヤクザの話などをさせていた教員は、女生徒から受験に意味ない話はやめてくれと要望されている。試験があれば順位が全校に発表される。(70年前後の自分の中学でも同様。)

 図書室で開かれる職員会議では、校長が「PTAの強い要望で、例年のように3学期からは体育と美術の授業を補習に切り替える。補習の手当はある見込み」と報告をしている。それでは「未履修問題」が発生するはずだが、当時はそれが常識だったのである。映画には出てこないが、最初の全国学力テストが行われていた時代である。(中学生全員調査は、1961年から1963年。)独立した会議室がなく、図書室で職員会議をしているのもリアリティを出している。

 この時代は都立高校が優位だった。私立高校でも「御三家」(麻布、開成、武蔵)や早慶などは別だが、概して私大付属校も都立普通科の下にランクされていた。家庭の経済状況で私立は大変だった。都立の東大合格者数も多く、大学受験には都立普通科が有利と思われていた。高校の数が少なく、都立有名校は難関とされていた。経済的に恵まれず、都立全日制に入れない生徒は、夜間定時制高校に進学した。この時代には定時制高校で学ぶ勤労青年を描く青春映画が数多く作られている。

 そういう時代だったから、親は中学に高校受験の指導を要望し、それが「補習の過熱化」として社会問題にもなっていた。その結果、東京では1967年から、個別の高校を受けるのではなく、いくつかの普通科高校を組み合わせた「学校群」を受ける(合格校は抽選で決まる)制度に変更された。(それは普通科高校の場合で、職業高校は個別の学校を受けた。)この制度変更は今では非常に評判が悪いのだが、この映画を見れば判るように、何らかの制度改革が避けられない状況にあった。

 もちろん戦前には「中学生の非行問題」は存在しない。中学が義務教育ではなかったのだから。戦後すぐには「アプレゲール」(戦後派)と呼ばれた若者の犯罪が注目を集めた。「軍隊帰り」「特攻くずれ」などと呼ばれた青年が暴力犯罪に走ったこともある。でも、年少犯罪はあまり問題視されなかった。「浮浪児」問題はあった。空襲で親を失った少年が路上生活をしてかっぱらいをするのだが、これは「かわいそうな少年」で「理解可能な犯罪」である。それが1960年頃から「ローティーン犯罪」が問題化されてくる。保守政治家の側からは、それは「権利を強調する日教組の問題」とされ、「戦後教育の間違い」を正すため「道徳教育の強化」が叫ばれた。政府は60年代半ばに「期待される人間像」をまとめ、徳育主義的観点から「非行防止」を求めた。

 しかし、実際の「非行事情」は違っただろう。まず第一に「ベビーブーマーの成長」がこの時期の大きな問題で、これは世界各国で共通の問題だった。1964年の映画だから、中3生徒の多くは1949年生まれである。その前後が「団塊の世代」と言われるベビーブームの子供たちである。急激に増える中学生を受け入れるのが大変で、学校では特別教室や図書室を普通教室にしたり、クラスが50人定員だった。この生徒急増に見合って公立高校が同時に増えたわけではないので、高校受験が難関になるのは当たり前。学校が受験指導で手いっぱいで、問題生徒に対応できないのも当たり前である。教組や教育運動は、「高校全入」が目標とされ、公立高校増設が求められた。

 もう一つが「高度成長の光と影」である。この映画は東京オリンピックの年に公開されているが、東京といえども貧しい家が多く、アパートの一室で暮らしている家庭が多い。もっと貧しいあばら家のうちもある。「番長」の家庭では、母親は家出して病気の父しかいない。戦後すぐは「全員が貧しい」という「平等性の希望」があった。しかし、高度成長が始まると、全員が一緒に豊かになるわけではなく、「格差」が目立ってくる。ある程度経済的に安定すれば、子どもを高校に行かせるのは当然の時代になりつつあった。そういう時代になればなるほど、高校に行けない経済力の生徒、あるいは家庭環境で勉強できない学力不足の生徒は、中学に居場所がない。

 居場所は高度成長期の街頭にいくらでもあった。「商品への欲望」の時代となりつつあったからだ。戦前に比べ、子どもの身体は(食事や住環境の改善などで)どんどん大きくなり、中学生ならば親や教師より背が高い生徒も多かった。東京は日本中から人口が集まり、ベビーブームもあって、公立学校は増設されていく。そのため教師の大量採用時代が始まる。しかし、この映画ではまだ高齢の教員が多い。これでは体力、気力で、身体が大きい新時代の「非行少年」に太刀打ちできない。(なお、映画のセリフで、身体が大きいことを少年たちが「がたいがいい」と表現している。)街には欲望が満ち溢れ、教師には無視され、家庭は貧しいとなれば、街で「非行少年」になるのも当然すぎる展開だ。そういう時代の東京の中学がよく描かれていて、歴史的に貴重なフィルムだ。
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「五日市憲法」を見に行く

2013年11月04日 23時23分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 世界が熱く揺れ動いていた1968年のことである。東京・奥多摩地方、五日市の山深き里で、明治初期の「自由民権」の熱い息吹が「発見」された。山林地主深沢家の朽ちかけた土蔵の中に、それは90年ほどの間も潜んでいた。見つけたのは、民衆史を掲げ多摩地域の古文書を発掘していた色川大吉氏(東京経済大学教授)のグループだった。ここで「民衆の手になる憲法案」(私擬憲法)が見つかったのである。今ではそういう憲法草案は40ほども発見され、日本民衆の中に自由と民主への確固たる歩みが見られたことが明らかにされている。その憲法案は「五日市憲法草案」と名付けられた。数ある私擬憲法の中でも、基本的人権の保障において最高峰の位置を占めるとされる。

 僕がその「憲法」を知ったのは、1972年のことだった。当時、朝日新聞の書評欄に「歴史の舞台を歩く…」といったコーナーがあった。作家や歴史学者が歴史上の人物や事件にゆかりの地を紹介する企画だったと思う。そこに「民衆史の源流を歩く」(正式には忘れた)という色川氏の文章が掲載された。色川氏は、五日市憲法草案を紹介しながら、「日本の民主主義は決して借り物ではない。日本人自らの中に民主主義を求め育てる歴史があったのである」と熱く語っていた。

 その当時は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国は軍事独裁政権だった。欧米以外で唯一経済発展に成功した日本だが、果たして日本社会に民主主義は根付いているのかと疑問を持たれていた。日本の民主主義は戦争に負けて「アメリカのプレゼント」として贈られたものだと思われていた。アジア諸国には民主主義は合わないという人もいたのである。そんな中、色川氏の「発見」は多くの人々に勇気と確信を与えた。高校の図書館にあった「明治の文化」という本も続けて読んでみた。その本の感激こそが、大学で日本近現代史を学ぶようになった直接的なきっかけなのである。
 
 その草案は今では高校日本史の教科書にも大体載っている。こと改めて「民衆史」などと言わなくても、民衆の生活や思想を研究対象にするのは当たり前になった。今、「憲法」とはどのようなものか改めて問われる時代が来た。ちょうど、「東京文化財ウィーク」で、あきる野市立図書館で年に一度の実物公開をしているという。4日までなので、出かけることにした。雨混じりだから車で行ったので、結構遠い深沢家の土蔵にもすぐ行けることが出来た。

 深沢家への道はあきる野市図書館や五日市郷土館で入手できるパンフで判る。歩けば駅から1時間ほどかかる。車には狭い道だけど、思ったよりは行きやすい。道はどんどん奥深くなるが、今は「深沢家屋敷跡」は都指定史跡なので、ところどころに案内がある。道は一本で、真光院という寺が右手に見えると、その先が「深沢家屋敷跡」。駐車スペースが少しある。今ここに屋敷はない。大体こんな山奥が栄えていた時代があったことの方が不思議である。深沢家は一帯の山林地主で、深沢村の石高5分の1以上を占めていた。天保時代(1830年代)には15分の1ほどで、幕末から明治にかけ急成長した。養蚕が盛んな土地で、また当時のエネルギー源は木炭だったから山村は豊かだったのだ。憲法草案が発見された土蔵は残されていて、修復されている。
  
 扉をくぐって屋敷跡に入り、少し上がると土蔵があり、解説板も立っている。そこからさらにのぼると深沢家の墓所があり、土蔵を上から眺めることができる。
  
 五日市郷土館へ寄ると、そこに簡単な説明が常設されている。かなりたくさんの郷土博物館に行っているが、ここはとても小さい。五日市駅から歩いて17分。無料で火水祝休館。まずここで基本情報を得るのがいい。その近くの五日市出張所(旧五日市町役場)の前(五日市中学)に「五日市憲法草案の碑」がある。これも見て置きたい場所。なお、近くに萩原タケ像もある。看護婦として第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。日本看護婦協会初代会長だそうである。
   
 一番最初に行ったのはあきる野市図書館で、そこで実物を見た。まあ感慨がないわけではないけど、要するに紙。そこが他の美術品や産業用具などと大きく違う。長いので全文ではなく、一部の重要なところが展示されている。楷書で丁寧に書かれている。天皇は「国帝」とされ、男系相続が原則ながら、男統なきときは「女帝」を認めている。また「国事犯」に死刑を禁止していることが注目される。書いた人は誰かというと、千葉卓三郎(1852~1883)という宮城県栗原市生まれ、五日市勧能学校の教員だったクリスチャンの青年と判っている。

 ただ千葉ひとりが書いたのではなく、この地方の青年たちが民権にめざめ討論を重ね検討された。深沢家の青年当主、深沢権八もその一人だった。もっとも、当時公表されたわけではなく、現実の政治的影響力はなかった。しかし、民衆思想史という観点で見れば、ここに日本人が外国から学んだ人権思想を自らの社会に適合させるべく苦闘した跡が残されている。一人ひとりの「無名の民衆」と言えども、このような思想的深みに到達できる。それが100年後になって人々を勇気づけるのである。実物は写真撮影禁止なので、廊下に貼ってあった掲示物を写してきた。
 
 ところで、あきる野市に「文化財ウィーク」に公開しているところがもう一つあった。「小机家住宅」というところで、やはり山林地主。1875年頃建てられた住宅で、2階がバルコニーのある洋館なのに、1階は畳敷きの和風と言う不思議な様式になっている。これもこの地域が明治初期に文化的にいかに開けていたかの証拠と言えるだろう。
  
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神保町ぶらぶら散歩②-古書店やカレー屋など

2013年11月03日 00時49分05秒 | 東京関東散歩
 神田古本まつり神田カレーグランプリを開催中の神保町界隈。元勤務校の文化祭から回ろうかと思ってたけど、雨が降ってきたから止めた。だから最新の写真はないが、続きを書いてしまう。「ぶらぶら散歩」と題したけど、神保町の散歩は他の地域と違う。神保町の街並みそのものを散策する人は普通いないと思う。要するに、新刊書店や古本屋をめぐるのが主眼であって、それは「散歩」というより本の「ショッピング」だろう。本屋へ行っても、手に取る本のほとんどは買わないものである。だから「ウィンドウ・ショッピング」に似てるけど、古本屋街だと「古本屋散歩」という方が似合っている。

 さて古本屋だけど、この地域には180店くらいあるという。神保町交差点を交点とするX軸の靖国通り沿いにズラッと並んでる。Y軸の白山通り沿い、水道橋駅付近にもあるけど、一番多いのは靖国通りである。X軸をマイナス方向にしばらく歩くと、矢口書店がある。ここは映画、演劇関係書の専門店で、シナリオや昔の映画雑誌も豊富。自分の趣味から時たま行くが、外見でもここが一番面白いと思う。角にあるけど、すごく古い感じがいい。昭和3年に建てられたものだという。
  
 X軸のプラス方向、書泉グランデの隣が小宮山書店。ここも角にあるが、細長いビル。内外の小説が多く、よくここで買ったが、今は美術書やポスターなどが多い。4階には三島由紀夫関連文献が展示されている。横尾忠則のポスターとか海外のファッション関係など、見てるだけでも楽しい。買うというより、ミニ美術館みたいな感じ。駿河台下交差点を御茶ノ水駅に向かうすぐのところに、「文庫川村」という古本屋がある。これは全部文庫本だけというところ。その他、ぶらぶら写真を撮りながら。
   
 いっぱい撮ったけど、あまり意味がないので省略。それより岩波ホール(神保町交差点の第3象限側)の裏の方に不思議な建物を見つけた。ビルの一角に突然古いビルがある。何だろうと思い近づくと「日本タイ協会」とある。ホームページがあり住所はあってるけど、建物の情報はない。
 
 一方、新刊書店も並んでる。東京の大型書店は、昔は新宿の紀伊國屋、日本橋の丸善以外は、神保町の三省堂東京堂と書泉グランデ書泉ブックマートぐらいしかなかった。(ちなみに今や書泉はアニメイトに買収されている。ブックマートは「ラノベ館」になり、長いこと入ってない。)やがて、八重洲ブックセンターが出来、大阪の旭屋、神戸のジュンク堂(淳久堂)が進出してきたが、長いこと新刊書が一番そろっているのが神保町一帯だった。東京堂は最近改装され、「東京堂カフェ」が出来て軽く食べることも可能になった。これは利用価値が高い。専門書店では、何といってもすずらん通りに内山書店がある。魯迅の知人として有名な内山完造が上海に開いたのが始まり。岩波直営の岩波ブックセンターも、時々行く。岩波書店の本だけでなく、学術雑誌などがあるので。
  
 最近は神保町もチェーン店が多くなったけど、まだまだ独自の店が多い。特に、昔風の「喫茶店」が多いことで知られ、「さぼうる」とか「ラドリオ」とか超有名店がある。第4象限の地下鉄駅入り口付近である。「さぼうる」のナポリタンが有名だけど、それは「さぼうる2」しかないので注意。でも異常に積み上げてあって、本音を言うと食べにくい。それに「昔の喫茶店」は喫煙OKと同義で、煙いったらない。映画やテレビに出てるし、一度は行く価値があると思うけど。ちなみに「サボウル」はスペイン語で「味」だという。中華では、すずらん通りの餃子専門店「スヰートポーヅ」が有名だけど、まだ入ってない。同じくすずらん通りの「揚子江菜館」は美味しい。
    
 でも、やはり最近はカレー屋ということになるだろう。僕が好きなのは、「スマトラカレー」を名乗る共栄堂で、とにかく他では味わえない不思議な魅力がある。好き嫌いが分かれると思うが、スパイシーで辛いと思う前に苦甘いような独自の風味がお気に入り。「マンダラ」は、カレーというより美味しいインド料理屋が出来たと評判になった。そういう店の走りの一つだと思う。そういうお店がいっぱい出来たからずいぶん行ってない。でも、神保町のカレーと言えば、「欧風カレー」なのかなと思う。靖国通りをマイナス方向に行ったところの「古書センター」ビルの2階に「ボンディ」がある。裏からしか入れず、どこにあるか行きつけないお店。小川町店もあるけど、実は本店はそこ。ここはカレーが出る前に、なぜかポテトが出る。要するに「じゃがバター」。それが欧風カレーの常識になってしまうほど、これが流行った。何でポテトを食べるか、僕には不思議だけど。で、味はコクのある濃厚なソースで、おいしいけど好き嫌いはあるだろう。他にもタイ風とか新世界菜館で出す中華風もあるらしい。他に有名店はいっぱいあるが、「エチオピア」はポテトを出すが、インド風というか独自風。第1象限の水道橋駅に近い裏、探しにくいところにある「まんてん」が「安くてうまい」と最近は知名度が上がってきたらしい。地元の人や学生が知ってる美味しい店。行ったことがないけど。
 
 この地域にあるけど、まだ行ったことがないところもある。救世軍の本部とか。本屋と食べもの屋ばかり書いたけど、この30年ほど大体2カ月に一度くらいは岩波ホールに行った。数年前に三省堂の裏あたりに、神保町シアターができた。10月に鈴木清順特集で通ったから、このブログにはよく出てくる。三省堂花月劇場が上にある。こんなところ。映画で行くことも多い街。
 
 ところで、前に写真を載せたニコライ堂や周辺が10月中旬にライトアップされた時がある。その時に載せられなかったので、ここで数枚。
   
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