⇒ こちら
以下転載
一昨日(15日)の終戦記念日に、自民党などの国会議員102人が靖国神社を参拝した。黒塗りのクルマから本殿に向かった閣僚を見て、「おやっ?」と思った人もいるだろう。2人の男の“先祖”が気になるのだ。まずは新藤義孝・総務大臣(55)。この人の母方の祖父が太平洋戦争の指揮官、栗林忠道中将(死後大将に昇進)であることは有名だ。栗林は1944年に硫黄島に着任し、翌45年3月、同島に上陸した米軍と激しい戦闘を交えて戦死した。米映画「硫黄島からの手紙」で渡辺謙が演じた将校といえばピンとくるだろう。
映画では物分かりのいい親分肌だったが、実際は大本営に玉砕する旨を打電。2万人余りの将兵を戦死させたのだから責任は軽くない。
古屋圭司・国家公安委員長(60)は自治大臣兼国家公安委員長を務めた古屋亨を父に持つ。亨は東京帝国大学を出て戦前の内務省に入省したが、見逃せないのが岩手県で特高課長を務めていたことだ。特高は正式名称を「特別高等警察」といい、治安維持法のもと、政府や軍部に批判的な人たちを弾圧した。亨が特高課長を務めたのは39年5月~同年12月。岩手県の資料によると、この年、同県で「公安を害する者」として検挙された人は4786人に上る。「告発 戦後の特高官僚―反動潮流の源泉」の著者の柳河瀬精氏はこう言う。「特高は日本の侵略戦争に反対し、国民主権を主張した人たち7万5681人を検挙し、拷問しました。東京・築地署でなぶり殺しにされた作家の小林多喜二が有名です」
そもそも安倍晋三首相(58)の祖父、岸信介がいわくつきの人物だ。満州国の経営に関与し、開戦時は商工大臣として物資動員を担当。敗戦直後にA級戦犯として逮捕されたが、なぜか不起訴となり、57年に総理大臣に就任した。
玉砕軍人と特高警察、そしてA級戦犯――。この内閣は戦前と因縁が深い。安倍政権が右傾化するのと無関係ではないのかもしれない。
以上
古谷亨特高課長 岸信介満州開拓はそのとおりとしても 栗林忠道中将はちょっと違います。
栗林中将はフランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派の「知米派」であり、国際事情にも明るく対米開戦にも批判的であった。
1944年5月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断。師団司令部も硫黄島に移動した。制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であったが、栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。、
栗林中将着任前は、一般的な水際防御+万歳突撃のための陣地構築が進められていたが、中将は島中を歩き それを無意味かつ貴重な資材や時間の無駄な浪費として撤回させ、内陸部に誘い込んでの持久戦やゲリラ戦を基本方針とし 天然の洞窟と人工の坑道からなる全長28キロに及ぶ地下坑道が計画され 18キロが建設された。
坑道は深いところでは地下12mから15m、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾や爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えた地下要塞だった。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。
硫黄島は大本営から見捨てられ 補給もなく 飲料水は雨水だけそれも乏しく 食料もなくわかちあった。兵士たちは銀行員や大工など中年の者と学徒出陣の若者が多かった。彼らはやせ衰えた身体にもかかわらず驚くほどの気骨で アメリカ海兵隊を震え上がらせた。
1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報を大本営陸軍部と陸大時代の兵学教官であった蓮沼蕃陸軍大将に対し打電(のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送る戦訓電報を、大本営参謀だけでなく畑違いである蓮沼侍従武官長に宛てた理由としては、栗林が強く訴えている陸海軍統帥一元化と海軍批判が黙殺されることを危惧したため)。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。
- 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
- 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
- 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
- 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。
・一 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
- 一 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
- 一 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
- 一 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン
- 一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
- 一 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。レイテサイパングアムと違って硫黄島は日本の領土 ここを奪われると日本は中継基地を失い 逆にアメリカはまたとない避難場所 基地を得ることになるのだった。
26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。この最後の攻撃は栗林が戦闘前から戒めていた決死の万歳突撃ではなく必至の夜襲であり、また攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は混乱に陥った。アメリカ側では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。これをもって、日本軍の組織的戦闘は終結した。しかし、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続いている。
栗林中将は妻や子を愛し こまごました手紙を内地に送っている。その文面を見ると 戦況の先まで見通し 本土の爆撃も予期していたようで 空襲や中将の死後ついてなどことこまかな指示もある。空襲があるとしたらそのときに父はこの世にいないでしょうと書かれていた。実際は最後の攻撃のまえに東京への空襲は行われているのだが 中将が全軍を掌握し 死を賭して硫黄島を守ろうとしたのは 国土だけでなく愛する家族をなんとか守りたいという家族への想いがあったような気がしてならない。ゆえに 新藤義孝・総務大臣の靖国参拝を喜んでおられるかどうか わたしにははなはだ疑問である。
以上